| > (名将ランキングについて
> > > 個人的視点からでですが、採点方式でのランキングと聞いたところで
> > > なぜかあまり興味が湧かない、というか存在意義に疑問符が。
> > ・・・と言いますか、単にランキングの一覧表を見せられても、
> > そこから話題を広げるのは、マニア同士でもないと厳しいのは一応理解しています(笑)。
> 自分も片足を突っ込んでいる状態ではありますが、
> 熱意が湧いてこないのですみませんが力にはなれそうにありません。
まあ、ランキングの対象が「名将」でしたから、ちょっと取っ付き難く感じるだけで、
これが例えば、アニメやアイドルを対象にしていれば、
それが好きな人同士なら、ランキングの順位だけで充分に話は盛り上がりますし、
逆に詳しくない人も、気軽に「知らねーよw」と言えるような気がします(笑)。
> > 逆に言うと、主観を客観的に表現して伝えるのって、結構な高等技術であったりします。
> > そして、「主観を主観的に表現」された評価は・・・相手には伝わりにくい弱さがあります。
> 言われてみると、そうだと思います。
> 自分の場合はどちらかというと「主観を主観的に表現」されたものをどんどん聞きたいというところですが。
そうしたモノが大量に溢れているのが、まさに「芸術の世界」じゃないですかねえ?
文芸・音楽・絵画・演劇・建築・彫刻・舞踊に次ぐ8番目の芸術として、映画を「第八芸術」と呼んだり、
それに付随する形で、マンガの事を第九芸術などという人も居たりするのですが、
まあともかく、文学であれ、アートであれ、音楽やダンスであれ、
「主観を主観的に表現」できる最も身近な分野こそ、芸術の分野であり、
だからこそ、そこで活躍する彼らの事を「表現者」と呼ぶのだろうと思います。
逆に言えば、世間的に理解されない表現者など、一般には「変人・狂人」としか映らないかと?(笑)
> 今気づいたのですが、焦点を伝えたい場合?には対比して書くという手段があるのですね。
> これから文章を書くときにはこの手法は参考になりそうです。
例えばこれは、写真を撮る時などは一般的な手法ですよね。
被写体の横に、携帯電話や硬貨などを並べておくと、その大きさが良く伝わります。
そう考えると私の文章って、今まで意識した事が無かったですけど、
意外と、アートのやり方を用いてる面があるのかも?
いろいろな方向から対象を捉えたり、光と影から実態を浮かび上がらせるのは、
考え様によっては、デッサンの手法 そのままですし、
議論の肉付けや削ぎ落とす作業は、塑像や彫像を作る感覚と重なりますから。
> > つまりは、5項目の採点による名将ランキングも、そんな感じだと思って下さい(笑)。
> 項目での採点も、客観的に伝えるための試行錯誤の途中経過というところでしょうか。
途中経過かはさておき、例えば学校の成績表などは、
客観的な相対評価から、主観的な絶対評価に変わった事で、却って不平等になった気がします。
もちろん理想論で言えば、各生徒の習熟度に応じて、絶対評価が行えれば良いのですが、
その評価を行う教師や学校の基準がバラバラでは、全体的には大きなバラつきが生じてしまい、
結果的には、クラスの上位1割が5、下位1割が1、中間4割が3と成績を付け、
それを各学校のレベルに応じて補正する旧来のやり方の方が、全体的なバランスは取れたはずです。
ですから、言うなれば、5項目の採点による名将ランキングというのも、
ある意味では、そうした相対評価による成績表を付けてる感覚に近いかも知れませんね。
> (AIについて
> > > ただ自分は人間の補助止まりであってほしいですね。
> > > でもこの先、AIと人間が対等な権利を有するべきとかいったことに
> > > なっていくのかなというのはよぎります。
> >しかし現実には、対等どころか、人間がAIに従属する形になりそうですけどね・・・・
> >要するに、判断はAIが下して、人間はその責任を取るだけの役回りになると。
> >例えば車の自動運転などは、そんな感じに落ち着いていくような気がします。
> >実際、飛行機の操縦なんて、もう既にそんな感じになっていますので。
> あー、そんな感じになっているらしいですね。
まあ、自動運転くらいなら、そんな感じかぁとか思っていられますけど、
最近では、企業の人材採用や人事異動にAIの判断が用いられたり、
株式市場や為替市場では、AIに大部分を委ねる状況になってますからねえ・・・・
そしてAIが高度化する程、その中身はブラック・ボックス化していくと。
> 現状では、AIに判断を任せるかどうかの判断は人間にありますし、実体を伴った個体ではなく、
> AIを改変する余地が人間にあるのでそれで持っていると思いますが、
> その壁が取り払われていったときにどうなるのかは興味深いですね。
と言いますか、囲碁や将棋のAI開発では、既にその壁が取り払われて久しいですね。
以前であれば、プログラマーの棋力が高いほど、強いAIソフトを作れる傾向がありましたが、
コンピューター自身に反復訓練させる「機械学習」の方法が一般化されてからは、
例え囲碁や将棋に詳しくなくても、強いAIソフトが作れるようになりましたし、
プロの力量さえ超えて強くなったソフトは、どうして強いのかがブラック・ボックス化しました。
要するに、コンピューターがどう学習して強くなったかの経緯が、まるで謎であると。
そして今では、過去の名人達が残した棋譜の数々まで、AIには無駄な情報扱いとなり、
ゲームのルールを教えた後は、ひたすら機械学習させたAIの方が、強いという時代に至っています。
一方、どれだけコンピューターが強くなった所で、人間の実力はあまり上がらず、
随分昔に抜かれたオセロやチェスなども、そこまで大きな棋力の変化は無いみたいです。
ただ、それでも、ネットやAIの発達により、強い相手と手軽に対局できるようになった事で、
全体的なレベルは驚くほど上がってるらしいですし、新戦術の寿命とかも凄く短くなってるそうです。
そういう意味では、トップの実力上限に大きな変化はなくても、
トップ周辺の実力密度というのは、非常に濃いモノになっていくのかも知れませんね。
> でもだからと言って、個人的にはそれに抵抗する気力もありませんが。
まあ正直な話、抵抗は無理だと思います(笑)。
あとはどれだけ、上手く活用していくかの話で。
> ちなみに公式とかについては都度導き出せればいいと思っているのでそもそも覚えてもいません。
可能であれば、それが一番良い方法なんですけどねえ。
でも、テストで高得点を取る方向に目的が行ってしまうと、
とにかく多くの公式を覚えて、それを使う訓練ばかりになってしまい、
「どうして、その公式が成り立つのか?」という所までは意識が回らず、
結果的に、偏差値型の秀才ほど、公式の正しさを盲信してしまう状況を生んでいると・・・・
今後のAI化社会では、「AIがそう言ってるから、正しいんでしょ」と信じて疑わない事で、
いろいろと多くの問題が発生してくるのかも知れませんね?
例えば、AIが評価する関数の値を、少し弄ってみるだけでも、
求められる解答が変わる事があるのは、AIの事を知ってる人は理解してますけど、
AIだからと盲信するタイプだと、出された解答が絶対だと思い込んでしまいそうですし。
> というか、名前を付ける意味がピンときません。
固有名詞が必要となってくるのは、他人にそれを伝えたい時ですね。
ですから、自己完結で済む無いようであれば、特に名前を覚える必要は無いと私も思います。
ただ、これが分野によっては、そうも言ってられないモノがあり、
例えば私の実体験ですと、周辺の道路とかは、ほぼ地図として頭の中に入っていて、
自分でどこかに行く際は、別にそれで何ら困る事など無いのですが、
誰かに道を教える時など、道の名前が頭に入ってないので、伝えるのに苦労した覚えがあります。
その道の特徴とか細かく伝えても、ナビの指示で運転してる人は、そんな所を見てないみたいですし、
それを体験すると、「国道○○号」なんて味気ない名称も、実にありがたく見えてきましたね(笑)。
> (記録することについて
> > > > 記録して残してくれる人や、伝え広めてくれる人が居なければ、
> > > > どれだけの功績を挙げても、やはり「伝説」にはならないのが実際の所です。
> > > なるほど、言われてみればそうですね。
> > > 司馬遷自身ももともと尊敬の対象となる人物ですが、そう考えると改めて司馬遷様様です。
> > そして日本史には、司馬遷が居なかったと・・・・
> 読んでいて感慨に浸ってしまいました。
一方で日本ほど、一般人が書き残した私的な記録が多い国は、なかなか無いように思えます。
庶民の識字率が高く、安価で良質な紙が手に入り、戦火や焚書による消失が少なかったのが理由かな?
まあ要するに、日本史に司馬遷は1人も居なかったが、アンネ・フランクは数多く居たと(笑)。
日本が世界に誇る庶民文化のレベルの高さも、古くはこの辺りから始まってる気がしますし、
ブログやインスタなど、一個人が残す記録量が膨大に膨れ上がっている現状は、
後世の歴史研究者から見た場合、とても有益なビッグ・データとなるのかも知れません。
> (教育について
> > 数学にしても、究極的には「論理的な思考法」を学ぶ目的の教科である所が、
> > こちらは明治どころか江戸時代の読み・書き・算盤を引きずっているのか、
> > とにかく計算問題重視になっちゃってますからねえ(算数の段階ならそれで良いとは思いますが)。
> 思考力をつけるための計算を解くという手段が目的になってしまったというところでしょうか。
> 力をつけることを主眼にすべきなのに、作業と化してますね…。
> 確かに数学は好きでも学校の数学教育は好きではありませんでした。
結局、手段が目的化してしまうと、結果的に有らぬ方向に進んでしまうんですよね。
学校教育で言えば、その成熟度を測る手段でしかないテストが、
進路決定などとリンクする事で、テストで高得点を取る事が目的化してしまい、
それが却って、その教科を学ぶ本来の目的を見失わせていたりします。
例えば柔道ですと、武道として先ずは自分の身を守る為、最初に教えられるべき受け身が、
スポーツ競技の場では逆に負けに繋がり易くなる為、受け身を教えなかったりしますからねえ・・・・
成績評価を伴う道徳の教科化にしても、同じ様な危険性を孕んでいる気がします。
それを思うと、戦前の満州国における最高学府・建国大学(要するに満州版の東大)では、
そうした弊害を排除する目的で、「試験も成績表も一切なし」としたのは、実に面白い試みだったかと。
と言いますか、日本人・朝鮮人・中国人・モンゴル人・ロシア人などの学生たちを、
民族ゴチャ混ぜにして、20人1部屋の学生寮で共同生活をさせたり、
国内では禁書の本も自由に読めて、3・1運動で独立宣言を起草した崔南善を教授に据え、
ガンジーやトロツキーまで招聘しようとするなど、かなり特殊な教育機関でした。
そんな大学の卒業生たちの戦後を追ったインタビュー・ルポである
『五色の虹(集英社)』は、昨年読んだ本の中で、最も記憶に残った1冊でしたね。
https://www.amazon.co.jp/dp/4087815978
> (コンピュータプログラミングについて
> > プログラム言語というのは、一般言語と数学の間にある存在なのかも知れませんね。
> > ただ私自身の感覚だと、かなり数学側に寄ってると感じてはいますが(笑)。
> 言語によりけりかもしれませんね。
> C#やJAVAをやっている限りでは数学をまず意識しませんし、COBOLなんかは全く要素を感じられませんが、
> Haskellは数学っぽいなとは思いました。
思い起こして考えてみると、私の場合は、
応用数学用のプログラム言語であるFortranから入った為、
尚更、数学に近い印象になっているのか知れませんね。
> > ところでプログラミングと言えば、2020年から小学校で必修化される予定らしいですけど、
> > 一体どんな感じの授業にする構想なんですかねえ?
> > 中学生ならまだしも、算数段階の小学生でプログラミングを教えるとなると、
> > 従来通りの勉強法では合わないでしょうし、もっと感覚的に扱う為には、
> > 例えばPlayStationの「カルネージ・ハート」みたいな学習ソフトが必要な気がします。
> うーん、自分はしっかり入ってほしいですね、
でもそれだと、小学生にはまだ早い気がするんですよねえ・・・・
例えば、小学校から英語教育を始めるという話にしても、
従来通りのやり方で、いきなり英文法から入るのは、あの年代に合わないと思うんです。
そうなると、歌やパズルなどで英語に触れる所から始める方が適当でしょうし、
プログラム教育にしても、小学生が相手なら、同様の事が言えるような気がします。
・・・って、そもそも論になってしまいますけど、まあ個人的には、
小学校教育に、プログラムや英語の授業は、特に必要ないと考えてますけどね(笑)。
プログラムも英語も所詮は道具であって、それよりは、情報や異文化への理解が先決かと?
> VisualBasicみたいなところが軽めでいいなと思います。
BASICと言えば、私の頃のセンター試験の数学だと、自由に問題分野を選択できる中に、
代数や幾何などと並んで、コンピューター計算(BASIC)の項目もあり、
少し知識があれば楽勝な難易度だった為、隠れた狙い目として知られてましたけど、
今では、どうなっているんですかねえ?
(後にプログラムを知ってから過去問を見てみると、実際に簡単だった記憶が・笑)
・・・って、当時はプログラム問題を「得点を取るための裏技」としか見てませんでしたけど、
これって実は、選択分野の1つとして、以前より高校の数学に含まれてた証でもあるんですよね。
つまり逆に言うと、一応入れてはあったけど、ほぼ誰も選択していなかったと(苦笑)。
でもまあ、これはある程度、仕方のない事だったのかも知れませんね。
例えば中学・高校の外国語教科にしても、ドイツ語・フランス語・中国語・韓国語も選択可能ですが、
現実的には、ほぼ英語一択になってますからねえ(英語が選択科目である事を知らない人も多いかと)。
それを思うと数学でも、学校はBASICを教えるより、代数や幾何の授業を優先して行うでしょうし。
> (指導者について
> > > > まあ小渕というのは、自ら先頭に立って引っ張るのではなく、柔和な人柄で調整を行い、
> > > > 明確な指針を示した後は、全て部下に託すという、
> > > こうして読んで、自分の理想像と非常に似通っていることに驚きました。
> > ただし「託される」というのは、やり甲斐もある反面、やはり重労働だったそうですし、
> > しかも一旦怒らせると非常に恐ろしく、裏切りには冷徹なまでに処断するタイプなので、
> > 重用された部下たちにすると、想像以上に仕事はキツかったみたいですけどね(笑)。
> 読んでいる限りでは理想像にとても近いですが、
> 「古い東洋型のリーダー」と言われる、というのはどういうことかなと引っ掛かります。
う〜ん、具体的に挙げると、大石内蔵助や西郷隆盛みたいなイメージでしょうか?
ちょうど今週末の12日(日)に、地上波で初放送されますけども、
昨年大ヒットした「シン・ゴジラ」で、作中後半に登場する平泉成が演じた臨時総理に、
小渕元総理を思い出した人は、少なくともネットを見ると、私だけでは無かったみたいです。
モデルという訳ではないでしょうけど、あんな感じのリーダーでした。
西洋人からすると、ちょっと理解に苦しむタイプのリーダー像だと思います。
そういう意味でも、「古い東洋型」という表現を用いました。
> 自分はあまり熱意のある人間ではないのですが、徳翁導誉さんからは熱意を感じます。
> 熱意を持ちたいと思いながらできていないので、そういう意味で尊敬します。
いや〜、私に一番足りてないのが「熱量」だと思ってるんですけどね。
身近で弟とか見ていると、それをまざまざを見せ付けられます(笑)。
人が何かを成し遂げる上で、最も重要なのは熱量だと思うのですが、
自分にはそれが決定的に欠けているなぁ・・・・と。
そして、そんな少ない熱量も、年々減少している事を実感してますし。
> 後になりましたが、返信遅れましてすみません。
> 先に言っておくと、来週は都合により返信できそうにありません。
はい、了解しました。
あと繰り返しになりますけど、所詮は雑談ですので、
返信が遅れる事になっても、別に気にする事はありませんよ(笑)。
2〜3週間隔で返信される方とかも、今まで普通に居られましたしね。
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