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[21339] Re2:道徳教育返信 削除
2017/9/28 (木) 19:33:20 徳翁導誉

> > 最初は「この写真選択はマズいだろう」との理由で、騒ぎになってるのかと思いましたが、
> > どうやら実態は逆で、これはマズいだろうと反対の声を挙げた層に対して、
> > 「特定の思想集団が教育に介入!」と、反対活動を叩く運動が盛り上がってるらしく・・・・
> > で、その教科書を監修したのでも、このバッシング運動を行っているのも、
> > 道徳の教科化を進めたのも、同じ人たちという事で、随分とキナ臭い世の中になったなぁと。

> なんとも不愉快な話ですね・・・。
> 特定の思想集団というのは国も当てはまるのでは無いかと私は思ってしまいます。
> 正確には党とその後援者ですね・・・。生きにくい時代になりそうです。

と言いますか、そもそもこうした発言自体、その当人たちが、
「自分たちこそ社会の本流」という思い込みがなければ、出てこない発想なんですよね。
そして、それを信じて疑わないから悪気もなく、本流なので自身の責任感も伴わないと。
ぶっちゃけた話、これがまだ、解った上で敢えてやってるんならマシなんです。
しかし、自覚せずに悪気も責任感も抱かぬまま、暴走されるのは本当に怖い事でして・・・・

> > 「教育と洗脳は本質的に同じ」というのは、まさにその通りだと思いますよ。
> > こちらに関しても、その人から見て、自分に都合が良ければ「教育」と呼ばれ、
> > 都合が悪ければ「洗脳」と言われるだけの話かと思います。
> > 例えば、教会で行われる宗教教育も、信者でなければ洗脳だと思うでしょうし、
> > 逆に、学校で教えられる進化論も、福音派の牧師などからすれば洗脳に見える事でしょう。
> > 個々人によって正義と悪の線引きが異なるのと同様、教育と洗脳の線引きも人それぞれであろうかと?

> もちろん、私は自分の線引きを押しつけるつもりは無いのですが・・・。
> そもそもそういう正義と悪の線引きを決める時に基準となるのが自分の道徳では無いでしょうか?
> そこに介入するのは私からしてみると卑怯、と言いますか・・・。
> 押しつけとかとは関係なく禁じ手に思えるんです。

う〜ん、この辺は言葉の定義の話になってしまうのですが、
自分自身のルールは、道徳と言うよりも、ポリシーとか信念とか言う方がしっくり来ますね。
例えば、「社会正義に反しても信念を貫く」というフレーズなら、意味が通りますけど、
「社会正義に反しても道徳を貫く」というフレーズだと、やはり私には違和感があります。
その理由は、道徳というモノが、個人基準ではなく社会基準だからでは無いでしょうか?
もちろん、個人ごとの道徳的価値観の違いというのも、存在するとは思いますが、
それは、同じ社会を見たとしても、個々人で感じ方の違いがあるからですし、
そこの違いは、対象が同じである以上、そこまで大差あるモノにはならない気がします・・・・

でも一方で、常に変化する社会と、それに応じる新ルールに対して、
そんな大差ない個人差こそが、新たな社会ルールへの柔軟な対応を可能にしている面もあり、
そこの違いは大変重要ですから、「これが正解」と上から定めてしまうのは間違いでしょうね。
と言いますか、上からの目線で都合良く決めた社会ルールの正解が、
果たして本当に、社会のルールとして最適解なのかと言えば、どうしたってズレてくるはずで、
しかも、ただでさえそうなのに、これを推進しようとする層の価値観が、
始めからズレている(道徳心が欠けている)という、笑い話にもならない現状であると(苦笑)。
道徳の教科化と並び、武道の必修化なんかも押し進めていますけど、
「銃剣道も入れろ」とか、「レスリングや太極拳は外国産だからダメ」とか、やってる一方で、
道徳では、中国産の儒教を教えて、それに成績を付けろとか、ハチャメチャな指示が出される為、
それに振り回される下の方は、教科書記述をパン屋を和菓子屋に換えて郷土愛強化とか、
訳の分からない対応を迫られる状態になっちゃってますからねえ・・・・

あと最後に、少し脱線ですが、身も蓋も無い事を言ってしまうと、
個人的信念とか、社会的道徳とかで「善悪」と定義してみた所で、
本質を突き詰めれば、個人や社会の「損得(利害)」という価値観でしか無いんですけどね(笑)。
ただ、そう言ってしまっては、あまりにもゲスなので、そうした美名で呼んでいるだけで、
そして結局、そうした美名の使用自体も、精神衛生上の損得勘定でしか無いと。

> 仮に今、自分が道徳教育を受ける世代に戻ったらと考えると恐ろしくなります。
> 今こうして道徳教育に反発する自分は基本的には自分の体験を元に形成された道徳を持っています。
> 理不尽や暴力を受けながらたどり着いた価値観です。
> しかし、道徳教育の下でこの価値観、道徳にたどり着けたのかどうか・・・。
> 今も周囲に抑制されて卑屈に生きていたのではないかと思います。

いや〜、でも実際は、あまり変わらないと思いますけどねえ?
別に道徳の授業自体は戦後ずっと行われて来てる訳ですし、
今回問題とされているのは、他教科同様に、その道徳に「成績」を付けようという所ですから。
で、進学・就職用の内申書の為に、学生が教科化された道徳で好成績を目指す構図は、
形だけのボランティア活動をしたり、歯の浮くような小論文の書き方を練習する現状と、
そこまで大差ない事なのかも知れませんね(もちろん健全な姿では無いでしょうけど)。
成績を付けるとなれば、意見が分かれる(明確な正解が無い)設問は出し難いでしょうから、
教師は無難な設問を出し、生徒は無難に答えるという、形式的なモノに結局は落ち着きそうな気も?
そこで教師とやり合って、無駄に成績を落とすのは、私みたいな一握りの問題児くらいです(苦笑)。

それに、倫理の授業とかありますけど、それで生徒たちに倫理観が備わる訳でも無いので、
机上で道徳の授業をやった所で、それがそのまま身に付くとも思えません・・・・
恐らく、道徳の教科化が進んでも、実際の効果は推進者たちが得る自己満足感だけで、
もしも効果を表すとすれば、多分それは学校ではなく、社会自体が変化した時ではないでしょうか?

> > ただ一方で、そもそも道徳というのは、「社会をうまく回す為のルール」の事ですから、
> > 個人基準ではなく、社会基準を押し付けられるのは、ある意味で当たり前の事だと私は思います。
> > 時代・地域・文化などによって、社会の仕組みと、それを上手く回す為のルールは様々でしょうから、
> > 道徳の価値観自体は、それこそ千差万別にあると思いますが、
> > しかし1つの社会においては、適切なルールというのも、ある程度は決まってくるでしょうし、
> > で、そのルール(道)を徳目こそが、道徳と呼ばれるモノなんだと思います。

> 感情論にもなってしまいますが・・・私は必要だとしても適切なルールを押しつけられるのは嫌ですね(笑)
> たぶん、私は結果的にその適切なルールに従って生きるでしょうけど。

もちろん、基本的には誰もが、押し付けられる事は嫌いだと思います。
と言いますか、教育であれ、洗脳であれ、相手に「押し付け」と感じさせた時点で失敗なんです。
親が子供に「勉強しなさい!」と叱りつけた所で、却って逆効果なだけですし、
上手な洗脳というのは、「自発的に行っている」と思い込ませる作業ですからねえ(笑)。
そして実際は、嫌だと反発するような人ほど、自発的で積極的に関わってくる為、
望む方向へ誘導できる機会が多く、一度転がしてしまえば誰よりも熱狂的になったりする一方で、
「へ〜」と簡単に同調する人は、他人の話など聞き流していて、意外と洗脳が困難だったりします。
と、何だかこんな話をしていたら、むかし見た短編ドラマを急に思い出しました。

世にも奇妙な物語「23分間の奇跡」 (1991年)
https://www.youtube.com/watch?v=z9F3mtbVoRg

> まあ、それは置いておくとして、道徳教育について話すなら
> 「適切なルール」というのを誰が決めるかという点は問題になりませんか?

誰が決めるかと言えば、少なくとも今回話題にしている道徳の授業においては、
まず一次的には、現場の教師であり、教科書の制作者にあるのでしょうが、
彼らは文部科学省の指導に従う立場ですから、二次的には霞ヶ関でしょうし、
そして霞ヶ関も、与党議員とその支援者に干渉を受けますから、最終的には為政者でしょうね。
誰が決めるかの問題ではなく、そもそも公的に行われる教育とは、全てがそういうモノかと?

で、このスレッドで問題にしていたのは、その部分ではなく、それを前提とした上で、
道徳の授業に成績を付ける事であったり、為政者の干渉が過度で偏ってる事でした。
「進学や就職に影響するから、お上が望むような答えをしなさい」なんていうのは不健全ですし、
「自分が望む方向こそ絶対だ」と考えるのは独善的であり、共に「道徳的」ではありませんからねえ。

> 私は「法」と「道徳」をある程度分けて考えているんですよね。
> 「法」は大半の人間が合意でき、少数派を無視してでも守ることを強制しないと
> 社会が破綻してしまう物だと思っています。
> 「道徳」は必ずしもそうとは思えないんですよ。
> 大多数の人間が合意できるという理由で「適切なルール」を押しつけて良い物なんでしょうか?

う〜ん、法と道徳の違いというのは、成文化されてるか否かの違いですかねえ?
成文化されているからこそ、法の方がより厳格ですし、公権力を背景にした強制力も持ちます。
一方で道徳の方は、もっとフワッとした存在であり、それ故に逆に怖くなる事もあって、
厳格に決められていないからこそ、時に際限なく暴走したり、時に恣意的に悪用されたりします。
ですから、少数派を無視したり、過度に強要したりするのは、却って道徳由来の方かも知れません。

例えば昨今の不倫叩きブームにしても、確かに不倫は不貞行為で民法に抵触しますけど、
法的に言えば、あくまで夫婦間の問題であって、第三者は一切関係ありません。
しかし道徳的な面からも、不倫は許されない行為であるが故に、
「道徳」を正義の御旗として、第三者であっても不貞行為を非難する事が可能となり、
そして、それが集団化して暴走すると、このようなバッシング現象が生まれる訳です。
ある意味で道徳というのは、イジメやリンチを生む下地を、実は孕んでいるんです・・・・
村八分なども、客観的には不道徳な行為ですけど、それ自体が道徳から生じた排斥ですからねえ。

> たとえば、今回の道徳教育には「愛国心」も項目に入ってましたよね?
> 私は「愛国心」は大事だと思いますけど、人に強制されて抱く物では無いと思っています。
> 「日本」に対して抱くと言うよりは「故郷」などに抱くのが自然な有り様だとも思っています。
> 国の愛し方、あるいは愛するかどうかなんて百人居れば百人違う解釈があるわけで・・・。

あまり意識される事はありませんけど、基本的に郷土愛が自然発生的なのに対して、
愛国心や祖国愛というのは、実はかなり人工的なモノなんですよねえ。
近代になって誕生した「国民国家」という政治概念により、
国家の構成員たる国民を統合する為に、愛国心というモノが必要になっただけの話で、
ですから、愛国心や祖国愛が、郷土愛と同じように自然発生的に生まれるという感覚こそ、
ある意味で、近現代的な価値観の教育(洗脳?)が、うまく行えてる証拠とも言えます(笑)。

祖国愛が郷土愛の延長線で自然に生じるなら、地球愛や人類愛だって同レベルで生じるはずですが、
しかし実際には、それどころか百数十年ほど前まで、一般庶民には愛国心さえ生じませんでした。
また、「民主主義国家だから愛国心が生じる」という考え方も有りますけど、
中国みたいに非民主主義国の国民にも愛国心は有りますし、
下手をすれば、そうした国の方が却って、愛国心は高い傾向にあるかも知れません。
それに例え民主国家であっても、不利益を被る少数民族であれば、愛国心を抱かない場合もあり、
逆に植民地民であっても、高等教育を受けていれば、宗主国に愛国心を抱く場合もあります。
極端な話をすれば、もし仮に日本が中国に併合されたとして、日本人も中国国民となれば、
中国という新たな祖国に対する愛国心が、日本人にも自然発生的に生じるモノなのでしょうか?

・・・って、何だか前置きが長くなってしまいましたけど(笑)、
まあ要するに「愛国心」というのは、近代国家にとっては必要なモノであり、
それが押し付け的か、自然な感じかは置いておいて、
国家が国民に植え付けようとするのは、実は結構、当たり前の事ではあります。
そもそも国民国家(特に民主国家)というのは、徴兵制とセットでもありましたからねえ。
なので、程度の差こそあれ、どの国でも愛国教育というのは行っているように思います。
ただ、それはあくまで国家側の都合であって、個々人の都合はまた別の次元の話ですけど、
でもまあ、こちらも道徳と同じで、社会を上手く動かすルールとして用いられてる限りにおいては、
決して悪いモノとも言い切れないとは思っています(事態を悪化させる危険性も孕んではいますが)。

と言いますか、私の場合、転勤族として日本各地を転々として育った為、
多くの人たちが普通に持ってる「故郷」というモノを持ち合わせて居らず、
数多くある故郷モドキ(数年過ごした土地)を掻き集めた「日本」という存在に対して、
郷土愛の代替みたいな感じで愛国心を、恐らく普通の人よりも一段と強い抱いてますからねえ。
であればこそ、国家・国民の事を思わず、ストレス発散や金儲けの手段として、
形だけの愛国心を振り回す輩に対する不快感が、異常に強いのだと思います。

> > ちなみに、私が道徳教育の拡充で心配しているのは、社会ルールの押し付け自体よりも、
> > 社会のルールではなく、自分のルールを押し付けようとしたがる人たちの存在ですね。
> > そういう人たちの頭の中では、「自分=社会」なので、当人は両ルールの違いを自覚できず、
> > だからこそ、悪気もなく、責任感もなく、それを押し進めてしまう危険性があると・・・・
> > で、そういう人たちは勿論、まともな社会ルールなど認識できていないのは、言わずもがなです。
> > 自分と社会(時には国家)を混同している時点で、客観的な認識力など持ち合わせてるはずが無く、
> > それ故に、声高に道徳を叫ぶ利己的な人ほど、道徳的な問題を起こすという皮肉な結果に(苦笑)。

> これは私も気をつけないといけませんね。油断すると視野がどんどん狭くなっていきます。
> というか、いつも自分の言動が押しつけがましくなっていないか、客観的になっているか怖いですね。
> 特に道徳教育とかそこら辺の話になると過去の経験から感情的な面も混ざりそうになりますし。

でもまあ、自分の言動に対して疑念や心配を抱く感情がある限りは、
仮に何か問題を犯したとしても、そこまで大事になる事は少ないと思いますよ。
本当に厄介な人間というのは、自分は正しいと信じて疑わないタイプですし、
そんな自分本位な人間の言動が正しい事は、まずほとんどありません(苦笑)。
ですから、自信満々に迷惑を振り撒き続けて、それを改める機会すら持たないと・・・・

あと、ここまで語ってきて何ですけども、
道徳について語る人間としては、あまり私は向いてない気がするんですよねえ(苦笑)。
この年齢まで生きていれば、自分が変わり者である事を、さすがに自覚できてますし、
少しでも油断すると、すぐに世間の認識と乖離してしまいます。
だからこそ、こういう話題になると、自らの肌感覚というのが役に立たず、
「どうやら普通はこう感じるらしい」というデータを集めて、客観的であり続けないと、
世間と上手く合わせていく事が出来ません・・・・
それでも何とか調子を合わせられるのは、幼少期の躾(教育?洗脳?)の賜でしょうね。
まあ、ここはネットですし、しかも私自身のサイトなので、普段よりは解放してますけど(笑)、
それでも常に、浮いていないか? 迷惑じゃないか? と、気にしながら書いてはいます。
でも、そんな感じの人間が語る一般論なんて、まるで説得力など無いんじゃないですかねえ?

> 管理人殿が憂慮されているのは教える側の教師に
> そういう人間がいないかどうか、ということですかね?
> よく分かるつもりです。実際、友人にも過去の教師にもそういうタイプの方は居ました。

いや、現場で教える教師に対しては、そこまでいろいろと考えてはいないかも?
これだけ人数のいる職種であれば、一定数は困ったタイプが混ざるのも必然であり、
多くの人は、積極的であれ、消極的であれ、まずは上からの指導に従うものかと。
例えば、敗戦によって、戦時中と占領下での教育内容が一変した際も、
自らの信念で職を離れたり、自責の念に苦しむ教師も少しは居たでしょうけど、
その時々で時流に従い、粛々と職務を全うする人が大多数だったはずですし、
時流に便乗して、常に自らを勝ち組として振る舞う困った輩も、一定の割合で居たはずです。
でも、教師だって普通の人間ですから、その事をどうこうとは、あまり思いません。
だからこそ、個人的に心配するとすれば、現場の個々の教師よりも、
その教師たちに従わせる指針を作る人たちの方に、より高い関心が向いています。
財源削減なんて理由で、教師の数を減らし、不安定な非正規雇用の教師割合を増やして、
愛校心すら育めない学校環境にしておきながら、愛国心を育てようと唱えた所でねえ・・・・

ゆとり教育の失敗にしても、それを行えるだけの下地を全く整備しないまま、
単にお題目を並べただけでは、そりゃ、どうやったって上手く行くはずが無いですよね。
それをキチンと検証もしないまま、単にダメ出ししただけで終わって、方針転換では、
学校の教育が良い方向に改善されていくなんて事は、夢物語に過ぎません。
って、このまま学校教育の話題に突入すると、更に話が長くなっちゃいますが(笑)、
でもまあ、どうしても愚痴っぽくなってしまう「道徳の教科化」の話に比べれば、
「どういう教育が良いか?」という方が、まだマシな話題なのかも?
私自身が、学校の勉強がまるで合わなかった人間だからこそ、
「ああすれば、こうすれば」みたいな意見は、結構持っていたりします。
ただし、それこそ自らの肌感覚からの考えなので、本当に適当なのかは解りませんけど・・・・

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