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[21377] Re4:道徳教育返信 削除
2017/10/21 (土) 16:36:17 徳翁導誉

> お久しぶりです。
> ちょっと忙しくて・・・。

いえいえ、その辺は別に気にせずとも構いませんよ(笑)。

> > と言いますか、そもそもこうした発言自体、その当人たちが、
> > 「自分たちこそ社会の本流」という思い込みがなければ、出てこない発想なんですよね。
> > そして、それを信じて疑わないから悪気もなく、本流なので自身の責任感も伴わないと。

> 分かります・・・。
> しかし、百歩譲って自分たちが本流だって自信を持つのは良いとして、
> どうして自分たち以外の意見を聞こうとしないのか。
> 少数派の尊重って大事なことだと思いますし、

本流だからこそ、それが大多数の意見だと思っており、
大多数の意見なので、それこそが正しいと信じ込んでいれば、
少数派の意見など間違いであり、聞く必要が無いという具合でしょうね。
だって、社会的に間違ってる意見なのですから(その人の中では)。

ただまあ、この話は突き詰めていくと、別にそうした論理的な考えではなく、
ただ単に「自分は正しい。反対する人間は間違ってる」と思いたいだけの事かと?
先日も自民党の丸山議員が、「他党に投票する人は脳がおかしい」と選挙応援で発言し、
少しだけ問題になってましたけど、人気弁護士と言われる人でもそうなんです。
信仰とかも同じ構図でしょうけど、それが一番、心の休まる思考法ですし、
そう「信じる」上で、特に「根拠」などは必要ないですからねえ。

> > う〜ん、この辺は言葉の定義の話になってしまうのですが、
> > 自分自身のルールは、道徳と言うよりも、ポリシーとか信念とか言う方がしっくり来ますね。
> > もちろん、個人ごとの道徳的価値観の違いというのも、存在するとは思いますが、
> > それは、同じ社会を見たとしても、個々人で感じ方の違いがあるからですし、
> > そこの違いは、対象が同じである以上、そこまで大差あるモノにはならない気がします・・・・

> ポリシーや信念といったほうがしっくりくるというのは確かにそうですね。
> でもそういう物も根っこは個々の道徳の差が生んでいる気もするんですよね。

う〜ん、そう言われてしまうと、私がズレた人間である事を再認識させられますね(苦笑)。
恐らく、ほとんどの人にとっては、それが成り立つと思うんですよ。
個人が集まって出来るのが社会であり、社会の基準は個人の基準の最大公約数である以上、
個人と社会との価値観の間に、それほど大きな差は生まれないと。
でもこれは、大多数にとってはそうでも、少数派にはその限りじゃないんですよねえ・・・・

解りやすい例で言えば、私個人の基準だと、薬物の使用を悪い事とは感じていません。
もっと言うと、覚醒剤や大麻と、酒やタバコの間に、一体何の違いがあるかが解りません。
危険度をいうなら、酒は非常に致死率の高く、タバコもなかなか依存度が高いです。
酒やタバコに比べれば、大麻の方が人体への害が少ないですけど、なぜ大麻はダメなのか?
覚醒剤にしたって、適切に使用する限りでは有益なのに、なぜそこまで危険視されるのか?
もちろん、濫用すれば危険ですけども、それは全ての物事についても言える事です。
確かに日本の法律だと、酒やタバコは合法で、覚醒剤や大麻は違法という違いはありますが、
法律が正しさの基準であるなら、人種差別法があれば差別する事も正義となりますし、
そもそも、中東では酒が違法であったり、欧米では大麻が合法であったりする事を考えると、
そこの線引きに、普遍的な基準があるというモノでも無いはずです。
まあ結局は、多くの個人の基準がそこにあり、それが社会としての基準になったので、
更に多くの人が個人の基準もそこに至った・・・というだけの話なんだと思います。
つまり、ここで言う「そこ」とか「それ」と言うのが、まさに「道徳」の正体なんでしょうね。

> > でも一方で、常に変化する社会と、それに応じる新ルールに対して、
> > そんな大差ない個人差こそが、新たな社会ルールへの柔軟な対応を可能にしている面もあり、
> > そこの違いは大変重要ですから、「これが正解」と上から定めてしまうのは間違いでしょうね。
> > と言いますか、上からの目線で都合良く決めた社会ルールの正解が、
> > 果たして本当に、社会のルールとして最適解なのかと言えば、どうしたってズレてくるはずで、
> > しかも、ただでさえそうなのに、これを推進しようとする層の価値観が、
> > 始めからズレている(道徳心が欠けている)という、笑い話にもならない現状であると(苦笑)。

> まあ好きか嫌いかで言うと嫌いですが、
> あの界隈が完全に道徳心が欠けているとまでは言い切れないですね。

いや別に、「完全に欠けている」とまでは、一言も言っていませんよ(笑)。
と言いますか、そんな白か黒かが100%決まるなんて事は、現実だとほぼ皆無でしょうし、
そうした二元論というのは、結局の所、自己正当化にしか役立たないモノだと思います。
あと、完全に欠落と言いませんけど、独善的である時点で、決して完全では無いのも事実かと?

例えば森友学園の件とかでも、最初は愛国教育を賞賛していたのに、
都合が悪くなると切り捨てて、手のひら返しで袋叩きに変わり、
それで自らを恥じる所がまるで無いという人間に、
本当にそこまでの道徳心が備わっているのでしょうか?

> あの界隈と正反対の方針、例として挙げるなら
> 日教組とかが教育行政で主導権を握っても多分末端では振り回されることになるでしょうし。

う〜ん、ここで言う末端とは、現場の教師達の事でしょうか?
そうだとしたら、仮にそうなったとしても、あまり振り回される事は無いと思います。
そもそも論になりますけど、日教組なんていうのは、単なる教職員の労働組合です。
ですから、その他の労働組合と同じで、基本的な主張というのは、
「給料を上げろ」「労働環境を良くしろ」「雇用を守れ」の3点しかなく、
そうした方針が本当に実行された場合、果たして現場の教師は困るでしょうか?(笑)

もちろん、教師の中には困った人物もおり、その人が日教組の一員な事もあるでしょうが、
まあ数十万人もの人間が居るのですから、問題ある人物が一定数含まれる避けられません。
ただ、それはどこの組織でも同様の事ですし、日教組に問題が無い訳ではありませんが、
無関係な事まで「全て日教組の所為」と批判し、都合の良い陰謀論へと走るタイプこそ、
まさにそうした一定数いる「問題ある人物」そのものであるように、私には思えますね。

だって、日教組がもし本当に、そこまで強力な組織であれば、
予算は削られ、非正規は増え、公教育が崩壊の一途を辿る現状は起きてないはずで、
もっと言えば、教育問題に関心があると称する為政者側が、本気でそう思ってるなら、
こんな事態には陥っていないはずですからねえ・・・・
現状を把握できているなら、私立の無償化よりも、効率の建て直しこそ急務ですが、
結局の所、公教育だの日教組だのは、自らの主張にとって都合の良い道具の意味しかなく、
実物それ自体には、正直言って関心がない事の現れだとしか感じられません。
と言いますか、こうした現状を招いた政権の官房長官が、現在の首相ですからねえ。

こうした構図は現在、拉致問題や慰安婦問題でも見られるモノであり、
強硬論者にとっては、問題を悪化させるほど得になり、解決などしたら損になります。
これがまだ、自覚して敢えてやってるならまだしも、無自覚なのが本当に怖い所です。
何か大きな事件が起きた時、ネットで「こいつが犯人の親族だ」と無関係な人間を晒し、
無責任な正義感からバッシングに参加し、間違っていた事に気が付いても決して反省しない。
そんな層が世間で拡大していて、その極端な形として相模原での事件が起きた事を思うと、
ぶっちゃけた話、教育の小さな変化よりも、社会の大きな変化の方が、深刻な問題ですよね。
戦時中とかもそうでしたけど、社会の方が先に変わってしまえば、
教育の方も、後追いで大きく変えられてしまいますし。

> > もちろん、基本的には誰もが、押し付けられる事は嫌いだと思います。
> > と言いますか、教育であれ、洗脳であれ、相手に「押し付け」と感じさせた時点で失敗なんです。
> > 親が子供に「勉強しなさい!」と叱りつけた所で、却って逆効果なだけですし、
> > 上手な洗脳というのは、「自発的に行っている」と思い込ませる作業ですからねえ(笑)。
> > そして実際は、嫌だと反発するような人ほど、自発的で積極的に関わってくる為、
> > 望む方向へ誘導できる機会が多く、一度転がしてしまえば誰よりも熱狂的になったりする一方で、
> > 「へ〜」と簡単に同調する人は、他人の話など聞き流していて、意外と洗脳が困難だったりします。

> いつも思うのはそこの線引きって曖昧ですよね。
> どこからが自発的でどこからがそう思わされているのか。
> 例え最初は誘導されていたとしても、本人が自分の意思で行っていると考えている場合、
> それは誘導による行為と言えるのかどうか。
> 仮に一方的に誘導されているだけ、と断じてしまうと
> その人物の自己決定を尊重していない気がしますし・・・。

いや別に、そこは曖昧では無いように思えます。
「自発的」というのは、「自分から進んで行動する」様子の事であって、
その最初のキッカケが、誰かからの誘導だとか、何らかの影響だとかは、特に関係します。
と言いますか、他からの影響が全く何も無い行動って、実際に有り得るんですかねえ?

そして、誘導である事と、自己決定の尊重は、別に二律背反の関係では無いと思うんです。
まあ、「洗脳」という言葉を使っているから、何だか身構えてしまうのかも知れませんが、
これが例えば、「手品」だと思って、考えてみたらどうなるでしょうか?
手品では、観客の目を誤魔化す為に、非常に巧みな誘導を行いますよね。
専門用語だと、これをミスディレクション(misdirection)と言ったりするのですが、
こうしてマジシャンに誘導され、観客が選んだカードが当たったとして、
その時に、どれだけ観客が自発的に選んだからと言って、誘導では無いと言えるのでしょうか?
もし頑なにそう言い切ってしまうと、その観客は凄い超能力者になってしまうかも?(笑)

って、この段階であれば、ただの笑い話で済むでしょうけど、
これがもし、マジシャンが手品であると言わずに、「自分は超能力者」だと言ったり、
逆に観客に対して、「あなたは超能力者だ」と言い出したら、それは笑い話で済むでしょうか?
そんな事を言い出すというのは、何らかの騙す意図があっての行動でしょうし、
その事に相手が気付かず、自分の判断だと信じたとして、それで誘導は否定されるのでしょうか?
実際の社会には、マジシャンのように、自覚を持って誘導するケースだけでなく、
当人も自覚のないまま、相手を誘導するような人も居るでしょうし、
誰も誘導していないのに、自らの誤解からそうなってしまう人も居ます。
そうした事を考慮しても、自発と誘導の線引きは難しいと言うより、
自発と誘導はそもそも別のモノだと考えた方が、妥当なように思えますね。

> > 誰が決めるかと言えば、少なくとも今回話題にしている道徳の授業においては、
> > まず一次的には、現場の教師であり、教科書の制作者にあるのでしょうが、
> > 彼らは文部科学省の指導に従う立場ですから、二次的には霞ヶ関でしょうし、
> > そして霞ヶ関も、与党議員とその支援者に干渉を受けますから、最終的には為政者でしょうね。
> > 誰が決めるかの問題ではなく、そもそも公的に行われる教育とは、全てがそういうモノかと?
> > で、このスレッドで問題にしていたのは、その部分ではなく、それを前提とした上で、
> > 道徳の授業に成績を付ける事であったり、為政者の干渉が過度で偏ってる事でした。

> うーん、何となくわかってきました。
> 私が問題にしてたのは成績もそうなんですけど、それ以前の段階なんでしょうね。
> 管理人様のスタンスは為政者の干渉が適切じゃない、という事ですよね?
> 私にはそもそも道徳に関する干渉が適切かどうかも分からないんですよね。

適切の干渉と言うよりも、それこそ「個人的な信念」の部分ですよね。
「矜持」という言葉を、使っても良いかも知れません。
道徳とは社会における正義であり、矜持とは個人における正義なので、
この2つの正義が常に噛み合う訳では無いのですが、
どちらか一方の正義を重視して、もう一方の正義を軽視する姿勢というのは、
結局の所、重視している正義の方も、その程度のレベルだという事になってしまいます。

そして、人の上に立つ人間というのは、相応の責任も同時に背負っている訳で、
今回の道徳指針の話に限らず、他の多くの事柄に関しても言える事ですが、
そんな低レベルな行動をされると、下にいる多くの人間を巻き込んでしまうという事です。
と、これだけでは、何だか上から下への一方通行な感じですけど、
下から作られたうねりが、上の方を巻き込んで、それが上下にドンドン回りながら、
結果的に巨大な負のスパイラルを生むというケースも、現実には決して少なくないですね。
日本の歴史で言いますと、あの大戦に突入する経緯など、まさに典型例かも知れません。

> > まあ要するに「愛国心」というのは、近代国家にとっては必要なモノであり、
> > それが押し付け的か、自然な感じかは置いておいて、
> > 国家が国民に植え付けようとするのは、実は結構、当たり前の事ではあります。
> > そもそも国民国家(特に民主国家)というのは、徴兵制とセットでもありましたからねえ。
> > なので、程度の差こそあれ、どの国でも愛国教育というのは行っているように思います。
> > ただ、それはあくまで国家側の都合であって、個々人の都合はまた別の次元の話ですけど、
> > でもまあ、こちらも道徳と同じで、社会を上手く動かすルールとして用いられてる限りにおいては、
> > 決して悪いモノとも言い切れないとは思っています(事態を悪化させる危険性も孕んではいますが)。

> なるほど。勉強になりますね。
> 私も愛国心が悪いものと考えているわけではないです。
> ただ、国という共同体に従う理由として振りかざすのは止めてほしいですね。

う〜ん、そこがちょっと難しい所なのですが、
国であれ、何であれ、その共同体に属する事を望む以上は、
その共同体の最低限のルールは、守るべきであろうかと思うんです。
そして民主国家の場合、国民1人1人が構成員たる共同体ですから、
国家という共同体を存続させる為に、愛国心というのは必要になってくるかも知れません。

ただ、ここで言う愛国心とは、構成員たる国民の総意に基づくモノであって、
構成員の一部が一方的に決められるモノでは無いはずなんです。
ですが、個人的な意見を、国民の総意だと混同してしまうタイプだと、その区別が付かず、
総意であるはずなのに、反対する人間が多数いるという、自己矛盾に関しては、
そうした人間の存在を構成員から除外する事で、脳内では折り合いを付けてしまう訳です。
回りくどい言い方になってしまいましたが、例えば戦時中の事を例に取れば、
身勝手で私益な言動であっても、「御国の為」「天皇陛下の命令」と正当化して、
それを批判する人間に対しては、「非国民」とレッテルを貼って解決させるような事ですね。

で、結局は何を言いたいかというと、愛国心とは根本的に振りかざされるモノなんです。
逆の言えば、その共同体を構成する為に振りかざされるのが、愛国心とでも言いましょうか?
ですから、問題なのは愛国心を振りかざす事ではなく、
振りかざされる愛国心の中身の方だと言う事ですね。
要するに、国家・国民の為に振りかざされるのが愛国心であって、
自己利益の為に振りかざされるのは、その当人がどう思おうが、愛国心では無いのですから。

> > ゆとり教育の失敗にしても、それを行えるだけの下地を全く整備しないまま、
> > 単にお題目を並べただけでは、そりゃ、どうやったって上手く行くはずが無いですよね。
> > それをキチンと検証もしないまま、単にダメ出ししただけで終わって、方針転換では、
> > 学校の教育が良い方向に改善されていくなんて事は、夢物語に過ぎません。

> 前に教育の経済学という本を読んだのですが、管理人殿の考えと近いことが書いてありました。
> というのも日本の教育には客観的なデータが殆ど反映されていないとか。
> そして、日本では欧米のような統計を基にした実践的な経験が殆どされていないらしいです。
> ちょっとうろ覚えなので、詳しいことは思い出せないですけど・・・。

以前、テレビをつけたら、たまたま放送大学にチャンネルが合っており、
その時に「統計から見る学級崩壊のメカニズム」みたいな内容をやっていて、
つい、そのまま最後まで見てしまった事があるのですが、なかなか興味深い内容でしたね(笑)。
結果は同じ崩壊でも、締め付けの反動が招く古いタイプの崩壊と、
自由のタガが外れる新しいタイプの崩壊が、それぞれある事を知れました。

ただ、それが実際に現場で活かされているかとなると、やはりなかなか難しいみたいで、
当事者である教師へ個々に対応しても、日本の学校教育では縦も横も連携が乏しい為に、
どうしても全体の変革には繋がらず、効果の方はあまり現れていないそうです。
で、予算の削減と、教師の非正規化を、今の調子で続けていけば、
縦や横の連携だなんて、良くなる所か、これから更に悪くなる方向しか思い描けませんでした。

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