| ▼ お米と部活動の話
> > その一方で、今の高校球児とか、身体が途轍もない仕上がりになってますけども、
> > 身体作りの為に、トンデモない量の米を食べさせられる為、
> > 今では練習よりも、食事の方が地獄・・・なんて事態に陥っていますね。
> > トレーニングを行い、エネルギーを補給すれば、確かにデカくはなるのですが、
> > 短い学生期間で結果を出す為に、無理な身体作りをさせられている面もあります・・・・
> 私の友人に二人ほどスポーツに力を入れている高校に通っている人間がいましたが、
> 二人共口を揃えて「食事が大変だ」と言っていました。
> 細かい分量はもううろ覚えですが、おにぎりのノルマ?みたいのがあって、
> それを毎日休み時間中に達成するのが非常に大変そうでした。
> いやはや、野球もスポーツも好きではありますが、こういう話を聞くと運動部の事は好きになれませんねぇ……。
日本のスポーツ界に、科学的トレーニングというモノが本格導入されたのが、
だいたい1990年代の中盤から後半に掛けてでして、そうした流れの中から、
食事トレーニング(食トレ)が始まるのが、2000年代前半頃からだったでしょうか?
とは言え、導入当初は詳しいトレーニング内容の情報とかも少なかったですし、
一部の専門家以外には、断片的な情報しか伝わってなかったのが実際の所ですね。
その為、それまでの練習風景の「とにかく走れ」という傾向のままに、
せっかく導入された食トレも、「とにかく食べろ」という傾向がありました。
まあ確かに、とにかく走れと同様、とにかく食べて運動すれば、
高校生や大学生なんて、身体が大きくなるのは事実なんです。
それこそ米は、それ単体で栄養のバランスが優れていますから、
筋肉を作るタンパク質にしても、それなりに含んでいますので。
とは言え、タンパク質の含有量で言ったら、当然ながら肉類が優れていますし、
米で身体作りに必要なほど食べると、今度は糖質を取り過ぎてしまいます。
まあ10代だと新陳代謝も激しく、しかも過酷なトレーニングを積んでいますから、
それでも太る事は少ないかも知れませんが、若いとは言え内臓に負担を掛けるのも事実です。
そういう意味では、「とにかく米を食え」と、ノルマを課して吐かせるまで食べさせるのは、
決して効率的では無い為、あまり褒められた傾向ではありませんし、
人間の3大欲求の1つである食事が、苦痛となってしまうのは、精神的にも望ましくありません。
ですから近年では強豪校ほど、「とにかく米を食え」という傾向は減ってきています。
「米は肉より安上がり」という、経済的な事情も実はあったりしたのですが、
少子化で学校経営も厳しくなる昨今、宣伝効果の高い学生スポーツには結構な金額が投じられており、
変に食費をケチるよりは、肉やサプリも十分に取らせて、トレーニング機材も整備して、
多少出費が嵩んでも、効果的に身体作りをさせる感じに、最近ではなってますね。
逆に言えば、未だに「とにかく米を食え」を続けている学校というのも、
トップ校から1歩遅れる立ち位置であるか、単純に資金不足とかの所でしょうね。
今の時代、本気に学ぶ気があれば、いくらでも情報は得られますから。
良いか悪いかは別にして、高校スポーツなんて2年ちょっとの短期間ですし、
そこで「結果」を求めようとすると、テクニック的な部分を高めるよりも、
パワー面を強化した方が効果もすぐに現れるので、目先の結果を求めるなら非常に有効ではあります。
とは言え、中長期的な選手育成を考えると、これはあまり良い傾向とは言えないんですよね。
ですので、例えば高校野球であれば、
「甲子園で活躍したいのか?」「プロで活躍したいのか?」で、
高校選びが重要になっている時代とも言えます。
> 全員がそうとは申しませんが、一部の指導者は自分が教え子の人生に
> 一定の責任を有していることを自覚していないように思えます。
> 「聖職者」とも言われる教職とはいえ、一々教え子の人生に責任を感じてはいられないというのは分かりますが、
> それなら教え子に干渉して人生を左右するような決断をさせるようなことや、
> 10代後半の最も多感で重要な時間を浪費させるようなことはしないでいただきたいですね。
> 平均値を取った時に、民主主義国家日本において最も民主主義的ではなく、
> 人権が無視され個人を蔑ろにされる集団が運動部だと私は確信しています。
> 勿論、「平均値」であって、そうではない運動部も多々あるとは思いますが……って大分脱線してしまいました。
この辺の話を始めると、私も長くなっちゃうんですよね(苦笑)。
8年前、維新の会が国政に進出するとなった際、
坂本龍馬の「船中八策」に倣い、国策の青写真となる「維新八策」を作るとなった時に、
面白そうだと思った私も、個人的に「私案八策」を考えた事があったのですが、
この辺の学校改革というのは、8項目のうちの1つに入っていたモノで。
そもそも論で言いますと、日本の「部活動」というシステム自体、世界的には特殊なんです。
多くの国では、こうした活動は地域のスポーツクラブやカルチャークラブが担っており、
学校で部活が行われているのは、アメリカやイギリス、そして隣の韓国あたりで、
しかも、日本のように毎日あるなんてモノではありません。
アメリカは季節ごとに活動(授業の一環)が分かれ、基本は試合ばかりで、練習は個人単位らしく、
イギリスや韓国では週に1〜2度くらいの軽度な活動であり、
毎日活動するのは、トップ選手を目指す極一部の養成機関的な学校のみだとか。
言い換えれば、これほど部活動に追われる子供たちは、日本以外には存在しないと。
なので、日本のアニメ好きな中国人の感想とか見ていると、
部活動にリアリティーを感じず、全国大会なんて天下一武道会みたいな架空の存在に思えるのだとか(笑)。
まあアメリカの部活でも、一部の大学競技を除き、全国大会はほとんど無いかな?
そういう意味では、日本の生徒たちは本当に忙しい訳ですが、
何も忙しいのは生徒だけでなく、顧問となる先生も同様なんですよね。
と言いますか、子供の部活は中高合わせて4〜5年ほどですけど、
顧問の先生はずっと何年もなので、家庭にいる時間が一切取れずに、
「部活未亡人」だとか「部活孤児」なんて言葉が、普通にあったりします・・・・
しかも、時間外手当や休日手当など、ほぼ皆無なサービス残業状態ですし、
元々大変な職業でしたけども、近年は更に教職の負担は増え、
しかも経費削減の影響で、先生の3〜4割が非正規雇用になってるみたいですからねえ。
この上、部活の指導もちゃんと行えと言うのは、かなり無茶な要求でしょうし、
マッチングの問題で、そもそも「競技経験のない顧問」というのも珍しくありません。
そこで、ようやく改革案の本題なのですが(笑)、
放課後や休日の学校は、公的なスポーツクラブやカルチャークラブとして、
開放するのが1番だと思うんですよね(運営は民間や地域ボランティアでも構いません)。
例えば、ドイツやイタリア、スペインなどの海外の総合的なクラブ文化は、
それはそれで優れたモノであると思う一方で、やはりお金が必要になってきますから、
各家庭の経済事情に左右されず、誰でも参加しやすい部活文化は活かす形にして、
競技経験のない先生より、その競技で実績のある経験者に学ぶ方が、ずっと良いでしょうし、
引退したスポーツ選手のセカンド・キャリアの場としても、有効活用できると思うんです。
また、閉じられた学校環境の中で、教師と生徒という上下関係があるから、
パワハラやセクハラ、モラハラの温床とも成り得る状況を考えると、
こうして地域社会にオープンにした方が、そうした問題も起こり難くなる気がします。
理想を言えば、人気競技なら1つの学校に複数のクラブやチームがあっても良いでしょう。
そして地域社会に開く事で、学生時代が終わると、途端に活動の場を失う日本社会の欠点を、
こうすれば改める事が出来るのでは無いでしょうか?
まあ、この辺の具体的な方策とか中身に関しては、
これ以上書くと長くなるので、今回は控えておきますけども(笑)、
Jリーグのユースとかは、なかなか上手い事やってる感じはするんですよね。
とりあえず、部活動で見られるような上下関係が、ほぼ皆無ですし、
指導者の方も、指導者ライセンスの保持が必須となってきます。
また、子供たちが楽しむスクールから、トップ選手を育てる育成まで、
クラスが分かれながらも、全体的には1つに繋がっていますし、
現実的な問題となる財源面も、商業スポーツとの絡みから打開策があると。
甲子園の商業化が問題視されたりしますが、アメリカの大学スポーツは途轍もないです。
それこそ大学アメフトなんて、年収100億円超の学校が全米にゴロゴロあります!!(笑)
確かに、学生スポーツの行き過ぎた商業主義は問題でしょうけども、
(弟が東京六大学野球でプレーしてたので、逆指名の裏話はたくさん聞いてます・苦笑)
環境整備に当てられて上手く回せるなら、清貧で環境が悪いよりは望ましいのでは?
甲子園は目立つから批判も多いですが、意外と環境面は恵まれている方であり、
財源的に厳しい他競技の部活動など、本当に酷い環境だったりして、
夏の全国大会にしても、インターハイの過密日程は、甲子園大会の比ではありませんが、
注目度が圧倒的に低い為に、その事を誰も問題視しない実状があるんですよねえ・・・・
言い換えてしまえば、高校野球批判さえ、ビジネスの一環になっている訳です。
世間の関心が薄いインターハイを批判しても、特にカネにはなりませんから。
最後に、昭和育ちな私からすると、近年はかなりマシになったとは言え、
特に運動部が育む「理不尽な上下関係」というのは、確かに問題アリですよね!?
例えば、「部活動は教育の一環」とか言ったりしますけど、
結局それって、上意下達な「企業戦士」を育てる為の教育であって、
とにかく頑張れば上手く行った、右肩上がりの高度経済成長期ならまだしも、
今の時代、それではまともな戦力にはなりませんから・・・・
って、日本の部活動にしても、昔からそうだった訳ではなく、
戦時中、各学校に軍人が配置されて、軍事教練が行われたり、
戦後、戦争帰りの顧問が、軍隊的な組織教育を行った影響だったりします。
近代化では日本の影響が強い韓国でも、部活のあり方は まるで違いますし、
日本の戦前の部活動は、それこそ今の韓国の部活動のイメージに近いかも?
そういう意味では、単に世の中の変化というだけでなく、
戦中派指導者の引退というのも、部活動の変化に影響を与えているのかも知れません。
ただ一方で、やはり運動部を経験していると、体力や精神力は鍛えられますし、
特に団体競技ともなれば、チームワークの働き方が身に付くのも確かです。
そういう意味では、近年は少子化の影響もあって、
最低でも9人必要な野球や、最低でも11人必要なサッカーなど、
部活だけでなく遊びの中も含めて、団体競技を経験できる機会は減少しており、
個人主義な時代もあって、部活の方でも個人競技の部員数が増えている実態があるとか。
まあ世間的にも、ランニングや筋トレが流行っているのは、
「1人で行えるから」という理由が、かなりの割合を占めている気がします。
もちろん、それはそれで一向に構わないとは思うのですが、団体競技を経験しないと、
チーム内での競争とか、チームで1つの目標に邁進するとか、
そういった組織的な振る舞いみたいなモノを、身に付ける機会が少なくなる可能性も?
それはそれで、1つの問題点になってるかも知れませんよねえ・・・・
異なる他者の存在を認め、協力し合わなかれば、チームとして勝利は掴めず、
自分1人で好き勝手やっていては、どうにも上手く事が進まない世界ですから。
とは言え、団体競技で得た経験を、他の場で活かせてるかは人次第ですけどね(苦笑)。
それこそ以前おっしゃてたように、立派な先生が専門外の分野で暴言を吐く事があるみたいに。
> > > 特定の食物が原因で何度も暴動が起こった国って他にあるんですかね?
> > > 「飢饉」が原因と言えばありふれているんでしょうけど。
> > それこそ、日本が稲作に偏ってた証なんでしょうね。
> > 江戸時代は米が全ての基準でしたから、稲作に適さない地域の藩でも、
> > 無理して米を作ってましたし・・・・
> うーん、他のアジア諸国でもそこまで稲作一辺倒の食糧事情だったら分かるんですけど、
> 多分そうではないですよね。
例えば中国は、温暖で水資源が豊富な南北では水稲がメインですけど、
寒冷で水資源に乏しい北部では小麦がメインですからねえ。
ラーメンや餃子といった小麦粉料理が、まさにそれです。
また、欧州だとドイツやアイルランドなどで、
新大陸から渡ってきたジャガイモが普及し、人口の増加をもたらしたように、
中国の清王朝においても、痩せた土地でも育つトウモロコシの普及が、人口増加を支えました。
それを思うと、江戸時代の日本でも、もっとサツマイモが普及して良さそうな所ですが、
サツマイモは人のお腹を満たしても、お金の替わりにはなりませんからねえ。
これは次の話にも関わりって来ますけど、当時の白米は経済の中心にあった訳で、
現代的な感覚で喩えると、田んぼで白米という「お金」を作っていた感じですから、
単なる食糧生産以上の意味合いがあったのは、事実でしょうね。
> 日本人は何故ここまで稲作に傾倒したんでしょうね。
「五穀豊穣」なんて言葉があるくらいですし、昔からそうだった訳ではなく、
やはり、石高制を用いた江戸幕府が250年以上も続いた事が大きかったのかと?
農民が収める税も、武士が受け取る給料も、どちらも米だった訳で、
誤解を恐れずに言うと、商人たちの貨幣経済とは別に、
国の中心では「米本位経済」が成立していたとも言える訳ですね。
それこそ、言うなれば、税金ではなく税米であり、給金ではなく給米という、
支配階級の武士も、大多数を占める農民も、この米本位な世界に生きていましたから、
必然的に、白米が「特別な存在(経済の価値基準)」になったのだと思います。
> > まあ、「マンネルヘイム」というハンドル名自体が、
> > ソ連との冬戦争を戦ったフィンランドの英雄 そのままの名前でしたので、
> > 早くから記憶には残った一方、個性の特定は却って邪魔をした感じだったかな?
> 今思うと畏れ多いハンドルネームを名乗ったものだと思うのですが、
> 当時、「自分と一切関わりのないハンドルネーム(間違っても特定には至らないハンドルネーム)」
> かつ「忘れないハンドルネーム」を名乗ろうと考えた結果、
> このサイトに辿り着くまでの過程で触れた冬戦争のフラッシュ動画から名前を頂くことにしました。
まあ、私の「徳翁導誉」というハンドル名も、
私が好きな南北朝期の婆娑羅大名・佐々木道誉の法名から採ってますしね(笑)。
(当時、道誉の領国であった近江に住んでいたという事も影響しました)
▼ 政治と今後の日本についての話
> > > 特に親学って何なんでしょうね?
> > > 特定の生き方を好む男性と特定の生き方を選んだ女性以外の個人を個人として認めない思想ですよね、あれ
> > まあ、ああいうのは「ゲーム脳」とかと同じで、
> > まず先に、自分たちが欲する結論があって、
> > それを正当化する根拠みたいなモノが、後から作られる感じですからね。
> > ですから、「自分は正しい」と思えれば、それで十分な訳で、
> > それが「本当に正しい」事なのかは、特に関心が無いモノなんだと思います。
> > 正直、個人が勝手に行う分には、好きにしてくれって感じですけども、
> > それを政治的に世間にも広めようとする所が、面倒な所ではありますが・・・・
> 日本の教育政策は客観的な統計に基づいていないとよく指摘される所です。
> 「親学」なんて代物が政治家の間で平気で語られるのは、
> 教育政策が個人個人の「教育論」で議論されている土壌が原因でしょうかね。
学校教育って、誰もがその経験者ではある為、
多くの人が、自分が評論家の如く語れてしまう分野ではあるのですが、
でも、それって結局は、一個人の経験や感情に過ぎない事がほとんどですからね。
もちろん、それを自覚した上で、多種多様な見解を許容できるのであれば、
「総評論家状態」というのも、決して悪い事では無いと思うのですが、
自分の価値観が正しいと信じて疑わないと、面倒な混乱を招くのが目に見えていると。
そういう意味では、今年度から「道徳の教科化(評価化)」が始まりましたけど、
正解が用意された道徳なんてモノは、良い影響どころか、悪い影響を及ぼす事さえ、
気が付けていない時点で、「どの口で道徳を語るのか?」とは思ってしまうんですよね。
> > また、ネット上で同意見ばかりに囲まれていると、自分の意見こそ多数派だと疑う事がない。
> > 特に最近のAIは優秀なので、自分が欲しい情報ばかりを与えてくれますからねえ(苦笑)。
> > 注意しないと知らない内に、自分にとって都合の良い情報に囲まれる状況になってしまいます。
> そうですね。私はあまりニュースサイトを見ないのですが、
> やはり都合の良い情報に囲まれたくないという思いからですね。
でも一方で、ネットで各紙の記事を読めるようになった事で、
同じ記事の「読み比べ」というのは、非常に簡単に行えるようになりましたからね!!
ネット普及以前の、実際の新聞での読み比べを考えれば、手間も費用も雲泥の差です(笑)。
諜報機関の情報収集さえ、その8割は公開情報(オシント:Open Source Intelligence)と言われてますし、
複数の記事を読む事で、事態の全体像が見えてくる事は、決して珍しくないと思います。
それを思うと、「ニュースサイトを見ない」というのも、損な気はするんですよね。
> > > > まあ、それはそれで別に構わないのですが、愛知県知事をリコールするには、
> > > > 2ヶ月間で、県民86万人の署名&捺印が必要なんですけど、実際どれくらい集まるんでしょ?
> > > > とてもじゃないですけど、リコールが成立する数なんて集まらないと思いますけど、
> > > > どれくらい集まるかというのは、正直ちょっと興味はありますね(笑)。
> > > ここが一つの分水嶺ですねぇ。この悪辣であるか、愚鈍である人々の行動によって全国の政治家に対し、
> > > 負の委縮効果が発生している事だろうと思いますが、この上このとち狂ったリコール運動が成立だけでもしてしまうと、
> > > もうまともに国民を代表して行政を統括しようという政治家は居なくなるんじゃないかなぁ。
> > う〜ん、個人的には、そんな大層なモノとは感じてません(笑)。
> > リコール運動自体は、憲法や法律で認められた、歴とした国民の権利ですし、
> > 現在、愛知県以外にも、カジノ誘致に絡んで横浜市長へのリコール運動が起こっています。
> > それに都道府県や政令市の規模だと、リコール成立の条件を満たすのが、ほぼ非現実的です。
> > この規模でリコールが成ったのって、2011年の名古屋市議会解散くらいじゃないですか?
> > それこそ、成り行きを粛々と見守れば良い訳で、成立が非現実的な以上、
> > これらもまた政治的パフォーマンスと考えれば、下手に騒ぐだけ彼らを利するだけです。
> > 行き過ぎた行為があれば、社会的には勝手に自滅して行くでしょうし。
> 確かに……成立しない公算が高いというのは同感ですが……。
> 政策的な反発でのリコールでは無く、行政権が行政の本分を果たした結果としてのリコールというのは
> 各首長に与える動揺も大きいのではないかと思いました。
良い悪いは別にして、その行政の仕事が「納得いかない」と言うのですから、
それはそれで、批判をする権利も、リコールを起こす権利も、有権者にはあると思いますよ。
ただし、「デマ拡散が〜」とか、「サイバー攻撃が〜」とか、「盗聴器が〜」とか、
よく解らない敵と必死に戦っている姿を見ると、何だかなぁ・・・って気持ちにはなりますけど。
> 果たして何票集まりますかね……。
さあ?
こういうのは私も苦手なモノで(苦笑)。
でもまあ、名古屋市議会がリコールされた時には、36万9008名分の署名が集まりましたから、
愛知県の人口は名古屋市の3倍以上とは言え、この時の数字を超えれば上出来では?
(仮に2倍以上集めても、86万人のラインには遠く及ばないので、成立はまず無いです)
とは言え、正直、それすら難しいとは思いますけどね。
あの時の狂騒的な雰囲気はまるで感じませんし、そもそもこの騒ぎを知らない層も多いのでは?
そういう意味では、個人的に20万人を超えれば「凄いな」と思いますし、
逆に、100万人突破を謳っておきながら、10万人にすら達しないようなら、
彼らの本気度を疑ってしまいますね。 ただ騒ぎたかっただけかと?
有名人が頑張って活動すれば、リコールに興味ない層からも、それなりには集まると思えますし。
とりあえず、思うように集まらなかったから、非公表という結果だけは辞めてもらいたいですね。
でも、選挙管理委員会に提出できるほどの署名数が集まらなかった場合、
その数字は言った者勝ちになるのかな? 署名自体を公表する事は無いでしょうから。
それを思うと、他県民や実在しない人物、1人で複数回の署名などがあっても、
選管のチェックが入らなければ、弾かれない恐れがありますし、
選管に提出しなければ、実際には10万人分しか集まらなかったとしても、
「80万人分は集まって、あと少しだったのに」と自称するのは勝手ですからねえ。
ですので結局、正式に提出できるくらいの署名数が集まらない限り、
公的なチェックが働かないので、実際の数字など本当の所は解らないとも言え、
数字に関しても、そこまで気にする程のモノでは無いかも知れません。
> > それと、日本政治の分水嶺という意味では、その時期はとっくに過ぎたかな?と・・・・
> > 旧民主党は既に勝手に自壊しましたが、自民党だって信頼をもう失ってますし、
> > このまま既存政党への不信感が高まり、ポピュリズムの台頭を許せば、
> > 右に左にへと極端な意見に揺さぶられ、外国と衝突して一丁あがりと。
> > 正直、今ここから政治的に好転するシナリオを、私はまるで思い描けません(泣)。
> > 逆に質問となりますけど、好転するシナリオって何か浮かびます?
> 思い浮かばないです。
> ただ好転する条件として漠然と考えているのは、中国との関係でしょうか。
> そう簡単な話では無いとは思うのですが、日本がアジアの大国であろうとすることを諦め、
日本がアジアの大国として振る舞おうとしたのは戦前までの話で、
戦後に関しては、極東の西洋と言いますか、名誉白人意識みたいなモノが強く、
ドイツがEUという名の「第四帝国」を築いたみたいに、
日本もアジアで「大東亜共『円』圏」を築こうと主張する人たちもいましたけど、
それは少数派でしたね(私もそんな少数派の1人でした・笑)。
実際、20年くらい前まで日本人は、自分たちが「アジア人」と見なされる事を嫌ってましたし、
そして、日本にそうしたチャンスがあったのは90年代までの話で、
今となっては日本がどう振る舞おうと、アジアにおける中国の勢力拡大は止められないでしょう?
でもまあ、それでも考えると、日本にカードがあるとすれば、
アメリカ離脱後も、日本主導で成立させた「TPP11」の存在でしょうか?
日本の存在感を残したまま、このTPPを更に強化して、
その上で、中国やアメリカが参加したくなるように仕向けていくと。
米中関係にしても、トランプ政権は2国間交渉でやってるから、
纏まる時は協力でも、対立する時は激化してしまう訳で、
薩長同盟を取り持った土佐藩じゃないですけど、
米中の間を取り持てるくらいTPP自体を強くし、日本は坂本龍馬になりたい所でしょうか?(笑)
まあ別にTPPじゃなくても良いのですが、既存の枠組みは有効活用した方が得でし、
とりあえずTPPを強化するなら、まずはASEAN全体を参加させる所からでしょうね。
現状ですと、ベトナム・シンガポール・マレーシア・ブルネイは参加してますけど、
タイ・インドネシア・フィリピン・ミャンマー・カンボジア・ラオスはまだです。
ASEANの経済面を日本や豪州&NZに拡大すると言いますか、
日本と豪州&NZが南北からASEANを挟み込み、この軸を強くしていくと。
その上で、インドを取り込めれば、市場規模としてかなり違ってきますよね。
この段階で中国に声を掛ければ、一方的な中国主導になる事は無いでしょうし、
逆に言うと、早い段階で中国が参加してしまうと、中国にTPPを支配される事になります。
まあ元々アメリカが支配しようとしていた所を、向こうから勝手に下りた訳で、
そのまま替わりに中国が入ってこられると、それはそれで面倒ですよね(苦笑)。
とは言え、中国が本格的に加わりそうになれば、アメリカも戻らざるを得ないかと?
こうした米中の綱引き要素を抱えているのは、TPPにとって、ある意味では利点ですし、
米中の綱引きに参加国が振り回されない為にも、強力な軸作りが必要かと思われます。
また、そんな中で日本が存在感を発揮しようとするなら、
日本単独でと言うのは正直厳しいので、だからこそ、
戦略的パートナーとして、韓国や台湾の協力が欲しい所なのですが・・・・
ぶっちゃけ、韓国や台湾の競争力が高まってしまう前に、
経済版の大日本帝国の復活として、日・韓・台の共通市場を築き上げたい所でしたが、
経済的利益以上の政治対立があり、その関係は悪化するばかりですからねえ。
世界的な競争社会の中、近い価値観の者同士は、競争よりも協力の方が利益が上がりますし、
韓国や台湾が追い付いてきたとは言え、日本にはまだ一日の長と人口規模がありますから、
難しいかも知れませんけど、今からでも連携を模索すべきだろうとは思っています。
まあ、台湾は中台関係があるので難しいですけど、せめて韓国とくらいは。
これは別に親韓派という意味ではなく、単純に日本の国益を重視する意味で。
> 中国がアジアの大国であることを認められれば、
> 中国との結びつきが強まり多少は経済が好転する余地もあるのかな、と。
政治の話ではなく、経済の話なんですか?
まあ別に構わないですけど、では中国に何を売りましょう?
これは以前した「これから日本は何で食べていくか?」という問いにも繋がりますが、
これから更に中国が発展していった時に、日本から買いたいモノって何なんでしょう?
現在でしたら、日本から精密部品を輸入し、中国で組み立て、アメリカで売るという流れがあり、
相応の需要はありますけども、組み立てまで国内で行っていた頃に比べると、日本の儲けは低くなり、
また、韓国や台湾のように、中国も技術的に追い付いてくれば、
日本でなければ作れなかった部品なども、中国国内で製造できるようになっていきます。
それこそ日本の家電産業なんて、一気に飲み込まれちゃいましたからねえ・・・・
もう1つの柱である自動車産業も、家電の時の後追いをしつつある状況に見えますし。
あと、中国市場は自由主義経済ではないと言うのも、大きな足枷ですよね。
簡単に言ってしまえば、中国市場は共産党政権による様々な規制が掛けられている為、
中国が先進国市場に進出するのと同じ様な条件で、先進国側は中国市場に進出できませんから。
確かに戦後の日本も、国内需要をキープした上で、貿易輸出で黒字を生む構造でしたが、
中国のそれは、市場規模も規制度合いも、当時の日本とは段違いですからねえ。
世界のネット市場が、アメリカのGAFA(Google・Apple・Facebook・Amazon)に飲み込まれる中、
中国はネット鎖国を行い、自国のBATH(バイドゥ・アリババ・テンセント・ファーウェイ)が台頭し、
GAFAレベルとは言えないものの、それなりに戦えるレベルには成長してきており、
デジタル産業の技術面において、一部は既に日本を上回り始めているのが実際の所です。
個人的には、AI技術で中国に追い抜かれたのは、結構な衝撃でした。
で、こんな中国に、これから日本は何を売りましょう?
もちろん、中国市場は巨大ですから、これからも中国の発展が続いて、
全体のパイが増えていけば、日本にもチャンスは多くあるとは思います。
1人っ子政策により、人為的に進められた少子高齢化の歪みは、
恐らく数十年後の中国にとって、想像できない程の大きな負担を強いるでしょうけど、
まあ、それは中国の国内問題であって、外国人である我々には関係ありません。
例えば海外のアニメ・ファンからすれば、今後も日本が良作を生み出してくれれば良く、
日本の少子高齢化問題など、彼らにとっては別に関係がないように、
中国が日本の人口の4〜5倍という大量の貧困層を抱えていたとしても、
中国が日本の人口以上の富裕層を抱えている方が、日本経済にとっては重要となります。
ただ一方で、軍事や研究といった国家戦略の部分では、国民1人あたりの収入など関係なく、
とにかく国家全体で扱える予算や人員の規模の話になってきますから、
人口が多いほど国内問題の大変さは増しても、その人口自体が国力ともなります。
そういう意味では国際的に見た場合、日本は人口が減少しても、世界的には人口大国であり、
それはそれで、今後も世界的に存在感を示していけるかも知れませんけども、
しかし欧州の小国のように、限られた産業だけで国民全体を食べさせていく事は出来ない以上、
「これから日本は何で食べていくか?」というのは、日本にとって本当に大きな課題であったりします。
> > > 維新支持者って考えると割と大きい一握りなのかもしれませんけど、
> > > 大阪府民とか、国民って観点で見ると、大多数は「どうでも良い」でしょうし、
> > > 支持する一握りと同程度の反発もある訳で……。
> > 維新支持者だからと言って、必ずしもリコール賛成派では無いでしょうし、
> > 大阪中心の地域政党である維新は、愛知県に支持基盤を持っておらず、
> > それに何より、維新が党としてリコール運動に乗った訳では無いですからねえ。
> > この件で維新以上に影響があるのは、名古屋の河村市長が運動に乗った事です。
> > 何だかんだ言って、名古屋での河村人気は、それなりに高いので。
> > とは言え、積極的にリコール賛成派になるかとなると・・・・
> > ただ1つ言えるのは、愛知県と名古屋市が敵対しても、地元に何の得も無い事です(泣)。
> 仮定の話として、リコールが成功したら誰が大村知事の対抗馬として次の選挙に出馬するんでしょうかね?
> 河村さん自身か、その支持者とか?
それこそ、発起人となった5人のうちの誰かが立てば良いのでは?
でもまあ当人たちでさえ、正直そこまで考えてはいないと思いますよ(苦笑)。
現実的には、河村市長が率いる地域政党「減税日本」から出すのが無難でしょうけど、
ハッキリ言って、本人以外に勝てる手駒が皆無ですからねえ・・・・
前回の衆院選では希望の党から、参院選では維新との共同公認で、候補を立ててますし、
国政どころか県政でさえ、1議席しか獲得できていないのが現状です。
ぶっちゃけた話、自らが知事選に鞍替えして、市長選には代替を立てたとしても、
両方とも負ける可能が普通に有り得ますし、逆に言えば、それほど脆弱だからこそ河村は、
当時、自民党の衆議院議員だった大村を、愛知県知事に転身するよう口説いた訳ですね。
今では嘘みたいですけど、10年前には2人でタッグを組み「中京都構想」とかブチ上げてましたし。
> 昔、確か専決処分を濫用して鹿児島の方で市長のリコールが成立しましたが、結局再選されてましたよね。
阿久根市の竹原市長の事でしょうか?
でしたら、リコール後の出直し市長選で落選してますよ。
その後、市議会議員としては当選しましたけどね。
村や町ならまだしも、市の規模だとリコール成立自体が高いハードルですし、
リコールで失職した市長が再選したケースは、恐らく無かったかと思います。
また、知事や政令市長となると、リコールの成立すら無かったはずです。
やはり対象人数が増えると、それだけ困難って事ですよね。
> > > それで「吉村知事大丈夫か?」と思ってたら派手にやってくれましたね。
> > > 「うがい薬がコロナに効く」は目を疑いました。
> > ハハハッ、やはり あのイソジン会見にはビックリしましたよね!?
> > 維新の会ならぬ、イソジンの会とか揶揄されてますし(笑)
> 話はやや変わりますが、このイソジン騒動を受けてメディアがどう動くか見ていましたが、
> あんまり吉村さんを批判しない感じですよね。橋下さんが露出して積極的に庇ったのもあると思いますが……。
> 橋下さんに古館さんが丸め込まれているのを見て、メディアの人たちもやはり人間だなぁと感じました。
> 人気のある政治家の批判は出来ませんし、橋下さんが「あれは確かにやり過ぎだった」とか
> 出鼻を挫いてきたら何となく責めるのが悪い気がしちゃうんでしょうね。
う〜ん、私もそんなにメディア情報を追っている訳ではありませんけど、
例のイソジン会見に関しては、普通に批判的な姿勢が多かった気が?
もちろん、明確にと言うよりは、どちらかと言えばという感じでしたけど。
そして、橋下さんが出演される番組は・・・まあ、そういう雰囲気になるでしょうね。
番組側の立場的には、「出演してもらってる」扱いのゲスト接待になりますし、
逆に当人的にも、自分が有利に立てない番組には、そもそも出演しないタイプだと思います。
大阪知事時代、市町村長たちから吊し上げを喰った時には、泣いちゃってますから。
でもまあ、「勝てる相手としか戦わない」というのは、イメージ戦略的には重要ですよね!!
ついでに言うと、タレントも、政治家も、弁護士も、イメージ勝負の世界でしょうし。
ただ一方で、古舘伊知郎の方はどうなのか・・・・
若い世代からすると、やはり報道ステーションの印象が強いのでしょうが、
私たちの世代だと、プロレスやF1の実況の方がイメージ的に強く、
あの頃の古舘を知っていると、報道ステーションの古舘は窮屈さに満ちてましたし、
そもそも報道畑のアナウンサーじゃないので、あまり詳しく無かったですからねえ。
もちろん、それを補うべく、当人としては努力してたのも知ってますけども、
何も不得意な分野で勝負しなくても?とは、正直思ってましたし、
それでも拘ったのは、実況よりも報道がアナウンサーの王道という気持ちが強かったのか?
とは言え、やはり前任者の久米が天才的だったので、それと比較されるのは厳しかったですし、
報道ステーションを退いた後も、あまり活動が思うように行ってないのは、
こうした空回りを経た結果のようにも思えます。
今回の件は私も伝聞では聞いたものの、実際の映像は見ていないので、何とも言えませんが、
それこそ、1999年に行ったトーキングブルース「お経」は伝説になってますし、
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27330176
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27330198
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27330216
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27330234
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27330251
古舘が得意な方面で思う存分、その才能を発揮してもらいたい思いはあるんですけどね。
▼ 殺人の否定と自由について
> > > ……と長々と書いていて思ったのは、「殺しなさい、ただし君も殺される」というのはまさしく至言といいますか、
> > > 本質を突いているな、と。
> > > ただ個人的には「殺されたって良いさ、殺してやる」という逃げ道を封じたいと思いました。
> > え〜と、この場合、「人を殺す自由」とかって、どう処理されるんでしょ?
> > 「なぜ人を殺してはいけないのか?」というのは、まさにそういう話ですよねえ。
> > 何だか、極端な話をして、煙に巻いてるような印象を受けるかも知れませんが、
> > 例えば江戸時代までの日本には、仇討ちという「人を殺す権利」が法的に存在しました。
> > つまりは、人を殺す権利というモノを、世間の方も容認していた訳ですね。
> 江戸時代までの社会では万人に平等な権利が与えられていた訳では無く、それについての議論も深まることは無く、
> 今改めて「人を殺す権利」について考える時に、かつて「人を殺す権利」が存在したことは
> それが妥当であったかどうかの検討対象にはなり得ると思いますが、
> 今「人を殺す権利」を肯定する根拠とはならないと思います。
> 仇討ちについて考えると、「何故尊属の敵討ちは認められ、卑属の敵討ちは認められないのか」等、
> 今の自由主義的価値観から検討して妥当ではないと考えられる点が多いと私は考えます。
んん?
え〜と、そうなると、「人を殺してはいけない」というのは、
人類社会において、普遍的なテーマという捉え方では無く、
今の日本の価値観だとダメだから、ダメだという話になるのでしょうか?
そうなると結局、社会が変われば、価値観だって変わる訳で、
場所や時代が異なれば、「人を殺してもOK」と言ってるのに近くありません?
私としては、普遍的な価値観として「人を殺してはいけない」と唱えてると思い、
江戸時代や独裁国家の例を出した訳だったのですが、
本当にそうだとすると、コチラの話の前提も大きく違ってきますね。
あと、それだと、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、
「今の大方の日本人はそう考えてる」というのは、確かに同意できるものの、
根拠としては、かなり弱くなってきませんかねえ?
法治主義の現代社会において、殺人を犯せば罰せられる一方で、
殺人行為自体は、別に法律では禁止されていませんので。
また、「禁じられてなくても、罰せられるからアウトなんだ」という事であれば、
法改正で罰せられないようになれば、セーフだという意見に変わるのでしょうか?
まあ、さすがに殺人罪では、そんな簡単に法律は変わらないでしょうけども、
それこそ先日、俳優の伊勢谷友介が大麻所持で捕まりましたが、
欧米では大麻が合法な国だってある訳ですからねえ。
「そんなのは合法な国がおかしい」と言うのは簡単ですけど、
科学的に言えば、大麻よりもアルコールの方が、遥かに危険なドラッグですし、
中東では飲酒が違法な国だってある訳で、この辺の価値観は意外と明確ではありません。
でも、そこを押し通すと、最後は「ダメなものはダメ」としかならない気がしますし、
それでは「なぜ人を殺してはいけないのか?」の、真摯な答えにはならないように思えるんですよね。
> > では、「人を殺す自由」に関しては、どうでしょうか?
> > 「そんな自由など、そもそも存在しない」と、頭から否定してしまうのは簡単ですが、
> > 実際の所、そうした価値観が存在しないと言う訳ではありません。
> > これはただ単に、「殺されない自由」を支持する人数が、
> > 現状、殺す自由よりも、圧倒的多数であるからという話であり、
> > マンネルへイムさんの言葉を借りれば、衝突する自由権の結果と言っても良いかも知れませんね。
> 少し違います。私は今「殺されない自由」を支持する人が多いからそれが正しいと言っているのではありません。
> ロールズの考えにかなり影響を受けているのは自覚していますが、
> 要は、仮定の話として人間が無知のヴェールの中にあるときに、
> 殺す権利と殺されない権利を比較してどちらを選ぶかという話です。
> 無知のヴェールの中にありますから、
> 自分が軍人か、プロレスラーか、大学生か、赤ん坊なのか、それすらも分かりません。
> そんな状況で殺す自由、奪う自由、騙す自由、そんなものを肯定できるでしょうか。
> 肯定できないとすれば、それらを否定する方向に合意が形成されます。
> その形成される合意、それこそが最も普遍的に近い価値観であるはずです。
う〜ん、私は理系の人間なので、高校で政経倫理を取っておらず、
こういう具体的な哲学者や用語が出てくる話は、正直言って苦手なのですが、
(でも、こうして振ってもらえると、調べるキッカケになるので良いですけど・笑)
殺す自由も、奪う自由も、騙す自由も、「生きる自由」の前では、
必要とあれば、全てが肯定されるのでは無いでしょうか?
豊かで平和な日本に暮らしてると気付き難いですけど、
生きる為に、騙し、奪い、時に殺す事も、世界では特に珍しくは無い事ですし、
「殺す権利/殺されない権利」と捉えるから、白か黒かの二者択一的な見え方になるだけで、
「殺す権利/生きる権利」と捉えれば、それぞれ共存していても、おかしく見えないのでは?
実際、自然界においては、食べる者と食べられる者とが存在している訳で、
それはもう「弱肉強食」という世界として成立しており、どっちがどっちでは無いと。
もちろん、理想論を言えば「誰もが殺されない世界」は望ましいでしょうけど、
現実はそうじゃないですし、「無知のヴェール」とか空想的な思考実験を持ち出しても、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いの答えとしては、
ほとんど響かない気がしちゃうんですよねえ・・・・
「無知のヴェール」に対して、「負荷ありし自己」とか言うんですか?
ロールズという名前が出たので言うと、こうしたサンデル的な批判にどう応じるのでしょ?
・・・と、何だか それっぽい返しをしてみる遊び(笑)。
> > とは言え、これもあくまで「現状」であって、常に普遍的な価値観であるとは限りません。
> > 例えば独裁政権下において、不当な犯罪も裁かれない世の中であったとします。
> > この場合、「殺されたって良いさ、殺してやる」というのが、本当に否定されるのでしょうか?
> では「法の庇護が無く、殺人を肯定しなければ殺される」としたら、肯定する方向で合意できるでしょうか。
> 恐らく、自身が殺さなければ殺される状況にある危険性から、合意に至れるものだと思います。
> 先の仇討ちの例と絡めて具体化すると、こうなります。
> 母を殺した男がそのまま襲ってきた場合、抵抗の結果として殺人が発生してしまう事はやむを得ないでしょう。
> 母を殺した男がそのまま去った場合、それを追いかけて殺すことは許されないでしょう。
> 母を殺した男を、政府が裁かなかった場合、その政府に反抗し独裁者を殺害することは、
> 法の庇護を回復し、自身の命を守る為に限定的に許される余地もあるでしょう。
えっ、追いかけて殺すのはNGで、裁かない独裁者を殺すのはOKなんですか!?
何だか、ここの論理はよく解らないです・・・・
無知のヴェールみたいな感じに、人を殺して良いかダメかは、
理想的な政府統治がある事が大前提で、成り立つ価値観なのですか?
正直な所、無理に全てを正当防衛に落とし込もうとして、変な歪みが出ちゃってる印象です。
> > また、それ以外にも、死刑執行や犯人の射殺、軍事行動での敵兵殺害など、
> > 「公権力による殺人」というのも、どう処理されているのでしょうか?
> 犯人の射殺については公権力かどうかではなく、
> やはり正当防衛・緊急避難にあたるかどうかが問題になると思います。
> 「軍事行動について」これが非常に難しい問題です。
> 攻撃側と防衛側、加害者側と被害者側、そう簡単に色分けが出来る戦争は本当に僅かです。
> 東京裁判ではこの問題が顕在化しましたね。
> ただ、このような複雑な問題を考える上ではやはり、原則に立ち返るべきです
> 「人を殺す権利」は存在しない。許容されるのは正当防衛・緊急避難の場合のみ、
> そう考えると、極々限られた場合でしか軍事行動による敵兵射殺は許容されないでしょう。
正当防衛や緊急避難での殺人が許容されるのであれば、
それは「人を殺す権利は存在する」って事になりませんか?
「存在しない」とする以上は、全否定をすべきだと思いますし、
有り得ないレベルのレアケースと言うには、その手の殺人は多すぎます。
また、正当防衛や緊急避難の判断基準にしても、個々で大きく異なるからこそ、
現在のアメリカのように、Black Lives Matter運動が起こっている訳ですし、
公権力の統制が弱い国ほど、その辺の判断基準は過激化していくモノです。
あと、「動物は無益な殺生はしない」とか言われがちですが、
動物だって、食べる為や身を守る目的以外でも、普通に命を奪ったりしています。
他のオスの子供を殺したり、他の群れの動物を嬲り殺したりするだけでなく、
時には集団内のイジメで殺したり、玩具で遊ぶかのように殺したりもします。
そういう意味では、恨みを晴らす為に殺したり、疑心暗鬼になって殺したりなど、
人間が人間を殺す行為自体は、特に珍しい行為では無いと言えますし、
「殺す権利」という言葉を用いると刺激的ですが、そこは本来の主旨ではなく、
そもそもは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というのが本題ですからねえ。
殺す権利を否定した所で、その本題の結論には繋がらないような気がします。
> > その他に、最近の事件で言えば、「ALS患者への嘱託殺人」がありましたけども、
> > これなどは「殺される自由」とも言える問題ですよね。
> > これはこれで難しい問題なのですが、まずはその前に、
> > 嘱託殺人や安楽死処置も、殺人である事には変わりませんけど、これはどうなんでしょ?
> 正直、前のレスで踏み込むかどうか迷った点です。やはり問題ですよね。
> 私の場合、嘱託殺人・安楽死処置というよりはもっと単純に「自殺」として頭においていました。
> つまり、「自分を殺す権利」はどうなのか?と。
> 私としてはこの問題を、「殺す権利」とは別の問題に分けて考えたい所です。
> つまり、「死ぬ権利」です。……私は社会的要請として自殺幇助や自殺教唆が処罰され、
> 自殺行為が一定の抑止を受けることには賛成ですが、どうしても自殺行為自体を誤りとは言えないのですよね。
> > そして最後に、次第に身体の筋肉が動かなくなるALS患者に対して、
> > 「患者が死を望むなら」と、安易に尊厳死を持ち出す意見も多いのですが、
> > 実際の所、筋肉が動かなくなっても、五感や頭の方は正常だったりしますし、
> > 延命治療を選択しない患者が8割いる一方で、
> > 本心を言えば、生きていたい患者も8割いるそうなので、
> > 現実的には、「死を選んでいる」というよりは、「死を選ばされてる」現状があると。
> 嘱託殺人や安楽死処置に関しては上に書いた死刑制度に賛同できない理由と同じような理由で、
> 軽々に賛同は出来ない所です。「死ぬ権利より、生きる権利」これは非常に重要な観点だと思います。
> 私には「死ぬ権利」を否定できませんが、そうだとしても「生きる権利」を無視しては進められない問題です。
「死ぬ権利」自体は、私も「あって良い」とは思いますよ。
とは言え、「自ら死を選ぶ」事と、「自ら死を選ばされる」事とでは、
同じ自死であっても、中身が大きく異なると思うんです!!
借金返済の為に、保険金を掛けられて自殺するのは、本当に死ぬ権利の行使なのか?
上から責任を被せられ、詰め腹を切らされて自殺するのは、本当に死ぬ権利の行使なのか?
そして、本心では生きていたALS患者が、延命治療を選択しないのも、死ぬ権利の行使なのか?
何だかんだで人間は基本的に、「生きていたい」と思い願う生き物であり、
その願いを阻害する要因や環境を考慮しないまま、「本人の意思だから」と、
他人が、自殺や嘱託殺人を認めてしまうのは、安易だし危険だと思うって話ですね。
> > > 大前提として、人間はだれしも自由に生きたいという願望を抱いているとします。
> > > 勿論、政治的な姿勢として自由権に制約を加える方向性を好む方も居ますが、
> > > そのような方も、自らの希望として自由に制約を加えたいのであり、
> > > 誰かからいきなり自分の意に沿わない形で自由に制約を加えられるのは望まないでしょう。
> > > ここでいう自由とは何かをしたいと思う人間の気持ちそのものと言って良いでしょう。
> > > 「自由」といいつつ憲法13条でいう幸福追求権が一番近いのかな。
> > > ここまで自由を広く捉えるのであれば、人間にとって、
> > > 「自由」とは最も価値のある至上の存在である、と断じても反論は無いのではないでしょうか?
> > う〜ん、そもそも論として、そこまで「自由」を、
> > 至上の価値として、大前提にしちゃって良いんですかねえ?
> > 自由というのは、一面においては熾烈な競争を強いるモノであり、
> > 自由至上主義(リバタリアニズム)では、弱者を救済する富の再分配さえ否定されます。
> > 究極的に言うと、自由と平等は相反する価値観ですからね。
> > そういう意味では、「幸福追求権」と「自由」とが本当に、
> > イコールで結ばれるのか?という問題点も、あるような気がします。
> > そこには、敗者や弱者が救済されない自由もある訳ですからねえ。
> 私個人がややリバタリアニズムに親和的な人間であるために、
> 文面からもリバタリアニズム的な「自由」のニュアンスが感じられるかもしれませんが、
> 私が言う自由とはもっと素朴で抽象的な物です。「選択肢がある、それを選べる」その程度の話です。
> 仮に管理人様が「自由」という名称で違和感を抑えられないのであれば、
> 全て「幸福追求権」と言い換えて良いかと思います。
> 私個人は「自由」と「幸福追求」は同一とは見做せないものの近しいモノと考えていますが、
> その点に関しては正直、管理人様と私で「幸福追求」の概念に
> 大きな隔たりが無いのであれば無視して良い点だと思います。
いや別に、リバタリアニズム的であるとか、そういう話は私の方もしていません。
ただ単に「幸福追求権≒自由」としている所に、違和感があったのであって、
要するに、「自由」という単語をキチンと定義しないまま、
フワッとしたイメージで用いてる感じがして、そこを質しただけの事ですね。
例えば、自由無き「奴隷の平和」であっても、それを幸福と感じる人は居るでしょうし。
> > > 自由権の衝突の結果の殺人を認めれば、人々は常に何者かから自身の自由権を侵害されるリスクを負うことになります。
> > > これは許容出来る筈がありません。
> > 「リスクを負うから、許容できる筈がない」というのも、実際はどうなんですかね?
> > 例えば、銃社会のアメリカなんて、それで多くの人命が失われている訳で、
> > リスクであるのは確かなはずですけど、一向に銃規制が進む感じはしません・・・・
> これは問題を分けて話すべきだと思います。
> 「人を殺す権利」について、無知のヴェール下で否定する方向で合意する一方で、
> 「銃で自衛する権利」について、無知のヴェール下で肯定する方向で合意することはあり得ると思います。
> ただ、そもそもの話としてアメリカの銃社会はその建国からの歴史が大きく関わっています。
> 私は敢えて原初状態という抽象的な仮定からより正しい価値観を導き出そうとしています。
> 故に、私がその方法で導く結論と、アメリカの自分の立場と国の歴史に無知ではない人々が導く結論が、
> 変わってくるのは当然の事だと思います。
> 私の結論の是非は分かりませんが、少なくともアメリカが別の結論を出したことを理由に
> 否定される類のものではないと思います。
それぞれの結論を認めて、「日本はNG」「アメリカはOK」を許容すると、
「私はNG」「あなたはOK」というのを許容する事にも繋がりますし、
そうなると、自分は殺す権利を認めなくても、あなたが殺す権利を持つの認めるとなり、
結局は「人を殺す権利」の存在自体を容認する方向になりませんか?
また、「銃で自衛する権利」と「人を殺す権利」は別の話であっても、
切り分けて考えられるほど、明確な線引きが出きる話では無いはずです。
そもそも銃とは、相手を撃つための武器な訳ですし、
例えばアメリカでは、無断で他人の庭に入れば、射殺されても文句は言えません。
日本人的な価値観で言えば、過剰防衛にすら当たらないような案件でも、
彼らの価値観にしてみれば、キチンと正当防衛が成立する訳ですね。
また、中東や南アジアでは、今でも名誉殺人という風習が残っており、
日本から見れば異常な行動でも、彼らにすれば真っ当な行動となります。
「人を殺す権利を認めない」とするなら、これら全てを否定する必要があると思うんです。
逆に言えば、条件付きであれ、例外であれ、一部でも認めているのであれば、
結局、「人を殺す権利を認めている」という事にはならないでしょうか?
・・・って、今年度から小学校で始まった「道徳の評価化」というのも、
こうやって話し合えるのであれば、評価のしようもあるのかな?(笑)
同じく、安倍教育改革で今年度から必修化された「英語」と「プログラム」も含め、
いったい小学校で、どんな授業が行われているのか、ちょっと興味があります。
とりあえず私なら、道徳の授業にはアニメ「トライガン」を使って、
英語はYouTubeか「北米版トトロ」、プログラムはPS1「カルネージハート」でしょうか?(笑)
な〜んて、生と死という思いテーマが続いたので、最後は軽めに終わってみました。
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