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[18782] Re:はからずも、リヴィウがホットな話題に返信 削除
2014/2/25 (火) 23:29:28 ミカエル

▼ 徳翁導誉さん
> > > ・・・って、それよりも、この街を2度訪れているというのが凄い!!
> > よく考えると2回っていうのはウソでした。2010年にもちょい立ち寄ってますので都合3回ですね。

> こちらは数年前と比較的最近の訪問ですね。
> 最近のニュースでは、ウクライナの情勢がかなり深刻だと報じられていますが、
> 2010年というと、その直近での発端と言える大統領選挙が過熱してた頃ですよねえ?
> 当時のウクライナの雰囲気って、どんな感じでしたか?
> 今では内戦化の危機さえ伝えられてますが、当時から既にその潜在的な空気感ってあったのでしょうか?


残念ながら2010年の時は単なる一旅行者だったので、あまり現地の情勢には留意しませんでした。
ちょうどその時はモスクワの山火事で「日本に予定通り帰れるの?」って感じでそちらの情報に目がいってしまいました。
ちなみに当時の行程はワルシャワ→(鉄道IC)→クラコヴィア→(バスEuroline)→リヴォフ→(飛行機LOT)→ワルシャワ→(飛行機AF)→モスクワ
でした。

> ・・・って、リヴィウに五輪を招致なんて話ができる状況じゃ無くなっている気も・・・・
> 『ウクライナ危機が深刻化、リビウ州議会は独立を宣言』
> http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N18U9K6KLVRB01.html


ホントにあっという間に政権崩壊してしまいましたね。
今後どうなるのでしょうか?東西分裂は極論だとしてもクリミアのロシア復帰の可能性はでてくるかもしれませんね。

> > 1980年代後半までは現在のように格安航空券でシベリア上空をひとっとびできる時代では
> > ありませんでしたので、お金の無い学生は新潟や横浜から船でナホートカまで行き
> > そこからシベリア鉄道やロシア国内航空線でヨーロッパに出ていました。
> > (ちなみにお金のある人は欧州や米国系の航空会社でアンカレジ経由)
> > そうなるとモスクワからプラガ・ブダペシュタ・ローマなどに行く旅行者は
> > リボフに立ち寄っている日本人はそれなりにいるのでした。(変わり者が多いですが(笑))
> > その当時には観光地の説明看板には変な日本語ですが日本語表記もあったのですよ。
> > 当時のソ連には「開放都市」と「閉鎖都市」の2種類があり、旅行者が通常訪問できるのは
> > 開放都市だけだったのです。ちなみにモスクワからこの方面の解放都市はキエフとルヴォフだけ。
> > そういった理由が最初の2回の訪問の理由です。

> なるほど、旅行の中継地として立ち寄った訳なんですね。
> 一応は知識として、現在の北朝鮮のように、ソ連も旅行などで入国できた事は知っているのですが、
> 子供の頃の「鉄のカーテン」の印象が強過ぎて、未だに鎖国的なイメージが拭えないもので(笑)。
> 10年前に刺殺された国会議員の石井紘基が、1960年代にモスクワ大学へ留学していた事を思えば、
> 却って今の北朝鮮などより、ソ連の方がずっと開かれていたのかも知れませんね。


えぇ、当時もソ連はビザさえ申請すればちゃんと入国できますよ。
北朝鮮と比べるとはるかにハードルは低いです。個人でも溜池の大使館に行けばビザは発給してくれます。
それに当時のパスポートには「北朝鮮を除いて有効」の文言が入っていた時期ですしねぇ。
ソ連邦は鎖国はしておりませんので当時も共産主義国同士はだいたいビザ無しで入国できるようです。
当時のプラガやプロブディフのような田舎町などにも陸上を移動してきた中国人行商人が多くいましたしね。

まぁ個人的には単なる入国のしやすさのレベルで考えるとソ連よりも
今となってはアンドラとかサンマリノの方が厳しいのかも(笑)
(さすがに連続休暇が10日程度しか取れないので物理的な移動だけ考えると結構キツイっす。
この両国はバルセロナやローマから6〜7時間以上かかります。)


> あと、「アンカレッジ経由」という言葉を久しぶりに耳にしました(笑)。
> 冷戦当時は日本と欧州を結ぶ空の交通拠点でしたけども、今ではどうなっているんでしょ?
> と言う事で、気になって少し調べた所、貨物便のハブ空港(世界5位)になってるんですね。
> 「閉鎖都市」なんかも懐かしいと思いましたが、よくよく考えると、
> 近場では中国の旅順が、つい数年前まで閉鎖都市で入れなかったんですよね、確か。


閉鎖都市は今でもありますよね。ゴーリキー近辺の「アルザマス」とか。

> > ちなみに1991年は8月から1992年の1月までソ連(ロシア)滞在しておりましたので
> > 旧ソ連の8月革命からソ連邦崩壊まで現地入りしておりました。

> これはまた、ソ連崩壊の激動をピン・ポイントで見ている訳じゃないですか!!
> いや〜、もう何だか「凄い」の一言しかありませんよ、本当(笑)。
> クーデターが起きた時はどうだったのか?とか、
> ゴルバチョフ軟禁はどのように報じられたか?とか、


1991年8月19日はソ連入国から約半月程度経っており。
私はヤロスラーブルの街にいました。
突然ラジオからゴルバチョフが病気で倒れたということが流れ、
(当時の私のロシア語のヒアリング能力はこの程度)
近くのロシア人に聞いたところ「ゴルバチョフが失脚した」とのことでした。
私が持っていたロシア語会話集の中に「クーデターが起きたのですか?」の一文があったので確認したら
ロシア人は「Да(YES)」とのこと。

結局現地では情報も入らないのでモスクワに移動し、
クトーゾフ通りの外国人アパートに出向き状況を確認しました。
結局現地に居るよりも東京からの新聞(2日遅れで入荷する)の方が詳しい情報があったりするのでした。
しかし、当時はインターネットなど無い時代ですからモスクワの状況より日本のプロ野球の結果が気になったりするのですが(笑)

> とりあえずの質問は、その半年に及ぶ滞在は、初めから予定しての事だったのですか?

一応はじめっからの予定でしたね。学生みたいな身分でしたので
バイト感覚で映画「おろしや国酔夢譚」の関連企画(正確にはオフィシャルとは全く関係のない便乗企画)でレニングラードに滞在しておりました。
その間にロシア語の勉強をしたりアフガン国境に近い地域を訪問したりしていました。
(ドライブ中に道路標識に「Kabul ××kM(何故かこれだけ英語表記、ドゥシャンベすらキリル文字での表記なのに)」
と出てくるとちょっと焦ります。)

> > 1994年は2月から3月にかけてウクライナ・ハンガリー・チェコ・ユーゴに滞在しておりました。
> こちらは、ソ連の支配から脱して、東欧諸国が新たな国造りで熱かった頃ですね。
> 東欧の民主化や資本主義への移行は、各国ごとにそれぞれ状況が異なったとは思いますが、
> その辺の事で、特に印象に残った事などはありましたか?


やっぱり貧しい国だからこそ西欧への憧れが大きいようです。
ウクライナであった企業家とお話したときですが「ウクライナは2〜3年で西欧に追いつく」と述べていたことは印象的でした。
その彼の希望は20年経過しても残念ながら実現しておりませんが。

とりあえず簡単に返信しておきました。
しかし、インターネットって便利な反面、現地にどっぷりつかることができなくなりますね。
当時はロシア語であろうが2〜3週間で普通に会話ができるようになりましたが
(ロシア語が話せなければ現地では何もできませんので否応にも話せるようになります)
今では一カ月間滞在しても英語ですら話せないと断言できます(苦笑)

まぁこの経験がその後約10年間も私個人の生活の糧になるとは思いませんでした。
今では東京から離れられない生活となってしまいましたが。
やっぱり若かったんだなぁ(笑)

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