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[23620] Re:ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/18 (金) 21:03:35 旧トルコ担当

▼ 今までの流れの返信

> > ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> > ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> > 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

> いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
> それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
> 鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
> リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。


まあ人生何十年過ごしてからSNSが出てきた世代では「そんな簡単に変わるモノでは無い」のでしょうが、若い世代であればあるほどSNSの影響は大きいかと?
それこそ、周囲の大学生にも本当にSNSで流行ってるゲームしか遊んでない人とか普通にいますからね。
それに比べれば、SNS以前はゲーム屋でゲーム眺めているだけでも未知のタイトルがバンバン目に入ってきたわけですから、オタクでなくとも知識を体系化した、というのは表現は大げさだったかもしれませんが、あまり変わっていないということはないかと?
それこそ自分はまだネット以前のローカルな情報の入手の仕方も知っている世代ですが、これがあと5歳10歳下の世代だと、完全にSNSが最初の体験になっている世代ですからねえ。

> > うーん。
> > この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> > この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
> > 例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。
> > > 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> > > そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> > > 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> > > 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> > > 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> > 確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、
> > でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。
> > いや違うな。
> > 確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
> > だから不可知化なんですかねぇ、やはり。

> 前回、お互いに異なる「オタク」の定義についての話をしましたけども、
> そもそも論として、私と旧トルコ担当さんとの間で、
> 「幅」もそうですし、「文化」もそうでけど、
> それぞれ異なる定義をしているであろう事を、旧トルコ担当さんは気付かれてます?


はい、気づいていますよ。といいますか、その文化の定義のズレの話は前に私もしたと思うのですが。
と思い、当該部分を探してみましたが、確かに非常にわかりずらい説明になっていました。

> > はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
> > まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
> > 「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
> > 普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。
> >
> > ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
> > 世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
> > そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
> > 別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
> > キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
> > 個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
> > オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。
> >
> > 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> > 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> > そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> > 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> > 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> > その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> > 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> > 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> > ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
> > クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
> > 部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
> > メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?
> >
> > で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> > それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> > 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> > ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> > 言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
> > 「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
> > 「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
> > 「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
> > これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
> > それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
> > まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
> > それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
> > やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。
> >
> > ・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
> > 自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。

>
> いえいえ、その例えで凄くしっくりきました。
> 今まで何となく自分で感じていたことともつながったので少し話させてください。
>
> 例えば学校なのですが、昔と比べて何となくクラスというつながりが弱くなったと思うんですよね。
> もちろん私は教師でも何でもないので、昔の学校はマンガに出てくるくらいしか知りませんし、根拠には乏しいのですが、でもそこまで外れた見方でもない気がしています。
> 例えば、かつては学校内でもオタクは肩身の狭い思いをしたらしいのですが、私の学生時代には結構そういうものが許容されているというか、否定されないんですね。
> もちろんそれは我々にとっては良い時代になったという感じですし、その理由はオタクのイメージ改善にもあるんだと思うのですが、一方で同じクラスメイトのオタクグループに対する関心が昔に比べて薄れているというのもあると思うんですよね。
> なんというか、平和共存という言い方もできますが、それ以上に無関心・不干渉によってオタクは許容されていると。
> それはオタクグループと一般グループの間での距離が離れてきているいうだけでなく、なんとなくみんな自分の仲良しグループ以外には関心を持たなくなってきているというか。
> 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。
> マンガもそうだと思うんですよ。
> かつてのマンガ雑誌の時代と比べて、平成のマンガ単行本時代というのは自分の好きなマンガ以外に見向きもしなくなった時代だったと思うんですよ。
> そしてその傾向はネットマンガ時代になってより顕著になったと。
> YouTubeやSNSなどに関しては言うまでもないですよね。


再度説明すると、管理人さんが「文化=一つの学校のようなもの」と定義しているのに対して、私は「現在の文化=学校の乱立(分国)」だと考えているんですよね。
上記の説明では学校文化の話と混ぜてしまったので分かりにくくなってしまっているのですが、学校内でも多様性の名の下でクラスメイト同士の接触が減ってきているのと同様に、文化もまた異文化同士の接触が減っているといいますか、
そうした状況で「文化=一つの学校」と捉えると色々問題があるのではないか、というような趣旨でした。

▼ ラノベの歴史について

> > > ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> > > 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> > > なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> > > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
> > > それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> > > アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> > > 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> > > 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> > > そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。

> > この辺のラノベ史は勉強になりました。
> > 現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、
> > やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?

> それこそ、「スレイヤーズ」の刊行が1990年ですので、
> ラノベが「90年代初期に誕生」というのは、歴史の文脈的には正しいのでしょうけど、
> 何事でもそうですけど、一気にバッと転換するのでは無く、ジワジワと変化するものですからねえ。
> そういう意味では、上記の戯れ歌のように、ラノベの道を切り開いたのが「スレイヤーズ」であり、
> その道を広げたのが「ブギーポップ」で、道を舗装したのが「涼宮ハルヒ」だと考えています。
> で、世間的に言うと、やはり舗装道路の開通というのが、最もインパクトが大きいモノであると。
>
> そういう意味では、現在のラノベっぽくなるのは、00年代の前半でしょうし、
> 90年代の頃は、人気漫画のノベライズ版とかは既にあったので、
> 当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
> 実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
> ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
> 表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
> しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。
> 逆に言うと、原作があれば予備知識を元に、文章だけでも世界観を思い浮かべられますが、
> 原作なしのオリジナルだと、その世界観を補完するイラストの存在が不可欠であり、
> そして、キャラデザ付きのアニメ脚本みたいなモノなので、いざ映像化するにも適していると。


> これは完全に、私自身が昔から抱いているイメージなのですが、
> 恐らくラノベの原点って、「絵が描けない人が書く漫画」だったと思うんですよ。
> それこそ80年代後半は週刊少年ジャンプの黄金期であり、刺激された子供たちは多かったものの、
> 漫画だとストーリーの全てを絵で描かねばならず、それはアマには非常に高いハードルでした。
> (ノートに鉛筆で描く程度ならまだしも、ペン入れやトーン貼りは道具も技術も要するので)
> でも文章であれば、絵よりも容易に書けますし、表紙絵や挿し絵くらいなら頑張れもします。
> そして商業作品のレベルとなれば、イラストは別の得意な人に頼めば良いですし、
> 漫画の原作&作画の分業作業に比べれば、ラノベの方がずっと分業に向いてる気がします。


「原作漫画を持たないノベライズ版」という表現はしっくりきました。
一応、ライトノベルの源流はアニメのノベライズ(冨野監督自身が執筆したガンダム小説など)に源流があるらしいのですが、アニメだけでなく漫画のノベライズというのもあったんですね。

あとラノベの高齢化については、確かに中高生向け小説というレンズを通してみれば「冴えない30代の社会人が主人公」なんていう状況は高齢化に見えますが、
ラノベ=オタク文化という視点で見れば、アニメだってゲームだって高齢化してきたわけであって、ラノベの高齢化というのは何だかんだでオタク文化をわかってない文学系の評論家が騒いでいるだけだと思っています。偏見交じりではありますが。

▼ 技術発展について

> まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
> 60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
> 80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
> 科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
> 資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
> 人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
> それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
> そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
> 火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。


うーん、その辺はどうなのでしょう。カネの問題なんですかね?
まあ私は理系知識に関しては本当にさっぱりなので、管理人さんの言っているほうが正しいのだと思いますが、例えば火星への有人宇宙船を着陸させて、それが人類の生活にどう役立つのでしょうか?
結局宇宙に莫大なカネを投じていったとしても、特にイイことはないというのがバレてしまったからこそ、宇宙開発って停滞してるんじゃないですかね?
原子力に関しても、SFオタク世代のおじさんに聞いた話では、研究する前はできると思っていたことが、研究すれば研究するほど難しいことがどんどん分かってしまった、というのが原子力だったらしいのですが。
むしろ現代の問題って、技術開発に投じれるカネはあるけど、簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術はあらかた開発し尽くしてしまった、というのが現代の停滞の本質なんじゃないですかね?

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