| > > > > かなり昔ですけど、ネットの雑談で「世界史の名将ランキング」を考えた時に、
> > > > 個人的に5つの項目をもうけて、各将を採点した事があったのですが、
> > > > 中国史からトップ10入りしたのが、韓信(楚漢)と李靖(唐初)の2人でしたので。
> > > 世界史上だとどういうランキングなのか気になります。
> (第一印象)
> > 1位 韓信
> (点数化ランキング)
> > 94点 ナポレオン(1769〜1821 フランス第一帝政)
> >〜
> 第一印象だと、韓信は世界史上でも1位につけていたのですね。
> 点数化したらナポレオンが一位になったと。
まあ第一印象の方は、「用兵」という要素を最重視したのに対して、
点数化した方が、用兵も5項目ある内の1つでしたからねえ。
ある意味で、異なるランキングになっても、当然と言えば当然とも言えます。
言い方を換えれば、用兵重視というのは、あくまでも私個人の名将イメージであり、
5項目を作って点数化した方は、個々人でバラバラな名将イメージを標準化したモノであると。
あと、第一印象のランキングに関しても、あれから既に10年くらい経ってますから、
今の感覚で並べ直すと、韓信は3位くらいかも知れません(笑)。
点数化の作業を経た結果かも知れませんが、最近は用兵だけでなく、
名声や歴史的偉業なども、名将には重要な要素だと考えるようになりましたので。
> ナポレオンについては、詳しく背景は知らないのですが、
> 分進してくる総数2倍だったか3倍だったかの敵を先制、各個撃破したというのは聞いたことがあります。
> それ以外は具体的な場面が浮かばないですが、機動力を活かす能力に長けていた印象があります。
ナポレオンを軍事面から語る場合、外せないのが「三兵戦術の完成者」という点ですね。
三兵戦術とは、基本となる歩兵、機動力のある騎兵、遠距離攻撃ができる砲兵という
3つの兵科に分けてを、それを有効に活用する戦術の事です。
ちなみに、韓信と並んで84点だった スウェーデンのグスタフ・アドルフや、
孫武と並んで76点だった オランダのマウリッツは、この三兵戦術の基礎を築いた人でした。
そのナポレオンが、オーストリア&ロシアの連合軍を破った「アウステルリッツの三帝会戦」は、
アレクサンドロス大王の「ガウガメラの戦い」や、ハンニバルの「カンナエの戦い」と共に、
欧米の軍事史では、「戦争芸術の極み」として認識されています。
近代兵器による総力戦と消耗戦の時代に突入した、20世紀以降の戦争では、
悲惨さだけが増してしまい、芸術とまで評価される戦闘は、もう生まれないでしょうねえ・・・・
そして現在では、騎兵は姿を消し、砲兵の役割も変わったので、三兵戦術そのものは衰退しましたが、
歩兵は未だ基本であり、戦闘機や戦車などの機動力を活かし、ミサイルで長距離攻撃をする事を思うと、
ある意味で三兵戦術の理念は、戦術から戦略へとシフト・チェンジしたと言えるのかも知れません。
> 名将といえば機動力という印象があるので、そういう意味で自分も納得です。
特に騎兵というのは、打撃力に優れる反面、防御力では弱さがありますからねえ。
これを上手く活用できるというのは、攻撃において多大な成果を出せる局面であり、
逆に守勢に回る展開では、一発逆転や逃亡の手段としてしか有効に使えません。
そういう意味で、より効率良く勝てるのが騎兵の活用であり、勝利するからこそ名将と呼ばれると。
まあ孫子も、「兵は拙速を聞くも、未だ巧久なるを見ず」とか言ってますし、
(要するに、不十分でも速くて勝つ事はあっても、完璧でも遅ければ勝てないと)
これは洋の東西や時代を問わず、基本的な原理なんだと思います。
そして、この事を物理学的に解釈すれば、
ニュートンの運動方程式に通ずる気が、私はしてるんですよねえ(笑)。
力は質量に比例し、速度の2乗に比例するというヤツです。
つまり、これを野球に例えるなら、バットの重さを2割増しにするよりも、
バットを振る速度を2割増しにした方が、打球は遠くへ飛んでくれる訳です。
それは戦闘での打撃力も同じで、兵を増やすよりも、兵を迅速に動かす方が有益だと。
> 韓信といえば優劣を覆す用兵が印象的ですが、個人的には用兵以外でも有能だと思います。
> 本国から増援がないばかりか逆に兵を送りながら諸国を平定し、
> 趙攻略前に3万だった軍が最後30万で垓下の戦いに参加しているというのは、
> 降伏分をある程度吸収していたとしても、
> 自前で兵を集める能力自体も充分に持っていたということだと思います。
> 劣勢でも勝っている印象ですが、そもそも劣勢でなくても戦える状況を作れる、
> と見えるのが底知れぬ能力に思えます。
私が特に韓信を評価したのは、「背水の陣」と「暗渡陳倉」ですね。
まずは暗渡陳倉ですが、そもそも劉邦は項羽への恭順の意志を示す為に、
関中と蜀とを結ぶ木造の桟道を焼き払ったのですが、韓信はこの桟道の再建工事を始め、
優秀な敵将・章邯の目を桟道方面(黄河の南岸)へ釘付けにしている隙を突き、
韓信の軍は旧道を長駆迂回して、陳倉の地から密かに黄河の北側に渡り、
章邯の軍に奇襲を仕掛け、秦の旧都・咸陽を落として、関中を手に入れました。
これは、あの「兵法三十六計」の第八計にも、暗渡陳倉の計として載っているほどです。
(まあ一般的には、ことわざの「三十六計、逃げるに如かず」しか知られてないでしょうけど・笑)
続いて背水の陣ですが、逃げ場の無いこの布陣は、セオリー的に言うと愚策であり、
そして敵将の陳余も優秀な武将でしたから、こんなミスは当然見逃さない訳です。
ただ韓信の軍は、兵数の上で劣勢であり、しかも戦意に欠ける寄せ集めの軍だった為、
敢えて奇策に走った上で、兵たちの逃げ場を奪う事で、無理矢理にでも戦意を高めたんですよね。
しかも、自らを囮にする事で陳余の軍を城より引っ張り出して、機動力ある小部隊で城を落とし、
城に自軍の旗を大量に掲げさせ、敵軍が怯んだ所を前後から挟み撃ちにして壊滅ですからねえ。
愚将を相手に快勝する例は結構ありますが、章邯・陳余・龍且・項羽といった当代の名将を、
次々と破っての連戦連勝というのは、ちょっと例が無いと思います。
韓信は、世界史上の名将と名高いハンニバルと、ほぼ同じ時代を生きた人物ですけど、
この2人が同時期に、ユーラシア大陸の東西両端に居た事は、本当に歴史上の奇跡だと私は思います。
(ちなみに、カンナエの戦いが紀元前216年で、井ケイの戦いが紀元前204年)
そして、これが地味に大きいのですが、韓信の用兵はこのように詳細が残されている事です。
中国の戦史において、「寡兵で大軍を破った」みたいな記述は多く残されてますけど、
では実際に、どのような布陣や用兵を行ったかという記録は、意外と少ないんですよね・・・・
中国では伝統的に、文官を重んじて武官を軽んじる風潮があり、
しかも記録を残すのが文官でしたから、戦史を詳細に残す考えが無かったのかも?
ただやはり、こうして歴史として評価を下す際には、記録の有無というのは本当に大きいです。
記録が残されていないモノは、どうしたって、評価する事が難しいですからねえ。
その点、西欧の戦史はかなり記録が残されているので、古い時代の戦いであっても論じ易いと。
更に記録の有無というのは、戦争技術の発展という意味でも、大きく影響を及ぼしてきます。
後世の軍人たちも、過去の詳細な戦争記録が残されていれば、そこから色々と学ぶ事が出来ますけど、
学習できる教材が無いのでしたら、過去の経験を上手く積み重ねていくのは困難です。
そういう意味では、記録が残らないから戦術レベルもあまり発達せず、
戦術レベルが低いままだから、敢えて記録に残す必要も無いという、スパイラルに填った可能性も?
あと、中国史の場合は、内乱が発生するような政情であれば、必然的に流民も多く、
練度は低いものの、とにかく兵数で押し切れてしまう場合が多く、
そして外患となると、その多くは北方の遊牧民による侵攻であり、
基本的に戦いは、都市を囲む城壁を頼っての籠城戦なので、戦術が発展し難かったのかも知れません。
また、小国が林立していて、小競り合いが絶えなかった欧州に比べると、
中華王朝の場合、国境の周辺を除けば、意外と戦争とは縁遠かった事も影響してそうですね。
国境警備にしも、万里の長城がありましたから、外征しなければ籠城戦と同様でしたでしょうし。
> (もし損害が同じでも兵がより多く集められるのが有能だと思っていますので、
> 個人的に、大軍で勝つ>寡兵で勝つ
> とはいえ、実際に大軍で勝つ、は注目されないので、
> 大軍で勝つ<大軍集めれるけど寡兵で勝つ、になってるという解釈の苦悩)
この辺は、戦術と戦略とを明確に区分すると、結構解りやすいかも知れません。
個々の戦いに勝つのは戦術の範囲ですけど、兵を多く集めるのは戦略の範囲ですからねえ。
これをプロ野球に例えれば、その1試合を勝つ為に采配するのが「戦術」であり、
1年間戦って優勝を目指す采配が「戦略」であると言えます。
近代軍事学の古典的名著であるジョミニの「戦争概論」では、
戦術と戦略に「兵站」を合わせて、戦争における三大要素と言っていますが、
この兵站を、同じくプロ野球に例えるなら、まさに資金力ですね(笑)。
戦争で兵站を語るのは難しいと言われますが、プロ野球に置き換えれば実にシンプルです。
(分業制だと、試合に勝つのは監督の、戦力を整えるのはGMの、カネを集めるのはフロントの仕事)
あと、戦術と戦略の中間にある規模のを「作戦」と言ったりしますが、
再びプロ野球に例えると、作戦に当たるのが短期決戦の日本シリーズとかでしょうね。
そして、プロ野球の監督もまた、「名将」と呼ばれる対象であるのですが、
では、どういった監督が名将なのかとなると、これまた難しい話です。
分厚い戦力で手堅く戦い、確実に優勝回数を重ねた川上監督や森監督が名将なのか?
常に弱小球団を率いながら、それでも優勝させる野村監督こそ名将なのか?
1試合を勝つ采配は稚拙でも、球団の豊富な資金力と自らの絶大な人気をバックに、
何度もリーグ優勝や日本一を成し遂げた長嶋監督や王監督は名将なのか?
極端な放任主義の仰木監督や、極端な管理主義の広岡監督も、結果を残したから名将なのか?
熱血指導の人情家で選手に慕われるも、日本一にはなれなかった西本監督は名将なのか?
采配は微妙だが、とにかく金集めが上手く、選手家族への配慮も凄い星野監督は名将なのか?
とにかく勝利至上主義で、上層部・OB・マスコミを全て敵に回した落合監督は名将なのか?
そもそも、半年以上を戦うシーズンと、短期決戦のプレーオフとでは、
同じく勝利を目指すにしても、その戦い方はまるで違ってきますからねえ・・・・
それでも、「寡兵で大軍を破る将と、大軍で確実に勝つ将。どちらが名将か?」と問われるよりは、
「野村監督と、森監督。どちらが名将か?」と問われた方が、まだ答えやすい気がします(笑)。
で、真の名将というモノがあるのだとしたら、弱小球団でも常勝球団でも優勝に導き、
長丁場の戦いも短期決戦も強く、選手やファンからも愛され、球団との関係も良好という感じでしょうか?
でもまあ、そんな完璧な監督は、長いプロ野球の歴史の中でも、誰1人として思い浮かびませんけどね(笑)。
・・・って、ここまで書いて、ふと思ったのですが、
毎日のように巨人戦が地上波で放送されてた、10年前なら いざ知らず、
今となっては、こうしたプロ野球の例え話が通じるのか、少し不安になってきました。
まあ、話が解らなければ、聞き流しておいて下さい。
> 話の軸からは外れてしまいましたが、楽毅は、
> (燕に行ってからのものとして)戦術は変わったものがないみたいですが、
> 戦略的に勝てる状況を作り出した(ただし不完全燃焼)ので、
> そういう意味では、大軍で勝つ、に分類されるでしょうか。
結局、楽毅の場合は、小国の燕で大国の斉を滅亡寸前にまで追いやったのは、確かに凄いのですが、
名宰相の孟嘗君を追放して混迷する斉に対して、燕・趙・魏・韓・秦の五大国連合で打ち破った訳で、
連合軍を卒なく率いたのは高く評価できても、やはり外向的勝利である面は拭えませんからねえ。
しかも、これまた政治闘争な側面とは言え、斉を滅ぼす前に楽毅は解任され、
逆に斉は、わずか2城を残す所から、旧領を回復するまでに復興しちゃいましたし、
これにより戦国七雄のパワー・バランスが崩れ、長期的には燕の滅亡にまで繋がる事を思うと、
確かに、春秋戦国時代や中国史の中では、それなりの高評価を与える事は出来ても、
世界史全体としての評価となった場合、ランキング入りさせるのは難しいように感じます。
う〜ん、再び野球に例えて恐縮ですけど、楽毅の戦績というのは、
即席のチームでWBC準優勝した、侍ジャパンの監督みたいな感じですかねえ?(笑)
急ごしらえで、各球団のスター選手をまとめ上げたのは評価できるし、
準優勝という成績も凄いモノではあるけれど、決して手放しで喜べないような感じで、
しかも1度きりの短期決戦なので、プロ野球の監督みたいに長期的な評価も出来ないみたいな・・・・
とは言え、私が個人的に、日本の戦国時代No.1と評価している小早川隆景にしても、
実績としては、楽毅の評価と似たり寄ったりな所はあるんですけどね(笑)。
生涯無敗と言われる父・毛利元就の下で戦功を残したものの、それだけでは評価できませんし、
兄・吉川元春と共に毛利家の双璧となった後も、その功績の多くは外交的なモノが目立ち、
これではなかなか、「戦国No.1」とまでは言えないと思います。
ですが隆景は、秀吉による朝鮮出兵の際に、歴戦の雄である戦国大名たちを上手く纏め上げ、
特に碧蹄館の戦いでは、明軍の反撃を受けて撤退を重ね、日本軍が敗走状態にある中、
朝鮮の都・漢城の手前にある碧蹄館で、勢いに乗る明軍を迎え撃ち、見事な用兵で撃退します。
もちろん、この戦術的な勝利だけでは、戦略的な劣勢を挽回する事など不可能でしたが、
明軍の勢いもこれにより鈍り、最終的には講話へと繋がった事を思えば、とても重要な勝利でした。
さすがは、毛利分家の身でありながら、秀吉の五大老に名を連ねた小早川隆景とも言えます!!
そして文禄・慶長の役は、内戦ではなく世界史上の戦いであった事も、評価を高めた一因ですね。
・・・って、実際こうして説明してみると、何だか楽毅よりも評価して良い気がしてきました(笑)。
> > でも正直な所、私は理系ですし、現在みたいに世界史が必修化される前だったので、
> > ちゃんと学校で習った知識自体は、中学生レベルで止まっていたり(笑)。
> > それ以上は独学ですから、どうしても分野的な知識の偏りはあるでしょうし・・・・
> そもそも学校ではあまり内容のあるものを習った記憶がないですし、
> それ以外で学んだもののほうが興味深いです。
> あと、自分も(自称)理数系です。
> …といっても「理」と「数」で言うと「数」寄りですので
> 「理系」という徳翁導誉さんとはまた違うかもしれません。
いや、理系の中でも私は物理で、しかも実験系ではなく理論系でしたから、
数学に関しても、かなり近い存在でしたよ。
特にウチの大学の場合、物理学科の数学科目は数学科との合同授業でしたし。
ただ正直な所、授業内容の方はチンプンカンプンだった為、もしも数学の話題を振られても、
「ああ、名前は聞いた事ある、内容までは知らんけど」って感じになりそう(笑)。
それと私の学年では、他学部の専門授業を受けられる制度が試験的に導入されたお陰で、
専門の物理とも、一般教養とも、また違う内容の授業を、いろいろと受ける事が出来ました。
ちなみにその試験的制度は、わずか3年で終了したので、恐らく失敗だったんでしょうね(笑)。
まあ単に「単位を取る」という面から見れば、これほど効率の悪い取り方も無いですから。
あと、ここからは日本語の話になりますけども、
「理系」というのは、理学・工学・医学・歯学・薬学を一纏めにした用語で、
基本的には、「文系」に対する対義語として使われる感じですね。
まあ2つに分けられるのは、理学と工学を合わせた「理工系」という用語の場合でしょうか?
そして「理数系」とは、理科と数学を合わせた用語で、理学系とほぼ同じ意味だと思います。
ですから、理科系・数学系と分ける事はあっても、理系・数系と分ける事は無い気がします。
> > ちなみに、私の「徳翁導誉」というハンドル名であるも、
> > 南北朝時代のバサラ大名・佐々木道誉の法名から採っていたりします
> そうなんですね、佐々木道誉という人名をそもそも知りませんでした。
佐々木道誉は、日本史上でも一二を争うほど面白い人物ですよ(笑)。
鎌倉末期から南北朝に至る動乱の時代、政治に、軍事に、文化にと活躍(暗躍?)した人物です。
三国志の曹操を、もっとダークで派手好きな性格にした感じの道誉が、
足利尊氏の盟友であり、2代将軍・義詮の後見役を務めた為・・・室町時代は、ああなったと(苦笑)。
戦国時代の動乱も、下克上の気風も、派手な桃山文化も、茶道や華道などさえも、
その源流として、佐々木道誉の存在は、切手も切り離せないように思います。
とは言え、私も最初に興味を持ったキッカケは、1991年に放送された大河ドラマ「太平記」で、
道誉役を演じた陣内孝則の怪演に魅せられたからなんですけどね(笑)。
(私が今まで見てきたNHK大河の中でも、各人の配役が最もハマってた作品が太平記でした)
また、戦国時代に詳しい人なら、北近江の京極氏の実質的初代と言えば解り易いですかねえ?
もともと鎌倉時代から、近江の守護職は佐々木家だったのですが、
倒幕時に、佐々木道誉が足利尊氏に協力して活躍した為、
室町幕府では、佐々木家の本家・六角氏より、道誉の分家・京極氏が重用され(四職家の1つ)、
近江の守護職も、北半分が京極氏、南半分が六角氏という感じになりました。
その後、浅井氏の下克上を受けて零落した後も、秀吉によって再び大名に取り立てられ、
しかも浅井三姉妹の次女の嫁ぎ先になったのは、京極氏が道誉に繋がる名門であったからかも?
京極氏が浅井氏の旧主家にあたり、京極氏の娘が秀吉の側室として寵愛を受けていたとは言え、
長女の夫が豊臣秀吉、次女の夫が京極高次、三女の夫が徳川秀忠って、やはりバランスがおかしい(笑)。
・・・って、そんな女たちの七光りで出世し、当時から蛍大名と馬鹿にされてた末裔よりも、
戦国初期の梟雄として知られる尼子経久の方が、道誉の末裔として紹介するには適当だったかな?
> > 世間的な人気を加味しつつ、中国人(漢民族)の将軍十傑を選ぶと、こんな感じでしょうか?
> > 一般人気だと、どうしても「救国の英雄」補正みたいなモノが掛かるのですが、
> > でも冷静に考えれば、そうした名声も「名将」には重要な要素であろうかと。
> > 孫武(春秋)・白起(戦国)・韓信(漢初)・霍去病(前漢)・周瑜(三国)
> > 李靖(唐初)・郭子儀(唐末)・岳飛(南宋)・徐達(明初)・袁崇煥(明末)
> ありがとうございます、これから読み進めていくに当たって参考になりそうです。
十八史略の扱う範囲だと南宋までなので、登場するのは岳飛まででしょうか?
誰の著作だったかは忘れましたが、日本の有名学者が書いた中国通史も、
中国史の範疇に収まらないモンゴル帝国の登場により、そこで執筆が止まってしまいましたし、
それ以降の元・明・清の3王朝の歴史と、中華民国から中華人民共和国に至る流れは、
想像している以上に、日本人にとっては縁遠い存在なのかも知れませんね・・・・
モンゴル帝国に対抗する為、漢民族への啓蒙目的で作られたのが十八史略ですけど、
江戸後期に日本外史が登場するまで、日本史には啓蒙的な通史本が存在しませんでしたから、
幕末の前までは、日本人なのに中国史の方が詳しいという逆転現象まで起きまてしたし(笑)。
ちなみに、こうして名将について考えてる時に、「解散だ、選挙だ」という報道も流れた事で、
日中の名将(将軍)だけでなく、名相(宰相)の方まで、何となく考えてしまう状態に(苦笑)。
でもまあ、細かく採点するとか、十傑に絞るとか、そういうのは面倒なので、
個人的にパッと思いつくまま、1時代に1人の基準で選んでみました。
とは言え、やはり偏りがある為、何人も浮かんで誰を選ぶか悩んだ時代もあれば、
高評価な人物が思い浮かばず、少し無理やりに選んだ時代もありますね(笑)。
中国史・各時代の名宰相
伊尹(殷)・周公旦(周)・管仲(春秋)・商鞅(戦国)・李斯(秦)
蕭何(前漢)・ケ禹(後漢)・諸葛亮(三国)・王導(晋)・王猛(五胡)
高ケイ(隋)・狄仁傑(唐)・馮道(五代)・包拯(北宋)・秦檜(南宋)
アフマド(元)・張居正(明)・ドルゴン(清)・顔恵慶(民国)・周恩来(中共)
※ 皇帝もアリなら、後漢は光武帝(劉秀)、清は雍正帝かな? ※
日本史・各時代の名宰相
大伴金村(古墳)・蘇我馬子(飛鳥)・藤原不比等(奈良)・菅原道真(平安)
北条泰時(鎌倉)・細川頼之(室町)・石田三成(戦国)・田沼意次(江戸)
大久保利通(明治)・西園寺公望(大正)・田中角栄(昭和)・小渕恵三(平成)
まあ、もう少し落ち着いて決めれば、また違った選考になるかも知れませんし、
複数の政治家が思い浮かんだ時は、個人的な評価が高い方を選んだので、
他の人が選んだり、いろいろ話し合って決めたりすれば、また違う結果になるでしょうね。
ただ、それにしても、こうして実際に選んでみた日本史側のメンツを見てみると、
暗殺されたり、左遷されたり、悪評が定着してたりと、何だか散々な人が多い気がします(笑)。
逆に考えると、そうした日本の風土こそが、政治を難しくしているのかも知れません・・・・
例えば、江戸時代には何度か改革が試みられましたけども、
その中でも、時代遅れな懐古主義的政策で、失敗を重ねた享保・寛政・天保の改革を、
「江戸幕府の三大改革」として教えているのは、個人的に違和感があるんですよねえ。
もちろん、江戸幕府の視点に立てば、そうした先祖帰り的な政策こそ正義だったかも知れませんが、
それは信念的な話であって、歴史として客観的に学ぶのとは、少し事情が違うように思うんです。
いま現在も、「増税や緊縮財政で、財政再建して、経済成長しよう」とか言ってますけど、
少なくとも私の知識の中では、それで上手く行った例を知りません・・・・
> > もちろん、三国志や春秋戦国のファンからすれば、もっと入れたい武将は挙がるでしょうし、
> 他の時代の枠を取ってまで入れるつもりはありませんが、三国志なら自分は司馬懿を押します。
> 人気とか名将という表現なのかとか考えると疑問はありますが、能力で選ぶなら。
単純に「三国志で評価する武将を1人挙げろ」となれば、恐らく私も司馬懿ですね。
軍事的実績はそこまでなので、名将と呼べるか否かは置いておくにしても、
何だかんだ言って、やはりあの戦乱の最終勝利者ではありますし、
棚ボタ的に天下を手にできた訳でもないので、政治家としては大きく評価できるかと?
(兵法書の編集・注釈や、建安文学を推進など、文化面での功績も加味すれば曹操ですがね)
ところで三国志と言えば、曹操が築かせた「銅雀台」という大宮殿がありますが、
その柱を飾っていた「獅子の石像」が、実は東京にあるのは御存知でしょうか?
まあ、この石像自体は、曹操の建立時よりも後に付け加えられたモノらしいのですが、
それでも「あの銅雀台にあった」という事実だけで、私などは凄く感じ入ってしまいました。
ちなみに通常であれば、ホテルオークラ内の大倉集古館に収蔵されていますけど、
東京五輪に向けて5年に及ぶ大改修中な為、現在は東京国立博物館で寄託展示されています。
同じく大倉集古館より、春秋戦国時代の謎の巨大漆器も寄託されていて、
そうとは知らずに両展示を見掛けた時には、とても得をした気分になりました(笑)。
> > > 中華の領域での戦乱を表現したいだけなのに鮮卑のほうで躓いたというのは皮肉な気もします。
> > でもまあ、ある意味で中華文明の歴史というのは、
> > 中原の農耕民だけでなく、「北方の遊牧民も居てこそ」という面はありますからねえ。
> 確かにそう思います。
別に構いませんけど、意外にサラリと流されてしまった(笑)。
実は私自身が遊牧民好きなのですが、前回の段階で既に長文だった事もあり、
モンゴル帝国など制服王朝による中国統治や、文明同士の化学反応といった話は、
次回以降にでもと割愛した経緯があった為、1人で勝手に肩透かしにあった感じに・・・・
でもまあ、衆議院が解散された事で、恒例の「衆院選 予想大会」も急遽準備せねばならず、
時間的に少し厳しい部分もありましたから、ちょうど良かったかも知れませんけどね(笑)。
> > > > こうした文官エピソードがお気に入りという事であれば、
> > > > 唐代の「貞観政要」と、宋代の「名臣言行録」がオススメですね。
> > > 文官エピソードは多くは知っていないですが好きです。
> > ならば、やはり気軽に読めるのは陳舜臣「小説 十八史略」ですね(笑)。
> 「十八史略(講談社学術文庫)」、「宋名臣言行録(ちくま学芸文庫)」、「貞観政要(ちくま学芸文庫)」
> これから本格的に読みますが、ここでの話がきっかけでいい買い物ができたと思っています。
おおっ、一気に買われたのですね!(笑)
私の方は「あの本は良かったなぁ」と、思い出話半分で気軽に語っていたので、
何だか恐縮すると共に、「果たして満足してもらえるか?」と、少し不安にもなってきました。
如何せん、実際に私が読んだのは、もう10年以上も前ですからねえ・・・・
面白かったという記憶は残っていても、具体的な中身の方はほとんど覚えていませんし(苦笑)。
> (ついでに「韓非子(徳間書店)」も)買いました。
いや〜、ここまで春秋戦国の話をしてましたけど、まさかこの部分で通じ合おうとは!?
春秋戦国時代が、その他の、どの戦乱時代とも大きく異なる点は、
まさにこの、「諸子百家」と呼ばれる多種多様な思想が生まれた所だと思うんです。
そしてその中でも、個人的に特に大きく感じているのが、実はこの「法家」だったりします。
(法学嫌いな私にさえ、そう感じさせるのですから、それほどに凄い存在だと・笑)
古代バビロンのハンムラビ法典とか、古代ローマ法の十二表法など、
成文法の歴史で言えば、これより古いモノは世界史的にもありますが、
習慣法の延長ではなく、法哲学による体系という意味において、
商鞅から韓非を経て李斯に至る流れは、人類史において画期的であったと思います。
ソクラテス・プラトン・アリストテレスといった古代ギリシャの流れも、確かに凄いですけど、
近現代の西欧中心史観により、東洋のそれが軽視されるのは、個人的に残念でなりません・・・・
まあ、欧米人の方は仕方ないにしても、日本人や中国人まで追随する必要は無いはずです。
とは言え、ここで語っているのも、欧米と東アジア、あっても少し中東くらいで、
あれだけの文明を持つインドに関して、まるで触れて来なかった為、
4年前に復刊され、手に入れやすくなった「実利論(岩波文庫)」を戯れに紹介。
https://www.amazon.co.jp/dp/4003326318
中国には孫子や韓非子があり、西欧には君主論や戦争論があるように、
インドには実利論があると言われる1冊です(日本には特に無いのが少し残念)。
紀元前に書かれたと伝わる著作ですし、孫子のような普遍性にも欠けるのですが、
戦争・統治・外交などの話から、怪しげな秘術に、暗殺のやり方まで、あらゆる事が指南されており、
逆に言うと、古代インドの社会や文化などもよく解るので、好きな人には堪らない1冊ですね。
そういう癖のある本ですので、オススメではなく、あくまでも紹介に止めておきます(笑)。
実際、私も興味ある箇所を摘み食いしただけで、読破は出来ませんでしたし・・・・
> 陳舜臣「小説 十八史略」を勧めて頂きましたが、創作が多分に含まれているとのことなので
> 忠実な訳に近いらしいのを買いました。
創作の部分が多いと言いますか、十八史略そのものを翻訳をした訳ではなく、
扱う時代を合わせてタイトルを拝借しただけの、基本的には完全に別物の作品です(笑)。
ですから、翻訳本や解説本とは、また別の魅力を帯びた作品であるとも言えますね。
また陳舜臣というのは、東洋史学の世界的大家である宮崎市定の孫弟子でもある為、
ハードボイルドやSFなど、近年多い文筆他分野からの転向組とは違って、
歴史内容の記述が、学術的にそこまで突飛では無い事も特徴の1つとしてあります。
(歴史学を学んだ人気の歴史小説家となると、最近では佐藤賢一くらいかな?)
司馬史観などという言葉を残した司馬作品よりも、陳作品の方が歴史的には忠実かと?
とは言え、そこはやはり学術書ではなく小説ですから、創作的な部分はもちろん多いですけどね。
例えば歴史上の空白部分があった時に、何も語れなくなるのが学者であり、
そこで話を上手く膨らませるのが小説家ですから、根拠の薄い仮説も自由自在です(笑)。
> > まあ私は専門が物理なので、全ての結果には原因がある(いわゆる因果律)と思っており、
> > 心や魂でさえ、所詮は脳内の化学反応でしかないと考えてますからねえ・・・・
> > ですから感情に関しても、脳がそう処理しているからであり、
> > 脳がそう処理するのにも、何らかの理由があって事であると見ています。
> 自分も普通にそう思います、というか他の解釈って何だろうって思ってしまいますが…。
いや、やはり一般的な感覚だと、心や魂などは特別な存在だと思われてる気がしますよ。
幽霊や死後の世界すら信じてる日本人が、だいたい6〜7割と言われていますし、
(世界的には、日本よりも宗教意識の強い地域がほとんどなので、全人類だと大多数?)
心や魂を「脳内の化学反応」と割り切って見てる人なんて、日本で1割も居ない印象ですね。
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