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[11888] 第2章:最大野党・社会党返信 削除
2009/7/11 (土) 21:18:13 徳翁導誉

▼▲ 第2章:最大野党・社会党 ▲▼

そんな「自民党不信」一色の中で、同年7月には参議院選挙がありました。
ここで社会党は、憲政史上初の女性党首である『土井たか子』のもと、
多くの女性候補を立てて獲得議席を倍増させ、社会党が自民党を上回ります。
また、この年に労働組合「連合」が作った「連合の会」も、
社会党などの推薦を受け、いきなり11議席を獲得する大躍進を見せました。
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* 1989年 参議院選挙(126議席)
*  与党  自民:36
*  野党  社会:46 連合:11 公明:10 共産:5 民社:3 その他:15
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この社会党の大躍進は、「マドンナ旋風」や「おたかさんブーム」などと呼ばれ、
土井の「山が動いた」という名言と共に、政治構造変革への期待が高まりました。
何だかんだ言ってこの人、日本女性の権利獲得には、かなり貢献した人ですからねえ。
そして、この大躍進により、自民党は参議院で過半数割れへと追い込まれ、
実に41年ぶりに、参議院は衆議院と異なる首相指名(土井たか子)を行いました。
まあ勿論、衆参で首相指名を行った場合は衆院が優先されるので、
土井が首相になる事はありませんでしたけど、
ちょうど世界でも、冷戦構造が崩壊へ至る頃でした頃でしたからねえ。
41年ぶりの出来事に、「日本の政治も変わる時が来たのか!?」と国民は期待します。
・・・しかし、国民の期待を受けた社会党というのは、
55年体制に安住していた為に、本当に腐りかけていたんですよねえ・・・・

55年体制と言うのは、自民党が単独で政権を握り、
野党の大部分を握る社会党が、それに反対するという構造が出来ていて、
最初の10年くらいは、まだ社会党も「政権獲得」を目指していたのですが、
その後は自民党との「棲み分け」を行い、野党第一党という地位に胡座をかいていました。
ここで社会党について少し説明しておくと、
保守合同後の自民党に、旧自由党系と旧日本民主党系という枠組みが残ったように、
再統一後の社会党にも、右派と左派の枠組みが残りました。
簡単に言えば、現実に合わせて社会主義を実行していこうというのが右派、
逆に、社会主義の理念に現実を合わせていこうというのが左派です。
もっと大雑把に言えば、『右派=現実派』『左派=理念派』です。
戦後すぐの1947年、社会党から首相(片山哲)を出したのも、右派主導だからでした。

しかし、連立相手との妥協や、現実に対する妥協などから、左派が反発。
片山内閣はわずか1年あまりで倒れ、それにより社会党も右派と左派に分裂してしまいます。
その後、右派と左派は再統一を果たすのですが、主導権は左派へと移り、
内部対立や自民党とアメリカによる切り崩し工作により、右派の一部が社会党を飛び出します。
こうして飛び出した社会党右派の政党が『民社党(民主社会党)』ですね。
「西村真悟」の父親が党首を務めていたと言えば、どういった性格の党か判りますかね?(笑)
社会主義政党として、労働者への権利や福祉を唱えながらも、
同時に反共を掲げ、それが一致すれば外国の軍事独裁政権でも認め、
防衛政策に関しては、自民党よりもタカ派な対応をとりました。
言い様によっては、「国家社会主義」に近かったと言えるかも知れませんね。

って、民社党の話に脱線したので、ここから社会党に話題を戻しますと、
ただでも左派が主導権を握り、そこへ右派の離党が重なった為、
社会党の左派は、党内で主流派の地位を確保する事となります。
しかし当然の事ながら、理念派が主流派となる事で、
社会党による政権獲得の可能性は、現実的に大きく後退して行き、
「自民党は与党、社会党は野党」という役割を演じ始め、持ちつ持たれつの関係となります。
残された右派の方は、社民党や公明党と連携する『社公民路線』を模索したりもしたんですが、
下手に政権を目指すよりも、野党役を演じて自民党から「おこぼれ」を貰う方がおいしかったと。
具体的に言うと、野党役を演じて国会運営を影から支える事で、
公共事業の一部を分けて貰ったり、自民党の金で社会党のパーティー券を買って貰ったり(笑)。
まあ、ある面で、冷戦構造&高度経済成長の時代なら、
そうした八百長試合みたいな政治構造でも良かったのかも知れませんが、
日本にも世界にも「変革の波」が訪れた時、
自民党の方は、長年与党を務めていたので「腐っても鯛」ですけど、
社会党の方は、本当に単なる腐敗物になっていた・・・と言ったら厳しすぎるかな?
ともあれ、この後、社会党は没落の道へと転落していきます。
そうした意味で平成初期の「社会党の大躍進」は、最期に一瞬輝く蝋燭の炎だったのかも。

参院選の翌年、1990年に行われた衆議院選挙でも、
社会党は解散前より議席数を倍近くに増やします。
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* 1990年 衆議院選挙(512議席)
*  与党  自民:275
*  野党  社会:136 公明:45 共産:16 民社:14 社民連:4 その他:22
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ですがそれでも、自民党は過半数を十分に上回る議席数を獲得しました。
長年、野党役に甘んじてきて、政党としての力を極端に落としていた社会党は、
過半数獲得どころか、議員定数の4分の1程度しか候補を立てなかったんです。
今までのガス抜き野党役なら、それでも良かったかも知れませんが、
国民が望んでいたのは、大きな政治構造の転換でした・・・・
社会党は、そうした国民の要望にも応えられず、
更には、社会党が「反自民票」を1人占めした格好になった事で、
共闘していくべき社民党や公明党との距離も離れて行き、
結果的に、せっかく自民党を過半数割れに追い込んだ参議院でも、
社民と公明が自民寄りとなり、『自公民路線』が出来上がってしまいます。

ついでにですが、この1990年の衆議院選挙では、
オウム真理教が『真理党』を結成し、出馬していました。
象の帽子を被った白装束の信者たちが、麻原の歌声に合わせて激しく踊るという、
奇天烈な選挙活動を繰り広げて注目を集めましたが、当然ながらあえなく全員落選。
自らの当選を信じて疑わなかった麻原は、この結果に愕然。
「これは国家権力による陰謀だ」と捉え、あのような方向へ教団は走り出します・・・・
とは言え、この出馬の時点で既に、オウム問題に取り組んでいた坂本弁護士を、
「選挙の邪魔になる」と、妻子も一緒に殺害して山中へ埋めてるんですけどね。
当時から「弁護士一家の謎の失踪事件」として報じられていたのですが、
それがまさかオウムと絡んでくると、想像だにされてませんでした。
当時の麻原と言えば、「ビートたけし」や「とんねるず」などの番組にも出てましたからねえ。
ちなみに坂本弁護士の所属していた事務所からは、オウムの関与を指摘する声があったものの、
この法律事務所が、警察の誤認逮捕や盗聴事件などを扱っていた所であった為、
当時の警察側は反発して、まともに捜査してなかったと言われています・・・・
って、この辺になると、政局話から完全に脱線してますね(笑)。

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