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[20707] 先祖の話返信 削除
2017/1/19 (木) 10:57:18 玉川権中納言

▼ 徳翁導誉さん
> と、この流れで尋ねるのは、ちょっと間が悪いかも知れませんが(笑)、
> 前回書かれていた「最上氏の分家の分家らしい」という話は、詳しく話を伺ってもOKなのでしょうか?
> 私も南北朝好きなもので、あれ以降、「どの分家の流れだろう?」と気になってしまっているので。
> http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/mogami_k.jpg
> (最上氏の祖といえば斯波兼頼ですし、斯波氏といえば足利一門でも別格の尾張家ですからねえ)


一応、最上を先祖に持つのは母方の方になります。話を聞いたのが、丁度4年くらい前になりますが、
(母方の)大伯母が、親戚に最上姓の人が沢山いる、という話をはじめまして。昔から、母方は士族で、先祖は源氏だというのを聞いていたものでしたので、
せっかくだから詳しく聞こうとしたのですが、大伯母も80歳を超えていたので、余り正確な情報はその時は得られませんでした。

その後、自分で調査をしたところ、どこで分岐したかはわからないものの、山形藩最上本家が改易になったときは藩主:義俊に従っていて、
近江に移された後、分家の一つだった私の先祖だけが追い出されたか何かで、種子島に移り住んだことまで、推定することができました。
(ここからは、大伯母から聞いた内容です)
江戸時代の間に最上姓を捨て、違う名字(事情によりА家とします)に変えた後、江戸後期からは今の南種子町の代官をやっていたそうです。

それで明治維新を迎えられたのはよかったものの、西南戦争では、他の種子島の豪族たちは西郷側についたものの、А家だけは中立(どちらかというと政府側)を宣言してしまいます。
おかげで他の豪族に攻められたり、元々西郷を支持していて、維新までА家の支配を受けていた住民が一揆を起こしたりして、それは大変だったそうです。
以降、А家は一時的に経済的に困窮しましたが、それでも元から勉学の才があった者が多かったので、その状況下で一念発起して、А家から続々と大学進学者を輩出しています。

西南戦争時の当主(私の高祖父に当たります)には7人の男子がいたのですが、その中の末っ子が私の曽祖父で、立教大学を卒業した後、米国留学をしました。
その後正式に分家(名字も再変更(а家とします))、旧薩摩藩士鮫島家の娘を妻に迎えて、3男2女を儲けました。最初は立命館の講師をしていたのですが、後継ぎである長男(私の祖父)が病弱だったので、
比較的気候が温和な下関に移住して、高校(英語)教師に転職しました(因みにその時の教え子の一人に山本譲二がいます)。引退後も家で塾を開き、中高生に対して勉強を教えていました。
彼の孫娘で、長男の長女だった母によると、彼は地元ではかなりの知識人として知られていたようで、塾生じゃない学生たちも、曽祖父の話聞きたさに家に押しかけて、
色々な哲学的な話を聞いていたそうです。(その中に、学生時代の林芳正元農水相の姿があったとかなかったとか(笑) 実際、母の従兄(最上の話をしていた大伯母の長男)の親友です)

その後а家は祖父、そして今は叔母(母の妹)が当主の座を継いでいます。叔母は独身なので、跡は私か私の子供に継いでほしいそうです。ただ、私は一人っ子なのですが(苦笑)

ちなみに私の父方の先祖は農民です。そのため母が結婚する際、а家の人たちから猛反対を受けたそうです(なぜか祖父は了承していたそうなのですが)。
母以外の人たちの殆どは旧士族か、そうでなくてもエリートと結婚したので。

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