| ▼ 徳翁導誉さん
やっぱり年度末です。
消費税の駆け込み需要による物流の混乱を受けここ数週間が多忙でした。
> > > 初めてソ連に行った時の第一印象って、どんな感じでしたか?
> > > 日本との違いや、事前のイメージとの違いなど、強く印象に残った事があれば教えて下さい。
> > ソ連に初めて入国したのはハバロフスクだったのですが、まず街の雰囲気が灰色だったりセピア色なんですよ。
> > 当時の日本と比べても華やかさが全くない土地でした。
> > このあたりは時間が経つにつれて慣れてくるかと思いましたが
> > 結局ヨーロッパロシアに入るまで全く解決しませんでした。
> なるほど、映像から通して伝わる、社会主義国特有の無機質な街並みのイメージは、
> (革命の初期には、前衛アートとの蜜月時代があったんですけどねえ・・・)
> 実際に現地で見てみても、そのまま変わらないんですね(笑)。
> 冷戦が終結して今年で四半世紀が経つ訳ですが、旧東側陣営の諸国も、
> 今では大きな都市だと、そうした街の雰囲気も幾らか変わっているのでしょうか?
街の雰囲気は25年経過してもぱっと目につくところ以外は社会主義時代の無機質な建物が多いですよ。
集合住宅ややたらに広い道路、場所によってはスターリン様式の建物が見えると(笑)
反対に空港や外資が入っているホテルなどは東京よりモダンで綺麗ですね。
噂だとアルバニアのティラナの空港は超近代的だとか(笑)
> > > > クリミアのロシア復帰の可能性はでてくるかもしれませんね。
> > > ロシア系が多数派を占めるクリミア半島では、
> > > 逆に親ロシア派の武装集団によって、議会や空港が占拠されたみたいですね。
> > > http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA1Q05520140227
> > > http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYEA1R02S20140228
> > > しかもクリミア南端には、ロシア海軍の租借港であるセヴァストポリがありますので、
> > > 武装集団の侵入を防ぐとの名目(笑)で、ロシア側は同地での軍配備を強化する一方、
> > > ウクライナの代行政権側も「基地外で軍事行動は侵略行為と見なす」と牽制してますし、
> > > 更にそこへ、中央アジアに強制移住されていた先住民のクリミア・タタール人が、
> > > ソ連崩壊後に続々と帰郷して第3勢力と化してますから、クリミアの情勢は本当に読めない・・・・
> > この二週間でまた情勢が目まぐるしく変化していますね。
その後の2週間で一気にロシアへの編入が進んでしまいましたね。
このまま既成事実化してしまうのでしょうか。
米国といえどクリミア半島まで派兵する気はなさそうですし。
欧州もキエフの政権をどこまで守れるのでしょうか。
> そして何より、編入まで踏み込んでしまうと、欧米との対立の出口戦略が描き難くなる上に、
> 南オセチアやアブハジアに関しても、同様の処置を要する展開になりかないですからねえ・・・・
本当にそうですねえ。
南オセチア・アブハジア・沿ドニエストルなどもそうですし
バルト三国・カザフスタンなどは厳しい状況に置かれるでしょうね。
> ・・・って、もしかして「第二のオセチア」ではなく「第二のチェチェン」の間違いですか?
> それであれば、その可能性は私もあると思います。
すいません。アブハジアのことでした。
> > トゥバのように「独立宣言はしたけど当面はロシアに留まる」って可能性もありますが・・・
> んん?
> これは大戦前の「タンヌ・トゥバ」の事ですか?
> それともソ連崩壊後の「トゥバ共和国」の事ですか?
ソ連崩壊後のトゥバですね。
> > > ところで、話の脱線のきっかけとなったリヴィウですけど(笑)、
> > > 州議会が独立を宣言した後、現在どうなってるんでしょ?
> > > 日本語だと続報が得られないのですが、親ロシア政権の崩壊で独立を引っ込めたのか、
> > > それとも親EU政権が誕生しようが独立の道を進むのか、よく伝わって来ません・・・・
> > リヴォフ周辺が独立することは可能性としては無いのでは?
> > ウクライナ人の国家が2つになってしまいますので不安定化してしまいます。
> う〜ん、まあ普通に考えれば、暫定政権と共同歩調が妥当な線なのでしょうけど、
> 今回のデモが起きる前に、この記事の地図↓を見た際に、
> http://blogs.yahoo.co.jp/yoshij007/32491322.html
> 「何でリヴィウ州だけ色が違うんだろう?」と思った記憶が、強く残ってまして・・・・
> って、キリル文字とか読めないので、これが何なのか未だに謎なままなんですけどね(笑)。
> (「2012」の数字が見えるので、恐らく議会選挙の各州の第一党かな?とは想像しますが)
選挙結果の地図ですね。
リヴィウ州は極右政党(ウクライナの国営放送のトップを襲撃したあの政党)
が第一党だと書かれています。
ちなみにもう一つの地図は前回の大統領選挙の結果です。
ユーシェンコとヤヌコビッチの勢力図ですね。
> > > > まぁ個人的には単なる入国のしやすさのレベルで考えるとソ連よりも
> > > > 今となってはアンドラとかサンマリノの方が厳しいのかも(笑)
> > > > (さすがに連続休暇が10日程度しか取れないので物理的な移動だけ考えると結構キツイっす。)
> > > でもサンマリノならイタリアの地方都市みたいなモノなので、何とかなりそうなイメージも?
> > サンマリノ、行くのは大変ですよ(笑)
> > ローマからアンコナを経てリミニまで行きます。
> > ローマからリミニまで7時間程度かかりますし、そこから国境を越えるバスに乗って1時間ですよ。
> いや何も、サンマリノまで弾丸ツアーで行く事を想定していた訳ではなく、
> 「サンマリノは、ボローニャから2時間ちょっと」という事前認識があったので、
> 「ミラノやフィレンツェに行ったついでに、ボローニャで1泊すれば、サンマリノの日帰り観光も可能では」
> とイメージした次第です(笑)。
今は半弾丸ツアーしかできないのでサンマリノって遠いんですよ(号泣)
10年ほど前、無職の時に行きましたがあの時は時間がありあまっていたので
ベニス(3泊)フェラーラ(2泊)ラヴェンナ(2泊)フィレンツェ(3泊)
とのんびり堪能してきました。
しかしボローニャって駅は10回以上通っているのに乗り換え以外に1回だけ
駅前で食事した以外何もしていないんですよね。
まああの駅はローマ=ベニス=ミラノ=バーリの4方面からくる鉄道が直角に交差する場所であるために
たいてい遅れがでているのですよねー。
それで焦って次の列車に早々に乗ってしまう(笑)
> ところで、西欧だと教皇を頂点とした縦の繋がりの帝国・王国・公国などは何となく解るのですが、
> 東欧世界における帝国・王国・公国などの関係性が、いまいちよく解らないんですよねえ・・・・
> 東ローマ帝国の内部であれば、テマ軍管区制があり、プロノイア制へと移行したという感じですが、
> 例えばセルビア王国やキエフ公国の「王位」や「公位」が、どこから授けられたモノなのか?とか、
> 正教国家における、東ローマ皇帝やコンスタンティノポリス総主教との関係性が、実はよく知りません。
> 西欧世界とは違って、正教会のように国家の方も緩やかな横の繋がりしかなく、
> 王国や公国などの名称も、単に領土の大きさに比例して自称しただけなのでしょうか?
ビザンツ世界における称号ですが前半(マケドニア王朝以前)と後半では
だいぶ違っていて皇帝と帝国からの重要度によって分けられていました。
基本はディオクレティアヌスのテトラルキア制に準じているのですが
所謂「正帝位」(ギリシャ語でバシレイウス)はローマ皇帝とペルシャ皇帝だけで
あとは「副帝位」(ギリシャ語でカイサル)となります。
それ以外ですと「王」(ギリシャ語でレークス、アジア系だとカン)
や「公」(ギリシャ語でデュクス)などが帝国からの重要度に応じて付与されました。
後半になるとビザンツ世界では主に「君侯」(デスポト)を自称していたのですが
ビザンツ帝国の弱体化によりローマ教皇から称号を受けたのです。
セルビア王国もビザンツ側からの史料を見ると「デスポト」なんですよねぇ。
ちなみに「デスポト」の和訳が「専制公」となるのかは私にはよくわかりません。
>
> > ちょうど「ヤロスラブリ」の街の創建1000年だそうで宗教的行事が開かれていました。
> > (教会自体はほぼ廃墟になっているのですが少しずつアレクセイ2世の権威が復活しはじめた時期
> > なのでこのようなこともできたのでしょう)
> 前々から疑問だったのですが、ソ連時代の信仰事情って、実際はどうだったんでしょ?
> 共産主義では宗教に対して否定的な一方、ロシア人自体は敬虔な正教徒のイメージが強いので、
> 目に見える教会の方は廃れていっても、心の中にある信仰心の方は強く残っていたであろう事は、
> ソ連崩壊後の急速な復活ぶりを見るだけでも、何となく想像はつきますけども。
ソ連時代もロシア人は正教を信仰していたと思いますよ。
ブレジネフの葬儀は完全に「正教」式だったと言われています。
> > モスクワで良く出入りしていたのはクトゥーゾフ通7番地の「外国人アパート」
> > だったのですが近くには「ウクライナホテル」や「コメコン本部」そして「ロシア共和国のホワイトハウス」が
> > ありましたが、燃えたバスとかバリケードに覆われたホワイトハウスも普通に写真とれましたね。
> > また、8月革命3日後の22日には普通にクレムリンの中に入れました。
> > エリツィンの勝利宣言の集会には出向いても全く危険を感じることはありませんでした。
> えっ!?
> あのベールイ・ドーム前での勝利集会にも立ち会ったんですか?
> 大群衆だった記憶があるので、現場に居合わせれば参加できそうなのは理解できますが、
> 何より、そんな世界史の1ページに「居合わせた」という事が何より凄いですね!!
偶然ですが居合わせました。確かアルバータ街を出ると行列が出ていたと思います。
> > しかし、この外国人アパートの存在がほぼ正確な情報を入手できたと思いますよ。
> > (この建物の詳細は今井博の「モスクワ特派員報告(岩波新書)」に詳しくでています)
> ちょっと興味が湧きましたけど、調べてみると絶版本ですね・・・・
古本ならまだ手に入れられると思いますよ。
アルメニア総主教とのインタビュー記事や「官製」風刺喜劇作家の紹介など興味深い内容です。
> > > > しかし、当時はインターネットなど無い時代ですから
> > > > モスクワの状況より日本のプロ野球の結果が気になったりするのですが(笑)
> > > 1991年のプロ野球と言うと、12球団で最も優勝から遠ざかっている広島カープが、
> > > 佐々岡の大車輪な活躍もあって、最後にリーグ優勝を果たした年ですね。
> > > 日本シリーズでは佐々岡が第1・4・7戦に先発するという、時代を感じさせる起用を覚えています。
> > そうなんですねぇ。モスクワで起きていることよりそっちの方が大事かも(笑)
> 日本を離れているからこそ、国内に居た時以上に「試合結果が気になる」という話はよく聞きますしね。
> 特にプロ野球の場合、シーズン中は毎日のように試合がありますし、
> 「情報で日本と繋がる」という事を考えると、プロ野球って大きな存在だったのかも?
> 今のプロ野球事情を思うと、過去形になりつつあるのは寂しいですが・・・・
>
> > (私は広島ファン)
> 私は中日ファンですけど、一番下の弟が広島ファンですね。
> まあ私の場合は単純に、プロ野球を見始めた時に住んでいたのが名古屋だったからですが、
> 弟が見始めた頃は、地元に球団が無い静岡に住んでいたので、
> 「緒方・正田・野村・江藤・前田・ロペス・金本・西山」という最強打線に惹かれてファンになり、
> そのおかげで、十数年に及ぶBクラス地獄を味わう羽目に(笑)。
> そんな訳で、1993年の最後の広島リーグ優勝も、私は見てますが、弟は見ていないと。
> ちなみにミカエルさんの年代ですと、私も見てない「赤ヘル旋風」時代まで知ってるのかな?
はい、よーく知っています。
私のころは
「高橋慶・山崎・小早川・山本・衣笠・長嶋・木下・達川、代走は今井」の打線
投手は
「北別府・川口・大野・山根・抑えは小林」
でした。
> > > > その間にロシア語の勉強をしたりアフガン国境に近い地域を訪問したりしていました。
> > > アフガン侵攻自体は1989年に終結しているとは言え、まだまだ記憶が生々しい頃ですからねえ。
> > > ちなみに、この時の移動は陸路だったんですか? 空路だったんですか?
> > ちょうど9月にちょっと日本に帰ることになり、それならちょっと寄り道をしました。
> > レニングラード → 飛行機 → モスクワ → 飛行機 → サマルカンド(ウズベク) → 乗用車
> > → ドゥシャンベ(タジク) → 飛行機 → タシケント (ウズベク) → アバカン (カザフ)
> > → 飛行機 → ハバロフスク → 新潟
> > でした。 今考えると、もうこの経路を再現するのは不可能に近いですねぇ。
> めちゃくちゃ乗り継いでるじゃないですか!?(笑)
> 以前、シベリア鉄道の話が出ていたので、鉄路なのかと勝手に想像してました。
鉄道移動もありますし、空路での移動もあります。
この時は各所に5連泊しながらの移動だったのでだいぶゆっくりした感じです。
しかしこれでも体を壊しましたが。
お腹の調子が悪いのに新潟空港からの帰りに「青春18きっぷ」で東京に各駅停車で帰ってきた記憶があります。
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