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[22216] Re5:雑談返信 削除
2019/3/14 (木) 20:14:39 徳翁導誉

> > う〜ん、非難と批判は、深い部分で大きく違いますけど、
> > 批判と疑問は方向性的に、そこまで違わないんじゃないですかねえ?
> > 批判というのは、あくまで、「より良くする」過程の為に指摘するのであって、

> これは衝撃を受けました。
> 批判も責める目的のものだと思っていました。
> (非難が人物への責めだとすると批判は出来事への責めという違い程度の認識でした)
> となると、一般的には批判される事で改善しようという意欲が湧くということなのでしょうか。
> 自分はそうではないのですが…。

批判されて、改善の意欲が湧くと言うよりも、
改善の意欲があるから、批判がプラスになるという感じでしょうか?
この辺りは、理系やモノ作りをする人間のマインドだと思います。
批判をマイナスに捉え、感情的に心が傷付くよりも、
作品の完成度が上がる方が、心の満足度が高いって所ですかねえ。
ただし、そういった人種は世間的にいうと少数派ですし、
一般的には、前者のように、批判を嫌がる人の方が多いと思いますよ。

> 「何を言うかではなくどう言うか」だと教わって、
> それを心掛けてきた(そうしていると見られてはいないのかもしれませんが)ので、
> わざわざ攻撃要素のある言い方をしているように聞こえるのはこちらは違和感を感じているのです。

「何を言うかではなくどう言うか」だというのは、まさにその通りですよ。
もちろん、伝えたい中身の情報が最も重要であっても、
コーティングされた外側の感じで、印象は大きく変わるモノですから。
また同じく、どんなタイミングで言うかとか、誰が言うかとかも重要ですね。
そういう意味では、発達障害に関して専門家でも無い私が、
ここまで語って良いものか?と、思わなくも無いんですけど(苦笑)。

ただ、今回のケースに限って言うと、私の方からすれば、
攻撃的な書き方をしたつもりが、まるで無いんですよねえ・・・・
個人的には、批判ですらなく指摘レベルでしたし、
それも、意見を求められての返信という部分があったので。
もちろん、理系の流儀で書いてしまったのは、私側の落ち度なのかも知れず、
普通の話題であったり、事前に理系だと知らなければ、また違ったでしょうけど、
その一方で、発達障害の方に多い「白黒思考」も、今回は影響しているのかも?
白か黒かの2極で物事を捉えてしまい、中間にあるグレーゾーンが苦手なあまり、
「肯定されなかった=否定された」と感じてしまったのでは無いでしょうか?

> あと、話の流れ的に学問的な意味合いを持ってしまっていたのでしょうけど、
> 実際グラフを書いたりしていた時はそういうつもりでやっていた訳でもなかったですし、
> その立ち位置や熱量などが意図した伝わり方ではなかったのかなと今は思ったりしています。

いやいや、一応は伝わってましたけど、
そのままでは、会話の話題としては成り立たなかったので、
キャッチボールが出来るよう、学問的な流れに持っていった感じでした。


> > いや、私は関西人じゃありませんよ(笑)。
> > 私は転勤族として、3〜4年ごとに日本各地を転々として育ったので、
> > 特定の故郷を持っていないタイプの人間ですね。
> > 強いて言えば、関東で生まれ、東海で育ち、関西で学び、
> > いま現在は、関東で暮らしている人間って所でしょうか?
> > なので、関西人要素も1〜2割くらいは持ち合わせてますね(笑)。

> そうでしたか、勘違いすみません。
> 1〜2割くらいとの関西人要素を感じてしまうのは、
> 苦手意識が先行しているからなのでしょうかね。

どの辺りを「関西人っぽい」と感じるのか、
逆に、知りたいですけどね(笑)。

> 逆に東海要素を感じたかというとそうではないですし。
> (東海に多くのイメージを持っている訳ではないですが)

子供時代を岐阜・愛知・静岡で過ごしてるので、
最も濃いのは、この東海人要素だと思いますけどね。
私が中日ファンで、赤味噌を好むのも、名古屋時代の影響ですし。

> > 東北人が、関西人を苦手に・・・と言いますか、
> > 厳密には、関西弁を苦手にしている事は知っています(笑)。

> うーん、そうなのですかね…。
> あまり表立って苦手と言うのも憚られますので
> 多くを書けませんが、自分の認識とは違うようです。

そう言われると、却って気になります・・・・
別に地域ネタは、特定の個人を中傷する話題でも無いですし、
無理強いはしませんけど、そこまで気にする必要も無いと思いますよ?

> > この辺の各地方の意識は、日本地図上に図示してみると、意外に面白いかも?
> そういうノリでやるものではないのではと思います。
> お互い良い思いをしないでしょうし。

でも今現在、ドラえもんの次にヒットしている映画が、
これ↓ですからねえ(苦笑)。
「翔んで埼玉」
https://www.youtube.com/watch?v=e9oqSli4S8g

クレームではなく、ヒットという形で結果が現れているのは、
地域ネタというのは、時に差別的なイジリになる反面、
そこに愛情があれば、地元民にとって鉄板の「あるあるネタ」になり、
地元愛が強いほど、より楽しめる側面もあったりするんです。
その地域への関心が薄いと、「あるある」と共感するのが難しいですし。
でもまあ確かに、どこまでがセーフで、どこからがアウトか、
感覚的にちょっと、読み取りにくい所はあるかも知れませんけどね。


> > 実際、歴史上の英雄と呼ばれる人たちを見ても、
> > 恐らくは発達障害だったのだろうな、という人物は多いですから!!
> > 他人を気にせず、我が道を進む・・・と言うか、その方法しか知らない発達障害者が、
> > たまたま進んでいった方向に、新しい時代が待っていたとすると、
> > その人は時代の開拓者として「英雄」と呼ばれ、皆が彼の後ろを付いて行く訳です。

> 後世になっても後ろ指を指される訳ですから、結局は人柱ですよね…?

う〜ん、何だかイメージがネガティブ過ぎません?
「英雄」と呼ばれるくらいになれば、後ろ指を指される所か、
多くの人から崇め奉られる感じだと思いますよ。
「建国の父」と称される人たちも、そうしたタイプは多いですし。

> あと、他の発達障害の方のことまでは分かりませんが、自分は他人を気にしています。
> 他人に欲されない人生には意味が無いと思っていますし、頼られたいという思いがあるので。

「他人を気にせず、我が道を進む」というのは、
大多数の一般人(健常者)から見ると、そのように映るという話ですよ。
英雄自身(発達障害者)は、気にせず進むのではなく、気付かず進むのだと思うので。

> > 逆説的に言えば、人類とか、民族とか、大きな単位で人間の集団を見た場合、
> > 行き詰まった有事の際に、集団として大きな方向転換を行えるよう、
> > 発達障害と言われる人たちが、一定の割合で生まれるようになっているのかも知れません。
> > 単に障害でしかないのなら、自然淘汰されて消えていても、おかしくないですからねえ。

> そういうことを友人と話したことはありますね。
> ただ…今がそうではないからと言ってこれからもそうだとは限らないと思います。
> 自然淘汰の途中だとしてもおかしくないということですね…。

いや〜、自然淘汰の結果として、この割合に落ち着いたのだと、私は考えますけどねえ。
気候変動などのピンチは、いかなる時代でも起こり得るモノですし、
そこを乗り越えるシステムを集団として持ち合わせていないと、
長い時間における存続は困難ですから。

ただ一方で、これからの世界は、遺伝子を弄れる時代に入ってくるので、
自然淘汰ではなく、「人為淘汰」によって、数を減らしていく可能性はあるかも知れません。
例えば、遺伝病の有無を調べる出生前診断が、障害者への差別を助長すると非難されても、
現実として、健常者の方が生活しやすい実状がある以上、今後は増えて行くでしょうし、
遺伝子治療で障害が無くせるとなれば、その方向に流れるのは必然でしょうからねえ。
個々の行動は基本的に、集団の都合などより、個人の幸福が優先されるモノなので。
しかし、品種改良により多様性を失い、一元化された植物が、
一度の病気の流行によって全滅してしまう事も、現実として見られる話であり、
人類もこのルートに乗ってしまうと、ピンチの際にどうなるかは未知数ではあります。

あと、話は少し脱線しますけども、
障害というのは、各個人が固有に持っているモノではなく、
置かれる社会の環境や条件によって生じるモノだ、という考え方もありますね。
例えば、眼鏡や補聴器がある事で、何不自由なく暮らしてる人たちも、
そうした器具が存在しない時代や地域に行けば、普通に障害者でしょうし、
逆に、一般的に障害者とされる人たちも、その社会から障害が無くなれば、
不自由を感じなくなり、障害者とは見なされなくなるでしょうからねえ。

また、健常者は強者で、障害者は弱者という一般的な見方も、
環境や条件次第では、一変してしまう事だって実はあるんです。
例えば、目の見えない全盲者の手を、健常者が引くのは、当然の構図に見えますけど、
いったん暗闇になれば、却って健常者の方が、全盲者に手を引かれる存在になります。
(それを体験するダイアログ・イン・ザ・ダークという活動もありますね)

言うなれば、「障害」というのは、「色」に近いモノなのかも知れません。
全ての物体には固有の色など無く、その物体に反射した光を脳が識別しているだけで、
光の当たり方や、見ている人の識別に応じて、色が違って見えるように、
障害というのも、その人に固有しているのではなく、それぞれの環境や条件次第だと。

> > ちなみに、発達障害だと方言が話せない(標準語しか使えない)タイプも、
> > 中にはあると聞きますけど、官さん自身はどうですか?

> 方言でも話せますよ。方言で話す方以外には方言で話さないですけどね。
> > でもまあ、「ピンチの時の為に、自分たちみたいな人間がいる」と思えれば、
> > 気持ちの面で、意外と楽になれる人もいるかも知れませんね。

> そう思うことにします。
> そういえば、大震災の後に発達障害の知人と話したのですが、
> 「自分たちは何ができるかを考えていたけど、
>  周りは何ができないかを考えて手を付けられないでいた人が多かったと思う」
> という話をしたことがあります。
> 多くの健常者よりピンチの時への耐性は少しあるのかもしれません。
> > ただ、同じ傷付くとは言っても、発達障害の方は他人の感情を読み取るのが苦手なので、
> > 怒られてる人の感情に共振して、自分も心が苦しくなると言うよりは、
> > 他人が怒られる姿を見て、自分が怒られた時のトラウマが蘇ってしまい、
> > その事で心が苦しくなるというケースが、実際には多いようです。

> んー、前半は自分には当てはまっていないような気がします。
> 怒られてる人を見る時、怒られる程のことに対してではないと思った場合ですが、
> 感情移入して苦しくなります(同時に、物理的に頭を殴られたような感覚が起きます)。
> 対して、怒られることが妥当だと思った場合には感じないのですけどね。

一言に「発達障害」といっても、それこそタイプは様々なのですが、
この辺りの返信から、官さんのタイプが、何となく見えて来つつある気がします。

> > しばしば、他者への「共感性に欠ける」と言われる発達障害ですけど、
> > 発達障害の人同士であれば、普通に共感し合えるパターンも多いと聞きますし、

> ああ、他にもそういうことがあるのですね。
> 自分も発達障害の友人がいますが(前出の「知人」とは別)、
> コミュニケーションに問題が起こったことは無いと思っています。
> こちらの気遣いが通じるのですよね。
> 20年来の付き合いになりますが衝突したことは一度もありません。

話は変わりますけど、20年来の付き合いがある友人が居るというのは、
転勤族として育った私から見ると、羨ましい限りですね(笑)。
3〜4年間隔で各地を移り住んでいると、
小学生の私を知っている人は、中学生の私を知りませんし、
中学生の私を知っている人は、高校生の私を知りませんからねえ。

> 考えたのですが、健常者との間ではお互い気遣いが通じないようなので、
> それがこじれる原因なのでしょう。
> こちらとしては、自分は倫理的な行動をしているつもりですから
> (健常者からはそう見えないようですが)、
> 自分から見て倫理的な行動をしていないように見える方から何か言われると
> 反発するというのはあると思います。
> しかし、お互いそう見えるということなのでしょうかね。

はい。
健常者と発達障害者の関係性は、
そういう事だと、私は理解してますね。
お互いに、異なるルールで生きているだけだと。

例えば、東北人には東北特有のルールがあり、関西人には関西特有のルールがあったとして、
その中で暮らしている限り、同じ東北人や関西人同士ならルールの違いがありませんし、
双方のルールの違いを意識する事も、普段は特にありません。
ですが、東北人が関西に、関西人が東北に引っ越してきて、そこでルールの違いが生じた際、
「まあ、育ってきた環境が違うからな」と思えれば、関係が拗れたりはしないのですが、
「同じ日本人なのに」という具合になると、「おかしなヤツだ」と映っちゃう訳ですよね。

で、そこで重要になってくる考え方が、「郷に入っては郷に従え」なんだと思います。
健常者ムラには、健常者ムラのルールが存在して、
発達障害者ムラには、発達障害者ムラのルールが存在するとして、
他郷に居るなら、そちらのルールに従う方が、無駄な衝突を回避できると。
健常者ムラというのは、多数派だから人が集まり、人が集まるから多数派なのですが、
その集まる過程で、個々人も大なり小なり、集団のルールに合わせていくモノなので、
集団生活を基本とする人間社会において、そうした合わせる行為を「発達」と捉えると、
それが出来なければ、「発達障害」と見なされてしまう訳ですね。
そして、ルールを合わせた大多数の人たち(健常者)からすると、
自分自身が出来てしまうと、それを出来ない人の事が理解しにくい為、
「できない」のではなく、「やらない」と見えてしまい、「身勝手だ」と思われると。

> 思ったのですが、「叱られて伸びる・褒められて伸びる」で言えば、
> 徳翁導誉さんは「叱られて伸びる」の方なのでしょうね。
> 自分は「褒められて伸びる」だと思うのですが、相手もそうだと思っていたのかもしれません。

う〜ん、傍から見ると、そのように映るかも知れませんけど、
厳密に言うなら、多分どちらでも無いでしょうね(笑)。
そもそも私の考えだと、「伸びる」というのは自発的であって、受動的ではあり得ず、
感情的なプラス・マイナスは別に良いから、まずは情報を欲しいというのが、
基本的なスタンスとしてありますからねえ・・・・
なので、叱られようが、褒められようが、大事なのは情報の中身ですし、
感情面を分けてみているから、怒る・叱る・諭すなどの違いも、客観的に見て取れるのかも?
好き嫌いも、良い悪いも、評価するしないも、理解するしないも、合う合わないも、
私にとっては全て異なる概念ですけど、普通はなかなか分けて捉えられないのは知っています。

あと、「褒められて伸びるタイプ」と「叱られて伸びるタイプ」というのも、
基本的には、「獲得欲求」と「回避欲求」の違いなんでしょうね。
褒められて伸びるのは、その事で心の満足感や達成感という報酬を得られるから頑張れ、
叱られて伸びるのは、また叱られる恐怖心から逃れたいから頑張ると。
で、この2つのパターンの場合、褒めよりもデメリットって少ないんですけど、
叱る事でのデメリットはかなり多いので、結局は叱るより褒める方が無難なんだと思います。
叱られる事で、反骨心から伸びるタイプなんていうのは、実際には極少数でしょうし、
また現実には、「叱る」のではなく「怒る」人の方が大多数でしょうからねえ・・・・
もちろん、一定レベルまで引き上げる目的なら、どちらも有効な手段でしょうけど、
褒められて動くとか、叱られて動くとか、そうした範囲の内は、
「伸びる」と言っても高が知れてると、個人的には思っています。

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