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[11891] 第5章:自社さ政権と新進党誕生返信 削除
2009/7/11 (土) 21:19:43 徳翁導誉

▼▲ 第5章:自社さ政権と新進党誕生 ▲▼

政権内部の対立と、細川の政権放り出しで、新しい内閣の誕生が必要となってきます。
この時、社会党は最大与党である事を理由に、社会党から首相を出すよう主張しますが、
当然、小沢がそんな要求を聞く訳がありません。
その頃小沢は、自民党の渡辺美智雄にアプローチしており、
渡辺派が自民党を割って出れば、連立政権の首相に据えると口説くと、
その先兵役として、渡辺派から柿沢弘治や太田誠一などが離党して「自由党」を、
(小沢自由党と区別する為、一般的には柿沢自由党と呼ばれます)
三塚派から鹿野道彦や北川正恭(のちの三重県知事)などが離党して「新党みらい」を結成。
下野後の総裁選でも敗れ、年齢的にもこれが渡辺にとって最後のチャンスでした。
未だ巨大すぎる自民党を弱体化させたい小沢と、どうしても首相になりたい渡辺、
お互いの利害が一致した提案であり、金曜日の夜に渡辺はテレビで離党を口にします。
しかし、そこは腐っても自民党!!
週末2日間で猛烈な渡辺派の切り崩しを行い、ほとんどの議員が離党反対に翻った為、
渡辺の首相への夢は敗れ、その後は自民党内でも実権を失ってしまいます・・・・
一方、渡辺派の離党工作に失敗した小沢は、
自党の党首である羽田を、首相の座に据える事となります。
ちなみに、羽田政権から連立へ参加した政党からは、
柿沢自由党の柿沢が外務大臣に、改革の会の鳩山邦夫が労働大臣に入閣しました。
人柄が良く、清廉なイメージのある羽田は、連立内の他党からも人望がありましたが、
そうした人の良さが、このような激流の政局期には不似合いで、
盟友である小沢も、本心では羽田を擁立したくはなかったようですが、
事情が事情だけに仕方ありません・・・・
ですが、こうして誕生した羽田内閣の首を絞めたのも、結局小沢でした。

政権の安定化を図りたい小沢は、羽田首相が誕生したその当日に、
新生党・日本新党・民社党などの5党派が、統一会派「改新」を組むと発表します。
これに激怒したのが、統一会派構想を全く聞かされていなかった社会党で、
政権を維持する為に小沢との関係を保ってきた右派も、さすがにこれでキレてしまいます。
翌日、社会党は連立政権を離脱し、新党さきがけも閣外協力に立ち位置を変更。
羽田政権は誕生からわずか1日で少数与党へと転落してしまいます。
つまりこれで、いつでも内閣を引きずり倒せる状態に置かれた訳ですね。
ですが政権への未練を持つ社会党は、社会党から首相を出す事を再提案。
しかし小沢はこれに応えず、自民党の引き剥がし工作を画策し続けます。
その結果、自民党とも社会党ともパイプを持つ武村が、両党の橋渡し役となると、
どうしても政権を奪い返したい自民党は、社会党の村山を首相に推す事に同意。
これにより、羽田内閣の不信任案が可決します。

不信任案可決に対し、羽田は「解散して国民に信を問うべき」と主張しますが、
小沢は、「自民党の分裂工作が可能」だとして解散に反対。
村山への対立候補として、自民党から海部元首相を担ぎ出して、
社会党との連立に反発する自民党議員や、
自民党との連立に反発する社会党議員を引き込もうとしますが、
渡辺や中曽根と言った自民党内のタカ派が、海部への支持を表明した事で、
小沢との関係修復も模索していた社会党右派が、却って遠ざかる結果となり、
結果として自社さ連立政権が誕生して、非自民政権はわずか1年未満で終了します。
まあ、自民党と社会党は、55年体制下で八百長試合をやってきた間柄でしたからねえ。
社会党左派と自民党は、かなり早い段階から画策を続けていたみたいです。
ただ流石に、自社2党だけでは、世間の目もあり抵抗があったものの、
その間に「さきがけ」が入ってくれる事で、無事に連立を組むことが出来たと。
ちなみに、海部と行動を共にした津島雄二や野田毅などは、
首相指名選挙で村山に敗れた後、自民党を離党して「高志会」を結成し、
更には、自民党離党組の「改革の会」「柿沢自由党」「新党みらい」と共に、
政党連合「自由改革連合」を結成します。

こうして、わずか10ヶ月で与党へと復帰した自民党。
他方で野党の方は、公明の市川が野党統合を渋る創価学会を説得し、
「改新」に公明党などが加わって、新たに『新進党』が誕生します。
新生党・公明党・民社党・日本新党・自由改革連合が解党して集まり、
衆参合わせて200名を越える、政権交代を目指す大政党の誕生であり、
その初代党首となったのは、小沢が首相指名選挙の時に担ぎ出した元首相の海部でした。
ただしこの時、自由改革連合の柿沢と津島は、新進党に参加せず自民党へと出戻ります。
ちなみにこの党名、新党ブームに続く新党として、
マスコミが「新・新党」と仮称していたモノが、字面を変えて正式名称となったモノです(笑)。
しかし、いくら1つの党として合併したとは言っても、所詮は寄り合い世帯。
細川内閣や羽田内閣の時と同様、旗頭は「非自民&政権交代」しかありませんでした。
また、この合併へと至った大きな理由の1つは、
自分たちが通した選挙制度改革により、次回より衆院選は小選挙区制となる為、
「大政党とならなければ不利だ」という思いも働いた、打算的な計算が働いた結果でもありました。
ですが、一応これにより、自民党と新進党による「二大政党制」への道筋が描かれた・・・はずでした。

新進党は、出だしこそ好調でした。
結党から半年後、1995年の参議院選挙において、
新進党は改選議席を倍増させ、比例得票数では自民党を上回ります。
その一方で、首相を輩出させた社会党の方は、過去最低の獲得議席数に転落・・・・
数年前の社会党大躍進を支えた反自民票は、完全に新進党へと奪われ、
しかも従来の支持層からも、自民党との連立で見捨てられた結果でした。
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* 1995年 参議院選挙(126議席)
*  与党  自民:46 社会:16 さきがけ:3
*  野党  新進:40 共産:8 民革連:2 その他:11
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社会党からの首相誕生は、奇しくも社会党没落の転換点となってしまった訳です。
そして、社会党と連立してまで与党に帰還した自民党は、
ジワジワと党の力を回復していきます。
この参院選の結果は、自民党と社会党による「1.5大政党制」から、
自民党と新進党による「2大政党制」の可能性が垣間見えた瞬間でした。

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