| ▼▲ 第4章:55年体制崩壊の奇跡 ▲▼
新生党、新党さきがけ、日本新党と、新党が加わり行われた1993年の衆議院選挙。
小沢や武村の離党により、選挙前から大きく議席数を減らしていた自民党は、
もちろん過半数には達しないものの、議席数を1つ増やす大健闘。
新生党も、新党さきがけも、日本新党も、大きく議席数を伸ばします。
では、その分、どの政党の議席数が減ったのか?
それは「反自民票」を新党ブームに奪われた社会党でした。
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* 1993年 衆議院選挙(511議席)
* 与党 自民:223
* 野党 社会:70 新生:55 公明:51 日本新:35 民社:15
* 共産:15 さきがけ:13 社民連:4 その他:30
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前回の衆院選で大躍進を遂げた社会党が、今回の選挙では議席数を半減・・・・
当時の社会党の党首は、左派出身の山花貞夫でしたが、
この大敗により、右派出身の村山富市へ党首の座を明け渡します。
新聞は土井の名言と山花の名に引っ掛けて、「山動き、花散る」と報じました。
結局、この選挙で国民から不信任を受けたのは、自民党ではなく社会党であったと。
まあ、この結果を受けて、自民党はひとまず安堵します。
衆院での単独過半数は失ったものの、参院同様「自公民路線」を強化すれば、
衆参共に過半数には十分な議席数を確保できる目算があった為でした。
ですが、自民党の思惑通りに話は進みませんでした。
そもそも自公民路線を最初に築いたのは田中角栄であり、
その後、自民党の議席数が不足するたびに、暗黙の協力関係を結ぶようになりました。
で、特に公明党との関係は、自民党と公明党という政党間の関係と言うより、
田中角栄と池田大作の個人的な繋がりによって結ばれたモノでして、
その時点で小沢は既に、公明党とのルートを抑えていました。
「小沢一郎」と公明党No.2の「市川雄一」の強い結び付きは、『一・一ライン』と呼ばれます。
また小沢は、労働組合「連合」の会長である山岸章にも既に根回しを済ませており、
後援組織として労働組合に頼っている社会党や民社党も、切り崩しは困難な状況でした。
更に国民世論は、新たな政治構造の誕生を切望しており、
そうした追い風により、自民党が望む自公民路線は実現が難しくなります。
こうした状況下で、自民党も小沢も注目したのが、
統一会派を組んでいた「日本新党&新党さきがけ」でした。
「自民党」も、「新生党・公明党・民社党・社会党」も、共に過半数に達せず、
政権の所在を決めるキャスティング・ボードは、この統一会派が握っていました。
政権の座を死守したい自民党は、「政治改革」を旗印に掲げていた統一会派に対して、
彼らの改革案を飲む事で連立を組もうとします。
しかし、ここで小沢が打った手は更に大きく、
国民的な人気があるとは言え、衆院に35議席しか持たない日本新党の細川に対し、
なんと「首相」の座を用意して、連立への参加を促します。
結局、細川らは国民世論も読み、小沢が提示した連立案の方を了承。
細川は首相へ、武村は官房長官へと就任する事となり、ここに55年体制は崩壊します。
細川首相が率いる「日本新党」、武村官房長官の「新党さきがけ」、
政権の影の実力者である小沢の「新生党」、小沢と近しい関係の「民社党」と「公明党」、
与党内の最大政党ながら発言権のない「社会党」、70年代に社会党から分離した「社民連」、
連合の会より改称した「民主改革連合(民革連)」という、実に8つもの政党・会派が、
「非自民&政治改革」を唯一の旗印に参加する、寄せ木細工のような政権の誕生でした。
ですが国民には、新たに誕生した自民党ではない新政権が、
少しの不安はあるものの、大きな希望に満ちたモノに見えました。
国民に絶大な人気がある細川と、その辣腕は大いに買われていた小沢のタッグですからねえ。
ここ十数年の自民党政権では、発足時の内閣支持率は20〜30%台ばかりでしたが、
新生・細川内閣の支持率は、75%という驚異的な数値を叩き出しました。
この高支持率は、小泉内閣に抜かれるまで歴代1位の数値です。
それほどまで、国民の期待は高かった訳です。
逆に、政権を失って絶望する自民党からは、離党する議員が後を絶たず、
加藤グループが新生党へ加わったり、西岡武夫が「改革の会」を結成したりしました。
しかし現実は、政権交代がなったとは言え、8党派による恐ろしい程の寄り合い所帯。
更に野党議員や若手議員といった、国会運営に経験不足な議員が多数派では、
ハッキリ言って、まともに政策調整が出来るような状態ではありませんでした・・・・
そして、この内閣が掲げた「政治改革」という旗印のもと、
小選挙区300議席、比例代表200議席の『小選挙区比例代表制』導入が成し遂げられると、
寄せ集め政権は役目を終えたかのように、空中分解していく事となります。
また、政権陥落後の放心状態から立ち直った自民党は、
こうした不安定な連立政権に対し、猛烈な揺さぶり工作を始めていました。
政権下野後に行われた自民党総裁選挙で、
渡辺美智雄を破り、河野洋平が新たな総裁に就任すると、
連立与党を糾弾する自民党の先頭に立ったのは、
警察官僚出身で強力な情報網のコネを持つ、三塚派の亀井静香でした。
そして、政権の中心である細川首相の金銭問題が、いきなり狙われる事となります。
前述のように細川の血統は名家である為、
建物や名品などの維持管理費がバカにならないのですが、
その金に困った細川が、佐川急便の会長から借金をしている事実が明らかにされました。
佐川急便と言えば、直近でも金丸の事件があった為、
自民党はこの金銭問題を、大きく責め立てていきます。
正直言って、これくらいの疑惑なら何とか乗り切れる程度のモノでしたが、
うまく行かない政権運営に加え、細川自身の堪え性の無さから、
「道義的責任を取る」として細川が突然、政権を放り出してしまいます・・・・
この辺は、祖父である近衛文麿と同じ血なのかも知れませんね。
太平洋戦争の開戦間際、近衛も国民の期待を一身に受けて首相に就任するも、
それを途中で投げ出して、あのような結果へと至り、
半世紀後、その孫が戦後政治体制の変革という国民の期待を背負いつつ、
再び、それを投げ出して去ってしまうと。まあこちらも、歴史の因果なのかも知れません。
ですが、この突然の政権放棄により、国民の政治に対する期待は、失望へと変わっていきます。
で、そうした中、連立政権の内部でも、対立の構造がハッキリしてきます。
その中心に居たのが、自民党を割って出た小沢と武村でした。
政権内部の主導権では、公明党と社民党を握る小沢が強かったのですが、
それに反発する形で武村が独自行動を取る事で、内閣の結束は緩み、
親密だった細川と武村の関係は崩れていき、細川は小沢寄りへと傾いていきます。
一方で武村は、連立内で最大の議席数を持ちながら、
政権内では虐げられた扱いを強いられていた社会党に接近します。
まあ新党さきがけは左派的な政党だったので、社会党との親和性が高かった面もあります。
そんな中で起きたのが、「国民福祉税」構想でしたねえ。
これは消費税3%の代わりに、税率7%の福祉目的税を導入するという案で、
昨今の年金や保険の問題を見ると、個人的には決して悪くない案だとは思うのですが、
如何せん、政権内での根回しもほとんど行っていない状況で発表され、
さきがけや社会党、そしてマスコミから大バッシングを受け、わずか1日で案自体が撤回されました。
この件で「小沢&公明党」vs.「武村&社会党」という対立構造が、国民へも表面化していきます。
当然、当初は蜜月関係にあった日本新党と新党さきがけの統一会派も解消となり、
前原や枝野らは日本史党を離党し、その2ヵ月後には新党さきがけへ合流。
日本新党と連携していた「社民連」では、代表であった江田五月は日本新党へ参加、
社民連の有力議員であった菅直人は新党さきがけへ加わり、社民連は解散となります。
菅・前原・枝野と言った民主党の面々が、さきがけの一員となるのはこの時です。
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