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[24095] Re6:私から見る80,90年代【追記あり】返信 削除
2022/11/30 (水) 03:24:00 旧トルコ担当

> > > う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
> > > その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
> > > そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
> > > 思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
> > > それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
> > > そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?

> > 管理人さんの言うことも分かりますし、
> > 私も「仮説ですが」とか「私の知っている限られた情報から判断すれば」とか、ちょくちょく入れているんですよね。
> > とはいえ、私が(世代論など含め)歴史や社会科学が好きなのは、管理人さんの言うところの「腑に落ちる感覚がして、スカッとする」があるからなので、
> > この感覚のために時間を使って本読んだり色々考えたりしてるので、それを辞めるとなると歴史の勉強なんてやってられるか、みたいな気持ちはあります。
> > 飲まなきゃやってらんねえよ、みたいな感じで。
> > 私も自分の信じている仮説って本当に正しいのだろうかと不安になることはありますし、
> > なんなら最近は、勉強しても勉強しても、むしろ勉強すればするほど、「自分は何もわかっていないんじゃないのか」という不安が大きくなり、
> > 正直歴史を勉強するのがしんどいんですよね。(そんなに本読んでないだろというツッコミはナシでお願いしますw)

> ところで旧トルコ担当さんは、「ダニング=クルーガー効果の曲線」というのを ご存知でしょうか?
> 「知識」と「自信」の成長というのは、右肩上がりの一直線ではなく、こんな感じの曲線↓を描くというモノですね。
>
>
> これは何も学問だけに限らず、あらゆる分野においても言える事であり、
> 実際、オタク界の中でも、「ガンダム チョットワカル」というネタ↓があったりします(笑)。
> https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2107/01/news136.html
>
>
> > 1調べて「なるほど」と満足するのがダメで、
> > 10調べて「分かった」と感じるのがダメで、
> > 100調べても詳しい人を名乗ってもだめなら、
> > どれだけ調べれば私は気持ち良くなっていいんですかね?

> 何事でも そうですが、真面目に学ぼうとした場合、
> 新しい事を1つ知ると、解らない事が2つも3つも新たに出てくるモノですし、
> 学びを繰り返していけば、ネズミ算的に、解らない事が膨大に増えていくモノですから、
> そういう意味では、学びというのは、非常に理不尽な世界です(笑)。
>
> でも、そうやって「解らない事」の数が増えていくというのが、実はとても重要なんですよ!!
> 洋の東西を問わず、孔子もソクラテスも言及している、「無知の知」ってヤツですね。
> 「下手糞の上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目」と、
> 安西先生だって、言ってるじゃないですか(笑)。
> (スラムダンクを基礎教養として見てる時点で、オタク相手以外なら老害認定ですけど)
> 「凄くできる人ほど謙虚だ」とか言ったりしますが、当人的には別に謙虚なのではなく、
> 自分の中での解る事と解らない事の線引きが、普通の人よりも明確なだけなんだと思います。
>
> それこそ、上述のダニング=クルーガー効果の曲線に従えば、
> 「馬鹿の山(初心者)」→「絶望の谷(中級者)」→「啓蒙の坂(上級者)」→「継続の大地(達人)」
> という成長曲線を描く訳で、
> 「何もわかっていないんじゃない不安」「勉強するのがしんどい」という、現状の旧トルコ担当さんの辛さも、
> 初心者レベルから中級者レベルへと脱皮する過程の、産みの苦しみだとも言えますし、
> そういう意味では、偉そうに言うと、確実に成長中であるとも見なせるでしょう!!
> 逆に、手っ取り早く「気持ち良さ」を得たいのであれば、「永遠の初心者」である事ですね(笑)。
> ぶっちゃけ、労力と快楽の割合で考えると、ニワカの立ち位置でライトに楽しむのが、最もコスパが良いので。
>
> でも、快楽のコスパではなく、快楽の総量を求める場合、
> 山登りと同じで、より高くを目指すほど、快楽に倍する労力を要するようになりますし、
> 高くなれば なるほど、その1歩1歩の足取りも重くなっていきますから、それこそ茨の道ですよ。
> 身も蓋もない事を言ってしまえば、調べれば調べるほど苦痛になるのが、この道の行き先であり、
> そこまで行かなければ見られない、美しい高原植物に出会える事(快楽)はあっても、
> 総体的に、達成感や充実感みたいなモノは得られても、そんな気持ちの良い未来は待っていないかと?
> 「なぜ山に登るのか? そこに山があるからだ」というのと同じように、
> 「なぜ調べるのか? そこに知らない事があるから…」という感じなので、
> 良くも悪くも、こうした衝動(義務感?)に突き動かされるタイプでなければ、
> この道程の苦しさというのは、なかなか乗り越えられないかも知れませんね・・・・
>
> 一方で、「気持ち良さ」を最重視するのであれば、それこそ、
> 1つ2つ調べて「なるほど、解った!」という所で、足を止めれば良いと。
> いわゆる「ネットde真実」みたいなのが、まさに このパターンでしょうか?
> 正直な所、嫌韓反中やQアノンなどの陰謀史観にハマるのは、
> 少ない労力で大きな快楽を得られますから、気持ち良さ的には、非常にコスパが良いと思いますよ。
> で、こうなると、相手に対する「もっと勉強しろよ!」は、「自分に同調しろ!」と同義になりますし、
> 調べるという行為も、客観的な新情報を探すのではなく、持論の補強材料を探すモノとなります。
> 真相に近付きたいから調べるのではなく、気持ち良くなりたいから調べるので・・・・
> (逆に言えば、知る事を快楽としつつ、安易な快楽を嫌悪すると、このルートを避けられるかな?)


あとまあ、私の場合は学問としての歴史が好きなのではなく、ある種のSFとしての歴史が好きなんだというのに気づいてしまったというのもあるんですよね。
例えば優生学とか(支持しているとかではなく)あのエセ科学で当時の時代の雰囲気が感じられるのがめちゃくちゃ好きですし、
高校生くらいのころは歴史学"崇拝"があって、もっと歴史のまじめな本読んで自分も勉強しなくちゃいけないと思っていましたが、
今は好きなように適当に歴史をかじって、結果としてある程度間違った歴史認識だったとしても、自分が面白ければそれでいいや、と思うようになりましたね。
私はオタクであって知識人ではないので。
私の周囲には管理人さんのような知識人系の人が多いのですが、それに流されて本当に自分が好きなものを見失うのって、
オタクを自称する私が一番上から目線に見下してる、流行に流されて自分が好きなものを追わない一般人と同じですからね。

ちなみに、私の好きなコンテンツに「ドナウ連邦建国史」というのがあるのですが、管理人さんはご存知でしょうか?
第一次世界大戦でドイツが勝った世界線の架空史なのですが、筆者の豊富な歴史知識による作りこみが凄くておススメです。
以前管理人さんが妄想されていた、満州国が存続し続けていた世界線でもありますし。

> > まあ、学問自体に期待していないので、私が多少科学的じゃなくても、
> > どうせ学者だって似たり寄ったりだろ、みたいなことも"極論"思うようになりました。
> > 反知性主義といわれるかもしれませんが、そのくらいの距離感が社会科学に対する丁度よい距離感なのかな、と。

> 学問とか、科学とかは、解らない事は普通に「解らない」と言いますし、
> 真摯な態度で語るなら、それこそ「解らない事だらけ」なので(笑)、
> 具体的な処方箋を呈示してくれるみたいな期待は、当然ながら応えられないかな?(苦笑)
> 例えば、地球温暖化の話にしたって、科学的・学術的に語るのであれば、
> 地球が本当に温暖化しているかも解らなければ、人間の出す二酸化炭素の所為かも解りません。


何となく聞いたことはありましたが、やはり地球温暖化は怪しいんですね。
就活でカーボンニュートラルが〜とか散々聞いているので、あれが全部非科学的と言われれば、薄々感じていたこととはいえ、頭がバグりそうw
私は文系なので専門知識はさっぱりですが、地球って巨大ですし、その中で起きている化学反応や科学現象も多種多様でしょうから、
専門家でも実際に地球で何が起きているかというのは、分からないんだろうとは勝手に思っていました。
データだって無限の予算で世界各地に観測拠点を置くわけにはいかないでしょうし、過去のデータ何かは絶対に手に入りませんからね。
割と人体とかに近いのかな?人体の中でも様々な体の機能や反応が起きているはずで、おそらくその大部分は現代医学でも未解明なんでしょうね。

> > > > 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> > > > 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> > > > 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> > > > これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

> > > 実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
> > > 意外と曲者というか、深いモノがある気がします。
> > > SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
> > > 決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
> > > つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
> > > 根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。
> > > そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
> > > きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
> > > 期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
> > > その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
> > > メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?

> > これもそうですね。
> > 何を今さら感が私にとっては強いのですが、当事者じゃないというのはそれだけ分からないということなんですよね。

> 前出のように、恋愛と周囲の関係性とか、スカッとジャパンの視聴者層など、
> 自分の中で当然の認識だったモノも、実際に声に出してみる事で、それが改まる事だってありますし、
> また、当事者だからと言って、と言うか当事者だからこそ、
> 主観に寄り過ぎて、客観性に欠くという事も珍しくは無いのですから、
> いろいろと言葉にしてみる事は、それなりに良い事だと思いますよ(笑)。
>
> > 追記
> > 管理人さんの文章に引っ張られて、よく考えずに書いてしまったので訂正します。
> > 若者は褒められたくないというのが私の私見です。
> > もちろんSNSなどの承認欲求というのもありますが、身近な人か好かれたい・嫌われたくないというのが若者の関心事項であり、
> > 大学の教授に褒められるというのは、苦痛でしかないと思います。
> > また、仮に相手が身近な人であったとしても、褒められたいというよりも、
> > その欲求というのはもっと消極的に存在を認めてほしい、程度であって
> > 褒められたい、というのはやはりパワフルさというか、意識の高さみたいなものを感じます。

> う〜ん、これに関しては、
> 「認める」という言葉の意味の誤用というか、解釈の拡大や意味の変容が起きている気がするんですよね。
> 個人的には、「認める」の方が重く、「褒める」の方がライトなので、「認める>褒める」という感じですが、
> ここ数年の用法だと、「褒める>認める」みたいな用い方も目立ち始めてきた印象があります。
>
> 例えば、認めるには「認めざるを得ない」という用法がありますが、
> これって、個人的には嫌いでも、その成果なり才能は、評価すべきモノがあるという表現ですが、
> これが褒める野場合、個人的に嫌いであれば、「褒めざるを得ない」という表現にはなりません。
> そういう意味では、主観的に感情も交じるライトな評価が「褒める」であり、
> 客観的に結果や能力を、純粋に評価するのが「認める」だと思うんですよ。
> ただ、認めるの方には、ネガティブな評価をオブラートに包む時の表現としても用いられ、
> 例えば、「努力は認めるよ、努力は」と言う場合は、真意に「結果の否定」が含まれますし、
> 「ファイルの存在を認める」とかも、不祥事が発覚した際、既にファイルは処分済みだと発表して、
> それが嘘だとバレた時に、「誤情報の修正」の意味として用いられます。
>
> まあ、「消極的に存在を認めてほしい」というのも解りますが、それはあまりにネガティブというか、
> 逆に言えば、だからこそ、ポジティブ方向への意味や適用の拡大が、近年起きている気がするんです。
> 具体的に言うなら、発端は学校現場や教育関連なんですかねえ?
> 昭和は当たり前だった「叱る」教育から、平成になって「褒める」教育へのシフトが図らたものの、
> その結果、勉強や部活などの「成果を褒める」方向へと行き着いた為、
> 令和では、成果ではなく過程や努力を「認める」教育が頻繁に提言されていると。
> (いや別に、過程や努力を褒めても良いですし、アメとムチで叱るを全否定する必要も無いのですが・苦笑)
>
> 要するに、「褒める」に替わる別の用語として、「認める」を引っ張り出してきた感じに近いのかな?
> でも、SNSにおける承認欲求の象徴とされる「いいね(Good)」ボタンとかも、
> あれって、投稿内容や作品の「素晴らしさ」を認めるという、重い意味では無いでしょうから、
> そういう意味では、もっと気軽な感じで、それこそ「いいね」と相槌的に褒めている気がするんですよね。
> あなたが投稿した「事実」は認めるよ という、ネガティブな意図でも無いでしょうし。
> ・・・って、だからこそ、褒めるよりも更にライトな(責任を負わない)表現として、
> 「投稿を確認したよ」という事実確認という意味合いで、認めるという単語を用いているのかな。
> 現実の用法としても、そちらの方がシックリ来るきがしますので。
>
> と、単語の意味的なモノを、長々と書いてしまいましたが、普通は興味ないですよね?(笑)
> 世間一般の感覚では、もっと漠然と言葉を用いているでしょうし。
> まあ、それはさておき、文章の内容の方への返信を始めますと、
> 若者は「褒められたくない」というのは、本当にそうなんですかねえ?
> より具体的に言うと、前回も指摘しましたけど、
> 褒めるに付随されると連想する「期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など」を、
> 避けたが為の「褒められたくない」であり、
> 「褒められる」という行為自体まで、本当に嫌だと言えるのでしょうか?
>
> もっと言うと、どの世代よりも「周囲の評価を気にする」世代であればこそ、
> ネガティブな意味での「認められる」よりも、
> 更に上位に位置する「褒められる」を心の底から嫌っていますか?
> これはコスパ感覚と同じで、褒められる事で得られるメリットとデメリットを秤に掛けた場合、
> デメリットの方が大きいと判断すれば、確かにノーでしょうけど、
> メリットの方が大きいと判断したなら、その時はイエスとなる気がしますけどねえ。
> で、メリットとデメリットのバランスが微妙な所にあるからこそ、
> 「皆の前で」という要素が加わると、デメリット面が膨らみ(背負わされるモノが増えて)、
> 「褒められたくない」方へと傾くというのが、実際の所であるかと考えています。


褒められるというのは「行為とか成果が、他よりもより優れている」ということですよね。
ですが、今の若者の自信のなさは、大学の教授に褒められた程度で払拭される程度の中途半端なものではありませんから、
褒められたとしても、自分で自分の成果を他よりもより優れていると認められない以上、褒められるという行為自体が無意味なのではないでしょうか。

これは私の場合を基にした仮説なので(今までも大半そうですが)、説得力がないかもですが、
「周囲の評価を気にする」世代というより、自己否定が非常に強い世代という方が正しいと思うんですよね。
周囲の評価が気になるというのは、自分では自分を絶対に認められないから、
せめてもの渇きをいやすために、周囲にすがっているというか。

俺ガイルにしても、管理人さんの目にはどのように主人公が周囲の目を気にしているように見えるのかは分かりませんが、
周囲の視線が気になるというより、自分はこれでいいのかという、恐怖心があると思うんですよね。
だからこそ主人公は自分好きですし、逆に言えばそのくらい自分好きじゃないと、心のバランスが取れず、メンヘラみたくなってしまうんですよ。

私自身ふと自分の人生を振り返ると、体が太っていたり、ブサイクじゃなくて良かったなと、心の底から思うんですよね。
もし太っていたり、ブサイクだったら、心のバランスを崩して大変なことになっていただろうなあと。

バブリーの時代に、団塊ジュニア世代の男性たちが、赤プリ予約は当たり前な女性たちの要求に絶望していたという話が、
私には、なんて(当時の若者は)パワフルで、まっすぐで、かっこいいんだ、と思ってしまいますし、そっちには一生行けないな、と思ってしまうんですよね。
私はラノベを読み始めた中学生のころから一生独身で、生涯彼女なんかできないと覚悟を決めていましたし、
オタクであるにも関わらず、それを必死に隠そうとしたりして、どうにかして女の子にモテようと(というか、普通に女の子と話したりできる程度の地位を確保しようと)思っていたオタクのクラスメイトを、
覚悟と修業が足らんと思っていました(というか今でも思っています)。
まあ実際にはオタクでも結婚できる人はできますし、出来ない人でもやろうと本気で思えばやります(笑)。むしろ普通の恋愛結婚で結婚をしてる人なんて少数派でしょう(少数派ですよね?)。
それは高校生くらいになれば分かってきたのですが、でもやっぱりオタクの中でもまた色々なタイプがいますし、
オタクと言いつつ、なんだかんだで体育会系の部活に入っていたり、普通に友達がいたり、そういうオタク以外の世界もある人たちが、やっぱり結婚していくんですよね。
Twitter見てても、私が「この人は結婚するだろうな」と思った人が本当に結婚した率or実は既婚者だった率は今のところ100%的中していますし、この診断で行けば私は結婚できないタイプのオタクです。
いや、いいんですよ。結婚できなくても、生涯独身で最後は孤独老人として死ぬとしても。
それは私はオタクになったと時に、覚悟したことですし、私は人生ささげると(大げさではなく)決めたので。
ですけど、やはりふと本当にこのままでいいのかと、お前は人生から逃げているのではないかと、不安になるんですよね。
友達も作らず、女の子とも話さず、人生の思い出が全部ラノベとアニメしかない人生は、人間としてこの世の中にいていい存在じゃないんじゃないかと。
そういう不安感と自己否定があるからこそ、高校生のころからクラスメイトが眩しく見えるようになりましたし、
私が「響け!ユーフォニアム」とか、「Honey Works」が大好きなのも、あれはリア充コンテンツで、ああいうリア充(というか、普通に友達のいる人)を見て、その尊さに涙するコンテンツなんですよね。
普通の女の子や普通の男の子が普通に生きて生活しているだけで尊いですし、ハニワでイケメンリア充と可愛い女の子たちが恋愛しているのを見る(聴く)と涙が出てくるんですよね。(昔のオタクはイケメンへの呪詛を唱えていたわけですから)
最近だと、ソードアート・オンラインもかなりリア充の眩しい系のコンテンツになりつつありますね。

『どうか皆の前で』で若者は異常に貢献欲求が高く、会社に入っても、上司からごくごく単純な業務を任されただけで、
異様に張り切るというような話がありますが、
これも自己では補完しえない自分の存在意義を、今この上司から任された仕事をやっている瞬間だけは、
他人にとって自分は価値ある存在だと「自分で」思えるからなのではないでしょうか?

(ちなみに、だからこそ、俺ガイルは衝撃的だったんですよね。
普通のラノベではオタク主人公が女の子にモテまくったとしても、それは異世界の話であったり、ゲームの世界の話であったりして、
ちゃんとラノベを読んだ後にクラスで女の子から全く話さない状況を受け入れられるように防御線が入っているんですよ。
ですけど俺ガイルって、徹底的にあの時代のリアルなオタク高校生を主人公にしておきながら、
しかも第1巻では主人公が持てる気配なんか全く見せてなかったくせに、最後にはちゃんとハーレム作ってるんですから。
せっかくオタク山に入山して、俗世から隠居し、女の子がいなくても、友達がいなくても、ラノベがあればいいもん、という仙人生活をしていたのに、
俺ガイルはその修行僧たちに、「オタクと言いつつ、相手の女の子だって同じ高校生なんだから、可愛いこと仲良くなったり、付き合ったりするのが本当は絶対不可能ではないだろ、それはお前たちも分かってるだろ」
と言って、俗世の煩悩を思い出させようとしてくるんですから。
俗世は厳しくて、辛くて、オタクがそこに戻っても痛い目見るのがオチなのに、でもそのわずかな確率の成功例を俺ガイルは見せつけてくるんですもの。
本当にラノベとして超えてはいけない一線を越えた作品です)

> まあ、少子高齢化の影響により、若者の絶対数も減っていれば、大人と子供の割合も変化しており、
> 教育方針の変化とも相俟って、今の世代は昔以上に、良くも悪くも1人1人が見られている時代ですので、
> どの世代の子供より、実は褒められたり、存在を確認されている世代でもあるのですが、
> それが当たり前で育っていると、そこを自覚できないと言うか、スタート地点の違いとかもありますね。
> 内在的で抑え気味な「もっと、もっと」という願望と、それが困難な社会の実状との間に、ギャップがあったり、
> 主観的に「自分たちはこうだ」というのと、客観的に「あなたたちはこうだ」というのでも、ズレもありますし。
> って、あれこれと勝手に分析・解釈されるって、あまり心地良いモノでは無いかも知れませんけど(苦笑)。


いや、一周回って面白いですよw
なんだかんだで、私もこの世代の一員で、私の性格や個性は、しょせんこの世代の中のバリエーションに過ぎないんだな、という発見があるので。

最近、大学のキャリア支援センター(就職課)の方が「大学生がなかなかキャリア支援センターを利用してくれないので、なぜなのか調査したところ、
『キャリア支援センターは静かなので怖い』と思われているということが判明したのですが、キャリア支援センターは確かに静かですが、怖いところではありませんよ」
という話をしたという、冗談みたいな体験をして、今の大学生を上から目線に笑っていました。
しかし、後日映画を見にショッピングモールに行ったところ、ショッピングモールがあまりに家族連れだらけで、同じ大学生くらいの利用者もなんか陽キャな感じで、
割と本気で帰りたくなったんですよね(帰ったら映画見れないので帰りませんでしたが)。
「キャリア支援センターが怖い大学生をバカにしてすみませんでした、やっぱり私もショッピングモール怖いです」って感じですw
ちなみに私のTwitterのフォロワーの既婚者の方もやはりショッピングモールに居心地の悪さを感じるようで、陰キャ魂は結婚しても変わらないんだな、と思いました。
商学部なので最近はこういう考え方をするようになったのですが、ショッピングモールだって大予算かけて建設する分、入念なマーケティングの元建設してるはずですし、まさか最近の陰キャが居心地の悪さを感じているとは思っていないんでしょうね。
と書きつつ、ショッピングモールの陽キャ感に帰りたくなる現象というのは、もしかして最近の若者の感性ではなく、割と昔から存在しているもんなのでしょうか?もしかして私ってショッピングモールの客層じゃない?(もちろんメインターゲットは家族連れですが、陰キャはサブターゲットにもなってないんですかね)

イタい感じの自分語りっぽくなってしまいましたが、これしか参考になる話はできないので、あきらめてくださいw
おそらく私の体験を元にした、どこまで信用できるんだかわからない仮説を披露するよりも、元データを直接見てもらう方がよっぽどマシですw


[24097] 返信は、また後日返信 削除
2022/12/7 (水) 23:41:08 徳翁導誉

> > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > (今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
> > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > 事前に御了承下さい。

日本代表の戦いは終わりましたが、
W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。
(決勝が12/18(日)なので、再来週には確実に出来るかと)


[24099] 追記返信 削除
2022/12/19 (月) 03:50:38 旧トルコ担当

> > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > (今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
> > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > 事前に御了承下さい。


日本代表の戦いは終わりましたが、
W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。
(決勝が12/18(日)なので、再来週には確実に出来るかと)

いえいえ、気になさらず。
よくこんな好き勝手書いている文章に返信していただいてありがたいです。
文章にすることで自分の中でふわっと感じていたことが整理される、だから書いているという独り言みたいな側面もあるので。


> > 交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、
> > いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

> 年齢差による「感覚の違い」という観点から、引き続いて述べると、
> 「死の身近さ」というのも、大きな違いがあるかも知れません。
>
> 核家族化が進み、兄弟姉妹も少なくなり、親戚関係や近所関係も疎遠化している昨今、
> 特に学生だと、周囲に同世代の子供たちしか居ない訳で、
> 葬式に出たり、家族や友人知人が亡くなるという経験は、あまりしない為、
> 「死」というモノが、非常に縁遠いというか、実感が乏しく、
> だからこそ反面で、それに対する恐怖感や忌避感も、非常に強いと思うんですよ。
>
> でも、社会に出て様々な年代と触れ合い、そして自分や周囲も年齢を重ねていけば、
> どうしたって死は免れませんし、ドンドンと身近な存在へと変わっていき、
> 慣れが生じると共に、恐怖感や忌避感も次第に薄れていくのが、実際の所です。
> いや本音を言えば、怖くない訳でも、嫌じゃない訳でもありませんが、
> そこに個人差はあれど、「仕方がない事」として、徐々に受け入れていく感じになると。
> オッサン世代になれば、同級生だって、もう何人も死んでますし。


そうですね、私ももう大学生でありながら未だ葬式には1度しか出たことがありませんし、親戚家族関係の希薄化にともなって世代間交流がなくなっているんでしょうね。
私が知っている人が亡くなったのって、親戚と学校の先生とあとはTwitterのフォロワーくらいですね。親戚がなくなったときはまだ幼かったですし、知っている人が亡くなって一番ショックだったのがTwitterのフォロワーというのが"現代"なんでしょうね。


> > 歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
> > (歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)

> いやいや、歴史に「必然性」を求める学者なんて、本当にそんなに居ますか?
> 「歴史にifは無い」と言いますが、その反面で、
> 「歴史とは様々あった可能性の1つに過ぎない」事は、学べば学ぶほど解る事でしょうし、
> テレビに出ている、歴史学者ならぬ歴史家であったり、学者肩書きのコメンテイターでも無い限り、
> そんな事は、普通に言わないと思いますけどねえ・・・・
> まあ、中には御用学者とかも居ますし、その場その場で都合の良い発言をする人も居るでしょうけど、
> そういう人は、特定の業界内では需要があっても、学術界では相手にされていないかと?
>
> 司馬遼太郎などの歴史小説家は、あくまでもエンタメの世界なので、
> 面白おかしく「必然性」を語る事もあるでしょうが(そちらの方が作品的に楽しいので)、
> あれも別に、歴史学としてキチンと考察している訳では無いですからね。
> 「司馬史観」とか言って、有り難がってしまうのは、読者側のリテラシーの話だと思いますし。


例えばソ連の成立や戦後の植民地の独立にしても、そういった出来事が起きれば、なぜそれが起きたのかを考えるのが歴史学だと私は認識しています。
例えば、ソ連成立にロシアの外婚制共同体家族の影響を見たり、植民地独立に宗主国による近代化や識字率の影響を見るのが歴史学だと思うのですが、
これって出来事→要因(普遍性のある理論)を考えるの順番でできている以上、どうしてもそこから出てきた理論は現実の出来事に引っ張られると思うんですよね。
もしかしたら社会主義国家の成立は人類史を100回やって1回しか起こらないことかもしれませんし、ですが私たちの生きている世界はその1回が起きた世界なので、どうしても100回やったら少なくとも30回くらいは起こるだろうと予測してしまう、と思っているのですが、どうなのでしょうか?


完全に独り言ですが、ソードアート・オンラインは現在27巻出ていますが、9巻〜8巻のアリシゼーション編で主人公のキリトに男の親友が登場するんですよね。
やはりここがSAOの転換点で、それまではなんだかんだで、なろう小説のような、ぼっち主人公が実は最強でみんなが憧れの美少女ヒロインに好かれる、というラノベだったのですが、この男の親友が登場して以降、SAOが普通のラノベから、もっと別のリア充崇拝に近いような、まぶしい系のコンテンツに変わっていったんですよね。
主人公キリトは、第1巻ではボッチを気取っていてたのに、今では50人以上のゲーム仲間と言うか軍団のリーダーみたいなのやっていますし。


> > > そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> > > 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> > > 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> > 根拠はないですけど、それはありそう。
> > 「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

> 逆に言うと、「全ての関係性で垣根が低い」からこそ、
> 対立とか衝突を乗り越えた上での、深くて強固な人間関係みたいなモノは、
> 却って今の時代の方が、築き難くなってるのかも知れませんね。
> 何度も言っていますが、「繋がり」と「しがらみ」は表裏一体の関係なので、
> 面倒さというデメリットを排せた反面で、絆の強さというメリットも失われてしまったと。
> だからこそ、言葉による再確認とか、周囲の人間も巻き込んでの関係作りが、昔以上に重要なのかも?


私は友達、というか大学で定期的に話す同級生はいないのですが、Twitterでは普通にフォロワーと話してるんですよね。
ただTwitterは、話題ごとにアニメ用と歴史用でアカウント別にしていますし、フォロワーが見たくないようなことはツイートしないようしているんですよね。
人によっては鬱ツイートとか日常生活の嫌なことをツイートするひともいますが、あまりそれは求められていないので、そういうのはしない方がいいと思っています。

ですが、最近読んだラノベだと
「世界で一番けんかする人が恋人」カノジョの妹とキスをした
「友達はそんな役回りを引き受けるためにいる」マリア様がみてる 赤薔薇さま

こういうのも分かりはするんですよ。
相手が困っている時に助けたり、支えたりして、それに対価を求めないのが本当の友達や恋人だろ、という価値観も。

しかし、これって私のTwitterの使い方とは真逆ですし、岡田斗司夫のいうホワイト社会といい人戦略の「暗いことを言わない(例えば、Twitterで鬱ツイートをしない)」という、やはりこれも本当の友達や恋人とは真逆のものなんですのね。
もちろん昔だって友達の前では気を遣って明るく振る舞うことは当たり前だったでしょうし、本当の友達や恋人みたいな姿が小説に描かれるのも、そういったことが日常ではないからなのでしょう。とはいえやはりひと昔前と比較して、人間関係の自由化=人間関係のコンテンツ化=人前ではさらにホワイトに振る舞わなくてはならない、というのはより進んでいるのでしょうね。

それは、一方的に悪いことと言いたいわけではなく、
 困ってる友達を助けるべき ←→ トラブルメーカーとは関わりたくない、トラブルを起こすやつはダメな奴
常に社会の価値観はこの横軸のどこかに点を打っているはずであり、昔であればこの点がより左側に打たれていた、というだけであって、ある以上に不快な奴は昔だって、無視であったり、あるいは除け者、笑い物の対象だったと思うのですが、この基準がどんどん高くなってきているのでしょうね。
ある意味ではダメなやつ(嫌な奴)を互いに受け入れる同士から、自分の中の嫌な奴は排除していくという、共助から自助に代わっているとも言えます。

岡田斗司夫はホワイト社会の特徴として「ミュート」というのを挙げていますが、これもかつては笑い物であったり、いじめの対象であったりした不快沸点を超えた人たちが、ホワイト化でその対応がミュートになったという要因もあるのでしょうね。

いや、別に悪いことばかりではなく、その分えげつないイジメや学校で笑い物にされたり、というのは減っているはずですから、私としては昔の世界より今の世界の方が生きやすいと思うんですけど、ただそれは人間関係の希薄化とバーター取引であったと。
ミュートされるかもしれない、という恐怖が人を露骨に笑い物にしたりしない、という個人の民度を上げているので。皆が相手に求める基準が上がった分、皆が少しずつ良い人になったと。
経済だって、金が欲しいという私利私欲があるから一生懸命働くわけですし。

岡田斗司夫は「現代の20代以下は地獄を生きてきた世代」と言っていますが、私から見れば当たり前のように学校に暴力があった昔の時代の方が地獄ですね。


これは年上の方に対して失礼かもしれませんけど「ネットde真実」というのは、そういう陰謀論にハマっていく人たちを馬鹿にしすぎた表現では?と正直思います。
もちろん、確かにそういう人たちが愚かなことを言っているのは事実ですが、
少なくとも私の場合は、そういったネットの陰謀論に騙されずに済んでいるのは、周囲に知的に恵まれた環境(といっても父親が少し本を読む程度の一般家庭のもの範疇ですが)があったからですし、
対する陰謀論者の人たちは、そういった環境に恵まれなかっただけだと思うんですよね。
管理人さんがどういった環境で育ち、どうして陰謀論に騙されない程度のかしこさを得たのかは分かりませんが、
それは自分の努力だけで得られたものではおそらくないでしょうし、そうやって偶然得た能力で能力の低い人を見下すのはみっともないと思います。
そうやって知識人(っぽい人たち)が過剰に陰謀論を見下すからこそ、それを支持する人たちのプライドを余計に傷つけ、より戦闘的にしているというのもありそうですし。

まあでも知識のない人をこうやって擁護する時代こそ、おかしな時代なんですかね。
1960年代とかだともっと知識人崇拝というか、そういうのってありそうなイメージですし、以前のテレビ報道の話もそうですが、そうした知識を軽視する時代というのがおかしくて、知識が無いのは馬鹿にされるのが当然なんでしょうか。
あとはまあ、私はチアガールなんかを見ても、生まれ持った容姿で判断される女性の生きづらさを勝手に想像して、勝手に辛くなる人間なので、『皆の前でほめないで』同様に過剰に傷つきやすい世代のさらにナイーブな少数派の意見だというのは承知していますが。

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