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[24073] Re3:私から見る80,90年代返信 削除
2022/11/8 (火) 20:12:17 徳翁導誉

> > > ですがまあ私より若い世代は、小学生女子の読むマンガでさえ「両思い」ではなく「つき合う」らしいので、
> > > まだまだ私の世代は恋愛に夢や希望を抱いているのでしょうかね。

> > んん!?
> > この一文↓を何度も引用していたのは、旧トルコ担当さん自身なのでは?
> > > > > 昔は「両思い」と呼んでいた状態が、「つき合う」という言葉で表現されている印象があります。
> > > > > https://lee.hpplus.jp/column/2113728/

> 同じ親から生まれた関係を、日本では兄弟姉妹と呼び、アメリカではbrother/sisterと呼ぶ、というのは
> 若干のニュアンスの違いがありますから、正確には兄弟=brotherでないのと同じように、
> 男女の相思相愛の状態を「両想い」と呼ぶのと「付き合っている」と呼ぶのでは、ニュアンスが異なると思うんですよね。

ニュアンスの違いというか、本来的には全くの別物ですよ。
見も蓋も無い言い方をすると、別に「両想い(好き)」じゃなくても、「付き合う」事は可能ですし、
実際、年齢を重ねたオトナの恋愛ほど、そうした打算的なモノになっていくもので、
逆に、「恋愛≒両想い」な傾向が強まるほど、年齢も下がっていくような気がします。

> > > > 両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、
> > > > チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。

> > う〜ん、「付き合う」の方の言葉の認識は、ちょっとズレている気も・・・・
> > 「恋愛」に関して言うと、確かに口約束レベルの契約的な側面もあるので、全否定はしないものの、
> > その関係性は社会的と言うより、明らかに個人的なモノであり、法律的な縛りもない以上、
> > 結局の所、一緒に何を行うかという、その「行動」に拠る言葉になると思うんですよね。

> 例えば、付き合っているのに別の誰かを好きになれば、それは少なからず裏切りになるでしょうし。
> あと、付き合うというのはその関係をオープンにすることであり、
> 周囲のクラスメイトなどから、そういった扱いを受ける、というニュアンスも含まれています。

あ〜、なるほど。 何だか解りました。
これは以前にも話題とした、「便所メシ」世代の話と通ずる部分があるかも?
こうした認識が、若い世代に共通なのか、それとも旧トルコ担当さん個人の感覚かは解りませんけど、
そもそも恋愛というのは1対1の個人的関係であり、そこに第3者を交えるかは関係無いはずです。
ですけど、周囲の目を気にする事が、無自覚の内に大前提となっているが故、
上記のようなニュアンスも含むと決め付けてしまい、「社会的関係」であると思い込んでいるのかも?
言ってしまえば、自分(たち)の常識が、必ずしも世間の常識とは限らないと言う話ですね。

それこそ一昔前までは、中高生の恋愛って校則で禁じられてたりしましたし、
であればこそ、実際に付き合っていたからと言って、
その関係性をオープンにするとか、周囲に認知させるとか、そうした事はイコールではありませんでした。
では、それは昔の話であり、今は違うのかとなると、必ずしも そうとは言い切れず、
まあ中高生はまだしも、会社内とか大学サークル内とかの恋愛は、周囲に余計な気遣いを生じさせる為、
今の時代であっても、「隠れて付き合う」というのは、決して珍しい事では無いはずですよ。

と言いますか、何度も繰り返すようですが、
付き合うというのは1対1の「個人的関係」なので、
そこに第3者が介在するような「社会的関係」が、大前提では決して無いですからねえ。
解りやすく言えば、そういうケースも確かにあるかも知れませんが、それが全てではありませんし、
便所メシの件もそうですけど、飯を食うのに、何故そこまで他人の存在を気にするの?というのと同じく、
1対1の恋愛に、何故そこまで他人の存在を気にするの?というのは、正直あります。

> > いや勿論、時代と共に、子供たちの認識も、どんどんマセていくのは事実なのでしょうけどね。
> > それこそ戦前までは、「男女七歳にして席を同じうせず」みたいな感覚があったでしょうし、
> > 戦後昭和の頃も、男子と女子の間に、大きな壁があったのは確かですが、

> 戦後になってから、女の子が男の子を「くん」で呼ぶようになったらしいのですが、https://toyokeizai.net/articles/-/88313
> この辺のニュアンスといいますか、意義っていうのは管理人さんは知りませんかね?
> なかなか探してもピンポイントで情報が出てくることはないので。

これは、「くん付け」に関しての質問って事で良いですかねえ?
確か一般的に、相手を「○○君」と呼び始めたのは、幕末の志士たちだったと思いますよ。
それまでの日本社会って、封建社会でしたから、全てが上下関係を基準としていましたが、
志士たちというのは、双方の身分に囚われず、対等な立場からの議論を求めましたから、
そこで新たに生まれた敬称こそが、「○○君」という呼び方であり、
それが明治維新の後、学問や政治の場でも用いられるようになったはずかと。

ですが、戦前の日本社会は、市民平等を唱う世ではあったものの、
普通選挙が導入されても、選挙権を有するの男性のみだったように、男女平等な世では未だ無く、
それが戦後となって、男女平等を目指す、アメリカ主導の新しい世となった際、
女性が男性と対等の立場になった事を示す意味でも、「くん付け」が推奨されたのかな?
「さん付け」は、目上にも目下にも使いますし、逆に言うと、
今は解りませんが、部活の先輩を「くん付け」などしたら、折檻モノでしたね。
とは言え、私も「男子には くん付け、女子には さん付け」を当たり前に育った世代なので、
正直な所、あまり詳しくは知らないと言うか、変化の体験談みたいなモノはありません(笑)。

ただ、昨今の小学校では、イジメ防止&男女平等の観点から、
「あだ名禁止&さん付け奨励」な所も多いので、
男の子であっても、「○○さん」と呼ぶようになってますね。
で、小学校の高学年や中学になると、下の名前を呼び捨てにする事が増え、
昔よりも男女の垣根が低いので、女子でも男子を呼び捨てにする事が多いかな?

> > 今の子供たちって、意識の話だけでなく、少子化の影響もあるのかも知れませんけど、
> > 一昔前に比べると、本当に隔たりが薄いというか、異性の友達とか本当に居たりしますからね。
> > 異性の友達なんて、90年代くらいまで、半ば おとぎ噺に近い存在だったかと?

> 確かに私も異性の友達が当たり前の世代ですので、友達の延長線としての異性関係というのも非常になじみ深いので、
> だからこそ、「両想い」ではなく「付き合う」という言葉が当てはめられているあたりに、あ〜あという気がするんですよね。

まあ私は昭和世代なので、私が子供の頃は、
男子と女子が仲良く話すだけでも、冷やかされたり馬鹿にされたりした時代だったので、
正直言って、男女の間には壁があるというか、
ぶっちゃけて言うと、「敵対関係」「冷戦状態」みたいな感じでした(笑)。
また、先輩・後輩の上下関係や、教師・生徒の上下関係は、
今とは比べ物にならないくらい、厳しかったかな?

そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> > > おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
> > エヴァが、イタかったり、キモかったりするのは、放送当時から既にですよ(笑)。
> > と言いますか、テレビ放送から四半世紀が経ち、世間一般からの認知度が多いに高まった事で、
> > 却って現在の方が、イタかったり、キモかったりする存在として、認識されてない実感はありますね。

> いや世間一般からすればずっとキモかったのでしょうけど、オタク層の年下世代からもそう思われるだろう、ということです。
> これはエヴァに限らず、その後のセカイ系や今のなろう系、あるいは萌え系そのものも含めて、
> キモイと言われるだろうということなんですよね。

例えばセカイ系なんて、今では新海誠が「国民的なアニメ監督」となってる時点で、
キモいと言われる所か、エヴァ以上に「一般化」してしまった印象すらありますけどね(笑)。
萌え系にしても、どこも かしこも それ系のマスコット・キャラが作られていますし・・・・

って、それはさておき、オタク内での話であったとしても、
やはり、エヴァがキモくて イタいのは、当時からだと思いますけどねえ(笑)。
旧劇場版における最後の台詞も、「気持ち悪い」という一言であり、
それは、アスカからシンジに向けられたメッセージであるだけでなく、
庵野監督からオタクたちに向けられたメッセージでもあるのでしょうし。

あと、時代や世代が変われば、評価だって様変わりするのも、当然と言えば当然の事で、
我々人類の文化は、そんな事を何度も繰り返してきてますから、
当時と現在だけをピックアップして、そこに特別な意味を込めさせる必要も無い気はします。

> > > 仮説ですが、オタク文化も新しい世代には受け入れられず浄化されていくと思うんですよ
> > > 00年代の萌えとか、嫁とかも、今の推しというのは、読者でありアニメの視聴者である私の姿がより消えている言葉ですし、
> > > それはオタクの気持ち悪い部分、萌えとか嫁とかに含まれていたものが浄化されているように見えるんですよね。
> > > おそらく百合とも既に浄化がかなり進んだ結果普及したのだと勝手に思ってます。

> > いや〜、正直言って私には、
> > 岡田斗司夫の「ホワイト革命」論に引っ張られ過ぎて、
> > 何でも「浄化」のキーワードで解釈しようと、無茶している印象を受けますけどね(笑)。

> 岡田斗司夫のホワイト革命論も、「先生、みなの前でほめないでください」も、
> 私としては「あ〜あるある」というのが多分に含まれていたんですよね。
> 私は「スカッとジャパン」みたいなものが凄く嫌いなんですけど、
> 岡田斗司夫のホワイト革命論に触れるまでは、私だけの個人的なものだと思っていましたし。
> 今の世代にとって「スカッとジャパン」みたいなものは朝鮮人差別や中国人差別に近いので、
> 若者から嫌われたくない年上の人は絶対見るのやめた方がいいと思うんですけど、その辺の理解が進んでいないんですよね。
> 私としては、それがちょっと年上の世代の人を見ていて、ちょっとかわいそうに思えるんですよね。

う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?

似たような内容の話は、これまでに何度も行っていますけど、
自分の中で腑に落ち「なるほど!」と思えた場合こそ、自分の中での反証が重要なんですって!!
「あれも当てはまる、これも当てはまる」と、都合良く証拠を追い求めてしまうと、
無自覚なまま、1しかないのに10に見えたり、当てはまらないモノは視界の外に追いやったり、
そうしながら、これが正しいと思い込んだ結論に、ハマってしまいがちなんです。

例えば、それこそ、この論法を用いる事により、
「スカッとジャパンが人気だったのも、ホワイト化の現れ!」と見なす事だって可能です。
ですが、この場合、旧トルコ担当さんの中で「この番組は嫌い」という感情がある為、
「これは当てはまらない」と、なるのでは無いでしょうか?(笑)
で、もしも実際、そう思われたとすれば、
それは何よりも、「ホワイト革命を恣意的に適用」していた証になろうかと。
要するに、あの番組内容にハマれずムカっとすれば、それを嫌う事がホワイト化と映るでしょうし、
逆に ハマれてスカッと出来れば、汚いヤツを裁く痛快劇としてホワイト化の象徴のように映るはず。

また、イヤミ課長役で人気を博した木下ほうかの、若手女優への性的強要が発覚した際の反応を見ても、
一定の若者人気(特に女性層)がある番組なのは感じ取れてましたから、
「中高年が好んで見ていて、若者は好まない番組」と決め付けているのは、正直 違うと思いますよ。
この部分に関しても、自分中心の視点で物事を判断しがちな傾向が顕れてませんか?
私からすると、「特定の世代」を反映してると言うよりは、「今の時代」を反映してる番組だと感じます。
ちなみに、一応 念の為に言っておくと、
「スカッとジャパン」は視聴率の低迷により、既に半年前に番組終了してますね。
あと、最後に言っておくと、あの番組は私も好きじゃありませんでした(笑)。

> 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
意外と曲者というか、深いモノがある気がします。

SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。

そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?

逆に言えば、これだけ第3者からの目や評価を気にする世代なのですから、
それに答えられる自信さえあったなら、却って、
「皆の前で褒め欲しい」欲求が、どの世代よりも実は高かったりするかも?
更に邪推して言うなら、もしかすると「スカッとジャパン」が何故か嫌なのも、
そうした隠されてるくらい欲求を、中途半端に引きずり出され、
同族嫌悪に近い感情を、沸き立てさせられるからかも知れません(笑)。


[24081] Re4:私から見る80,90年代(追記あり)返信 削除
2022/11/9 (水) 23:59:53 旧トルコ担当


> > > > > 両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、
> > > > > チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。

> > > う〜ん、「付き合う」の方の言葉の認識は、ちょっとズレている気も・・・・
> > > 「恋愛」に関して言うと、確かに口約束レベルの契約的な側面もあるので、全否定はしないものの、
> > > その関係性は社会的と言うより、明らかに個人的なモノであり、法律的な縛りもない以上、
> > > 結局の所、一緒に何を行うかという、その「行動」に拠る言葉になると思うんですよね。

> > 例えば、付き合っているのに別の誰かを好きになれば、それは少なからず裏切りになるでしょうし。
> > あと、付き合うというのはその関係をオープンにすることであり、
> > 周囲のクラスメイトなどから、そういった扱いを受ける、というニュアンスも含まれています。

> あ〜、なるほど。 何だか解りました。
> これは以前にも話題とした、「便所メシ」世代の話と通ずる部分があるかも?
> こうした認識が、若い世代に共通なのか、それとも旧トルコ担当さん個人の感覚かは解りませんけど、
> そもそも恋愛というのは1対1の個人的関係であり、そこに第3者を交えるかは関係無いはずです。
> ですけど、周囲の目を気にする事が、無自覚の内に大前提となっているが故、
> 上記のようなニュアンスも含むと決め付けてしまい、「社会的関係」であると思い込んでいるのかも?
> 言ってしまえば、自分(たち)の常識が、必ずしも世間の常識とは限らないと言う話ですね。
>
> それこそ一昔前までは、中高生の恋愛って校則で禁じられてたりしましたし、
> であればこそ、実際に付き合っていたからと言って、
> その関係性をオープンにするとか、周囲に認知させるとか、そうした事はイコールではありませんでした。
> では、それは昔の話であり、今は違うのかとなると、必ずしも そうとは言い切れず、
> まあ中高生はまだしも、会社内とか大学サークル内とかの恋愛は、周囲に余計な気遣いを生じさせる為、
> 今の時代であっても、「隠れて付き合う」というのは、決して珍しい事では無いはずですよ。
>
> と言いますか、何度も繰り返すようですが、
> 付き合うというのは1対1の「個人的関係」なので、
> そこに第3者が介在するような「社会的関係」が、大前提では決して無いですからねえ。
> 解りやすく言えば、そういうケースも確かにあるかも知れませんが、それが全てではありませんし、
> 便所メシの件もそうですけど、飯を食うのに、何故そこまで他人の存在を気にするの?というのと同じく、
> 1対1の恋愛に、何故そこまで他人の存在を気にするの?というのは、正直あります。


岡田斗司夫が10年くらい前の動画で「今の若い世代は告白という儀式があり、付き合っているというのを周囲に宣言する
昭和の時代はそんなへんてこな儀式なんかなくて、付き合うというのは当事者同士が宣言するものではなく、周囲が勝手に認定するものだった」
というようなことを言っていて、気になったので調べたところ、確かに「きまぐれオレンジ☆ロード」では周囲が勝手に主人公とヒロインを付き合っている認定していたんですよね。

何となくその辺の感覚がよく分からなかったのですが、やはり付き合うにしても周囲の視線を気にしすぎる世代なんですかねえ。
まあ隠れて付き合ってる的な感じもそりゃ今だっているでしょうけど(大学のサークルとか職場は特に)、
中高生くらいの恋愛と言えばオープンなのが当たり前というか、ひっそり付き合っているのは、何かおとなしめのタイプというイメージですね。
少なくとも恋愛マンガの題材にはなりにくそう。

> 今は解りませんが、部活の先輩を「くん付け」などしたら、折檻モノでしたね。
> とは言え、私も「男子には くん付け、女子には さん付け」を当たり前に育った世代なので、
> 正直な所、あまり詳しくは知らないと言うか、変化の体験談みたいなモノはありません(笑)。


私の時は部活の先輩に君付けはあり得ませんでしたよ。
とはいえ、管理人さんの話を聞く限りでは、今の小中学生はまた色々と違うようなので、これに関しては分かりませんが。

> > > 今の子供たちって、意識の話だけでなく、少子化の影響もあるのかも知れませんけど、
> > > 一昔前に比べると、本当に隔たりが薄いというか、異性の友達とか本当に居たりしますからね。
> > > 異性の友達なんて、90年代くらいまで、半ば おとぎ噺に近い存在だったかと?

> > 確かに私も異性の友達が当たり前の世代ですので、友達の延長線としての異性関係というのも非常になじみ深いので、
> > だからこそ、「両想い」ではなく「付き合う」という言葉が当てはめられているあたりに、あ〜あという気がするんですよね。

> まあ私は昭和世代なので、私が子供の頃は、
> 男子と女子が仲良く話すだけでも、冷やかされたり馬鹿にされたりした時代だったので、
> 正直言って、男女の間には壁があるというか、
> ぶっちゃけて言うと、「敵対関係」「冷戦状態」みたいな感じでした(笑)。


確かに、小学生中学年くらいのまではそんな雰囲気ありました。

> そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?


根拠はないですけど、それはありそう。
「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

> > > > おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
> > > エヴァが、イタかったり、キモかったりするのは、放送当時から既にですよ(笑)。
> > > と言いますか、テレビ放送から四半世紀が経ち、世間一般からの認知度が多いに高まった事で、
> > > 却って現在の方が、イタかったり、キモかったりする存在として、認識されてない実感はありますね。

> > いや世間一般からすればずっとキモかったのでしょうけど、オタク層の年下世代からもそう思われるだろう、ということです。
> > これはエヴァに限らず、その後のセカイ系や今のなろう系、あるいは萌え系そのものも含めて、
> > キモイと言われるだろうということなんですよね。

> 例えばセカイ系なんて、今では新海誠が「国民的なアニメ監督」となってる時点で、
> キモいと言われる所か、エヴァ以上に「一般化」してしまった印象すらありますけどね(笑)。
> 萌え系にしても、どこも かしこも それ系のマスコット・キャラが作られていますし・・・・
>
> って、それはさておき、オタク内での話であったとしても、
> やはり、エヴァがキモくて イタいのは、当時からだと思いますけどねえ(笑)。
> 旧劇場版における最後の台詞も、「気持ち悪い」という一言であり、
> それは、アスカからシンジに向けられたメッセージであるだけでなく、
> 庵野監督からオタクたちに向けられたメッセージでもあるのでしょうし。
>
> あと、時代や世代が変われば、評価だって様変わりするのも、当然と言えば当然の事で、
> 我々人類の文化は、そんな事を何度も繰り返してきてますから、
> 当時と現在だけをピックアップして、そこに特別な意味を込めさせる必要も無い気はします。


時代変化で作品の評価や受け取られ方が変わるのは当たり前ですけど、
やはりいざ自分の好きな作品やジャンルが衰退するかもしれないという恐怖を感じると、冷静ではいられないですね。
交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

> > > > 仮説ですが、オタク文化も新しい世代には受け入れられず浄化されていくと思うんですよ
> > > > 00年代の萌えとか、嫁とかも、今の推しというのは、読者でありアニメの視聴者である私の姿がより消えている言葉ですし、
> > > > それはオタクの気持ち悪い部分、萌えとか嫁とかに含まれていたものが浄化されているように見えるんですよね。
> > > > おそらく百合とも既に浄化がかなり進んだ結果普及したのだと勝手に思ってます。

> > > いや〜、正直言って私には、
> > > 岡田斗司夫の「ホワイト革命」論に引っ張られ過ぎて、
> > > 何でも「浄化」のキーワードで解釈しようと、無茶している印象を受けますけどね(笑)。

> > 岡田斗司夫のホワイト革命論も、「先生、みなの前でほめないでください」も、
> > 私としては「あ〜あるある」というのが多分に含まれていたんですよね。
> > 私は「スカッとジャパン」みたいなものが凄く嫌いなんですけど、
> > 岡田斗司夫のホワイト革命論に触れるまでは、私だけの個人的なものだと思っていましたし。
> > 今の世代にとって「スカッとジャパン」みたいなものは朝鮮人差別や中国人差別に近いので、
> > 若者から嫌われたくない年上の人は絶対見るのやめた方がいいと思うんですけど、その辺の理解が進んでいないんですよね。
> > 私としては、それがちょっと年上の世代の人を見ていて、ちょっとかわいそうに思えるんですよね。

> う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
> その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
> そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
> 思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
> それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
> そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?
>
> 似たような内容の話は、これまでに何度も行っていますけど、
> 自分の中で腑に落ち「なるほど!」と思えた場合こそ、自分の中での反証が重要なんですって!!
> 「あれも当てはまる、これも当てはまる」と、都合良く証拠を追い求めてしまうと、
> 無自覚なまま、1しかないのに10に見えたり、当てはまらないモノは視界の外に追いやったり、
> そうしながら、これが正しいと思い込んだ結論に、ハマってしまいがちなんです。
>
> 例えば、それこそ、この論法を用いる事により、
> 「スカッとジャパンが人気だったのも、ホワイト化の現れ!」と見なす事だって可能です。
> ですが、この場合、旧トルコ担当さんの中で「この番組は嫌い」という感情がある為、
> 「これは当てはまらない」と、なるのでは無いでしょうか?(笑)
> で、もしも実際、そう思われたとすれば、
> それは何よりも、「ホワイト革命を恣意的に適用」していた証になろうかと。
> 要するに、あの番組内容にハマれずムカっとすれば、それを嫌う事がホワイト化と映るでしょうし、
> 逆に ハマれてスカッと出来れば、汚いヤツを裁く痛快劇としてホワイト化の象徴のように映るはず。
>
> また、イヤミ課長役で人気を博した木下ほうかの、若手女優への性的強要が発覚した際の反応を見ても、
> 一定の若者人気(特に女性層)がある番組なのは感じ取れてましたから、
> 「中高年が好んで見ていて、若者は好まない番組」と決め付けているのは、正直 違うと思いますよ。
> この部分に関しても、自分中心の視点で物事を判断しがちな傾向が顕れてませんか?
> 私からすると、「特定の世代」を反映してると言うよりは、「今の時代」を反映してる番組だと感じます。
> ちなみに、一応 念の為に言っておくと、
> 「スカッとジャパン」は視聴率の低迷により、既に半年前に番組終了してますね。
> あと、最後に言っておくと、あの番組は私も好きじゃありませんでした(笑)。


管理人さんの言うことも分かりますし、
私も「仮説ですが」とか「私の知っている限られた情報から判断すれば」とか、ちょくちょく入れているんですよね。
とはいえ、私が(世代論など含め)歴史や社会科学が好きなのは、管理人さんの言うところの「腑に落ちる感覚がして、スカッとする」があるからなので、
この感覚のために時間を使って本読んだり色々考えたりしてるので、それを辞めるとなると歴史の勉強なんてやってられるか、みたいな気持ちはあります。
飲まなきゃやってらんねえよ、みたいな感じで。

私も自分の信じている仮説って本当に正しいのだろうかと不安になることはありますし、
なんなら最近は、勉強しても勉強しても、むしろ勉強すればするほど、「自分は何もわかっていないんじゃないのか」という不安が大きくなり、
正直歴史を勉強するのがしんどいんですよね。(そんなに本読んでないだろというツッコミはナシでお願いしますw)

私にとって岡田斗司夫が面白かった理由は、この"分かる感覚"を岡田斗司夫が簡単に与えてくれたからであり、
ある程度の論理性と、非凡な発想力、そして少し変わった表現力と、自信満々に断言する傲慢さが合わさり、奇跡のように"分かる感覚"を量産した人なんですよね。
とはいえ、岡田斗司夫は自分の仮説が外れても全然恥じない厚顔無恥の人間ですし、やはり胡散臭い人間ではあるのですがw(この辺も含めてあれは才能ですねw)

あとはまあ、結局は(社会)科学の力をあまり信じていないというのもあるのかな。
2015年の時点でアメリカがあんなことになるなんて予測していた人は少数派でしたでしょうし、
歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
(歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)
まあ、学問自体に期待していないので、私が多少科学的じゃなくても、どうせ学者だって似たり寄ったりだろ、みたいなことも"極論"思うようになりました。
反知性主義といわれるかもしれませんが、そのくらいの距離感が社会科学に対する丁度よい距離感なのかな、と。

1調べて「なるほど」と満足するのがダメで、
10調べて「分かった」と感じるのがダメで、
100調べても詳しい人を名乗ってもだめなら、
どれだけ調べれば私は気持ち良くなっていいんですかね?
数学はもうだいぶ忘れていますが、これって確か数学的帰納法じゃありませんでしたっけ(調べたら全然違いました)。

一応、私も200冊オタク関係の本を読んだ経験から、「テーマ史で新たな視点を獲得する」という方法論は持ち合わせています。
例えば戦後日本史は、「戦後日本史」的なタイトルの本だけ読んでいると、どの本にも「敗戦→高度経済成長→バブル→失われた30年」みたいなおなじみのパターンの話しか出てきませんが、
これを少女文化史とか、学校文化史とか、子ども文化史とか、そういったテーマ史で調べると、全然違った視点から戦後史を見ることができました。
あとはまあ、200冊読む過程で、最初に建てた仮説がいかにお粗末であるか、30冊くらいの時に建てた仮説がいかにピントがずれているか、を身をもって体感しましたので、
何事も何かを言い切るほどの傲慢さは持てなくなりましたね。
結局は、真実が知りたければ史料(表現が大げさ)に当たるしかないですし(なのですかっとジャパンは若者にも人気みたいなことを積み上げていくしかない)、
そして結構な時間を使って色々当たったとしても、当事者からすればまだトンチンカンなこと言っているレベルにしかならないのは、
それこそ管理人さんの書き込みで痛感しましたし。(みんな当たり前のことは文章にしないので、当たり前のことほど分からないんですよね)
そういう意味で、本当に200冊のオタク関係の本を読むという経験は非常に勉強になりました。

> > 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> > 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> > 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> > これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

> 実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
> 意外と曲者というか、深いモノがある気がします。
>
> SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
> 決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
> つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
> 根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。
>
> そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
> きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
> 期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
> その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
> メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?


これもそうですね。
何を今さら感が私にとっては強いのですが、当事者じゃないというのはそれだけ分からないということなんですよね。

追記
管理人さんの文章に引っ張られて、よく考えずに書いてしまったので訂正します。
若者は褒められたくないというのが私の私見です。
もちろんSNSなどの承認欲求というのもありますが、身近な人か好かれたい・嫌われたくないというのが若者の関心事項であり、
大学の教授に褒められるというのは、苦痛でしかないと思います。
また、仮に相手が身近な人であったとしても、褒められたいというよりも、その欲求というのはもっと消極的に存在を認めてほしい、程度であって
褒められたい、というのはやはりパワフルさというか、意識の高さみたいなものを感じます。


[24085] Re5:私から見る80,90年代(追記あり)返信 削除
2022/11/16 (水) 19:45:10 徳翁導誉

> > > > > > 両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、
> > > > > > チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。

> > > > う〜ん、「付き合う」の方の言葉の認識は、ちょっとズレている気も・・・・
> > > > 「恋愛」に関して言うと、確かに口約束レベルの契約的な側面もあるので、全否定はしないものの、
> > > > その関係性は社会的と言うより、明らかに個人的なモノであり、法律的な縛りもない以上、
> > > > 結局の所、一緒に何を行うかという、その「行動」に拠る言葉になると思うんですよね。

> > > 例えば、付き合っているのに別の誰かを好きになれば、それは少なからず裏切りになるでしょうし。
> > > あと、付き合うというのはその関係をオープンにすることであり、
> > > 周囲のクラスメイトなどから、そういった扱いを受ける、というニュアンスも含まれています。

> > あ〜、なるほど。 何だか解りました。
> > これは以前にも話題とした、「便所メシ」世代の話と通ずる部分があるかも?
> > こうした認識が、若い世代に共通なのか、それとも旧トルコ担当さん個人の感覚かは解りませんけど、
> > そもそも恋愛というのは1対1の個人的関係であり、そこに第3者を交えるかは関係無いはずです。
> > ですけど、周囲の目を気にする事が、無自覚の内に大前提となっているが故、
> > 上記のようなニュアンスも含むと決め付けてしまい、「社会的関係」であると思い込んでいるのかも?
> > 言ってしまえば、自分(たち)の常識が、必ずしも世間の常識とは限らないと言う話ですね。

> 岡田斗司夫が10年くらい前の動画で「今の若い世代は告白という儀式があり、付き合っているというのを周囲に宣言する
> 昭和の時代はそんなへんてこな儀式なんかなくて、付き合うというのは当事者同士が宣言するものではなく、周囲が勝手に認定するものだった」
> というようなことを言っていて、気になったので調べたところ、
> 確かに「きまぐれオレンジ☆ロード」では周囲が勝手に主人公とヒロインを付き合っている認定していたんですよね。
> 何となくその辺の感覚がよく分からなかったのですが、やはり付き合うにしても周囲の視線を気にしすぎる世代なんですかねえ。
> まあ隠れて付き合ってる的な感じもそりゃ今だっているでしょうけど(大学のサークルとか職場は特に)、
> 中高生くらいの恋愛と言えばオープンなのが当たり前というか、ひっそり付き合っているのは、何かおとなしめのタイプというイメージですね。

「周囲が勝手に認定する」というのも、そうですが、
そもそも論として、1対1の個人的関係なので、周囲の存在は在っても無くても関係無く、
だからこそ、周囲の人間は推し量って判断する・・・って感じなのですかねえ?
いや別に、昔も交際宣言するカップルは居ましたけど、宣言は別に必須じゃありませんでした。
まあ、恋バナ大好きな女子たちは、友人内で交際を公にしている層も少なくなかったでしょうが、
男子だと、友人同士でも恥ずかしいというか、隠す訳じゃないけど敢えて言わない感覚が強かったかと。

> 少なくとも恋愛マンガの題材にはなりにくそう。
マンガであれ、リアルであれ、
障害があったり、禁止されていたりする方が、いろいろと盛り上がるモノです(笑)。
そういう意味では、昔は「不自由の中の自由さ」があり、
今は「自由の中の不自由さ」がある時代なのかも知れません。

> > 今は解りませんが、部活の先輩を「くん付け」などしたら、折檻モノでしたね。
> > とは言え、私も「男子には くん付け、女子には さん付け」を当たり前に育った世代なので、
> > 正直な所、あまり詳しくは知らないと言うか、変化の体験談みたいなモノはありません(笑)。

> 私の時は部活の先輩に君付けはあり得ませんでしたよ。
> とはいえ、管理人さんの話を聞く限りでは、今の小中学生はまた色々と違うようなので、これに関しては分かりませんが。

先輩を「くん付け」と呼ぶというので考えると、
ジャニーズとか、学校外のスポーツ・クラブ(特にサッカー)で、昔から、そんな文化がありますね。
とは言え、さすがに学校の運動部とかまでには、まだ現状でも、そこまで普及してないかも?

・・・って、そうやって改めて考えてみると、
戦後になって、女子が男子を「くん付け」する文化が浸透した事から見ても、
もともと明確な「上下関係」があった所に、形式上の「対等関係」を新たに築こうとした場合、
下側から上側に対する呼称として、都合が良い案配だったのが「くん付け」だったのかな。

> > > > 今の子供たちって、意識の話だけでなく、少子化の影響もあるのかも知れませんけど、
> > > > 一昔前に比べると、本当に隔たりが薄いというか、異性の友達とか本当に居たりしますからね。
> > > > 異性の友達なんて、90年代くらいまで、半ば おとぎ噺に近い存在だったかと?

> > > 確かに私も異性の友達が当たり前の世代ですので、友達の延長線としての異性関係というのも非常になじみ深いので、
> > > だからこそ、「両想い」ではなく「付き合う」という言葉が当てはめられているあたりに、あ〜あという気がするんですよね。

> > まあ私は昭和世代なので、私が子供の頃は、
> > 男子と女子が仲良く話すだけでも、冷やかされたり馬鹿にされたりした時代だったので、
> > 正直言って、男女の間には壁があるというか、
> > ぶっちゃけて言うと、「敵対関係」「冷戦状態」みたいな感じでした(笑)。

> 確かに、小学生中学年くらいのまではそんな雰囲気ありました。

そういう意味では、旧トルコ担当さんも、過渡期の世代だったのかな?
今の小中学生って、昔に比べると、男女間が かなりフラットな関係に映りますし。

> > そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> > 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> > 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> 根拠はないですけど、それはありそう。
> 「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

逆に言うと、「全ての関係性で垣根が低い」からこそ、
対立とか衝突を乗り越えた上での、深くて強固な人間関係みたいなモノは、
却って今の時代の方が、築き難くなってるのかも知れませんね。
何度も言っていますが、「繋がり」と「しがらみ」は表裏一体の関係なので、
面倒さというデメリットを排せた反面で、絆の強さというメリットも失われてしまったと。
だからこそ、言葉による再確認とか、周囲の人間も巻き込んでの関係作りが、昔以上に重要なのかも?

> > > > > おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
> > > > エヴァが、イタかったり、キモかったりするのは、放送当時から既にですよ(笑)。
> > > > と言いますか、テレビ放送から四半世紀が経ち、世間一般からの認知度が多いに高まった事で、
> > > > 却って現在の方が、イタかったり、キモかったりする存在として、認識されてない実感はありますね。

> > > いや世間一般からすればずっとキモかったのでしょうけど、オタク層の年下世代からもそう思われるだろう、ということです。
> > > これはエヴァに限らず、その後のセカイ系や今のなろう系、あるいは萌え系そのものも含めて、
> > > キモイと言われるだろうということなんですよね。

> > 例えばセカイ系なんて、今では新海誠が「国民的なアニメ監督」となってる時点で、
> > キモいと言われる所か、エヴァ以上に「一般化」してしまった印象すらありますけどね(笑)。
> > 萌え系にしても、どこも かしこも それ系のマスコット・キャラが作られていますし・・・・
> > あと、時代や世代が変われば、評価だって様変わりするのも、当然と言えば当然の事で、
> > 我々人類の文化は、そんな事を何度も繰り返してきてますから、
> > 当時と現在だけをピックアップして、そこに特別な意味を込めさせる必要も無い気はします。

> 時代変化で作品の評価や受け取られ方が変わるのは当たり前ですけど、
> やはりいざ自分の好きな作品やジャンルが衰退するかもしれないという恐怖を感じると、冷静ではいられないですね。

う〜ん、この辺りの感覚の違いは、私と旧トルコ担当さんの年齢の違いも影響してるかも?
未だ青春時代の途上にある旧トルコ担当さんの感覚だと、
もちろん、いろいろあるでしょうけど、基本的には全ての感覚が登り調子でしょうし、
それが衰退する事に対して、恐怖や冷静でいられない感覚に陥るのも、充分に理解できるんです。

一方で、私などは もうオッサン世代ですから、
人間だろうと、文化だろうと、あらゆるモノに栄枯盛衰がある事と実感済みであると(笑)。
まあ、特に私の場合、転勤族として育った事もあり、平均的な人よりも客観視する感覚が強く、
更には歴史好きであったり、理系人間である事も作用してか、それを ごく普通に受け入れてますね。

もちろん、喜んで「衰退」を受け入れる人なんて、まず居ないでしょうけど、
年齢的にも、性格的にも、それを「仕方がない事」として甘受する感覚は持っていますし、
逆に言えば、そこで抗おうとしたり、主観で突っ走ったりする事もないので、
良くも悪くも、「懐古主義に浸る」事が出来ないと(苦笑)。
でも、自分世代の青春時代を特別視しない感覚を持っているからこそ、
昔のモノも、今のモノも、あまり区別せず楽しめる下地が、出来ている気はします。
まあ恐らく、こういうタイプの人間というのは、世間的には少数派なのでしょうけど、
ネット配信の拡充で今と昔の垣根が低くなるなら、今後は同じタイプの人間も増えるのかな?
(ただし その反面、今後は同世代で、共通の懐古話に花を咲かせるのが難しくなるかも)

> 交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、
> いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

年齢差による「感覚の違い」という観点から、引き続いて述べると、
「死の身近さ」というのも、大きな違いがあるかも知れません。

核家族化が進み、兄弟姉妹も少なくなり、親戚関係や近所関係も疎遠化している昨今、
特に学生だと、周囲に同世代の子供たちしか居ない訳で、
葬式に出たり、家族や友人知人が亡くなるという経験は、あまりしない為、
「死」というモノが、非常に縁遠いというか、実感が乏しく、
だからこそ反面で、それに対する恐怖感や忌避感も、非常に強いと思うんですよ。

でも、社会に出て様々な年代と触れ合い、そして自分や周囲も年齢を重ねていけば、
どうしたって死は免れませんし、ドンドンと身近な存在へと変わっていき、
慣れが生じると共に、恐怖感や忌避感も次第に薄れていくのが、実際の所です。
いや本音を言えば、怖くない訳でも、嫌じゃない訳でもありませんが、
そこに個人差はあれど、「仕方がない事」として、徐々に受け入れていく感じになると。
オッサン世代になれば、同級生だって、もう何人も死んでますし。

> > う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
> > その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
> > そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
> > 思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
> > それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
> > そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?

> 管理人さんの言うことも分かりますし、
> 私も「仮説ですが」とか「私の知っている限られた情報から判断すれば」とか、ちょくちょく入れているんですよね。
> とはいえ、私が(世代論など含め)歴史や社会科学が好きなのは、管理人さんの言うところの「腑に落ちる感覚がして、スカッとする」があるからなので、
> この感覚のために時間を使って本読んだり色々考えたりしてるので、それを辞めるとなると歴史の勉強なんてやってられるか、みたいな気持ちはあります。
> 飲まなきゃやってらんねえよ、みたいな感じで。
> 私も自分の信じている仮説って本当に正しいのだろうかと不安になることはありますし、
> なんなら最近は、勉強しても勉強しても、むしろ勉強すればするほど、「自分は何もわかっていないんじゃないのか」という不安が大きくなり、
> 正直歴史を勉強するのがしんどいんですよね。(そんなに本読んでないだろというツッコミはナシでお願いしますw)

ところで旧トルコ担当さんは、「ダニング=クルーガー効果の曲線」というのを ご存知でしょうか?
「知識」と「自信」の成長というのは、右肩上がりの一直線ではなく、こんな感じの曲線↓を描くというモノですね。


これは何も学問だけに限らず、あらゆる分野においても言える事であり、
実際、オタク界の中でも、「ガンダム チョットワカル」というネタ↓があったりします(笑)。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2107/01/news136.html


> 1調べて「なるほど」と満足するのがダメで、
> 10調べて「分かった」と感じるのがダメで、
> 100調べても詳しい人を名乗ってもだめなら、
> どれだけ調べれば私は気持ち良くなっていいんですかね?

何事でも そうですが、真面目に学ぼうとした場合、
新しい事を1つ知ると、解らない事が2つも3つも新たに出てくるモノですし、
学びを繰り返していけば、ネズミ算的に、解らない事が膨大に増えていくモノですから、
そういう意味では、学びというのは、非常に理不尽な世界です(笑)。

でも、そうやって「解らない事」の数が増えていくというのが、実はとても重要なんですよ!!
洋の東西を問わず、孔子もソクラテスも言及している、「無知の知」ってヤツですね。
「下手糞の上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目」と、
安西先生だって、言ってるじゃないですか(笑)。
(スラムダンクを基礎教養として見てる時点で、オタク相手以外なら老害認定ですけど)
「凄くできる人ほど謙虚だ」とか言ったりしますが、当人的には別に謙虚なのではなく、
自分の中での解る事と解らない事の線引きが、普通の人よりも明確なだけなんだと思います。

それこそ、上述のダニング=クルーガー効果の曲線に従えば、
「馬鹿の山(初心者)」→「絶望の谷(中級者)」→「啓蒙の坂(上級者)」→「継続の大地(達人)」
という成長曲線を描く訳で、
「何もわかっていないんじゃない不安」「勉強するのがしんどい」という、現状の旧トルコ担当さんの辛さも、
初心者レベルから中級者レベルへと脱皮する過程の、産みの苦しみだとも言えますし、
そういう意味では、偉そうに言うと、確実に成長中であるとも見なせるでしょう!!
逆に、手っ取り早く「気持ち良さ」を得たいのであれば、「永遠の初心者」である事ですね(笑)。
ぶっちゃけ、労力と快楽の割合で考えると、ニワカの立ち位置でライトに楽しむのが、最もコスパが良いので。

でも、快楽のコスパではなく、快楽の総量を求める場合、
山登りと同じで、より高くを目指すほど、快楽に倍する労力を要するようになりますし、
高くなれば なるほど、その1歩1歩の足取りも重くなっていきますから、それこそ茨の道ですよ。
身も蓋もない事を言ってしまえば、調べれば調べるほど苦痛になるのが、この道の行き先であり、
そこまで行かなければ見られない、美しい高原植物に出会える事(快楽)はあっても、
総体的に、達成感や充実感みたいなモノは得られても、そんな気持ちの良い未来は待っていないかと?
「なぜ山に登るのか? そこに山があるからだ」というのと同じように、
「なぜ調べるのか? そこに知らない事があるから…」という感じなので、
良くも悪くも、こうした衝動(義務感?)に突き動かされるタイプでなければ、
この道程の苦しさというのは、なかなか乗り越えられないかも知れませんね・・・・

一方で、「気持ち良さ」を最重視するのであれば、それこそ、
1つ2つ調べて「なるほど、解った!」という所で、足を止めれば良いと。
いわゆる「ネットde真実」みたいなのが、まさに このパターンでしょうか?
正直な所、嫌韓反中やQアノンなどの陰謀史観にハマるのは、
少ない労力で大きな快楽を得られますから、気持ち良さ的には、非常にコスパが良いと思いますよ。
で、こうなると、相手に対する「もっと勉強しろよ!」は、「自分に同調しろ!」と同義になりますし、
調べるという行為も、客観的な新情報を探すのではなく、持論の補強材料を探すモノとなります。
真相に近付きたいから調べるのではなく、気持ち良くなりたいから調べるので・・・・
(逆に言えば、知る事を快楽としつつ、安易な快楽を嫌悪すると、このルートを避けられるかな?)

> 私にとって岡田斗司夫が面白かった理由は、この"分かる感覚"を岡田斗司夫が簡単に与えてくれたからであり、
> ある程度の論理性と、非凡な発想力、そして少し変わった表現力と、
> 自信満々に断言する傲慢さが合わさり、奇跡のように"分かる感覚"を量産した人なんですよね。
> とはいえ、岡田斗司夫は自分の仮説が外れても全然恥じない厚顔無恥の人間ですし、
> やはり胡散臭い人間ではあるのですがw(この辺も含めてあれは才能ですねw)

そこはもう、エンタメとして聞くか? バイブルとして聴くか? の違いですかね(笑)。
別に私も、岡田斗司夫を全否定している訳では無いですし、
(と言いますか、ことオタク的な知見に関して言えば、やはり面白いですよ!)
エンタメとして割り切りながら、是々非々で楽しんでる感じでしょうか。

あと、客観性よりも主観性に偏り、何事も自分に都合良く解釈するタイプの人なので、
情報源としての信頼度は、かなり低く設定しているかな?
少なくとも、別な立場の人も同様の発言をしていない限り、
岡田斗司夫の発言だけでは、「信じられる情報」とは見なしてませんね、私自身は。

> あとはまあ、結局は(社会)科学の力をあまり信じていないというのもあるのかな。
> 2015年の時点でアメリカがあんなことになるなんて予測していた人は少数派でしたでしょうし、

「2015年の時点でアメリカが」というのは、いわゆる「トランプ現象」の事ですかね?
う〜ん、この「予測」というのが、実際に何を指すか次第で、その答えは変わるかな・・・・
簡単に言うと、大きな流れみたいなモノは、そこまで読み難いモノでは無いんですよ。
アメリカ政治で言うなら、2000年と2004年にブッシュJr.の大統領当選があり、
2010年前後のティーパーティー運動があった上での、あのトランプ現象でしたからねえ。
あの時期に、あの規模で顕れたのが予想外だっただけで、一連の流れとしては以前より在りました。

解りやすく喩えるなら、天気予報や、台風の進路予測に似た所があるかも?
6月は雨の日が多いとか、8〜9月は台風が多いとか、そうした大まかな予測は外しませんけど、
一方で、1ヶ月後の○月×日の天気や、台風の進路など、ピンポイントな予測的中は困難です。
それでも、今後1週間くらいの降水に関してなら、「確率」という形でそれなりに出せますし、
前線の関係で、雨の降る日が前後したり、降水量が予測から上下する事もありますが、ある程度は解ります。
要するに、速さ・大きさ・方向などで幾らかのズレは生じても、おおよその傾向は推測できると。
なので、必ず当たる訳では無い天気予報や台風予測も、活用次第で有用性が大きく変わるとも言えるかな?

で、政治や社会の予測に関して言うと、短期的な予測というのは非常に困難ですが、
中期的な予測は景気により、長期的な予測は人口によって、そこそこは見えてくる所があるのも事実です。
大統領選挙で言うなら、不景気だと次の選挙で政権交代が起こりやすいとか、
非白人の割合がジワジワ増えているので、大胆な路線転換を行わない限り、共和党はジリ貧だとか。
特に人口の場合、そんな簡単に、傾向が変化するモノでもないですし、
景気にしても、一夜で急激に好景気へ転じる事もなく、
バブルが弾けるタイミングは読めなくても、バブルが膨らんでるのは解るので。

つまり、これも天気予報や台風予測と同じように、的確に当てるのは困難でも、大まかな流れは掴めますし、
それをどれだけ活用するか? その為にどれだけ情報を収集するか? は、人それぞれであると。
出掛ける前に、ちょっと天気予報を確認するだけで、雨に濡れずに済む事だってありますし、
逆に、せっかく傘を持っていったのに、結局は雨が降らず、ただただ邪魔だったなんて事もありますから、
トータルで見て、それをどう評価するか?って事ですよね、結局は。
どちらが正解、不正解という話でもありません。

> 歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
> (歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)

いやいや、歴史に「必然性」を求める学者なんて、本当にそんなに居ますか?
「歴史にifは無い」と言いますが、その反面で、
「歴史とは様々あった可能性の1つに過ぎない」事は、学べば学ぶほど解る事でしょうし、
テレビに出ている、歴史学者ならぬ歴史家であったり、学者肩書きのコメンテイターでも無い限り、
そんな事は、普通に言わないと思いますけどねえ・・・・
まあ、中には御用学者とかも居ますし、その場その場で都合の良い発言をする人も居るでしょうけど、
そういう人は、特定の業界内では需要があっても、学術界では相手にされていないかと?

司馬遼太郎などの歴史小説家は、あくまでもエンタメの世界なので、
面白おかしく「必然性」を語る事もあるでしょうが(そちらの方が作品的に楽しいので)、
あれも別に、歴史学としてキチンと考察している訳では無いですからね。
「司馬史観」とか言って、有り難がってしまうのは、読者側のリテラシーの話だと思いますし。

> まあ、学問自体に期待していないので、私が多少科学的じゃなくても、
> どうせ学者だって似たり寄ったりだろ、みたいなことも"極論"思うようになりました。
> 反知性主義といわれるかもしれませんが、そのくらいの距離感が社会科学に対する丁度よい距離感なのかな、と。

学問とか、科学とかは、解らない事は普通に「解らない」と言いますし、
真摯な態度で語るなら、それこそ「解らない事だらけ」なので(笑)、
具体的な処方箋を呈示してくれるみたいな期待は、当然ながら応えられないかな?(苦笑)
例えば、地球温暖化の話にしたって、科学的・学術的に語るのであれば、
地球が本当に温暖化しているかも解らなければ、人間の出す二酸化炭素の所為かも解りません。

実際は、真っ当な学者ほど、安易な断言など絶対に行いませんし、
逆に言えば、科学的なデータを都合良く解釈&利用する政治家や運動家が居たり、
利益を得る為に、そこに おもねる御用学者が居るだけですね。
まあ実際問題、「解らない、解らない」だけじゃ、何も行えませんし、
解らなくても動かなければならないのが、政治であり社会であると考えるのであれば、
「科学的・学術的な正しさ」と「政治的・社会的な正しさ」とは、必ずしもイコールとは限りません。
そして更には、一般市民の感覚からすると、そんな事情も面倒で解り難いですから、
結局は、感情というかフィーリングで、「メディア報道を信じるか?否か?」になるのかな。
で、マスコミの報じる正しさが、本当に正しい訳では無いものの、
ネットde真実に比べれば、遥かにマシであろう事は確かですね(笑)。

> > > 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> > > 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> > > 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> > > これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

> > 実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
> > 意外と曲者というか、深いモノがある気がします。
> > SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
> > 決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
> > つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
> > 根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。
> > そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
> > きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
> > 期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
> > その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
> > メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?

> これもそうですね。
> 何を今さら感が私にとっては強いのですが、当事者じゃないというのはそれだけ分からないということなんですよね。

前出のように、恋愛と周囲の関係性とか、スカッとジャパンの視聴者層など、
自分の中で当然の認識だったモノも、実際に声に出してみる事で、それが改まる事だってありますし、
また、当事者だからと言って、と言うか当事者だからこそ、
主観に寄り過ぎて、客観性に欠くという事も珍しくは無いのですから、
いろいろと言葉にしてみる事は、それなりに良い事だと思いますよ(笑)。

> 追記
> 管理人さんの文章に引っ張られて、よく考えずに書いてしまったので訂正します。
> 若者は褒められたくないというのが私の私見です。
> もちろんSNSなどの承認欲求というのもありますが、身近な人か好かれたい・嫌われたくないというのが若者の関心事項であり、
> 大学の教授に褒められるというのは、苦痛でしかないと思います。
> また、仮に相手が身近な人であったとしても、褒められたいというよりも、
> その欲求というのはもっと消極的に存在を認めてほしい、程度であって
> 褒められたい、というのはやはりパワフルさというか、意識の高さみたいなものを感じます。

う〜ん、これに関しては、
「認める」という言葉の意味の誤用というか、解釈の拡大や意味の変容が起きている気がするんですよね。
個人的には、「認める」の方が重く、「褒める」の方がライトなので、「認める>褒める」という感じですが、
ここ数年の用法だと、「褒める>認める」みたいな用い方も目立ち始めてきた印象があります。

例えば、認めるには「認めざるを得ない」という用法がありますが、
これって、個人的には嫌いでも、その成果なり才能は、評価すべきモノがあるという表現ですが、
これが褒める野場合、個人的に嫌いであれば、「褒めざるを得ない」という表現にはなりません。
そういう意味では、主観的に感情も交じるライトな評価が「褒める」であり、
客観的に結果や能力を、純粋に評価するのが「認める」だと思うんですよ。
ただ、認めるの方には、ネガティブな評価をオブラートに包む時の表現としても用いられ、
例えば、「努力は認めるよ、努力は」と言う場合は、真意に「結果の否定」が含まれますし、
「ファイルの存在を認める」とかも、不祥事が発覚した際、既にファイルは処分済みだと発表して、
それが嘘だとバレた時に、「誤情報の修正」の意味として用いられます。

まあ、「消極的に存在を認めてほしい」というのも解りますが、それはあまりにネガティブというか、
逆に言えば、だからこそ、ポジティブ方向への意味や適用の拡大が、近年起きている気がするんです。
具体的に言うなら、発端は学校現場や教育関連なんですかねえ?
昭和は当たり前だった「叱る」教育から、平成になって「褒める」教育へのシフトが図らたものの、
その結果、勉強や部活などの「成果を褒める」方向へと行き着いた為、
令和では、成果ではなく過程や努力を「認める」教育が頻繁に提言されていると。
(いや別に、過程や努力を褒めても良いですし、アメとムチで叱るを全否定する必要も無いのですが・苦笑)

要するに、「褒める」に替わる別の用語として、「認める」を引っ張り出してきた感じに近いのかな?
でも、SNSにおける承認欲求の象徴とされる「いいね(Good)」ボタンとかも、
あれって、投稿内容や作品の「素晴らしさ」を認めるという、重い意味では無いでしょうから、
そういう意味では、もっと気軽な感じで、それこそ「いいね」と相槌的に褒めている気がするんですよね。
あなたが投稿した「事実」は認めるよ という、ネガティブな意図でも無いでしょうし。
・・・って、だからこそ、褒めるよりも更にライトな(責任を負わない)表現として、
「投稿を確認したよ」という事実確認という意味合いで、認めるという単語を用いているのかな。
現実の用法としても、そちらの方がシックリ来るきがしますので。

と、単語の意味的なモノを、長々と書いてしまいましたが、普通は興味ないですよね?(笑)
世間一般の感覚では、もっと漠然と言葉を用いているでしょうし。
まあ、それはさておき、文章の内容の方への返信を始めますと、
若者は「褒められたくない」というのは、本当にそうなんですかねえ?
より具体的に言うと、前回も指摘しましたけど、
褒めるに付随されると連想する「期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など」を、
避けたが為の「褒められたくない」であり、
「褒められる」という行為自体まで、本当に嫌だと言えるのでしょうか?

もっと言うと、どの世代よりも「周囲の評価を気にする」世代であればこそ、
ネガティブな意味での「認められる」よりも、
更に上位に位置する「褒められる」を心の底から嫌っていますか?
これはコスパ感覚と同じで、褒められる事で得られるメリットとデメリットを秤に掛けた場合、
デメリットの方が大きいと判断すれば、確かにノーでしょうけど、
メリットの方が大きいと判断したなら、その時はイエスとなる気がしますけどねえ。
で、メリットとデメリットのバランスが微妙な所にあるからこそ、
「皆の前で」という要素が加わると、デメリット面が膨らみ(背負わされるモノが増えて)、
「褒められたくない」方へと傾くというのが、実際の所であるかと考えています。

逆に言えば、デメリットを上回る、大きな「承認欲求」が得られるのであれば、
変な話、どの世代よりも、実は「褒められたがり」な世代なのではないか?とも(笑)。
いや本当、今の若い世代の「周囲の目の気にしぶり」って、かなり際立ってますからね。
以前にも指摘しましたけど、それこそ俺ガイル的な「ぼっち感」って、
ぼっちを称しながら、必要以上に周囲を気にして、出来れば そこに関わりたがる感じが、
それまでの「ガチぼっち」みたいなモノと比べると、何だか独特な感じがあると。

まあ、少子高齢化の影響により、若者の絶対数も減っていれば、大人と子供の割合も変化しており、
教育方針の変化とも相俟って、今の世代は昔以上に、良くも悪くも1人1人が見られている時代ですので、
どの世代の子供より、実は褒められたり、存在を確認されている世代でもあるのですが、
それが当たり前で育っていると、そこを自覚できないと言うか、スタート地点の違いとかもありますね。
内在的で抑え気味な「もっと、もっと」という願望と、それが困難な社会の実状との間に、ギャップがあったり、
主観的に「自分たちはこうだ」というのと、客観的に「あなたたちはこうだ」というのでも、ズレもありますし。
って、あれこれと勝手に分析・解釈されるって、あまり心地良いモノでは無いかも知れませんけど(苦笑)。

あと、これは余談みたいなモノですが、
「大学の教授」と言うか、ここでは「先生」という表現ですから、
想定されるのは中学・高校の担任とかであったり、
もしくは大学であっても、こぢんまりとしたゼミとかだと思われますし、
そうなると、これはもう、立場は教授であっても「身近な人」となるのでは?
大教室の講義とかで、顔と名前しか解らない教授から、
いきなり皆の前で褒められるケースなんて、普通はまず無いですので(笑)。


P.S.
来週からカタールW杯が始まりますので、
(今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
事前に御了承下さい。


[24095] Re6:私から見る80,90年代【追記あり】返信 削除
2022/11/30 (水) 03:24:00 旧トルコ担当

> > > う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
> > > その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
> > > そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
> > > 思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
> > > それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
> > > そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?

> > 管理人さんの言うことも分かりますし、
> > 私も「仮説ですが」とか「私の知っている限られた情報から判断すれば」とか、ちょくちょく入れているんですよね。
> > とはいえ、私が(世代論など含め)歴史や社会科学が好きなのは、管理人さんの言うところの「腑に落ちる感覚がして、スカッとする」があるからなので、
> > この感覚のために時間を使って本読んだり色々考えたりしてるので、それを辞めるとなると歴史の勉強なんてやってられるか、みたいな気持ちはあります。
> > 飲まなきゃやってらんねえよ、みたいな感じで。
> > 私も自分の信じている仮説って本当に正しいのだろうかと不安になることはありますし、
> > なんなら最近は、勉強しても勉強しても、むしろ勉強すればするほど、「自分は何もわかっていないんじゃないのか」という不安が大きくなり、
> > 正直歴史を勉強するのがしんどいんですよね。(そんなに本読んでないだろというツッコミはナシでお願いしますw)

> ところで旧トルコ担当さんは、「ダニング=クルーガー効果の曲線」というのを ご存知でしょうか?
> 「知識」と「自信」の成長というのは、右肩上がりの一直線ではなく、こんな感じの曲線↓を描くというモノですね。
>
>
> これは何も学問だけに限らず、あらゆる分野においても言える事であり、
> 実際、オタク界の中でも、「ガンダム チョットワカル」というネタ↓があったりします(笑)。
> https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2107/01/news136.html
>
>
> > 1調べて「なるほど」と満足するのがダメで、
> > 10調べて「分かった」と感じるのがダメで、
> > 100調べても詳しい人を名乗ってもだめなら、
> > どれだけ調べれば私は気持ち良くなっていいんですかね?

> 何事でも そうですが、真面目に学ぼうとした場合、
> 新しい事を1つ知ると、解らない事が2つも3つも新たに出てくるモノですし、
> 学びを繰り返していけば、ネズミ算的に、解らない事が膨大に増えていくモノですから、
> そういう意味では、学びというのは、非常に理不尽な世界です(笑)。
>
> でも、そうやって「解らない事」の数が増えていくというのが、実はとても重要なんですよ!!
> 洋の東西を問わず、孔子もソクラテスも言及している、「無知の知」ってヤツですね。
> 「下手糞の上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目」と、
> 安西先生だって、言ってるじゃないですか(笑)。
> (スラムダンクを基礎教養として見てる時点で、オタク相手以外なら老害認定ですけど)
> 「凄くできる人ほど謙虚だ」とか言ったりしますが、当人的には別に謙虚なのではなく、
> 自分の中での解る事と解らない事の線引きが、普通の人よりも明確なだけなんだと思います。
>
> それこそ、上述のダニング=クルーガー効果の曲線に従えば、
> 「馬鹿の山(初心者)」→「絶望の谷(中級者)」→「啓蒙の坂(上級者)」→「継続の大地(達人)」
> という成長曲線を描く訳で、
> 「何もわかっていないんじゃない不安」「勉強するのがしんどい」という、現状の旧トルコ担当さんの辛さも、
> 初心者レベルから中級者レベルへと脱皮する過程の、産みの苦しみだとも言えますし、
> そういう意味では、偉そうに言うと、確実に成長中であるとも見なせるでしょう!!
> 逆に、手っ取り早く「気持ち良さ」を得たいのであれば、「永遠の初心者」である事ですね(笑)。
> ぶっちゃけ、労力と快楽の割合で考えると、ニワカの立ち位置でライトに楽しむのが、最もコスパが良いので。
>
> でも、快楽のコスパではなく、快楽の総量を求める場合、
> 山登りと同じで、より高くを目指すほど、快楽に倍する労力を要するようになりますし、
> 高くなれば なるほど、その1歩1歩の足取りも重くなっていきますから、それこそ茨の道ですよ。
> 身も蓋もない事を言ってしまえば、調べれば調べるほど苦痛になるのが、この道の行き先であり、
> そこまで行かなければ見られない、美しい高原植物に出会える事(快楽)はあっても、
> 総体的に、達成感や充実感みたいなモノは得られても、そんな気持ちの良い未来は待っていないかと?
> 「なぜ山に登るのか? そこに山があるからだ」というのと同じように、
> 「なぜ調べるのか? そこに知らない事があるから…」という感じなので、
> 良くも悪くも、こうした衝動(義務感?)に突き動かされるタイプでなければ、
> この道程の苦しさというのは、なかなか乗り越えられないかも知れませんね・・・・
>
> 一方で、「気持ち良さ」を最重視するのであれば、それこそ、
> 1つ2つ調べて「なるほど、解った!」という所で、足を止めれば良いと。
> いわゆる「ネットde真実」みたいなのが、まさに このパターンでしょうか?
> 正直な所、嫌韓反中やQアノンなどの陰謀史観にハマるのは、
> 少ない労力で大きな快楽を得られますから、気持ち良さ的には、非常にコスパが良いと思いますよ。
> で、こうなると、相手に対する「もっと勉強しろよ!」は、「自分に同調しろ!」と同義になりますし、
> 調べるという行為も、客観的な新情報を探すのではなく、持論の補強材料を探すモノとなります。
> 真相に近付きたいから調べるのではなく、気持ち良くなりたいから調べるので・・・・
> (逆に言えば、知る事を快楽としつつ、安易な快楽を嫌悪すると、このルートを避けられるかな?)


あとまあ、私の場合は学問としての歴史が好きなのではなく、ある種のSFとしての歴史が好きなんだというのに気づいてしまったというのもあるんですよね。
例えば優生学とか(支持しているとかではなく)あのエセ科学で当時の時代の雰囲気が感じられるのがめちゃくちゃ好きですし、
高校生くらいのころは歴史学"崇拝"があって、もっと歴史のまじめな本読んで自分も勉強しなくちゃいけないと思っていましたが、
今は好きなように適当に歴史をかじって、結果としてある程度間違った歴史認識だったとしても、自分が面白ければそれでいいや、と思うようになりましたね。
私はオタクであって知識人ではないので。
私の周囲には管理人さんのような知識人系の人が多いのですが、それに流されて本当に自分が好きなものを見失うのって、
オタクを自称する私が一番上から目線に見下してる、流行に流されて自分が好きなものを追わない一般人と同じですからね。

ちなみに、私の好きなコンテンツに「ドナウ連邦建国史」というのがあるのですが、管理人さんはご存知でしょうか?
第一次世界大戦でドイツが勝った世界線の架空史なのですが、筆者の豊富な歴史知識による作りこみが凄くておススメです。
以前管理人さんが妄想されていた、満州国が存続し続けていた世界線でもありますし。

> > まあ、学問自体に期待していないので、私が多少科学的じゃなくても、
> > どうせ学者だって似たり寄ったりだろ、みたいなことも"極論"思うようになりました。
> > 反知性主義といわれるかもしれませんが、そのくらいの距離感が社会科学に対する丁度よい距離感なのかな、と。

> 学問とか、科学とかは、解らない事は普通に「解らない」と言いますし、
> 真摯な態度で語るなら、それこそ「解らない事だらけ」なので(笑)、
> 具体的な処方箋を呈示してくれるみたいな期待は、当然ながら応えられないかな?(苦笑)
> 例えば、地球温暖化の話にしたって、科学的・学術的に語るのであれば、
> 地球が本当に温暖化しているかも解らなければ、人間の出す二酸化炭素の所為かも解りません。


何となく聞いたことはありましたが、やはり地球温暖化は怪しいんですね。
就活でカーボンニュートラルが〜とか散々聞いているので、あれが全部非科学的と言われれば、薄々感じていたこととはいえ、頭がバグりそうw
私は文系なので専門知識はさっぱりですが、地球って巨大ですし、その中で起きている化学反応や科学現象も多種多様でしょうから、
専門家でも実際に地球で何が起きているかというのは、分からないんだろうとは勝手に思っていました。
データだって無限の予算で世界各地に観測拠点を置くわけにはいかないでしょうし、過去のデータ何かは絶対に手に入りませんからね。
割と人体とかに近いのかな?人体の中でも様々な体の機能や反応が起きているはずで、おそらくその大部分は現代医学でも未解明なんでしょうね。

> > > > 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> > > > 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> > > > 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> > > > これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

> > > 実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
> > > 意外と曲者というか、深いモノがある気がします。
> > > SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
> > > 決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
> > > つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
> > > 根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。
> > > そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
> > > きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
> > > 期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
> > > その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
> > > メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?

> > これもそうですね。
> > 何を今さら感が私にとっては強いのですが、当事者じゃないというのはそれだけ分からないということなんですよね。

> 前出のように、恋愛と周囲の関係性とか、スカッとジャパンの視聴者層など、
> 自分の中で当然の認識だったモノも、実際に声に出してみる事で、それが改まる事だってありますし、
> また、当事者だからと言って、と言うか当事者だからこそ、
> 主観に寄り過ぎて、客観性に欠くという事も珍しくは無いのですから、
> いろいろと言葉にしてみる事は、それなりに良い事だと思いますよ(笑)。
>
> > 追記
> > 管理人さんの文章に引っ張られて、よく考えずに書いてしまったので訂正します。
> > 若者は褒められたくないというのが私の私見です。
> > もちろんSNSなどの承認欲求というのもありますが、身近な人か好かれたい・嫌われたくないというのが若者の関心事項であり、
> > 大学の教授に褒められるというのは、苦痛でしかないと思います。
> > また、仮に相手が身近な人であったとしても、褒められたいというよりも、
> > その欲求というのはもっと消極的に存在を認めてほしい、程度であって
> > 褒められたい、というのはやはりパワフルさというか、意識の高さみたいなものを感じます。

> う〜ん、これに関しては、
> 「認める」という言葉の意味の誤用というか、解釈の拡大や意味の変容が起きている気がするんですよね。
> 個人的には、「認める」の方が重く、「褒める」の方がライトなので、「認める>褒める」という感じですが、
> ここ数年の用法だと、「褒める>認める」みたいな用い方も目立ち始めてきた印象があります。
>
> 例えば、認めるには「認めざるを得ない」という用法がありますが、
> これって、個人的には嫌いでも、その成果なり才能は、評価すべきモノがあるという表現ですが、
> これが褒める野場合、個人的に嫌いであれば、「褒めざるを得ない」という表現にはなりません。
> そういう意味では、主観的に感情も交じるライトな評価が「褒める」であり、
> 客観的に結果や能力を、純粋に評価するのが「認める」だと思うんですよ。
> ただ、認めるの方には、ネガティブな評価をオブラートに包む時の表現としても用いられ、
> 例えば、「努力は認めるよ、努力は」と言う場合は、真意に「結果の否定」が含まれますし、
> 「ファイルの存在を認める」とかも、不祥事が発覚した際、既にファイルは処分済みだと発表して、
> それが嘘だとバレた時に、「誤情報の修正」の意味として用いられます。
>
> まあ、「消極的に存在を認めてほしい」というのも解りますが、それはあまりにネガティブというか、
> 逆に言えば、だからこそ、ポジティブ方向への意味や適用の拡大が、近年起きている気がするんです。
> 具体的に言うなら、発端は学校現場や教育関連なんですかねえ?
> 昭和は当たり前だった「叱る」教育から、平成になって「褒める」教育へのシフトが図らたものの、
> その結果、勉強や部活などの「成果を褒める」方向へと行き着いた為、
> 令和では、成果ではなく過程や努力を「認める」教育が頻繁に提言されていると。
> (いや別に、過程や努力を褒めても良いですし、アメとムチで叱るを全否定する必要も無いのですが・苦笑)
>
> 要するに、「褒める」に替わる別の用語として、「認める」を引っ張り出してきた感じに近いのかな?
> でも、SNSにおける承認欲求の象徴とされる「いいね(Good)」ボタンとかも、
> あれって、投稿内容や作品の「素晴らしさ」を認めるという、重い意味では無いでしょうから、
> そういう意味では、もっと気軽な感じで、それこそ「いいね」と相槌的に褒めている気がするんですよね。
> あなたが投稿した「事実」は認めるよ という、ネガティブな意図でも無いでしょうし。
> ・・・って、だからこそ、褒めるよりも更にライトな(責任を負わない)表現として、
> 「投稿を確認したよ」という事実確認という意味合いで、認めるという単語を用いているのかな。
> 現実の用法としても、そちらの方がシックリ来るきがしますので。
>
> と、単語の意味的なモノを、長々と書いてしまいましたが、普通は興味ないですよね?(笑)
> 世間一般の感覚では、もっと漠然と言葉を用いているでしょうし。
> まあ、それはさておき、文章の内容の方への返信を始めますと、
> 若者は「褒められたくない」というのは、本当にそうなんですかねえ?
> より具体的に言うと、前回も指摘しましたけど、
> 褒めるに付随されると連想する「期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など」を、
> 避けたが為の「褒められたくない」であり、
> 「褒められる」という行為自体まで、本当に嫌だと言えるのでしょうか?
>
> もっと言うと、どの世代よりも「周囲の評価を気にする」世代であればこそ、
> ネガティブな意味での「認められる」よりも、
> 更に上位に位置する「褒められる」を心の底から嫌っていますか?
> これはコスパ感覚と同じで、褒められる事で得られるメリットとデメリットを秤に掛けた場合、
> デメリットの方が大きいと判断すれば、確かにノーでしょうけど、
> メリットの方が大きいと判断したなら、その時はイエスとなる気がしますけどねえ。
> で、メリットとデメリットのバランスが微妙な所にあるからこそ、
> 「皆の前で」という要素が加わると、デメリット面が膨らみ(背負わされるモノが増えて)、
> 「褒められたくない」方へと傾くというのが、実際の所であるかと考えています。


褒められるというのは「行為とか成果が、他よりもより優れている」ということですよね。
ですが、今の若者の自信のなさは、大学の教授に褒められた程度で払拭される程度の中途半端なものではありませんから、
褒められたとしても、自分で自分の成果を他よりもより優れていると認められない以上、褒められるという行為自体が無意味なのではないでしょうか。

これは私の場合を基にした仮説なので(今までも大半そうですが)、説得力がないかもですが、
「周囲の評価を気にする」世代というより、自己否定が非常に強い世代という方が正しいと思うんですよね。
周囲の評価が気になるというのは、自分では自分を絶対に認められないから、
せめてもの渇きをいやすために、周囲にすがっているというか。

俺ガイルにしても、管理人さんの目にはどのように主人公が周囲の目を気にしているように見えるのかは分かりませんが、
周囲の視線が気になるというより、自分はこれでいいのかという、恐怖心があると思うんですよね。
だからこそ主人公は自分好きですし、逆に言えばそのくらい自分好きじゃないと、心のバランスが取れず、メンヘラみたくなってしまうんですよ。

私自身ふと自分の人生を振り返ると、体が太っていたり、ブサイクじゃなくて良かったなと、心の底から思うんですよね。
もし太っていたり、ブサイクだったら、心のバランスを崩して大変なことになっていただろうなあと。

バブリーの時代に、団塊ジュニア世代の男性たちが、赤プリ予約は当たり前な女性たちの要求に絶望していたという話が、
私には、なんて(当時の若者は)パワフルで、まっすぐで、かっこいいんだ、と思ってしまいますし、そっちには一生行けないな、と思ってしまうんですよね。
私はラノベを読み始めた中学生のころから一生独身で、生涯彼女なんかできないと覚悟を決めていましたし、
オタクであるにも関わらず、それを必死に隠そうとしたりして、どうにかして女の子にモテようと(というか、普通に女の子と話したりできる程度の地位を確保しようと)思っていたオタクのクラスメイトを、
覚悟と修業が足らんと思っていました(というか今でも思っています)。
まあ実際にはオタクでも結婚できる人はできますし、出来ない人でもやろうと本気で思えばやります(笑)。むしろ普通の恋愛結婚で結婚をしてる人なんて少数派でしょう(少数派ですよね?)。
それは高校生くらいになれば分かってきたのですが、でもやっぱりオタクの中でもまた色々なタイプがいますし、
オタクと言いつつ、なんだかんだで体育会系の部活に入っていたり、普通に友達がいたり、そういうオタク以外の世界もある人たちが、やっぱり結婚していくんですよね。
Twitter見てても、私が「この人は結婚するだろうな」と思った人が本当に結婚した率or実は既婚者だった率は今のところ100%的中していますし、この診断で行けば私は結婚できないタイプのオタクです。
いや、いいんですよ。結婚できなくても、生涯独身で最後は孤独老人として死ぬとしても。
それは私はオタクになったと時に、覚悟したことですし、私は人生ささげると(大げさではなく)決めたので。
ですけど、やはりふと本当にこのままでいいのかと、お前は人生から逃げているのではないかと、不安になるんですよね。
友達も作らず、女の子とも話さず、人生の思い出が全部ラノベとアニメしかない人生は、人間としてこの世の中にいていい存在じゃないんじゃないかと。
そういう不安感と自己否定があるからこそ、高校生のころからクラスメイトが眩しく見えるようになりましたし、
私が「響け!ユーフォニアム」とか、「Honey Works」が大好きなのも、あれはリア充コンテンツで、ああいうリア充(というか、普通に友達のいる人)を見て、その尊さに涙するコンテンツなんですよね。
普通の女の子や普通の男の子が普通に生きて生活しているだけで尊いですし、ハニワでイケメンリア充と可愛い女の子たちが恋愛しているのを見る(聴く)と涙が出てくるんですよね。(昔のオタクはイケメンへの呪詛を唱えていたわけですから)
最近だと、ソードアート・オンラインもかなりリア充の眩しい系のコンテンツになりつつありますね。

『どうか皆の前で』で若者は異常に貢献欲求が高く、会社に入っても、上司からごくごく単純な業務を任されただけで、
異様に張り切るというような話がありますが、
これも自己では補完しえない自分の存在意義を、今この上司から任された仕事をやっている瞬間だけは、
他人にとって自分は価値ある存在だと「自分で」思えるからなのではないでしょうか?

(ちなみに、だからこそ、俺ガイルは衝撃的だったんですよね。
普通のラノベではオタク主人公が女の子にモテまくったとしても、それは異世界の話であったり、ゲームの世界の話であったりして、
ちゃんとラノベを読んだ後にクラスで女の子から全く話さない状況を受け入れられるように防御線が入っているんですよ。
ですけど俺ガイルって、徹底的にあの時代のリアルなオタク高校生を主人公にしておきながら、
しかも第1巻では主人公が持てる気配なんか全く見せてなかったくせに、最後にはちゃんとハーレム作ってるんですから。
せっかくオタク山に入山して、俗世から隠居し、女の子がいなくても、友達がいなくても、ラノベがあればいいもん、という仙人生活をしていたのに、
俺ガイルはその修行僧たちに、「オタクと言いつつ、相手の女の子だって同じ高校生なんだから、可愛いこと仲良くなったり、付き合ったりするのが本当は絶対不可能ではないだろ、それはお前たちも分かってるだろ」
と言って、俗世の煩悩を思い出させようとしてくるんですから。
俗世は厳しくて、辛くて、オタクがそこに戻っても痛い目見るのがオチなのに、でもそのわずかな確率の成功例を俺ガイルは見せつけてくるんですもの。
本当にラノベとして超えてはいけない一線を越えた作品です)

> まあ、少子高齢化の影響により、若者の絶対数も減っていれば、大人と子供の割合も変化しており、
> 教育方針の変化とも相俟って、今の世代は昔以上に、良くも悪くも1人1人が見られている時代ですので、
> どの世代の子供より、実は褒められたり、存在を確認されている世代でもあるのですが、
> それが当たり前で育っていると、そこを自覚できないと言うか、スタート地点の違いとかもありますね。
> 内在的で抑え気味な「もっと、もっと」という願望と、それが困難な社会の実状との間に、ギャップがあったり、
> 主観的に「自分たちはこうだ」というのと、客観的に「あなたたちはこうだ」というのでも、ズレもありますし。
> って、あれこれと勝手に分析・解釈されるって、あまり心地良いモノでは無いかも知れませんけど(苦笑)。


いや、一周回って面白いですよw
なんだかんだで、私もこの世代の一員で、私の性格や個性は、しょせんこの世代の中のバリエーションに過ぎないんだな、という発見があるので。

最近、大学のキャリア支援センター(就職課)の方が「大学生がなかなかキャリア支援センターを利用してくれないので、なぜなのか調査したところ、
『キャリア支援センターは静かなので怖い』と思われているということが判明したのですが、キャリア支援センターは確かに静かですが、怖いところではありませんよ」
という話をしたという、冗談みたいな体験をして、今の大学生を上から目線に笑っていました。
しかし、後日映画を見にショッピングモールに行ったところ、ショッピングモールがあまりに家族連れだらけで、同じ大学生くらいの利用者もなんか陽キャな感じで、
割と本気で帰りたくなったんですよね(帰ったら映画見れないので帰りませんでしたが)。
「キャリア支援センターが怖い大学生をバカにしてすみませんでした、やっぱり私もショッピングモール怖いです」って感じですw
ちなみに私のTwitterのフォロワーの既婚者の方もやはりショッピングモールに居心地の悪さを感じるようで、陰キャ魂は結婚しても変わらないんだな、と思いました。
商学部なので最近はこういう考え方をするようになったのですが、ショッピングモールだって大予算かけて建設する分、入念なマーケティングの元建設してるはずですし、まさか最近の陰キャが居心地の悪さを感じているとは思っていないんでしょうね。
と書きつつ、ショッピングモールの陽キャ感に帰りたくなる現象というのは、もしかして最近の若者の感性ではなく、割と昔から存在しているもんなのでしょうか?もしかして私ってショッピングモールの客層じゃない?(もちろんメインターゲットは家族連れですが、陰キャはサブターゲットにもなってないんですかね)

イタい感じの自分語りっぽくなってしまいましたが、これしか参考になる話はできないので、あきらめてくださいw
おそらく私の体験を元にした、どこまで信用できるんだかわからない仮説を披露するよりも、元データを直接見てもらう方がよっぽどマシですw


[24097] 返信は、また後日返信 削除
2022/12/7 (水) 23:41:08 徳翁導誉

> > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > (今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
> > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > 事前に御了承下さい。

日本代表の戦いは終わりましたが、
W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。
(決勝が12/18(日)なので、再来週には確実に出来るかと)


[24099] 追記返信 削除
2022/12/19 (月) 03:50:38 旧トルコ担当

> > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > (今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
> > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > 事前に御了承下さい。


日本代表の戦いは終わりましたが、
W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。
(決勝が12/18(日)なので、再来週には確実に出来るかと)

いえいえ、気になさらず。
よくこんな好き勝手書いている文章に返信していただいてありがたいです。
文章にすることで自分の中でふわっと感じていたことが整理される、だから書いているという独り言みたいな側面もあるので。


> > 交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、
> > いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

> 年齢差による「感覚の違い」という観点から、引き続いて述べると、
> 「死の身近さ」というのも、大きな違いがあるかも知れません。
>
> 核家族化が進み、兄弟姉妹も少なくなり、親戚関係や近所関係も疎遠化している昨今、
> 特に学生だと、周囲に同世代の子供たちしか居ない訳で、
> 葬式に出たり、家族や友人知人が亡くなるという経験は、あまりしない為、
> 「死」というモノが、非常に縁遠いというか、実感が乏しく、
> だからこそ反面で、それに対する恐怖感や忌避感も、非常に強いと思うんですよ。
>
> でも、社会に出て様々な年代と触れ合い、そして自分や周囲も年齢を重ねていけば、
> どうしたって死は免れませんし、ドンドンと身近な存在へと変わっていき、
> 慣れが生じると共に、恐怖感や忌避感も次第に薄れていくのが、実際の所です。
> いや本音を言えば、怖くない訳でも、嫌じゃない訳でもありませんが、
> そこに個人差はあれど、「仕方がない事」として、徐々に受け入れていく感じになると。
> オッサン世代になれば、同級生だって、もう何人も死んでますし。


そうですね、私ももう大学生でありながら未だ葬式には1度しか出たことがありませんし、親戚家族関係の希薄化にともなって世代間交流がなくなっているんでしょうね。
私が知っている人が亡くなったのって、親戚と学校の先生とあとはTwitterのフォロワーくらいですね。親戚がなくなったときはまだ幼かったですし、知っている人が亡くなって一番ショックだったのがTwitterのフォロワーというのが"現代"なんでしょうね。


> > 歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
> > (歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)

> いやいや、歴史に「必然性」を求める学者なんて、本当にそんなに居ますか?
> 「歴史にifは無い」と言いますが、その反面で、
> 「歴史とは様々あった可能性の1つに過ぎない」事は、学べば学ぶほど解る事でしょうし、
> テレビに出ている、歴史学者ならぬ歴史家であったり、学者肩書きのコメンテイターでも無い限り、
> そんな事は、普通に言わないと思いますけどねえ・・・・
> まあ、中には御用学者とかも居ますし、その場その場で都合の良い発言をする人も居るでしょうけど、
> そういう人は、特定の業界内では需要があっても、学術界では相手にされていないかと?
>
> 司馬遼太郎などの歴史小説家は、あくまでもエンタメの世界なので、
> 面白おかしく「必然性」を語る事もあるでしょうが(そちらの方が作品的に楽しいので)、
> あれも別に、歴史学としてキチンと考察している訳では無いですからね。
> 「司馬史観」とか言って、有り難がってしまうのは、読者側のリテラシーの話だと思いますし。


例えばソ連の成立や戦後の植民地の独立にしても、そういった出来事が起きれば、なぜそれが起きたのかを考えるのが歴史学だと私は認識しています。
例えば、ソ連成立にロシアの外婚制共同体家族の影響を見たり、植民地独立に宗主国による近代化や識字率の影響を見るのが歴史学だと思うのですが、
これって出来事→要因(普遍性のある理論)を考えるの順番でできている以上、どうしてもそこから出てきた理論は現実の出来事に引っ張られると思うんですよね。
もしかしたら社会主義国家の成立は人類史を100回やって1回しか起こらないことかもしれませんし、ですが私たちの生きている世界はその1回が起きた世界なので、どうしても100回やったら少なくとも30回くらいは起こるだろうと予測してしまう、と思っているのですが、どうなのでしょうか?


完全に独り言ですが、ソードアート・オンラインは現在27巻出ていますが、9巻〜8巻のアリシゼーション編で主人公のキリトに男の親友が登場するんですよね。
やはりここがSAOの転換点で、それまではなんだかんだで、なろう小説のような、ぼっち主人公が実は最強でみんなが憧れの美少女ヒロインに好かれる、というラノベだったのですが、この男の親友が登場して以降、SAOが普通のラノベから、もっと別のリア充崇拝に近いような、まぶしい系のコンテンツに変わっていったんですよね。
主人公キリトは、第1巻ではボッチを気取っていてたのに、今では50人以上のゲーム仲間と言うか軍団のリーダーみたいなのやっていますし。


> > > そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> > > 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> > > 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> > 根拠はないですけど、それはありそう。
> > 「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

> 逆に言うと、「全ての関係性で垣根が低い」からこそ、
> 対立とか衝突を乗り越えた上での、深くて強固な人間関係みたいなモノは、
> 却って今の時代の方が、築き難くなってるのかも知れませんね。
> 何度も言っていますが、「繋がり」と「しがらみ」は表裏一体の関係なので、
> 面倒さというデメリットを排せた反面で、絆の強さというメリットも失われてしまったと。
> だからこそ、言葉による再確認とか、周囲の人間も巻き込んでの関係作りが、昔以上に重要なのかも?


私は友達、というか大学で定期的に話す同級生はいないのですが、Twitterでは普通にフォロワーと話してるんですよね。
ただTwitterは、話題ごとにアニメ用と歴史用でアカウント別にしていますし、フォロワーが見たくないようなことはツイートしないようしているんですよね。
人によっては鬱ツイートとか日常生活の嫌なことをツイートするひともいますが、あまりそれは求められていないので、そういうのはしない方がいいと思っています。

ですが、最近読んだラノベだと
「世界で一番けんかする人が恋人」カノジョの妹とキスをした
「友達はそんな役回りを引き受けるためにいる」マリア様がみてる 赤薔薇さま

こういうのも分かりはするんですよ。
相手が困っている時に助けたり、支えたりして、それに対価を求めないのが本当の友達や恋人だろ、という価値観も。

しかし、これって私のTwitterの使い方とは真逆ですし、岡田斗司夫のいうホワイト社会といい人戦略の「暗いことを言わない(例えば、Twitterで鬱ツイートをしない)」という、やはりこれも本当の友達や恋人とは真逆のものなんですのね。
もちろん昔だって友達の前では気を遣って明るく振る舞うことは当たり前だったでしょうし、本当の友達や恋人みたいな姿が小説に描かれるのも、そういったことが日常ではないからなのでしょう。とはいえやはりひと昔前と比較して、人間関係の自由化=人間関係のコンテンツ化=人前ではさらにホワイトに振る舞わなくてはならない、というのはより進んでいるのでしょうね。

それは、一方的に悪いことと言いたいわけではなく、
 困ってる友達を助けるべき ←→ トラブルメーカーとは関わりたくない、トラブルを起こすやつはダメな奴
常に社会の価値観はこの横軸のどこかに点を打っているはずであり、昔であればこの点がより左側に打たれていた、というだけであって、ある以上に不快な奴は昔だって、無視であったり、あるいは除け者、笑い物の対象だったと思うのですが、この基準がどんどん高くなってきているのでしょうね。
ある意味ではダメなやつ(嫌な奴)を互いに受け入れる同士から、自分の中の嫌な奴は排除していくという、共助から自助に代わっているとも言えます。

岡田斗司夫はホワイト社会の特徴として「ミュート」というのを挙げていますが、これもかつては笑い物であったり、いじめの対象であったりした不快沸点を超えた人たちが、ホワイト化でその対応がミュートになったという要因もあるのでしょうね。

いや、別に悪いことばかりではなく、その分えげつないイジメや学校で笑い物にされたり、というのは減っているはずですから、私としては昔の世界より今の世界の方が生きやすいと思うんですけど、ただそれは人間関係の希薄化とバーター取引であったと。
ミュートされるかもしれない、という恐怖が人を露骨に笑い物にしたりしない、という個人の民度を上げているので。皆が相手に求める基準が上がった分、皆が少しずつ良い人になったと。
経済だって、金が欲しいという私利私欲があるから一生懸命働くわけですし。

岡田斗司夫は「現代の20代以下は地獄を生きてきた世代」と言っていますが、私から見れば当たり前のように学校に暴力があった昔の時代の方が地獄ですね。


これは年上の方に対して失礼かもしれませんけど「ネットde真実」というのは、そういう陰謀論にハマっていく人たちを馬鹿にしすぎた表現では?と正直思います。
もちろん、確かにそういう人たちが愚かなことを言っているのは事実ですが、
少なくとも私の場合は、そういったネットの陰謀論に騙されずに済んでいるのは、周囲に知的に恵まれた環境(といっても父親が少し本を読む程度の一般家庭のもの範疇ですが)があったからですし、
対する陰謀論者の人たちは、そういった環境に恵まれなかっただけだと思うんですよね。
管理人さんがどういった環境で育ち、どうして陰謀論に騙されない程度のかしこさを得たのかは分かりませんが、
それは自分の努力だけで得られたものではおそらくないでしょうし、そうやって偶然得た能力で能力の低い人を見下すのはみっともないと思います。
そうやって知識人(っぽい人たち)が過剰に陰謀論を見下すからこそ、それを支持する人たちのプライドを余計に傷つけ、より戦闘的にしているというのもありそうですし。

まあでも知識のない人をこうやって擁護する時代こそ、おかしな時代なんですかね。
1960年代とかだともっと知識人崇拝というか、そういうのってありそうなイメージですし、以前のテレビ報道の話もそうですが、そうした知識を軽視する時代というのがおかしくて、知識が無いのは馬鹿にされるのが当然なんでしょうか。
あとはまあ、私はチアガールなんかを見ても、生まれ持った容姿で判断される女性の生きづらさを勝手に想像して、勝手に辛くなる人間なので、『皆の前でほめないで』同様に過剰に傷つきやすい世代のさらにナイーブな少数派の意見だというのは承知していますが。

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