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[24031] Re:テレビ報道と政治・階級差と個人主義・発想力と学習量返信 削除
2022/9/25 (日) 04:40:41 旧トルコ担当

> > > でも、ラストのネタバレまで含む「ファスト映画」の隆盛ぶりを見る限り、
> > > アニメや映画にしても、早送りやスキップでの視聴も、かなり増えている気はしますよ。
> > > まあ私も、ニュースみたいに情報収集がメインな視聴なら、普通に早送りもしますし、
> > > だからこそ、逆に言えば、彼らにとってはアニメや映画も、そうした情報収集の一環なのかな?と。

> > ファスト化は情報収集の一環ではないですね。
> > ファスト化とか、タイパ意識っていうのは、俯瞰するとそういった言葉になるのですが、
> > それらの行為を個人の感覚としては「待てない」というだけだと思うんですよね。
> > この映画が、いつ面白くなるのか。面白いシーンまで待てないし、つまらないシーンは飛ばすし、
> > 2時間の映画を飛ばし飛ばしで見てしまったとしても、サブスクなので他に映画はいくらでもあるというだけだと思います。


> それって既に、サブスクの弊害にハマってる人の見方なのでは!?(笑)
> 本来なら、定額で多くの作品を見られるというメリットが、
> 多くの作品を見ないと損した気分になったり、損しないよう作品視聴をこなす事が目的化すると、
> それはもう、作品数が多いというメリットが、デメリットに転じてしまってる気がするんです。


サブスクの弊害というよりは、YouTubeやInstagramなど、それら含めたインターネットの影響では?
YouTubeにはほぼ無限の動画が存在しますし、サブスクよりもYouTubeの方が影響は明らかに大きいでしょうからね。
最近Instagramを初めて使ってみたのですが、あのアプリの時間感覚には驚かされました。
YouTubeもショート動画に力を入れてるみたいですし。

> いや、でも別に、楽しみ方というのは、人それぞれに様々ありますし、
> 量をこなす事で得られる満足感というのも、決して解らなくは無いんですよ。
> 私だってルーチン・ワークをこなす際には、そうした部分に楽しみ方を見出したりしますので。
> また、レスポンスの速い今の時代、2時間も受け身で見続けるのは、集中力が切れたり、苦痛な人も居るはずで、
> 映画館ならまだしも、自宅のモニターでリモコン操作が可能なら、ついつい飛ばすのが人情かも知れず、
> 倍速視聴で面白さが半分に落ちても、2時間見て結局ツマらなかった時よりは、マシという感覚であれば、
> 尚の事、倍速やスキップでの視聴の方が楽と意見があっても、そこまで驚きはありません。
> ですけど、少なくとも私自身が映画やアニメを視聴するのは、そうした目的の為では無いですからねえ。
> (これに関しては、アニメや映画は倍速視聴しない旧トルコ担当さんも、恐らく同様なのでは?)


スキップ視聴するくらいなら、見ない方がマシというのは同意見ですね。

> > > 例えば、テレビ番組がテロップだらけになったのも、そうしたニーズがあったからですし、
> > > 報道内容の低レベル化も、安易に「マスゴミ」と批判するレベルの人に合わせた結果です(苦笑)。

> > 最近、カノッサの屈辱(テレビ番組)のテレビの歴史をYouTubeで見て、初めてニュースのワイドショー化という話を知りました。

> カノッサの屈辱かぁ・・・懐かしいですね(笑)。
> バブル当時のテレビ局って、本当に制作費が有り余っていて、
> 「JOCX-TV2」という、当時のフジテレビの深夜枠では、
> いろいろと実験的・挑戦的な番組が作られていて、本当に面白かったですよ。
> このサイトでオンライン対戦化した「征服王」↓も、そうした番組の1つでしたし、
> http://kakolog01.g1.xrea.com/conqueror/ichiran.html
> 麻雀アニメ「スーパーヅガン('92)」は、深夜アニメの走りみたいな所がありました。
>
> ・・・って、話が脱線してしまったので、元に戻しますと(笑)、
> 「ニュース番組のワイドショー化」との事ですが、
> 恐らく、旧トルコ担当さんが抱いているイメージも、ちょっと違うかなぁ?って感じですね。
> カノッサの屈辱の放送当時('90)の事を考えると、たぶん番組内で触れられていたのは、
> 「久米宏とニュースステーションの登場('85)」に関してだと思うのですが、
> 確かにニュースステーションが、夜のニュース番組に革命をもたらしたのは事実です。
>
> それまでは、それこそ中年サラリーマンが視聴する、お堅いNHKニュースしか無かった所に、
> 今風に言えば「池上解説」みたいな感じで、フリップや模型やCGなどを用いて、
> 若者層や女性層にも「解りやすいニュース番組」を作ったのは、本当に画期的な事でした。
> その一方で、久米宏が個人的な意見を述べたり、BGMやテロップを用いた演出を行うなど、
> そうした部分が「ワイドショー的だ!」として批判されたのも、また事実です。
> とは言え、現在の「ワイドショー的なニュース」とは、かなり次元が異なっていたかと?
> それこそ、お堅いNHKニュースしか比較対称が無かった時代の事ですし、
> 後継番組である「報道ステーション」なんて、今や民放ニュースの代名詞的な存在ですからね。
>
> ちなみに、その当時のワイドショーというのは、
> それこそ週刊誌をテレビ番組化したような、芸能ゴシップだらけ放送内容であり、
> 暇を持て余す主婦層や高齢層に向け、今の感覚だと目を背けたくなるようなゲスい事を報じてました(笑)。
> 例えば、「宮崎勤事件('89)」なんかも、まさしく当時は格好のターゲットだった訳ですね。
> でも一方で、平成(90年代)に入った辺りから、統一教会やオウム真理教の騒動など、
> 芸能ゴシップだけでなく、社会問題に触れるケースも、徐々に増えていった感じかな?
> と言いますか、新興宗教の広告塔として、芸能人とかが巻き込まれていくので、
> (統一教会の騒動で言えば、桜田淳子と山崎浩子などの合同結婚式への参加など)
> その辺が上手くリンクしていった側面もあったかも知れません。
> また、「芸能人でもプライバシーは尊重すべき」という意識の高まりや、
> バッシングを避けようと、芸能人自体の火遊びも大人しくなっていった事で、
> バッシングの対象が、事件・不祥事・失態などを犯した個人に対する、
> メディア・リンチに移っていった時代でもあったかも。
>
> その後、2000年前後くらいから、ワイドショーでの芸能ゴシップの報道割合が減り、
> オウム報道での失態により、TBSがワイドショーから撤退した事も相俟って、
> 社会問題から芸能情報まで幅広い題材を扱う「情報番組」へと、ワイドショーはその姿を変えていき、
> テレビ局の予算削減に伴う、生放送番組の増加により、情報番組の放送枠は拡大の一途を辿りました。
> 解りやすく言えば、ここ十数年くらいの間に、
> ニュース番組とワイドショーの中間に位置する「情報番組」が急速に増えた事で、
> 報道番組と情報番組の違いを意識しないと、「ニュースのワイドショー化」した印象を受けたかと?
> 物凄く解りやすい言い方をすれば、「ワイドショーもニュースを扱う」ようになった為、
> そうした番組では、当然ながら「ニュースがワイドショー化」する訳であり、
> 特に政治(政局)ニュースに関して言うと、その端緒となったのは、「2001年の自民党総裁選」でした。
>
> それこそ、それまでの総裁選というのは、従来のニュース番組しか扱いませんでしたし、
> 立候補した政治家たちも、当たり前のようにニュース番組にしか出ませんでした。
> 言ってしまうと、いくらニュースステーションが間口を広げたとは言っても、
> やはり政治ニュースに関心を持つのは、未だに中年サラリーマン層が主であり、
> そして、当時の政治力学では「橋本龍太郎の返り咲き」が既定路線と見られてたんです。
> しかし、今までは自民党内の変わり者に過ぎ無かった小泉純一郎が、
> 国民(特に主婦層や高齢層)に人気の高かった田中真紀子とタッグを組み、
> 街頭演説やテレビ出演を繰り返して、総裁選の投票権のない一般市民の支持を集めていき、
> 「小泉を総理に!」という世論を、急速に盛り上げていったんですよ。
> そこからですよね、ワイドショーも政治ニュースを扱い、政治家もワイドショーに出るようになったのは。
> 小泉&真紀子コンビは、それこそワイドショー視聴者層にぴったりハマりましたし、
> 彼らだって選挙で同じく1票を持ってますが、それまでは未開拓な票田だったとも言えます。
>
> そういう意味では、政治家の側だって「ニュースのワイドショー化」を促した訳で、
> そして何より、ワイドショー視聴者がニュースを見るようになったからこそ、
> 「ニュースがワイドショー化した」とも言えるんですよね。
> 基本的にテレビ番組というのは、視聴者のニーズに応えるべく、放送内容が変わるのですから。
> しかも現在は、バラエティー番組までもが、政治ニュースを扱うようになり、
> ニュースに触れる機会が増えたという点では、昔より増えた状況ですけど、
> ニュースを扱う番組の質に関して言うと、昔より落ちたのは紛れもない事実でしょうね。
>
> これはどんな分野でもそうですが、一部のコア層しか関心を持たなかったモノが、
> ライト層にまでニーズを広げていくと、影響力は強まる反面、どうしたって質は落ちていくんです。
> つまり、安易に「マスゴミ!」と叫ぶ視聴者こそが、ニュースの質を落としてる張本人であると(苦笑)。
> また、ニュース番組は「権力の監視者」意識が強い事もあり、
> どんな大物政治家が出演しても、相手の嫌がる厳しい質問をブツけたりしますが、
> テレビ局内でのヒエラルキーが低い、ワイドショーやバラエティー番組だと、
> 大物政治家が出てくれるだけで、かなりの持ち上げようになりますし、
> 政治家本人は勿論、その支持者たちも、ニュース番組に出るより気持ち良い空間でしょうね。
> 逆に言えば、だからこそ、「それに比べて、ニュース番組はけしからん!」となりがちな気がします。
>
> > 私が生まれたころには既にああだったので、昔からそんなものだと思っていましたが、
> > 昔はもっとテレビも真面目だったんですね。

> もう少し正確に言うと、「住み分けられてた」って感じですかね?
> 新聞で言えば、一般紙(高級紙)と夕刊紙(大衆紙)の読者が、住み分けられてたように、
> ニュース番組は、今よりも お堅かった反面、
> バラエティー番組やワイドショー番組は、今より遥かに下品だったので(笑)。
> そういう意味では、現在のテレビ番組って、
> バラエティー番組やワイドショー番組は上品になった一方で、当然ツマらなくなり、
> ニュースの扱いに関しては、報道番組はまだしも、情報番組は行き過ぎた部分が目に付くと。
>
> 時代的に言うと、2000年を過ぎた辺りから、徐々にそうした傾向が強まっていき、
> 今から10年ほど前、大震災が落ち着いてきた辺りから、完全にそうなった感じかな?
> なので、今のようになったのは、精々「ここ10年くらい」の話ですね。
> そして、それは丁度、安倍政権の返り咲きとピタリと合うのですが、
> これは別に、安倍政権が世間をそうした風潮にしたというよりは、
> 世間の風潮がそうなったから、安倍政権が長続きした面の方が強いかも知れません。
> (もちろん、両者が相乗効果となって、そうした傾向を促進させた部分も否めませんけど)


ああ、そんな感じだったんですね。
そういえば、昔岡田斗司夫が
「報道番組と言っても、テレビ局内部では真剣な報道番組と、視聴率追いかけ番組に分かれていて、
視聴率対策ではなく、本当に重要だと思うことを伝えなければいけない、みたいなスタッフの意識も、その番組がどっちなのかにより全然違う」
みたいなことを言っていたのを思い出しました。

> > > それと、「自信がない」と言うよりは、「諦め」の感情という方が、より適当な気がするんです。
> > > 厳密に言えば、「自信がない」と「諦め」はイコールでは無いのですが、
> > > チャレンジのコスパが悪い今の時代にあっては、実質イコールとなっているでしょうし、
> > > 目に見える格差じゃないからこそ、諦めてる自覚すら乏しいように思えるんですよ。
> > > 簡単に言えば、始めから「そういうモノだ」と受け入れていて、それ自体を疑わないと言うか・・・・

> > ああ、諦めというのはありそうですね。
> > それこそ、低い位置であっても"まあまあ"な娯楽がある分、努力してまで手に入れたいとか、思わなくなりがちですし。

> あと言うと、「努力して得られるモノ」の質というのが、明らかに下がった部分もあります。
> 言うなれば、最低点は上がったけど、最高点は下がったとでも言えば良いのか、
> そうした両面を含めての「挑戦や努力のコスパが悪い時代」って意味ですね。
>
> 例えば、解りやすい例でゲームの話をすると、
> 一昔前に比べれば、無料で遊べるゲームの質って、物凄く上がったと思うんですよ。
> ですが一方で、実際に6000円とか8000円とかカネを払って買うゲームの質は、
> 遊んでて味わえるワクワク感などは、昔の方が遥かに大きかった気がするんです。
> (グラフィック面などは格段に向上していますけど、そこが楽しさの本質では無いので)
> そうなれば、「無料ゲームで充分」となる気持ちも理解できますが、
> かと言って、昔の若者ほどゲーム自体を楽しめて(興奮・熱狂できて)いるか?となると・・・・


本当に好きなら金を出してるはず、というのは分かりますね。
無料だから遊ぶゲームは、所詮その程度しか好きでないと。
ソシャゲの課金というのは、ある意味ガチ勢からライト層までを抱合する上手い仕組みだなとは思います。

> > > では、団塊Jr.世代が適齢期を迎えた2000年頃、
> > > 「第3次ベビーブーム」が起こらなかったのは、何故なのでしょう?
> > > https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2021/r03webhonpen/img/zh1-1-03.gif
> > > 出生率や婚姻率が同程度に推移しても、絶対的な人口数は多いのですから、
> > > 出生数における、それなりの山は出来て然るべきなのに、それが全く現れていないんです。
> > > その理由を、旧トルコ担当さん的には、どのように お考えですか?

> > 私の意見も特別なものではなく、ごく普通の「その時代の若者が結婚や育児などを面倒に感じ始めた」という辺りだと思っています。
> > 消えた第3次ベビーブームから既に約30年ですし、「なぜかられ彼女らが結婚を選択しなかったのか?」はインタビューなどできる内容ですので、
> > 世間や学問の世界であまりに的外れな論が展開されていれば、当事者たちからそれは違うだろとなるはずであり、
> > よって今の世間一般の主流の考えが正解だと思っています。

> ですから、バブル崩壊に伴う平成不況により生じた「就職氷河期」が、団塊ジュニア世代を直撃し、
> 安定した職を得らず、結婚や出産に踏み切れなかった人たちを大量に生み出した事こそが、
> その「世間一般の主流の考え」であり、それを「正解」だと旧トルコ担当さんが思われるのなら、
> 旧トルコ担当さんの「必ずしも経済は主要因ではない」という意見とは、明らかに矛盾してませんか!?


あっそうなんですか?
ちょっとネットで調べてみたところ、「若者の恋愛離れ」という言説がいつ始まったのかは確認できませんでしたが、(やはりネットにはロクな情報が載ってない)
「草食男子」はどうも06年〜09年ごろに流行した言葉らしく、
確かに団塊ジュニア世代とはズレてますね。(06年で団塊世代は30代半ばごろ、30代半ばは若者とはあまり呼びませんし)

私は現在大学生なので、どうしても自身が物心つく以前のことは時代感覚が曖昧で、1990年代〜2010年くらいまでを全部同じ感じで認識している節がありますし、
テレビ番組などでも、"現在"の出生率低下についての話題になると、若者の恋愛離れの話が出てくるので、
てっきり世間の認識でも、第2次ベビーブーム世代=若者の恋愛離れなのだと思っていました。

> また、「その時代の若者が結婚や育児などを面倒に感じ始めた」との見解も、
> 団塊ジュニア世代は絶対的に人数が多いのですから、
> 結婚や出産が、なだらかに減少し続けただけであれば、低くなっても山は生じるはずで、
> 現実的に そうでない以上、団塊ジュニア世代の時だけ出産率が下がった理由を示す必要があります。
> と言いますか、団塊ジュニア世代が出産適齢期を迎えた頃に、
> 特殊出産率が底を打ち、そこからジワジワ回復傾向にあるのは、数値を見ても明らかな訳で、
> その点に関する説明というか、認識が、完全に欠けていたのでは?


私の知っている限られた情報から判断すれば、やはり「団塊ジュニア世代の恋愛に対する理想の高さ」という要因はあると思うんですよね。
簡単に言えば、バブルを知っているかどうか?ということです。
例えば少女小説の歴史でいえば、80年代後半は少女小説の大ブーム期であり、
ティーンズハート文庫が中心となって、読みやすい文体(国語の先生からすれば眉唾な文体で)多くの読者を獲得し、
それまでクラスのおとなしい子が読んでいる、みたいなイメージであった少女小説が、クラスのメインカルチャーになって、女の子同士のコミュニケーションの道具になった時代です。
で、そうした少女小説が題材にしていたのは、ほぼ異性恋愛でした。
それがバブル崩壊に遭い、期待していたものが裏切られれば、そりゃあ世の中を恨むし、結婚だって妥協できないだろうなあと。
なんせ一番多感な中高生時代にバブルのあの雰囲気を見せられてしまったわけですから。
その辺は、諦めることに慣れてしまった私の世代と、ジェネレーションギャップを非常に感じますし、
私の世代の方がもっと悪化した日本を押し付けられて損をさせられてるのかもしれませんが、やはり団塊ジュニア世代ほど世の中を恨む気持ちというのは少ないと思うんですよね。
(ちなみに少女小説は90年代に入ると、BLが一部入ってきます。団塊ジュニア世代よりも、中高生のころからBLを読んでる90年代女子中高生の方が、大人になった時には妥協結婚をしやすそう)

> > > > それは本音と建前の使い分けというより、単純に共感性が強く、敗者のいない横並び一線を求めてることだと思います。
> > > > もちろん仲間外れになるのも嫌だけど、仲間外れも作りたくないというか、敗者がかわいそうだから、
> > > > というのが平等が50%の要因ではないでしょうか?

> > > ぶっちゃけた話、「本音と建前」すら無自覚なのが、今の世代の特徴なのでは?
> > > 「敗者が可哀想」というのも、当人さえ本気でそう思い込んでるだけで、
> > > 「可哀想な敗者を見るのが辛い」という、自分視点からの意見と感じるんです、実際には。

> > 「可哀想な敗者を見るのが辛い」だけ、というのはまさしくそうだと思います。
> > 私としては、割とそういう感覚が当たり前だと思っていたのですが、割と最近の個人主義的な感覚なんですかね。

> う〜ん、私としては、そう感じてますね。
> ここ10年20年で、良くも悪くも、日本のムラ社会的な価値観は薄れてきましたが、
> (ムラ社会は戦前まで続き、戦後は会社がムラの代替として機能するも、バブル崩壊に伴い瓦解)
> 「自助・互助・共助・公助」とある中で、互助を担ってきた「ムラ」構造が消滅した事で、
> 「自助」の占める割合が、物凄く高くなった実感はありますね。
>
> 今の日本社会には、キリスト教やイスラム教の社会が担う「共助」の部分が欠けていますし、
> (と言うか、明治維新により、多少なりとも寺社が担っていた部分が失われた側面も)
> 北欧諸国のように、高福祉&高負担な「公助」の国でも無いですから、その部分も弱い。
> だから結局、自助への負担が大きくなり、それでは支えきれない為に、
> 「集団主義の希薄化」に伴う、「個人主義の弊害」として映るのだと思います。
> 要するに、昨今の日本では個人主義が強まったというのは、一面では事実なのですが、
> それ以上に大きいのは、集団主義が薄まった事で、個人主義の割合が相対的に高まった方が大きいかな?
> でもまあ、相対的にせよ、絶対的にせよ、「個人主義的になった」のは事実でしょうね。
>
> で、「日本は集団主義、欧米は個人主義」だと言うと、
> 昨今では、「それはステレオ・タイプなイメージ過ぎる」と言われますが、
> でも結局、大前提として集団主義があるからこそ、その中においての個人主義的な心理が働き、
> 大前提として個人主義があるからこそ、その中においての集団主義的な心理が働くモノだと思うんです。
> そして、欧米や中東は個人主義が大前提だからこそ、その安全装置としての「教会」の機能であったり、
> 個人主義でも社会として機能させる為の「教義」があり、なので「宗教は絶対的な存在」なのですが、
> 日本の場合、集団主義な「ムラ社会」が、教会や教義の面を担っていたからこそ、
> いわゆる「無宗教」でも上手く回ってきたと。
> (逆説的に言えば、だから海外で「自分は無宗教だ」と言うと、危険視される訳です)
>
> もっと言うと、伝統的な「互助」のシステムというのは、別に日本だけに限らず、
> それぞれ形式は異なっても、東アジアでは結構普通に見られた社会構造なんですよね。
> 例えば中国なども、幇や朋といった横の繋がりが、安全装置として機能していた訳ですが、
> 近代化の波により、西洋的な価値観が広がる事で、従来の互助的な仕組みが壊れる一方、
> 西洋社会のように宗教による共助の仕組みが無く、共産主義による公助も失われつつある。
> その為、現在の中国では、世界的な新自由主義経済の潮流とも相俟って、
> 「個人主義の台頭」が非常に悪目立ちしている訳ですが、
> これも別に、中国人の中で急速に、個人主義的な意識が高まったと言うよりは、
> それ以外の部分が急速に薄まった事で、消去法的に残された個人主義が、目立つだけな気がするんです。
>
> そう考えると、日本も含め、今後の東アジア社会というのは、何かと苦労するかも知れません。
> ムラ社会の互助であれ、教会による共助であれ、掟や教義などによって、
> 理屈や感情ではなく、当然の感覚として「手を差し伸べる」という自動ルーチンが失われると、
> 強い思想・信念から「手を差し伸べるべき」とでも、ならない限りは、
> 「可哀想」と思った時に、「だから助ける」と「だから遠ざける」の差が薄くなりがちなんですよね。
> もちろん、助けないよりは助けた方が、当人的にも満足感が違うのですが、
> その為に要するコストまで考えた場合、結局、自分が心理的に楽になりたいだけなら、
> 大きなコストを掛けてませ助けるなら、小さなコストで遠ざける方が、メリットになる場合も多いので。
> 逆に言うと、掟や教義という「縛り」が存在する場合、助けない事によるデメリットが生じるようになると。


本当かどうか知りませんけど、欧米には存在する寄付の文化が日本には存在しないという話は聞きますし、
欧米の方がもともと個人主義的であり、かつ先に近代化しムラ社会が無くなった分、そうした状況へ対応するための社会的基盤がより分厚いというのはありそうですね。

> ちなみに、「自己責任論」に関しても少し述べておくと、その端緒となったのは、
> 郵政選挙に先立つ事 1年前、イラクで日本人3人が人質として誘拐された事件の発生でした。
> この一件が、小泉政権の強行した「イラクへの自衛隊派遣」にまで飛び火する事を恐れた為、
> 「イラクへ渡航した彼らが悪い(=政府に責任はない)」とする「自己責任論」を展開し、
> メディア世論に批判的だったネット世論を巻き込む形で、自己責任論が拡大していったんですよね。
> しかも当時は、小泉政権による「小さな政府&企業の規制緩和」の政策方針から、
> 民間でも、「コンプラ重視」という名の「責任回避(下への責任押し付け)」が始まった頃ですし、
> まあ正直な所、危険なイラクまで出向きボランティア活動をするのは、意識の高い左系な人たちであり、
> 被害者家族の政府批判も相俟って、右傾化しつつあったネット世論は、政府擁護&人質非難の論調でした。
> と言いますか、自民党のIPアドレスから、政府擁護&人質非難の書き込みが、大量投稿されてた記憶が・・・・
> ネット活動(工作?)という点では先進的だった一方、まだまだ稚拙でもあった時代です(苦笑)。


ああ、自己責任論はそんな感じだったんですね。

> > > > 例えば同じアニメを見ても、私が面白かったな、で終わるだけのところを、
> > > > 「こうこうこうで、めちゃ面白かった」とか感想言っている人を見ると、アニメを楽しめる感性と言いますか、
> > > > 何かに熱中してハマって楽しめる才能の差みたいなものを如実に感じさせられます。
> > > > そういう意味で、腐女子の人たちは毎日が楽しそうで羨ましいですし、私にももっとアニメを楽しむ才能があれば、
> > > > 人生もっとナノしいのになあ、と思うんですよね。

> > > いや〜、それは「才能の差」と言うよりも、「経験の差」と言いますか、
> > > より噛み砕いて言うと、「努力(費やした時間や労力)の差」だと思うんですよねえ・・・・
> > > デジタル・ネイティブな世代というのは、どうも手軽に答えを得たがると言うか、
> > > 探せば何処かに正解があり、それが見つかれば簡単に自分も出来るようになると、考えがちな感じがして、
> > > 前回、近年の若者層の特徴の1つに「マニュアル依存」を挙げたのも、
> > > 一昔前までのマニュアル依存とは また違って、コピペで それっぽく取り繕うのに慣れているというか、
> > > 能力を得る為に払うコスト(努力)を、軽視するというか、避けようとする傾向がある気がするんです。
> > > その結果、オタクには憧れるけど、努力するのは嫌なので、「推し」という結論に至ったのでは無いかと?
> > > (この事は確か、同著内でも指摘されてましたよね)

> > これに関しては、私は完全に否定的ですね。
> > 確かに、マニュアル依存というか、手っ取り早く、自分の頭で考えず、みたいな層が増えているというのも分かりますが、
> > 例えば腐女子の人たちが日々得ている、推しカプのキスを見て脳内麻薬がドバドバ出るのって、快楽としてはかなり上位に位置すると思いますし、
> > それは手っ取り早く快楽を得られるから選ばれているだけではないと思うんですよね。
> > おそらく「推し」というのも、同様なのではないでしょうか?
> > 私自身も、アニメのキャラで勝手に百合妄想とかしていると、その時の感覚は本当に人生で圧倒的に一番幸せを感じますし、
> > 毎日のようにそういった感覚が続く腐女子の人たちは、本当に人生の質が違うんだろうな、と思います。

> いや、ですから、そうした妄想力が豊かな腐女子の人たちというのも、
> 天賦の才なんて形で、何も努力せず、最初から豊かな妄想力を得ている訳では無く、
> 莫大な情熱を傾け、相応の時間なり労力を費やしたからこそ、それだけの妄想力を得ているのでは?
> 何事でも そうだと思いますけど、手っ取り早く、インスタントに、才能なんて開花しませんよ!!
>
> 最近、私は脳科学にハマっているので、少し専門的な話をすると(笑)、
> 「豊かな発想」をしようとする場合、まず必要となるのは、その材料となる豊富な情報量です。
> まともに材料が揃わなければ、大したモノは構築出来ませんし、細部も描けませんからねえ。
> そして、大量に得た情報は、それぞれを頭の中でグループ分けして、特徴に合わせて整理し、
> 何と何とが上手く繋がるかといった「学習(神経回路を強化・整理するヘブ則)」を重ねなければ、
> 新しい連想などは生まれず、つまりは「豊かな発想」も生じません。
> つまりは、「情報収集」と「学習」が何よりも必要ですから、弛まぬ努力は欠かせません!!
>
> また、最初から「人とは違うモノが見える」事を、「豊かな発想力」と表現するのであれば、
> 一見すると、それは「天才」と思えるかも知れませんし、そうした捉え方も可能ではあるでしょう。
> ですが、先天的に「人とは違うモノが見える」と言うのは、
> 「多くの人が普通に見えてるモノが見えない」事と同義である為、
> 言い方を換えると、良く言えば「個性」ですけど、悪く言えば「病気」や「障害」となります。
> 正直な所、著名な芸術家の中には、こうしたタイプの人物も確かに居るのですが、
> そうした人って、プライベートな面で多くのトラブルを起こし、その当人も苦労していたりするので、
> 恐らくは、旧トルコ担当さんが求めているモノとは、違いますよねえ?
>
> そうなると結局は、「普通の見え方も出来て、異なる見え方も出来る」となると、
> それだけの多くの経験を重ねる事が必要となり、
> その為には、多くの時間や労力を費やして、学習や情報収集を努力する形となります。
> そして、対象となる事が好きであるほど、努力を苦痛と感じる程度は落ちていきますが、
> どんな創作活動であれ、レベルが上がるほど、それを生み出す苦悩は比例して増していく為、
> 凄ければ凄い人であるほど、そうそう簡単に成果を得ている訳では無いはずですよ。
> 「幸せ」という観点から言えば、その絶対量は、上のレベルに行くほど高いかも知れませんけど、
> 苦痛や苦悩も含めた「相対量の幸せ」で測ると、平均より少し上と言う「中の上」レベルが一番かも?
>
> 「上の下」まで行くと、上の世界を覗けるメリットがある反面、
> 上位グループ内における劣等感に苛まれるデメリットも生じかねませんし、
> 上に行けば行くほど 幸せか?となると、必ずしも そうとは言い切れないと・・・・
> ちょっと話は違いますが、年収と幸福度の関係性を見ても、
> 億万長者であるからと言って、幸せであるとは限らず、
> 結局は年収1000万円くらいが、最も幸せな人たちが多いみたいな感じに似ているかも?
> そう思うと、例えばオタ活動で言えば、下手に同人誌を創作する側に回らず、
> コミケで心置きなく蒐集に勤しめるレベルくらいが、最も幸せを感じられるかも知れませんね(笑)。
> もちろん、創作活動でしか得られないコアな充実感もあるでしょうし、
> 無料で多少のアニメやゲームを嗜むライトさでも、それなりの満足感は得られるでしょうけども。


(1)なるほど、腐女子の人たちも積み上げがあるのか
(2)いや、そうやって積み上げられるのも才能であり、腐女子の人たちも楽しいから積み上げを行ってきたわけで、積み上げができない時点で才能の差だよ
の両方とも思いましたね。

あとはまあ、題材というのは重要なのかなと。
それこそ、腐女子的な発想の原点はクラスメイトの男子だと思いますし、
キモイかもしれませんが、私もほんのちょっとだけBLが分かるようになってからは、クラスメイトの男子でカップリングもしてました。
そういう意味で、やはり学生というのはオタク妄想力を伸ばすという意味でも、特権的な環境だったなと。

> > ちなみに、管理人さんのイメージしている「努力(費やした時間や労力)の差」による
> > 「アニメを楽しめるかどうか」って具体的にどういったイメージですか?

> う〜ん、例えば、同じ作品の視聴を何周もする事により、
> 初見時には気付かなかった描写や設定など、作品の細部に知れる事もあるでしょうし、
> 同じ作家の作品や、同じ分野の作品を、網羅的に視聴する事によって、
> その作家や分野に関して、体系的な見方が出来るようになる事もあるでしょうね。
>
> でもまあ、それらの行為って、余程好きでも無ければ単なる苦行でしょうし、
> コアなオタクであっても、常に楽しんでいるとは限らず、
> 時には、使命感や義務感で行う事もあるかと思います。
> ですが、それを乗り越えた先には、満足感や知見を得られる事が想像できる為、頑張れると。
>
> ある意味では、受験勉強とも、通ずる部分はあるでしょうね。
> 偏差値が30や40の段階であれば、少し努力するだけで、10くらいは簡単に上がるでしょうけど、
> 偏差値も60を超えると、かなり努力しても、1や2くらい上げるのに苦労するようになり、
> それでも、更に頑張る事によって、トップの大学を狙う事が可能となりますし、
> 逆に言うと、そこそこの努力で、それなりに名の通った大学に受かる方が、コスパは良いかも知れません。
>
> これはもう結局、個々人の理想や価値観の話かと思いますけど、
> 私の考えで言うと、オタク的に楽しめる層って、受験で言えばエリート層に相当するので(笑)、
> 知識の量が多く、感性が豊かなほど、同じ名画や歴史名所などを見ても、より深く楽しめるのと同様、
> アニメの視聴に関しても、事前学習による知識と感性が高ければ、それだけ楽しみの幅が増えるのでは?
> それこそ、前出の「カノッサの屈辱」にしても、歴史風味のパロディー番組として、
> 世界史の知識があった方が、それが無いよりも、確実に1つ上のレベルで楽しめるはずですし、
> 「このシーンは、あの作品のオマージュだな」とか読み解れば、アニメの視聴も同じ感じになるはずで、
> 腐女子的な「豊かな妄想力」とかも、こうした「深読み」や「邪推」から派生するモノな気がします(笑)。


私も好きなマンガ・ラノベに関しては、登場人物の関係図+出来事の因果関係を描いた図を作ったりしており、やはりかなりいろいろ気づけて楽しいです。
ですので、そういうのは把握したうえでの、「腐女子だったらもっと人生楽しいのになあ」でした。
それこそ、SNSでつながっている現在、その人のツイート頻度にもよりますが、ある程度私生活は把握済みというか(さすがに大げさ)、
その人が好きなアニメに対してどんなこと考えて、裏でどんなことしてるかも、ある程度分かってしまうんですよね(本人が自分でツイートするので)。
そうした割と裏側まで見えてしまった上での、「腐女子だったら」なんですよね。

> でもまあ、自分から「楽しい」を作ってる側にしても、
> 苦しんだり、辛かったりするかは別として、相応の苦労や努力はしているはずで、
> その部分を感じ取らずに、安易に羨んだり、嫉妬したりするのは、ちょっと違うかな?という気も。
> それこそプロの野球選手やサッカー選手だって、好きな事でメシを食えてるのは憧れますけど、
> あれが、どれほど高いレベルで、どれほどの頑張りや競争の結晶であるかを解っているか否かで、
> その見方だって大きく異なってくるでしょうし、小学生のように安直な思考には戻れないかな。
> 「スポーツ推薦で名門大学に入るのはズルい」なんて意見も、
> スポーツでそのレベル目指すくらいなら、勉強で入る方が遥かに楽な事が解っていれば、
> そう簡単には、そんな考えにも至らないとは思うんですよね(苦笑)。
> 大学への貢献度で言っても、スポーツ選手を上回る一般学生なんて、ほぼ皆無でしょうし。


その人の人生の一部だけを垣間見て羨んでいるわけではなく、ある程度まで見えてしまうのが、インターネットの悲劇だと。
この人毎日楽しそうだな、の毎日は、SNSの場合、本当に"毎日"を見て、楽しそうだなと思っている場合もあると。
まあ実際は、毎日が楽しそうな人より、「こいついっつも後ろ向きなことばっかり考えてんな」とか「こいつ毎日韓国人の悪口言ってるな」という方が見えてしまいがちですがw

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