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[11896] 第10章:自民党内の不協和音返信 削除
2009/7/11 (土) 21:23:17 徳翁導誉

▼▲ 第10章:自民党内の不協和音 ▲▼

自自公3党の党首会談が決裂し、小沢自由党の連立離脱が決定。
そして、その翌日・・・小渕が倒れて、そのまま帰らぬ人となります。
小沢を利用し、追い落とそうと動いていたのは、官房長官の野中であり、
小渕自身は、小沢の政策提言も出来うる限りは飲もうと動いていただけに、
自由党の離脱問題は、相当の心労になっていたのでしょうねえ。
海外メディアからは「冷めたピザ」と揶揄され、就任当初は低かった支持率も、
様々な人の意見を上手く取り入れ、調整力と果断な決断力でうまく政策運営を行うと、
親しみやすいキャラクターから、支持率をジワジワと上昇させていた矢先の訃報でした。
この小渕政権突然の終焉は、その後の自民党の行方を大きく転換させていく事になります。
また小沢も、こうした状況下で「連立離脱」を表明せねばならず、
更には自由党議員の半分以上が、『保守党』を作って連立政権に残留した為、
「小沢の政治生命は終わった」と、多くの人に見られました。
自民党と対決する事で国民の希望を得ていた人物が、
その自民党と連立し、しかも特に成果もないまま、同志を減らしての離脱ですからねえ。
国民からも、政界内からも、もう大きな支持を得る事は無いだろうと思われたのも、
ある意味では当然の事であったかと。
ちなみに、自由党から保守党へと参加した主なメンバーとしては、
扇千景・野田毅・海部俊樹・二階俊博・加藤六月・小池百合子・松浪健四郎などが居ました。

一方、自民党では、急に倒れた小渕首相の後継問題が起こります。
その前に、この当時の自民党派閥の状況を説明しておきますと、
以前にも書きましたが、三塚派は森喜朗が派閥を継いで「森派」となっており、
その直前、亀井静香は三塚派を離脱して「亀井派」を結成。
渡辺派は渡辺の死去により、先代の中曽根が返り咲いていましたが、
なかなか若返りが図られない事に焦れて、山崎拓が離脱し「山崎派」を結成すると、
残された旧中曽根派は、亀井派と統合して『志帥会「村上・亀井派」』となります。
また宮沢派では、加藤紘一が跡を継いで「加藤派」となりますが、
その直後、加藤派から河野洋平が離脱して「河野グループ」を結成していました。
ちなみに河本派は、河本の引退により集団指導体制となり、「旧河本派」と呼ばれました。
ここで整理しておきますと、以前は「5大派閥」として知られた自民との派閥も、
派閥後継争いにより、山崎・亀井・河野が飛び出して新派閥を作った事で、
「小渕派」「加藤派」「山崎派」「森派」「村上・亀井派」「旧河本派」「河野グループ」と、
以上7つの派閥に分裂している状態でした。

そして、小渕が倒れる半年前に行われた自民党総裁選挙では、
公明党と連立した小渕に反発する形で、加藤と山崎が出馬。
その直前に、分裂させる形で派閥を引き継いだ加藤と山崎の2人は、
上を目指す為の登竜門、更には派閥内の結束を固める意味合いもあって、
この総裁選へ出馬したですが、無投票で再任されたかった小渕は、
2人の出馬を「安定政権を目指す自民党への反逆」と見なし、
総裁選ではそれなりに健闘を見せたものの、2人は党内の非主流派へと追いやられます。
加藤と同じ自民党左派の政治家であり、橋本内閣でも共に協力しあっていた野中は、
「小渕の次は君だから」と出馬取り止めの説得に回りますが、不発。
その為、小渕急病という事態になった時、加藤へ後継の話が回る事はありませんでした。

小渕が倒れ、首相への復帰が無理だと判明すると、
小渕内閣を支えた自民党主流派のトップたちがホテルへ集結します。
小渕派からは、衆議院の野中広務と、参議院の青木幹雄が、
村上・亀井派からは、衆議院の亀井静香と、参議院の村上正邦が、
森派からは森喜朗が出席し、5名による密室会談で小渕の後継首相は森に決定。
連立維持の現状派が政権を引き継ぐ事で、公明党側もその決定を承認し、
これにより、清和会から22年ぶりに総理総裁が誕生する事となります。
森総裁、そして森首相が誕生すると、自由党に代わり保守党が加わって、
新たに『自公保連立政権』がスタートする事になります。
ちなみに小渕が倒れた後、小渕派は橋本派へと名前を変ます。

ところでこの頃、野党第1党である民主党はどうだったのかと言うと、
第2期の「新・民主党」が誕生した直後は、
政党自体の人気は、「寄せ集め」の印象が強くて低調でしたが、
代表である菅直人の人気だけは、未だ抜群に高く、
菅代表と民主党のあまりの人気の違いに、マスコミからは、
「官民格差」を文字って、『菅民格差』などと揶揄されていました(笑)。
しかし党内では、保守派とリベラル派に分かれる党内事情に対して、
調整役をほとんど果たせなかった事で、リーダーシップの欠如が露呈し、
更には自らの不倫問題で国民(特に女性)からの人気が急落すると、
民主党の代表選挙に敗れ、代表の座を鳩山由紀夫に明け渡す事になります。
ちなみにこの間、弟の鳩山邦夫の方は、こうした民主党のゴタゴタに嫌気がさし、
都知事選出馬を理由に民主党を離党すると、都知事選落選後には自民党へ出戻ります。
この時、鳩山邦夫・舛添要一・明石康・三上満・柿澤弘治などを破り、
激戦を制して東京都知事に就任したのが「石原慎太郎」でした。

こんな状況で行われた、2000年の衆議院選挙。
新たに民主党の代表となった鳩山は、発言がぶれて自民党から攻撃されたり、
「加藤紘一が離党すれば首相に推す」などと発言して叩かれたりと、
わざわざ菅から代えたのに、却って民主党の勢いを削ぐようになっていました。
しかし、鳩山が救われたのは、自民党の森が自分以上に駄目だったと言う事ですね(笑)。
森は失言に失言を重ね、それをマスコミが面白おかしく取り上げる事で、
小渕時代に盛り返してきた自民党の勢いを、一転して森が削ぐようになります。
*****************************************************************************
* 2000年 衆議院選挙(480議席)
*  与党  自民:233 公明:31 保守:7
*  野党  民主:127 自由:22 共産:20 社民:19 その他:21
*****************************************************************************
結果は、自民党は減少、民主党は増加とは言え、
現実的には「両党とも敗北」といった感じで、
「自民党はだらしないけど、民主党は不甲斐ない」という民意が表れました。
強いて勝利者を上げるなら、自由党と社民党ですかねえ?
自由党は議席数を伸ばした事で、「死んだ」と見られていた小沢に対して、
まだまだ期待する層が幾らかは残っている事を示しましたから。
一方、自民党でも民主党(新進党)でもない「第3の選択肢」として、
議席数を増やしてきた共産党ですけど、
そうした国民の期待に対して、古い党の気質を変えようしなかった為、
この辺りから、ジワジワと勢いを失っていきます。
土井たか子が党首の座に戻り、福島瑞穂・辻元清美・田嶋陽子などを擁立して、
女性政策路線に舵を切った社民党は、一時的に少し盛り返しますが、
結局、少し遅れて共産党と同じ道を歩んでいく事となります。

この選挙の結果、一応は議席を増やした民主党側は、鳩山代表続行を承認。
ここで鳩山は、党内の結束強化を考えて菅をNo.2の幹事長に据えるが、
代表返り咲きを狙う菅をそんなポジションに置いた事で、
党内がまとまる所か、却って混乱するようになっていきます。
正直な所、菅も鳩山もリーダーシップに欠けるのに、2人ともトップに立ちたがる。
ただでさえ、保守系もリベラル系もいる寄せ集め政党の民主党が、
そんな両者による2頭体制で、党運営がうまく行くはずもありません。
自民党の敵失に助けられているうちは良いですが、
相手の敵失がない場合には大打撃を受ける危険性が、当時から語られていました。
そしてそれは、のちのち現実になって行きます・・・・
その引き金を引く事件こそ、『加藤の乱』でした。

議席数は減らしたものの、自公保3党で過半数を獲得し、継続が決まった森内閣。
しかし、その後も森の失言や失態は続き、内閣支持率も著しく低下すると、
それまで非主流派に追いやられていた加藤派と山崎派が、森降ろしに動き出します。
民主党の方も、こうした自民党内部の動向に呼応して、
森内閣の不信任案可決、そして加藤政権の樹立を画策し始めます。
ですが、こんな事がそう簡単に上手く行く訳がありません。
「小沢と渡辺」や「小沢と梶山」という組み合わせで上手く行かなかったモノが、
『鳩山由紀夫と加藤紘一』などという組み合わせで、上手く行くはずありませんでした。
当時、マスコミはガンガン煽っていましたが、蓋を開けてみれば、
橋本派の野中、そして森派の小泉により、加藤派は半数以上をあっさり切り崩され、
「加藤の乱」は不発のまま、終結する事となります。
(山崎派は、山崎自らが割ってまで作った派閥なので、ほとんど切り崩されませんでした)
実質的に、「YKK」の関係もここで終わったと見て良いでしょうね。
ちなみに切り崩された加藤派は、新たに「堀内派」を結成します。

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