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[24027] テレビ報道と政治・階級差と個人主義・発想力と学習量返信 削除
2022/9/21 (水) 21:04:51 徳翁導誉

> すみません、返信が大変遅れました。
> 唐突に自身の考えを短くまとめられるようになったので、読みやすくはなっていると思います。

いや、所詮は雑談なのですから、
書きたい時に書く感じでOKですよ(笑)。

> > > 月9ドラマは存在自体全然知りませんでした。
> > > 東京ラブストーリーとかもこの枠だったんですね。

> > 先日、小学生は「SMAP」の存在を知らなくて驚いたので(まあ、解散が6年前ですからね)、
> > 「月9」に関しても、そんな感じかな?・・・と一瞬思ったのですが、
> > でも旧トルコ担当さんの年齢を考えると、単に世間への関心が薄かっただけかも!?(笑)

> これに関しては、私が世間(クラス)に関心が低かっただけという説が濃厚です。

まあ最近は、若者のテレビ離れとかも顕著ですし、
月9の存在を知らなくても、特に不都合とかは無いかと思われますが、
「平成の文化史」という観点から見れば、知っておくべき用語ではあるでしょうね。

そして、月9の代名詞的な俳優が、それこそSMAPの木村拓哉でした。
「あすなろ白書('93)」で人気を得て以降、
「ロングバケーション('96)」「ラブジェネレーション('97)」「HERO('01)」と、
視聴率30%超えのドラマを連発してました。

> > でも、ラストのネタバレまで含む「ファスト映画」の隆盛ぶりを見る限り、
> > アニメや映画にしても、早送りやスキップでの視聴も、かなり増えている気はしますよ。
> > まあ私も、ニュースみたいに情報収集がメインな視聴なら、普通に早送りもしますし、
> > だからこそ、逆に言えば、彼らにとってはアニメや映画も、そうした情報収集の一環なのかな?と。

> ファスト化は情報収集の一環ではないですね。
> ファスト化とか、タイパ意識っていうのは、俯瞰するとそういった言葉になるのですが、
> それらの行為を個人の感覚としては「待てない」というだけだと思うんですよね。
> この映画が、いつ面白くなるのか。面白いシーンまで待てないし、つまらないシーンは飛ばすし、
> 2時間の映画を飛ばし飛ばしで見てしまったとしても、サブスクなので他に映画はいくらでもあるというだけだと思います。

それって既に、サブスクの弊害にハマってる人の見方なのでは!?(笑)
本来なら、定額で多くの作品を見られるというメリットが、
多くの作品を見ないと損した気分になったり、損しないよう作品視聴をこなす事が目的化すると、
それはもう、作品数が多いというメリットが、デメリットに転じてしまってる気がするんです。

いや、でも別に、楽しみ方というのは、人それぞれに様々ありますし、
量をこなす事で得られる満足感というのも、決して解らなくは無いんですよ。
私だってルーチン・ワークをこなす際には、そうした部分に楽しみ方を見出したりしますので。
また、レスポンスの速い今の時代、2時間も受け身で見続けるのは、集中力が切れたり、苦痛な人も居るはずで、
映画館ならまだしも、自宅のモニターでリモコン操作が可能なら、ついつい飛ばすのが人情かも知れず、
倍速視聴で面白さが半分に落ちても、2時間見て結局ツマらなかった時よりは、マシという感覚であれば、
尚の事、倍速やスキップでの視聴の方が楽と意見があっても、そこまで驚きはありません。
ですけど、少なくとも私自身が映画やアニメを視聴するのは、そうした目的の為では無いですからねえ。
(これに関しては、アニメや映画は倍速視聴しない旧トルコ担当さんも、恐らく同様なのでは?)

倍速やスキップで視聴しても、大して面白さが減じなかったとしても、
逆説的に言えば、その程度の内容の作品を見て、本当に満足できるのか?という事でもあります。
仮に面白味に欠けるシーンでも、それは何らかの布石や演出である事が多く、
そこを飛ばしてしまっては、見せ場での醍醐味を、大きく欠く事にも繋がりかねませんし、
もしも本当に、無意味なシーンの連続であるなら、そんなのは別に見る必要のない駄作です(笑)。
読書とかも そうですけど、斜め読みで充分な本って、所詮はその程度の内容ですからねえ。
(その反対に、歯応えある数学や物理の本だと、1時間で数ページしか読み進められない事も・笑)
激安商品を買うよりも お得なのは、欲しくない商品は無駄に買わない事でしょうし、
本当に時間が貴重であるなら、早送りしてまで見るのでは無く、その程度の作品は見ないに限るかと?

> > > 何なら動画制作者自身が、「倍速視聴される前提で作っています」みたいなことを言ってる人もいますし。
> > それは、そうでしょうね。
> > 特にビジネスの場合、需要があってこその供給という面も強く、
> > 「作品を当てたい」思いがあるならば、ニーズに合わせるのは常套手段なので。
> > 例えば、テレビ番組がテロップだらけになったのも、そうしたニーズがあったからですし、
> > 報道内容の低レベル化も、安易に「マスゴミ」と批判するレベルの人に合わせた結果です(苦笑)。

> 最近、カノッサの屈辱(テレビ番組)のテレビの歴史をYouTubeで見て、初めてニュースのワイドショー化という話を知りました。

カノッサの屈辱かぁ・・・懐かしいですね(笑)。
バブル当時のテレビ局って、本当に制作費が有り余っていて、
「JOCX-TV2」という、当時のフジテレビの深夜枠では、
いろいろと実験的・挑戦的な番組が作られていて、本当に面白かったですよ。
このサイトでオンライン対戦化した「征服王」↓も、そうした番組の1つでしたし、
http://kakolog01.g1.xrea.com/conqueror/ichiran.html
麻雀アニメ「スーパーヅガン('92)」は、深夜アニメの走りみたいな所がありました。

・・・って、話が脱線してしまったので、元に戻しますと(笑)、
「ニュース番組のワイドショー化」との事ですが、
恐らく、旧トルコ担当さんが抱いているイメージも、ちょっと違うかなぁ?って感じですね。
カノッサの屈辱の放送当時('90)の事を考えると、たぶん番組内で触れられていたのは、
「久米宏とニュースステーションの登場('85)」に関してだと思うのですが、
確かにニュースステーションが、夜のニュース番組に革命をもたらしたのは事実です。

それまでは、それこそ中年サラリーマンが視聴する、お堅いNHKニュースしか無かった所に、
今風に言えば「池上解説」みたいな感じで、フリップや模型やCGなどを用いて、
若者層や女性層にも「解りやすいニュース番組」を作ったのは、本当に画期的な事でした。
その一方で、久米宏が個人的な意見を述べたり、BGMやテロップを用いた演出を行うなど、
そうした部分が「ワイドショー的だ!」として批判されたのも、また事実です。
とは言え、現在の「ワイドショー的なニュース」とは、かなり次元が異なっていたかと?
それこそ、お堅いNHKニュースしか比較対称が無かった時代の事ですし、
後継番組である「報道ステーション」なんて、今や民放ニュースの代名詞的な存在ですからね。

ちなみに、その当時のワイドショーというのは、
それこそ週刊誌をテレビ番組化したような、芸能ゴシップだらけ放送内容であり、
暇を持て余す主婦層や高齢層に向け、今の感覚だと目を背けたくなるようなゲスい事を報じてました(笑)。
例えば、「宮崎勤事件('89)」なんかも、まさしく当時は格好のターゲットだった訳ですね。
でも一方で、平成(90年代)に入った辺りから、統一教会やオウム真理教の騒動など、
芸能ゴシップだけでなく、社会問題に触れるケースも、徐々に増えていった感じかな?
と言いますか、新興宗教の広告塔として、芸能人とかが巻き込まれていくので、
(統一教会の騒動で言えば、桜田淳子と山崎浩子などの合同結婚式への参加など)
その辺が上手くリンクしていった側面もあったかも知れません。
また、「芸能人でもプライバシーは尊重すべき」という意識の高まりや、
バッシングを避けようと、芸能人自体の火遊びも大人しくなっていった事で、
バッシングの対象が、事件・不祥事・失態などを犯した個人に対する、
メディア・リンチに移っていった時代でもあったかも。

その後、2000年前後くらいから、ワイドショーでの芸能ゴシップの報道割合が減り、
オウム報道での失態により、TBSがワイドショーから撤退した事も相俟って、
社会問題から芸能情報まで幅広い題材を扱う「情報番組」へと、ワイドショーはその姿を変えていき、
テレビ局の予算削減に伴う、生放送番組の増加により、情報番組の放送枠は拡大の一途を辿りました。
解りやすく言えば、ここ十数年くらいの間に、
ニュース番組とワイドショーの中間に位置する「情報番組」が急速に増えた事で、
報道番組と情報番組の違いを意識しないと、「ニュースのワイドショー化」した印象を受けたかと?
物凄く解りやすい言い方をすれば、「ワイドショーもニュースを扱う」ようになった為、
そうした番組では、当然ながら「ニュースがワイドショー化」する訳であり、
特に政治(政局)ニュースに関して言うと、その端緒となったのは、「2001年の自民党総裁選」でした。

それこそ、それまでの総裁選というのは、従来のニュース番組しか扱いませんでしたし、
立候補した政治家たちも、当たり前のようにニュース番組にしか出ませんでした。
言ってしまうと、いくらニュースステーションが間口を広げたとは言っても、
やはり政治ニュースに関心を持つのは、未だに中年サラリーマン層が主であり、
そして、当時の政治力学では「橋本龍太郎の返り咲き」が既定路線と見られてたんです。
しかし、今までは自民党内の変わり者に過ぎ無かった小泉純一郎が、
国民(特に主婦層や高齢層)に人気の高かった田中真紀子とタッグを組み、
街頭演説やテレビ出演を繰り返して、総裁選の投票権のない一般市民の支持を集めていき、
「小泉を総理に!」という世論を、急速に盛り上げていったんですよ。
そこからですよね、ワイドショーも政治ニュースを扱い、政治家もワイドショーに出るようになったのは。
小泉&真紀子コンビは、それこそワイドショー視聴者層にぴったりハマりましたし、
彼らだって選挙で同じく1票を持ってますが、それまでは未開拓な票田だったとも言えます。

そういう意味では、政治家の側だって「ニュースのワイドショー化」を促した訳で、
そして何より、ワイドショー視聴者がニュースを見るようになったからこそ、
「ニュースがワイドショー化した」とも言えるんですよね。
基本的にテレビ番組というのは、視聴者のニーズに応えるべく、放送内容が変わるのですから。
しかも現在は、バラエティー番組までもが、政治ニュースを扱うようになり、
ニュースに触れる機会が増えたという点では、昔より増えた状況ですけど、
ニュースを扱う番組の質に関して言うと、昔より落ちたのは紛れもない事実でしょうね。

これはどんな分野でもそうですが、一部のコア層しか関心を持たなかったモノが、
ライト層にまでニーズを広げていくと、影響力は強まる反面、どうしたって質は落ちていくんです。
つまり、安易に「マスゴミ!」と叫ぶ視聴者こそが、ニュースの質を落としてる張本人であると(苦笑)。
また、ニュース番組は「権力の監視者」意識が強い事もあり、
どんな大物政治家が出演しても、相手の嫌がる厳しい質問をブツけたりしますが、
テレビ局内でのヒエラルキーが低い、ワイドショーやバラエティー番組だと、
大物政治家が出てくれるだけで、かなりの持ち上げようになりますし、
政治家本人は勿論、その支持者たちも、ニュース番組に出るより気持ち良い空間でしょうね。
逆に言えば、だからこそ、「それに比べて、ニュース番組はけしからん!」となりがちな気がします。

> 私が生まれたころには既にああだったので、昔からそんなものだと思っていましたが、
> 昔はもっとテレビも真面目だったんですね。

もう少し正確に言うと、「住み分けられてた」って感じですかね?
新聞で言えば、一般紙(高級紙)と夕刊紙(大衆紙)の読者が、住み分けられてたように、
ニュース番組は、今よりも お堅かった反面、
バラエティー番組やワイドショー番組は、今より遥かに下品だったので(笑)。
そういう意味では、現在のテレビ番組って、
バラエティー番組やワイドショー番組は上品になった一方で、当然ツマらなくなり、
ニュースの扱いに関しては、報道番組はまだしも、情報番組は行き過ぎた部分が目に付くと。

時代的に言うと、2000年を過ぎた辺りから、徐々にそうした傾向が強まっていき、
今から10年ほど前、大震災が落ち着いてきた辺りから、完全にそうなった感じかな?
なので、今のようになったのは、精々「ここ10年くらい」の話ですね。
そして、それは丁度、安倍政権の返り咲きとピタリと合うのですが、
これは別に、安倍政権が世間をそうした風潮にしたというよりは、
世間の風潮がそうなったから、安倍政権が長続きした面の方が強いかも知れません。
(もちろん、両者が相乗効果となって、そうした傾向を促進させた部分も否めませんけど)

> > それと、「自信がない」と言うよりは、「諦め」の感情という方が、より適当な気がするんです。
> > 厳密に言えば、「自信がない」と「諦め」はイコールでは無いのですが、
> > チャレンジのコスパが悪い今の時代にあっては、実質イコールとなっているでしょうし、
> > 目に見える格差じゃないからこそ、諦めてる自覚すら乏しいように思えるんですよ。
> > 簡単に言えば、始めから「そういうモノだ」と受け入れていて、それ自体を疑わないと言うか・・・・

> ああ、諦めというのはありそうですね。
> それこそ、低い位置であっても"まあまあ"な娯楽がある分、努力してまで手に入れたいとか、思わなくなりがちですし。

あと言うと、「努力して得られるモノ」の質というのが、明らかに下がった部分もあります。
言うなれば、最低点は上がったけど、最高点は下がったとでも言えば良いのか、
そうした両面を含めての「挑戦や努力のコスパが悪い時代」って意味ですね。

例えば、解りやすい例でゲームの話をすると、
一昔前に比べれば、無料で遊べるゲームの質って、物凄く上がったと思うんですよ。
ですが一方で、実際に6000円とか8000円とかカネを払って買うゲームの質は、
遊んでて味わえるワクワク感などは、昔の方が遥かに大きかった気がするんです。
(グラフィック面などは格段に向上していますけど、そこが楽しさの本質では無いので)
そうなれば、「無料ゲームで充分」となる気持ちも理解できますが、
かと言って、昔の若者ほどゲーム自体を楽しめて(興奮・熱狂できて)いるか?となると・・・・

> > > > ただ単純に、日本の社会自体が不安定化し、自信を得難く、余裕が無くなってきた為、
> > > > そうした社会に適応を強いられて、それらの特徴が際立って映るようになっただけの事で。

> > > 個人的には、必ずしも経済は主要因ではないのかな?とは思っています。
> > > 未婚率にしても、特殊出生率にしても、変化は80年代には既に起きており、
> > > 00年代にはむしろ悪い値で変化が止まっているので。
> > > 経済が原因であれば、本格悪化は00年代からなはずです。
> > > 出生率 https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-01-07.html
> > > 未婚率 https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/backdata/01-01-01-08.html

> > う〜ん、何だか話が脱線している気はしますけど、それは別に良いとして(笑)、
> > この感じだと、経済と景気の違いが区別されていないと言うか、
> > 経済の成長は社会のシステムを変容させ、それは出生率にも影響を及ぼすという、
> > 大きな要素としては、「経済こそ主要因」と見なして良いと思うんです。

> 社会システムの変化まで「経済」として扱っていた、ということだったのですね。
> わたし的には、社会システムの変化まで来ると経済ではなく「社会」のつもりだったので、景気論の話だと誤解していました。

う〜ん、と言うよりかは、
「経済が変わるから、社会も変わる」と言った方が、もっと正確ですかね。
それこそ、未婚率や特殊出生率の値が変化するのは、
経済システムの変換が、社会システムの変換をもたらすからです。

で、ここが旧トルコ担当さん的には、解り難かった点かも知れませんけど、
数年単位で変動する景気レベルの要素と、世代単位で変動する経済レベルの要素とがあり、
その時々での「結果」としては、両要素を足し算して、述べているのですが、
「要因」として語る際には、これら2つの要素を切り分けて、述べている感じですね。
ちょっと難しいですが、そうしないと、物事の本質というのは なかなか掴めないモノなので。

解りやすい例・・・かは解りませんけど、要するに「波の重ね合わせ」みたいな話です。
合成波の性質を知りたければ、個々の成分波の特徴を把握する事が重要ですし、
合成波の数値を知りたければ、個々の成分波を足し合わす必要が出てきます。
こうする事で、一見すると複雑な現象も、予測や解明が行えるようになる訳ですね!
昨今のAIブームなんかも、人力ではなくコンピューターに、こうした作業をやらせてる感じです。

> > では、団塊Jr.世代が適齢期を迎えた2000年頃、
> > 「第3次ベビーブーム」が起こらなかったのは、何故なのでしょう?
> > https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2021/r03webhonpen/img/zh1-1-03.gif
> > 出生率や婚姻率が同程度に推移しても、絶対的な人口数は多いのですから、
> > 出生数における、それなりの山は出来て然るべきなのに、それが全く現れていないんです。
> > その理由を、旧トルコ担当さん的には、どのように お考えですか?

> 私の意見も特別なものではなく、ごく普通の「その時代の若者が結婚や育児などを面倒に感じ始めた」という辺りだと思っています。
> 消えた第3次ベビーブームから既に約30年ですし、「なぜかられ彼女らが結婚を選択しなかったのか?」はインタビューなどできる内容ですので、
> 世間や学問の世界であまりに的外れな論が展開されていれば、当事者たちからそれは違うだろとなるはずであり、
> よって今の世間一般の主流の考えが正解だと思っています。

ですから、バブル崩壊に伴う平成不況により生じた「就職氷河期」が、団塊ジュニア世代を直撃し、
安定した職を得らず、結婚や出産に踏み切れなかった人たちを大量に生み出した事こそが、
その「世間一般の主流の考え」であり、それを「正解」だと旧トルコ担当さんが思われるのなら、
旧トルコ担当さんの「必ずしも経済は主要因ではない」という意見とは、明らかに矛盾してませんか!?

また、「その時代の若者が結婚や育児などを面倒に感じ始めた」との見解も、
団塊ジュニア世代は絶対的に人数が多いのですから、
結婚や出産が、なだらかに減少し続けただけであれば、低くなっても山は生じるはずで、
現実的に そうでない以上、団塊ジュニア世代の時だけ出産率が下がった理由を示す必要があります。
と言いますか、団塊ジュニア世代が出産適齢期を迎えた頃に、
特殊出産率が底を打ち、そこからジワジワ回復傾向にあるのは、数値を見ても明らかな訳で、
その点に関する説明というか、認識が、完全に欠けていたのでは?

もっと厳しい言い方をすると、旧トルコ担当さんが、どのような意見や見解を持たれても自由ですが、
それを「ごく普通の」と述べるのであれば、他の人の意見をキチンと知った上で述べるべきですし、
それをせぬまま、自らの見解を「世間一般の主流の考え」と捉えて、「正解」と見なした印象を正直受けます。
結局の所、これは後述の「個人主義」や「自己責任論」の話とも、少し被って来ますけど、
「自分は正しい」という所から、物事の理解をスタートする、昨今の悪しき風潮に、
旧トルコ担当さん自身も、ドップリとハマってしまってはいませんか?

> > > おそらくですが、未婚化の原因って自由恋愛だと思うんですよね。
> > > 時代背景の勉強が充分ではないかもしれませんが、
> > > 私の知る限り、少女マンガや少女小説で自由恋愛が堂々と出てくるのは70年代〜80年代らしいので。
> > > 基本的には各種値が変化した時期と一致します。

> > 「ソースが少女マンガなの!?」というツッコミはさておき(笑)、

> ソースが少女マンガくらいしか無いんですよね。
> 管理人さんの話でいえば、オウム真理教をめぐる当時の雰囲気みたいな、
> そういった空気感・価値観みたいなものが一番残らないものなので、
> 当時の結婚や恋愛をめぐる価値観を調べようとしても、なかなか信頼できる文献が無いんですよね。

いやいや、結婚や恋愛というのは、人類にとって大きな関心事ですし、
調べれば文献なんて、幾らでも出てくるモノじゃないですか!?
前回、「近年の若者層の特徴」としても語ったように、
それこそ、手っ取り早いマニュアル本を探すような感覚に陥ってません?
> > 見合い結婚と恋愛結婚の「比率」の変化は、こんな感じ↓
> > https://www.garbagenews.com/img16/gn-20161009-10.gif
> > 見合い結婚と恋愛結婚の「総数」の変化は、こんな感じ↓
> > https://www.garbagenews.com/img16/gn-20161009-11.gif

前回示した2つのグラフ↑からだって、それなりに読み取れる内容はあるでしょうし、
上記の「第3次ベビーブーム」の件でも そうでしたが、「先に結論ありき」なってませんか?

> > > 最近、エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』を読んだのですが、
> > 最近のトッドの著作は・・・あまり、まともに読んでないかなぁ?
> > それこそ、「第三次世界大戦はもう始まっている」も、
> > 本屋の立ち読み(斜め読み)で済ましちゃいました。
> > 年齢の所為かも知れませんけど、正直、最近のトッドが書く内容って、
> > フランス中心主義の主観的な感情論が多く、あまり得る所を感じないんですよね。
> > 日本についての論評も、「相変わらずズレた事言ってるなぁ」って感じですし(苦笑)。

> フランス中心主義というと、多文化主義の観点から、フランスの文化的同化政策を称賛してる件ですかね?

と言うよりかは、フランス人、特にパリ住民に多い傾向として、
フランス革命(民主主義)の中心地であるという、強烈な自負というか、
「フランス版の中華思想」みたいなモノが、彼らには根底に強くあるんですよ。
そうしたフランス人の国民性が、トッドにも変わらずあると言いますか、
トッドの加齢と、EU内におけるドイツの伸張(フランスの存在感低下)が相俟って、
近年の主張には、そうした鼻持ちならない部分が、隠されなくなってきた印象ですね。

> 日本についてはまあ、「90年代に日本の結婚がキリスト教会で行われるようになったのは、日本の脱宗教化ではないか」
> みたいなことを言っていて、ズレてますよね。(上記はゼクシイ等結婚雑誌の普及と、晩婚化に伴うカップルのお金持ち化が理由らしいです)

それこそ、日本を始めとした東アジアの世界では、
トッドが言うように「直系家族」志向が、今のヨーロッパよりも残っているのは事実です。
ですが、それをあまりに過大評価したり、アジアを理解しないまま紋切り型で捉えているのは、
やはり「解っていないなぁ」というのが、正直な私の評価ですね。

結局、東洋人が西洋人を理解している程には、西洋人は東洋人を理解できてないんですよ。
これは近代史において、支配する側と支配される側であった、立場の違いが大きいかと思われます。
例えば、日本の少子化問題を解消する為の提言でも、
「日本は直系家族社会だから、天皇が移民受け入れと出生率上昇を国民に訴えれば良い」なんて、
まともに日本の事を理解していれば、まず出てこない内容ですからね(笑)。

> > > ・黒人の90%近くが民主党に投票し、黒人が民主党の傭兵のような存在になっている
> > > ・民主党は超富裕層、高学歴者、黒人が結託した党になっている
> > > など、のことが指摘されており、
> > > ああ、トランプ当選は偶然ではなく必然であったんだなと思わされると同時に、

> > 民主党が「資本家・インテリ層・黒人」の党へと路線転換したのは、
> > もう100年以上も前の事なので、今更と言えば今更の話ですし、
> > 国内人口比における有色人種、特にラテン系の割合が増え続けている昨今、
> > 時が経つほど、民主党有利&共和党不利になるのは、既定路線として語られており、
> > そうした流れへの悪あがきというか、最後のカウンター行動として、
> > 極端だけど、団結させやすい、トランプのような論調が現れた部分はあるんですよね。

> 私が不勉強みたいですが、私のイメージではトランプ以前は民主党が貧困層より、共和党が富裕層寄りで、
> トランプがそれを逆転させた、というイメージだったのですが、この辺も実態はもっと複雑なのでしょうか?

複雑と言えば、複雑なのかな?
でもまあ、物凄く簡単に言ってしまうと、
民主党は「理想主義」であり、共和党は「実益主義」であると考え、
社会階層を「上・中・下(更に各階層内での上・中・下)」の9段階に分ければ、理解しやすいです。

例えば、民主党が唱えるように「貧困層を救え!」となった場合、
それに賛同する層って、本当に困っている貧困層も そうなのですが、
あとは、全く困っていない富裕層であったり、信念で動きたいインテリ層や学生層などです。
言うなれば、これを支持するのって、理想論で救って欲しい「下の下」であり、
理想論で優越感を得たい、経済的や知識的に「上の上」の人たちであると言った所でしょうか。

その一方で、実益的な共和党の支持者層というのは、
生活は苦しくても、物乞いまでは落ちたく無いというプライドのある「下の上」な人々や、
経済的に成功していても、もっと稼いで成り上がりたい「上の下」な財界人であったり、
学生時代は理想に燃えてたけど、今では実益第一に転じたビジネスマンなどだったりします。

そして、大多数を占める中間層というのは、
自分たちの生活に余裕がある時は、「困っている人が居るなら助けよう」と理想に傾く一方、
自分たちの生活に余裕が無くなると、「とにかく私たちを何とかしてくれ!」と実益に傾く感じ。
要するに、図で表すなら、こんなイメージになるのかな↓

  貧困層    <<<  中間層  >>>    富裕層
   民主党  共和党   無党派   共和党  民主党

で、人々が右傾化する、いわゆる「トランプ現象」というのは、
社会が2極化して、中間層が薄くなるに従い、
「下の上」「中の下」な貧困層予備軍や、「上の下」「中の上」な富裕層予備軍が増加し、
とは言え、彼らは昨今の社会的変化によって流入した新たな層なので、
従来の伝統的な共和党支持層とも、性格が少し異なり、
そこをで上手く拾い上げたのが、トランプであったという事なんですよね。
もともと低所得であり、今でもそうな人々には、彼らなりの伝統的なプライドがある訳ですが、
中所得から低所得に落ちた人々は、「これ以上は落ちたくない」「また元に戻りたい」という思いが強く、
過激なパフォーマンスに、ホイホイと乗ってしまいがちな傾向が見て取れるので。
特にアメリカ社会の場合、社会階層が人種ともリンクしてますから、
「白人貧困層(下の上)は、黒人貧困層(下の下)と同レベルになるのが嫌」みたいな意識もあります。

ちなみに、人々が左傾化する、いわゆる「サンダース現象」みたいな方は、
社会の2極化に伴い、今までは「中の下」や「下の上」に居た人たちが、
「下の下」や「下の中」まで落ちてきたので、起こっている現象ではありますね。
しかし現状では、その数は上記の「新たな貧困層予備軍」に比べると、まだまだ少ない状況で、
だからこそ、動きとしては目立っていても、そこまで大きな成果は招いていない現状です。
とは言え、社会の2極化が更に進み、貧困層の割合も今以上に増していけば、
人々は右傾化から極左化へと転じるか? はたまた、極右化へと突っ走るか? そのどちらかに至るかと?
実際、100年前の「共産革命」であり、「ファシズム」というのは、そうした歴史の流れで生じましたからね。
こうした人々の心の動きは、何もアメリカだけの話では無く、世界的にも不偏な傾向ではあるかと思われます。

> > > それは本音と建前の使い分けというより、単純に共感性が強く、敗者のいない横並び一線を求めてることだと思います。
> > > もちろん仲間外れになるのも嫌だけど、仲間外れも作りたくないというか、敗者がかわいそうだから、
> > > というのが平等が50%の要因ではないでしょうか?

> > ぶっちゃけた話、「本音と建前」すら無自覚なのが、今の世代の特徴なのでは?
> > 「敗者が可哀想」というのも、当人さえ本気でそう思い込んでるだけで、
> > 「可哀想な敗者を見るのが辛い」という、自分視点からの意見と感じるんです、実際には。

> 「可哀想な敗者を見るのが辛い」だけ、というのはまさしくそうだと思います。
> 私としては、割とそういう感覚が当たり前だと思っていたのですが、割と最近の個人主義的な感覚なんですかね。

う〜ん、私としては、そう感じてますね。
ここ10年20年で、良くも悪くも、日本のムラ社会的な価値観は薄れてきましたが、
(ムラ社会は戦前まで続き、戦後は会社がムラの代替として機能するも、バブル崩壊に伴い瓦解)
「自助・互助・共助・公助」とある中で、互助を担ってきた「ムラ」構造が消滅した事で、
「自助」の占める割合が、物凄く高くなった実感はありますね。

今の日本社会には、キリスト教やイスラム教の社会が担う「共助」の部分が欠けていますし、
(と言うか、明治維新により、多少なりとも寺社が担っていた部分が失われた側面も)
北欧諸国のように、高福祉&高負担な「公助」の国でも無いですから、その部分も弱い。
だから結局、自助への負担が大きくなり、それでは支えきれない為に、
「集団主義の希薄化」に伴う、「個人主義の弊害」として映るのだと思います。
要するに、昨今の日本では個人主義が強まったというのは、一面では事実なのですが、
それ以上に大きいのは、集団主義が薄まった事で、個人主義の割合が相対的に高まった方が大きいかな?
でもまあ、相対的にせよ、絶対的にせよ、「個人主義的になった」のは事実でしょうね。

で、「日本は集団主義、欧米は個人主義」だと言うと、
昨今では、「それはステレオ・タイプなイメージ過ぎる」と言われますが、
でも結局、大前提として集団主義があるからこそ、その中においての個人主義的な心理が働き、
大前提として個人主義があるからこそ、その中においての集団主義的な心理が働くモノだと思うんです。
そして、欧米や中東は個人主義が大前提だからこそ、その安全装置としての「教会」の機能であったり、
個人主義でも社会として機能させる為の「教義」があり、なので「宗教は絶対的な存在」なのですが、
日本の場合、集団主義な「ムラ社会」が、教会や教義の面を担っていたからこそ、
いわゆる「無宗教」でも上手く回ってきたと。
(逆説的に言えば、だから海外で「自分は無宗教だ」と言うと、危険視される訳です)

もっと言うと、伝統的な「互助」のシステムというのは、別に日本だけに限らず、
それぞれ形式は異なっても、東アジアでは結構普通に見られた社会構造なんですよね。
例えば中国なども、幇や朋といった横の繋がりが、安全装置として機能していた訳ですが、
近代化の波により、西洋的な価値観が広がる事で、従来の互助的な仕組みが壊れる一方、
西洋社会のように宗教による共助の仕組みが無く、共産主義による公助も失われつつある。
その為、現在の中国では、世界的な新自由主義経済の潮流とも相俟って、
「個人主義の台頭」が非常に悪目立ちしている訳ですが、
これも別に、中国人の中で急速に、個人主義的な意識が高まったと言うよりは、
それ以外の部分が急速に薄まった事で、消去法的に残された個人主義が、目立つだけな気がするんです。

そう考えると、日本も含め、今後の東アジア社会というのは、何かと苦労するかも知れません。
ムラ社会の互助であれ、教会による共助であれ、掟や教義などによって、
理屈や感情ではなく、当然の感覚として「手を差し伸べる」という自動ルーチンが失われると、
強い思想・信念から「手を差し伸べるべき」とでも、ならない限りは、
「可哀想」と思った時に、「だから助ける」と「だから遠ざける」の差が薄くなりがちなんですよね。
もちろん、助けないよりは助けた方が、当人的にも満足感が違うのですが、
その為に要するコストまで考えた場合、結局、自分が心理的に楽になりたいだけなら、
大きなコストを掛けてませ助けるなら、小さなコストで遠ざける方が、メリットになる場合も多いので。
逆に言うと、掟や教義という「縛り」が存在する場合、助けない事によるデメリットが生じるようになると。

> > 恐らく、この引っかかりというか、違和感の正体というのは、
> > 十数年前に、小泉政権が政治的な意図をもって、
> > 日本社会に定着させた「自己責任論」が、大きく関わっていると思うんです。
> > 私などは世代的に、自己責任論が唱えられる前の日本も、そう塗り替えられていく過程の日本も、
> > 既に定着してしまった現在と同様、それらの日本社会の姿を、しっかり覚えているのですが、
> > 定着後の日本しか知らない世代だと、この感覚はなかなか伝わらない気がするんです・・・・
> > それが当たり前すぎて、何が おかしいとか違うとかが、なかなか実感できないと思うので。

> 政権が自己責任論を定着させるなど、そういうことって出来るのでしょうか?
> 多くの大衆はそもそも政治に関してあまり興味がありませんし、
> そういった人々の価値観は言論というより、ライフスタイルや社会の雰囲気などで、ゆっくり変化していくものでしょうし。
> まあ政策を決めるのは政治に興味のある層なので、政権が何か言えば、政治に興味のある人の間で論争がおこり、
> 自己責任論的な政治論調が強くなっていくというのはあるのかもしれませんが。

「郵政選挙」が2005年ですから、17年前の事となると、解らなくても当然かも知れませんね。
ところで旧トルコ担当さんは、「B層」という用語は御存知でしょうか?


これは小泉自民党が、選挙での宣伝戦略として、広告代理店の力を借りた際、
「構造改革に肯定的か?否定的か?」「IQが高いか?低いか?」を2つの軸として、
有権者のタイプをA層からD層までの4つに分けたんです。
そして、構造改革に肯定的だが、IQの低いと見なした、主婦層・若者層・高齢層を、
「具体的な事はよく解らないが、小泉純一郎のキャラクターを支持する層」としてB層と名付け、
ここをマーケティング戦略のメイン・ターゲット層として、
「リテラシー」なんて言葉が普及していなかった当時、時には工作紛いの事まで行いながら、
ワイドショーやネットを積極的に活用して、国政選挙に、かつてない熱狂を生み出したんですよね!!

今までは、選挙や政治に無関心だった主婦層や若者層は、まさしく新規の大票田であり、
前任の森政権では支持率1ケタを記録し、再度の下野は時間の問題と見られていた自民党は、
小泉総理のもと、この郵政選挙によって歴史的な大勝を収める事となります。
こうした、解散から選挙に至る一連の流れは、「小泉劇場」と呼ばれ、
郵政民営化に反対した自民党議員を追放すると共に、対抗馬となる「刺客候補」を立てると、
この内ゲバ劇に国民は熱狂し、野党の存在感は完全に埋没する事となりました。
ちなみに、この時に刺客候補として立てられ、一躍有名となったのが、
小池百合子・ホリエモン・片山さつき・佐藤ゆかり・高市早苗・稲田朋美といった面々でした。
(女性刺客が注目を集めた為、当時のヒット映画と掛けて、「くノ一(女忍者)」候補との呼び方も)
ある意味、「政治のワイドショー化」は、ここから本格化したと言っても良いのかな?
政治がワイドショー化したのですから、ニュースがワイドショー化するのも、必然だったかと(苦笑)。

ちなみに、「自己責任論」に関しても少し述べておくと、その端緒となったのは、
郵政選挙に先立つ事 1年前、イラクで日本人3人が人質として誘拐された事件の発生でした。
この一件が、小泉政権の強行した「イラクへの自衛隊派遣」にまで飛び火する事を恐れた為、
「イラクへ渡航した彼らが悪い(=政府に責任はない)」とする「自己責任論」を展開し、
メディア世論に批判的だったネット世論を巻き込む形で、自己責任論が拡大していったんですよね。
しかも当時は、小泉政権による「小さな政府&企業の規制緩和」の政策方針から、
民間でも、「コンプラ重視」という名の「責任回避(下への責任押し付け)」が始まった頃ですし、
まあ正直な所、危険なイラクまで出向きボランティア活動をするのは、意識の高い左系な人たちであり、
被害者家族の政府批判も相俟って、右傾化しつつあったネット世論は、政府擁護&人質非難の論調でした。
と言いますか、自民党のIPアドレスから、政府擁護&人質非難の書き込みが、大量投稿されてた記憶が・・・・
ネット活動(工作?)という点では先進的だった一方、まだまだ稚拙でもあった時代です(苦笑)。

> > > 例えば同じアニメを見ても、私が面白かったな、で終わるだけのところを、
> > > 「こうこうこうで、めちゃ面白かった」とか感想言っている人を見ると、アニメを楽しめる感性と言いますか、
> > > 何かに熱中してハマって楽しめる才能の差みたいなものを如実に感じさせられます。
> > > そういう意味で、腐女子の人たちは毎日が楽しそうで羨ましいですし、私にももっとアニメを楽しむ才能があれば、
> > > 人生もっとナノしいのになあ、と思うんですよね。

> > いや〜、それは「才能の差」と言うよりも、「経験の差」と言いますか、
> > より噛み砕いて言うと、「努力(費やした時間や労力)の差」だと思うんですよねえ・・・・
> > デジタル・ネイティブな世代というのは、どうも手軽に答えを得たがると言うか、
> > 探せば何処かに正解があり、それが見つかれば簡単に自分も出来るようになると、考えがちな感じがして、
> > 前回、近年の若者層の特徴の1つに「マニュアル依存」を挙げたのも、
> > 一昔前までのマニュアル依存とは また違って、コピペで それっぽく取り繕うのに慣れているというか、
> > 能力を得る為に払うコスト(努力)を、軽視するというか、避けようとする傾向がある気がするんです。
> > その結果、オタクには憧れるけど、努力するのは嫌なので、「推し」という結論に至ったのでは無いかと?
> > (この事は確か、同著内でも指摘されてましたよね)

> これに関しては、私は完全に否定的ですね。
> 確かに、マニュアル依存というか、手っ取り早く、自分の頭で考えず、みたいな層が増えているというのも分かりますが、
> 例えば腐女子の人たちが日々得ている、推しカプのキスを見て脳内麻薬がドバドバ出るのって、快楽としてはかなり上位に位置すると思いますし、
> それは手っ取り早く快楽を得られるから選ばれているだけではないと思うんですよね。
> おそらく「推し」というのも、同様なのではないでしょうか?
> 私自身も、アニメのキャラで勝手に百合妄想とかしていると、その時の感覚は本当に人生で圧倒的に一番幸せを感じますし、
> 毎日のようにそういった感覚が続く腐女子の人たちは、本当に人生の質が違うんだろうな、と思います。

いや、ですから、そうした妄想力が豊かな腐女子の人たちというのも、
天賦の才なんて形で、何も努力せず、最初から豊かな妄想力を得ている訳では無く、
莫大な情熱を傾け、相応の時間なり労力を費やしたからこそ、それだけの妄想力を得ているのでは?
何事でも そうだと思いますけど、手っ取り早く、インスタントに、才能なんて開花しませんよ!!

最近、私は脳科学にハマっているので、少し専門的な話をすると(笑)、
「豊かな発想」をしようとする場合、まず必要となるのは、その材料となる豊富な情報量です。
まともに材料が揃わなければ、大したモノは構築出来ませんし、細部も描けませんからねえ。
そして、大量に得た情報は、それぞれを頭の中でグループ分けして、特徴に合わせて整理し、
何と何とが上手く繋がるかといった「学習(神経回路を強化・整理するヘブ則)」を重ねなければ、
新しい連想などは生まれず、つまりは「豊かな発想」も生じません。
つまりは、「情報収集」と「学習」が何よりも必要ですから、弛まぬ努力は欠かせません!!

また、最初から「人とは違うモノが見える」事を、「豊かな発想力」と表現するのであれば、
一見すると、それは「天才」と思えるかも知れませんし、そうした捉え方も可能ではあるでしょう。
ですが、先天的に「人とは違うモノが見える」と言うのは、
「多くの人が普通に見えてるモノが見えない」事と同義である為、
言い方を換えると、良く言えば「個性」ですけど、悪く言えば「病気」や「障害」となります。
正直な所、著名な芸術家の中には、こうしたタイプの人物も確かに居るのですが、
そうした人って、プライベートな面で多くのトラブルを起こし、その当人も苦労していたりするので、
恐らくは、旧トルコ担当さんが求めているモノとは、違いますよねえ?

そうなると結局は、「普通の見え方も出来て、異なる見え方も出来る」となると、
それだけの多くの経験を重ねる事が必要となり、
その為には、多くの時間や労力を費やして、学習や情報収集を努力する形となります。
そして、対象となる事が好きであるほど、努力を苦痛と感じる程度は落ちていきますが、
どんな創作活動であれ、レベルが上がるほど、それを生み出す苦悩は比例して増していく為、
凄ければ凄い人であるほど、そうそう簡単に成果を得ている訳では無いはずですよ。
「幸せ」という観点から言えば、その絶対量は、上のレベルに行くほど高いかも知れませんけど、
苦痛や苦悩も含めた「相対量の幸せ」で測ると、平均より少し上と言う「中の上」レベルが一番かも?

「上の下」まで行くと、上の世界を覗けるメリットがある反面、
上位グループ内における劣等感に苛まれるデメリットも生じかねませんし、
上に行けば行くほど 幸せか?となると、必ずしも そうとは言い切れないと・・・・
ちょっと話は違いますが、年収と幸福度の関係性を見ても、
億万長者であるからと言って、幸せであるとは限らず、
結局は年収1000万円くらいが、最も幸せな人たちが多いみたいな感じに似ているかも?
そう思うと、例えばオタ活動で言えば、下手に同人誌を創作する側に回らず、
コミケで心置きなく蒐集に勤しめるレベルくらいが、最も幸せを感じられるかも知れませんね(笑)。
もちろん、創作活動でしか得られないコアな充実感もあるでしょうし、
無料で多少のアニメやゲームを嗜むライトさでも、それなりの満足感は得られるでしょうけども。

> ちなみに、管理人さんのイメージしている「努力(費やした時間や労力)の差」による
> 「アニメを楽しめるかどうか」って具体的にどういったイメージですか?

う〜ん、例えば、同じ作品の視聴を何周もする事により、
初見時には気付かなかった描写や設定など、作品の細部に知れる事もあるでしょうし、
同じ作家の作品や、同じ分野の作品を、網羅的に視聴する事によって、
その作家や分野に関して、体系的な見方が出来るようになる事もあるでしょうね。

でもまあ、それらの行為って、余程好きでも無ければ単なる苦行でしょうし、
コアなオタクであっても、常に楽しんでいるとは限らず、
時には、使命感や義務感で行う事もあるかと思います。
ですが、それを乗り越えた先には、満足感や知見を得られる事が想像できる為、頑張れると。

ある意味では、受験勉強とも、通ずる部分はあるでしょうね。
偏差値が30や40の段階であれば、少し努力するだけで、10くらいは簡単に上がるでしょうけど、
偏差値も60を超えると、かなり努力しても、1や2くらい上げるのに苦労するようになり、
それでも、更に頑張る事によって、トップの大学を狙う事が可能となりますし、
逆に言うと、そこそこの努力で、それなりに名の通った大学に受かる方が、コスパは良いかも知れません。

これはもう結局、個々人の理想や価値観の話かと思いますけど、
私の考えで言うと、オタク的に楽しめる層って、受験で言えばエリート層に相当するので(笑)、
知識の量が多く、感性が豊かなほど、同じ名画や歴史名所などを見ても、より深く楽しめるのと同様、
アニメの視聴に関しても、事前学習による知識と感性が高ければ、それだけ楽しみの幅が増えるのでは?
それこそ、前出の「カノッサの屈辱」にしても、歴史風味のパロディー番組として、
世界史の知識があった方が、それが無いよりも、確実に1つ上のレベルで楽しめるはずですし、
「このシーンは、あの作品のオマージュだな」とか読み解れば、アニメの視聴も同じ感じになるはずで、
腐女子的な「豊かな妄想力」とかも、こうした「深読み」や「邪推」から派生するモノな気がします(笑)。


[24031] Re:テレビ報道と政治・階級差と個人主義・発想力と学習量返信 削除
2022/9/25 (日) 04:40:41 旧トルコ担当

> > > でも、ラストのネタバレまで含む「ファスト映画」の隆盛ぶりを見る限り、
> > > アニメや映画にしても、早送りやスキップでの視聴も、かなり増えている気はしますよ。
> > > まあ私も、ニュースみたいに情報収集がメインな視聴なら、普通に早送りもしますし、
> > > だからこそ、逆に言えば、彼らにとってはアニメや映画も、そうした情報収集の一環なのかな?と。

> > ファスト化は情報収集の一環ではないですね。
> > ファスト化とか、タイパ意識っていうのは、俯瞰するとそういった言葉になるのですが、
> > それらの行為を個人の感覚としては「待てない」というだけだと思うんですよね。
> > この映画が、いつ面白くなるのか。面白いシーンまで待てないし、つまらないシーンは飛ばすし、
> > 2時間の映画を飛ばし飛ばしで見てしまったとしても、サブスクなので他に映画はいくらでもあるというだけだと思います。


> それって既に、サブスクの弊害にハマってる人の見方なのでは!?(笑)
> 本来なら、定額で多くの作品を見られるというメリットが、
> 多くの作品を見ないと損した気分になったり、損しないよう作品視聴をこなす事が目的化すると、
> それはもう、作品数が多いというメリットが、デメリットに転じてしまってる気がするんです。


サブスクの弊害というよりは、YouTubeやInstagramなど、それら含めたインターネットの影響では?
YouTubeにはほぼ無限の動画が存在しますし、サブスクよりもYouTubeの方が影響は明らかに大きいでしょうからね。
最近Instagramを初めて使ってみたのですが、あのアプリの時間感覚には驚かされました。
YouTubeもショート動画に力を入れてるみたいですし。

> いや、でも別に、楽しみ方というのは、人それぞれに様々ありますし、
> 量をこなす事で得られる満足感というのも、決して解らなくは無いんですよ。
> 私だってルーチン・ワークをこなす際には、そうした部分に楽しみ方を見出したりしますので。
> また、レスポンスの速い今の時代、2時間も受け身で見続けるのは、集中力が切れたり、苦痛な人も居るはずで、
> 映画館ならまだしも、自宅のモニターでリモコン操作が可能なら、ついつい飛ばすのが人情かも知れず、
> 倍速視聴で面白さが半分に落ちても、2時間見て結局ツマらなかった時よりは、マシという感覚であれば、
> 尚の事、倍速やスキップでの視聴の方が楽と意見があっても、そこまで驚きはありません。
> ですけど、少なくとも私自身が映画やアニメを視聴するのは、そうした目的の為では無いですからねえ。
> (これに関しては、アニメや映画は倍速視聴しない旧トルコ担当さんも、恐らく同様なのでは?)


スキップ視聴するくらいなら、見ない方がマシというのは同意見ですね。

> > > 例えば、テレビ番組がテロップだらけになったのも、そうしたニーズがあったからですし、
> > > 報道内容の低レベル化も、安易に「マスゴミ」と批判するレベルの人に合わせた結果です(苦笑)。

> > 最近、カノッサの屈辱(テレビ番組)のテレビの歴史をYouTubeで見て、初めてニュースのワイドショー化という話を知りました。

> カノッサの屈辱かぁ・・・懐かしいですね(笑)。
> バブル当時のテレビ局って、本当に制作費が有り余っていて、
> 「JOCX-TV2」という、当時のフジテレビの深夜枠では、
> いろいろと実験的・挑戦的な番組が作られていて、本当に面白かったですよ。
> このサイトでオンライン対戦化した「征服王」↓も、そうした番組の1つでしたし、
> http://kakolog01.g1.xrea.com/conqueror/ichiran.html
> 麻雀アニメ「スーパーヅガン('92)」は、深夜アニメの走りみたいな所がありました。
>
> ・・・って、話が脱線してしまったので、元に戻しますと(笑)、
> 「ニュース番組のワイドショー化」との事ですが、
> 恐らく、旧トルコ担当さんが抱いているイメージも、ちょっと違うかなぁ?って感じですね。
> カノッサの屈辱の放送当時('90)の事を考えると、たぶん番組内で触れられていたのは、
> 「久米宏とニュースステーションの登場('85)」に関してだと思うのですが、
> 確かにニュースステーションが、夜のニュース番組に革命をもたらしたのは事実です。
>
> それまでは、それこそ中年サラリーマンが視聴する、お堅いNHKニュースしか無かった所に、
> 今風に言えば「池上解説」みたいな感じで、フリップや模型やCGなどを用いて、
> 若者層や女性層にも「解りやすいニュース番組」を作ったのは、本当に画期的な事でした。
> その一方で、久米宏が個人的な意見を述べたり、BGMやテロップを用いた演出を行うなど、
> そうした部分が「ワイドショー的だ!」として批判されたのも、また事実です。
> とは言え、現在の「ワイドショー的なニュース」とは、かなり次元が異なっていたかと?
> それこそ、お堅いNHKニュースしか比較対称が無かった時代の事ですし、
> 後継番組である「報道ステーション」なんて、今や民放ニュースの代名詞的な存在ですからね。
>
> ちなみに、その当時のワイドショーというのは、
> それこそ週刊誌をテレビ番組化したような、芸能ゴシップだらけ放送内容であり、
> 暇を持て余す主婦層や高齢層に向け、今の感覚だと目を背けたくなるようなゲスい事を報じてました(笑)。
> 例えば、「宮崎勤事件('89)」なんかも、まさしく当時は格好のターゲットだった訳ですね。
> でも一方で、平成(90年代)に入った辺りから、統一教会やオウム真理教の騒動など、
> 芸能ゴシップだけでなく、社会問題に触れるケースも、徐々に増えていった感じかな?
> と言いますか、新興宗教の広告塔として、芸能人とかが巻き込まれていくので、
> (統一教会の騒動で言えば、桜田淳子と山崎浩子などの合同結婚式への参加など)
> その辺が上手くリンクしていった側面もあったかも知れません。
> また、「芸能人でもプライバシーは尊重すべき」という意識の高まりや、
> バッシングを避けようと、芸能人自体の火遊びも大人しくなっていった事で、
> バッシングの対象が、事件・不祥事・失態などを犯した個人に対する、
> メディア・リンチに移っていった時代でもあったかも。
>
> その後、2000年前後くらいから、ワイドショーでの芸能ゴシップの報道割合が減り、
> オウム報道での失態により、TBSがワイドショーから撤退した事も相俟って、
> 社会問題から芸能情報まで幅広い題材を扱う「情報番組」へと、ワイドショーはその姿を変えていき、
> テレビ局の予算削減に伴う、生放送番組の増加により、情報番組の放送枠は拡大の一途を辿りました。
> 解りやすく言えば、ここ十数年くらいの間に、
> ニュース番組とワイドショーの中間に位置する「情報番組」が急速に増えた事で、
> 報道番組と情報番組の違いを意識しないと、「ニュースのワイドショー化」した印象を受けたかと?
> 物凄く解りやすい言い方をすれば、「ワイドショーもニュースを扱う」ようになった為、
> そうした番組では、当然ながら「ニュースがワイドショー化」する訳であり、
> 特に政治(政局)ニュースに関して言うと、その端緒となったのは、「2001年の自民党総裁選」でした。
>
> それこそ、それまでの総裁選というのは、従来のニュース番組しか扱いませんでしたし、
> 立候補した政治家たちも、当たり前のようにニュース番組にしか出ませんでした。
> 言ってしまうと、いくらニュースステーションが間口を広げたとは言っても、
> やはり政治ニュースに関心を持つのは、未だに中年サラリーマン層が主であり、
> そして、当時の政治力学では「橋本龍太郎の返り咲き」が既定路線と見られてたんです。
> しかし、今までは自民党内の変わり者に過ぎ無かった小泉純一郎が、
> 国民(特に主婦層や高齢層)に人気の高かった田中真紀子とタッグを組み、
> 街頭演説やテレビ出演を繰り返して、総裁選の投票権のない一般市民の支持を集めていき、
> 「小泉を総理に!」という世論を、急速に盛り上げていったんですよ。
> そこからですよね、ワイドショーも政治ニュースを扱い、政治家もワイドショーに出るようになったのは。
> 小泉&真紀子コンビは、それこそワイドショー視聴者層にぴったりハマりましたし、
> 彼らだって選挙で同じく1票を持ってますが、それまでは未開拓な票田だったとも言えます。
>
> そういう意味では、政治家の側だって「ニュースのワイドショー化」を促した訳で、
> そして何より、ワイドショー視聴者がニュースを見るようになったからこそ、
> 「ニュースがワイドショー化した」とも言えるんですよね。
> 基本的にテレビ番組というのは、視聴者のニーズに応えるべく、放送内容が変わるのですから。
> しかも現在は、バラエティー番組までもが、政治ニュースを扱うようになり、
> ニュースに触れる機会が増えたという点では、昔より増えた状況ですけど、
> ニュースを扱う番組の質に関して言うと、昔より落ちたのは紛れもない事実でしょうね。
>
> これはどんな分野でもそうですが、一部のコア層しか関心を持たなかったモノが、
> ライト層にまでニーズを広げていくと、影響力は強まる反面、どうしたって質は落ちていくんです。
> つまり、安易に「マスゴミ!」と叫ぶ視聴者こそが、ニュースの質を落としてる張本人であると(苦笑)。
> また、ニュース番組は「権力の監視者」意識が強い事もあり、
> どんな大物政治家が出演しても、相手の嫌がる厳しい質問をブツけたりしますが、
> テレビ局内でのヒエラルキーが低い、ワイドショーやバラエティー番組だと、
> 大物政治家が出てくれるだけで、かなりの持ち上げようになりますし、
> 政治家本人は勿論、その支持者たちも、ニュース番組に出るより気持ち良い空間でしょうね。
> 逆に言えば、だからこそ、「それに比べて、ニュース番組はけしからん!」となりがちな気がします。
>
> > 私が生まれたころには既にああだったので、昔からそんなものだと思っていましたが、
> > 昔はもっとテレビも真面目だったんですね。

> もう少し正確に言うと、「住み分けられてた」って感じですかね?
> 新聞で言えば、一般紙(高級紙)と夕刊紙(大衆紙)の読者が、住み分けられてたように、
> ニュース番組は、今よりも お堅かった反面、
> バラエティー番組やワイドショー番組は、今より遥かに下品だったので(笑)。
> そういう意味では、現在のテレビ番組って、
> バラエティー番組やワイドショー番組は上品になった一方で、当然ツマらなくなり、
> ニュースの扱いに関しては、報道番組はまだしも、情報番組は行き過ぎた部分が目に付くと。
>
> 時代的に言うと、2000年を過ぎた辺りから、徐々にそうした傾向が強まっていき、
> 今から10年ほど前、大震災が落ち着いてきた辺りから、完全にそうなった感じかな?
> なので、今のようになったのは、精々「ここ10年くらい」の話ですね。
> そして、それは丁度、安倍政権の返り咲きとピタリと合うのですが、
> これは別に、安倍政権が世間をそうした風潮にしたというよりは、
> 世間の風潮がそうなったから、安倍政権が長続きした面の方が強いかも知れません。
> (もちろん、両者が相乗効果となって、そうした傾向を促進させた部分も否めませんけど)


ああ、そんな感じだったんですね。
そういえば、昔岡田斗司夫が
「報道番組と言っても、テレビ局内部では真剣な報道番組と、視聴率追いかけ番組に分かれていて、
視聴率対策ではなく、本当に重要だと思うことを伝えなければいけない、みたいなスタッフの意識も、その番組がどっちなのかにより全然違う」
みたいなことを言っていたのを思い出しました。

> > > それと、「自信がない」と言うよりは、「諦め」の感情という方が、より適当な気がするんです。
> > > 厳密に言えば、「自信がない」と「諦め」はイコールでは無いのですが、
> > > チャレンジのコスパが悪い今の時代にあっては、実質イコールとなっているでしょうし、
> > > 目に見える格差じゃないからこそ、諦めてる自覚すら乏しいように思えるんですよ。
> > > 簡単に言えば、始めから「そういうモノだ」と受け入れていて、それ自体を疑わないと言うか・・・・

> > ああ、諦めというのはありそうですね。
> > それこそ、低い位置であっても"まあまあ"な娯楽がある分、努力してまで手に入れたいとか、思わなくなりがちですし。

> あと言うと、「努力して得られるモノ」の質というのが、明らかに下がった部分もあります。
> 言うなれば、最低点は上がったけど、最高点は下がったとでも言えば良いのか、
> そうした両面を含めての「挑戦や努力のコスパが悪い時代」って意味ですね。
>
> 例えば、解りやすい例でゲームの話をすると、
> 一昔前に比べれば、無料で遊べるゲームの質って、物凄く上がったと思うんですよ。
> ですが一方で、実際に6000円とか8000円とかカネを払って買うゲームの質は、
> 遊んでて味わえるワクワク感などは、昔の方が遥かに大きかった気がするんです。
> (グラフィック面などは格段に向上していますけど、そこが楽しさの本質では無いので)
> そうなれば、「無料ゲームで充分」となる気持ちも理解できますが、
> かと言って、昔の若者ほどゲーム自体を楽しめて(興奮・熱狂できて)いるか?となると・・・・


本当に好きなら金を出してるはず、というのは分かりますね。
無料だから遊ぶゲームは、所詮その程度しか好きでないと。
ソシャゲの課金というのは、ある意味ガチ勢からライト層までを抱合する上手い仕組みだなとは思います。

> > > では、団塊Jr.世代が適齢期を迎えた2000年頃、
> > > 「第3次ベビーブーム」が起こらなかったのは、何故なのでしょう?
> > > https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2021/r03webhonpen/img/zh1-1-03.gif
> > > 出生率や婚姻率が同程度に推移しても、絶対的な人口数は多いのですから、
> > > 出生数における、それなりの山は出来て然るべきなのに、それが全く現れていないんです。
> > > その理由を、旧トルコ担当さん的には、どのように お考えですか?

> > 私の意見も特別なものではなく、ごく普通の「その時代の若者が結婚や育児などを面倒に感じ始めた」という辺りだと思っています。
> > 消えた第3次ベビーブームから既に約30年ですし、「なぜかられ彼女らが結婚を選択しなかったのか?」はインタビューなどできる内容ですので、
> > 世間や学問の世界であまりに的外れな論が展開されていれば、当事者たちからそれは違うだろとなるはずであり、
> > よって今の世間一般の主流の考えが正解だと思っています。

> ですから、バブル崩壊に伴う平成不況により生じた「就職氷河期」が、団塊ジュニア世代を直撃し、
> 安定した職を得らず、結婚や出産に踏み切れなかった人たちを大量に生み出した事こそが、
> その「世間一般の主流の考え」であり、それを「正解」だと旧トルコ担当さんが思われるのなら、
> 旧トルコ担当さんの「必ずしも経済は主要因ではない」という意見とは、明らかに矛盾してませんか!?


あっそうなんですか?
ちょっとネットで調べてみたところ、「若者の恋愛離れ」という言説がいつ始まったのかは確認できませんでしたが、(やはりネットにはロクな情報が載ってない)
「草食男子」はどうも06年〜09年ごろに流行した言葉らしく、
確かに団塊ジュニア世代とはズレてますね。(06年で団塊世代は30代半ばごろ、30代半ばは若者とはあまり呼びませんし)

私は現在大学生なので、どうしても自身が物心つく以前のことは時代感覚が曖昧で、1990年代〜2010年くらいまでを全部同じ感じで認識している節がありますし、
テレビ番組などでも、"現在"の出生率低下についての話題になると、若者の恋愛離れの話が出てくるので、
てっきり世間の認識でも、第2次ベビーブーム世代=若者の恋愛離れなのだと思っていました。

> また、「その時代の若者が結婚や育児などを面倒に感じ始めた」との見解も、
> 団塊ジュニア世代は絶対的に人数が多いのですから、
> 結婚や出産が、なだらかに減少し続けただけであれば、低くなっても山は生じるはずで、
> 現実的に そうでない以上、団塊ジュニア世代の時だけ出産率が下がった理由を示す必要があります。
> と言いますか、団塊ジュニア世代が出産適齢期を迎えた頃に、
> 特殊出産率が底を打ち、そこからジワジワ回復傾向にあるのは、数値を見ても明らかな訳で、
> その点に関する説明というか、認識が、完全に欠けていたのでは?


私の知っている限られた情報から判断すれば、やはり「団塊ジュニア世代の恋愛に対する理想の高さ」という要因はあると思うんですよね。
簡単に言えば、バブルを知っているかどうか?ということです。
例えば少女小説の歴史でいえば、80年代後半は少女小説の大ブーム期であり、
ティーンズハート文庫が中心となって、読みやすい文体(国語の先生からすれば眉唾な文体で)多くの読者を獲得し、
それまでクラスのおとなしい子が読んでいる、みたいなイメージであった少女小説が、クラスのメインカルチャーになって、女の子同士のコミュニケーションの道具になった時代です。
で、そうした少女小説が題材にしていたのは、ほぼ異性恋愛でした。
それがバブル崩壊に遭い、期待していたものが裏切られれば、そりゃあ世の中を恨むし、結婚だって妥協できないだろうなあと。
なんせ一番多感な中高生時代にバブルのあの雰囲気を見せられてしまったわけですから。
その辺は、諦めることに慣れてしまった私の世代と、ジェネレーションギャップを非常に感じますし、
私の世代の方がもっと悪化した日本を押し付けられて損をさせられてるのかもしれませんが、やはり団塊ジュニア世代ほど世の中を恨む気持ちというのは少ないと思うんですよね。
(ちなみに少女小説は90年代に入ると、BLが一部入ってきます。団塊ジュニア世代よりも、中高生のころからBLを読んでる90年代女子中高生の方が、大人になった時には妥協結婚をしやすそう)

> > > > それは本音と建前の使い分けというより、単純に共感性が強く、敗者のいない横並び一線を求めてることだと思います。
> > > > もちろん仲間外れになるのも嫌だけど、仲間外れも作りたくないというか、敗者がかわいそうだから、
> > > > というのが平等が50%の要因ではないでしょうか?

> > > ぶっちゃけた話、「本音と建前」すら無自覚なのが、今の世代の特徴なのでは?
> > > 「敗者が可哀想」というのも、当人さえ本気でそう思い込んでるだけで、
> > > 「可哀想な敗者を見るのが辛い」という、自分視点からの意見と感じるんです、実際には。

> > 「可哀想な敗者を見るのが辛い」だけ、というのはまさしくそうだと思います。
> > 私としては、割とそういう感覚が当たり前だと思っていたのですが、割と最近の個人主義的な感覚なんですかね。

> う〜ん、私としては、そう感じてますね。
> ここ10年20年で、良くも悪くも、日本のムラ社会的な価値観は薄れてきましたが、
> (ムラ社会は戦前まで続き、戦後は会社がムラの代替として機能するも、バブル崩壊に伴い瓦解)
> 「自助・互助・共助・公助」とある中で、互助を担ってきた「ムラ」構造が消滅した事で、
> 「自助」の占める割合が、物凄く高くなった実感はありますね。
>
> 今の日本社会には、キリスト教やイスラム教の社会が担う「共助」の部分が欠けていますし、
> (と言うか、明治維新により、多少なりとも寺社が担っていた部分が失われた側面も)
> 北欧諸国のように、高福祉&高負担な「公助」の国でも無いですから、その部分も弱い。
> だから結局、自助への負担が大きくなり、それでは支えきれない為に、
> 「集団主義の希薄化」に伴う、「個人主義の弊害」として映るのだと思います。
> 要するに、昨今の日本では個人主義が強まったというのは、一面では事実なのですが、
> それ以上に大きいのは、集団主義が薄まった事で、個人主義の割合が相対的に高まった方が大きいかな?
> でもまあ、相対的にせよ、絶対的にせよ、「個人主義的になった」のは事実でしょうね。
>
> で、「日本は集団主義、欧米は個人主義」だと言うと、
> 昨今では、「それはステレオ・タイプなイメージ過ぎる」と言われますが、
> でも結局、大前提として集団主義があるからこそ、その中においての個人主義的な心理が働き、
> 大前提として個人主義があるからこそ、その中においての集団主義的な心理が働くモノだと思うんです。
> そして、欧米や中東は個人主義が大前提だからこそ、その安全装置としての「教会」の機能であったり、
> 個人主義でも社会として機能させる為の「教義」があり、なので「宗教は絶対的な存在」なのですが、
> 日本の場合、集団主義な「ムラ社会」が、教会や教義の面を担っていたからこそ、
> いわゆる「無宗教」でも上手く回ってきたと。
> (逆説的に言えば、だから海外で「自分は無宗教だ」と言うと、危険視される訳です)
>
> もっと言うと、伝統的な「互助」のシステムというのは、別に日本だけに限らず、
> それぞれ形式は異なっても、東アジアでは結構普通に見られた社会構造なんですよね。
> 例えば中国なども、幇や朋といった横の繋がりが、安全装置として機能していた訳ですが、
> 近代化の波により、西洋的な価値観が広がる事で、従来の互助的な仕組みが壊れる一方、
> 西洋社会のように宗教による共助の仕組みが無く、共産主義による公助も失われつつある。
> その為、現在の中国では、世界的な新自由主義経済の潮流とも相俟って、
> 「個人主義の台頭」が非常に悪目立ちしている訳ですが、
> これも別に、中国人の中で急速に、個人主義的な意識が高まったと言うよりは、
> それ以外の部分が急速に薄まった事で、消去法的に残された個人主義が、目立つだけな気がするんです。
>
> そう考えると、日本も含め、今後の東アジア社会というのは、何かと苦労するかも知れません。
> ムラ社会の互助であれ、教会による共助であれ、掟や教義などによって、
> 理屈や感情ではなく、当然の感覚として「手を差し伸べる」という自動ルーチンが失われると、
> 強い思想・信念から「手を差し伸べるべき」とでも、ならない限りは、
> 「可哀想」と思った時に、「だから助ける」と「だから遠ざける」の差が薄くなりがちなんですよね。
> もちろん、助けないよりは助けた方が、当人的にも満足感が違うのですが、
> その為に要するコストまで考えた場合、結局、自分が心理的に楽になりたいだけなら、
> 大きなコストを掛けてませ助けるなら、小さなコストで遠ざける方が、メリットになる場合も多いので。
> 逆に言うと、掟や教義という「縛り」が存在する場合、助けない事によるデメリットが生じるようになると。


本当かどうか知りませんけど、欧米には存在する寄付の文化が日本には存在しないという話は聞きますし、
欧米の方がもともと個人主義的であり、かつ先に近代化しムラ社会が無くなった分、そうした状況へ対応するための社会的基盤がより分厚いというのはありそうですね。

> ちなみに、「自己責任論」に関しても少し述べておくと、その端緒となったのは、
> 郵政選挙に先立つ事 1年前、イラクで日本人3人が人質として誘拐された事件の発生でした。
> この一件が、小泉政権の強行した「イラクへの自衛隊派遣」にまで飛び火する事を恐れた為、
> 「イラクへ渡航した彼らが悪い(=政府に責任はない)」とする「自己責任論」を展開し、
> メディア世論に批判的だったネット世論を巻き込む形で、自己責任論が拡大していったんですよね。
> しかも当時は、小泉政権による「小さな政府&企業の規制緩和」の政策方針から、
> 民間でも、「コンプラ重視」という名の「責任回避(下への責任押し付け)」が始まった頃ですし、
> まあ正直な所、危険なイラクまで出向きボランティア活動をするのは、意識の高い左系な人たちであり、
> 被害者家族の政府批判も相俟って、右傾化しつつあったネット世論は、政府擁護&人質非難の論調でした。
> と言いますか、自民党のIPアドレスから、政府擁護&人質非難の書き込みが、大量投稿されてた記憶が・・・・
> ネット活動(工作?)という点では先進的だった一方、まだまだ稚拙でもあった時代です(苦笑)。


ああ、自己責任論はそんな感じだったんですね。

> > > > 例えば同じアニメを見ても、私が面白かったな、で終わるだけのところを、
> > > > 「こうこうこうで、めちゃ面白かった」とか感想言っている人を見ると、アニメを楽しめる感性と言いますか、
> > > > 何かに熱中してハマって楽しめる才能の差みたいなものを如実に感じさせられます。
> > > > そういう意味で、腐女子の人たちは毎日が楽しそうで羨ましいですし、私にももっとアニメを楽しむ才能があれば、
> > > > 人生もっとナノしいのになあ、と思うんですよね。

> > > いや〜、それは「才能の差」と言うよりも、「経験の差」と言いますか、
> > > より噛み砕いて言うと、「努力(費やした時間や労力)の差」だと思うんですよねえ・・・・
> > > デジタル・ネイティブな世代というのは、どうも手軽に答えを得たがると言うか、
> > > 探せば何処かに正解があり、それが見つかれば簡単に自分も出来るようになると、考えがちな感じがして、
> > > 前回、近年の若者層の特徴の1つに「マニュアル依存」を挙げたのも、
> > > 一昔前までのマニュアル依存とは また違って、コピペで それっぽく取り繕うのに慣れているというか、
> > > 能力を得る為に払うコスト(努力)を、軽視するというか、避けようとする傾向がある気がするんです。
> > > その結果、オタクには憧れるけど、努力するのは嫌なので、「推し」という結論に至ったのでは無いかと?
> > > (この事は確か、同著内でも指摘されてましたよね)

> > これに関しては、私は完全に否定的ですね。
> > 確かに、マニュアル依存というか、手っ取り早く、自分の頭で考えず、みたいな層が増えているというのも分かりますが、
> > 例えば腐女子の人たちが日々得ている、推しカプのキスを見て脳内麻薬がドバドバ出るのって、快楽としてはかなり上位に位置すると思いますし、
> > それは手っ取り早く快楽を得られるから選ばれているだけではないと思うんですよね。
> > おそらく「推し」というのも、同様なのではないでしょうか?
> > 私自身も、アニメのキャラで勝手に百合妄想とかしていると、その時の感覚は本当に人生で圧倒的に一番幸せを感じますし、
> > 毎日のようにそういった感覚が続く腐女子の人たちは、本当に人生の質が違うんだろうな、と思います。

> いや、ですから、そうした妄想力が豊かな腐女子の人たちというのも、
> 天賦の才なんて形で、何も努力せず、最初から豊かな妄想力を得ている訳では無く、
> 莫大な情熱を傾け、相応の時間なり労力を費やしたからこそ、それだけの妄想力を得ているのでは?
> 何事でも そうだと思いますけど、手っ取り早く、インスタントに、才能なんて開花しませんよ!!
>
> 最近、私は脳科学にハマっているので、少し専門的な話をすると(笑)、
> 「豊かな発想」をしようとする場合、まず必要となるのは、その材料となる豊富な情報量です。
> まともに材料が揃わなければ、大したモノは構築出来ませんし、細部も描けませんからねえ。
> そして、大量に得た情報は、それぞれを頭の中でグループ分けして、特徴に合わせて整理し、
> 何と何とが上手く繋がるかといった「学習(神経回路を強化・整理するヘブ則)」を重ねなければ、
> 新しい連想などは生まれず、つまりは「豊かな発想」も生じません。
> つまりは、「情報収集」と「学習」が何よりも必要ですから、弛まぬ努力は欠かせません!!
>
> また、最初から「人とは違うモノが見える」事を、「豊かな発想力」と表現するのであれば、
> 一見すると、それは「天才」と思えるかも知れませんし、そうした捉え方も可能ではあるでしょう。
> ですが、先天的に「人とは違うモノが見える」と言うのは、
> 「多くの人が普通に見えてるモノが見えない」事と同義である為、
> 言い方を換えると、良く言えば「個性」ですけど、悪く言えば「病気」や「障害」となります。
> 正直な所、著名な芸術家の中には、こうしたタイプの人物も確かに居るのですが、
> そうした人って、プライベートな面で多くのトラブルを起こし、その当人も苦労していたりするので、
> 恐らくは、旧トルコ担当さんが求めているモノとは、違いますよねえ?
>
> そうなると結局は、「普通の見え方も出来て、異なる見え方も出来る」となると、
> それだけの多くの経験を重ねる事が必要となり、
> その為には、多くの時間や労力を費やして、学習や情報収集を努力する形となります。
> そして、対象となる事が好きであるほど、努力を苦痛と感じる程度は落ちていきますが、
> どんな創作活動であれ、レベルが上がるほど、それを生み出す苦悩は比例して増していく為、
> 凄ければ凄い人であるほど、そうそう簡単に成果を得ている訳では無いはずですよ。
> 「幸せ」という観点から言えば、その絶対量は、上のレベルに行くほど高いかも知れませんけど、
> 苦痛や苦悩も含めた「相対量の幸せ」で測ると、平均より少し上と言う「中の上」レベルが一番かも?
>
> 「上の下」まで行くと、上の世界を覗けるメリットがある反面、
> 上位グループ内における劣等感に苛まれるデメリットも生じかねませんし、
> 上に行けば行くほど 幸せか?となると、必ずしも そうとは言い切れないと・・・・
> ちょっと話は違いますが、年収と幸福度の関係性を見ても、
> 億万長者であるからと言って、幸せであるとは限らず、
> 結局は年収1000万円くらいが、最も幸せな人たちが多いみたいな感じに似ているかも?
> そう思うと、例えばオタ活動で言えば、下手に同人誌を創作する側に回らず、
> コミケで心置きなく蒐集に勤しめるレベルくらいが、最も幸せを感じられるかも知れませんね(笑)。
> もちろん、創作活動でしか得られないコアな充実感もあるでしょうし、
> 無料で多少のアニメやゲームを嗜むライトさでも、それなりの満足感は得られるでしょうけども。


(1)なるほど、腐女子の人たちも積み上げがあるのか
(2)いや、そうやって積み上げられるのも才能であり、腐女子の人たちも楽しいから積み上げを行ってきたわけで、積み上げができない時点で才能の差だよ
の両方とも思いましたね。

あとはまあ、題材というのは重要なのかなと。
それこそ、腐女子的な発想の原点はクラスメイトの男子だと思いますし、
キモイかもしれませんが、私もほんのちょっとだけBLが分かるようになってからは、クラスメイトの男子でカップリングもしてました。
そういう意味で、やはり学生というのはオタク妄想力を伸ばすという意味でも、特権的な環境だったなと。

> > ちなみに、管理人さんのイメージしている「努力(費やした時間や労力)の差」による
> > 「アニメを楽しめるかどうか」って具体的にどういったイメージですか?

> う〜ん、例えば、同じ作品の視聴を何周もする事により、
> 初見時には気付かなかった描写や設定など、作品の細部に知れる事もあるでしょうし、
> 同じ作家の作品や、同じ分野の作品を、網羅的に視聴する事によって、
> その作家や分野に関して、体系的な見方が出来るようになる事もあるでしょうね。
>
> でもまあ、それらの行為って、余程好きでも無ければ単なる苦行でしょうし、
> コアなオタクであっても、常に楽しんでいるとは限らず、
> 時には、使命感や義務感で行う事もあるかと思います。
> ですが、それを乗り越えた先には、満足感や知見を得られる事が想像できる為、頑張れると。
>
> ある意味では、受験勉強とも、通ずる部分はあるでしょうね。
> 偏差値が30や40の段階であれば、少し努力するだけで、10くらいは簡単に上がるでしょうけど、
> 偏差値も60を超えると、かなり努力しても、1や2くらい上げるのに苦労するようになり、
> それでも、更に頑張る事によって、トップの大学を狙う事が可能となりますし、
> 逆に言うと、そこそこの努力で、それなりに名の通った大学に受かる方が、コスパは良いかも知れません。
>
> これはもう結局、個々人の理想や価値観の話かと思いますけど、
> 私の考えで言うと、オタク的に楽しめる層って、受験で言えばエリート層に相当するので(笑)、
> 知識の量が多く、感性が豊かなほど、同じ名画や歴史名所などを見ても、より深く楽しめるのと同様、
> アニメの視聴に関しても、事前学習による知識と感性が高ければ、それだけ楽しみの幅が増えるのでは?
> それこそ、前出の「カノッサの屈辱」にしても、歴史風味のパロディー番組として、
> 世界史の知識があった方が、それが無いよりも、確実に1つ上のレベルで楽しめるはずですし、
> 「このシーンは、あの作品のオマージュだな」とか読み解れば、アニメの視聴も同じ感じになるはずで、
> 腐女子的な「豊かな妄想力」とかも、こうした「深読み」や「邪推」から派生するモノな気がします(笑)。


私も好きなマンガ・ラノベに関しては、登場人物の関係図+出来事の因果関係を描いた図を作ったりしており、やはりかなりいろいろ気づけて楽しいです。
ですので、そういうのは把握したうえでの、「腐女子だったらもっと人生楽しいのになあ」でした。
それこそ、SNSでつながっている現在、その人のツイート頻度にもよりますが、ある程度私生活は把握済みというか(さすがに大げさ)、
その人が好きなアニメに対してどんなこと考えて、裏でどんなことしてるかも、ある程度分かってしまうんですよね(本人が自分でツイートするので)。
そうした割と裏側まで見えてしまった上での、「腐女子だったら」なんですよね。

> でもまあ、自分から「楽しい」を作ってる側にしても、
> 苦しんだり、辛かったりするかは別として、相応の苦労や努力はしているはずで、
> その部分を感じ取らずに、安易に羨んだり、嫉妬したりするのは、ちょっと違うかな?という気も。
> それこそプロの野球選手やサッカー選手だって、好きな事でメシを食えてるのは憧れますけど、
> あれが、どれほど高いレベルで、どれほどの頑張りや競争の結晶であるかを解っているか否かで、
> その見方だって大きく異なってくるでしょうし、小学生のように安直な思考には戻れないかな。
> 「スポーツ推薦で名門大学に入るのはズルい」なんて意見も、
> スポーツでそのレベル目指すくらいなら、勉強で入る方が遥かに楽な事が解っていれば、
> そう簡単には、そんな考えにも至らないとは思うんですよね(苦笑)。
> 大学への貢献度で言っても、スポーツ選手を上回る一般学生なんて、ほぼ皆無でしょうし。


その人の人生の一部だけを垣間見て羨んでいるわけではなく、ある程度まで見えてしまうのが、インターネットの悲劇だと。
この人毎日楽しそうだな、の毎日は、SNSの場合、本当に"毎日"を見て、楽しそうだなと思っている場合もあると。
まあ実際は、毎日が楽しそうな人より、「こいついっつも後ろ向きなことばっかり考えてんな」とか「こいつ毎日韓国人の悪口言ってるな」という方が見えてしまいがちですがw


[24032] 団塊ジュニア世代とバブル崩壊返信 削除
2022/9/28 (水) 21:56:57 徳翁導誉

> > > ファスト化は情報収集の一環ではないですね。
> > > ファスト化とか、タイパ意識っていうのは、俯瞰するとそういった言葉になるのですが、
> > > それらの行為を個人の感覚としては「待てない」というだけだと思うんですよね。
> > > この映画が、いつ面白くなるのか。面白いシーンまで待てないし、つまらないシーンは飛ばすし、
> > > 2時間の映画を飛ばし飛ばしで見てしまったとしても、サブスクなので他に映画はいくらでもあるというだけだと思います。

> > それって既に、サブスクの弊害にハマってる人の見方なのでは!?(笑)
> > 本来なら、定額で多くの作品を見られるというメリットが、
> > 多くの作品を見ないと損した気分になったり、損しないよう作品視聴をこなす事が目的化すると、
> > それはもう、作品数が多いというメリットが、デメリットに転じてしまってる気がするんです。

> サブスクの弊害というよりは、YouTubeやInstagramなど、それら含めたインターネットの影響では?
> YouTubeにはほぼ無限の動画が存在しますし、サブスクよりもYouTubeの方が影響は明らかに大きいでしょうからね。
> 最近Instagramを初めて使ってみたのですが、あのアプリの時間感覚には驚かされました。
> YouTubeもショート動画に力を入れてるみたいですし。

う〜ん、YouTubeやインスタ、TikTokなどの「短時間な動画」の隆盛に関しては、
ファスト化と言うよりも、「ショート化」と言った方が適当かも?
「ファスト化」と言うのは、ファスト・フードやファスト・ファッションなどもそうですが、
「手軽で速い」というだけでなく、そこには「経済性(新自由主義的な価値観)」も含まれる為、
定額料金を支払うサブスクであったり、本来なら入場料を払うべき映画などは、そこに該当しても、
基本無料なネット投稿動画に関しては、単に動画の時間が「短い」ってだけの話だと思うので。

とは言え、ファスト化とか、ショートかと言った、用語の違いを抜きにするなら、
昨今の若者たちが、「2時間の映画作品は長い」と感じるのは、確かにそうでしょうし、
もっと言えば、大人だって、今の時短文化に浸っていると、同様に感じる人も珍しくないかと?
映画どころか音楽でさえ、イントロ部分を冗長的と感じて、
いきなりサビ部分を求める傾向が、年々強まっているのは実感しています。
まあ、それはそれで、無駄なく「美味しい所を食べたい」という気持ちは解るのですが、
一方で、フリや前振りに懸ける為、「美味しさの最大値」は下がる一方でもあるんですよね。
その落ちた最大値の分を、果たして量で補えるのか?となると・・・そこは個々の趣向次第なのかな。
少なくとも私は、10本の良作よりは、1本の傑作の方に、作品価値の重みを置いてる所はあります。

> > いや、でも別に、楽しみ方というのは、人それぞれに様々ありますし、
> > 量をこなす事で得られる満足感というのも、決して解らなくは無いんですよ。
> > 尚の事、倍速やスキップでの視聴の方が楽と意見があっても、そこまで驚きはありません。
> > ですけど、少なくとも私自身が映画やアニメを視聴するのは、そうした目的の為では無いですからねえ。
> > (これに関しては、アニメや映画は倍速視聴しない旧トルコ担当さんも、恐らく同様なのでは?)

> スキップ視聴するくらいなら、見ない方がマシというのは同意見ですね。

あとは、個々人の視聴スタイルの違いというのも、あるでしょうね。
例えば、何か気に入るアニメ作品と出会った後に、
それと似た感じの作品を、次々と見たいというタイプの方も居るじゃないですか?

似た作品同士だと、ストーリーや世界観などは「テンプレ化」や「記号化」しがちなので、
設定の違いや、気に入るシーンさえ押さえてさえしまえば、
あとは早送りという感覚も、まあ解らなくも無いんですよね・・・・
恐らく、そういう方のアニメ視聴って、「喜怒哀楽」で言う所の
「喜(ワクワク感)」では無く、「楽(やすらぎ)」の方を求めているのでしょうし。
とは言え、私自身が「楽」を味わいたい際には、ゆっくり時間を掛けたい方かな?

> > 解りやすく言えば、ここ十数年くらいの間に、
> > ニュース番組とワイドショーの中間に位置する「情報番組」が急速に増えた事で、
> > 報道番組と情報番組の違いを意識しないと、「ニュースのワイドショー化」した印象を受けたかと?
> > 物凄く解りやすい言い方をすれば、「ワイドショーもニュースを扱う」ようになった為、
> > そうした番組では、当然ながら「ニュースがワイドショー化」する訳であり、
> > > 私が生まれたころには既にああだったので、昔からそんなものだと思っていましたが、
> > > 昔はもっとテレビも真面目だったんですね。

> > もう少し正確に言うと、「住み分けられてた」って感じですかね?
> > 新聞で言えば、一般紙(高級紙)と夕刊紙(大衆紙)の読者が、住み分けられてたように、
> > ニュース番組は、今よりも お堅かった反面、
> > バラエティー番組やワイドショー番組は、今より遥かに下品だったので(笑)。
> > そういう意味では、現在のテレビ番組って、
> > バラエティー番組やワイドショー番組は上品になった一方で、当然ツマらなくなり、
> > ニュースの扱いに関しては、報道番組はまだしも、情報番組は行き過ぎた部分が目に付くと。

> ああ、そんな感じだったんですね。
> そういえば、昔岡田斗司夫が
> 「報道番組と言っても、テレビ局内部では真剣な報道番組と、視聴率追いかけ番組に分かれていて、
> 視聴率対策ではなく、本当に重要だと思うことを伝えなければいけない、みたいなスタッフの意識も、その番組がどっちなのかにより全然違う」
> みたいなことを言っていたのを思い出しました。

ここで言われている「真剣な報道番組」というのが、いわゆる「報道番組」の事で、
「視聴率追いかけ番組」の方が、ワイドショーから発展した「情報番組」の事なのでしょうね。
まあ一般的に、芸能人がコメンテイターを務めるのが、
情報番組(旧ワイドショー系)だという、解りやすい指標もありますけど、
近年では、日本テレビを中心に、ジャニーズを起用するニュース番組が現れているので、
そういう意味では、「ニュース番組のワイドショー化」も、確かに進んでいるのかな?
(ニュース番組に縁遠い、女性視聴者層を少しでも増やしたい意図なのは解りますが)

> > 例えば、解りやすい例でゲームの話をすると、
> > 一昔前に比べれば、無料で遊べるゲームの質って、物凄く上がったと思うんですよ。
> > ですが一方で、実際に6000円とか8000円とかカネを払って買うゲームの質は、
> > 遊んでて味わえるワクワク感などは、昔の方が遥かに大きかった気がするんです。
> > (グラフィック面などは格段に向上していますけど、そこが楽しさの本質では無いので)

> 本当に好きなら金を出してるはず、というのは分かりますね。
> 無料だから遊ぶゲームは、所詮その程度しか好きでないと。
> ソシャゲの課金というのは、ある意味ガチ勢からライト層までを抱合する上手い仕組みだなとは思います。

ただ課金というのは、ゲーム自体の面白さ(先払いなので実際は期待値)にカネを払う以上に、
射幸心や競争心、蒐集欲などを刺激されて、次から次にカネを投じてる側面の方が強いですからね。
とは言え、苦労して人気作の続編を作るよりも、
人気作を課金ゲー化する方が、ビジネス的には遥かに利益となる為、
余裕のない今の日本ゲーム業界の実状を思うと、そう無碍に批判ばかりも出来ませんし、
課金ゲーで上げた利益で、利益率の低い新作も出せるのであれば、出せないよりはマシかな?と。
「採算性や確実性よりも夢重視!」なんて冒険は、なかなか今では許されない状況でしょうから。

> > また、「その時代の若者が結婚や育児などを面倒に感じ始めた」との見解も、
> > 団塊ジュニア世代は絶対的に人数が多いのですから、
> > 結婚や出産が、なだらかに減少し続けただけであれば、低くなっても山は生じるはずで、
> > 現実的に そうでない以上、団塊ジュニア世代の時だけ出産率が下がった理由を示す必要があります。
> > と言いますか、団塊ジュニア世代が出産適齢期を迎えた頃に、
> > 特殊出産率が底を打ち、そこからジワジワ回復傾向にあるのは、数値を見ても明らかな訳で、
> > その点に関する説明というか、認識が、完全に欠けていたのでは?

> 私の知っている限られた情報から判断すれば、やはり「団塊ジュニア世代の恋愛に対する理想の高さ」という要因はあると思うんですよね。
> 簡単に言えば、バブルを知っているかどうか?ということです。
> 例えば少女小説の歴史でいえば、80年代後半は少女小説の大ブーム期であり、
> ティーンズハート文庫が中心となって、読みやすい文体(国語の先生からすれば眉唾な文体で)多くの読者を獲得し、
> それまでクラスのおとなしい子が読んでいる、みたいなイメージであった少女小説が、クラスのメインカルチャーになって、女の子同士のコミュニケーションの道具になった時代です。
> で、そうした少女小説が題材にしていたのは、ほぼ異性恋愛でした。

80〜90年代に、女性向けの「恋愛モノ」作品が大ブームとなったのは事実です。
まあそれは、解りやすく極端に言ってしまうと、
世の中の雰囲気が「男尊女卑」から「男女平等」へと移り変わっていく中で、
それまでは、男性視点で作られた作品(映画・音楽・テレビなど)が多かった所に、
女性を消費者ターゲットとした作品が、現れ始めたって事でもあるんですよね。
あの当時、オシャレで甘ったるい、少女マンガ的な恋愛劇を中心とした
数々の「トレンディー・ドラマ」がヒットしたのも、まさに時代の潮流を写す鏡でしたし、
逆に言うと、そうした若い女性向け作品に、嫌悪感を抱く男性層(特にオジサン)も多く居ました(笑)。

とは言え、だから「少女小説がメイン・カルチャー」だったかとなると、決して そうでは無いかと。
もちろん、それなりに売れてはいたでしょうし、その業界的には大きかったかも知れませんが、
バブル前後というのは、若者が多く、景気が良かったので、何でもかんでも馬鹿売れしてましたからねえ。
少女小説が「累計」で数千万部とかいう記録は、確かに今と比べると凄い数字だと思いますけど、
週刊少年ジャンプなんて、毎週600万部とか売れていましたし、
それこそ、月9を始めとした人気ドラマは、毎週 数千万人が観ていた時代なので、
クラス内の存在感なんて次元が違うというか、競うレベルでも無かったはずですよ!?

ハッキリ言うと、その時代を生きてなかったから仕方無いとは言え、
旧トルコ担当さんの場合、頼る情報源が偏っている印象を受ける上、
にも関わらず、断言・・・までは強くなくても、かなり決め付けてみていると言うか、
偏っている一部の情報源を、さも、それが「全て」であったかのように、誤解しがちな感じがします。
正直、「月9ドラマの存在を知らなかった」という時点で、相当にバランスを欠いていますし、
そうなるのは致し方ないにしても、せめて、もう少し謙虚と言うか、安易に「判断」しない方が適切かと?
ぶっちゃけ、「団塊ジュニア世代の恋愛に対する理想の高さ」という見解も、
「えっ!?何言ってるの? まるで解ってないのに、決め付け良くない!」って感じです(笑)。

ちなみに、「クラス内での存在感」という意味では、
恐らくは現在の「ラノベ」の方が、遥かに高いように思えますし、
その一方で、皆が皆、ラノベを読み、アニメを観てるか・・・となると、
市民権を得る程度には広がっていても、多数派と呼べる程では未だに無いのでは?
クラス内で、ラノベ好きやアニメ好きを見つけるのは、別に苦労しない時代かも知れませんけど、
だからと言って、クラスの大多数が、ラノベやアニメを楽しんでいるとも思えないので。
と言いますか、今は一昔前に比べると、「メイン」と呼べる存在が、現れ難くなっている気もしますし、
そういう意味では、メインの実体験が乏しいが故に、メインの存在感を想像し難い所はあるのかも?

> それがバブル崩壊に遭い、期待していたものが裏切られれば、そりゃあ世の中を恨むし、結婚だって妥協できないだろうなあと。
> なんせ一番多感な中高生時代にバブルのあの雰囲気を見せられてしまったわけですから。
> その辺は、諦めることに慣れてしまった私の世代と、ジェネレーションギャップを非常に感じますし、

とりあえず、旧トルコ担当さんは、
「アッシー君」「メッシー君」「ミツグ君」などの、当時の単語は御存知ですか?

クリスマス・イブの日には、まだ彼女は居なくても、
1年前から「赤プリ(赤坂プリンスホテル)」の部屋を予約して、
当日は、宿泊代・食事代・プレゼント代などで、15〜20万円の予算を投じるのが「相場」だとか、
そんなトチ狂った「バブル期の恋愛」の雰囲気を、カネも無い学生たちが、憧れて見てたとでも思ってません?
もちろん、中には憧れを抱く人たちだって居たでしょうけど、
結構な人たち(特に男性)は、絶望をもって見ていたような時代なんです・・・・
だからこそ、本命の彼氏にはなれないにしても、せめて女性に対して、
車で送り迎えしたり(アッシー)、ご飯を奢ったり(メッシー)、プレゼントを贈ったり(ミツグ)する事で、
疑似恋愛と言いますか、相手にとって都合の良い交友関係を結び、心を慰めていた時代です。
「理想が高いから、妥協が出来ない」世代という認識は、相当にズレていると思いますよ!!
もっと言うなら、想像力や思いやりが足りないとでも言えば良いのかな?(笑)

団塊ジュニア世代は、各世代においても格段に同世代の人数が多かった為、
受験競争は「地獄」と評される程に過酷を極め、そこから こぼれ落ちた層は荒れに荒れ、
苦労して大学生になっても、世の中の経済感覚がブッ壊れていて、恋愛すら出来ず、
ようやく自分たちも社会人になれると思ったら、今度は平成不況の煽りで就職氷河期を迎え、
新卒一括採用ルールの影響で、結婚も出来ず、子供も作れず、非正規で頑張ってた所に、
後からルールが変わるかのように、世間では「自己責任論」の嵐が吹き溢れて、負け犬扱いされ、
そして、リーマン・ショックや東日本大震災で、切り捨てられる中年となった世代なんですよ・・・・
もう少し言うと、こうしたシワ寄せを、後の世代に先送りするのではなく、
この世代に全て追わせて犠牲にする事で、後の世代は、多少なりともマシな扱いを得られた訳ですし、
(リーマン・ショック直撃世代や、コロナ直撃世代は、似たような感じになりましたが)
「自分たちの方が悲惨」みたいな捉え方は、正直、ちょっと違うのかな?というように感じました。

> 私の世代の方がもっと悪化した日本を押し付けられて損をさせられてるのかもしれませんが、
> やはり団塊ジュニア世代ほど世の中を恨む気持ちというのは少ないと思うんですよね。

日本全体が右肩下がりなので、若い人ほど割を食ってるイメージかも知れませんが、
「世代」という括りで見ると、そう単純な下降直線でも無いんですよ。
新卒一括採用の日本社会において、どの世代が割を食わされたか?は、
大学生の就職率の推移↓を見ると、そこそこ掴めるかと思います。
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/iwiz-yn/rpr/fuwaraizo/00183016/image02.gif
新卒一括採用と終身雇用が合わさると、就活時の景気次第で、
その世代の人たちの一生が左右される「運ゲー」社会なんですよね、実は日本のシステムって。

あと、団塊ジュニア世代を犠牲にした結果、
団塊世代の雇用は守られ、その後の世代の就職率も数字上は持ち直しましたが、
日本の人口減少のスピードは、明らかに増してしまいましたし、
彼らが高齢者になった時、物凄い負担となってしまうという、
将来における「大きな爆弾」を、作り上げてしまった面はあるんですよねえ・・・・
それを決めた政治家たちや、その恩恵を受けた団塊世代は、
もう この世に居ませんから、自分たちは無事に逃げ切れるとしても、
「今後の日本社会」の事を思うと、相当にヤバい置き土産を、先送りして残していった事になります。
この件に関しては、若い世代の人たちも、決して他人事では居られませんよ!!
団塊ジュニア世代は人数が多いという事は、それだけ票数も多いという事であり、
民主主義を続けていく限り、大票田となる彼らの存在を、今度は「切り捨てる」事など出来ませんから。

> > 今の日本社会には、キリスト教やイスラム教の社会が担う「共助」の部分が欠けていますし、
> > (と言うか、明治維新により、多少なりとも寺社が担っていた部分が失われた側面も)
> > 北欧諸国のように、高福祉&高負担な「公助」の国でも無いですから、その部分も弱い。
> > だから結局、自助への負担が大きくなり、それでは支えきれない為に、
> > 「集団主義の希薄化」に伴う、「個人主義の弊害」として映るのだと思います。

> 本当かどうか知りませんけど、欧米には存在する寄付の文化が日本には存在しないという話は聞きますし、
> 欧米の方がもともと個人主義的であり、かつ先に近代化しムラ社会が無くなった分、
> そうした状況へ対応するための社会的基盤がより分厚いというのはありそうですね。

そもそも聖書には「収入の1割を献納せよ(10分の1税)」と書かれてますし、
イスラム教における「喜捨(貧者への施し)」は、5つある義務の1つであり、
仏教にだって、「浄財(布教活動や庶民救済への寄付)」というモノがありますからねえ。
「宗教の教義とは、社会を安定させるモラルを説いている」のだと解せば、
宗教的な社会であるほど、寄付の文化が根付いている傾向は、確かにあるでしょうね。

逆に言うと、日本の現代社会というのは、明治維新と敗戦による2度の変革で、
社会生活における、そうした宗教の要素が、かなり抜け落ちた面は実際あるんですよ。
例えば、昨今の旧統一教会の話題に関しても、
世間一般的に、「非常に気持ちの悪い存在」として映っているのは、
彼らが行ってきた霊感商法の件だけでなく、宗教的なモノへの嫌悪感がある気はします。
戦後の日本社会における、「無宗教的な感覚」に伴う空気感とでも言いますか、
特に、戦前世代も多かった20世紀までと、ほぼ戦後世代となった21世紀とも、
「戦後の宗教観」という内容面では大差ないものの、その純度は明らかに増したかと。

> > > 私自身も、アニメのキャラで勝手に百合妄想とかしていると、その時の感覚は本当に人生で圧倒的に一番幸せを感じますし、
> > > 毎日のようにそういった感覚が続く腐女子の人たちは、本当に人生の質が違うんだろうな、と思います。

> > いや、ですから、そうした妄想力が豊かな腐女子の人たちというのも、
> > 天賦の才なんて形で、何も努力せず、最初から豊かな妄想力を得ている訳では無く、
> > 莫大な情熱を傾け、相応の時間なり労力を費やしたからこそ、それだけの妄想力を得ているのでは?
> > 何事でも そうだと思いますけど、手っ取り早く、インスタントに、才能なんて開花しませんよ!!

> (1)なるほど、腐女子の人たちも積み上げがあるのか
> (2)いや、そうやって積み上げられるのも才能であり、腐女子の人たちも楽しいから積み上げを行ってきたわけで、積み上げができない時点で才能の差だよ
> の両方とも思いましたね。

ぶっちゃけた話、産まれながらの「先天的な腐女子」って、どれくらい居るんでしょう?
基本的には、育っていく環境の中でジワジワと、「後天的に腐女子」になっていくのでは?(笑)

例えば、ピアノやバイオリンの演奏など、幼い頃から親などが習わせない限り、
大人になってから自発的に習おうと始めても、そうそう上手く弾けるものではありません。
では、こうした楽器の演奏が「才能」に拠るか?となると、
本当にトップ・レベルまで行けば、才能の差というモノは如実に存在するでしょうけど、
ある程度のレベルまでは、ほぼ「環境」で決まりますし、後はそれを如何に「努力」するかです。
楽しく練習を積んだにせよ、嫌々ながら練習を積んだにせよ(恐らく後者が多数派)、
今では、どんなに楽しそうに楽器を弾いていても、
そこまで楽器が弾けるまでには、相応の練習が必要な訳で、
他人が現状だけを見て、「才能だ」とか「楽しく積み上げた」と、簡単に言うのは違うかな?とも。

まあ、「自分では、どうしようも出来ないモノ」として、才能と環境は似ているかも知れませんが、
才能は先天的であり、環境は後天的である事を思えば、客観的に見た場合に、やはり別物でしょうし、
「努力できるのも才能」などという言葉も、「自分が出来る最大限の努力」を行った上で、
そうした事を言っている人って、私自身は見た事が無いんですよねえ・・・・
極限まで行けば、そうした部分もあるのでしょうが、
でも実際の所、「努力をしたくない為の言い訳」として用いられるのが、ほとんどな印象ですので。

それに、「空想力の豊かさ」なんていうのも、「空想が楽しかったから」という以前に、
様々な環境の要因により、「空想するしか無かった」りする事の方が多いので、
「積み上げられるのも才能」とか、「楽しいから積み上げてきた」などと、安易に考えるのも、
それはそれで、ちょっと違うのかな?という感じは、正直しますけどねえ・・・・
「空想の世界へ、ポジティブに飛び込んでるのか?」
「空想の世界へ、ネガティブに逃げ込んでいるのか?」
傍目には同じに見えても、当人の中では大きく違ったりしますし、
空想とリアルの境目が曖昧だった幼少期はまだしも、自我が確立した上で、
リアルが満たされた上で、空想力まで豊というのが、一体どれだけ可能なのかは???

これは「腐女子」の件にしても同じで、
確かに腐女子となった今は、そうした妄想を満喫しているかも知れませんけど、
そうなる以前の段階として、「腐女子となった過程」が必ず存在している訳であり、
そこまで含めて、本当に全てが「楽しい」モノだったんですかねえ?
その人の屈折度合いが増せば増すほど、腐女子としての腐りっぷりの魅力も高まる気がしますが、
「腐る」、つまりは、それだけ「屈折」するほどの何かが、そこにはあったはずで、
その世界ドップリ浸かり込むほどの何かもあったと考えると、
繰り返しになりますけど、才能だとか、楽しそうだとか、安易に言えなくなる気がするんですよ。

・・・って、そもそもの話、「羨ましい程の腐女子」のレベル設定が、
根本的に、私と旧トルコ担当さんとでは、大きく異なってる可能性もありますけどね(笑)。
私が羨望や嫉妬を抱くのは、世間的には「ヤバい」レベルの人たちですし、
どんな分野であれ、ガチ勢というのは、多かれ少なかれ「強迫観念」に突き動かされてる面がありますが、
ライトに楽しんでいる限りであれば、そうした「闇の側面」と無縁である事も充分ありますので。

> > > ちなみに、管理人さんのイメージしている「努力(費やした時間や労力)の差」による
> > > 「アニメを楽しめるかどうか」って具体的にどういったイメージですか?

> > う〜ん、例えば、同じ作品の視聴を何周もする事により、
> > 初見時には気付かなかった描写や設定など、作品の細部に知れる事もあるでしょうし、
> > 同じ作家の作品や、同じ分野の作品を、網羅的に視聴する事によって、
> > その作家や分野に関して、体系的な見方が出来るようになる事もあるでしょうね。
> > でもまあ、それらの行為って、余程好きでも無ければ単なる苦行でしょうし、
> > コアなオタクであっても、常に楽しんでいるとは限らず、
> > 時には、使命感や義務感で行う事もあるかと思います。
> > ですが、それを乗り越えた先には、満足感や知見を得られる事が想像できる為、頑張れると。

> 私も好きなマンガ・ラノベに関しては、登場人物の関係図+出来事の因果関係を描いた図を作ったりしており、やはりかなりいろいろ気づけて楽しいです。
> ですので、そういうのは把握したうえでの、「腐女子だったらもっと人生楽しいのになあ」でした。
> それこそ、SNSでつながっている現在、その人のツイート頻度にもよりますが、ある程度私生活は把握済みというか(さすがに大げさ)、
> その人が好きなアニメに対してどんなこと考えて、裏でどんなことしてるかも、ある程度分かってしまうんですよね(本人が自分でツイートするので)。
> そうした割と裏側まで見えてしまった上での、「腐女子だったら」なんですよね。

そもそも論として、オタクか否かの以前に、旧トルコ担当さんは「女子」じゃないですよねえ?(笑)
(このサイトの女性比率など皆無に近いと思っているので、そういう想定で語ってますけど)
「オタクである」とか、「腐っている」とか、そういう大きな要素が腐女子にはあるのですが、
それ以上の大前提として、その特徴は、土台や中核の部分を為す「女の子である」事に依拠しているです。
スイーツやファッションに熱を上げ、恋愛話や他女子の悪口に大盛り上がるように、
例えば、カップリングの妄想なんかも、その方向性は違えど、
それと同じ様な女子特有のノリであるのが、「腐女子」の世界だと思われますけど、
旧トルコ担当さんの「腐女子だったら」というのは、そこまで念頭に置いた上での発言なのでしょうか?

う〜ん、何と言いますか、女子には女子なりのメリットがありデメリットがあり、
男子には男子なりのメリットがありデメリットがあるモノですが、
男子側からは女子のメリットが、女子側からは男子のメリットがよく見えても、
男子側から女子のデメリットは、女子側から男子のデメリットはよく見えない事が多く、
「隣の芝生は青く見える」じゃないですけど、メリットとデメリットは表裏一体な所があるのに、
どうも実感が伴わない為か、ついつい「異性だったら」と、安易に捉えがちな面があると思うんです。
「割と裏側まで見えて」との事でしたが、本当に、ここまで見られての発言なのでしょうか?
SNS発信というのは、ある意味で究極の「表」なのですから、
表の発信を大量に浴びたとしても、それは裏側まで見た事とイコールではありません。

ちょっと話が解り難いかも知れませんけど、腐女子が「あのように楽しめる」のは、
彼女たちが多分に女子だからであり、性別の違いを越えて、「あのように楽しめたら」というのは、
上手く言えませんけど、「そこまでのコストを払うつもりがあるの?」という気持ちになります。
簡単に言えば、自分が男子のまま、女子のメリットを欲するのは、相応の苦労を要するでしょうし、
立場を逆にすれば、彼女たちだって、仮に男子のメリットを欲しても、なかなか難しいモノかと?
少なくとも、男子が要する労力以上のモノを、彼女たちは払わなければならないはずです。

> > でもまあ、自分から「楽しい」を作ってる側にしても、
> > 苦しんだり、辛かったりするかは別として、相応の苦労や努力はしているはずで、
> > その部分を感じ取らずに、安易に羨んだり、嫉妬したりするのは、ちょっと違うかな?という気も。

> その人の人生の一部だけを垣間見て羨んでいるわけではなく、ある程度まで見えてしまうのが、インターネットの悲劇だと。
> この人毎日楽しそうだな、の毎日は、SNSの場合、本当に"毎日"を見て、楽しそうだなと思っている場合もあると。
> まあ実際は、毎日が楽しそうな人より、「こいついっつも後ろ向きなことばっかり考えてんな」とか
> 「こいつ毎日韓国人の悪口言ってるな」という方が見えてしまいがちですがw

でも実際の所、「楽しいばかりの毎日」なんて、リアリティーがあります!?
まあ、世の中を探せば居るのかも知れませんけど、そんな人は圧倒的に少数派なはずで、
それって結局、SNSでは「楽しい」部分しか発信してないって事でしょうし、
発信のベクトル(方向性)が異なるだけで、後ろ向きや悪口ばかりの発信と、実は大差ないのかも?

とは言え、大きなリターンには、それ相応のコストを要するのは、そうとして、
「小さな幸せ」であれば、苦労は少なめで、コスパ良く得ている人たちも居るでしょうから、
満足度のラインが下がっている昨今なら尚更、そういう志向もアリかも知れませんね!
それこそ、前にも言いましたけど、現在って「努力や挑戦のコスパが悪い」時代ですし。

例えば、そろそろサッカーW杯の開幕が迫ってきましたけど、
毎回4年に1度、W杯の時だけ、サッカーに盛り上がる層は結構な数が居て、
ずっと追い続けてる立場からすれば、美味しい所を取るだけで、何だかズルく感じられるものの、
予選で味合わされた、キリキリやイライラした感情を抜きに、
単純に「楽しむ」だけに徹せられるのも、それはそれで「羨ましい」部分もあるのかな?(笑)。
でも逆に言えば、ずっと追い続ける方が、長い時間を掛けて、酸いも甘いも味わえる訳で、
そうした積み重ねの上でのW杯観戦は、その時だけの「摘み食い」で得られるモノとも違うでしょうし、
もっと言うと、小さな大会まで現地に駆け付けて応援するような、熱狂的なサポーターには、
また別の次元での、「羨ましさ」を感じる部分もあるんですよね!!
コアなファンに対しては、その羨ましさの中に、憧れや嫉妬が混じりますけど、
にわかファンに対しては、そういった感情は混じらず、ただ単に「楽しそう」と感じるだけかな。
要するに、コア層にも、ライト層にも、「人生を満喫してる感」は同じく感じても、
その中身というのが、正反対というか、まるで異なるモノだろうな・・・という事です。


[24047] 私から見る80,90年代返信 削除
2022/10/13 (木) 03:33:02 旧トルコ担当


納得いくまで書き直していると、いつまでたっても投稿できないので、書けたところだけ投稿します。


管理人さんの話を聞いていると、80,90年代というのはすごくパワフルな時代だったんですねぇ、としか思えないです。
80年代に学校が荒れたのは、地獄の受験戦争をドロップアウトした組が、ある種のルサンチマンとして暴れてたというのも、競争に負けてドロップアウトしたにもかかわらず、「まだ暴れる元気があるのかあ……」というのが正直な感想ですし。今の世代であれば、受験戦争からドロップアウトすれば引きこもるでしょう。
アニメ版カイジ1期のED曲(https://www.youtube.com/watch?v=7F8xpgcw8oM)が、「あの娘は彼氏候補の男と グループでスノボに行った 残された俺たちはつぼ八で飲みました」という、モテないことへの屈折した感情を歌ってる曲なんですけど、今だったらつぼ八で男だけで楽しく飲んで楽しい思い出で終わりそうです(モテたいとか、そんなこと考えなさそう)(カイジは原作が96年〜)。


ですがまあ私より若い世代は、小学生女子の読むマンガでさえ「両思い」ではなく「つき合う」らしいので、まだまだ私の世代は恋愛に夢や希望を抱いているのでしょうかね。
両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。
私は「小学生のころからそんなに大人にならなくてもいいじゃん」なんて思うのですが、私より下の世代からすれば、私の世代はパワフル……というより、イタいんのでしょうね。
私の場合はちょうど中学生のころにLINEとスマホが普及し始め、そういった技術進歩による社会の変化を感じられて、歴史好きとしては面白い時代に生まれた半面、
まだまだYouTubeではなくテレビに思い入れのある上の世代ともジェネレーションギャップを感じますし、一方で小学生のころからLINEやYouTubeを使ってきた世代とも、大きなジェネレーションギャップを感じるんですよね。
もちろん、どの世代だってそんなものなのかもしれませんが、やはりここ十数年の技術進歩の速度は世界史でも有数の速さだと思いますし。
仮説ですが、オタク文化も新しい世代には受け入れられず浄化されていくと思うんですよ(世代間人口比の問題で非常にゆっくりとした速度でだとは思いますが)。
私から見れば、80年代の学校が荒れていた時代こそパワフルだなあ、と思うのですが、おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
00年代の萌えとか、嫁とかも、今の推しというのは、読者でありアニメの視聴者である私の姿がより消えている言葉ですし、それはオタクの気持ち悪い部分、萌えとか嫁とかに含まれていたものが浄化されているように見えるんですよね。
おそらく百合とも既に浄化がかなり進んだ結果普及したのだと勝手に思ってます。


[24050] Re:私から見る80,90年代返信 削除
2022/10/18 (火) 21:16:40 徳翁導誉

> 管理人さんの話を聞いていると、80,90年代というのはすごくパワフルな時代だったんですねぇ、としか思えないです。
あっ、それは確かに、そうでしょうね!!
何と言っても当時は、世界的にも「Japan as No.1」と言われて、
日本人の多くも、本気で「アメリカ越え」を狙っていた時代でしたから、
もう社会全体が、今とは比べ物にならないくらい、活気と自信に溢れていたのは事実です。
恐らくは現在の中国以上に、「行け行けドンドン」な感じでしたね、当時の日本と日本人は。

> 80年代に学校が荒れたのは、地獄の受験戦争をドロップアウトした組が、ある種のルサンチマンとして暴れてたというのも、
> 競争に負けてドロップアウトしたにもかかわらず、「まだ暴れる元気があるのかあ……」というのが正直な感想ですし。
> 今の世代であれば、受験戦争からドロップアウトすれば引きこもるでしょう。

「集団レイプする人は、まだ元気があるから良い。まだ正常に近いんじゃないか」という
太田誠一(元農水大臣)の発言を、何だか思い出してしまった(苦笑)。

まあ、それはさておき、暴れる元気があるというか、
同級生にせよ、兄弟にせよ、とにかく人数が多い世代ですから、
暴れでもしないと、誰も自分を見てくれないとか、
より派手に暴れないと、自分に注目が集まらないとか、そういう心理は確実にあったのでしょう。
そういう意味では、現在とは表現手段が異なると言うだけで、
その行動原理が「承認欲求」にあるという意味では、人間ってそれほど変わらないですよね。

逆に言うと、今は少子化の影響もあり、当時より遥かに1人1人に目が届く時代ですから、
だからこそ、「そのままだと埋もれるから、悪目立ちでも良いから目立ちたい」ではなく、
「そのままだと目立つから、悪目立ちしないよう埋もれたい」と、なるのかも?
でもこれって、結果としての行動は正反対でも、最初のスタート地点が異なるだけで、
人間の行動原理としては、似たり寄ったりな感じはしますけどね。

あとは、当時は今と違って、経済状況が良かったですから、
別に、受験戦争でドロップアウトしても、余程の道の外し方でもしない限り、
土木関係の労働者として、働き口は豊富にあり、それで人並みの生活を送れたので、
「俺も昔は悪くてさぁ」なんて毎晩飲みながら、それでも普通に家庭を持てる時代でした。
そういう意味では、現在の「ドロップアウト観」とは、大きく異なるのも事実でしょうね。

> アニメ版カイジ1期のED曲(https://www.youtube.com/watch?v=7F8xpgcw8oM)が、
細かいツッコミですが、これは「破戒録篇」なので、1期ではなく2期のエンディング曲ですね。

> 「あの娘は彼氏候補の男と グループでスノボに行った 残された俺たちはつぼ八で飲みました」という、
> モテないことへの屈折した感情を歌ってる曲なんですけど、
> 今だったらつぼ八で男だけで楽しく飲んで楽しい思い出で終わりそうです

個人的なイメージで言っちゃいますけど、
今の若い世代って、そもそも、集まって居酒屋とか行きます?
いや、もちろん行く人は行くんでしょうし、昔より頻度が減ってるだけかも知れませんけど、
ここ十数年くらいの間で、若者のファミレス離れや居酒屋離れが、かなり進んだ印象なので。
しかも、ここ2〜3年はコロナ禍もあり、その傾向が更に加速してそう・・・・

> ですがまあ私より若い世代は、小学生女子の読むマンガでさえ「両思い」ではなく「つき合う」らしいので、
> まだまだ私の世代は恋愛に夢や希望を抱いているのでしょうかね。

んん!?
この一文↓を何度も引用していたのは、旧トルコ担当さん自身なのでは?
> > > 昔は「両思い」と呼んでいた状態が、「つき合う」という言葉で表現されている印象があります。
> > > https://lee.hpplus.jp/column/2113728/

これって結局、例えば「オタク」という単語が、
「コア層」を指す言葉から、意味が拡大して、「ファン全般」を指す言葉へと変化したように、
「付き合う」という言葉も、意味が拡大して、「両想い」の状態も含む言葉となった・・・という話なのでは?
言うなれば、まだ恋人段階である彼氏や彼女の事を、旦那とか嫁と呼ぶ、昨今の感覚とも似た感じかと。
(オタクが「○○は俺の嫁」とか言ったりするのも、ここからの派生ですね)
要するに、単純に言葉の意味が拡大されたと言うよりは、
自分に対する「特別感」を演出したいが故に、敢えて一段高い言葉を用いる訳ですが、
そうした用法が多発される事で、次第に言葉の特別感は薄れてしまい、済し崩し的に意味が拡大される具合かな。

実際の所、小学生の「付き合う」って、具体的な「行動」として何を行うんでしょ?
それこそ昔は、好きと付き合うは明確な区別があり、「恋愛のABC」などと言われましたが、
(念の為に言っておくと、Aはキス、Bはペッティング、Cはセックスを指す隠語)
現在は、そこを分ける隔たりが、希薄になってきたというだけの話な気はしますね。

> 両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、
> チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。

う〜ん、「付き合う」の方の言葉の認識は、ちょっとズレている気も・・・・
まあ「結婚」であれば、明確に契約ですし、法律的な効力が発生する為に、
それは一面において、「社会的関係」とも言えるかも知れませんが、
「恋愛」に関して言うと、確かに口約束レベルの契約的な側面もあるので、全否定はしないものの、
その関係性は社会的と言うより、明らかに個人的なモノであり、法律的な縛りもない以上、
結局の所、一緒に何を行うかという、その「行動」に拠る言葉になると思うんですよね。

それこそ、別に恋愛でなくても、「買い物に付き合う」みたいな表現をするじゃないですか?
例えば これが、阪神タイガースのファンの話であれば、
両想いというのは、お互いが阪神ファンである事を認識した状態の事を指します。
そして付き合うとは、「じゃあ今度、一緒に甲子園球場へ行こうか」みたいな事です。
同じファン同士、阪神についての会話をするのが楽しい・・・くらいのレベルは、
両想いだけど付き合ってはいない、みたいな感じですよね。
(両想いを付き合うと表現するのは、会話レベルまで「行動」の対象に含めるイメージ)
逆に言うと、別に両想いじゃなくても、付き合う事は可能なように、
別に阪神ファン同士じゃなくても、一緒に甲子園へ野球観戦に行く事は可能です。

> 私は「小学生のころからそんなに大人にならなくてもいいじゃん」なんて思うのですが、
> 私より下の世代からすれば、私の世代はパワフル……というより、イタいんのでしょうね。

つまり、上記の結論からすると、
私と旧トルコ担当さんとで、「オタク」という言葉の定義が異なるのと同じように、
旧トルコ担当さんと今の小学生とで、「付き合う」の言葉の定義が異なるのに、
そこを同一と捉えてしまうから、「そんなに大人に」という感想を抱くのでは?

いや勿論、時代と共に、子供たちの認識も、どんどんマセていくのは事実なのでしょうけどね。
それこそ戦前までは、「男女七歳にして席を同じうせず」みたいな感覚があったでしょうし、
戦後昭和の頃も、男子と女子の間に、大きな壁があったのは確かですが、
今の子供たちって、意識の話だけでなく、少子化の影響もあるのかも知れませんけど、
一昔前に比べると、本当に隔たりが薄いというか、異性の友達とか本当に居たりしますからね。
異性の友達なんて、90年代くらいまで、半ば おとぎ噺に近い存在だったかと?

> 私の場合はちょうど中学生のころにLINEとスマホが普及し始め、
> そういった技術進歩による社会の変化を感じられて、歴史好きとしては面白い時代に生まれた半面、
> まだまだYouTubeではなくテレビに思い入れのある上の世代ともジェネレーションギャップを感じますし、
> 一方で小学生のころからLINEやYouTubeを使ってきた世代とも、大きなジェネレーションギャップを感じるんですよね。

まあ、生まれた時からネットがある「デジタル・ネイティブ世代」という意味では、
今の大学生も、小学生も、同じ括りになるのかも知れませんが、
20年くらい前はデジタル黎明期であり、ここ10年ほどでデジタル技術も飛躍的に進歩した事を思うと、
確かに、全く同じという訳ではありませんよね。

それこそ、再来年からは小学校でデジタル教科書が本格導入される予定ですし、
現段階においても、まだ平仮名の練習をしている小学1年生が、
ノートPCを開いて、先生から送信された学校の宿題をしていたりするのを見ると、
紙の教科書しか無かった世代とは、また違ってくるのでしょう・・・・
ちなみに、数年前の文科省の計画では、再来年度の共通テスト(旧センター試験)から、
キーボード入力での回答に移行する予定もありましたが・・・まあ、間に合わないでしょうね(笑)。
英語はTOEICやTOEFLに完全移行し、共通テストから英語科目を除外する予定も、現状では頓挫してますし。

とは言え、アナログしか無かった時代を知ってる私世代からすると、
デジタル世代間のギャップなんて、そこまで大きなモノとは感じませんけどね(笑)。
それ以上に、アナログ世代とデジタル世代のギャップの方が、遥かに大きいですから。

> もちろん、どの世代だってそんなものなのかもしれませんが、
> やはりここ十数年の技術進歩の速度は世界史でも有数の速さだと思いますし。

でも、それって、今後は更に凄いスピードで動くのでしょうけどね。
技術の進歩というのは、加速度的に勢いを増して行っていますから。
そういう意味では、これまでの10年より、これからの10年の方が速く、
これからの10年より、更にそこからの10年の方が速いはず。

あと、同じく「技術」と言っても、「発明的な技術」と「改良的な技術」とがあり、
社会に与えるインパクトという点では、前者の方が格段に大きかったりします。
そうした観点からすれば、確かに ここ10年ほどの進歩は大きいとは言っても、
それで大きく変わったのは、利便性や安さであったり、選択肢の数であったりが中心で、
「今まで出来なかった事が、何か新たに出来るようになったか?」と問われると・・・・

もう少し、解りやすい指標に置き換えるとすれば、
では世界史的に見て、今の人々は、過去の人々と比べ物にならないほど、
技術の進歩に「熱狂」しているか?となると、決して、そうとは言い切れませんからねえ。
そう考えると、絶対的な変化量ならまだしも、相対的な変化量として、今が本当に凄いのか否か?
例えば、100年後、200年後とかに、20世紀や21世紀を俯瞰的に歴史として見た際、
「2010年代の進歩は凄いな!」となるかとなれば、正直、そうはならない気がするんですよ。
身も蓋もない言い方をするなら、人類史的に「凄い時代だった」と言うよりも、
旧トルコ担当さんの個人史的に「凄い時代だった」という所に、落ち着きそうな感じがします(笑)。

> おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
エヴァが、イタかったり、キモかったりするのは、放送当時から既にですよ(笑)。
と言いますか、テレビ放送から四半世紀が経ち、世間一般からの認知度が多いに高まった事で、
却って現在の方が、イタかったり、キモかったりする存在として、認識されてない実感はありますね。

> 仮説ですが、オタク文化も新しい世代には受け入れられず浄化されていくと思うんですよ
> 00年代の萌えとか、嫁とかも、今の推しというのは、読者でありアニメの視聴者である私の姿がより消えている言葉ですし、
> それはオタクの気持ち悪い部分、萌えとか嫁とかに含まれていたものが浄化されているように見えるんですよね。
> おそらく百合とも既に浄化がかなり進んだ結果普及したのだと勝手に思ってます。

いや〜、正直言って私には、
岡田斗司夫の「ホワイト革命」論に引っ張られ過ぎて、
何でも「浄化」のキーワードで解釈しようと、無茶している印象を受けますけどね(笑)。
例えば、今で言う「推しが尊い」みたいな感覚は、80年代のアイドル文化にもありましたし。


[24071] Re2:私から見る80,90年代返信 削除
2022/10/30 (日) 03:04:58 旧トルコ担当

> > 「あの娘は彼氏候補の男と グループでスノボに行った 残された俺たちはつぼ八で飲みました」という、
> > モテないことへの屈折した感情を歌ってる曲なんですけど、
> > 今だったらつぼ八で男だけで楽しく飲んで楽しい思い出で終わりそうです

> 個人的なイメージで言っちゃいますけど、
> 今の若い世代って、そもそも、集まって居酒屋とか行きます?
> いや、もちろん行く人は行くんでしょうし、昔より頻度が減ってるだけかも知れませんけど、
> ここ十数年くらいの間で、若者のファミレス離れや居酒屋離れが、かなり進んだ印象なので。
> しかも、ここ2〜3年はコロナ禍もあり、その傾向が更に加速してそう・・・・


ああ、やはり居酒屋離れも進んでるんですね。
私もさすがにちょっと高すぎるようなと感じましたし、やはり若者の金銭感覚はそんな感じなんですね。

> > ですがまあ私より若い世代は、小学生女子の読むマンガでさえ「両思い」ではなく「つき合う」らしいので、
> > まだまだ私の世代は恋愛に夢や希望を抱いているのでしょうかね。

> んん!?
> この一文↓を何度も引用していたのは、旧トルコ担当さん自身なのでは?
> > > > 昔は「両思い」と呼んでいた状態が、「つき合う」という言葉で表現されている印象があります。
> > > > https://lee.hpplus.jp/column/2113728/

> これって結局、例えば「オタク」という単語が、
> 「コア層」を指す言葉から、意味が拡大して、「ファン全般」を指す言葉へと変化したように、
> 「付き合う」という言葉も、意味が拡大して、「両想い」の状態も含む言葉となった・・・という話なのでは?
> 言うなれば、まだ恋人段階である彼氏や彼女の事を、旦那とか嫁と呼ぶ、昨今の感覚とも似た感じかと。
> (オタクが「○○は俺の嫁」とか言ったりするのも、ここからの派生ですね)
> 要するに、単純に言葉の意味が拡大されたと言うよりは、
> 自分に対する「特別感」を演出したいが故に、敢えて一段高い言葉を用いる訳ですが、
> そうした用法が多発される事で、次第に言葉の特別感は薄れてしまい、済し崩し的に意味が拡大される具合かな。
>
> 実際の所、小学生の「付き合う」って、具体的な「行動」として何を行うんでしょ?
> それこそ昔は、好きと付き合うは明確な区別があり、「恋愛のABC」などと言われましたが、
> (念の為に言っておくと、Aはキス、Bはペッティング、Cはセックスを指す隠語)
> 現在は、そこを分ける隔たりが、希薄になってきたというだけの話な気はしますね。


何をしているかはむしろ問題にしていないんですよね。
行為・行動そのものの進み具合としては、私より若い世代ではむしろ積極的に恋愛のいろはを歩んでなさそうなイメージ。
私が問題にしているのは、行っている行動・行為は同じであっても、それを何と呼ぶか(命名するか)というのが違う、というところの微妙なニュアンスの問題なんですよね。
同じ親から生まれた関係を、日本では兄弟姉妹と呼び、アメリカではbrother/sisterと呼ぶ、というのは若干のニュアンスの違いがありますから、正確には兄弟=brotherでないのと同じように、
男女の相思相愛の状態を「両想い」と呼ぶのと「付き合っている」と呼ぶのでは、ニュアンスが異なると思うんですよね。

これって、私がラノベを読む程度には文学系の人だからそう考えるのですかね。
管理人さんは小説は読まないようですし。

> > 両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、
> > チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。

> う〜ん、「付き合う」の方の言葉の認識は、ちょっとズレている気も・・・・
> まあ「結婚」であれば、明確に契約ですし、法律的な効力が発生する為に、
> それは一面において、「社会的関係」とも言えるかも知れませんが、
> 「恋愛」に関して言うと、確かに口約束レベルの契約的な側面もあるので、全否定はしないものの、
> その関係性は社会的と言うより、明らかに個人的なモノであり、法律的な縛りもない以上、
> 結局の所、一緒に何を行うかという、その「行動」に拠る言葉になると思うんですよね。


そりゃ結婚と比較すれば、付き合うというのは大して社会的関係ではないかもしれませんが、
単なる気持である両想いと比較すると、付き合うというのは、互いに「付き合うってだいたいこういうことだよね」というおおよその共通理解があり、自分たちもそういった関係だよね、と確認するということですからね。
例えば、付き合っているのに別の誰かを好きになれば、それは少なからず裏切りになるでしょうし。
あと、付き合うというのはその関係をオープンにすることであり、周囲のクラスメイトなどから、そういった扱いを受ける、というニュアンスも含まれています。

付き合う、という状態を互いで確認しあったり、あるいは周囲に宣言したりするのは、
「人間心理、人間関係は複雑で、両者の思い違いとか、すれ違いとか、そういったものがある」と認識するからこそ、互いの気持ち・認識をすり合わせるために行うと思うんですよね。
両想いという言葉では、そういった認識の共有という点が抜けている分、無条件に自分の気持ちと相手の気持ちは同じだと思っていて、あとあと「私の思っていたのと違う」ということが起こるということをまだ想定できていないと。
それを想定して、私達つきあってるよね、と言葉で共通認識を作る行為そのものが、大人っぽいなと感じるわけです。

> それこそ、別に恋愛でなくても、「買い物に付き合う」みたいな表現をするじゃないですか?
> 例えば これが、阪神タイガースのファンの話であれば、
> 両想いというのは、お互いが阪神ファンである事を認識した状態の事を指します。
> そして付き合うとは、「じゃあ今度、一緒に甲子園球場へ行こうか」みたいな事です。
> 同じファン同士、阪神についての会話をするのが楽しい・・・くらいのレベルは、
> 両想いだけど付き合ってはいない、みたいな感じですよね。
> (両想いを付き合うと表現するのは、会話レベルまで「行動」の対象に含めるイメージ)
> 逆に言うと、別に両想いじゃなくても、付き合う事は可能なように、
> 別に阪神ファン同士じゃなくても、一緒に甲子園へ野球観戦に行く事は可能です。
>
> > 私は「小学生のころからそんなに大人にならなくてもいいじゃん」なんて思うのですが、
> > 私より下の世代からすれば、私の世代はパワフル……というより、イタいんのでしょうね。

> つまり、上記の結論からすると、
> 私と旧トルコ担当さんとで、「オタク」という言葉の定義が異なるのと同じように、
> 旧トルコ担当さんと今の小学生とで、「付き合う」の言葉の定義が異なるのに、
> そこを同一と捉えてしまうから、「そんなに大人に」という感想を抱くのでは?
>
> いや勿論、時代と共に、子供たちの認識も、どんどんマセていくのは事実なのでしょうけどね。
> それこそ戦前までは、「男女七歳にして席を同じうせず」みたいな感覚があったでしょうし、
> 戦後昭和の頃も、男子と女子の間に、大きな壁があったのは確かですが、


戦後になってから、女の子が男の子を「くん」で呼ぶようになったらしいのですが、https://toyokeizai.net/articles/-/88313
この辺のニュアンスといいますか、意義っていうのは管理人さんは知りませんかね?なかなか探してもピンポイントで情報が出てくることはないので。

> 今の子供たちって、意識の話だけでなく、少子化の影響もあるのかも知れませんけど、
> 一昔前に比べると、本当に隔たりが薄いというか、異性の友達とか本当に居たりしますからね。
> 異性の友達なんて、90年代くらいまで、半ば おとぎ噺に近い存在だったかと?


確かに私も異性の友達が当たり前の世代ですので、友達の延長線としての異性関係というのも非常になじみ深いので、
だからこそ、「両想い」ではなく「付き合う」という言葉が当てはめられているあたりに、あ〜あという気がするんですよね。

> > おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
> エヴァが、イタかったり、キモかったりするのは、放送当時から既にですよ(笑)。
> と言いますか、テレビ放送から四半世紀が経ち、世間一般からの認知度が多いに高まった事で、
> 却って現在の方が、イタかったり、キモかったりする存在として、認識されてない実感はありますね。


いや世間一般からすればずっとキモかったのでしょうけど、オタク層の年下世代からもそう思われるだろう、ということです。
これはエヴァに限らず、その後のセカイ系や今のなろう系、あるいは萌え系そのものも含めて、キモイと言われるだろうということなんですよね。

> > 仮説ですが、オタク文化も新しい世代には受け入れられず浄化されていくと思うんですよ
> > 00年代の萌えとか、嫁とかも、今の推しというのは、読者でありアニメの視聴者である私の姿がより消えている言葉ですし、
> > それはオタクの気持ち悪い部分、萌えとか嫁とかに含まれていたものが浄化されているように見えるんですよね。
> > おそらく百合とも既に浄化がかなり進んだ結果普及したのだと勝手に思ってます。

> いや〜、正直言って私には、
> 岡田斗司夫の「ホワイト革命」論に引っ張られ過ぎて、
> 何でも「浄化」のキーワードで解釈しようと、無茶している印象を受けますけどね(笑)。


管理人さんも、ホワイト化の調査のためにアニメ等を見るわけでもないでしょうし、自分の目に入る範囲内で考えるとホワイト化の傾向が見えないと仮定すれば、確かにそんなものかもしれません。
人口比で若者人口が減っているという点を置いておいても、そもそも普通は自分と同じ年齢帯を対象としたコンテンツしか見ませんし。
アニメはなんだかんだでオタク層の広い範囲を扱っていますのでホワイト化傾向はそこまで高くないですが、ソシャゲのイベント付属のストーリー等はもう異常なまでにホワイトですよ。
子ども向けの絵本のようなストーリーを萌えキャラがやってますからね。

オタク系だと、「アイドルマスター シャイニーカラーズ」(2018〜)というソシャゲがあり、
キャラ数が増えすぎて新規層の参入が困難になるのを防ぐため、定期的に行われるアイマスの新世代向け新作シリーズの一つなのですが、
これを見たときに一番衝撃を受けたのがキャラデザなんですよね。
なんというか、全然オタクコンテンツっぽくないと。
初期キャラクターのうち、櫻木真乃、風野灯織、八宮めぐるはいつものアイマス信号機の典型的なキャラなのでいいとして、
杜野凛世、園田智代子、小宮果穂、西城樹里、有栖川夏葉の放課後クライマックスガールズと、
月岡恋鐘、田中摩美々、白瀬咲耶、三峰結華、幽谷霧子のL'Anticaは、全然オタクコンテンツのキャラじゃなくて、明確に非オタク層(なんちゃってオタク層)を狙っている感じが出ていると。
(杜野凛世と月岡恋鐘だけは、男性主人公大好きキャラと、長崎弁の巨乳キャラでオタク向けっぽいですが)
残った大崎甘奈、大崎甜花、桑山千雪のALSTROEMERIAはオタク向けですが、これはこれでオタク向けはオタク向けでも、割と百合に近いような浄化されたオタクコンテンツのキャラなんですよね。
具体的には、キャラ同士のいちゃいちゃで完結していて、男主人公が挟まる余地が無いと。
何というか、新世代のファンを取り込むにあたってマーケティングされたキャラクターたちとして「これが正解なのかあ」と。
なのでそういった違和感みたいなものは、岡田斗司夫のホワイト革命論以前から何となく感じていたことなんですよね。
岡田斗司夫のホワイト革命論以前は、こういう変化をオタクコンテンツが過度に非オタク層へ向けて制作されるようになったからなのだと思っていました。
シンデレラガールズの時にはいた、橘ありすのようなロリキャラもいなくなり、代わりにの小宮果穂はロリというより子どもっぽい元気系のキャラですし。
橘ありすは二次創作でも人気ですし、ロリキャラは人気がないというわけではないと思うんですけど、マーケティング的判断から、やめておこうということなんでしょうね。

全然見てませんが、ラブライブも男性主人公不在の作品ですよね。
ライトノベルも、例えばソードアート・オンラインはネットでの発表が02年で、電撃文庫での第1巻出版が09年、現在も連載中ですけど、シリーズ通して新しいものほどホワイト化の傾向は非常によく感じます。

岡田斗司夫のホワイト革命論も、「先生、みなの前でほめないでください」も、私としては「あ〜あるある」というのが多分に含まれていたんですよね。
私は「スカッとジャパン」みたいなものが凄く嫌いなんですけど、岡田斗司夫のホワイト革命論に触れるまでは、私だけの個人的なものだと思っていましたし。
今の世代にとって「スカッとジャパン」みたいなものは朝鮮人差別や中国人差別に近いので、若者から嫌われたくない年上の人は絶対見るのやめた方がいいと思うんですけど、その辺の理解が進んでいないんですよね。
私としては、それがちょっと年上の世代の人を見ていて、ちょっとかわいそうに思えるんですよね。
「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

> 例えば、今で言う「推しが尊い」みたいな感覚は、80年代のアイドル文化にもありましたし。

推しが尊いというよりは、まぶしいという感覚の方がよりホワイト化傾向を表していると思いますね。
恋愛している人はまぶしいですし、夫婦で子供育てている人はまぶしいですし、アニメのキャラもまぶしいですし、リア充もまぶしいんですよね。
リア充の方がちゃんと友達もいて、彼女もいて、それでオタクに当たりがきついのが昔のリア充なのでしょうが、今じゃオタクにも優しかったりするので、もうこっちが生きててすみませんでした、と頭を下げるしかないんですよね。
このあたりが若者の自己肯定感の低さというやつなのでしょう。


[24073] Re3:私から見る80,90年代返信 削除
2022/11/8 (火) 20:12:17 徳翁導誉

> > > ですがまあ私より若い世代は、小学生女子の読むマンガでさえ「両思い」ではなく「つき合う」らしいので、
> > > まだまだ私の世代は恋愛に夢や希望を抱いているのでしょうかね。

> > んん!?
> > この一文↓を何度も引用していたのは、旧トルコ担当さん自身なのでは?
> > > > > 昔は「両思い」と呼んでいた状態が、「つき合う」という言葉で表現されている印象があります。
> > > > > https://lee.hpplus.jp/column/2113728/

> 同じ親から生まれた関係を、日本では兄弟姉妹と呼び、アメリカではbrother/sisterと呼ぶ、というのは
> 若干のニュアンスの違いがありますから、正確には兄弟=brotherでないのと同じように、
> 男女の相思相愛の状態を「両想い」と呼ぶのと「付き合っている」と呼ぶのでは、ニュアンスが異なると思うんですよね。

ニュアンスの違いというか、本来的には全くの別物ですよ。
見も蓋も無い言い方をすると、別に「両想い(好き)」じゃなくても、「付き合う」事は可能ですし、
実際、年齢を重ねたオトナの恋愛ほど、そうした打算的なモノになっていくもので、
逆に、「恋愛≒両想い」な傾向が強まるほど、年齢も下がっていくような気がします。

> > > > 両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、
> > > > チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。

> > う〜ん、「付き合う」の方の言葉の認識は、ちょっとズレている気も・・・・
> > 「恋愛」に関して言うと、確かに口約束レベルの契約的な側面もあるので、全否定はしないものの、
> > その関係性は社会的と言うより、明らかに個人的なモノであり、法律的な縛りもない以上、
> > 結局の所、一緒に何を行うかという、その「行動」に拠る言葉になると思うんですよね。

> 例えば、付き合っているのに別の誰かを好きになれば、それは少なからず裏切りになるでしょうし。
> あと、付き合うというのはその関係をオープンにすることであり、
> 周囲のクラスメイトなどから、そういった扱いを受ける、というニュアンスも含まれています。

あ〜、なるほど。 何だか解りました。
これは以前にも話題とした、「便所メシ」世代の話と通ずる部分があるかも?
こうした認識が、若い世代に共通なのか、それとも旧トルコ担当さん個人の感覚かは解りませんけど、
そもそも恋愛というのは1対1の個人的関係であり、そこに第3者を交えるかは関係無いはずです。
ですけど、周囲の目を気にする事が、無自覚の内に大前提となっているが故、
上記のようなニュアンスも含むと決め付けてしまい、「社会的関係」であると思い込んでいるのかも?
言ってしまえば、自分(たち)の常識が、必ずしも世間の常識とは限らないと言う話ですね。

それこそ一昔前までは、中高生の恋愛って校則で禁じられてたりしましたし、
であればこそ、実際に付き合っていたからと言って、
その関係性をオープンにするとか、周囲に認知させるとか、そうした事はイコールではありませんでした。
では、それは昔の話であり、今は違うのかとなると、必ずしも そうとは言い切れず、
まあ中高生はまだしも、会社内とか大学サークル内とかの恋愛は、周囲に余計な気遣いを生じさせる為、
今の時代であっても、「隠れて付き合う」というのは、決して珍しい事では無いはずですよ。

と言いますか、何度も繰り返すようですが、
付き合うというのは1対1の「個人的関係」なので、
そこに第3者が介在するような「社会的関係」が、大前提では決して無いですからねえ。
解りやすく言えば、そういうケースも確かにあるかも知れませんが、それが全てではありませんし、
便所メシの件もそうですけど、飯を食うのに、何故そこまで他人の存在を気にするの?というのと同じく、
1対1の恋愛に、何故そこまで他人の存在を気にするの?というのは、正直あります。

> > いや勿論、時代と共に、子供たちの認識も、どんどんマセていくのは事実なのでしょうけどね。
> > それこそ戦前までは、「男女七歳にして席を同じうせず」みたいな感覚があったでしょうし、
> > 戦後昭和の頃も、男子と女子の間に、大きな壁があったのは確かですが、

> 戦後になってから、女の子が男の子を「くん」で呼ぶようになったらしいのですが、https://toyokeizai.net/articles/-/88313
> この辺のニュアンスといいますか、意義っていうのは管理人さんは知りませんかね?
> なかなか探してもピンポイントで情報が出てくることはないので。

これは、「くん付け」に関しての質問って事で良いですかねえ?
確か一般的に、相手を「○○君」と呼び始めたのは、幕末の志士たちだったと思いますよ。
それまでの日本社会って、封建社会でしたから、全てが上下関係を基準としていましたが、
志士たちというのは、双方の身分に囚われず、対等な立場からの議論を求めましたから、
そこで新たに生まれた敬称こそが、「○○君」という呼び方であり、
それが明治維新の後、学問や政治の場でも用いられるようになったはずかと。

ですが、戦前の日本社会は、市民平等を唱う世ではあったものの、
普通選挙が導入されても、選挙権を有するの男性のみだったように、男女平等な世では未だ無く、
それが戦後となって、男女平等を目指す、アメリカ主導の新しい世となった際、
女性が男性と対等の立場になった事を示す意味でも、「くん付け」が推奨されたのかな?
「さん付け」は、目上にも目下にも使いますし、逆に言うと、
今は解りませんが、部活の先輩を「くん付け」などしたら、折檻モノでしたね。
とは言え、私も「男子には くん付け、女子には さん付け」を当たり前に育った世代なので、
正直な所、あまり詳しくは知らないと言うか、変化の体験談みたいなモノはありません(笑)。

ただ、昨今の小学校では、イジメ防止&男女平等の観点から、
「あだ名禁止&さん付け奨励」な所も多いので、
男の子であっても、「○○さん」と呼ぶようになってますね。
で、小学校の高学年や中学になると、下の名前を呼び捨てにする事が増え、
昔よりも男女の垣根が低いので、女子でも男子を呼び捨てにする事が多いかな?

> > 今の子供たちって、意識の話だけでなく、少子化の影響もあるのかも知れませんけど、
> > 一昔前に比べると、本当に隔たりが薄いというか、異性の友達とか本当に居たりしますからね。
> > 異性の友達なんて、90年代くらいまで、半ば おとぎ噺に近い存在だったかと?

> 確かに私も異性の友達が当たり前の世代ですので、友達の延長線としての異性関係というのも非常になじみ深いので、
> だからこそ、「両想い」ではなく「付き合う」という言葉が当てはめられているあたりに、あ〜あという気がするんですよね。

まあ私は昭和世代なので、私が子供の頃は、
男子と女子が仲良く話すだけでも、冷やかされたり馬鹿にされたりした時代だったので、
正直言って、男女の間には壁があるというか、
ぶっちゃけて言うと、「敵対関係」「冷戦状態」みたいな感じでした(笑)。
また、先輩・後輩の上下関係や、教師・生徒の上下関係は、
今とは比べ物にならないくらい、厳しかったかな?

そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> > > おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
> > エヴァが、イタかったり、キモかったりするのは、放送当時から既にですよ(笑)。
> > と言いますか、テレビ放送から四半世紀が経ち、世間一般からの認知度が多いに高まった事で、
> > 却って現在の方が、イタかったり、キモかったりする存在として、認識されてない実感はありますね。

> いや世間一般からすればずっとキモかったのでしょうけど、オタク層の年下世代からもそう思われるだろう、ということです。
> これはエヴァに限らず、その後のセカイ系や今のなろう系、あるいは萌え系そのものも含めて、
> キモイと言われるだろうということなんですよね。

例えばセカイ系なんて、今では新海誠が「国民的なアニメ監督」となってる時点で、
キモいと言われる所か、エヴァ以上に「一般化」してしまった印象すらありますけどね(笑)。
萌え系にしても、どこも かしこも それ系のマスコット・キャラが作られていますし・・・・

って、それはさておき、オタク内での話であったとしても、
やはり、エヴァがキモくて イタいのは、当時からだと思いますけどねえ(笑)。
旧劇場版における最後の台詞も、「気持ち悪い」という一言であり、
それは、アスカからシンジに向けられたメッセージであるだけでなく、
庵野監督からオタクたちに向けられたメッセージでもあるのでしょうし。

あと、時代や世代が変われば、評価だって様変わりするのも、当然と言えば当然の事で、
我々人類の文化は、そんな事を何度も繰り返してきてますから、
当時と現在だけをピックアップして、そこに特別な意味を込めさせる必要も無い気はします。

> > > 仮説ですが、オタク文化も新しい世代には受け入れられず浄化されていくと思うんですよ
> > > 00年代の萌えとか、嫁とかも、今の推しというのは、読者でありアニメの視聴者である私の姿がより消えている言葉ですし、
> > > それはオタクの気持ち悪い部分、萌えとか嫁とかに含まれていたものが浄化されているように見えるんですよね。
> > > おそらく百合とも既に浄化がかなり進んだ結果普及したのだと勝手に思ってます。

> > いや〜、正直言って私には、
> > 岡田斗司夫の「ホワイト革命」論に引っ張られ過ぎて、
> > 何でも「浄化」のキーワードで解釈しようと、無茶している印象を受けますけどね(笑)。

> 岡田斗司夫のホワイト革命論も、「先生、みなの前でほめないでください」も、
> 私としては「あ〜あるある」というのが多分に含まれていたんですよね。
> 私は「スカッとジャパン」みたいなものが凄く嫌いなんですけど、
> 岡田斗司夫のホワイト革命論に触れるまでは、私だけの個人的なものだと思っていましたし。
> 今の世代にとって「スカッとジャパン」みたいなものは朝鮮人差別や中国人差別に近いので、
> 若者から嫌われたくない年上の人は絶対見るのやめた方がいいと思うんですけど、その辺の理解が進んでいないんですよね。
> 私としては、それがちょっと年上の世代の人を見ていて、ちょっとかわいそうに思えるんですよね。

う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?

似たような内容の話は、これまでに何度も行っていますけど、
自分の中で腑に落ち「なるほど!」と思えた場合こそ、自分の中での反証が重要なんですって!!
「あれも当てはまる、これも当てはまる」と、都合良く証拠を追い求めてしまうと、
無自覚なまま、1しかないのに10に見えたり、当てはまらないモノは視界の外に追いやったり、
そうしながら、これが正しいと思い込んだ結論に、ハマってしまいがちなんです。

例えば、それこそ、この論法を用いる事により、
「スカッとジャパンが人気だったのも、ホワイト化の現れ!」と見なす事だって可能です。
ですが、この場合、旧トルコ担当さんの中で「この番組は嫌い」という感情がある為、
「これは当てはまらない」と、なるのでは無いでしょうか?(笑)
で、もしも実際、そう思われたとすれば、
それは何よりも、「ホワイト革命を恣意的に適用」していた証になろうかと。
要するに、あの番組内容にハマれずムカっとすれば、それを嫌う事がホワイト化と映るでしょうし、
逆に ハマれてスカッと出来れば、汚いヤツを裁く痛快劇としてホワイト化の象徴のように映るはず。

また、イヤミ課長役で人気を博した木下ほうかの、若手女優への性的強要が発覚した際の反応を見ても、
一定の若者人気(特に女性層)がある番組なのは感じ取れてましたから、
「中高年が好んで見ていて、若者は好まない番組」と決め付けているのは、正直 違うと思いますよ。
この部分に関しても、自分中心の視点で物事を判断しがちな傾向が顕れてませんか?
私からすると、「特定の世代」を反映してると言うよりは、「今の時代」を反映してる番組だと感じます。
ちなみに、一応 念の為に言っておくと、
「スカッとジャパン」は視聴率の低迷により、既に半年前に番組終了してますね。
あと、最後に言っておくと、あの番組は私も好きじゃありませんでした(笑)。

> 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
意外と曲者というか、深いモノがある気がします。

SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。

そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?

逆に言えば、これだけ第3者からの目や評価を気にする世代なのですから、
それに答えられる自信さえあったなら、却って、
「皆の前で褒め欲しい」欲求が、どの世代よりも実は高かったりするかも?
更に邪推して言うなら、もしかすると「スカッとジャパン」が何故か嫌なのも、
そうした隠されてるくらい欲求を、中途半端に引きずり出され、
同族嫌悪に近い感情を、沸き立てさせられるからかも知れません(笑)。


[24081] Re4:私から見る80,90年代(追記あり)返信 削除
2022/11/9 (水) 23:59:53 旧トルコ担当


> > > > > 両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、
> > > > > チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。

> > > う〜ん、「付き合う」の方の言葉の認識は、ちょっとズレている気も・・・・
> > > 「恋愛」に関して言うと、確かに口約束レベルの契約的な側面もあるので、全否定はしないものの、
> > > その関係性は社会的と言うより、明らかに個人的なモノであり、法律的な縛りもない以上、
> > > 結局の所、一緒に何を行うかという、その「行動」に拠る言葉になると思うんですよね。

> > 例えば、付き合っているのに別の誰かを好きになれば、それは少なからず裏切りになるでしょうし。
> > あと、付き合うというのはその関係をオープンにすることであり、
> > 周囲のクラスメイトなどから、そういった扱いを受ける、というニュアンスも含まれています。

> あ〜、なるほど。 何だか解りました。
> これは以前にも話題とした、「便所メシ」世代の話と通ずる部分があるかも?
> こうした認識が、若い世代に共通なのか、それとも旧トルコ担当さん個人の感覚かは解りませんけど、
> そもそも恋愛というのは1対1の個人的関係であり、そこに第3者を交えるかは関係無いはずです。
> ですけど、周囲の目を気にする事が、無自覚の内に大前提となっているが故、
> 上記のようなニュアンスも含むと決め付けてしまい、「社会的関係」であると思い込んでいるのかも?
> 言ってしまえば、自分(たち)の常識が、必ずしも世間の常識とは限らないと言う話ですね。
>
> それこそ一昔前までは、中高生の恋愛って校則で禁じられてたりしましたし、
> であればこそ、実際に付き合っていたからと言って、
> その関係性をオープンにするとか、周囲に認知させるとか、そうした事はイコールではありませんでした。
> では、それは昔の話であり、今は違うのかとなると、必ずしも そうとは言い切れず、
> まあ中高生はまだしも、会社内とか大学サークル内とかの恋愛は、周囲に余計な気遣いを生じさせる為、
> 今の時代であっても、「隠れて付き合う」というのは、決して珍しい事では無いはずですよ。
>
> と言いますか、何度も繰り返すようですが、
> 付き合うというのは1対1の「個人的関係」なので、
> そこに第3者が介在するような「社会的関係」が、大前提では決して無いですからねえ。
> 解りやすく言えば、そういうケースも確かにあるかも知れませんが、それが全てではありませんし、
> 便所メシの件もそうですけど、飯を食うのに、何故そこまで他人の存在を気にするの?というのと同じく、
> 1対1の恋愛に、何故そこまで他人の存在を気にするの?というのは、正直あります。


岡田斗司夫が10年くらい前の動画で「今の若い世代は告白という儀式があり、付き合っているというのを周囲に宣言する
昭和の時代はそんなへんてこな儀式なんかなくて、付き合うというのは当事者同士が宣言するものではなく、周囲が勝手に認定するものだった」
というようなことを言っていて、気になったので調べたところ、確かに「きまぐれオレンジ☆ロード」では周囲が勝手に主人公とヒロインを付き合っている認定していたんですよね。

何となくその辺の感覚がよく分からなかったのですが、やはり付き合うにしても周囲の視線を気にしすぎる世代なんですかねえ。
まあ隠れて付き合ってる的な感じもそりゃ今だっているでしょうけど(大学のサークルとか職場は特に)、
中高生くらいの恋愛と言えばオープンなのが当たり前というか、ひっそり付き合っているのは、何かおとなしめのタイプというイメージですね。
少なくとも恋愛マンガの題材にはなりにくそう。

> 今は解りませんが、部活の先輩を「くん付け」などしたら、折檻モノでしたね。
> とは言え、私も「男子には くん付け、女子には さん付け」を当たり前に育った世代なので、
> 正直な所、あまり詳しくは知らないと言うか、変化の体験談みたいなモノはありません(笑)。


私の時は部活の先輩に君付けはあり得ませんでしたよ。
とはいえ、管理人さんの話を聞く限りでは、今の小中学生はまた色々と違うようなので、これに関しては分かりませんが。

> > > 今の子供たちって、意識の話だけでなく、少子化の影響もあるのかも知れませんけど、
> > > 一昔前に比べると、本当に隔たりが薄いというか、異性の友達とか本当に居たりしますからね。
> > > 異性の友達なんて、90年代くらいまで、半ば おとぎ噺に近い存在だったかと?

> > 確かに私も異性の友達が当たり前の世代ですので、友達の延長線としての異性関係というのも非常になじみ深いので、
> > だからこそ、「両想い」ではなく「付き合う」という言葉が当てはめられているあたりに、あ〜あという気がするんですよね。

> まあ私は昭和世代なので、私が子供の頃は、
> 男子と女子が仲良く話すだけでも、冷やかされたり馬鹿にされたりした時代だったので、
> 正直言って、男女の間には壁があるというか、
> ぶっちゃけて言うと、「敵対関係」「冷戦状態」みたいな感じでした(笑)。


確かに、小学生中学年くらいのまではそんな雰囲気ありました。

> そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?


根拠はないですけど、それはありそう。
「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

> > > > おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
> > > エヴァが、イタかったり、キモかったりするのは、放送当時から既にですよ(笑)。
> > > と言いますか、テレビ放送から四半世紀が経ち、世間一般からの認知度が多いに高まった事で、
> > > 却って現在の方が、イタかったり、キモかったりする存在として、認識されてない実感はありますね。

> > いや世間一般からすればずっとキモかったのでしょうけど、オタク層の年下世代からもそう思われるだろう、ということです。
> > これはエヴァに限らず、その後のセカイ系や今のなろう系、あるいは萌え系そのものも含めて、
> > キモイと言われるだろうということなんですよね。

> 例えばセカイ系なんて、今では新海誠が「国民的なアニメ監督」となってる時点で、
> キモいと言われる所か、エヴァ以上に「一般化」してしまった印象すらありますけどね(笑)。
> 萌え系にしても、どこも かしこも それ系のマスコット・キャラが作られていますし・・・・
>
> って、それはさておき、オタク内での話であったとしても、
> やはり、エヴァがキモくて イタいのは、当時からだと思いますけどねえ(笑)。
> 旧劇場版における最後の台詞も、「気持ち悪い」という一言であり、
> それは、アスカからシンジに向けられたメッセージであるだけでなく、
> 庵野監督からオタクたちに向けられたメッセージでもあるのでしょうし。
>
> あと、時代や世代が変われば、評価だって様変わりするのも、当然と言えば当然の事で、
> 我々人類の文化は、そんな事を何度も繰り返してきてますから、
> 当時と現在だけをピックアップして、そこに特別な意味を込めさせる必要も無い気はします。


時代変化で作品の評価や受け取られ方が変わるのは当たり前ですけど、
やはりいざ自分の好きな作品やジャンルが衰退するかもしれないという恐怖を感じると、冷静ではいられないですね。
交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

> > > > 仮説ですが、オタク文化も新しい世代には受け入れられず浄化されていくと思うんですよ
> > > > 00年代の萌えとか、嫁とかも、今の推しというのは、読者でありアニメの視聴者である私の姿がより消えている言葉ですし、
> > > > それはオタクの気持ち悪い部分、萌えとか嫁とかに含まれていたものが浄化されているように見えるんですよね。
> > > > おそらく百合とも既に浄化がかなり進んだ結果普及したのだと勝手に思ってます。

> > > いや〜、正直言って私には、
> > > 岡田斗司夫の「ホワイト革命」論に引っ張られ過ぎて、
> > > 何でも「浄化」のキーワードで解釈しようと、無茶している印象を受けますけどね(笑)。

> > 岡田斗司夫のホワイト革命論も、「先生、みなの前でほめないでください」も、
> > 私としては「あ〜あるある」というのが多分に含まれていたんですよね。
> > 私は「スカッとジャパン」みたいなものが凄く嫌いなんですけど、
> > 岡田斗司夫のホワイト革命論に触れるまでは、私だけの個人的なものだと思っていましたし。
> > 今の世代にとって「スカッとジャパン」みたいなものは朝鮮人差別や中国人差別に近いので、
> > 若者から嫌われたくない年上の人は絶対見るのやめた方がいいと思うんですけど、その辺の理解が進んでいないんですよね。
> > 私としては、それがちょっと年上の世代の人を見ていて、ちょっとかわいそうに思えるんですよね。

> う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
> その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
> そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
> 思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
> それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
> そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?
>
> 似たような内容の話は、これまでに何度も行っていますけど、
> 自分の中で腑に落ち「なるほど!」と思えた場合こそ、自分の中での反証が重要なんですって!!
> 「あれも当てはまる、これも当てはまる」と、都合良く証拠を追い求めてしまうと、
> 無自覚なまま、1しかないのに10に見えたり、当てはまらないモノは視界の外に追いやったり、
> そうしながら、これが正しいと思い込んだ結論に、ハマってしまいがちなんです。
>
> 例えば、それこそ、この論法を用いる事により、
> 「スカッとジャパンが人気だったのも、ホワイト化の現れ!」と見なす事だって可能です。
> ですが、この場合、旧トルコ担当さんの中で「この番組は嫌い」という感情がある為、
> 「これは当てはまらない」と、なるのでは無いでしょうか?(笑)
> で、もしも実際、そう思われたとすれば、
> それは何よりも、「ホワイト革命を恣意的に適用」していた証になろうかと。
> 要するに、あの番組内容にハマれずムカっとすれば、それを嫌う事がホワイト化と映るでしょうし、
> 逆に ハマれてスカッと出来れば、汚いヤツを裁く痛快劇としてホワイト化の象徴のように映るはず。
>
> また、イヤミ課長役で人気を博した木下ほうかの、若手女優への性的強要が発覚した際の反応を見ても、
> 一定の若者人気(特に女性層)がある番組なのは感じ取れてましたから、
> 「中高年が好んで見ていて、若者は好まない番組」と決め付けているのは、正直 違うと思いますよ。
> この部分に関しても、自分中心の視点で物事を判断しがちな傾向が顕れてませんか?
> 私からすると、「特定の世代」を反映してると言うよりは、「今の時代」を反映してる番組だと感じます。
> ちなみに、一応 念の為に言っておくと、
> 「スカッとジャパン」は視聴率の低迷により、既に半年前に番組終了してますね。
> あと、最後に言っておくと、あの番組は私も好きじゃありませんでした(笑)。


管理人さんの言うことも分かりますし、
私も「仮説ですが」とか「私の知っている限られた情報から判断すれば」とか、ちょくちょく入れているんですよね。
とはいえ、私が(世代論など含め)歴史や社会科学が好きなのは、管理人さんの言うところの「腑に落ちる感覚がして、スカッとする」があるからなので、
この感覚のために時間を使って本読んだり色々考えたりしてるので、それを辞めるとなると歴史の勉強なんてやってられるか、みたいな気持ちはあります。
飲まなきゃやってらんねえよ、みたいな感じで。

私も自分の信じている仮説って本当に正しいのだろうかと不安になることはありますし、
なんなら最近は、勉強しても勉強しても、むしろ勉強すればするほど、「自分は何もわかっていないんじゃないのか」という不安が大きくなり、
正直歴史を勉強するのがしんどいんですよね。(そんなに本読んでないだろというツッコミはナシでお願いしますw)

私にとって岡田斗司夫が面白かった理由は、この"分かる感覚"を岡田斗司夫が簡単に与えてくれたからであり、
ある程度の論理性と、非凡な発想力、そして少し変わった表現力と、自信満々に断言する傲慢さが合わさり、奇跡のように"分かる感覚"を量産した人なんですよね。
とはいえ、岡田斗司夫は自分の仮説が外れても全然恥じない厚顔無恥の人間ですし、やはり胡散臭い人間ではあるのですがw(この辺も含めてあれは才能ですねw)

あとはまあ、結局は(社会)科学の力をあまり信じていないというのもあるのかな。
2015年の時点でアメリカがあんなことになるなんて予測していた人は少数派でしたでしょうし、
歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
(歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)
まあ、学問自体に期待していないので、私が多少科学的じゃなくても、どうせ学者だって似たり寄ったりだろ、みたいなことも"極論"思うようになりました。
反知性主義といわれるかもしれませんが、そのくらいの距離感が社会科学に対する丁度よい距離感なのかな、と。

1調べて「なるほど」と満足するのがダメで、
10調べて「分かった」と感じるのがダメで、
100調べても詳しい人を名乗ってもだめなら、
どれだけ調べれば私は気持ち良くなっていいんですかね?
数学はもうだいぶ忘れていますが、これって確か数学的帰納法じゃありませんでしたっけ(調べたら全然違いました)。

一応、私も200冊オタク関係の本を読んだ経験から、「テーマ史で新たな視点を獲得する」という方法論は持ち合わせています。
例えば戦後日本史は、「戦後日本史」的なタイトルの本だけ読んでいると、どの本にも「敗戦→高度経済成長→バブル→失われた30年」みたいなおなじみのパターンの話しか出てきませんが、
これを少女文化史とか、学校文化史とか、子ども文化史とか、そういったテーマ史で調べると、全然違った視点から戦後史を見ることができました。
あとはまあ、200冊読む過程で、最初に建てた仮説がいかにお粗末であるか、30冊くらいの時に建てた仮説がいかにピントがずれているか、を身をもって体感しましたので、
何事も何かを言い切るほどの傲慢さは持てなくなりましたね。
結局は、真実が知りたければ史料(表現が大げさ)に当たるしかないですし(なのですかっとジャパンは若者にも人気みたいなことを積み上げていくしかない)、
そして結構な時間を使って色々当たったとしても、当事者からすればまだトンチンカンなこと言っているレベルにしかならないのは、
それこそ管理人さんの書き込みで痛感しましたし。(みんな当たり前のことは文章にしないので、当たり前のことほど分からないんですよね)
そういう意味で、本当に200冊のオタク関係の本を読むという経験は非常に勉強になりました。

> > 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> > 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> > 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> > これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

> 実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
> 意外と曲者というか、深いモノがある気がします。
>
> SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
> 決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
> つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
> 根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。
>
> そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
> きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
> 期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
> その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
> メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?


これもそうですね。
何を今さら感が私にとっては強いのですが、当事者じゃないというのはそれだけ分からないということなんですよね。

追記
管理人さんの文章に引っ張られて、よく考えずに書いてしまったので訂正します。
若者は褒められたくないというのが私の私見です。
もちろんSNSなどの承認欲求というのもありますが、身近な人か好かれたい・嫌われたくないというのが若者の関心事項であり、
大学の教授に褒められるというのは、苦痛でしかないと思います。
また、仮に相手が身近な人であったとしても、褒められたいというよりも、その欲求というのはもっと消極的に存在を認めてほしい、程度であって
褒められたい、というのはやはりパワフルさというか、意識の高さみたいなものを感じます。


[24085] Re5:私から見る80,90年代(追記あり)返信 削除
2022/11/16 (水) 19:45:10 徳翁導誉

> > > > > > 両想い、という言葉は互いの気持ちを表す言葉ですが、つき合う、というのは社会的関係を表す言葉であり、
> > > > > > チャラい男が「ひとまず、オレ達付き合てみね?」みたいな使い方もできる言葉ですので。

> > > > う〜ん、「付き合う」の方の言葉の認識は、ちょっとズレている気も・・・・
> > > > 「恋愛」に関して言うと、確かに口約束レベルの契約的な側面もあるので、全否定はしないものの、
> > > > その関係性は社会的と言うより、明らかに個人的なモノであり、法律的な縛りもない以上、
> > > > 結局の所、一緒に何を行うかという、その「行動」に拠る言葉になると思うんですよね。

> > > 例えば、付き合っているのに別の誰かを好きになれば、それは少なからず裏切りになるでしょうし。
> > > あと、付き合うというのはその関係をオープンにすることであり、
> > > 周囲のクラスメイトなどから、そういった扱いを受ける、というニュアンスも含まれています。

> > あ〜、なるほど。 何だか解りました。
> > これは以前にも話題とした、「便所メシ」世代の話と通ずる部分があるかも?
> > こうした認識が、若い世代に共通なのか、それとも旧トルコ担当さん個人の感覚かは解りませんけど、
> > そもそも恋愛というのは1対1の個人的関係であり、そこに第3者を交えるかは関係無いはずです。
> > ですけど、周囲の目を気にする事が、無自覚の内に大前提となっているが故、
> > 上記のようなニュアンスも含むと決め付けてしまい、「社会的関係」であると思い込んでいるのかも?
> > 言ってしまえば、自分(たち)の常識が、必ずしも世間の常識とは限らないと言う話ですね。

> 岡田斗司夫が10年くらい前の動画で「今の若い世代は告白という儀式があり、付き合っているというのを周囲に宣言する
> 昭和の時代はそんなへんてこな儀式なんかなくて、付き合うというのは当事者同士が宣言するものではなく、周囲が勝手に認定するものだった」
> というようなことを言っていて、気になったので調べたところ、
> 確かに「きまぐれオレンジ☆ロード」では周囲が勝手に主人公とヒロインを付き合っている認定していたんですよね。
> 何となくその辺の感覚がよく分からなかったのですが、やはり付き合うにしても周囲の視線を気にしすぎる世代なんですかねえ。
> まあ隠れて付き合ってる的な感じもそりゃ今だっているでしょうけど(大学のサークルとか職場は特に)、
> 中高生くらいの恋愛と言えばオープンなのが当たり前というか、ひっそり付き合っているのは、何かおとなしめのタイプというイメージですね。

「周囲が勝手に認定する」というのも、そうですが、
そもそも論として、1対1の個人的関係なので、周囲の存在は在っても無くても関係無く、
だからこそ、周囲の人間は推し量って判断する・・・って感じなのですかねえ?
いや別に、昔も交際宣言するカップルは居ましたけど、宣言は別に必須じゃありませんでした。
まあ、恋バナ大好きな女子たちは、友人内で交際を公にしている層も少なくなかったでしょうが、
男子だと、友人同士でも恥ずかしいというか、隠す訳じゃないけど敢えて言わない感覚が強かったかと。

> 少なくとも恋愛マンガの題材にはなりにくそう。
マンガであれ、リアルであれ、
障害があったり、禁止されていたりする方が、いろいろと盛り上がるモノです(笑)。
そういう意味では、昔は「不自由の中の自由さ」があり、
今は「自由の中の不自由さ」がある時代なのかも知れません。

> > 今は解りませんが、部活の先輩を「くん付け」などしたら、折檻モノでしたね。
> > とは言え、私も「男子には くん付け、女子には さん付け」を当たり前に育った世代なので、
> > 正直な所、あまり詳しくは知らないと言うか、変化の体験談みたいなモノはありません(笑)。

> 私の時は部活の先輩に君付けはあり得ませんでしたよ。
> とはいえ、管理人さんの話を聞く限りでは、今の小中学生はまた色々と違うようなので、これに関しては分かりませんが。

先輩を「くん付け」と呼ぶというので考えると、
ジャニーズとか、学校外のスポーツ・クラブ(特にサッカー)で、昔から、そんな文化がありますね。
とは言え、さすがに学校の運動部とかまでには、まだ現状でも、そこまで普及してないかも?

・・・って、そうやって改めて考えてみると、
戦後になって、女子が男子を「くん付け」する文化が浸透した事から見ても、
もともと明確な「上下関係」があった所に、形式上の「対等関係」を新たに築こうとした場合、
下側から上側に対する呼称として、都合が良い案配だったのが「くん付け」だったのかな。

> > > > 今の子供たちって、意識の話だけでなく、少子化の影響もあるのかも知れませんけど、
> > > > 一昔前に比べると、本当に隔たりが薄いというか、異性の友達とか本当に居たりしますからね。
> > > > 異性の友達なんて、90年代くらいまで、半ば おとぎ噺に近い存在だったかと?

> > > 確かに私も異性の友達が当たり前の世代ですので、友達の延長線としての異性関係というのも非常になじみ深いので、
> > > だからこそ、「両想い」ではなく「付き合う」という言葉が当てはめられているあたりに、あ〜あという気がするんですよね。

> > まあ私は昭和世代なので、私が子供の頃は、
> > 男子と女子が仲良く話すだけでも、冷やかされたり馬鹿にされたりした時代だったので、
> > 正直言って、男女の間には壁があるというか、
> > ぶっちゃけて言うと、「敵対関係」「冷戦状態」みたいな感じでした(笑)。

> 確かに、小学生中学年くらいのまではそんな雰囲気ありました。

そういう意味では、旧トルコ担当さんも、過渡期の世代だったのかな?
今の小中学生って、昔に比べると、男女間が かなりフラットな関係に映りますし。

> > そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> > 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> > 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> 根拠はないですけど、それはありそう。
> 「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

逆に言うと、「全ての関係性で垣根が低い」からこそ、
対立とか衝突を乗り越えた上での、深くて強固な人間関係みたいなモノは、
却って今の時代の方が、築き難くなってるのかも知れませんね。
何度も言っていますが、「繋がり」と「しがらみ」は表裏一体の関係なので、
面倒さというデメリットを排せた反面で、絆の強さというメリットも失われてしまったと。
だからこそ、言葉による再確認とか、周囲の人間も巻き込んでの関係作りが、昔以上に重要なのかも?

> > > > > おそらく今のもっと若い世代からすれば、エヴァみたいなものこそ、パワフルでイタいなあと感じるものだと思うんです。
> > > > エヴァが、イタかったり、キモかったりするのは、放送当時から既にですよ(笑)。
> > > > と言いますか、テレビ放送から四半世紀が経ち、世間一般からの認知度が多いに高まった事で、
> > > > 却って現在の方が、イタかったり、キモかったりする存在として、認識されてない実感はありますね。

> > > いや世間一般からすればずっとキモかったのでしょうけど、オタク層の年下世代からもそう思われるだろう、ということです。
> > > これはエヴァに限らず、その後のセカイ系や今のなろう系、あるいは萌え系そのものも含めて、
> > > キモイと言われるだろうということなんですよね。

> > 例えばセカイ系なんて、今では新海誠が「国民的なアニメ監督」となってる時点で、
> > キモいと言われる所か、エヴァ以上に「一般化」してしまった印象すらありますけどね(笑)。
> > 萌え系にしても、どこも かしこも それ系のマスコット・キャラが作られていますし・・・・
> > あと、時代や世代が変われば、評価だって様変わりするのも、当然と言えば当然の事で、
> > 我々人類の文化は、そんな事を何度も繰り返してきてますから、
> > 当時と現在だけをピックアップして、そこに特別な意味を込めさせる必要も無い気はします。

> 時代変化で作品の評価や受け取られ方が変わるのは当たり前ですけど、
> やはりいざ自分の好きな作品やジャンルが衰退するかもしれないという恐怖を感じると、冷静ではいられないですね。

う〜ん、この辺りの感覚の違いは、私と旧トルコ担当さんの年齢の違いも影響してるかも?
未だ青春時代の途上にある旧トルコ担当さんの感覚だと、
もちろん、いろいろあるでしょうけど、基本的には全ての感覚が登り調子でしょうし、
それが衰退する事に対して、恐怖や冷静でいられない感覚に陥るのも、充分に理解できるんです。

一方で、私などは もうオッサン世代ですから、
人間だろうと、文化だろうと、あらゆるモノに栄枯盛衰がある事と実感済みであると(笑)。
まあ、特に私の場合、転勤族として育った事もあり、平均的な人よりも客観視する感覚が強く、
更には歴史好きであったり、理系人間である事も作用してか、それを ごく普通に受け入れてますね。

もちろん、喜んで「衰退」を受け入れる人なんて、まず居ないでしょうけど、
年齢的にも、性格的にも、それを「仕方がない事」として甘受する感覚は持っていますし、
逆に言えば、そこで抗おうとしたり、主観で突っ走ったりする事もないので、
良くも悪くも、「懐古主義に浸る」事が出来ないと(苦笑)。
でも、自分世代の青春時代を特別視しない感覚を持っているからこそ、
昔のモノも、今のモノも、あまり区別せず楽しめる下地が、出来ている気はします。
まあ恐らく、こういうタイプの人間というのは、世間的には少数派なのでしょうけど、
ネット配信の拡充で今と昔の垣根が低くなるなら、今後は同じタイプの人間も増えるのかな?
(ただし その反面、今後は同世代で、共通の懐古話に花を咲かせるのが難しくなるかも)

> 交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、
> いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

年齢差による「感覚の違い」という観点から、引き続いて述べると、
「死の身近さ」というのも、大きな違いがあるかも知れません。

核家族化が進み、兄弟姉妹も少なくなり、親戚関係や近所関係も疎遠化している昨今、
特に学生だと、周囲に同世代の子供たちしか居ない訳で、
葬式に出たり、家族や友人知人が亡くなるという経験は、あまりしない為、
「死」というモノが、非常に縁遠いというか、実感が乏しく、
だからこそ反面で、それに対する恐怖感や忌避感も、非常に強いと思うんですよ。

でも、社会に出て様々な年代と触れ合い、そして自分や周囲も年齢を重ねていけば、
どうしたって死は免れませんし、ドンドンと身近な存在へと変わっていき、
慣れが生じると共に、恐怖感や忌避感も次第に薄れていくのが、実際の所です。
いや本音を言えば、怖くない訳でも、嫌じゃない訳でもありませんが、
そこに個人差はあれど、「仕方がない事」として、徐々に受け入れていく感じになると。
オッサン世代になれば、同級生だって、もう何人も死んでますし。

> > う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
> > その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
> > そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
> > 思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
> > それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
> > そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?

> 管理人さんの言うことも分かりますし、
> 私も「仮説ですが」とか「私の知っている限られた情報から判断すれば」とか、ちょくちょく入れているんですよね。
> とはいえ、私が(世代論など含め)歴史や社会科学が好きなのは、管理人さんの言うところの「腑に落ちる感覚がして、スカッとする」があるからなので、
> この感覚のために時間を使って本読んだり色々考えたりしてるので、それを辞めるとなると歴史の勉強なんてやってられるか、みたいな気持ちはあります。
> 飲まなきゃやってらんねえよ、みたいな感じで。
> 私も自分の信じている仮説って本当に正しいのだろうかと不安になることはありますし、
> なんなら最近は、勉強しても勉強しても、むしろ勉強すればするほど、「自分は何もわかっていないんじゃないのか」という不安が大きくなり、
> 正直歴史を勉強するのがしんどいんですよね。(そんなに本読んでないだろというツッコミはナシでお願いしますw)

ところで旧トルコ担当さんは、「ダニング=クルーガー効果の曲線」というのを ご存知でしょうか?
「知識」と「自信」の成長というのは、右肩上がりの一直線ではなく、こんな感じの曲線↓を描くというモノですね。


これは何も学問だけに限らず、あらゆる分野においても言える事であり、
実際、オタク界の中でも、「ガンダム チョットワカル」というネタ↓があったりします(笑)。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2107/01/news136.html


> 1調べて「なるほど」と満足するのがダメで、
> 10調べて「分かった」と感じるのがダメで、
> 100調べても詳しい人を名乗ってもだめなら、
> どれだけ調べれば私は気持ち良くなっていいんですかね?

何事でも そうですが、真面目に学ぼうとした場合、
新しい事を1つ知ると、解らない事が2つも3つも新たに出てくるモノですし、
学びを繰り返していけば、ネズミ算的に、解らない事が膨大に増えていくモノですから、
そういう意味では、学びというのは、非常に理不尽な世界です(笑)。

でも、そうやって「解らない事」の数が増えていくというのが、実はとても重要なんですよ!!
洋の東西を問わず、孔子もソクラテスも言及している、「無知の知」ってヤツですね。
「下手糞の上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目」と、
安西先生だって、言ってるじゃないですか(笑)。
(スラムダンクを基礎教養として見てる時点で、オタク相手以外なら老害認定ですけど)
「凄くできる人ほど謙虚だ」とか言ったりしますが、当人的には別に謙虚なのではなく、
自分の中での解る事と解らない事の線引きが、普通の人よりも明確なだけなんだと思います。

それこそ、上述のダニング=クルーガー効果の曲線に従えば、
「馬鹿の山(初心者)」→「絶望の谷(中級者)」→「啓蒙の坂(上級者)」→「継続の大地(達人)」
という成長曲線を描く訳で、
「何もわかっていないんじゃない不安」「勉強するのがしんどい」という、現状の旧トルコ担当さんの辛さも、
初心者レベルから中級者レベルへと脱皮する過程の、産みの苦しみだとも言えますし、
そういう意味では、偉そうに言うと、確実に成長中であるとも見なせるでしょう!!
逆に、手っ取り早く「気持ち良さ」を得たいのであれば、「永遠の初心者」である事ですね(笑)。
ぶっちゃけ、労力と快楽の割合で考えると、ニワカの立ち位置でライトに楽しむのが、最もコスパが良いので。

でも、快楽のコスパではなく、快楽の総量を求める場合、
山登りと同じで、より高くを目指すほど、快楽に倍する労力を要するようになりますし、
高くなれば なるほど、その1歩1歩の足取りも重くなっていきますから、それこそ茨の道ですよ。
身も蓋もない事を言ってしまえば、調べれば調べるほど苦痛になるのが、この道の行き先であり、
そこまで行かなければ見られない、美しい高原植物に出会える事(快楽)はあっても、
総体的に、達成感や充実感みたいなモノは得られても、そんな気持ちの良い未来は待っていないかと?
「なぜ山に登るのか? そこに山があるからだ」というのと同じように、
「なぜ調べるのか? そこに知らない事があるから…」という感じなので、
良くも悪くも、こうした衝動(義務感?)に突き動かされるタイプでなければ、
この道程の苦しさというのは、なかなか乗り越えられないかも知れませんね・・・・

一方で、「気持ち良さ」を最重視するのであれば、それこそ、
1つ2つ調べて「なるほど、解った!」という所で、足を止めれば良いと。
いわゆる「ネットde真実」みたいなのが、まさに このパターンでしょうか?
正直な所、嫌韓反中やQアノンなどの陰謀史観にハマるのは、
少ない労力で大きな快楽を得られますから、気持ち良さ的には、非常にコスパが良いと思いますよ。
で、こうなると、相手に対する「もっと勉強しろよ!」は、「自分に同調しろ!」と同義になりますし、
調べるという行為も、客観的な新情報を探すのではなく、持論の補強材料を探すモノとなります。
真相に近付きたいから調べるのではなく、気持ち良くなりたいから調べるので・・・・
(逆に言えば、知る事を快楽としつつ、安易な快楽を嫌悪すると、このルートを避けられるかな?)

> 私にとって岡田斗司夫が面白かった理由は、この"分かる感覚"を岡田斗司夫が簡単に与えてくれたからであり、
> ある程度の論理性と、非凡な発想力、そして少し変わった表現力と、
> 自信満々に断言する傲慢さが合わさり、奇跡のように"分かる感覚"を量産した人なんですよね。
> とはいえ、岡田斗司夫は自分の仮説が外れても全然恥じない厚顔無恥の人間ですし、
> やはり胡散臭い人間ではあるのですがw(この辺も含めてあれは才能ですねw)

そこはもう、エンタメとして聞くか? バイブルとして聴くか? の違いですかね(笑)。
別に私も、岡田斗司夫を全否定している訳では無いですし、
(と言いますか、ことオタク的な知見に関して言えば、やはり面白いですよ!)
エンタメとして割り切りながら、是々非々で楽しんでる感じでしょうか。

あと、客観性よりも主観性に偏り、何事も自分に都合良く解釈するタイプの人なので、
情報源としての信頼度は、かなり低く設定しているかな?
少なくとも、別な立場の人も同様の発言をしていない限り、
岡田斗司夫の発言だけでは、「信じられる情報」とは見なしてませんね、私自身は。

> あとはまあ、結局は(社会)科学の力をあまり信じていないというのもあるのかな。
> 2015年の時点でアメリカがあんなことになるなんて予測していた人は少数派でしたでしょうし、

「2015年の時点でアメリカが」というのは、いわゆる「トランプ現象」の事ですかね?
う〜ん、この「予測」というのが、実際に何を指すか次第で、その答えは変わるかな・・・・
簡単に言うと、大きな流れみたいなモノは、そこまで読み難いモノでは無いんですよ。
アメリカ政治で言うなら、2000年と2004年にブッシュJr.の大統領当選があり、
2010年前後のティーパーティー運動があった上での、あのトランプ現象でしたからねえ。
あの時期に、あの規模で顕れたのが予想外だっただけで、一連の流れとしては以前より在りました。

解りやすく喩えるなら、天気予報や、台風の進路予測に似た所があるかも?
6月は雨の日が多いとか、8〜9月は台風が多いとか、そうした大まかな予測は外しませんけど、
一方で、1ヶ月後の○月×日の天気や、台風の進路など、ピンポイントな予測的中は困難です。
それでも、今後1週間くらいの降水に関してなら、「確率」という形でそれなりに出せますし、
前線の関係で、雨の降る日が前後したり、降水量が予測から上下する事もありますが、ある程度は解ります。
要するに、速さ・大きさ・方向などで幾らかのズレは生じても、おおよその傾向は推測できると。
なので、必ず当たる訳では無い天気予報や台風予測も、活用次第で有用性が大きく変わるとも言えるかな?

で、政治や社会の予測に関して言うと、短期的な予測というのは非常に困難ですが、
中期的な予測は景気により、長期的な予測は人口によって、そこそこは見えてくる所があるのも事実です。
大統領選挙で言うなら、不景気だと次の選挙で政権交代が起こりやすいとか、
非白人の割合がジワジワ増えているので、大胆な路線転換を行わない限り、共和党はジリ貧だとか。
特に人口の場合、そんな簡単に、傾向が変化するモノでもないですし、
景気にしても、一夜で急激に好景気へ転じる事もなく、
バブルが弾けるタイミングは読めなくても、バブルが膨らんでるのは解るので。

つまり、これも天気予報や台風予測と同じように、的確に当てるのは困難でも、大まかな流れは掴めますし、
それをどれだけ活用するか? その為にどれだけ情報を収集するか? は、人それぞれであると。
出掛ける前に、ちょっと天気予報を確認するだけで、雨に濡れずに済む事だってありますし、
逆に、せっかく傘を持っていったのに、結局は雨が降らず、ただただ邪魔だったなんて事もありますから、
トータルで見て、それをどう評価するか?って事ですよね、結局は。
どちらが正解、不正解という話でもありません。

> 歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
> (歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)

いやいや、歴史に「必然性」を求める学者なんて、本当にそんなに居ますか?
「歴史にifは無い」と言いますが、その反面で、
「歴史とは様々あった可能性の1つに過ぎない」事は、学べば学ぶほど解る事でしょうし、
テレビに出ている、歴史学者ならぬ歴史家であったり、学者肩書きのコメンテイターでも無い限り、
そんな事は、普通に言わないと思いますけどねえ・・・・
まあ、中には御用学者とかも居ますし、その場その場で都合の良い発言をする人も居るでしょうけど、
そういう人は、特定の業界内では需要があっても、学術界では相手にされていないかと?

司馬遼太郎などの歴史小説家は、あくまでもエンタメの世界なので、
面白おかしく「必然性」を語る事もあるでしょうが(そちらの方が作品的に楽しいので)、
あれも別に、歴史学としてキチンと考察している訳では無いですからね。
「司馬史観」とか言って、有り難がってしまうのは、読者側のリテラシーの話だと思いますし。

> まあ、学問自体に期待していないので、私が多少科学的じゃなくても、
> どうせ学者だって似たり寄ったりだろ、みたいなことも"極論"思うようになりました。
> 反知性主義といわれるかもしれませんが、そのくらいの距離感が社会科学に対する丁度よい距離感なのかな、と。

学問とか、科学とかは、解らない事は普通に「解らない」と言いますし、
真摯な態度で語るなら、それこそ「解らない事だらけ」なので(笑)、
具体的な処方箋を呈示してくれるみたいな期待は、当然ながら応えられないかな?(苦笑)
例えば、地球温暖化の話にしたって、科学的・学術的に語るのであれば、
地球が本当に温暖化しているかも解らなければ、人間の出す二酸化炭素の所為かも解りません。

実際は、真っ当な学者ほど、安易な断言など絶対に行いませんし、
逆に言えば、科学的なデータを都合良く解釈&利用する政治家や運動家が居たり、
利益を得る為に、そこに おもねる御用学者が居るだけですね。
まあ実際問題、「解らない、解らない」だけじゃ、何も行えませんし、
解らなくても動かなければならないのが、政治であり社会であると考えるのであれば、
「科学的・学術的な正しさ」と「政治的・社会的な正しさ」とは、必ずしもイコールとは限りません。
そして更には、一般市民の感覚からすると、そんな事情も面倒で解り難いですから、
結局は、感情というかフィーリングで、「メディア報道を信じるか?否か?」になるのかな。
で、マスコミの報じる正しさが、本当に正しい訳では無いものの、
ネットde真実に比べれば、遥かにマシであろう事は確かですね(笑)。

> > > 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> > > 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> > > 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> > > これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

> > 実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
> > 意外と曲者というか、深いモノがある気がします。
> > SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
> > 決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
> > つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
> > 根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。
> > そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
> > きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
> > 期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
> > その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
> > メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?

> これもそうですね。
> 何を今さら感が私にとっては強いのですが、当事者じゃないというのはそれだけ分からないということなんですよね。

前出のように、恋愛と周囲の関係性とか、スカッとジャパンの視聴者層など、
自分の中で当然の認識だったモノも、実際に声に出してみる事で、それが改まる事だってありますし、
また、当事者だからと言って、と言うか当事者だからこそ、
主観に寄り過ぎて、客観性に欠くという事も珍しくは無いのですから、
いろいろと言葉にしてみる事は、それなりに良い事だと思いますよ(笑)。

> 追記
> 管理人さんの文章に引っ張られて、よく考えずに書いてしまったので訂正します。
> 若者は褒められたくないというのが私の私見です。
> もちろんSNSなどの承認欲求というのもありますが、身近な人か好かれたい・嫌われたくないというのが若者の関心事項であり、
> 大学の教授に褒められるというのは、苦痛でしかないと思います。
> また、仮に相手が身近な人であったとしても、褒められたいというよりも、
> その欲求というのはもっと消極的に存在を認めてほしい、程度であって
> 褒められたい、というのはやはりパワフルさというか、意識の高さみたいなものを感じます。

う〜ん、これに関しては、
「認める」という言葉の意味の誤用というか、解釈の拡大や意味の変容が起きている気がするんですよね。
個人的には、「認める」の方が重く、「褒める」の方がライトなので、「認める>褒める」という感じですが、
ここ数年の用法だと、「褒める>認める」みたいな用い方も目立ち始めてきた印象があります。

例えば、認めるには「認めざるを得ない」という用法がありますが、
これって、個人的には嫌いでも、その成果なり才能は、評価すべきモノがあるという表現ですが、
これが褒める野場合、個人的に嫌いであれば、「褒めざるを得ない」という表現にはなりません。
そういう意味では、主観的に感情も交じるライトな評価が「褒める」であり、
客観的に結果や能力を、純粋に評価するのが「認める」だと思うんですよ。
ただ、認めるの方には、ネガティブな評価をオブラートに包む時の表現としても用いられ、
例えば、「努力は認めるよ、努力は」と言う場合は、真意に「結果の否定」が含まれますし、
「ファイルの存在を認める」とかも、不祥事が発覚した際、既にファイルは処分済みだと発表して、
それが嘘だとバレた時に、「誤情報の修正」の意味として用いられます。

まあ、「消極的に存在を認めてほしい」というのも解りますが、それはあまりにネガティブというか、
逆に言えば、だからこそ、ポジティブ方向への意味や適用の拡大が、近年起きている気がするんです。
具体的に言うなら、発端は学校現場や教育関連なんですかねえ?
昭和は当たり前だった「叱る」教育から、平成になって「褒める」教育へのシフトが図らたものの、
その結果、勉強や部活などの「成果を褒める」方向へと行き着いた為、
令和では、成果ではなく過程や努力を「認める」教育が頻繁に提言されていると。
(いや別に、過程や努力を褒めても良いですし、アメとムチで叱るを全否定する必要も無いのですが・苦笑)

要するに、「褒める」に替わる別の用語として、「認める」を引っ張り出してきた感じに近いのかな?
でも、SNSにおける承認欲求の象徴とされる「いいね(Good)」ボタンとかも、
あれって、投稿内容や作品の「素晴らしさ」を認めるという、重い意味では無いでしょうから、
そういう意味では、もっと気軽な感じで、それこそ「いいね」と相槌的に褒めている気がするんですよね。
あなたが投稿した「事実」は認めるよ という、ネガティブな意図でも無いでしょうし。
・・・って、だからこそ、褒めるよりも更にライトな(責任を負わない)表現として、
「投稿を確認したよ」という事実確認という意味合いで、認めるという単語を用いているのかな。
現実の用法としても、そちらの方がシックリ来るきがしますので。

と、単語の意味的なモノを、長々と書いてしまいましたが、普通は興味ないですよね?(笑)
世間一般の感覚では、もっと漠然と言葉を用いているでしょうし。
まあ、それはさておき、文章の内容の方への返信を始めますと、
若者は「褒められたくない」というのは、本当にそうなんですかねえ?
より具体的に言うと、前回も指摘しましたけど、
褒めるに付随されると連想する「期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など」を、
避けたが為の「褒められたくない」であり、
「褒められる」という行為自体まで、本当に嫌だと言えるのでしょうか?

もっと言うと、どの世代よりも「周囲の評価を気にする」世代であればこそ、
ネガティブな意味での「認められる」よりも、
更に上位に位置する「褒められる」を心の底から嫌っていますか?
これはコスパ感覚と同じで、褒められる事で得られるメリットとデメリットを秤に掛けた場合、
デメリットの方が大きいと判断すれば、確かにノーでしょうけど、
メリットの方が大きいと判断したなら、その時はイエスとなる気がしますけどねえ。
で、メリットとデメリットのバランスが微妙な所にあるからこそ、
「皆の前で」という要素が加わると、デメリット面が膨らみ(背負わされるモノが増えて)、
「褒められたくない」方へと傾くというのが、実際の所であるかと考えています。

逆に言えば、デメリットを上回る、大きな「承認欲求」が得られるのであれば、
変な話、どの世代よりも、実は「褒められたがり」な世代なのではないか?とも(笑)。
いや本当、今の若い世代の「周囲の目の気にしぶり」って、かなり際立ってますからね。
以前にも指摘しましたけど、それこそ俺ガイル的な「ぼっち感」って、
ぼっちを称しながら、必要以上に周囲を気にして、出来れば そこに関わりたがる感じが、
それまでの「ガチぼっち」みたいなモノと比べると、何だか独特な感じがあると。

まあ、少子高齢化の影響により、若者の絶対数も減っていれば、大人と子供の割合も変化しており、
教育方針の変化とも相俟って、今の世代は昔以上に、良くも悪くも1人1人が見られている時代ですので、
どの世代の子供より、実は褒められたり、存在を確認されている世代でもあるのですが、
それが当たり前で育っていると、そこを自覚できないと言うか、スタート地点の違いとかもありますね。
内在的で抑え気味な「もっと、もっと」という願望と、それが困難な社会の実状との間に、ギャップがあったり、
主観的に「自分たちはこうだ」というのと、客観的に「あなたたちはこうだ」というのでも、ズレもありますし。
って、あれこれと勝手に分析・解釈されるって、あまり心地良いモノでは無いかも知れませんけど(苦笑)。

あと、これは余談みたいなモノですが、
「大学の教授」と言うか、ここでは「先生」という表現ですから、
想定されるのは中学・高校の担任とかであったり、
もしくは大学であっても、こぢんまりとしたゼミとかだと思われますし、
そうなると、これはもう、立場は教授であっても「身近な人」となるのでは?
大教室の講義とかで、顔と名前しか解らない教授から、
いきなり皆の前で褒められるケースなんて、普通はまず無いですので(笑)。


P.S.
来週からカタールW杯が始まりますので、
(今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
事前に御了承下さい。


[24095] Re6:私から見る80,90年代【追記あり】返信 削除
2022/11/30 (水) 03:24:00 旧トルコ担当

> > > う〜ん、腑に落ちる感覚がして、スカッとするのは別に良いのですが、
> > > その快楽に呑まれると言うか、確証バイアスみたいな感じで、全てを色眼鏡で見てしまい、
> > > そこを指摘されると、自らを省みるより、相手が間違っていたり、認識不足を疑うのは、
> > > 思考の構図として、陰謀論などにハマるのと大差ありませんし、
> > > それこそ対象や方向性が異なるだけで、嫌韓反中やQアノンと変わりませんよ・・・・
> > > そうした事に、どれだけ自覚を持ててますか?

> > 管理人さんの言うことも分かりますし、
> > 私も「仮説ですが」とか「私の知っている限られた情報から判断すれば」とか、ちょくちょく入れているんですよね。
> > とはいえ、私が(世代論など含め)歴史や社会科学が好きなのは、管理人さんの言うところの「腑に落ちる感覚がして、スカッとする」があるからなので、
> > この感覚のために時間を使って本読んだり色々考えたりしてるので、それを辞めるとなると歴史の勉強なんてやってられるか、みたいな気持ちはあります。
> > 飲まなきゃやってらんねえよ、みたいな感じで。
> > 私も自分の信じている仮説って本当に正しいのだろうかと不安になることはありますし、
> > なんなら最近は、勉強しても勉強しても、むしろ勉強すればするほど、「自分は何もわかっていないんじゃないのか」という不安が大きくなり、
> > 正直歴史を勉強するのがしんどいんですよね。(そんなに本読んでないだろというツッコミはナシでお願いしますw)

> ところで旧トルコ担当さんは、「ダニング=クルーガー効果の曲線」というのを ご存知でしょうか?
> 「知識」と「自信」の成長というのは、右肩上がりの一直線ではなく、こんな感じの曲線↓を描くというモノですね。
>
>
> これは何も学問だけに限らず、あらゆる分野においても言える事であり、
> 実際、オタク界の中でも、「ガンダム チョットワカル」というネタ↓があったりします(笑)。
> https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2107/01/news136.html
>
>
> > 1調べて「なるほど」と満足するのがダメで、
> > 10調べて「分かった」と感じるのがダメで、
> > 100調べても詳しい人を名乗ってもだめなら、
> > どれだけ調べれば私は気持ち良くなっていいんですかね?

> 何事でも そうですが、真面目に学ぼうとした場合、
> 新しい事を1つ知ると、解らない事が2つも3つも新たに出てくるモノですし、
> 学びを繰り返していけば、ネズミ算的に、解らない事が膨大に増えていくモノですから、
> そういう意味では、学びというのは、非常に理不尽な世界です(笑)。
>
> でも、そうやって「解らない事」の数が増えていくというのが、実はとても重要なんですよ!!
> 洋の東西を問わず、孔子もソクラテスも言及している、「無知の知」ってヤツですね。
> 「下手糞の上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目」と、
> 安西先生だって、言ってるじゃないですか(笑)。
> (スラムダンクを基礎教養として見てる時点で、オタク相手以外なら老害認定ですけど)
> 「凄くできる人ほど謙虚だ」とか言ったりしますが、当人的には別に謙虚なのではなく、
> 自分の中での解る事と解らない事の線引きが、普通の人よりも明確なだけなんだと思います。
>
> それこそ、上述のダニング=クルーガー効果の曲線に従えば、
> 「馬鹿の山(初心者)」→「絶望の谷(中級者)」→「啓蒙の坂(上級者)」→「継続の大地(達人)」
> という成長曲線を描く訳で、
> 「何もわかっていないんじゃない不安」「勉強するのがしんどい」という、現状の旧トルコ担当さんの辛さも、
> 初心者レベルから中級者レベルへと脱皮する過程の、産みの苦しみだとも言えますし、
> そういう意味では、偉そうに言うと、確実に成長中であるとも見なせるでしょう!!
> 逆に、手っ取り早く「気持ち良さ」を得たいのであれば、「永遠の初心者」である事ですね(笑)。
> ぶっちゃけ、労力と快楽の割合で考えると、ニワカの立ち位置でライトに楽しむのが、最もコスパが良いので。
>
> でも、快楽のコスパではなく、快楽の総量を求める場合、
> 山登りと同じで、より高くを目指すほど、快楽に倍する労力を要するようになりますし、
> 高くなれば なるほど、その1歩1歩の足取りも重くなっていきますから、それこそ茨の道ですよ。
> 身も蓋もない事を言ってしまえば、調べれば調べるほど苦痛になるのが、この道の行き先であり、
> そこまで行かなければ見られない、美しい高原植物に出会える事(快楽)はあっても、
> 総体的に、達成感や充実感みたいなモノは得られても、そんな気持ちの良い未来は待っていないかと?
> 「なぜ山に登るのか? そこに山があるからだ」というのと同じように、
> 「なぜ調べるのか? そこに知らない事があるから…」という感じなので、
> 良くも悪くも、こうした衝動(義務感?)に突き動かされるタイプでなければ、
> この道程の苦しさというのは、なかなか乗り越えられないかも知れませんね・・・・
>
> 一方で、「気持ち良さ」を最重視するのであれば、それこそ、
> 1つ2つ調べて「なるほど、解った!」という所で、足を止めれば良いと。
> いわゆる「ネットde真実」みたいなのが、まさに このパターンでしょうか?
> 正直な所、嫌韓反中やQアノンなどの陰謀史観にハマるのは、
> 少ない労力で大きな快楽を得られますから、気持ち良さ的には、非常にコスパが良いと思いますよ。
> で、こうなると、相手に対する「もっと勉強しろよ!」は、「自分に同調しろ!」と同義になりますし、
> 調べるという行為も、客観的な新情報を探すのではなく、持論の補強材料を探すモノとなります。
> 真相に近付きたいから調べるのではなく、気持ち良くなりたいから調べるので・・・・
> (逆に言えば、知る事を快楽としつつ、安易な快楽を嫌悪すると、このルートを避けられるかな?)


あとまあ、私の場合は学問としての歴史が好きなのではなく、ある種のSFとしての歴史が好きなんだというのに気づいてしまったというのもあるんですよね。
例えば優生学とか(支持しているとかではなく)あのエセ科学で当時の時代の雰囲気が感じられるのがめちゃくちゃ好きですし、
高校生くらいのころは歴史学"崇拝"があって、もっと歴史のまじめな本読んで自分も勉強しなくちゃいけないと思っていましたが、
今は好きなように適当に歴史をかじって、結果としてある程度間違った歴史認識だったとしても、自分が面白ければそれでいいや、と思うようになりましたね。
私はオタクであって知識人ではないので。
私の周囲には管理人さんのような知識人系の人が多いのですが、それに流されて本当に自分が好きなものを見失うのって、
オタクを自称する私が一番上から目線に見下してる、流行に流されて自分が好きなものを追わない一般人と同じですからね。

ちなみに、私の好きなコンテンツに「ドナウ連邦建国史」というのがあるのですが、管理人さんはご存知でしょうか?
第一次世界大戦でドイツが勝った世界線の架空史なのですが、筆者の豊富な歴史知識による作りこみが凄くておススメです。
以前管理人さんが妄想されていた、満州国が存続し続けていた世界線でもありますし。

> > まあ、学問自体に期待していないので、私が多少科学的じゃなくても、
> > どうせ学者だって似たり寄ったりだろ、みたいなことも"極論"思うようになりました。
> > 反知性主義といわれるかもしれませんが、そのくらいの距離感が社会科学に対する丁度よい距離感なのかな、と。

> 学問とか、科学とかは、解らない事は普通に「解らない」と言いますし、
> 真摯な態度で語るなら、それこそ「解らない事だらけ」なので(笑)、
> 具体的な処方箋を呈示してくれるみたいな期待は、当然ながら応えられないかな?(苦笑)
> 例えば、地球温暖化の話にしたって、科学的・学術的に語るのであれば、
> 地球が本当に温暖化しているかも解らなければ、人間の出す二酸化炭素の所為かも解りません。


何となく聞いたことはありましたが、やはり地球温暖化は怪しいんですね。
就活でカーボンニュートラルが〜とか散々聞いているので、あれが全部非科学的と言われれば、薄々感じていたこととはいえ、頭がバグりそうw
私は文系なので専門知識はさっぱりですが、地球って巨大ですし、その中で起きている化学反応や科学現象も多種多様でしょうから、
専門家でも実際に地球で何が起きているかというのは、分からないんだろうとは勝手に思っていました。
データだって無限の予算で世界各地に観測拠点を置くわけにはいかないでしょうし、過去のデータ何かは絶対に手に入りませんからね。
割と人体とかに近いのかな?人体の中でも様々な体の機能や反応が起きているはずで、おそらくその大部分は現代医学でも未解明なんでしょうね。

> > > > 「先生、みなの前でほめないでください」の場合、若者の貢献欲求という言葉がドキッとさせられましたね。
> > > > 私も貢献欲求高いので、バイトも安い給料で一生懸命働きますし、
> > > > 会社入っても上司から直接頼まれると(どうでもいい作業でも)張り切ってやる姿が想像できますし。
> > > > これも私だけでなく、今の世代みなそうなんだなあと。

> > > 実は、「皆の前で褒めないで」というのが、
> > > 意外と曲者というか、深いモノがある気がします。
> > > SNSにおける、異様な承認欲求の高さなどとも通じるのですが、
> > > 決して「褒めないで」ではなく、あくまでも「皆の前で」なんですよね。
> > > つまり、物凄く褒めて貰いたい、認めて貰いたいという感情が、
> > > 根源的な部分には、見え隠れしていると(笑)。
> > > そして更に言えば、皆の前で褒められるのが、本当に嫌なのかというと、
> > > きっと恐らくは、褒められたくない訳では無く、それ所か内心では褒めて欲しいのが本音なのに、
> > > 期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など、
> > > その事で他者から負わされる諸々の事を、負担に感じるというか、請け負える自信が乏しい為、
> > > メリットとデメリットを秤に掛けて、逃げの方向に回避したくなるのが、実際の所なのでは?

> > これもそうですね。
> > 何を今さら感が私にとっては強いのですが、当事者じゃないというのはそれだけ分からないということなんですよね。

> 前出のように、恋愛と周囲の関係性とか、スカッとジャパンの視聴者層など、
> 自分の中で当然の認識だったモノも、実際に声に出してみる事で、それが改まる事だってありますし、
> また、当事者だからと言って、と言うか当事者だからこそ、
> 主観に寄り過ぎて、客観性に欠くという事も珍しくは無いのですから、
> いろいろと言葉にしてみる事は、それなりに良い事だと思いますよ(笑)。
>
> > 追記
> > 管理人さんの文章に引っ張られて、よく考えずに書いてしまったので訂正します。
> > 若者は褒められたくないというのが私の私見です。
> > もちろんSNSなどの承認欲求というのもありますが、身近な人か好かれたい・嫌われたくないというのが若者の関心事項であり、
> > 大学の教授に褒められるというのは、苦痛でしかないと思います。
> > また、仮に相手が身近な人であったとしても、褒められたいというよりも、
> > その欲求というのはもっと消極的に存在を認めてほしい、程度であって
> > 褒められたい、というのはやはりパワフルさというか、意識の高さみたいなものを感じます。

> う〜ん、これに関しては、
> 「認める」という言葉の意味の誤用というか、解釈の拡大や意味の変容が起きている気がするんですよね。
> 個人的には、「認める」の方が重く、「褒める」の方がライトなので、「認める>褒める」という感じですが、
> ここ数年の用法だと、「褒める>認める」みたいな用い方も目立ち始めてきた印象があります。
>
> 例えば、認めるには「認めざるを得ない」という用法がありますが、
> これって、個人的には嫌いでも、その成果なり才能は、評価すべきモノがあるという表現ですが、
> これが褒める野場合、個人的に嫌いであれば、「褒めざるを得ない」という表現にはなりません。
> そういう意味では、主観的に感情も交じるライトな評価が「褒める」であり、
> 客観的に結果や能力を、純粋に評価するのが「認める」だと思うんですよ。
> ただ、認めるの方には、ネガティブな評価をオブラートに包む時の表現としても用いられ、
> 例えば、「努力は認めるよ、努力は」と言う場合は、真意に「結果の否定」が含まれますし、
> 「ファイルの存在を認める」とかも、不祥事が発覚した際、既にファイルは処分済みだと発表して、
> それが嘘だとバレた時に、「誤情報の修正」の意味として用いられます。
>
> まあ、「消極的に存在を認めてほしい」というのも解りますが、それはあまりにネガティブというか、
> 逆に言えば、だからこそ、ポジティブ方向への意味や適用の拡大が、近年起きている気がするんです。
> 具体的に言うなら、発端は学校現場や教育関連なんですかねえ?
> 昭和は当たり前だった「叱る」教育から、平成になって「褒める」教育へのシフトが図らたものの、
> その結果、勉強や部活などの「成果を褒める」方向へと行き着いた為、
> 令和では、成果ではなく過程や努力を「認める」教育が頻繁に提言されていると。
> (いや別に、過程や努力を褒めても良いですし、アメとムチで叱るを全否定する必要も無いのですが・苦笑)
>
> 要するに、「褒める」に替わる別の用語として、「認める」を引っ張り出してきた感じに近いのかな?
> でも、SNSにおける承認欲求の象徴とされる「いいね(Good)」ボタンとかも、
> あれって、投稿内容や作品の「素晴らしさ」を認めるという、重い意味では無いでしょうから、
> そういう意味では、もっと気軽な感じで、それこそ「いいね」と相槌的に褒めている気がするんですよね。
> あなたが投稿した「事実」は認めるよ という、ネガティブな意図でも無いでしょうし。
> ・・・って、だからこそ、褒めるよりも更にライトな(責任を負わない)表現として、
> 「投稿を確認したよ」という事実確認という意味合いで、認めるという単語を用いているのかな。
> 現実の用法としても、そちらの方がシックリ来るきがしますので。
>
> と、単語の意味的なモノを、長々と書いてしまいましたが、普通は興味ないですよね?(笑)
> 世間一般の感覚では、もっと漠然と言葉を用いているでしょうし。
> まあ、それはさておき、文章の内容の方への返信を始めますと、
> 若者は「褒められたくない」というのは、本当にそうなんですかねえ?
> より具体的に言うと、前回も指摘しましたけど、
> 褒めるに付随されると連想する「期待感か責任感、もしくは反感や羨望、嫉妬など」を、
> 避けたが為の「褒められたくない」であり、
> 「褒められる」という行為自体まで、本当に嫌だと言えるのでしょうか?
>
> もっと言うと、どの世代よりも「周囲の評価を気にする」世代であればこそ、
> ネガティブな意味での「認められる」よりも、
> 更に上位に位置する「褒められる」を心の底から嫌っていますか?
> これはコスパ感覚と同じで、褒められる事で得られるメリットとデメリットを秤に掛けた場合、
> デメリットの方が大きいと判断すれば、確かにノーでしょうけど、
> メリットの方が大きいと判断したなら、その時はイエスとなる気がしますけどねえ。
> で、メリットとデメリットのバランスが微妙な所にあるからこそ、
> 「皆の前で」という要素が加わると、デメリット面が膨らみ(背負わされるモノが増えて)、
> 「褒められたくない」方へと傾くというのが、実際の所であるかと考えています。


褒められるというのは「行為とか成果が、他よりもより優れている」ということですよね。
ですが、今の若者の自信のなさは、大学の教授に褒められた程度で払拭される程度の中途半端なものではありませんから、
褒められたとしても、自分で自分の成果を他よりもより優れていると認められない以上、褒められるという行為自体が無意味なのではないでしょうか。

これは私の場合を基にした仮説なので(今までも大半そうですが)、説得力がないかもですが、
「周囲の評価を気にする」世代というより、自己否定が非常に強い世代という方が正しいと思うんですよね。
周囲の評価が気になるというのは、自分では自分を絶対に認められないから、
せめてもの渇きをいやすために、周囲にすがっているというか。

俺ガイルにしても、管理人さんの目にはどのように主人公が周囲の目を気にしているように見えるのかは分かりませんが、
周囲の視線が気になるというより、自分はこれでいいのかという、恐怖心があると思うんですよね。
だからこそ主人公は自分好きですし、逆に言えばそのくらい自分好きじゃないと、心のバランスが取れず、メンヘラみたくなってしまうんですよ。

私自身ふと自分の人生を振り返ると、体が太っていたり、ブサイクじゃなくて良かったなと、心の底から思うんですよね。
もし太っていたり、ブサイクだったら、心のバランスを崩して大変なことになっていただろうなあと。

バブリーの時代に、団塊ジュニア世代の男性たちが、赤プリ予約は当たり前な女性たちの要求に絶望していたという話が、
私には、なんて(当時の若者は)パワフルで、まっすぐで、かっこいいんだ、と思ってしまいますし、そっちには一生行けないな、と思ってしまうんですよね。
私はラノベを読み始めた中学生のころから一生独身で、生涯彼女なんかできないと覚悟を決めていましたし、
オタクであるにも関わらず、それを必死に隠そうとしたりして、どうにかして女の子にモテようと(というか、普通に女の子と話したりできる程度の地位を確保しようと)思っていたオタクのクラスメイトを、
覚悟と修業が足らんと思っていました(というか今でも思っています)。
まあ実際にはオタクでも結婚できる人はできますし、出来ない人でもやろうと本気で思えばやります(笑)。むしろ普通の恋愛結婚で結婚をしてる人なんて少数派でしょう(少数派ですよね?)。
それは高校生くらいになれば分かってきたのですが、でもやっぱりオタクの中でもまた色々なタイプがいますし、
オタクと言いつつ、なんだかんだで体育会系の部活に入っていたり、普通に友達がいたり、そういうオタク以外の世界もある人たちが、やっぱり結婚していくんですよね。
Twitter見てても、私が「この人は結婚するだろうな」と思った人が本当に結婚した率or実は既婚者だった率は今のところ100%的中していますし、この診断で行けば私は結婚できないタイプのオタクです。
いや、いいんですよ。結婚できなくても、生涯独身で最後は孤独老人として死ぬとしても。
それは私はオタクになったと時に、覚悟したことですし、私は人生ささげると(大げさではなく)決めたので。
ですけど、やはりふと本当にこのままでいいのかと、お前は人生から逃げているのではないかと、不安になるんですよね。
友達も作らず、女の子とも話さず、人生の思い出が全部ラノベとアニメしかない人生は、人間としてこの世の中にいていい存在じゃないんじゃないかと。
そういう不安感と自己否定があるからこそ、高校生のころからクラスメイトが眩しく見えるようになりましたし、
私が「響け!ユーフォニアム」とか、「Honey Works」が大好きなのも、あれはリア充コンテンツで、ああいうリア充(というか、普通に友達のいる人)を見て、その尊さに涙するコンテンツなんですよね。
普通の女の子や普通の男の子が普通に生きて生活しているだけで尊いですし、ハニワでイケメンリア充と可愛い女の子たちが恋愛しているのを見る(聴く)と涙が出てくるんですよね。(昔のオタクはイケメンへの呪詛を唱えていたわけですから)
最近だと、ソードアート・オンラインもかなりリア充の眩しい系のコンテンツになりつつありますね。

『どうか皆の前で』で若者は異常に貢献欲求が高く、会社に入っても、上司からごくごく単純な業務を任されただけで、
異様に張り切るというような話がありますが、
これも自己では補完しえない自分の存在意義を、今この上司から任された仕事をやっている瞬間だけは、
他人にとって自分は価値ある存在だと「自分で」思えるからなのではないでしょうか?

(ちなみに、だからこそ、俺ガイルは衝撃的だったんですよね。
普通のラノベではオタク主人公が女の子にモテまくったとしても、それは異世界の話であったり、ゲームの世界の話であったりして、
ちゃんとラノベを読んだ後にクラスで女の子から全く話さない状況を受け入れられるように防御線が入っているんですよ。
ですけど俺ガイルって、徹底的にあの時代のリアルなオタク高校生を主人公にしておきながら、
しかも第1巻では主人公が持てる気配なんか全く見せてなかったくせに、最後にはちゃんとハーレム作ってるんですから。
せっかくオタク山に入山して、俗世から隠居し、女の子がいなくても、友達がいなくても、ラノベがあればいいもん、という仙人生活をしていたのに、
俺ガイルはその修行僧たちに、「オタクと言いつつ、相手の女の子だって同じ高校生なんだから、可愛いこと仲良くなったり、付き合ったりするのが本当は絶対不可能ではないだろ、それはお前たちも分かってるだろ」
と言って、俗世の煩悩を思い出させようとしてくるんですから。
俗世は厳しくて、辛くて、オタクがそこに戻っても痛い目見るのがオチなのに、でもそのわずかな確率の成功例を俺ガイルは見せつけてくるんですもの。
本当にラノベとして超えてはいけない一線を越えた作品です)

> まあ、少子高齢化の影響により、若者の絶対数も減っていれば、大人と子供の割合も変化しており、
> 教育方針の変化とも相俟って、今の世代は昔以上に、良くも悪くも1人1人が見られている時代ですので、
> どの世代の子供より、実は褒められたり、存在を確認されている世代でもあるのですが、
> それが当たり前で育っていると、そこを自覚できないと言うか、スタート地点の違いとかもありますね。
> 内在的で抑え気味な「もっと、もっと」という願望と、それが困難な社会の実状との間に、ギャップがあったり、
> 主観的に「自分たちはこうだ」というのと、客観的に「あなたたちはこうだ」というのでも、ズレもありますし。
> って、あれこれと勝手に分析・解釈されるって、あまり心地良いモノでは無いかも知れませんけど(苦笑)。


いや、一周回って面白いですよw
なんだかんだで、私もこの世代の一員で、私の性格や個性は、しょせんこの世代の中のバリエーションに過ぎないんだな、という発見があるので。

最近、大学のキャリア支援センター(就職課)の方が「大学生がなかなかキャリア支援センターを利用してくれないので、なぜなのか調査したところ、
『キャリア支援センターは静かなので怖い』と思われているということが判明したのですが、キャリア支援センターは確かに静かですが、怖いところではありませんよ」
という話をしたという、冗談みたいな体験をして、今の大学生を上から目線に笑っていました。
しかし、後日映画を見にショッピングモールに行ったところ、ショッピングモールがあまりに家族連れだらけで、同じ大学生くらいの利用者もなんか陽キャな感じで、
割と本気で帰りたくなったんですよね(帰ったら映画見れないので帰りませんでしたが)。
「キャリア支援センターが怖い大学生をバカにしてすみませんでした、やっぱり私もショッピングモール怖いです」って感じですw
ちなみに私のTwitterのフォロワーの既婚者の方もやはりショッピングモールに居心地の悪さを感じるようで、陰キャ魂は結婚しても変わらないんだな、と思いました。
商学部なので最近はこういう考え方をするようになったのですが、ショッピングモールだって大予算かけて建設する分、入念なマーケティングの元建設してるはずですし、まさか最近の陰キャが居心地の悪さを感じているとは思っていないんでしょうね。
と書きつつ、ショッピングモールの陽キャ感に帰りたくなる現象というのは、もしかして最近の若者の感性ではなく、割と昔から存在しているもんなのでしょうか?もしかして私ってショッピングモールの客層じゃない?(もちろんメインターゲットは家族連れですが、陰キャはサブターゲットにもなってないんですかね)

イタい感じの自分語りっぽくなってしまいましたが、これしか参考になる話はできないので、あきらめてくださいw
おそらく私の体験を元にした、どこまで信用できるんだかわからない仮説を披露するよりも、元データを直接見てもらう方がよっぽどマシですw


[24097] 返信は、また後日返信 削除
2022/12/7 (水) 23:41:08 徳翁導誉

> > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > (今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
> > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > 事前に御了承下さい。

日本代表の戦いは終わりましたが、
W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。
(決勝が12/18(日)なので、再来週には確実に出来るかと)


[24099] 追記返信 削除
2022/12/19 (月) 03:50:38 旧トルコ担当

> > 来週からカタールW杯が始まりますので、
> > (今大会は異例の冬開催という事もあり、連日4試合の超過密日程)
> > 私の方の返信は、今後 遅れるかと思います。
> > 事前に御了承下さい。


日本代表の戦いは終わりましたが、
W杯の大会自体は、まだまだ続いてますので、
申し訳ありませんが、長文となる返信は来週か再来週にでも。
(決勝が12/18(日)なので、再来週には確実に出来るかと)

いえいえ、気になさらず。
よくこんな好き勝手書いている文章に返信していただいてありがたいです。
文章にすることで自分の中でふわっと感じていたことが整理される、だから書いているという独り言みたいな側面もあるので。


> > 交通事故で死者が出るのは仕方ないことだと皆考えていますが、
> > いざ自分が交通事故にあって障害が残るようなことになれば、そうは思わないでしょうし。

> 年齢差による「感覚の違い」という観点から、引き続いて述べると、
> 「死の身近さ」というのも、大きな違いがあるかも知れません。
>
> 核家族化が進み、兄弟姉妹も少なくなり、親戚関係や近所関係も疎遠化している昨今、
> 特に学生だと、周囲に同世代の子供たちしか居ない訳で、
> 葬式に出たり、家族や友人知人が亡くなるという経験は、あまりしない為、
> 「死」というモノが、非常に縁遠いというか、実感が乏しく、
> だからこそ反面で、それに対する恐怖感や忌避感も、非常に強いと思うんですよ。
>
> でも、社会に出て様々な年代と触れ合い、そして自分や周囲も年齢を重ねていけば、
> どうしたって死は免れませんし、ドンドンと身近な存在へと変わっていき、
> 慣れが生じると共に、恐怖感や忌避感も次第に薄れていくのが、実際の所です。
> いや本音を言えば、怖くない訳でも、嫌じゃない訳でもありませんが、
> そこに個人差はあれど、「仕方がない事」として、徐々に受け入れていく感じになると。
> オッサン世代になれば、同級生だって、もう何人も死んでますし。


そうですね、私ももう大学生でありながら未だ葬式には1度しか出たことがありませんし、親戚家族関係の希薄化にともなって世代間交流がなくなっているんでしょうね。
私が知っている人が亡くなったのって、親戚と学校の先生とあとはTwitterのフォロワーくらいですね。親戚がなくなったときはまだ幼かったですし、知っている人が亡くなって一番ショックだったのがTwitterのフォロワーというのが"現代"なんでしょうね。


> > 歴史学に対しても、結局のところ史実の歴史をより必然っぽく語った人が優勝するゲームなんじゃないの、と思うことがありますし。
> > (歴史学のやり方自体が、実際の歴史以上に史実を必然的と捉えすぎるのではないかということ)

> いやいや、歴史に「必然性」を求める学者なんて、本当にそんなに居ますか?
> 「歴史にifは無い」と言いますが、その反面で、
> 「歴史とは様々あった可能性の1つに過ぎない」事は、学べば学ぶほど解る事でしょうし、
> テレビに出ている、歴史学者ならぬ歴史家であったり、学者肩書きのコメンテイターでも無い限り、
> そんな事は、普通に言わないと思いますけどねえ・・・・
> まあ、中には御用学者とかも居ますし、その場その場で都合の良い発言をする人も居るでしょうけど、
> そういう人は、特定の業界内では需要があっても、学術界では相手にされていないかと?
>
> 司馬遼太郎などの歴史小説家は、あくまでもエンタメの世界なので、
> 面白おかしく「必然性」を語る事もあるでしょうが(そちらの方が作品的に楽しいので)、
> あれも別に、歴史学としてキチンと考察している訳では無いですからね。
> 「司馬史観」とか言って、有り難がってしまうのは、読者側のリテラシーの話だと思いますし。


例えばソ連の成立や戦後の植民地の独立にしても、そういった出来事が起きれば、なぜそれが起きたのかを考えるのが歴史学だと私は認識しています。
例えば、ソ連成立にロシアの外婚制共同体家族の影響を見たり、植民地独立に宗主国による近代化や識字率の影響を見るのが歴史学だと思うのですが、
これって出来事→要因(普遍性のある理論)を考えるの順番でできている以上、どうしてもそこから出てきた理論は現実の出来事に引っ張られると思うんですよね。
もしかしたら社会主義国家の成立は人類史を100回やって1回しか起こらないことかもしれませんし、ですが私たちの生きている世界はその1回が起きた世界なので、どうしても100回やったら少なくとも30回くらいは起こるだろうと予測してしまう、と思っているのですが、どうなのでしょうか?


完全に独り言ですが、ソードアート・オンラインは現在27巻出ていますが、9巻〜8巻のアリシゼーション編で主人公のキリトに男の親友が登場するんですよね。
やはりここがSAOの転換点で、それまではなんだかんだで、なろう小説のような、ぼっち主人公が実は最強でみんなが憧れの美少女ヒロインに好かれる、というラノベだったのですが、この男の親友が登場して以降、SAOが普通のラノベから、もっと別のリア充崇拝に近いような、まぶしい系のコンテンツに変わっていったんですよね。
主人公キリトは、第1巻ではボッチを気取っていてたのに、今では50人以上のゲーム仲間と言うか軍団のリーダーみたいなのやっていますし。


> > > そういう意味では、今の時代って、全ての関係性で垣根が低くなりましたし、
> > > 逆に言えば、だからこそ、1歩進んで深い関係性となるには、
> > > 言葉による再確認というか、関係性の再定義を、目に見える形で行いたい意向が働くのかも?

> > 根拠はないですけど、それはありそう。
> > 「俺ガイル」だってその辺がテーマですし。

> 逆に言うと、「全ての関係性で垣根が低い」からこそ、
> 対立とか衝突を乗り越えた上での、深くて強固な人間関係みたいなモノは、
> 却って今の時代の方が、築き難くなってるのかも知れませんね。
> 何度も言っていますが、「繋がり」と「しがらみ」は表裏一体の関係なので、
> 面倒さというデメリットを排せた反面で、絆の強さというメリットも失われてしまったと。
> だからこそ、言葉による再確認とか、周囲の人間も巻き込んでの関係作りが、昔以上に重要なのかも?


私は友達、というか大学で定期的に話す同級生はいないのですが、Twitterでは普通にフォロワーと話してるんですよね。
ただTwitterは、話題ごとにアニメ用と歴史用でアカウント別にしていますし、フォロワーが見たくないようなことはツイートしないようしているんですよね。
人によっては鬱ツイートとか日常生活の嫌なことをツイートするひともいますが、あまりそれは求められていないので、そういうのはしない方がいいと思っています。

ですが、最近読んだラノベだと
「世界で一番けんかする人が恋人」カノジョの妹とキスをした
「友達はそんな役回りを引き受けるためにいる」マリア様がみてる 赤薔薇さま

こういうのも分かりはするんですよ。
相手が困っている時に助けたり、支えたりして、それに対価を求めないのが本当の友達や恋人だろ、という価値観も。

しかし、これって私のTwitterの使い方とは真逆ですし、岡田斗司夫のいうホワイト社会といい人戦略の「暗いことを言わない(例えば、Twitterで鬱ツイートをしない)」という、やはりこれも本当の友達や恋人とは真逆のものなんですのね。
もちろん昔だって友達の前では気を遣って明るく振る舞うことは当たり前だったでしょうし、本当の友達や恋人みたいな姿が小説に描かれるのも、そういったことが日常ではないからなのでしょう。とはいえやはりひと昔前と比較して、人間関係の自由化=人間関係のコンテンツ化=人前ではさらにホワイトに振る舞わなくてはならない、というのはより進んでいるのでしょうね。

それは、一方的に悪いことと言いたいわけではなく、
 困ってる友達を助けるべき ←→ トラブルメーカーとは関わりたくない、トラブルを起こすやつはダメな奴
常に社会の価値観はこの横軸のどこかに点を打っているはずであり、昔であればこの点がより左側に打たれていた、というだけであって、ある以上に不快な奴は昔だって、無視であったり、あるいは除け者、笑い物の対象だったと思うのですが、この基準がどんどん高くなってきているのでしょうね。
ある意味ではダメなやつ(嫌な奴)を互いに受け入れる同士から、自分の中の嫌な奴は排除していくという、共助から自助に代わっているとも言えます。

岡田斗司夫はホワイト社会の特徴として「ミュート」というのを挙げていますが、これもかつては笑い物であったり、いじめの対象であったりした不快沸点を超えた人たちが、ホワイト化でその対応がミュートになったという要因もあるのでしょうね。

いや、別に悪いことばかりではなく、その分えげつないイジメや学校で笑い物にされたり、というのは減っているはずですから、私としては昔の世界より今の世界の方が生きやすいと思うんですけど、ただそれは人間関係の希薄化とバーター取引であったと。
ミュートされるかもしれない、という恐怖が人を露骨に笑い物にしたりしない、という個人の民度を上げているので。皆が相手に求める基準が上がった分、皆が少しずつ良い人になったと。
経済だって、金が欲しいという私利私欲があるから一生懸命働くわけですし。

岡田斗司夫は「現代の20代以下は地獄を生きてきた世代」と言っていますが、私から見れば当たり前のように学校に暴力があった昔の時代の方が地獄ですね。


これは年上の方に対して失礼かもしれませんけど「ネットde真実」というのは、そういう陰謀論にハマっていく人たちを馬鹿にしすぎた表現では?と正直思います。
もちろん、確かにそういう人たちが愚かなことを言っているのは事実ですが、
少なくとも私の場合は、そういったネットの陰謀論に騙されずに済んでいるのは、周囲に知的に恵まれた環境(といっても父親が少し本を読む程度の一般家庭のもの範疇ですが)があったからですし、
対する陰謀論者の人たちは、そういった環境に恵まれなかっただけだと思うんですよね。
管理人さんがどういった環境で育ち、どうして陰謀論に騙されない程度のかしこさを得たのかは分かりませんが、
それは自分の努力だけで得られたものではおそらくないでしょうし、そうやって偶然得た能力で能力の低い人を見下すのはみっともないと思います。
そうやって知識人(っぽい人たち)が過剰に陰謀論を見下すからこそ、それを支持する人たちのプライドを余計に傷つけ、より戦闘的にしているというのもありそうですし。

まあでも知識のない人をこうやって擁護する時代こそ、おかしな時代なんですかね。
1960年代とかだともっと知識人崇拝というか、そういうのってありそうなイメージですし、以前のテレビ報道の話もそうですが、そうした知識を軽視する時代というのがおかしくて、知識が無いのは馬鹿にされるのが当然なんでしょうか。
あとはまあ、私はチアガールなんかを見ても、生まれ持った容姿で判断される女性の生きづらさを勝手に想像して、勝手に辛くなる人間なので、『皆の前でほめないで』同様に過剰に傷つきやすい世代のさらにナイーブな少数派の意見だというのは承知していますが。

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