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[24102] 旧トルコ担当さんへの返信(その2)返信 削除
2022/12/21 (水) 19:40:09 徳翁導誉

> > > 交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、
> > > いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

> > 年齢差による「感覚の違い」という観点から、引き続いて述べると、
> > 「死の身近さ」というのも、大きな違いがあるかも知れません。

> そうですね、私ももう大学生でありながら未だ葬式には1度しか出たことがありませんし、
> 親戚家族関係の希薄化にともなって世代間交流がなくなっているんでしょうね。
> 私が知っている人が亡くなったのって、親戚と学校の先生とあとはTwitterのフォロワーくらいですね。
> 親戚がなくなったときはまだ幼かったですし、知っている人が亡くなって一番ショックだったのが
> Twitterのフォロワーというのが"現代"なんでしょうね。

ネット普及以前の時代で言うと、それに近いのが「有名人の死」なのかな?
もちろん今でも、有名人の自殺や早世は、世間の人(特に若者層)に大きな影響を与えますし、
だからこそ、昨今は自殺報道などがあると、心の電話相談の案内がセットで付いてきてますが、
有名人の死に伴う「後追い自殺」は、一昔前の方が多かった印象を受けますね。
例えば、岡田有希子とか、尾崎豊とか、X JAPANのhideとか・・・・

> > > 歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
> > > (歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)

> > いやいや、歴史に「必然性」を求める学者なんて、本当にそんなに居ますか?
> > 「歴史にifは無い」と言いますが、その反面で、
> > 「歴史とは様々あった可能性の1つに過ぎない」事は、学べば学ぶほど解る事でしょうし、
> > テレビに出ている、歴史学者ならぬ歴史家であったり、学者肩書きのコメンテイターでも無い限り、
> > そんな事は、普通に言わないと思いますけどねえ・・・・

> 例えばソ連の成立や戦後の植民地の独立にしても、そういった出来事が起きれば、
> なぜそれが起きたのかを考えるのが歴史学だと私は認識しています。

まあ、学問的には「なぜ起きたか?」以上に、
「何が起きたか?」「どう起きたか?」の方がメインかも知れません。
「なぜ?」を問うのは、文系よりも理系的な態度ですし、
歴史には再現性が無いので、科学的に突き詰めていくのも難しいですからねえ。
でも、「なぜ?」を問うた上で、何らかの対策を考える「応用面」での活用では、それは有益ですし、
科学の世界にも、基礎分野と応用分野があると考えれば、それが学術的では無いとも言えません。
ただし、それは断言できるほどの正確な内容には至らないので、
そこで断言が生じるようなら、政治利用やビジネス目的に主眼が置かれたモノになるかな?
学問よりも宗教的だと、言い換えても良いかも知れません。

と言いますか、冷戦期にあった20世紀後半の歴史学って、
マルクス主義に基づく唯物史観が、西側も含め、世界の学術界を席巻していた為、
「なぜ起きたか?」の答えは既に用意されており、それに沿って事象を解釈する傾向が強かったので、
そういう意味では、そうした認識が正しいか否かは別として、
20世紀的な歴史観の「しがらみ」から、既に解き放たれてる世代なのでしょうね。
逆に言うと、戦後昭和に学んだ高齢層は、冷戦当時の歴史観に囚われている側面はあるかも?
もっと言えば、そうした考え方が染み付いている為に、唯物史観を捨てても、
それに替わる新たな拠り所を欲して、歴史修正主義などにハマっていく部分もある気がします。

> もしかしたら社会主義国家の成立は人類史を100回やって1回しか起こらないことかもしれませんし、
> ですが私たちの生きている世界はその1回が起きた世界なので、
> どうしても100回やったら少なくとも30回くらいは起こるだろうと予測してしまう、
> と思っているのですが、どうなのでしょうか?

う〜ん、それは難しい問いですねえ(笑)。
確かに共産革命に関しては、まあ何らかの形で起こった可能性は高そうですが、
それがソ連邦のような形で生じる確率は、かなり低かったようにも思えます。
しかし、だからと言って、その確率を数値化するのは無理であり、
印象で数値を概算する以上、感情に左右されるのは不可避でしょうから、
その要素を出来るだけ排除しようと試みると、必然的に史実に引っ張られるので・・・・
でもまあ、100回に1回とか、具体的な数値の方は さておき、
そうした考え方自体は、決して間違っているとも言えないかと思いますよ、個人的には。


> > > > そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> > > > 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> > > > 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> > > 根拠はないですけど、それはありそう。
> > > 「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

> > 逆に言うと、「全ての関係性で垣根が低い」からこそ、
> > 対立とか衝突を乗り越えた上での、深くて強固な人間関係みたいなモノは、
> > 却って今の時代の方が、築き難くなってるのかも知れませんね。
> > 何度も言っていますが、「繋がり」と「しがらみ」は表裏一体の関係なので、
> > 面倒さというデメリットを排せた反面で、絆の強さというメリットも失われてしまったと。
> > だからこそ、言葉による再確認とか、周囲の人間も巻き込んでの関係作りが、昔以上に重要なのかも?

> 完全に独り言ですが、ソードアート・オンラインは現在27巻出ていますが、
> 9巻〜8巻のアリシゼーション編で主人公のキリトに男の親友が登場するんですよね。
> やはりここがSAOの転換点で、それまではなんだかんだで、なろう小説のような、
> ぼっち主人公が実は最強でみんなが憧れの美少女ヒロインに好かれる、というラノベだったのですが、
> この男の親友が登場して以降、SAOが普通のラノベから、もっと別のリア充崇拝に近いような、
> まぶしい系のコンテンツに変わっていったんですよね。
> 主人公キリトは、第1巻ではボッチを気取っていてたのに、
> 今では50人以上のゲーム仲間と言うか軍団のリーダーみたいなのやっていますし。

SAOにせよ、俺ガイルにせよ、最初はボッチで読者層に合わせているのに、
どちらの結局は、美少女たちや男友達に囲まれる方向に話が進み、
そして読者たちも、それに付いていくのですから、やはりそこに本心があるのでは?
まあ、認めるか認めないかに関わらず、読者の心の奥底にある欲求に応えるべく、
各作品のストーリーだって、そちらの方向へと流れていくというのが、実際の所でしょうからね。

もちろん 中には、本当にボッチ志向の人も居るでしょうけど、そういう人は 恐らく少数派であり、
大多数の人は、自らをボッチだと かこつけてるだけで、本音では彼女や仲間を欲している気がします。
と言いますか、そんな作品の変化を「リア充崇拝に近い」と感じている時点で、
そうした本音が見え隠れしているように、私には映るんですよねえ・・・・
ぶっちゃけ、本当にボッチ志向の人だと、そんな変化に触れても普通にスルーでしょうし、
わざわざ引っ掛かるのも、もっと言えば、そもそも こうした作品の主人公に「自分」を投影するのも、
結局の所、「リア充に憧れながら、ボッチを演じている人」の証のような気がするんです。
天然のボッチというのは、共感も、投影も、始めから求めていないタイプが多いでしょうから。

あと余談ながら、アニメSAOの主題歌を担当したLiSAが、人気アニソン歌手となって早10年。
鬼滅の記録的な大ヒットにより、一躍 紅白歌手にまで登り詰め、
そして今年は、ABEMA&テレ朝のW杯テーマ曲まで任せられ、もう既に国民的歌手ですね!
また今回のW杯中継では、放送局のメインが「地上波(NHK)」から「ネット配信(ABEMA)」に変わり、
時代の移り変わりというのを、体感させられた気分でもあります。
今までだと、各大会を思い出す際のBGMは、NHKのW杯テーマ曲が普通でしたが、
今大会のそれは、NHKのKing Gnuよりも、ABEMAのLiSAな人が多いかも知れません。
コアなサッカー・ファンほど、全試合を中継したABEMAの方に触れる機会が多かったでしょうし。

それと、200億円と言われる莫大な放映権料を、ABEMAの親会社であるサイバーエージェントが、
ウマ娘の爆発的ヒットで上げた利益で支払い、全64試合を無料配信したなんて裏話を聞くと、
ソシャゲ課金に対して、これまで苦言を呈していたにも関わらず、
藤田社長だけでなく、課金ユーザーにも、「ありがたいな」と思ってしまいました(笑)。

日本が初出場した1998年のフランスW杯の時は、5.5億円だった放映権料も、
7大会24年が経過した2022年のカタールW杯では、地上波分も合わせると総額350億円となり、
どう考えたって、広告収入に頼った無料放送だと、採算が合わない時代になりましたからねえ・・・・
実際、今回のW杯アジア最終予選のアウェー戦は、テレビ中継なしのDAZN独占(月額3000円)でしたし、
テレビ局の方も、採算度外視にしたって支払える金額では既に無い為、
あとは今回のように、どこかの利益を転じて突っ込むくらいしか、無料存続の手段は無いのでしょう。
(ちなみにAmazonの多角化経営だと、動画事業は宣伝と割り切り、利益よりも顧客獲得手段と化してます)

恐らく興味は無いでしょうが、ついでなので愚痴らせてもらうと(苦笑)、
特に、アジア連盟主催の公式戦の放映権料に関しては、
連盟の主導権をアラブ諸国が握っていて、アラブ圏の放映権は事前に分離した上で、
日中韓には莫大な放映権料を課し、それを残りの国々で山分けするという、悪質な改革案を、
日中韓が強硬に反対する中、賛成多数で可決させてしまったんですよ!?
今までも、アラブ勢の やりたい放題な所はあったのですが、この件はさすがに酷過ぎます。
しかも、その際の嫌韓反中なネット世論は、中韓との共闘態勢に猛反発でしたし、
それで、いざ無料で試合が見られなくなると、中韓の所為にした上で、日本協会バッシングと、
何だか本当、外側だけでなく、内側にも敵が居る、内憂外患な状態なんですよね・・・・

また、サッカーが国民的スポーツであり、先んじて放映権高騰に苦しんだ欧州では、
政治が動いて、自国の試合や準決勝・決勝を「国民的行事」とし、
テレビで無料放送させる法律を作り、放映権料を抑え込んじゃいましたからねえ(笑)。
日本の政界にも、元スポーツ選手の国会議員とか居るのですから、
単なる票集めの看板ではなく、そういう分野でキチンと活躍をしてもらいたい所。

> 私は友達、というか大学で定期的に話す同級生はいないのですが、Twitterでは普通にフォロワーと話してるんですよね。
> ただTwitterは、話題ごとにアニメ用と歴史用でアカウント別にしていますし、
> フォロワーが見たくないようなことはツイートしないようしているんですよね。
> 人によっては鬱ツイートとか日常生活の嫌なことをツイートするひともいますが、
> あまりそれは求められていないので、そういうのはしない方がいいと思っています。

何というか、テニスの壁打ちに近いのかな?という印象を受けますね。
どんなボールで攻めてくるかと、相手とのラリーの応酬を楽しみたいというよりは、
自分が打ちたいが為に、単にボールを返してくれる「壁」役の存在を欲していると。

極端な話、それで自分が満足できるのであれば、
ネットの向こう側に居る相手は、人でもbotでも構わない感じなのかな?
もちろん、始めから相手がbotだと解っていれば、虚しい気持ちに襲われそうですし、
それを望まない人は未だに多いでしょうけど、気が付かなければ意外とそれでもOKみたいな。
まあ現状だと、まだまだ自然な会話は、技術的にも難しいでしょうけど、
これが将棋や囲碁などのネット対戦であれば、既に充分に有り得る話ですからねえ。

> ですが、最近読んだラノベだと
> 「世界で一番けんかする人が恋人」カノジョの妹とキスをした
> 「友達はそんな役回りを引き受けるためにいる」マリア様がみてる 赤薔薇さま
> こういうのも分かりはするんですよ。
> 相手が困っている時に助けたり、支えたりして、それに対価を求めないのが本当の友達や恋人だろ、という価値観も。
> しかし、これって私のTwitterの使い方とは真逆ですし、
> 岡田斗司夫のいうホワイト社会といい人戦略の「暗いことを言わない(例えば、Twitterで鬱ツイートをしない)」という、
> やはりこれも本当の友達や恋人とは真逆のものなんですのね。

う〜ん、結局の所、上記と同じ話になっちゃいますけど、
botが相手では虚しいものの、かと言ってリアルな人間が相手だと煩わしく、
その結果、素性も知らない「bot的な人」を相手に求めるようになり、
それに応じて、自分さえも「bot化」してしまうというのが、そのあたりの正体なのでは?

> もちろん昔だって友達の前では気を遣って明るく振る舞うことは当たり前だったでしょうし、
> 本当の友達や恋人みたいな姿が小説に描かれるのも、そういったことが日常ではないからなのでしょう。
> とはいえやはりひと昔前と比較して、
> 人間関係の自由化=人間関係のコンテンツ化=人前ではさらにホワイトに振る舞わなくてはならない、
> というのはより進んでいるのでしょうね。

「本当の友達や恋人」というのも、何だか引っ掛かる表現かな?
旧トルコ担当さんの捉えている「本当の」というのは、
私からすると「理想的な」と同義のように映るんですよね。
ぶっちゃけ今も昔も、リアルな人間を相手に面と向かって、平気で「壁」役を求める人など普通に居ますし、
今の若い世代は良くも悪くも、そうした傍若な振る舞いを、自らがする事を恐れている気もします。
もう少し解りやすく表現すると、面と向かった他人を、自分の為に利用する事は好まないし、
それ以上、自分が他人に利用される状況というのが耐えられない・・・みたいな感じなのかと。

そして、その反動というか、衝動みたいなモノが、
相手の顔が見えないネット上であったり、顔が見えても素性の解らない匿名の場などで、
新自由主義などとも相俟って、人間関係の「コンテンツ化」という形で現れているのかも?
まあ、私みたいな世代だと、アナログしか存在しなかった所に、後からデジタルが現れたので、
「リアルとネットは別物」という感覚が、未だに割と残っているのですが、
デジタル・ネイティブな若い世代だと、「ネットはリアルの一部」という感覚でしょうし、
逆に言えば、だからこそ、「リアルとネットの区別」を行ってる自分に無自覚なのかも知れません。
確かに現在は、ネットがリアルにも深くリンクする時代や社会となっていますが、
それでも、ネットとリアルが完全にイコールとはなっていない以上、
世代ごとに濃淡の差こそあれ、そこには何らかの「使い分け」が生じているはずですからねえ。

言い換えるなら、ネットの存在が当たり前すぎて、リアルとの関係性を意識できない為に、
その辺りで混乱が生じているというか、振り回されてるみたいな印象があるかな。
「人間関係の自由化=人間関係のコンテンツ化=人前ではさらにホワイトに」という図式も、
私から見ると、それは「→」で繋がっているかも知れませんが、
少なくとも「=」で繋がっているイメージは無いんですよね。
「→」であれば、幾つか在るルートの1つですけど、
「=」ですと、それは1本道なので。

> それは、一方的に悪いことと言いたいわけではなく、
>  困ってる友達を助けるべき ←→ トラブルメーカーとは関わりたくない、トラブルを起こすやつはダメな奴
> 常に社会の価値観はこの横軸のどこかに点を打っているはずであり、
> 昔であればこの点がより左側に打たれていた、というだけであって、
> ある以上に不快な奴は昔だって、無視であったり、あるいは除け者、笑い物の対象だったと思うのですが、
> この基準がどんどん高くなってきているのでしょうね。
> ある意味ではダメなやつ(嫌な奴)を互いに受け入れる同士から、自分の中の嫌な奴は排除していくという、
> 共助から自助に代わっているとも言えます。

これに関しては、卵が先か?鶏が先か?みたいな話かも知れませんね。
昔の社会は、その不便性から、我慢や寛容が生きていく為に必要であっただけで、
便利な社会となり、カネさえあれば1人でも何とかなる時代となれば、
我慢や寛容といったコストなど、支払いたくない層だって決して少なくないでしょう。
そうした変化の見方を変えれば、確かに「共助から自助へ」という事でしょうし、
自助が破綻すると、互助も共助も飛び越えて、一気に公助を求める流れになると。

あと、旧トルコ担当さんが商学部の学生であるならば、
横軸で「人間関係」を取るだけでなく、縦軸で「経済状況」を取り、
そこから「幸福」の分布図を示してみると、
人間社会というモノが、更に深く見えてくるかも知れませんよ(笑)。

> 岡田斗司夫はホワイト社会の特徴として「ミュート」というのを挙げていますが、
> これもかつては笑い物であったり、いじめの対象であったりした不快沸点を超えた人たちが、
> ホワイト化でその対応がミュートになったという要因もあるのでしょうね。
> いや、別に悪いことばかりではなく、その分えげつないイジメや学校で笑い物にされたり、というのは減っているはずですから、
> 私としては昔の世界より今の世界の方が生きやすいと思うんですけど、ただそれは人間関係の希薄化とバーター取引であったと。
> ミュートされるかもしれない、という恐怖が人を露骨に笑い物にしたりしない、という個人の民度を上げているので。

不快源をシャットアウトするのに、ミュート機能が重宝されるのは私も解ります。
イジメやイジリの減少と、人間関係の希薄化が、トレードオフの関係にあるのも概ね事実でしょう。
(それ自体は、デジタル化以前から進んでいる話なので、社会の成熟度にリンクしての事でしょうけど)

ただ、この中だと「ミュートされる恐怖」という感覚は、私にはイマイチ掴めない所かな?
いや勿論、無視をされれば寂しいのは解りますし、
希薄ではあっても、繋がりが重視される関係において、そこから排除されるのは死活問題なのでしょう。
でも、それって、本当にそこまで怖いモノなのですか?
逆に言えば、そこまで怖いモノなのであれば、それは「えげつないイジメ」とは違うのですか?
無視というのは、時には暴力以上に、人を傷付けるイジメ行為でもありますし。
それに、近年のネット上における集団リンチって、ネットの普及を差し引いても、
明らかに苛烈になってる印象があるのですが、これって本当に民度が上がっているのですか?
結局の所、人間の本質など大して変わらないモノでしょうし、
目に見える解りやすいイジメから、顔の見えない陰湿なイジメに取って代わっただけな気もするんですよね。

> 皆が相手に求める基準が上がった分、皆が少しずつ良い人になったと。
> 経済だって、金が欲しいという私利私欲があるから一生懸命働くわけですし。
> 岡田斗司夫は「現代の20代以下は地獄を生きてきた世代」と言っていますが、
> 私から見れば当たり前のように学校に暴力があった昔の時代の方が地獄ですね。

平成の30年間で、子供の人数は半減しているのに、自殺数は倍増してますからねえ・・・・
比率で言えば3〜4倍だと考えると、果たして本当に、今の方がマシと言えるのか、どうか?
ただ、そこが地獄と映るか否かは、個々の置かれた状況や、主観か客観かでも変わるモノですし、
現実はどうあれ、多くの人は、自分の居場所に対する正常性バイアスが働くモノでしょうから、
「今は地獄だ」とか「昔の方が地獄だ」と、一個人の感覚で語っても、あまり意味は無いかと。


> これは年上の方に対して失礼かもしれませんけど
正直な話、私は年上だとか年下だとか、全く気にしないタイプですからねえ。
リアルの場合、一応は相手に合わせて、年上なら気を払いますけども、
年下だと年齢差に関係無く、タメ年感覚で接しがちなので、ナメられる事も多々あります(笑)。
で、リアルでも そんな感じですから、ネットなんて尚更ですね。
重要なのは中身の方ですし、年齢なんて単なる数字という感覚で、ほぼ気にした事が無いかな?
ですから旧トルコ担当さんも、その辺りの事は、全く気にしなくてOKですよ!!

> 「ネットde真実」というのは、
> そういう陰謀論にハマっていく人たちを馬鹿にしすぎた表現では?と正直思います。

まあ確かに、元々は侮蔑の意味を含んだ言葉なのは確かなのでしょう。
ただ、「ネトウヨ」などという単語もそうなのですが、
いちいち説明せずとも意味が伝わる、便利な言葉であるのも事実なんですよね。
そんな便利な単語が既に存在するのに、悪い意味合いを気にして、
その度に長々と回りくどく説明したり、うまく伝わらない別の単語に言い換えたりするほど、
私は別にポリコレ重視じゃありませんし、他に便利な単語が無ければ、今後も用いていくと思います。

例えば「印象派」なんて単語も、最初は侮蔑的な意味合いが含まれてましたし、
そもそも論として、愛称や記号の多くは、そうした他称が広く認知される事で、
次第に認知され、定着していったモノも多いのですから、私は使用をそれほど気にしていません。

逆に言うと、ネット上でよく見られるウヨサヨ論争みたいな感じで、
相手を馬鹿にしたいから、その単語を用いてる訳でもありませんけどね。
う〜ん、そうした事情は、文章の内容を読んでいただければ、解るモノだと思ってましたけども、
今回の反応を見ると、どうやら、そうでは無かったみたいです・・・・
となると、「ネットde真実」や「ネトウヨ」に変わる便利な単語を、
今度は旧トルコ担当さんの方から呈示していただければ、ありがたいかな?(笑)
それが私もピンと来る単語であるなら、きっと置き換えるでしょうし。

あと、そこまで言葉を気にされるのであれば、
この前回の発言↓って、それこそ「ネットde真実」の比じゃ無いのでは!?(笑)
> 私自身ふと自分の人生を振り返ると、体が太っていたり、ブサイクじゃなくて良かったなと、心の底から思うんですよね。
> もし太っていたり、ブサイクだったら、心のバランスを崩して大変なことになっていただろうなあと。

これはこれで、旧トルコ担当さんの偽らざる本音を吐露した内容なのでしょうから、
私としては特に気にならないものの、聞く人が聞けば、かなりの問題発言じゃありません?
人気の女性プロゲーマーが、ライブ配信中に「170cmない男は人権ない」と発言して大炎上し、
プロ契約を解除されたなんて騒動が、何ヶ月か前にありましたけど、
「デブやブサイクな奴って、よく生きてられるね? 俺なら絶対無理だわ!」
って言っているようなモノですからね、この発言は。

> もちろん、確かにそういう人たちが愚かなことを言っているのは事実ですが、
> 少なくとも私の場合は、そういったネットの陰謀論に騙されずに済んでいるのは、
> 周囲に知的に恵まれた環境(といっても父親が少し本を読む程度の一般家庭のもの範疇ですが)があったからですし、
> 対する陰謀論者の人たちは、そういった環境に恵まれなかっただけだと思うんですよね。

「お前の目の前の箱は、何の為にあるんだよ!?」というのは、
一昔前までのネットだと、よく目にしたフレーズなんですけどね(笑)。

ちなみに、ここで言う「目の前の箱」とは、ネットをする為の「PC」の事で、
まあ現在だと、ネット端末の主流はPCからスマホとなり、同じPCでもノートPCばかりで、
今や箱形のデスクトップ&ブラウン管モニターなど、絶滅危惧種でしょうけど、
それはともかく、ネット環境というのは、一昔前に比べると格段に普及&進歩しています。
なので、知りたい願望があるのなら、調べられる環境は用意されているんですよ。
あとは、「どこまで調べるか?」という、個々のスタンスの違いだけかと。

もっと言うと、これって別に、若い世代だけの話では無いんですよね。
会社を定年退職した団塊世代の男性が、世間との繋がりを失う一方、スマホを手に入れた事で、
「高齢者がネトウヨ化」する現象というのが、地味に問題となっていたりもします・・・・
では、そういう人たちが、「知的環境に恵まれなかったのか?」となると、決してそうでは無く、
サラリーマン時代は至って常識人であり、名門大学やエリート企業に属した人も珍しくないのに、
荒唐無稽な陰謀論にハマったりする事も多いんですよ。
ハッキリ言って、環境的に恵まれなかったのだとすれば、
それは子供時代の「知的環境」では無く、退職後の「人的交流環境」の方なのでしょうね。
ネトウヨ活動であれ、プロ市民活動であれ、そういう所に行けば、すぐに仲間が作れるので。

> 管理人さんがどういった環境で育ち、どうして陰謀論に騙されない程度のかしこさを得たのかは分かりませんが、
> それは自分の努力だけで得られたものではおそらくないでしょうし、
> そうやって偶然得た能力で能力の低い人を見下すのはみっともないと思います。
> そうやって知識人(っぽい人たち)が過剰に陰謀論を見下すからこそ、
> それを支持する人たちのプライドを余計に傷つけ、より戦闘的にしているというのもありそうですし。

え〜と、いきなり どうかしましたか!?(笑)
マイケル・サンデルの番組を見るなり、近著でも読んだりしました?
このスレッド内でも、以前に何度か「メリトクラシー」の件について触れた際には、
旧トルコ担当さんの方からは特に、目立った反応は返って来なかったと記憶してますけど・・・・

能力主義や実績主義を重視すると、その人が育った環境格差が大きくモノを言うようになり、
努力して出世したエリートは、自らの努力に関して過大評価する一方で、
自らの恵まれた環境に関しては軽視しがちである問題点は、確かに私もあるとは思ってますし、
アメリカだけでなく、近年は特に日本でも、その傾向が高まっているようには感じるんです。
ですけど、そうした問題が確かにあったとして、それは概論としては語れても、
個々の人物を見ないまま、勝手に型に填め込んで、
それを根拠に個人否定するのは、どう考えたって間違いでしょ!?

少なくとも私の場合、良く言えば放任、悪く言えば放置な両親の元で育ちましたし、
父親の転勤で3〜4年くらいで各地を転々とした為、周囲との人間関係もかなり希薄であり、
人見知りな性格の上、当時はまだネットもありませんでしたから、本当に ほぼ独力ですね。
まあ、上を見ればキリが無いですし、下を見てもキリが無いので、
「もっと恵まれた環境なら」と屈折する事はありませんけども、
大人になってみて「当時の自分は、こういうのを望んでいたんだな」と感じだモノを、
今の子供たちに対して、私なりに微力でも何か伝えられないか?という事は、
結構考えたりしますし、時々ここでも構想を語ったりもしてますからねえ・・・・

それに、上の方でも同じ事を書きましたが、私が自分自身で自己分析する限りでは、
私は別に知識人タイプでも無ければ、マウントを取って他人を見下したいタイプでも無いので、
どちらかと言うと、その見立ては、旧トルコ担当さん自身の思いの投影な気がしますよ。
自分で言うのも何ですけど、私は変わり者というか、ちょっと掴み難いタイプだと思いますし、
これは旧トルコ担当さんに限らず、そこはもう、様々に映る私の角度の中から、
その人が見たい像を、それぞれに見つけ出す作業をされている感覚はありますね。
なので、一面では理解される事はあっても、全体像として理解された経験は思い浮かばないかな?

あと、私が陰謀論にハマらないのは、実に単純な話で、
「それにハマっても、別に私は楽しさを感じないから」というだけの事ですね。
ムー大陸だとか、宇宙人だとか、知的プロレスである一昔前の陰謀論は楽しかったですけど、
ネットを媒介とする、現在の政治的な陰謀論というのは、まるで別物ですし。
それでも、陰謀論にハマって自慰的に気持ち良くなるのも、そういう人たちを利用して金儲けをするのも、
私と関係無い、どこかの内輪だけで収まる話であるのなら、それは別に構わないんですよ。
ただ、そうした動きが社会に悪影響を及ぼし、日本を停滞・衰退させる要因となるのであれば、
「次々と面白いモノ生み出す、活力ある日本」が好きな私としては、見過ごせない所があるのも事実かな。
転勤族として育ち、明確な故郷を持たない私は、何だかんだで、世間の人よりも愛国心が強いですし(笑)。

> まあでも知識のない人をこうやって擁護する時代こそ、おかしな時代なんですかね。
> 1960年代とかだともっと知識人崇拝というか、そういうのってありそうなイメージですし、
> 以前のテレビ報道の話もそうですが、そうした知識を軽視する時代というのがおかしくて、
> 知識が無いのは馬鹿にされるのが当然なんでしょうか。

高度成長期の頃の日本は、一般市民の中に「知識崇拝」と言いますか、
背伸びして教養人ぶりたいマインドが、確かにあったかと思われます。
歴史・文学・美術・音楽・百科事典などなど、ありとあらゆる分野の「○○全集」が発売され、
それを蒐集するのが、一大ブームとなってた時代はありましたからねえ。

また、経済が右肩上がりの時代ですから、貧乏人の子供であっても、
子供たちに良い教育を与えて、勉強が出来れば、豊かな将来が保証されてる感じで、
「末は博士か、大臣か」じゃ無いですけど、勉強が一番大事という風潮があったのは事実かと。
でも一方で、一億総中流の時代でもありましたから、
別に学歴など無くても、誰もが家庭を持てて、それなりの生活を送れたんですよね。
ですから、トップ層の受験競争は苛烈であっても、全体的には比較的にのんびりした社会だったかも?
少なくとも、今のような世知辛い世の中では無かったので。

あとは、細かい事を言うと、1960年代だと「知識人崇拝」どころか、
中国の文化大革命に感化された全共闘世代が、大学教授を吊し上げていたような時代なので、
学生たちは自分たちを、新時代の教養主義者であると自認する一方、
旧来の知識人たちに対しては、明らかに敵意を抱くというか、バッシングの対象となっていたかと。
そして三島由紀夫などの戦後右翼層も、立場は違えど、旧来の知識人批判には荷担していた感じかな?
言うなれば、戦前・戦中派と、戦後育ちの若者との間で、文化的な衝突があった格好かと。

それと、「知識を軽視するような時代」になったというのも、
「ネットの普及」というのが、本当に大きかったりします。
簡単に言うと、一昔前までの世界では、大きな発信力があるのって、マスコミだけだったんですよ。
そして、戦前はまだしも、戦後のマスコミ記者というのは、高学歴のインテリ集団でもあり、
発信力の寡占という弊害を抱えつつも、インテリ的な倫理観で暴走は抑えられていたと。
要するに、知的ピラミッドの上層部にしか、影響力をもつ発信権は与えられておらず、
逆の見方をすれば、当時だって普通に、
知的じゃない人たちなんて大勢いた・・・と言うよりも、そちらの方が多数派でした。
でもまあ、それで世の中は上手く回っているし、そもそも社会問題など関心が薄いので、
「賢いヤツらが言ってるんだから、まあ正しいんだろ」みたいな雰囲気でしたよね。
政治だって政策は官僚に丸投げでしたし、知識人崇拝というか「インテリ委任型」だったかな?

それが90年代に入ると、戦後日本を支えてきた経済成長が頭打ちとなり、
停滞から下落へと時代が移り変わっていく中で、逆にネットの普及は加速度的に進み、
マスコミが独占してきた発信力が、一般大衆にまで開放されるようになったと。
その事で恩恵を受けた層は確かに居るでしょうし、
小さいながら私なども、その一部かも知れませんけど、
インテリとしての知識と自制があるが故に、今までは抑えられてきた暴走的な発信が、
知的ピラミッドの中層・下層部にまで、発信力が与えられたとなると・・・・
誤解を恐れずに言えば、「馬鹿にも発信力を与えた」のが、ネットの時代であり(笑)、
「知識を軽視するような時代」に変わったと言うよりは、
そうした人々は以前から変わらず居り、変わったのは彼らの影響力が大きくなった事です。

で、それが良い事か?悪い事か?と問われれば・・・決して良い方向性では無いのでは?
昨年のアメリカ議事堂襲撃事件なんて、それこそ悪い実例の見本でしょ?
簡単に言っちゃうと、民主主義の政治制度において、そうした層の御機嫌取りに終始し出すと、
民主主義はアッと言う間に、「衆愚政治」へと変貌してしまいますし、
衆愚政治によって行われる政策は、中長期的に見て、社会に好影響を与えるのは困難です。
実際、EU離脱の賛否を問うたイギリスの国民投票では、国益に適う選択が行われたでしょうか?
「俺達(労働者)は馬鹿だから、お前ら(国会議員)に高給を払って、国政を任せているんだ!
 それなのに、お前らが責任逃れをして、俺達に大事な判断を委ねるなんて、何て愚かなんだ!!」
と、イギリスの人気ロック歌手が発言してますが、これは結構な至言なんですよね(笑)。

「民主政治は国民のレベルを映す鏡だ」というのは、よく言われる事ですけども、
直接民主制だと、等身大そのままのスッピン姿が映し出されますが、
間接民主制であれば、多少なりとも化粧姿を飾れるんですよね。
要するに、平均値より幾らかは盛れるはずのシステムであると。
でもまあ、民主主義というのは、政策の失敗が王様でも貴族でもなく、
全て「自己責任」になる制度ですから、それはそれで良いのかも知れません。
ただし、歴史の法則を見る限り、その行き着く先に現れるのが「独裁者」であり、
そして独裁者が暴走すると、生み出されるのは大量の国民の死体なんですよねえ・・・・

ちなみに「反知性主義」自体は、もう100年以上の歴史がありますけど、
戦前のそれは、急速的に進む社会の変革に対して、「反近代化」的な意味合いで用いられ、
戦後のそれは、赤狩りとも絡んだ「反エリート主義」的な政治運動へと内容が変節し、
今世紀に入って以降のそれは、ブッシュJr.当選やトランプ現象などが起こり、
その支持者を「馬鹿にする用語」として、左翼が誤用&多用するようになったという感じですね。

> あとはまあ、私はチアガールなんかを見ても、
> 生まれ持った容姿で判断される女性の生きづらさを勝手に想像して、勝手に辛くなる人間なので、
> 『皆の前でほめないで』同様に過剰に傷つきやすい世代のさらにナイーブな少数派の意見だというのは承知していますが。

いや〜、これに関しては、私の方が少数派なのかも知れませんけど、
チアリーダーもそうですし、フィギュア・スケートとか、新体操とかにしても、
個人的には「スポーツ競技者」という見方になってしまうので、
演技内容はまだしも、顔の可愛さだとか、身体のラインだとかは、ほぼ意識の外なんですよね。
そもそも、生まれ持った容姿で勝負しているような世界じゃありませんし。

でもまあ、そういう見方をする人が多いというのは、私も理解はしていますし、
それが問題のある見方なのかと問われれば、別にそうでも無い気はするんです。
ただ、自分自身はそういう見方をしていながら、
尚かつ、勝手に容姿基準だと想像して、勝手に辛くなるのは、どうなんですかねえ・・・・
言うなれば、黒人の子供とかに対して、
「自分は差別意識は無いけど、黒い肌に生まれて可哀想だし、同情するよ」
と言っているようなモノで、何だか物凄く違和感が残るというのが、正直な感想です。

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