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[23513] ネット時代の文化返信 削除
2021/3/8 (月) 03:11:04 旧トルコ担当

ひとまず、話が結構長くなってきたので自分なりにまとめてみました。
引用部分も全部白になっていますが、直すのめんどくさいのでそのままにしてます。

▼ 文化に関して

分野は違いますけど、コミケなんかも現在では、そんな感じなのでは無いでしょうか?
小さな趣味人の世界観が好きな私からすると、少し物悲しいですが、
それだけネットも一般社会に広まり、大きく普遍化したって事ではあるんですよね。

うーん、ちょっと違うような気もしますけどね。例えばコミケなんかも相変わらずサークルの8割までは100部以下しか売れてませんし、
コミケの注目度が高くなったことで大手の儲かっているサークルばかりが目立ちはしていますが、あの辺の本質は変わっていないと思います。
コミケは一般的な知名度も上がったことでお客さん率も相応ですが、それ以外の即売会はやはり特有の熱気があります。
特にオンリーイベントなんかはまだまだ濃い人たちが集まってる感じですね。
ただそういうのは本当に限られた範囲の間でしか情報が流通しないので、部外者にはほとんど分かりませんが。

いや〜、言わんとしている事は解るのですが、
私が言いたいのは、そういう所では無いんですよねえ・・・・
趣味人の気質というのは、今も昔も大して変わらない気がするのですが、
それを取り巻く環境というのは、かなり変わった感じがするんです。
それまでは繋がる事が難しかったコミュニティーが、
ネットの登場により、一気に広まったのは良いのですが、
今やコントロールできないほど、広がってしまったのでは無いかと?
趣味の世界というのは元来、ビジネスの世界と違って、
「クリエイター」と「ユーザー」は明確に分かれておらず、
小さい世界だからこそ、両者は地続きの存在だったと思うんですよ。
例えばネット上の動画投稿サイトにしても、
初期のニコニコ動画というのは、視聴者層こそが投稿者を生む苗床であり、
視聴者もコメントを介して、一緒に「動画」を作り上げていく部分がありました。
しかし、現在のYouTubeを見ていると、確かに視聴者数は爆発的に増えた一方で、
投稿する層と視聴する層が完全に分離し、投稿者のプロ化も進んでいる印象です。
そしてニコニコ動画も今ではYouTube以上に、有料配信などのビジネス化が進んでいます。
もちろん、ニコニコ動画の方に関しては、視聴者数の減少が、
そうした方向性に進ませている大きな要因と言えますけど、
そもそも視聴者が減少した原因は、投稿動画の質の低下にあると感じており、
その理由も、投稿者と視聴者の分離という「お客様化」にあった気がするんです。
2chにせよ、ニコ動にせよ、利用者が増えれば必然的に、玉石混淆の石の割合が増え、
彼らは無自覚なまま、空気を白けさせるのに絶大な効果を発揮します・・・・
そうなってしまえば、クリエイター側も創作意欲を削がれると。
ぶっちゃけ趣味というのは、「楽しいから」行っている訳ですし、
それが楽しくなくなれば、「つまらなさ」の負のスパイラルが起きると思うんです。
でも、そうした仲間内の空気感というのは、規模が小さいから保てるモノで、
その規模が大きくなればなるほど、それを保つのは非常に困難な事なのでしょうね。
そして規模が大きくなると、それを持続させる為に、ビジネス化が避けられない気がするんです。
ニコ動衰退の原因として挙げられる「回線の細さ」や「画質の悪さ」などの不満点は、
もう既に、視聴者がお客様化した後の話だと思いますし、
そこに論点が移ってしまうと、質を担保できる資本力の差の勝負になってきます。
だからこそ、以前よりあったYouTubeが、ここに来て存在感を爆発させているのかも知れません。
コミケに関して言うと、入場が有料化された時点で、
そうした割り切りが行われたように、私には感じるんですよね。
まあ、あれだけの規模のイベントが、今まで入場無料だった事自体が凄い事なのですが、
でも逆に言うと、これだけ大きくなってしまえば、昔ながらのノリのままとは行かないはずなんです。
もちろん、だからと言って、昔からの趣味的な世界が一掃される訳では無いですし、
残された数少ない居場所には、以前よりも濃厚な空気が生まれる事はあります。
ただ、一旦そうなってしまうと、新規層の開拓が非常に難しくなる所があるんですよ・・・・
簡単に言えば、アクセスが難しくなってしまうと。
(ちなみに「サークルの8割までは100部以下」というのは肌感覚? それともデータあり?)
話題はコミケから離れてしまいますが、例えば現在、1年ぶりにサッカーの代表戦が行われており、
森保JAPANのサッカーに関して、いろいろと考えたり、知りたい所があったりするので、
詳しい人の話を聞きたい気持ちは強いのですが、ここ最近のネット世界というのは、
単なる感情論が溢れまくり、そうした専門的な話を行える場所が無くなってしまいました。
別に、サッカーが好きな人や、詳しい人が減った訳でも、もちろん全滅した訳でも無いのに、
それを行えなくなったと言うのは、ネット利用者の規模の拡大により、
語りたい少数派が、文句を言いたい多数派に飲み込まれたからでしょうね。
まだ何処かに、そうした事が語り合われる場があるのかも知れませんが、
残念ながら、それを知らない私には、そこにアクセスする事が叶わない状態にあります。

あー、なるほど。
私の場合、インターネットを使い始めたころには既にネットが一般化してたので、ネットでちょっと検索しただけではそういった世界にたどり着けないのは当たり前、みたいな感覚です。
その時代知らないので間違っているかもですが、かつては秋葉原もインターネットもコミックマーケットも「知る人ぞ知る」だったからこそ、仲間内の空気感があったわけで、そこにたどり着くにはいわば高度な情報網みたいなものが必要だったと。
で現在はアキバもネットもコミケも情弱でも知っているものになってしまった。だけど高度な情報網みたいなものさえあれば、仲間内の空気感のある場所にはたどり着ける(こともある)から、結局は昔と大して変わってないんじゃないかなーと勝手に思っています。
アクセスが難しい場所にしかそういった場は生まれないと。

いえ、その逆ですね。
確かに当時は「知る人ぞ知る」という、その世界だけの話で、
関係ない部外者にとっては、世界の中は伺い知るのが困難な時代だったでしょうけど、
心理的な面と、地理的な面の壁さえ越えれば、誰でもアクセスが可能な世界でした。
要するに、キモいという心理の壁と、東京など大都市のみという地理の壁であり、
そこは勇気とカネさえあれば、解決できる課題でしたので。
例えば秋葉原は昭和末期、あの街1つで、全国の家電売上の1割を担っていて、
とにかく秋葉原に行けば何でも有るし、そこに無ければ何処にも無いという状態でした。
そして「家電なら秋葉原」みたいに、代名詞的にイメージが定着してしまえば、
放っておいても人は集まってきますし、そうなれば店だって更に集まってきて、
店が増えれば価格競争が起きて商品安くなり、そこで更に買い物客が集まって、
買い物客が増えれば、マニアックな需要に応えても採算が取れるようになり、
それこそ「何でも有る」街として、好循環で発展していった感じですね。
で、そんな秋葉原の街へは、電車さえ乗れば、誰にだって行けた訳です(笑)。
マニアックな店とかも、別に情報とか無くても、足さえ使えば見つけられましたし、
コミケにしても、「マーケット(市場)」を謳っているくらい、
最初からオープンなイベントであり、そうして既に半世紀近い歴史がある訳です。
う〜ん、この辺の感覚は、「本屋」とかで喩えれば伝わりやすいですかねえ?
本屋というのは、その存在自体は当然知っていても、
興味ない人には縁遠く、どんな本が置かれているかも計り知れないでしょうし、
街の小さな本屋とかは、初めてだと確かに立ち入りにくい雰囲気がありました。
でも、一旦勇気を持って中に入り、お金さえ持っていれば、誰でも好きな本が買えるんです。
そして神保町の書店街まで足を伸ばせば、マニアックな本さえ探す事が出来たと。
別にそこには、「高度な情報網」みたいなモノは特に必要ありません。
ただ、交通費と時間を使って、わざわざそこまで足を運ぶ手間が必要という意味では、
やる気が無いと越えられない障壁があり、それに囲われた世界観や空気感はありましたし、
インターネットにしても、1時間繋いで500円とか1000円かかった2000年頃までは、
誰でも利用できるけど、本気で利用したい人しか居ない、濃密な空間であった訳ですね。
ちなみに私が、読む時間と、書く時間と、投稿する時間を分けているのも、
通信料を抑える為の、当時のネットの使い方の名残だったりします(笑)。
と、本屋の例から離れてしまいましたので、話を元に戻すと、
まずは90年代、急速に全国拡大を始めたコンビニに、売れ筋の雑誌や漫画が置かれるようになり、
続いて2000年の大店法改正により、あちこちで広大な売り場面積を持つ大型書店が現れ出し、
それに少し遅れて、ネットの普及に伴うAmazonの登場と、Kindleなどの電子書籍の発売がありました。
言ってしまうと、過渡期の00年代というのは、本好きにとって夢のような時代だった訳ですね。
昔ながらの街の本屋や、神保町の書店街は、まだ生き残っている状態で、
よく読む雑誌や漫画とかは、24時間どこでも買えるコンビニに置いてあり、
大型書店に行けば、無数の本に囲まれるテーマパークのような空間が広がり、
Amazonでネット注文すれば、手間を掛けずにマニアックな本さえ買えたのですから。
でもそれは一時の夢物語であり、平成の30年あまりの間に、
本屋の数は3万店から1万店へと激減し、コンビニに置かれた雑誌や漫画もめっきり減り、
多くの大型書店は縮小や閉店を余儀なくされ、残されたのはネット空間のAmazonだけな現状に・・・・
もちろん、Amazonを始めとしたネット通販は、非常に便利なのは確かなんですよ。
転勤族として都会でも地方でも育った私からすると、昔の地方の不便さというは覚えていますし、
ネット通販とショッピング・モールの登場が、地方の生活を劇的に変化させた事も解るんです。
この地理的格差の解消というのは、不便さの実体験が無い都会人には解らないほど大きい!!
ただ一方で、街中から本屋が姿を消した現実も、目に見えて感じてますし、
今では駅前の商業施設やショッピング・モール以外に、ほとんど本屋が残されていない現実を、
今回のコロナ禍による大型店舗の一斉休業によって、如実なまでに実感しました!!
池上彰が以前テレビで、本屋の事を「知識のドンキ」と表現した時、
「まさにその通りだ!」と相槌を打ったのですが、
専門書からゴシップ誌まで、様々な知識が所狭しとジャングル陳列されてる「リアル書店」は、
Amazonみたいな「ヴァーチャル書店」には無い、異なる本同士の空間的な繋がりがあるんですよね。
AIによるオススメ書籍は、ビジネス的には一理あっても、知識の広がりには貢献しませんし。
と言う事で、例え話が長くなってしまいましたけど、
Amazon登場によって得られた便利さがある反面で、リアル書店が消滅しかかっている現実もあり、
それは、本屋という空気感が好きな私からすると、非常に残念な状況であると。
そして、このような現象は、何も本屋だけの話に限らず、
秋葉原やネットの世界でも起こっており、コミケの世界もそうなのでは無いか?という訳です。
別に本屋なんて言うのは、そう簡単に「たどり着けないのは当たり前」な場所では無かったものの、
確かに今では、そうした感じになりつつあるのかも知れません・・・・
で、秋葉原やネットも同様に、と言うか、一歩も二歩も先んじてる実感はあります。
ぶっちゃけた話、アクセスし難いだけで、まだ何処かに世界があると言うよりは、
もう何処にも、そんな世界は残っていないのでは?というのが、正直な感想です。

> > 私の場合、インターネットを使い始めたころには既にネットが一般化してたので、
> > ネットでちょっと検索しただけではそういった世界にたどり着けないのは当たり前、みたいな感覚です。
> > その時代知らないので間違っているかもですが、かつては秋葉原もインターネットもコミックマーケットも
> > 「知る人ぞ知る」だったからこそ、仲間内の空気感があったわけで、
> > そこにたどり着くにはいわば高度な情報網みたいなものが必要だったと。
> > で現在はアキバもネットもコミケも情弱でも知っているものになってしまった。
> > だけど高度な情報網みたいなものさえあれば、仲間内の空気感のある場所にはたどり着ける(こともある)から、
> > 結局は昔と大して変わってないんじゃないかなーと勝手に思っています。
> > アクセスが難しい場所にしかそういった場は生まれないと。

> いえ、その逆ですね。
> 確かに当時は「知る人ぞ知る」という、その世界だけの話で、
> 関係ない部外者にとっては、世界の中は伺い知るのが困難な時代だったでしょうけど、
> 心理的な面と、地理的な面の壁さえ越えれば、誰でもアクセスが可能な世界でした。
> 要するに、キモいという心理の壁と、東京など大都市のみという地理の壁であり、
> そこは勇気とカネさえあれば、解決できる課題でしたので。
>
> 例えば秋葉原は昭和末期、あの街1つで、全国の家電売上の1割を担っていて、
> とにかく秋葉原に行けば何でも有るし、そこに無ければ何処にも無いという状態でした。
> そして「家電なら秋葉原」みたいに、代名詞的にイメージが定着してしまえば、
> 放っておいても人は集まってきますし、そうなれば店だって更に集まってきて、
> 店が増えれば価格競争が起きて商品安くなり、そこで更に買い物客が集まって、
> 買い物客が増えれば、マニアックな需要に応えても採算が取れるようになり、
> それこそ「何でも有る」街として、好循環で発展していった感じですね。
> で、そんな秋葉原の街へは、電車さえ乗れば、誰にだって行けた訳です(笑)。
> マニアックな店とかも、別に情報とか無くても、足さえ使えば見つけられましたし、
> コミケにしても、「マーケット(市場)」を謳っているくらい、
> 最初からオープンなイベントであり、そうして既に半世紀近い歴史がある訳です。
>
> う〜ん、この辺の感覚は、「本屋」とかで喩えれば伝わりやすいですかねえ?
> 本屋というのは、その存在自体は当然知っていても、
> 興味ない人には縁遠く、どんな本が置かれているかも計り知れないでしょうし、
> 街の小さな本屋とかは、初めてだと確かに立ち入りにくい雰囲気がありました。
> でも、一旦勇気を持って中に入り、お金さえ持っていれば、誰でも好きな本が買えるんです。
> そして神保町の書店街まで足を伸ばせば、マニアックな本さえ探す事が出来たと。
> 別にそこには、「高度な情報網」みたいなモノは特に必要ありません。
> ただ、交通費と時間を使って、わざわざそこまで足を運ぶ手間が必要という意味では、
> やる気が無いと越えられない障壁があり、それに囲われた世界観や空気感はありましたし、
> インターネットにしても、1時間繋いで500円とか1000円かかった2000年頃までは、
> 誰でも利用できるけど、本気で利用したい人しか居ない、濃密な空間であった訳ですね。


> > > 文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
> > > キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
> > > そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
> > > 例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
> > > 文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。

> > 申し訳ありませんが、この辺の規模感については正直よくわかりません。
> > 多分管理人さんは私よりもより高い位置から色々な現象を見渡せているのだと思いますが、
> > 私自身まだまだ勉強不足なので、科学技術の発展や社会形態みたいなより
> > 具体的なものならばまだわかるんですが、文化とは何か?
> > (傾向やブームとは何が違うのか)みたいな抽象性の高い話には全くついていけないんですよね。
> > 投げやりに返信しているとかではなく、本当にその視点から言われるとどうしようもないんですよね。

> はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
> まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
> 「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
> 普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。
>
> ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
> 世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
> そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
> 別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
> キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
> 個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
> オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。
>
> 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
> クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
> 部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
> メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?
>
> で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> 言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
> 「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
> 「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
> 「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
> これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
> それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
> まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
> それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
> やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。
>
> ・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
> 自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。


いえいえ、その例えで凄くしっくりきました。
今まで何となく自分で感じていたことともつながったので少し話させてください。

例えば学校なのですが、昔と比べて何となくクラスというつながりが弱くなったと思うんですよね。
もちろん私は教師でも何でもないので、昔の学校はマンガに出てくるくらいしか知りませんし、根拠には乏しいのですが、でもそこまで外れた見方でもない気がしています。
例えば、かつては学校内でもオタクは肩身の狭い思いをしたらしいのですが、私の学生時代には結構そういうものが許容されているというか、否定されないんですね。
もちろんそれは我々にとっては良い時代になったという感じですし、その理由はオタクのイメージ改善にもあるんだと思うのですが、一方で同じクラスメイトのオタクグループに対する関心が昔に比べて薄れているというのもあると思うんですよね。
なんというか、平和共存という言い方もできますが、それ以上に無関心・不干渉によってオタクは許容されていると。
それはオタクグループと一般グループの間での距離が離れてきているいうだけでなく、なんとなくみんな自分の仲良しグループ以外には関心を持たなくなってきているというか。
個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。
マンガもそうだと思うんですよ。
かつてのマンガ雑誌の時代と比べて、平成のマンガ単行本時代というのは自分の好きなマンガ以外に見向きもしなくなった時代だったと思うんですよ。
そしてその傾向はネットマンガ時代になってより顕著になったと。
YouTubeやSNSなどに関しては言うまでもないですよね。

この現象の原因は明らかで、情報があふれるようになって、相対的に時間が貴重になったからだと思います。
例えば、学校内の人間関係でいえば、LINEは友達を100人作るために使われているというよりも、イツメンが朝から晩までつながるために使うわけです。
つながろうと思えば、隣の学校の人たちとだっていくらでもつながれはしますが、そんなことをしていては時間がいくらあっても足りない。だからこそ有限な時間を本当の仲良しとだけ共有すると。
スマホゲームも、今自分が好きなゲームにいくらでも時間を費やしたいわけで、今人気のスマホゲームを追いかける時間がないからこそ、オタク界隈はどんどん深く狭く、なんかもう限界集落みたいな感じになってきてるんですよ。
仮に同じスマホゲームを遊ぶ層でも、そのスマホゲームのゲームが好きな人と、キャラが好きな人と、同じキャラが好きな人でも、そのキャラと恋愛したい人と、そのキャラと別のキャラのカップリングが好きな人とで、どんどん細分化されていくわけです。
鬼滅の刃もそうです。私は見てないのではっきりしたことは言えませんが、おそらく小学生の鬼滅の刃の見方と、腐女子のお姉さん方の鬼滅の刃の見え方と、話題になってるということで読んでみたおっさん世代の見え方というのは実は全然違うのではないでしょうか?

こういう、自分の関心の無いものへの徹底的な無関心が、現在の特異な状況を形成しているのではないでしょうか?
言ってしまえば、社会の部族化といいますか、同じ部族内の出来事には関心があるけれども、他の部族のことには興味ないよ、という態度といいますか。
だからこそリアル書店や秋葉原のような、マニアックだけれども一般人でもアクセス可能な場所は衰退いっていると。

> SNSを利用すれば、確かに多くのファン同士を見つける事が出来るのでしょうけど、
> ハッキリ言って、自分と同じ価値観をもつファン同士が繋がった所で、
> そこから新たに得られるモノは少ないのは、交流が目的ではなく手段だからなのでしょうね。
> それこそ求めるのは、自分の殻を打ち破ってくれるような、思わぬ雑音の存在なのでしょうけど、
> しかしSNSというのは、同じ様な意見を集めて、雑音をカットするには向いているからこそ、
> その正反対には層には、まるで満足感を得られない世界であると感じるんですよ・・・・
> だからこそ、逆説的に言えば、SNSが幅を利かせれば利かせるほど、場が失われて行くと。


もちろん「自分の殻を打ち破ってくれるような、思わぬ雑音」は現在でも必要とされています。
かつてはフラっと立ち寄った書店や映画館がそういった雑音を提供してきたわけですが、SNSもそういう使い方をすればちゃんと雑音を拾ってきてくれますし、そういった使い方をしている人たちは少なくないと個人的に見ています。
もちろんその雑音はあくまで自分に近いところの雑音でしかないわけですが、ですがもう我々にとっては30年前に存在していていま日本で消えかかっている書店や映画館のような完全な(?)雑音は効率が悪いわけです。
それよりも、自分と似たような嗜好を持ったフォロワーからマンガなり、ゲームなりをお勧めしてもらったほうがよほど効率が良い。
いやいや、効率ばかり追い求めていて非効率的な完全な雑音を消去してしまうのはよくない、と思われるかもしれませんが、別に30年前も書店では今ロシアで話題の本が山積みなっていたり、映画館ではインド映画が上映されていたわけではないではないですよね?
30年前の日本にも、雑音をカットするフィルターは存在したわけです。そして今それが、相対的な時間不足によってそのフィルターの網の目がより細かくなろうとしていると。

話が少しそれてしまいますが、SNSが我々にもたらした変化というのはとてつもなく大きいと思うんですよね。
SFには集合意識という生物のアイディアがあるらしいのですが、その集合意識とやらは体は数億個とあるのに脳が全部一つにつながっているんです(おそらくアリやハチの社会が元ネタなのでしょう)。
で、今スマホを24時間手放さずに生活している我々は、その集合意識になろうとしていると。
SNSによって毎日お互いの情報をやり取りしている相手というのは、もはや家族や友人なんかよりもよっぽど強いつながりですし、個人の自我というのは以前とは比較にならないほど溶け合っている。
だからリアルな書店なんかが雑音なんかを拾ってくれなくとも、その集合意識内部でのバーチャルな書店(それはフォロワーの「面白かった」とAmazonの電子書籍販売によって構成される)があれば充分じゃないのでしょうか?

若くて、今の時代から知らないから短絡的にそういう考えに至るのかもしれませんが、ただ何となく、感覚的にはそっちのほうがしっくりくるんですよね。
トランプ元大統領をめぐるアメリカの分断も、リアルな書店みたいなものが生きていればああいう風にはならないのではないでしょうか?

▼ 文化と貧しさについて

> > なんとなく、文化が発展するのは貧しさが背景にあるような気はしています。
> > 例えば日本は島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展したわけですが、
> > これはつまり魚以外の食材(例えば肉なんか)が手に入りにくかったからこそ色々な魚の食べ方が発展したわけで、
> > これが最初から現代みたく肉でも魚でも菓子でも保存し放題であれば、
> > ここまで魚の食べ方が発展しなかったと思うんですよね。

> 確かに、そういった側面も1つにはあると思いますよ。
> 例えば高校とかも、制服があり、校則があるからこそ、
> そこをどうに掻い潜って着崩してやろうとして、個性が生まれる事はありますし、
> 逆に私服でもOKとかだと、みんな却ってキチンと制服を着たりしますからね。
> また、前回も少し触れましたが、それこそ日本のAVや風俗が独自進化したのも、
> 日本ではAVにモザイクが必須だったり、風俗で本番行為が禁じられていた事が、
> 海外と違って、挿入すればOKという単純さを生まなかった理由とされていますので。
> (って、エロ浮世絵の種類の豊富さを考えると、それだけが理由では無さそうですが・笑)
>
> ただ一方で、「島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展した」との一文は、
> それこそ「貧しさ」だけでなく、「豊かさ」も表してますよね?
> 肉視点で見れば貧しくても、魚視点で見れば豊かだったので、発展したと。
> なので、文化が発展する要因というのも様々かと思われます。
> また、これは以前にも書きましたが、文化であれ何であれ、
> 常に一定という事はなく、時代に応じた盛衰のサイクルというモノは存在しますから、
> 一言に日本の食文化と言っても、変化はいろいろとありましたね。
> そもそも論になっちゃいますけど、日本人がたくさん魚を食べるようになったのは、
> 冷蔵・冷凍技術が発展してからの事なので、そんなに古い歴史がある訳では無いので・・・・
> 前回も少し触れましたけど、ここまで一般的に大トロや中トロが食されるようになったのは、
> 平成に入ってからの事だと記憶してますね(それまでは値段が高くて特別な存在でした)。
>
> あと、これを根拠に「貧しくとも文化は発展する」と言いたいのかも知れませんが、


いえいえ、これはむしろ逆で、貧しさを失ったからこそ新しい文化が生まれてこないのではないか?ということです(前回の文章が言葉足らずでした)。
貧しくあればこそ工夫しますし、そこに文化が生まれると思うのですが、豊かであれば工夫も必要ないですからね。

▼ 現代の百合文化

> 「ラブライブ」や「アイマス」は、ある程度は知ってますけど、
> う〜ん、私自身は別に百合ファンとかで無いので(そもそもアニオタですらない)、
> 本当の意味で「解っているか?」と問われると、ちょっと断言は出来ないかな(笑)。
> とりあえず、「ことうみ」とか「のぞえり」とか「にこまき」くらいは知ってますけど、
> その「流れ」の中身を、もうちょっと具体的に書いてもらえないと、
> どのレベルの話をされているのかが、正直、私には伝わらない感じですね。
>
> あと個人的な事を言うと、「艦これ」は作品自体をあまり把握してません。
> ウチの場合、海軍で3人戦死しているので、あの題材はちょっと・・・・
> 私の世代ですと、子供の頃の高齢者って、イコール戦争経験者であり、
> 自分自身では体験していないものの、戦争との距離は近かったですが(冷戦中でもありましたし)、
> 今では戦場を知る方々も100歳を超えており、急速に戦争のリアル感が遠離ってる感じでしょうか。
> まあ、楽しんでる人を非難したりはしませんけど、私的には対象外な作品ですね。
> ここのサイトですと「WW2オンライン」を作る時も、そうした心の葛藤は正直ありましたし。
>
> そして最後に、これは繰り返しになってしまいますけど、
> 私も別に「マリみて」の存在を軽視している訳では決してありません。
> ただ、元々の話の流れって、これ↓からですよねえ?
> > > > オタク的な文化として高まり始めるのは『マリア様がみている』や
> > > > 『東方Project』などが流行し始めた04年あたりからです。

> まあそれ以前に、私と旧トルコ担当さんとの間で、
> 「オタク」や「文化」に定義の違いがある事は、もう何度も語っているのですが、
> そこ以上に大きいのは、実在する「女子校」の存在感の違いなのかも知れません。
>
> それこそ、戦前のエス文化とか、「櫻の園」の映画の話とかもしましたけども、
> もっと根本的な話として、近年は少子化や共学化の流れにより急減してますけど、
> 90年代までは女子校って、もっと身近で一般的な存在だったんですよ。
> なので、お嬢様学校に抱く理想化されたイメージとか、女の園における理想と現実ネタとかは、
> 別にオタク的な想像上の世界観ではなく、見え難いものの普通に存在してた世界なんです。
> ですから、その世代の、アニメなどしか見ない層にとっては、
> 確かに、途轍もないインパクトを残した作品であるのは間違いないのですが、
> ことオタク文化史の文脈で論じられると、やはり同程度には語れませんよ・・・・
>
> う〜ん、何と言えば伝わりますかねえ?
> 例えば現在だと、女子生徒の体操着ってハーフパンツが一般的ですけど、
> 90年代後半から00年代前半くらいまでは、ハーフパンツじゃなくてブルマーだった訳です。
> その為、ハーフパンツが当たり前の世代には、ブルマーの再発見が衝撃であったとしても、
> 当時を知ってる世代からすると、そこまでの衝撃度はない・・・みたいな感じで伝わるでしょうか。
> まあ、これらは良い悪いの話ではなく、時代性といのは常に付きまとうモノなんですよ。
> それこそ前回、ウゴウゴルーガの話とか少ししましたけど、
> 当時のサブカル界に与えた衝撃は大きかったですし、渋谷系を知らない層には尚更でした。
> でも、それをサブカル史という文脈から見た場合には、やはり捉え方が違って来るんですよね。
> あそこから刺激を受けたクリエーターは数多く居たとしても、それは時代的・世代的なモノであって、
> そこを知らないからダメだとか、そういう話では無いと言いますか・・・・って、難しいなぁ(笑)。
> それこそ、個人的な観測ではなく、もっと大きくて客観的な「流れ」の話なんですよね。


これは全く知りませんでした。
どうしても百合の歴史のほうをさかのぼると90年代ではなく戦前のエスの方に目が行きがちなので。

ただ、それを聞いた上でもやはり90年代の百合と現在の百合はやはり変化していると思いますよ。
多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが現在の百合の根底にあると思います。
それは多分、00年代の萌えにもそういう面はあったのだと思いますが、10年代の百合はその色が非常に強くなったと感じます。
だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。
もちろんそれも90年代の百合文化の土台の上に築かれているわけですが、例えるなら中国文化だった漢字も、長い年月をかければ日本文化として消化・改変・独自化されていったように、百合は現在その独自化の真っ最中にあると思うんですよね。
VTuberが流行したのも、もちろん視聴者側の需要もありましたが、一方でかわいい女の子になってみんなからかわいいかわいい言われたいという供給側の需要もあったと思うんですよね(ただその大半が再生回数3桁レベルなのが現実の悲しいところですが)。

▼ ここ10年のオタク

話の本筋とは全然関係ありませんが、知ってることだけ書いときます。
管理人さんに一方的に教えてもらうだけだとあれなので。一応ですが。

PixivとSNSでイラストレーターの存在が大きく向上
スマホ時代になってからですが、PixivやTwitterで簡単にイラストが拡散されるようになったので、イラストレーターの存在感がやたらと大きくなりました。
クリエイターになりたい系オタクのあこがれはゲームクリエイターでもアニメーターでもマンガ家でもなく、声優と神絵師(神のように上手なイラストレーター)ですよ。
イラストなんて言うのは00年代にはラノベの表紙がせいぜいの活躍場所だったはずなんですけどね。
あとやたらアジア系外国人が多いのも特徴です。言語の壁が関係ないからなんでしょう。
例えばこの前にコミケ準備会が制作したコミケ45周年記念イラスト集では、特典のクリアファイルといういわばVIP席のイラストを描いたのはHitenさんという台湾人の方でした。https://www.pixiv.net/users/490219
ぶっちゃけこっちの方がコミケ有料化よりもよっぽど大きい激変ですし、同人界隈のピラミッドが二極化していっているのも、その最先端を走っているのはこういった神絵師だと感じます。
絵の美しさに関しては、ここ10年でアニメの絵の進化とともにオタク界は見違えるほど変わりました。

▼ 文化の大量消費

> あとは、ある所で滅びがあっても、別の所で興りがあれば良いんですけど、
> グローバル化と新自由主義により、文化の消費サイクルさえ加速度を増していて、
> 最近は、行き過ぎた焼畑農法が、砂漠化を招くような状況を、生んでいる気がするんですよ。
> 次から次へと大群で食い荒らしていくという意味では、「蝗害」に喩えても良いのかな?
> どちらかと言うと、そちらの方がより深刻で、私が心配している部分かも知れません。


結構前からの引用になりますが、これについても具体例を交えて説明していただけませんでしょうか?
私は結局のところ自分の興味のないところは全く興味を持たないので、全体の大きな流れというのはよくわからないんですよね。

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