| ▼▲ 第8章:最後の挑戦者・民主党 ▲▼
「自民党から政権を奪う」という目的だけで寄せ集まったものの、
その最初の挑戦で、いきなり躓いてしまった新進党。
この選挙結果により、新進党は崩壊への道を進んでいく事になります。
選挙までは我慢していた反小沢派も、この敗北により動きが活性化し、
一方で小沢も、こうした反対分子を全て切り捨ててしまおうとします。
こうなってはもう、新進党が政党として形を保つ事すら困難でした。
選挙から2ヶ月後、まずは羽田グループが新進党を離党して「太陽党」を結党、
その半年後には、細川グループが離党して新党「フロムファイブ」を結党と、
新進党を代表する3人の内、羽田と細川の2人までが党を離れる事となります。
そして細川離党の半年後、今度は国会議員と都道府県連の代表で行われた党首選で、
小沢は再選を果たすものの、反小沢派を糾合した鹿野道彦が45%あまりの票を獲得。
反小沢の声が、党内でこれ程の勢力になっている事が明らかとなると、
そうした反対派に対して、歩み寄りの姿勢を見せるのではなく、
党首選から数日後、小沢は突如として『新進党の解散』を宣言します・・・・
「小沢が作り、小沢が壊す・・・」
この辺りからですかねえ、小沢が『壊し屋』の異名で呼ばれるようになるのは。
当然、この一方的な解党宣言に対して、ほとんどの新進党議員が反発し、
小沢グループの中からも、岡田克也などが「有権者に対する裏切りだ!!」と猛反発。
しかし、既に羽田や細川も離党し、小沢が解党へと進む中、
彼ら3人の他に、この寄り合い世帯を纏められる中心人物は新進党内に居らず、
望むと望まざるとに関わらず、新進党は解党する事になってしまいます・・・・
この結果、親小沢派の「自由党」、反小沢派の「国民の声」、
旧民社党系の「新党友愛」、若手議員が集まった「改革クラブ」、
旧公明党衆議院の「新党平和」、旧公明党参議院の「黎明クラブ」に分裂。
解党前に分離した、羽田の「太陽党」、細川の「フロムファイブ」も合わせ、
自民党との2大政党制を目指した新進党は、わずか3年で8つの政党に分裂しました。
ですが小沢としては、これを後退とは捉えていませんでした。
小沢が目指す2大政党制は、あくまで「保守vs.保守の2大政党制」、
もっと分かり易く言えば、『2つの自民党による2大政党制』こそが最終理想形であり、
その為には、未だ大勢力である自民党を巻き込んでの政界再編が必要でした。
新進党という器を作り、自民党から一部を取り込もうという構想は失敗し、
ならば、いったん自民党と一緒になってから、それを再び割ろうという案も実らず、
そうこうする内に器がひび割れして来たから、器自体を捨ててしまった・・・・
これでは、人が付いてくる訳ありません!!
新進党を解党し、新たに自由党を結党した時も、
小沢本人は「100人(新進党議員の半分)は付いてくる」と考えていたそうですが、
実際に小沢へ付いてきたのは50人あまりでした。
そして小沢は、「自民党と連携し、そこから再編」という方針を再び定めます。
「一・一ライン」により、今まで小沢に付いてきた公明党も、
衆議院選挙の敗北を受け、小沢から離れていきました。
まあ公明党の側からすると、市川の説得により新進党結党に参加したものの、
新進党への糾弾役である亀井静香から、創価学会本体への攻撃を仕掛けられた事で、
政権を狙う立場ではなく、政権を担う立場へと目指す方針を変更した訳です。
こうして小沢と袂を分かった後、新進党へ参加しなかった「公明」、
新進党衆議院に属した「新党平和」、新進党参議院に属した「黎明クラブ」、
以上3つに分かれていたモノが1つに集結して、再び「公明党」を結成します。
その為、再結成された現在の公明党は、「NEW KOMEITO」という英語表記になっていますね。
ちなみに、新進党合流前の英語表記は「THE KOMEITO」でした。
こうして、新進党の崩壊により誕生した「自由党」と「公明党」は、
「反自民」を唱えてきた為、すぐにと言うのは無理でも、
機会を捉えて、自民党と連携する道を探る事となります。
一方、「太陽党」「フロムファイブ」「国民の声」「新党友愛」は、
新進党時代と変わらず、『自民党との政権交代を』という路線を堅持し、
「民主党」と共に、まずは統一会派(民友連)を結成。
しかし参院選を目前に控え、「統一会派よりも新党を」という流れになると、
太陽党・国民の声・フロムファイブの3党が合併して「民政党」を、
続いて統一会派の民友連が政党結成へと動き「新・民主党」が誕生します。
と、こうやって書くと、新・民主党の誕生までスムーズに行ったように見えますが、
現実は、なかなか上手くは進みませんでした・・・・
民主党以外の政党には、どうしても離合集散のイメージが付きまとい、
会派内での民主党主導に対抗すべく、民政党を結成してみたものの状況は変わらず、
合併構想は早くから出ていたものの、優位な状況の民主党は「吸収合併」を頑なに主張。
構成議員に旧社会党や旧さきがけが多く、リベラル色の強い民主党に対し、
保守系の民政党はただでも抵抗感があった上に、
吸収合併とまで言われて、さすがに唯々諾々と従うことは出来ない。
新党構想はご破算になる可能性が出てきた時、間を取り持ったのが細川護煕でした。
細川は「民友連で新党を結成するが、新党の名前は民主党」という妥協案により、
ようやく両者を説き伏せ、名前は同じだが新政党である「民主党」が誕生します。
まあ、ここからは第2期の民主党って感じですかねえ?
新党ブームにより、多くの新党が生まれ、そして消えていった中、
その最後の最後に残ったのが、この民主党だった訳です。
代表の座には、未だ国民からの人気抜群の菅直人が就任しました。
ちなみに、この新・民主党結成に尽力した細川は、
結党から3日後、還暦を迎えたのを機に、
「自分の仕事は終わった」と、突然議員を辞職してしまいます。
国民の目から見て、本当によく分からない人物でした、細川は(笑)。
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