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[23529] 世代と世界の「共通言語」としての文化(その1&追記)返信 削除
2021/3/24 (水) 22:05:56 徳翁導誉

こちらの関係↓もあり、私も今回、2日後に追記してみました(笑)。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=c23535
追記箇所は、【以下追記】となってる部分から、次の引用部分(色付き文)までです。


▼ 現在日本の文化環境
> 間違っているかもしれませんが、管理人さんの言う旧来の趣味人の世界とか、文化について、
> 一応の理解はできたと思いますので、私の考えを書いてみます。
> ネットの普及により、雑音をカットして自分の欲しいものに直接手が届くようになった結果、文化の選択肢の幅が狭まった。
> これは事実だと思います。
> そしてそうやってSNSの狭い世界やAIにおススメされるものばかりを消費していく世界というのは、
> 今までの文化のつくり手と受け手の距離が小さかった世界とは全く異なった世界なんでしょう。
> ここまで管理人さんと意見が同じです。
> では、そういった文化を消費するだけの作業になった世界というのは、そんなにディストピアなんでしょうか?

何を「ディストピア」と感じるかは、正直、人それぞれでしょうね。
って、ディストピアはほぼSF用語なので、ROMってる方の為に少し説明しておくと(笑)、
ユートピア(理想郷)の反対語で、日本語に訳すなら「暗黒世界」みたいな感じでしょうか?

例えば中国なんて「幸福な監視社会」などと呼ばれてまし、その体制は今後更に進むでしょうけど、
あれを見て、ディストピアだと感じる先進国の人たちは多いでしょうし、
一方で、先進国では徹底できない、デジタル社会の理想モデルとする見方もあるはずです。
また、ナチス・ドイツやソビエト連邦、そして戦前の日本や満州国を、
悪の帝国として、そして歴史上の敗者として、ディストピアと評する事は珍しくなく、
もちろん駄目だった面は数多いのですが、決して良かった面が皆無だった訳ではありません。
現在の北朝鮮にしても、命懸けで脱北したのに、自由・資本主義社会での生き難さから、
再び北朝鮮に帰還してしまう例もありますし、そうなると、どちらがディストピアかも解りません。

ただ、ここまで述べた上で、私個人の心情を言わせてもらうと、
与えられた文化を消費するだけの社会というのは、正直、ディストピアだと感じますけどね。
実際、「世界一幸せな国」などと言われているブータンも、北朝鮮以上に思想統制していて、
本当に97%の国民が「自分は幸せ」と感じてるとしても、やはり私にはディストピア的に映ります。
恐らくは日本国民よりも、北朝鮮国民の方が、幸福と感じてる人の割合が高いかも知れません。
それでも、日本より北朝鮮の方が、ディストピアに近いであろうと思います。
これは、相手の主観に対する 自分の主観である以上に、
人類の歴史を俯瞰した上での客観的な見方をしている部分が大きいと思っています。
まあ私の場合、文化や学問の重んじ方が、一般的な人よりも強いですし、
歴史的に見ても、文化や学問の多様性が豊かな社会を作ると捉えてますので、
豊かな日本社会を望むからこそ、そこへの思いが普通より強いのは自覚してますがね。
あと、念の為に言っておきますけど、今の日本がそこまで落ちてるとは言っていませんよ。
ですけど、20年前30年前の日本に比べれば、確実に下落傾向にあるのは事実な気がします。

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

オペラを愛し、画家を目指して夢破れたヒトラーは、後に独裁者となると、
伝統的な絵画を奨励して、印象派以降のモダン・アートを「退廃芸術」として否定し、
オペラやクラシックの普及に努め、ジャズなどを「退廃音楽」として抑圧しました。
ソ連や、戦前戦中の日本なども、文化の政治的統制というのはあったのですが、
ヒトラーが教科書的なアートの信奉者だっただけに、ナチス・ドイツでは極端でした。
もちろん、アート愛好家は反発しましたけど、それも国民全体で見れば極一部であり、
大多数は関心が無いか、イメージ通りのアート普及を却って賞賛してたそうです。
そういう所は、あいちトリエンナーレ騒動時の反応を見ても、大して変わってない気がします。

ではこれが、多くの人々が認めていたからと言って、本当に良かった事なのでしょうか?
確かにヒトラーは、今までアートに縁遠かった庶民たちに対して、その魅力に触れる機会を作り、
それは彼らにとって受け入れやすい伝統的な作品でしたから、評判も良かった。
意味の解らない最先端アートの事など、庶民たちには評価のしようがありませんし、
ヒトラーにとっては、若き日に自分を否定した、芸術界に対する雪辱でもありました。
ですけど、これはアートに限らず、その時代時代で切り開かれた新しいモノが、
長い時間をかけて成長し、やがて社会へと広まっていくモノなのですから、
もちろん古典も重要ですけど、それだけでは一向に進歩せず、停滞してしまいます・・・・

で、こうした現象が社会的に起こるのであれば、まだ仕方が無いのですが、
暴力(軍事力)によって導かれるのでは、やはり意味が違ってきますよ!!
社会的判断であれば、例え成長しても、評価されないから社会で広まらないのですが、
政治的判断だと、元栓を絞められる事で、そもそも社会に評価され広まる機会がない。
最終的な結果は同じであっても、それは完全に別物です。
ただし、これは少数の権力者による暴力に基づいた統制ですから、
まだ見えやすいですし、80年前の出来事なので歴史として客観的に判断できます。
でも、今の時代に起こっている財力(経済力)による誘導は、
解りやすく独裁者がいる訳ではなく、冷戦後に暴走し出した資本主義というシステムが正体であり、
それには多くの人々が無自覚に関わり、更には現在進行形の出来事であるので、
どうしても視点は主観的になってしまい、その将来的な影響が見えにくい・・・・
これは非常に厄介な状態なのですが、それだけに打開も難しく、
方法論は考えてるものの、個人レベルじゃ困難でしょうし、正直諦めてる部分も(泣)。

「いま満足してるし、何が問題なの?」と問われると、
正直、なかなか答えるのが難しいのですが、
ドイツ第三帝国であれ、ソビエト連邦であれ、大日本帝国であれ、
当時の庶民たちの感想としては、それと同じと言いますか、
実際の所、今の我々よりも満足度の高い暮らしをしてたんですよね、調子の良い頃には。
限られた情報の中での幸福感という意味では、北朝鮮やブータンだってそうかも知れません。
しかし、それは上手く回ってる時の話であり、少数派の事は目を瞑った場合の話であり、
やがり状況が悪くなり、崩壊していった時の事も、私たちは同じく歴史で知っています。
まあ、その為に、これらの社会が「ディストピア」だったかのように捉えられる事もあるものの、
ですが現実的には、歴史的敗者だからと言って、全否定される程の暗黒社会でもありませんでした。
誤解を恐れずに言うなら、良かった部分だってありましたからねえ。
だからこそ、当時の人たちも満足して生きてた人が多かっただろうと。
とは言え、良い面と悪い面とをトータルで評価すれば、どうしても悪い面が勝ちますし、
そうなると、空想的なディストピアほどでは無いですが、やはり良い社会とは評価できません。

そして現代の社会に関しても、当時ほどでは無いけど、ちょっと肯定的には見られませんよ。
もちろん、未来の事は解らないので、ここからV字回復して良い社会になるかも知れませんし、
私の観察が間違ってるだけで、そもそも下落などしておらず、上昇中の社会かも知れません。
しかし、私の経験と肌感覚と歴史知識とデータ解釈から判断すると、
とてもじゃないけど、今の世界が良い方向に進んでるようには思えません・・・・
遊びが許されない社会というのは、どうしたって窮屈さが拭えませんからね。
「お国の為」か、「お金の為」か。
それは軍事力で もたらされようと、経済力で もたらされようと、
目に見える圧迫感の違いだけで、構造としては大差ない気がしています。
いや当然、政治的にコントロールされるよりも、遥かに自由度は残るのですが、
心理的にコントロールされると、それに気付く事や打開するのが難しい。

それこそ戦時中の日本は、子供向けのアニメ映画でさえ戦意高揚用であり、
確かに中には、「桃太郎 海の神兵」のような名作も生まれましたが、
それは逆に言うと、その範疇でしかアニメーターは表現を許されなかった事を意味し、
日活ロマンポルノやPCエロゲーの中で、表現を模索していたのとは訳が違います。
また、乳白色の美人画がパリ画壇で賞賛された藤田嗣治が、戦時中に描いた戦争画も、
それはそれで名作だとは思いますし、戦争画だからと闇に葬られるのは残念ですが、
でもこれも、戦意高揚の絵画展しか許されなかった当時の社会背景であったり、
戦争が終わると戦争責任を負わされ、日本を追われた経緯を思うと・・・・

しかも終戦と共に、日本へと大量に持ち込まれたアメリカ映画は、
戦時中にあってさえ、戦争と関係ない、質の高い娯楽映画を作っており、
それは軍事面だけでなく、文化面での敗北も、日本人たちに味合わせました。
その一方で、日本人は敗戦によって、気付きのチャンスを得ましたし、
それは日本の戦後サブカルを産む下地にもなりました。
ですけど今の時代、新自由主義化した経済はグローバルに展開され、
ネット網を介して個々の消費者にしっかりと結び付き、それは深まるばかりです。
世界中がそれに覆われ、自由意思さえ誘導される時代に、
これを打開するのは、なかなか容易じゃないですよ・・・・

とは言え、「悲観的に準備し、楽観的に対処する」という言葉もあるように、
可能性の話を論じ、出来得る事であれば最悪の事態は避けたいだけの事なので、
必ずそうなるとか、そのようになって欲しいとか、そういう考えではありません(笑)。
健康でありたければ、病気の事を知らなければいけないように、
平和を望むなら、戦争の事を知らなければならないように、
より明るい未来の社会である為に、危険性に注視している部分も正直あります。
まあ結局は全て、確定事項などでは無く、起こり得る可能性の話ですよね。
ただし、現実的に悪い方向へ進む事自体は、よくある事でもあります。
例えば昨今のコロナ禍でも、「医療体制の縮小」という小泉改革時のツケを、
20年の年月を越えて、我々は支払う事態になっているのですが、
この問題自体は、その当時から予測できてた事ではありましたからねえ。
そういう、将来に禍根を残しそうな問題が、現在進行形で積み重ねられてる感覚はあります。
私の場合、歴史好きな事もあって、今のニュースでさえ、
良くも悪くも、20〜30年のスパンで見ちゃってる部分もありますし、
生じる結果には、必ず事前の原因があるというのも、理系的な視点なのかも知れません。

> 少なくとも私の観測している範囲では、たとえばここ2週間くらいオタ界隈では
> ウマ娘というスマホゲームが猛烈に流行っているのですが、
> ウマ娘のゲームを遊んでいる私のTwitterのフォロワーは楽しそうです。

何だか、流行ってるみたいだなというのは、知ってます(笑)。
別に私の食指は動きませんけど、楽しんでる方が居られるなら、それは結構な話だと思いますよ。
擬女化するのはさておき、ダビスタとかは私も楽しんでた頃がありますし、
逆に言うと、「どこまで擬女化できるか?」は、ちょっと妄想しない事も無いです。
乳牛を擬女化した、ウマ娘ならぬウシ娘とか作ったら、鬼畜エロゲ系だなとか(苦笑)。
少女を強制妊娠させて、拘束して機械で乳を搾り、生まれた子供が男なら食肉にし、
それを3〜4回繰り返して、乳の出が悪くなれば、こちらも食肉に・・・って、
そのまま人間に置き換えて映像化したら、それだけで猟奇ホラーの完成でしょうから。

> 私自身は自分でゲーム作ったりしているあたり、まだ20世紀型の文化の側の人間だと思うのですが、
ゲーム作りって、20世紀型の文化なんですか!?(笑)
それこそ今年度から小学校では、プログラミングの授業が必修化されて、
学校によっては、ゲームを作る授業とか行われ得てると聞きますけど。

> (完全に余談ですが、前作ったゲームは地道にバージョンアップしてver2になりました。
>  https://devum765.github.io/javascript-game/

元々の話の流れであれば、コチラこそ本題向きの話題だったんですけどね(笑)。
経済物理学の話に触れた後、個人的には法学の次に縁遠い経済学に関して、
「ブラック・ショールズ方程式」「動学マクロ経済」「ベイズ統計」など、
数学を梃子に、ちょっと教科書を読んだりしてたんですよ、実は。

> 聞いた話では、かつて服というのは自分たちで作るものだったらしいのですが、
> 今はほとんどが既製品を買って着るだけのものになりました。

その文化を民間レベルで継承している最大勢力こそ、実はコスプレイヤー層かと。
いや、これは結構マジな話で(笑)。
裁縫が趣味という人は多く居るでしょうけど、
さすがに、服まで非商用で作る人は極少数でしょうからね。

> 今後、画像認識AIを用いた自動料理装置のようなものが家庭に普及すれば、
> 我々は自分たちで自分のご飯を作らなくなると思うのですが、それは果たして文化の後退なのでしょうか?

「画像認識AIを用いた自動料理装置」なるモノが、一体どんなモノなのか、
私にはまるで想像が着かないのですが(笑)、まあそれはともかく、
別に、そんなモノが普及しなくても、外食や宅配、出来合い惣菜にレトルトなど、
既に現時点で、自炊しない人は普通にいると思いますし、
そもそも都市部の場合、江戸の頃から外食文化であり、
東アジアや東南アジアでも、大体はそんな感じです。
日本人が家庭料理を作り始めるのは、昭和に入って以降、
特に今みたいな形は、確か高度経済期以降だったと思いますからね。
で、これが文化の後退かと問われれば、私は特にそうとは思いませんよ。
平日は出来合で休日は自炊とか、平日が自炊で休日は外食とか、別に良いと思います。

ただ一方で、数ある選択肢の中から「自炊」自体が消えるとなれば、
それはさすがに、文化的な後退を意味するかと思います。
例えば上記で、東アジアや東南アジアの都市部は外食文化だと話しましたが、
この場合、1人部屋だったりすると、家にそもそもキッチンが無かったりします。
そうなると、家ではカップ麺のお湯を温めるくらいしか出来無くなるんですよね。
つまりは、「料理をしない」という選択から、「料理が出来ない」という環境となり、
それが結果的に「料理を作れない」という能力の問題になってくると・・・・
イギリスの食文化が崩壊した(マズくなった)のも、この構造が世代を越えてしまった所為です。
もちろん、崩壊も含めて文化だとも言えますし、そのお陰で日本食も進出できたのですが、
でもまあ、一般的な見方からすると、これは「文化の後退」ですよねえ?
隣国のフランスは世界3大料理の一角と呼ばれ、やはり羨望を集めてますし。

って、これは何も、誰もが料理人のようになると言う、極端な話ではなく、
せめて最低限の事が出来れば、選択の幅は広がりますし、
自分で多少なりとも作ってると、プロの技術や味の凄さが、より理解できるはずです。
出来合いやレトルトに、ちょっと一手間加えて、更に自分好みにする工夫とかも、
自炊という選択・環境・能力が失われる程、縁遠くなる気がしますからね。
また、これを服の話ですれば、着る服まで自作する必要は私も感じませんけど、
ボタン付けくらい出来ないと、わざわざ店に頼むか、捨てるかしか無くなっちゃいますよ。

> もっといえば、産業革命以前の、食べるものから着るものまですべてを
> 自給自足していた時代の人たちがタイムマシンでやってきて、我々の生活をつまらない生活と評したら、
> 我々はそれを受け入れて資本主義を捨て去るのでしょうか?

う〜ん、え〜と、これは一体何なんでしょ?
何やら突然、手作り至上主義みたいなのを持ち出され、それを否定されてますけど、
そんな話、今まで全くしてないと思うのですが・・・・
まあ恐らくは、買い物の完全作業化と娯楽性喪失という話から、
独自に連想されて脱線されたのかな?とは、一応推測しますけども、
それにしたって、ネット通販の利便性を否定するような話では全く無かったですしね。
(とりあえず言っておくと、私は別に手作り至上主義者じゃありませんよ・笑)

あと、究極的に効率性を追求するのであれば、食事はサプリで、服は人民服でOKという事?
・・・と、少し意地悪に返してみる遊び(笑)。
ただ、学者や研究者の世界とかだと、効率の権化みたいなタイプも居て、
食事はサプリ中心とか、服は1種類を大量にとか、そういう人も本当に居ますけどね。
正直言って変人タイプですが、そこまで無駄を削って研究に没頭されると、
「時間は貴重」という言葉も、ちょっと真に迫ってくる所があります(笑)。

> 私が思うに、結局文化というのは娯楽であって、面白いかどうかが評価基準であり、
> 面白いかどうかでいえば自分にぴったりの作品が一瞬でおススメされる現在のほうが
> エンターテイメントとして優れていると思うんですよね。
> で、その大多数の人たちは今の文化環境に満足しているわけですから、これで良いのではないでしょうか?

はい、それはそうだと私も思っていますよ。
だからこそ前回、「経済と文化の相互性」や「サブカルの市場規模」の話を、あれだけしたんです。
別に消費者の存在を否定している訳でも無いですし、
それこそ前回も言ったように、分解の育成には市場の存在が不可欠であり、
市場というのは、まさしく消費者あってのモノです。
一握りのパトロンが文化を下支えする中近世から、
数多くの庶民が文化を下支えする近現代に、時代は移り変わってますからね。

> もちろん、中には管理人さんのように現在の無駄が省かれて雑音が消え去り、
> 接することのできる文化の幅が少なくなった社会をつまらない社会だと思う方もいるにはいるのでしょうが、
> それって結局少数派だと思うんですよ。

もちろん、それは少数派ですよ(笑)。
と言いますか、多数派だったら「サブカル」とか「オタク」って呼べないでしょ!?

> いえ、私はオタクですし、今でもかつて(80・90年代くらい)のガチオタに憧れるので、
ちなみに、主にどんな分野のオタクなんですか?

> ネットを漁って80年代のSFボードゲームが手の届く価格で売ってないか検索したりしているのですが、
そう言えば旧トルコ担当さんは、アシモフのSFが好きとの事でしたが、
昔から、ちょっと気になっていたんですけど、
アイザック・アシモフというと、世間的にはSF作家として有名なのですが、
彼の本職は生化学者であり、化学や生医学の著作もあるんですけど、
アシモフ・ファンの方は、そちらも読まれたりするモノなのでしょうか?
日本語だと「化学の歴史」や「生物学の歴史」あたりが出版されてますけども。
https://www.amazon.co.jp/dp/448009282X
https://www.amazon.co.jp/dp/4062922487

あとSFと言えば、最近話題のSF小説「三体」って、既に読まれてます?
全3部作で、私はまだ第1部しか読んでないんですけど(第3部の日本語版は今年発売予定)、
SFファンの中では、一体どんな評価なのかな?と気になりまして。
まあ、そもそもSF自体、私はほとんど読んで事が無いんですけど、
近年活況を呈していると聞いてはいた中国産SFの、これが初体験でした。
で、この作品が中国国内で累計2000万部と知り、そんなに市場が大きいんだなと!!
前回も少し話しましたが、単に日本と中国の人口の差という以上に、
中国のネット投稿小説の市場は、日本よりも先んじて既に大きく発展しており、
サブカルを含めた文化面で、日本が成熟期なのに対して、中国には成長期の勢いがあります。
(例えば成都というと、三国志の印象が強いですけど、今ではSF都市として力を入れてるそうで)

一昔前までは、日本に入ってくる中国の小説というと、武侠小説が主でしたけど、
今では、中国でヒットした作品が、英訳されて欧米でも流行り、
その後で日本語版も発売されるという流れになってきているみたいです。
政治問題に触れない限り、中国政府も国家戦略として全面バックアップしてますしね。
(政治的要素を含む作品は、作家たちも台湾の方で出版すると・笑)
この三体も、オバマやザッカーバーグが絶賛した事で、日本語への翻訳が決まったとも?
本来なら中国から直接の方が近いのに、欧米経由じゃないと入ってこないというのは、
中国に対する評価の問題や、日本市場の魅力の問題など、いろいろ抱えていそうですけど、
それでも、言葉の壁を越えて市場開拓している姿は、日本も大いに参考に出来るかも知れません。

> ただこういった生活がほかに人にもお勧めできるかと聞かれれば、
> いやゼルダやってたほうが絶対楽しいと思うんですよ。

たまにはガラにもなく、ちょっと哲学の話でも引用しましょうかね(笑)。
19世紀のイギリスの哲学者に、J.S.ミルという人が居たのですが、
彼は著書「功利主義論」の中で、次のような有名な一説を残しています。

「満足した豚であるより、不満足な人間である方が良く、
  満足した愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。
  そして、愚者や豚の意見がこれと違っていたとしても、
  それは彼らが、この問題を自分の立場からしか見ていないからである」

何だか、こういう風に書くと、お高くとまってる感じがしますし、
豚の満足とは、感覚的や肉体的な「低級快楽」の事であり、
ソクラテスの満足とは、精神的や知的な「高級快楽」の事であると解説を加えると、
嫌味な感じが更に増すのですが(笑)、すっごい解りやすく言い直せば、
「せっかく人間に生まれたんなら、いろいろ楽しめた方が幸せじゃん!」って話なんです。
ミル的には、他者の自由を妨げない限り、あらゆる快楽を求める事が幸福の最大化らしいので。
要するに、消費者として満足するだけより、創作者としても満足できた方が、
楽しさの範囲がグッと広まるよって事を、この一説を引用してまで述べたかった訳ですね。
私1人の言葉だと、あまり説得力も無いでしょうから(苦笑)。

って、こんな話をしつつ、まあ私自身としては同じソクラテスでも、
プラトンから「狂えるソクラテス」と評された、ディオゲネスの思想とか好みだったり(笑)。
中国思想史で言うと、老子あたりと考え方が近い人ですかね?
こちらは、「あれこれ欲さず満足できれば、それが一番幸せだろ」って話なので、
前述のミルとは もう完全に正反対で、矛盾も良い所かも知れませんが、
「快楽の餓鬼でありつつ、快楽の賢者タイムもある」、それで良い気はしますし、
もっと言ってしまうと、ドラッグ使用すら、私は別に否定しません。
(念の為に言っておくと、私はドラッグどころか、酒もタバコもやりませんが)

> そういう人間なので、時間はかかりましたが管理人さんの言っていることも理解できたと思いますし、
> ある程度共感できたのですが、その先の未来に関してはそこまで悲観的になる必要もないと思うんですよね。

え〜と、すみません・・・・
私の方からすると、「何でこんなに話が上手く伝わらないんだろう?」って感じなので、
この状態で「理解できた」「共感できた」と言われてしまうと、正直ちょっと困惑(苦笑)。

> ネット以前の20世紀的大衆文化の時代が終わりを告げ、21世紀型のSNSと
> 「バズったものを履修する(例えばゼルダが面白いとYouTuberに言われればゼルダを遊ぶ、というようなこと)」時代が
> やってきたということではないでしょうか?
> 別に20世紀だって、半分以上の人は文化消費者だったのでしょうし、
> 誰かの作ったマンガを読んで、誰かの作ったゲームで遊んでいたわけですから。

そこは、そうですよ。
ただ逆に言えば、ネット以後の21世紀型だろうが、
やってる事は、結局 大して変わってないという事でもありますが。
テレビや雑誌などのマス・メディアを介した大きな流行と、
学校や地域の仲間との口コミで広まる小さな流行との間に、
ネットという中規模の流行が生まれたという話なので。

> そして文化が停滞するなんて言うことも無いと思うんですよね。
> なぜかといえば、ピラミッド上位のクリエイター層は、
> ネット以前とは比較にならない数のアマチュアクリエイターがしのぎを削る社会だからです。
> アニメの絵がこの10年でどんどん奇麗になっていったのがそれを証明していっているかと。

それを踏まえた上で、以前にもしたのが「学習の高速道路論」の話だったんですけどね・・・・
今の時代、ネットの普及と進化によって、一昔前よりも確実に学習の効率が上がってるんですよ。
もちろん、それはそれで素晴らしい事ではあり、
高速道路が敷かれた所までは、多くの人がスイスイと進んでいくのですが、
しかし、高速道路を走り抜けた先では、行き先に困って大渋滞が発生していると。

これをイラストレーターの話に当てはめれば、それこそ前回にも言いましたが、
投稿数は勿論の事、上位クラスの作品レベルは凄い事になっているのは事実として、
その一方で、イラストレーターの活躍場所って、一体どれだけ増えたのでしょう?
また、一定水準のイラストレーターは数多く生まれたのでしょうけど、
そこから突き抜ける人だったり、作品を残したりという人は、一体どれだけ居るのでしょうか?
新しいモノが生まれない限り、それは二番煎じ、三番煎じと繰り返していくしかなく、
「何番煎じだよ!?」となった時、それは停滞と呼ばれるのでは無いでしょうか?

「新しい文化は、無駄と余裕から生まれる」というのは、基本中の基本的な概念なのですが、
今の時代って、無駄は省かれ、余裕は削られていく時代ですよねえ?
そんな時代の中で、どうやって新しい文化を生み出すのでしょう?
もちろん、新しい文化が生まれないからと言っても、文化自体が消滅する訳ではありません。
例えば長い江戸時代の中で、元禄文化と化政文化を学校の授業で習いますが、
その2つの時代が、文化的な隆盛期にあったというだけの話で、
それ以外の時代に、文化が全くなかったなんて話ではありません。
何度も繰り返しますけど、文化を含めた あらゆるモノに、盛衰の周期はありますから。
でも逆に言うと、それって必ず、衰退や停滞する時期があるって事なんですよね。

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

1年単位の「短期的」な視点だと、不規則な微増減があり、
10年とか20年といった「中期的」な視点だと、周期的な盛衰の1サイクルがあり、
数十年や100年くらいの「長期的」な視点だと、緩やかな上り下りの基調が見られるもので、
こうした性質は、経済であれ、文化であれ、だいたい似たような感じだと思われます。
なので別に、懐古主義的に「昔は素晴らしかった」「今はダメだ」と言いたいのではなく、
中期的な周期だと、既にピークは超えて下り坂のタイミングに突入しており、
長期的にも市場開拓が飽和状態で、今後は縮小さえ有り得る状況から、
文化のおかれた状況を、歴史的に見た感じで語っているつもりではいます。
特に、人類が世界規模で初めて向かえる「人口減少社会」というのは、本当に未知の要素ですし。

とは言え、「文化力でも人口こそが絶対正義」とまでは、私は考えていないので、
未来の文化が、必ずしも暗いかとなると、決して断言は出来ないと思うんです。
例えば江戸中期から後期にかけて、ミニ氷河期により日本の人口増は停滞しましたが、
庶民まで広がった化政文化が栄えたのも、丁度この頃でしたからねえ。
もちろん人口や歴史というのは、文化を支える上での大きな土台なのですが、
経済的・時間的・精神的の「3つの余裕」がある事も、文化を築く上で大きいと思うんです。
なので、どれほど人口が多くても、余裕がない社会では文化は育まれ難いでしょうし、
格差が「問題視(存在では無く)」される社会というのは、そうした余裕が乏しい状況かと?
しかも、文化が消費ビジネスの標的にされる現在では、それは尚更ですよね。

ですから、技術の革新が社会を変革させる事がありますし、
そこまで行かなくても、技術革新自体が新しい文化を作る事はあります。
そういう意味では、ずっと文化が低迷し続けるとは限りません。
と言いますか、中期的に見れば、何らかの文化の波は再び生じるモノだと私は考えています。
それこそ上記の江戸時代の例を続ければ、
戦国の気風を継ぐ江戸初期は、新たに生まれた文化が荒くれた時期でしたが、
それが時代と共に、社会が落ち着いていき、文化も徐々に上品になっていくと、
クセが乏しく、ただただ奇麗なモノとかが好まれるようになりますし、
それが庶民にまで広がっていくと、解りやすくて、安上がりなモノへとなります。
でもまあ、これも文化と言えば文化なんですよね。

正直言うと私自身、日本文化は活気のある勃興期や成長期の作品が好きなのですが、
西洋文化は馴染みが薄いからか、音楽も絵画も大衆化後の作品が好きだったりも(笑)。
以前は、好みが安直すぎると、少しだけ気恥ずかしさもあったのですが、
ワシントン・ナショナルギャラリーの印象派名画に圧倒されてからと言うもの、
それまでは「奇麗なだけで、ツマらない」という感じだったのが、
それ以降は「奇麗なだけでも、良いじゃないか」と開き直れたんですよね!!
どんなタイプの作品であっても「良いモノは良い」、それが全てでは無いかと。
そうなると、楽しめる範囲というのが、格段に広がるようになりました。

要は個々人の好みの問題で、文化自体に優劣は無いとも言えます。
ただ一方で、人が生まれて成長し、ピークを迎え、やがて衰えていくのと同じ様に、
ある種の表現方法においては、こうした栄枯盛衰が必ず付きまとうのでは無いでしょうか?
若者と老人に人間としての優劣は無くても、若者の方が魅力的に見えるのも多数意見なはずで、
文化にしても、衰退期よりは勃興期の方が魅力的に映りやすいモノだとは思うんです。
そして、新たな魅力を欲する場合は、新たな若い人材を求めるが如く、
新たな文化を育むしか無い気がするのですが・・・それが現状だと大変難しい(泣)。
やはり経済が苦しいと、社会的な活気ってどうしても失われがちですし、
少子高齢化の社会になると、シルバー民主主義だけでなく、
「シルバー文化主義」に陥りやすいように感じるんですよね。
「ドラゴンボール」や「スラムダンク」の連載が終了して25年、
「ガンダム」に至っては、放送から既に40年が経っているのに、
いつまで、「みんな知ってて当然」的なネタの扱いで行くのでしょう?
確かに団塊ジュニア層は分厚いですけど、リメイク作品や大作続編ばかりではねえ・・・・
そういう意味では、今回の「鬼滅の刃」の大ブームは、嬉しい驚きではありました!!

って、こうやって考えると、テレビの力がそれだけ大きかったのかな?
例えば今の お笑い第7世代って、先輩芸人が当然のようにガンダムやドラゴンボールで喩えても、
「いや、よく解んねぇッス」と、素直に言えちゃうらしいんですよね(笑)。
彼らより前の世代は、とりあえず先輩の話に合わせて相槌を打っていたのに。
それを思うと、現在、テレビ番組で幅を利かせている40〜50代の芸人たちって、
上下関係がバリバリに残ってた第3世代や、その移行期だった第4世代たちなので、
http://www.takomusuko.com/owarai-generation.htm
無意識の内に「解るよな」と押し付け、後輩たちに愛想笑いをさせてるのかも?
そして、それはテレビ画面を通して、後輩世代の視聴者たちにも同じ事をさせていると。
(旬の若手芸人は、若者ファンにとって、10歳くらい年齢差がある お兄さん的な感じを想定)

また、これは少し見落とされがちな事かも知れませんが、
現在30歳前後くらいの世代から、「テレビなんて見ないよ」という層が急増し、
その理由は「ネットがあるから」とか「番組がツマらないから」だと思われますけど、
これを当の本人たちは、「自分たちの選択」と感じているかも知れません。
ですけど実際には、ネットが普及し始める少し前あたりから、
少子化と不景気の影響により、テレビ局側が子供向け番組を次々に潰していったんですよね。
どんなに子供たちがテレビを見た所で、直接的な購買効果は得られませんから、
朝の教養番組も、夕方のアニメ再放送も、ゴールデン帯のアニメやコント番組も姿を消して、
(コント番組で子供ウケするアニメ・ネタをやり、そのアニメが注目される相乗効果もありました)
朝や夕方は情報番組の長時間化、お笑いはトーク系で、アニメは深夜や独立局に移行されたと。
目先の収益を考えれば最善策だったかも知れませんけど、子供の視聴を切り捨てた構成は、
将来の購買層となるテレビっ子たちを、育児放棄しするような格好となりました。
一番酷かったのは、恐らく2010年頃かも知れませんねぇ・・・・
あまりに経費削減し過ぎて、その日の最高視聴率番組が、水戸黄門の再放送とかありましたし(苦笑)。

で、このように、自らテレビ離れしたと言うか、テレビ離れさせられた世代は、
人口の割に、自分たち向けの番組が作られないまま進み、
それがマンガだけでなく、テレビにおいても、共通の話題を失わせた面はありそうです。
そして、そうなると結局、自分たちの世代の若手芸人たちは主導権を握れず、
テレビ全盛期に地盤を固めた第2〜3世代主導の番組ばかりを、見させられる構図になった気がします。
言い方を換えると、現在20〜30代の世代が、テレビからネットへの移行世代だとすると、
現在10代の若者層は、完全にネットへと移行しきった世代なのかも知れませんね。
だからこそ、初めからテレビが眼中に無く、YouTubeで芸人を見て、ネット配信でアニメを見て、
そうした流れが確立し、以前まであった世代内での「共通体験」を復活しつつあり、
もしかしたら、その象徴として現れたのが、YouTuber人気であり、鬼滅ブームだったりしたのかも!?

ちなみに第7世代からすると、予算と時間をかけて作られた昔の大型コント番組というのは、
古くさい形式ではなく、素直に憧れとして見ている面もあるらしいですね。
ネット番組で自由に発信できる時代になったとは言え、やはり予算も時間も限られますし、
そうなって来ると、やはりバブル期の80〜90年代には敵わないと・・・・
例えば、映像なんて見えないラジオの特番で、西武球場を貸し切りにし、
バック・スクリーンの大型ビジョンで、ファミコン野球対決なんて企画は、
カネが有り余ってた当時でもなければ、実現不可能な事だったでしょう(笑)。
ただ最近は、テレビ局がカネを掛けられないままな一方、
ネットの有料配信も増えてきた事で、そちらで大型番組の制作も増えてきたかな?
とは言え、まだまだ海外ドラマ以外は、カネはあるけど質の方は・・・という感じらしく、
ここから次第に成熟していくのか? はたまた有料固定客だけでは難しいのか?
今後どうなっていくかは、それこそ見モノになっていくかも知れませんね。
それこそ、技術やノウハウを持つテレビ側との融合が進めば、可能性は充分ありそうですし。

でもまあ、電波配信かネット配信かの違いで、番組を見る行為に大きな変化はない事を思うと、
(テレビでネット配信を見ている私なんて、特にその傾向が顕著ですね・笑)
デジタル技術が脳直結型に移行するくらいまで行かないと、大きな変革は無理かな?とも。
逆に、そういう意味では、そちら方面は今こそ「黎明期」なのかも知れませんけどね(笑)。
AIにせよ、VRにせよ、目に見えつつあるものの、まだ定着まではしてない時期ですし、
アニメやゲームは勿論の事、そもそもはスポーツ観戦や読書にしても、
それ自体を楽しむだけでなく、コミュニケーション・ツールとしての利用も以前からあった訳で、
脳直結型なら、そうしたツールとしての消費を伴わないコミュニケーションの在り方も現れるかも知れず、
コミュニケーションの満足感さえ得られれば良いなら、人もいらずAIで十分になるかも知れません。
それをどう感じるかは個々人次第であり、それはそれで新しい文化には違いないでしょうから。

> で、最後に我々にできることとしたら、
> もう後は自分の好きなもや面白いものを発信していくしかないんでしょうね。

それはそうですよ。
と言いますか、それしか無い気がします!!
ただし、現在のネット社会って、本当に「自分の好きなもや面白いもの」を、
追求していけるような環境になっているんですかねえ?
多くの作品が投稿され、多くの人が評価を寄せ、それが時にお金になるから、
どうしても人は弱い為、目立つモノ・受けるモノ・儲かるモノへと流されがちで、
ネットで繋がるからこそ、他者の存在が常に気になり、自己表現の妨げになる面も大きいのでは?

> 雑誌は死にましたが、ネットのおかげで我々は自分たちで情報を発信することができるようになりましたし、
> そうやってピラミッドの上位の側に廻るしか、文化消費者にならずに生きていく方法はないと。

これも以前の繰り返しになってしまうのですが、要するに社会において、
中間層が喪失し、一握りの上位と、大多数の下位しか存在しない「2極構造」となっても、
旧トルコ担当さん的には、それはそれで構わないという結論なのでしょうか?


▼ SNSについて
> あとやはり2010年代の文化を語る上では、SNSというのは外せないと思うんですよね。
と言いますか、ことネット文化に関して言うと、10年代は「SNSの時代」ですよね。
それ以外にめぼしいモノが無かったとも言えますし、
よりネットが一般化した象徴のような存在かと思います。
逆に言えば、だからこそ昔ながらのネットの面白味は失われたと(苦笑)。

> もちろん、SNSにはもちろんいいね!を稼ぐために必死になっている人もいますし、
> 自分の気に入らない連中を攻撃してストレスを発散しようとしている人もいます。
> ただ、だからと言ってSNSが文化として全く無価値であったというのも言い過ぎだと思うんですよね。
> 特に管理人さんが失われたと感じている趣味人の空気感については、
> もし残っているとすればSNSにしか無いと思うんですよ。

う〜ん、ぶっちゃけて言うと、アナログ的な限定された繋がりという面であれば、
特定の人同士でしか繋がらない使い方でのSNS利用で、代替が確かに可能なのかも知れませんけど、
私が真に求めてるのって、そうしたアナログな繋がりが、デジタルでオープンに繋がった所なので、
一般化して変化してしまった今のネットでは、その代替など難しいと思いますし、
そして何より、そんな今の象徴であるSNSだと、方向性が正反対だと思うんですよね・・・・

> 2ちゃんが廃れて、Twitterみたいな半匿名SNSが隆盛するようになったのも、
> 結局は面白い話をできるの人にとっては、2ちゃんみたいな玉石混合の場所に行くよりも、
> アカウント名(2ちゃんならコテハン)があって、誰が面白くて誰が面白くないのかがわかる場所に行ったほうが、
> 質の高い会話ができるからだと思うんですよ。
> だからこそそういった面白い上位層を吸い取られた2ちゃんはどんどん廃れていってしまうわけですが。

う〜ん、私の認識とは だいぶ違うかなぁ?
もともと玉石混淆だった所に、石ばかりが増えて、玉の比率が下がり、廃れてしまったのが2ch。
そもそも石ばかりで構成されていて、石の投げ合いを楽しむ事で発展したのがTwitter。
そういう認識ですね、少なくとも私の方は。
(もちろん、影響力ある人の情報発信ツールとしてなど、Twitterに有効な側面があるは確か)

> 管理人さんも、アカウント作れば昔の歴史ゲーム(信長の野望とか)の話とか、
> サッカーの話とかできるようになると思いますよ。
> ピンポイントでその話題が話せるかはわかりませんが、
> 自分が話したい話題を10個くらい持っておけばそのうち1つか2つくらいは話せるのではないでしょうか?

まあ正直言うと、私は別に話したい(発信者でありたい)人間ではなく、
読みたい(観客でいたい)人間ではあるんですけどね(笑)。
なので、自ら積極的に発信していき、それによって人を集める方法であれば、
ひょっとしたら、上手く回る可能性もあるのかも知れませんけど、
正直な所、そういうのは苦手なタイプなので、そこまで頑張りたくは無いと(苦笑)。

あと、一応言っておきますけど、LINEも、Twitterも、Facebookも、
とりあえずアカウントは持ってますし、多少なりとも使った経験はあります。
特にTwitterは、まだケータイ非対応だった開設当初より知ってますし、
最初の印象は「ネット上の拡声器」であり、その傾向は利用者が増えるほど酷くなったかな?
その上で、やはりSNSは話し合いに不向きな印象が残りましたし、
(例えば こうした掲示板での長文やり取りって、SNSに向いていると思われます?)
私の検索能力が低いのかも知れませんが、確かに歴史ゲームやサッカーの話題は見つかっても、
私が求めるのはレベルの内容には、正直、出会えた経験がありません・・・・
肯定の為の肯定とか、否定の為の否定とか、反応が多くても私は興味ありませんし、
別にそんな高いモノでは無く、以前のネットで見られたレベルで十分なのですがね。
まあ、全く居ないなんて事は無いはずなので、必死に探せば巡り会えるのかも知れませんが、
そこまで労力を要するようだと、実際にそのレベルでSNSを利用している人がどれだけ居るのか?

2019年出版の角川新書「ネットは社会を分断しない」によると、
「ネットで実りのある議論をするのは難しいと思うか?」という調査では、
「はい47% いいえ7% どちらでもない33% わからない13%」という結果が出ており、
パソコン通信やBBS掲示板の頃とは違って、SNS時代の現代のネットでは、
既に、ネットで議論は困難と思われており、もう離れてる人も多いと思うんですよね。
確かに、TogetterのTwitterまとめとかで、興味深い話題を見掛ける事はありますけど、
それに立ち会える機会なんて、恐らく凄く限られているのでしょうし、
まとめに載らないけど、熱くて深い議論が交わされてるケースって、多くあるのでしょうか?

それに「誰が面白い」とか、そういうのを求めてるんじゃなくて、
「面白い話」自体を求めているので、それがいつもの誰かか関係ないんです。
逆に言えば、サロンやギルドのような閉じた関係内の交流よりも、
もっとオープンな交流こそが望みですし、以前のネットには確かにそれがあったんです!!
また、特定の誰かの情報発信を見たいのであれば、ブログとかの方が内容が濃そうですし、
名のある相手であれば、その人の著作なり論文なり読んだ方が、ずっと良く伝わるんですよね。
繰り返しになりますけど、別に交流を求めている訳ではなく、考えを知りたいだけなので。
とは言え、本当にガチでセーブ無しに話し合える環境があるなら、正直かなり憧れますし、
理想を言うなら、私じゃ話を挟めないレベルで、鼎談とか行われてるのを見ていたいです(笑)。

> > ここで私が言っている「雑音」の意味が、まるで理解されてない気も・・・・
> > パッと見聞きした限りでは、不快だったり意味不明だったりするノイズ的な意見の中にも、
> > 耳を澄まして聞いてみれば、時に思わぬ有益な情報を得られるモノを「雑音」と例えた訳ですが。
> > 今の時代、自分の嗜好に沿った世間的なオススメに、
> > 簡単に辿り着けるなんて事は、それこそ百も承知な訳ですよ。
> > その上で、自分と異なる嗜好であったり、オススメや世間的で無いモノを、
> > 「効率良く」知る手段というのが、そうした従来のリアルな媒体以外に、
> > 例えばネット上の何処かで、新たに誕生していたりするのでしょうか?

> 一方で、SNSでは雑音が除去されていくのも事実だと思います。
> 前回の文章の書き方がよくなかったのですが、SNSで雑音は十分と言っているのではないんですよ。
> ただ相対的な時間不足の中で、そういった雑音が意図して排除されているという側面もあると思うんですよね。

自分と似通った意見に囲まれて、無自覚なまま自己肯定感を「エコー・チェンバー」や、
自分が見たい情報ばかりを提示され、自らの視野が狭くなる「フィルター・バブル」に、
周囲が似たもの同士ばかりになって、思考が極端化していく「サイバー・カスケード」など、
そういう空間は快適だし、そのままでも構わないのであれば、もう何も言えないですけどね。

ただ、自分で選んでるつもりでも、実はAIに選ばされていたり、
AIが判定したタイプの型に、知らず知らずの内にハメられていくなど、
自覚できてないと、本当に良いように誘導されちゃう時代になって来ていると・・・・
これが一個人の趣味だけの話に留まるなら、別にそこまで問題は無いのかも知れませんが、
しかし実際、こうした姿勢がそれだけに留まる事は少なく、将来的には社会の害悪にも為りかねません。
旧トルコ担当さん自身も、トランプ現象との関連性を述べられてましたけど、
そちらもOKという認識なのでしょうか?
こうした価値観や思考法って、趣味だけとか、政治だけと、限定できるモノでは無いので。

> > 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> > ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。
> > この辺りもまた、前回した話の主旨の1つですね。
> > それしか知らない世代からと、違和感など全く無いのでしょうけど、
> > そう移り変わった世代からすれば、多くが失われたと感じるでしょうし、
> > そんな事は、常に変化する時代の中で、いつも行われてきた事であるとは言え、
> > デジタル化やグローバル化がもたらした変化量は、他の時代の比では無いと。

> うーん、ではデジタル化以前の人々は文化の消費ではなく、具体的に何をしていたのでしょうか?
> 私にはデジタル化以前も以降も半分以上の人は文化の消費しかしていない、
> というのはあまり変わりがないと思うんですよね。

上記の話を踏まえた上で、そうおっしゃるのであれば、
私としても「変わらない」と答えますね。
そもそも人間なんて、メシ食って、寝るだけの存在ですので。
それは原始人だった頃から変わりません。
ただし、食べ物や食べ方は時代と共に変わる。
そういった話です。


▼ 時間感覚の変化
> > え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> > じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。
> > 正直、情報が有ろうが無かろうが、大昔だろうが現在だろうが、
> > 1日が24時間なのは全く変わってませんし、時間は貴重なんて事は数千年前から言われ続けてます。
> > もっと言っちゃえば、昔の方が平均寿命が短いので、今より時間が貴重です(笑)。
> > ともかく、やるべき事、したい事が多い人ほど、時間をフル活用するモノですからね。

> いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
> ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
> 私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかがやたらもったいなく感じるようになりました。

そう、そこなんですよ、私が言いたいのは。
重視されてるのは「時間」そのものではなく、時間に伴う「感覚」の方な気がするんです。
要するに、本当に「時間が貴重」と思えるほど、現代人が忙しくなったというよりは、
時間が貴重というコンセプトにより、「心理的な余裕」が奪われてるのが真相なのでは?
そして、心の余裕と交換に、我々が何を得たかというと、それは「便利さ」なのでしょうが、
ですけど便利さ自体が、心の余裕を奪ってる訳では無いと思いますし、
それを奪うのは、便利さに抱き合わされた「商業主義」の方だと思うんです。
で、その商業主義を覆い隠す為に用いられるコンセプトこそが、「時間が貴重」では無いかと。

> あまり詳しくはないのですが、最近の音楽はサビから始まるなんていうのも、
> サビが始まるまでとりあえず聞いてみようという人が減ってきたからだと思いますし、

「最近の音楽」と言いますか、その歴史は音楽界でも何度も繰り返されてる感じですね(笑)。
まあこれは音楽に限らず、顧客の数が増える「大衆化」を迎え、
ツカミやインパクト、解り易さなどを重視する「陳腐化」が起こり、
そして飽きられて沈んでいき、また時間が経って盛り上がり始めるサイクルを辿ると。
ですから、サビから始まる曲自体、カラオケ・ブームによりCDが馬鹿売れした90年代にも、
カラオケでの盛り上がりを重視して、やはり同じ様な傾向は見受けられましたし、
もっと言うと、縁遠いと高尚と思われがちなクラシック音楽の世界でさえ同様で、
実はベートーベンというのは、そうやって大衆人気を得た人なんですよね!!
「ジャジャジャジャーン」で始まる交響曲第5番「運命」など、ツカミ狙いの典型例です(笑)。

> 特に最近私が感じたのは、SNSをやっている時と、
> 本を読んでいる時で時間の流れ方(正確にはその感じ方)が全然違うということですね。
> 本読んでるときは「俺って時間セレブだよなー」みたいな感じです。
> なんというか、金がたいしてあるわけでもないのにお高い店でランチを食べているような、
> 読書にはそんなリッチさを感じるようになりました。

はい、解りますよ、その感覚は(笑)。
でもそれって、今までは普通だった事が、今では特別な事になってる訳で、
客観的に見た場合、果たして良い方向に進んでいると言えるのでしょうか?
例えば、経済発展重視で環境が軽視され、空は煙に覆われ、川は排水溝に化したとして、
そうした社会の中で、雨の晴れ間に見えた青空や、ドブの隙間に見えた魚の姿などに、
思わず感動してしまう構図と似たモノだと思うんですよね。
もちろん、そこから社会が改善されていく時も、同じように感じるのでしょうが、
環境が破壊された時と比べるか? 環境が破壊される前と比べるか?
で、その評価は、まるで異なるモノとなるはずです。
言ってしまえば、環境改善で北京市民が抱く感動を、私は別に羨ましいとは思わないと。

> > 固定電話で長話するのも、コンビニにたむろするのも、ファミレスやカラオケで徹夜するのも、
> > 時代に応じてツールが変わるだけで、今のLINEと大した違いは無いと思うんですよ。
> > 何というか、効率化を正当化する為の言い訳として、時間は貴重と言っている気がしています。
> > 「まったりしたい」とか、「あれこれ考えたくない」とか、素直にそれで良い気がするんですけどね。

> あとLINEとファミレスでたむろすることの最大の違いは、接触できる人数の規模がケタ違いに変わったことだと思いますよ。
> LINEを開けば常にどこかのグループが会話していて、という状況はスマホ以前にはありえなかったでしょうし。

う〜ん、ここで私が言ったLINEとは、リアルの延長線上での使用を念頭に置いていたのですが、
不特定多数によるSNS使用という意味で捉えられると、ちょっと意味合いが変わっちゃうかな?

でもまあ、それは措いておくとして、「接触できる人数の規模」という方面で言うと、
一昔前までは、確かにネットなんてありませんでしたけども、
それを担うプラットフォームとして、ラジオやテレビの「深夜放送」が大きな存在でした。
もちろん、視聴者間で相互になんていうのは、イベントでもない限り無理でしたけど、
番組司会者を「依り代」として視聴者同士が繋がり、そこを介して言葉を交わせる様子は、
今風に言うと、無料公開された超巨大なオンライン・サロンみたいなモノかも知れませんね。
そして、深夜放送とは言えテレビやラジオですから、繋がってる人数もネットの比ではありません。

今の時代だと想像し難いかも知れませんが、特に深夜ラジオの場合、
DJ(司会者)とリスナー(聴取者)の関係性は、教祖と信者に近いモノがありました。
あの「繋がってる」感覚は、人気YouTuberの生配信よりも、遥かに強かったでしょうね。
ネットが普及する以前、60年代後半から00年代前半にかけて、
大人たちが寝静まった時間に、メディアをジャックする深夜ラジオの興奮感と連帯感は、
特に当時の男子高校・大学生に対して、カルト的な存在であったかと思います。
陳腐な表現になるかも知れませんけど、まさに「深夜の解放区」って感じですよね。

ただ、それもネットの普及と共に、深夜のネット・サーフィンに移行したり、
(まだネット利用料が高かった時代、深夜の定額制が広まったのも大きな要因でした)
深夜ラジオでした話題がネットに転載され、炎上を繰り返し、ドンドン規制が強まった結果、
人気のある歌手・俳優・アイドルや、名の知れた中堅・ベテランの芸人など、
既に固定客を掴んでる人たちが、差し障りのない雑談をするようになった今では、
番組枠としては残っていても、往時の雰囲気はちょっと想像できないかも知れませんね。

> 有限な時間の中で、家を出てファミレスでたむろするのと、
> 同じく有限な時間の中で家で寝っ転がりながらLINEをしたり、
> それこそ無限の動画があるYouTubeを観ているのでは時間への感覚の違いというのも当然かと。
> だからこそ選択と集中で貴重な時間を一番重要なものに一点投資すると。

平成の30年間が「失われた時代」になってしまった一因として、
近年、特に言われるようになったのが、まさしく、
その誤って用いられた「選択と集中」という概念だと言われていますけどね(苦笑)。
もちろん選択と集中は1つの有効な手段でも、それには豊富な選択肢の存在が大前提であり、
単に目先の利益だけを追って選択と集中をすると、先細ってくばかりであると・・・・

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