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[24101] 旧トルコ担当さんへの返信(その1)返信 削除
2022/12/21 (水) 19:39:40 徳翁導誉

さすがにスレッドが長くなり過ぎたので、
返信まで間が空いた今回を機に、新スレッドに移行しますね。
ちなみに、元スレッドは こちら↓
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r23688


> > > > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > > > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > > > 事前に御了承下さい。

> > 日本代表の戦いは終わりましたが、
> > W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
> > 申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。

> いえいえ、気になさらず。

1ヶ月に及んだW杯も終わり、返信の方も再開(笑)。
とは言え、これは日程上、事前に解っていた事ではあるものの、
大会が終わったら、既に今年も2週間を切っており、
いろいろ積み残した仕事が溜まっていて、非常にバタバタしていますが(苦笑)。

> よくこんな好き勝手書いている文章に返信していただいてありがたいです。
まあ、そこは私の方も、ある程度 好き勝手に書いてますからね(笑)。
あまり得意なテーマでは無いと、思い付くまま纏まりを欠く長文を書いてる部分もありますし。

> 文章にすることで自分の中でふわっと感じていたことが整理される、
> だから書いているという独り言みたいな側面もあるので。

それって、やはり重要ですよね!!
頭の中だけにある時よりも、考えが整理されたり、
書いてる途中で、新たな気付きや疑問なども生じたりしますので。


> > > 1調べて「なるほど」と満足するのがダメで、
> > > 10調べて「分かった」と感じるのがダメで、
> > > 100調べても詳しい人を名乗ってもだめなら、
> > > どれだけ調べれば私は気持ち良くなっていいんですかね?

> > 何事でも そうですが、真面目に学ぼうとした場合、
> > 新しい事を1つ知ると、解らない事が2つも3つも新たに出てくるモノですし、
> > 学びを繰り返していけば、ネズミ算的に、解らない事が膨大に増えていくモノですから、
> > そういう意味では、学びというのは、非常に理不尽な世界です(笑)。
> > でも、そうやって「解らない事」の数が増えていくというのが、実はとても重要なんですよ!!
> > 洋の東西を問わず、孔子もソクラテスも言及している、「無知の知」ってヤツですね。

> あとまあ、私の場合は学問としての歴史が好きなのではなく、
> ある種のSFとしての歴史が好きなんだというのに気づいてしまったというのもあるんですよね。
> 例えば優生学とか(支持しているとかではなく)あのエセ科学で当時の時代の雰囲気が感じられるのがめちゃくちゃ好きですし、
> 高校生くらいのころは歴史学"崇拝"があって、もっと歴史のまじめな本読んで自分も勉強しなくちゃいけないと思っていましたが、
> 今は好きなように適当に歴史をかじって、結果としてある程度間違った歴史認識だったとしても、
> 自分が面白ければそれでいいや、と思うようになりましたね。
> 私はオタクであって知識人ではないので。

前回の繰り返しになっちゃいますけど、
それを自覚できているのであれば、そのままで問題ない気もしますけどね?

例えば、戦後昭和の頃なんて、歴史小説や歴史ドラマの人気が今より遥かに高く、
「歴史好き」を自認する人は、それこそ大勢いましたけど、
でもそれは「学問的な歴史」ではなく、やはり「娯楽的な歴史」でしたからねえ。
ただ、そうした状況を、苦々しく見ていた歴史学者もかなり居た一方で、
一般の歴史ファンも、小難しくて解り難い歴史学者の見解より、
面白くて解りやすい歴史小説家の見解の方を、ありがたがる風潮はあったかな?

そもそも、双方が用いる「歴史」という単語が、それぞれ別物であるという事を、
解っている人も当然いましたが、解っていない(自覚できていない)人も多かったですね。
ですけど、当時は それでも、あまり大きな問題は無かったんですよね。
「学問的な歴史」と「娯楽的な歴史」とが交わる機会なんて、ほとんどありませんでしたので。
(まあ、自称・郷土史家のレベルだと、学術的な人とエンタメ的な人が混在していましたが)
もっと言うなら、歴史好きな一般人の声なんて、誰にも届かないので、影響力など皆無であり、
専門家の声も、基本的には、狭い学問の世界の中でしか響きませんでしたから。

しかし今の時代は、ネットの普及によって、誰でも気軽に発信を行えるようになり、
一般人(非専門家)の声の影響力が、場合によっては、途轍もなく大きくなったんですよね。
その一方で、専門家の声も、その気になれば容易に触れられる環境にはなったものの、
そこまで行う人の数は限定的なので、双方が交わった上に、バランスも大きく崩れた感じかな?
実際に書店の棚を見ると、以前なら学術系とエンタメ系の置き場は、別々であったのに、
境界線が曖昧となる事で、それらの棲み分けも済し崩しとなり、
今は書店も経営的に苦しい時代なので、売れるエンタメ系が、学術系を追いやってる現状です。
でもリアル書店は、棚に並ぶ本を一瞥で見比べられるから、まだマシなんですよ。
これがネット書店となると、1度に見比べられるタイトルは数冊程度な上、
しかもAIが売れ筋のエンタメ系を推してくる為、昔よりも遥かに娯楽的な方向へ誘導されやすいと。

そういう意味では、そんな今の時代だからこそ、「自覚」は非常に重要なんですよね!!
逆に言うと、それを自覚できていないと、自身がトラブルの発生源にも なりかねないので。

> 私の周囲には管理人さんのような知識人系の人が多いのですが、それに流されて本当に自分が好きなものを見失うのって、
> オタクを自称する私が一番上から目線に見下してる、流行に流されて自分が好きなものを追わない一般人と同じですからね。

私は知識人系の人間・・・なのかなぁ?(笑)
私の根幹をなすのは「スポーツ・科学・歴史・アート」という、4本の柱であり、
科学は理系の面で、歴史は文系の面で、それぞれ知識人的と言えるのかも知れませんけど、
その一方で、旧トルコ担当さんから見た「私」の認識には、
スポーツに由来する、精神論も重視する体育会系な私の側面や、
アートに由来する、一般常識から逸脱する感情的な私の側面が、
どうも、抜け落ちているような印象は受けるんですよね。

では何故、そのような認識像で捉えていのるのか?となると、
恐らくは旧トルコ担当さん自身が、スポーツやアートに対する関心が薄いからでしょうし、
逆に言うと、科学や歴史に付随する、私なりの社会や文化の見方に対して、
旧トルコ担当さんは興味を抱き、そのあたりを重点的に反応を示すのだと思うんです。
要するに「流される」というのも、その前提に「好き」があるからであり、
好きで無ければ(関心が乏しければ)、そもそも流される事も少ない気がします。

そういう意味では、「好きに流される」のも、1つの在り方ではあるんじゃないですか?(笑)
「流行に流される一般人」というのも、その時々で生じた「楽しい」に、
多くの人が「集まる」から、「流れ」が生まれるのであって、
それはそれで、自分が「好き」なモノを追っている姿であると言えるんです。
別に何も、他に共感する人が少ないモノを追う事だけが、個人の「好き」じゃ無いですし、
大勢が「好き」と感じるモノを、その人が「好き」と感じるのは、特に不思議な話では無いと。
マニアの世界とは ある意味、珍味を追い求めるようなモノで、それが正しい訳でも無く、
ファミレスやコンビニで「おいしい」と満足できるのであれば、それはそれで間違いじゃないはずです。

今回のカタールW杯にしても、試合前には胃が痛み、勝利の後も「まだ次があるぞ!」と喜び切れない、
何年間も代表チームを追い続けるサッカー・ファンに比べれば、
4年に1度、パッと盛り上がる一般人の「楽しい」の方が、ずっとコスパが良いですよ(笑)。
「好き」という感情は深まれば深まるほど、「苦しさ」も増していくモノですし、
それが報われる「喜び」の絶頂は、その分だけ高くなっても、
好きであるほど その瞬間は一瞬であり、しかも必ず報われるとは限りませんからねえ。
・・・って、そんな大層な事を言っていても、
多くのサッカー・ファンも、早々に夢破れたサッカー少年の成れの果てな訳で、
実際にプレーする選手に比べれば、単なるファンの喜びや苦しさも、一般人のそれと大差無いかと?

そう考えれば、インスタントでコスパの良い「楽しい」を、好む人が多いのは当然で、
そんな「楽しい」に多くの人が集まれば、流れが生まれるのも当たり前の事だとも言えます。
もっと言えば、多くの人が好むモノから、少数の人しか好まないモノまで、
どちらか一方ではなく、両方とも楽しめれば、それだけ「楽しさの幅」は広がる訳ですから、
変に頑なになって自らの幅を狭めるよりも、そちらの方が良さそうな気はしますけどね。

また、知識人系の意見に流されるのは、そこに「知識に対する憧れ」があるからでしょうし、
その憧れに対して、自分は「どう対応するのか?」というだけの話な感じもします。
例えば、雄大な富士山を見て「凄いな!」と思ったとして、
その姿を見るだけで満足なのか? 実際に自分の足で登ってみるのか?
いつか登りたいで終わるのか? はたまた、実際に挑むも途中で挫折するのか?
そもそも、富士山を見ても何も感じず、ただの風景として見過ごしてしまうのか?
どれが良いとか、何が正解とか、そういう話では無いですけど、
「登りたい」と感じたなら、「登らない理由」を探すより、とりあえず「登ってみる」のが最適かと。
そして、それは山頂に至らなくても、別の目的や楽しさだって在る事でしょう。

ですから、学問としての歴史ではなく、SFとしての歴史が好きなのであれば、それはそれで良いですし、
「好きだから突き詰めなきゃいけない」というモノでは、必ずしも無いですからねえ。
ただし、「突き詰めたい」という思ったなら、ただ思うだけよりも、実際に動く方が世界も広がり、
でも、それが苦し過ぎるなら、「突き詰めなきゃいけない」モノでは無い以上、途中で止めても構わないと。
逆に言うと、止めたいけど止められないの行き着く結果が、「突き詰める」じゃないですかねえ?

> ちなみに、私の好きなコンテンツに「ドナウ連邦建国史」というのがあるのですが、管理人さんはご存知でしょうか?
> 第一次世界大戦でドイツが勝った世界線の架空史なのですが、筆者の豊富な歴史知識による作りこみが凄くておススメです。

いや、知りませんでした。
オススメ情報、ありがとうございます。


> > > まあ、学問自体に期待していないので、私が多少科学的じゃなくても、
> > > どうせ学者だって似たり寄ったりだろ、みたいなことも"極論"思うようになりました。
> > > 反知性主義といわれるかもしれませんが、そのくらいの距離感が社会科学に対する丁度よい距離感なのかな、と。

> > 学問とか、科学とかは、解らない事は普通に「解らない」と言いますし、
> > 真摯な態度で語るなら、それこそ「解らない事だらけ」なので(笑)、
> > 具体的な処方箋を呈示してくれるみたいな期待は、当然ながら応えられないかな?(苦笑)
> > 例えば、地球温暖化の話にしたって、科学的・学術的に語るのであれば、
> > 地球が本当に温暖化しているかも解らなければ、人間の出す二酸化炭素の所為かも解りません。

> 何となく聞いたことはありましたが、やはり地球温暖化は怪しいんですね。

「怪しい」ではなく、「解らない」ですね(笑)。
怪しいと言ってしまうと、今度はトランプ支持者みたいなタイプに利用されますし、
それだったら、まだ環境保護派の方がマシです(名画にペンキを掛けるとかは論外ですが)。

ちなみに、二酸化炭素に温室効果があるのは事実ですし、二酸化炭素が増えれば気温も上昇します。
ただ一方で、気温が上昇すれば二酸化炭素が増えるモノでもあるので、
どちらが卵で、どちらが鶏かは、正直な所 解りません。
また、人類が排出する二酸化炭素で、大なり小なり気温が上昇する事もありそうですが、
それが果たして、大なのか?小なのか?は、解らないと言うのが実際なんだと思います。

それに、温暖化の傾向が、今後もずっと続くかも、不透明ではあるんですよね。
例えば1940〜70年代なんて、逆に地球の「寒冷化」が不安視されてましたし、
00年代以降は、温暖化が「停滞」しているという事実もあるんですよね。
地球の気温は、太陽活動や火山噴火などの影響も大きいですし、
縄文時代や平安時代は、今よりも海水面が高かったですが、人類は二酸化炭素を排出していません。

しかし、ならば温暖化は起こっていないか?
人類の二酸化炭素排出が温暖化に影響しないか?となると、「解らない」というのが現実かと。
フロンガス排出によるオゾンホールの出現のような例も、実際にある訳ですし、
とは言え、二酸化炭素はフロンガスと違い、あまりに一般的に存在するモノなので、
要素が複雑に絡まりすぎてて、本当によく解らないんです。

ですから、「可能性があるなら、念の為に対応しておこう」というのは、正しいと思うんですよ。
ただ、多くの人というのは、そんなフワフワした理由では、やはり厳しく動けないと思うんですよね。
言ってしまえば、「解りやすい正しさ」に飛び付いて、自分を「絶対的な正義」の立場に置きたい訳です。
そうなれば、「温暖化はある」「温暖化はない」という、断言されてる方が居心地が良いですし、
その居心地の良さに満足してしまうと、今度は「ある/ない」は大前提となって、手段と目的が逆転し、
そして最後は、「ある/ない」自体には興味を失い、自らの「正義の行動」に利益や快感を求めるようになると。
排出権取引だとか、過激な環境保護活動だとか、はたまた懐疑派のQアノン的な振る舞いだとかは、
結局の所、「地球環境を出来るだけ良くしよう」ではなく、利己主義者の成れの果てといった印象ですかね?
「レジ袋の有料化」も、手段が目的化しているというか、なぜ行うかが解り難くなってきてますし。

> 就活でカーボンニュートラルが〜とか散々聞いているので、
> あれが全部非科学的と言われれば、薄々感じていたこととはいえ、頭がバグりそうw

化石燃料だって、もとを正せば太古の植物だったりする訳で、
長いサイクルとして見るなら、あれはあれで「炭素循環」ではあるんですけどね(笑)。
バイオ燃料との違いなど、時間的な違いでしか無かったりしますし、
人為的な肥料を用いた場合、「それは本当にエコなのか?」という疑問も生じます。
また、本当に二酸化炭素で温暖化が起きていて、酷い被害があるのなら、
化学的な方法で「炭素固定」を行う選択肢もあるのでしょうけど、
どうも、生物的に行われる炭素固定はアリでも、化学的に行う炭素固定はナシな風潮なんですよね。
まあ、実態は「宗教の教義」に近いと捉えれば、あながち間違いでも無いのでしょうけど。

科学は厳密さを重視するので、基本的に「断言」は行いません。
逆に言うと、根拠が曖昧であるのに、結論が断言調になるほど、宗教的な色合いが強まるかな?
ただ、「あれが全部非科学的」だとは、別に言ってないんですよ。
科学的に「可能性がある」という話を、政治的に断言されて用いられるから、
その断言を否定するだけで、可能性自体を否定するモノでは一切ありません。
と言いますか、白か?黒か?の二元論では無い為、
そういう反応をされるのも怖いので、あまり外では発言されない向きもあるかと。
昨今の社会は、ネットの普及に、インスタントな結論を求める風潮が相俟って、
安易に陰謀論が広まる下地が、世界的に醸成されてきてますからねえ・・・・
トランプ支持者も、グレタ支持者も、掲げる旗が異なるだけで、私には同類に映りますし。

> 割と人体とかに近いのかな?人体の中でも様々な体の機能や反応が起きているはずで、
> おそらくその大部分は現代医学でも未解明なんでしょうね。

人体や脳は・・・どうなんですかね!?
もちろん、現時点においては、「まるで解らない」という所でしょうけど、
ヒトゲノムの解読自体は、既に終わっていたりしますし、
そう遠くない未来、量子コンピューターによるゲノム解析とかが進んでいくと、
プログラム的に自体を理解できたり、更には思うように改変したりが、可能となりそうな気もします。

言うなれば、「不確定要素の数の違い」かも知れませんね。
人体や脳の場合、未解明の要素が膨大でも、そこさえ逆にクリアー出来たなら、
あとは計算量の問題で、そのうち何とかなりそうな気もしますので。
って、かなり個人的な願望も混じった見解かも知れませんが(笑)。


> > > 若者は褒められたくないというのが私の私見です。
> > > もちろんSNSなどの承認欲求というのもありますが、身近な人か好かれたい・嫌われたくないというのが若者の関心事項であり、
> > > 大学の教授に褒められるというのは、苦痛でしかないと思います。
> > > また、仮に相手が身近な人であったとしても、褒められたいというよりも、
> > > その欲求というのはもっと消極的に存在を認めてほしい、程度であって
> > > 褒められたい、というのはやはりパワフルさというか、意識の高さみたいなものを感じます。

> > う〜ん、これに関しては、
> > 「認める」という言葉の意味の誤用というか、解釈の拡大や意味の変容が起きている気がするんですよね。
> > 個人的には、「認める」の方が重く、「褒める」の方がライトなので、「認める>褒める」という感じですが、
> > ここ数年の用法だと、「褒める>認める」みたいな用い方も目立ち始めてきた印象があります。
> > まあ、「消極的に存在を認めてほしい」というのも解りますが、それはあまりにネガティブというか、
> > 逆に言えば、だからこそ、ポジティブ方向への意味や適用の拡大が、近年起きている気がするんです。
> > 要するに、「褒める」に替わる別の用語として、「認める」を引っ張り出してきた感じに近いのかな?

> これは私の場合を基にした仮説なので(今までも大半そうですが)、説得力がないかもですが、
> 「周囲の評価を気にする」世代というより、自己否定が非常に強い世代という方が正しいと思うんですよね。
> 周囲の評価が気になるというのは、自分では自分を絶対に認められないから、
> せめてもの渇きをいやすために、周囲にすがっているというか。
> 俺ガイルにしても、管理人さんの目にはどのように主人公が周囲の目を気にしているように見えるのかは分かりませんが、
> 周囲の視線が気になるというより、自分はこれでいいのかという、恐怖心があると思うんですよね。
> だからこそ主人公は自分好きですし、逆に言えばそのくらい自分好きじゃないと、
> 心のバランスが取れず、メンヘラみたくなってしまうんですよ。

う〜ん、何と言えば伝わりますかねえ・・・・
自分では自分を認められないから、周囲の評価を気にするというのも、解ってはいるんですよ。
自己肯定感が低い世代だというのも、きっと事実なのでしょう。
そうした諸々を踏まえた上で、私が感じるのは、
「今の若い世代って、本当に自分の事が好きだよな」という事なんです。
と言いますか、「その自覚はあるんだ」というのが、今回の発見ですかね?

もう少し解りやすく説明すると、日本人の国民性を考えれば、
自己肯定感なんてモノは、今だけに限らず、昔から低い傾向があるんですよ(笑)。
ですから、他の世代と比べもせずに、「非常に強い」と感じるのは、独りよがりな気もしますし、
以前にも言いましたけど、基準となる そもそものベースが異なると思うんです。
一昔前までの感覚だと、「自己肯定感が低い=自分が嫌い」はデフォだったんですよ。
それこそ、俺ガイルの主人公は自分が好きなのだとしたら、エヴァの主人公は自分が嫌いです。
逆に言うと、「好きじゃなきゃバランスが取れない」くらい、自己肯定感の基準点が高い訳で、
「嫌わなきゃバランスが取れない」レベルからすれば、「何 言ってんだ?」という感じになると。
60点を取ってて「全然ダメだわ」と嘆く人を、30点しか取れない人が冷ややかに見る感じでしょうか?
子供の数が減り、社会が成熟し、大事に育てられた事で、
基準点が上がってる事自体は、決して悪い訳じゃないですし、
辛さというのは主観なので、当人的にはキツいのも事実でしょうけど、
他と見比べた上でないと、「非常に強い」という表現は客観性を欠くって事ですね。

とは言え、今の日本の社会的な背景もあってか、
自己肯定感が高い人の割合に関して言うと、昔よりは下がっていそうな気はします。
言ってしまえば、今は平均的で、60点近辺にいる子供の割合が高いけども、
昔は80〜90点の子供がいる一方で、30〜40点の子供も多かったって感じですかねえ?
なので、平均値で見るか?中央値で見るか?上限と下限で見るか?分布割合で見るか?など、
それぞれの見方によって、抱く感想は異なってくるかも知れません。

で、もう少し踏み込むと、自己肯定感は低いけれど、自分好きという所に由来するのでしょうけど、
今の若者世代って、「消極的な利己主義」とか「受け身な利己主義」とでも言えば良いのか、
ともかく、自分が良くありたい思いが強い印象を受けるんですよね。
ただ、この利己心は消極的で受動的なので、どこまで自覚があるのか、私には正直不明。
例えば利己心と言うと、「人より上に行きたい」みたいに、積極的なモノをイメージしがちですが、
これが消極的なモノとなると、「人より下になりたくない」という思いが強くなる感じでしょうか?
言い換えるなら、「マウント取られたくない症候群」とでも称すれば良いですかねえ(笑)。
その結果が「横並び意識の強さ」であり、それは仲間内だけでなく、上下関係があっても発動されると。

「上下関係があっても、横並び意識が強い」という世代的傾向が、どこまで自覚されてるかは不明ですけど、
積み上げた過去があるから、現状では上の位置にいる相手に対して、「ズルい」という感情を抱き、
そこから引きずり降ろそうとか、そこへ這い上がろうという積極性までは無いものの、
「自分たちの所まで下りてくるべきだ」と考え、そうならない事に苛立ちを覚えたり、
「自分たちも そこまで上げてください」と、インスタントな方法論を要求しがちですよね。
「教師が知識マウントを取ってくる!」と不満を漏らす学生の話は、最近ちょくちょく目にしますし、
そう言えば確か、岡田斗司夫の配信動画の中にも、
「授業で知らない話ばかりされて腹が立つ」という話が紹介されてませんでしたっけ?

> 私自身ふと自分の人生を振り返ると、体が太っていたり、ブサイクじゃなくて良かったなと、心の底から思うんですよね。
> もし太っていたり、ブサイクだったら、心のバランスを崩して大変なことになっていただろうなあと。

まあ、これは旧トルコ担当さん自身の心の本音の吐露なので、
「よく打ち明けたな」と、個人的には却って好印象なのですが、
また後でも触れますけど、これって世間的には、かなりの発言内容ですよ!?(笑)
そこは自覚された上での、覚悟の発言なのでしょうか?

> まあ実際にはオタクでも結婚できる人はできますし、出来ない人でもやろうと本気で思えばやります(笑)。
> むしろ普通の恋愛結婚で結婚をしてる人なんて少数派でしょう(少数派ですよね?)。

いや〜、それは私にも解らないですけども(笑)、
オタクが一般化したのであれば、普通に恋愛結婚している人も多いのでは?
とりあえず調べてみたら、こんなページが出てきました↓
「男女オタク300人 恋愛&結婚アンケート」
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000009.000015190.html
で、男性のデータを適当に抜粋すると、こんな感じみたいです。
まあ一応、参考までに。

Q.自分のオタク度(5点満点)
  1点1% 2点4% 3点28% 4点50% 5点17%

Q.今まで付き合った人数
  0人7% 1人18% 2人17% 3人22% 4人7% 5人以上26%

Q.パートナーの有無
  妻がいる38% 恋人がいる21% 好きな人がいる19% 誰もいない21%

Q.パートナーはオタクか否か
  パートナーもオタク35% パートナーは非オタ65%

Q.パートナーとの出会い
  昔からの友人19% 職場19%

> いや、いいんですよ。結婚できなくても、生涯独身で最後は孤独老人として死ぬとしても。
> それは私はオタクになったと時に、覚悟したことですし、私は人生ささげると(大げさではなく)決めたので。
> ですけど、やはりふと本当にこのままでいいのかと、お前は人生から逃げているのではないかと、不安になるんですよね。

その年齢で、そうした不安を抱くのであれば、もうそれが答えですよね。
いや本当、これは真剣な忠告として、心を改めた方が良いですよ!!
上記のアンケートだと、2割を占める学生時代の友人は、今からだと難しいかも知れませんが、
残る2割の職場や、その他の出会いであれば、今からでも、まだまだ充分にチャンスはあるはずです。
「ブサイクでも、デブでもない」という自己評価はあるみたいですし(笑)。

それに、厳しい事を言えば、そういう道は自然と「なっちゃう」ものであり、
なろうと「覚悟した」とか「決めた」と言ってる時点で、その程度なんですよ。
しかも、そうした不安は、加齢と共に倍々ゲームで増えていくモノなので、
現状で既に その状態だと、40歳を超えた頃には、絶望感で押し潰されてる可能性が高いです。
もっと言うと、あの岡田斗司夫の女癖の悪さを思えば、恋愛とオタク道の両立可能なはず(笑)。

それに、若い頃の熱狂的な気持ちが、中高年になっても持続する人など一握りであり、
あれだけ興味のあったゲームやアニメやラノベも、30歳を過ぎたあたりで、
嘘のように興味を失ったり、興味はあっても気力や時間が足りなかったりして、
一気に離れてしまう事も決して珍しくない・・・と言うか、そちらの方が多数派です。
そうなった時、変な逃げ口上で自分を納得させ、貴重な若い時を無駄に潰した事を、
後から気付いて、猛烈な後悔に襲われてる姿が、容易に想像できるんですよ・・・・
やるだけやってダメだったのと、何もやらずにダメだったのとでは、後悔の度合いも違いますし、
今の時点で不安感を抱いているのでしたら、尚更の事ですよね。

あと、「生涯独身で最後は孤独老人として死ぬ」と言っていますが、
別の所では、「死の現実感の希薄さ」も語っている訳で、
言っちゃ何ですけど、その程度の現実感で考えている「孤独さ」は、
一体どれだけリアリティーを持って考えられているのかが、正直疑問なんですよね。
賢狼ホロも、「孤独は死に至る病じゃ」と言ってるじゃないですか・・・という冗談はさておき(笑)、
若い頃はまだしも、年老いてからの孤独は、下手をしたら死よりも怖いかも知れず、
死が怖いのであれば、同じくらい、将来の孤独を恐れてみても良いかも知れませんよ。

> 『どうか皆の前で』で若者は異常に貢献欲求が高く、会社に入っても、上司からごくごく単純な業務を任されただけで、
> 異様に張り切るというような話がありますが、
> これも自己では補完しえない自分の存在意義を、今この上司から任された仕事をやっている瞬間だけは、
> 他人にとって自分は価値ある存在だと「自分で」思えるからなのではないでしょうか?

これ、ふと思ったんですけど、単純作業ではなく、
凄く難しい仕事を任された時の反応って、一体どうなんですかねえ?
「単純作業でも張り切る」ではなく、実は「単純作業だから張り切る」ような気もしてきたので。


> > まあ、少子高齢化の影響により、若者の絶対数も減っていれば、大人と子供の割合も変化しており、
> > 教育方針の変化とも相俟って、今の世代は昔以上に、良くも悪くも1人1人が見られている時代ですので、
> > どの世代の子供より、実は褒められたり、存在を確認されている世代でもあるのですが、
> > それが当たり前で育っていると、そこを自覚できないと言うか、スタート地点の違いとかもありますね。
> > 内在的で抑え気味な「もっと、もっと」という願望と、それが困難な社会の実状との間に、ギャップがあったり、
> > 主観的に「自分たちはこうだ」というのと、客観的に「あなたたちはこうだ」というのでも、ズレもありますし。
> > って、あれこれと勝手に分析・解釈されるって、あまり心地良いモノでは無いかも知れませんけど(苦笑)。

> いや、一周回って面白いですよw
> なんだかんだで、私もこの世代の一員で、
> 私の性格や個性は、しょせんこの世代の中のバリエーションに過ぎないんだな、という発見があるので。

W杯の試合を見ていて、私も今更ながらに気付かされたのですが、
20代中盤くらいまでの若い選手たちは、まさしく「Z世代」なんですよね。
あんな超一流のプロたちも、局面でのプレー選択にZ世代の特徴が現れるのは、ちょっと驚きでした!!
取材情報などに触れると、練習姿勢や戦術志向などでは、それが尚更顕著みたいでし。

いや勿論、ひとたびピッチを離れれば、そこは普通の若者と大差ないのは解っていましたが、
プロは厳しい競争を勝ち上がった世界なのに、ピッチ上でも、世代的な傾向が現れるのかと!?
しかも、それは日本だけでなく、世界的に見られたんですよね。
まあ、そもそもZ世代という言葉がアメリカ発祥なので、当然と言えば当然なのでしょうけど。
ただ若手の中でも、最終的に活躍するのは、やはりメンタルと我が強い選手でした(笑)。

> 最近、大学のキャリア支援センター(就職課)の方が
> 「大学生がなかなかキャリア支援センターを利用してくれないので、なぜなのか調査したところ、
> 『キャリア支援センターは静かなので怖い』と思われているということが判明したのですが、
> キャリア支援センターは確かに静かですが、怖いところではありませんよ」
> という話をしたという、冗談みたいな体験をして、今の大学生を上から目線に笑っていました。

う〜ん、これって「上から目線に笑う」行為なんですか?
まあ、その場の雰囲気とかは解らないので、確たる事は言えませんけど、
文面だけで見た限りでは、却って、大学生に対する気遣いを感じさせますけどね。
何というか、今の若者層は「マントを取られたくない」傾向が極端に強く、
少しでもネガティブに感じる部分があると、そこで過剰反応する嫌いはあるかと?

> しかし、後日映画を見にショッピングモールに行ったところ、
> ショッピングモールがあまりに家族連れだらけで、同じ大学生くらいの利用者もなんか陽キャな感じで、
> 割と本気で帰りたくなったんですよね(帰ったら映画見れないので帰りませんでしたが)。
> 「キャリア支援センターが怖い大学生をバカにしてすみませんでした、やっぱり私もショッピングモール怖いです」って感じですw
> ちなみに私のTwitterのフォロワーの既婚者の方もやはりショッピングモールに居心地の悪さを感じるようで、
> 陰キャ魂は結婚しても変わらないんだな、と思いました。

それは、その人の心の持ち様次第なのでは?
若い独身の頃は、ショッピングモールなど安っぽくて騒がしいと嫌っていた人でも、
結婚して子供を持てば、これだけ過ごしやすい場所も無いと、心境が一変する事は珍しくなく、
逆に、未婚のままで独身中年になると、あの幸せな空間に耐え切れず、鬱な気分になったりもすると。

と言いますか、立場が変われば、「映画を見に行く人種は陽キャ」と見なす人だって居るでしょうし、
アウェー感を抱くのも、その感情を拗らせて被害妄想に陥るのも、結局は当人の心次第であり、
現実問題として、周囲の人は自分に関心など無いのですから、そんな自意識過剰にならなくても良いんです。
見方を考えれば、ホームでありたいと願う心があるから、現実とのギャップで居心地が悪くなるのでは?
例えば旅行などに行けば、そこがアウェーなのは当然の事であり、
アウェー感を気にして苦痛を感じる人は少ないはずで、ショッピングモールだって同じですよ。
足を運んだ先で、自分が何を楽しむのか?というだけの話です。
そもそも大きなモールには、それこそ多種多様な専門店が並んでおり、
その中には、オタク向けの商品を揃える店だって、普通に入っていたりしますからねえ。

> 商学部なので最近はこういう考え方をするようになったのですが、
> ショッピングモールだって大予算かけて建設する分、入念なマーケティングの元建設してるはずですし、
> まさか最近の陰キャが居心地の悪さを感じているとは思っていないんでしょうね。
> と書きつつ、ショッピングモールの陽キャ感に帰りたくなる現象というのは、
> もしかして最近の若者の感性ではなく、割と昔から存在しているもんなのでしょうか?
> もしかして私ってショッピングモールの客層じゃない?
> (もちろんメインターゲットは家族連れですが、陰キャはサブターゲットにもなってないんですかね)

ショッピングモールに関しては、10年くらい前に、いろいろ調べた事があるのですが、
恐らく、旧トルコ担当さんが抱かれているような、一様なイメージでは無かったりするんですよね。
地方にあっては、小さな都会がオアシスのように現れた場所であり、
郊外にあっては、便利ではあっても、田舎を象徴するような場所であり、
陽キャが集まり、陰キャには居心地が悪いという、プラスな印象もあるでしょうけど、
その一方で、マイルド・ヤンキー系の子連れ家族がたむろする、マイナスな印象もあると。
言うなれば、同じショッピングモールであっても、
その人の置かれた土地柄や立ち位置によって、見え方は様々である訳です。

そういう意味では、経営側の方だって、
ショッピングモールを「最大公約数にウケる場所」として作っていても、
必ずしも「万人ウケ」を狙っている訳では無いでしょうから、それも想定の範囲内なのでは?
言うなればショッピングモールとは、ショッピングをテーマにしたテーマパークですからね(笑)。
どんなに素晴らしい「夢の国」を作っても、その世界観から浮いてしまう客層も一定数は居ますよ。
まあ私の場合、人々の動線や見え方などの建築面であったり、専門店の各配置であったり、
そもそも客である以前に、観察者みたいな視点からモールを見ちゃうので、
居心地が良いとか、悪いとか、そうした層からも更に離れた所にいる感じかも(苦笑)。
ある意味、居心地の悪さを感じられるレベルにさえ、到達できてないような人種ですので。

ちなみに、日本のショッピングモールや大型店は、
大店法が廃止された2000年以降に、店舗数も店舗面積も急拡大したモノなので、
そもそも、ここ十数年あまりの歴史しか無い事を考えると、「昔から」というのは無いかな?
とは言え、昔は昔でアーケード街や百貨店あたりが、今のモールに相当するでしょうし、
そうした場所の華やかな雰囲気を「苦手」と感じる人たちは、当時から普通に居たと思いますよ。
ただし当時は今と違って、ネット通販なんて無かったので、
何か欲しいモノがあれば、リアル店舗まで足を運ぶ必要がありましたし、
マニアックな店とかは特に、大きな繁華街の路地裏などにあるのが定番で、
そういう意味では、客層の共存と言うか、混在や棲み分けみたいな感じもあったかと。

> イタい感じの自分語りっぽくなってしまいましたが、これしか参考になる話はできないので、あきらめてくださいw
> おそらく私の体験を元にした、どこまで信用できるんだかわからない仮説を披露するよりも、
> 元データを直接見てもらう方がよっぽどマシですw

いや、私の方は全然構いませんよ(笑)。
そうした内面の声を聞くのは、私も結構好きですし、
それこそアート作品なんて、まさしく そうしたモノの塊ですからね。

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