| > > 2代将軍の秀忠と3代将軍の家光が、それぞれ、
> > 潰した大名の中で、最大のモノは何だったと思います?
> > 秀忠は、兄・秀康の子である松平忠直[越前67万石]や、実弟の松平忠輝[越後60万石]、
> > 家光は、実弟の徳川忠長[駿河55万石]ですよ(もちろん、無嗣断絶ではありません)。
> 親藩の場合は徳川譜代出身者の家臣がその藩政の枢要を占めていたでしょうから
> 改易も比較的やりやすいと思いますよ。
> 武田信吉の水戸15万石の際も家臣達は後の水戸藩に移籍していますし。
ですが、そうした事が出来たのも、家康が生きているからこそで、
家康の死後からは、ドンドン難しくなって行ったと思いますよ。
家康存命の頃は、家康の子供たちが大名として配置される際、
その大名の家臣と言うより、幕府からの御目付け役として、
譜代の家臣たちを「付家老」として送り込んでいたので、
神輿が替われば引き継がせたり、配置換えさせたりも出来ましたけど、
世代交代が進み、更に家康まで亡くなれば、事情は変わりますからねえ。
同じ廃絶でも無嗣と不行跡では違うとは言え、実際に徳川忠長の改易では、
付家老を始め、多くの家臣が連座して改易・蟄居の処分を受けてますし。
> > ついでに、もう1つ言うと、例え外様であっても、
> > 前田・伊達・毛利・池田・山内・黒田・鍋島・島津などの有力大名には、
> > 「松平」姓を与える事により、名誉的に一門として扱われてましたね。
> 江戸末期になると殆どの大名家が松平姓を名乗るようになってましたね。
> ああなると違いがわからなくなります。
江戸の古地図とか見ても、大名屋敷が「松平」だらけですしね(笑)。
> > 逆に考えれば、なぜ中国は朝廷による中央集権体制が続いたのに、
> > 日本ではそれが崩壊し、武士による封建体制に移行したのかを、
> 中国の場合は王朝交代時には「革命」で完全に体制が入れ替わりますが
> また土地が広すぎるため周王朝時に先に封建制が成立してしまったので
> その弊害を修正するため秦朝時の郡県制を経て封建制と郡県制の折衷式の郡国制になったのでしょう。
> しかしながらそのトップである皇帝の権力は絶対的になっていきます。
う〜ん、でも「郡国制」って、妥協の産物と言いますか、
過渡期に出てきた、一過性の仕組みみたいなモノじゃないですかねえ?
秦が段階を踏まずに、一足飛びで中央集権の「郡県制」に移行した為、
また制度的にも未成熟であり、そのシワ寄せを解消する移行期間みたいなモノかと。
郡国制にしても、呉楚七国の乱により建国から50年ほど形骸化しちゃいますし。
その後は、貴族と皇帝、置き換えれば貴族と科挙官僚の綱引きが起き、
時々、遊牧民による征服王朝が出来て、その綱引きに影響を及ぼすと。
でもまあ、最終的には、皇帝へと権限が集約される事になり、
皇帝の公的な手足が科挙官僚なら、私的な手足は宦官となる事で、
今度は科挙官僚と宦官が権力を巡って綱引きをし、皇帝の手元に残るは権威のみ(笑)。
って、宦官は、貴族が居た頃から既に、綱引きのプレイヤーではありましたけどね。
何かダラダラと書いて来ましたが、日本は隋や唐から律令制度の仕組みは導入しても、
結局は「科挙」と「宦官」は導入せずに終わるんですよねえ・・・・
この辺を紐解いていくと、日本と中国の歴史的な政治制度の違いが明らかになるんですかね?
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