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[23821] アニメ版「俺ガイル」(全3期)を見ての感想返信 削除
2022/2/1 (火) 21:18:20 徳翁導誉

> > > > > ところが、俺ガイルっていうのは徹底的にに全てがリアル。
> > > > > 例えば俺ガイルのヒロインに雪ノ下雪乃という、オタクの好きなお嬢様系の女の子がいるんですけど、彼は千葉の県議会議員の娘なんですよね。
> > > > > で、舞台は千葉市の県立トップの高校。
> > > > > 確かに、県議会議員の娘ならお嬢様だし、しかも普通の家の出の主人公でも、県立トップの高校ならば2人が同じ学校に通っていてもおかしくない。
> > > > > お嬢様キャラがちゃんとリアルなんですよ。
> > > > > ですが、俺ガイルは徹底的にリアルだから、そんなお嬢様と普通のオタクの主人公が偶然接点を持ったとしても、恋愛になんか発展しないw
> > > > > それでいて、ちゃんとラノベとして面白いイベントが起きる。
> > > > > 10数巻のちゃんとヒロインと恋愛もするし、ハーレム作る。
> > > > > さらにその上で、エヴァのような消費者に対して単なる快楽以上のものを投げつけてくるんですよね。
> > > > > もし俺ガイルに興味があるのでしたら、原作読んでみてはいかがでしょうか?
> > > > > とりあえず、1巻読んで、飛ばして4巻読めば、とりあえず普通のラノベではないことは分かると思います。

> > > > (多少ネタバレになりますが)例えば俺ガイルであれば、俺ガイルはハルヒの流れを継ぐ謎部活ものなんですが、最終的にこの話はその3人だけの部活の、主人公とダブルヒロインの友達関係をどう維持するのか?ということがテーマになっていきます。
> > > > それは何も特別な事情ではなく、もう高校2年の3学期で、高3になれば受験があり、そのあとはきっと大学別々のところに進学することになるよね、というだけの話です。
> > > > だから、この3人の関係性はもうそろそろ終わりだし、どう終わらせるか考えなきゃね、というだけなのですが、紆余曲折合った末の結論は「ずっとこのまま」なんです。
> > > > いや、これ本当にどうするんでしょうね。
> > > > 大学3人で同じところに行くんですかね?まだ中学生ならそれもアリかもしれないし、俺ガイルがよくあるオタク・ファンタジーならばそういう結論もアリかもしれませんが、俺ガイルって徹底的にリアルなんですよ。

> > > それはオタクでぼっちを気取って、リア充爆発しろと建前で言っている主人公にはできないし、
> > > 安易に「どっか遊びに行かない?」と誘った瞬間、それは「自分はあなたと友達になりたいです」と宣言しているに等しいわけで、それは今の関係を変えてしまいかねない。
> > > 物語として、背後の流れみたいなものが出来上がっていれば、そういったifルートも作りやすいのかもしれませんが、
> > > 今の作品はキャラクターありきだからか、ifルート想定すること自体が難しい気がしますが。

> > 同じ話になってしまいますが、
> > 確かに、オタク作品だとよく見る設定なのですが、俺ガイルはリアリティレベルが現実とほぼ一緒なので、
> > そのリアリティでこれやられると、すごい異常感があるんですよ。
> > 「はがない」は読んでいないのですが、同作者の「妹さえいればいい。」は読んでるので、
> > そこから推測するに、はがないも結局はオタク・ファンタジーでしょ、と。

> そういう意味では、この「リアリティ」という所がポイントなんでしょうけど、
> でもこれって、ラノベである事を考えると、「オタクがリアルと感じるリアリティ」かも知れませんし、
> 「ラノベでは新しいけど、小説では珍しくないよ」って事だと、
> 私はオタク系のジャンルしか触れない訳では無いので、そこでの目新しさや衝撃度は薄くなるので。
> ・・・って、もうここまで来ると、アニメ版でも実際に見ないと、これ以上は無責任に語れ無さそう(笑)。

という事で、北京冬季五輪が始まってしまうと、当分は時間も取れないでしょうし、
蔓延防止処置の影響で、幾つか事前の予定が飛び、ちょうど時間もありましたから、
少し大変でしたけど、この1週間で、アニメ版(全3期)を一気に見ましたよ!!(笑)

え〜と、で、実際に見てみた感想としましては、
「百聞は一見如かず」とは、よく言ったものとでも言いますか、
旧トルコ担当さんの話を聞いて、私なりにイメージしてた作品像とは、かなり違いました(笑)。
逆に、そういう意味では、やはり実際に見てみるに超した事は無いですね!!
「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている(俺ガイル)」という作品が、
一部に熱狂的なファンを生み、一時代を築いた理由も、何となくでしたが解りましたし、
旧トルコ担当さんが「2010年代のエヴァ」と呼んだ理由も、朧気ながら感じ取れました。

そして、予想以上に「全然リアルじゃないじゃん!」というのが、正直な感想でしたね。
いや本当、今までは何となく、共通認識がある前提でお互いに話してましたけど、
「ファンタジー」と「リアル」の定義について、もう1度キチンと再確認した方が良いように感じました。
リアルの定義は難しいにしても、ファンタジーの線引きって、どの辺りからのか???
例として持ち出された「県議会議員の娘」という設定も、別にリアルさを感じさせないというか、
私的にはオタク・ファンタジーって印象でした・・・・
大きな真実の中に小さな嘘が混ざるよりも、大きな嘘の中に小さく真実を混ぜる方が、
人間というのはリアリティーを感じやすいモノであり、
これはペテン師の常套手段かつ、作劇法の基本ではありますね。
今回の件で言えば、「県議会議員の家ってこんな感じ」というイメージを、
具体的に想像できるか否かも、感じる「リアルさ」の違いになってる可能性はありそう。

って、あくまでもラノベなのですから、それが別に悪いという話では無いんですけど、
事前に「徹底的にに全てがリアル」と説明されていただけに、却って気になってしまったかも?
異世界じゃないですし、転生もしませんし、魔法や突飛な発明品も出てきませんけど、
普通によくある、学園モノ作品の設定だな・・・という感じで、リアルさの点は特に。
まあ、原作ラノベは読んではいないので、あくまでもアニメ版からの印象ですけど、
比べるのは何ですけど、あれだと「けいおん」とかの方が、よりリアルに私は感じたかな。
残念ながら、少なくとも「普通のラノベではないことは分かる」とは、なりませんでした。

また、他にも「聞いてたイメージとは違うな」という点を上げると、
まずは、「普通のオタクの主人公」との事でしたが、
少なくともアニメ版では、主人公のオタク的な描写は皆無な感じでしたね。
第1期の後半とかは、オタク的なネタ・ツッコミが幾つかありましたけど、
あれは主人公のオタク性というよりも、作品自体のオタク性でしょうし、
ちょっと取って付けた感もあったので、原作にも実際にあるのかは解りません。
例えば、体育祭での騎馬戦のシーンで「マスターアジア」の名前が出てきましたが、
あれって、原作の方でも、実際ある発言なんですかねえ?
以前の「好きというのが恥ずかしい作品」という話の際、
「ガンダム・シリーズの中で、異端なGガンダムが実は1番好き」とかいう感じの事?と、
ふと思ったもので(実際に私もGガンが1番だったり・笑)。
って、恐らくは好みのタイプ的に、旧トルコ担当さんはGガンダムを見て無さそう。

それと、「ずっとこのまま」エンドとの事でしたけど、全然違うじゃないですか!?(笑)
明確に断言まではされてませんけど、あれって普通に決着付いてません?
ひょっとして、原作ラノベとアニメ版とでは、終わり方って違ってます?
少なくとも、そういった情報は耳にしてませんが、原作は未読なので解りません。
それに、3年に進級するから「終わらせる」と言うよりも、
1年間の積み重ねが出来たからこそ、このままの状態では居られなくなり、
放置はもう無理なので、何らかの形で現状を「終わらせ」ざるを得ない感じなのでしょうし、
まだまだ、高校3年生の1年間がまるまる残っているのに、あの結論って、
卒業後の事に思いを馳せる以前に、もしもリアルであの選択をしたならば、
地獄のような高3生活の未来図しか見えませんよ、私には(苦笑)。
逆に言うと、あれで成り立つ世界であるなら、やはりファンタジーだと思いますね。

それに、「ifルートの想定自体が難しい」との事でしたけど、想定ルートは結構あった気が!?
Wヒロイン以外にも、何本かフラグは立てられていましたし、
実際、様々なエンドが用意された、ギャルゲー的なゲーム版は好評のようなので(笑)、
旧トルコ担当さんは「難しい」と思うくらい、作品に入れ込んだ&納得したって事なのかな。

続いて、遊びに誘った瞬間、友達なりたい宣言となり、今の関係が変わるって、
最初の方はまだしも、もう作品の中盤くらいから、そんな関係じゃなくなってません?
アニメ版の1期・2期・3期が、ちょうど作品的にも3パートに分かれてる感じというか、
キャラ同士の人間関係や描写はもちろん、パートごとに作品自体のテーマ性も変わってる感じで、
恥ずかしいから誘い難いはあっても、それは少し違うんじゃないの?という印象でした。
どちらかと言うと、そうしたテーマで最後まで突っ走るのが「僕は友達が少ない」な気がします。
というか、この作品、タイトルに「青春ラブコメ」って入ってますけど、
青春はしているものの、ラブコメはしてるか・・・となると、正直微妙じゃありません?
いや、少しずつ少しずつ気持ちは紡がれて行きますし、最後の最後で恋の話が出てきますけど、
作品的には「もう終わっちゃったのかな?」 でも、
恋愛的には「まだ始まっちゃいねぇよ」って感じでした(笑)。

もうちょっと踏み込むと、Wヒロインでありながら、三角関係に陥る訳では無く、
そもそも最初から最後まで、揺れる事のない王道ルートな上に、
キチンと恋したのは振られた側で、主人公もメイン・ヒロインもそこまで至っておらず、
もっと言えば、主人公はメイン・ヒロインすら見ないで、徹頭徹尾 自分を見ており、
恋愛どころか自己愛(良く言えば成長物語)に終始されてませんか、この作品って?
「間違っている」だから良いのかな?とも思いつつ、間違うとか言う以前の話な気も・・・・


あと、旧トルコ担当さんが、この作品をエヴァと並べて語る件に関しては、
萌え系やハーレム系などのように、視聴者に対して安らぎや快楽を与えるだけでなく、
主人公の内面描写を介して、見る側の心さえグサッとエグるような陰鬱っぽい所に、
両作品の共通点を見出したのだろうなぁ、と感じました。
確かに、頭を空っぽにして楽しめるというよりは、見ていて疲れる作品だと思います。
ですけど、エヴァと俺ガイルでは、やはり決定的に違うと思うんですよね。
それは、エヴァやリゼロの主人公は「自分の事が大嫌い」なのに対して、
俺ガイルの主人公は「自分の事が大好き」な作品だからであり、
同じく心をエグっているようでいて、その度合いや目的がまるで異なります。

言うなれば、料理の味付けで、同じ塩を降るにしても、
塩辛さを求めるか? 甘味を引き立たせる塩味を求めるか?くらいに違うでしょうか。
例えば、1期の文化祭での屋上シーンとか(原作だと6巻に相当?)、
一見キツそうですが、実は爽快感の得られる作りで、その意図が見えてると激甘に感じ、
「単なる快楽以上のもの」どころか、「快楽以外の何物でもない」ように映りました。
これがまだ、旧トルコ担当さん的に、
「自分にとってのエヴァ」だと言う事であるなら、私も充分に受け入れられるのですが、
「2010年代のエヴァ」だとなると、より普遍化された話となる為、私的には否となりますね。

また、思春期の人間関係と成長模様、主人公の内面描写や語り、リアルで心をエグる作風など、
そういう俺ガイルで見られたモノって、「彼氏彼女の事情(1998)」で既に、
より高い完成度で見せられてますからねえ(少女マンガ原作な上に、GAINAX制作のアニメなので)。
つまり、その辺りの要素では、特に新しいモノを見たという感動がありませんし、
同じくラノベ原作だと、主人公の独り語りで展開するのは「涼宮ハルヒの憂鬱(2006)」で、
シリアス要素のあるラブコメであれば「とらドラ(2008)」で、
変化球なオタク系ハーレムであれば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない(2010)」で、
ぼっち系・残念系の設定であれば「僕は友達が少ない(2011)」でと、既に行われていましたから、
では一体、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている(2013)」ならではの要素とは、何でしょう?

いや勿論、あれだけヒットした作品なのですから、何かはあるはずなんですよ。
で、実際にアニメ版を見てみて感じた、私なりの答えというのは、
簡単に言っちゃうと、鬼滅ヒットの理由にも求めた「リアルタイム性」なんですけど、
より詳しく述べるとすれば、その当時に現れた「新たな層」に対して、
「これは自分だ!」と感じさせた最初の作品こそ、この俺ガイルだったのでは?と思うんです。
要するに、新しく現れた層ですから、そんな彼らの需要を満たす作品など、既存には まだ無く、
そこへ初めて、それを満たす作品が供給されたから、多くの人たちが食い付いたと。
もちろん、それは限られた中だけに起きた現象だったのかも知れませんが、
しかし飢えていただけに、その中では物凄く熱い現象となったって感じですかね。

それでは具体的に、この新しい層とは何かとなると、
「1人で居る事を見られるのが苦痛な人たち」とでも言えば良いのでしょうか?
適切では無いかも知れませんが、もっと解りやすい表現を用いるなら、
「便所メシをするような人たち」の登場って事ですね。
これは実際に、便所メシをしてるか否かという話ではなく、
そういう状況になれば、そうした発想に至る層という意味です。
今までにも、1人の状況を嫌がる人や、ぼっちである人というのは、普通に居たんですけど、
1人である事自体ではなく、それが他人の目から どう映るかを気にして、
トイレで飯を食うにまで至るのは、ここ10年15年くらいの現象なので・・・・
便所メシという単語が登場したのは2005年頃の話で、その時は半ば「都市伝説」な扱いでしたが、
2015年頃になると、便所メシ経験者が1割を超え、確実に一定の層を形成するようになりました。

で、俺ガイルの特に第1期を見て、最初に感じた設定というのが、
まさしく、「便所メシしそうなタイプだな」って事だったんです。
いや勿論、作中では便所メシをしている訳じゃありませんけど、
昔ながらの「ぼっち」とも違って、心の奥底では陽キャ・グループを意識しながらも、
上手い距離感や望んだ位置が得られないが故に、そこには属する事が出来ず、
かと言って、陰キャ・グループに属する事は、自らの自尊心が許さず、
孤高を気取ってはみるものの、他人の目が気になって仕方がない・・・って感じかな?
上でも少し触れましたけど、こういうタイプって結局、「自分の事が好き」なので、
諦めないし、妥協もしないし、頑張りもしないので、宙ぶらりんで終わるというか、
そういうモヤモヤ感を抱く人たちの所へ、「これは自分だ!」と感じさせる主人公を用意してやり、
彼らの理想郷的な展開を見せてやる事で、熱烈な支持を受けた・・・というように映るんです。
従来の ぼっち系だと、近い時代に「四畳半神話大系(2010)」がありましたが、やはり別系統ですし、
正直な所、上条当麻の「不幸さ」くらいですね、比企谷八幡の「ぼっちさ」と言うのは(笑)。

つまりこれは、「これは自分だ!」と感じさせる箇所に、
その層が感じる「リアルさ」があるというだけの話であって、
決して、あの世界観にリアルさがあるという話ではなく、
その世界へ主観的に入れ込めば、リアルのように錯覚する描写というかは、
外から客観的に見ると、却って思いっ切りファンタジーに映る感じで、
言うなれば、ディズニーランドを満喫している最中の人と、そうでない人の差があると・・・・
それこそ作中の台詞を借りるなら、「君は酔えない」どころか、
この俺ガイルの設定に「酔える」タイプじゃないと、この作品にはハマれないですよ。
これ以上は言葉遊びになるかも知れませんが、真に孤高なら「酔わない」となりますし、
「酔えない」というのは、そこには「酔いたい」という願望が込められており、
もっと言えば、周囲に溶け込んで酔えなくても、既に自分自身には酔っていると。
転勤族として育った私は、常に途中から入り、途中で出ていく存在だったので、
どこでも基本は「余所者」でしたから、「ぼっち」と「ぼっちぶる」の違いは解るんですよ。

後は まあ、その人が作品に触れた際の年齢(環境や状況)もありますよね。
そこは、やはりラノベですし、しかも青春ラブコメ(?)らしいので、
仮に、同じ人が、同じ作品に接しても、10代と20代と30代とでは、感じ方がまるで異なるはずで、
青少年向け作品というのは、当然ながら青少年時代に味わってこそ、最もガツン!と来るモノかと。
そういう意味では、既にオッサンな私が今更 見た所で、中高生のようにハマるのは困難ですし、
便所メシが「都市伝説」だった世代の人間からすると、理解は出来ても共感は難しい・・・・
そういう意味では、全く「自分向け」の作品では無いって事なんですよね、結局は。
多分これって、デジタル・ネイティブで、みんなが普通に繋がっていたり、
社会的に成熟して喧嘩も減り、みんなが良くも悪くも優しく接するようになり、
それでいて、兄弟は減り、放課後に集まって友達と遊ぶ機会も減り、ついでに小遣いも減りと、
ある意味では、こうして子供の間の隔たりが薄れてきたからこそ、価値基準の画一化してしまい、
スクール・カーストのようなピラミッド化が、勝ち組・負け組の明確な線引きが起きたとすれば、
一昔前までの学生生活や人間関係と比べると、相当に隔世の感があるような気がしますね。

でもまあ、時代の巨大な壁が、20世紀と21世紀の世代を境に存在するなら、
逆に言うと、21世紀世代(平成後半&令和世代)の間であれば、
多少の時代の違いは関係無く、共感できたりする部分は多くなるかも知れません。
それこそ、俺ガイルは10年前に生まれた作品なので、
令和世代が古く感じたとしても、別に おかしくなという持論は、ここでも変わりませんが、
だからと言って、令和世代の中にも、俺ガイルが響く人は確実に居るとも思ってますよ。
例えば、「これは自分だ!」という思いを、読者に与える作品として、
70年前に太宰治が書いた小説「人間失格」がありますけど、
あれが古い作品であるのは事実な一方、未だに感化される若者がいる作品なのも、また事実。
「中二病」という言葉自体が生まれたのは、1999年の伊集院光の深夜ラジオでしたけど、
そんな言葉が生まれる以前から中二病は存在し、そして未だに健在であると実感させてくれる作品です!!
って、人間失格もオッサンになってから読んだので、思春期にでも読んでたら私もカブれたのかなぁ?
いや、でも多分、その頃でも、太宰にはハマれなかった気がする・・・・


ちなみに、俺ガイルの設定を聞くだけの段階では、「はがない」に近そうな印象でしたけど、
主人公がこういう拗らせ方をしてる感じだと、「氷菓」の方が近いですかねえ?
氷菓は未見ながら、何となく、そんなイメージ。
という事で、ちょっと調べてみた所・・・なんと中国オタク界隈では、
「校園四覇」なんて括り↓で呼ばれてるみたいです!?(笑)
http://i2.hdslb.com/bfs/archive/00febf8e0edee2d0af707970d38c7cb23d057355.jpg
 【自爆】 比企谷八幡 「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」
 【節能】 折木奉太郎 「氷菓」
 【騒話】 梓川咲太  「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」
 【無情】 綾小路清隆 「ようこそ実力至上主義の教室へ」

漢字2文字の愛称まで付けて呼ばれてる所は、三国志っぽくって無駄に格好良いですし、
国境や文化の壁まで越えながら、日本のオタク文化と、この拗らせ思春期な価値観が、
伝わり、広まり、共有できている事実に、ちょっと感動までしました!!
漢字の「冬」をモチーフにした、今回の北京冬季五輪のエンブレムを見ても思いましたけど、
これって恐らく、全世界の中でも、日本人と中国人の間だけで存在するシンパシーであり、
現状では互いに反日的・反中的な風潮が目立つものの、この存在は将来的に面白いかも知れません。
だって、世代の異なる日本人同士よりも、世代が同じ日本人と中国人の方が、
1つの作品に対して共感し合えるって、これは冷静に考えると、本当に凄い事なので!!
また、四天王とか作りたくなる中2的センスが、海を越えてるのも嬉しい(笑)。
って、仏教がインドから中国を通って日本に伝わった事を思えば、共通の根を持っているのかな。

あと余談ながら、旧トルコ担当さんは、この校園四覇は制覇されてます?
と言いますか、この4人の括りって、実際的確に映りますでしょうか?
正直、私の方は、今回ようやく俺ガイルを突破しただけで、
特に、「よう実」と「青ブタ」に関しては、一定の人気がある事は知ってたものの、
これらが一括りにされる扱いの作品だという事は、今回初めて把握しました(笑)。
でもまあ、これらは単に、中国でウケた作品群ってだけで、
氷菓以外はラノベとして、そこまで尖った作品で実際無いのかも知れませんけど、
この2作品も、ちょっとだけ「私、気になります」レベルには格上げされたかな?(笑)
アニメ版なら、共に1クールで済むみたいですし。
・・・って、同じ1クール作品ならば、まずはそれらより、
弁さんとの雑談時に紹介された「映像研には手を出すな」を見るのが、先かも知れませんね。

ところで、ちょっと話は脱線しますけど、AIとかの話題とも絡んで、
心や記憶を題材としたアニメとして、「カイバ(2008)」や「lain(1998)」がありますけど、
ある意味、エヴァとかとは違う方向性ながら、見る者にダメージを与えるような怪作って、
旧トルコ担当さん的には、どんな感じというか、位置付けになるのでしょうか?
テーマがテーマだけに、ファンタジーな世界観だからこそ、よりリアルになると言うか、
だからこそ見ていて疲れる作品なんですけど、こういうのは好みとは別ですかねえ??
まあカイバの方は、WOWOWで放送されたアニメなので、知る人ぞ知る系の作品ですけど、
lainの方は、ちょうどネットが普及し始めた頃の実験的作品であり、
PSゲーム版も含めて、かなり挑戦的な試みが為され、一部でカルト的な人気を博しましたから、
当時のオタク文化に興味があれば、当時のネット・ログも込みで、押さえておいて損は無いかも。
・・・と、書いてますけど、実際に見ずとも、そういう作品があるという知識だけで、
オタクの教養という意味では、半歩なりとも前進だと思うので、一応紹介しているだけですね。
全く気に掛けてないのと、多少は気に掛けているのとでは、やはり大きく違うと思いますし。


そして最後に、年齢も、世代も、タイプも異なる為か、
旧トルコ担当さんのように、この作品にハマる事は無かったですけど、
それでも、全3期を1週間で一気見できるレベルの作品ではありましたし、
(私は後半に進むほど見やすかったですけど、前期のファンは結構途中離脱してるのでは?)
こうした機会でも無いと、撮り貯めた作品って、なかなか見られずに終わりますから、
そのキッカケを作っていただき、ありがとうございました。
以前から気になっていた「俺ガイル人気の理由」というのも、私なりに答えが得られましたし、
中国人のと間にまで、同じオタク文化が共感できてた事実を知れたのは、新たな発見でした。

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