| ▼ 徳翁導誉さん
> > > 欧州の基本情勢が中国の春秋時代で止まってると思われます。
> > > 覇者はでるけど統一者(欧州皇帝)はでない・・・
> > > 全盛のローマ帝国のゲルマニア攻略やナポレオン1世ロシア遠征が大成功していれば話は別だったのでしょうが・・・
> う〜ん、それはどうしょう?
> 欧州は分裂しているのが常態であり、中国は統一されているのが常態であった。
> それは一体どうしてかと問えば、
> やはり「地形」の問題が大きいと思うんですよ。
> 海に囲まれ、複雑な地形を擁する欧州に比べると、
> 中国は比較的に平坦で、大きな障害は長江くらいですからねえ。
付け加えますと地形が平坦と言うことは規模の小さい集団では
自衛が困難になると言う面もありますね。
現に欧州でも地形が比較的平坦なポーランドやハンガリーは
征服されるか領域の大きな国家で纏まるかと言った傾向があります。
逆に地形が複雑な辺り(スイスなど)は割と小集団でも存続できてますね。
中国は小集団だと周辺国の餌食にされるので
大集団で纏まろうとするのでしょう。
ただ本来的には各地方は別集団なところがある(ex.北京語・広東語が別言語と言ってもいいくらいに異なる)
のでかなり無理して纏まっている感はありますね。
> ですので、「春秋時代で止まってる」と言うか、
> 地形的な要因からそうなったんだと思うので、
> 欧州の場合、例え統一されても、それを維持できないんじゃないですかねえ?
統一していたローマでも分割統治(テトラルキアなど)は頻繁に行なわれていましたし、
フランク及びは分裂、ナポレオンや第三帝国に至っては
僅かな期間しか存続しえませんでしたので維持は出来ていませんね。
せいぜいでEUのような緩やかな纏まりが限界でしょう。
> だからこそ、以前おっしゃられていたような「決戦」は、中国の方こそ多かったのかと。
> 昆陽や[シ肥]水(ヒスイ)に該当するような戦いって、
> 欧州の歴史にはそんなに無いような気がします。
>
> でもまあ、地形的要因により、
> 欧州が分裂し、中国が統一したのが、
> 歴史の「必然」であるとまでは言い切りませんけどね。
> そう言った意味では、地形による「分裂・統一」の「必然性」と「偶然性」を語る上で、
> 分裂期以外で、四川に独立国が登場しなかったのは、
> 結構面白い議題だと思います。
四川は独立していくにはあまりにも土地が貧しすぎる
(日照時間が極端に少ないため麦や米などの作物が育たない)ので
独立したとしても中原に飲み込まれていく宿命と言えるのかも知れません。
あと長安などの政権中枢及び湖北・湖南の経済的重要拠点を脅かせるので
放置しておくには危険と言う面もありますね。
>
>
> > 今更ですが石原莞爾も戦争に関しては西洋のほうが発達したと考えています。
> > それにかんして、石原莞爾は物秦さんの指摘した点が原因だと本に書いています。
> > 簡単に説明すると、東洋は中国が強大であり、北方民族に征服されたりもしたが、北方民族は中国の文化を尊重した。
> > 民族意識も大きくはなかったし、土地も広大であったため、戦争の深刻さを緩和した。
> > しかし西洋は狭い土地に多数の強大な民族が存在したうえ、民族間の対立もあった。
> > そのため、戦争が発達したと。
> どれだけ場数を踏んで来たかって事ですよね。
> それは外交面でも、よく見受けられると思います。
> 複数の国家が林立している欧州各国に比べると、
> 日本の外交力というのは、本当に御粗末な面が目立ちますよねえ・・・・
> 「欧州情勢は複雑怪奇」と言って、首相が辞めちゃうくらいですし。
場数そのもので言えば中国は必ずしも少なくないんですがねぇ・・・
ただ中国の場合は内乱や北方騎馬民族の侵入と
毎度お馴染みのパターンの繰り返しだったので
それが技術革新を鈍らせた、と言ったところでしょうか。
まあ、春秋戦国期の技術革新は当時としては凄まじいものだったので
この辺りでほぼ完成してしまった部分もありますね。
>
> それと、物理をやっていて感じさせられるのは、
> やはり西洋人って、モノの考え方が凄く論理的なんですよね。
> 論理的である事が最良であるかどうかは別としても、
> それでも、例えば微積分を取ってみても、
> 運動を変化で捉える所から始まった欧州に比べて、
> 日本の和算は、クイズ的に図形の面積を求める為に生まれましたからねえ。
> 数学的なセンスが同程度であったとしても、
> そこから繋がるモノが、全く異なってくる訳です。
>
> > つまり、西洋では同レベルの国家が狭い土地を巡り、
> > 戦争を繰り返す状況が続いたため、発達した。
> > 東洋では基本的に中国が強く、民族意識も低く、土地が広大であったため戦争の必要が薄れ、
> > あまり戦争は発達しなかった。
> > というのが、石原莞爾の意見です。
> そうした面でも、地理的な要因が大きかったように思います。
> 中国の場合、地形が平坦であったが為に、
> 複数の国家が併存しづらく、その分、統一されやすかった。
> そうして、統一の為に民族的な混融が進み、民族意識までも混ざり合った。
複数国家の併存自体は割と出来てしまうところもあると思います。
五代十国期あたりがいい例ですし、民国期もある意味
併存と言えるのではないでしょうか。
>
> とは言え、近現代の民族主義的な民族意識に関しては、
> 発生までの誤差が数十年程度あるだけで、中身はそこまで大差無いように思います。
> まあ、石原莞爾が生きた時代は丁度、
> その「誤差ある数十年」の時期だったですけど。
> 実際に石原の中国人観も、コロコロと変わってますからねえ。
>
> あと、「土地が広大」と言う点が上げられていますが、
> 広大な土地は、膨大な人口を抱えている訳で、
> 「人口密度」として捉えた場合は、どうなんでしょうかねえ?
> また、遊牧民の住む北方となりますと、
> 土地があっても、生産力が低いですからねえ。
> ここで出てくるのが、第二の地理的要因です。
>
> 中国とモンゴルを結んだ東アジアが、「南北」から成るのに対して、
> 欧州というのは、西欧と東欧の「東西」から成るんですよねえ。
> 南北か?東西か?と言うのは、結構違いがあり、
> 同じ1000km離れた土地でも、東西ならば気候等はほとんど変わりませんが、
> これが南北だと大きく異なってきます。
> 気候的条件が異なれば、生活様式まで異なり、
> 生活様式が異なれば、文化まで異なるものです。
> それにより、文化による棲み分けが容易となり、
> 接触や衝突も、幾分か減るように思います。
>
> つまりは、農業に適さない北方は、
> 中国から見て、あまり魅力的ではなく、
> 逆に遊牧民から見ても、放牧に適さない南方は同様。
> どうしても、その土地を抑えようとすると、
> 結果的に、その土地の文化に合わさざるを得なくなる。
> 北方の民族が中国文化を尊重したというよりは、
> 中国を統治する以上、そう変質せざるを得なかったんでしょうね。
>
> その一方で、中国から北方を見た場合は、
> 海にも面さず、大きな河川も無い為、
> 生産力が低く、抑え辛かった面もあると思います。
> まあでも、そう言った過酷な環境では、
> 兵は精悍になっても、文明は育ちませんからねえ。
> いろいろと複合的な要因があったのだと思います。
まあ、その気候が変わってしまいますと、
牧草地(+略奪品)を求めて南下したり、北方へ農地(+防衛ライン)を広げたり
してしまうので住み分けはなかなか持続しませんね・・・
>
> しかし欧州では、国家の林立を許す複雑な地形、
> 文化的に似かより易い東西の繋がり、
> 南北両方向を海に囲まれた生産力が等しい土地柄と、
> 共存・接触・均衡のバランスがうまく取れていたんでしょうね。
> ローマ教皇という、宗教的な存在もありましたし。
個人的には古代末期の民族移動が大きいんではないかと見ています。
ゲルマンと一口に言っても様々な部族がいたので
後に成立した国家はこの部族が土台となっています。
(ex.フランク→仏・独、ランゴバルド→伊、西ゴート→西etc)
西欧の王権は皇帝権と違い血筋に基づいているので
王権では他部族を支配する正統な理由がありません。
それで同君連合といった話が出てくるのですが、
統一となると皇帝権に拠る他ありません。
ただ、この皇帝権はナポレオンまではローマ皇帝以外にはいませんが
ローマ皇帝、中世以降ですと神聖ローマ皇帝あるいはビザンツ皇帝は
いずれも弱体(時期にもよりますが)だったので
このあたりが欧州が統一されなかった理由なのではないでしょうか?
> 一方で中国には、統一を促す「漢字」という存在もあったと。
> かなり大雑把に言ってしまえば、こんな所ですかねえ?
欧州とは対照的に中華皇帝は権力が強大だったため、
これに対抗できる勢力が無かったことも理由として挙げられるでしょう。
>
> それと、書いていて少し思ったんですが、
> 南北に伸びる中国に於いて、
> その中心は「長安→洛陽→開封→北京」と西から東へ移り、
> 東西に伸びる奥州に於いて、
> その中心が「地中海南岸→地中海北岸→北海沿岸」と
> 南から北へと移っているのは、ちょっと面白いですね。
> 互いに、南北と東西のバランスは保ったままですが、
> どうしてこう言う感じになったのかは、興味深い所です。
中国の場合は専ら利便性の問題でしょうか?
長安は秦の統治システムを利用、洛陽は生産力が高い、
開封は大運河の結節点、北京はモンゴルや満州に近い
といった利点があります。
欧州の場合は元々南方が先進的であったものの
潜在的な力は北方の方が優れていたため、
開発が進むにつれて北へ移ったといったところでしょうか。
ちなみに個人的にはローマ帝国がなぜイタリア半島から生まれたか?
という点が興味深いですね。
中世以降のイタリアの歴史を見ていると、よくあんなところで
潰れずに成長できたなあ、と感心させられます。 |
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