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[24097] 返信は、また後日返信 削除
2022/12/7 (水) 23:41:08 徳翁導誉

> > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > (今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
> > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > 事前に御了承下さい。

日本代表の戦いは終わりましたが、
W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。
(決勝が12/18(日)なので、再来週には確実に出来るかと)


[24099] 追記返信 削除
2022/12/19 (月) 03:50:38 旧トルコ担当

> > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > (今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
> > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > 事前に御了承下さい。


日本代表の戦いは終わりましたが、
W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。
(決勝が12/18(日)なので、再来週には確実に出来るかと)

いえいえ、気になさらず。
よくこんな好き勝手書いている文章に返信していただいてありがたいです。
文章にすることで自分の中でふわっと感じていたことが整理される、だから書いているという独り言みたいな側面もあるので。


> > 交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、
> > いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

> 年齢差による「感覚の違い」という観点から、引き続いて述べると、
> 「死の身近さ」というのも、大きな違いがあるかも知れません。
>
> 核家族化が進み、兄弟姉妹も少なくなり、親戚関係や近所関係も疎遠化している昨今、
> 特に学生だと、周囲に同世代の子供たちしか居ない訳で、
> 葬式に出たり、家族や友人知人が亡くなるという経験は、あまりしない為、
> 「死」というモノが、非常に縁遠いというか、実感が乏しく、
> だからこそ反面で、それに対する恐怖感や忌避感も、非常に強いと思うんですよ。
>
> でも、社会に出て様々な年代と触れ合い、そして自分や周囲も年齢を重ねていけば、
> どうしたって死は免れませんし、ドンドンと身近な存在へと変わっていき、
> 慣れが生じると共に、恐怖感や忌避感も次第に薄れていくのが、実際の所です。
> いや本音を言えば、怖くない訳でも、嫌じゃない訳でもありませんが、
> そこに個人差はあれど、「仕方がない事」として、徐々に受け入れていく感じになると。
> オッサン世代になれば、同級生だって、もう何人も死んでますし。


そうですね、私ももう大学生でありながら未だ葬式には1度しか出たことがありませんし、親戚家族関係の希薄化にともなって世代間交流がなくなっているんでしょうね。
私が知っている人が亡くなったのって、親戚と学校の先生とあとはTwitterのフォロワーくらいですね。親戚がなくなったときはまだ幼かったですし、知っている人が亡くなって一番ショックだったのがTwitterのフォロワーというのが"現代"なんでしょうね。


> > 歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
> > (歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)

> いやいや、歴史に「必然性」を求める学者なんて、本当にそんなに居ますか?
> 「歴史にifは無い」と言いますが、その反面で、
> 「歴史とは様々あった可能性の1つに過ぎない」事は、学べば学ぶほど解る事でしょうし、
> テレビに出ている、歴史学者ならぬ歴史家であったり、学者肩書きのコメンテイターでも無い限り、
> そんな事は、普通に言わないと思いますけどねえ・・・・
> まあ、中には御用学者とかも居ますし、その場その場で都合の良い発言をする人も居るでしょうけど、
> そういう人は、特定の業界内では需要があっても、学術界では相手にされていないかと?
>
> 司馬遼太郎などの歴史小説家は、あくまでもエンタメの世界なので、
> 面白おかしく「必然性」を語る事もあるでしょうが(そちらの方が作品的に楽しいので)、
> あれも別に、歴史学としてキチンと考察している訳では無いですからね。
> 「司馬史観」とか言って、有り難がってしまうのは、読者側のリテラシーの話だと思いますし。


例えばソ連の成立や戦後の植民地の独立にしても、そういった出来事が起きれば、なぜそれが起きたのかを考えるのが歴史学だと私は認識しています。
例えば、ソ連成立にロシアの外婚制共同体家族の影響を見たり、植民地独立に宗主国による近代化や識字率の影響を見るのが歴史学だと思うのですが、
これって出来事→要因(普遍性のある理論)を考えるの順番でできている以上、どうしてもそこから出てきた理論は現実の出来事に引っ張られると思うんですよね。
もしかしたら社会主義国家の成立は人類史を100回やって1回しか起こらないことかもしれませんし、ですが私たちの生きている世界はその1回が起きた世界なので、どうしても100回やったら少なくとも30回くらいは起こるだろうと予測してしまう、と思っているのですが、どうなのでしょうか?


完全に独り言ですが、ソードアート・オンラインは現在27巻出ていますが、9巻〜8巻のアリシゼーション編で主人公のキリトに男の親友が登場するんですよね。
やはりここがSAOの転換点で、それまではなんだかんだで、なろう小説のような、ぼっち主人公が実は最強でみんなが憧れの美少女ヒロインに好かれる、というラノベだったのですが、この男の親友が登場して以降、SAOが普通のラノベから、もっと別のリア充崇拝に近いような、まぶしい系のコンテンツに変わっていったんですよね。
主人公キリトは、第1巻ではボッチを気取っていてたのに、今では50人以上のゲーム仲間と言うか軍団のリーダーみたいなのやっていますし。


> > > そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> > > 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> > > 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> > 根拠はないですけど、それはありそう。
> > 「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

> 逆に言うと、「全ての関係性で垣根が低い」からこそ、
> 対立とか衝突を乗り越えた上での、深くて強固な人間関係みたいなモノは、
> 却って今の時代の方が、築き難くなってるのかも知れませんね。
> 何度も言っていますが、「繋がり」と「しがらみ」は表裏一体の関係なので、
> 面倒さというデメリットを排せた反面で、絆の強さというメリットも失われてしまったと。
> だからこそ、言葉による再確認とか、周囲の人間も巻き込んでの関係作りが、昔以上に重要なのかも?


私は友達、というか大学で定期的に話す同級生はいないのですが、Twitterでは普通にフォロワーと話してるんですよね。
ただTwitterは、話題ごとにアニメ用と歴史用でアカウント別にしていますし、フォロワーが見たくないようなことはツイートしないようしているんですよね。
人によっては鬱ツイートとか日常生活の嫌なことをツイートするひともいますが、あまりそれは求められていないので、そういうのはしない方がいいと思っています。

ですが、最近読んだラノベだと
「世界で一番けんかする人が恋人」カノジョの妹とキスをした
「友達はそんな役回りを引き受けるためにいる」マリア様がみてる 赤薔薇さま

こういうのも分かりはするんですよ。
相手が困っている時に助けたり、支えたりして、それに対価を求めないのが本当の友達や恋人だろ、という価値観も。

しかし、これって私のTwitterの使い方とは真逆ですし、岡田斗司夫のいうホワイト社会といい人戦略の「暗いことを言わない(例えば、Twitterで鬱ツイートをしない)」という、やはりこれも本当の友達や恋人とは真逆のものなんですのね。
もちろん昔だって友達の前では気を遣って明るく振る舞うことは当たり前だったでしょうし、本当の友達や恋人みたいな姿が小説に描かれるのも、そういったことが日常ではないからなのでしょう。とはいえやはりひと昔前と比較して、人間関係の自由化=人間関係のコンテンツ化=人前ではさらにホワイトに振る舞わなくてはならない、というのはより進んでいるのでしょうね。

それは、一方的に悪いことと言いたいわけではなく、
 困ってる友達を助けるべき ←→ トラブルメーカーとは関わりたくない、トラブルを起こすやつはダメな奴
常に社会の価値観はこの横軸のどこかに点を打っているはずであり、昔であればこの点がより左側に打たれていた、というだけであって、ある以上に不快な奴は昔だって、無視であったり、あるいは除け者、笑い物の対象だったと思うのですが、この基準がどんどん高くなってきているのでしょうね。
ある意味ではダメなやつ(嫌な奴)を互いに受け入れる同士から、自分の中の嫌な奴は排除していくという、共助から自助に代わっているとも言えます。

岡田斗司夫はホワイト社会の特徴として「ミュート」というのを挙げていますが、これもかつては笑い物であったり、いじめの対象であったりした不快沸点を超えた人たちが、ホワイト化でその対応がミュートになったという要因もあるのでしょうね。

いや、別に悪いことばかりではなく、その分えげつないイジメや学校で笑い物にされたり、というのは減っているはずですから、私としては昔の世界より今の世界の方が生きやすいと思うんですけど、ただそれは人間関係の希薄化とバーター取引であったと。
ミュートされるかもしれない、という恐怖が人を露骨に笑い物にしたりしない、という個人の民度を上げているので。皆が相手に求める基準が上がった分、皆が少しずつ良い人になったと。
経済だって、金が欲しいという私利私欲があるから一生懸命働くわけですし。

岡田斗司夫は「現代の20代以下は地獄を生きてきた世代」と言っていますが、私から見れば当たり前のように学校に暴力があった昔の時代の方が地獄ですね。


これは年上の方に対して失礼かもしれませんけど「ネットde真実」というのは、そういう陰謀論にハマっていく人たちを馬鹿にしすぎた表現では?と正直思います。
もちろん、確かにそういう人たちが愚かなことを言っているのは事実ですが、
少なくとも私の場合は、そういったネットの陰謀論に騙されずに済んでいるのは、周囲に知的に恵まれた環境(といっても父親が少し本を読む程度の一般家庭のもの範疇ですが)があったからですし、
対する陰謀論者の人たちは、そういった環境に恵まれなかっただけだと思うんですよね。
管理人さんがどういった環境で育ち、どうして陰謀論に騙されない程度のかしこさを得たのかは分かりませんが、
それは自分の努力だけで得られたものではおそらくないでしょうし、そうやって偶然得た能力で能力の低い人を見下すのはみっともないと思います。
そうやって知識人(っぽい人たち)が過剰に陰謀論を見下すからこそ、それを支持する人たちのプライドを余計に傷つけ、より戦闘的にしているというのもありそうですし。

まあでも知識のない人をこうやって擁護する時代こそ、おかしな時代なんですかね。
1960年代とかだともっと知識人崇拝というか、そういうのってありそうなイメージですし、以前のテレビ報道の話もそうですが、そうした知識を軽視する時代というのがおかしくて、知識が無いのは馬鹿にされるのが当然なんでしょうか。
あとはまあ、私はチアガールなんかを見ても、生まれ持った容姿で判断される女性の生きづらさを勝手に想像して、勝手に辛くなる人間なので、『皆の前でほめないで』同様に過剰に傷つきやすい世代のさらにナイーブな少数派の意見だというのは承知していますが。

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