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[13266] まとめレス2&英連邦など設定の諸々返信 削除
2010/9/5 (日) 08:24:30 徳翁導誉

> > 最初は「思想拡大」も、伸び率が共産陣営に有利な仕様にしようかと考えましたが、
> > 思想の概念の導入自体が初めてなので、今回は見合わせました。
> > また「(100+赤化度)%」ではなく、「(赤化度×2)%」にしようかとも考えましたが、
> > こちらの方も、同様の理由から今回は見送りました。

> 思想拡大の伸び率に関しては是非検討していただきたいです。
> 今の条件だと、戦争をした後で占領地を統治する際のボーナスだと思うんで
> やはり熱い戦争を誘導してしまうような気もしますので。

そうですね。
前向きに考えておきます。

> 「自由陣営の誰か」と「共産陣営の誰か」が中立国の勧誘の為に、思想拡大合戦をするようになるんですかね〜。
> それなら、冷戦らしさがかなり出てきますね。

まあ中立国だけでなく、陣営国も出来ますけどね。
実際に冷戦期では、右から左へ、左から右へと、
硬軟合わせた米ソの介入により、小国では政権交代が頻発しましたからねえ。
まあ、「なり振り構わない」度で言えば、アメリカの方が酷かったでしょうか?
以前、私も世界史Flashの題材としても扱いましたが、
内ゲバで暗殺や粛清が多発する共産圏でも、流石にここまで↓はやらないですし。
http://www.geocities.jp/kingo_chuunagon/flash/allende.html


> 携帯でプレイしたことが無いのですが、携帯でもプレイ可能なんですかね?
一応、携帯でも出来るはずですけど、
快適にはプレイ出来ないような気がします。
ですので結局は、外出時のチェック用としての使用率が高いかも?


> 思いつきなんで受け流しもらってもいいんですが、
> もし思想の概念が出来るなら北方領土なんてのも作っていいんじゃないでしょうか?

北方領土クラスの地域で分割していたら、
エリア数が、それこそ膨大な数になる気が(笑)・・・・
それに当時の北方領土は、民族構成がほとんどロシア人ですよ。
日本人島民も、戦後すぐ日本本土へ強制的に引き揚げさせられてますし。
強いて新設するなら、北方領土よりは樺太でしょうか?
あそこなら、残留日本人は強制引き揚げで居なくても、
残留させられた旧・日本国民の朝鮮人やアイヌ人が居ますので。
(米ソ引揚協定の対象は日本人だけだった為、望まぬ残留者を多く出しました)

まあでも北方領土問題は、確かに冷戦時代の産物ではありますよね。
ヤルタ会談からサンフランシスコ講和会議へと至った結果、
千島列島を放棄させられた日本(共産党は未だに千島全島の奪還を唱えてますが)は、
南千島の国後・択捉はソ連領、北海道の一部である歯舞・色丹は日本領とする事で、
ソ連との間に平和条約を妥結しようとした所、それを望まないアメリカにより、
「国後・択捉を諦めるなら、アメリカは沖縄を返還しない」と介入され、
結局、日本は「国後・択捉は放棄した千島列島」という政府見解を撤回させられて、
こうして現在に至るまで、領土問題がグダグダな状態で残ってしまった訳ですし。


> > > 第2ターン現在、エジプト占領地のトリポリ(リビア)において、「150%」になっています。
> > > 「(100+赤化度/2)%」ならば、トリポリの赤化度は50%なので、「125%」になるはずでは?

> > いや〜w だってエジプトはリビアと同民族ですよ

> 同族地域なのですか。
> これは失礼いたしました。

まあこの時代は、いくらか下火になりつつあったとは言え、
エジプト大統領のナセルを中心人物に、
「汎アラブ主義」が吹き荒れた時代ですからねえ。
1958年〜1961年には、エジプト・シリアが合併して「アラブ連合共和国」を、
それと同時に、エジプト・北イエメンが連合して「アラブ連合」を、
同1958年、エジプトに対抗すべくイラク・ヨルダンが「アラブ連邦」を設立。
キューバ危機を前に、それらはいずれも短期間で解消してはいるものの、
その後も、1963年にエジプト・シリア・イラクの「アラブ連合共和国連邦」、
1972年〜1977年には、エジプト・シリア・リビアで「アラブ共和国連邦」、
1972年と1974年には、リビア・チュニジアの合併構想などなど、
主導権争いでいつも瓦解しますが、汎アラブ主義だけは強く存在しました。
エンクルマが唱える「アフリカ統一」は、正直言って実現性は皆無でしたが、
ナセルが唱える「アラブ統一」は、その実現性は十分にあったかと思います。
とは言え、統合の中心にも、解消の中心にも、
そこにはいつも、権力欲の強いナセルの姿が有ったのですが(笑)。


> 下画面の「復興」と「赤化」が逆になっています。
> 修正お願いします。

一覧表の事ですね。
修正してみましたが、これでどうでしょ?


> キューバ危機の通信の時間が進みすぎているので、
> 訂正していただけないでしょうか?

ログを読むと、どうやら一時的にサーバーの時計が誤作動してたみたいですね。
ここ数日、サーバーの方は点検作業を行っているそうなので、
その時に、時間設定をミスったりしたんでしょうね。
推察するに、恐らくは世界標準時(イギリス時間)にすべき所を、
日本時間で設定し間違えたのでは無いでしょうか?(笑)


P.S.
上記のログ確認時、イギリスさんの公式発言「2010/8/30(月) 22:19:48」が眼に止まったので、
ちょっと・・・と言うか長文ですが、コモンウェルス(イギリス連邦)についての私の見解を。

> ・ダルエスサラーム
> タンガニーカ共和国のニエレレ先生は、独立国の指導者として扱われているが、
> 1962 年10月現在のニエレレ先生は、イギリス連邦下の植民地政府の首相に過ぎない。

まずは最初に、簡単ながらタンガニーカとニエレレの歴史を。
第一次世界大戦の終結後、ドイツの植民地であったタンガニーカは、
大戦後に成立した国際連盟により、イギリスの委任統治領となりました。
このイギリスのタンガニーカ統治は、第二次世界大戦の終結後も、
国際連盟の委任統治領から、国際連合の信託統治領へと替わって続きます。
そうした準植民地的な支配が続く中、「独立・平等・平和」を掲げ、
「タンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)」を創設したのがニエレレでした。
1950年代末、アフリカ各地で独立の機運が高まる中でイギリスは、
ガス抜きの為に、「選挙議員30名&任命議員32名」という議会を作りますが、
選挙の方でTANUは、定数30議席の中で28議席を当選させます。
この圧倒的な選挙結果を受け、翌1960年には自治政府設立の選挙が行われ、
ここでもTANUが71議席中70議席を獲得して、1961年12月には独立を宣言します。

ちなみに、TANUの党首であり、自治政府の首相であったニエレレは、
独立と同時にタンガニーカの初代・首相に就任しますが、
就任から1ヶ月ほどで首相を辞任し、側近のカワワを後任の首相に据えると、
自身は地方の地固めや、党の体制強化、共和制移行への準備を行い、
独立からちょうど1年後、タンガニーカの初代・大統領に就任します。
ですので実を言うと、ゲーム開始時の1962年10月でニエレレは、
首相(1月に辞任)でもなければ、大統領(12月に辞任)でもないんです。
とは言え、肩書きは無くとも、国家の最高実力者である事には変わりはなく、
苦肉の策として、愛称である「先生」を称号として付けたと(笑)。
まあ「党首」でも良かったのですが、それだと少し味気無いですしね。

ちなみに、前回まで英国領のままになっていた理由は、
このタンガニーカと言う国は、史実ではスタート時から1年半後に、
ザンジバルと合併し、「タンザニア」として再び独立を果たすのですが、
この当時はまだ、イギリスがインド洋の拠点として、
シンガポール・アデン・ザンジバルを抑えていたので、英国領にしました。
ただしエリア名としては、面積が圧倒的なタンガニーカ側を採用した為、
「そこで齟齬が生じるなぁ」と思い、今回のタンガニーカ設立に繋がったと。

> ・ラゴス
> ナイジェリアが自国の憲法を制定するのは1963年である。
> 1962年現在、ナイジェリアは自国の憲法を有していない。
> それどころか、英連邦内で自治権を有しているだけである。

1960年に独立した時点で、ナイジェリアは外交権も軍事力も持ち合わせてますし、
憲法の制定が独立国に必要と言うのも、そもそも宗主国であるイギリス自体、
未だに憲法を制定していない「不文憲法」の国ですよ。
それに、英連邦内で憲法を持たないという条件の国であれば、
あの当時だけでなく現在に至っても、ニュージランドとかが当てはまりますし。
まあ、英連邦に関しては、この後からゆっくりと。

> なお、イギリス連邦が独立主権国家の連合体へと変化したのは1971年ですから、
> いずれの地域でも「イギリス連邦下において、彼らに主権がある」という指摘は的外れです。

え〜と、「コモンウェルス(イギリス連邦)」の変遷に関して、
そもそも、大雑把に捉え過ぎなのでは無いでしょうか?
1971年に大転換があり、その前後で大きく2分される訳ではないですよ。
強いて転換点を挙げるなら、それは1949年の変革だと思います。
以下、簡単ながらコモンウェルスの変遷の説明をば。

イングランド・スコットランド・アイルランド・ウェールズから成る連合王国と、
その連合王国が支配する植民地から、「大英帝国(British Empire)」は出来ていた訳ですが、
カナダやオーストラリアなど入植地から、自治を求める声が大きくなります。
巨大過ぎる大英帝国の統治には、集権的であるよりも分権的である方が適していた事もあり、
20世紀に入ると、それら白人入植地には、先ず内政自治権が与えられるようになり、
共に血を流した第一次世界大戦を契機に、外交や軍事まで認められた自治国となって、
「大英帝国とその連合(British Empire & Commonwealth)」という形になります。
そして、1931年に制定されたウェストミンスター憲章により、
それらの海外自治国は、同じ国王を戴くイギリスと対等な国家となって、
同君連合としての「イギリス連邦(British Commonwealth of Nations)」が成立します。
簡単に言えば、イギリス本国が中央政府を兼務する物的同君連合から、
イギリスを盟主とする人的同君連合へと変化したと言う所でしょうか?
まあ、自分たちの権利意識の高さと、英国社会への帰属意識の高さという、
白人入植民の複雑で綯い交ぜとなった感情意識を、うまく解消する枠組みですよね。
イギリスとしましても、出来るだけ大英帝国ブロックを維持したかった訳ですし。

で、このウェストミンスター憲章と言うのは、
よく言われる、白人入植民が抱える不満のガス抜きをするだけが目的でなく、
独立意識の高いアイルランドを、大英帝国に繋げ止めておく為のモノでもありました。
「アイルランド王国」は植民地と違い、連合王国を構成する国家の1つですからねえ。
1921年にアイルランドの南部26州は、イギリス政府の承認を得て、
英国国王を戴く同君連合の「アイルランド自由国」として独立を果たしますが、
イギリス支配からの完全なる独立を目指すアイルランドは、それでも収まりません。
これに対してイギリス政府は、1931年にウェストミンスター憲章を出して、
イギリスとアイルランドとは対等である事を明文化しますが、これは、
「同じ国王を戴き、その国王に対して忠誠を誓う連合体」であった為、
完全な独立を求めるアイルランドは、1937年に国王からも独立を果たしました。
これが、今に続く「エール(アイルランド共和国)」です。

その後、第二次世界大戦を経て、宗主国が没落すると共に、
自治国と植民地との扱いの違いから生じた不満が噴出し、
各地の植民地は、それぞれ自治権や独立を求めるようになります。
自分たちの権利意識が高い一方、英国社会への帰属意識も高い自治国とは違い、
植民地では宗主国の為に流した血の分だけ、支配からの解放意識が高まります。
で、大英帝国は自らの連合体を守る為、各地の独立を承認すると共に、
何とか旧植民地諸国を、イギリスの連合体の中に繋ぎ止めておこうとします。
1949年、ここでイギリス政府は、連合体からイギリスの名前を取り除き、
ただの「コモンウェルス(Commonwealth of Nations)」という名称にして、
「加盟も離脱も不参加も自由」「国王への忠誠も不要」と要件を緩和。
1948年に独立を果たし、1950年には共和制への移行を控えていたインドに対し、
この変革によって必死に、コモンウェルス内に引き留めようとします。
その結果、インドはコモンウェルス内に留まったものの、
要件の緩和は、完全独立を掲げるアイルランドの離脱を伴いましたし、
植民地支配を屈辱に感じていた中東諸国の多くも、これには不参加でした。

とは言え、プライドの問題さえ解決できれば、
イギリスの市民権や選挙権を与えられ、貿易での関税も優遇され、
定期的に首脳会議やスポーツ大会に招待されるなど、
コモンウェルスに参加する事は、決して悪い話ではない為に、
1996年には、旧ポルトガル植民地のモザンビーク、
2009年には、旧ベルギー植民地のルワンダと、
旧イギリス植民地という枠組みの外からも、参加する国が現れています。
そう言う意味では、インドを連合内に残す為の変革こそが、
結果的に、白人の連合組織から、多人種的な連合組織へと生まれ変えさせ、
コモンウェルスを、巨大な組織として生き残らせる事となりました。
また、この連合体はイギリスの側としても、
世界でも特別な国家関係にあるアメリカとの「英米同盟」や、
ヨーロッパの自由民主主義国家が集合した「EU」の他にも、
イギリスを中心とする「コモンウェルス」という関係を独自に持つ事で、
イギリスの経済・外交世界戦略は、これら3つの柱により幅広くなっています。

2度の世界大戦による疲弊と、各地の民族意識・独立意識の高まりにより、
大英帝国は、武力を背景とした植民地支配という形を失いましたが、
同じく植民地大国であったフランスと異なり、独立容認により既得権益を維持し、
ヒト・モノ・カネの往来を優遇して、帝国の経済網を維持した事で、
緩やかな連合体による、イギリスの為の「経済植民地」を確保できました。
そして、この緩やかな連合体を維持させた要因こそ、
第二次大戦後に「国王への忠誠も不要」とした、コモンウェルスの要件緩和でした。
これにより、英国国王を自国の国王であるとするカナダやオーストラリアも、
英国国王を国家元首とせず、儀礼的な存在の大統領を置くインドやシンガポールも、
大統領が国家元首として、権威も権力も併せ持つガーナなどのアフリカ諸国も、
英国国王とは別に自国の国王を戴くマレーシアも、自ら国王親政を行うブルネイも、
イギリスを中心に、とにかく1つの連合体として纏まれる環境が出来た訳です。

大英帝国の枠組みを維持しようと、妥協に妥協を重ねた結果、
武力による植民地帝国が、緩やかな経済・外交の国際組織へと姿を代えて、
現在まで存続する連合こそ、「コモンウェルス(イギリス連邦)」の実体です。
実際の所、1949年以降は、とても「連邦」と呼べるような代物ではありません。
そして、こうした国際組織への移行を決定づけたモノこそ、
「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、
 協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織」と言う、
1971年に発表された「シンガポール宣言」だったと言う訳です。
この結果、英語圏とか、旧英領圏と言った枠組みは廃され、
先述したように、近年では非英語圏のモザンビークやルワンダが加わってます。

と、長々とコモンウェルスの変遷を辿ってみましたが、
結局、何が言いたかったのかと言えば、
1971年の変革が旧英国植民地に、独立をもたらした訳では無く、
コモンウェルスの転換点は、第二次大戦直後の1949年の変革だと言う事です。
ひょっとしたら、「首相→大統領」の移行を、
「自治領→独立国」の移行と思われたのかも知れませんが、
宗主国のイギリスは、国王を戴く議院内閣制(首相制)の国家であり、
イギリスの植民地に置かれた自治政府も、当然その形に倣う事となります。
そして、フランスに比べて独立を容認する傾向の強かったイギリスの植民地では、
その自治政府が独立組織の母体となる訳ですから、独立初期は首相制ですし、
本国イギリスに成文憲法が無い以上、基本的に自治政府もそれを持ち合わせません。
結局、多くのイギリス植民地は、先ずはイギリス型の国家として独立を果たし、
その後、憲法を作り、共和制へ移行して、首相制から大統領制にします。
大統領制の方が、国を独立へ導いた指導者も、独裁がやり易いですからねえ。
まあ要は、ナイジェリアの独立は1960年、タンガニーカの独立は1961年であり、
共和制へ移行した年が独立した年では無いというのが、ここで私が言いたい事です。


[13273] Re:まとめレス2&英連邦など設定の諸々返信 削除
2010/9/6 (月) 14:18:00 1285

▼ 徳翁導誉さん

> > 下画面の「復興」と「赤化」が逆になっています。
> > 修正お願いします。

> 一覧表の事ですね。
> 修正してみましたが、これでどうでしょ?

ありがとうございます。

> > ・ダルエスサラーム
> > タンガニーカ共和国のニエレレ先生は、独立国の指導者として扱われているが、
> > 1962 年10月現在のニエレレ先生は、イギリス連邦下の植民地政府の首相に過ぎない。

> まずは最初に、簡単ながらタンガニーカとニエレレの歴史を。
> 第一次世界大戦の終結後、ドイツの植民地であったタンガニーカは、
> 大戦後に成立した国際連盟により、イギリスの委任統治領となりました。
> このイギリスのタンガニーカ統治は、第二次世界大戦の終結後も、
> 国際連盟の委任統治領から、国際連合の信託統治領へと替わって続きます。
> そうした準植民地的な支配が続く中、「独立・平等・平和」を掲げ、
> 「タンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)」を創設したのがニエレレでした。
> 1950年代末、アフリカ各地で独立の機運が高まる中でイギリスは、
> ガス抜きの為に、「選挙議員30名&任命議員32名」という議会を作りますが、
> 選挙の方でTANUは、定数30議席の中で28議席を当選させます。
> この圧倒的な選挙結果を受け、翌1960年には自治政府設立の選挙が行われ、
> ここでもTANUが71議席中70議席を獲得して、1961年12月には独立を宣言します。
>
> ちなみに、TANUの党首であり、自治政府の首相であったニエレレは、
> 独立と同時にタンガニーカの初代・首相に就任しますが、
> 就任から1ヶ月ほどで首相を辞任し、側近のカワワを後任の首相に据えると、
> 自身は地方の地固めや、党の体制強化、共和制移行への準備を行い、
> 独立からちょうど1年後、タンガニーカの初代・大統領に就任します。
> ですので実を言うと、ゲーム開始時の1962年10月でニエレレは、
> 首相(1月に辞任)でもなければ、大統領(12月に辞任)でもないんです。
> とは言え、肩書きは無くとも、国家の最高実力者である事には変わりはなく、
> 苦肉の策として、愛称である「先生」を称号として付けたと(笑)。
> まあ「党首」でも良かったのですが、それだと少し味気無いですしね。

スワヒリ語の「ムワリム」を日本語に直したのですね。
国家一覧のところで見ていたら1人だけ「先生」に
なっていてビックリしました。

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