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[23493] 百合文化史の話&秋葉原通り魔事件の影響返信 削除
2021/2/23 (火) 21:31:03 徳翁導誉

遅くなってしまい、申し訳ありません。
ようやく、返信できました(笑)。


▼ 話のテーマに関して
> 話がだいぶ散らかって、混乱していますので、一度整理してみたいと思います。
> で、徳翁導誉さんの主張の中心は以下のことだと思っています。
> > 要するに、アナログ時代には無かった繋がりが、デジタル時代に生まれたなんて話は百も承知なんです。
> > それこそ、それをリアルタイムで体感した世代なのですから。
> > その一方で、アナログ時代にあった繋がりが、デジタル時代により消えてしまった面もあり、
> > それらをデジタルの新たな繋がりが、代替し得るとは限らないと言う話なんです。
> > ただし、私が主に言っているのは、そうした私よりも前の世代の話ではなく、
> > アナログとデジタルの過渡期であった私自身の世代の世界の事を言っているんです。
> > アナログの文化があり、デジタルの文化があるだけでなく、両方が融合した文化があり、
> > 「そんな世界」とは、広く言うと、この3つの文化があった世界であり、
> > 狭く言うと、アナログとデジタルが融合した文化があった世界の事ではあります。
> > 前の世代のアナログ文化だけでなく、過渡期だからこそ有り得た徒花なのかも知れませんが、
> > 融合した文化までが消えてしまい、ほとんどデジタル文化しか残っていないと。
> > それでも、衰退した2つの文化を補って余りあるくらい、新文化が隆盛していれば別ですが、
> > 経済的事情もあってか、穴埋めできている実感はしないのが、正直な所なんですよね。

> で、まあここでは日本の経済事情や資本主義の置かれている状況については主題からずれるので置いておくとして、

いやいや、そこは根本原因なので、そこを置いてしまうと、
結果として表面化したモノのみを語る事になっちゃいますよ!?
と言いますか、そもそも「ビジネス化とお客様化」の話から始まったのでは?
まあ、旧トルコ担当さんが、そちらの話題が良いのでしたら、別に私は構いませんが。

で、その場合に私が何より言いたかったのは「場の喪失」なんです。
ただしコチラの話も、ここまで説明して上手く伝わってない所を見ると、
これ以上に言葉を労しても、進展は無いのかも知れません・・・・
ただであえ、「有ったモノが無くなった」感覚を、
「初めから無かった」世界しか知らない方に伝えるのは、ただでさえ難しいのに、
「いやいや、今でも有るよ」という前提で捉えられてる気がするんです。

そして結局の所、この後の「新しい文化」という話にも繋がるのですが、
それを指す言葉の定義というか、サイズ感が、あまりに異なり過ぎていて、
まずはそこを認識してもらえないと、上手く会話として成立しないと思いますし、
何でしたら、私の方が旧トルコ担当さんの話題に合わせちゃう方が早いのかも知れません。


▼ 百合文化の話
> 例えば前回出た百合ですが、これも量的拡大の中で起きている質的変化が十分に理解されていないと思います。
> > マリみてが挙がるなら、まずはその前に「少女革命ウテナ」が来る気がしますし、
> > 部分的には「セーラームーン」のウラヌスとネプチューンで、そうした要素が描かれており、
> > 更にもっと言うと、既に実写映画の方で、1990年に「櫻の園」がありますよね?
> > この映画自体も少女漫画原作ですし、特筆して新しい文化と言えるかとなると・・・・
> > まあ、以前よりも更に一般化したと言えば、そうかも知れませんけど。
> > 「ゆるゆり」もタイトル通りなら、日常系に緩く百合要素を加えた感じなのでしょうが、
> > あまりに一般化しているのか、「百合要素なんて入ってるか?」って感じですし。

> なぜそもそも「ウテナ」ではなく「マリみて」なのかといえば、
> 男性オタクに百合が発見されて、新しい百合文化が誕生し始めたのが「マリみて」からだったからなんです。
> もちろん、女性の間では24年組が描いてきた暗い百合の時代から百合は存在するのですが、
> あくまでそれは少女文化の中の小さいシーンに過ぎなかったと。
> それが80年代末から90年代あたりで、まず男女雇用機会均等法(85年)などの影響もあって、
> 女性にとって男性に選ばれることが至上価値でなくなります。
> それが女同士の関係性を変化させるわけで、それが指摘にある「櫻の園」などですね。
> で、その路線が拡大されていったのが90年代の「ウテナ」や「セーラームーン」などなのですが、
> ここまでは主に女性、特に少女文化の中での話なわけです。
> で、これがオタク文化の中に輸出され始め、
> 新しい形態をもって受容されるきっかけとなったのが、「マリみて」なわけです。

いや〜、その認識はちょっと間違ってると思いますよ。
特にセーラームーンの存在に関しては、軽視しすぎてる気がします。
確かにセーラームーン自体は、女の子向けの作品であるのは確かです。
ですが一方で、いわゆる「大きなお友達」を引き込んだのは、
間違いなくセーラームーンであり、その後に続く「カードキャプターさくら」でした。
もちろん、それ以前から「ミンキーモモ」や「クリィミーマミ」など、
密かに愛好されていたのは確かですけど、転換点としては、やはりセーラームーンですね。

そもそも、従来からあった「魔法少女モノ」に、「戦隊モノ」の枠組みを持ち込んだ事で、
本来の客層である女の子にとっても革命的だっただけでなく、
元々、戦隊モノが由来である大きなお友達にも慣れ親しんだ構造であり、
更にそこへ「萌え」のサターンと、「百合」のネプチューン&ウラヌスが加わって、
この作品がファースト・インパクトとなるオタクたちを、大量に生み出しました。
もちろん、マリみてはマリみてで、百合アニメ史的には大きな作品ですけど、
やはり、その大前提として、セーラームーンという作品の存在があるんです。
また、そうしたセーラームーンでの成功を踏まえた上で、
幾原監督が今度は狙った上で作ったのがウテナだと思いますし、
確かに、マリみてとは世界観の違いがあるかも知れませんけども、
やはり百合アニメ史的として語り始めるのであれば、コチラからだと思いますよ。

それに、「百合アニメ」と限定せず、「百合文化」として捉えた場合、
それこそ前述の櫻の園があり、更には戦前女学校の「エス(Sisterの略)」文化がある訳で、
アニメしか見ない視聴者にとっては目新しくても、映画や小説に触れてる層からすると・・・・
前者はサブカルであり、後者はメイン・カルチャーであるという関係もありますし、
守備範囲の広かった従来のオタク文化からすれば、そこまで大きくは捉えられませんよね。
繰り返しますけど、作品自体の出来や人気は私も認めますけど、それとは別次元の話として。

あと、男女雇用機会均等法とかの話ですけど・・・・
恐らくは何処かからの引用なのでしょうが、ちょっと冷静になって考えてみて下さい。
法律が人々の価値観を変え、それが映画に反映されてって、本当にそんな事あると思います?
例えば社会学者とかが、詳しくない人を納得させる、それっぽいストーリーとしては、
何だか説得力ある論調に映りそうでうが、逆に多少なりとも知識がある相手だと、
却って、胡散臭いヤツだと見られかねないかと思いますよ(しかも断定口調でし)。
あの法律って、女性の残業・休日出勤・深夜労働などの解禁が主でしたが、
それが実際、どのように「櫻の園」という作品に繋がるのでしょうか?
「ウイルスという見えない敵と戦っている昨今だから、
 鬼を祓う鬼滅や、悪霊を祓う呪術廻戦が流行っている」
なんて言説も、以前何かで見ましたけど、
詳しくない人なら納得できても、アニメ好きからしたら「はぁ?」でしょ。

> 『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』より
> 「元々コバルト文庫内には一定数男性読者もおり、男性ファンがいること自体は珍しいわけではない。
> (中略)(注:マリみては)ファンの男女比が通常のコバルト作品とは異なっていた」
> 「『マリみて』はコバルト文庫の系譜にある伝統的な要素を受け継いだ作品である一方で、
> その需要のされ方は極めてイレギュラーな形で行われている。」

えっ、「コバルト文庫で辿る」のでしたら、それはそうでしょうけど、
別に今は、コバルト文庫限定で話してる訳じゃないですよねえ?
根拠として引用するには、ちょっと弱いと思いますよ。

> 『百合ジャンルの歴史を考察してみた』より
> …同性愛とは違う、しかし緊密で繊細な心の繋がりにも、「百合」の香りが存在するのだという事を探り当て、
> 世間に示したのがこの「マリア様がみてる」でした。
> 親愛、憧憬を中心としつつ、読者にはもっと踏み込んだ関係を妄想させる、
> 「ソフトな百合」と形容されたこの作品は、後の百合に絶大な影響を及ぼします。
> 極言すれば「マリみて」でレズから「百合」と呼ばれる概念が分化し、確立したと考えてもいいでしょう。

検索してみた所は、これは・・・同人誌なのかな?
https://booth.pm/ja/items/721102
って、一文目からセーラームーンって書かれてるようですが(笑)。

 セーラーウラヌス&セーラーネプチューンから、ラヴィニア・ウェイトリーまで。
 多くの百合ファンや二次創作を産んだ作品を「百合ジャンル」と名付け、
 その歴史をまとめて考察した本です。

とりあえず、内容的にはコチラ↓と、ほぼ同じって認識で良いのかな。
https://togetter.com/li/1176970

> で、百合が分かりずらいのは、オタク内部で百合的に受容されている作品には、
> 初めから百合として作られている作品と、
> 百合としては作られていないのだけど、百合として受容されていえる作品があるわけです。
> 例えば今季アニメの「安達としまむら」という作品は初めから百合として作られている百合作品ですが、
> 前回紹介した「東方Project」は百合として作られていないにもかかわらず、
> 原作者の意図を超えて百合として受容されている作品です。
>  (中略)
> これらの作品は一見すると既存の萌え作品と変わらないわけですが、需要のされ方が大きく変わったわけですね。
> こんな感じで、例えば百合というジャンルに関してもここ10年20年でかなりの質的変化があるのですが、
> ちょっと書店のマンガ・ラノベコーナーを覗いた程度では、
> 現在の百合が、既存の少女文化内の同性愛作品と大きく異なることに気づかないわけです。
> これが実態とは異なって現在新しい文化が隆盛していないと思われる原因なのだと思います。

「十分に理解されていない」との想定ですが、恐らくそこから既に大きくズレちゃってますね(笑)。
正直言って、上記レベルの話は把握した上での前回の返信でした。
と言いますか、あの流れでわざわざ「ゆるゆり」について触れてる時点で、
もうちょっと正確に想定されてても良かった気が・・・・
「男性キャラの不在化」と「視聴者・読者の傍観者化」いう流れの中で、
元々は別のジャンルだった「萌え系・百合系・日常系」などが、次第に結び付いていき、
女の子たちがキャッキャウフフするジャンルを、総じて「百合」と呼ぶようになったのは、
本来的な百合要素は薄いのに、自ら作品名で名乗った「ゆるゆり」がキッカケでしょうからね。
言い換えれば、この辺りから「百合」の意味が広くなり過ぎ、収拾が付かなくなった気はします。
妄想カップリングとかではなく、そのまま深い結び付きの女友達まで含むようになり、
「ごちうさ」や「きんモザ」まで、百合アニメの代表作と捉えられるようになった現状、
昔の「エースをねらえ」さえ、今の定義なら百合に含まれるかと(ひねた見方ではなく)。

う〜ん、あとは何か別の分野でも、例えた方が伝わりやすいのかなぁ?
私からすると、昨今の「タピオカ・ブーム」を見ている感じでしょうか。
これが初体験という若者層からすると、これは「新しい文化」に映るかも知れませんが、
90年代や00年代を知っている世代からすると、今回のは第3次ブームですし、
過去2回との違いを強調されても、「新しい文化」と呼ぶには厳しいと感じるんですよね。
もちろん、文化は文化ですし、新しい要素もあるのですが、それが小さいと。
イタリアや韓国の料理が入ってきたり、特別な食べ物だった寿司が一般化されたりと、
そうした大きな変化を体験していると、ちょっと比べるまでも無いと思えちゃうんです。
まあ私の場合、歴史好きという側面もあるので、長い目で見過ぎちゃいますし・・・・

って、だからと言って、昔が凄くて、今がダメなんていう、
懐古主義に陥っている訳ではありませんよ。
私はスポーツも好きなので、その競技を開拓した過去の選手たちに敬意は表しますが、
記録的に見ても、技術的に見ても、現在の方が高いのが現実ですからね。
ですが、その一方で、昔はレベルが低かったとも言いません。
それは時代の積み重ねの上に、今という時代があるというだけの話であり、
しかも、時代に関係なく、やはり超一流の選手は凄いモノですからねえ。
「呪術廻戦」だろうと、「BLEACH」だろうと、「幽遊白書」だろうと、
先行作品には先行作品の長所と短所があり、後続作品には後続作品の長所と短所があるだけで、
どの作品も素晴らしい作品でしょうし、どの作品が一番好きは個々人の好み次第です。

ですが、こと「新しさ」という事になると、やはり時代性が大きく関わってきます。
手塚作品に劣らぬ作品は、それこそ数多く存在するでしょうけど、
日本の漫画・アニメ界を切り開いたのは、やはり手塚治虫ですから、
文化としての新しさで言うと、どうしたって後続のクリエーターは敵わないんです。
それと同じ様な話で、TVゲームの普及や、ネットの普及などを経験している以上、
百合アニメの変化というのが、そのインパクトと同レベルかとなると・・・・
いや別に、変化が無いと言っている訳でも、作品的にダメだと言っている訳でも無く、
私が思い浮かべる所の「新しい文化」と呼ぶには、不十分だというだけの話ですね。
アニメに関して言えば、子供向けではない深夜アニメの登場とか覚えていると、
その辺りは新しい文化と言うよりも、傾向とか新要素くらいの言葉が適当な気がします。

文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。


▼ 昨今のスマホゲーム事情
> もう一つ例を取り上げてみたいと思います。
> > > スマホゲームに関してはゲーム性の弱さを文化の後退として否定的にとらえる論者も少なからずいますが、
> > > 私としてはスマホゲームはSNSと合わさった現代のコミュニケーションゲームは
> > > 一定の新しさと文化的価値を備えていると思うんですよね。

> > ゲーム性に関して言えば、発言の真偽はともあれ、
> > 「任天堂の倒し方」というのが、端的に言い表してる気はしますね。
> > あとは、ガチャを含めた「課金」ですか。
> > まあ別に、ビジネスとしては、それを否定する気はないですけど、
> > それが文化を創造しているかと言えば、ちょっと私には思えないんですよね・・・・
> > 逆に尋ねますと、一体どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょうか?

> 課金というのはスマホゲームの一部に過ぎません。
> ビジネス側面に注目すればそこにどうして目が行きますが、
> そもそもユーザーに今まで無料で遊んでいたゲームに課金させたいと思わせなければならないわけで、
> それを作っているのはキャラクターの魅力です。
> で、そのキャラクターの魅力を作っているのが、
> ここ10年で普及した中心の公式コンテンツと周辺の二次創作という構造だと思います。

え〜と、課金面以外のスマホゲームの文化性を語ると言いつつ、
結局は2次創作の話になっちゃってませんか?(笑)
私も昔はニコニコ動画に投稿していましたから、
艦これ辺りは微妙でも、東方やアイマスの2次創作はガッツリ知ってますよ。
(ニコニコ動画がここまで落ちぶれてしまったのは、個人的にも寂しい限り)
で、スマホゲーにも2次創作があるというのが、どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょ?
既に確立されてる2次創作という文化を組み込んで、そこに何か新しい価値が生まれているんですか?

> 現在のスマホゲームの雰囲気について説明している記事を思い出したので、リンク張っておきます。
> https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200408a

情報、ありがとうございます。
シナリオ制作の環境に、変化が生じているんですね。
ただ、シナリオの魅力というのが、そこまで大きく評価できるかとなると、
正直な所、未だに腑に落ちない感じではあります・・・・
そこまでシナリオが素晴らしいのであれば、課金が無くても成立しそうですが、
仮定の話になりますけど、コンテンツとしての出来だけで本当に惹き付けられると思います?
例えば、35年くらい前に流行った「ビックリマン・シール」なども、
シールの裏に書かれたストーリーを紡ぐ事で、大きな世界観を味わう仕組みがありましたけど、
だからと言って実際、シール収集のコレクション要素よりも、
そちらのゲーム・シナリオの方を深く覚えてる人って、果たして多いのでしょうか?
結局は、「課金させる為の味付け」という認識を、これでは脱する事が出来ませんでした。


▼ オタク文化史論の話
> オタクの変質について、まあだいたい宮崎事件からのオタク史に関しては
> 自分で調べて出てきた結果と認識がほとんど一致していて安心しました。
> その時代を知らない人間が後から調べると、
> どうしてもそれがあっているのか間違っているのかチェックができないので。

まあ、大きなモノの流れというのは、後から追っても、そこまで大きくはズレないかと。
当時の人に聞かないと解らない部分というのは、そういった大枠よりも、
その時の「空気感」とか、大枠では語られにくい「流行」とかの部分ですかねえ?

例えばサブカル史的に言うと、わずか1年半の放送でしたが、
フジテレビ「ウゴウゴルーガ」の人気ぶりや影響の大きさとかは、
当時を知る世代には当然でも、それを知らない世代には大して伝わってない気がしますし、
もっと大きく、社会史的に言うと、オウム真理教や麻原彰晃に対するイメージとかも、
今から見れば不謹慎な当時の空気感は、意図的に消されたり、書き換えたりされているので、
キチンと当時の情報に触れない限り、なかなか把握できない現状かと思われます。

> あと分からないのは、大塚英志や宮台真司あたりの言説や書籍はどんな感じで受け入れられたのでしょうか?
> 私が読んだ感じでは二人ともオタク文化を語っているという割には扱う範囲が限定的過ぎて、
> この二人の言うことはぶっちゃけあてにならないなぁと思っているのですが、実際にはどんな感じだったのでしょう?

宮台真司は何とくイメージがありますけど、大塚英志はちょっと解らないなぁ・・・・
って、宮台の方も別に詳しく知っている訳では無いのですが、
少なくとも、あの人自身はオタクなんですか?
個人的な認識では、あくまでも「社会学者」として、現状のオタク文化を研究しているだけで、
ターゲットとする客層は、彼と同年代である50〜60代のオジサンがメインでしょうから、
それを踏まえた上で、社会学者としての論説的に「違うなぁ」と感じているのか、
はたまた、単に若い世代のオタク層として「違うなぁ」と感じているとのでは、
話が大きく変わってくると思うのですが、一体どちらなのでしょう?
もし後者の話でしたら、同じ対象物であっても、それぞれ異なる立場や視点から見ているので、
その見え方が大きく異なっていたとしても、それはそれで当然とは言えるかと思います。

ちなみに、例えば、ここで挙げた両名に関して、
「違うなぁ」と感じさせた書籍とかは、実際にどんなモノがあるのでしょうか?
正直、私自身は両名に関して詳しく知らないので、具体的な著書名をいくつか挙げてもらえると、
それを読む事で、私の方からも、もっと詳しい返信が行えるかと思えます。


▼ 秋葉原通り魔事件の影響
> あと秋葉原の通り魔事件って「オタク的に」大きかったのでしょうか?
> 大きな事件ではあったのだと思いますし、秋葉原にとっては大きかったのかもしれませんが、
> オタクという範囲で見たときには正直どうでもよいような気もするのですが。

秋葉原で通り魔事件が発生したのが2008年。
麻生政権による児童ポルノ法の改正案が同じく2008年で、
石原都政による青少年健全育成条例の改正が2010年でしたか。
あの事件1つが、大きく時代を動かしたという事はありませんけど、
時代変化のスピードを加速させたという意味では、影響が無かった訳ではありません。
では何が変わったかというと、一言で言えば、アニメや漫画の「健全化」ですね。

元々、日本のサブカルというのは、エロ・グロの要素を含んでいたのですが、
90年代後半に拡大した深夜アニメは、その放送時間帯もあって、エロ要素が強く、
普通の作品でも不必要にパンチラがあったり、エロゲ原作の作品も珍しくなかったり、
パンツ・アニメと言っても良い、ド直球な作品も多かったんですよね。
そうなれば当然、コスプレイヤーの衣装も性的に過剰な露出へと進み、
秋葉原の地元住民が眉を顰めるほど、歩行者天国が無法化していたりもしました。
それと同時に、2005年のドラマ「電車男」の放送を境に、オタク以外の人たちも入ってきて、
秋葉原が観光地化され、オタク文化が一般的にも広まり、海外輸出の面で注目され始めると、
こうした従来のエロ・グロ要素というのは、排斥の対象となり始めます。
オタク側の視点からすると、世間から蔑まれつつも、今まで育んできたサブカルの文化が、
カネの匂いを漂わせ始めた途端、政治や経済が乗り込んできて、健全化を唱え始め、
そして、それを一気に進める格好の大義名分となったのが、この「通り魔事件」でした!!

そもそもは、不良たちがオタクを恐喝する意味だった「オタク狩り」という言葉が、
警察官がオタクに職務質問を行い、点数稼ぎに連行する意味合いに変わったのも、
ちょうど、この事件が転換点だったと言って良いと思います。
気弱なオタクという存在は、不良にも、警察官にも、格好のターゲットだったと(苦笑)。
石原都政の東京浄化政策により、警察官も過剰なノルマが課せられ、
事件以前からあった事はあるのですが、人権も絡むので派手には行えなかったものが、
あの事件を契機に大義名分を得て、大手を振って行われるようになりました。
まあ、「もののけ姫」で喩えますと(笑)、
シシ神が討たれる前と後で、同じ森でも様相が一変してしまったように、
あの通り魔事件の前と後で、オタク文化が健全化されたって感じかも?
人を寄せ付けぬ森が、人の手により管理されるようになったように、
オタク文化も資本や権力に管理され、「サブカル」という呼称も合わなくなったかな。

考えてみると、アニオタとネトウヨの親和性が高まったのも、丁度この頃かも知れません。
それまでは「サブカル」と言うくらいなので、反体制と言うか、非権力な文化背景があり、
クリエーター層まで行くと、明確に左寄りな人が多かった印象があるのですが、
この健全化の中、表現規制に反対する声と、「石原閣下!麻生閣下!」という声に2分され、
(規制反対派は必ずしも、パンツ・アニメに肯定的だった訳ではありませんでした)
そして、健全化と経済化、右傾化や政治家の波に飲み込まれていった感じでしょうか・・・・
もちろん、全てが全てそうなったという意味ではなく、全体の傾向としての話ではありますが。
ちなみに、百合や萌えというのも、直接的なエロ表現が制限された為に、
発展した1つの表現手段かも知れません(日本のAVや風俗が独自進化したのと同じ要領で・笑)。


▼ 鬼滅ブームの話
> あと鬼滅が千と千尋を追い越して日本映画歴代1位になるのが時間の問題になっていますが、
> ここまで鬼滅が流行ったのはSNS時代だからだと思います。
> ゲームでも「集まれどうぶつの森」とか、「Fall Guys」とか、
> 今だと「イナサクヒメ」ですが、定期的にSNSで大流行が起こっては、
> YouTuberなどが実況動画を作り、短期間に消費されるというループが繰り返されています。
> 鬼滅もそういった感じでバズッたのでしょう。

う〜ん、何なんでしょうかねぇ?
この「ズレてるなぁ」と感じさせる、違和感の正体は・・・・
ぶっちゃけた話、最近テレビとか視聴されてますか?

もちろん今の時代、SNSを始めとしたネットでの口コミが、
大きな流行の波を生むのは、一面では事実ですけど、
逆に言えば、そうした要素があるのは既に大前提な世界な訳で、
今回の鬼滅ブームという社会現象は、そのレベルで収まる話じゃないんですよね。
そうした現状は、アニメとかに詳しくないオジさん・オバさん層でさえ、
ニュース番組やワイドショーなどを介して、結構把握されてると思うのですが、
ネット頼りだと情報は溢れてるものの、気を付けないと却って視野が狭くなる事もある為、
何だか旧トルコ担当さんが、そこに陥っちゃってる印象を受けるんですよね。

女性ファン層とか、SNSによる人気拡大とか、決して間違っている訳では無いのですが、
それは今で言うと、「呪術廻戦」に見られるような人気の分析であって、
社会現象になった鬼滅ブームの担い手は、やはり小学生なんですよ。
子供たちに人気となり、それが子供たちの間に留まらず、家庭内でも広がる事で、
親世代や祖父母世代にまで拡大した為、これだけの大きな現象になっている訳です。
実際、人気が爆発した程には、Twitterでの呟き件数増えていないのも、
基本的に小学生は、SNSを利用してないですからね(要するにリアルな口コミがメイン)。

で、ここまで爆発的なヒットになった原因は、
新型コロナによる外出自粛が、大きく影響していたのは事実なのですが、
その前提として、コロナ禍以前より、小学生の間で鬼滅人気はジワジワと広がっており、
それが「何故か?」というのが、私の理解できていない部分であると。
鬼滅人気の第1波はアニメ終盤の頃で、その頃の人気を支えたのは、
若者層であり、女性ファン層であり、SNSがそれを支えたのも確かなのですが、
そこから小学生へと人気が波及して、第2波が発生した流れが掴めてないんですよね。
若者層がお兄ちゃんでとか、女性ファン層がお母さんでとか、そういった流れだとしても、
それでは何故、他のアニメでは同様の事が起こらないのか?の説明が付きませんし。

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