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[23506] Re2:百合文化史の話&秋葉原通り魔事件の影響返信 削除
2021/3/2 (火) 22:48:58 徳翁導誉

> 久しぶりの返信とても面白かったです。
> やはりこう、年上の方と話すのは浅はかな知識がバレそうになったりして怖くはありますが、
> 自分には無い視点が得られてとても刺激的です。

私が子供の頃も、50年前とか100年前くらいの事であれば、
それこそ歴史の教科書に載っていて、学校とかでも習うのですが、
自分が物心付く前の10年前とか20年前くらいの事って、
大人たちにとっては「ちょっと前の過去(記憶)」である為、却って解らない事が多く、
たまに聞いても、感情的なバイアスが思いっ切り掛かってる印象が強かったんですよね。
だからこそ逆の立場になった現在、出来るだけ客観的かつ正確に、当時の事を伝えたい気持ちはあります。
幸か不幸か、私は昭和をギリギリ覚えている世代なので、
平成からしか知らない弟とは、その短い間だけでもギャップがあったりしますし。
(って、観察力や記憶力の違いで、同年代でも普通にギャップとかあったりはしますが・笑)

20年前の9・11テロや日韓W杯、10年前の東日本大震災なども、
それを覚えている私からすれば、「あの時の!」という話になりますけれど、
物心付く前や生まれてなかった世代には、「どの時の?」って感じになりますからねえ。
実際、いま鬼滅の刃にハマっている子供たちは、あの大震災を知らない世代な訳ですし。
ただ近年は、こうやって当時のニュース番組↓がそのままアップされてたりするので、
【3・11震災】 https://www.youtube.com/watch?v=iwOLsVmxdO8
【9・11テロ】 https://www.youtube.com/watch?v=5H-UEQe063w

ちょっと疑似体験するような事は、可能になってますよね。
それこそ当時の人たちも多くは、こうしてテレビを見て情報を得るしか出来ませんでしたから。
一方で、何だかショーを見ている感覚で、次々増えていく死者の数に興奮を覚えたりとか、
その当時の不謹慎な空気感などは、多くの人は忘却してしまいがちな為、
悲惨さとかだけでなく、その辺りも正確に伝えたい考えもあったりはするんですよね。
神話化も、悲劇化も、物語としては面白くなっても、それが進むほど真実からは遠離るので。


> > で、その場合に私が何より言いたかったのは「場の喪失」なんです。
> > ただしコチラの話も、ここまで説明して上手く伝わってない所を見ると、
> > これ以上に言葉を労しても、進展は無いのかも知れません・・・・
> > ただであえ、「有ったモノが無くなった」感覚を、
> > 「初めから無かった」世界しか知らない方に伝えるのは、ただでさえ難しいのに、
> > 「いやいや、今でも有るよ」という前提で捉えられてる気がするんです。

> 多分としか言えませんが、私は「初めから無かった」世界しか知らないので、
> 管理人さんの言う「場の喪失」というのは理解できていないと思います。

「百聞は一見にしかず」と言えば良いのか、
「亀の甲より年の功」と言えば良いのか(笑)。

例えば、ネットを始めとしたデジタル技術にしても、
大人になってから導入された世代と、子供の時に導入された世代と、
生まれた時には既にあった世代とでは、それぞれ違うでしょうからね。
デジタル技術を使いこなす上では、私などはネイティブ世代に敵わないでしょうけど、
逆に言うと、ネイティブ世代だとアナログ技術に触れる機会が乏しくなる為、
この点に関して言えば、デジタルに偏り過ぎると、却ってデメリットになるでしょうし。

> で、その私でもかろうじてコレじゃないかな、と思えるのがプラモデルなので、
> よろしければプラモデルを例に説明してもらえないでしょうか?
> 私の雑な認識だと、昭和の時代には町のプラモデル屋さんというものが存在して、
> そこは単にプラモデルを売買するだけの場所ではなく、プラモデルのファン(おたく)が集まるコミュニティだったと。
> それが(90年代くらいからでしょうか?)、町のプラモデル屋さんは徐々に衰退していって
> ビックカメラみたいな店舗でプラモデルが売り買いされるようになった。
> もちろん、今でもビックカメラなりAmazonなりでプラモデルを買おうと思えば買えるのですが、
> プラモデルの「場」であった町のプラモデル屋さんは消滅し、お客様だけが残った。
> 「場の喪失」というのはこんな感じなのでしょうか?

う〜ん、私はプラモとは縁遠かった為、これで具体的な説明は少し難しそうですし、
説明としては、既に書店とかネット上でのサッカー話とかの例を交えながら書きましたので、
上手く伝えるには、今までの説明とは違って視点が必要になるのかなぁ・・・・

> 私としては町のプラモデル屋さんをほとんど知らない人間なので
> (それでも小学生の時に親と車に乗ってプラモデル屋さんに通っていた経験はあります)、
> いやプラモデルファンのコミュニティならSNSでプラモデルファン同士交流すればいいし、
> 別にプラモデルファンの集う町のプラモデル屋がなくなっても「場」はあるじゃん。と思うのですが。どうでしょう?

とりあえず、町のプラモ屋さんみたいなのは、
朧気かも知れませんけど、一応は御存知なんですよねえ?
でしたら、Amazonで買う時の事と、リアル店舗で買う時の事を、
まずは御自身の中で、その違いを整理されてみては如何でしょうか?
どちらも全く同じという事は、恐らく無いと思うので。

・・・って、これだけだと何だか丸投げみたいな感じなので(笑)、
私の方からも考えてみると、まずは「交流」ってワードは、とりあえず外しておきましょう。
正直な所、そこを「場」としてのメインには置いていないので。
そして、結論から先に言ってしまうと、
Amazonに無くて、リアル店舗に有るのは、「無駄」という存在だと思うんですよ。
それこそ例えば、欲しい商品の「購入」のみが目的であれば、
実際に店舗へ足を運んで購入するよりも、ネット通販でポチる方が遥かに便利です。
で、買い物が単なる「作業」であるならば、便利である事が何より優先かも知れません。
しかし、好きなモノを買うのって、本当に作業という側面だけなのでしょうか?
そこには、買い物という行為に「娯楽性」という側面も含まれているはずなんです。
そう考えた時、この無駄こそが、一転して面白さの源となる為、
逆に言うと、無駄の少ない便利さは、その面での楽しみ方に欠ける気がするんです。
例えば、ウィンドー・ショッピングには有って、ネット・ショッピングには無いモノがあると。

ハッキリ言ってしまえば、その両方とも存在するのが理想なんです。
それこそ、以前した書店の話であれば、
品揃えが豊富な大型書店も、便利なネット書店も、店主こだわりの街の小さな書店も、
全てが共存できていれば、その時々で使い分けられて助かります。
ですが現実は、どうしたって経済競争における淘汰は生じますし、
縮小していく日本の社会と市場により、その変化は急速で極端に現れています。
その結果として、やはり市場原理が全てに勝ってしまうんですよね。
買い物の話の続きをすると、娯楽としての回数より、作業としての回数の方が多いですから。
そして、その結果、リアル店舗という空間が、経済的都合により失われてしまうと。

と、まあ、あれこれ難しい事を考えなくても、
商品が山のように陳列されてるリアル空間って、やはりネットとは違いますよねえ?
買う買わないは別として、その空間に身を置くだけで心地よいとかあるじゃないですか。
確かにネット・ショッピングでも、ポチるまで何時間も掛ける事はあるでしょうけど、
それって、リアル店舗で何時間も過ごすというのとは、根本的に異なる気がするんです。
また、目的の商品に一直線なネットと違って、リアルは無駄な情報が多いからこそ、
別の商品に目移りしたり、思わぬ商品を見つけたり、他の客の会話に影響されてしまったりと、
そういった事が起こるのも、ネットよりリアルの方が断然多いはずです。

あと、これは何もアナログに限らず、デジタル空間でも同じ様な事が言えて、
ここでようやく「交流」というワードを戻すと、これは以前にも書いたのですが、
マニアな世界であった一昔前のネットって、あくまでも交流は手段であり、
そのネット世界が広く一般化した事で、交流が手段から目的に転じたと思うんですよね。
もちろん、これにしたって、どちらが良い悪いという話では無いですし、
理想を言えば、どちらも存在できる共存状態が一番なのですが、
やはり現実は大が小を飲み込むように、交流が目的化された世界がネットを覆いました。
でも、昔からネットにいる私たちが欲しいのって、
自分の中での「なるほど!」であって、他人からの「いいね!」じゃないんです。

SNSを利用すれば、確かに多くのファン同士を見つける事が出来るのでしょうけど、
ハッキリ言って、自分と同じ価値観をもつファン同士が繋がった所で、
そこから新たに得られるモノは少ないのは、交流が目的ではなく手段だからなのでしょうね。
それこそ求めるのは、自分の殻を打ち破ってくれるような、思わぬ雑音の存在なのでしょうけど、
しかしSNSというのは、同じ様な意見を集めて、雑音をカットするには向いているからこそ、
その正反対には層には、まるで満足感を得られない世界であると感じるんですよ・・・・
だからこそ、逆説的に言えば、SNSが幅を利かせれば利かせるほど、場が失われて行くと。

> これ以外だと私の知っている範囲では、ゲームセンターなんかも「場」だったのでしょうか?
> 80・90年代にはSTGファンがスコアを競ったり、格ゲーファンが対戦をしたりでにぎわっていたそうですが、
> これも(90年代後半くらいからかな?)衰退を通り越して消滅しかかっています。
> ただこっちは本格的に行ったことがないので、具体例で説明されても理解できるかどうか自信がないです。

そうですね、確かにゲームセンターとかは、解りやすい「場」の例かも知れません。
格闘ゲームにしても、オンラインで対戦したり、観戦したりは確かに可能なのですが、
やはり同じ空間に集って、対戦したり、観戦したりとは、一味も二味も違いますからね。
時代と言えばそれまでですけど、平成の30年間で5分の1にまで激減したのは、やはり寂しいですよ。
世界的なe-Sports化の流れに乗り遅れなければ、もう少し違った現実も有り得たのかなぁ?

音楽業界とかもそうでうけど、市場のデジタル化が急速に進んだ一方で、
リアルの価値というのも物凄く上がり、コロナ禍まではライブとか拡大の一途でしたし、
日本のオタク文化発信を考えるのであれば、アニメとネットの親和性の高さだけでなく、
実際に日本間で足を運ばないと体感できない、リアルの価値を高める戦略があっても良いと思うんです。
正直、秋葉原に関しても、表層的な観光地化をする促進する以前に、もっと何かあったはずですが、
でも現実には、ゲームや家電での日本の存在感って、ここ十数年でかなり落ちてるからなぁ・・・・

> > 文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
> > キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
> > そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
> > 例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
> > 文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。

> 申し訳ありませんが、この辺の規模感については正直よくわかりません。
> 多分管理人さんは私よりもより高い位置から色々な現象を見渡せているのだと思いますが、
> 私自身まだまだ勉強不足なので、科学技術の発展や社会形態みたいなより
> 具体的なものならばまだわかるんですが、文化とは何か?
> (傾向やブームとは何が違うのか)みたいな抽象性の高い話には全くついていけないんですよね。
> 投げやりに返信しているとかではなく、本当にその視点から言われるとどうしようもないんですよね。

はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。

ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。

「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?

で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。

・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。

> なんとなく、文化が発展するのは貧しさが背景にあるような気はしています。
> 例えば日本は島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展したわけですが、
> これはつまり魚以外の食材(例えば肉なんか)が手に入りにくかったからこそ色々な魚の食べ方が発展したわけで、
> これが最初から現代みたく肉でも魚でも菓子でも保存し放題であれば、
> ここまで魚の食べ方が発展しなかったと思うんですよね。

確かに、そういった側面も1つにはあると思いますよ。
例えば高校とかも、制服があり、校則があるからこそ、
そこをどうに掻い潜って着崩してやろうとして、個性が生まれる事はありますし、
逆に私服でもOKとかだと、みんな却ってキチンと制服を着たりしますからね。
また、前回も少し触れましたが、それこそ日本のAVや風俗が独自進化したのも、
日本ではAVにモザイクが必須だったり、風俗で本番行為が禁じられていた事が、
海外と違って、挿入すればOKという単純さを生まなかった理由とされていますので。
(って、エロ浮世絵の種類の豊富さを考えると、それだけが理由では無さそうですが・笑)

ただ一方で、「島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展した」との一文は、
それこそ「貧しさ」だけでなく、「豊かさ」も表してますよね?
肉視点で見れば貧しくても、魚視点で見れば豊かだったので、発展したと。
なので、文化が発展する要因というのも様々かと思われます。
また、これは以前にも書きましたが、文化であれ何であれ、
常に一定という事はなく、時代に応じた盛衰のサイクルというモノは存在しますから、
一言に日本の食文化と言っても、変化はいろいろとありましたね。
そもそも論になっちゃいますけど、日本人がたくさん魚を食べるようになったのは、
冷蔵・冷凍技術が発展してからの事なので、そんなに古い歴史がある訳では無いので・・・・
前回も少し触れましたけど、ここまで一般的に大トロや中トロが食されるようになったのは、
平成に入ってからの事だと記憶してますね(それまでは値段が高くて特別な存在でした)。

あと、これを根拠に「貧しくとも文化は発展する」と言いたいのかも知れませんが、
それこそ日本では、ここ10年くらいで100円ショップが急成長して、その品揃えや品質とかも、
売れ残り品を安く仕入れて売っていた、一昔の百均とは比べ物にならないレベルになっています。
そういう意味では、これは確かに新たな文化と言って良いとは思いますし、
「このレベルの商品が100円で」と、驚かされる事が多々あるのも事実です。
それはそれとして、もちろん認める所ではあるのですが、
しかし一方で、やはり「100円で売っても利益が出る」レベルの品質なんですよね。
そして、その事によって、百均以外の雑貨はかなり壊滅状態となった実状があり、
1億総中流と呼ばれた頃の日本では、様々な価格帯と品質の商品があり、
ちょっと背伸びをすると、結構良い商品が買えたりしたんです。
ですが現在、国際競争力も落ち、2極化されつつある社会も反映されてか、
店も商品も、高くて凄く良いモノと、安くてまあまあのモノとに2極化してきました。

もちろん、これは経済的には正しいですし、そうなるのも必然でしょう。
また、安い商品同士で比べれば、昔より今の方が優れているのは確かです。
ですが、中間であったり、そのちょっと上というのが、すっぽり消え失せてしまった現状って、
日本社会全体の文化として捉えた場合には、果たしてプラスになっているんですかねえ?
昔の「Japan as No.1」と呼ばれた時代を覚えてるだけに、
今の「日本スゴイ」ブームとかって、凄く虚しくて寂しく映っちゃいます。
貧しくとも発展する文化はありますけど、豊かだからこそ発展する文化の方が更に大きく、
「武士は食わねど高楊枝」とは言いますけど、やはり「貧すれば鈍する」んですよ。
そういう意味では、経済だけとか、文化だけとか、自分さえ良ければではなく、
ドンドン貧しくなる負の循環よりも、ドンドン豊かになる正の循環を求めたいんですよね。
それは、経済的にも、文化的にも、精神的にも。

> その上で(文化が分からないと言った上で)百合について言えば、もちろんセーラームーンも転換点ではありますが、
> 同程度にマリみても転換点だと思います。
> 管理人さんが「ゆるゆり」や「ごちうさ」、「きんモザ」等の作品が挙げられている辺り、
> もしかしたらアイマスやラブライブ、艦これ等の流れが目に入ってないような気がするのですが、どうでしょう?
> (気づいていればすみません)
> もちろんオタクの世界に初めて百合を持ち込んだのはセーラームーンなんですが、やはりマリみて以降の流れがなければ、
> 今でも百合は大きいお友達と、きらら系・難民系の範囲に限定されていたと思います。

「ラブライブ」や「アイマス」は、ある程度は知ってますけど、
う〜ん、私自身は別に百合ファンとかで無いので(そもそもアニオタですらない)、
本当の意味で「解っているか?」と問われると、ちょっと断言は出来ないかな(笑)。
とりあえず、「ことうみ」とか「のぞえり」とか「にこまき」くらいは知ってますけど、
その「流れ」の中身を、もうちょっと具体的に書いてもらえないと、
どのレベルの話をされているのかが、正直、私には伝わらない感じですね。

あと個人的な事を言うと、「艦これ」は作品自体をあまり把握してません。
ウチの場合、海軍で3人戦死しているので、あの題材はちょっと・・・・
私の世代ですと、子供の頃の高齢者って、イコール戦争経験者であり、
自分自身では体験していないものの、戦争との距離は近かったですが(冷戦中でもありましたし)、
今では戦場を知る方々も100歳を超えており、急速に戦争のリアル感が遠離ってる感じでしょうか。
まあ、楽しんでる人を非難したりはしませんけど、私的には対象外な作品ですね。
ここのサイトですと「WW2オンライン」を作る時も、そうした心の葛藤は正直ありましたし。

そして最後に、これは繰り返しになってしまいますけど、
私も別に「マリみて」の存在を軽視している訳では決してありません。
ただ、元々の話の流れって、これ↓からですよねえ?
> > > オタク的な文化として高まり始めるのは『マリア様がみている』や
> > > 『東方Project』などが流行し始めた04年あたりからです。

まあそれ以前に、私と旧トルコ担当さんとの間で、
「オタク」や「文化」に定義の違いがある事は、もう何度も語っているのですが、
そこ以上に大きいのは、実在する「女子校」の存在感の違いなのかも知れません。

それこそ、戦前のエス文化とか、「櫻の園」の映画の話とかもしましたけども、
もっと根本的な話として、近年は少子化や共学化の流れにより急減してますけど、
90年代までは女子校って、もっと身近で一般的な存在だったんですよ。
なので、お嬢様学校に抱く理想化されたイメージとか、女の園における理想と現実ネタとかは、
別にオタク的な想像上の世界観ではなく、見え難いものの普通に存在してた世界なんです。
ですから、その世代の、アニメなどしか見ない層にとっては、
確かに、途轍もないインパクトを残した作品であるのは間違いないのですが、
ことオタク文化史の文脈で論じられると、やはり同程度には語れませんよ・・・・

う〜ん、何と言えば伝わりますかねえ?
例えば現在だと、女子生徒の体操着ってハーフパンツが一般的ですけど、
90年代後半から00年代前半くらいまでは、ハーフパンツじゃなくてブルマーだった訳です。
その為、ハーフパンツが当たり前の世代には、ブルマーの再発見が衝撃であったとしても、
当時を知ってる世代からすると、そこまでの衝撃度はない・・・みたいな感じで伝わるでしょうか。
まあ、これらは良い悪いの話ではなく、時代性といのは常に付きまとうモノなんですよ。
それこそ前回、ウゴウゴルーガの話とか少ししましたけど、
当時のサブカル界に与えた衝撃は大きかったですし、渋谷系を知らない層には尚更でした。
でも、それをサブカル史という文脈から見た場合には、やはり捉え方が違って来るんですよね。
あそこから刺激を受けたクリエーターは数多く居たとしても、それは時代的・世代的なモノであって、
そこを知らないからダメだとか、そういう話では無いと言いますか・・・・って、難しいなぁ(笑)。
それこそ、個人的な観測ではなく、もっと大きくて客観的な「流れ」の話なんですよね。


> > 宮台真司は何とくイメージがありますけど、大塚英志はちょっと解らないなぁ・・・・
> > 個人的な認識では、あくまでも「社会学者」として、現状のオタク文化を研究しているだけで、
> > ターゲットとする客層は、彼と同年代である50〜60代のオジサンがメインでしょうから、
> > > それを踏まえた上で、社会学者としての論説的に「違うなぁ」と感じているのか、
> > はたまた、単に若い世代のオタク層として「違うなぁ」と感じているとのでは、
> > 話が大きく変わってくると思うのですが、一体どちらなのでしょう?

> 後者の単に若い世代のオタク層として「違うなぁ」と感じている、
> というだけなのでまあ言われてみれば当然ですよね。

ちなみに、上述の宮台や大塚は60代の論客ですけども、
彼らより一回り若い、後述の東・北田・森川あたりは、どうですか?
まあ彼らも20年近く前戦にいるので、もう今年で50歳らしいですし、
逆に言うと、いま20〜30代の若手論客って、どんな人が居るんでしょう?

> > ちなみに、例えば、ここで挙げた両名に関して、
> > 「違うなぁ」と感じさせた書籍とかは、実際にどんなモノがあるのでしょうか?
> > 正直、私自身は両名に関して詳しく知らないので、具体的な著書名をいくつか挙げてもらえると、
> > それを読む事で、私の方からも、もっと詳しい返信が行えるかと思えます。

> いやいや、私自身もきっちり読んだわけではないので、そこまでされなくても結構ですよ。

でも、学者や論評家の意見に対して、漠然とした切り取りやイメージだけで、
安易にどうこうと、自分の意見は述べられませんからねえ。
戦前の天皇機関説事件しかり、昨今の愛知リコール不正事件しかり、
そういった安易な個々人の言動が、大きな社会不安をもたらす事だってありますから。
・・・って、まあ何だか、お堅い事を言ってますけども(笑)、
そういった拘りの強さこそが、学術的やオタク的な気質だろうと、私なんかは考えていますね。

とりあえず、これをキッカケに現在、宮台真司が監修した
「オタク的想像力のリミット」を読み始めましたけど、
https://www.amazon.co.jp/dp/4480867244
10人くらいのミニ論文集って感じで、なかなか良くまとまってる本ですよ。
宮台というとオタク評論よりも、援交・ブルセラ評論の人だったな、というのを思い出しましたし(笑)、
大塚本人による寄稿は無いものの、大塚が提唱した「物語消費論」に関しては触れられてましたね。
扱ってる時代の対象としては、今から10年くらい前までなので、
いま読むと少し古い感じもしますけど、それでも読んでて損は無い感じかな?
東浩紀の「動物化するポストモダン」とか、北田暁大の「嗤う日本のナショナリズム」とか、
森川嘉一郎の「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」など、オタク文化論では有名な著作の抜粋もあり、
各論文が30ページ前後なので個々に深堀りされてませんけど、「オタク論の総集編」って感じで、
その辺の全体像を手っ取り早く掴みたい人には、まあまあオススメな1冊かと。

> > 秋葉原で通り魔事件が発生したのが2008年。
> > 麻生政権による児童ポルノ法の改正案が同じく2008年で、
> > 石原都政による青少年健全育成条例の改正が2010年でしたか。
> > あの事件1つが、大きく時代を動かしたという事はありませんけど、
> > 時代変化のスピードを加速させたという意味では、影響が無かった訳ではありません。
> > では何が変わったかというと、一言で言えば、アニメや漫画の「健全化」ですね。
> > 考えてみると、アニオタとネトウヨの親和性が高まったのも、丁度この頃かも知れません。
> > それまでは「サブカル」と言うくらいなので、反体制と言うか、非権力な文化背景があり、
> > クリエーター層まで行くと、明確に左寄りな人が多かった印象があるのですが、
> > この健全化の中、表現規制に反対する声と、「石原閣下!麻生閣下!」という声に2分され、
> > (規制反対派は必ずしも、パンツ・アニメに肯定的だった訳ではありませんでした)
> > そして、健全化と経済化、右傾化や政治家の波に飲み込まれていった感じでしょうか・・・・
> > もちろん、全てが全てそうなったという意味ではなく、全体の傾向としての話ではありますが。

> なるほど、そういう時代があったんですね。
> 私はそういう時代を全く知らず、むしろコミケなんか行けば
> パンチラなんか比べ物にならないほどのエロ・グロ本が売ってるのを見ているので、
> 表現規制なんかは規制側に多少同情的だったりしたのですが、時代が違えばこうも違うんですね。
> なんとなく90年代後半のアニメはパンチラが多いみたいな話は聞いていましたが、
> アニメにエロシーンが昔はそんなにあったんですね。

だってコミケは、敢えてそこに行った人たちだけが居る閉じられた世界ですけど、
地上波で放送されるアニメは、子供たちであれ誰であれ、チャンネルを回せば見られる訳ですし、
歩行者天国の過激コスプレなんて、半ばストリップ的な事を路上で行い、
そこにカメラ小僧たちが寝がりながら、ローアングルで狙い群がっていた訳で、
電気店の目の前、しかも裏手には小学校がある立地を考えると、地元住民的にはねえ・・・・
コミケ内での表現と同じレベルでは語れませんよ、実際の所は。

ちなみに、当時はエロゲ原作のアニメ化という流れの中から、
実妹とのガチ恋愛や近親相姦モノが、1つのアニメ・ジャンルとして存在しましたが、
この時の規制ターゲットとして名指しされた為、今では壊滅状態にあるのかな?
まあ恐らく、エロゲーやAVの世界では生き残ってるのでしょうし、
作品単体としてなら、幾つか生き残っているのかも知れませんけどね。
一応言っておくと、「魔法科高校の劣等生」や「エロマンガ先生」に見られるような、
過度のシスコンとか、義理の妹など、そういったレベルの話ではありませんでした。

> > ちなみに、百合や萌えというのも、直接的なエロ表現が制限された為に、
> > 発展した1つの表現手段かも知れません(日本のAVや風俗が独自進化したのと同じ要領で・笑)。

> あと、「百合や萌えというのも、直接的なエロ表現が制限された為に、発展した1つの表現手段かも知れません」
> ということですが、これは違うと思いますよ。

あ〜、最後の「AVや風俗」と追加した部分が、誤解を与えちゃった感じですかね?
「直接的なエロ表現」というのも、私としては、別にエロゲーの話をしたのではなく、
その前からの流れで、パンツ・アニメとか、おっぱいアニメとかの意味で用いてました。
(おっぱいアニメというのも、乳袋が揺れるとかではなく、直接そのままの表現で)

で、草食的な流れとでも言いますか、従来のハーレム・アニメに対して、
竿役の男主人公キャラさえ邪魔だとか、彼女レースの勝敗結末は不要だとかいう要望があり、
そうした中から、女の子だらけの世界観を傍観するタイプの作品が生まれ、
それでもリビドーは湧くので、パンツも おっぱいも封じられた環境下で、
採り入れられ、発展した表現方法こそが「百合」ではないのか?って主旨でした。
「かんなぎ中古事件」を経て、女同士なら男キャラに邪魔されず安心となり、
(人気アニメの原作マンガに元カレ的キャラが登場し、非処女だなんだと大荒れした事件)
ガチ百合がキツい層には、友達以上恋人未満の友情的なベタ付きでハァハァできると(笑)。
「ストーリー性よりもキャラ萌え重視」という傾向も、強くはなりましたよね。

> 08年時点では既にエロゲの衰退は顕著でしたし、エロゲもエロよりも売りはシナリオでしたから
> (だからこそラノベの台頭でエロゲが衰退してしまうわけで)。

もちろん、エロゲー・ブーム当時の売りは、エロよりシナリオだったのは知ってますよ(笑)。
それこそ日活ロマン・ポルノが、多くの若手監督を世に生み出した構図と同じく、
低予算ながら、とにかくエロ要素さえ入れておけば、エロゲーも自由に作品が作れましたし、
そうなると次第に、そちら側にもファンが付いてきて、1つのムーブメントを起こすに至ると。
また、今では名高い京都アニメーションにしたって、
エロゲ原作のアニメ化で、評価を上げていった歴史がありますからね。

ただ、エロゲーの衰退原因をラノベの台頭に求めるのは、ちょっと違うかな?といった印象。
まあ元々が一過性のブームであった事とか、泣きゲーと抜きゲーで2分した事もありますけど、
一番大きかったのは、表現手段の多様化にあったのでしょうね。
そういう意味では、確かにラノベも、その1つだったかも知れませんが、
それより何より大きかったのは、ネットの普及だと思いますよ。

> (と言いつつエロゲに関しても管理人さんの突っ込みが来ると怖いのですが、エロゲには詳しくないんですよね)
正直な話、私だって別に詳しくありませんよ(笑)。
私が遊んでいたゲームって、歴史シミュレーション系ばかりですし、
それ自体も、そんなに大した数にはなりません。
推測になりますけど、恐らく旧トルコ担当さんの方が、
アニメやゲームなどは実際に多く知っていると思いますからね。


> > ぶっちゃけた話、最近テレビとか視聴されてますか?
> > もちろん今の時代、SNSを始めとしたネットでの口コミが、
> > 大きな流行の波を生むのは、一面では事実ですけど、
> > 逆に言えば、そうした要素があるのは既に大前提な世界な訳で、
> > 今回の鬼滅ブームという社会現象は、そのレベルで収まる話じゃないんですよね。

> で、はじめは管理人さんはあまりオタク方面とかそっち系に詳しくないのかなーと思っていたので、
> いや鬼滅は小学生人気だけじゃないですよ、ということでいろんな例を出したんですけど、
> この辺は私なんかよりもよっぽど詳しくて正直管理人さんの疑問にはあった答えられません。

なるほど、そういう事でしたか。

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