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[5433] 新作フラッシュ返信 削除
2008/2/18 (月) 21:32:16 R・グループ 〔HomePage

お世話になっております。
新作フラッシュを作りましたので宣伝に参りました。

「北清事変」
http://movie.geocities.jp/r_groop_zzz/12_Hokushin.html

世界史じゃなくて、これは日本史じゃないか。
というつっこみを戴きそうですが、
外交史という観点から創っていますのでご容赦ください。


[5447] Re:新作フラッシュ返信 削除
2008/2/19 (火) 19:26:47 徳翁導誉

> お世話になっております。
> 新作フラッシュを作りましたので宣伝に参りました。
>
> 「北清事変」
> http://movie.geocities.jp/r_groop_zzz/12_Hokushin.html
>
> 世界史じゃなくて、これは日本史じゃないか。
> というつっこみを戴きそうですが、
> 外交史という観点から創っていますのでご容赦ください。

おっ、新作ですか。
まあ日本史も世界史の一環ですし、
義和団事件ともなれば、日本史以上に世界史の範疇でしょうから、
特に問題は無いと思いますよ。
地図型リンク集の方にも貼っておきました。

ちなみに義和団事件に関しては、そのまま義和団ではないものの、
柴五郎を題材にしたFlashも構想内には有りました(笑)。
とは言っても、関連本を4〜5冊読んだ程度で、
Flash作品としては、全く手掛けてませんでしたけど。
会津落城と、それに続く斗南での苦労から始まり、
最後は大日本帝国の崩壊を目の当たりにしての自害ですからねえ。
林忠崇などと並び、個人的に気になる人物です。

ただ、柴五郎が主題ですと、
義和団事件はもっと薄い扱いになっていたでしょうし、
これで良かったのかも?(笑)
私の場合、あそこまで詳細に、戦いの内容に触れませんからねえ。
たまには、戦術展開にこだわった作品を作るのも面白いかも知れません。
そう言えば以前、「戦術の歴史」を題材にするのも面白そうって話をしましたね。


[5462] Re2:新作フラッシュ返信 削除
2008/2/19 (火) 22:58:15 物秦

並び、個人的に気になる人物です。
>
> ただ、柴五郎が主題ですと、
> 義和団事件はもっと薄い扱いになっていたでしょうし、
> これで良かったのかも?(笑)
> 私の場合、あそこまで詳細に、戦いの内容に触れませんからねえ。
> たまには、戦術展開にこだわった作品を作るのも面白いかも知れません。
> そう言えば以前、「戦術の歴史」を題材にするのも面白そうって話をしましたね。

戦術の歴史ですか・・・
 戦術だと商周革命から現代までやったら長編だ・・・
インダス川を基点に東洋と西洋に編分けしても辛いですかね?


[5483] 戦術の歴史返信 削除
2008/2/21 (木) 19:20:26 徳翁導誉

> > たまには、戦術展開にこだわった作品を作るのも面白いかも知れません。
> > そう言えば以前、「戦術の歴史」を題材にするのも面白そうって話をしましたね。

> 戦術の歴史ですか・・・
>  戦術だと商周革命から現代までやったら長編だ・・・
> インダス川を基点に東洋と西洋に編分けしても辛いですかね?

「戦術」というよりも、「戦闘教義」といった方が適当ですかねえ?
有史以来、数え切れない程の戦争があり、多くの名将を生み出しましたが、
戦い方が大きく変わるような戦術の変換点は、
実の所、そんなに多くはありません。

また、そうした「戦闘教義の変遷」という意味では、
私の知る限りに於いては、東洋はあまり、
西洋ほどのモノを残せていませんよね。
世界的に影響を与えたのはモンゴルくらいでしょうか?
用兵面なら韓信が凄いですけど、戦術に革命を起こした訳ではなく、
「孫子」にしても、戦術書と言うよりは戦略書ですからねえ。
ひょっとしたら、世界的な戦術史に名を残す東洋人の一番手となると、
あれほど大規模なゲリラ戦を行った毛沢東なのかも知れません。
って、ゲリラ戦まで行くと、戦略やら政治やらも絡んできて、
純粋に「戦術」として括れるか分かりませんが。


[5496] Re:戦術の歴史返信 削除
2008/2/21 (木) 20:52:33 物秦

> また、そうした「戦闘教義の変遷」という意味では、
> 私の知る限りに於いては、東洋はあまり、
> 西洋ほどのモノを残せていませんよね。
> 世界的に影響を与えたのはモンゴルくらいでしょうか?

 欧州は短期決戦思想が強かったからでは?
実際東洋(インダス川以東)では戦争で連敗してるのにその他で勝利してカバーするってのが多いです。
> 用兵面なら韓信が凄いですけど、戦術に革命を起こした訳ではなく、
> 「孫子」にしても、戦術書と言うよりは戦略書ですからねえ。

 実際中国で決戦って有りますか?一回の大戦即滅亡した勢力は少ない様な・・・
だから戦争に負けてもカバーできる戦略が発達したのでは?
持久戦の思想です。
日本も苛烈な戦国時代ですら決戦後即滅亡は厳島位です。
> ひょっとしたら、世界的な戦術史に名を残す東洋人の一番手となると、
> あれほど大規模なゲリラ戦を行った毛沢東なのかも知れません。

 ゲリラ戦だったら越南でナポレオン三世の仏軍を撃滅した劉永福将軍が先駆では?
密林地帯に敵軍を引き込こみ敵の大火力を封じて、鉄砲で狙い撃ち!
これの洗練晩が胡志明率いるベトミンですから・・・
> って、ゲリラ戦まで行くと、戦略やら政治やらも絡んできて、
> 純粋に「戦術」として括れるか分かりませんが。

ゲリラ戦自体ならば戦術では?
焦土作戦も戦術らしいので・・・


[5503] Re2:戦術の歴史返信 削除
2008/2/21 (木) 21:18:17 徳翁導誉

> > 用兵面なら韓信が凄いですけど、戦術に革命を起こした訳ではなく、
> > 「孫子」にしても、戦術書と言うよりは戦略書ですからねえ。

>  実際中国で決戦って有りますか?一回の大戦即滅亡した勢力は少ない様な・・・
> だから戦争に負けてもカバーできる戦略が発達したのでは?

それはある程度、西洋でも同じなのでは?
スペインやフランスなど、国家の枠組みが守られ続けてきた欧州に比べると、
中国の方が却って、戦争の勝敗結果が存続に占める割合も大きいような・・・・
ローマ教皇を動かして、政治的に決着させるなんて事も無いですし。
まあ、だからこそ、欧州のように分裂せず、
中国は1つであったんじゃないですかねえ?

> > ひょっとしたら、世界的な戦術史に名を残す東洋人の一番手となると、
> > あれほど大規模なゲリラ戦を行った毛沢東なのかも知れません。

>  ゲリラ戦だったら越南でナポレオン三世の仏軍を撃滅した劉永福将軍が先駆では?

いや、ゲリラ戦そのものは、
歴史的にも古くから行われていた戦い方ですが、
毛沢東が画期的だったのは、それを「あの規模」でやった事ではないかと。
それまでのゲリラ戦は大きくても、せいぜい地域単位でしたし。

> > って、ゲリラ戦まで行くと、戦略やら政治やらも絡んできて、
> > 純粋に「戦術」として括れるか分かりませんが。

> ゲリラ戦自体ならば戦術では?
> 焦土作戦も戦術らしいので・・・

しかし、レギオンやら、三兵戦術やらとは、
明らかに一線を画しますよねえ?
後方支援や住民の支持など、戦術外の事も無ければ行えないモノですし。


[5505] Re3:戦術の歴史返信 削除
2008/2/21 (木) 21:28:40 物秦

> それはある程度、西洋でも同じなのでは?
> スペインやフランスなど、国家の枠組みが守られ続けてきた欧州に比べると、
> 中国の方が却って、戦争の勝敗結果が存続に占める割合も大きいような・・・・
> ローマ教皇を動かして、政治的に決着させるなんて事も無いですし。
> まあ、だからこそ、欧州のように分裂せず、
> 中国は1つであったんじゃないですかねえ?

 欧州の基本情勢が中国の春秋時代で止まってると思われます。
覇者はでるけど統一者(欧州皇帝)はでない・・・
全盛のローマ帝国のゲルマニア攻略やナポレオン1世ロシア遠征が大成功していれば話は別だったのでしょうが・・・
> > > ひょっとしたら、世界的な戦術史に名を残す東洋人の一番手となると、
> > > あれほど大規模なゲリラ戦を行った毛沢東なのかも知れません。

> >  ゲリラ戦だったら越南でナポレオン三世の仏軍を撃滅した劉永福将軍が先駆では?

> いや、ゲリラ戦そのものは、
> 歴史的にも古くから行われていた戦い方ですが、
> 毛沢東が画期的だったのは、それを「あの規模」でやった事ではないかと。
> それまでのゲリラ戦は大きくても、せいぜい地域単位でしたし。

 一応「地域」なんですよね・・・唐土は広い
> > > って、ゲリラ戦まで行くと、戦略やら政治やらも絡んできて、
> > > 純粋に「戦術」として括れるか分かりませんが。

> > ゲリラ戦自体ならば戦術では?
> > 焦土作戦も戦術らしいので・・・

> しかし、レギオンやら、三兵戦術やらとは、
> 明らかに一線を画しますよねえ?
> 後方支援や住民の支持など、戦術外の事も無ければ行えないモノですし。

総力戦の戦術ですからね・・・


[5507] Re4:戦術の歴史返信 削除
2008/2/21 (木) 22:37:37 ルーキウス

▼ 物秦さん
> > それはある程度、西洋でも同じなのでは?
> > スペインやフランスなど、国家の枠組みが守られ続けてきた欧州に比べると、
> > 中国の方が却って、戦争の勝敗結果が存続に占める割合も大きいような・・・・
> > ローマ教皇を動かして、政治的に決着させるなんて事も無いですし。
> > まあ、だからこそ、欧州のように分裂せず、
> > 中国は1つであったんじゃないですかねえ?

>  欧州の基本情勢が中国の春秋時代で止まってると思われます。
> 覇者はでるけど統一者(欧州皇帝)はでない・・・
> 全盛のローマ帝国のゲルマニア攻略やナポレオン1世ロシア遠征が大成功していれば話は別だったのでしょうが・・・


今更ですが石原莞爾も戦争に関しては西洋のほうが発達したと考えています。
それにかんして、石原莞爾は物秦さんの指摘した点が原因だと本に書いています。
簡単に説明すると、東洋は中国が強大であり、北方民族に征服されたりもしたが、北方民族は中国の文化を尊重した。
民族意識も大きくはなかったし、土地も広大であったため、戦争の深刻さを緩和した。
しかし西洋は狭い土地に多数の強大な民族が存在したうえ、民族間の対立もあった。
そのため、戦争が発達したと。
つまり、西洋では同レベルの国家が狭い土地を巡り、
戦争を繰り返す状況が続いたため、発達した。
東洋では基本的に中国が強く、民族意識も低く、土地が広大であったため戦争の必要が薄れ、
あまり戦争は発達しなかった。
というのが、石原莞爾の意見です。


[5542] Re5:戦術の歴史返信 削除
2008/2/23 (土) 23:45:24 徳翁導誉

> >  欧州の基本情勢が中国の春秋時代で止まってると思われます。
> > 覇者はでるけど統一者(欧州皇帝)はでない・・・
> > 全盛のローマ帝国のゲルマニア攻略やナポレオン1世ロシア遠征が大成功していれば話は別だったのでしょうが・・・

う〜ん、それはどうしょう?
欧州は分裂しているのが常態であり、中国は統一されているのが常態であった。
それは一体どうしてかと問えば、
やはり「地形」の問題が大きいと思うんですよ。
海に囲まれ、複雑な地形を擁する欧州に比べると、
中国は比較的に平坦で、大きな障害は長江くらいですからねえ。

ですので、「春秋時代で止まってる」と言うか、
地形的な要因からそうなったんだと思うので、
欧州の場合、例え統一されても、それを維持できないんじゃないですかねえ?
だからこそ、以前おっしゃられていたような「決戦」は、中国の方こそ多かったのかと。
昆陽や[シ肥]水(ヒスイ)に該当するような戦いって、
欧州の歴史にはそんなに無いような気がします。

でもまあ、地形的要因により、
欧州が分裂し、中国が統一したのが、
歴史の「必然」であるとまでは言い切りませんけどね。
そう言った意味では、地形による「分裂・統一」の「必然性」と「偶然性」を語る上で、
分裂期以外で、四川に独立国が登場しなかったのは、
結構面白い議題だと思います。


> 今更ですが石原莞爾も戦争に関しては西洋のほうが発達したと考えています。
> それにかんして、石原莞爾は物秦さんの指摘した点が原因だと本に書いています。
> 簡単に説明すると、東洋は中国が強大であり、北方民族に征服されたりもしたが、北方民族は中国の文化を尊重した。
> 民族意識も大きくはなかったし、土地も広大であったため、戦争の深刻さを緩和した。
> しかし西洋は狭い土地に多数の強大な民族が存在したうえ、民族間の対立もあった。
> そのため、戦争が発達したと。

どれだけ場数を踏んで来たかって事ですよね。
それは外交面でも、よく見受けられると思います。
複数の国家が林立している欧州各国に比べると、
日本の外交力というのは、本当に御粗末な面が目立ちますよねえ・・・・
「欧州情勢は複雑怪奇」と言って、首相が辞めちゃうくらいですし。

それと、物理をやっていて感じさせられるのは、
やはり西洋人って、モノの考え方が凄く論理的なんですよね。
論理的である事が最良であるかどうかは別としても、
それでも、例えば微積分を取ってみても、
運動を変化で捉える所から始まった欧州に比べて、
日本の和算は、クイズ的に図形の面積を求める為に生まれましたからねえ。
数学的なセンスが同程度であったとしても、
そこから繋がるモノが、全く異なってくる訳です。

> つまり、西洋では同レベルの国家が狭い土地を巡り、
> 戦争を繰り返す状況が続いたため、発達した。
> 東洋では基本的に中国が強く、民族意識も低く、土地が広大であったため戦争の必要が薄れ、
> あまり戦争は発達しなかった。
> というのが、石原莞爾の意見です。

そうした面でも、地理的な要因が大きかったように思います。
中国の場合、地形が平坦であったが為に、
複数の国家が併存しづらく、その分、統一されやすかった。
そうして、統一の為に民族的な混融が進み、民族意識までも混ざり合った。

とは言え、近現代の民族主義的な民族意識に関しては、
発生までの誤差が数十年程度あるだけで、中身はそこまで大差無いように思います。
まあ、石原莞爾が生きた時代は丁度、
その「誤差ある数十年」の時期だったですけど。
実際に石原の中国人観も、コロコロと変わってますからねえ。

あと、「土地が広大」と言う点が上げられていますが、
広大な土地は、膨大な人口を抱えている訳で、
「人口密度」として捉えた場合は、どうなんでしょうかねえ?
また、遊牧民の住む北方となりますと、
土地があっても、生産力が低いですからねえ。
ここで出てくるのが、第二の地理的要因です。

中国とモンゴルを結んだ東アジアが、「南北」から成るのに対して、
欧州というのは、西欧と東欧の「東西」から成るんですよねえ。
南北か?東西か?と言うのは、結構違いがあり、
同じ1000km離れた土地でも、東西ならば気候等はほとんど変わりませんが、
これが南北だと大きく異なってきます。
気候的条件が異なれば、生活様式まで異なり、
生活様式が異なれば、文化まで異なるものです。
それにより、文化による棲み分けが容易となり、
接触や衝突も、幾分か減るように思います。

つまりは、農業に適さない北方は、
中国から見て、あまり魅力的ではなく、
逆に遊牧民から見ても、放牧に適さない南方は同様。
どうしても、その土地を抑えようとすると、
結果的に、その土地の文化に合わさざるを得なくなる。
北方の民族が中国文化を尊重したというよりは、
中国を統治する以上、そう変質せざるを得なかったんでしょうね。

その一方で、中国から北方を見た場合は、
海にも面さず、大きな河川も無い為、
生産力が低く、抑え辛かった面もあると思います。
まあでも、そう言った過酷な環境では、
兵は精悍になっても、文明は育ちませんからねえ。
いろいろと複合的な要因があったのだと思います。

しかし欧州では、国家の林立を許す複雑な地形、
文化的に似かより易い東西の繋がり、
南北両方向を海に囲まれた生産力が等しい土地柄と、
共存・接触・均衡のバランスがうまく取れていたんでしょうね。
ローマ教皇という、宗教的な存在もありましたし。
一方で中国には、統一を促す「漢字」という存在もあったと。
かなり大雑把に言ってしまえば、こんな所ですかねえ?

それと、書いていて少し思ったんですが、
南北に伸びる中国に於いて、
その中心は「長安→洛陽→開封→北京」と西から東へ移り、
東西に伸びる奥州に於いて、
その中心が「地中海南岸→地中海北岸→北海沿岸」と
南から北へと移っているのは、ちょっと面白いですね。
互いに、南北と東西のバランスは保ったままですが、
どうしてこう言う感じになったのかは、興味深い所です。


[5569] Re6:戦術の歴史返信 削除
2008/2/25 (月) 01:28:00 Bernstein

▼ 徳翁導誉さん
> > >  欧州の基本情勢が中国の春秋時代で止まってると思われます。
> > > 覇者はでるけど統一者(欧州皇帝)はでない・・・
> > > 全盛のローマ帝国のゲルマニア攻略やナポレオン1世ロシア遠征が大成功していれば話は別だったのでしょうが・・・

> う〜ん、それはどうしょう?
> 欧州は分裂しているのが常態であり、中国は統一されているのが常態であった。
> それは一体どうしてかと問えば、
> やはり「地形」の問題が大きいと思うんですよ。
> 海に囲まれ、複雑な地形を擁する欧州に比べると、
> 中国は比較的に平坦で、大きな障害は長江くらいですからねえ。

付け加えますと地形が平坦と言うことは規模の小さい集団では
自衛が困難になると言う面もありますね。
現に欧州でも地形が比較的平坦なポーランドやハンガリーは
征服されるか領域の大きな国家で纏まるかと言った傾向があります。
逆に地形が複雑な辺り(スイスなど)は割と小集団でも存続できてますね。

中国は小集団だと周辺国の餌食にされるので
大集団で纏まろうとするのでしょう。
ただ本来的には各地方は別集団なところがある(ex.北京語・広東語が別言語と言ってもいいくらいに異なる)
のでかなり無理して纏まっている感はありますね。
 
> ですので、「春秋時代で止まってる」と言うか、
> 地形的な要因からそうなったんだと思うので、
> 欧州の場合、例え統一されても、それを維持できないんじゃないですかねえ?

統一していたローマでも分割統治(テトラルキアなど)は頻繁に行なわれていましたし、
フランク及びは分裂、ナポレオンや第三帝国に至っては
僅かな期間しか存続しえませんでしたので維持は出来ていませんね。
せいぜいでEUのような緩やかな纏まりが限界でしょう。
> だからこそ、以前おっしゃられていたような「決戦」は、中国の方こそ多かったのかと。
> 昆陽や[シ肥]水(ヒスイ)に該当するような戦いって、
> 欧州の歴史にはそんなに無いような気がします。
>
> でもまあ、地形的要因により、
> 欧州が分裂し、中国が統一したのが、
> 歴史の「必然」であるとまでは言い切りませんけどね。
> そう言った意味では、地形による「分裂・統一」の「必然性」と「偶然性」を語る上で、
> 分裂期以外で、四川に独立国が登場しなかったのは、
> 結構面白い議題だと思います。

四川は独立していくにはあまりにも土地が貧しすぎる
(日照時間が極端に少ないため麦や米などの作物が育たない)ので
独立したとしても中原に飲み込まれていく宿命と言えるのかも知れません。
あと長安などの政権中枢及び湖北・湖南の経済的重要拠点を脅かせるので
放置しておくには危険と言う面もありますね。
>
>
> > 今更ですが石原莞爾も戦争に関しては西洋のほうが発達したと考えています。
> > それにかんして、石原莞爾は物秦さんの指摘した点が原因だと本に書いています。
> > 簡単に説明すると、東洋は中国が強大であり、北方民族に征服されたりもしたが、北方民族は中国の文化を尊重した。
> > 民族意識も大きくはなかったし、土地も広大であったため、戦争の深刻さを緩和した。
> > しかし西洋は狭い土地に多数の強大な民族が存在したうえ、民族間の対立もあった。
> > そのため、戦争が発達したと。

> どれだけ場数を踏んで来たかって事ですよね。
> それは外交面でも、よく見受けられると思います。
> 複数の国家が林立している欧州各国に比べると、
> 日本の外交力というのは、本当に御粗末な面が目立ちますよねえ・・・・
> 「欧州情勢は複雑怪奇」と言って、首相が辞めちゃうくらいですし。

場数そのもので言えば中国は必ずしも少なくないんですがねぇ・・・
ただ中国の場合は内乱や北方騎馬民族の侵入と
毎度お馴染みのパターンの繰り返しだったので
それが技術革新を鈍らせた、と言ったところでしょうか。
まあ、春秋戦国期の技術革新は当時としては凄まじいものだったので
この辺りでほぼ完成してしまった部分もありますね。
>
> それと、物理をやっていて感じさせられるのは、
> やはり西洋人って、モノの考え方が凄く論理的なんですよね。
> 論理的である事が最良であるかどうかは別としても、
> それでも、例えば微積分を取ってみても、
> 運動を変化で捉える所から始まった欧州に比べて、
> 日本の和算は、クイズ的に図形の面積を求める為に生まれましたからねえ。
> 数学的なセンスが同程度であったとしても、
> そこから繋がるモノが、全く異なってくる訳です。
>
> > つまり、西洋では同レベルの国家が狭い土地を巡り、
> > 戦争を繰り返す状況が続いたため、発達した。
> > 東洋では基本的に中国が強く、民族意識も低く、土地が広大であったため戦争の必要が薄れ、
> > あまり戦争は発達しなかった。
> > というのが、石原莞爾の意見です。

> そうした面でも、地理的な要因が大きかったように思います。
> 中国の場合、地形が平坦であったが為に、
> 複数の国家が併存しづらく、その分、統一されやすかった。
> そうして、統一の為に民族的な混融が進み、民族意識までも混ざり合った。

複数国家の併存自体は割と出来てしまうところもあると思います。
五代十国期あたりがいい例ですし、民国期もある意味
併存と言えるのではないでしょうか。
>
> とは言え、近現代の民族主義的な民族意識に関しては、
> 発生までの誤差が数十年程度あるだけで、中身はそこまで大差無いように思います。
> まあ、石原莞爾が生きた時代は丁度、
> その「誤差ある数十年」の時期だったですけど。
> 実際に石原の中国人観も、コロコロと変わってますからねえ。
>
> あと、「土地が広大」と言う点が上げられていますが、
> 広大な土地は、膨大な人口を抱えている訳で、
> 「人口密度」として捉えた場合は、どうなんでしょうかねえ?
> また、遊牧民の住む北方となりますと、
> 土地があっても、生産力が低いですからねえ。
> ここで出てくるのが、第二の地理的要因です。
>
> 中国とモンゴルを結んだ東アジアが、「南北」から成るのに対して、
> 欧州というのは、西欧と東欧の「東西」から成るんですよねえ。
> 南北か?東西か?と言うのは、結構違いがあり、
> 同じ1000km離れた土地でも、東西ならば気候等はほとんど変わりませんが、
> これが南北だと大きく異なってきます。
> 気候的条件が異なれば、生活様式まで異なり、
> 生活様式が異なれば、文化まで異なるものです。
> それにより、文化による棲み分けが容易となり、
> 接触や衝突も、幾分か減るように思います。
>
> つまりは、農業に適さない北方は、
> 中国から見て、あまり魅力的ではなく、
> 逆に遊牧民から見ても、放牧に適さない南方は同様。
> どうしても、その土地を抑えようとすると、
> 結果的に、その土地の文化に合わさざるを得なくなる。
> 北方の民族が中国文化を尊重したというよりは、
> 中国を統治する以上、そう変質せざるを得なかったんでしょうね。
>
> その一方で、中国から北方を見た場合は、
> 海にも面さず、大きな河川も無い為、
> 生産力が低く、抑え辛かった面もあると思います。
> まあでも、そう言った過酷な環境では、
> 兵は精悍になっても、文明は育ちませんからねえ。
> いろいろと複合的な要因があったのだと思います。

まあ、その気候が変わってしまいますと、
牧草地(+略奪品)を求めて南下したり、北方へ農地(+防衛ライン)を広げたり
してしまうので住み分けはなかなか持続しませんね・・・
>
> しかし欧州では、国家の林立を許す複雑な地形、
> 文化的に似かより易い東西の繋がり、
> 南北両方向を海に囲まれた生産力が等しい土地柄と、
> 共存・接触・均衡のバランスがうまく取れていたんでしょうね。
> ローマ教皇という、宗教的な存在もありましたし。

個人的には古代末期の民族移動が大きいんではないかと見ています。
ゲルマンと一口に言っても様々な部族がいたので
後に成立した国家はこの部族が土台となっています。
(ex.フランク→仏・独、ランゴバルド→伊、西ゴート→西etc)
西欧の王権は皇帝権と違い血筋に基づいているので
王権では他部族を支配する正統な理由がありません。
それで同君連合といった話が出てくるのですが、
統一となると皇帝権に拠る他ありません。
ただ、この皇帝権はナポレオンまではローマ皇帝以外にはいませんが
ローマ皇帝、中世以降ですと神聖ローマ皇帝あるいはビザンツ皇帝は
いずれも弱体(時期にもよりますが)だったので
このあたりが欧州が統一されなかった理由なのではないでしょうか?
> 一方で中国には、統一を促す「漢字」という存在もあったと。
> かなり大雑把に言ってしまえば、こんな所ですかねえ?

欧州とは対照的に中華皇帝は権力が強大だったため、
これに対抗できる勢力が無かったことも理由として挙げられるでしょう。
>
> それと、書いていて少し思ったんですが、
> 南北に伸びる中国に於いて、
> その中心は「長安→洛陽→開封→北京」と西から東へ移り、
> 東西に伸びる奥州に於いて、
> その中心が「地中海南岸→地中海北岸→北海沿岸」と
> 南から北へと移っているのは、ちょっと面白いですね。
> 互いに、南北と東西のバランスは保ったままですが、
> どうしてこう言う感じになったのかは、興味深い所です。

中国の場合は専ら利便性の問題でしょうか?
長安は秦の統治システムを利用、洛陽は生産力が高い、
開封は大運河の結節点、北京はモンゴルや満州に近い
といった利点があります。
欧州の場合は元々南方が先進的であったものの
潜在的な力は北方の方が優れていたため、
開発が進むにつれて北へ移ったといったところでしょうか。

ちなみに個人的にはローマ帝国がなぜイタリア半島から生まれたか?
という点が興味深いですね。
中世以降のイタリアの歴史を見ていると、よくあんなところで
潰れずに成長できたなあ、と感心させられます。


[5570] Re7:戦術の歴史返信 削除
2008/2/25 (月) 19:21:57 銅花

歴史上の軍事階級には、多くのものがあると思います。
軍団兵・補助兵、騎士・従者、騎兵・工兵、色々な軍事(編成・編制・統率)が有って、
今の軍事には、直線状に伸びては居なくて、断絶や迂回などを
繰り返して、進んで居たと思います。

中国ですが
中国に関しては、礼(文化)の束縛と文官の統治(中央集権の確立)(古代春秋時代の遺産のおかげ?)
西から東に行ったのは、中央集権の規模(上流の生活を支える基盤)が大きくなっていき、また、外交や物流が関係してるような。
ヨーロッパでは
南から北に行ったのは、
肥沃な三日月地帯の原生作物・家畜などの人の手による拡散(小麦・大麦・馬・羊・山羊)
ギリシャ移民の拡散、ローマの拡大と地方経済基盤の樹立
気候変動及び土地の劣化(塩化・砂漠化)が原因では

また、ヨーロッパは分散する民族が居たこと、ギリシャ・ローマなどにより、技術が広まったが
中国は中央集権でそれらが少なかった?

ローマ帝国については、よく良い人材が必要な時に出たとおもいますね。
軍事の慣習(マニュアル)が良かったのかも知れませんが。

え〜と、五時ダツジは見逃してくだし。


[5593] Re8:戦術の歴史返信 削除
2008/2/27 (水) 21:09:28 徳翁導誉

> > 中国は比較的に平坦で、大きな障害は長江くらいですからねえ。
>  黄河やチベット高地も障害と思えます。

長江と並び、中国を代表する大河である「黄河」ですが、
実の所、この2つの大河は全く性質が異なります。
激しく流れる長江と違い、黄河は広く緩やかに流れるんです。
現在の中国に於いても、長江は洪水が問題となっていますが、
黄河は水が途中で途切れて下流まで流れ着かない「断流」が問題となっています。

つまり、長江に比べると黄河は渡るのに容易な河であり、
そこまで「天然の要害」とはならない河なんです。
実際、中国の歴史を見てみても、
勢力が南北に分かれる境は、黄河ではなく長江になっています。

それと、ここで言っている「中国」とは、
漢民族の住む土地、すなわち「支那」や「唐土」の事を意味しているので、
チベットやウイグル、モンゴルなどは、始めから含んでいません。

> > ですので、「春秋時代で止まってる」と言うか、
> > 地形的な要因からそうなったんだと思うので、
> > 欧州の場合、例え統一されても、それを維持できないんじゃないですかねえ?

>  一度でも統一されてれば「統一欧州を復活させ」と思う人だ出たと思います。
> 実際ローマ帝国を復活させようと頑張った人がでたので・・・

思うことと、出来ることとは別ですよねえ?
実際に統一できたとしても、それを維持するのは更に難しいですし。
それにその理屈ですと、ローマ帝国という実例が有るのですから、
欧州にも何度か統一勢力が出現しても良いと思います。
しかし、実際にそう言ったモノは出現しませんでした。

> > 複数の国家が併存しづらく、その分、統一されやすかった。
> その割には動乱期が長いような漢代以後六朝、五代、の長大乱と北宋末期〜元成立、明末清初の動乱、辛亥革命後の軍閥・・・

それって、統一されていた期間と比べると、
微々たる期間だと思いませんか?
回数は多いでしょうが、あれだけ長い歴史がある以上、
それも当たり前の事ですし。
「歴史的に見ても、中国は分裂する」とか言う人が居ますが、
その理屈で行けば、日本にもそれが当てはまるでしょうね。

> > そうして、統一の為に民族的な混融が進み、民族意識までも混ざり合った。
>  異民族でも漢族になれるシステムがその原因ですかね?

それは「原因」ではなく「結果」です。
中国にも多数の民族が存在していたものの、
地理的条件により、それらを分かち、維持するような環境になかった為、
結果として民族同士の混融が進んだと。
だからこそ、漢民族としての確固とした定義がない反面、
明確な区分が無いからこそ、異民族をも取り込んでしまう訳です。
システムとは、原因があって作られるモノであり、
そのシステムに原因を求めるというのは、因果が逆だと思いますよ。


=========================================================================


> > 海に囲まれ、複雑な地形を擁する欧州に比べると、
> > 中国は比較的に平坦で、大きな障害は長江くらいですからねえ。

> 付け加えますと地形が平坦と言うことは規模の小さい集団では
> 自衛が困難になると言う面もありますね。
> 現に欧州でも地形が比較的平坦なポーランドやハンガリーは
> 征服されるか領域の大きな国家で纏まるかと言った傾向があります。
> 逆に地形が複雑な辺り(スイスなど)は割と小集団でも存続できてますね。

その中でも典型的なのが、欧州内で最も地形が複雑なバルカン半島でしょうね。
あのように地形が複雑であればこそ、多数の民族が存続でき、
それ故に、複数の民族が入り組んで「火薬庫」となってしまうと。

> 中国は小集団だと周辺国の餌食にされるので
> 大集団で纏まろうとするのでしょう。
> ただ本来的には各地方は別集団なところがある(ex.北京語・広東語が別言語と言ってもいいくらいに異なる)
> のでかなり無理して纏まっている感はありますね。

無理をしていると言うか、
かなり緩やかな纏まりですよね。
「漢民族とは何ぞや」と問われた時に、
明確な解答を出すのは、本人たちも難しいんじゃないですかねえ?

分裂しているよりも、1つに統一されている方が長い中国ですが、
しかし統一王朝の治世でも、全土がキチンと1つに纏まっている訳ではなく、
1つの王朝という枠組みの中で、地方地方は結構バラバラですからねえ。
他の小さな民族が「氷」だとすれば、漢民族とは「水」といった所でしょうか?
って、私の例えでは訳が分からないですね(笑)。
替わりに、勝海舟の言葉を引用しておきます。
「中国は西洋の概念にある国家ではない。あれは人民社会の集合体だ」

> > ですので、「春秋時代で止まってる」と言うか、
> > 地形的な要因からそうなったんだと思うので、
> > 欧州の場合、例え統一されても、それを維持できないんじゃないですかねえ?

> 統一していたローマでも分割統治(テトラルキアなど)は頻繁に行なわれていましたし、
> フランク及びは分裂、ナポレオンや第三帝国に至っては
> 僅かな期間しか存続しえませんでしたので維持は出来ていませんね。
> せいぜいでEUのような緩やかな纏まりが限界でしょう。

イフを語るとすれば、「フランク王国が分裂しなければ」ですかねえ?
アルプスで遮られるイタリアは仕方ないにしても、
東西のフランク王国が分裂せず、現在のドイツとフランスが1つの国家を形成していれば、
あの位置に、それだけの巨大な勢力が存在すれば、
欧州の歴史も大きく変わったでしょうからねえ。
ドイツとフランスとの間には、アルプスやピレネーほどの境は無いですし。

しかし現実には、ドイツ(神聖ローマ帝国)はイタリアを目指したと。
地形が生み出す結果を「必然性」だとすれば、
歴史的や宗教的な価値として、ローマを目指すというような、
人の行為が生み出す結果は「偶然性」と言えるかも知れません。
そして今、ドイツとフランスがEUの中心に居るのは、必然性の産物なのか?(笑)

> > 分裂期以外で、四川に独立国が登場しなかったのは、
> > 結構面白い議題だと思います。

> 四川は独立していくにはあまりにも土地が貧しすぎる
> (日照時間が極端に少ないため麦や米などの作物が育たない)ので
> 独立したとしても中原に飲み込まれていく宿命と言えるのかも知れません。

でも四川って、古来より「天府の国」と呼ばれ、
農作物が豊穣に収穫できる土地じゃなかったでしたっけ?
日照時間が短いと言っても、日本の7割くらいはありますし、
気温も高温で、水が豊富にあったので、
四川に自生する稲や麦なら、よく育ったと思いますよ。

> あと長安などの政権中枢及び湖北・湖南の経済的重要拠点を脅かせるので
> 放置しておくには危険と言う面もありますね。

それが大きいように思います。
雲南なんかは、独立を保っていた時期が結構長いですし。
豊穣の地であり、要地に隣接しているとなれば、危険な存在ですからねえ。
特に長江流域の場合、四川が陥落した事でドミノ倒しになるケースも有りましたので。
そして、四川の外は更に広大であり、そこを統一した勢力には、
天然の要害に守られ、泰平を謳歌していた四川の勢力は勝てないと。
ただ、よく「天然の要害」と言われる四川ですが、
滅びる時は、結構あっさりなんですよねえ。

攻められにくいけど、攻め出しにくい。
豊穣の地で食うには困らないけど、僻地なので住民の文明は遅れ気味。
気候は温暖だけど、晴れの日が少なく、湿度が高い。
う〜ん、やはり覇気を奪う土地なのかな、四川は?(笑)
外敵が居ない分、内部から腐敗していくケースが多いですし。
堅牢な地形こそが、人の心に隙を生じさせるんでしょうね。
何か、こう四川の事を書いていると、
四川視点からの歴史について、ちょっと纏めてみたくなりますね。

> まあ、春秋戦国期の技術革新は当時としては凄まじいものだったので
> この辺りでほぼ完成してしまった部分もありますね。

戦車に、弩、騎馬など、
基本的なモノは、春秋戦国期に完成してますよねえ。
せっかく火薬を発明しても、
それをなかなか有効に使えませんでしたし。
って、ほんの半世紀前の朝鮮戦争で、
人海戦術により、あのアメリカ軍と対峙してしまった事を見ると、
技術革新は有効であっても、必ずしも絶対ではないのでしょうけど。

> > 中国の場合、地形が平坦であったが為に、
> > 複数の国家が併存しづらく、その分、統一されやすかった。
> > そうして、統一の為に民族的な混融が進み、民族意識までも混ざり合った。

> 複数国家の併存自体は割と出来てしまうところもあると思います。
> 五代十国期あたりがいい例ですし、民国期もある意味
> 併存と言えるのではないでしょうか。

一時的な併存は可能でしょうけれど、結局それも短期間の事で、
最終的には、統一の方向へ流れますよねえ?
長江を境にした南北の分断を除くと、
それ以外の分裂って、ほとんど続かない印象です。

> > 気候的条件が異なれば、生活様式まで異なり、
> > 生活様式が異なれば、文化まで異なるものです。
> > それにより、文化による棲み分けが容易となり、
> > 接触や衝突も、幾分か減るように思います。

> まあ、その気候が変わってしまいますと、
> 牧草地(+略奪品)を求めて南下したり、北方へ農地(+防衛ライン)を広げたり
> してしまうので住み分けはなかなか持続しませんね・・・

気候の変動以前に、気候自体が、
明確な線引きにより、分かれている訳では無いですからねえ。
北方の遊牧民と南方の農耕民のせめぎ合いが、その境界地域で行われると。
で、中国は「万里の長城」という人工的な線引きを行う訳ですね。

> > しかし欧州では、国家の林立を許す複雑な地形、
> > 文化的に似かより易い東西の繋がり、
> > 南北両方向を海に囲まれた生産力が等しい土地柄と、
> > 共存・接触・均衡のバランスがうまく取れていたんでしょうね。
> > ローマ教皇という、宗教的な存在もありましたし。

> 個人的には古代末期の民族移動が大きいんではないかと見ています。
> ゲルマンと一口に言っても様々な部族がいたので
> 後に成立した国家はこの部族が土台となっています。
> (ex.フランク→仏・独、ランゴバルド→伊、西ゴート→西etc)
> 西欧の王権は皇帝権と違い血筋に基づいているので
> 王権では他部族を支配する正統な理由がありません。
> それで同君連合といった話が出てくるのですが、
> 統一となると皇帝権に拠る他ありません。

そこで出てくるのが、やはり宗教(キリスト教)だと思うんですよ。
王権も、皇帝権も、その拠り所とするのは「神」ですよねえ?
そして、「神の代理人」であるローマ教皇が存在すると。
まあ、教皇と国王や皇帝との関係は、時代によって様々ではありますが、
これらの複雑な関係が、国王を守り、皇帝を弱体化させていた面もあると思います。
だからこそ、外交や戦術なども発展したんでしょうね。

一方、中国に於いては、
宗教の影響が強く及ぶのは、春秋戦国の頃までで、
それ以降は、そこまで大きな影響は及ぼしませんよねえ。
他国を滅ぼすとその家の祭祀が途絶え、それにより滅ぼした国の祟りに合うという
春秋時代の祖先崇拝の考え方が生き残り、国家の林立が続いた上で、
祖先崇拝から生まれた儒教が、欧州でのキリスト教的な役割をすれば、
中国も欧州のような状況で落ち着いていたかも知れませんね。
北方の遊牧民はさながら、欧州に於けるイスラム勢力でしょうか?

また、日本の場合なら、天皇でしょうか?
天皇家が存続し得た理由も、この辺に有ると思います。
まあ、島国である日本の天地の狭さから、
複数の国家が存続する事もなかったので、
教皇みたいに、政治にまで大きく影響を及ぼすような存在ではないですけど。

> > 一方で中国には、統一を促す「漢字」という存在もあったと。
> > かなり大雑把に言ってしまえば、こんな所ですかねえ?

> 欧州とは対照的に中華皇帝は権力が強大だったため、
> これに対抗できる勢力が無かったことも理由として挙げられるでしょう。

では何故、中国では皇帝の権力が強大に成り得て、
一方で、欧州ではそう行かなかったのか?
そうなると結局、地理的要因に戻ってきませか?
中央集権に適した地だったのか、そうでなかったかで。

> > 南北に伸びる中国に於いて、
> > その中心は「長安→洛陽→開封→北京」と西から東へ移り、
> > 東西に伸びる奥州に於いて、
> > その中心が「地中海南岸→地中海北岸→北海沿岸」と
> > 南から北へと移っているのは、ちょっと面白いですね。

> 中国の場合は専ら利便性の問題でしょうか?
> 長安は秦の統治システムを利用、洛陽は生産力が高い、
> 開封は大運河の結節点、北京はモンゴルや満州に近い
> といった利点があります。

そうでしょうね。
春秋戦国あたりですと、長安周辺で人口を養えたものが、
人口の増加により、守り易い土地から、生産性の高い土地へと移っていったと。
日本の城で言えば、山城から平城に変遷したような感じでしょうね。

> 欧州の場合は元々南方が先進的であったものの
> 潜在的な力は北方の方が優れていたため、
> 開発が進むにつれて北へ移ったといったところでしょうか。

これも、そうだと思います。
環境が厳しいだけの土地では、多くの人口を養う事が出来ず、
逆に、過ごしやすい環境で生産性も高いと、人はあまり考えない。
文明とは、高い生産性と厳しい環境を持ち合わせた土地、
つまり、大河を擁する乾燥地帯で生まれました。
四大文明の発祥地を見ても、それが当てはまると思います。

しかし、厳しい環境では、それ以上の成長があまり望めず、
より過ごしやすい環境へと、文明の中心は移っていく。
それが最も顕著だったのがヨーロッパだったんでしょうね。

> ちなみに個人的にはローマ帝国がなぜイタリア半島から生まれたか?
> という点が興味深いですね。
> 中世以降のイタリアの歴史を見ていると、よくあんなところで
> 潰れずに成長できたなあ、と感心させられます。

正直な所、私はあまり西欧史に詳しくないので、
正しいかどうかは分からないですが、「ポエニ戦争」による結果だと思います。
イタリア半島のつま先に、シチリア島が浮かんでいる訳ですが、
この島は、かなり農業生産の高い土地なんです。
しかも地中海のド真ん中に位置する島なので、交易面でも重要な島。
当時のローマはまだ、ただの農業国でしたが、
目と鼻の先にある豊かな島が、カルタゴの影響下にあったわけで、
農業生産的にも、国家安全的にも、抑えておきたかった。
そして、第一次ポエニ戦争の勝利によってシチリアを勢力下に。

続いて起きた第二次ポエニ戦争でも、ローマが勝利するものの、
ハンニバルにより、20年近くもイタリアは蹂躙されて農地は荒廃。
しかもローマは市民兵で戦う為、市民たちも疲弊。
農地を荒らされ、財産を失い、疲弊した市民たちが大量にローマ市内に流入。
しかしカルタゴに勝った事で地中海の交易圏を握り、
シチリアやカルタゴ、エジプトなど、
ローマ以上に豊壌な土地から、安い穀物が大量に入ってきてローマ市民は大助かり。
ここからローマの変質が始まり、大国化していくと。

結局、ローマの大国化を地形に求めるとするなら、
それは「イタリアの3km先にシチリア島が浮かんでいたから」でしょうか?(笑)
地政学的に捉えても、あの島はかなりの要地なので。

ついでに、地政学的な側面から話を進めると、
イタリアというのは半島国家なので、地理的条件的には結構不利なんですよね。
半島って、三方を海に囲まれ、大陸とも接してますので、
海陸両面から侵攻される訳です。
しかも、半島というのは面積に乏しいので国力が低いケースが多く、
その低い国力では、海陸両面の防衛を行うのは大変です。

しかしその反面、海も陸も抑えられれば、
海洋国家と大陸国家のメリットを併せ持つ国となり、大国化する事があります。
カルタゴを破った事で地中海を内海化でき、
大陸側はアルプスで蓋をされ、その両端には巨大な勢力が存在せず。
こうした条件を兼ね備えたローマ帝国は、まさにその典型例でしょうね。
ローマ帝国と同じ様な例は、他にはオスマン帝国ですかねえ?
ただし、半島国家としての弱点は残したままなので、
守勢に回らされると、一気に崩壊して行くんですがね・・・・


=========================================================================


> 中国ですが
> 中国に関しては、礼(文化)の束縛と文官の統治(中央集権の確立)(古代春秋時代の遺産のおかげ?)

武官と文官の扱いの差というのは、結構大きな要素かも知れません。
儒教の影響で、文官は武官より重んじられましたからねえ。
統治には適していても、戦争には向いていなかったと。

> 西から東に行ったのは、中央集権の規模(上流の生活を支える基盤)が大きくなっていき、また、外交や物流が関係してるような。
そうだと思います。
物流面で言えば、開封は北の黄河と南からの運河を結ぶ地でしたし、
北京は、モンゴルと中国を同時に見られる土地ですので。

> ヨーロッパでは
> 南から北に行ったのは、
> 肥沃な三日月地帯の原生作物・家畜などの人の手による拡散(小麦・大麦・馬・羊・山羊)
> ギリシャ移民の拡散、ローマの拡大と地方経済基盤の樹立
> 気候変動及び土地の劣化(塩化・砂漠化)が原因では

文明の伝播などは確かにそうなんですが、
ローマが最盛期を迎えた頃にも、
エジプトの穀物に頼り切っているんですよねえ。

> また、ヨーロッパは分散する民族が居たこと、ギリシャ・ローマなどにより、技術が広まったが
> 中国は中央集権でそれらが少なかった?

少なかった訳ではないですよ。
周の時代は、その範囲は黄河流域周辺くらいで、
それにつぐ春秋戦国時代などでは、秦や楚なども異民族でした。
現在の首都である北京なども、当時はまだ僻地でしたしねえ。
「漢民族」が異民族を吸収し、「中国」が拡大・膨張する事により、
文明や技術も周辺へ広がっていきました。
日本もまた、その恩恵を受けた1つですね。

> え〜と、五時ダツジは見逃してくだし。
最後のこの一文が、最も誤字脱字がひどいような気も(笑)。


[5596] Re9:戦術の歴史返信 削除
2008/2/28 (木) 00:38:48 Bernstein

▼ 徳翁導誉さん
> > > 海に囲まれ、複雑な地形を擁する欧州に比べると、
> > > 中国は比較的に平坦で、大きな障害は長江くらいですからねえ。

> > 付け加えますと地形が平坦と言うことは規模の小さい集団では
> > 自衛が困難になると言う面もありますね。
> > 現に欧州でも地形が比較的平坦なポーランドやハンガリーは
> > 征服されるか領域の大きな国家で纏まるかと言った傾向があります。
> > 逆に地形が複雑な辺り(スイスなど)は割と小集団でも存続できてますね。

> その中でも典型的なのが、欧州内で最も地形が複雑なバルカン半島でしょうね。
> あのように地形が複雑であればこそ、多数の民族が存続でき、
> それ故に、複数の民族が入り組んで「火薬庫」となってしまうと。

あそこは現在進行形で火がついていますね・・・
地形の複雑さに加えてカトリックと正教会(これにイスラムも加わる)の境目だったり
ローマ帝国の東西分裂の際の境界線、オスマンと西欧etc
考え付くのは他にもありますが、どんだけ火薬を詰め込めば
気が済むのか?と言うくらいに火薬庫ですね(笑
 
> > 中国は小集団だと周辺国の餌食にされるので
> > 大集団で纏まろうとするのでしょう。
> > ただ本来的には各地方は別集団なところがある(ex.北京語・広東語が別言語と言ってもいいくらいに異なる)
> > のでかなり無理して纏まっている感はありますね。

> 無理をしていると言うか、
> かなり緩やかな纏まりですよね。
> 「漢民族とは何ぞや」と問われた時に、
> 明確な解答を出すのは、本人たちも難しいんじゃないですかねえ?
>
> 分裂しているよりも、1つに統一されている方が長い中国ですが、
> しかし統一王朝の治世でも、全土がキチンと1つに纏まっている訳ではなく、
> 1つの王朝という枠組みの中で、地方地方は結構バラバラですからねえ。
> 他の小さな民族が「氷」だとすれば、漢民族とは「水」といった所でしょうか?
> って、私の例えでは訳が分からないですね(笑)。
> 替わりに、勝海舟の言葉を引用しておきます。
> 「中国は西洋の概念にある国家ではない。あれは人民社会の集合体だ」

そもそも民族と言う概念そのものからして西洋から来たものですから
この尺度を持って中国を捉えるのはナンセンスなのかも知れませんね。
>
> > > ですので、「春秋時代で止まってる」と言うか、
> > > 地形的な要因からそうなったんだと思うので、
> > > 欧州の場合、例え統一されても、それを維持できないんじゃないですかねえ?

> > 統一していたローマでも分割統治(テトラルキアなど)は頻繁に行なわれていましたし、
> > フランク及びは分裂、ナポレオンや第三帝国に至っては
> > 僅かな期間しか存続しえませんでしたので維持は出来ていませんね。
> > せいぜいでEUのような緩やかな纏まりが限界でしょう。

> イフを語るとすれば、「フランク王国が分裂しなければ」ですかねえ?
> アルプスで遮られるイタリアは仕方ないにしても、
> 東西のフランク王国が分裂せず、現在のドイツとフランスが1つの国家を形成していれば、
> あの位置に、それだけの巨大な勢力が存在すれば、
> 欧州の歴史も大きく変わったでしょうからねえ。
> ドイツとフランスとの間には、アルプスやピレネーほどの境は無いですし。

地形で見ればライン川が境界となる訳ですが
独仏の間には独仏のいずれともつかない微妙な地域があります。
フランクが3つに分かれた際、長男ロタールの継いだ王国が
ちょうどその辺りで現在ですとベネルクス三国からアルザス・ロレーヌ、スイスの辺りになります。
いずれも独立するか係争地になるかなので結果として
これが境界線の役割を果たしています。
まあ、フランクが分裂したのは実は彼らの遺産相続方法が
分割相続だったからなのですが(笑
 
> しかし現実には、ドイツ(神聖ローマ帝国)はイタリアを目指したと。
> 地形が生み出す結果を「必然性」だとすれば、
> 歴史的や宗教的な価値として、ローマを目指すというような、
> 人の行為が生み出す結果は「偶然性」と言えるかも知れません。
> そして今、ドイツとフランスがEUの中心に居るのは、必然性の産物なのか?(笑)
>
> > > 分裂期以外で、四川に独立国が登場しなかったのは、
> > > 結構面白い議題だと思います。

> > 四川は独立していくにはあまりにも土地が貧しすぎる
> > (日照時間が極端に少ないため麦や米などの作物が育たない)ので
> > 独立したとしても中原に飲み込まれていく宿命と言えるのかも知れません。

> でも四川って、古来より「天府の国」と呼ばれ、
> 農作物が豊穣に収穫できる土地じゃなかったでしたっけ?
> 日照時間が短いと言っても、日本の7割くらいはありますし、
> 気温も高温で、水が豊富にあったので、
> 四川に自生する稲や麦なら、よく育ったと思いますよ。

でも生産高にすると圧倒的に中原や長江中下流域に負けていると記憶しております。
土壌は悪くないので野菜とかは育ちますが、穀物系の生産には不利です。
なので天府の国という話は個人的にはデマだと思ってまして
諸葛孔明の天下三分の計の誤算の一つとも思ってます。
 
> > あと長安などの政権中枢及び湖北・湖南の経済的重要拠点を脅かせるので
> > 放置しておくには危険と言う面もありますね。

> それが大きいように思います。
> 雲南なんかは、独立を保っていた時期が結構長いですし。
> 豊穣の地であり、要地に隣接しているとなれば、危険な存在ですからねえ。
> 特に長江流域の場合、四川が陥落した事でドミノ倒しになるケースも有りましたので。
> そして、四川の外は更に広大であり、そこを統一した勢力には、
> 天然の要害に守られ、泰平を謳歌していた四川の勢力は勝てないと。
> ただ、よく「天然の要害」と言われる四川ですが、
> 滅びる時は、結構あっさりなんですよねえ。

中国の南方政権は大体四川から崩れていますね。
呉や南朝、南宋辺りはこれに該当するでしょう。
 
> 攻められにくいけど、攻め出しにくい。
> 豊穣の地で食うには困らないけど、僻地なので住民の文明は遅れ気味。
> 気候は温暖だけど、晴れの日が少なく、湿度が高い。
> う〜ん、やはり覇気を奪う土地なのかな、四川は?(笑)
> 外敵が居ない分、内部から腐敗していくケースが多いですし。
> 堅牢な地形こそが、人の心に隙を生じさせるんでしょうね。
> 何か、こう四川の事を書いていると、
> 四川視点からの歴史について、ちょっと纏めてみたくなりますね。

外へ出るには補給線を維持するのが困難すぎますからね・・・
四川の政権としては蜀漢は大健闘していると言えるでしょう。
 
> > まあ、春秋戦国期の技術革新は当時としては凄まじいものだったので
> > この辺りでほぼ完成してしまった部分もありますね。

> 戦車に、弩、騎馬など、
> 基本的なモノは、春秋戦国期に完成してますよねえ。
> せっかく火薬を発明しても、
> それをなかなか有効に使えませんでしたし。
> って、ほんの半世紀前の朝鮮戦争で、
> 人海戦術により、あのアメリカ軍と対峙してしまった事を見ると、
> 技術革新は有効であっても、必ずしも絶対ではないのでしょうけど。

技術がどれだけ優れていたとしてもそれを使うのは人ですので
過信は出来ませんね。
技術だけで戦争に勝てるとしたらWWUで独は勝利していることでしょう。
 
> > > 中国の場合、地形が平坦であったが為に、
> > > 複数の国家が併存しづらく、その分、統一されやすかった。
> > > そうして、統一の為に民族的な混融が進み、民族意識までも混ざり合った。

> > 複数国家の併存自体は割と出来てしまうところもあると思います。
> > 五代十国期あたりがいい例ですし、民国期もある意味
> > 併存と言えるのではないでしょうか。

> 一時的な併存は可能でしょうけれど、結局それも短期間の事で、
> 最終的には、統一の方向へ流れますよねえ?
> 長江を境にした南北の分断を除くと、
> それ以外の分裂って、ほとんど続かない印象です。

それが始皇帝の統一以来、中華文明の一体性を保たせているのでしょう。
まあ、あの広さなので気を抜くと分裂してしまいそうですが。
 
> > > 気候的条件が異なれば、生活様式まで異なり、
> > > 生活様式が異なれば、文化まで異なるものです。
> > > それにより、文化による棲み分けが容易となり、
> > > 接触や衝突も、幾分か減るように思います。

> > まあ、その気候が変わってしまいますと、
> > 牧草地(+略奪品)を求めて南下したり、北方へ農地(+防衛ライン)を広げたり
> > してしまうので住み分けはなかなか持続しませんね・・・

> 気候の変動以前に、気候自体が、
> 明確な線引きにより、分かれている訳では無いですからねえ。
> 北方の遊牧民と南方の農耕民のせめぎ合いが、その境界地域で行われると。
> で、中国は「万里の長城」という人工的な線引きを行う訳ですね。

ハドリアヌスの長城の事例も踏まえますと人工的な線引きの効果は絶大ですね。
 
> > > しかし欧州では、国家の林立を許す複雑な地形、
> > > 文化的に似かより易い東西の繋がり、
> > > 南北両方向を海に囲まれた生産力が等しい土地柄と、
> > > 共存・接触・均衡のバランスがうまく取れていたんでしょうね。
> > > ローマ教皇という、宗教的な存在もありましたし。

> > 個人的には古代末期の民族移動が大きいんではないかと見ています。
> > ゲルマンと一口に言っても様々な部族がいたので
> > 後に成立した国家はこの部族が土台となっています。
> > (ex.フランク→仏・独、ランゴバルド→伊、西ゴート→西etc)
> > 西欧の王権は皇帝権と違い血筋に基づいているので
> > 王権では他部族を支配する正統な理由がありません。
> > それで同君連合といった話が出てくるのですが、
> > 統一となると皇帝権に拠る他ありません。

> そこで出てくるのが、やはり宗教(キリスト教)だと思うんですよ。
> 王権も、皇帝権も、その拠り所とするのは「神」ですよねえ?
> そして、「神の代理人」であるローマ教皇が存在すると。
> まあ、教皇と国王や皇帝との関係は、時代によって様々ではありますが、
> これらの複雑な関係が、国王を守り、皇帝を弱体化させていた面もあると思います。
> だからこそ、外交や戦術なども発展したんでしょうね。

皮肉にも皇帝が弱体化した後は教皇も存在意義が薄れてしまい、
また国王の強大化は国民国家の土台ともなっています。
そうしてみると教皇と皇帝が広範な権威として競合し、
最後には共倒れしたといったところでしょうか。
 
> 一方、中国に於いては、
> 宗教の影響が強く及ぶのは、春秋戦国の頃までで、
> それ以降は、そこまで大きな影響は及ぼしませんよねえ。
> 他国を滅ぼすとその家の祭祀が途絶え、それにより滅ぼした国の祟りに合うという
> 春秋時代の祖先崇拝の考え方が生き残り、国家の林立が続いた上で、
> 祖先崇拝から生まれた儒教が、欧州でのキリスト教的な役割をすれば、
> 中国も欧州のような状況で落ち着いていたかも知れませんね。
> 北方の遊牧民はさながら、欧州に於けるイスラム勢力でしょうか?

あと中国の場合、宗教が流行ると王朝が傾く傾向があるので
中国の権力者は宗教に対して非常に警戒しているそうです。
ex.太平天国、黄巾の乱
 
> また、日本の場合なら、天皇でしょうか?
> 天皇家が存続し得た理由も、この辺に有ると思います。
> まあ、島国である日本の天地の狭さから、
> 複数の国家が存続する事もなかったので、
> 教皇みたいに、政治にまで大きく影響を及ぼすような存在ではないですけど。

日本は一人の権力者が権力を振るうことを嫌うところがあるので
政治に影響を及ぼせなかったと言えるかも知れません。
とは言え、天皇がいることによって国家として纏まっていられるという面もありますが。
 
> > > 一方で中国には、統一を促す「漢字」という存在もあったと。
> > > かなり大雑把に言ってしまえば、こんな所ですかねえ?

> > 欧州とは対照的に中華皇帝は権力が強大だったため、
> > これに対抗できる勢力が無かったことも理由として挙げられるでしょう。

> では何故、中国では皇帝の権力が強大に成り得て、
> 一方で、欧州ではそう行かなかったのか?
> そうなると結局、地理的要因に戻ってきませか?
> 中央集権に適した地だったのか、そうでなかったかで。
>
> > > 南北に伸びる中国に於いて、
> > > その中心は「長安→洛陽→開封→北京」と西から東へ移り、
> > > 東西に伸びる奥州に於いて、
> > > その中心が「地中海南岸→地中海北岸→北海沿岸」と
> > > 南から北へと移っているのは、ちょっと面白いですね。

> > 中国の場合は専ら利便性の問題でしょうか?
> > 長安は秦の統治システムを利用、洛陽は生産力が高い、
> > 開封は大運河の結節点、北京はモンゴルや満州に近い
> > といった利点があります。

> そうでしょうね。
> 春秋戦国あたりですと、長安周辺で人口を養えたものが、
> 人口の増加により、守り易い土地から、生産性の高い土地へと移っていったと。
> 日本の城で言えば、山城から平城に変遷したような感じでしょうね。
>
> > 欧州の場合は元々南方が先進的であったものの
> > 潜在的な力は北方の方が優れていたため、
> > 開発が進むにつれて北へ移ったといったところでしょうか。

> これも、そうだと思います。
> 環境が厳しいだけの土地では、多くの人口を養う事が出来ず、
> 逆に、過ごしやすい環境で生産性も高いと、人はあまり考えない。
> 文明とは、高い生産性と厳しい環境を持ち合わせた土地、
> つまり、大河を擁する乾燥地帯で生まれました。
> 四大文明の発祥地を見ても、それが当てはまると思います。
>
> しかし、厳しい環境では、それ以上の成長があまり望めず、
> より過ごしやすい環境へと、文明の中心は移っていく。
> それが最も顕著だったのがヨーロッパだったんでしょうね。
>
> > ちなみに個人的にはローマ帝国がなぜイタリア半島から生まれたか?
> > という点が興味深いですね。
> > 中世以降のイタリアの歴史を見ていると、よくあんなところで
> > 潰れずに成長できたなあ、と感心させられます。

> 正直な所、私はあまり西欧史に詳しくないので、
> 正しいかどうかは分からないですが、「ポエニ戦争」による結果だと思います。
> イタリア半島のつま先に、シチリア島が浮かんでいる訳ですが、
> この島は、かなり農業生産の高い土地なんです。
> しかも地中海のド真ん中に位置する島なので、交易面でも重要な島。
> 当時のローマはまだ、ただの農業国でしたが、
> 目と鼻の先にある豊かな島が、カルタゴの影響下にあったわけで、
> 農業生産的にも、国家安全的にも、抑えておきたかった。
> そして、第一次ポエニ戦争の勝利によってシチリアを勢力下に。
>
> 続いて起きた第二次ポエニ戦争でも、ローマが勝利するものの、
> ハンニバルにより、20年近くもイタリアは蹂躙されて農地は荒廃。
> しかもローマは市民兵で戦う為、市民たちも疲弊。
> 農地を荒らされ、財産を失い、疲弊した市民たちが大量にローマ市内に流入。
> しかしカルタゴに勝った事で地中海の交易圏を握り、
> シチリアやカルタゴ、エジプトなど、
> ローマ以上に豊壌な土地から、安い穀物が大量に入ってきてローマ市民は大助かり。
> ここからローマの変質が始まり、大国化していくと。
>
> 結局、ローマの大国化を地形に求めるとするなら、
> それは「イタリアの3km先にシチリア島が浮かんでいたから」でしょうか?(笑)
> 地政学的に捉えても、あの島はかなりの要地なので。

あそこの争奪戦はかなり激しいですからね・・・
常にどこかしらの大国狙われてますし。
まあ、今はマフィアの巣窟ですがシチリア島が活性化したら
イタリアが強国になる日がやってくるのでしょうか?(笑

> ついでに、地政学的な側面から話を進めると、
> イタリアというのは半島国家なので、地理的条件的には結構不利なんですよね。
> 半島って、三方を海に囲まれ、大陸とも接してますので、
> 海陸両面から侵攻される訳です。
> しかも、半島というのは面積に乏しいので国力が低いケースが多く、
> その低い国力では、海陸両面の防衛を行うのは大変です。
>
> しかしその反面、海も陸も抑えられれば、
> 海洋国家と大陸国家のメリットを併せ持つ国となり、大国化する事があります。
> カルタゴを破った事で地中海を内海化でき、
> 大陸側はアルプスで蓋をされ、その両端には巨大な勢力が存在せず。
> こうした条件を兼ね備えたローマ帝国は、まさにその典型例でしょうね。
> ローマ帝国と同じ様な例は、他にはオスマン帝国ですかねえ?
> ただし、半島国家としての弱点は残したままなので、
> 守勢に回らされると、一気に崩壊して行くんですがね・・・・

そうしてみると鴨緑江・豆満江の向こうに広大な満州の大地が広がっている
朝鮮半島は不幸ですね・・・


[5615] 既に話題は「地形と歴史」返信 削除
2008/3/1 (土) 11:11:07 徳翁導誉

> > > 逆に地形が複雑な辺り(スイスなど)は割と小集団でも存続できてますね。
> > その中でも典型的なのが、欧州内で最も地形が複雑なバルカン半島でしょうね。
> > あのように地形が複雑であればこそ、多数の民族が存続でき、
> > それ故に、複数の民族が入り組んで「火薬庫」となってしまうと。

> あそこは現在進行形で火がついていますね・・・
> 地形の複雑さに加えてカトリックと正教会(これにイスラムも加わる)の境目だったり
> ローマ帝国の東西分裂の際の境界線、オスマンと西欧etc

「地形の複雑さに加えて」と言うよりも、
その複雑な地形があったればこそ、
そこが様々なモノの境目になるんじゃないですかねえ?
軍にしても、情報にしても、文化にしても、
ああ言った地形ではどうしても、そこで進行速度が鈍りますし、
こうした複雑な地形が、守る上では盾になりますからねえ。
例えば同じように、キリスト教とイスラム教の等距離にあっても、
リビアなどは、火薬庫にならない訳ですし。

> > イフを語るとすれば、「フランク王国が分裂しなければ」ですかねえ?
> > ドイツとフランスとの間には、アルプスやピレネーほどの境は無いですし。

> 地形で見ればライン川が境界となる訳ですが
> 独仏の間には独仏のいずれともつかない微妙な地域があります。
> フランクが3つに分かれた際、長男ロタールの継いだ王国が
> ちょうどその辺りで現在ですとベネルクス三国からアルザス・ロレーヌ、スイスの辺りになります。
> いずれも独立するか係争地になるかなので結果として
> これが境界線の役割を果たしています。

中部フランク王国(ロタール領)って、かなり無理がありますよね(笑)。
ライン川流域と北部イタリアが地続きだとは言え、
ど真ん中にアルプスが走ってますからねえ。
実際、843年のヴェルダン条約で国境線を確定しながら、
たった27年後(870年)には、メルセン条約でライン川流域を失ってますし。

> まあ、フランクが分裂したのは実は彼らの遺産相続方法が
> 分割相続だったからなのですが(笑

だからこそ、イフを思うんですよね。
これがもし三人兄弟ではなく、二人兄弟でしたら、
アーヘンを中心とするフランス・ドイツと、
ローマを中心とするイタリアとに二分されたでしょうからねえ。
分割相続が伝統と言っても、王国が継続されていけば、
多くの場合はいつかは、単独相続に落ち着いていくものでしょうし。


> > > > 分裂期以外で、四川に独立国が登場しなかったのは、
> > > > 結構面白い議題だと思います。

> > > 四川は独立していくにはあまりにも土地が貧しすぎる
> > > (日照時間が極端に少ないため麦や米などの作物が育たない)ので
> > > 独立したとしても中原に飲み込まれていく宿命と言えるのかも知れません。

> > でも四川って、古来より「天府の国」と呼ばれ、
> > 農作物が豊穣に収穫できる土地じゃなかったでしたっけ?

> でも生産高にすると圧倒的に中原や長江中下流域に負けていると記憶しております。
> 土壌は悪くないので野菜とかは育ちますが、穀物系の生産には不利です。

時代にもよるでしょうが、そんな事はないと思いますよ。
少なくとも現在では、四川省は中国でも3位の米生産高を誇っており、
10年前に四川省から分離された重慶直轄市も含めれば、
四川は、中国での米の総生産高の10%を越える大穀倉地帯です。

では、古い時代はどうかと言われれば、
具体的なデータは無いものの、間接的なデータとして人口があります。
例えば、後漢時代(西暦153年時)の人口で見た場合、
益州(四川)は、後漢王朝・全13州の中でもトップの人口を誇っており、
これは後漢全州の人口の15%を越える人数でした。
それだけの人口が居たという事は、すなわち、
それを養えるだけの食料が、四川で収穫できた事を意味します。

また、当時の四川の穀物事情に関しても、
ちょうど上記の人口調査と同時代に、四川で「五斗米道」が誕生しています。
信者に五斗の米を寄進させた事から、その名称で呼ばれた訳ですが、
当時の五斗の米とは、分かり易く直すと「10kg弱の米」と言う事になります。
そして、現在の日本人1人あたりの米の年間消費量が60kg弱なので、
平均的な日本人が食べる2ヶ月分の米の量を寄進する訳です。

これがもし、四川があまり米の取れない土地であれば、
それだけの「米」が、わざわざ寄進の対象物となるでしょうか?
彼らには、寄進だけでなく、納税もある訳ですし、
教団の広がり具合から言って、寄進の負担は信者たちにとって、
重かったと言うよりも、軽かったであろう事が想像されます。
つまり四川は当時から、米がよく取れる土地であったと判断して良いと思います。

とは言え、言わんとしている所は分かりますよ。
確かに四川は、日照時間が短いですし、
単位面積での収穫率は、長江下流などに比べれば落ちると思います。
しかし四川には、広大な成都平野があり、
四川の名が示す通り、大小いくつもの川が流れています。
成都平野の面積は、九州と四国を合わせた面積に等しく、
そこを紀元前の昔から、灌漑用水が縦横無尽に走るわけです。
少しくらいの収穫率の悪さなど、問題にならないのだと思いますよ。

> なので天府の国という話は個人的にはデマだと思ってまして
> 諸葛孔明の天下三分の計の誤算の一つとも思ってます。

いつ頃から「天府の国」と呼ばれるようになったか?までは知りませんが、
紀元前3世紀に「都江堰」という水利施設が作られて以降、
四川は大穀倉地帯になったのであろうと、私は認識しています。
始皇帝や劉邦の躍進も、四川の穀物により支えられていたと言われていますし、
また、後世に於いても、四川は豊穣の地であると言われ続けていますからねえ。
もしも本当に「デマ」でしたら、すぐにバレてしまうと思いますよ。
中国が統一されて、平穏な時代になれば、
四川でも、収穫高に応じて税が取られる訳ですから。

確か、学研から出ている「歴史群像シリーズ」の三国志の巻でしたかねえ?
そのような「天府の国はデマ」説の記事を読んだ事もありますが、
その記事自体に、間違えやいい加減な記述が多すぎたので・・・・
あのシリーズは以前より、本当に内容が玉石混淆なんですよねえ。
1冊に十数人の筆者がいて、書き手のレベルもバラバラですから。
奇抜な記事の筆者が、「郷土史家」や「歴史研究家」などとなっていましたら、
その記事は、眉に唾をつけながら読む方が良いと思います。

ちなみに、「天下三分の計」に関しては、
荊州と益州を領して、孫権と手を組み曹操を討つモノでしたら、
単純に人口だけなら、後漢の時点のデータでも、
「荊州と益州」の二州だけで、後漢全州の総人口の3分の1には達しますね。
まあ、それを孫権が黙って許すかは別問題だった訳ですが。
それと、本当にこの計略が構想通りに進行したとしても、
荊州と益州の二州同時統治というのは、地形的にかなり難しいので、
そこから国力を蓄え、満を持して北伐を・・・とは、なかなか行かないでしょうね。
二州を維持するだけで、四苦八苦しそうですし。

また、三分の計で鼎立化を目指すのであれば、
蜀の第一次北伐が成功し、長安以西を領有すれば、
そちらの方が、形的にはしっくり来たかも知れませんね。
後年の南北朝時代には、「北周・北斉・陳」の鼎立時代がありましたし。
そして、そこから天下を獲得したのは、
三国志の地理的には蜀にあたる、北周を乗っ取った隋なんですよね。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/dd/%E5%8C%97%E5%91%A8%EF%BD%A5%E5%8C%97%E6%96%89%EF%BD%A5%E9%99%B3%EF%BD%A5%E5%BE%8C%E6%A2%81.PNG


> > > あと長安などの政権中枢及び湖北・湖南の経済的重要拠点を脅かせるので
> > > 放置しておくには危険と言う面もありますね。

> > それが大きいように思います。
> > 雲南なんかは、独立を保っていた時期が結構長いですし。
> > 豊穣の地であり、要地に隣接しているとなれば、危険な存在ですからねえ。
> > 特に長江流域の場合、四川が陥落した事でドミノ倒しになるケースも有りましたので。

> 中国の南方政権は大体四川から崩れていますね。
> 呉や南朝、南宋辺りはこれに該当するでしょう。

直接、四川からって事ではありませんが、
四川が敵の手に渡ると、北と西の二正面作戦を強いられる事になり、
南方の要地である湖北(江陵)を守るのが、困難になるんですよねえ。
まあ逆に要地だからこそ、動乱期になると緩衝国として、
西梁や荊南といった小国が湖北に出現するのは、歴史の面白い所ではありますが。


> > 攻められにくいけど、攻め出しにくい。
> 外へ出るには補給線を維持するのが困難すぎますからね・・・
> 四川の政権としては蜀漢は大健闘していると言えるでしょう。

だからこそ、韓信や蕭何は凄かったとも言えるでしょうね。
もちろん、それぞれ条件が異なるとは言え、
閉じ込められたはずの漢中より、躍り出てくる訳ですから。
蜀漢も第一次北伐が成功していたら、流れは随分違ったでしょうが、
やはりこの辺は、一発勝負みたいな部分もありますからねえ。


> > > > 中国の場合、地形が平坦であったが為に、
> > > > 複数の国家が併存しづらく、その分、統一されやすかった。

> > > 複数国家の併存自体は割と出来てしまうところもあると思います。

> > 一時的な併存は可能でしょうけれど、結局それも短期間の事で、
> > 最終的には、統一の方向へ流れますよねえ?

> それが始皇帝の統一以来、中華文明の一体性を保たせているのでしょう。
> まあ、あの広さなので気を抜くと分裂してしまいそうですが。

う〜ん、それはどうでしょう?
分裂してしまうと言うよりは、
地方で自儘に振る舞う人間が出てくると言う方が適当ですかねえ?
日本で例えれば、「あっちこっちに関東軍」って感じでしょうか?(笑)
勝手な振る舞いはするが、日本という枠組みからは外れない・・・みたいな。

民国期の軍閥にしても、あくまで中華民国に属する形で居た勢力が多いですし、
大きな足枷にでもならない限り、国家や王朝の権威や枠組みを利用した方が、
地方で好き勝手するにも、何かとやりやすいですからねえ。
それに、独立してあまり好き勝手にやり過ぎると、
中国は平坦な地形な為、一気に潰される危険性もありますし。
だからこそ中国では、巨大すぎて地方を制御し辛い替わりに、
枠組みとしての国家や王朝は尊重され、それ自体は崩壊しにくいと。
でもまあ、崩れる時は崩れちゃうんですけどね(笑)。


> 皮肉にも皇帝が弱体化した後は教皇も存在意義が薄れてしまい、
> また国王の強大化は国民国家の土台ともなっています。
> そうしてみると教皇と皇帝が広範な権威として競合し、
> 最後には共倒れしたといったところでしょうか。

結局の所、全ての権力の根源は「武力」にしか拠りませんからねえ。
そして教皇は、直接的に大きな武力を保持してないと。

しかし、世俗上の権威である「皇帝」と、
宗教上の権威である「教皇」とに分かれていたからこそ、
教皇が今日まで、残れた面もあるんでしょうけどね。
オスマン皇帝が「スルタン」と「カリフ」を兼任したイスラム教では、
スルタン制の廃止と運命を共にして、
結局、カリフ制は現在まで生き残れませんでしたからねえ。
もしもカリフ制が存続していれば、テロを抑える一助にはなったかも?


> あと中国の場合、宗教が流行ると王朝が傾く傾向があるので
> 中国の権力者は宗教に対して非常に警戒しているそうです。
> ex.太平天国、黄巾の乱

宗教が流行ると王朝が傾くと言うより、
王朝が傾き政情不安定になるから、
宗教が流行るんじゃないですかねえ?

そして、宗教が流行るのも、信心からと言うよりも、
農民の反乱が団結する為の象徴として、宗教が必要なんでしょうね。
新興宗教が農民の反乱と結び付き、燎原の火の如く拡大する事は儘あれど、
動乱が過ぎると、そうした新興宗教も忘れ去られて定着しないですし。
紅巾の乱の白蓮教くらいでしょうか、生き残ったのは?
結局、そう言った中国の新興宗教は、単なる「道具」なんだと思いますよ。
まあでも、そうした道具を為政者は恐れるのかも知れませんが。


> > ついでに、地政学的な側面から話を進めると、
> > イタリアというのは半島国家なので、地理的条件的には結構不利なんですよね。
> > 半島って、三方を海に囲まれ、大陸とも接してますので、
> > 海陸両面から侵攻される訳です。

> そうしてみると鴨緑江・豆満江の向こうに広大な満州の大地が広がっている
> 朝鮮半島は不幸ですね・・・

逆に言えば、あの土地で民族の独自性を保ち得た事が凄いです。
大陸側はちょうど、遊牧民と農耕民との境目なので、
中国だけでなく、モンゴル系からも脅かされると・・・・
実際、中国からよりも、モンゴル系からの侵攻の方が多い気がします。
まあ海洋側は日本だけなので、大した事無さそうですが、
でも結局は、朝鮮を飲み込んだのは日本だけですので、
朝鮮にとっては、海洋側も大きな脅威なんですよね。

そして、時代は下って現代では、
中国は満州国の遺産がある東北部へ重点を置き、
モンゴルの位置にはロシアが進出。
海洋側からは、日本に替わってアメリカが・・・って、状況が更に悪化してますね(笑)。
米・中・露と、世界の三大国家が勢揃いです。
結局、その影響もあって、朝鮮は分断国家にされてしまいましたし。
って、三大国家に囲まれている状況自体は日本も同じなので、
あまり他人事ばかりでは、居られないんですけどね・・・・

ただ、朝鮮半島の分断というのは、
皮肉な事ですが、半島に安定をもたらして居るんですよねえ。
朝鮮半島には、アメリカ・中国・ロシアという三大国家が接し、
それら三国には少々劣るものの日本も居る。
そんな要地が1つの国にまとまっていたら、
本当に朝鮮半島の中は、グチャグチャにされていたと思いますよ。
実際、日本敗戦による解放から分断国家の誕生までの5年間は、
調べてみても、本当に凄い経過を辿ってますし。
二分されているからこそ、北朝鮮と韓国とが向かい合うだけで済み、
大国はその両国の後ろから、間接的に居れば良いと言う事で、
火種が絶える事はないものの、一応の安定は保てて居るんですよねえ。

ひょっとしたら、このまま分断が固定化される可能性もあるかも?
大国側とすれば、統一される事で面と向き合う事になるのは嫌でしょうし、
ドイツの状態を見れば、韓国も現実的には統一を望まないでしょうし、
北朝鮮の上層部にしても、統一にデメリットはあってもメリットは皆無。
結局、どの国も「現状維持」が最良なんですよねえ。

強いて言えば、日本くらいでしょうか?
統一により、多少なりとも恩恵を受けそうなのは。
軍事境界線がない在日の社会では、北朝鮮と韓国の代理戦争を担わされてきたので、
統一が叶えば、在日社会も、日本国内も、現状よりは幾分か落ち着くと思います。
また、韓国による統一が成れば、韓国と中国が直に睨み合う事になり、
中国は朝鮮人自治区を抱えており、統一熱が飛び火する可能性までありますので、
中韓の日本に向ける圧力が、多少なりとも緩和されると思います。
って、当然デメリットの方もいろいろあるので、その両面を見れば、
対米従属路線を続けていくのであれば、日本も現状維持の方が得なんでしょうけど。


[5646] Re:既に話題は「地形と歴史」返信 削除
2008/3/2 (日) 21:56:27 Bernstein

▼ 徳翁導誉さん
> 「地形の複雑さに加えて」と言うよりも、
> その複雑な地形があったればこそ、
> そこが様々なモノの境目になるんじゃないですかねえ?
> 軍にしても、情報にしても、文化にしても、
> ああ言った地形ではどうしても、そこで進行速度が鈍りますし、
> こうした複雑な地形が、守る上では盾になりますからねえ。
> 例えば同じように、キリスト教とイスラム教の等距離にあっても、
> リビアなどは、火薬庫にならない訳ですし。

リビアは砂漠による無人地帯もあり、距離を置けているので
火薬庫にならずに済んでいそうですね。
わざわざ灼熱の砂漠を越えてまで争いにいくのもナンセンスですし(笑
 
> > > イフを語るとすれば、「フランク王国が分裂しなければ」ですかねえ?
> > > ドイツとフランスとの間には、アルプスやピレネーほどの境は無いですし。

> > 地形で見ればライン川が境界となる訳ですが
> > 独仏の間には独仏のいずれともつかない微妙な地域があります。
> > フランクが3つに分かれた際、長男ロタールの継いだ王国が
> > ちょうどその辺りで現在ですとベネルクス三国からアルザス・ロレーヌ、スイスの辺りになります。
> > いずれも独立するか係争地になるかなので結果として
> > これが境界線の役割を果たしています。

> 中部フランク王国(ロタール領)って、かなり無理がありますよね(笑)。
> ライン川流域と北部イタリアが地続きだとは言え、
> ど真ん中にアルプスが走ってますからねえ。
> 実際、843年のヴェルダン条約で国境線を確定しながら、
> たった27年後(870年)には、メルセン条約でライン川流域を失ってますし。

語弊がありましたが言いたかったこととしては、
ロタール領の辺りがちょうど境目になっているという事で
あの王国そのものが持続しうるものとは考えていません。
ただスペインがネーデルラントを支配していた際に利用していた
スペイン街道は確かこの辺りを通っているので
国家としてはともかく経済的なつながりは無きにしもあらずではないでしょうか?
 
> > まあ、フランクが分裂したのは実は彼らの遺産相続方法が
> > 分割相続だったからなのですが(笑

> だからこそ、イフを思うんですよね。
> これがもし三人兄弟ではなく、二人兄弟でしたら、
> アーヘンを中心とするフランス・ドイツと、
> ローマを中心とするイタリアとに二分されたでしょうからねえ。
> 分割相続が伝統と言っても、王国が継続されていけば、
> 多くの場合はいつかは、単独相続に落ち着いていくものでしょうし。

三分割される前は相続権者が一人しかいなかったために
分裂しなかったと言うこともあるのでこのイフは一考に値しますね。
 
> 時代にもよるでしょうが、そんな事はないと思いますよ。
> 少なくとも現在では、四川省は中国でも3位の米生産高を誇っており、
> 10年前に四川省から分離された重慶直轄市も含めれば、
> 四川は、中国での米の総生産高の10%を越える大穀倉地帯です。
>
> では、古い時代はどうかと言われれば、
> 具体的なデータは無いものの、間接的なデータとして人口があります。
> 例えば、後漢時代(西暦153年時)の人口で見た場合、
> 益州(四川)は、後漢王朝・全13州の中でもトップの人口を誇っており、
> これは後漢全州の人口の15%を越える人数でした。
> それだけの人口が居たという事は、すなわち、
> それを養えるだけの食料が、四川で収穫できた事を意味します。
>
> また、当時の四川の穀物事情に関しても、
> ちょうど上記の人口調査と同時代に、四川で「五斗米道」が誕生しています。
> 信者に五斗の米を寄進させた事から、その名称で呼ばれた訳ですが、
> 当時の五斗の米とは、分かり易く直すと「10kg弱の米」と言う事になります。
> そして、現在の日本人1人あたりの米の年間消費量が60kg弱なので、
> 平均的な日本人が食べる2ヶ月分の米の量を寄進する訳です。
>
> これがもし、四川があまり米の取れない土地であれば、
> それだけの「米」が、わざわざ寄進の対象物となるでしょうか?
> 彼らには、寄進だけでなく、納税もある訳ですし、
> 教団の広がり具合から言って、寄進の負担は信者たちにとって、
> 重かったと言うよりも、軽かったであろう事が想像されます。
> つまり四川は当時から、米がよく取れる土地であったと判断して良いと思います。
>
> とは言え、言わんとしている所は分かりますよ。
> 確かに四川は、日照時間が短いですし、
> 単位面積での収穫率は、長江下流などに比べれば落ちると思います。
> しかし四川には、広大な成都平野があり、
> 四川の名が示す通り、大小いくつもの川が流れています。
> 成都平野の面積は、九州と四国を合わせた面積に等しく、
> そこを紀元前の昔から、灌漑用水が縦横無尽に走るわけです。
> 少しくらいの収穫率の悪さなど、問題にならないのだと思いますよ。

そういえば秦は蜀を征服してから急速に国力を増大させていましたね。
 
> > なので天府の国という話は個人的にはデマだと思ってまして
> > 諸葛孔明の天下三分の計の誤算の一つとも思ってます。

> いつ頃から「天府の国」と呼ばれるようになったか?までは知りませんが、
> 紀元前3世紀に「都江堰」という水利施設が作られて以降、
> 四川は大穀倉地帯になったのであろうと、私は認識しています。
> 始皇帝や劉邦の躍進も、四川の穀物により支えられていたと言われていますし、
> また、後世に於いても、四川は豊穣の地であると言われ続けていますからねえ。
> もしも本当に「デマ」でしたら、すぐにバレてしまうと思いますよ。
> 中国が統一されて、平穏な時代になれば、
> 四川でも、収穫高に応じて税が取られる訳ですから。
>
> 確か、学研から出ている「歴史群像シリーズ」の三国志の巻でしたかねえ?
> そのような「天府の国はデマ」説の記事を読んだ事もありますが、
> その記事自体に、間違えやいい加減な記述が多すぎたので・・・・
> あのシリーズは以前より、本当に内容が玉石混淆なんですよねえ。
> 1冊に十数人の筆者がいて、書き手のレベルもバラバラですから。
> 奇抜な記事の筆者が、「郷土史家」や「歴史研究家」などとなっていましたら、
> その記事は、眉に唾をつけながら読む方が良いと思います。

実を言いますと「天府の国はデマ」説のソースはその記事です。
あの記事の信憑性は低かったのですね・・・
 
> ちなみに、「天下三分の計」に関しては、
> 荊州と益州を領して、孫権と手を組み曹操を討つモノでしたら、
> 単純に人口だけなら、後漢の時点のデータでも、
> 「荊州と益州」の二州だけで、後漢全州の総人口の3分の1には達しますね。
> まあ、それを孫権が黙って許すかは別問題だった訳ですが。
> それと、本当にこの計略が構想通りに進行したとしても、
> 荊州と益州の二州同時統治というのは、地形的にかなり難しいので、
> そこから国力を蓄え、満を持して北伐を・・・とは、なかなか行かないでしょうね。
> 二州を維持するだけで、四苦八苦しそうですし。

確かに面積だけなら中原に匹敵しますからね・・・
おまけに漢民族以外の少数民族が少なくないので、
その対策も結構なものになりそう、と言うかなってましたね。
 
> また、三分の計で鼎立化を目指すのであれば、
> 蜀の第一次北伐が成功し、長安以西を領有すれば、
> そちらの方が、形的にはしっくり来たかも知れませんね。
> 後年の南北朝時代には、「北周・北斉・陳」の鼎立時代がありましたし。
> そして、そこから天下を獲得したのは、
> 三国志の地理的には蜀にあたる、北周を乗っ取った隋なんですよね。
> http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/dd/%E5%8C%97%E5%91%A8%EF%BD%A5%E5%8C%97%E6%96%89%EF%BD%A5%E9%99%B3%EF%BD%A5%E5%BE%8C%E6%A2%81.PNG

そうしてみると荊州喪失後も覇権を取る可能性は割とあったということですね。

> > 中国の南方政権は大体四川から崩れていますね。
> > 呉や南朝、南宋辺りはこれに該当するでしょう。

> 直接、四川からって事ではありませんが、
> 四川が敵の手に渡ると、北と西の二正面作戦を強いられる事になり、
> 南方の要地である湖北(江陵)を守るのが、困難になるんですよねえ。
> まあ逆に要地だからこそ、動乱期になると緩衝国として、
> 西梁や荊南といった小国が湖北に出現するのは、歴史の面白い所ではありますが。
>
> > > 攻められにくいけど、攻め出しにくい。
> > 外へ出るには補給線を維持するのが困難すぎますからね・・・
> > 四川の政権としては蜀漢は大健闘していると言えるでしょう。

> だからこそ、韓信や蕭何は凄かったとも言えるでしょうね。
> もちろん、それぞれ条件が異なるとは言え、
> 閉じ込められたはずの漢中より、躍り出てくる訳ですから。
> 蜀漢も第一次北伐が成功していたら、流れは随分違ったでしょうが、
> やはりこの辺は、一発勝負みたいな部分もありますからねえ。

漢は関中制覇後、こちらに本拠地を移していますので
四川から外に出る事が重要ですね。
先の北周の例でも本拠地は長安ですし。
イフとして入蜀後、本拠地を荊州のままにするということを考えた事がありますが
この場合は孫権との争いを助長させてしまいそうですね・・・
まあ、交通の便はいいので外に出るには打って付けなのですが。
 
> > まあ、あの広さなので気を抜くと分裂してしまいそうですが。
> う〜ん、それはどうでしょう?
> 分裂してしまうと言うよりは、
> 地方で自儘に振る舞う人間が出てくると言う方が適当ですかねえ?
> 日本で例えれば、「あっちこっちに関東軍」って感じでしょうか?(笑)
> 勝手な振る舞いはするが、日本という枠組みからは外れない・・・みたいな。
>
> 民国期の軍閥にしても、あくまで中華民国に属する形で居た勢力が多いですし、
> 大きな足枷にでもならない限り、国家や王朝の権威や枠組みを利用した方が、
> 地方で好き勝手するにも、何かとやりやすいですからねえ。
> それに、独立してあまり好き勝手にやり過ぎると、
> 中国は平坦な地形な為、一気に潰される危険性もありますし。
> だからこそ中国では、巨大すぎて地方を制御し辛い替わりに、
> 枠組みとしての国家や王朝は尊重され、それ自体は崩壊しにくいと。
> でもまあ、崩れる時は崩れちゃうんですけどね(笑)。

考えてみると地方がいくら好き勝手していても、独立と言う言葉を聞くと
途端に目の色が変わりますからね(笑
中央の言うことに従わずとも枠組みを守っている限りにおいては大目に見ても
独立は容認しないのが彼らのスタンスと言うところでしょうか?
まあ、台湾をどう見るかは見解の分かれるところですが。
 
> > 皮肉にも皇帝が弱体化した後は教皇も存在意義が薄れてしまい、
> > また国王の強大化は国民国家の土台ともなっています。
> > そうしてみると教皇と皇帝が広範な権威として競合し、
> > 最後には共倒れしたといったところでしょうか。

> 結局の所、全ての権力の根源は「武力」にしか拠りませんからねえ。
> そして教皇は、直接的に大きな武力を保持してないと。
>
> しかし、世俗上の権威である「皇帝」と、
> 宗教上の権威である「教皇」とに分かれていたからこそ、
> 教皇が今日まで、残れた面もあるんでしょうけどね。
> オスマン皇帝が「スルタン」と「カリフ」を兼任したイスラム教では、
> スルタン制の廃止と運命を共にして、
> 結局、カリフ制は現在まで生き残れませんでしたからねえ。
> もしもカリフ制が存続していれば、テロを抑える一助にはなったかも?

確かオスマン朝のスルタンが廃位された際に、カリフの称号を残そうとしたものの
こちらも没収されたんですよね。
まあ、トルコは脱イスラム路線だったので受け入れられないものだったのかも知れません。
 
> > あと中国の場合、宗教が流行ると王朝が傾く傾向があるので
> > 中国の権力者は宗教に対して非常に警戒しているそうです。
> > ex.太平天国、黄巾の乱

> 宗教が流行ると王朝が傾くと言うより、
> 王朝が傾き政情不安定になるから、
> 宗教が流行るんじゃないですかねえ?
>
> そして、宗教が流行るのも、信心からと言うよりも、
> 農民の反乱が団結する為の象徴として、宗教が必要なんでしょうね。
> 新興宗教が農民の反乱と結び付き、燎原の火の如く拡大する事は儘あれど、
> 動乱が過ぎると、そうした新興宗教も忘れ去られて定着しないですし。
> 紅巾の乱の白蓮教くらいでしょうか、生き残ったのは?
> 結局、そう言った中国の新興宗教は、単なる「道具」なんだと思いますよ。
> まあでも、そうした道具を為政者は恐れるのかも知れませんが。

確かに動乱が民衆を宗教に走らせるのかも知れませんが
その宗教がまた動乱を招くと言う面もありますね。
かくして政権は崩壊する・・・
ちなみに道教は黄巾の乱の太平道の流れを(一部ですが)組んでいます。
 
> > そうしてみると鴨緑江・豆満江の向こうに広大な満州の大地が広がっている
> > 朝鮮半島は不幸ですね・・・

> 逆に言えば、あの土地で民族の独自性を保ち得た事が凄いです。
> 大陸側はちょうど、遊牧民と農耕民との境目なので、
> 中国だけでなく、モンゴル系からも脅かされると・・・・
> 実際、中国からよりも、モンゴル系からの侵攻の方が多い気がします。
> まあ海洋側は日本だけなので、大した事無さそうですが、
> でも結局は、朝鮮を飲み込んだのは日本だけですので、
> 朝鮮にとっては、海洋側も大きな脅威なんですよね。
>
> そして、時代は下って現代では、
> 中国は満州国の遺産がある東北部へ重点を置き、
> モンゴルの位置にはロシアが進出。
> 海洋側からは、日本に替わってアメリカが・・・って、状況が更に悪化してますね(笑)。
> 米・中・露と、世界の三大国家が勢揃いです。
> 結局、その影響もあって、朝鮮は分断国家にされてしまいましたし。
> って、三大国家に囲まれている状況自体は日本も同じなので、
> あまり他人事ばかりでは、居られないんですけどね・・・・

欧州系を除いた大国勢揃いですからね・・・
彼らにしてみれば一向に気の休まる時代がやって来ていないというか
現代ほど気の休まらない時代も今まで無かったというところでしょうか。

> ただ、朝鮮半島の分断というのは、
> 皮肉な事ですが、半島に安定をもたらして居るんですよねえ。

地政学的には絶妙とも言える状況ですからね。
単純に緩衝国を置くよりも緩衝国を2つ置くことによって
大国同士の直接対決を回避できています。

> ひょっとしたら、このまま分断が固定化される可能性もあるかも?
> 大国側とすれば、統一される事で面と向き合う事になるのは嫌でしょうし、
> ドイツの状態を見れば、韓国も現実的には統一を望まないでしょうし、
> 北朝鮮の上層部にしても、統一にデメリットはあってもメリットは皆無。
> 結局、どの国も「現状維持」が最良なんですよねえ。

おそらく本音ではどこもそう考えているような気がします。
ただ一国を除けば・・・

> 強いて言えば、日本くらいでしょうか?
> 統一により、多少なりとも恩恵を受けそうなのは。
> 軍事境界線がない在日の社会では、北朝鮮と韓国の代理戦争を担わされてきたので、
> 統一が叶えば、在日社会も、日本国内も、現状よりは幾分か落ち着くと思います。
> また、韓国による統一が成れば、韓国と中国が直に睨み合う事になり、
> 中国は朝鮮人自治区を抱えており、統一熱が飛び火する可能性までありますので、
> 中韓の日本に向ける圧力が、多少なりとも緩和されると思います。
> って、当然デメリットの方もいろいろあるので、その両面を見れば、
> 対米従属路線を続けていくのであれば、日本も現状維持の方が得なんでしょうけど。

日本の場合はデメリットの方が現在表面化していますからね。
現状維持と言われて納得するのは難しいでしょう。

最初に話題振っておいて言うのも難ですが、
テーマを地形と歴史に限定したいチキンな私は
今回はこの辺でということで(笑


[5662] Re2:既に話題は「地形と歴史」返信 削除
2008/3/3 (月) 19:30:09 徳翁導誉

> > 例えば同じように、キリスト教とイスラム教の等距離にあっても、
> > リビアなどは、火薬庫にならない訳ですし。

> リビアは砂漠による無人地帯もあり、距離を置けているので
> 火薬庫にならずに済んでいそうですね。
> わざわざ灼熱の砂漠を越えてまで争いにいくのもナンセンスですし(笑

まあ、リビアというのは、
敢えて、かなり極端な例を出したんですけどね(笑)。

> > 中部フランク王国(ロタール領)って、かなり無理がありますよね(笑)。
> > ライン川流域と北部イタリアが地続きだとは言え、
> > ど真ん中にアルプスが走ってますからねえ。

> 語弊がありましたが言いたかったこととしては、
> ロタール領の辺りがちょうど境目になっているという事で
> あの王国そのものが持続しうるものとは考えていません。

いや、それはもちろん分かっていますよ。
ただ、ロタール領の話題が上がったので、
「やはりその分割は無理があるだろ?」って事を、ただ書きたかっただけです(笑)。

河川での国境って難しいんですよね。
山岳国境と違い、河川は障害であると同時に航路でもありますので。
しかも河川の両岸には、平野が広がっている事が多いですし、
二勢力が対峙する場合、河川を境にピタリと分かれるよりも、
どちらか一方の勢力が河川の両岸を支配し、
その相手側の岸の限界線あたりが、国境になる事も多いような気がします。

> > > まあ、フランクが分裂したのは実は彼らの遺産相続方法が
> > > 分割相続だったからなのですが(笑

> > だからこそ、イフを思うんですよね。
> > これがもし三人兄弟ではなく、二人兄弟でしたら、
> > アーヘンを中心とするフランス・ドイツと、
> > ローマを中心とするイタリアとに二分されたでしょうからねえ。

> 三分割される前は相続権者が一人しかいなかったために
> 分裂しなかったと言うこともあるのでこのイフは一考に値しますね。

そうなんですよねえ。
そう言う状況が、あと何代か続けば・・・と思う反面、
やはり一度くらいは分割相続で痛い目を見ないと、
一括相続には移行できないかも?と言う思いもあります。
ただ、その痛い目を見る分割相続が、
史実とは異なりアーヘンとローマの二分割であったら・・・と考える訳です。
まあ、所詮はイフですが(笑)。


> > 確か、学研から出ている「歴史群像シリーズ」の三国志の巻でしたかねえ?
> > そのような「天府の国はデマ」説の記事を読んだ事もありますが、
> > その記事自体に、間違えやいい加減な記述が多すぎたので・・・・

> 実を言いますと「天府の国はデマ」説のソースはその記事です。
> あの記事の信憑性は低かったのですね・・・

だって、いきなり成都平野を話題の対象から除いてますからねえ。
四川農業の中心である成都平野を無視して、四川の農業事情は語れませんよ。
「雨水が多いから栄養素が流されて貧土になる」とも書いてますけど、
栄養素は流される以上に、上流からも流れてきます。
それは四大文明などを考えても分かりますよねえ?

あと、「広辞苑に古来より天府の国だと載っているが、それは間違い」という主張も、
では何故、そうした伝聞が有ったのかについて、一切の検討がなされてませんし、
「今も昔も中国で最も貧しい地」とありますが、
少なくとも現在の四川は、世界を代表する米の大穀倉地帯です。
それに、これだけ大きく話を振っておきながら、
最終的な結びが、「穀物は作れるが、作柄は今一つダメである」って、
言い換えれば、「作柄は多少落ちるが、穀物は十分に作れる」と書いている訳です。

続いて、漢中・北伐関連の記事ですが、
気温と日照時間は足りているが、水温が低いので稲作は「不可能」と結論付けてますが、
十分な気温と日照時間があるなら、貯水池を設けるだけで水温なんて上がりますし、
そもそも水田に水を張るのですから、そこで日光により温まりますよ。
更に、「米倉は満ち溢れた」という記述を引用して、
具体的な収穫量の記述がない事を理由に、現実は逆だったろうと結論付けるのは、
幾ら何でも、無理があり過ぎでしょう・・・・


> 漢は関中制覇後、こちらに本拠地を移していますので
> 四川から外に出る事が重要ですね。
> 先の北周の例でも本拠地は長安ですし。

四川は守りやすく、豊かな地だからこそ、
天下を狙う上では、後方基地としての利用がベストでしょうね。
北伐が成功し、関中を掌中に収められたのなら、
本拠を長安に移す事は、十分に有り得た事だと思います。
長安は前漢の首都ですし、そちらの方が正統性を主張しやすい面もあるでしょうから。

あとは如何にして、東方の守りを固めるかですね。
本拠を長安に移すならば、関中の守りは良いとして、
問題は四川に於ける長江沿いの守りですか。
秦や漢の時には、まだそのルートも未発達でしたし、
北周には、江陵に緩衝国となる西梁が存在してくれましたが、
荊州失陥後の蜀漢には、そう言ったモノがないですからねえ。
如何に長江ルートが難行路だとは言え、
呉や魏の大勢力により江陵を押さえられていると、何かと面倒ですし。
そうなると、やはり関羽の荊州失陥の話になっちゃうんですよねえ・・・・

それにしても他の2勢力は、見事に本拠地がそのままですね。
魏晋南北朝と、一括りにされる時代ですので、
時代的な継続性もあるのでしょうが、やはりそこが要地なんでしょうね。
特に呉の建業なんて、この時代には建康と名を変え、その後に南京となる訳ですし。

> イフとして入蜀後、本拠地を荊州のままにするということを考えた事がありますが
> この場合は孫権との争いを助長させてしまいそうですね・・・
> まあ、交通の便はいいので外に出るには打って付けなのですが。

それはアリだと思いますよ。
と言うか、最初の構想としては、そう言ったモノもあったかと思います。
最初のうちは関羽だけでなく、張飛や諸葛亮も荊州に残留してますし、
そもそも劉備の大義名分は、荊州牧くらいしかありませんからねえ。
あっさりと益州を手に入れられてて、益州の統治にも不安がなければ、
本拠地を荊州のままにしていた可能性は有ると思います。

孫権との対立にしても、劉備が何処にいようと、
荊州を狙う呉の動きは変わらないでしょうし、
劉備が荊州に居る事で、却って呉は手を出し辛くなったかも知れません。
魏を脅かすにしても、荊州に居た方が効率的ですし、
荊州を囮にして関中を狙ったり、逆に関中侵攻を囮に荊州から狙ったりと、
作戦の幅も大きくなりますからねえ。

ただ問題は、荊州を本拠地にして、四川を無事に保てるかですね。
四川自体の統治面の問題もあるでしょうが、ここでは軍事面に限定しますと、
荊州に居ては、関中方面からの四川侵攻には抵抗し切れない。
となると、漢中の張魯を温存し、緩衝国化する方法もありますが、
それでは国力を北方や関中に伸ばす事が出来ませんし、
魏からの侵攻ルートを一本に縛り、防衛しやすくなる代わりに、
自分たちの魏への侵攻ルートも、一本に縛って攻め難くなってしまう。
だからと言って漢中を押さえると、防衛面では二方面での対処を強いられる。
そうなると、「漢中―上庸―襄陽―江陵」という、
漢水ラインで防衛線を築こうという事になるんでしょうね。
ただ、このラインも地形的にかなり厳しいんですけど・・・・

結局、荊州を本拠地にし続ける場合、
魏との戦いは短期で決着に導く方向にしないと、
かなり難しいような気がします。
荊州と漢中の二正面ですと、魏の方が移動が楽ですし、
荊州は呉とも接するので、魏と呉に挟み撃ちにされる危険性もありますからねえ。
江陵は、「湖北と湖南」「四川と江南」を結ぶ十字路にあるので、
交通の要所として便利すぎて、逆に危険なんですよねえ。
何処の勢力にしても、絶対に押さえておきたい土地ですし。
そう考えて行くと、「北周・北斉・陳・西梁」のバランスは実に絶妙(笑)。


> > オスマン皇帝が「スルタン」と「カリフ」を兼任したイスラム教では、
> > スルタン制の廃止と運命を共にして、
> > 結局、カリフ制は現在まで生き残れませんでしたからねえ。

> 確かオスマン朝のスルタンが廃位された際に、カリフの称号を残そうとしたものの
> こちらも没収されたんですよね。
> まあ、トルコは脱イスラム路線だったので受け入れられないものだったのかも知れません。

スルタン制の廃止が1922年で、カリフ制の廃止が1924年と、
2年の時間差がありますからねえ。
ケマルも反発を恐れて、一気に事を進められなかったんでしょうね。
取り敢えずは、亡命した皇帝を廃位させてスルタン制のみを廃止し、
カリフの職だけを、皇太子に継がせるなんて処置を取ってますし。

カリフ制の廃止には、
脱イスラム路線という要素も確かにあったのでしょうが、
ケマル自身の保身的な要素もあったように思います。
ケマルがアンカラで蜂起した時、オスマン皇帝はカリフの力を用いて、
ケマルたちを「神の敵」とし、カリフ軍を組織しましたし、
特にこの帝国主義の時代には、欧米列強からの侵攻や迫害を受ける事で、
国外のイスラム教徒からも、カリフを重く見る風潮が生まれて来るんですよねえ。
欧米列強に対抗すべく、イスラム団結の象徴になりえますからねえ、カリフは。
しかし為政者であるケマルにとっては、こんな存在は脅威以外の何物でもありません。

それに、スルタン制の廃止後も、
カリフを象徴的存在とする立憲君主制の意見も多く、
急進的で強引なケマルに対して、反発や離脱した人たちも、
カリフの元に集約し、反ケマル派を形成し始めて来るんですよねえ。
だからこそ、ケマルはカリフ制廃止という大ナタを振るったと。
しかし、前皇帝のカリフ軍なんていう伝家の宝刀を抜かなければ、
ケマルとしても、ここまで強引に事は進められなかったと思います。
そう言う意味では、歴史とは個人が動かす部分も確かにあるんですよね。


> > って、三大国家に囲まれている状況自体は日本も同じなので、
> > あまり他人事ばかりでは、居られないんですけどね・・・・

> 欧州系を除いた大国勢揃いですからね・・・

欧州に「大国」はあっても、「超大国」までは無いですからねえ。
まあ、EUがどれくらい団結できるかで、
それも変わってくるかも知れませんけど。
何だかんだで、ユーロも幅を利かせ始めてきますし、
EU大統領やEU外相の誕生も、間近みたいですからねえ。

> > 北朝鮮の上層部にしても、統一にデメリットはあってもメリットは皆無。
> > 結局、どの国も「現状維持」が最良なんですよねえ。

> おそらく本音ではどこもそう考えているような気がします。
> ただ一国を除けば・・・

しかし北朝鮮を、上層部ではなく国民として見た場合、
現状維持を望まない国は、まさにここでしょうけどね。

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