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[23576] Re:ネット時代の超ローカル文化返信 削除
2021/5/11 (火) 21:35:25 徳翁導誉

> 返信遅れて大変申し訳ありません。
> 原因は私生活の忙しさ、ではなく単純に文章書くのが面倒だっただけです。

はい、解ります(笑)。
今のSNS世代からすると、昔のBBS世代である私の長文などは、
「雑談」という範疇を超えてるだろうな・・・という自覚は充分あるので。


> > グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
> > 元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?

> で、私の考えとしては、管理人さんの「グローバル1極の時代」とは異なって、
> 「グローバル化とローカル化の2極化」が現在起きていることだと思っています。

では、「極」となっているローカル化の実例とは、具体的に何でしょうか?
また、それこそタイトルにある「ネット時代の超ローカル文化」とかも、そうですが、
「ローカル」という単語の意味に関しても、同じく具体的にお願いします。

恐らく今までの感じだと、「グローバルとローカル」と言うよりも、
「マスとニッチ」や、「メジャーとマイナー(インディー)」の意味合いで、
用いている印象を受けるのですが、実際の所、どう言った意味なのでしょう?
ちなみに仮にそうだとした場合、ニッチであれ、マイナーであれ、
それが成り立つにも、最低限の「規模」が必要だと私は思うのですが、
そうした規模の必要性を、旧トルコ担当さんは感じ取れてない気がしちゃうんです・・・・

規模というのが解り難ければ、ある程度の人の集まり(社会)と捉えても良いかも知れません。
実社会で言えば、「街(大都会)」と「村(集落)」みたいなモノですよね。
どんなに村が小さくても、社会が成立するには、最低限の人数が必要であり、
住民が1人しか居ない村や、空き家しか無い村では、社会が成り立たないんです。
そして文化とは、人同士の繋がりで紡ぐモノである以上、社会の存在が不可欠となります。

要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> それは選択肢の幅という意味においても、です。
> ここまで現状認識が全く違っているので、抽象論ではなく具体例を出したほうが伝わりやすいと思うのですが、
> 例えばゲームであれば、今の時代steamなんかで膨大な数のゲームが配信されていますし、
> その他のサイトや無料ゲーム、スマホゲーム、同人ゲームなども含めれば、遊べるゲームの数は無限にも近いわけです。
> そこには本当にありとあらゆるジャンル、種類のゲームが存在していて、
> 決して似たようなものばかりで溢れかえっている、というわけではありません。
> っていうことは、たぶん管理人さんは知っているんでしょう。

そうですね、私なりに理解している・・・つもりではいます。
とは言え、ゲームとか久しく遊んでいないので、
充分に把握しているか?となると、まるで自信は無いですけども(苦笑)。
ですので逆に言うと、知らない部分があれば、是非とも知りたい所ではあると!!

> それで私がよく分からないのは、なぜこの現状を知ったうえで
> 「選択肢の幅が減少した」という風に思うのか?ということなんです。
> この辺が正直全く理解できません。
> まあ私が知らないだけで、昔はもっと選択肢があったのかな?
> いやでもそれはないと思うんですけどね。

では、私の方も具体的に話しますと、
作品の数自体が膨大に増えた事は、もちろん重々承知していますけども、
その一方で、例えば「新しいジャンル」のゲームというのは、一体どれほど生まれたのでしょうか?
それこそ私は古い世代ですので、シューティング・ゲームの登場、RPGの登場、SLGの登場、
格闘ゲームの登場、音楽ゲームの登場、オンライン・ゲームの登場などを、逐一体験してきましたけど、
近年のゲーム界において、そうした新しいジャンルは、具体的に何が登場したのでしょう?
数自体ではなく、「幅が広がる」というのは、そういう事だと私は思うので。

また、新しいジャンルの誕生だけでなく、既存のジャンルに関しても、
今では、超メジャーな一握りのタイトルと、それ以外との2極化が進んでる気がしますが、
一昔前までは、その中間にある「そこそこ普及したタイトル」という層も、確かにあったので、
作品数では劣るものの、分布の密度としては現在ほど極端では無かったと思うんですよね。
逆に言うと現在は、マイクラ・あつ森・フォートナイトに人気が過剰集中しており、
それ以外のゲームは、ほとんど耳にしないような感じになっています。
(あとは一部の例外みたいなモノで、高級ゲーミングPCのタイトルも、密かな人気を得ていると)


> > 1.グローバル化と新自由主義経済による画一化
> >   世界中どこに行っても、マクドナルドがあり、スターバックスがある。
> >   そしてショッピングモールに行けば、名の知れたチェーン店ばかり。
> >   それなりの値段で、それなりの商品を買えるのは、確かに便利なのは事実です。
> >   ですが、こうした画一化は、多様性を損なう一面も持ち合わせていますよねえ?
> >   また、データ重視の無難な商品開発も、似たモノばかりを生み出します。

> 「ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され」とのことですが、
> 私としては物理的な障壁に守られなければ消滅してしまうような文化であれば、
> もうそれは消滅してしまえばいいんじゃない?と思ってしまいます。

う〜ん、それに関して私は、別に良いとも悪いとも言ってませんよ。
そうやって「画一化された」という、事実を述べているだけです。
そもそもが、「日本から文化の多様性が失われていくか?」という問いでしたから。
逆に尋ねますけど、文化の消滅を肯定されるという事は、
旧トルコ担当さんも、多様性の喪失を認められるという事なのでしょうか?

> これっておそらく、ショッピングモールの地方進出で街の商店街が〜、というようなことなのでしょうが、
いや、これは完全に違いますよ(苦笑)。
掲示板上でも何度か書いてますけど、「街の商店街が〜」との意見に対しては、私も同じく否定派です。
私は転勤族として都会と地方と転々としたので、地方の不便さは身に染みて知ってますし、
そもそも、街の商店街という代物自体、実は歴史が浅い事も認識しています。
なので、ショッピング・モールやオンライン・ショッピングの登場も、それなりに評価しており、
「地方の個性が失われた」との意見には、「それは観光客の見方だ」と言ってますし、
「どこもプチ東京化した」との意見には、「逆に東京がプチ郊外化しつつある」と唱えていますよ。
実際、今では東京都心の繁華街に、郊外型のロードサイド店が次々と進出しており、
それこそ都心の街々が、どこも似たような店揃いで、個性を失ってきていると感じるので。

> そして結局多くの人間はそこまでしないわけですから(私も服はユニクロで適当に見繕ってます)、
> ネットで探す手間を惜しむような人間からすれば、
> 実のところ選択肢なんてそんなに欲していないというのが現実なのでしょう。
> ゲームで例えるならば、そこまでゲーマーでない人間であれば、
> YouTuberが遊んでいる今流行りのswitchのゲームを遊ぶのが最も効率的で、
> それだけでは満足できないゲーマーなのであれば、steamでも、同人でも、
> ネットの広大な海から自分好みものゲームを探してくればいいでしょ、ということだと思います。

何だか、話がループしてませんか?
繰り返しになりますけど、別に私自身は、そうした需要を否定している訳ではありません。
ただ、そうなると、「文化は画一化されるよね」とか、
「文化の多様性は失われるよね」という話を、前回返信したかと思いますけど。

> 余談ですが、前にチラッと1995年ごろからファッションの世界でインディーズが台頭してきた、
> みたいな話を聞いたことがあるのですが、これってちょうどコミケの参加者が急増した時期なんですよね。
> 95、96年というのはそろそろバブル崩壊以降の経済の停滞が長期的なものなんじゃないかという認識が
> 広がりつつあった時代で、このころに雑誌なんかも発行部数がピークに達していたはずです。
> WinXPが発売、テレホーダイが始まってネット文化が本格的に稼働し始めたのもこの時期ですよね。

細かい事を言うと、WindowsXPの発売されたのは2001年で、
90年代後半だと文字通り、1995年にWindows95で、1998年にWindows98です。
また、当時はビジネス向けにWindowsNT系が別途存在していた為、
WindowsXPのシェアが5割を超えるのは、2004年の事でした。

> 何が言いたいかといいますと、昭和の時代に作られたもろもろのもの
> (名づけるとすれば日本大衆文化とでも名付けられるようなもの)が頂点に達したのが
> 95、96年であり、逆に大衆ではない新たな本格的に文化が始まったのがこのあたりなのかな?と。

ですから初めの方から、「秋葉原にバスケコートがあった頃」とか、
「アナログとデジタルの過渡期」という話をしてませんでしたっけ?
そして、これも繰り返しになっちゃうのですが、
その「新たな文化」というのは具体的に何?というのが、最初の問いだったのでは?

> いえ、コミケとファッションのインディーズだけでどうにも根拠が薄弱ですが。
> そうでないとすれば、やはり可能性として考えられるのは、
> steamのような例が認識されていない、ということなのでしょうか?

「STEAM」とは、当時のオバマ大統領が推進した
理工系と芸術系を融合させた教育政策であり・・・な〜んて冗談はさておき(笑)、
(ちなみに「Science」「Technology」「Engineering」「Arts」「Mathematics」の頭文字)
今やPCゲームを語る上で、ダウンロード販売サイト「Steam」の存在は欠かせないでしょ?
PCゲームを店頭売りしている所なんて、今ではほとんど見掛けなくなりましたので。
一昔前までは、家電量販店でも普通に、PCゲームを取り扱ってたんですけどね。


> > > 現在のスマホゲームの雰囲気について説明している記事を思い出したので、リンク張っておきます。
> > > https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200408a

> > 情報、ありがとうございます。
> > シナリオ制作の環境に、変化が生じているんですね。
> > ただ、シナリオの魅力というのが、そこまで大きく評価できるかとなると、
> > 正直な所、未だに腑に落ちない感じではあります・・・・
> > そこまでシナリオが素晴らしいのであれば、課金が無くても成立しそうですが、
> > 仮定の話になりますけど、コンテンツとしての出来だけで本当に惹き付けられると思います?
> > 結局は、「課金させる為の味付け」という認識を、これでは脱する事が出来ませんでした。

> この辺もなぜそこまで課金を重視するのかがよく理解できません。

日本のソシャゲのほとんどは、課金で儲けるビジネス・モデルで作られている為です。
と言いますか、課金要素抜きで日本のソシャゲを語る事など、ほぼ不可能だと思いますけど?

ガチャで煽る射幸心に、ランキングやヒエラルキーが生む競争心。
時間を費やすほど強くなり、課金すると更に強くなるシステムにより、
一旦ハマると、それまで投じた時間や金銭が無駄になる為、プレーが義務感に転じ、
「辞めたくても、辞められない」ようなコンセプトで作られてるゲームが、
内容的に、本当に魅力があって、素晴らしいゲームだと思われるのですか?

それこそ、純粋にゲームとして素晴らしい出来であれば、
課金の要素を除いても、家庭用ゲームや海外ソシャゲとしても売れそうですけど、
そうした実例は、少なくとも私は聞いた事がありません・・・・
18禁要素を除いたエロゲーでは、そういう実例は知ってますけどね。

マウント取りで得られる優越感や、コンプ完了で得られる満足感は、
ゲーム本来の面白さとは別だろうと、少なくとも私は考えています。
いや、「本来の面白さ」なんて表現をすると排他的かな?
言い換えると、従来のアナログ・ゲームや家庭用ゲームというのは、
プレーする「過程」を楽しませるゲームであったのに対して、
ソシャゲというのは、プレーした「結果」を楽しませるゲームなんですよ。
だからこそ実は、家庭用ゲームよりも、パチンコなどのギャンブルに近い作りなんです。

デジタル化されたパチンコやソシャゲというのは、
競馬や競輪などのギャンブルに比べ、ゲームやアニメとも親和性が非常に高く、
それらの要素が組み合わされているのも事実ですが、そこがメインではありません。
と言いますか、加えるにしても味付け程度に軽くしないと、
あれもこれもと重くなり過ぎて、主目的の結果を楽しませる事が難しくなるんです。
解りやすく言うと、過程を楽しませる要素が強くなり過ぎると、
却ってギャンブル要素が邪魔となり、ビジネス的には本末転倒になる訳ですね。
それこそエロゲーで言えば、泣きゲー化が進んで、エロ要素が邪魔になったみたいに。

まあ確かに、課金と無関係なゲームも幾らかはあるでしょうけど、
それらはソシャゲのメインでは無く、携帯ゲームの文脈で語られるモノでしょうし、
それにしたって、携帯専用機のゲームに比べれば、大きなモノではありません。
例えばパチンコや競馬などのギャンブルも、カネを賭けずとも理論上は成立はしますが、
では現実として、カネを賭けないで、市場や業界として成立するでしょうか?
少なくとも、賭博性の無かった明治の競馬は、アッと言う間に廃れましたので、
もしも日本でも、欧米同様に課金ゲームへの規制が強くなれば、正直保たないと思いますし、
仮に存続できたとすれば、それはスマホで遊ぶ携帯ゲームへの変化を強いられてるでしょうね。
しかし、そうなれば日本のゲームも、多少なりとも国際競争力を取り戻せるかも・・・・

> よく考えてくださいよ。
> 二次創作がある程度以上の時間と労力を必要としていて、
> そういった二次創作の存在自体も認知しているのであれば、
> それだけの時間や労力をかけさせる程度には、ソシャゲも魅力がある、
> というのは明らかだと思うのですが。

ここで言う二次創作とは、主にイラストの事ですかねえ?
これに関しては、以前にも少し述べたかと思いますけど、
例えばPixivに投稿される題材として、東方・アイマス・ラブライブなどが多いのは、
もちろん作品自体の人気もありますが、それ以上に大きいのは「認知度の高さ」です。
逆に言えば、だからこそ古い作品が多いとも言えます。

絵師の側から考えた場合、自分が描きたいキャラを描くタイプも居るでしょうが、
やはり一般的には、自分の絵を見てもらい、評価されたいから投稿する訳で、
そう考えると、描くのに相応の時間と労力を要する以上は、
自分の好みとか、元ネタ作品の魅力よりも、認知度の高い題材を選ぶ方がウケる為、
だからこそ、元ネタ作品は知らないけど描くというケースも珍しくない訳です。

そういう意味では、二次創作の題材として、よく選ばれると言うのは、
見慣れているとか、知名度があるという所は保証できてるでしょうけど、
作品自体の出来に「魅力がある」とまでは、断言できないと思いますよ。
それこそ、ソシャゲとも比較されるパチンコやパチスロのキャラなども、
普通に同人誌の題材とかになってますけど(有名所だと「海物語」とか)、
だからと言って、それが他のマンガやアニメと作品の出来を競うとなると・・・・
もちろん、「パチンコの中で」とか、「ソシャゲの中で」という感じに、
その世界内での競争に勝つ為の、魅力ある「差別化」は必要不可欠ですし、
そういう意味での、出来の良い作品というのは、確かにあるでしょうけども。

> いや、私もソシャゲは実はほとんどやらないので詳しくはないのですが、
・・・詳しくないのに、そこまで言われてたのですか!?
一定時間ごとに、画面上のボタンを自動タップする便利アプリであったり、
ウォーキング・ゲーム用に、振り子に乗せて歩数を稼ぐ便利グッズなど、
そういうのが当たり前になってる昨今のソシャゲ事情とか、ちゃんと御存知ですか?
また、課金要素を考慮しない場合、ソシャゲってどうやって成り立つと思われてます?


> > と、ついでにここで、ちょっと「余暇市場」について見てみましょうか?
> > 昨年発表された2019年度(新型コロナ前)の日本の余暇市場は「72兆2940億円」であり、
> > これはピークであった1996年の「90兆9070億円」と比べると、実に2割も減少しています。
> > 続いて、文化面の余暇市場を、サブカルを中心に個別に見てみると、
> > アニメが3000億円、マンガが5000億円、家庭用ゲームが4400億円、ラノベが150億円。
> > 音楽が3000億円、映画が2600億円、アート鑑賞が1000億円ですから、
> > サブカルと言いつつ、なかなかの国内市場規模ですよね(笑)。

> この辺のお金で文化的豊かさを図ろうとするのもよく分かりません。

いや、簡単な話だと思いますけどねえ。
プロの作家と、アマの作家では、どちらが多くの良作を世に生み出すか?
その答えは前者だという事は、恐らく同意してもらえると思うのですが、
プロである以上、霞を食って生きてく訳には行かないので、
そこには当然ながら、金銭のやり取りが発生しますし、
そこで動く金額が大きくなれば大きくなるほど、市場も大きくなり、
その分野で食えるプロの人数も増えてくる訳で、そうなれば良作の数も更に増えます。
また、プロの世界が高く分厚くなるほど、アマの世界だって裾野が広がる訳で、
文化規模と市場規模というのは、それなりに相関関係があると思いますよ。

> いえもちろん、管理人さんもお金が絶対だと思っているわけでなく、
> 一つの指標として金額を持ち出してきているのも理解はしてるんですが、

これに関しては、指標と言うよりも、
単に話の流れから、気になって調べてみたデータというだけですね(笑)。
それに、やはり具体的な数値を見ると、イメージも掴みやすいですし、
世界市場とのギャップから、まだ成長余地が残る分野とかも見えてきます。
現代アートのように、海外の方が高ければ、これから日本で伸びる余地があり、
マンガのように、日本が圧倒的に高ければ、これから海外で伸びる余地があると。
そういう意味では、直接的に経済効果を見ていると言うよりは、
それこそ「新しい文化」が生じそうな分野の一部に、目星が付けられ、
あれこれ可能性を探れる楽しみが内包されてるって事ですね、これらの数字には。

あと、念のために一応言っておくと、
私は古いタイプなので、趣味の世界に金銭が絡む事に、少し嫌悪感が残っているのは、
このスレッドを読み返してもらえると、再確認できるかと思いますよ。

> 例えば私はこの20年間でいまだに音楽業界には1円も落としていないのですが
> (強いて言えばイヤホンとYouTubeの広告くらいでしょうか)、
> では私の楽しんでいる音楽文化の価値はゼロなんですかね?

う〜ん、その問いって、何だか おかしくありません?
そもそも、「価値はゼロ」とかいう話をしてないのは勿論の事、
何故ここで、音楽文化の価値基準の主体が、旧トルコ担当さん自身なのでしょうか?
これがまだ、音楽業界に1円も落としてない事で、
「自分の音楽文化への貢献はゼロか?」という問いなら解りますけども・・・・

ちなみに、それがプロの楽曲であれば、
他の誰かが払ってるからこそ、タダ乗りが出来てる訳ですし(広告も含む)、
無料やサブスクだと、どうしてもウケる曲が正義になってしまいますから、
作品数自体は増えても、創作の幅が広がるかは正直微妙な気がします。
また、アマの楽曲の方も、一昔前は「ボカロP」とか「歌い手」が流行りましたけど、
ブームが去った現在にあっては、新しさや勢いの面では寂しさがあるように思えます。
もちろん、ハチこと米津玄師が時代を代表する国民的な歌手となったり、
ボカロ文化の流れを汲むYOASOBIやAdoなどが、世間的に人気を得たりしてますけども、
文化的に発達するのと、世間的に広まるのとは、時間的なギャップがあるモノで、
大衆化し、一般化した頃には、成長自体は既に下り坂な事は多いですよね。

とは言え、決して今の時代の音楽を全否定している訳ではありませんよ。
それこそ、YouTubeやサブスクの登場により、00年代の音楽不況を脱しましたし、
YouTube上の公式MVが広告として機能して、ライブで稼ぐモデルも出来ましたからね。
(とは言え、昨今のコロナ禍により、再び難しい状況に立たされてますが・・・)
実際、私も昨年、jizueというバンドの「dance」↓という曲を凄く気に入りましたけど、
https://www.youtube.com/watch?v=vTDgInMDzR4
この曲にしても、もしYouTubeが無ければ、知る機会など無かったはずですので。

あと、YouTube繋がりで言うと、
これはコロナ禍による、リモート授業化の影響もあるのかも知れませんけど、
「計算論的神経科学」の著者が、東大 大学院で行った講義動画↓を、
https://www.youtube.com/playlist?list=PLXAfiwJfs0jE8DxX215F36H9hjYEWqkHS
https://www.amazon.co.jp/dp/4627851618
しれっと上げていたりするのは、素直に「凄い時代だな」とは思いますよ!!
そして欲を言えば、これが更にゲーム化やアニメ化されるなどして、
攻殻やシュタゲのようなSF作品が好きな層にも、取っ付き易い内容になり、
言語の壁も越えて、次の世代が成長していける社会となれば、理想的ですけどね(笑)。
(せっかく動画がアップされているのに、個々の再生数は2ケタ程度ですので)


> > > > > 情報があふれるようになって、相対的に時間が貴重になったからだと思います。
> > > > え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> > > > じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。

> > > いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
> > > ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
> > > 私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかが
> > > やたらもったいなく感じるようになりました。

> > そう、そこなんですよ、私が言いたいのは。
> > 重視されてるのは「時間」そのものではなく、時間に伴う「感覚」の方な気がするんです。
> > 要するに、本当に「時間が貴重」と思えるほど、現代人が忙しくなったというよりは、
> > 時間が貴重というコンセプトにより、「心理的な余裕」が奪われてるのが真相なのでは?
> > そして、心の余裕と交換に、我々が何を得たかというと、それは「便利さ」なのでしょうが、
> > ですけど便利さ自体が、心の余裕を奪ってる訳では無いと思いますし、
> > それを奪うのは、便利さに抱き合わされた「商業主義」の方だと思うんです。
> > で、その商業主義を覆い隠す為に用いられるコンセプトこそが、「時間が貴重」では無いかと。

【後で補足しようと思ってた文章を、今更ながらに追加】

電車を待つ数分、エレベーターを待つ数十秒、そして食事中や移動中の時間。
1つの動画を見たり、1つの記事を読んだり、新着チェックをしたりする。
一見すると、限られた時間を無駄なく使ってるように感じられるかも知れません。

しかしこれは、「時間が貴重になった」と言うよりも、
「わずかな時間さえ市場化された」と言うのが実状でしょうし、
やる事が多すぎて「時間的余裕」が削られる以上に、
一息つく暇さえ消費に追われて「精神的余裕」が削られてしまい、
結局は気付かぬ内に、市場原理に飲み込まれてるんだと思うんですよ。
スマホのソシャゲなどは、最も解りやすい例では無いでしょうか?

これと似た構造なのが、食べ放題やバイキングですね。
元々は、支払額を気にせず、好きなだけ食べる事に集中できるシステムのはずですが、
そこに「コスパ」という概念が持ち込まれ、「元を取ろう」という気持ちが働くと、
吐きそうになるまで量を食べたり、原価の高いモノだけを食べるようになる。
でもこれでは、損する事を恐れる 強迫観念にかられての行為になってしまい、
そこで得られるのも、食事的な満足感ではなく、経済的な満足感になってしまいます。

無料や定額(サブスク)の中、選びきれないほど大量に存在し、
わずかな隙間時間さえ狙うべく短時間化&単純化が進む、コンテンツの数々。
こうなると、その中身を楽しむ以上に、手段である消費自体が目的化しちゃいません?
また、ネット通販にしても、その商品をゲットする事で得る喜びよりも、
買うか否かを悩み、ポチる事で得られる解放感の方が、実際には強い気がするんですよね。
ネット通販には、掘り出し物の発見や、作業的な買い物の効率化など、確かに利点はありますし、
サブスクにより、過去の名作に触れる機会が格段に増えたのも、素晴らしい事だと思います。
そして、そもそも、食べ放題的なコンテンツ消費の楽しみ方自体を否定している訳ではありません。
ただ、社会全体が安価な「コスパ至上主義」に覆われてしまい、「有意義な無駄」が失われ、
そうしたコンテンツしか、新たに生み出されない環境となる事を危惧しているんです。

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