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[13724] 幕府などの話に分派返信 削除
2011/1/8 (土) 18:58:44 ミカエル

▼ 徳翁導誉さん

> 2代将軍の秀忠と3代将軍の家光が、それぞれ、
> 潰した大名の中で、最大のモノは何だったと思います?
> 秀忠は、兄・秀康の子である松平忠直[越前67万石]や、実弟の松平忠輝[越後60万石]、
> 家光は、実弟の徳川忠長[駿河55万石]ですよ(もちろん、無嗣断絶ではありません)。
> 同じ事を繰り返し言うのは嫌いなのですが、全国を一門や家臣で固めた所で、
> 鎌倉幕府のように、一門や主従の間での争いに移行するだけです。


親藩の場合は徳川譜代出身者の家臣がその藩政の枢要を占めていたでしょうから
改易も比較的やりやすいと思いますよ。
武田信吉の水戸15万石の際も家臣達は後の水戸藩に移籍していますし。

> ついでに、もう1つ言うと、例え外様であっても、
> 前田・伊達・毛利・池田・山内・黒田・鍋島・島津などの有力大名には、
> 「松平」姓を与える事により、名誉的に一門として扱われてましたね。
> (家康の娘婿だった池田輝政の池田家は、それこそ準一門として扱われました)


江戸末期になると殆どの大名家が松平姓を名乗るようになってましたね。
ああなると違いがわからなくなります。
 
> 逆に考えれば、なぜ中国は朝廷による中央集権体制が続いたのに、
> 日本ではそれが崩壊し、武士による封建体制に移行したのかを、


中国の場合は王朝交代時には「革命」で完全に体制が入れ替わりますが
また土地が広すぎるため周王朝時に先に封建制が成立してしまったので
その弊害を修正するため秦朝時の郡県制を経て封建制と郡県制の折衷式の郡国制になったのでしょう。
しかしながらそのトップである皇帝の権力は絶対的になっていきます。

日本の場合は古代律令制の時代の制度が形骸化しても江戸初期まで曲がりなりにも存続していたこともあるからでしょう。
天皇制もそうですが律令時そのままの太政官・そして関白などの令外官
は武家政権の鎌倉〜室町期も続いていきます。
その構成員である権門についてもその「姓」についても綿々と続いていますよね。
有名な話としては戦国時代の源平交代思想がありますよね。
羽柴秀吉は源平どちらの姓を名乗る事ができなかったため
(源氏を名乗るために足利義昭の養子になろうとしましたが断られています)
征夷大将軍(源氏であることが条件)になることができず「豊臣」の姓を創設したのは教科書にもあるとおりです。
土地所有についても荘園制度もかなり後期まで存続しております。

このように日本は古代の権威制度が後々まで影響力があったことが
中国とはまた違ったことになったと思います。

> 幕府運営ゲームを作る事で、体感してみると言うのも良いかも?(笑)
> って、年号や用語を無闇やたらと覚えるだけでなく、
> 本来ならこうした事こそ、歴史の授業で学ぶべきなんでしょうけどね。


はい、年号は私はほとんど覚えていませんw

> 天保11年の三方領知替えですね。
> センター試験にも出題された聞いてますけど、本当なのでしょうか?


そうなんですか?センター試験でどのような切り口で出題したのでしょうかねえ。
私は「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」の方で知っていました。
平成初期の本間家の破綻はちょっとびっくりしたものです。


[13734] Re:幕府などの話に分派返信 削除
2011/1/9 (日) 05:31:06 徳翁導誉

> > 2代将軍の秀忠と3代将軍の家光が、それぞれ、
> > 潰した大名の中で、最大のモノは何だったと思います?
> > 秀忠は、兄・秀康の子である松平忠直[越前67万石]や、実弟の松平忠輝[越後60万石]、
> > 家光は、実弟の徳川忠長[駿河55万石]ですよ(もちろん、無嗣断絶ではありません)。

> 親藩の場合は徳川譜代出身者の家臣がその藩政の枢要を占めていたでしょうから
> 改易も比較的やりやすいと思いますよ。
> 武田信吉の水戸15万石の際も家臣達は後の水戸藩に移籍していますし。

ですが、そうした事が出来たのも、家康が生きているからこそで、
家康の死後からは、ドンドン難しくなって行ったと思いますよ。
家康存命の頃は、家康の子供たちが大名として配置される際、
その大名の家臣と言うより、幕府からの御目付け役として、
譜代の家臣たちを「付家老」として送り込んでいたので、
神輿が替われば引き継がせたり、配置換えさせたりも出来ましたけど、
世代交代が進み、更に家康まで亡くなれば、事情は変わりますからねえ。
同じ廃絶でも無嗣と不行跡では違うとは言え、実際に徳川忠長の改易では、
付家老を始め、多くの家臣が連座して改易・蟄居の処分を受けてますし。


> > ついでに、もう1つ言うと、例え外様であっても、
> > 前田・伊達・毛利・池田・山内・黒田・鍋島・島津などの有力大名には、
> > 「松平」姓を与える事により、名誉的に一門として扱われてましたね。

> 江戸末期になると殆どの大名家が松平姓を名乗るようになってましたね。
> ああなると違いがわからなくなります。

江戸の古地図とか見ても、大名屋敷が「松平」だらけですしね(笑)。


> > 逆に考えれば、なぜ中国は朝廷による中央集権体制が続いたのに、
> > 日本ではそれが崩壊し、武士による封建体制に移行したのかを、

> 中国の場合は王朝交代時には「革命」で完全に体制が入れ替わりますが
> また土地が広すぎるため周王朝時に先に封建制が成立してしまったので
> その弊害を修正するため秦朝時の郡県制を経て封建制と郡県制の折衷式の郡国制になったのでしょう。
> しかしながらそのトップである皇帝の権力は絶対的になっていきます。

う〜ん、でも「郡国制」って、妥協の産物と言いますか、
過渡期に出てきた、一過性の仕組みみたいなモノじゃないですかねえ?
秦が段階を踏まずに、一足飛びで中央集権の「郡県制」に移行した為、
また制度的にも未成熟であり、そのシワ寄せを解消する移行期間みたいなモノかと。
郡国制にしても、呉楚七国の乱により建国から50年ほど形骸化しちゃいますし。
その後は、貴族と皇帝、置き換えれば貴族と科挙官僚の綱引きが起き、
時々、遊牧民による征服王朝が出来て、その綱引きに影響を及ぼすと。
でもまあ、最終的には、皇帝へと権限が集約される事になり、
皇帝の公的な手足が科挙官僚なら、私的な手足は宦官となる事で、
今度は科挙官僚と宦官が権力を巡って綱引きをし、皇帝の手元に残るは権威のみ(笑)。
って、宦官は、貴族が居た頃から既に、綱引きのプレイヤーではありましたけどね。

何かダラダラと書いて来ましたが、日本は隋や唐から律令制度の仕組みは導入しても、
結局は「科挙」と「宦官」は導入せずに終わるんですよねえ・・・・
この辺を紐解いていくと、日本と中国の歴史的な政治制度の違いが明らかになるんですかね?

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