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[23807] Re:オタクの教養と古典の素養(その1)返信 削除
2022/1/15 (土) 15:24:14 旧トルコ担当


▼ デジタルな恋人・娘・ペットの可能性

> > 近未来の人類は、AI娘を喜ばせるために働いたり、色んな場所に行ったり、
> > 何らかの作業をして、その過程で人生の喜びを得るんじゃないんですかね。

> 「AI娘を喜ばせるために働く」って、なに、そのディストピア!?(苦笑)
> 人類補完計画ならぬ、人類経済奴隷計画みたいな話じゃないですか???
> まあ近未来どころか、一部の人たちは既に、例えばソシャゲ廃人の課金地獄のように、
> 良いように、新自由主義経済のカモにされてる人たちが実在しますけど、
> それを人類規模にまで広げるだなんて、相当悪い冗談にしか聞こえませんけどねえ・・・・
>
> それこそ以前、こうした返信↓を書きましたけど、
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r23740
> > > となると、こんな自己正当化の御題目に過ぎ無そうなモノを、わざわざ大学で教わり、
> > > それをそのまま信じてしまってる訳で・・・って、推測に推測を重ね過ぎだな(苦笑)。
> > > もしそうなら、何だかヤバい感じがして、少し心配になっちゃったんですけど、

> これは何も、「大学の教授に影響されている」と言いたかった訳ではなく、
> 現在の新自由主義の経済システムにおいて、そうした御題目を信じて働いてくれるなど、
> 「使い捨てに都合の良い人材」として、最適に育ちつつあるという危機感ですね。
> 今回、ちょっと厳しめに意見したのは、「もう少し冷静に考えてみて下さい」と言いたかったと。
> 別にオタ話であれこれトラぶっても、別に大した実害なんて出ないですけど、
> こちらに関しては、下手をすると人生を左右しかねない危険性を孕んでる気がするので。
> ・・・って、でもまあ、結果が出るのはずっと先の話であり、単なる取り越し苦労かも知れず、
> 出世次第では、使い捨てられる立場から、使い捨てる立場になれてる可能性もありますし(笑)。


いえ、私はAIに支配される近未来社会を肯定しているつもりも、支持しているつもりもないです。
ただ、こうなって欲しいとか、こうならないで欲しい、ということを抜きにして考えると、AIは恋人より娘といった関係に落ち着くのではないか、ということです。

この辺も、私が抽象←→具体で、私が抽象寄りの人間なので、「AIは恋人より娘になる」といった抽象的な表現をしてしまうので混乱の元となってしまっているのですが、
「AIは恋人より娘になる」ということは、AIは人々に共感される存在になるのではないか、ということが言いたかったことです。

それがどれだけ普及するのかは私は分かりませんし、娘AIに入れ込むような人は少数派なのかもしれませんが、可能性としてはあり得ないことではないと思うんですよね。

> > それは人間の遺伝子本能的にも、一定以上の年齢を過ぎれば、
> > 自身の子供を作れ、という命令から、自身の子供を守り育てろ、に変わるわけで。

> いや〜、それは本能や遺伝子とかいうレベルの話ではなく、
> 育った社会の道徳や規範に依るモノなんじゃないですかねえ?
> 例えば、江戸時代の日本においては、家の存続が何よりも最優先事項であり、
> その為にも、自分よりも子供を守る考え方が一般化しましたけど、
> お隣の中国では、1人っ子政策以降の現代中国はまだしも、
> それ以前の儒教的な社会においては、親あっての子供であり、
> だからこそ、劉邦や劉備が逃げる為に子供を捨てるエピソードがある訳です。
>
> また、赤ん坊を守ろうとする母親とかは別として、
> 他の動物で、群れを守る以上の感じで、実子を特別に守る行動が見られるかとなると、
> 少なくとも私は知らないですし、そんな遺伝子が見つかったという話も聞かないので、
> そう断言される根拠が、何かあるのでしたら、是非とも伺い所ではありますね。


本能・遺伝子至上主義論のようなものを唱えているわけではないですよ。
ですが、子どもをかわいく感じる程度には人間の本能は我々に影響を与えているわけであって、AI娘をかわいく感じるのは本能的に当然ではないか、というだけのことです。

> > 高齢化社会だからこそ、AIは娘だと思うんですよね。
> 正直、リアルな娘を守るが如く、AIの娘を守ると思います?
> また、バーチャルな存在であろうAIの娘を「守る」というのは、
> 具体的に、どのような行動を指すのでしょうか?
>
> ぶっちゃけた話、AIの娘なんて言うのは、
> デジタルなプログラムであり、データですよねえ。
> そんなモノを守る事を、リアルの自分を守る事に優先させるんですか?
> それにそもそも、プログラムやデータを襲う、それほどに真剣な危険って何?
> 「子育てクイズ マイエンジェル」を、更に進化させるのは面白そうですが、
> でもそれも、結局はゲームに過ぎませんし、どれだけハマり込めるモノなのか・・・・
> いや勿論、1つのゲームのテーマとしては、凄く面白い要素ではあるでしょうけど、
> ダビスタで競走馬を育てるのと、馬主や調教師がリアルに育てるのは、まるで別でしょうし、
> 逆に言えば、だからこそ世界中の金持ちは、馬主や球団オーナーになりたがると!


> > ひろゆきが昔、金も、社会的地位も、家族も持たない無敵の人が増えて、犯罪が増えるから、
> > 政府は彼らにペットを配れ、みたいなことを言っていたと思うんですが、

> ほ〜、その意見は初耳ですが、なかなか理に適ってると思いますよ。
>
> それこそ最近、無敵の人による、社会を巻き込んだ事件が増えてますが、
> これらの事件に対して、「1人で勝手に死ね」とか、「他人を巻き込むな」など、
> 厳しい意見が反乱するのは、気持ちは解るものの、あまり良い風潮ではなく、
> そういった不寛容で無理解な意見こそが、こうした事件を増やす遠因にありますからねえ。
> しかも、こうして厳しい意見を述べる人たちこそ、自らの状況が悪化した場合、
> そうした事件を起こしかねない予備軍である事を、本人たちは全く自覚できてないはずで、
> 無敵の人による事件というのは、減る所か、今後ますます増えていく一方だと思います。
>
> 逆に言えば、そうした事件の発生を減らそうと思うのであれば、
> 端的に言うと、「無敵」状態を抑え込む、何らかの「縛り」を用意すべきであり、
> この場合、アメとムチや、北風と太陽で言うなら、ムチや北風が効かない無敵状態ですから、
> 言い方は悪いかも知れませんけど、アメや太陽で縛り上げるしかないと。
> まあ具体的には、何も持っていないからこそ無敵である以上、
> まずは心理的なり、実利的なりの「依存物」を与え、それを失う恐怖を餌に縛るのが有効で、
> そう考えると、ペットを配るというのは、1つの方法としてはアリかと思いますよ。
> 「繋がり」と「しがらみ」は、物事の表裏に過ぎませんし。
> ただ実際、それを現実的に、政策として行おうとすると、いろいろ困難でしょうけどね。
> 可愛がりはしても、世話をしないタイプは相当数居るでしょうし、
> 野良猫や鳩などに餌をあげる人だけでも、これだけ問題になっているのに、
> それがもっと増えるとなれば、近隣住民は勿論、飼われるペット側も迷惑なので。
>
> > AI娘がいた方が社会が安定する、という考え方もあるんじゃないですかね。
> う〜ん、全く効果が無いとは言いませんけど、それでは縛りとしては弱いでしょうね。
> 「たまごっち」のようなバーチャル・ペットや、「AIBO」のようなロボット・ペットなど、
> 過去にも流行った事がありますし、それなりのブームを生んだ事は確かですが、
> あくまでブーム止まりであって、リアルなペットの代替には成り得なかったので・・・・
> (ただし、老人ホームなどで、ロボット・ペットが一定の癒し効果を与えてるのは事実)
>
> もちろん、中にはドップリとハマる人だって居るでしょうけど、そうした人は限定的であり、
> どのレベルの「AI娘」を想定されているかは解りませんが、育成ゲームの延長線上では、
> それで「社会が安定する」という感じには、とてもじゃないですけど、程遠い気がします。
> 言い換えるとすると、「ゲームが生き甲斐だ」という理由から、
> 犯罪や自殺を思い止まるような人、もしくは、それだけのゲームというモノが、
> 一体どれだけ存在するのか?という事でもありますよね。


リアルよりAI娘を優先させる、とも思っていないですし、具体的にどう「守る」というのも無いでしょう。
ひろゆきの話は、例として出したのであって、私自身がその意見に賛同しているわけではありません。

ですが育成ゲームの延長線上というのも、スケールが小さすぎないですかね?
ご存じかもしれませんが、aiのべりすと(https://ai-novel.com/index.php)というものがあり、もう文章の創作すらも、でも面白い文章が書けるかは別問題だよね、というレベルに来ています。

で、そうしたレベルに達したAIはもう道具やツールではなく、一つの仮想人格だと思うんですよね。
仮想人格だからこそ、それに奉仕することで快楽を得る人も出てくるでしょうし、AIが戦争を煽ることもあれば、AIが逆に戦争の和平を仲介することだってあるかも?

▼ BL・百合の背景

> > この考え方で、「なぜ現代のオタクの間で、BLや百合が流行るのか?」ということを考えると、
> > 「イケメンキャラや美少女キャラは、既に飽食の状態にあると。
> > もうイケメンや美少女にみんなお腹いっぱいで、食べ飽きている。
> > 美少女キャラが溢れているからこそ、自分は新しく出てきた萌えキャラにガチ恋できない。
> > 満たされているからこそ、幸せにはなれない。
> > そこで、他人の恋愛に共感することで、不足を自身の中に作り出しているのがBLや百合である。
> > ある女の子にガチ恋している女の子に共感することで、自分はガチ恋できない女の子に、疑似的にガチ恋でき、
> > そしてそれが満たされることで、自分も幸せになれる。
> > だからオタクの間で、BLや百合が流行る」と考えているのですが、

> う〜ん、こちらに関しても、半分正解で半分不足かな?
> 確かに、作品数などのコンテンツ面で言えば、飽和状態にあるのは事実でしょうけど、
> その一方で、平成前半の生まれを「さとり世代」などと呼ぶように、
> 満たされてるから満足してるのでは無く、満たされてないから満足点が低く設定されていて、
> 良く言えば手堅くて堅実、悪く言えば挑戦や冒険を避けがちな傾向がある為、
> 共感や投影というのは、実の所、積極的な前進ではなく、消極的な後退に感じるんですよね、私には。
> だって、人間の本質的な欲求なんて、そんな時代でコロコロ変わるモノでも無いでしょうし、
> 結果は同じであっても、自ら進んで選んだのと、環境的に選ばざるを得なかったのは別ですけど、
> しかし一方で人間は、自分の心理的負担を減らす為に、自ら選んだと思い込もうとしがちだと。


百合・BL論は例として語ったのであって、本気で唱えているわけではないです。
実際に百合・BLが広がった最大の要因は、異性に求めるハードルが高くなりすぎ、同時に中途半端な現実よりも完璧なファンタジーの方が良いという、価値観が拡大したからでしょうし。(岡田斗司夫風に言うなら、ドリーム・ファースト)
BLがコミケで拡大したのが80年代後半、BL雑誌の創刊ラッシュがあったのは90年以降、それ以降BL市場自体が拡大しているわけではない(『BL進化論』15年初版)ことから、少なくともBLはさとり世代以前の普及ですし。

あとは自己嫌悪と同性嫌悪から、異性にファンタジーを求める、というのも大きいでしょう。
個人的な偏見では、異性へのあこがれより同性への嫌悪の方が強いのがBL、同性嫌悪より異性へのあこがれが強いのが百合だと思っていますが、これはさすがに根拠に乏しいかな?
特に百合は女性ファンも一定数いますし。

「人間の本質的な欲求なんて、そんな時代でコロコロ変わるモノでも無い」という意味においては、
恋愛結婚が少数派だった時代には、手の届かない恋愛結婚があこがれとなり、ファンタジーとしてロマンチックに語られ、
そしてそれがいざ手に入る時代が来ると、自由恋愛の嫌な点が目に付くようになり、今度は同性愛が手の届かない恋愛結婚があこがれとなり、ファンタジーとしてロマンチックに語られるようになっている、ということでしょうか。

という風に、私には百合・BLはポスト大量消費社会の一つとして見えているんですが、管理人さんには退化に見えるのかぁ。
いやでも、さすがに百合やBLをさとり世代と関連付けるのは違うと思いますけどねえ。何でもかんでも経済的困窮が原因としてしまうのはさすがにどうなんでしょう?

ちなみに、私は詳しくないですが、異性との恋愛が何らかの要因でうまくいかなくなった時には、同性との恋愛がオッケーになっていくのは普遍的な法則なのでしょうか?
平安貴族も、平安後期には異性間の恋愛の事由がなくなり、男同士の恋愛ごっこに夢中になっていったようですし。

▼ 新自由主義の未来

そこまで深く考えているわけではないですが、結局新自由主義も、加速して、行くところまでいった末の崩壊が無いと終わらないんじゃないですかね?
プロレタリア独裁も、ファシズムもそうでしたし。
もしその予測が正しいのであれば、今は新自由主義がドンドン加速して行っている段階から、社会の矛盾が大きくなっていく段階の途中にあり、次には対立と悲劇的な結果、そして新自由主義の反省があるんでしょうね。
今大学生の私の場合、あと数十年間でその一連の流れがあり、人生100年時代なら50歳から70歳くらいで、新自由主義の消え去った次の時代を目撃できるのかな?
まあしっかりとデータ集めて、考えた論ではありませんが。

▼ オタクの教養と古典の素養
> > > > もちろん、私もオタク同士であればどの作品が一番好きか話せますが、
> > > > オタクっぽくても本質的にそうでない人に対してだとやっぱり恥ずかしいですね。
> > > > 世代ではないですが、「トップをねらえ!」を一回目見た時も、強烈に恥ずかしかったですし。

> > > あ〜、何だか解る気はしますねえ(笑)。
> > > こうなると、どの辺りのラインまで来れば、これが恥ずかしく感じなくなるのかも、
> > > ちょっと興味が湧いてきてしまいました(笑)。
> > > となると、90年代の「機動戦艦ナデシコ」とか、どうなんでしょ?
> > > 同じ90年代でも、「真ゲッターロボ」みたいな振り方の作品なら、大丈夫ですよねえ?
> > > って、そもそもナデシコや真ゲッターを視聴済みかどうかも、解らない所ではありますが。

> > 未見です。
> > 昔のアニメで見てるのって、ヤマト・ガンダム・エヴァ以外では、
> > 「未来少年コナン」「バビル2世」「銀河鉄道999(半分くらい)」くらいですかね。

> あ〜、90年代アニメは昔の作品かぁ・・・(笑)
> まあ単純に、旧トルコ担当さんの年齢的に、という面もあるのでしょうけど、
> 個人的には、深夜アニメが始まり、子供アニメが減った90年代中期を、
> アニメの歴史的に、1つの境界線として認識してましたが、
> 映像的には、デジタル作画に転換された00年代中期も、もう1つの境界線に当たるのかな?
>
> そして現在、世界的なアニメの波としては、2DCGから3DCGへという流れが確実にあり、
> もちろん、2Dならでは表現方法とかもあるのですが、
> その世界的な流れに乗れないようだと、TVゲームや携帯電話がそうなったように、
> 日本産のアニメというのも、一気にガラパゴス化して、
> そのまま縮小していく危険性も、かなりの確率で有り得そうですよね・・・・
>
> それこそ、以前話題に上った中国産アニメの方は、若者向け作品の方はまだまだでも、
> 「BabyBus」↓に代表されるように、幼児向けアニメの方では、既に太刀打ち出来ないと言うか、
> https://www.youtube.com/channel/UCwYFFFgr4wl5Oby8gBbAZzg
> 中国の方が世界戦略として、大きく成功を収めている感じがありますし、
> それを見て育った子供たちが若者となる頃には、一体どうなっている事やら???
> 日本アニメの世界的人気にしても、小遣い稼ぎに格安でバラ撒かれた子供向け作品が、
> 結果的に、大きな下地を築いたという実状もありましたからねえ。
> 海外での日本アニメ放送は、世界での日本的な価値観普及に一役買った面がありますが、
> 現在の中国アニメの場合、結果的にそうなったではなく、最初から意図してる感もありますし。
>
> まあ、それはさておき、となると、
> 前回も貼ったように、コチラで挙げた「私がハマった作品TOP30」も、
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s20466#20466
> 00年代前半までの作品が多いので、ほとんど未見な感じですかねえ?
> もしかしたら、「これは見た」や「これは知らない」という作品を挙げる方が、
> 未見の作品を挙げてもらううよりも、却って早かったりするのかなぁ・・・・


その中だと、見てるのはエヴァ・まどマギ・銀英伝・school daysくらいですね。

> > どの作品だから恥ずかしく感じる、というより、本気で好きな作品が恥ずかしいと感じますね。
> > 例えば萌えアニメは、客観的に見ればすごく恥ずかしいものですが、
> > 私は萌えアニメではそこまで恥ずかしくならなくて、
> > それはメッチャ萌えアニメが好き、というわけではないからなんですよね。
> > ですが、本当に好きな作品というのは、その本気の分だけ、やっぱり恥ずかしくなるので。
> > 作品そのものの性質より、個人的な思い入れの強さが影響しますね。

> え〜と、「好きを他人に語る」のが恥ずかしいという感情は、まだ解るのですが、
> 「トップをねらえ」に関して言うと、「見た時に強烈に恥ずかしかった」んですよねえ?
> 好きな作品だと、その分だけ本気になるとか、思い入れが強くなるのは解りますけど、
> そこから「恥ずかしい」となる経緯が、いまいち私にはピンと来ていないかも・・・・
>
> もう少し解りやすく書くと、「恥ずかしい」という感情って、
> 基本的には、他者の存在(目)があってこそ、
> 自らの言動などとのギャップから、生じるモノだと思うんですよ。
> 自分で自分が恥ずかしいと言うのも、主観的な自分と、客観的な自分とが居て、
> 客観的な自分を、他者の存在に代替させた場合に、生じるようなメカニズムでしょうし。
> そうあんると、この場合の旧トルコ担当さんの恥ずかしさとは、
> 「何に対して、どのような恥ずかしさ」なんですかねえ?


個人的には、トップを見て恥ずかしくなるのがオタクで、そうならないのが何だかんだでオタクの世界にも来てるけど、オタクの世界に住んでない人、だと思っているのですが、
「トップをねらえ!」っていうのは、オレ達オタクってこういう奴らだよな、っていう作品なんですよ。
宇宙怪獣が地球に攻めてきた、地球を守るためにロボットに乗って戦う。
その設定自体が子供っぽい。
別にガイナックスがそんな頭の悪い設定しか考えられないというわけではないんです。
現に、物語後半では、
「宇宙にも自然界の食物連鎖のような仕組みが存在して、それを知的生命体は壊してしまう。
だから、あの宇宙怪獣はそうした宇宙の仕組みを破壊する知的生命体をやっつける、白血球のような存在なのだ」
という頭の良い設定が出てきますし。
ではなぜ、あえて頭の悪い設定でアニメを作るのかといえば、結局オタクが根本的に幼稚だからなんですよね。
いい年こいて、ありもしない戦闘ロボットが好きで、地球をかけた戦いみたいなシチュエーションが好きで、なぜかロボットを操縦するのは美少女。
それを頭のいい設定でごまかすのではなく、徹底的にやる。
だってそれが好きなんだもん。
そりゃ、もっとベトナム戦争とかそういった社会の現実に目を向けろ、とか言って来るおじさんには、「ガンダムも戦争を描いていて、SFという仮定をすることで、戦争の本質だったりを描くことが〜」みたいな論理武装をするわけですが、
でもそれって、やっぱり嘘ですよ。
おたくが本当に好きなのは、もっと子供っぽい幼稚なもの。

そして、それを作者の告白にとどめるのではなく、
「お前らも分かるよな?だってオレ達おたくじゃん」と言ってくれるのが「トップをねらえ!」なんですよ。
なんていう本だったかな?日本アニメ史の本でトップをレビューしている記事に、「展開が唐突」という評価がったのですが、
違うんですよ。あれは総集編なんですよ。
「トップをねらえ!」というのは、本当は1960、70年代のアニメのような、一年間で放送する子ども向けのおもちゃ販促アニメで、
OVAの「トップをねらえ!」は、あの時代の劇場版総集編アニメ、という設定なんですよ。
もちろん、そんなことは一言も書いてない。
でも分かるだろ、オレ達オタクじゃん。あの、青春時代の60年代、70年代のアニメを見て、いまだにそれが忘れられないじゃん。
そんな俺たちなら、こういうアニメを作っても、展開が唐突なんて言わないよな。
一言も説明しなくても、総集編だってわかってくれるよなって。
そう言ってくるのが「トップをねらえ!」なんですよ。
ちなみに、この話は私の妄想というわけではなく、岡田斗司夫が言うには「1〜4話が総集編、5話・6話は特撮で作られた続編、だから6話は(あの時代の特撮なので)白黒になる」だそうです。

私は世代ではないので、60・70年代のアニメはほとんど見てないし、だからトップも見逃している部分がほとんどだと思うのですが、(アニメ夜話の岡田斗司夫曰く「トップは全カットに元ネタがある、トップにオリジナルなし」)
でも、その気持ちはよく分かる。
だって、私の好きな作品も全部全部子どもっぽいし、自分の一番好きな作品は、この掲示板にかけないくらい、子どもっぽくて恥ずかしいんですよ。
その「トップをねらえ!」という作品の本質は、30年以上の時を超えてもなお、私にちゃんと届いたんですよね。
だから、トップは他のあらゆる作品と、決定的に異なるんです。

しかし残念なことに、そんな素晴らしいオタクの時代は、89年の宮崎事件で終わりを告げてしまうわけです。
小さな世界で、オレ達こういう幼稚なアニメ好きだよねって、言っていられる時代は終わり、闘いの時代が始まったわけです。
エヴァンゲリオンはトップとは真逆を行く、「最高にクールで、知的な感じのする」アニメでした。
それは言ってしまえば、もうそういう、外に見せても恥ずかしくないアニメじゃないと駄目だった、そういうアニメでオタク文化を守らないと、未来がなかった時代だということだと思うんですよね。
だから、私はエヴァよりもトップの方が好きですね。

ということは、管理人さんも分かっていたのかな、と思っていたのですが、トップが恥ずかしいというのが分からないということは、そうではなかったのでしょうか?
やっぱりオタクじゃないというのは本当なのかな?

> ・・・って、こんな事が気になるのも、私からすると「オタク的行為」ですし、
> 私の定義からすると、自問自答して、自己分析する人種こそ、オタクな気はしています。
> 「この作品は、なぜ面白いのか?ツマらないのか?」から始まり、
> 「自分は面白いのに、ツマらないと言ってるヤツが居る」や
> 「自分はツマらないのに、面白いと言ってるヤツが居る」という分析を経て、
> 最終的には、観測者としての自分自身の傾向を見出す方向に進むイメージがあるので。
> 言い換えば、「好き」を突き詰めて行けば、自分が感じる「好き」とは何ぞや?に至ると。
> 好きで満足するのはファンでしょうし、好きをコレクションするだけではマニアなので。


好きを突き詰めるって、どんな感じなんでしょうねえ?
といいますか、基本的にほかのオタクの人とはコミュニケーションとっていないので、あまり濃さとか分からないんですよね。

> > > > > でしたら、私の古いイメージ像での「オタク定義」でも、
> > > > > 旧トルコ担当さんの場合、そこまでズレたりはしないのかも(笑)。

> > > > うーん、この辺はどうなんでしょうね。
> > > > 確かに、オタク史的に名作とされるアニメを見ることは価値もありますが、
> > > > やりすぎれば結局、流行りものを追っかけているJKと変わらないと思うんですよね。
> > > > いや、流行りものを追っかけること自体は別に好きにやればいいと思うのですが、
> > > > 周囲に流されて自分で判断しない姿勢というのは、オタクとは呼べないと思うんですよね。

> > > まあ私としても別に、「あれも、これも」と言っている訳ではなく、
> > > 例えばオタク文化に限らず、あらゆる分野においても、
> > > 「この世界に身を置くなら、最低限、これだけは押さえておけ」
> > > みたいなモノは、いくつか在ったりしますからねえ。
> > > ただ、これに関しても、全話隈無く押さえろと言うよりは、
> > > 総集編くらい見て、大体の基本情報とかは押さえておこう程度の感覚ですね。

> > 個人的には、現在のオタク文化って、
> > (1)萌え登場以降のオタク文化(95年以降)
> > (2)おおざっぱに昭和のオタク文化(75年以降)
> > (3)それ以前の昭和子供文化(手塚治虫など)や、アメリカ文化など
> > の3層構造でできていると思っているので、
> > 「この世界に身を置くなら、最低限、これだけは押さえておけ」的なものって、
> > 現在のオタクだと(1)がメインな気がするんですよね。

> まあ結局、この件に関しては、繰り返しになりますけど、
> お互いの「オタク」という言葉の定義の違いに帰着するんでしょうけどね。
> 私の場合、「おたく・オタク・ヲタ」や「ファン・マニア・オタク」などの単語を使い分けてますし、
> その「オタク文化の区分」も、双方が異なる年代(事象)で区切ってますので。
> 以下、以前の記述を、そのままコピペ↓
>
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s23406#23406
>   もちろん、それは私の中での、オタクという単語の定義の問題かも知れませんが。
>   私が言う所の「ヲタ文化」が、旧トルコ担当さんが言う所の「オタク文化」に相当するのかも?
>   いつも厳密に使い分けている訳では無いですけど、個人的な用語としては、
>   バブルが崩壊した辺り、90年代初頭までのアナログ一辺倒な時代を「おたく文化」、
>   台頭してきたデジタルと、アナログが同居していた過渡期の時代を「オタク文化」、
>   東日本大震災に前後する、10年代辺りからのデジタル優勢な時代を「ヲタ文化」としてますね。
>   (場合によって、おたく・オタク・ヲタのサブカル総称として「オタク」を用いる事もありますが)
>
> > 要は、ぶっちゃけガンダムは古いと。
> > といいますか、私もいろいろ勉強する前は、オタク=萌える人であり、
> > ガンダムファンがオタクだとは思っていませんでしたので。

> ぶっちゃけ、私からしても、ガンダムは古いですよ(笑)。
> 別に私も、リアルタイムで見てた世代じゃありませんからね。
> ですが、こと「教養」という観点から見るのであれば、
> その基準となるのは「古い・新しい」ではなく、「重要か否か」であるはずで、
> 日本のアニメ史やサブカル史として見た場合、ガンダムは決して欠かせない作品のはずです!!
>
> それこそ、前述の源氏物語を引き合いに出して言うとすれば、
> 教養として「日本文学」を語る際に、「古いから」なんて理由で源氏物語を欠いては、
> とても満足に、日本文学の知識が充分だとは言えませんよねえ?
> もちろん、源氏物語を全巻読破する事に越した事は無いでしょうけど、
> 仮に読破して無くても、源氏物語の粗筋や歴史的立ち位置を把握していれば、
> 日本文学に関して、それなりに語る事は可能かと思います。
> しかし、そういった基礎的認識まで欠けているとなると・・・・
> 例えば、これがファンであるとか、現代小説に限定するとかであれば、
> 村上春樹しか読まないとか、ラノベしか読まないとかでも、問題無いと思いますけど、
> それで、日本文学の素養が充分かとなれば、やはり別問題な感じがします。
>
> そういう意味では、年代ごとで3層に区分している所から、
> 私との定義の違いも、一見すると「おたく・オタク・ヲタ」の差異に該当しそうですが、
> 実際には「ファン・マニア・オタク」という差異の方こそ、該当しそうな気はしますね。
> 簡単に言ってしまえば、「そのレベルだとオタクじゃなくてファンだろ?」みたいな感じで。
> とは言え、これは狭義的な意味でのオタク定義であって、
> 近年では「≒サブカル」という、広義的な意味でのオタク定義が、世間的に広まっている事もあり、
> 一般的な話題として触れるのあれば、そこは広義的な意味合いでも気にしないのですが、
> 専門的な話題として扱う場合には、やはり狭義的な意味合いで用いたい思いは、少しあるかな?
> そうしないと、内容が表面を滑るだけで、深い所までなかなか進めないでしょうし。


「日本のアニメ史やサブカル史として見た場合、ガンダムは決して欠かせない作品のはずです!!」というのはもちろん賛同しますが、
日本アニメ史やサブカル史って現在の平均的なオタクの興味の対象なんですかね?
萌えアニメの歴史や教養であればオタクとして押さえておけよ、というのは理解できますが、日本アニメ史まで範囲を拡大するの?という感じです。

だからこそ、
> > (1)萌え登場以降のオタク文化(95年以降)
> > (2)おおざっぱに昭和のオタク文化(75年以降)
> > (3)それ以前の昭和子供文化(手塚治虫など)や、アメリカ文化など

と分類したわけであって、
普通の萌え系のオタクであれば、
(A)最新の流行 今季アニメやソシャゲ等
(B)常識的名作 けいおん!(07)、まどマギ(11)、ソードアート・オンライン(12)辺りのアニメ、東方等
(C)古典的教養 エヴァ、エロゲ、ハルヒ等
がジャンルとしての体系であり、
ガンダム等は(D)さらに過去の古典、くらいでしょうか。
大学の講義風に言えば、ABCは選択必修であり、全部とは言わずとも3つとも最低限何割くらいは見とかなきゃね、ABばかりでCがゼロじゃねえ、というのに対して、
Dは任意選択の科目であり、取っていればプラス査定だけど、必ずしも取っている必要はない感じでしょうか。
(ついでに書けば、(E)専攻科目くらいがラノベや、百合や、声優等々ですかね)

もちろん、オタクにも色々いますし、萌えアニメは全然見なくて、高畑アニメが一番好きです、というオタクであれば全然違ってくるのでしょうし、
萌え系アニメを今見ていても、90年代のオタク第二世代であれば、攻殻機動隊やAKIRAは必須だろ、とかなるのでしょうし、
はたまた声優やらのオタクであれば、また全然変わってくるのでしょうが、
今の萌え系の中心ということであればこの辺ではないでしょうか?

そういう意味では、私の思う萌え系のオタクは、管理人さんの言うアニメオタクとはある程度違うイメージ。
ガチのアニメオタクというと、私のイメージでは、宮崎キャラの走り方と高畑キャラの走り方の違いかを語っている、本当の意味でアニメーションが好きな人ですね。

この辺、管理人さんとしてはどう思われるのでしょうか?
管理人さんとしては、ABC押さえたうえで、いやガンダムも見ろよなのか、いやエロゲとかはそこまで重要ではないでしょ、ということなのか。
あと、ガンダムは必須として、手塚治虫とか、戦後アメリカのSFとかはどうなんでしょう?オタクならそこまで押さえとくべき?

> > そういう意味で、オタク的な教養はせいぜいエヴァまでな気はします。
> それって、何か明確な基準があっての、エヴァでの線引きなのでしょうか?
> もしも、旧トルコ担当さんの世代的にという話であれば、
> エヴァだって25年前の作品ですから、これだって充分に古いでしょうし、
> それこそ、旧トルコ担当さんよりも更に若い世代から見れば、
> 11年前に連載が始まった俺ガイルにしても、充分に古い作品でしょうからねえ。


今の作品=今アニメで放送されている作品、あるいは今後2期、3期が来そうな作品、というのが今のオタク的な感覚ではないでしょうか?
なので、俺ガイルはアニメ最新作が20年放送で、原作ラノベが現在も刊行されているから今の作品。
ソードアート・オンラインも映画が続編製作中で、原作も刊行中なので今の作品。
ポケモンも新作が作られ続ける限りは今の作品という扱いです。

> > > > ふと気になって調べてみたところ、
> > > > エヴァ放送時に20〜15歳だったエヴァ世代の男性は400万人、現在の20〜15歳は280万人。
> > > > そりゃ、エヴァの最終作が盛り上がるのも当然ですね。

> > > でも、単純に人口比の数字だけで言うのであれば、
> > > 今から20年後に劇場公開して、470万人(シン・エヴァの7割)を動員できる作品が、
> > > 2010年代アニメの中に、果たして在るのか?って事でもありますよね。

> > もちろん、世代動員率とでも名付けるべき値がエヴァは非常に高かったというのも承知しています。
> > ですが、世代動員率には世代の総人口が必ずかかっているわけであり、
> > 世代の総人口が減れば文化的な厚みは減って当然ですよね。

> いや〜、人口とは絶対的な値であり、動員率とは相対的な値なのですから、
> 絶対的な値の変動が、そのまま相対的な値の変動にリンクする事を、
> 「当然」であるとは、私はまるで同意できませんけどね・・・・
> 逆に言うと、なぜ「当然」と思われるのか、その理由を伺ってみたい所。
> これはもう、エヴァがどうとか関係無く、純粋に科学的な話として。


何でしょう、書き方が悪かったのでしょうか?
「絶対的な値の変動が、そのまま相対的な値の変動にリンクする」という趣旨ではなかったのですが。
例えば、アニメ人口100万人の90年代中期にアニメA、B、Cが放送されていたとして、
アニメAを80万人が見て、Bを10万人、Cを10万人が見ていた。
同じく現在、アニメa、b、cが放送されていたとして、
アニメ人口が50万人ならば、アニメaを20万人、bを15万人、cを15万人見ていたとすると、
各アニメの世代動員率(=人気集中率)がどうであれ、全体の母数の100万人、50万人というのは変わらない、ということを言いたかっただけです。

> > > > まあ、私の独断と偏見で言わせれば「オタクとは自分の好きなものを突き詰める人間」なのであって、
> > > > 何も昔の名作アニメを履修する必要性はないと思っているんですよね。

> > > う〜ん、単に「大好き」ってだけであれば、そこまでする必要性は無いでしょうけど、
> > > 「突き詰める」という部分まで加わってくると、外せない古典を押さえる必要は出てきそうですし、
> > > そうした義務感が無くても、「面白い作品があるなら、古くても気にしない」とか、
> > > 自らの好きを体系化していけば、どうしたって歴史(過去作)に至るのは必然だと思うんですよ。

> > あと、私が「昔の名作アニメを履修する」ことをやたら否定的にとらえているのも、
> > かなりオタク文化自体の高齢化を見させられているからなんですよね。

> う〜ん、これってそもそも、「履修」という言葉に対するイメージの違いがあるのかな?
> 取得を義務づけられた単位を収める行為というのは同じでも、
> 卒業資格を得る為に仕方無くか? 学問理解を深めるのに不可欠か?
> そのどちらの視点で捉えるかで、見え方は大きく異なってくるでしょうけど、
> 私の場合、単位は取り難くなるものの、自分の好奇心の赴くまま、
> 他学部や他学科の専門講義まで取ってたタイプなので(単位認定は一般教養扱い)、
> ここでも当然、後者の意味合いで使ってました(笑)。
>
> とは言え、一般的には、前者の意味合いであろうとは理解してますし、
> そちら視点で見た場合、「文化の高齢化」とかが どうこうよりも、
> ただ単に、「古い作品で知識マウント取ってくる古参オタ、うざっ!」というのが、
> その言葉の奥底にはあるんじゃないかな?という印象もあったり(笑)。
> まあ確かに、そうした輩の存在が、鬱陶しいのは私も解りますし、
> 逆に言うと、そんな次元で満足してるタイプには、こちらも興味が無いんですよね。
>
> ですが、マウントを取られたくないという思いから、義務感的に消化したりとか、
> 反対に、そういうのはウザいから、意地でも見ないとかなると、
> それはそれで、彼らと同じ土俵に乗るようなものですし、
> 自分が古参になった時には、却って同じ様な行動を取る可能性が高い気もすると。
> そして、対古参オタではなく、自分自身のオタ探求を突き詰めていくなら、
> 古い名作に手を出したり、歴史を学ぼうとする行為は、極めて一般的だとも思うんです。
>
> 言うなれば、卒業資格を得る為に、仕方無く履修するよりも、
> 自らの学びの為に、積極的に履修した方が、絶対に身にはなるでしょうし、
> 講義であれ、作品であれ、履修を求められるような対象であれば、
> 得ておいた方が望ましい知識であるのは、確かでしょうからねえ。
> なので私は、否定すべきはマウント系のオタの方であって、
> 履修自体を否定すべきじゃないような気はするんですよ。


私も履修自体を否定しているわけではありませんし、今絶賛ガンダムを見ているのですが、別に義務感で見ているわけでもないです。
ついでに言うと、知識マウント取ってくる古参オタクは岡田斗司夫だけですねw

> > 特にSNSで世代関係なく情報が流通するようになった結果、
> > 世代の人口差重力が非常に強く影響するようになったと思います。
> > 新エヴァだって、SNSで盛り上がってたから見に行ったという若年オタクは多いでしょうし、
> > それは結局オタク文化全体の高齢化にしかならないと思うんですよね。
> > もちろん、ある程度であれば旧作リバイバルも別に否定しないのですが。

> いや〜、それは穿ったモノの見方じゃないですかねえ?
> 確かに、今の若者世代よりも、団塊Jr.世代の方が、人口そのものは多いでしょうけど、
> SNSの利用率であったり、その発言頻度であったり、それがオタ的話題である割合などは、
> そうした人口の絶対数を覆すほど、実際には差があると思いますし、
> ネットの登場によって、年の離れた世代とも、話せる機会が増えた事は事実で、
> それにより、他世代から影響を受ける事が多くなったのも、また事実でしょうけど、
> それで全体の流れが操られるなんていうのは、さすがに言い過ぎな気がしますがねえ。
> 特にSNSは、ボーダレスな世界と言うよりも、フィルターバブルに包まれた世界なので。


もちろん理屈の上では、SNSの利用率等の影響もうけるということも分かっていますが、
実際の私の感覚からすると、そうした理屈とは別に、実際の動きとして、若い世代はそれなりに影響を受けている気がするんですよね。
もちろん、私がSNSで見ている世界が狭いということも理解していますが、
これに関しては、複数のSNSアカウントのタイムラインでそういった傾向がみられる、リアルの友人関係からもそうした傾向がみられるなど、ある程度自信のある分析(のつもり)です。
現在だと、うる星やつらのリメイク発表で盛り上がった感じかな。
まあ、単純に私が年上のオタクばかりフォローしているからだけ、という説もありますが。(この掲示板も含め)

▼ オタク的なリアルとファンタジー

> > > > 大学3人で同じところに行くんですかね?まだ中学生ならそれもアリかもしれないし、
> > > > 俺ガイルがよくあるオタク・ファンタジーならばそういう結論もアリかもしれませんが、
> > > > 俺ガイルって徹底的にリアルなんですよ。

> > > う〜ん、同じ大学に行くのも、ファンタジー扱いなんですかぁ・・・・
> > > まあ、地方であったり、学区制が厳しい県だったりすると、選択の幅が狭く、
> > > 同じ中学から、同じ高校に進む人数も、結構多かったりするのですが、
> > > しかし一方で都会の高校ですと、選択肢が多すぎて、結構バラけるんですよねえ。
> > > それに高校だと、似た様な学力の生徒が集まりますから、
> > > 特に進学校とかだと、同じ高校から数十人も同じ大学に行く事が珍しくない反面、
> > > 単に同じ地域の住民という集まりの公立中学では、なかなか高校が一緒にならない事も。
> > > また、地方から東京に上京する場合なら、「同じ大学に行く」だけでなく、
> > > 「一緒に東京に行く」というだけでも、繋がりは続きますからねえ。
> > > 同棲とか、ルーム・シェアとかまで行かずとも、互いに近所に住むだけで、
> > > 知り合いも居ない土地で暮らすなら、関係性がより深まっても おかしくないですし。

> > アニメとか、ラノベって社会規範に対してはかなり保守的ですし、
> > その中で、「高校の友達は卒業したら別れるのが普通」という社会規範を否定したのは、
> > かなり衝撃的だったと思うんですよね。

> う〜ん、「学校の友達は、卒業したら疎遠になりがち」という傾向は、当然あるでしょうけど、
> それが「社会規範(社会生活を営む上で遵守すべきルール)」だなんて考えている人は、
> まず存在しないと思いますけど・・・これは何か、用語の意味を間違えてるのかな?


> また、会う機会が減れば、疎遠になりがちという傾向は確かにあるにしても、
> 別に学校を卒業したって、友人関係や恋人関係が続くなんて事は、別に珍しくも無いでしょ!?
> まあ環境が変われば、関係性を維持する為に、今までと異なる「労力」を要する事も多いでしょうが、
> その労力に見合うだけの価値を見出せるなら、程度にもよりますけど、
> 関係性の継続は不可能じゃないでしょうし、そもそもルール違反なんて感覚は皆無です。


> 実際、結婚するカップルのうち、実に3割が、学生時代からの付き合いみたいですし、
> 地元大好きなマイルド・ヤンキーは、友人関係を維持したまま、家族単位で仲良くなるそうで、
> これらを「ファンタジー」と捉えてしまう感覚こそが、
> まさしく「オタク・ファンタジー」的な、モノの見え方なのかも知れませんよ(笑)。
> と言いますか、もっとハッキリ言うと、これはオタク的な見方と言うよりも、
> ただ単に、旧トルコ担当さん個人のリアル/ファンタジー感覚なのでは?


私の説明が不十分でしたが、と言いますか読んでない方に十分な説明をしなかったのが悪いのですが、
俺ガイルの3人(主人公と、ダブルヒロイン)って、建前として「私たちは部活だけの関係で、お互いそんな仲良くないよね」という体で人間関係やってるんですよね。
なので、この3人が部活動の範囲を超えて、個人的な友達として学校を出て遊びに行くときは、毎回毎回何らかの「だったらしょうがないよね」という理由を用意して遊びに行くんですよ。
大抵は、主人公の妹が空気を読んで、何らかの学校外で遊ぶ理由を用意してくれるのですが。(自分で文章にすると、改めてその異常性を確認させられますw)
ところが、高校の部活動が無くなれば、その3人がお互いに会うための建前もなくなってしまうわけで。
だから誰かが、この3人が一緒にいるための建前を作っていけなきゃダメなんです。
そうやって建前作らないと、お互いの本音をぶつけ合った時に、その回答が3人で異なった結果、この関係性が壊れてしまうかもしれない、というリスクがあり、それが恐ろしいわけです。
もちろん、マイルド・ヤンキー的な、学校卒業しても大学生暇だし、普通に遊びに行けばよくね?という価値観も知っていますが、
それはオタクでぼっちを気取って、リア充爆発しろと建前で言っている主人公にはできないし、
安易に「どっか遊びに行かない?」と誘った瞬間、それは「自分はあなたと友達になりたいです」と宣言しているに等しいわけで、それは今の関係を変えてしまいかねない。

そして、社会規範という表現が出てきたのは、この3人は一緒の大学に進学するの?ということに対してであり、
友達と一緒の大学に行きたいから、志望校を下げる、というのはかなりリアルな問題でしょう。

> > > > まあ世の中には1人の男性が3人の女性と夫婦になり、
> > > > 法律上では女性2人の方が養子になって4人で家族になるなんて言う人もいますから、

> > > こういうケースがあるのは知ってますけど、これをリアルだとは感じませんよ(笑)。
> > > 2股、3股なんて例ならまだしも、リアル・ハーレム婚は日本だと希少例すぎますから。
> > > とは言え、これが洗脳や調教を扱った話題であれば、その限りではありませんけどね。

> ちなみにこの例、後から少し気になったのですが、
> 洗脳や調教と言うよりも、宗教的な話だったんですかねえ?
> ハーレムを作っちゃう人は、リアルに存在するにしても、
> 養子縁組までして、キチンと法律的にも繋がろうとする例は希少でしょうし、
> そこまで行うとすれば、日本の法律では重婚が禁止されているものの、
> 教義的に、4人まで結婚OKのイスラム教徒とかであれば、現実味も増すのかな?と。
>
> とは言え、イスラム教の重婚許容という教義も、そもそもは戦争未亡人や遺児の救済目的ですし、
> 現代的な価値観とも合致し難く、経済的にも負担が大きい為、
> 今ではムスリム社会でも、余程の富豪か、途上地域でも無い限り、あまり見られない事なので、
> 単に日本在住のイスラム教徒というだけでは、そうそう無い話ではありますが。


宗教的、ということは無いですよ。
主人公は千葉県のオタクの高校生であり、文化祭やったり、修学旅行へ行ったりする、ごく普通の平和な話です。
ですけど、この3人の関係性の行きつく先という意味においては、監禁したり、とかそういう未来も多少はあり得たのかも?
監禁はあり得ないにしても、というかあり得るとしたら精神的な束縛ですかね。
口で明確に言葉にしないにしろ、何となくの雰囲気で相手を拘束する、といことは普通に現実でも恋愛とかでありますし(彼氏がショートの髪型好きだから、ショートにするみたいな)、
髪型程度なら大した問題でないものの、そうした雰囲気による精神的な支配は、行きつくところまで行きつけば、実質的な監禁にだってなり得る可能性はありますし。
ブラック企業で、辞めた元社員を現役社員同士で非難し合い、逃げられない雰囲気を社内に作る、なんていうのはある意味では監禁でしょう。

書いておきながら「これ伝わんねえわ」という気しかしない文章ですみません。
個人的には、管理人さんのマイルド・ヤンキーでは普通でしょ?という指摘から、また作品に対する考察が深まって勝手に楽しめました。

> > > > 俺ガイルも既に2シリーズほどシナリオ分岐(?)的なif展開を作者が書いてますね。
> > > 1つの物語として、作品を仕上げる感覚が強かった、一昔前までは、
> > > ifルートを公式で扱ってしまうのは、一種のタブー的な認識があったかと思いますけど、
> > > そういう意識が薄れてきたのって、描き手がゲーマー世代になったからなのか?
> > > はたまた、プロ作家の同人活動が珍しく無くなってきたからなのか?

> > それもありますが、そもそもifルートを書いて面白いラノベといもの自体が珍しいと思うんですよね。
> > ラノベとして商業出版する以上、ifルートも一定以上面白くないといけないわけで、それってなかなか難しいですし。

> う〜ん、ラノベの事は詳しくないので、その辺の事情はよく解りませんが、
> 面白いストーリーである程、ifストーリーの需要が高まるのが、一般的では無いですか?
> だからこそ、人気の歴史if小説みたいなモノが、これだけ量産されてる訳ですし、
> ストーリーの出来が良ければ良い程、「あの時、ああしていれば」「こうしていれば」と、
> 読者の方から、ジワジワと欲求みたいなモノが沸き上がるような気はします。


物語として、背後の流れみたいなものが出来上がっていれば、そういったifルートも作りやすいのかもしれませんが、
今の作品はキャラクターありきだからか、ifルート想定すること自体が難しい気がしますが。

> > > > 自分も、なんだかんだで岡田斗司夫の二番煎じしか言えてない、みたいな部分は自覚していますので。
> > > ちなみに、「教養としての10年代アニメ」は、
> > > 近畿大学での講義を、書籍化したモノらしいのですが、
> > > 四半世紀前、東京大学で岡田斗司夫が行った講義も、
> > > 「東大オタク学講座」として書籍化されてますけど、
> > > https://www.amazon.co.jp/dp/4062759381
> > > こちらに関しては、旧トルコ担当さん的に、どのような扱いなのでしょう?
> > > 大学での講義として、オタク文化を語っているから、同じ穴の狢?
> > > それとも、岡田斗司夫の講義であれば、また別格?

> > 「東大オタク学講座」はそんなに面白くなかった印象。
> > やはり、オタク人としての岡田斗司夫の最高傑作はYouTubeのジブリ解説と、ガンダム講座でしょう。

> YouTubeのジブリ解説やガンダム講座が出色の出来である事は、私も同意(笑)。
> 対象とする作品の放映時間よりも、長く話せて飽きさせないのは、
> もうそれだけで、話の内容が面白い証拠ですからねえ。


> でも、だからこそ逆説的に言えば、岡田斗司夫の話って、
> 「どこまで本当なんだか」という疑いを、頭の片隅に抱いて聞く感じなので、
> そのまま素直に受け売りとか、ちょっと難しいタイプの人ではありますよね。
> まあ この辺りは、オタキングとして一世を風靡した一方で、
> 様々な悪評やトラブルも、同じくリアルタイムで見聞きした世代の捉え方と、
> それを知らない世代の視聴者層とでは、やはり大きくイメージが違ってきそう。
> ひろゆきとか、ホリエモンとかも、似たような感じですけどね。


私は、評価経済論などは、何となく正しい気はするけど、実際のところよく分からない、けど面白い。
みたいな感覚なのですが、評価経済っていうのはどういうことなんでしょうか?
それこそ評価経済が正しい未来予測なのであれば、私も普通の会社で匿名の社員をやるより、今は不安定でもいいから、とにかく私自身の名前を認知してもらえるような仕事をした方が、良いということになりますし。
実際、評価経済社会って、今のインフルエンサー程度が終着点なのか、それとも本当にお金よりも評価が優位になる社会が来るのでしょうか?

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