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[23428] 現在のオタク文化事情返信 削除
2020/11/12 (木) 18:50:00 旧トルコ担当

文章を練っていたら返信遅れました。

話がだいぶ散らかって、混乱していますので、一度整理してみたいと思います。

で、徳翁導誉さんの主張の中心は以下のことだと思っています。

> 要するに、アナログ時代には無かった繋がりが、デジタル時代に生まれたなんて話は百も承知なんです。
> それこそ、それをリアルタイムで体感した世代なのですから。
> その一方で、アナログ時代にあった繋がりが、デジタル時代により消えてしまった面もあり、
> それらをデジタルの新たな繋がりが、代替し得るとは限らないと言う話なんです。
> ただし、私が主に言っているのは、そうした私よりも前の世代の話ではなく、
> アナログとデジタルの過渡期であった私自身の世代の世界の事を言っているんです。
> アナログの文化があり、デジタルの文化があるだけでなく、両方が融合した文化があり、
> 「そんな世界」とは、広く言うと、この3つの文化があった世界であり、
> 狭く言うと、アナログとデジタルが融合した文化があった世界の事ではあります。
> 前の世代のアナログ文化だけでなく、過渡期だからこそ有り得た徒花なのかも知れませんが、
> 融合した文化までが消えてしまい、ほとんどデジタル文化しか残っていないと。
> それでも、衰退した2つの文化を補って余りあるくらい、新文化が隆盛していれば別ですが、
> 経済的事情もあってか、穴埋めできている実感はしないのが、正直な所なんですよね。


で、まあここでは日本の経済事情や資本主義の置かれている状況については主題からずれるので置いておくとして、
確かにアナログ文化や、アナログ・デジタル融合文化は消滅しましたが、新しいデジタル文化はその分隆盛していると思うんですよね。
ですが、デジタル文化はアナログ文化に比べて圧倒的に見えずらいんです。
書籍にしても、リアルな書店であればどのような本が売れているのかは、実際にそのジャンルの本棚に行けば一目瞭然ですが、Amazonであればなかなか分かりません。
その上、デジタルの場合は仮に新しい文化が実際に数字などが見えたとしても、その背景がまた見えずらいわけです。

例えば前回出た百合ですが、これも量的拡大の中で起きている質的変化が十分に理解されていないと思います。

> マリみてが挙がるなら、まずはその前に「少女革命ウテナ」が来る気がしますし、
> 部分的には「セーラームーン」のウラヌスとネプチューンで、そうした要素が描かれており、
> 更にもっと言うと、既に実写映画の方で、1990年に「櫻の園」がありますよね?
> この映画自体も少女漫画原作ですし、特筆して新しい文化と言えるかとなると・・・・
> まあ、以前よりも更に一般化したと言えば、そうかも知れませんけど。
> 「ゆるゆり」もタイトル通りなら、日常系に緩く百合要素を加えた感じなのでしょうが、
> あまりに一般化しているのか、「百合要素なんて入ってるか?」って感じですし。


なぜそもそも「ウテナ」ではなく「マリみて」なのかといえば、男性オタクに百合が発見されて、新しい百合文化が誕生し始めたのが「マリみて」からだったからなんです。
もちろん、女性の間では24年組が描いてきた暗い百合の時代から百合は存在するのですが、あくまでそれは少女文化の中の小さいシーンに過ぎなかったと。
それが80年代末から90年代あたりで、まず男女雇用機会均等法(85年)などの影響もあって、女性にとって男性に選ばれることが至上価値でなくなります。
それが女同士の関係性を変化させるわけで、それが指摘にある「櫻の園」などですね。
で、その路線が拡大されていったのが90年代の「ウテナ」や「セーラームーン」などなのですが、ここまでは主に女性、特に少女文化の中での話なわけです。
で、これがオタク文化の中に輸出され始め、新しい形態をもって受容されるきっかけとなったのが、「マリみて」なわけです。

『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』より
「元々コバルト文庫内には一定数男性読者もおり、男性ファンがいること自体は珍しいわけではない。(中略)(注:マリみては)ファンの男女比が通常のコバルト作品とは異なっていた」
「『マリみて』はコバルト文庫の系譜にある伝統的な要素を受け継いだ作品である一方で、その需要のされ方は極めてイレギュラーな形で行われている。」

『百合ジャンルの歴史を考察してみた』より
…同性愛とは違う、しかし緊密で繊細な心の繋がりにも、「百合」の香りが存在するのだという事を探り当て、世間に示したのがこの「マリア様がみてる」でした。
親愛、憧憬を中心としつつ、読者にはもっと踏み込んだ関係を妄想させる、「ソフトな百合」と形容されたこの作品は、後の百合に絶大な影響を及ぼします。
極言すれば「マリみて」でレズから「百合」と呼ばれる概念が分化し、確立したと考えてもいいでしょう。

でこの背景にあるのは90年代後半から隆盛し、00年代前半に確立した萌えという概念です。
マリみてが隆盛した00年代前半にある種確立した萌えは、その後「らき☆すた」や「けいおん!」のような少女しか登場しない、男主人公不在の作品が人気になります。
でこの「らき☆すた」や「けいおん!」で作られた今までとは少し違う形の萌えが、マリみて以降、特に00年代後半から10年代にかけて百合を普及させていくわけです。
それは吉屋信子に始まり、24年組が描いたり、90年代を通して描かれてきた少女文化の中の女性同性愛とは大きく異なるものです。
(ちなみに女性の場合は萌えから百合に入ってくるパターンと、BLから百合に入ってくるパターンがあるそうです)

で、百合が分かりずらいのは、オタク内部で百合的に受容されている作品には、初めから百合として作られている作品と、百合としては作られていないのだけど、百合として受容されていえる作品があるわけです。
例えば今季アニメの「安達としまむら」という作品は初めから百合として作られている百合作品ですが、前回紹介した「東方Project」は百合として作られていないにもかかわらず、原作者の意図を超えて百合として受容されている作品です。
元々「東方Project」は昔のゲーセンによく合ったシューティングゲームで、ゲームに出てくるキャラクターもストーリーも本来おまけでしかないのですが、二次創作によって「マリみて」と同時期に百合を広く普及させました。
それは現在も同様で、おそらく百合として受容されている作品の半分は本来百合ではない作品だと思います。艦これやラブライブ、アイドルマスターやFGOとかがそうですね。
これらの作品は一見すると既存の萌え作品と変わらないわけですが、需要のされ方が大きく変わったわけですね。

こんな感じで、例えば百合というジャンルに関してもここ10年20年でかなりの質的変化があるのですが、ちょっと書店のマンガ・ラノベコーナーを覗いた程度では、現在の百合が、既存の少女文化内の同性愛作品と大きく異なることに気づかないわけです。
これが実態とは異なって現在新しい文化が隆盛していないと思われる原因なのだと思います。

もう一つ例を取り上げてみたいと思います。

> > スマホゲームに関してはゲーム性の弱さを文化の後退として否定的にとらえる論者も少なからずいますが、
> > 私としてはスマホゲームはSNSと合わさった現代のコミュニケーションゲームは
> > 一定の新しさと文化的価値を備えていると思うんですよね。

> ゲーム性に関して言えば、発言の真偽はともあれ、
> 「任天堂の倒し方」というのが、端的に言い表してる気はしますね。
> あとは、ガチャを含めた「課金」ですか。
> まあ別に、ビジネスとしては、それを否定する気はないですけど、
> それが文化を創造しているかと言えば、ちょっと私には思えないんですよね・・・・
> 逆に尋ねますと、一体どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょうか?


課金というのはスマホゲームの一部に過ぎません。
ビジネス側面に注目すればそこにどうして目が行きますが、そもそもユーザーに今まで無料で遊んでいたゲームに課金させたいと思わせなければならないわけで、それを作っているのはキャラクターの魅力です。
で、そのキャラクターの魅力を作っているのが、ここ10年で普及した中心の公式コンテンツと周辺の二次創作という構造だと思います。
例えば艦これですが、1キャラクターに対して公式(ゲーム側)で用意されているのは画像が2種、セリフが50種程度です。(人気キャラは後からセリフなどが追加されますが)
それが他の萌えキャラクターが出てくるゲームと比べて競争力を持てているのは、二次創作によってキャラクターの魅力が創作されていった点にあります。
特に艦これの場合はキャラクターが歴史という膨大なデータベースを持っていたため、二次創作という点で非常に有利でした。
もう一つ例を出せば、アイドルマスターというスマホゲームも、公式より二次創作が主体で人気が作られていってます。
アイドルマスターの場合、ニコニコ動画が開設された時期にコンテンツを拡大でき、また比較的初期の競争者が少ない段階でスマホゲームに進出したため、二次創作的な活動が活発になりました。
もともと二次創作なんて言うのはマンガが描ける一部の同人作家の文化に過ぎなかったわけですが、ニコニコ動画やネット小説という環境が整うに従い、
それまで絵の描けなかった人が動画や小説といった形で、新たな二次創作の形態を開拓することで二次創作の裾野が広がりました。
アイドルマスターの場合、キャラクターに声優がついていないキャラというのが存在し(つまり絵と字幕だけ)、課金でもらえる投票券で上位を獲得したキャラに声優がつくという選挙まで存在します。
そういったボイスなしのキャラクターでも人気が出るのは(そして選挙が盛り上がるのは)、二次創作でキャラクターの魅力が創造されるためなわけです。
ただこれも結局、ネットを用いて二次創作が作られるようになると、その二次創作の量も膨大となりますし、またキャラクターの解釈の幅も多様になってきますので、どんどん中心が見えなくなっていくんですよね。
つまり、外から見ると萌えキャラの出てくるゲームに信者が課金しているという部分しか見えてこないと。しかしその外側には(見えにくいですが)膨大かつ多様な文化圏が存在するわけです。

追記:刀剣乱舞とかもそうですね。あれがイケメンゲームとして需要する層と、BLとして受容する層を両方取り込めているのは、ゲーム自体よりもその周辺にコンテンツとしての魅力があるからなわけです。

結局例がオタク文化しか出てこないのでいまいち説得力に欠けますね。


オタクの変質について、まあだいたい宮崎事件からのオタク史に関しては自分で調べて出てきた結果と認識がほとんど一致していて安心しました。
その時代を知らない人間が後から調べると、どうしてもそれがあっているのか間違っているのかチェックができないので。
あと分からないのは、大塚英志や宮台真司あたりの言説や書籍はどんな感じで受け入れられたのでしょうか?
私が読んだ感じでは二人ともオタク文化を語っているという割には扱う範囲が限定的過ぎて、この二人の言うことはぶっちゃけあてにならないなぁと思っているのですが、実際にはどんな感じだったのでしょう?
あと秋葉原の通り魔事件って「オタク的に」大きかったのでしょうか?
大きな事件ではあったのだと思いますし、秋葉原にとっては大きかったのかもしれませんが、オタクという範囲で見たときには正直どうでもよいような気もするのですが。

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