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[23587] Re:ネット時代の超ローカル文化と雑談返信 削除
2021/5/26 (水) 19:09:06 徳翁導誉

> 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

う〜ん、ここまで説明して尚、
そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
もう、それで良いんじゃないですか?
柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。


・・・と、私としては、これで終わっても構わなかったのですが、
ここまで長文の返信を戴いて、それで終えては失礼かとも思いましたので、
お尋ねしますけど、どうしましょう、このまま続けます?
一応、3分の1くらいは返信を書いてあるので、
お望みであれば、また次回にでも投稿は可能ですけども。


[23591] 前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/5/26 (水) 22:45:11 旧トルコ担当

> > 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> > 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> > だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> > といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……


> う〜ん、ここまで説明して尚、
> そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
> もう、それで良いんじゃないですか?
> 柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。
>
> ・・・と、私としては、これで終わっても構わなかったのですが、
> ここまで長文の返信を戴いて、それで終えては失礼かとも思いましたので、
> お尋ねしますけど、どうしましょう、このまま続けます?
> 一応、3分の1くらいは返信を書いてあるので、
> お望みであれば、また次回にでも投稿は可能ですけども。


もし私の文章が管理人さんを不快にさせているのであれば大変申し訳ありません。
私としては、上記の文章は「バカな自分には管理人さんの文章をその程度しかできてないです」というような意味合いで書いたのであり、私の理解度を正確に管理人さんへ伝えようという意味以上のものはありませんでした。
しかし、結果として管理人さんの誤解を招いた場合は、それは私の文章に問題があったと思っております。
すみませんでした。

その上で、私の希望としてはメインの極ローカル文化の話だけでよいので、聞かせていただきたいです。
以前にも私は管理人さんへの返信を一ヶ月ほど放置しましたし、管理人さんが以降返信しなくなっても、私は失礼ではないと思います。

ですが、学ぶ気はあります。
今でも、管理人さんが選択肢の幅が狭くなっている、と指摘される根拠が私にはよく分かりませんが、だからこそ、今から2、30年前の、ネット以前の世界というのにはとても興味はあります。
私自身、年齢を重ねるごとにネット以前の世界の記憶と言うのはあいまいになって来ています。
(私の場合、10才前後からネットを使い始めたので、ネット以前の世界を知っているつもりでありながら、思春期をネットと共に過ごし、もはや完全にネット世代側、なのかもしれません)
だからこそ、ネット以前の世界がどういった世界であったのか、というのは一層興味がありますし、管理人さんほどの方にその話を聞かせていただけるのは、もしかすれば私の人生の中も相当に貴重な機会なのだと思っています。
私は、管理人さんの返信をいつも非常に心待にしていましたし、現にここ数日は朝晩二回づつここを覗いていました。
同じことの繰り返しになりますが、管理人さんの返信を否定するのは、私が理解する気がないからではなく、管理人さんの指摘することが本当に分からないからです。私が自説を強く主張するのは、聞く耳がないからではなく、今の自分の本心を上手く伝えるためです。

図々しいですが、私が知りたいことを整理すると、
・現在の文化(あるいは文化だけではないのかもしれませんが、それは置いておいて)から中間が失われている、というのは同意します
・その上で、リアルな世界が極グローバル一色になっているというのも同意します
・ですが、私には極ローカルというのがネットに残っているような気がしてなりません
・それについて、管理人さんが極ローカルも残っていないと指摘される根拠が知りたいです
・可能性は二つあると思います。私がネット以前の世界(具体例で言えば、ゲーセンや本屋などの世界)を理解した気になっていて、実のところ理解していない。もうひとつは、私のネット世界への理解が浅い。

この点に対して、管理人さんの見解を聞かせていただければ、というのが私の希望です。

#####

言い訳させていただければ、
> > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

も、私が正しくて、私の正しい見解を管理人さんが理解されていなかったのか、ということではなく、私が勝手に、管理人さんも中間は失われたけど、極グローバルと極ローカルは残っていると考えていると言う前提で返信をしていたら、管理人さんが極グローバルだけになっていませんか?と返信されたので、ああ管理人さんは極ローカルはなくなったと考えていて、そこを誤解しているから、今まで話が食い違っていたのね、ということなんですよ。


[23594] Re:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/1 (火) 20:00:52 徳翁導誉

> > > 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> > > 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> > > だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> > > といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> > > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

> > う〜ん、ここまで説明して尚、
> > そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
> > もう、それで良いんじゃないですか?
> > 柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。

> もし私の文章が管理人さんを不快にさせているのであれば大変申し訳ありません。

いや別に、不快に感じたとか、怒ったとかいう事では無いですよ。
ただ、少し徒労感を抱いたというのは、偽らざる本当の気持ちですね。

前回、返信を3分の1ほど書いたものの、未投稿に終わったというのも、
話題的にループし出した為、「繰り返しになりますけど」という書き出しが多かったり、
話の前提が大きくズレ出した為、「当然の話ですけど」という書き出しが多かったりと、
流れ的に負のスパイラルに陥り、このままでは不毛な方向に迷い込む実感があった為、
そういう意味では、一種のショック療法的な方法を用いて、
その悪い流れを変えたい意図があっての、あのような文章でもありました。

まあ正直言うと、これまでにも3回ほど、密かに別の方法で軌道修正を図っていたのですが、
その度に、却って裏目に出てしまっていた感じがありましたからね(笑)。
ただ今回の方法だと、恐らく旧トルコ担当さんを混乱させるであろう事は想定でき、
申し訳ない気持ちもあったのですが、これ以上の方法が思い浮かばなかったもので・・・・

> しかし、結果として管理人さんの誤解を招いた場合は、それは私の文章に問題があったと思っております。
> すみませんでした。

いえいえ、確信犯的に敢えて行った私の方が、謝るべきなんでしょうね。
こちらこそ、すみませんでした。


> 私自身、年齢を重ねるごとにネット以前の世界の記憶と言うのはあいまいになって来ています。
> (私の場合、10才前後からネットを使い始めたので、ネット以前の世界を知っているつもりでありながら、
>  思春期をネットと共に過ごし、もはや完全にネット世代側、なのかもしれません)
> だからこそ、ネット以前の世界がどういった世界であったのか、というのは一層興味がありますし、

え〜と、その「ネット以前の世界」というのは、
旧トルコ担当さん自身の主観的な「世界」と、
社会全体としての客観的な「世界」とが、ゴッチャになってる感じが・・・・

たとえ年齢的に、自分自身はネットを利用していなかったとしても、
社会の方では既に、デジタル化が進んでネットが基本となってた時代であれば、
それはもう「ネット以後の世界」だと、私は想定して書いていますね。
個々の体験に関わらず、アナログ社会からデジタル社会へと移り変わった世界こそが、
「ネット以後の世界」であろうと考えているので。

そして、ネット普及率が7割を超えたのが2005年で、
スマホ普及率が7割を超えたのが2015年ですから、
旧トルコ担当さんは恐らく、デジタル・ネイティブ世代と呼べると思いますよ。
まあ私自身の認識としては、90年代前半までがアナログだけの世界で、
90年代後半から00年代がアナログとデジタルが共存する過渡期、
10年代以降は もうデジタル中心の世界って認識ですね。

> 管理人さんほどの方にその話を聞かせていただけるのは、
> もしかすれば私の人生の中も相当に貴重な機会なのだと思っています。

いや、そんな別に大層な事では無いと思うんですけどね。
所詮は、雑談なんですし(笑)。
・・・って、そう言えば、ここでの雑談をキッカケに「理系の大学に入り直しました」とか、
事後報告されて、コチラとしても驚いてしまった経験とか以前にも有りましたし、
う〜ん、あんまり気軽な感じで書くのは、実は軽率な行為だったりするのかなぁ?(苦笑)

> 同じことの繰り返しになりますが、管理人さんの返信を否定するのは、
> 私が理解する気がないからではなく、管理人さんの指摘することが本当に分からないからです。
> 私が自説を強く主張するのは、聞く耳がないからではなく、今の自分の本心を上手く伝えるためです。

はい、旧トルコ担当さん御自身が、そう思われて発言されているのは解るんです。
ただ一方で、それを受ける側からすると、「聞く耳がない」と感じられたのも事実ですし、
その事に対して、御本人が無自覚だからこそ、「これは改まらないな」と感じたのも事実です。
自分でも解った上で、敢えて我を通してる場合と違い、
無自覚だと、まずは自認が必要となり、これってかなり高いハードルなので。
そういう意味では、だからこその、前回のような返信になったとも言えますね。

人間というのは誰しも、自分の中の「頭の中の辞書」を使って、物事を理解しようとします。
そうした方が、脳は省エネで効率的に、その物事に対する処理が行えますからねえ。
大人になると、固定観念に囚われやすくなるというのも、その副作用だったりしますし、
逆に言うと、子供が学校などで いろいろと学ぶのも、辞書作りをする作業だと見なせます。
そういう意味では、制作途中である子供の辞書などというのは、
年齢が幼いほど、その内容は滅茶苦茶だったりするのですが、その分だけ面白味に富んでおり、
年齢を重ねるほど、その内容が整っていく反面、次第に編集作業の頻度が落ちていきます。
要するに固定観念とは、判断基準となる辞書が、改訂や増補されなくなる事で生じる訳ですね。

で、何でこんな話をするかというと、旧トルコ担当さんの場合、
現時点で理解できない事を、無理に理解しようとし過ぎなんじゃ無いでしょうか?
解らない事があった場合、「解らない」と一旦保留し、
そのまま頭の中に留めておく事も、かなり重要だと思うんですよ。
だって、頭の中の辞書に載っていない内容は、そう簡単には理解できないはずなので。
そして、その後の理解度に応じて、こういう見解もあると注釈を付けたり、
従来とは異なる価値観もあったと両論併記にしたり、
納得できたから書き換えたり、やはり不適当だと改めて削除したりなど、
子供の頃のように、頭の中の辞書の「編集作業」を続けていけば良いんです。

それを強引に、今ある辞書の中身だけで、全てを理解しようとすると、
どうしたって無理が生じてきますし、その無理を押し通せば、道理が引っ込んでしまいます。
今までの認識には合わない、新しい情報を得た場合、認識の方を柔軟に対応させるのか、
はたまた、情報の方を認識に合わせてしまうのかでは、大きく異なるんですよね。
それだと「科学的な理解」ではなく、「宗教的な信仰」になってしまいますし、
そうなると「解るか否か?」ではなく、「信じるか否か?」になってしまいます。
まあ、そこまでは行かないにしても、やはり論理的では無くなる事でしょう。
つまり私が言う「聞く耳」とは、自覚の有無を問わず、こうした姿勢の事を指しています。

でも正直な所、そんな編集作業を行わない大人の方が、世間的には多数派であり、
それはそれで、その人たちの姿勢が間違ってるというモノでもありません。
結局は、個々人の価値観の問題ですし、そこまで考えるのは実際面倒だと思います。
一旦保留なんてスッキリしませんし、出来上がった辞書の編集作業を続けるのも大変で、
「それが常識だ」と無意識に決め付けてる方が、脳の負担的にも楽は楽なんですよね。
とは言え、そのような姿勢では、見識は広まりませんし、客観的事実にも近付けません。
で、これは恐らく、私が理系の人間だからかも知れませんけど、
そうした面を軽視する方が苦しくなるので、個人的に「楽」と思える方向に進むべく、
自分の中の常識自体(辞書の内容)を、積極的に書き換える姿勢でありたい訳ですね。
それこそ科学の世界だと、自らの日常的な感覚とはズレていても、
データがそれを正しいと示していれば、そちらの方を重視するのは当然の事なので。

・・・と、我ながら、随分と説教臭い話をしている自覚はありますが(笑)、
こういうモノの見方って、世の中の先行きが不透明な昨今だからこそ、
非常に重要になってくるスキルの1つだと思いますし、
若いほど対応もしやすいので、今から変に凝り固まる必要は無いかと思います。
以上が、前回書いた「柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要」の詳細解説ですね。


> 図々しいですが、私が知りたいことを整理すると、
> ・現在の文化(あるいは文化だけではないのかもしれませんが、それは置いておいて)から
>   中間が失われている、というのは同意します
> ・その上で、リアルな世界が極グローバル一色になっているというのも同意します

国家レベルで「社会」というモノを見た場合、
「政治・経済・文化」という3つの主な構成要素があると思うのですが、
この3要素はそれぞれリンクしており、基本的な構造としては、
政治的な変化が、経済的な変化をもたらし、
経済的な変化が、文化的な変化をもたらすモノだと思います。
そういう意味では「政治→経済→文化」という順に、影響が表面化しがちなので、
それこそ、中間層の喪失であったり、グローバル化であったりというのが、
文化にどんな変質をもたらすかも、経済の変質や、政治の変質ぶりを踏まえると、
10年後20年後の姿も、何となくですが推測できるような気がするんです。

また、それとは別に、社会に影響を及ぼす要素が「技術」の革新でしょうね。
これが起こると、政治も経済も文化も変化を余儀なくされます。
近年で言えば、ネットの登場こそが、まさしくそれに当たろうかと。
そして、これは前々回の投稿で旧トルコ担当さんが触れられていましたが、
「ベーシック・インカム」に関しては、私もゴチャゴチャと纏まり無く、少し考えてますね。
導入へのハードルは恐ろしく高いものの、政治・経済・文化を変え得る・・・と言いますか、
それらの諸問題に対して、解決法となり得る1つの「技術」かも知れませんので。

あと、それが導入された際の 良いイメージ像にせよ、悪いイメージ像にせよ、
イメージに実感が伴うか否かって、実際に冷戦を知ってる世代と、
新自由主義の時代しか知らない世代とでは、恐らく大きく異なるのかな?とは思います。
でもまあ、古い世代は古い世代で、不必要にマルクスとか引っ張り出しがちな面もあるかな?(笑)
それこそデジタル社会主義とか、AI共産主義とかを語るのであれば、
変に先祖返りする必要も無いでしょうし、論理だけでなく実例も欲しいのであれば、
別にヨーロッパだけに拘らず、江戸時代の日本とかも参考にして良いかと、個人的には思います。
って、この辺の話は、今回の話題からは かなり脱線しちゃってますけどね(苦笑)。

> ・ですが、私には極ローカルというのがネットに残っているような気がしてなりません
> ・それについて、管理人さんが極ローカルも残っていないと指摘される根拠が知りたいです

う〜ん、よくよく確認してもらえれば、解るかも知れませんが、
初めの方で「私もローカルなモノが完全に無くなるとは考えていません」と述べいる通り、
私の方から一言も、「ローカルが残っていない」とは言ってませんけどね。
ただ一方で、年々縮小し続けており、その傾向は今後更に強まると見ているので、
旧トルコ担当さんが「グローバル化とローカル化の2極化」と、おっしゃられるような、
グローバルに比肩し得る程のモノが、ローカルに残るとは思えないという話なんです。

例えば、冷戦期のアメリカとソ連などは、実力伯仲とは言えませんが、2極化とは呼べた一方、
ポスト冷戦期のアメリカとイスラム原理主義とは、時代を代表する対立関係ではあるものの、
2極化と呼ぶには、あまりに両者の実力差があり過ぎると思うんですよねえ。
何もこれは、イスラム勢力の存在を知らない訳でも、過小評価している訳でもなく、
テロ組織は無数に存在し、アメリカを苦しめてはいますけど、やはり「極」とは呼べないと。

また、文化を生物に喩えれば、全ての種が常に不滅などという事はなく、
多様性を維持する為には、消えていく種と同程度に、新たに生まれる種が必要であり、
新たに生まれる方が多ければ多様性は増し、消えていく方が多ければ多様性は減じます。
この事は、文化であっても、生物であって、大差ない現象でしょう。
そういう意味では、確かに「新しい文化」というモノが誕生していたとしても、
「消えた文化」の方が目に見えて多ければ、やはり全体的には衰退していると見て取れます。
しかも、ボーダーレスな社会というのは、自然淘汰の競争を加速させますからねえ・・・・

それこそ前々回の投稿で、ニコニコ動画について触れられていましたけども、
もちろん今だって、相当数の視聴が居ますし、動画の新規投稿も実際に多い事でしょう。
ですけど、目に見える数値から考察した場合、その減少は明かですし、
特にプレミアム会員の数などは、この5年間で250万人から150万人に激減しています。
確かに、150万人の有料会員数という数字だけを見れば、それは凄い値ですけど、
過去の数字と比べた場合は、わずか5年で100万人(実に4割)も減少している訳で、
未だに「面白い」と感じてる人が大勢いるのは事実ですし、それ自体は否定してませんが、
でもやはり、全体として客観視すると「面白くなくなった」という傾向は示しているはずです。
と言いますか、ニコニコ動画は誕生直後から知っていて、動画投稿もしてましたから、
そういった数字などよりも、変化の流れは体感として残ってますけどね・・・・
正直言って、数字というモノは、その時の空気感から少し遅れて現れてくるモノでしょうし。

で、日本のネット・サブカル文化を牽引してきたニコ動が停滞し、
以前のように新しいモノが生み出せなくなった現状において、
それに替わる別のプラットフォームが現れるかとなると・・・それは非常に難しいでしょうし、
結局、日本だけでなく全世界的にも、YouTubeに集約されていくのでしょうけど(中国は別?)、
これは、YouTube自体が悪いという事ではなく、ニコ動独自の良さが失われてします訳で、
それこそ「多様性」という意味では、明らかにマイナスなんです。

こうした話はゲームにも言えて、何も私は、和ゲー絶賛&洋ゲー批判をしている訳ではなく、
和ゲーには和ゲーの、洋ゲーには洋ゲーの、長所と短所がそれぞれあり、
それらが残された上で、和ゲー的な洋ゲーであったり、洋ゲー的な和ゲーであったり、
はたまた、日本や欧米以外からの新ゲームや、全く新しい発想のゲームなどが生まれれば、
多様性は維持される所か、更に豊かになるという理想像があったものの、
現実に起こったのは、洋ゲーに集約されつつある流れであったという事ですね・・・・
確かに、一昔前と比べれば、グラフィックの進化とか驚異的なレベルですし、
絶対的に見ると、技術って積み重ねですから、時代と共に進歩してるのも事実なんです。
ただ、スポーツ観戦などもそうですけど、人間の見方というのは相対的ですからねえ。
「前の作品に比べてどうか?」「多の作品に比べてどうか?」という比較と感情で、
その作品に対する評価というのも、自ずと違ってきますし、
もっと言うと、目に見えるモノ、数値で計れるモノが、面白さの全てではありません。

と言いますか、そんなモノは面白さの極一部に過ぎないのが、実際の所なのでしょう。
これはゲームや動画に限らず、様々な娯楽文化に関しても言える事でしょうし、
少なくとも私自身はそう考えていますし、だからこそ、これは諦めの表明ではなく、
私など微々たる存在ではあるものの、現状の流れに抗いたい気持ちはあります。
より具体的に言えば、個人レベルの零細であっても、
時代が削ぎ落とし多モノを拾い集める、何らかのプラットフォームを作ってみたいと。
そういう意味では、私自身も、旧トルコ担当さんがおっしゃる所の
「極ローカル」的な存在の1つなのかも知れませんね?
まあ当人的には、そんな大層なモノだとは、露とも考えてませんけども。

> ・可能性は二つあると思います。私がネット以前の世界(具体例で言えば、ゲーセンや本屋などの世界)を
>   理解した気になっていて、実のところ理解していない。もうひとつは、私のネット世界への理解が浅い。
> この点に対して、管理人さんの見解を聞かせていただければ、というのが私の希望です。

う〜ん、これはある意味で、致し方ない面があるとは思うのですが、
やはり実体験が伴わない為、今までこうして話してきても、
「アナログだけの世界」や「アナログとデジタルが共存する過渡期」に関して、
感覚的に理解できない部分がるんだろうなとは、正直言って感じます。
そして、現在の「ネット中心の世界」に関しては、ちょっと判断が難しいのも?

例えば、AさんとBさんとがいて、2人は互いに100の知識を持っていたとしても、
この100の知識は、それぞれ全く異なるモノかも知れず、どっちがどっちとは言えません。
これは仮に、Aさんが200や300の知識を持っていても、同じ事ですよね。
確かに単純な数で言えば、Aさんの方がBさんよりも2〜3倍の知識を持っていますけど、
実際に有益なのは、Bさんが持ってる100の知識の方かも知れませんし、
逆に言えば、300の知識を持つAさんも、100の知識しか持たないBさんに教えを請う事で、
Aさんは知識を400に増やせる機会を得られますし、そうなればBさんの方が指南役です。
また、その一方で、ここに50の知識を得られる本が有ったとして、
300の知識を持つAさんと、100の知識を持つBさんとでは、その本の価値が変わってきます。
もちろん、この本自体が持つ絶対的な価値は変わりませんが、
300が350に増えるのと、100が150に増えるのとでは、相対的な増加率が異なりますからね。
何だか、凄く抽象的で解り難かったかも知れませんけど、私が言いたいのは そういう事です。


> 言い訳させていただければ、
> > > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

> も、私が正しくて、私の正しい見解を管理人さんが理解されていなかったのか、ということではなく、
> 私が勝手に、管理人さんも中間は失われたけど、極グローバルと極ローカルは残っていると考えていると言う
> 前提で返信をしていたら、管理人さんが極グローバルだけになっていませんか?と返信されたので、
> ああ管理人さんは極ローカルはなくなったと考えていて、
> そこを誤解しているから、今まで話が食い違っていたのね、ということなんですよ。

とりあえず言っておくと、MODの事は当然知ってますよ。
そもそも20年前に、asakaさんが「奥羽戦国史」(のちの戦国史)を公開されたのも、
PCゲーム「天下統一」の改造エディタを公開されてた、身勝手Papaさんのサイト上であり、
その場に居合わせていたからこそ、私もシナリオ作成という形で協力した訳ですし、
(期待されてた新作の「天下統一3」が本当にクソゲーで、その不満や怒りが皆の創作意欲に・笑)
更に古い話をすると、年上の従兄弟が遊んでたカセットテープ版の「初代・信長の野望」も、
プログラム言語がBASICだったので、普通にデータ弄り放題でしたからねえ。

また、今の「レトロフリーク」みたいな互換機が普及する前は、
秋葉原や日本橋に行かないと、ゲームのデータを弄る機械など手に入らず、
私自身は持ってませんでしたけど、友人の家とかで普通に遊んでました。
それに、家庭用ゲームが中心だった日本では、欧米ほどMOD文化は普及しませんでしたが、
その中でも、公式のエディタを発売した先駆けが、光栄のパワーアップキットだったでしょうし、
このスレッド内でも、Paradox社のゲームについて触れてるのですから、
旧トルコ担当さんが自身の認識に合わせる為に、情報の受け取り方を変えた行為自体が、
言葉はキツイですけど、ご都合主義と言いますか、非常に不自然に感じられたんですよね。
(そして前々回の投稿では、そう感じられる箇所が、これ以外にも多岐に及んでいたと)

ちなみに、2018年のMODコンテストで優勝したEU4の「Extended Timeline」とか、
自作シナリオを古代から現代まで拡張していて、本当に凄いと思いましたし、
それこそ、「全世界&全通史」のゲームというのは、私も昔から作ってみたかったですからねえ。
実を言うと、1人用ゲームの「Super三國志」や「ナポレオンの野望」も、その実験用雛型でしたし、
あれを世界マップまで拡張し、都市数も充実させ、人物キャラの要素も加えて、
国家・都市・人物・シナリオなどは、投稿型のデータベース化する考えを持っていました。
(データベース化された情報は、事典としても使えますし、他のゲームにも再利用できるので)
これも言うなれば、MODを前提としたゲーム構想案だったと言えるかも?

・・・と、話が少し脱線してしまいましたけど、
結局、何が言いたいかというと、
MODはもちろん知ってますし、それ自体は新しいモノでは無いという事ですね。
そして、別にファミコンでも、「ロードランナー」とか「ナッツ&ミルク」など、
ステージを自作できるソフトがあり、その筋の人たちは、それを昔から楽しんでた訳です。
確かにネットの登場により、そうしたデータの交換が飛躍的に手軽となりましたし、
「マリオメーカー」のように、企業側が公式にエディタを手掛けるようにもなった事で、
その数そのものは、ピンからキリまで、まさに膨大に増えたのは確かだと思います。
でもそれは、以前からの繰り返しになりますけど、「幅」ではなく「数」の話であると。


P.S.
一応調べたので、前々回の未返信部分から、これだけは貼っておこうかな(笑)。
> > > 確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
> > あと、そんな言うほど、本当に「誰もが知ってる作品」って無かったんですかねえ?
> > 実際に少年マンガで考えてみると、
> > 60年代から70年代にかけて「あしたのジョー」「巨人の星」があり、
> > 80年代には「北斗の拳」「キン肉マン」「タッチ」があり、
> > 90年代には「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」があり、
> > 00年代には「ワンピース」「ナルト」「名探偵コナン」があり、
> > 10年代には「進撃の巨人」「銀魂」「キングダム」があり、
> > 20年代となった現在も「鬼滅の刃」「呪術廻戦」があるじゃないですか。

> いやー、「誰もが知ってる作品」は有りませんでしたよ。
> これに関しては実際に経験してきたことなので、結構自信を持って言えると思います。

つまりは、ワンピースも、進撃の巨人も、鬼滅の刃も、
その存在すら知らない人たちが、相当数は居るという事ですか?
紅白出場や商品コラボなど、アニメを見ない一般層にも、
それなりに、存在は認知されてると思ってはいるのですが・・・・

もちろん、「みんなが知ってる」とか、「誰もが知ってる」と言っても、
全員が全員、それを見た事があり、話の内容や登場キャラまで把握しているとか、
そんな話をしている訳ではありませんよ(少なくとも私の方の話は)。
それこそ、ドラゴンボールにせよ、北斗の拳にせよ、あしたのジョーにせよ、
もしも そんな定義であれば、それらも全く該当しませんので・・・・

とりあえず、それだけでは何なので、
日本リサーチセンターの「全国キャラクター調査」によると、
https://www.nrc.co.jp/report/210218.html
ドラえもんが98%、サザエさんが97%と、まさしく国民的な認知度を誇り、
コナンが91%で、ドラゴンボールが90%、トトロが93%と同じくらい。
更には、鬼滅が81%で、ガンダムも同じく81%と続き、
ワンピースが75%で、北斗の拳が77%(2014年調査時)、
進撃の巨人が66%、エヴァが65%、プリキュアが63%という感じでした。
やはり数値で見ると、年代的な差は、そんなに無いように私には思えますね。


[23596] Re2:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/2 (水) 13:35:04 旧トルコ担当

今後について

管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

そもそも、なぜ自分自身、管理人さんの見解にここまで強行に意を唱えるのか考えたのですが、管理人さんの指摘は私の実感と真逆だからなんですよね。
まあ、私の知っている世界なんて、メチャクチャ狭いのは自覚していますし(オタクですし、自分の興味の無いことにはトコトン興味がないので)、だからこそ自分の視界外では未知のことが起きているのかもしれない、と思い管理人さんに色々質問したのですが、結局それはよくわかりませんでした。その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

これは愚痴みたいなものですが、いや、だってソシャゲに対しての認識とか、どう考えてもおかしいでしょう。まだコロナは中国のウイルス兵器説の方が納得できますよ。

まあそうは言いつつ管理人さんの見解に引っ掛かるところが無いわけでは無いので、極ローカルの幅についてはこれからも考えては行くつもりですが。

追記
やはり管理人さんの言説には引っかからないものが無いではないので、よろしければソシャゲに関してだけ、ソシャゲをした事があるのか、教えて頂けませんか?
私の今の見解では、管理人さんはほとんど全くソシャゲを遊んだ事がないからあんな事をおっしゃるのだと考えていますが、もしある程度ソシャゲの中に入った経験がある上でああ言っているのであれば、私としても今後の考え方が色々変わると思うので。


[23598] Re3:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/9 (水) 20:47:41 徳翁導誉

> 今後について
> 管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、
> 管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
> いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

いや〜、その言い草は、さすがに失礼だと思いますけど?(苦笑)
これ以上は進展が無さそうだから、話を打ち切る提案をするのは構わないのですが、
でしたら、それ以上は余計な事を語らないのが一般的である所、
後続の文章で、愚痴をこぼされたり、質問をされたりしている訳で、
その上で「返信されたければしていただいても構いませんが」の一文が加わっては、
これはもう、自分の言いたい事だけ言って、相手を煽るような書き方に為っちゃってますよ!?

まだこれが、解った上で、敢えて行っている行為であれば良いのですが、
恐らく旧トルコ担当さん的には無自覚でしょうし、そのつもりも無いのでしょうから、
それはそれで、却ってマズい状況のように、私には感じられます・・・・
少し異なりますが、「慇懃無礼」に似た感じと言えば、イメージしやすいでしょうか?
「自己の主張」と「相手への礼節」を無理に共存させる際、往々にして見られる悪文ですね。
その両方を満たす文章というのは、なかなか高度な技術を必要としますし、
それが難しければ、どちらか一方を抑え気味にするか、いっそ触れないのが無難です。
余計なお世話かも知れませんけど、若い内から意識されるようにした方が良いと思いますよ。
大人になると、「失礼なヤツだな」と相手から評価され、注意もされずに終わっちゃうでしょうし、
年齢を重ねれば重ねるほど、そうした悪癖は修正し難くなっていくでしょうから。

> そもそも、なぜ自分自身、管理人さんの見解にここまで強行に意を唱えるのか考えたのですが、
> 管理人さんの指摘は私の実感と真逆だからなんですよね。

でしょうね、それは私にも感じ取れてますよ。
その理由も、おおよそですが解っているつもりです。
それはまさしく、旧トルコ担当さんが「実感」を軸に語られてるからです。
より厳密に言うと、「主観」と「瞬間」から、意見が構成されている印象が強いです。
それに対して私は、「客観」と「時間」から、意見を構成していますからねえ。
その違いを念頭に置けてないと、意見の正確な理解は困難かと思われます。

また、今までもそうでしたけど、
何も私は、旧トルコ担当さん実感自体を否定している訳では無いんですよ。
例えば、仮に話題が「田舎暮らし」だったとしましょう。
個人的に「ここでの生活は最高だ」と思われる方は、当然いる事でしょうし、
周りの移住者仲間も「同じ感想を持ってる」という事も有り得るでしょう。
ただ一方で、田舎は自然に恵まれていても、「不便」であるのも事実ですし、
全体的に言って、流入するより流出する人数が多ければ「過疎化」の傾向となります。
この2つは、何も相容れない事実という訳ではありません。
主観的・瞬間的には「最高」と感じられたのが事実だとしても、
客観的・時間的には「過疎化」という事実も、矛盾無く存在する。
どちらが「合ってる/間違ってる」ではなく、視点の違いでしかないんです。
前回のニコニコ動画に関する話も、そういった主旨の事ですね。
プレミアム会員が現在でも150万人居るのも、5年間で100万人減ったのも両方事実で、
未だに楽しんでる方が大勢居る事と、でも全体としては衰退してる事は、相反しません。

で、そうした上で、私が今まで何を指摘してきたかと言うと、
旧トルコ担当さん自身の立ち位置と、その認識に関してなんです。
「前から見るか? 後ろから見るか?」「上から見るか? 下から見るか?」
「近くから見るか? 遠くから見るか?」「長く見るか? 短く見るか?」等々、
同じモノを見ていたとしても、見る人の立ち位置の違いで、映る姿は異なってきます。
ですから、自分はどこに立っているかという「絶対的」な座標と、
相手はどの辺りに立っているかという「相対的」な座標とを欠くと、
相手の事を理解できないのは勿論、自分の事さえ正確には把握できなかったりします。
言うなれば、相手の事も、その他 大勢である社会の事も、
自分と同じ立ち位置から見ていると勘違いし、それを疑わないまま、解釈してしまうと。

それこそ、「女装と百合」を隣接文化とし、それを「見立て文化」だとおっしゃたのは、
私からすると、その端的な例だと思えて為らないんですよね・・・・
バ美肉がデジタルな女装である事は、別に私も最初から否定していませんよ。
しかし、「女装(バ美肉)と百合」を隣接文化だと見なせるに充分な、
納得感ある説明や、客観的な根拠などが、今まで示されてるようには感じないんです。
もしも、自分の言葉で説明するのが難しいのであれば、
それをキチンと解説している他者の言説を、何処かから引っ張ってきてくれても構いませんし、
それも難しいようなら、同様の見解を述べてる他者の意見を、幾つか見繕って欲しいんですよね。
それが無ければ、多数の人間が関わっている「文化」ではなく、
旧トルコ担当さんが抱いた、個人的な「感想」に過ぎないとしか見なせません。
言い換えれば、個々の例としては実在するにしても、それが圧倒的な多数派とは思えず、
見解が食い違う以上は、何らかの根拠なり、腑に落ちる説明をして欲しいって事ですね。

繰り返しますけど、これは別に、個人的な感想(主観的な見解)を否定するのではありません。
「客観的なデータじゃないから信用できない」と、私は言っているのでは無く、
主観と客観を混同し、感想を文化と唱えてるような印象を受け続けているからこそ、
旧トルコ担当さんの客観的な姿勢を求める意味も込めて、データを交えて語っている訳です。
主観と客観を分けられてる方が相手なら、私もわざわざ、そんな面倒な事を雑談でしません(笑)。
また、以前このように述べられてました↓けども、
> > > いや、ほんとこれ説明できないんですよ。
> > > 見立て文化というのは、『オタク学入門』によれば、
> > > 竜安寺の石庭の砂が波に見えるようになるとか、人形浄瑠璃の黒子が見えなくなるとか、
> > > ジャンプ漫画がBL漫画に見えてくるみたいな、
> > > その文化圏においてはある見方・見え方が共有されているという文化なので。
> > > こう、このジャンプ漫画のAとBは絶対付き合ってるじゃん、みたいな、
> > > そういうのは外の世界には本当に説明しずらいんですよ。

石庭や浄瑠璃と、BLカップリングとは、かなり事情が異なりますよ!?
そして女装と百合に関しては、それより更に違うと思います。
もちろん、「○○を××に見立てる」という個々の行為自体は同じです。
ですけど、「私自身は、そう見立てている」と言うのと、
「この界隈では、そう見立てられている」と言うのとでは、まるで違います。
後者であれば社会的な文化と呼べても、前者であれば個人的な感想でしょうし、
個人的な感想を、社会的な文化とは見なせませんよね?

それこそ、砂の波紋を水の流れに見なしたり、黒子は無いモノとして捉えるのは、
その界隈の人々が、共通認識として「見立て」を共有する事で、
その世界における「お約束」にまで昇華している訳です。
これに関しては、「そういうルールにしたんだ」と言えば、一応は納得できるでしょうし、
どういう経緯でルールが生まれ、どういう根拠でルールが定まるかも、説明は可能です。

続いて、腐女子の行うBLカップリングは、「見立てる」という行為自体であっても、
「お約束」としての共通認識があるのでは無く、あくまでも個々の主観の積み重なりです。
いや勿論、「A×B」カップリングと見なす人が多数派とか、そういうのはありますけど、
それとは別に、「A×C」であったり、「B×A」と見立てても自由な訳で、
石庭や浄瑠璃のように、確固とした「ルール」として、それが存在する訳ではありません。
存在するとすれば、それは幾つかの お約束的な「テンプレート」でしょうね。
そして、このテンプレートに関しては、全く根拠もなく作り上げられるモノでも無いので、
感覚だけに頼らず、キチンと読み解いていけば、恐らく説明も可能かと思われます。

で、私からすると、オタクというのは「好きの体系化」を行う人種なので、
言語化や図解化など、手段や程度は人それぞれにせよ、
自分なりに納得できる「解」のようなモノは、持っていたり、
少なくとも、求めようとチャレンジはする者だと思うんですよね。
だからこそ一旦スイッチが入ると、マシンガン・トークを繰り広げがちだと(笑)。

> まあ、私の知っている世界なんて、メチャクチャ狭いのは自覚していますし
> (オタクですし、自分の興味の無いことにはトコトン興味がないので)、

と言う事で、上述の返信文からの続きなのですが、
正直な所、私自身は、旧トルコ担当さんの事を「オタク」だとは感じていないんですよね。
オタクなら食指が動きそうな話題を振っても、ほとんど反応がありませんでしたし、
そもそも、オタクから溢れ出る「好き」という感情が、これまで感じ取れなかったので。

いや勿論、近年ではオタクの定義も、「他人から、そう呼ばれる人」から、
「自分で、そう称する人」へと、意味が変容している事は知ってますし、
どっちが正しいとか、どちらかを否定するとか、そういう話でもありません。
当然ながら、旧トルコ担当さんが自身をオタクだと言うなら、オタクなのでしょう。
これはあくまで、私と旧トルコ担当さんとの「オタクの定義」の違いという話です。

そして、その事は最初の方でも述べていますから、
私自身がオタクを語る時は、私の定義の方のオタクの意味で用いてますけど、
ここで、旧トルコ担当さんの定義に合わせるとすれば、
私も充分、世間的にはオタクと認識される人間なのだろうとは思っていますよ。
例えば近年のアニメであれば、鬼滅や呪術廻戦くらいなら まだしも、
リゼロの魔女9人と、ダイの大冒険の魔王軍6団長を、両方諳んじられる大人を、
恐らく世間的な感覚では「一般人」と見なされないでしょうし(笑)。
ですけど私の定義だと、その程度はファンとは呼べても、到底オタクとは呼べないと。

で、何故こんな話をしているかというと、
私の方は、旧トルコ担当さんが書いた文章を読む際は、
旧トルコ担当さんの定義する言葉の意味を汲んで、文意を読み解いてるつもりですけど、
逆に旧トルコ担当さんの方は、私が書いた文章も、
全て御自身の定義している言葉の意味で、そのまま理解しているように感じるんですよね。
前回、「頭の中の辞書」という話をしたのも、その辺りに深く関係してきます。
自分のとは異なる論説に出会った時、自分の既存の言葉の意味だけで理解しようとすれば、
結局は文意の中身を読み取れず、外身の単語を掻き集めて、推測で文意を再構成するから、
それを語った側から見た場合、まるで異なる解釈に陥ってるように思えると・・・・

ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。
具体的には、同時代の他の作品と比べて、どこが革新的だったのか?
この作品の存在が、後々の作品群に、どのような影響を及ぼしたのか?
どういった面で、エヴァと比肩でき得る程の2010年代の代表作なのか?
等々、この一文だけでも、いろいろと語れる面はあるかと思われます。

それこそ、ラノベの発行部数で言ったら、巻数が異なるので単純比較は難しいものの、
「とある」「SAO」「転スラ」「魔法科」あたりは、「俺ガイル」の倍以上 売れてるみたいですし。
・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034

それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。
まあ私自身はラノベをほぼ読まないので、知っててもラノベ原作のアニメ版ですけど、
最近の作品だと「本好きの下剋上」は、個人的に面白いと感じましたね。

ついでに言ってしまうと、今まで重ねた やり取りの中で、
何の分野のオタクか尋ねたり、私の中のランキングを披露してたりしてたのは、
そういう話題の方が、旧トルコ担当さん的にも書きやすいかな?という思いと、
個人の好みが具現化される事で、趣向するタイプが把握しやすいという考えがあり、
それとなく場馴らししていたという裏事情が、実はあったりしました(笑)。
まあ、そういった話題の転換自体を、旧トルコ担当さんが望むかは未知数だったので、
あくまでも選択肢の1つとして、行っていた事前作業ではありましたけど。
ちなみに、5年前の雑談時に書いた、私の好きなアニメ・ランキングはこんな感じ↓
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s20466#20466
ただ、このコロナ禍で、結構な作品数を一気見しましたから、
今だと近年の作品も加わり、もう少しランキングも変わってくるのかな?
当時と現在とで、微妙に評価が変動した作品だってあるでしょうし。

> だからこそ自分の視界外では未知のことが起きているのかもしれない、
> と思い管理人さんに色々質問したのですが、結局それはよくわかりませんでした。

え〜と、すみません。
逆に私の方が、旧トルコ担当さんに対して、
何か未知のことが起きているのか、尋ねているつもりでいました(笑)。
具体的に言うと、「新しい文化」に関してですね。
ただコチラの方も、文化という言葉に対する定義の違いと言いますか、
もっと言えば、旧トルコ担当さんの方は漠然とした意味合いで用いている感じがしており、
この調子だと、私が求めてる問いの答えは返ってこないかな?という印象は正直あります。
この前も、ジャンル名を増やしてもしょうから、新たに名付いてないものの、
「新たな性格のゲームは誕生している」との事でしたけど、
でしたら、その具体例を是非とも伺いたい所ではありますね!!

繰り返しになりますけど、別に今の時代に文化が無いと言っている訳ではありません。
良い作品が新しく生まれて来ないという話もしていません。
今の若者が今の時代の中で楽しみを見出し、青春を謳歌しているのも重々理解できますし、
個人レベルでは、やはり当人が青春時代に味わった文化が、最高だと感じる人が大多数でしょう。
決して、その感情自体を否定していたり、過小評価している訳でも無いんです。
私の方は、ただ単に「歴史の流れ」として、俯瞰的に観察しているに過ぎず、
そういう意味では、当事者的な感情に欠けているのは確かなのでしょう。
でもそれも、オヤジの懐古主義とは、少なくとも別物だろうと思ってはいます。
私の趣味の方向性は、自身の懐古的なモノより、歴史や文化それ自体に向いているので。
(更に言うと、昔から あまり流行には乗らないタイプで、懐かしむ対象も乏しい面も)

と、それはさておき、話を元に戻すと、
申し訳ないのですが、個々の小さな問いは別として、
具体的には、そうした問いに対して、私は何か答えてましたっけ?
いや、過去の話を幾らかしたのは覚えてますけど、
「視界外の未知のこと」というのが、正直あまりピンと来てません・・・・
> > > かつてのオタクのミドルクラスはどの程度の知識があったのでしょうか?
という、この前の問いに答えていない・・・と言うか、再説明してないのは覚えてますけどね。
ちなみに「マンガ夜話」の名前を出したのは、何も、
あの番組内容から直接的に、当時のオタク・レベルを推察しろと言ったのではなく、
そうした番組が公共の電波を使って成り立つ状況から、
当時のレベルを間接的に推察できるという話でもあったんです。

また、ちょうど当時は、インターネットが普及し始めた頃でしたから、
番組を見ての感想のやり取りとかも、ネットを掘ればログが見つかるかも?
あるいう意味ではログって、当時の空気感を閉じ込めたタイム・カプセルですし、
現在に比べるとネット人口が少ないので、多人数でも会話が成り立つ感じは解るかと。
そう言えば、思い出しましたけど、2chが誕生して間もない頃、
夏目房之介さん本人が「降臨」して、盛り上がった事とかありましたね。
http://piza.5ch.net/test/read.cgi/comic/964631820/
現在のTwitterの方が著名人と繋がり易いですけど、それこそ空気感が異なるのかな?

ただまあ、実際に「ミドル層のレベル」なんてモノを、
具体的に説明するのは、やはり難しいとは思うんですよ。
それこそ同じく、現在のオタクたちの「ミドル層のレベル」について、
説明してと漠然と言われても、これだって至難な事でしょうし・・・・

とは言え、コア層とライト層のレベルが、だいたいイメージ出来ているとすれば、
そこからミドル層のレベルを、おおよそ想像するのは難しくない気はします。
まさしく、コアとライトの真ん中あたりを思い浮かべれば、そこがミドルなので。
旧トルコ担当さんが、御自身でも述べられていた通り、
コア層のレベルは、時代に関わらず途轍もないとするなら、
そういう意味で、昔のミドル層と、現在のミドル層も、そこまで大差ないのでは?
昔と現在の違いをノベルとすれば、それは恐らく層自体の厚みの方です。
(他には、作品の絶対数が違うので、1作品を深堀りする傾向も強かったですが)

例えば、学力とか収入とかの面でも、同じく言われてる話なんですけど、
以前はヒトコブラクダだった分布曲線が、現在はフタコブラクダの様になったと。
でもまあ実際は、きれいなフタコブの曲線などではなく、
中央の厚みが減って、トップの方が尖り、下の方がなだらかに厚くなった感じかな。
オタクのレベルを数値化するのは困難でも、学力のデータとかで擬似的に伝わるかも。
で、一億総中流などと呼ばれた頃が、日本が最も活気のあった時代である事を示す通り、
レベル自体の程度の違いよりも、その層の厚みの方が、やはり重要だったかと思われますし、
時代の違いを考えるのであれば、それこそが肝なのでは無いでしょうかね?
相応の人口が居れば、相応の社会や市場ができ、そこから生まれてくるモノも増えるので。

また、コアとライトの中間という意味でのミドルではなく、
平均値的や、中央値的な意味での、ミドル層のレベルを知りたいという事であれば、
ヒトコブラクダとフタコブラクダの曲線のズレと睨めっこして、
そのズレの分だけ、現在見られる平均値や中央値を上方修正すれば、
そこまで的外れなイメージにはならないと思いますよ。
具体的には、中の上や、上の下といった「アッパーミドル」を想像すれば良いのでは?
やはり少数精鋭の頃の方が、平均値や中央値も高く出ると思います。
ですが、もしも仮に、それ以上に全体のパイが広がっているとすれば、
絶対数がそこまで減じているとも思えば、下手すれば増えてる可能性もありますけど、
そこが上手く現れて来ないのは、当初から言っていた「場の喪失」に原因があるのかな?と。

あと、これは余談かも知れませんけど、マンガ夜話の話に関して、
> > > 自分で作品を見て、自分なりにこの作品はこうなんだというのが面白いのであって、
> > > 見たこともない作品の批評を見てなるほど、と思うのは、
> > > 例えるのであればそれこそ石田徹也的な世界観かと?

と、おっしゃてたのが、私の方も驚きだったかな?
だって、自分の読んでない作品の批評を、番組で見ただけで、
そこまで簡単に呑まれてしまうと言うか、影響を受けてしまうイメージが、
そもそも私には、持ち合わせていなかったので(しかもオタクを称する人が)。

だって、あの番組、もちろん取り上げる作品自体の話もしてますけど、
その根底に流れているのは、「日本のマンガ文化史」という大きなテーマでしょうし、
個々の作品は、その日の講義の教材のようなモノだと感じています。
喩えるなら、もし仮に「西洋絵画史」の講義を取ったとして、
前回はクールベの「世界の起源」を通して、19世紀前半の写実主義について学び、
今回はゴッホの「ひまわり」を通して、19世紀後半の印象派について学び、
次回はピカソの「ゲルニカ」を通して、20世紀前半のキュビズムについて学ぶように、
毎回1作品を中心に語る形式で、考察を深めていく方法に思えるんですよ。
まあ確かに、講義で初めて「これがキュビズムかぁ」みたいに触れてしまうと、
下手に先入観が先走り、真っ新な気持ちで作品と向かい合う機会は失われるかも知れません。

そういう意味では、私も理想論を述べると、何事も新しい体験をする時は、
1回目は予備知識なく自然に触れ、2回目はしっかり学習してから触れ、
そして3回目は一旦それらを忘却して触れるのが、望ましい形だとは考えています。
でもまあ、マンガ夜話に関しては、その番組を見る事で、
未読だった作品を読む面白味を損なうかというと、そういう内容でも無いですからねえ。
また、自分が今まで触れて来なかった分野の作品であればこそ、
これを機会にキュビズムを知るというキッカケを、得られるチャンスだと感じてます。

まあ個人的には、オタク層が見て楽しめるのが「マンガ夜話」であり、
その作品のファン層が見て楽しめるのが「アニメ夜話」かな?と思っています。
やはり、基本的には1人で作るマンガと(編集者やアシスタントの存在も勿論重要ですが)、
多くの人が関わって作るアニメとでは、作品に現れる「作家性」の度合いが異なってきますし、
マンガよりアニメの方が断然客層が広い事を踏まえれば、番組の作りが違うのも当然でしょうね。
それこそ、普通に作品を楽しんでる層からすると、あれこれ考察されるのは目障りで、
素直に作品の魅力を伝えてくれる方が嬉しいという事情もあるでしょうから。

で、ついでなので、ここで言ってしまうと、
それなりに経験がある人が、何か新しい発想をしようとする際、
余裕や雑音も含めた「無駄」というモノの重要性を、
気付けていない人というのは、恐らく少数派だと思われるのですが、
でもまあ、それは創作者の事情であって、
単なる消費者に回るのであれば、特に必要という事もありません。
とは言え、精神的なリセットをする上では、普通の人でも重要だと思いますけど。
ちなみに この話題に関しては、旧トルコ担当さんがオタクを称するからという以上に、
ゲームを作られているから、敢えて触れたという側面はありましたね。
ですが、その原点がMOD制作にあると聞くと、実は私が想定していた程には、
旧トルコ担当さん自身、そうした新規性には、そこまで比重を置かれていないのかも?
これも、立ち位置の違いによる、風景の見え方の違いみたいなモノでしょうか(笑)。

> その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。

また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。
今までの感じだと、旧トルコ担当さん的には、
「理解」と「賛同」はイコールと思ってそうな印象を受けますけど、
コチラに関しても、それぞれ異なる概念ではあります。
要するに、仮に理解できたとしても、必ずしも賛同するとは限らないと。
それは、理解できないとか、理解が間違ってるとかではなく、そもそも別物だからです。
もっと言えば、理解も、賛同も、共感も、納得も、好意も、高評も、全て違います。
でもまあ、それらを全て同一視する人の方が、世間的には多数派な気はしてますけどね。

> これは愚痴みたいなものですが、
> いや、だってソシャゲに対しての認識とか、どう考えてもおかしいでしょう。
> まだコロナは中国のウイルス兵器説の方が納得できますよ。

そもそも論として、誤解釈に基づく「認識」を元に、「おかしい」と言われましても、
それは私自身の認識ではなく、旧トルコ担当さんが勘違いで生み出した認識なので、
本来であれば、私に対して問うのでは無く、自分自身に問うてこそ、見えてくるモノでしょうし、
「どう考えても」などと言う前に、その前段階から「考えてみる」事が重要だと思いますよ。
ウイルス兵器説なんて話を、突拍子も無く登場させる事よりも先に。
あと、とりあえず言うと、この前の返信に書かれてるような認識は、私の方も持っておらず、
あの文章と今までの流れから、どうしてそういう解釈になるの?というのが、実際の所です(笑)。

う〜ん、で、ソシャゲの話題に関しては、どうしましょうかねえ?
今までも何度か、誤解釈に対する修正説明はしてきましたけど、
それに対して、旧トルコ担当さんの反応が返ってきた事が無いので、
その誤解釈をどれだけ修正できてるのか、私も図りかねてる部分は正直ありますし、
特にこの件に関しては、今まででも最大級にズレ幅が大きい為、
修正説明を行うのも、恐らく一苦労だろうな・・・という思いもあったりします(苦笑)。
また追記の問いについて、私自身のソシャゲ経験を実際に述べるのは別に良いんですけど、
現状でそれを行うと、誤解釈を補強しちゃう気もして、ちょっと怖いんですよね。
今回も、理解するのが難しいと言われる割に、思いっ切り決め付けて反応されてますし・・・・

でもまあ、ソシャゲに関して言えば、プレイヤー数が多い事もあり、
それにハマった人の体験談とか、それこそネット上に溢れてると思いますし、
その中から様々な側面を語る声を探す事は、そんな難しい事じゃないと思いますよ。

> まあそうは言いつつ管理人さんの見解に引っ掛かるところが無いわけでは無いので、
> 極ローカルの幅についてはこれからも考えては行くつもりですが。

私がいう所のニッチ、旧トルコ担当さんがいう所の極ローカルに関しては、
まあ私の方も実は、このままの流れだと厳しそうだと見つつも、
密かに期待は抱いているというか、決して諦めて見放してる訳でも無いんですよね(笑)。

ただ、この辺に関しては、他の雑談スレッドでも触れましたし、ここでも少し書きましたが、
ネットの黎明期、今よりもっと素晴らしい未来像を、多くの人々が描いていた為、
その頃の理想図に比べると、実際はかなり異なる社会になったという思いが、
当時を知る世代の中で、やはり何処かに強く残っているんでしょうね。
だからこそ、そうした思い描いたような成長曲線は描けていなくても、
実はジワジワと成長していて、その小さな変化に気付けていないだけかも知れません。
しかも、ネット化やグローバル化というのは、ニッチな世界の武器にも成り得るので、
それを上手く活用して行ければ、これから大きく羽ばたく可能性だって残されています。
とは言え、そんな簡単に上手く運ぶなら、あの時に抱いた未来予想図だって実現できたた筈で、
確かに確率的には有り得ても、その数値はかなり厳しいモノだろうと言う考えもあります。

例えば、MODであれ、2次創作であれ、その活動自体は未だに盛んであり、
数的な面で見れば、以前よりも増えているのかも知れません。
ですが一方で、MODや2次創作の対象になる作品が、
以前に比べると、特定の作品に集中しがちな傾向は無いでしょうか?
言い換えるなら、マイナーな世界でも、その中でのメジャーな作品が1人勝ち状態となり、
結局、メジャーな世界の競争原理で、マイナーな世界も動いてしまうと、
マイナーな世界が持つ独自の強味が失われるのでは?という危惧もあります。
その他に、有志による洋ゲーの日本語MODが充実してるのは凄い事だとしても、
大前提として、日本語版が発売されなくなったり、公式が日本語対応しなくなった結果、
そうせざるを得なくなった事情があるので、プラスかマイナスかは判断が難しい所ですし、
Wikipediaの日本語記事 編集が、目に見えて鈍化しているのを感じると、
いつまでも有志頼りの構造が続いていけるかは、正直微妙な気はするんですよね。
まあ無給奉仕の有志活動に比べれば、有料MODがある所は幾分マシかも知れませんけど。

って、念の為に言っておきますけど、前段で言ってる「1人勝ち状態」とは、
何も1本の作品しか大勝ちしないという意味では無く、
一握りの勝ち組作品と、その他 多数の負け組作品に2分化されるみたいな意味合いですよ。
この前も、代表格として「マイクラ・あつ森・フォートナイト」を挙げたら、
「Among Usは知らないの?」みたいな返信が来たので、一応ですけど言っておきます。
ちなみにAmong Usは、昨年のアメリカ大統領選で、オカシオ=コルテスが利用してましたよね。
他にも、Apexとか、League of Legendsとか、GTAとかもあるでしょうし、
桃鉄の新作も未だに根強い人気なのも知ってますけど、そんな事を言ってたら切りが無く、
かと言って、以前より勝ち組と負け組の差が現れてる事は、覆し様の無い事実でしょうから。

あと、これは余談ですけど、そうは言いつつも、
年明けに2度目の緊急事態宣言が発令されて以降、生の情報を得る機会が滞っているのも、
一方では事実としてある事も、とりあえず明かしてはおきます。
私自身がゲームを遊ばなくなって久しいですし、そういう意味では今だとネット情報くらいで、
肌感覚的な情報とかは、現状で半年くらいのギャップがあるのも、本当の所です。
グラフィックとかは格段の進歩を遂げているので、ゲーム動画はよく見ますし、
他には、弟が未だにバリバリのゲーム好きなので、それで自然と見聞きしたり、
人気作に関しては、人気の理由を知りたい欲求から、そこそこ調べたりしますけど、
逆に言えば、自分ではプレーしない程度の関心度ですね、今のゲームに対しては。
ゲーム番組「GameWave」を毎週見てた頃に比べると、把握してる情報量は明確に少ないです。
ただ、半年遅れの感覚でも、マイクラと あつ森の人気度は、
少なくとも日本国内において、世間的に、やはり頭幾つか抜けてる実感はありますよ。
・・・って、ここまで書いたら、ほぼほぼ答えてるようなモノですね、例の箇所の質問を(笑)。

更に別の余談を続けると、私がよく見るYouTubeのチャンネルに、
「予備校のノリで学ぶ 大学の数学・物理」↓というのがあるのですが、
https://www.youtube.com/channel/UCqmWJJolqAgjIdLqK3zD1QQ
最近、プロ棋士などを始め、様々な方面のYouTuberとコラボしていて、
登録者数も再生数も伸ばしているんですよね。
ただ、そうしたコラボ効果により、一般向け動画の再生数が跳ね上がるのは解るのですが、
専門性の高い動画の方まで、10万再生くらい伸びてるのが、驚きですし、凄い謎!?
これが英語で作られた動画なら、対象が全世界に広がるので、まだ想像できますけど、
物理学科や数学科の日本人学生が、数万人単位で視聴してるとも思えず、
ファンになれば、内容は解らないけど再生する層とかも、一定数で居たりするのかな?
でも、趣味で学び直そうという卒業生とかも含めれば・・・そのくらいの人数は行くのかも?
ともかく、そんなニッチな動画でも再生数が伸びるというのは、素直に凄い事だと思います!!
そういう意味では、例え日本語限定であっても、ニッチの幅もまだ残されている気はします。


[23603] Re4:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/11 (金) 15:31:44 旧トルコ担当

> > 今後について
> > 管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、
> > 管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
> > いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

> いや〜、その言い草は、さすがに失礼だと思いますけど?(苦笑)
> これ以上は進展が無さそうだから、話を打ち切る提案をするのは構わないのですが、
> でしたら、それ以上は余計な事を語らないのが一般的である所、
> 後続の文章で、愚痴をこぼされたり、質問をされたりしている訳で、
> その上で「返信されたければしていただいても構いませんが」の一文が加わっては、
> これはもう、自分の言いたい事だけ言って、相手を煽るような書き方に為っちゃってますよ!?
>
> まだこれが、解った上で、敢えて行っている行為であれば良いのですが、
> 恐らく旧トルコ担当さん的には無自覚でしょうし、そのつもりも無いのでしょうから、
> それはそれで、却ってマズい状況のように、私には感じられます・・・・
> 少し異なりますが、「慇懃無礼」に似た感じと言えば、イメージしやすいでしょうか?
> 「自己の主張」と「相手への礼節」を無理に共存させる際、往々にして見られる悪文ですね。
> その両方を満たす文章というのは、なかなか高度な技術を必要としますし、
> それが難しければ、どちらか一方を抑え気味にするか、いっそ触れないのが無難です。
> 余計なお世話かも知れませんけど、若い内から意識されるようにした方が良いと思いますよ。
> 大人になると、「失礼なヤツだな」と相手から評価され、注意もされずに終わっちゃうでしょうし、
> 年齢を重ねれば重ねるほど、そうした悪癖は修正し難くなっていくでしょうから。


はい、失礼なのは重々承知です。
ただそれ以上にもう返信をあれこれ考える時間がもったいないので文章の推敲をせず、深夜テンションで書いて、さらに深夜テンションで追記しましたので。
いろいろ誤解されるのも当然でしょう。

> また、今までもそうでしたけど、
> 何も私は、旧トルコ担当さん実感自体を否定している訳では無いんですよ。
> 例えば、仮に話題が「田舎暮らし」だったとしましょう。
> 個人的に「ここでの生活は最高だ」と思われる方は、当然いる事でしょうし、
> 周りの移住者仲間も「同じ感想を持ってる」という事も有り得るでしょう。
> ただ一方で、田舎は自然に恵まれていても、「不便」であるのも事実ですし、
> 全体的に言って、流入するより流出する人数が多ければ「過疎化」の傾向となります。
> この2つは、何も相容れない事実という訳ではありません。
> 主観的・瞬間的には「最高」と感じられたのが事実だとしても、
> 客観的・時間的には「過疎化」という事実も、矛盾無く存在する。
> どちらが「合ってる/間違ってる」ではなく、視点の違いでしかないんです。
> 前回のニコニコ動画に関する話も、そういった主旨の事ですね。
> プレミアム会員が現在でも150万人居るのも、5年間で100万人減ったのも両方事実で、
> 未だに楽しんでる方が大勢居る事と、でも全体としては衰退してる事は、相反しません。
>
> で、そうした上で、私が今まで何を指摘してきたかと言うと、
> 旧トルコ担当さん自身の立ち位置と、その認識に関してなんです。
> 「前から見るか? 後ろから見るか?」「上から見るか? 下から見るか?」
> 「近くから見るか? 遠くから見るか?」「長く見るか? 短く見るか?」等々、
> 同じモノを見ていたとしても、見る人の立ち位置の違いで、映る姿は異なってきます。
> ですから、自分はどこに立っているかという「絶対的」な座標と、
> 相手はどの辺りに立っているかという「相対的」な座標とを欠くと、
> 相手の事を理解できないのは勿論、自分の事さえ正確には把握できなかったりします。
> 言うなれば、相手の事も、その他 大勢である社会の事も、
> 自分と同じ立ち位置から見ていると勘違いし、それを疑わないまま、解釈してしまうと。


> > その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> > こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

> 「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
> それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
> それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
> 厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
> 自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。


> また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
> 私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
> では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。
> 今までの感じだと、旧トルコ担当さん的には、
> 「理解」と「賛同」はイコールと思ってそうな印象を受けますけど、
> コチラに関しても、それぞれ異なる概念ではあります。
> 要するに、仮に理解できたとしても、必ずしも賛同するとは限らないと。
> それは、理解できないとか、理解が間違ってるとかではなく、そもそも別物だからです。
> もっと言えば、理解も、賛同も、共感も、納得も、好意も、高評も、全て違います。
> でもまあ、それらを全て同一視する人の方が、世間的には多数派な気はしてますけどね。


もちろん、そういったことも重々承知です。
ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
もう後1年はこのことについては考えたくないです。

まあ、あと結局は過去のこと知らないと何も言えない、ということに今更ながら気が付いたというのもありますね。
過去の動向を知らずに現在や未来について動向分析するのって、例えるのなら女の子と付き合ったことない男が必死に女の子の気持ちを想像してるようなもんであって、それはたいてい的外れなわけです。
正しく女の子の気持ちを分かるようになりたいのであれば、それはもういろんなタイプの女と付き合ってみて、その経験則から判断するという方法しか無いのと同じよう、結局未来インついて考えるのも過去の知識が無いと、一見して正しそうでも得てして的外れな考えに陥りがちなんです。
まあ管理人さんは過去のいろいろについて知っているのでしょうし、私もその経験値を増やす意味でいろいろ聞いてみたりしたのですが、結局そんな簡単に理解できるものではないんでしょうね。


> ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
> この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
> その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

> 何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
> なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。
> 具体的には、同時代の他の作品と比べて、どこが革新的だったのか?
> この作品の存在が、後々の作品群に、どのような影響を及ぼしたのか?
> どういった面で、エヴァと比肩でき得る程の2010年代の代表作なのか?
> 等々、この一文だけでも、いろいろと語れる面はあるかと思われます。


書こうと思えばかけますが、というか下書きまではしたのですが、いろいろ止めておきます。
昔はコミケ創設メンバーの大学生たちが自分の好きな漫画を語っていた、みたいな文献を見て「なんで漫画を語る、なんていうつまらないことを昔のおたく(おたく原人?)はしていたんだろう?やっぱ学生運動上がりのおたく世代はよくわからんわ」と思っていたのですが、
この年になると自分の好きな作品を語ることの面白さがようやくわかってきました。なるほど、年を取るというのはこういう面白さがあるんですね。


> それこそ、ラノベの発行部数で言ったら、巻数が異なるので単純比較は難しいものの、
> 「とある」「SAO」「転スラ」「魔法科」あたりは、「俺ガイル」の倍以上 売れてるみたいですし。
> ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
>
> それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。
> まあ私自身はラノベをほぼ読まないので、知っててもラノベ原作のアニメ版ですけど、
> 最近の作品だと「本好きの下剋上」は、個人的に面白いと感じましたね。


この辺のラノベ史は勉強になりました。
現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?
一般に00年代前半にラノベブームが起きたなどと言われますが、ライトノベルの出版部数は90年代から大きな変化はなく(『ライトノベルの現状と将来』)
・それまで雑多であったライトノベル、ヤングアダルト、ジュブナイルなどの名称がライトノベルにおおよそ統一された(『ライトノベルから見た少女/少年小説史』)
・90年代のラノベを読んでラノベを書き始めたライトノベル世代が作家として登場した(『ライトノベルよ、どこへ行く』)
・ラノベ評論ブームが起きた(『ライトノベルの現状と将来』)
・ラノベのアニメ化が増えたりした(『ライトノベルの現状と将来』)
・出版産業が順調に部数を減らしていく中で、ライトノベルだけは出版点数は減少しなかったため、相対的に出版業界の中でのライトノベルの存在感が増した
・ラノベの内容が90年代のファンタジーブームから学園モノへトレンドが入れ替わった
・オタクへの注目が高まってき始めた
これらの要因の結果、ライトノベルがブームを起こしているように錯覚させ、その結果誕生したのが00年代のライトノベルブームだと認識しているのですが、実際どうだったのでしょう?
確かに90年代のラノベってファンタジー物中心ですし、興味のない人から見ればライトノベルというよりゲーム小説とかそういった認識だったのでしょうか?90年代のラノベはTRPGのルルブと一緒の棚に置かれていた(『ライトノベル研究所説』)という話も聞きますし


クレヨンしんちゃんのオトナ帝国の逆襲(2001年)は見ていますか?
あれって、20世紀生まれの大人たちが「かつて未来はもっと輝いていた」と言ってるんですが、実際輝いていたはずの21世紀が「案外しょぼいな」ってなった理由って、失われた10年や少子高齢化などの日本的な要因と、科学技術の進化が案外しょぼかったという要因と、どっちが大きかったのでしょうか?



[23607] Re5:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/15 (火) 03:22:41 旧トルコ担当

> もちろん、そういったことも重々承知です。
> ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
> しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
> もう後1年はこのことについては考えたくないです。

上の文章だと管理人さんを非難しているような文章になってしまっているので、別にそういう意図ではないということではないので、追記しておきます。

そのまま深夜テンションで色々追記してみますが、別に管理人さんの指摘していることも結構納得はしているんですよね。
ただ、それはわかるけど、何かイマイチそれだけではない気がするからこそ、どうしても管理人さんの指摘を否定的に見ようとしちゃうんですよねえ。
何が納得できないのか、は明確にはならないですが、やはりひとつには私の日々の実感とズレている、というのがあるのかなぁ。
ネット化により障壁がなくなった結果、過剰に淘汰が進んで、マニアックな世界ですらも流行っているものそうでないものの差が顕著になった、というのは確かに大いに納得するのですが、何かそれはあくまで一面的な見方な気がするんですよ。
例えるなら、SNSでバズッていることが世界です、みたいな。いや、そういう部分ももちろんあるけど、それが全てではないでしょ、という。

で、私の無い歴史知識から考察すると、現在の二極化は経済うんぬんかんぬん、みたいなことではなくシンプルにネットの浸透だと思うんですよね。
ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。
ゲームで言えば、とりあえず自分で色々ゲームをやってみて、それでハズレもありながら面白いゲームを探していくのが当然だったわけですが、今はそんな作業は不要だと。

あとはあらかた新しいことはもうやり尽くした、というのもあるんでしょうね。
ゲームで言えば、switchの話題作なんかも、かつてあったゲームの焼き直しみたいなものばっかりですし。
インベーダーから始まって、ゲームの進化と言うのを直接体験してきた世代からすれば物足りないと言う感覚は嫌という程分かるんですよね。

オタク界も20年くらい前に誕生した萌えから進化してないじゃん、と言われれば確かにそうだよなー、と思う面はありますし。
もちろん細かいところを言えば色々変化はしているのですが、それって20年分の変化としては小さいじゃん、というのはあると思いますし。

で、なまじ過去の遺産が優れているからこそ、新しいものが余計に生まれにくいと。
とりあえず萌えアニメ作っておけば、作る側も儲かるし、見る側もまあまあ面白いと。

うーん。
この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。

> 恐らく今までの感じだと、「グローバルとローカル」と言うよりも、
> 「マスとニッチ」や、「メジャーとマイナー(インディー)」の意味合いで、
> 用いている印象を受けるのですが、実際の所、どう言った意味なのでしょう?
> ちなみに仮にそうだとした場合、ニッチであれ、マイナーであれ、
> それが成り立つにも、最低限の「規模」が必要だと私は思うのですが、
> そうした規模の必要性を、旧トルコ担当さんは感じ取れてない気がしちゃうんです・・・・

> 規模というのが解り難ければ、ある程度の人の集まり(社会)と捉えても良いかも知れません。
> 実社会で言えば、「街(大都会)」と「村(集落)」みたいなモノですよね。
> どんなに村が小さくても、社会が成立するには、最低限の人数が必要であり、
> 住民が1人しか居ない村や、空き家しか無い村では、社会が成り立たないんです。
> そして文化とは、人同士の繋がりで紡ぐモノである以上、社会の存在が不可欠となります。

> 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。

いや違うな。
確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
だから不可知化なんですかねぇ、やはり。
確かにネット化によって誰でも知ってるゲームと、知る人ぞ知るゲームに二分されたと言うのはあると思います。
それがリアルな雑誌のような物を中心に情報が行き来していた時代とは違って、情報だけが動き回る時代だからこそ、小さいものは見えなくなったのかなぁ。
色々考えましたが、やはり管理人さんの二極化、特に極ローカルに関して私が考える限りでは、極ローカルは無くなったのではなく、見えなくなったのだと言うのが今のところ結論です。


[23608] ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/16 (水) 21:01:37 徳翁導誉

▼ 今までの流れの返信
> > > その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> > > こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

> > 「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
> > それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
> > それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
> > 厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
> > 自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。
> > また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
> > 私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
> > では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。

> もちろん、そういったことも重々承知です。
> ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、
> 既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
> しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、
> 私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
> もう後1年はこのことについては考えたくないです。

すみません、そこまで負担が大きかったのですね。
では、この話題はここまでという事で。

> 上の文章だと管理人さんを非難しているような文章になってしまっているので、
> 別にそういう意図ではないということではないので、追記しておきます。

「そういう意図ではないということではない」だと、2重否定なので、
「非難する意図だった」と、改めて宣言する意味の文章になっちゃいますよ(笑)。
頭の中がパニック状態なのは伺えますし、この件に関しては、
「もう終了」と割り切った方が、旧トルコ担当さんも気持ち的に楽かと?

> まあ、あと結局は過去のこと知らないと何も言えない、ということに今更ながら気が付いたというのもありますね。
> 過去の動向を知らずに現在や未来について動向分析するのって、例えるのなら女の子と付き合ったことない男が
> 必死に女の子の気持ちを想像してるようなもんであって、それはたいてい的外れなわけです。

そうですね。
現在だけを見るのと、過去から通して現在を見るのとでは、やはり厚みが異なるでしょうし、
未来の事まで予測しようとすれば、過去から現在に至るデータが、やはり重要かと思います。
また、現在の同じ物事に対しても、見る人ごとに見え方は千差万別なので、
他人の事は完璧に理解するのは無理ですが、可能な限り違いを推し量ろうと努力する事でしょうね。
結局の所、「多角的な視点」というのが、最大のキーワードなのだろうと思います。

でもまあ、それって普通は、なかなか簡単な事では無いと思うんですよ。
私などは転勤族として育ち、数年単位で日本各地を転々とさせられたから、
地域ごとに異なる「常識」に対して、常に対応を強いられて身に付いただけであり、
あれこれと客観視するよりも、素直に主観で身を置けた方が、精神的にはずっと楽なはずなので。

> 何が納得できないのか、は明確にはならないですが、やはりひとつには私の日々の実感とズレている、というのがあるのかなぁ。
> ネット化により障壁がなくなった結果、過剰に淘汰が進んで、マニアックな世界ですらも
> 流行っているものそうでないものの差が顕著になった、というのは確かに大いに納得するのですが、
> 何かそれはあくまで一面的な見方な気がするんですよ。

う〜ん、「もう終了」と割り切った方が良いよ、と薦めた手前、
これ以上返信するのも、正直、どうしようか悩んでしまう部分はあるのですが、
「あくまで一面的な見方」というのは、全く以て、その通りですよ。

別に私も、一例として挙げているだけで、それが全てだとは全く思ってませんし、
更に言うと、こうして挙げてる実例や比喩は、あくまでも話を理解しやすくする為のオマケであり、
その前で述べられてる前提条件と、その後で述べている結論や考察の部分こそが、
私からすると「話の本題」なんですよね。
ですので、解説用に用いた実例や比喩の部分に、主に反応されて、
「それだけでは無い」とか「それは極端」と言われると、「そりゃそうですよ」となりますし、
そこを理解のキッカケにして、本題である前と後の話を解ってもらいたいんですよね。
要するに、「それを踏まえた上で」みたいな感じで、踏み台を使って、棚の上の話題を扱いたいのに、
どうも踏み台の方に注目が行っている印象を受け、そこで「ズレ」が生じてる気がするんです、私には。

ただ言えるのは、「私の日々の実感とズレている」というのも充分解るんですよ。
近年の風潮のように、心地良いコミュニケーションを求めるのであれば、
「こうだよね?」「うん、そうそう」と、1つの視点を認めてあげれば快適なのですが、
(ただし、「それなー」みたいな空返事は、私には却って虚しく映りますけども)
そこを敢えて、それとは異なる視点を挙げる事で、物事がより多角的・立体的に見えてきますからね。
1点だと単なる棒だったモノが、2点なら梯子となり、3〜4点なら櫓が組めるように、
安定感を増していった方が、俯瞰的に物事を見つめられますし、
逆に言うと、最初の1点を否定している訳でもなく、
別に示した1点が私の見解だと述べている訳でも無いんです。

って、こういう話をすると、また混乱させてしまうのでしょうけど・・・・


▼ オタク文化に関して
> > ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
> > この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
> > その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

> > 何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
> > なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。

> 書こうと思えばかけますが、というか下書きまではしたのですが、いろいろ止めておきます。

そうですか・・・・
ただ今回の事で、私の中の「気になる作品リスト」に載りましたから、
その内、まとまった時間が取れる時期になれば、
アニメの方ですけど、まとめて見てみようかな?とは考えています(笑)。

> 昔はコミケ創設メンバーの大学生たちが自分の好きな漫画を語っていた、みたいな文献を見て
> 「なんで漫画を語る、なんていうつまらないことを昔のおたく(おたく原人?)はしていたんだろう?
>  やっぱ学生運動上がりのおたく世代はよくわからんわ」と思っていたのですが、
> この年になると自分の好きな作品を語ることの面白さがようやくわかってきました。

これなんてまさに、私が前回発言した
> > オタクというのは「好きの体系化」を行う人種
に、通ずる感覚なんでしょうね。
現在では、オタクとファンの世間的な定義って、非常に曖昧になってますけども、
少なくとも、古い世代の私には、「好きを語れてこそオタク」という感じはあります。
作品を楽しんで「面白かった」・・・では、終われない人たちであると(笑)。

それと、勘違いして貰いたく無いので、念の為に言っておくと、
語り合うようなコミュニケーションは、あくまでもオタクにとってはオマケであり、
尋ねられれば語れるくらい、自分の中の「好き」を追求していくのがメインでした。
近年は、文化や社会的にも「コミュニケーション偏重」の傾向が強いですけど、
現在を基準で過去を眺めてしまうと、やはり見誤る可能性が高くなる気がします。

> なるほど、年を取るというのはこういう面白さがあるんですね。
まだ若いでしょうに、高齢者みたいな口振りになってますよ(笑)。
こういう場合は、「年を取る」よりも「大人になる」の方が適当でしょうかね?

> で、私の無い歴史知識から考察すると、現在の二極化は経済うんぬんかんぬん、みたいなことではなく
> シンプルにネットの浸透だと思うんですよね。

誤解の無いよう、念の為に言っておくと、
別に私は「経済至上主義」を述べているのでも何でも無く、
時代や地域であったり、経済・政治・文化・戦争など対象が違っても、
人間の基本的な「行動原理」、更に言えば、全ての生物の「本質」は、それほど違いは無いモノであり、
ただしその中でも、その傾向が最も端的に現れるのが、経済活動であろうから、
理解のしやすさも含めて、その話題について触れているに過ぎないんですけどね。
恐らく、小難しい事をゴチャゴチャと言ってるな、って感じに受け取られそうですけど、
実はそれ程、難しい内容の話はしていないつもりです(笑)。
興味ある話題じゃ無いかも知れませんが、それこそ初めの方で触れていた「歴史物理学」みたいな話です。

> ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。
ただし、リアルだと人々はブレーキをよく踏みがちだけど、ネットだと逆にブレーキを踏みがちなので、
どちらの方がメリットが多いか? どちらの方がデメリットが少ないか? みたいな話かも知れません。
あとは、人が集まる時のサイズ感とか、その頻度とか、密度とか、その辺の違いもあるのかなぁ?

> で、なまじ過去の遺産が優れているからこそ、新しいものが余計に生まれにくいと。
> とりあえず萌えアニメ作っておけば、作る側も儲かるし、見る側もまあまあ面白いと。

とは言え、これを創作者側から、消費者側へと視点を移すと、
今はネット配信の充実などもあって、過去の名作に触れられる機会も断然増えていますし、
新作だろうが、旧作だろうが、個人レベルからすれば、良い作品は良い作品な訳で、
そういう意味では、決してマイナス面ばかりでも無いんですよね。

実際、私自身も、録画したっきり未見だった作品を、配信キッカケで一気見して、
「評判通りに名作だったな」と感じた事は、ここ1年でも何度かありましたので(笑)。
ただ、本放送時に週1話ペースで視聴するのと、再放送で毎日1話ずつ視聴するのと、
配信やソフトなどで一気に視聴するのとでは、同じ作品を見ても、やはり違ってくるでしょうね。
そういう意味では、リアルタイムの新作って、良くも悪くも視聴に心的な負荷が掛かかりますし、
自分の年齢や精神状況、社会の環境や制作年代などでも、視聴しての感じ方が変わってくると。

> うーん。
> この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
> 例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。
> > 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> > そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> > 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> > 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> > 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> 確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、
> でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。
> いや違うな。
> 確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
> だから不可知化なんですかねぇ、やはり。

前回、お互いに異なる「オタク」の定義についての話をしましたけども、
そもそも論として、私と旧トルコ担当さんとの間で、
「幅」もそうですし、「文化」もそうでけど、
それぞれ異なる定義をしているであろう事を、旧トルコ担当さんは気付かれてます?


▼ ラノベの歴史について
> > ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> > 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> > なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
> > それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> > アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> > 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> > 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> > そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。

> この辺のラノベ史は勉強になりました。
> 現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、
> やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?

それこそ、「スレイヤーズ」の刊行が1990年ですので、
ラノベが「90年代初期に誕生」というのは、歴史の文脈的には正しいのでしょうけど、
何事でもそうですけど、一気にバッと転換するのでは無く、ジワジワと変化するものですからねえ。
そういう意味では、上記の戯れ歌のように、ラノベの道を切り開いたのが「スレイヤーズ」であり、
その道を広げたのが「ブギーポップ」で、道を舗装したのが「涼宮ハルヒ」だと考えています。
で、世間的に言うと、やはり舗装道路の開通というのが、最もインパクトが大きいモノであると。

そういう意味では、現在のラノベっぽくなるのは、00年代の前半でしょうし、
90年代の頃は、人気漫画のノベライズ版とかは既にあったので、
当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。
逆に言うと、原作があれば予備知識を元に、文章だけでも世界観を思い浮かべられますが、
原作なしのオリジナルだと、その世界観を補完するイラストの存在が不可欠であり、
そして、キャラデザ付きのアニメ脚本みたいなモノなので、いざ映像化するにも適していると。

> 一般に00年代前半にラノベブームが起きたなどと言われますが、
> ライトノベルの出版部数は90年代から大きな変化はなく(『ライトノベルの現状と将来』)
> ・それまで雑多であったライトノベル、ヤングアダルト、ジュブナイルなどの名称が
>  ライトノベルにおおよそ統一された(『ライトノベルから見た少女/少年小説史』)

上記の続きの話となりますが、「ライトノベル」という名称に統合されたのは事実ですが、
漫画の小説版として派生したラノベと、小説の青少年版として続いてきたジュブナイルとでは、
そもそも系統が異なりますので、統合された後、ラノベの1強状態になったのが、実像に近いかな?
それと、「90年代から大きな変化はなく」というのは、正直疑問符。
まあ、ラノベをどう定義するかで数値も変わりますし、
ラノベ界隈のデータが詳細に録られ始めるのは、2010年くらいからなので、
明確に示すのは難しいものの、やはり2010年頃までは右肩上がりだったと思います。

> ・90年代のラノベを読んでラノベを書き始めたライトノベル世代が作家として登場した(『ライトノベルよ、どこへ行く』)
これは完全に、私自身が昔から抱いているイメージなのですが、
恐らくラノベの原点って、「絵が描けない人が書く漫画」だったと思うんですよ。
それこそ80年代後半は週刊少年ジャンプの黄金期であり、刺激された子供たちは多かったものの、
漫画だとストーリーの全てを絵で描かねばならず、それはアマには非常に高いハードルでした。
(ノートに鉛筆で描く程度ならまだしも、ペン入れやトーン貼りは道具も技術も要するので)
でも文章であれば、絵よりも容易に書けますし、表紙絵や挿し絵くらいなら頑張れもします。
そして商業作品のレベルとなれば、イラストは別の得意な人に頼めば良いですし、
漫画の原作&作画の分業作業に比べれば、ラノベの方がずっと分業に向いてる気がします。

あと、少し話題は逸れますけど、「絵を描くハードルの高さ」に関連して、
アマでも本格的に描く人の数は、一昔前に比べると、かなり増えた印象があります。
まあこれは、ネットの発達により、アマの絵に触れる機会が圧倒的に増えた事もありますが、
その他にも、絵を描くという行為が、アナログからデジタルに移行したのも大きいかも?
それこそ、絵を描くハードルが下がったんですよね。
ただ一方で、プロも御用達だった高級色鉛筆「三菱ペリシア」のような画材が、
生産中止に追い込まれたりする事例は、従来の絵描き層からすると厳しい現状に・・・・

> ・出版産業が順調に部数を減らしていく中で、ライトノベルだけは出版点数は減少しなかったため、
>  相対的に出版業界の中でのライトノベルの存在感が増した

これに関しては概ね、その認識で間違ってないかと、私も思います。
出版不況が叫ばれて久しい現在、一時の勢いは無いものの堅調なラノベは、
相対的に見ても、出版業界での存在感が増しているのは事実なのでしょう。
(ただ、読者層があまり入れ替わらず、そのまま高齢化の傾向にあるとも聞きますが)
ちなみに、これに関してはマンガの単行本についても言えるかな?
連載されてる週刊誌の売り上げは落ちてますが、単行本で読む層の増加で、
マンガの売り上げは堅調と言いますか・・・電子版も含めれば、増えているんですよね。
ただ、こちらでも、売れる一部の作品が異常に売れる状況が現れていると・・・・

> ・ラノベの内容が90年代のファンタジーブームから学園モノへトレンドが入れ替わった
> これらの要因の結果、ライトノベルがブームを起こしているように錯覚させ、
> その結果誕生したのが00年代のライトノベルブームだと認識しているのですが、実際どうだったのでしょう?
> 確かに90年代のラノベってファンタジー物中心ですし、興味のない人から見れば
> ライトノベルというよりゲーム小説とかそういった認識だったのでしょうか?

前述の「ラノベは漫画からの派生」という説を続ければ、
学園モノが中心になっていったのも、頷けると思うんですよね。
そもそも漫画において学園モノは、最大ジャンルとも言えますので。
ちなみに、学園モノが最大ジャンルに為り得たかと言うと、
画一化された戦後日本の教育カリキュラムにより、
世代・地域・偏差値などに関わらず、どの学校でも似たような行事が行われ、
それが大人も子供も共通体験として持っている為、ターゲット層が異様に広いんです。
これほど幅広い共通体験のあるジャンルって、他にはちょっと思い浮かびませんからねえ。

また、あまりにも「ライトノベル≒ラノベ」のイメージが強くなってしまった為、
今ではファンタジー系の作品を、ライトノベルとして認識してない事情もあろうかと?
それこそ、21世紀に入って最大のヒット作は、ハリーポッター・シリーズでしょうけど、
児童文学である あの作品は、昔ながらのジュブナイルと見なすのに違和感は無くとも、
ラノベ・イメージが強い、現在のライトノベルと見なすのに、違和感を抱く人は多いと思います。

あと、中世ヨーロッパ風なファンタジー世界観の原点は、恐らくアメリカ発であり、
日本において大きかったのは、多分、ファミコンの「ドラゴンクエスト」なんですよ。
もちろん、海外作品の翻訳本や、それに影響を受けた日本語作品を楽しむ層は居たでしょうけど、
そうしたファンは少数派で、やはり大ヒット・ゲームの存在が一番だったと。
で、ドラクエという作品は、その誕生時から、週刊少年ジャンプと深い関わりがありまして、
「メディア・ミックス」という用語が普及する、ずっと前から、
ゲーム・マンガ・アニメ・ノベルスを巻き込んだ、巨大なメディア・ミックスだったんです。
そういう意味では、ゲーム小説がファンタジー系なのも、当然と言えば当然なのかな?
とは言え、当時のノベルスの市場というのは、今とは比べ物にならないくらい小さかったかと。

で、ついでに語りますと、そうやってドラクエが築いた(欧米から輸入した?)
ファンタジー作品の「お約束的な世界観」というのが、一般的にも広まりまして、
それを踏まえた作品が、次々とゲーム・マンガ・アニメ・ノベルスで誕生したのですが、
そうした「お約束」を破る作品として登場したのが、例の「スレイヤーズ」だった訳です!!
言うなれば、既存の王道路線に反抗した、新たな邪道路線の誕生であり、
その斬新さは、それこそ中二病年代の心を鷲掴みにしていきます(笑)。
ただ、こうした邪道路線は「破壊」行為なので、新機軸はドンドン先細りますし、
王道あってこその邪道なので、王道作品の人気が落ちると、遅れて邪道作品の人気も落ち、
先鋭化で生き残りを図ると、ターゲット層がみるみると狭まって行くんですよね・・・・

そうなると今度は、過去の名作の良い所取りをして、今風にアレンジしたり、
お約束を土台に、何か特徴的なアイテムを付け加えたりなど、無難路線に落ち着いていくと。
なろう系の最大ジャンルである異世界転生モノが、ほとんど大喜利的な状態となり、
同じ1つの お題を元に、如何に他作品との違いを見せられるかの争いになっているのも、
そうした傾向の典型例だと思うんですよね。
このような無難路線は、消費者側には負担が少なく、多くの良作を生み出す反面、
枝葉の方法論に終始してしまい、革新的な傑作は なかなか生まれ難い気がします。
でもまあ、どんな分野も一旦成熟してしまうと、新しく切り開くのは困難なモノですけどね。
だからこそ逆に言えば、その分野が新たに始まったとき程、最も活気に満ちてるとも言えますが。

P.S.
最後に、御存知かも知れませんけど、
12年前に私がアップした、ラノベの人気ランキング動画を紹介。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm6231914
10年以上も時間が経過すれば、これ自体も既に歴史ですね(笑)。


▼ 輝かしい未来像と現実とのギャップ
> クレヨンしんちゃんのオトナ帝国の逆襲(2001年)は見ていますか?
はい、もちろん見てますよ。
と言いますか、当時はネット上で布教活動とかしてました(笑)。
クレヨンしんちゃんと言う、子供向けのアニメでありながら、
原恵一の「オトナ帝国」と「戦国大合戦」に関しては、
子供の引率で仕方なく見てる父親を、完全に狙い撃ちにした作品でしたからねえ!!
宮崎駿の「カリオストロの城(ルパン3世)」や、
押井守の「ビューティフル・ドリーマー(うる星やつら)」と同様、
既存の人気作を利用して、監督が自分色に描き上げてしまったという点では、
傑作に仕上がった正の面と、原作を自慰に用いた負の面とがあり、当時から侃々諤々でした。
(ちなみに私個人は、「素晴らしい作品だよ! クレヨンしんちゃんでは無いけどw」という評価)

> あれって、20世紀生まれの大人たちが「かつて未来はもっと輝いていた」と言ってるんですが、
> 実際輝いていたはずの21世紀が「案外しょぼいな」ってなった理由って、
> 失われた10年や少子高齢化などの日本的な要因と、科学技術の進化が案外しょぼかったという要因と、
> どっちが大きかったのでしょうか?

まず始めに、オトナ帝国で描かれてる元ネタは、1970年の大阪万博なので、
私からしても、2周りくらい上の世代の話ですね(笑)。
当然ながら、私自身も生まれていません。
そして、万博当時の「科学万能主義」は あの頃がピークで、次第に熱から冷めていくので、
それが潰えたのは、平成に入るよりも ずっと前の時代です。
既に当時から、数々の公害問題が、人々に健康被害を及ぼし始めていましたし、
1973年に第1次オイルショックが起こり、経済成長の熱狂から一時的に立ち止まった際、
科学主義がもたらした負の側面に、改めて気付かされた・・・という展開だと聞いています。

ただし万博当時は、ライト兄弟の初飛行(1903)から、アポロ11号の月面着陸(1969)まで、
わずか66年で成し遂げてしまった時代であり、その成果の発表の場こそ、あの万博でしたから、
人々が純粋に「科学技術による輝かしい未来」を夢見たのも、そう不思議では無い気はします。
また、実際の所を言うと、科学自体には善も悪も無く、それを用いる人類次第なのであり、
そして人類は、経済優先で自然環境を蔑ろにした為に、公害問題が生じるんですよね(苦笑)。
例えば福島の原発事故にしても、科学的には事故を起こさない技術を持っているのですが、
経済的な都合から対策のラインを引き、あの震災がその想定を超えてきたのと同じ事かと。

あとは、「技術はあっても、資金がない」という問題もありますね。
例えば、核分裂の発見(1938)から、日本への原爆投下(1945)まで、
わずか7年しか掛からなかったのも、1939年に始まった世界大戦の時代だったからで、
上述の宇宙開発競争も、米ソ冷戦の代理戦争という側面があったからですね。
要するに、経済利益よりも戦争勝利が優先される、非常事態の時代であったからだと。
ですが70年代になると、ソ連の月面着陸断念で、宇宙開発競争はアメリカの勝利に終わり、
(あのまま続いていれば、火星への有人飛行も既に実現していた可能性は高そう)
軍事方面でも、米ソは「デタント(緊張緩和)」の時代を迎えた事で、
利益を生まない資金投入に疑問の目が向けられ、科学発展にブレーキが踏まれた面はあったかな?

60年代までは、日本ほどでは無いにせよ、先進国は経済発展を続けていましたが、
70年代になると停滞から低迷の時代となり、新自由主義的な経済政策が唱えられ始め、
80年代には、ソ連の軍事力よりも、日本の経済力の方が、アメリカにとって脅威と見なされて、
アメリカではレーガン大統領の、イギリスではサッチャー首相の誕生となります。
そして、1985年に結ばれたプラザ合意により、円高ドル安の傾向が強まると、
日本経済はバブルを迎え、「Japan as No.1」などと呼ばれて、アメリカを追い越す勢いとなり、
万博当時とは違った形で、日本人たちは「夢の未来図」を思い描くのですが、
バブルは崩壊し、その後に失われた平成の30年間を経て、このまま凋落の時代を迎えそうと・・・・

まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。

という事で、凄く遠回りをしてしまいましたが(笑)、
旧トルコ担当さんの問いに答えますと、
1970年頃に抱かれた未来像が潰えたのは、「科学技術の進化」が滞ったのが要因でしょうし、
1990年頃に抱かれた未来像が潰えたのは、バブル崩壊後の「失われた10年」が要因でしょうし、
「少子高齢化」が要因として現れるのは、これから迎えるであろう令和の凋落期においてです。
いや本当、ここ10年の日本の凋落ぶりは目を覆うばかりでしたが、
これからの10年20年で体験する凋落の程は、その比では無いと思われるので・・・・
確かに未来予測は困難なものの、人口統計に基づく予測は、それなりに可能ですからねえ。
人口が減り、子供たちが居なくなる中、老人ばかりが増えるのは、やはり将来的に厳しいですよ。

また、前回述べた、2000年頃に抱かれたネットの未来像が潰えたのは、
現象的に言うと、皆で多くの情報を共有し合う社会を思い描いていたのに、
実際は、GAFAのような超巨大企業が情報を独占する一方で、
ネットが大衆化する事により、心地良さが優先され出したって事なのでしょうけど、
2chやニコニコ動画に続くネットの新コンテンツが、日本から現れなっかたのは、
意外と、リーマンショックや東日本大震災で落ち込んだ、日本経済に遠因があったのかも?
いや、これに関しては、いま書いてて、ふと思い浮かんだだけで、全く考察とかしてませんがね。


[23620] Re:ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/18 (金) 21:03:35 旧トルコ担当

▼ 今までの流れの返信

> > ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> > ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> > 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

> いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
> それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
> 鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
> リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。


まあ人生何十年過ごしてからSNSが出てきた世代では「そんな簡単に変わるモノでは無い」のでしょうが、若い世代であればあるほどSNSの影響は大きいかと?
それこそ、周囲の大学生にも本当にSNSで流行ってるゲームしか遊んでない人とか普通にいますからね。
それに比べれば、SNS以前はゲーム屋でゲーム眺めているだけでも未知のタイトルがバンバン目に入ってきたわけですから、オタクでなくとも知識を体系化した、というのは表現は大げさだったかもしれませんが、あまり変わっていないということはないかと?
それこそ自分はまだネット以前のローカルな情報の入手の仕方も知っている世代ですが、これがあと5歳10歳下の世代だと、完全にSNSが最初の体験になっている世代ですからねえ。

> > うーん。
> > この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> > この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
> > 例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。
> > > 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> > > そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> > > 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> > > 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> > > 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> > 確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、
> > でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。
> > いや違うな。
> > 確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
> > だから不可知化なんですかねぇ、やはり。

> 前回、お互いに異なる「オタク」の定義についての話をしましたけども、
> そもそも論として、私と旧トルコ担当さんとの間で、
> 「幅」もそうですし、「文化」もそうでけど、
> それぞれ異なる定義をしているであろう事を、旧トルコ担当さんは気付かれてます?


はい、気づいていますよ。といいますか、その文化の定義のズレの話は前に私もしたと思うのですが。
と思い、当該部分を探してみましたが、確かに非常にわかりずらい説明になっていました。

> > はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
> > まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
> > 「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
> > 普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。
> >
> > ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
> > 世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
> > そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
> > 別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
> > キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
> > 個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
> > オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。
> >
> > 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> > 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> > そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> > 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> > 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> > その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> > 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> > 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> > ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
> > クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
> > 部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
> > メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?
> >
> > で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> > それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> > 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> > ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> > 言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
> > 「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
> > 「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
> > 「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
> > これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
> > それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
> > まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
> > それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
> > やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。
> >
> > ・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
> > 自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。

>
> いえいえ、その例えで凄くしっくりきました。
> 今まで何となく自分で感じていたことともつながったので少し話させてください。
>
> 例えば学校なのですが、昔と比べて何となくクラスというつながりが弱くなったと思うんですよね。
> もちろん私は教師でも何でもないので、昔の学校はマンガに出てくるくらいしか知りませんし、根拠には乏しいのですが、でもそこまで外れた見方でもない気がしています。
> 例えば、かつては学校内でもオタクは肩身の狭い思いをしたらしいのですが、私の学生時代には結構そういうものが許容されているというか、否定されないんですね。
> もちろんそれは我々にとっては良い時代になったという感じですし、その理由はオタクのイメージ改善にもあるんだと思うのですが、一方で同じクラスメイトのオタクグループに対する関心が昔に比べて薄れているというのもあると思うんですよね。
> なんというか、平和共存という言い方もできますが、それ以上に無関心・不干渉によってオタクは許容されていると。
> それはオタクグループと一般グループの間での距離が離れてきているいうだけでなく、なんとなくみんな自分の仲良しグループ以外には関心を持たなくなってきているというか。
> 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。
> マンガもそうだと思うんですよ。
> かつてのマンガ雑誌の時代と比べて、平成のマンガ単行本時代というのは自分の好きなマンガ以外に見向きもしなくなった時代だったと思うんですよ。
> そしてその傾向はネットマンガ時代になってより顕著になったと。
> YouTubeやSNSなどに関しては言うまでもないですよね。


再度説明すると、管理人さんが「文化=一つの学校のようなもの」と定義しているのに対して、私は「現在の文化=学校の乱立(分国)」だと考えているんですよね。
上記の説明では学校文化の話と混ぜてしまったので分かりにくくなってしまっているのですが、学校内でも多様性の名の下でクラスメイト同士の接触が減ってきているのと同様に、文化もまた異文化同士の接触が減っているといいますか、
そうした状況で「文化=一つの学校」と捉えると色々問題があるのではないか、というような趣旨でした。

▼ ラノベの歴史について

> > > ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> > > 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> > > なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> > > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
> > > それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> > > アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> > > 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> > > 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> > > そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。

> > この辺のラノベ史は勉強になりました。
> > 現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、
> > やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?

> それこそ、「スレイヤーズ」の刊行が1990年ですので、
> ラノベが「90年代初期に誕生」というのは、歴史の文脈的には正しいのでしょうけど、
> 何事でもそうですけど、一気にバッと転換するのでは無く、ジワジワと変化するものですからねえ。
> そういう意味では、上記の戯れ歌のように、ラノベの道を切り開いたのが「スレイヤーズ」であり、
> その道を広げたのが「ブギーポップ」で、道を舗装したのが「涼宮ハルヒ」だと考えています。
> で、世間的に言うと、やはり舗装道路の開通というのが、最もインパクトが大きいモノであると。
>
> そういう意味では、現在のラノベっぽくなるのは、00年代の前半でしょうし、
> 90年代の頃は、人気漫画のノベライズ版とかは既にあったので、
> 当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
> 実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
> ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
> 表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
> しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。
> 逆に言うと、原作があれば予備知識を元に、文章だけでも世界観を思い浮かべられますが、
> 原作なしのオリジナルだと、その世界観を補完するイラストの存在が不可欠であり、
> そして、キャラデザ付きのアニメ脚本みたいなモノなので、いざ映像化するにも適していると。


> これは完全に、私自身が昔から抱いているイメージなのですが、
> 恐らくラノベの原点って、「絵が描けない人が書く漫画」だったと思うんですよ。
> それこそ80年代後半は週刊少年ジャンプの黄金期であり、刺激された子供たちは多かったものの、
> 漫画だとストーリーの全てを絵で描かねばならず、それはアマには非常に高いハードルでした。
> (ノートに鉛筆で描く程度ならまだしも、ペン入れやトーン貼りは道具も技術も要するので)
> でも文章であれば、絵よりも容易に書けますし、表紙絵や挿し絵くらいなら頑張れもします。
> そして商業作品のレベルとなれば、イラストは別の得意な人に頼めば良いですし、
> 漫画の原作&作画の分業作業に比べれば、ラノベの方がずっと分業に向いてる気がします。


「原作漫画を持たないノベライズ版」という表現はしっくりきました。
一応、ライトノベルの源流はアニメのノベライズ(冨野監督自身が執筆したガンダム小説など)に源流があるらしいのですが、アニメだけでなく漫画のノベライズというのもあったんですね。

あとラノベの高齢化については、確かに中高生向け小説というレンズを通してみれば「冴えない30代の社会人が主人公」なんていう状況は高齢化に見えますが、
ラノベ=オタク文化という視点で見れば、アニメだってゲームだって高齢化してきたわけであって、ラノベの高齢化というのは何だかんだでオタク文化をわかってない文学系の評論家が騒いでいるだけだと思っています。偏見交じりではありますが。

▼ 技術発展について

> まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
> 60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
> 80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
> 科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
> 資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
> 人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
> それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
> そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
> 火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。


うーん、その辺はどうなのでしょう。カネの問題なんですかね?
まあ私は理系知識に関しては本当にさっぱりなので、管理人さんの言っているほうが正しいのだと思いますが、例えば火星への有人宇宙船を着陸させて、それが人類の生活にどう役立つのでしょうか?
結局宇宙に莫大なカネを投じていったとしても、特にイイことはないというのがバレてしまったからこそ、宇宙開発って停滞してるんじゃないですかね?
原子力に関しても、SFオタク世代のおじさんに聞いた話では、研究する前はできると思っていたことが、研究すれば研究するほど難しいことがどんどん分かってしまった、というのが原子力だったらしいのですが。
むしろ現代の問題って、技術開発に投じれるカネはあるけど、簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術はあらかた開発し尽くしてしまった、というのが現代の停滞の本質なんじゃないですかね?


[23624] Re2:ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/22 (火) 21:51:08 徳翁導誉

> > > ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> > > ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> > > 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

> > いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
> > それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
> > 鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
> > リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。

> まあ人生何十年過ごしてからSNSが出てきた世代では「そんな簡単に変わるモノでは無い」のでしょうが、
> 若い世代であればあるほどSNSの影響は大きいかと?

結局、今までのズレの大部分は、この一文にも集約されているんですよね(笑)。
「そんな簡単に変わるモノでは無い」というのも、
私は人類史的に語っている一方で、旧トルコ担当さんは個人史的に語っているので、
同じ変化量でも、人類レベルでは小さな変化だが、個人レベルでは大きな変化であり、
それ自体は別に、どちらが間違っているというような話でも無いと。
そういう事で、この辺の話題はもう良いかな?って感じはあります(笑)。
結局、双方が互いに異なる立ち位置から語ってるだけですし。

> それこそ、周囲の大学生にも本当にSNSで流行ってるゲームしか遊んでない人とか普通にいますからね。
> それに比べれば、SNS以前はゲーム屋でゲーム眺めているだけでも未知のタイトルがバンバン目に入ってきたわけですから、
> オタクでなくとも知識を体系化した、というのは表現は大げさだったかもしれませんが、
> あまり変わっていないということはないかと?
> それこそ自分はまだネット以前のローカルな情報の入手の仕方も知っている世代ですが、
> これがあと5歳10歳下の世代だと、完全にSNSが最初の体験になっている世代ですからねえ。

考えてみれば、「TSUTAYAでDVDを借り、ゲオでゲームソフトを買う」などといった
リアルに「物品」をやり取りする行為って、今の子供たちの感覚には乏しいかも?
実際、ウチの5歳の甥っ子も、テレビ放送ではなくネット配信でドラえもんを見てますし(笑)。
でもまあ、逆にオッサン世代からすると、TSUTAYAやゲオみたいに、
チェーン店が全国を席巻するような状況自体が、今世紀に入ってからの事なので、
「TSUTAYAでDVDを借り、ゲオでゲームソフトを買う」事自体が、最近の話であると(笑)。

また一方で、今の小学1・2年生は、コロナ対応じゃない学校生活を知らないんですよね。
そういう意味では、このコロナ禍が長続きするようだと、そこでも世代の壁が現れるかも?
コロナ前の生活に慣れ親しんだ層には、コロナさえ収まれば、前の生活に戻る意識で居ますけど、
コロナ後の生活が当然となった層が生まれれば、戻る事が必然とは言えなくなってしまいます。
それに、普及は将来的に見られていたリモート分野などは、これを期に一気に進みましたからね。
「アフター・コロナ」で、社会が実際どう変化するかは、まだまだ未知数な要素が多いかと。


> > 当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
> > 実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
> > ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
> > 表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
> > しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。

> 「原作漫画を持たないノベライズ版」という表現はしっくりきました。

まあ、私の個人的な見解ですけどね(笑)。

> 一応、ライトノベルの源流はアニメのノベライズ(冨野監督自身が執筆したガンダム小説など)に源流があるらしいのですが、
> アニメだけでなく漫画のノベライズというのもあったんですね。

そもそも論として、各業界分野が明確に分かれていた昭和の時代において、
漫画も小説も、同じ「出版社」という業界が取り扱う縄張りでしたからね。
やはり、そうした点の親和性というのは高かったと思いますよ。
梶原一騎の例を引くまでもなく、昔から漫画原作者という人たちは居ましたし、
彼らが単独で作品を発表すれば、それはまさしく小説になるので。
と言いますか、昔の声優は、舞台役者からの流入組(兼業)が多かったように、
昔の漫画原作者というのも、小説家からの流入組が多かったんじゃないですかねえ?
舞台や小説の方が歴史的には古く、売れてないが実力のある人材も相応に居たでしょうから。

> あとラノベの高齢化については、確かに中高生向け小説というレンズを通してみれば
> 「冴えない30代の社会人が主人公」なんていう状況は高齢化に見えますが、
> ラノベ=オタク文化という視点で見れば、アニメだってゲームだって高齢化してきたわけであって、
> ラノベの高齢化というのは何だかんだでオタク文化をわかってない文学系の評論家が騒いでいるだけだと思っています。
> 偏見交じりではありますが。

う〜ん、個人的には、オタク文化界隈からの声のような気がするんですよね。
実際、それ以外の大部分の人たちからすれば、ラノベという存在自体の認識が希薄なので、
わざわざ、そうして騒ぐような機会も少ないと思いますし・・・・
簡単に言えば、別に興味も無い世界の話題を、普通は話そうとも思わないと(苦笑)。

そういう意味では、それこそ前回も言いましたけど、
ラノベの人気が高まりだしたのは、ここ20年あまりの話ですし、
特に00年代の頃は、ラノベというジャンルがグイグイと成長していた時代でしたから、
それにハマる若者の比率は今よりも高く、そして熱かったものと充分に推測できます。
まあでも、今も昔も、ラノベを読む若者よりも、読まない若者の方が多数派でしょうし、
そんな中でも現在と比べれば、やはり読んでる比率は00年代の方が高いと思うんです。
しかも、当時と現在の若者数の差まで考慮すれば、絶対数は確実に00年代の方が多いはずで、
その内の何割が未だに読者かは解りませんけど、一定の客数が居れば、それに合わせる作品も増え、
そうなれば卒業率も下がりますから、必然的に平均年齢は上がっていく事になると。

これは何もラノベ業界だけに限らず、あらゆる業界で似たり寄ったりの現象は起きているはずです。
例えばJリーグとかは、そのあたりのデータが豊富に揃っているコンテンツですけど、
サポーターの高齢化というのは、数値として明らかに見て取れますからねえ。
でもまあ、冷静に考えれば、それも当然と言えば当然で、
1993年のJリーグ誕生ブームやドーハの悲劇に、2002年の日韓W杯、
そして00年代に各地で生まれた「おらが町のチーム」の成長ストーリーを、
若者時代に直撃した人たちは、やはりファン層の中核を為しますよ。
それは、今の若者がサッカーを見ないという以上に、彼らが特別な経験をした世代なんです。
しかも繰り返すように、当時の若者は、今の若者よりも絶対数が多いと。
そうなれば必然的に、高齢化は進んでいきますよ(日本自体が高齢化している訳ですし)。
その上、現在では有料チャンネルや有料配信が増え、収入面は膨らみましたけど、
反面、これは新たなファン層を開拓する意味では、大きな障壁となっているのも事実です。

・・・って、この辺りの話になると、ラノベとはまた異なる事情になってくるかな?(笑)
とは言え、これだけリアル書店が減ると、ラノベを手に取る機会も減ってたりするのかなぁ?
もしくは、売れ行き自体は変わらなくても、アニメ化などで有名になった
一部の作品のみが過度に売れるような現象は、起こっているような気がします。
言うなれば、本屋で何となく選ぶのではなく、もう買う本を決めて本屋に行っていると。
もっと言えば、リアル書店ではなくAmazonであれば、その傾向は更に顕著でしょうね。
「ジャケ買い」なんて単語は、半ば死語になっていると思いますし(苦笑)。
いや、でも全体的に見れば、ジャケ買いが最も生き残ってる分野こそ、ラノベなのか!?
タイトルと表紙絵で釣るのは、良くも悪くもラノベ商法の王道でしたので。

ちなみに余談ながら、90年代までは、サラリーマンだと大体、
「歴史小説」や「時代小説」を読むという習慣がありました。
まあ、多くの人が喫煙をし、麻雀やゴルフをして、巨人戦を見てたのと同じで、
そうする事で共通の話題を持て、社会人の「たしなみ」の如く見なされていたと。
司馬遼太郎・吉川英治・池波正太郎などなど、まさにバカ売れしてました。
また、それとは別に「ミステリー小説」とかも、凄く売れてましたよね。
もちろん、今でも人気作家は数多くいますけど、ちょっと次元が異なりますし、
戦後の「娯楽小説を読む」という文化が、今からは想像が難しいほど色濃くあったと思いますよ。
実際、それまではスポーツ一辺倒だった私の読書歴も、歴史小説から始まっていますので。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=c22815

そういう意味では、活字(長文)と社会が、今よりもずっと近い存在でしたし、
1992年に出版された「磯野家の謎」という、サザエさんの考察本は、
200万部を超える社会的な大ヒットを記録しました。
すると、様々なジャンルを対象に、2匹目のドジョウを狙う考察本が量産され、
オタク文化界隈でも、1996年からのエヴァ・ブームをキッカケとして、
それこそ雨後のタケノコのように、考察本が粗製濫造されてましたね(苦笑)。
でもまあ、こうやってライトなオタク層にも、活字を読むとか、考察をするという行為が、
広まっていった事実を思うと、考察本の内容はともかく、その影響力は大きかったかも?
もしかしたら、この時の活字慣れが、ラノベ読者を生む下地を作ったのかも知れません。


> > まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
> > 60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
> > 80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
> > 科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
> > 資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
> > 人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
> > それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
> > そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
> > 火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。

> うーん、その辺はどうなのでしょう。カネの問題なんですかね?

「カネの問題」という表現が お気に召さなければ、「余裕の問題」という表現でも良いですね。
と言いますか、どちらかと言えば、そちらの方が事の本質だと私は思いますけど、
この前も、無駄や雑音とかの必要性という話が、あまりピンと来られていないようでしたので、
より誰でもイメージしやすい、カネの話に置き換えてみました。
まあ、どちらもそんなに違いはありませんからねえ。
精神的な余裕や、時間的な余裕、人員や機材的な余裕など、
あらゆる作業において、余裕こそが成否を分ける大きな鍵なのですが、
それらを整えるのに、最も有用なツールこそが「カネ」だという話なんです。

ついでなので、余計な話をすると、そんなカネにとって最重要なのは、
総量よりも流通量であり、不景気が生じるのも流通量に障害が起こるからです。
逆に言うと、不景気な時ほど、流通量を増やそうとして、総量が増えたりしますからね。
例えば、AさんがBさんに1万円、BさんがCさんに1万円、CさんがAさんに1万円を渡したとして、
差し引きで言えば当然ゼロなんですけど、3人の中では3万円が動いた事になります。
で、この額が1万円から10万円、そして100万円となれば、差し引きでは相変わらずゼロですけど、
そこで動いた総額はそれぞれ、30万円と300万円になります。
カネなんてモノは所詮道具であり、貯められる性質があるから厄介なんですけど、
スムーズに動かし続ける仕組みが作れれば、みんなカネに不自由しない世界が作れるかも?
これこそが、ベーシック・インカムを成功させる鍵かな?と、個人的には考えていますね。

> 例えば火星への有人宇宙船を着陸させて、それが人類の生活にどう役立つのでしょうか?
> 結局宇宙に莫大なカネを投じていったとしても、特にイイことはないというのがバレてしまったからこそ、
> 宇宙開発って停滞してるんじゃないですかね?

はい、確かに必要ありませんよ。 ハッキリ言って無駄です。
でも、そうした必要不可欠から外れた「無駄なモノ」の存在こそが、文化というモノでは無いですか?
無駄だからと言っても、別に邪魔では無ければ、特に排除する必要性もありませんし、
それこそ、「バレてしまった」と言われますが、そんな事は当時から百も承知だったかと?
もちろん、冷戦下における超大国の威信とか、軍事技術とのリンクなどもありますけど、
有人飛行や月面着陸というのは、純粋に人々の気持ちを高揚させたのは事実です。
単に生命活動を続けるだけなら、そうした気持ちの面など不要な要素ですが、
しかし、充実した人間生活を送るには、そういう気持ちの面は物凄く重要です。
だからこそ日本国憲法第25条でも、「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利が唱われていると。

ゲームもアニメも、文学やアートも、ましてやスポーツに美食なども、
単に生きて行くだけなら不要ですけど、有意義に生きて行くには重要な存在です。
第3者から見て「無駄だな」と思われても、その他に特に害悪も無いのであれば、
別に無駄を排除する必要性も無いですし、無駄の数だけ、満たされる人も増えていきます。
そういう意味では、「輝かしい未来像」を思い浮かべながら、それが実現しなかった現実というのは、
確かに言われてみると、なかなか深いテーマかも知れませんね・・・・

「明日は今日より良くなる」事を、誰もが当たり前のように信じ、安心して暮らしてた頃、
人々が未来を思い浮かべたならば、それは当然、現在の繁栄が更に進んだ姿であり、
例え荒唐無稽な夢でも、笑って受け入れられる余裕があったと思うんですよ。
パイがドンドン大きくなっていて、みんなに取り分があった時代には、
失業手当や生活保護が問題視されたり、公務員がバッシングされたりもしませんでした。
だって、失業手当や生活保護の受給者や、薄給の公務員よりも、世間の人の方が豊かでしたから。
そうなれば心に余裕だって生まれますし、ポスト冷戦の感覚しか無いと解り難いでしょうけど、
対立軸として共産主義が実在した時代には、資本主義社会も今より自制心があったんです。
特に日本の場合は、日本型経営による社会主義的な社会が出来上がっていましたので。
しかし、「明日は今日より悪くなるかも」と、多くの人が不安を抱く現在では、
人々から心の余裕もなくなり、自分の生活で手一杯となり、生き方も汲々としてしまうと。
こうなると、「無駄な事」自体が、害悪に映っています社会になってしまう訳です・・・・

そして、現代社会においては、経済的余裕が精神的余裕に直結しがちであり、
その結果、社会の経済面が悪化すると、人々の精神面も悪化しちゃうんですよね。
昨今のコロナ禍においても、そうした事例は多岐に渡って見受けられるかと思います。
逆説的に言えば、宇宙開発の夢に、多くの人たちが熱狂できるような時代は、
宇宙開発に投じられるだけの余裕があるという時代でもあり、
どっちが卵で、どっちが鶏かはさておき、人々にとって良い時代であると言えるのかな?
それこそオリンピックとかも同じで、それを純粋に楽しめる状況下なら良い時代で、
無理に五輪で楽しませようとしても、社会が良くなるモノでも、人々が楽しむモノでも無いと。

と言いますか、これってニッチな趣味の世界でも言える事なのでは?
「俺達はメジャーに対するマイナーじゃない! インディーだ!!」
これは、アントニオ猪木の新日本、ジャイアント馬場の全日本という2大団体に対して、
わずか資金5万円でプロレス団体FMWを立ち上げ、過激な電流爆破デスマッチにより、
一部でカルト的な人気を博した大仁田厚の言葉ですけど(笑)、
メジャーの対義語として、マイナーではなくインディーが成り立つ社会でこそ、
ニッチな世界というのも、やはり充実するモノだと思うんです。
そして80〜90年代というのは、バブル景気の恩恵に加えて、
団塊世代は働き盛りであり、団塊ジュニア世代は若者層を構成していて、
そうしたインディーな社会も充実できる土壌が、確かに存在していたんですよ。

また、山は高くなれば高くなるほど、広い裾野を必要とするみたいに、
膨大な凡作や駄作が生めるだけの土壌があればこそ、一握りの傑作は生まれる訳ですし、
そして更には、そうすると別の所にも、小さいけど尖った山が生まれる余地ができ、
それこそが、マイナーではなくインディーなニッチの世界だと言えます。
ですので、「役立たないから停滞する」ような、余裕の無い社会状況であると、
結局は、裾野も広がらなければ、尖った別の小山も生まれにくいと思うんですよね。

> 原子力に関しても、SFオタク世代のおじさんに聞いた話では、研究する前はできると思っていたことが、
> 研究すれば研究するほど難しいことがどんどん分かってしまった、というのが原子力だったらしいのですが。

進めば進むほど、問題点が増えていくという現象は、どんな世界にも当然ある事ですよ。
それは何も先端分野の研究に限らず、例えば皆が経験する受験勉強でも言える事で、
勉強をすればするほど、解けない問題というのに多く出会いますし、
却って勉強を疎かにしている人の方が、楽観的に認識している所はあると思います。
でもそれって、見えてない事を自覚できないくらい、視野がボンヤリしているという話で、
逆に言うと、進めば進むほど視界がハッキリしてきて、いろいろ見えてくる訳ですね。
そして、それは1歩ずつ確実に進めている証でもあり、更に進むとゴールが待っているので、
そんな途中で諦めてしまうようでは、まずゴールには辿り着けないと・・・・

恐らく、ここで言われている原子力とは、核融合炉の話かと思われますが、
プラズマを安定的に扱い技術というのは、確かに、実現が非常に困難な代物です。
トカマク型やヘリカル型、レーザー方式など、様々な研究が行われていますし、
あまりに巨額な研究開発費を要する事から、国際協力が叫ばれる中、
1国でも実現できそうだと甘く見たアメリカが、国際協力を渋った事で、
アメリカ自体の研究が遅れてしまい、後から遅れて参加するなんて事態もありました。
そういう意味では、その方の話の内容も、決して間違っている訳ではありません。
ですけど、過去がどうだったかと、将来がどうかは別の話です。

言うなれば、東京五輪の予算とかが、当初の想定額の数倍に跳ね上がるみたいな話で(笑)、
「この額で出来ると思ったんだけど・・・」なんて事は、大型プロジェクトでは珍しくなく、
逆に言うと、そんな事自体は日常茶飯事の想定内であり、
そして、「結局は出来ませんでした」なんて事は、そんなには起こりません。
もちろん、中には技術的に時期尚早だったとか、そういった事態はあるのですが、
ほとんどの場合、時間とお金さえ掛ければ、ある程度の事は成し遂げられていますし、
予算が付けば時間は短縮でき、初めから不可能そうなら そもそも予算が付きません。
ハッキリ言って、現在はどの国も財政的に厳しく、巨額の研究費を投じるのは大変ですけど、
それでも国際実験炉ITERの建設計画は、歩みは遅いものの着々と進められています。
ただ、皮肉な話かも知れませんけど、福島の原発事故により被った損害額を、
そのまま研究開発費に回せていたら、かなり実現に近付いていたかも知れませんね。

> むしろ現代の問題って、技術開発に投じれるカネはあるけど、
> 簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術はあらかた開発し尽くしてしまった、
> というのが現代の停滞の本質なんじゃないですかね?

いやいや、近年の日本が国際競争力を失いつつある理由も、
根幹にあるのは、やはり研究開発費の大幅な減少ですよ・・・・

「企業型社会主義」で進んでいた戦後の日本社会は、思いのほか公的な補助が少なく、
大部分を企業内での補助に頼っていた為、長く続いた好循環の頃は本当に良かったんです。
しかしバブルの崩壊以降、それが上手く立ち行かないようになると、
当然ながら企業は目先の利益に囚われますし、そこで公助の貧弱さが露呈した訳です。
技術開発に関しても、すぐには効果の出ない基礎研究や、チャレンジ性の高い研究など、
予算に余裕がある状況であれば、広い視野から資金を投じる事も可能ですけど、
業績が悪化し、予算も限られてくれば、すぐに儲かりそうな研究しか行えなくなります。

そういう意味では、「簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術」に、
安易に飛びついてしまう現状が存在するのは、確かに事実なんですけど、
「カネがない」からそうなるので、結果としてジリ貧になるのも目に見えているんです。
それを打開するには、ビジョンを持った冒険が不可欠になってくるものの、
日本の大企業のサラリーマン社長では、なかなか決断は難しいですよ・・・・
仮に決断した所で、見る目がなければ、東芝みたいな事になっちゃいますし(泣)。

言うなれば、旧トルコ担当さんが思い浮かべているのは、枝葉的な技術改良であり、
ここ十数年、元気を失った日本社会においては、それが主流ではあるものの、
やはり大きいのは、根幹的だったり、新種を生むような技術開発なんです!!
それが今や、世界を席巻するGAFAであったり、国家戦略で進める米中に独占され、
最前線で競ってきた日本が、アッと言う間に後方へと下がってしまった事実は、
既に後退した状況しか知らない、若い世代にとっては普通の光景でも、
それ以前の日本を覚えている世代からすると、やはり物凄い焦燥感や虚脱感があるんです。

それこそ、核融合炉の最終目的である「D-D反応」の核融合炉が実現できれば、
海水から無尽蔵にエネルギーを取り出せますから、恐らくは人類社会が一変しますよ!!
エネルギーがタダ同然な社会となれば、どんな無茶な事も、かなり実現できます(笑)。
やはりエネルギーというのは、あらゆる作業の根幹ですからねえ。
逆に言えば、だからこそ、現代社会は「石油、石油」と騒いでる訳です。
でもまあ、さすがにこの技術は実現困難なので、今世紀中には無理かも?
とは言え、世界大戦でも起これば、時計の針はかなり早まるかな。
実際、核分裂の発見から、原発の運用開始まで、わずか16年で実現してますけど、
これが平時であれば、もしかしたら実現まで100年を要していたかも知れません。

また、それ以外にも、遺伝子を弄り、身体と機械を繋げ、脳がデジタル化するような、
人の手による人為的な人類の「進化」が、技術的には、すぐそこまで来ているので、
こちらは今世紀中には、人類社会に劇的な変化をもたらすと思いますよ。
それこそ、攻殻機動隊のようなSF的な世界の実現が!!
もちろん、技術的に高いハードルは、まだまだ多く残っていますし、
実現に近付けば近付くほど、課題も多く現れてくるのは事実でしょう。
ですが、こちらに関しては、ある程度の工程表が描けるような段階に来ているので、
早いか遅いかの違いだけで、そう遠くない未来に、まず間違いなく実現するはずです。
ただ、その時、日本がどれほど主体的に関われているかは、見通しが暗いですけど・・・・

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