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[21919] Re2:センター試験の廃止と、共通テストの導入返信 削除
2018/9/27 (木) 19:57:52 徳翁導誉

> > > 一応、高校の方で偉そうにアドバイスとかをしたこともあるのですが、
> > > マーク式から記述を含む方式へと変更される訳で、ほとんど役に立たなくなるでしょうねぇ・・・。

> > マーク式だと役立つアドバイスって、具体的にどんな感じでしょう?
> > スレッドがスレッドですので、ちょっと興味がある所です(笑)。

> そんな大した話ではないですよ(笑)
> 大体マーク式は4択や5択の問題ですよね
> だから模試やワークを解くときに選択肢に〇や×をしておきます。
> 正解だと確信できた選択肢に〇、間違っていると確信できる選択肢に×をつけておきます。
> どちらか判断がつかない選択肢には△をつけておきます。
> 見直しの際には回答中につけた記号が役にたち、効率的・効果的に見直せます。
> 具体的には自分が〇や×を自信をもって付けて答えたにも関わらず、誤答してしまった問題は、
> 「分かったつもり」になっている問題ですから、最優先で見直しをしないと本番で足をすくわれかねません。
> こういう「分かったつもり」の問題を無くすことで着実に点数を伸ばしていけますし、
> 尚且つ自分の実力を常に正しく把握できるようになります。

なるほど、模試や問題集をする時の話だったんですね。
「マーク式が英語力の無い人間でも高得点を取れるテスト」とありましたので、
私はてっきり、入試本番で選択問題の正答率を上げる裏技でもあるのかと?(笑)。

> > いや別に、マーク式が全廃されて、全て記述式に置き換わるという話ではなく、
> > 基本はマーク式で、そこに記述式も一部加わる感じだと思いますよ。
> > ほぼ全ての受験生が受けるテストですから、記述問題ばかりだと採点が困難ですし、
> > 先んじて導入された私大入試の記述問題も、申し訳程度という所が多いですからねえ。
> > それにTOEICやTOEFLにしても、私が受けた頃と変わっていなければ、マーク式だった気が?

> 確かにマーク式ですけど、半分がリスニングですし、
> リーディングも文法や単語問題の比率がセンター試験より高いのがネックですかね?
> 読解問題は確かにこれまでのセンター対策と通じる部分があると思いますが、
> 総合的にはより負担が大きくなっているのは間違いありません。

そもそも「マーク式ってそんなに悪いかなぁ?」という思いが、私自身には正直あるんですよね。
数学や物理などの計算問題では、単に答えを書くだけなら、記述式とそんな大差ありませんし、
確かに、4択問題なら25%、5択問題なら20%の確率で、当てずっぽうに答えても正解しますけど、
十分な問題数さえあれば、平均点を引き上げたり、点差を縮めたりはあるものの、
最終的には、それなりに学力差はキチンと反映されるだろうと考えているので。


> > > 民間の英語試験を組み込むとなると、英語力の無い人間はもうどうしようも無くなるでしょうね。
> > > 英語力の無い人間も努力すれば高得点を取れるのかもしれませんが、
> > > その努力の求められるレベルが今までより遥かに高くなるのは確かかと。

> > 私が気になってしまうのは、受験生に対する平等性であったり、
> > 国家としての教育に対する責任性みたいな所なんですよねえ・・・・
> > TOEICやTOEFLがダメとは言いませんし、何度も受けられる利点はありますけど、
> > それなりの受験料が掛かる事から、家庭の経済力によって左右されたり、
> > 試験会場は大都市ばかりなので、地方在住者は受ける事が困難だったりと、
> > その受験機会の回数が、不平等を生み兼ねない気がするんです。
> > しかも、大学入学共通テスト単独での合否判定には否定的な態度なので、
> > 受験料も安く、試験会場まで出向かなくて良い、私大センター利用入試が無くなるかも知れず、
> > そうなると、貧しい受験生や、地方の受験生は、更に苦労を強いられる事になります。

> センター利用型入試が無くなるとすればそれは地方高校出身の学生には大きな影響を与えますね・・・。
> 単に旅費の問題だけではなく、試験会場で試験を受けるという状況自体学生には負担が大きいです。
> 勿論、数をこなして慣れるという考え方もあるでしょうけど、それも限度があるかと。
> 例えばMarchのセンター利用型に片っ端から出した上で
> 本命だけは直接会場で受けるというような事が出来なくなりますよね・・・。
> あるいは滑り止めの為だけにわざわざ大阪なり東京なりに行く必要が出てきます。

そして、大学入試ほどでは無いにしても、TOEICやTOEFLの受験だって移動は大変です。
私自身は転勤族として、都会や地方を数年単位で連れ回せれて育った為、
都会の長所と短所も、地方の長所と短所も、両方理解しているつもりですが、
どうも都会暮らしの人は、自分が恵まれた環境下にある事を理解してないと言いますか、
どれだけ地方暮らしが不便を強いられるかを、あまり想像できてない感はあるんですよね。
確かに、ここ10年くらいで、「ネット通販」と「ショッピング・モール」の登場により、
生活面における都会と地方の差というのは、急速に縮まった所があるものの、
実際に現地へ足を運ばなければならない分野(試験や手続き、観戦・鑑賞など)に関しては、
もう物理的な差なので、その辺は未だに厳然として存在していますし・・・・

> > 日本では、母国語である日本語で、大学の授業を受けられるのですから。
> > これって実は当たり前の事のようで、全然そうではありませんし、
> > 英語なり、旧宗主国の言語なりで無いと、高等教育を受けられない国の方が多数派かと?
> > そうした国々では、学問をする上で、英語が出来る事が前提条件となりますし、
> > だからこそ必要に駆られる為、英語に堪能な学生が多くなると。
> > 逆に言えば、日本だとそこまで、英語の必要性を迫られてないって事なんですよね(笑)。
> > 国によっては、説明書や契約書なども、非母国語である英語で書かれており、
> > 学問だけでなく、生活するにも仕事をするにも、英語が必要な所だったあるくらいですし。

> フィンランドやオランダでは言語利用者が少ない為に、
> 採算が取れず、学術書も児童書も自国語に翻訳されることは無いとか。
> それ故に基本的に本という本が英語で書かれており、
> まさしく英語を学ぶことが必要不可欠な環境に置かれているそうです。
> ただ、一方日本のように言語利用者が多い為に英語学習が必要不可欠とまではいかない状況が悪いとも言えず、
> その環境を日本人が率先して破壊していくのは軽率だ、というような本を読んだ記憶があります。

別にそれは珍しい主張では無いと思いますし、基本的には私も同意見ですよ。
英語が出来ないよりも、出来たに越した事が無いのは当然ですが、
その代償として、国語の能力だったり、その他の学力が、それ以上に落ちるようでは、
本末転倒も良い所だろうと思いますので・・・・
例えば東大なども、そこまで気にする事も無い、世界の大学ランキングを上げようと、
国際化の方針を図った結果、肝心の研究面や教育面で評価を落として、
結局、ランキングの順位を落としたりなどは、本当に愚の骨頂に見えます。

あと、児童の英語教育という話ですと、
日本では2020年から、小学校で「英語の教科化」の始まる予定だそうですね。
もう既に数年ほど前から、週に1回のペースで、英語に親しむ時間は取られていたそうですが、
2年後から遂に、英語の授業時間が相応に取られ、教科書を使い、成績まで付くらしいです。
もちろん、言語教育というのは早ければ早いほど良いというのは、一面では真実ですけども、
だからと言って、今まで中学1年生から始めてた事を、小学校高学年を前倒しするだけで、
しかも、専門的な研修や経験を積んでいない小学校の先生が教えるようでは、
無理があると言いますか、英語嫌いになる年齢を早めるだけな気がするんですよねえ・・・・

もともと現状の英語という教科は、学び始める中1の頃は生徒からの人気度が高いのに、
中3の頃には人気がガタ落ちするという、深刻な構造的問題を抱えている訳ですし、
小学校に英語を導入するにしても、純粋に「楽しむ」だけに徹した方が、遥かに良い気がします。
「道徳の教科化」と言い、「プログラミング教育の必修化」と言い、
これからの日本の小学生をどう育てたいのか、私には本当に意味不明です・・・・

> > それに、ここまでAI技術が発達すれば、そう遠くない将来に、
> > 日常レベルの翻訳機能に関しては、AIがこなしてくれる時代が訪れそうですからねえ。
> > まあ、このスレッドの大元となったスレッドで話題に上がった
> > 「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」の著者は、AIに翻訳は不可能と言ってましたけど(笑)、
> > そうした時代が到来したら、英語を話せる事よりも、何を語れるかが、遥かに重要になろうかと。

> 個人的にはAIの発達を期待したいです。

私の予想では、10年かからない内に、自動翻訳機が普通に使われる時代になると思いますし、
とりあえず総務省は、2年後の東京五輪に向けて、本格利用を目指していますね。
少なくとも、海外旅行や日常生活で使えるレベルのモノは、
数年の内に、実用化&普及するのでは無いでしょうか?

> 仕事が無くなったら元も子もないですけどね・・・。
その辺の事を含めて、AIとセットで「BI(ベーシック・インカム)」が語られる事が多いですけど、
産業革命を始め、今までも人類は、そうした大変革期を体験してきて現在に至ってる訳で、
ある意味では、古い時代の仕事が無くなり、新たな時代の仕事が生まれるのは、歴史の常かと?
そして、大きな変革は大きなな格差を生み、その歪みが限界に達すると、ガラガラポンが起きると。

強いて違いを言えば、時代が進めば進むほど、変化のスピードも加速度的に速くなってる事でしょうか?
IT革命によって社会は大きく変わりましたが、その変革も、ここ十数年間の話ですし、
これから本格化するであろうAIの発達は、更なる変革を社会にもたらすでしょうけど、
その後に来るナノやバイオの技術革新は、今までの歴史にも存在しなかった、
人類が自らの手により「人工的に進化」する時代を、到来させるでしょうからねえ・・・・
もし世界大戦レベルの戦争があれば、私たちが生きている内に見られるかも知れませんよ(苦笑)。


> > > しかし、日常生活で必要になる国語力って、後説明力=記述力もあると思うんですよ。
> > > まあ、記述が出来てもとっさの説明は下手になる人も居ますが・・・。

> > 「とっさの説明」は・・・私も下手かも知れませんね(苦笑)。

> 私も下手です。
> それに最近、文章での説明も下手になってきた気がして焦っています。
> 紙媒体の読書量が減ったのが原因なんでしょうかね・・・。

やはり皆さん、今は電子書籍で読まれる時代なんですかねえ?
私は未だに紙じゃないと駄目なので、本を読むなら紙媒体ですし、
電子情報も数十ページあれば印刷しても読み、本を買うのもAmazonではなく本屋です。
そう考えると、私はかなりのアナログ派なのかな(笑)。

> > > 昔の小説を読むのも良いですが、昔の文体になれるというよりは
> > > 昔の雰囲気、常識みたいなものになれるのが大事でしょうね。

> > 数学の方で出た話題ですけど、やはり学問の上達には、
> > 「教わる」よりも、「教える」事の方が、遥かに効果があると考えれば、
> > 国語力を養おうとすれば、読む事は勿論、自ら書いてみる方がもっと良いのかも?(笑)
> > まあ流石に小説とかはハードルが高いかも知れませんが、それこそブログとかでも言い訳ですし、
> > 考えようによっては、文字を書く機会の多い現在の若いデジタル・ネイティブ世代の方が、
> > 一般的なイメージとは逆に、意外と国語力が高いという事も有り得そうな気がします。

> うーん、ネット小説とかならともかく、いわゆるSNSやブログだと文章を書くというより、
> 話し言葉を文章化したような印象を受けます。
> といってもそれが悪いという訳でもなく、コミュニケーション能力の向上には繋がるでしょう。
> ただ、文章力の向上に繋がるかは正直微妙ではないでしょうか?

明治の頃、言文一致運動の中、話し言葉で書かれた夏目漱石などの近代小説は、
それこそ当時の文化人たちからは、「低俗」として切って捨てられていましたけども、
現在、彼らの書いた小説作品は、果たしてどんな評価をされているでしょうか?
平安時代の日記と現代のブログや、江戸時代の俳諧連歌と現代のLINEには、
各時代性の違いという以外に、一体どれだけの違いがあるのでしょう?
また、純文学に大衆文学、ラノベにケータイ小説、ブログにSNSと、
全て繋がって見えるこれらは、どこかで明確に線引き出来るモノなのでしょうか?
そして例えば、ブログ以上に話し言葉に近い、この掲示板でのやり取りなども、
文章力の向上には、まるで繋がらないのでしょうかねえ?(笑)

それに何より、文章力や読解力というのは、コミュニケーション能力の一要素では無いでしょうか?
先日、文化庁の調査で、「なし崩し」や「檄を飛ばす」といった言葉は、
本来の意味で用いられるより、誤用の方が7割近いという結果が発表されてましたけど、
言葉とは時代によって変わる生き物である以上、ここまで来れば、誤用こそ正しいとも言えますし、
教科書的に正しいとされる意味にしても、時代を遡れば、誤用が定着した例など枚挙に暇がありません。
ですから、教科書的な正しさを絶対的な1つの基準として、それ以外は間違いとするのではなく、
その辺を含めてキチンと理解できる事こそ、本当の意味での国語力だと思いますし、
よく「近頃の若いモンは」となるのは、何か若者に問題があるという以上に、
若者との世代間ギャップを埋まられない、当人の問題が大きいと思うんですよね。
・・・って、国語のテストとなると、逆にその「教科書的な正しさ」が絶対になるのですが(苦笑)。

> > > 「蜻蛉日記」とか本当に分かりませんね。
> > > 藤原兼家の酷な行為に対して藤原道綱母がどんなに悔しく感じたが、悲しく感じたか、
> > > 感情移入は滅茶苦茶出来るんですけど、
> > > その後自信満々に答えた選択肢が大体間違ってるんですよね。
> > > 解説を読んでも、何が間違っていたのか分からない
> > > 解説通りだとしたら藤原道綱母に感情移入したつもりになっていただけだったのかとも思いますが、
> > > そうだとしたら藤原道綱母の気持ちが全く理解できない

> > ひょっとしたら、感情移入をし過ぎているのかも知れませんね(笑)。
> > もしくは、そもそも個人の感覚が、一般的な感覚からズレているなんて可能性も?(笑)

> いや、感情移入しすぎというよりは
> 私の思考形式が特定の状況では世間の思考形式とズレちゃうんだと思います。
> 基本的に文章題は世間様の常識を意識して読んでいるのですが、
> 極稀に私の常識がズレていることがあるみたいで・・・。

「極稀に」と言うのが、却って厄介なのかも知れませんね(笑)。
私の場合、基本的に世間様の常識とズレている事の方が多いので、
「自分の見方」だけでなく、常に「一般的な見方」を意識しています。
そうしないと、面倒事ばかり増えてしまいますから・・・・
でもまあ、考えようによっては、そうしたズレがあるからこそ、
客観的視点とか、多角的視点みたいなモノが、自然と身に付いたのかも知れませんし、
あちこち転勤しながら育った為、土地が変われば世間の常識も変わる事も覚えたのかも?

> それに加え、蜻蛉日記の場合は背景を知っていることが逆効果になっているのかもしれません。
> 蜻蛉日記は藤原道綱母が夫の藤原兼家に失望して、子の藤原道綱を育てることに生きがい?を見出していく話で
> そこに至るまでの藤原道綱母の心情が滲み出ているからこそ高く評価されているのだと認識しています。
> 最初に読んだ蜻蛉日記の説明がそんな感じだったので。
> それ故に兼家に対する道綱母の心情を厳しめに想定しすぎているのかもしれません。
> 最初の方は兼家に未練だらだらですからね・・・。

文章から結構な熱量を感じるのですが(笑)、
マンネルへイムさんは、現代の作品よりも、古典の方が好きな感じでしょうか?
それとも、現代とか古典とか関係なく、「蜻蛉日記」が良い作品という感じでしょうか?
どうも私は、この辺の分野の本を、まるで読まないもので・・・・

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