| ▼ 徳翁導誉さん
> > > > > > ただ道徳が教科になったと聞いたのもあり、そういうのも絡めて
> > > > > > 思想操作にならなければいいなと、一抹の不安もあります。
> > > > > いや〜、やる気満々だと思いますよ(笑)。
> > > > あぁーやはりそう思われますか。
> > > > 「一抹」と表現しましたが、実際は強めに不安です。
> > > > だからと言って、何かできる訳でもないですが…。
> > > ですから、個人で何か出来る事があるとすれば、それは「意識する」事だろうと、私は思います。
> > なるほど、言われてみるとそう思います。
> こうして今回、道徳授業の話題が出るまで知らなかったのですが、
> 新しい道徳の教科書に、下町の中小企業が作った国産ボブスレーの記事が載り、
> その挿し絵として、ボブスレーを作ってる町工場のオジサンたちの姿ではなく、
> 体験試乗する安部総理と、それを見守る国会議員たちの写真を選んだ事が、
> いろいろ問題になってるそうですね・・・・
>
> 最初は「この写真選択はマズいだろう」との理由で、騒ぎになってるのかと思いましたが、
> どうやら実態は逆で、これはマズいだろうと反対の声を挙げた層に対して、
> 「特定の思想集団が教育に介入!」と、反対活動を叩く運動が盛り上がってるらしく・・・・
> で、その教科書を監修したのでも、このバッシング運動を行っているのも、
> 道徳の教科化を進めたのも、同じ人たちという事で、随分とキナ臭い世の中になったなぁと。
> 経営が苦しい中でウケるネタだからか、一部の保守系メディアまで乗っかちゃってますし。
>
> ちなみに出版社側に言わせると、この写真の選択は、
> 国民の代表である首相を通して、国全体の喜びを表現しているらしいです。
> でも、その理屈でしたら、もしも東日本大震災での救命活動を載せる際には、
> 「不眠不休で陣頭指揮を執る菅総理」とか、教科書に写真を載せるんですかねえ?(苦笑)
>
こちらでも道徳教育の話をされていたのですね。せっかくですからこちらで返信したいと思います。
なんとも不愉快な話ですね・・・。特定の思想集団というのは国も当てはまるのでは無いかと私は思ってしまいます。
正確には党とその後援者ですね・・・。生きにくい時代になりそうです。
>
> まあ、それはどちらでも良いとして、まず最初に、
> 「教育と洗脳は本質的に同じ」というのは、まさにその通りだと思いますよ。
> こちらに関しても、その人から見て、自分に都合が良ければ「教育」と呼ばれ、
> 都合が悪ければ「洗脳」と言われるだけの話かと思います。
> 例えば、教会で行われる宗教教育も、信者でなければ洗脳だと思うでしょうし、
> 逆に、学校で教えられる進化論も、福音派の牧師などからすれば洗脳に見える事でしょう。
> 個々人によって正義と悪の線引きが異なるのと同様、教育と洗脳の線引きも人それぞれであろうかと?
>
もちろん、私は自分の線引きを押しつけるつもりは無いのですが・・・。
そもそもそういう正義と悪の線引きを決める時に基準となるのが自分の道徳では無いでしょうか?
そこに介入するのは私からしてみると卑怯、と言いますか・・・。押しつけとかとは関係なく禁じ手に思えるんです。
仮に今、自分が道徳教育を受ける世代に戻ったらと考えると恐ろしくなります。
今こうして道徳教育に反発する自分は基本的には自分の体験を元に形成された道徳を持っています。
理不尽や暴力を受けながらたどり着いた価値観です。しかし、道徳教育の下でこの価値観、道徳にたどり着けたのかどうか・・・。
今も周囲に抑制されて卑屈に生きていたのではないかと思います。
> ただ一方で、そもそも道徳というのは、「社会をうまく回す為のルール」の事ですから、
> 個人基準ではなく、社会基準を押し付けられるのは、ある意味で当たり前の事だと私は思います。
> 時代・地域・文化などによって、社会の仕組みと、それを上手く回す為のルールは様々でしょうから、
> 道徳の価値観自体は、それこそ千差万別にあると思いますが、
> しかし1つの社会においては、適切なルールというのも、ある程度は決まってくるでしょうし、
> で、そのルール(道)を徳目こそが、道徳と呼ばれるモノなんだと思います。
> 自分自身の価値基準であったり、個々人の自由意志であったりを、尊重しようと言うのは、
> 成熟した社会であればこそ、それが道徳としても罷り通るというだけの事で、
> これが混乱する社会であれば、ほとんどの人にとって、まずは社会の安定こそが求まられるはずで、
> そのような場合、個人尊重が二の次になるのも致し方ないかと?(もちろん程度にもよりますけど)
> まあ逆説的に言えば、更に成熟した社会を目指すのであれば、より寛容な道徳が必要でしょうし、
> 不寛容な道徳の必要性を説くのは、それだけ現状の社会が酷いか、酷くしたいかの場合ですね。
>
感情論にもなってしまいますが・・・私は必要だとしても適切なルールを押しつけられるのは嫌ですね(笑)
たぶん、私は結果的にその適切なルールに従って生きるでしょうけど。
まあ、それは置いておくとして、道徳教育について話すなら「適切なルール」というのを誰が決めるかという点は問題になりませんか?
私は「法」と「道徳」をある程度分けて考えているんですよね。
「法」は大半の人間が合意でき、少数派を無視してでも守ることを強制しないと社会が破綻してしまう物だと思っています。
「道徳」は必ずしもそうとは思えないんですよ。大多数の人間が合意できるという理由で「適切なルール」を押しつけて良い物なんでしょうか?
たとえば、今回の道徳教育には「愛国心」も項目に入ってましたよね?
私は「愛国心」は大事だと思いますけど、人に強制されて抱く物では無いと思っています。「日本」に対して抱くと言うよりは「故郷」などに抱くのが自然な有り様だとも思っています。
国の愛し方、あるいは愛するかどうかなんて百人居れば百人違う解釈があるわけで・・・。
> ちなみに、私が道徳教育の拡充で心配しているのは、社会ルールの押し付け自体よりも、
> 社会のルールではなく、自分のルールを押し付けようとしたがる人たちの存在ですね。
> そういう人たちの頭の中では、「自分=社会」なので、当人は両ルールの違いを自覚できず、
> だからこそ、悪気もなく、責任感もなく、それを押し進めてしまう危険性があると・・・・
> で、そういう人たちは勿論、まともな社会ルールなど認識できていないのは、言わずもがなです。
> 自分と社会(時には国家)を混同している時点で、客観的な認識力など持ち合わせてるはずが無く、
> それ故に、声高に道徳を叫ぶ利己的で人ほど、道徳的な問題を起こすという皮肉な結果に(苦笑)。
これは私も気をつけないといけませんね。油断すると視野がどんどん狭くなっていきます。
というか、いつも自分の言動が押しつけがましくなっていないか、客観的になっているか怖いですね。
特に道徳教育とかそこら辺の話になると過去の経験から感情的な面も混ざりそうになりますし。
管理人殿が憂慮されているのは教える側の教師にそういう人間がいないかどうか、ということですかね?
よく分かるつもりです。実際、友人にも過去の教師にもそういうタイプの方は居ました。
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