| ▼▲ 第9章:小渕政権と自自公連立 ▲▼
こうして行われた、1998年の参議院選挙。
この選挙を前に、社民党とさきがけは閣外協力も解消し、
完全野党として挑みますが、それで党勢が蘇る訳もなく沈没・・・・
一方、単独与党となった自民党は、バブル崩壊後の経済下で、
景気回復と財政再建という相反する課題に直面しており、
選挙を前に「増税だ」「いや、減税だ」と政策がぶれ始め、結果として大敗北。
この敵失により、新鮮味を失い苦戦が予想された民主党が躍進し、共産党も健闘します。
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* 1998年 参議院選挙(126議席)
* 与党 自民:44
* 野党 民主:27 共産:15 公明:9 自由:6 社民:5 その他:20
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自民党では、この敗戦を受けて橋本が退陣。
総裁選には、「小渕派」から小渕恵三と、派閥の意向に逆らい梶山静六が出馬し、
そして「三塚派」からは、派閥後継候補の森が再び小泉が擁立。
まあ森派の小泉擁立は、中立を維持する為の戦略的な意味合いがありました。
党内の主導権を握る最大派閥から、小渕と梶山の2人が出馬して激突した訳ですからねえ。
しかし三塚派内の後継争いから、亀井静香など一部が小泉ではなく梶山を支持します。
まあこれが、後々に亀井一派の三塚派離脱に繋がる訳です。
で、総裁選の方の結果は、当然の如く小渕の圧勝に終わりました。
こうして衆議院では小渕が首相指名を受けますが、
この参院選敗北により、自民党が過半数割れした参議院では菅直人を指名。
衆参で首相指名が異なるのは、土井の時は41年ぶりでしたが、
今度は土井から9年ぶりの出来事でした。
ここでちょっと、「竹下派七奉行」と呼ばれた7名の足跡を辿ってみます。
竹下の後を担う最大派閥のニューリーダー候補として、
竹下系の小渕・橋本・梶山、金丸系の小沢・羽田・奥田・渡部が居た訳ですが、
金丸の議員辞職後、竹下は後継者を小渕恵三に決めます。
自系統の3人の中で、橋本と梶山は優秀だが野心家でもあった為、
最大派閥を纏めて行くには、自分と同じ「調整型」の小渕が最適だと考えたんでしょうね。
実際に小渕は、自分より先に橋本を首相の椅子へと座らせていますから。
ただ、こうして橋本が首相の座を射止めた事で、
もう一方の梶山としては、「次の首相は俺だ」という思いが強かったのでしょうね。
橋本の退陣を待つ所か、新進党の小沢と組んで、橋本を追い落とそうとした事もありますし(笑)。
田中角栄が、「もし俺の寝首をかく奴がいるとすれば、それは梶山だ」と評し、
金丸信が、「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した政治家ですからねえ。
って、この総裁戦時に田中真紀子が評した
「軍人(梶山)、変人(小泉)、凡人(小渕)」というのが、一番有名なのかな?(笑)
ですが参院選で惨敗を喫し、参議院で過半数割れを起こした自民党は、
危険な異才である梶山に賭けるより、調整型の小渕に党内建て直しを期待した訳です。
と言いますか、中選挙区時代には福田や中曽根と同じ選挙ながら連続当選を果たし、
今はこうして最大派閥を纏め上げている以上、生半可なバランス能力ではありませんでした。
ちなみに金丸系の4名は、この当時、小沢が自由党、羽田と奥田が民主党所属でしたが、
この参院選の4日後、奥田はガンの為に帰らぬ人となっています。
また、残る渡部は、野党から出される衆議院副議長の職に新進党から就任し、
慣例として副議長任期中は無所属で居た所、その間に出身政党が解党してしまい、
歴代最長となる2500日あまり副議長職を勤めた後、民主党へと参加します。
と、何故こんな所で、改まって竹下派七奉行の話をしたかと言えば、
小渕内閣は誕生したものの、自民党単独では参議院の議席数が過半数に足りず、
結果として、何処かの政党と連立を組む必要性が出てきていた為です。
ここで最初に手を組んだのが、同じ七奉行出身である小沢率いる「自由党」であった訳ですね。
まあ一時は、この参議院選挙での自民党惨敗により、
民主党・自由党・公明党の野党共闘で自民党を切り崩し、政権を奪い返す動きもあったのですが、
経験の乏しい民主党の動きは鈍く、逆に自民党は小渕によって党内の結束が高まっており、
自由党は自民党との連携を探る路線へと回帰し、そこへ自民党からのお誘いが来た訳です。
小沢としては、「政策を実現するには政権へ、そして自民党の引き剥がしを」という思惑があり、
自民党と自由党の連立樹立に前向きでしたが、自由党の参議院を足しても過半数には足りません。
では何故、自民党は自由党と連立を組むのか?
それは、先ずは自由党と連立する事で、他党が連立に参加しやすくなる状況を作る事でした。
その他党とは、具体的には「公明党」の事です。
自民党と公明党が組めば、自由党抜きでも衆参共に過半数に達します。
ですが自民党内には、宗教政党である公明党を毛嫌いする議員も多く、
また公明党の方も、新進党時代の自民党による創価学会攻撃で警戒心が強かった。
つまりは自民党側からすると、自由党をダシに使おうと連立を組んだ訳です。
自自公3党での連立となれば、党内での批判の声も、自公2党での連立よりは薄れますし、
連立参加した小沢の「比例削減案」は、比例に頼る公明党には黙っていられませんからねえ。
小渕内閣において、こうした画策を行ったのは官房長官の野中広務でした。
野中は竹下派を割って離党した小沢を蛇蝎の如く憎んでおり、
小沢の事を「悪魔」と呼んで憚りませんでした。
新進党時代の小沢が、自民党内の梶山との連携を模索していた時も、
それを事ある事に阻んできたのも野中だっただけに、
小沢に頭を下げて連立参加を依頼する事は、野中にとって屈辱以外の何物でもありませんでした。
ですが、自民党の為、小渕の為、そして小沢を追い落とす為、
全てをかなぐり捨て、「悪魔」に土下座までして、小沢自由党を連立政権へと誘い込みます。
こうして、まずは自民党と自由党による『自自連立政権』が誕生します。
しかし、いったん自由党が政権に参加してしまえば、後は野中の思う壺でした。
政権に参加すると言う事は、巨大な権限を手にする事であり、それはまさに麻薬そのものです。
一度麻薬の味を覚えてしまえば、それを自分から捨て去る事はなかなか出来ません。
自民党を切り崩すつもりで自民党の懐に入り込んだ小沢は、
野中の思惑に乗せられてしまい、逆に自由党を切り崩される事となります。
まあ、それが実現するのは、もう少し後の話になりますが。
こうして誕生した自自連立政権は、連立参加時の小沢が行った政策提案を受けて、
「衆院比例の50議席削減」法案を提出します。
そして法案提出から5日後、小渕が公明党への連立参加を打診します。
これにより自自連立へ公明党が参加し、『自自公連立政権』が誕生。
比例定数の削減は、公明党の意見が入れられて「20議席削減」に落ち着きます。
現在、衆院比例が180議席なのは、こうした流れにより決まった数ですね。
もちろん小沢としては、これは正直言って面白くない。
またこれを機に、自民党が連立内での比重を公明党へとドンドン傾けていくと、
影響力の低下に反比例する形で、焦った小沢は自由党の政策案実行を強行に主張。
それも受け入れられないと、自民党と自由党の合併を画策し始めますが、
これも野中によって潰されて、小沢は連立離脱の方向へジワジワと追いやられていきます・・・・
ですが、野中の思惑通り、そんな小沢に付いていく自由党議員は多くありませんでした。
当然それまでの間に野中の方も、自由党内の切り崩し工作を行っていた訳です。
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