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[23524] 現在日本の文化環境返信 削除
2021/3/17 (水) 04:15:30 旧トルコ担当

▼ 現在日本の文化環境

間違っているかもしれませんが、管理人さんの言う旧来の趣味人の世界とか、文化について、一応の理解はできたと思いますので、私の考えを書いてみます。
ネットの普及により、雑音をカットして自分の欲しいものに直接手が届くようになった結果、文化の選択肢の幅が狭まった。
これは事実だと思います。
そしてそうやってSNSの狭い世界やAIにおススメされるものばかりを消費していく世界というのは、今までの文化のつくり手と受け手の距離が小さかった世界とは全く異なった世界なんでしょう。
ここまで管理人さんと意見が同じです。

> また、「自我が解け合う」とか「それで充分」という昨今の感覚も、
> 決して理解できてない訳では無いんですよ。
> 「今の若い世代はググらない(自分から調べようとしない)」と言われますけど、
> 似たようなモノばかりとは言え、情報や商品の数量自体が膨大に増える社会の中で、
> 自分好みに最適化されたオススメで満足できるなら、便利は便利な仕組みですからね。
> ですが、それだと単に「作業」するだけになってしまい、
> 与えられるモノを「消費」するだけの存在になってしまうというのが、
> 前回、述べた話の主旨の1つではありました。
> 言うなれば、私には、石田徹也的な世界観↓に映ってしまうんですよ。
> https://heapsmag.com/wp-content/uploads/2018/08/Refuel-Meal.jpg
> そして、少なくとも私自身は、それでは満足できないと・・・・
>
> もちろん、様々な選択肢が共存する多様性が保てれば、理想なのですが、
> しかし現実的には、2極化する時代がそれを許してくれず、
> 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。
> この辺りもまた、前回した話の主旨の1つですね。
> それしか知らない世代からと、違和感など全く無いのでしょうけど、
> そう移り変わった世代からすれば、多くが失われたと感じるでしょうし、
> そんな事は、常に変化する時代の中で、いつも行われてきた事であるとは言え、
> デジタル化やグローバル化がもたらした変化量は、他の時代の比では無いと。


では、そういった文化を消費するだけの作業になった世界というのは、そんなにディストピアなんでしょうか?
少なくとも私の観測している範囲では、たとえばここ2週間くらいオタ界隈ではウマ娘というスマホゲームが猛烈に流行っているのですが、ウマ娘のゲームを遊んでいる私のTwitterのフォロワーは楽しそうです。
私自身は自分でゲーム作ったりしているあたり、まだ20世紀型の文化の側の人間だと思うのですが、でも正直ゲームなんかわざわざ作っているよりも、話題のゼルダの伝説の最新作遊んでいたほうが楽しいと思うんですよね。
(完全に余談ですが、前作ったゲームは地道にバージョンアップしてver2になりました。 https://devum765.github.io/javascript-game/
聞いた話では、かつて服というのは自分たちで作るものだったらしいのですが、今はほとんどが既製品を買って着るだけのものになりました。
今後、画像認識AIを用いた自動料理装置のようなものが家庭に普及すれば、我々は自分たちで自分のご飯を作らなくなると思うのですが、それは果たして文化の後退なのでしょうか?
もっといえば、産業革命以前の、食べるものから着るものまですべてを自給自足していた時代の人たちがタイムマシンでやってきて、我々の生活をつまらない生活と評したら、我々はそれを受け入れて資本主義を捨て去るのでしょうか?

私が思うに、結局文化というのは娯楽であって、面白いかどうかが評価基準であり、面白いかどうかでいえば自分にぴったりの作品が一瞬でおススメされる現在のほうがエンターテイメントとして優れていると思うんですよね。
もちろん、中には管理人さんのように現在の無駄が省かれて雑音が消え去り、接することのできる文化の幅が少なくなった社会をつまらない社会だと思う方もいるにはいるのでしょうが、それって結局少数派だと思うんですよ。
で、その大多数の人たちは今の文化環境に満足しているわけですから、これで良いのではないでしょうか?
いえ、私はオタクですし、今でもかつて(80・90年代くらい)のガチオタに憧れるので、プログラミングを勉強してゲームを自作してみたり、ネットを漁って80年代のSFボードゲームが手の届く価格で売ってないか検索したりしているのですが、ただこういった生活がほかに人にもお勧めできるかと聞かれれば、いやゼルダやってたほうが絶対楽しいと思うんですよ。
そういう人間なので、時間はかかりましたが管理人さんの言っていることも理解できたと思いますし、ある程度共感できたのですが、その先の未来に関してはそこまで悲観的になる必要もないと思うんですよね。
ネット以前の20世紀的大衆文化の時代が終わりを告げ、21世紀型のSNSと「バズったものを履修する(例えばゼルダが面白いとYouTuberに言われればゼルダを遊ぶ、というようなこと)」時代がやってきたということではないでしょうか?
別に20世紀だって、半分以上の人は文化消費者だったのでしょうし、誰かの作ったマンガを読んで、誰かの作ったゲームで遊んでいたわけですから。

そして文化が停滞するなんて言うことも無いと思うんですよね。
なぜかといえば、ピラミッド上位のクリエイター層は、ネット以前とは比較にならない数のアマチュアクリエイターがしのぎを削る社会だからです。
アニメの絵がこの10年でどんどん奇麗になっていったのがそれを証明していっているかと。
(人口問題だけは可能性あるかもしれませんが)

で、最後に我々にできることとしたら、もう後は自分の好きなもや面白いものを発信していくしかないんでしょうね。
雑誌は死にましたが、ネットのおかげで我々は自分たちで情報を発信することができるようになりましたし、そうやってピラミッドの上位の側に廻るしか、文化消費者にならずに生きていく方法はないと。

▼ 時間感覚の変化

> え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。
> 正直、情報が有ろうが無かろうが、大昔だろうが現在だろうが、
> 1日が24時間なのは全く変わってませんし、時間は貴重なんて事は数千年前から言われ続けてます。
> もっと言っちゃえば、昔の方が平均寿命が短いので、今より時間が貴重です(笑)。
> ともかく、やるべき事、したい事が多い人ほど、時間をフル活用するモノですからね。
> 固定電話で長話するのも、コンビニにたむろするのも、ファミレスやカラオケで徹夜するのも、
> 時代に応じてツールが変わるだけで、今のLINEと大した違いは無いと思うんですよ。
> 何というか、効率化を正当化する為の言い訳として、時間は貴重と言っている気がしています。
> 「まったりしたい」とか、「あれこれ考えたくない」とか、素直にそれで良い気がするんですけどね。


いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
あまり詳しくはないのですが、最近の音楽はサビから始まるなんていうのも、サビが始まるまでとりあえず聞いてみようという人が減ってきたからだと思いますし、
私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかがやたらもったいなく感じるようになりました。
女性であればお化粧している時間をヒマな時間と感じる方が増えて、最近はお化粧中に音楽を聴く人が増えたなんていう話もあります。
特に最近私が感じたのは、SNSをやっている時と、本を読んでいる時で時間の流れ方(正確にはその感じ方)が全然違うということですね。
本読んでるときは「俺って時間セレブだよなー」みたいな感じです。
なんというか、金がたいしてあるわけでもないのにお高い店でランチを食べているような、読書にはそんなリッチさを感じるようになりました。

あとLINEとファミレスでたむろすることの最大の違いは、接触できる人数の規模がケタ違いに変わったことだと思いますよ。
LINEを開けば常にどこかのグループが会話していて、という状況はスマホ以前にはありえなかったでしょうし。
有限な時間の中で、家を出てファミレスでたむろするのと、同じく有限な時間の中で家で寝っ転がりながらLINEをしたり、それこそ無限の動画があるYouTubeを観ているのでは時間への感覚の違いというのも当然かと。
だからこそ選択と集中で貴重な時間を一番重要なものに一点投資すると。

▼ SNSについて

あとやはり2010年代の文化を語る上では、SNSというのは外せないと思うんですよね。
もちろん、SNSにはもちろんいいね!を稼ぐために必死になっている人もいますし、自分の気に入らない連中を攻撃してストレスを発散しようとしている人もいます。
ただ、だからと言ってSNSが文化として全く無価値であったというのも言い過ぎだと思うんですよね。
特に管理人さんが失われたと感じている趣味人の空気感については、もし残っているとすればSNSにしか無いと思うんですよ。
2ちゃんが廃れて、Twitterみたいな半匿名SNSが隆盛するようになったのも、結局は面白い話をできるの人にとっては、2ちゃんみたいな玉石混合の場所に行くよりも、
アカウント名(2ちゃんならコテハン)があって、誰が面白くて誰が面白くないのかがわかる場所に行ったほうが、質の高い会話ができるからだと思うんですよ。
だからこそそういった面白い上位層を吸い取られた2ちゃんはどんどん廃れていってしまうわけですが。
管理人さんも、アカウント作れば昔の歴史ゲーム(信長の野望とか)の話とか、サッカーの話とかできるようになると思いますよ。
ピンポイントでその話題が話せるかはわかりませんが、自分が話したい話題を10個くらい持っておけばそのうち1つか2つくらいは話せるのではないでしょうか?
結局、趣味人の世界を作るのは一定の壁だと思います。かつてはその壁はリアルな空間などに結びついていたわけですが、今それはSNSなどによる情報網がその壁の役割を果たしていると思うんですよね。
だからやはりその壁を超えないと趣味人の世界というのはもう壁の外側にはほとんど残っていないと。

> ここで私が言っている「雑音」の意味が、まるで理解されてない気も・・・・
> パッと見聞きした限りでは、不快だったり意味不明だったりするノイズ的な意見の中にも、
> 耳を澄まして聞いてみれば、時に思わぬ有益な情報を得られるモノを「雑音」と例えた訳ですが。
> 今の時代、自分の嗜好に沿った世間的なオススメに、
> 簡単に辿り着けるなんて事は、それこそ百も承知な訳ですよ。
> その上で、自分と異なる嗜好であったり、オススメや世間的で無いモノを、
> 「効率良く」知る手段というのが、そうした従来のリアルな媒体以外に、
> 例えばネット上の何処かで、新たに誕生していたりするのでしょうか?


一方で、SNSでは雑音が除去されていくのも事実だと思います。
前回の文章の書き方がよくなかったのですが、SNSで雑音は十分と言っているのではないんですよ。
ただ相対的な時間不足の中で、そういった雑音が意図して排除されているという側面もあると思うんですよね。

> また、「自我が解け合う」とか「それで充分」という昨今の感覚も、
> 決して理解できてない訳では無いんですよ。
> 「今の若い世代はググらない(自分から調べようとしない)」と言われますけど、
> 似たようなモノばかりとは言え、情報や商品の数量自体が膨大に増える社会の中で、
> 自分好みに最適化されたオススメで満足できるなら、便利は便利な仕組みですからね。
> ですが、それだと単に「作業」するだけになってしまい、
> 与えられるモノを「消費」するだけの存在になってしまうというのが、
> 前回、述べた話の主旨の1つではありました。
> 言うなれば、私には、石田徹也的な世界観↓に映ってしまうんですよ。
> https://heapsmag.com/wp-content/uploads/2018/08/Refuel-Meal.jpg
> そして、少なくとも私自身は、それでは満足できないと・・・・
>
> もちろん、様々な選択肢が共存する多様性が保てれば、理想なのですが、
> しかし現実的には、2極化する時代がそれを許してくれず、
> 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。
> この辺りもまた、前回した話の主旨の1つですね。
> それしか知らない世代からと、違和感など全く無いのでしょうけど、
> そう移り変わった世代からすれば、多くが失われたと感じるでしょうし、
> そんな事は、常に変化する時代の中で、いつも行われてきた事であるとは言え、
> デジタル化やグローバル化がもたらした変化量は、他の時代の比では無いと。


うーん、ではデジタル化以前の人々は文化の消費ではなく、具体的に何をしていたのでしょうか?
私にはデジタル化以前も以降も半分以上の人は文化の消費しかしていない、というのはあまり変わりがないと思うんですよね。

▼ スクールカーストについて

> > 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、
> って、現在のオタクの定義を用いるのであれば、リア充とだって普通に共用できる訳で、
> 何だか、こういう時だけ、以前のオタクの定義を持ち出すのは、ちょっとズルいと言いますか、
> 敢えて卑屈を演じる事による、下からの逆マウント取りの願望が出ちゃってる気がするんですよね。
> 「○○たんさえ居れば、俺のリアルは充実(ハァハァ」って具合に、
> 行っちゃってる意味での「リア充オタク」であれば、また別の話なんですけど(笑)。


まあ後ろにwを付ける程度に冗談として、許せない(w)という感じです。別に本気で許せないと思っているわけではありません。

昔のオタクはもっと濃かったみたいな話は他の場所でもまれに聞くのですが、実際どんな感じだったのでしょう?
私もなんとなく昔の濃いオタクにあこがれる気持ちはあるのですが、では濃かったと言われる昔のオタクが具体的にどのレベルなのかは全然知らないんですよね。

> > 私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> > そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、
> > なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、
> > どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。

> これは逆に質問なのですが、実際の所、「スクール・カースト」ってどんな感じなんですか?
> 元々、アメリカの学校には、そうした階級制度っぽい構図があって、
> それが2011年にNHK-BSで放送された、海外ドラマ「glee」のヒットをキッカケに、
> 日本でも広まっていった概念なので、実は10年にも満たない学校文化であり、
> 正直言って、私には実状が、よく解らないんですよね・・・・
> もちろん、それ以前の学校にも、漠然としたグループ分けはありましたけど、
> 言霊とでも言いますか、言葉として定義され、概念として普及するからこそ、
> 今度は人の方が、それに見方や考えが囚われて、構図が固まっていくモノですから、
> スクール・カーストという言葉が定着する前後で、やはり相応の変化はあったと思うんですよ。


うーん、大学生なのであまり学校外の社会のことは知りませんし、昔の学校を知っているわけでもないので、説明が非常に難しいのですが、
やはりカーストという言葉がピッタリだと思われて、世間で使われだすくらいには階級社会という感じでした。

> あと、「学校外でどういう存在か」に関しては、
> 昔とか今に限らず、やはり別個に捉えられてると思いますよ。
> ちなみに、カースト上位だけども「ガチ腐女子」というのは、
> 本人が公表してるから知られてるという事なのかな?
> 正直、ガチのレベルがどの程度を指してるかは不明ですけど、
> 一般人がドン引きするレベルのガチであれば、普通は公表しないでしょうし、
> 仮に公表したとしたら、カースト上位とやらは保てない気がするんですけど?
> それに一般的な腐女子文化だと、下から逆マウントを取りたがるスタンスなので、
> カースト上位でというのは合わず、何となくライトな印象を受けてしまいます。
> まあ、ちょっとマニアっぽい部分をチラッと見せて、男心をくすぐるというのは、
> 女性のモテ・テクニックとして、昔からありましたので、それだと腑に落ちますしね。


ガチ腐女子なのかどうかは、私にはわかりません。私は腐ってもないですし、女でもないので。
ただ男オタクから見て、こいつはなんちゃってオタクだよなと見抜けるほどではなかったので、ある程度はガチなんだと思います。
男心をくすぐるため説というのもないと思いますよ。普通にかわいい子だったので。
というか、容姿がよくなければカースト上位はまずは入れませんし、もしかしたらこの辺の容姿第一主義がスクール・カースト時代の特徴なのかな?

▼ 百合について

> それこそ、森永製菓の社長令嬢として、聖心女子学院で育った
> 前首相夫人である安倍昭恵さんの浮き世離れっぷりを見れば、それも少し実感できるかも?


ああ、あの人は女子校育ちだからあんな感じなんですね。
私もつくづく天然な人だなぁとテレビ見て笑っていましたが、そんな背景があったんですか。

> > 多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、
> > 10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
> > やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが
> > 現在の百合の根底にあると思います。

> ちなみに、それを示す資料か何かはあったりするのでしょうか?
> 難しければ、そんな願望を叶える作品の存在とか。
> いや別に、男オタクの少女趣味とか少女化願望というのは、昔からあったりしますし、
> それこそ昨今、キャッキャウフフを眺めていたいという願望だけでなく、
> キャッキャウフフに混ざりたいという願望があるとは聞きますけど、
> それがイコールで、「百合」というモノに繋がるとは必ずしも限らないと思いますし、
> 「女の子になって女の子と恋愛したい」というのが、果たして百合なのか?というのあります。


百合かといわれると微妙ですね。隣接文化でしょうか。ガンダムシリーズとガンプラみたいな。
一応別の文化だけど、深く関係している感じです。

> それと女装に関して言うと、昭和の頃から原宿などに出没する
> キャンディ・ミルキィさんという有名人が居られるので、今更キモいとかは思わないかな?(笑)
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A3
>
> > だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、
> > キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。

> こちらも、百合人気の違いを示すデータとかは、何かあったりするのでしょうか?
> 上記を含め、この2点に関しては、ようやく具体的に聞けた「百合の変化」ですので、
> 是非とも返信を期待したい所ですね。
>
> いや、東方・アイマス・ラブライブ・艦これといった題材が、
> もう古典として、今でも安定的な人気を保っているのは承知の上で、
> それでも特に「百合人気」を測るというのは、なかなか難しい事だと思うので。


うーん、百合人気の違いを示すデータといわれるとなかなか厳しいです。
なんとなくの感覚しかないですが、きらら系の低年齢キャラの百合は30代以上の社会人メインな気がします。
それに対して、高校生以上くらいになってくるとどちらかというと20代以下くらいが多い印象かな?
で女装率が急激に上昇してるのがここ1、2年でしょうか?

> > VTuberが流行したのも、もちろん視聴者側の需要もありましたが、
> > 一方でかわいい女の子になってみんなからかわいいかわいい言われたいという
> > 供給側の需要もあったと思うんですよね(ただその大半が再生回数3桁レベルなのが現実の悲しいところですが)。

> この場合のVTuberとは、男性が美少女アバターをまとう「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の事?
> それとも、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberの事でしょうか?


Vの方は全然詳しくないので、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberが何を指しているのかわからないのですが、多分バ美肉の方で合っていると思います。

> まあ前者の場合、中の人が男性だからこそ、同性の心の機微に通じてるみたいな感じで、
> 「こんな可愛い子が女の子のはずがない」的な世界観を築いてる方も、きっと居るのでしょうが、
> しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
> もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
> 基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・
> って、百合趣味少女×女装ドS少年の「まりほり」くらいなら、まだギリとしても、
> バ美肉おじさんまで行くと、果たして百合文化の範疇で捉えて良いモノなのでしょうか?
> 私も詳しく知ってる分野では無いので、いろいろ話は聞いてみたい所ですけどね(笑)。


ボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし
→いえ、慣れると案外気にならないらしいですよ。
確かねとらぼでそんなアンケート結果(美少女VTuberの声がおじさんでも応援しますかみたいなやつ)があったのですが、8割くらいの人が応援できるだったと思います。

最近ネットで百合と女装に関して雰囲気わかってもらえる感じの書き込み見つけたのですが、今検索してみたら消えていたので、保存してたぶん勝手にアップして共有しておきます。
https://up2.karinto.in/uploader/download/1615921411.txt パスワードは「百合」です。


[23525] 現在日本の文化環境(追記)返信 削除
2021/3/19 (金) 03:23:19 旧トルコ担当


一度文章にして投稿してみると、頭の中で自分の考えが整理されて、自分のぼんやりとした考えがうまく言語化されたので、追記してみます。

2010年代くらいに書かれた本だったと思うのですが、その著者曰く、今の若者世代には共通の言語というものが存在しないと。
それは漫画でもいいし、ライトノベルでもいいんだけど、この世代ならばみんなが何となく知っている何かという共通のものを持っていたほうがいいと思うのだけれど、今の世代にはそういうものが無いと。

で、この話って若者世代である私からすれば正しいと思うんです。確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
そしてその共通の言語みたいなものを持たなかった、作れなかったというのは、我々世代の選択だと思うんですよ。
決してそれは貧しいからではなく、我々はそういう方向性を自らの意思で選んでいったと。

同じように、現在の日本の文化環境、本屋がAmazonに置き換わり、見かけ上の選択肢は増えていても、実際の選択肢の幅は減少している、という状況もまた我々が選び取ったものだと思うんですよ。
もちろん日本経済がもっともっと豊かであれば両方を残すことはできたのかもしれません。しかし、現実には無限に経済的資源があるわけではない中で、今の文化環境というのは経済の原則により決まったという側面はあるのでしょうが、必ずしもそういう側面だけではないと。

私自身は今の、マニアックなものでも検索すればたいていたどり着ける環境というのが好きですし、昔とどちらが良いかと聞かれれば、本屋が失われて選択肢の幅が狭まったのを知ってもなお昔より今の環境のほうが好きです。
そして多分、これは他の大多数の人も同じなのではないでしょうか?それは私みたいなマニアとは真逆の、流行を追いかけている層の人もまた、今のほうが流行の質が高くなって面白いと。
ただそれは管理人さんの好みではないわけですよね。
ですがそれは結局のところ管理人さんの好みに合わないというだけであって、必ずしも日本の文化環境が悪くなっているというわけではないのではないでしょうか?

そういう風に考えたほうが、今のトランプフィーバーも、世代内の共通言語が失われたという状況とも、整合性が取れると思うんですよ。
他はそうだけど、他はLINEで24時間仲間内とつながるのが流行だけど、文化だけはみんな多様性を欲しているんだ。文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいるんだ、というのはどうしても説得力がないと思うんですよ。


[23529] 世代と世界の「共通言語」としての文化(その1&追記)返信 削除
2021/3/24 (水) 22:05:56 徳翁導誉

こちらの関係↓もあり、私も今回、2日後に追記してみました(笑)。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=c23535
追記箇所は、【以下追記】となってる部分から、次の引用部分(色付き文)までです。


▼ 現在日本の文化環境
> 間違っているかもしれませんが、管理人さんの言う旧来の趣味人の世界とか、文化について、
> 一応の理解はできたと思いますので、私の考えを書いてみます。
> ネットの普及により、雑音をカットして自分の欲しいものに直接手が届くようになった結果、文化の選択肢の幅が狭まった。
> これは事実だと思います。
> そしてそうやってSNSの狭い世界やAIにおススメされるものばかりを消費していく世界というのは、
> 今までの文化のつくり手と受け手の距離が小さかった世界とは全く異なった世界なんでしょう。
> ここまで管理人さんと意見が同じです。
> では、そういった文化を消費するだけの作業になった世界というのは、そんなにディストピアなんでしょうか?

何を「ディストピア」と感じるかは、正直、人それぞれでしょうね。
って、ディストピアはほぼSF用語なので、ROMってる方の為に少し説明しておくと(笑)、
ユートピア(理想郷)の反対語で、日本語に訳すなら「暗黒世界」みたいな感じでしょうか?

例えば中国なんて「幸福な監視社会」などと呼ばれてまし、その体制は今後更に進むでしょうけど、
あれを見て、ディストピアだと感じる先進国の人たちは多いでしょうし、
一方で、先進国では徹底できない、デジタル社会の理想モデルとする見方もあるはずです。
また、ナチス・ドイツやソビエト連邦、そして戦前の日本や満州国を、
悪の帝国として、そして歴史上の敗者として、ディストピアと評する事は珍しくなく、
もちろん駄目だった面は数多いのですが、決して良かった面が皆無だった訳ではありません。
現在の北朝鮮にしても、命懸けで脱北したのに、自由・資本主義社会での生き難さから、
再び北朝鮮に帰還してしまう例もありますし、そうなると、どちらがディストピアかも解りません。

ただ、ここまで述べた上で、私個人の心情を言わせてもらうと、
与えられた文化を消費するだけの社会というのは、正直、ディストピアだと感じますけどね。
実際、「世界一幸せな国」などと言われているブータンも、北朝鮮以上に思想統制していて、
本当に97%の国民が「自分は幸せ」と感じてるとしても、やはり私にはディストピア的に映ります。
恐らくは日本国民よりも、北朝鮮国民の方が、幸福と感じてる人の割合が高いかも知れません。
それでも、日本より北朝鮮の方が、ディストピアに近いであろうと思います。
これは、相手の主観に対する 自分の主観である以上に、
人類の歴史を俯瞰した上での客観的な見方をしている部分が大きいと思っています。
まあ私の場合、文化や学問の重んじ方が、一般的な人よりも強いですし、
歴史的に見ても、文化や学問の多様性が豊かな社会を作ると捉えてますので、
豊かな日本社会を望むからこそ、そこへの思いが普通より強いのは自覚してますがね。
あと、念の為に言っておきますけど、今の日本がそこまで落ちてるとは言っていませんよ。
ですけど、20年前30年前の日本に比べれば、確実に下落傾向にあるのは事実な気がします。

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

オペラを愛し、画家を目指して夢破れたヒトラーは、後に独裁者となると、
伝統的な絵画を奨励して、印象派以降のモダン・アートを「退廃芸術」として否定し、
オペラやクラシックの普及に努め、ジャズなどを「退廃音楽」として抑圧しました。
ソ連や、戦前戦中の日本なども、文化の政治的統制というのはあったのですが、
ヒトラーが教科書的なアートの信奉者だっただけに、ナチス・ドイツでは極端でした。
もちろん、アート愛好家は反発しましたけど、それも国民全体で見れば極一部であり、
大多数は関心が無いか、イメージ通りのアート普及を却って賞賛してたそうです。
そういう所は、あいちトリエンナーレ騒動時の反応を見ても、大して変わってない気がします。

ではこれが、多くの人々が認めていたからと言って、本当に良かった事なのでしょうか?
確かにヒトラーは、今までアートに縁遠かった庶民たちに対して、その魅力に触れる機会を作り、
それは彼らにとって受け入れやすい伝統的な作品でしたから、評判も良かった。
意味の解らない最先端アートの事など、庶民たちには評価のしようがありませんし、
ヒトラーにとっては、若き日に自分を否定した、芸術界に対する雪辱でもありました。
ですけど、これはアートに限らず、その時代時代で切り開かれた新しいモノが、
長い時間をかけて成長し、やがて社会へと広まっていくモノなのですから、
もちろん古典も重要ですけど、それだけでは一向に進歩せず、停滞してしまいます・・・・

で、こうした現象が社会的に起こるのであれば、まだ仕方が無いのですが、
暴力(軍事力)によって導かれるのでは、やはり意味が違ってきますよ!!
社会的判断であれば、例え成長しても、評価されないから社会で広まらないのですが、
政治的判断だと、元栓を絞められる事で、そもそも社会に評価され広まる機会がない。
最終的な結果は同じであっても、それは完全に別物です。
ただし、これは少数の権力者による暴力に基づいた統制ですから、
まだ見えやすいですし、80年前の出来事なので歴史として客観的に判断できます。
でも、今の時代に起こっている財力(経済力)による誘導は、
解りやすく独裁者がいる訳ではなく、冷戦後に暴走し出した資本主義というシステムが正体であり、
それには多くの人々が無自覚に関わり、更には現在進行形の出来事であるので、
どうしても視点は主観的になってしまい、その将来的な影響が見えにくい・・・・
これは非常に厄介な状態なのですが、それだけに打開も難しく、
方法論は考えてるものの、個人レベルじゃ困難でしょうし、正直諦めてる部分も(泣)。

「いま満足してるし、何が問題なの?」と問われると、
正直、なかなか答えるのが難しいのですが、
ドイツ第三帝国であれ、ソビエト連邦であれ、大日本帝国であれ、
当時の庶民たちの感想としては、それと同じと言いますか、
実際の所、今の我々よりも満足度の高い暮らしをしてたんですよね、調子の良い頃には。
限られた情報の中での幸福感という意味では、北朝鮮やブータンだってそうかも知れません。
しかし、それは上手く回ってる時の話であり、少数派の事は目を瞑った場合の話であり、
やがり状況が悪くなり、崩壊していった時の事も、私たちは同じく歴史で知っています。
まあ、その為に、これらの社会が「ディストピア」だったかのように捉えられる事もあるものの、
ですが現実的には、歴史的敗者だからと言って、全否定される程の暗黒社会でもありませんでした。
誤解を恐れずに言うなら、良かった部分だってありましたからねえ。
だからこそ、当時の人たちも満足して生きてた人が多かっただろうと。
とは言え、良い面と悪い面とをトータルで評価すれば、どうしても悪い面が勝ちますし、
そうなると、空想的なディストピアほどでは無いですが、やはり良い社会とは評価できません。

そして現代の社会に関しても、当時ほどでは無いけど、ちょっと肯定的には見られませんよ。
もちろん、未来の事は解らないので、ここからV字回復して良い社会になるかも知れませんし、
私の観察が間違ってるだけで、そもそも下落などしておらず、上昇中の社会かも知れません。
しかし、私の経験と肌感覚と歴史知識とデータ解釈から判断すると、
とてもじゃないけど、今の世界が良い方向に進んでるようには思えません・・・・
遊びが許されない社会というのは、どうしたって窮屈さが拭えませんからね。
「お国の為」か、「お金の為」か。
それは軍事力で もたらされようと、経済力で もたらされようと、
目に見える圧迫感の違いだけで、構造としては大差ない気がしています。
いや当然、政治的にコントロールされるよりも、遥かに自由度は残るのですが、
心理的にコントロールされると、それに気付く事や打開するのが難しい。

それこそ戦時中の日本は、子供向けのアニメ映画でさえ戦意高揚用であり、
確かに中には、「桃太郎 海の神兵」のような名作も生まれましたが、
それは逆に言うと、その範疇でしかアニメーターは表現を許されなかった事を意味し、
日活ロマンポルノやPCエロゲーの中で、表現を模索していたのとは訳が違います。
また、乳白色の美人画がパリ画壇で賞賛された藤田嗣治が、戦時中に描いた戦争画も、
それはそれで名作だとは思いますし、戦争画だからと闇に葬られるのは残念ですが、
でもこれも、戦意高揚の絵画展しか許されなかった当時の社会背景であったり、
戦争が終わると戦争責任を負わされ、日本を追われた経緯を思うと・・・・

しかも終戦と共に、日本へと大量に持ち込まれたアメリカ映画は、
戦時中にあってさえ、戦争と関係ない、質の高い娯楽映画を作っており、
それは軍事面だけでなく、文化面での敗北も、日本人たちに味合わせました。
その一方で、日本人は敗戦によって、気付きのチャンスを得ましたし、
それは日本の戦後サブカルを産む下地にもなりました。
ですけど今の時代、新自由主義化した経済はグローバルに展開され、
ネット網を介して個々の消費者にしっかりと結び付き、それは深まるばかりです。
世界中がそれに覆われ、自由意思さえ誘導される時代に、
これを打開するのは、なかなか容易じゃないですよ・・・・

とは言え、「悲観的に準備し、楽観的に対処する」という言葉もあるように、
可能性の話を論じ、出来得る事であれば最悪の事態は避けたいだけの事なので、
必ずそうなるとか、そのようになって欲しいとか、そういう考えではありません(笑)。
健康でありたければ、病気の事を知らなければいけないように、
平和を望むなら、戦争の事を知らなければならないように、
より明るい未来の社会である為に、危険性に注視している部分も正直あります。
まあ結局は全て、確定事項などでは無く、起こり得る可能性の話ですよね。
ただし、現実的に悪い方向へ進む事自体は、よくある事でもあります。
例えば昨今のコロナ禍でも、「医療体制の縮小」という小泉改革時のツケを、
20年の年月を越えて、我々は支払う事態になっているのですが、
この問題自体は、その当時から予測できてた事ではありましたからねえ。
そういう、将来に禍根を残しそうな問題が、現在進行形で積み重ねられてる感覚はあります。
私の場合、歴史好きな事もあって、今のニュースでさえ、
良くも悪くも、20〜30年のスパンで見ちゃってる部分もありますし、
生じる結果には、必ず事前の原因があるというのも、理系的な視点なのかも知れません。

> 少なくとも私の観測している範囲では、たとえばここ2週間くらいオタ界隈では
> ウマ娘というスマホゲームが猛烈に流行っているのですが、
> ウマ娘のゲームを遊んでいる私のTwitterのフォロワーは楽しそうです。

何だか、流行ってるみたいだなというのは、知ってます(笑)。
別に私の食指は動きませんけど、楽しんでる方が居られるなら、それは結構な話だと思いますよ。
擬女化するのはさておき、ダビスタとかは私も楽しんでた頃がありますし、
逆に言うと、「どこまで擬女化できるか?」は、ちょっと妄想しない事も無いです。
乳牛を擬女化した、ウマ娘ならぬウシ娘とか作ったら、鬼畜エロゲ系だなとか(苦笑)。
少女を強制妊娠させて、拘束して機械で乳を搾り、生まれた子供が男なら食肉にし、
それを3〜4回繰り返して、乳の出が悪くなれば、こちらも食肉に・・・って、
そのまま人間に置き換えて映像化したら、それだけで猟奇ホラーの完成でしょうから。

> 私自身は自分でゲーム作ったりしているあたり、まだ20世紀型の文化の側の人間だと思うのですが、
ゲーム作りって、20世紀型の文化なんですか!?(笑)
それこそ今年度から小学校では、プログラミングの授業が必修化されて、
学校によっては、ゲームを作る授業とか行われ得てると聞きますけど。

> (完全に余談ですが、前作ったゲームは地道にバージョンアップしてver2になりました。
>  https://devum765.github.io/javascript-game/

元々の話の流れであれば、コチラこそ本題向きの話題だったんですけどね(笑)。
経済物理学の話に触れた後、個人的には法学の次に縁遠い経済学に関して、
「ブラック・ショールズ方程式」「動学マクロ経済」「ベイズ統計」など、
数学を梃子に、ちょっと教科書を読んだりしてたんですよ、実は。

> 聞いた話では、かつて服というのは自分たちで作るものだったらしいのですが、
> 今はほとんどが既製品を買って着るだけのものになりました。

その文化を民間レベルで継承している最大勢力こそ、実はコスプレイヤー層かと。
いや、これは結構マジな話で(笑)。
裁縫が趣味という人は多く居るでしょうけど、
さすがに、服まで非商用で作る人は極少数でしょうからね。

> 今後、画像認識AIを用いた自動料理装置のようなものが家庭に普及すれば、
> 我々は自分たちで自分のご飯を作らなくなると思うのですが、それは果たして文化の後退なのでしょうか?

「画像認識AIを用いた自動料理装置」なるモノが、一体どんなモノなのか、
私にはまるで想像が着かないのですが(笑)、まあそれはともかく、
別に、そんなモノが普及しなくても、外食や宅配、出来合い惣菜にレトルトなど、
既に現時点で、自炊しない人は普通にいると思いますし、
そもそも都市部の場合、江戸の頃から外食文化であり、
東アジアや東南アジアでも、大体はそんな感じです。
日本人が家庭料理を作り始めるのは、昭和に入って以降、
特に今みたいな形は、確か高度経済期以降だったと思いますからね。
で、これが文化の後退かと問われれば、私は特にそうとは思いませんよ。
平日は出来合で休日は自炊とか、平日が自炊で休日は外食とか、別に良いと思います。

ただ一方で、数ある選択肢の中から「自炊」自体が消えるとなれば、
それはさすがに、文化的な後退を意味するかと思います。
例えば上記で、東アジアや東南アジアの都市部は外食文化だと話しましたが、
この場合、1人部屋だったりすると、家にそもそもキッチンが無かったりします。
そうなると、家ではカップ麺のお湯を温めるくらいしか出来無くなるんですよね。
つまりは、「料理をしない」という選択から、「料理が出来ない」という環境となり、
それが結果的に「料理を作れない」という能力の問題になってくると・・・・
イギリスの食文化が崩壊した(マズくなった)のも、この構造が世代を越えてしまった所為です。
もちろん、崩壊も含めて文化だとも言えますし、そのお陰で日本食も進出できたのですが、
でもまあ、一般的な見方からすると、これは「文化の後退」ですよねえ?
隣国のフランスは世界3大料理の一角と呼ばれ、やはり羨望を集めてますし。

って、これは何も、誰もが料理人のようになると言う、極端な話ではなく、
せめて最低限の事が出来れば、選択の幅は広がりますし、
自分で多少なりとも作ってると、プロの技術や味の凄さが、より理解できるはずです。
出来合いやレトルトに、ちょっと一手間加えて、更に自分好みにする工夫とかも、
自炊という選択・環境・能力が失われる程、縁遠くなる気がしますからね。
また、これを服の話ですれば、着る服まで自作する必要は私も感じませんけど、
ボタン付けくらい出来ないと、わざわざ店に頼むか、捨てるかしか無くなっちゃいますよ。

> もっといえば、産業革命以前の、食べるものから着るものまですべてを
> 自給自足していた時代の人たちがタイムマシンでやってきて、我々の生活をつまらない生活と評したら、
> 我々はそれを受け入れて資本主義を捨て去るのでしょうか?

う〜ん、え〜と、これは一体何なんでしょ?
何やら突然、手作り至上主義みたいなのを持ち出され、それを否定されてますけど、
そんな話、今まで全くしてないと思うのですが・・・・
まあ恐らくは、買い物の完全作業化と娯楽性喪失という話から、
独自に連想されて脱線されたのかな?とは、一応推測しますけども、
それにしたって、ネット通販の利便性を否定するような話では全く無かったですしね。
(とりあえず言っておくと、私は別に手作り至上主義者じゃありませんよ・笑)

あと、究極的に効率性を追求するのであれば、食事はサプリで、服は人民服でOKという事?
・・・と、少し意地悪に返してみる遊び(笑)。
ただ、学者や研究者の世界とかだと、効率の権化みたいなタイプも居て、
食事はサプリ中心とか、服は1種類を大量にとか、そういう人も本当に居ますけどね。
正直言って変人タイプですが、そこまで無駄を削って研究に没頭されると、
「時間は貴重」という言葉も、ちょっと真に迫ってくる所があります(笑)。

> 私が思うに、結局文化というのは娯楽であって、面白いかどうかが評価基準であり、
> 面白いかどうかでいえば自分にぴったりの作品が一瞬でおススメされる現在のほうが
> エンターテイメントとして優れていると思うんですよね。
> で、その大多数の人たちは今の文化環境に満足しているわけですから、これで良いのではないでしょうか?

はい、それはそうだと私も思っていますよ。
だからこそ前回、「経済と文化の相互性」や「サブカルの市場規模」の話を、あれだけしたんです。
別に消費者の存在を否定している訳でも無いですし、
それこそ前回も言ったように、分解の育成には市場の存在が不可欠であり、
市場というのは、まさしく消費者あってのモノです。
一握りのパトロンが文化を下支えする中近世から、
数多くの庶民が文化を下支えする近現代に、時代は移り変わってますからね。

> もちろん、中には管理人さんのように現在の無駄が省かれて雑音が消え去り、
> 接することのできる文化の幅が少なくなった社会をつまらない社会だと思う方もいるにはいるのでしょうが、
> それって結局少数派だと思うんですよ。

もちろん、それは少数派ですよ(笑)。
と言いますか、多数派だったら「サブカル」とか「オタク」って呼べないでしょ!?

> いえ、私はオタクですし、今でもかつて(80・90年代くらい)のガチオタに憧れるので、
ちなみに、主にどんな分野のオタクなんですか?

> ネットを漁って80年代のSFボードゲームが手の届く価格で売ってないか検索したりしているのですが、
そう言えば旧トルコ担当さんは、アシモフのSFが好きとの事でしたが、
昔から、ちょっと気になっていたんですけど、
アイザック・アシモフというと、世間的にはSF作家として有名なのですが、
彼の本職は生化学者であり、化学や生医学の著作もあるんですけど、
アシモフ・ファンの方は、そちらも読まれたりするモノなのでしょうか?
日本語だと「化学の歴史」や「生物学の歴史」あたりが出版されてますけども。
https://www.amazon.co.jp/dp/448009282X
https://www.amazon.co.jp/dp/4062922487

あとSFと言えば、最近話題のSF小説「三体」って、既に読まれてます?
全3部作で、私はまだ第1部しか読んでないんですけど(第3部の日本語版は今年発売予定)、
SFファンの中では、一体どんな評価なのかな?と気になりまして。
まあ、そもそもSF自体、私はほとんど読んで事が無いんですけど、
近年活況を呈していると聞いてはいた中国産SFの、これが初体験でした。
で、この作品が中国国内で累計2000万部と知り、そんなに市場が大きいんだなと!!
前回も少し話しましたが、単に日本と中国の人口の差という以上に、
中国のネット投稿小説の市場は、日本よりも先んじて既に大きく発展しており、
サブカルを含めた文化面で、日本が成熟期なのに対して、中国には成長期の勢いがあります。
(例えば成都というと、三国志の印象が強いですけど、今ではSF都市として力を入れてるそうで)

一昔前までは、日本に入ってくる中国の小説というと、武侠小説が主でしたけど、
今では、中国でヒットした作品が、英訳されて欧米でも流行り、
その後で日本語版も発売されるという流れになってきているみたいです。
政治問題に触れない限り、中国政府も国家戦略として全面バックアップしてますしね。
(政治的要素を含む作品は、作家たちも台湾の方で出版すると・笑)
この三体も、オバマやザッカーバーグが絶賛した事で、日本語への翻訳が決まったとも?
本来なら中国から直接の方が近いのに、欧米経由じゃないと入ってこないというのは、
中国に対する評価の問題や、日本市場の魅力の問題など、いろいろ抱えていそうですけど、
それでも、言葉の壁を越えて市場開拓している姿は、日本も大いに参考に出来るかも知れません。

> ただこういった生活がほかに人にもお勧めできるかと聞かれれば、
> いやゼルダやってたほうが絶対楽しいと思うんですよ。

たまにはガラにもなく、ちょっと哲学の話でも引用しましょうかね(笑)。
19世紀のイギリスの哲学者に、J.S.ミルという人が居たのですが、
彼は著書「功利主義論」の中で、次のような有名な一説を残しています。

「満足した豚であるより、不満足な人間である方が良く、
  満足した愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。
  そして、愚者や豚の意見がこれと違っていたとしても、
  それは彼らが、この問題を自分の立場からしか見ていないからである」

何だか、こういう風に書くと、お高くとまってる感じがしますし、
豚の満足とは、感覚的や肉体的な「低級快楽」の事であり、
ソクラテスの満足とは、精神的や知的な「高級快楽」の事であると解説を加えると、
嫌味な感じが更に増すのですが(笑)、すっごい解りやすく言い直せば、
「せっかく人間に生まれたんなら、いろいろ楽しめた方が幸せじゃん!」って話なんです。
ミル的には、他者の自由を妨げない限り、あらゆる快楽を求める事が幸福の最大化らしいので。
要するに、消費者として満足するだけより、創作者としても満足できた方が、
楽しさの範囲がグッと広まるよって事を、この一説を引用してまで述べたかった訳ですね。
私1人の言葉だと、あまり説得力も無いでしょうから(苦笑)。

って、こんな話をしつつ、まあ私自身としては同じソクラテスでも、
プラトンから「狂えるソクラテス」と評された、ディオゲネスの思想とか好みだったり(笑)。
中国思想史で言うと、老子あたりと考え方が近い人ですかね?
こちらは、「あれこれ欲さず満足できれば、それが一番幸せだろ」って話なので、
前述のミルとは もう完全に正反対で、矛盾も良い所かも知れませんが、
「快楽の餓鬼でありつつ、快楽の賢者タイムもある」、それで良い気はしますし、
もっと言ってしまうと、ドラッグ使用すら、私は別に否定しません。
(念の為に言っておくと、私はドラッグどころか、酒もタバコもやりませんが)

> そういう人間なので、時間はかかりましたが管理人さんの言っていることも理解できたと思いますし、
> ある程度共感できたのですが、その先の未来に関してはそこまで悲観的になる必要もないと思うんですよね。

え〜と、すみません・・・・
私の方からすると、「何でこんなに話が上手く伝わらないんだろう?」って感じなので、
この状態で「理解できた」「共感できた」と言われてしまうと、正直ちょっと困惑(苦笑)。

> ネット以前の20世紀的大衆文化の時代が終わりを告げ、21世紀型のSNSと
> 「バズったものを履修する(例えばゼルダが面白いとYouTuberに言われればゼルダを遊ぶ、というようなこと)」時代が
> やってきたということではないでしょうか?
> 別に20世紀だって、半分以上の人は文化消費者だったのでしょうし、
> 誰かの作ったマンガを読んで、誰かの作ったゲームで遊んでいたわけですから。

そこは、そうですよ。
ただ逆に言えば、ネット以後の21世紀型だろうが、
やってる事は、結局 大して変わってないという事でもありますが。
テレビや雑誌などのマス・メディアを介した大きな流行と、
学校や地域の仲間との口コミで広まる小さな流行との間に、
ネットという中規模の流行が生まれたという話なので。

> そして文化が停滞するなんて言うことも無いと思うんですよね。
> なぜかといえば、ピラミッド上位のクリエイター層は、
> ネット以前とは比較にならない数のアマチュアクリエイターがしのぎを削る社会だからです。
> アニメの絵がこの10年でどんどん奇麗になっていったのがそれを証明していっているかと。

それを踏まえた上で、以前にもしたのが「学習の高速道路論」の話だったんですけどね・・・・
今の時代、ネットの普及と進化によって、一昔前よりも確実に学習の効率が上がってるんですよ。
もちろん、それはそれで素晴らしい事ではあり、
高速道路が敷かれた所までは、多くの人がスイスイと進んでいくのですが、
しかし、高速道路を走り抜けた先では、行き先に困って大渋滞が発生していると。

これをイラストレーターの話に当てはめれば、それこそ前回にも言いましたが、
投稿数は勿論の事、上位クラスの作品レベルは凄い事になっているのは事実として、
その一方で、イラストレーターの活躍場所って、一体どれだけ増えたのでしょう?
また、一定水準のイラストレーターは数多く生まれたのでしょうけど、
そこから突き抜ける人だったり、作品を残したりという人は、一体どれだけ居るのでしょうか?
新しいモノが生まれない限り、それは二番煎じ、三番煎じと繰り返していくしかなく、
「何番煎じだよ!?」となった時、それは停滞と呼ばれるのでは無いでしょうか?

「新しい文化は、無駄と余裕から生まれる」というのは、基本中の基本的な概念なのですが、
今の時代って、無駄は省かれ、余裕は削られていく時代ですよねえ?
そんな時代の中で、どうやって新しい文化を生み出すのでしょう?
もちろん、新しい文化が生まれないからと言っても、文化自体が消滅する訳ではありません。
例えば長い江戸時代の中で、元禄文化と化政文化を学校の授業で習いますが、
その2つの時代が、文化的な隆盛期にあったというだけの話で、
それ以外の時代に、文化が全くなかったなんて話ではありません。
何度も繰り返しますけど、文化を含めた あらゆるモノに、盛衰の周期はありますから。
でも逆に言うと、それって必ず、衰退や停滞する時期があるって事なんですよね。

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

1年単位の「短期的」な視点だと、不規則な微増減があり、
10年とか20年といった「中期的」な視点だと、周期的な盛衰の1サイクルがあり、
数十年や100年くらいの「長期的」な視点だと、緩やかな上り下りの基調が見られるもので、
こうした性質は、経済であれ、文化であれ、だいたい似たような感じだと思われます。
なので別に、懐古主義的に「昔は素晴らしかった」「今はダメだ」と言いたいのではなく、
中期的な周期だと、既にピークは超えて下り坂のタイミングに突入しており、
長期的にも市場開拓が飽和状態で、今後は縮小さえ有り得る状況から、
文化のおかれた状況を、歴史的に見た感じで語っているつもりではいます。
特に、人類が世界規模で初めて向かえる「人口減少社会」というのは、本当に未知の要素ですし。

とは言え、「文化力でも人口こそが絶対正義」とまでは、私は考えていないので、
未来の文化が、必ずしも暗いかとなると、決して断言は出来ないと思うんです。
例えば江戸中期から後期にかけて、ミニ氷河期により日本の人口増は停滞しましたが、
庶民まで広がった化政文化が栄えたのも、丁度この頃でしたからねえ。
もちろん人口や歴史というのは、文化を支える上での大きな土台なのですが、
経済的・時間的・精神的の「3つの余裕」がある事も、文化を築く上で大きいと思うんです。
なので、どれほど人口が多くても、余裕がない社会では文化は育まれ難いでしょうし、
格差が「問題視(存在では無く)」される社会というのは、そうした余裕が乏しい状況かと?
しかも、文化が消費ビジネスの標的にされる現在では、それは尚更ですよね。

ですから、技術の革新が社会を変革させる事がありますし、
そこまで行かなくても、技術革新自体が新しい文化を作る事はあります。
そういう意味では、ずっと文化が低迷し続けるとは限りません。
と言いますか、中期的に見れば、何らかの文化の波は再び生じるモノだと私は考えています。
それこそ上記の江戸時代の例を続ければ、
戦国の気風を継ぐ江戸初期は、新たに生まれた文化が荒くれた時期でしたが、
それが時代と共に、社会が落ち着いていき、文化も徐々に上品になっていくと、
クセが乏しく、ただただ奇麗なモノとかが好まれるようになりますし、
それが庶民にまで広がっていくと、解りやすくて、安上がりなモノへとなります。
でもまあ、これも文化と言えば文化なんですよね。

正直言うと私自身、日本文化は活気のある勃興期や成長期の作品が好きなのですが、
西洋文化は馴染みが薄いからか、音楽も絵画も大衆化後の作品が好きだったりも(笑)。
以前は、好みが安直すぎると、少しだけ気恥ずかしさもあったのですが、
ワシントン・ナショナルギャラリーの印象派名画に圧倒されてからと言うもの、
それまでは「奇麗なだけで、ツマらない」という感じだったのが、
それ以降は「奇麗なだけでも、良いじゃないか」と開き直れたんですよね!!
どんなタイプの作品であっても「良いモノは良い」、それが全てでは無いかと。
そうなると、楽しめる範囲というのが、格段に広がるようになりました。

要は個々人の好みの問題で、文化自体に優劣は無いとも言えます。
ただ一方で、人が生まれて成長し、ピークを迎え、やがて衰えていくのと同じ様に、
ある種の表現方法においては、こうした栄枯盛衰が必ず付きまとうのでは無いでしょうか?
若者と老人に人間としての優劣は無くても、若者の方が魅力的に見えるのも多数意見なはずで、
文化にしても、衰退期よりは勃興期の方が魅力的に映りやすいモノだとは思うんです。
そして、新たな魅力を欲する場合は、新たな若い人材を求めるが如く、
新たな文化を育むしか無い気がするのですが・・・それが現状だと大変難しい(泣)。
やはり経済が苦しいと、社会的な活気ってどうしても失われがちですし、
少子高齢化の社会になると、シルバー民主主義だけでなく、
「シルバー文化主義」に陥りやすいように感じるんですよね。
「ドラゴンボール」や「スラムダンク」の連載が終了して25年、
「ガンダム」に至っては、放送から既に40年が経っているのに、
いつまで、「みんな知ってて当然」的なネタの扱いで行くのでしょう?
確かに団塊ジュニア層は分厚いですけど、リメイク作品や大作続編ばかりではねえ・・・・
そういう意味では、今回の「鬼滅の刃」の大ブームは、嬉しい驚きではありました!!

って、こうやって考えると、テレビの力がそれだけ大きかったのかな?
例えば今の お笑い第7世代って、先輩芸人が当然のようにガンダムやドラゴンボールで喩えても、
「いや、よく解んねぇッス」と、素直に言えちゃうらしいんですよね(笑)。
彼らより前の世代は、とりあえず先輩の話に合わせて相槌を打っていたのに。
それを思うと、現在、テレビ番組で幅を利かせている40〜50代の芸人たちって、
上下関係がバリバリに残ってた第3世代や、その移行期だった第4世代たちなので、
http://www.takomusuko.com/owarai-generation.htm
無意識の内に「解るよな」と押し付け、後輩たちに愛想笑いをさせてるのかも?
そして、それはテレビ画面を通して、後輩世代の視聴者たちにも同じ事をさせていると。
(旬の若手芸人は、若者ファンにとって、10歳くらい年齢差がある お兄さん的な感じを想定)

また、これは少し見落とされがちな事かも知れませんが、
現在30歳前後くらいの世代から、「テレビなんて見ないよ」という層が急増し、
その理由は「ネットがあるから」とか「番組がツマらないから」だと思われますけど、
これを当の本人たちは、「自分たちの選択」と感じているかも知れません。
ですけど実際には、ネットが普及し始める少し前あたりから、
少子化と不景気の影響により、テレビ局側が子供向け番組を次々に潰していったんですよね。
どんなに子供たちがテレビを見た所で、直接的な購買効果は得られませんから、
朝の教養番組も、夕方のアニメ再放送も、ゴールデン帯のアニメやコント番組も姿を消して、
(コント番組で子供ウケするアニメ・ネタをやり、そのアニメが注目される相乗効果もありました)
朝や夕方は情報番組の長時間化、お笑いはトーク系で、アニメは深夜や独立局に移行されたと。
目先の収益を考えれば最善策だったかも知れませんけど、子供の視聴を切り捨てた構成は、
将来の購買層となるテレビっ子たちを、育児放棄しするような格好となりました。
一番酷かったのは、恐らく2010年頃かも知れませんねぇ・・・・
あまりに経費削減し過ぎて、その日の最高視聴率番組が、水戸黄門の再放送とかありましたし(苦笑)。

で、このように、自らテレビ離れしたと言うか、テレビ離れさせられた世代は、
人口の割に、自分たち向けの番組が作られないまま進み、
それがマンガだけでなく、テレビにおいても、共通の話題を失わせた面はありそうです。
そして、そうなると結局、自分たちの世代の若手芸人たちは主導権を握れず、
テレビ全盛期に地盤を固めた第2〜3世代主導の番組ばかりを、見させられる構図になった気がします。
言い方を換えると、現在20〜30代の世代が、テレビからネットへの移行世代だとすると、
現在10代の若者層は、完全にネットへと移行しきった世代なのかも知れませんね。
だからこそ、初めからテレビが眼中に無く、YouTubeで芸人を見て、ネット配信でアニメを見て、
そうした流れが確立し、以前まであった世代内での「共通体験」を復活しつつあり、
もしかしたら、その象徴として現れたのが、YouTuber人気であり、鬼滅ブームだったりしたのかも!?

ちなみに第7世代からすると、予算と時間をかけて作られた昔の大型コント番組というのは、
古くさい形式ではなく、素直に憧れとして見ている面もあるらしいですね。
ネット番組で自由に発信できる時代になったとは言え、やはり予算も時間も限られますし、
そうなって来ると、やはりバブル期の80〜90年代には敵わないと・・・・
例えば、映像なんて見えないラジオの特番で、西武球場を貸し切りにし、
バック・スクリーンの大型ビジョンで、ファミコン野球対決なんて企画は、
カネが有り余ってた当時でもなければ、実現不可能な事だったでしょう(笑)。
ただ最近は、テレビ局がカネを掛けられないままな一方、
ネットの有料配信も増えてきた事で、そちらで大型番組の制作も増えてきたかな?
とは言え、まだまだ海外ドラマ以外は、カネはあるけど質の方は・・・という感じらしく、
ここから次第に成熟していくのか? はたまた有料固定客だけでは難しいのか?
今後どうなっていくかは、それこそ見モノになっていくかも知れませんね。
それこそ、技術やノウハウを持つテレビ側との融合が進めば、可能性は充分ありそうですし。

でもまあ、電波配信かネット配信かの違いで、番組を見る行為に大きな変化はない事を思うと、
(テレビでネット配信を見ている私なんて、特にその傾向が顕著ですね・笑)
デジタル技術が脳直結型に移行するくらいまで行かないと、大きな変革は無理かな?とも。
逆に、そういう意味では、そちら方面は今こそ「黎明期」なのかも知れませんけどね(笑)。
AIにせよ、VRにせよ、目に見えつつあるものの、まだ定着まではしてない時期ですし、
アニメやゲームは勿論の事、そもそもはスポーツ観戦や読書にしても、
それ自体を楽しむだけでなく、コミュニケーション・ツールとしての利用も以前からあった訳で、
脳直結型なら、そうしたツールとしての消費を伴わないコミュニケーションの在り方も現れるかも知れず、
コミュニケーションの満足感さえ得られれば良いなら、人もいらずAIで十分になるかも知れません。
それをどう感じるかは個々人次第であり、それはそれで新しい文化には違いないでしょうから。

> で、最後に我々にできることとしたら、
> もう後は自分の好きなもや面白いものを発信していくしかないんでしょうね。

それはそうですよ。
と言いますか、それしか無い気がします!!
ただし、現在のネット社会って、本当に「自分の好きなもや面白いもの」を、
追求していけるような環境になっているんですかねえ?
多くの作品が投稿され、多くの人が評価を寄せ、それが時にお金になるから、
どうしても人は弱い為、目立つモノ・受けるモノ・儲かるモノへと流されがちで、
ネットで繋がるからこそ、他者の存在が常に気になり、自己表現の妨げになる面も大きいのでは?

> 雑誌は死にましたが、ネットのおかげで我々は自分たちで情報を発信することができるようになりましたし、
> そうやってピラミッドの上位の側に廻るしか、文化消費者にならずに生きていく方法はないと。

これも以前の繰り返しになってしまうのですが、要するに社会において、
中間層が喪失し、一握りの上位と、大多数の下位しか存在しない「2極構造」となっても、
旧トルコ担当さん的には、それはそれで構わないという結論なのでしょうか?


▼ SNSについて
> あとやはり2010年代の文化を語る上では、SNSというのは外せないと思うんですよね。
と言いますか、ことネット文化に関して言うと、10年代は「SNSの時代」ですよね。
それ以外にめぼしいモノが無かったとも言えますし、
よりネットが一般化した象徴のような存在かと思います。
逆に言えば、だからこそ昔ながらのネットの面白味は失われたと(苦笑)。

> もちろん、SNSにはもちろんいいね!を稼ぐために必死になっている人もいますし、
> 自分の気に入らない連中を攻撃してストレスを発散しようとしている人もいます。
> ただ、だからと言ってSNSが文化として全く無価値であったというのも言い過ぎだと思うんですよね。
> 特に管理人さんが失われたと感じている趣味人の空気感については、
> もし残っているとすればSNSにしか無いと思うんですよ。

う〜ん、ぶっちゃけて言うと、アナログ的な限定された繋がりという面であれば、
特定の人同士でしか繋がらない使い方でのSNS利用で、代替が確かに可能なのかも知れませんけど、
私が真に求めてるのって、そうしたアナログな繋がりが、デジタルでオープンに繋がった所なので、
一般化して変化してしまった今のネットでは、その代替など難しいと思いますし、
そして何より、そんな今の象徴であるSNSだと、方向性が正反対だと思うんですよね・・・・

> 2ちゃんが廃れて、Twitterみたいな半匿名SNSが隆盛するようになったのも、
> 結局は面白い話をできるの人にとっては、2ちゃんみたいな玉石混合の場所に行くよりも、
> アカウント名(2ちゃんならコテハン)があって、誰が面白くて誰が面白くないのかがわかる場所に行ったほうが、
> 質の高い会話ができるからだと思うんですよ。
> だからこそそういった面白い上位層を吸い取られた2ちゃんはどんどん廃れていってしまうわけですが。

う〜ん、私の認識とは だいぶ違うかなぁ?
もともと玉石混淆だった所に、石ばかりが増えて、玉の比率が下がり、廃れてしまったのが2ch。
そもそも石ばかりで構成されていて、石の投げ合いを楽しむ事で発展したのがTwitter。
そういう認識ですね、少なくとも私の方は。
(もちろん、影響力ある人の情報発信ツールとしてなど、Twitterに有効な側面があるは確か)

> 管理人さんも、アカウント作れば昔の歴史ゲーム(信長の野望とか)の話とか、
> サッカーの話とかできるようになると思いますよ。
> ピンポイントでその話題が話せるかはわかりませんが、
> 自分が話したい話題を10個くらい持っておけばそのうち1つか2つくらいは話せるのではないでしょうか?

まあ正直言うと、私は別に話したい(発信者でありたい)人間ではなく、
読みたい(観客でいたい)人間ではあるんですけどね(笑)。
なので、自ら積極的に発信していき、それによって人を集める方法であれば、
ひょっとしたら、上手く回る可能性もあるのかも知れませんけど、
正直な所、そういうのは苦手なタイプなので、そこまで頑張りたくは無いと(苦笑)。

あと、一応言っておきますけど、LINEも、Twitterも、Facebookも、
とりあえずアカウントは持ってますし、多少なりとも使った経験はあります。
特にTwitterは、まだケータイ非対応だった開設当初より知ってますし、
最初の印象は「ネット上の拡声器」であり、その傾向は利用者が増えるほど酷くなったかな?
その上で、やはりSNSは話し合いに不向きな印象が残りましたし、
(例えば こうした掲示板での長文やり取りって、SNSに向いていると思われます?)
私の検索能力が低いのかも知れませんが、確かに歴史ゲームやサッカーの話題は見つかっても、
私が求めるのはレベルの内容には、正直、出会えた経験がありません・・・・
肯定の為の肯定とか、否定の為の否定とか、反応が多くても私は興味ありませんし、
別にそんな高いモノでは無く、以前のネットで見られたレベルで十分なのですがね。
まあ、全く居ないなんて事は無いはずなので、必死に探せば巡り会えるのかも知れませんが、
そこまで労力を要するようだと、実際にそのレベルでSNSを利用している人がどれだけ居るのか?

2019年出版の角川新書「ネットは社会を分断しない」によると、
「ネットで実りのある議論をするのは難しいと思うか?」という調査では、
「はい47% いいえ7% どちらでもない33% わからない13%」という結果が出ており、
パソコン通信やBBS掲示板の頃とは違って、SNS時代の現代のネットでは、
既に、ネットで議論は困難と思われており、もう離れてる人も多いと思うんですよね。
確かに、TogetterのTwitterまとめとかで、興味深い話題を見掛ける事はありますけど、
それに立ち会える機会なんて、恐らく凄く限られているのでしょうし、
まとめに載らないけど、熱くて深い議論が交わされてるケースって、多くあるのでしょうか?

それに「誰が面白い」とか、そういうのを求めてるんじゃなくて、
「面白い話」自体を求めているので、それがいつもの誰かか関係ないんです。
逆に言えば、サロンやギルドのような閉じた関係内の交流よりも、
もっとオープンな交流こそが望みですし、以前のネットには確かにそれがあったんです!!
また、特定の誰かの情報発信を見たいのであれば、ブログとかの方が内容が濃そうですし、
名のある相手であれば、その人の著作なり論文なり読んだ方が、ずっと良く伝わるんですよね。
繰り返しになりますけど、別に交流を求めている訳ではなく、考えを知りたいだけなので。
とは言え、本当にガチでセーブ無しに話し合える環境があるなら、正直かなり憧れますし、
理想を言うなら、私じゃ話を挟めないレベルで、鼎談とか行われてるのを見ていたいです(笑)。

> > ここで私が言っている「雑音」の意味が、まるで理解されてない気も・・・・
> > パッと見聞きした限りでは、不快だったり意味不明だったりするノイズ的な意見の中にも、
> > 耳を澄まして聞いてみれば、時に思わぬ有益な情報を得られるモノを「雑音」と例えた訳ですが。
> > 今の時代、自分の嗜好に沿った世間的なオススメに、
> > 簡単に辿り着けるなんて事は、それこそ百も承知な訳ですよ。
> > その上で、自分と異なる嗜好であったり、オススメや世間的で無いモノを、
> > 「効率良く」知る手段というのが、そうした従来のリアルな媒体以外に、
> > 例えばネット上の何処かで、新たに誕生していたりするのでしょうか?

> 一方で、SNSでは雑音が除去されていくのも事実だと思います。
> 前回の文章の書き方がよくなかったのですが、SNSで雑音は十分と言っているのではないんですよ。
> ただ相対的な時間不足の中で、そういった雑音が意図して排除されているという側面もあると思うんですよね。

自分と似通った意見に囲まれて、無自覚なまま自己肯定感を「エコー・チェンバー」や、
自分が見たい情報ばかりを提示され、自らの視野が狭くなる「フィルター・バブル」に、
周囲が似たもの同士ばかりになって、思考が極端化していく「サイバー・カスケード」など、
そういう空間は快適だし、そのままでも構わないのであれば、もう何も言えないですけどね。

ただ、自分で選んでるつもりでも、実はAIに選ばされていたり、
AIが判定したタイプの型に、知らず知らずの内にハメられていくなど、
自覚できてないと、本当に良いように誘導されちゃう時代になって来ていると・・・・
これが一個人の趣味だけの話に留まるなら、別にそこまで問題は無いのかも知れませんが、
しかし実際、こうした姿勢がそれだけに留まる事は少なく、将来的には社会の害悪にも為りかねません。
旧トルコ担当さん自身も、トランプ現象との関連性を述べられてましたけど、
そちらもOKという認識なのでしょうか?
こうした価値観や思考法って、趣味だけとか、政治だけと、限定できるモノでは無いので。

> > 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> > ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。
> > この辺りもまた、前回した話の主旨の1つですね。
> > それしか知らない世代からと、違和感など全く無いのでしょうけど、
> > そう移り変わった世代からすれば、多くが失われたと感じるでしょうし、
> > そんな事は、常に変化する時代の中で、いつも行われてきた事であるとは言え、
> > デジタル化やグローバル化がもたらした変化量は、他の時代の比では無いと。

> うーん、ではデジタル化以前の人々は文化の消費ではなく、具体的に何をしていたのでしょうか?
> 私にはデジタル化以前も以降も半分以上の人は文化の消費しかしていない、
> というのはあまり変わりがないと思うんですよね。

上記の話を踏まえた上で、そうおっしゃるのであれば、
私としても「変わらない」と答えますね。
そもそも人間なんて、メシ食って、寝るだけの存在ですので。
それは原始人だった頃から変わりません。
ただし、食べ物や食べ方は時代と共に変わる。
そういった話です。


▼ 時間感覚の変化
> > え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> > じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。
> > 正直、情報が有ろうが無かろうが、大昔だろうが現在だろうが、
> > 1日が24時間なのは全く変わってませんし、時間は貴重なんて事は数千年前から言われ続けてます。
> > もっと言っちゃえば、昔の方が平均寿命が短いので、今より時間が貴重です(笑)。
> > ともかく、やるべき事、したい事が多い人ほど、時間をフル活用するモノですからね。

> いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
> ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
> 私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかがやたらもったいなく感じるようになりました。

そう、そこなんですよ、私が言いたいのは。
重視されてるのは「時間」そのものではなく、時間に伴う「感覚」の方な気がするんです。
要するに、本当に「時間が貴重」と思えるほど、現代人が忙しくなったというよりは、
時間が貴重というコンセプトにより、「心理的な余裕」が奪われてるのが真相なのでは?
そして、心の余裕と交換に、我々が何を得たかというと、それは「便利さ」なのでしょうが、
ですけど便利さ自体が、心の余裕を奪ってる訳では無いと思いますし、
それを奪うのは、便利さに抱き合わされた「商業主義」の方だと思うんです。
で、その商業主義を覆い隠す為に用いられるコンセプトこそが、「時間が貴重」では無いかと。

> あまり詳しくはないのですが、最近の音楽はサビから始まるなんていうのも、
> サビが始まるまでとりあえず聞いてみようという人が減ってきたからだと思いますし、

「最近の音楽」と言いますか、その歴史は音楽界でも何度も繰り返されてる感じですね(笑)。
まあこれは音楽に限らず、顧客の数が増える「大衆化」を迎え、
ツカミやインパクト、解り易さなどを重視する「陳腐化」が起こり、
そして飽きられて沈んでいき、また時間が経って盛り上がり始めるサイクルを辿ると。
ですから、サビから始まる曲自体、カラオケ・ブームによりCDが馬鹿売れした90年代にも、
カラオケでの盛り上がりを重視して、やはり同じ様な傾向は見受けられましたし、
もっと言うと、縁遠いと高尚と思われがちなクラシック音楽の世界でさえ同様で、
実はベートーベンというのは、そうやって大衆人気を得た人なんですよね!!
「ジャジャジャジャーン」で始まる交響曲第5番「運命」など、ツカミ狙いの典型例です(笑)。

> 特に最近私が感じたのは、SNSをやっている時と、
> 本を読んでいる時で時間の流れ方(正確にはその感じ方)が全然違うということですね。
> 本読んでるときは「俺って時間セレブだよなー」みたいな感じです。
> なんというか、金がたいしてあるわけでもないのにお高い店でランチを食べているような、
> 読書にはそんなリッチさを感じるようになりました。

はい、解りますよ、その感覚は(笑)。
でもそれって、今までは普通だった事が、今では特別な事になってる訳で、
客観的に見た場合、果たして良い方向に進んでいると言えるのでしょうか?
例えば、経済発展重視で環境が軽視され、空は煙に覆われ、川は排水溝に化したとして、
そうした社会の中で、雨の晴れ間に見えた青空や、ドブの隙間に見えた魚の姿などに、
思わず感動してしまう構図と似たモノだと思うんですよね。
もちろん、そこから社会が改善されていく時も、同じように感じるのでしょうが、
環境が破壊された時と比べるか? 環境が破壊される前と比べるか?
で、その評価は、まるで異なるモノとなるはずです。
言ってしまえば、環境改善で北京市民が抱く感動を、私は別に羨ましいとは思わないと。

> > 固定電話で長話するのも、コンビニにたむろするのも、ファミレスやカラオケで徹夜するのも、
> > 時代に応じてツールが変わるだけで、今のLINEと大した違いは無いと思うんですよ。
> > 何というか、効率化を正当化する為の言い訳として、時間は貴重と言っている気がしています。
> > 「まったりしたい」とか、「あれこれ考えたくない」とか、素直にそれで良い気がするんですけどね。

> あとLINEとファミレスでたむろすることの最大の違いは、接触できる人数の規模がケタ違いに変わったことだと思いますよ。
> LINEを開けば常にどこかのグループが会話していて、という状況はスマホ以前にはありえなかったでしょうし。

う〜ん、ここで私が言ったLINEとは、リアルの延長線上での使用を念頭に置いていたのですが、
不特定多数によるSNS使用という意味で捉えられると、ちょっと意味合いが変わっちゃうかな?

でもまあ、それは措いておくとして、「接触できる人数の規模」という方面で言うと、
一昔前までは、確かにネットなんてありませんでしたけども、
それを担うプラットフォームとして、ラジオやテレビの「深夜放送」が大きな存在でした。
もちろん、視聴者間で相互になんていうのは、イベントでもない限り無理でしたけど、
番組司会者を「依り代」として視聴者同士が繋がり、そこを介して言葉を交わせる様子は、
今風に言うと、無料公開された超巨大なオンライン・サロンみたいなモノかも知れませんね。
そして、深夜放送とは言えテレビやラジオですから、繋がってる人数もネットの比ではありません。

今の時代だと想像し難いかも知れませんが、特に深夜ラジオの場合、
DJ(司会者)とリスナー(聴取者)の関係性は、教祖と信者に近いモノがありました。
あの「繋がってる」感覚は、人気YouTuberの生配信よりも、遥かに強かったでしょうね。
ネットが普及する以前、60年代後半から00年代前半にかけて、
大人たちが寝静まった時間に、メディアをジャックする深夜ラジオの興奮感と連帯感は、
特に当時の男子高校・大学生に対して、カルト的な存在であったかと思います。
陳腐な表現になるかも知れませんけど、まさに「深夜の解放区」って感じですよね。

ただ、それもネットの普及と共に、深夜のネット・サーフィンに移行したり、
(まだネット利用料が高かった時代、深夜の定額制が広まったのも大きな要因でした)
深夜ラジオでした話題がネットに転載され、炎上を繰り返し、ドンドン規制が強まった結果、
人気のある歌手・俳優・アイドルや、名の知れた中堅・ベテランの芸人など、
既に固定客を掴んでる人たちが、差し障りのない雑談をするようになった今では、
番組枠としては残っていても、往時の雰囲気はちょっと想像できないかも知れませんね。

> 有限な時間の中で、家を出てファミレスでたむろするのと、
> 同じく有限な時間の中で家で寝っ転がりながらLINEをしたり、
> それこそ無限の動画があるYouTubeを観ているのでは時間への感覚の違いというのも当然かと。
> だからこそ選択と集中で貴重な時間を一番重要なものに一点投資すると。

平成の30年間が「失われた時代」になってしまった一因として、
近年、特に言われるようになったのが、まさしく、
その誤って用いられた「選択と集中」という概念だと言われていますけどね(苦笑)。
もちろん選択と集中は1つの有効な手段でも、それには豊富な選択肢の存在が大前提であり、
単に目先の利益だけを追って選択と集中をすると、先細ってくばかりであると・・・・


[23530] 世代と世界の「共通言語」としての文化(その2&追記)返信 削除
2021/3/24 (水) 22:06:47 徳翁導誉

▼ スクールカーストについて
> > > 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、
> > って、現在のオタクの定義を用いるのであれば、リア充とだって普通に共用できる訳で、
> > 何だか、こういう時だけ、以前のオタクの定義を持ち出すのは、ちょっとズルいと言いますか、
> > 敢えて卑屈を演じる事による、下からの逆マウント取りの願望が出ちゃってる気がするんですよね。
> > 「○○たんさえ居れば、俺のリアルは充実(ハァハァ」って具合に、
> > 行っちゃってる意味での「リア充オタク」であれば、また別の話なんですけど(笑)。

> まあ後ろにwを付ける程度に冗談として、許せない(w)という感じです。
> 別に本気で許せないと思っているわけではありません。

はい、それは解ってます(笑)。
でも一方で、ネタ設定が定着してしまってガチ化したり、
ガチな状況が広まった事でネタ化したりという事も、時にはありますからね。
スクール・カーストなんていうのも、それこそ日本だと始めはネタ話だったでしょうし、
逆にアメリカだと、差別も絡んだガチな構図が、ドラマ化された事でネタ化した印象も?

> 昔のオタクはもっと濃かったみたいな話は他の場所でもまれに聞くのですが、実際どんな感じだったのでしょう?
> 私もなんとなく昔の濃いオタクにあこがれる気持ちはあるのですが、
> では濃かったと言われる昔のオタクが具体的にどのレベルなのかは全然知らないんですよね。

いや〜、私自身が実際にオタクだった訳では無いので・・・・
でもまあ、言えるとすれば、例えばアニメなんて今よりもずっと作品数が少なかったですし、
ゲームも今よりずっと高額だったので、1作1作をヤリ込む風潮は強かったですよね。
それがオタク層ともなれば、1作を更に深く掘り下げると。
だからこそ作り手側も、それに耐え得るように作り込む作品が一定数あった訳です。
今と比べれば小さな世界でしたから、極めようとすれば必然的に濃くなると。

しかし現在では、アニメ作品は量産化され、ゲーム作品も無料化や低価格化が進み、
1作1作を味わい尽くすよりは、次から次へと消化していく楽しみ方がメインとなり、
オタク的な楽しみ方も、掘り下げ型からデータベース型に移行していった気がします。
もちろん、データベース志向の楽しみ方自体は、ずっと昔から存在するのですが、
以前であれば そうした層は、オタク層というよりは「マニア層」に分類されていたかな?
そういう意味では、オタクの定義そのものが、マニアまで含む広い意味になったと同時に、
王道とされた従来のオタク的楽しみ方が、マニア的楽しみ方に主流を奪われた感じかも知れません。
言うなれば、「狭く深く」しか無かった所から、「広く浅く」へと変わっていった感じでしょうか。

ちなみに、昔のオタク・レベルの具体例となると、解りやすい所でパッと思い付いたのは、
マンガ夜話の「攻殻機動隊」の放送回(アニメ夜話の方じゃ無いですよ)でしたが、
う〜ん、20年以上前の放送だから、今だと何処かで見られるのかなぁ?
BSとは言え、NHKでそういう番組が出来てた時代が、確かにあったんですよねえ・・・・
逆に言うと、あんな地味でマニアックな放送内容なのに、
それが人気番組として10年以上続くくらい、そういう濃い視聴者も多く居た訳です。
という事で今回、記憶も曖昧になっていたので、内容の再確認がてら、
10年ぶりくらいに見返してみましたけど、やはり神回でしたね(笑)。

って、そもそも、「マンガ夜話」って番組の存在自体は御存知ですか?
1つのマンガ作品を、1時間掛けて、徹底的に語り合う生放送番組でした。
BSデジタル化に伴う、NHKのチャンネル削減の影響を受けて打ち切られたので、
最後の放送が10年くらい前でしたから、さすがにリアルタイムでの視聴は厳しいのかな?
とりあえず、番組出演者の1人であった岡田斗司夫が、
YouTubeで何本か、攻殻機動隊のマンガ解説動画をアップしているみたいなので、
それを見れば部分的にでも伝わるかも?(いや私はYouTubeの動画は見てませんけど・笑)

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

その後、YouTubeを見ていたら、何の巡り合わせか、
ここ1〜2週間で、マンガ夜話を上げまくってる人を発見!!
全144回のうち、142回分あるみたいなので、ほぼほぼ揃ってますね。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLqYyhPV7mfynIxW4-GDMFfukCNvvNc369
って、これだけ多いと、さすがに選ぶのも大変でしょうから、
個人的に面白かった回を、記憶頼りに思い付くまま、適当にラインナップ(笑)。

 1位「攻殻機動隊」 https://www.youtube.com/watch?v=fzbqxGGg0kY
 2位「肉弾時代」 https://www.youtube.com/watch?v=7QEQ2ztWjbk
 3位「ブラックジャック」 https://www.youtube.com/watch?v=fnyp5ggNPxA
 4位「燃えよペン」 https://www.youtube.com/watch?v=JwBrEpzrefw
 5位「嗚呼!!花の応援団」 https://www.youtube.com/watch?v=Sd40TNbQxcE
 6位「みどりのマキバオー」https://www.youtube.com/watch?v=fssggJrVfhg
 7位「できんボーイ」 https://www.youtube.com/watch?v=Yl4UmyDffL4
 8位「アストロ球団」 https://www.youtube.com/watch?v=NUM2UPDsbMU
 9位「あしたのジョー」 https://www.youtube.com/watch?v=D18lVcvm66w
 10位「魁!男塾」 https://www.youtube.com/watch?v=U68d6R38Nnc

こうして改めて並べてみると、2000〜2002年が番組中期で最も脂の乗ってた頃かな?
2002年4月の「3夜連続・手塚治虫」(通常は1作家1作品に限定)により、
番組として1つの到達点に至った感じが、放送を見ていた当時も少しありましたからね。
ちなみに この番組は、自分が読んでない作品の回でも充分に楽しめますし、
オタク史的に見たいのであれば、却って知らない作品の方が、変に先入観が無くて良いかも?
個人的な思い入れがあると、批評に対して「それは違う!」と感情的になりやすいので(笑)。

> > > 私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> > > そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、
> > > なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、
> > > どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。

> > これは逆に質問なのですが、実際の所、「スクール・カースト」ってどんな感じなんですか?
> > 元々、アメリカの学校には、そうした階級制度っぽい構図があって、
> > それが2011年にNHK-BSで放送された、海外ドラマ「glee」のヒットをキッカケに、
> > 日本でも広まっていった概念なので、実は10年にも満たない学校文化であり、
> > 正直言って、私には実状が、よく解らないんですよね・・・・
> > もちろん、それ以前の学校にも、漠然としたグループ分けはありましたけど、

> うーん、大学生なのであまり学校外の社会のことは知りませんし、
> 昔の学校を知っているわけでもないので、説明が非常に難しいのですが、
> やはりカーストという言葉がピッタリだと思われて、世間で使われだすくらいには階級社会という感じでした。

例えば、「階級社会」を感じさせた具体的なエピソードとかって、何かあります?

> > それに一般的な腐女子文化だと、下から逆マウントを取りたがるスタンスなので、
> > カースト上位でというのは合わず、何となくライトな印象を受けてしまいます。
> > まあ、ちょっとマニアっぽい部分をチラッと見せて、男心をくすぐるというのは、
> > 女性のモテ・テクニックとして、昔からありましたので、それだと腑に落ちますしね。

> ガチ腐女子なのかどうかは、私にはわかりません。私は腐ってもないですし、女でもないので。
> ただ男オタクから見て、こいつはなんちゃってオタクだよなと
> 見抜けるほどではなかったので、ある程度はガチなんだと思います。
> 男心をくすぐるため説というのもないと思いますよ。普通にかわいい子だったので。
> というか、容姿がよくなければカースト上位はまずは入れませんし、
> もしかしたらこの辺の容姿第一主義がスクール・カースト時代の特徴なのかな?

容姿そのものと言うか、その「見せ方」の方が重要なんじゃ無いですかねえ?
もちろん、元の素材が良いのに越した事は無いでしょうけど、
オシャレとか、カワイイとかは、「雰囲気」で結構演出できる部分なので。

また、「モテ・テクニック」と書いた事で、意味的に限定して捉えられたかも知れませんが、
相手の心を掴むテクニックというのは、やはり存在すると思いますよ(私は苦手ですが・笑)。
知らなきゃ出てこないような名称や単語を、自然に1〜2度出すだけで、
ほとんど知識なんて無くて、相手は勝手に「詳しいんだ」と誤解してくれますし、
その分野が好きな人からすれば、それだけで心を許してしまう上、
語れるほど知らないから聞き役に回るだけで、好きで語りたい人には却って好印象に映ると。
例えば、アシモフやクラークの名前くらいなら、一般人からでも出てきそうですけど、
「谷甲州」という名前や、「シュバルツシルト半径」という単語を出すだけで、
多少なりとも、SFを知ってそうなイメージになりませんか?(笑)


▼ 百合について
> > > > もっと根本的な話として、近年は少子化や共学化の流れにより急減してますけど、
> > > > 90年代までは女子校って、もっと身近で一般的な存在だったんですよ。

> > > これは全く知りませんでした。
> > > どうしても百合の歴史のほうをさかのぼると90年代ではなく戦前のエスの方に目が行きがちなので。

> > それこそ、森永製菓の社長令嬢として、聖心女子学院で育った
> > 前首相夫人である安倍昭恵さんの浮き世離れっぷりを見れば、それも少し実感できるかも?

> ああ、あの人は女子校育ちだからあんな感じなんですね。
> 私もつくづく天然な人だなぁとテレビ見て笑っていましたが、そんな背景があったんですか。

まあ当然ながら、女子校育ちだからと言って、
皆が皆、ああいう感じになるという訳では無いですけどね(笑)。
ちなみに今回の事で、ちょっと調べてみましたけど、
こうして数字で見てみると、確かに世代の認識差があってもおかしくなさそう。

 1960年 高校数3533(共学2478・男子校409・女子校646) 男女別学30%
 1975年 高校数4923(共学3743・男子校435・女子校745) 男女別学24%
 1990年 高校数5487(共学4467・男子校340・女子校680) 男女別学19%
 2005年 高校数5407(共学4835・男子校164・女子校408) 男女別学11%
 2020年 高校数4856(共学4466・男子校101・女子校289) 男女別学 8%

男女別学が2〜3割あった時代なら、別に珍しくなかったモノが、
(これは男女合わせての数字なので、女子だけなら別学率は更に高くなるはず)
今では1割を切り、しかも主に大都市圏に集中しているとなると、
世代差だけでなく地域差も加わって、その実感を抱けない人もいるのかも?
比率低下だけでなく、そもそも高校生の人数自体が、ここ20年で半減してますし。

> > > 多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、
> > > 10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
> > > やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが
> > > 現在の百合の根底にあると思います。

> > ちなみに、それを示す資料か何かはあったりするのでしょうか?
> > 難しければ、そんな願望を叶える作品の存在とか。
> > いや別に、男オタクの少女趣味とか少女化願望というのは、昔からあったりしますし、
> > それこそ昨今、キャッキャウフフを眺めていたいという願望だけでなく、
> > キャッキャウフフに混ざりたいという願望があるとは聞きますけど、
> > それがイコールで、「百合」というモノに繋がるとは必ずしも限らないと思いますし、
> > 「女の子になって女の子と恋愛したい」というのが、果たして百合なのか?というのあります。

> 百合かといわれると微妙ですね。隣接文化でしょうか。ガンダムシリーズとガンプラみたいな。
> 一応別の文化だけど、深く関係している感じです。

では、百合と女装コスプレが「隣接文化」である事を示す根拠はあるのでしょうか?
ガンダムとガンプラなら、それを示すのも容易でしょうけど、
百合と女装コスプレは、それすらちょっと難しくありませんか?
現状では、旧トルコ担当さんが、そのように感じたというだけの話な気がして、
厳しく言うと、少なくとも現時点では、私はまるで腑に落ちていません。

> > > ただ、それを聞いた上でもやはり90年代の百合と現在の百合はやはり変化していると思いますよ。
> > >  (中略)
> > > だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、
> > > キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。

> > こちらも、百合人気の違いを示すデータとかは、何かあったりするのでしょうか?
> > 上記を含め、この2点に関しては、ようやく具体的に聞けた「百合の変化」ですので、
> > 是非とも返信を期待したい所ですね。
> > いや、東方・アイマス・ラブライブ・艦これといった題材が、
> > もう古典として、今でも安定的な人気を保っているのは承知の上で、
> > それでも特に「百合人気」を測るというのは、なかなか難しい事だと思うので。

> うーん、百合人気の違いを示すデータといわれるとなかなか厳しいです。
> なんとなくの感覚しかないですが、きらら系の低年齢キャラの百合は30代以上の社会人メインな気がします。
> それに対して、高校生以上くらいになってくるとどちらかというと20代以下くらいが多い印象かな?

要するに、旧トルコ担当さんの個人的な肌感覚って事でしょうか?
pixivの話とかされていたので、作品ごとの新規投稿数と、
そこに付けられる百合タグの比率の違いとか、その辺の考察を想像してました。

ちなみに、きらら系の人気は年齢層が高めというのは、何となく私も解ります。
アニメ化基準で言うと、2007年に「ひだまりスケッチ」、2009年に「けいおん」で、
2011年に「ゆるゆり」、2013年に「きんモザ」、2014年に「ごちうさ」がですから、
きらら系のブームがあったのって、今から10年くらい前の話ですからねえ。
10年経てば、当時の大学生も社会人になってる訳で、投稿活動とかも減ってる事でしょうし、
ブームがあったからこそ、その時代を象徴し、時間の経過と共に落ちて行くなど、
そうした傾向は、もちろん「あるんだろうなぁ」とは思います。

あと、誤解の無いように言っておくと、
別に私自身は当時から、きらら系のファンだったとか、そういう事では無いですし、
そもそも百合自体、ほぼ関心がない事を、改めて言っておきます(笑)。
旧トルコ担当さんが、私の知らない「百合の変化」があると話されたので、
百合文化が萌え要素を内包した際の実例として、きらら系の話を出しただけですから。
で、結局の所、その変化というのは具体的に何だったのでしょうか?

「対象キャラの年齢層が高まった」という事であれば、それはそれとして変化なのでしょうけど、
でも一方で、百合が萌えまで含んだ際に、萌え方面に引っ張られていた状況が、
時間経過と共に落ち着いたと捉えると、それは「元に戻った」という変化なのでは?
もし仮にそうだとすれば、大本の話だった「新しい文化」とまでは呼べませんよねえ?
あと気になったのは、アイマス・艦これ・ラブライブあたりも10年戦士だと思いますが、
この10年の間に、一世を風靡するような、新しい百合題材の登場は無かったのですか?
そうなると結局、そちらの方面からも「本当に新しくなってるの?」という疑問は生まれます。

> で女装率が急激に上昇してるのがここ1、2年でしょうか?
こちらに関しても、データではなく肌感覚ですかね?
まあ別に、私はデータ至上主義者でも無いので、肌感覚も指標の1つにはしてますが、
ただ、私の肌感覚とは異なってる為、そうなるとやはり客観的なデータの登場ですよね。
前回も少し触れましたが、例えばコミケはコスプレの無秩序化を防ぐ目的で、
更衣室使用の義務化&有料化を始めた為、データが残されているのですが、
それを見ると、男性レイヤーの女装率までは解りませんけど、レイヤーの男女比が、
20年前は「男1:女4」、10年前は「男1:女3」、そして現在は「男1:女2」なのが解ります。
全体のレイヤー数は増加し、女性レイヤー数も微増なので、
つまりは、男性コスプレイヤーの絶対数が増えている訳ですね。

その一方で、近年はコスプレ・イベントの商業化が進んだ事で、
「男性レイヤーの女装コスプレ禁止」を謳うイベントが、かなり増えてるらしいんですよ。
だからと言って、女性レイヤーの男装コスプレを禁止しているイベントは無いと!!
これは、文化としてコスプレを見た場合には、非常に不健全な状態と言えますが、
コスプレする側は圧倒的に女性が多く、それをカメラで撮る側は男性が多い現実を踏まえつつ、
商業主義的な視点に立てば、「お客様が望まない商品は置かない」という姿勢になります。
まあ元々、男性の女装はネタに走りやすい傾向がありましたし、
スネ毛の処理などをしないと、非常に見苦しい印象を受けるのは確かなので、
排斥したい意見が多いのは理解できますけど、実際に排斥して良いかは別問題なんですよね。
性別・容姿・年齢・人種などで差別が横行しては、趣味の世界が窮屈になりますから。

で、結局は何を言いたいかというと、本当に女装率が増えたのかは解らないものの、
「男性レイヤー自体の増加」と、「女装コスプレに対する不寛容化」という2つの現象が、
現在起きているのは客観的な事実なので、女装率が急激に増えたと言うよりは、
単に「目に付くようになっただけ」という可能性も、有り得そうという話ですね。
それこそ、前々からある街中の広告看板とかでも、今までは気にも止めてなかったのに、
子供が産まれれば保育園の、自分が病気をすれば病院や保険の、親が歳を取れば介護や葬式の看板が、
急に目に入ってくるみたいに、周囲の変化より自身の変化で見え方は大きく変わるモノなので。

> > > VTuberが流行したのも、もちろん視聴者側の需要もありましたが、
> > > 一方でかわいい女の子になってみんなからかわいいかわいい言われたいという
> > > 供給側の需要もあったと思うんですよね(ただその大半が再生回数3桁レベルなのが現実の悲しいところですが)。

> > この場合のVTuberとは、男性が美少女アバターをまとう「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の事?
> > それとも、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberの事でしょうか?
> > まあ前者の場合、中の人が男性だからこそ、同性の心の機微に通じてるみたいな感じで、
> > 「こんな可愛い子が女の子のはずがない」的な世界観を築いてる方も、きっと居るのでしょうが、
> > しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
> > もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
> > 基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・
> > って、百合趣味少女×女装ドS少年の「まりほり」くらいなら、まだギリとしても、
> > バ美肉おじさんまで行くと、果たして百合文化の範疇で捉えて良いモノなのでしょうか?

> ボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし
> →いえ、慣れると案外気にならないらしいですよ。
> 確かねとらぼでそんなアンケート結果(美少女VTuberの声がおじさんでも応援しますかみたいなやつ)があったのですが、
> 8割くらいの人が応援できるだったと思います。

いや別に、気になる気にならないの話をしているわけでは無いので・・・・
と言いますか、気にならなくなる事くらいは私も解ってますよ(笑)。

例えば、NHKで人気のチコちゃんとかも、5歳の少女という設定ですが、
中の人がオッサン(芸人の木村祐一)である事に、いつまでも違和感が残るようでは、
あのような人気を獲得する事など出来ないと思うんですよね。
ですが、その一方で、あの声を本当に5歳の少女のモノだと信じてる人もまず居ないと。
要するに、そうしたギャップも含めて、1つのキャラクターとして認知されてる訳です。
であるのに、5歳の少女という設定部分だけを切り出して、
その人気を「日本ロリコン化の象徴」なんて意見が出たら、「ハァ?」となるのと同様、
バ美肉という現象を、百合文化に求めるのは違うんじゃないの?と言いたかった訳です。

> 最近ネットで百合と女装に関して雰囲気わかってもらえる感じの書き込み見つけたのですが、
> 今検索してみたら消えていたので、保存してたぶん勝手にアップして共有しておきます。
> https://up2.karinto.in/uploader/download/1615921411.txt パスワードは「百合」です。

残念ながら、こちらのセキュリティー設定の関係なのか、
ダウンロードが行えなかったので、可能であれば概要とか語っていただけます?


▼ 国際言語としてのロシア語と日本語
> > > 別に30年前も書店では今ロシアで話題の本が山積みなっていたり、
> > > 映画館ではインド映画が上映されていたわけではないではないですよね?

> > いや〜、恐らくはこれは、有り得ない例として挙げたのでしょうけど、
> > 逆に、ピンポイントであった事例ですね(笑)。
> > ソ連崩壊がちょうど30年前なので、それなりに専門的な書店へ行けば、
> > 共産圏側の事を知る目的などで、ロシア語の書籍は今より大量に並んでましたし、
> > (冷戦中は、英語に次ぐ国際言語がロシア語でしたから)


> > > > > 【以下、一部加筆】 > > > > >

それこそ冷戦時代、特に東側諸国で育ったエリート層の共通語はロシア語であり、
例えばドイツのメルケル首相は東ドイツ出身なので、ネイティブばりにペラペラですし、
ソ連で幼少期を過ごした金正日は、息子たちにもロシア語教育を行ったらしいです。
(ロシア語経由の北朝鮮と、英語経由の韓国では、同じ外来語でも発音が異なるのだとか)
アメリカの国務長官だったオルブライトやライスも、冷戦中に学生生活を送った為、
大学時代にソ連研究を専攻していて、ロシア語はそれなりに話せるそうです。
また、シリアを始めとした中東の独裁国が、未だにロシアとの繋がりが深いのも、
家族の中に、ソ連に留学して現地女性と結婚した人も居るからという側面がありますね。
要するに、独裁者の甥や姪などが、ロシア人とのハーフという例も珍しくないと。

日本人の政治家ですと、2002年に殺された民主党の石井紘基とかは、
ソ連への留学経験もあり、現地の日本語学生と結婚するなど、ロシア語が堪能でした。
と言いますか、若い人ですと、この刺殺事件そのものを御存知ないかな?
https://www.youtube.com/watch?v=v3o2_YidBLQ
https://www.youtube.com/watch?v=47k8XBigAs0
こうした事件が、大して究明されないまま放置されてる、日本の現状も怖いですし、
モリカケ問題なども、それ単体で見るか、一連の流れで見るかで、大きく違ってくるかも。

あと、私が子供の頃、「高齢者=戦争経験者」だった事は、以前にも触れましたが、
これは同時に「旧植民地の高齢者=日本語話者」という事でもあったんですよね。
なので、今から10年くらい前までは、韓国や台湾はもちろん、
場合によっては、東南アジアやオセアニアでも、
現地で困った場合には、高齢者を捜せば日本語が通じる状況でしたし、
公的な場面では使いませんが、それらの国々の政財界トップも日本語を話せたと。
それだけに、時を越えて伝わる植民地支配をしていた実感があったり、
海外でも日本語が通じた感覚って、今だと想像するのが少し難しいかも知れません・・・・

「Japan as No.1」などと言われた時代には、日本語を学ぶ外国人も多かったですが、
今では、1つの島国でしか通じない難解言語を、わざわざ学ぶなど物好きくらいで、
そんな物好きたちの最大勢力こそ、海外の日本アニメ・ファンなのでしょうね(笑)。
マンガは日本以外の市場が小さいですし、ゲームも日本の存在感は激減しているので。


▼ アジア系外国人の絵に関して
> > > PixivとSNSでイラストレーターの存在が大きく向上
> > > スマホ時代になってからですが、PixivやTwitterで簡単にイラストが拡散されるようになったので、
> > > イラストレーターの存在感がやたらと大きくなりました。
> > > あとやたらアジア系外国人が多いのも特徴です。言語の壁が関係ないからなんでしょう。
> > > ぶっちゃけこっちの方がコミケ有料化よりもよっぽど大きい激変ですし、
> > > 同人界隈のピラミッドが二極化していっているのも、その最先端を走っているのはこういった神絵師だと感じます。

> > 欧米では「ファンアート」と呼ばれる分野で、それこそ日本よりも歴史が古かった気が?
> > 「アジア系が多い」という印象も、恐らく日本アニメの視点から見ているからでは?

ちょっと気になったので、ここでアジア系外国人の絵に関する歴史を。
例えば台湾出身の漫画家だと、鄭問(チェン・ウェン)という方が居て、
筆を用いた大胆な絵は、台湾のみならず日本でも評価され、
1990年には日本でも、週刊モーニングで「東周英雄伝」の連載を開始し、
2001年にはPS2で、彼の武将絵を売りにしたTVゲーム「鄭問之三國誌」も発売されました。
https://www.youtube.com/watch?v=UAkn0c--Z9M

続いて韓国出身の漫画家だと、尹仁完(ユン・インワン)&梁慶一(ヤン・ギョンイル)が、
韓国誌で連載されていた劇画調の「アイランド」が、日本人編集者の目に止まり、
2001年から同時進行で、日本の月刊サンデーGXでも「新暗行御史」の連載が始まりました。
(思えば、この頃はまだ、日本で「嫌韓」が流行する前でしたね)
まあこの辺の流れは、当時の「マンガ夜話」↓を見た方が早いかも?
https://www.youtube.com/watch?v=D3oNdrgfoYQ

言うなれば20〜30年前から、商業誌でさえ、そうした動きが既にあり、
そして現在、週刊少年ジャンプで連載中の「Dr.STONE」では、
韓国出身のBoichiが作画担当を務める程になっています。
これらからも解るように、まず最初に追い付くのは「絵」なんですよね。
鄭問にせよ、梁慶一にせよ、やはり絵が評価されての日本進出でしたし、
言葉を要しない絵の方が、ストーリーや編集技術などより、互いにダイレクトに伝わると。
ですから同人でも、外国人の絵師が増えてる事自体は、当然の流れとも言えます。
ちなみに、韓国や台湾が民主化され、中国が市場経済に移行したのが、
ちょうど同じく20〜30年前ですから、世界情勢の変化とリンクした側面はありそうですし、
(日本文化開放の第1弾として、韓国で日本マンガの輸入が解禁されたのは1998年)
更にはネット時代の到来も重なった事で、見る機会も発表する機会も格段に増えました。
また、そもそも海外のファンサブ活動って、早い時期からネットを活用してましたからね。

あと、例えばフランスなどを始め、海外で日本のサブカルを紹介する
「ジャパン・エキスポ」みたいなイベントが、行われていたりするのですが、
ここに、韓国人などの作家が参加する事に、日本の一部から非難の声が上がったりします。
ですが、日本サブカルの影響を受け、日本流の文法で作られた海外製のアニメ・マンガ・ゲームも、
本流(本家)では無いかも知れませんが、傍流(分家)の日本発サブカルではあると。
つまり、ここで言うジャパンとは、日本発のサブカルの事であって、
国家としての日本とは、必ずしもイコールではないと。
これは、アメコミの文法で作られていれば、仮にカナダ人やメキシコ人の作品でも、
ほとんどの読者は、気にせず「アメコミ」として認識するのと同じ事ですよね。

海外から輸入された「Animation」が、日本化されて「アニメ」となり、
逆に海外へと輸出されて「Anime」となっているのが、現在の状況であって、
海外製の作品でさえ、Animeであればジャパンだと人々に認識させる、
その文化的な波及力こそ、本来なら「日本スゴい!」と誇って然るべき所なんですよ!!
それが変にナショナリズムを拗らせた場合、それすら理解できなくなってしまうと・・・・

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

ただ一方で、源流は日本にあっても、将来的には海外作品に市場を席巻される可能性も?
特にアニメなんて、下請けで韓国や中国に出していて、日本だけでは作れなくなってますし、
そうやって彼らも技術を身に付け、しかもデジタル技術なら習得も早いので、
戦後の製造業で日本がアメリカに行った事が、今後の文化産業で逆に起こされる事も?
そういう意味では、自身も大事ですけど、同時に危機感も必要かも知れません。
まあ家電生産などとは違い、文化生産は機械に頼れない分、人口がモノを言うので、
韓国や台湾は大丈夫かも知れませんけど、中国はちょっと侮れないかも知れません。

もちろん、現状だと質的には、日本どころか韓国や台湾よりも下でしょうけど、
多くの名作を生む土台には、それ以上に量産される駄作を受け止める市場が不可欠であり、
逆に言えば、それだけの巨大な市場と、そこへ供給する作家の数と質が上昇すれば、
名作が量産されてく条件は、必然的に揃って来るんですよね。
そうなると、どこが元々の起源か?とかは関係なくなってきます。
そもそも日本の文化も、多くは、そうして築き上げてきたのですから(笑)。
とは言え、もしも日本産よりも中国産が主流になった場合、
どちらにせよ元々が異文化なので、海外のユーザーはあまり気にならない文化の違いも、
日本人だけは、国産から外国産に変わるわけで、小さな違いを大きく感じるでしょうね。
それだけ今までの日本は、日本人に最適化された文化に慣れ続けてきたと言うか、
直輸入の海外文化が市場を席巻する、文化的な植民地の経験をしてきてませんでしたので。

ところで中国と言えば、私は一昨年、東京五輪もあるし、消費税も10%に上がるからと、
4Kテレビを購入する為に、いろいろと物色していたのですが、
その頃はまだ、中国メーカーの製品は安いけど、処理能力がイマイチで、
正直、早々に選択肢の中から脱落していたんです。
しかし先日、たまたま店舗で見掛けた所、東芝のテレビ部門を買収した中国ハイセンス社が、
レグザ・エンジンを搭載させた事で、処理能力が凄く上がってたんですよね!!
(ロシアW杯でハイセンス社の広告看板が、日本戦だけレグザ表示だったのも時代を象徴)
まあ商品寿命までは解りませんけど、あの性能で価格が半分なら、
国内はまだしも海外市場では、もう日本メーカーは勝負にならない気がします・・・・

また、性能と値段のコスパ面だけでなく、技術開発の面でも、
液晶テレビの次に来ると目される「有機ELテレビ」に関して、
有機ELパネルの製造が、韓国LG社とサムスン社のほぼ独占状態にあり、
数ある日本の家電メーカーも、韓国からの輸入に頼ってるのが現状のようで・・・・
価格競争だけでなく、技術競争まで苦戦となるとは、既に次の段階に入ってますよね。
(ちなみに有機ELは確かにキレいでしたが、まだ寿命が短く高価格だったので断念)

モバイル通信でも、以前は最前線で競えてたのが、5Gでは遅れを取ってますし、
昨今の新型コロナも、開発競争力は弱いけど、完全に輸入依存型でも無い現状が、
日本のワクチン接種を遅らせてしまっている部分も、幾らかあると思うんですよね。
下手に日本企業には力が残っているから、それを政治的に保護する方向に目が行き、
1億人の国内市場もそれなりの規模なので、何とか持ちこたえて来たものの、
グローバルな波が突然押し寄せると、世界と伍していく実力は既に乏しいと(泣)。
現時点では堅調な自動車も、今後は電気自動車がメインになるでしょうし、
もっと言うと、車自体のハード面よりも、それをどう活用するかのソフト面の方が、
これからは重要になる気がしますから、日本は更に国際市場で苦しくなるかも知れません。
先発の優位性を活かせなければ、後発の優位性に飲み込まれちゃいますから。
いや本当、ただでさえ縮小中の日本社会が、国際競争力さえ失った際、一体どうなるのか?

凄い身近な例ですけど(笑)、ウチの最寄り駅の駅前で言いますと、
ここ十数年の間(コロナ禍以前)に、パチンコ屋は5店から2店に減少し、
本屋4店・古本屋5店・TVゲーム屋3店・ゲームセンター4店は全滅。
マクドナルドも、サーティワンも、ミスタードーナツも姿を消しました。
だからと言って、駅の利用客が減ったのかというと、逆に2割増えてるんですよね!?
もちろんネット移行した需給もあるでしょうが、それらが全てを掬えてるはずも無く、
どこも商店街は大なり小なり同じ感じで、街の賑わいが消え行く姿は寂しい限りです。
ショッピング・モールにしたって、ちょっと陰りが見えつつありますからね。
しかも、ただでさえ人口減少時代に突入した上、今回のコロナ禍まで加わって、
良くなる要素どころか、悪くなる要素ばかりが目立つ現状では、この先も・・・・


▼ 追記への返信
> 2010年代くらいに書かれた本だったと思うのですが、
> その著者曰く、今の若者世代には共通の言語というものが存在しないと。
> それは漫画でもいいし、ライトノベルでもいいんだけど、
> この世代ならばみんなが何となく知っている何かという共通のものを持っていたほうがいいと思うのだけれど、
> 今の世代にはそういうものが無いと。
> で、この話って若者世代である私からすれば正しいと思うんです。
> 確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
> そしてその共通の言語みたいなものを持たなかった、作れなかったというのは、我々世代の選択だと思うんですよ。
> 決してそれは貧しいからではなく、我々はそういう方向性を自らの意思で選んでいったと。

ぶっちゃけ、そんな主体的に「世代の選択」を皆でとかしてると、本気で思われてます?
大半の人は文化を消費するのみという、これまでの話とは、まるで異なる解釈になってると思いますよ。
それに例えば現在、鬼滅の刃が異常にヒットそてますけども、その理屈で言うと、
今の子供たちが「これを私たちの共通作品にしよう」と、そんな感じで選んだと思えますか?

基本的にヒット作というのは、産むモノなのではなく、産まれるモノなんです。
マンガの話であれば、例えば「ジャンプ黄金期」と呼ばれる時代は何度か訪れましたけど、
逆説的に言うと、黄金期と黄金期に挟まれた「冬の時代」は、どうしたって出てくるんです。
それは運的な要素もありますし、時代の巡り合わせというモノもあるのですから、
別に、素直に「自分たちの世代はヒット作に恵まれなかったね」で良いじゃないですか。
そこを無理して、変な理由をあれこれ付け加える事こそ、却って拗れさせてる印象を受けますよ。

あと、そんな言うほど、本当に「誰もが知ってる作品」って無かったんですかねえ?
実際に少年マンガで考えてみると、
60年代から70年代にかけて「あしたのジョー」「巨人の星」があり、
80年代には「北斗の拳」「キン肉マン」「タッチ」があり、
90年代には「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」があり、
00年代には「ワンピース」「ナルト」「名探偵コナン」があり、
10年代には「進撃の巨人」「銀魂」「キングダム」があり、
20年代となった現在も「鬼滅の刃」「呪術廻戦」があるじゃないですか。

まあ確かに2010年代のラインナップは、他の時代に比べると少し弱い気もしますが、
でもそれは、2000年代の作品が長期連載だった事も大きいと思うんですよね。
要するに、00年代の代表作は、10年代においても代表作であったと。
人気作でも連載期間が数年だった2000年以前は、
まさしく、「これは俺たち世代の作品だ!」って独占感がありましたけど、
数世代に渡る人気作には、話が通じる幅の広い共有感がありますし、
独占感が弱くても、世代的な共通言語の役を成さない訳では無い気がします。

ただその一方で、単行本よりも週刊誌で読む方が、
リアルタイム的な連帯感は、強まっていくかも知れませんね。
(前述した深夜ラジオも、生放送ゆえに、そうした連帯感は非常に強かったですし)
また、週刊誌であればこそ、毎週毎週決まった曜日に、常に盛り上がれる話題があり、
時には校則に反して学校に持ち込み、先生に隠れて、みんなで回し読みをした経験は、
作品それ自体(共通言語)以上に、「共通体験」として強く記憶に刻まれてるはずです!!
そう考えると、その世代を代表するヒット作の有無よりも、
週刊誌から単行本、更には電子版へと移行し、マンガが個別体験となった所こそ、
「共通言語の消失」という面では、実は大きいのでは無いでしょうか?

> 同じように、現在の日本の文化環境、本屋がAmazonに置き換わり、見かけ上の選択肢は増えていても、
> 実際の選択肢の幅は減少している、という状況もまた我々が選び取ったものだと思うんですよ。
> もちろん日本経済がもっともっと豊かであれば両方を残すことはできたのかもしれません。
> しかし、現実には無限に経済的資源があるわけではない中で、
> 今の文化環境というのは経済の原則により決まったという側面はあるのでしょうが、
> 必ずしもそういう側面だけではないと。


> > > > > 【以下、一部加筆】 > > > > >

これって何か最近、似たような話を聞いた事があるなぁ・・・と思ったら、
昨今、アメリカを中心に世界各国で訴えられるようになった「メリトクラシー批判」ですね。
元々はSF的な用語なので、意味は既に御存知かも知れませんけど、
メリトクラシーを日本語に訳すと、能力主義や業績主義って意味になるのかな?
「業績(merit)」と「支配(cracy)」とを組み合わせた造語です。

ちなみに、官僚の採用や昇進を能力判定で行うシステムを、英語で「merit system」と言います。
日本では実質的に、明治になるまで導入されなかったものの、
中国や朝鮮・ベトナムには古くから科挙制度があったので、馴染み深いシステムなのですが、
実は欧米諸国だと遅くて、試験や資格で官僚を任用するのは、1800年代後半になってからの事でした。
欧州を脅かしたオスマン帝国の強さの否決として、以前より注目されてはいたんですけどね。
とは言え、やはり国家が近代化するまでは、なかなか縁故主義を手放せなかったと。
(絶対王政下の官僚制に比べれば、こちらの方が民主的だという認識も一方でありました)

で、メリトクラシー批判の内容というのが、本当に純粋な能力で差が生じてるのではなく、
グローバル化と新自由主義化により暴走を始めた、ここ十数年の資本主義が、
環境の違いで生じた差を、努力や能力の差と置き換え、格差の固定化を正当化したり、
労働賃金を安く抑え続ける為の方便として、メリトクラシーの概念を押し出すようになったと。
(考え様によっては、理論武装された縁故主義への先祖返りかも?・笑)
しかも、こうした事が10年以上も続き、今後も改善される見込みが薄いという事で、
今の若い世代が、それを当然の事として受け入れてしまい、却って下支えする状況が、
この社会問題を更に深刻化している・・・といった類の話ですね。
「皇帝権力を真に支えているのは、優秀な官僚でも、強力な軍隊でもなく、大多数の従順な農民である」
みたいな話と、かなり近いかも知れません。

例えばスクール・カーストなども、社会における再階級化の1つの現れかも知れませんけど、
カースト制を是認する事は、その制度を支えて強化する構成員となりますので、
制度を否定する人からすると、仮に最下層の人であっても、加害者として映ります。
そこまで背負った上での、「我々が選び取った」発言なのでしょうか、これは?
また、「我々」という言葉を使ってますけど、実際に確かめられた上での我々なんですか?
何だか、全ての価値基準を、自身の感情に結び付け過ぎてませんか?

> 私自身は今の、マニアックなものでも検索すればたいていたどり着ける環境というのが好きですし、
> 昔とどちらが良いかと聞かれれば、本屋が失われて選択肢の幅が狭まったのを知ってもなお
> 昔より今の環境のほうが好きです。

ふと感じたのですが、ネット検索の限界って、どれくらい感じられてます?
また、その時の対処法って、どのような手段を持たれてます?

あと、アナログしか無かった昔が昭和世代で、
デジタルのみになりつつある今が令和世代として、
アナログとデジタルが共存したのが平成世代ですからねえ。
「昭和か? 令和か?」という2択であれば、そりゃ私も今を選びますよ(笑)。
とは言え、これって別に、無理して2択にするような話ではないでしょうし、
かと言って、アナログもデジタルも全て残せという極端な話をしている訳でもなく、
ただ単に「温故知新」の精神で、古いモノも、新しいモノも、
良いモノを残していけば良いというだけの話なんだと思うんですよ、本来なら。
そこが、良さよりも「経済性」や「効率性」が最優先されているのが現状であると。
もちろん「コスパ(費用対効果)」も重要ですけど、価値基準ってそれだけじゃ無いですからね。
逆に言うと、現在はコスパ至上主義に陥ってる感があります・・・・

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

それと「検索する」にしても、事前に取っ掛かりが無いと「調べる」事さえ行えないですよねえ?
また、前回も少し触れましたけど、調べる前から、それっぽい答えを与えられると、
ググらない若者のように、わざわざ調べようともしないですし、
いざ調べようと思っても、本格的に調べるコツが解らない・・・・
サジェストされる候補ワードの中から選び、出てきた1ページから探すだけでは、
まともに深い情報なんて出てきませんし、それで満足できちゃう程度だとも言えます。

そういう意味では、検索エンジンの特性を知る事だったり、
本当に欲しい情報に辿り着く為に必要な事前の用語知識だったり、
余分な情報を排除する為のワード・センスだったり必要となりますけど、
それらを駆使しても尚、ネット上にある情報だけでは限界に達するんですよね。
どんなに検索した所で、デジタル化され、公開されてる情報には限りがありますから。
そうした場合、やはり残されるのは、アナログ的な情報取得になります。
もちろん、アナログ情報だけあれば充分な訳ではなく、
アナログにはアナログの、デジタルにはデジタルの、それぞれ長所と短所があり、
それを上手く組み合わせていくのが理想的な姿なのですが、
最近は、アナログが姿を消し、デジタル化一辺倒になりつつあると・・・・

そして、これは「ノイズ」の話にも繋がるのですが、
デジタル情報だと、ほぼ自分が欲しい情報しか入って来ないようになる為、
アナログ情報みたいに、別に求めてなかった情報まで入ってくる機会が少なくなります。
そうなると、どうしたって視野は狭くなりますし、調べる取っ掛かりすら得難くなります。
最も解りやすいのはニュース情報とかでしょうか?
テレビや新聞なら、知ろうとも思わなかった情報が、思わず手に入ったりしますが、
ネットだと知りたい情報ばかりとなり、自ら新たに知ろうというのも実際は難しい。

言うなれば、食事における「配膳方式」と「バイキング方式」の違いみたいなモノですよね。
配膳方式だと、苦手な料理も出てくる一方で、新しい出会いもあり、そして何よりバランスが良く、
バイキング方式だと、上手く使えば理想的なものの、実際は好きなモノばかりでバランスを欠きがち。
なので学校給食などでは、バイキング方式よりも配膳方式の方が適しているでしょうし、
もしも小中学校でバイキング方式を採用する場合は、事前の「食育」が必須かと思われます。
そういう意味では、ネット使用の食育にあたる「情報リテラシー」教育も重要だと感じますが、
現実問題として、それが充分満足に行われているとは、とても思えず・・・・
ネットは、あくまでも「道具」なので、使い方を覚えれば非常に便利ですけど、
逆に、その道具に振り回されてしまうような現状というのは、あまり望ましい状態とは思えません。

> そして多分、これは他の大多数の人も同じなのではないでしょうか?
> それは私みたいなマニアとは真逆の、流行を追いかけている層の人もまた、
> 今のほうが流行の質が高くなって面白いと。


> > > > > 【以下追記】 > > > > >

以前にも言いましたけど、確かに絵のレベルは非常に高くなってます。
そして、これはPC使用によるデジタル化が途轍もなく大きいですよね!!
一昔前までは、マンガをPCのみで描くなど、想像もできませんでしたし、
アニメもデジタル化直後は、いろいろ否定的に言われましたが、
(いや本当、1997年のリメイク版「Dr.スランプ」など酷評の嵐でした・苦笑)
今回の「鬼滅の刃」ブームが、普段アニメを見ない大人たちに衝撃を与えたのも、
記憶にある手書きセル画時代とは様変わりした、映像レベルの高さでした。
それこそ、この前の「呪術廻戦」18〜20話の出来なんて、私も少し驚きましたもん(笑)。

ですが一方で、昨今の作品のストーリーに関してはどうでしょう?
量産される1クールアニメでは、まともにストーリーも描くのは困難ですし、
オリジナル作品が減り、原作改編も無いとなると、それは尚更となります。
しかも萌え4コマ原作が隆盛を極めて以降、ストーリー軽視の流れが生まれており、
ストーリー至上主義では無いですけど、やはりそれ一辺倒になるのは・・・・
何だかんだで、こうした創作物にとって最大の武器はストーリーだと思いますし、
その辺りの質が落ちている感は、やはり否めないと思うんですよね。
まあ経済的に言えば、その場その場で消費され続けるのでも良いかも知れませんが、
それでは、記憶にも、後世にも、残らない作品ばかりになると。

一消費者目線で語るなら、そこに大した問題は感じないかも知れませんけど、
そうした傾向が続き、持続してしまうようだと、やはり文化の停滞では無いでしょうか?
文化史的にも、よくある事なのですが、当時の人たちは満足してても、
他の時代と見比べた時に、「面白味に欠ける時代」と切り捨てられる事は多いんです。
日本の江戸時代だと、250年の中でも特に元禄文化と化政文化が注目されたり、
西欧文化史は、ローマ帝国からルネサンスまでの間、1000年くらいを空白扱いされたりと。
もちろん、欧州に1000年間も文化が無かったはずが無いのですが、
後世から見た時に、確かに目を見張るようなモノが少ないのは事実なんですよね。
そして、当時を生きた大部分の人たちにとっては、
他と比べる情報を持ち合わせない以上、それは感じられない事であった訳です・・・・
まあ宗教社会において、信者たちを「無知の幸福」状態に置く事は、利益がありますし。

> ただそれは管理人さんの好みではないわけですよね。
> ですがそれは結局のところ管理人さんの好みに合わないというだけであって、
> 必ずしも日本の文化環境が悪くなっているというわけではないのではないでしょうか?
> そういう風に考えたほうが、今のトランプフィーバーも、世代内の共通言語が失われたという状況とも、
> 整合性が取れると思うんですよ。


> > > > > 【以下追記】 > > > > >

まさに、トランプ現象やサンダース現象などは端的な例ですけど、
2極化と言われると、「ふたこぶラクダ」みたいな連想をする人も多いかも知れませんが、
しかし実際は、そこまで極端に分かれる事はほぼ無く、基本的には「ひとこぶラクダ」です。
では2極化で何が変わるのかとなると、こぶの高さや傾きが変わって来るんですよね。
「富士山型」から「台地型」に変わると言えば、イメージしやすいでしょうか?
要するに、中央部が格段に分厚く、両端部がかなり薄かった山が、
次第に中央が低く、両端が高くなる事で、なだらかな丘のようになって行くと。
「なだらか」と言うと、何だか平等になって良い感じがしますけど、
でもこれは分布図なので、中央に集中するほど平等であり、均等になるほど不平等なんですよね。
ちなみに、中央部が平均値よりも低くなる盆地化が進むと、
それこそ、ふたこぶラクダ型になって行く訳ですが、まあそうなるのは稀です。

そして、これは選挙みたいな実例が、最も解りやすいんですけど、
中央部が分厚い場合は、中央に近いほど多数意見を獲得しやすいので、
右派の候補は左へ、左派の候補は右へと寄っていき、左右の差が小さくなって行きます。
ですが2極化が進み、なだらかな丘状の分布になっていくと、
まずは右派内と左派内で候補を絞る段階で、今までよりも両端に寄った方が勝ちやすくなります。
中央部に複数の候補がいる時などは特に明確で、薄くなった中央で票の取り合いがされてる隙に、
厚くなった両端の票を抑えていく方が、内部での勝利に近くなります。
そうする内に、中央の低下と両端の増加が更に進むと、中央で争う人たちが減り、
両端で争う人たちが増えて、その中で目立つ為に過激化して更に極端な方向へ進んでいき、
そうやって、増加する極端な少数派の声ばかりが大きくなり、
その反動で、減少する平均的な多数派の声は静まり返ると・・・・
で、それを押し進める装置こそが、インターネットなんですよね(泣)。

2極化が叫ばれる現在においても、そして2極化が更に進んだ未来像においても、
恐らく実際は、平均的な主張の穏健派が多数派なんだと思うんですよ。
しかし、声の大きな少数派「ノイジー・マイノリティー」の数も、今後は更に増えるでしょうし、
それはネット社会とも相俟って、今以上に大きな影響力を及ぼす事になるでしょうね。
昔であれば、「馬鹿は黙ってろ」と一喝し、それでも収まらなければ殴れば良かったのですが、
文明的になった今の時代、常識的な多数派は、そこまでは出来ませんからねえ(苦笑)。
逆に言うと、今の時代に恥ずかしげも無く、それを行えてしまうのは、うるさい少数派の方だと。
そして、左右両極のバランスが崩れた時に、社会全体が一気に右や左に引っ張られてしまう。
それこそが現在の状態であり、将来的にはその傾向が更に強まることが予測されます。

酷い酷いと言われたレーガン政権も、ブッシュJr.政権に比べればマシでした。
酷い酷いと言われたブッシュJr.政権も、トランプ政権に比べればマシでした。
そして、酷い酷いと言われいた昨今のトランプ政権も、
今後登場するであろう、更に右傾化した政権よりは、きっとマシなんでしょうね。
何もこれは右派に限った事ではなく、左派だって全く同じ事なんですけど、
ただ右派の方が、何かと言動が単純明快なので解りやすい上に、
左派優勢だった冷戦期の反動から、現在は右派優勢だという時代の流れもあります。

まあ、社会に余裕が無くなると、とにかく自分の生活を守る為、全体的に右へと傾き、
そして多くの人たちの生活が壊されると、今度は一転して左へと傾き、
成長しながらパイを分け合うまでは左的で、成長しきってパイを奪い合うと右的になるという、
人間社会の歴史的なサイクルも見受けられるでしょうか?
ちなみに、右から左へと急旋回させる為の現象こそが、戦争であり、革命であると。
とは言え、一発で大転換せず、右へ左へと大きく揺れ動くパターンもありますし、
そもそも、思想的な全体主義は右であり、経済的な全体主義は左だったするので、
何を以て右や左と捉えるか次第で、この見え方も大きく違ってくるかとは思いますけど、
難しく考えずに言えば、「自分優先か? みんな仲良くか?」のバランスの変動ですよね(笑)。

自分に余裕がある時は他人にも優しくできて、自分に余裕がない時は他人の事など二の次で、
それでも自分が困った時には他人に助けてもらえると有り難く、
常に助け合えれば理想なのだけど、やはり現実的にはなかなか難しいと。
伝統的価値観がどうとか、社会的公正さがこうとか、一方的に正義を振りかざすよりも、
理想と現実の間で、みんなの満足平均点をどれだけ上げられるか?だと思うんです。
で、専門的な話になると、最大幸福社会を目指すか? 最小不幸社会を目指すか?となるのですが、
これにしても、どちらが一方が正解とかではなく、やはりバランスなんだと思います。

受験勉強にしたって、得意科目を伸ばすか? 苦手科目を克服するか?の二者択一ではなく、
安直に正解を求めないで、どっちも目指せば良いんですよ(笑)。
もちろん、それは時間を要する方法ですし、努力も工夫も必要でしょう。
一方で、受験生には入試、政治家には選挙、人生には寿命という期限があり、
その中での効率性を考えると、短期的な最適解と、長期的な最適解は、おのずと異なってきます。
ですけど、人類社会の歴史というのは、それよりずっと長くて時間もある訳ですし、
そういう意味での全体的価値観で、個人的利害とバランスを取りながら、
社会を営んでいけるシステム作りこそ、最も重要だと思うんですよね。
我々は人間である以上、個々の崇高な理性に頼る理想論では、上手く行きっこ無いので(苦笑)。

> 他はそうだけど、他はLINEで24時間仲間内とつながるのが流行だけど、文化だけはみんな多様性を欲しているんだ。
> 文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいるんだ、というのはどうしても説得力がないと思うんですよ。

何だか ようやく、話が噛み合わない理由が解ってきたんですけど、
社会的な「文化」という大きな枠組みの話題を扱っているのに、
個人的な「好み」という小さな主観で、そもそも話をしてるはずが無いじゃないですか!?(苦笑)
もっと言うと、御自身の個人的な好みという視点から、文化というモノを語っちゃってません?
それだと結局、自分の見方でしか他者を判断できないので、本当の意味で他者を理解できませんよ。
自分には自分の見方があるのと同様、他者には他者なりの見方があるのであり、
その全体像を捉えようとすれば、必然的に、高所から俯瞰的な見方をする必要が出てきます。
もちろん、最終的には誰もが主観的に解釈を行うのですが、
それこそ、主観の範囲外にあった他者の雑音を、キチンと情報として理解できる事で、
その客観性というのは、格段に精度を上げていく事が可能なんですよね。

「文化だけはみんな多様性を欲している」とか、
「文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいる」なんて、
そんな風に言ってると勘違いしちゃうのは、主観でしか見えてないからだと思うんですよね。
個々人のレベルで言えば、「自分の好みだけあれば満足」なんていうのは、当然の話なんです。
ですけど、人の好みはそれぞれ異なる以上、個々人の好みを満たす為には、
社会的な多様性が必要であり、社会的な選択の幅が必要なんです。

解りやすく、食べ物の話で喩えるとすれば、
ラーメンでも、カレーでも、寿司でも、ハンバーガーでも、ピザでも、焼き肉でも、
それぞれ好きなモノがあれば、それを自由に食べれば良いんです。
別に、それら全てを食べる必要はなく、ラーメンばかりとか、カレーばかりでも構いません。
また、自分は寿司は嫌いだとか、そういうのがあっても全然問題ないんです。
ですが、「自分はラーメンだけあれば満足」と、それ以外を全て無くしてしまっては、
その人自身は困らなくても、カレー好きな人が困ってしまいますし、
逆に、カレー以外を全て無くされた場合には、今度はラーメン好きが困ってしまうんです。
それは、ラーメンが好きだとか、寿司が嫌いだとか、そういった次元の話では無いんですよ。
ラーメンしかない世界にして、「ラーメンだけでも醤油・味噌・塩・豚骨と好きに選べる」とか、
ラーメン以外を知らずに、「みんなラーメンを美味しいと言ってる」とかなっても、
それは決して、カレーや、寿司や、ハンバーガーや、ピザや、焼き肉の代替になる事を意味しません。
みんなで一緒にラーメン屋に行く事と、みんなで一緒に行けるのがラーメン屋しかない事は違います。
いや、私もラーメンは好きですけどね(笑)。
でも、ラーメンしか選べないのは、御免被りたいです。


[23536] 日本の文化環境についての現状認識返信 削除
2021/3/30 (火) 07:04:27 旧トルコ担当

色入り返信したいことはあるのですが、ひとまず主論の方で気になった部分だけ先に返信します。
全体的な返信は5日くらい待ってください。


> > ただそれは管理人さんの好みではないわけですよね。
> > ですがそれは結局のところ管理人さんの好みに合わないというだけであって、
> > 必ずしも日本の文化環境が悪くなっているというわけではないのではないでしょうか?
> > そういう風に考えたほうが、今のトランプフィーバーも、世代内の共通言語が失われたという状況とも、
> > 整合性が取れると思うんですよ。
> > 他はそうだけど、他はLINEで24時間仲間内とつながるのが流行だけど、文化だけはみんな多様性を欲しているんだ。
> > 文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいるんだ、というのはどうしても説得力がないと思うんですよ。


> 何だか ようやく、話が噛み合わない理由が解ってきたんですけど、
> 社会的な「文化」という大きな枠組みの話題を扱っているのに、
> 個人的な「好み」という小さな主観で、そもそも話をしてるはずが無いじゃないですか!?(苦笑)
> もっと言うと、御自身の個人的な好みという視点から、文化というモノを語っちゃってません?
> それだと結局、自分の見方でしか他者を判断できないので、本当の意味で他者を理解できませんよ。
> 自分には自分の見方があるのと同様、他者には他者なりの見方があるのであり、
> その全体像を捉えようとすれば、必然的に、高所から俯瞰的な見方をする必要が出てきます。
> もちろん、最終的には誰もが主観的に解釈を行うのですが、
> それこそ、主観の範囲外にあった他者の雑音を、キチンと情報として理解できる事で、
> その客観性というのは、格段に精度を上げていく事が可能なんですよね。
>
> 「文化だけはみんな多様性を欲している」とか、
> 「文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいる」なんて、
> そんな風に言ってると勘違いしちゃうのは、主観でしか見えてないからだと思うんですよね。
> 個々人のレベルで言えば、「自分の好みだけあれば満足」なんていうのは、当然の話なんです。
> ですけど、人の好みはそれぞれ異なる以上、個々人の好みを満たす為には、
> 社会的な多様性が必要であり、社会的な選択の幅が必要なんです。
>
> 解りやすく、食べ物の話で喩えるとすれば、
> ラーメンでも、カレーでも、寿司でも、ハンバーガーでも、ピザでも、焼き肉でも、
> それぞれ好きなモノがあれば、それを自由に食べれば良いんです。
> 別に、それら全てを食べる必要はなく、ラーメンばかりとか、カレーばかりでも構いません。
> また、自分は寿司は嫌いだとか、そういうのがあっても全然問題ないんです。
> ですが、「自分はラーメンだけあれば満足」と、それ以外を全て無くしてしまっては、
> その人自身は困らなくても、カレー好きな人が困ってしまいますし、
> 逆に、カレー以外を全て無くされた場合には、今度はラーメン好きが困ってしまうんです。
> それは、ラーメンが好きだとか、寿司が嫌いだとか、そういった次元の話では無いんですよ。
> ラーメンしかない世界にして、「ラーメンだけでも醤油・味噌・塩・豚骨と好きに選べる」とか、
> ラーメン以外を知らずに、「みんなラーメンを美味しいと言ってる」とかなっても、
> それは決して、カレーや、寿司や、ハンバーガーや、ピザや、焼き肉の代替になる事を意味しません。
> みんなで一緒にラーメン屋に行く事と、みんなで一緒に行けるのがラーメン屋しかない事は違います。
> いや、私もラーメンは好きですけどね(笑)。
> でも、ラーメンしか選べないのは、御免被りたいです。


ええと、管理人さんの認識では、現在の日本から文化の多様性が失われているということなのでしょうか?
選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
しかし選択肢が膨大に増えすぎた結果、お互いが何をしているかが見えにくくなっていき、自分の好きなもの以外が見えにくくなった。
そういう話ではなかったのでしょうか?

> いえ、その逆ですね。
> 確かに当時は「知る人ぞ知る」という、その世界だけの話で、
> 関係ない部外者にとっては、世界の中は伺い知るのが困難な時代だったでしょうけど、
> 心理的な面と、地理的な面の壁さえ越えれば、誰でもアクセスが可能な世界でした。
> 要するに、キモいという心理の壁と、東京など大都市のみという地理の壁であり、
> そこは勇気とカネさえあれば、解決できる課題でしたので。
>
> 例えば秋葉原は昭和末期、あの街1つで、全国の家電売上の1割を担っていて、
> とにかく秋葉原に行けば何でも有るし、そこに無ければ何処にも無いという状態でした。
> そして「家電なら秋葉原」みたいに、代名詞的にイメージが定着してしまえば、
> 放っておいても人は集まってきますし、そうなれば店だって更に集まってきて、
> 店が増えれば価格競争が起きて商品安くなり、そこで更に買い物客が集まって、
> 買い物客が増えれば、マニアックな需要に応えても採算が取れるようになり、
> それこそ「何でも有る」街として、好循環で発展していった感じですね。
> で、そんな秋葉原の街へは、電車さえ乗れば、誰にだって行けた訳です(笑)。
> マニアックな店とかも、別に情報とか無くても、足さえ使えば見つけられましたし、
> コミケにしても、「マーケット(市場)」を謳っているくらい、
> 最初からオープンなイベントであり、そうして既に半世紀近い歴史がある訳です。
>
> う〜ん、この辺の感覚は、「本屋」とかで喩えれば伝わりやすいですかねえ?
> 本屋というのは、その存在自体は当然知っていても、
> 興味ない人には縁遠く、どんな本が置かれているかも計り知れないでしょうし、
> 街の小さな本屋とかは、初めてだと確かに立ち入りにくい雰囲気がありました。
> でも、一旦勇気を持って中に入り、お金さえ持っていれば、誰でも好きな本が買えるんです。
> そして神保町の書店街まで足を伸ばせば、マニアックな本さえ探す事が出来たと。
> 別にそこには、「高度な情報網」みたいなモノは特に必要ありません。
> ただ、交通費と時間を使って、わざわざそこまで足を運ぶ手間が必要という意味では、
> やる気が無いと越えられない障壁があり、それに囲われた世界観や空気感はありましたし、
> インターネットにしても、1時間繋いで500円とか1000円かかった2000年頃までは、
> 誰でも利用できるけど、本気で利用したい人しか居ない、濃密な空間であった訳ですね。
> ちなみに私が、読む時間と、書く時間と、投稿する時間を分けているのも、
> 通信料を抑える為の、当時のネットの使い方の名残だったりします(笑)。
>
> と、本屋の例から離れてしまいましたので、話を元に戻すと、
> まずは90年代、急速に全国拡大を始めたコンビニに、売れ筋の雑誌や漫画が置かれるようになり、
> 続いて2000年の大店法改正により、あちこちで広大な売り場面積を持つ大型書店が現れ出し、
> それに少し遅れて、ネットの普及に伴うAmazonの登場と、Kindleなどの電子書籍の発売がありました。
> 言ってしまうと、過渡期の00年代というのは、本好きにとって夢のような時代だった訳ですね。
> 昔ながらの街の本屋や、神保町の書店街は、まだ生き残っている状態で、
> よく読む雑誌や漫画とかは、24時間どこでも買えるコンビニに置いてあり、
> 大型書店に行けば、無数の本に囲まれるテーマパークのような空間が広がり、
> Amazonでネット注文すれば、手間を掛けずにマニアックな本さえ買えたのですから。
> でもそれは一時の夢物語であり、平成の30年あまりの間に、
> 本屋の数は3万店から1万店へと激減し、コンビニに置かれた雑誌や漫画もめっきり減り、
> 多くの大型書店は縮小や閉店を余儀なくされ、残されたのはネット空間のAmazonだけな現状に・・・・
>
> もちろん、Amazonを始めとしたネット通販は、非常に便利なのは確かなんですよ。
> 転勤族として都会でも地方でも育った私からすると、昔の地方の不便さというは覚えていますし、
> ネット通販とショッピング・モールの登場が、地方の生活を劇的に変化させた事も解るんです。
> この地理的格差の解消というのは、不便さの実体験が無い都会人には解らないほど大きい!!
> ただ一方で、街中から本屋が姿を消した現実も、目に見えて感じてますし、
> 今では駅前の商業施設やショッピング・モール以外に、ほとんど本屋が残されていない現実を、
> 今回のコロナ禍による大型店舗の一斉休業によって、如実なまでに実感しました!!
> 池上彰が以前テレビで、本屋の事を「知識のドンキ」と表現した時、
> 「まさにその通りだ!」と相槌を打ったのですが、
> 専門書からゴシップ誌まで、様々な知識が所狭しとジャングル陳列されてる「リアル書店」は、
> Amazonみたいな「ヴァーチャル書店」には無い、異なる本同士の空間的な繋がりがあるんですよね。
> AIによるオススメ書籍は、ビジネス的には一理あっても、知識の広がりには貢献しませんし。


https://ux.getuploader.com/dialogues_txt/download/436
あと、アップロードミスをしてた参考資料の方を再アップしました。パスワードは「yuri」です。
普通のtxtファイルなので、PCからであればダウンロードできるはずです。
ネット上の書き込みなのですが、見てみたところ元記事が投稿者により削除されていましたので、こういった形にしてあります。


[23537] Re:日本の文化環境についての現状認識返信 削除
2021/3/31 (水) 19:23:39 徳翁導誉

> 色入り返信したいことはあるのですが、ひとまず主論の方で気になった部分だけ先に返信します。
> 全体的な返信は5日くらい待ってください。

了解です。
と言いますか、別に急がなくても大丈夫ですよ。
所詮は雑談なので(笑)。


> ええと、管理人さんの認識では、現在の日本から文化の多様性が失われているということなのでしょうか?
う〜ん、あまり話を単純化すると正確性を損なうので、出来れば避けたかったのですが、
伝わらなければ意味が無い為、多少の誤解は恐れず、もうザックリと言っちゃいますね(笑)。

「日本から文化の多様性が失われていくか?」という問いに関しては、
日本もそうですけど、恐らくは世界的に、そうなる可能性が高いかと思います。
理由は主に、以下の3点。

1.グローバル化と新自由主義経済による画一化
  世界中どこに行っても、マクドナルドがあり、スターバックスがある。
  そしてショッピングモールに行けば、名の知れたチェーン店ばかり。
  それなりの値段で、それなりの商品を買えるのは、確かに便利なのは事実です。
  ですが、こうした画一化は、多様性を損なう一面も持ち合わせていますよねえ?
  また、データ重視の無難な商品開発も、似たモノばかりを生み出します。

2.少子化&人口減少と中間層の喪失
  この点に関しては、既にある程度、同意を得ていると思うのですが、
  やはり文化を育むには、その土壌となる絶対的な人の数が不可欠となってくる以上、
  人口の減少は大きいですし、推進役を担う若者層の急減は特に痛手となります・・・・
  (20歳人口で見ると、25年前は200万人、現在は120万人、25年後は80万人)
  しかも中間層の喪失により、個々人から余裕が失われていくとなれば、
  1人あたりが育む文化の絶対量も、減少していくのは明らかですよね?

3.社会のデジタル化と非寛容化
  デジタル技術そのものには、広く繋がっていく機能が備わっており、
  ネットの普及は、異なる他者間の相互理解を深めると思われてましたが、
  現実を見ると、逆にヘイト的な言論は強まり、幾つかの塊を生んだ感じです。
  得られる情報にせよ、生み出される作品にせよ、その数自体は増えても、
  それは塊の中での話で、中身は似たり寄ったりばかりになってないでしょうか?

> 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

例えば、書籍の出版点数(売り上げ冊数では無いですよ)で見てみると、
90年代までは右肩上がりで来た所が、00年代で停滞し、10年代からは落ち出しました。
(誤差はあるものの、他の分野も大体、同じ様な年代傾向があると感じています)
要するに、新刊の数は年々減っている訳で、その点では選択肢が少なくなってます。
また、停滞し始めると、作りたい本より、売れる本を作る割合が増していき、
下落し出すと、その勢いは尚更加速していった為、実質的な選択肢は更に狭まりました。
そして売れ方も、売れる本と売れない本の差が極端になって行ったんですよね。
こうした消費者の志向は、マンガ単行本の売れ行きや、週刊誌の苦戦を見ても解るかと?

また、全体的なイメージで言うと、以前にも言いましたが、こんな印象↓
> > > > 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> > > > ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。

この場合も、仮に数自体は増えていたとしても、幅の方は狭まったと言えるでしょう。
以前、旧トルコ担当さんも、
「無限にグローバルか、無限にローカルかしかなく、中間がない」
と、おっしゃってましたよねえ。
この文章を、上記の引用と同じ様な内容として捉えていたのですが、
それは勘違いだったのでしょうか?

「無限にグローバル or 無限にローカル」というのは、ニュアンス的には何となく解るんですよ。
数学的に言うと、無限よりも「極限」と言う方が適当でしょうけど、
まあともかく、そこを高校数学で表すとすれば、
lim(n→+∞)で収束するのが、グローバル化の産物であり、
lim(n→-∞)で収束するのが、ローカル化の産物というイメージなのであろうと。
そして、ここで言うローカルとは、何も物理的な地域などのコミュニティーに限らず、
趣向など精神的に繋がるアソシエーションも含めた、局所的ネットワークの事を指していて、
逆にグローバルとは、市場原理に基づく資本主義で繋がった、
普遍的な、超巨大ネットワークの事を指しているんだろうなと。
私も詳しくは知りませんけど、これは柄谷行人が唱える「交換様式」説に近い話なのかな?
(日本人なのに、台湾の若きIT大臣オードリー・タンの著書から、この説を知りました・苦笑)

「世界史の構造」
https://www.amazon.co.jp/dp/4006003234

って、まあ小難しい話は別としても、現在の世界の状況を見る限り、
グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?
ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され、
新たに生まれたネット上のローカルも、デジタル化の一般普及が襲い掛かられ、
2極化という現象は、グローバルの中での「持てる者と持たざる者」として現れている。
そして戦後の日本は、1億総中流と言われたように、失われた中間こそが最大の武器だったと。

> しかし選択肢が膨大に増えすぎた結果、お互いが何をしているかが見えにくくなっていき、
> 自分の好きなもの以外が見えにくくなった。
> そういう話ではなかったのでしょうか?

膨大に増加したのは、選択肢と言うよりもデータ量かな?
で、その膨大に増えたデータが、実際に選択肢たり得るかとなると・・・・
例えば本は減りましたけど、それ以上にネットの文章は格段に増えました。
とは言え、本の情報に負けない文章が、ネット上に実際どれだけあるでしょうか?
テレビや新聞が扱わないニュースも、ネットなら大量にあります。
でも、マスメディアに負けない報道内容が、実際どれだけあるでしょうか?

もちろん、ネット上にだって有益な情報はたくさんあります。
しかし、一握りの玉があるからと言って、石コロばかりの玉石混淆を、
単純に「選択肢が膨大に増えた」とは、ちょっと言えないのが本音ですね。
食べ物の例え話をしたのも、一言に選択肢が増えたと言っても、
「ラーメンのスープやトッピングの種類が増えた」という程の話に思えたからです。

あと、「お互いが何をしているか見えにくい」とか、
「自分の好きなもの以外が見えにくい」というのは、確かにあると思います。
でもそれって、何も最近始まった話ではなく、昔からそうなんですよね(笑)。
それこそ一昔前までは、情報量は限られ、物理的にも制限があり、
「相手の事が解らない」「自分の事しか解らない」のは、当然過ぎるほど当然の事でした。
しかし90年代後半、冷戦終結に伴うグローバル化や、ネットの普及、格安航空の台頭など、
今まで縛られてきた制限が取り払われ、一気に世界が広がる未来が訪れたと思われたんです!!
ですけど、その後の10年間くらいを見ると、そんな未来像は夢破れたんでしょうね・・・・

そういう意味では、00年代の後半くらいから、先祖返りと言いますか、元に戻ったとも言え、
「お互いが何をしているか見えにくい」「自分の好きなもの以外が見えにくい」という現象も、
ここ十数年くらいで見れば新たな傾向でも、もっと前から見れば変わらぬ傾向なんでしょうね。
ただ違うのは、昔は「やろう」と思っても無理だった状況から、
今では可能だけど「やらない」事を選んだという感じでしょうか?
せっかく民主化しても、新たに得た自由を持て余し、再び独裁を望む構図に近いのかな?
そういう意味では、選択肢自体が増えた側面も確かにあるのですが、
それを選択肢として使えてる人など、現状では極一部に限られてると思いますし、
選択肢が急増したから、そうした現象が生まれたというのは、ちょっと違うかな?と思ってます。

> > > 最近ネットで百合と女装に関して雰囲気わかってもらえる感じの書き込み見つけたのですが、
> > > 今検索してみたら消えていたので、保存してたぶん勝手にアップして共有しておきます。

> > 残念ながら、こちらのセキュリティー設定の関係なのか、
> > ダウンロードが行えなかったので、可能であれば概要とか語っていただけます?

> https://ux.getuploader.com/dialogues_txt/download/436
> あと、アップロードミスをしてた参考資料の方を再アップしました。パスワードは「yuri」です。
> 普通のtxtファイルなので、PCからであればダウンロードできるはずです。
> ネット上の書き込みなのですが、見てみたところ元記事が投稿者により削除されていましたので、
> こういった形にしてあります。

はい、そうした事情なのは私も承知してますし、
前回に関しても、別にアップロードをミスってた訳じゃ無いと思うんですよ。
ただ最近は、セキュリティー対策が強く訴えられるようになった為、
ブラウザや設定の違いなどで、結構弾かれてしまうサイトが増えたって事ですね。
ダウンロードが伴う時などは、特に・・・・
なので、ぶっちゃけて言うと、こういう場合はメールが最も無難かも?(笑)

で、読ませて頂いたのですが・・・お手数をおかけしたのに申し訳ないですけど、
バ美肉おじさんに対して、アイドル業界で言う所の「ガチ恋勢」が居たという話が、
「百合と女装」というのに、どれだけ関係あるのでしょうか?
また、以前にも、中の人が男性のVR風俗や、オンライン・エロゲーの話↓をしてるのですから、
> > > > ただ個人的には、10年前の3DCGオンライン・エロゲー「らぶデス555」の衝撃が強かった為、
> > > > http://asitagamienai.blog118.fc2.com/blog-entry-810.html
> > > > バ美肉おじさんみたいな存在を聞いても、「そうなんだ」くらいの感じがしちゃいます。
> > > > VR風俗でも、中の人が男性だったり、アバターが非人間キャラだったもあるそうですし。
> > > > https://www.youtube.com/watch?v=DYjeynmbR4c

バ美肉においても、そうしたガチ恋勢が一定数いる事は、既に理解してますよ。
しかも今回の紹介例のように、相互的なVRチャットでの交流ともなれば、尚更の事。

と言いますか、最近はハーレム系のアニメや漫画にも、
ヒロイン群の中に「男の娘」キャラがいるのも、決して珍しくは無いですし、
その辺の感覚は何となく、伝わるモノがあるのでは無いでしょうか?(笑)
そもそもアニメ自体、声優がセル画上のキャラに「バーチャル受肉」してる世界な訳で、
中の人はオバサンだけど幼女とか、中の人の顔や性格まで思い浮かべちゃうとか、
そんな事すら慣れっこになってる層と比べても、そこまで差異は無い気がしちゃいます。
オタ界隈であれば、アニメ・キャラにガチ恋しちゃう人も、普通に居ますけど、
だからと言って、全てのアニメ視聴者が、そういった楽しみ方をしている訳では無いと。

ただ、「ボイス・チェンジャーを使っても騙し切れない」という発言↓は、前言撤回(笑)。
> > > > しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
> > > > もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
> > > > 基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・

こちら↓は上記リンクと同じAbemaの別番組に、同じ方が出演されてるモノなのですが、
(2本合わせて9分未満の番宣ダイジェストなので、そこまで負担は無いかと)
https://www.youtube.com/watch?v=eYhThF_InN0
https://www.youtube.com/watch?v=dH5shI57uXo
バーチャルAV女優であり、VR風俗の嬢&経営者であるKarinさんという方は、
中の人は一応男性なのですが、番組内では「女子大生」と勘違いされて扱われてますね。
でも確かに、気付けない人も普通に居るんだろうなと、考えを改めさせられました。
まあ、よく聞けば男性声なのは解ると思うのですが、やはりキャラの見た目に引っ張られる面と、
(かき氷のイチゴ味やメロン味なども、味は一緒なのに、色の違いで結構騙されてますし・笑)
相手が女性であろうという先入観や、リモート特有の音質の悪さも良い方に作用してそう。
それに、日進月歩な技術の進歩を思うと、見分けが付かなくなるのも、そう遠く無いでしょうし。

・・・って、バ美肉の世界に関しては、女装とか百合なんて単純な話ではなく、
ネット空間における「LGBTQIA+」的な面とも、複雑に絡んでくるモノなので、
もっと本腰を入れて学んでいかないと、なかなか語れない分野かと思われます。
また、そこで百合についても触れるなら、身体性・性自認・性的指向・性表現など、
何を基準として百合とするのか、本当に厳密な定義が必要になってくるかと?
現実的には、どうしても付きまとうリアルな身体性を、
ヴァーチャルな空間でなら切り離せると点では、かなり奥深いテーマですよ、これは。
いや、でも大部分は、演じる方も、見てる方も、ネタ的にやってる気がしますけどね(笑)。


[23574] ネット時代の超ローカル文化返信 削除
2021/5/9 (日) 02:58:18 旧トルコ担当


返信遅れて大変申し訳ありません。原因は私生活の忙しさ、ではなく単純に文章書くのが面倒だっただけです。
で、長々と返信を書いているといつまでたっても返信を投稿できないので、とりあえず重要な部分だけ適当に書いて投稿しました。いろいろ雑ですが、それ直してると本当にいつまでも投稿できないので。

で、私の考えとしては、管理人さんの「グローバル1極の時代」とは異なって、「グローバル化とローカル化の2極化」が現在起きていることだと思っています。

> 以前、旧トルコ担当さんも、
> 「無限にグローバルか、無限にローカルかしかなく、中間がない」
> と、おっしゃってましたよねえ。
> この文章を、上記の引用と同じ様な内容として捉えていたのですが、
> それは勘違いだったのでしょうか?


> って、まあ小難しい話は別としても、現在の世界の状況を見る限り、
> グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
> 元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?
> ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され、
> 新たに生まれたネット上のローカルも、デジタル化の一般普及が襲い掛かられ、
> 2極化という現象は、グローバルの中での「持てる者と持たざる者」として現れている。
> そして戦後の日本は、1億総中流と言われたように、失われた中間こそが最大の武器だったと。


> > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。


それは選択肢の幅という意味においても、です。

ここまで現状認識が全く違っているので、抽象論ではなく具体例を出したほうが伝わりやすいと思うのですが、
例えばゲームであれば、今の時代steamなんかで膨大な数のゲームが配信されていますし、その他のサイトや無料ゲーム、スマホゲーム、同人ゲームなども含めれば、遊べるゲームの数は無限にも近いわけです。
そこには本当にありとあらゆるジャンル、種類のゲームが存在していて、決して似たようなものばかりで溢れかえっている、というわけではありません。
といいますか、私自身はMOD制作からゲーム制作もどきを始めたので、有料ゲームに劣らないMODを結構な数遊んできていますし、今やテトリスを抜いて最大のヒットタイトルとなったマインクラフトも、(特にコア層向けにおいて)マイクラの面白さを支えているのはかなりの部分MODではないでしょうか。

っていうことは、たぶん管理人さんは知っているんでしょう。
それで私がよく分からないのは、なぜこの現状を知ったうえで「選択肢の幅が減少した」という風に思うのか?ということなんです。
この辺が正直全く理解できません。
まあ私が知らないだけで、昔はもっと選択肢があったのかな?
いやでもそれはないと思うんですけどね。

あるいは、失われていった地理的にローカルな文化を私が知らない、ということなのでしょうか?

> 1.グローバル化と新自由主義経済による画一化
>   世界中どこに行っても、マクドナルドがあり、スターバックスがある。
>   そしてショッピングモールに行けば、名の知れたチェーン店ばかり。
>   それなりの値段で、それなりの商品を買えるのは、確かに便利なのは事実です。
>   ですが、こうした画一化は、多様性を損なう一面も持ち合わせていますよねえ?
>   また、データ重視の無難な商品開発も、似たモノばかりを生み出します。


「ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され」とのことですが、私としては物理的な障壁に守られなければ消滅してしまうような文化であれば、もうそれは消滅してしまえばいいんじゃない?と思ってしまいます。
これっておそらく、ショッピングモールの地方進出で街の商店街が〜、というようなことなのでしょうが、私としては(これも既出ですが)それはその地域に住んでいない人間の言説であって、地元住民からよかったよ、という以上の何物でもないと思います。
むしろインターネットによってオンラインショッピングでも何でもできるわけであって、そんなにこだわりがあるのであればネットで取り寄せればいいじゃん、ということに他ならないのではないでしょうか?
そして結局多くの人間はそこまでしないわけですから(私も服はユニクロで適当に見繕ってます)、ネットで探す手間を惜しむような人間からすれば、実のところ選択肢なんてそんなに欲していないというのが現実なのでしょう。
ゲームで例えるならば、そこまでゲーマーでない人間であれば、YouTuberが遊んでいる今流行りのswitchのゲームを遊ぶのが最も効率的で、それだけでは満足できないゲーマーなのであれば、steamでも、同人でも、ネットの広大な海から自分好みものゲームを探してくればいいでしょ、ということだと思います。

余談ですが、前にチラッと1995年ごろからファッションの世界でインディーズが台頭してきた、みたいな話を聞いたことがあるのですが、これってちょうどコミケの参加者が急増した時期なんですよね。
95、96年というのはそろそろバブル崩壊以降の経済の停滞が長期的なものなんじゃないかという認識が広がりつつあった時代で、このころに雑誌なんかも発行部数がピークに達していたはずです。
WinXPが発売、テレホーダイが始まってネット文化が本格的に稼働し始めたのもこの時期ですよね。
何が言いたいかといいますと、昭和の時代に作られたもろもろのもの(名づけるとすれば日本大衆文化とでも名付けられるようなもの)が頂点に達したのが95、96年であり、逆に大衆ではない新たな本格的に文化が始まったのがこのあたりなのかな?と。
いえ、コミケとファッションのインディーズだけでどうにも根拠が薄弱ですが。

そうでないとすれば、やはり可能性として考えられるのは、steamのような例が認識されていない、ということなのでしょうか?

> え〜と、課金面以外のスマホゲームの文化性を語ると言いつつ、
> 結局は2次創作の話になっちゃってませんか?(笑)
> 私も昔はニコニコ動画に投稿していましたから、
> 艦これ辺りは微妙でも、東方やアイマスの2次創作はガッツリ知ってますよ。
> (ニコニコ動画がここまで落ちぶれてしまったのは、個人的にも寂しい限り)
> で、スマホゲーにも2次創作があるというのが、どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょ?
> 既に確立されてる2次創作という文化を組み込んで、そこに何か新しい価値が生まれているんですか?
>
> > 現在のスマホゲームの雰囲気について説明している記事を思い出したので、リンク張っておきます。
> > https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200408a

> 情報、ありがとうございます。
> シナリオ制作の環境に、変化が生じているんですね。
> ただ、シナリオの魅力というのが、そこまで大きく評価できるかとなると、
> 正直な所、未だに腑に落ちない感じではあります・・・・
> そこまでシナリオが素晴らしいのであれば、課金が無くても成立しそうですが、
> 仮定の話になりますけど、コンテンツとしての出来だけで本当に惹き付けられると思います?
> 例えば、35年くらい前に流行った「ビックリマン・シール」なども、
> シールの裏に書かれたストーリーを紡ぐ事で、大きな世界観を味わう仕組みがありましたけど、
> だからと言って実際、シール収集のコレクション要素よりも、
> そちらのゲーム・シナリオの方を深く覚えてる人って、果たして多いのでしょうか?
> 結局は、「課金させる為の味付け」という認識を、これでは脱する事が出来ませんでした。


この辺もなぜそこまで課金を重視するのかがよく理解できません。
よく考えてくださいよ。二次創作がある程度以上の時間と労力を必要としていて、そういった二次創作の存在自体も認知しているのであれば、それだけの時間や労力をかけさせる程度には、ソシャゲも魅力がある、というのは明らかだと思うのですが。
「ビックリマン・シール」は世代でないのでよく知りませんが、スマホゲームのシナリオってシールの裏側程度の面積の内容なんですかね?
いや、私もソシャゲは実はほとんどやらないので詳しくはないのですが、その程度しか魅力のない作品にゲーム時間を費やしたり、課金したり、二次創作したりすると思いますか?

> と、ついでにここで、ちょっと「余暇市場」について見てみましょうか?
> 昨年発表された2019年度(新型コロナ前)の日本の余暇市場は「72兆2940億円」であり、
> これはピークであった1996年の「90兆9070億円」と比べると、実に2割も減少しています。


> 続いて、文化面の余暇市場を、サブカルを中心に個別に見てみると、
> アニメが3000億円、マンガが5000億円、家庭用ゲームが4400億円、ラノベが150億円。
> 音楽が3000億円、映画が2600億円、アート鑑賞が1000億円ですから、
> サブカルと言いつつ、なかなかの国内市場規模ですよね(笑)。


この辺のお金で文化的豊かさを図ろうとするのもよく分かりません。
いえもちろん、管理人さんもお金が絶対だと思っているわけでなく、一つの指標として金額を持ち出してきているのも理解はしてるんですが、例えば私はこの20年間でいまだに音楽業界には1円も落としていないのですが(強いて言えばイヤホンとYouTubeの広告くらいでしょうか)、では私の楽しんでいる音楽文化の価値はゼロなんですかね?

私自身、好きなクリエイターの半分以上がネットのアマチュアクリエイターですし、影響という意味においてはリアルな書店のラノベやテレビ放送しているアニメなんか以上に、そういったネットクリエイターのほうに影響を受けています。私が歴史に興味を持ったきっかけもsteamのゲームとそれを紹介したニコニコ動画からですし。
それはまあネット世代オタクの極端な例かもしれませんが。

結局何が言いたいかといえば、グローバル化・ネット化による弊害は色々あるのかもしれませんし、それはネット以前の時代をあまり知らない私にはもしかしたら見えていないのかもしれないけど、少なくともローカルが無くなったというのは違うのではないでしょうか?ということです。
他にもスクールカーストの話とか、色々書きたいのですが、返信が遅れるのでとりあえず投稿してしまいます。


[23576] Re:ネット時代の超ローカル文化返信 削除
2021/5/11 (火) 21:35:25 徳翁導誉

> 返信遅れて大変申し訳ありません。
> 原因は私生活の忙しさ、ではなく単純に文章書くのが面倒だっただけです。

はい、解ります(笑)。
今のSNS世代からすると、昔のBBS世代である私の長文などは、
「雑談」という範疇を超えてるだろうな・・・という自覚は充分あるので。


> > グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
> > 元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?

> で、私の考えとしては、管理人さんの「グローバル1極の時代」とは異なって、
> 「グローバル化とローカル化の2極化」が現在起きていることだと思っています。

では、「極」となっているローカル化の実例とは、具体的に何でしょうか?
また、それこそタイトルにある「ネット時代の超ローカル文化」とかも、そうですが、
「ローカル」という単語の意味に関しても、同じく具体的にお願いします。

恐らく今までの感じだと、「グローバルとローカル」と言うよりも、
「マスとニッチ」や、「メジャーとマイナー(インディー)」の意味合いで、
用いている印象を受けるのですが、実際の所、どう言った意味なのでしょう?
ちなみに仮にそうだとした場合、ニッチであれ、マイナーであれ、
それが成り立つにも、最低限の「規模」が必要だと私は思うのですが、
そうした規模の必要性を、旧トルコ担当さんは感じ取れてない気がしちゃうんです・・・・

規模というのが解り難ければ、ある程度の人の集まり(社会)と捉えても良いかも知れません。
実社会で言えば、「街(大都会)」と「村(集落)」みたいなモノですよね。
どんなに村が小さくても、社会が成立するには、最低限の人数が必要であり、
住民が1人しか居ない村や、空き家しか無い村では、社会が成り立たないんです。
そして文化とは、人同士の繋がりで紡ぐモノである以上、社会の存在が不可欠となります。

要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> それは選択肢の幅という意味においても、です。
> ここまで現状認識が全く違っているので、抽象論ではなく具体例を出したほうが伝わりやすいと思うのですが、
> 例えばゲームであれば、今の時代steamなんかで膨大な数のゲームが配信されていますし、
> その他のサイトや無料ゲーム、スマホゲーム、同人ゲームなども含めれば、遊べるゲームの数は無限にも近いわけです。
> そこには本当にありとあらゆるジャンル、種類のゲームが存在していて、
> 決して似たようなものばかりで溢れかえっている、というわけではありません。
> っていうことは、たぶん管理人さんは知っているんでしょう。

そうですね、私なりに理解している・・・つもりではいます。
とは言え、ゲームとか久しく遊んでいないので、
充分に把握しているか?となると、まるで自信は無いですけども(苦笑)。
ですので逆に言うと、知らない部分があれば、是非とも知りたい所ではあると!!

> それで私がよく分からないのは、なぜこの現状を知ったうえで
> 「選択肢の幅が減少した」という風に思うのか?ということなんです。
> この辺が正直全く理解できません。
> まあ私が知らないだけで、昔はもっと選択肢があったのかな?
> いやでもそれはないと思うんですけどね。

では、私の方も具体的に話しますと、
作品の数自体が膨大に増えた事は、もちろん重々承知していますけども、
その一方で、例えば「新しいジャンル」のゲームというのは、一体どれほど生まれたのでしょうか?
それこそ私は古い世代ですので、シューティング・ゲームの登場、RPGの登場、SLGの登場、
格闘ゲームの登場、音楽ゲームの登場、オンライン・ゲームの登場などを、逐一体験してきましたけど、
近年のゲーム界において、そうした新しいジャンルは、具体的に何が登場したのでしょう?
数自体ではなく、「幅が広がる」というのは、そういう事だと私は思うので。

また、新しいジャンルの誕生だけでなく、既存のジャンルに関しても、
今では、超メジャーな一握りのタイトルと、それ以外との2極化が進んでる気がしますが、
一昔前までは、その中間にある「そこそこ普及したタイトル」という層も、確かにあったので、
作品数では劣るものの、分布の密度としては現在ほど極端では無かったと思うんですよね。
逆に言うと現在は、マイクラ・あつ森・フォートナイトに人気が過剰集中しており、
それ以外のゲームは、ほとんど耳にしないような感じになっています。
(あとは一部の例外みたいなモノで、高級ゲーミングPCのタイトルも、密かな人気を得ていると)


> > 1.グローバル化と新自由主義経済による画一化
> >   世界中どこに行っても、マクドナルドがあり、スターバックスがある。
> >   そしてショッピングモールに行けば、名の知れたチェーン店ばかり。
> >   それなりの値段で、それなりの商品を買えるのは、確かに便利なのは事実です。
> >   ですが、こうした画一化は、多様性を損なう一面も持ち合わせていますよねえ?
> >   また、データ重視の無難な商品開発も、似たモノばかりを生み出します。

> 「ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され」とのことですが、
> 私としては物理的な障壁に守られなければ消滅してしまうような文化であれば、
> もうそれは消滅してしまえばいいんじゃない?と思ってしまいます。

う〜ん、それに関して私は、別に良いとも悪いとも言ってませんよ。
そうやって「画一化された」という、事実を述べているだけです。
そもそもが、「日本から文化の多様性が失われていくか?」という問いでしたから。
逆に尋ねますけど、文化の消滅を肯定されるという事は、
旧トルコ担当さんも、多様性の喪失を認められるという事なのでしょうか?

> これっておそらく、ショッピングモールの地方進出で街の商店街が〜、というようなことなのでしょうが、
いや、これは完全に違いますよ(苦笑)。
掲示板上でも何度か書いてますけど、「街の商店街が〜」との意見に対しては、私も同じく否定派です。
私は転勤族として都会と地方と転々としたので、地方の不便さは身に染みて知ってますし、
そもそも、街の商店街という代物自体、実は歴史が浅い事も認識しています。
なので、ショッピング・モールやオンライン・ショッピングの登場も、それなりに評価しており、
「地方の個性が失われた」との意見には、「それは観光客の見方だ」と言ってますし、
「どこもプチ東京化した」との意見には、「逆に東京がプチ郊外化しつつある」と唱えていますよ。
実際、今では東京都心の繁華街に、郊外型のロードサイド店が次々と進出しており、
それこそ都心の街々が、どこも似たような店揃いで、個性を失ってきていると感じるので。

> そして結局多くの人間はそこまでしないわけですから(私も服はユニクロで適当に見繕ってます)、
> ネットで探す手間を惜しむような人間からすれば、
> 実のところ選択肢なんてそんなに欲していないというのが現実なのでしょう。
> ゲームで例えるならば、そこまでゲーマーでない人間であれば、
> YouTuberが遊んでいる今流行りのswitchのゲームを遊ぶのが最も効率的で、
> それだけでは満足できないゲーマーなのであれば、steamでも、同人でも、
> ネットの広大な海から自分好みものゲームを探してくればいいでしょ、ということだと思います。

何だか、話がループしてませんか?
繰り返しになりますけど、別に私自身は、そうした需要を否定している訳ではありません。
ただ、そうなると、「文化は画一化されるよね」とか、
「文化の多様性は失われるよね」という話を、前回返信したかと思いますけど。

> 余談ですが、前にチラッと1995年ごろからファッションの世界でインディーズが台頭してきた、
> みたいな話を聞いたことがあるのですが、これってちょうどコミケの参加者が急増した時期なんですよね。
> 95、96年というのはそろそろバブル崩壊以降の経済の停滞が長期的なものなんじゃないかという認識が
> 広がりつつあった時代で、このころに雑誌なんかも発行部数がピークに達していたはずです。
> WinXPが発売、テレホーダイが始まってネット文化が本格的に稼働し始めたのもこの時期ですよね。

細かい事を言うと、WindowsXPの発売されたのは2001年で、
90年代後半だと文字通り、1995年にWindows95で、1998年にWindows98です。
また、当時はビジネス向けにWindowsNT系が別途存在していた為、
WindowsXPのシェアが5割を超えるのは、2004年の事でした。

> 何が言いたいかといいますと、昭和の時代に作られたもろもろのもの
> (名づけるとすれば日本大衆文化とでも名付けられるようなもの)が頂点に達したのが
> 95、96年であり、逆に大衆ではない新たな本格的に文化が始まったのがこのあたりなのかな?と。

ですから初めの方から、「秋葉原にバスケコートがあった頃」とか、
「アナログとデジタルの過渡期」という話をしてませんでしたっけ?
そして、これも繰り返しになっちゃうのですが、
その「新たな文化」というのは具体的に何?というのが、最初の問いだったのでは?

> いえ、コミケとファッションのインディーズだけでどうにも根拠が薄弱ですが。
> そうでないとすれば、やはり可能性として考えられるのは、
> steamのような例が認識されていない、ということなのでしょうか?

「STEAM」とは、当時のオバマ大統領が推進した
理工系と芸術系を融合させた教育政策であり・・・な〜んて冗談はさておき(笑)、
(ちなみに「Science」「Technology」「Engineering」「Arts」「Mathematics」の頭文字)
今やPCゲームを語る上で、ダウンロード販売サイト「Steam」の存在は欠かせないでしょ?
PCゲームを店頭売りしている所なんて、今ではほとんど見掛けなくなりましたので。
一昔前までは、家電量販店でも普通に、PCゲームを取り扱ってたんですけどね。


> > > 現在のスマホゲームの雰囲気について説明している記事を思い出したので、リンク張っておきます。
> > > https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200408a

> > 情報、ありがとうございます。
> > シナリオ制作の環境に、変化が生じているんですね。
> > ただ、シナリオの魅力というのが、そこまで大きく評価できるかとなると、
> > 正直な所、未だに腑に落ちない感じではあります・・・・
> > そこまでシナリオが素晴らしいのであれば、課金が無くても成立しそうですが、
> > 仮定の話になりますけど、コンテンツとしての出来だけで本当に惹き付けられると思います?
> > 結局は、「課金させる為の味付け」という認識を、これでは脱する事が出来ませんでした。

> この辺もなぜそこまで課金を重視するのかがよく理解できません。

日本のソシャゲのほとんどは、課金で儲けるビジネス・モデルで作られている為です。
と言いますか、課金要素抜きで日本のソシャゲを語る事など、ほぼ不可能だと思いますけど?

ガチャで煽る射幸心に、ランキングやヒエラルキーが生む競争心。
時間を費やすほど強くなり、課金すると更に強くなるシステムにより、
一旦ハマると、それまで投じた時間や金銭が無駄になる為、プレーが義務感に転じ、
「辞めたくても、辞められない」ようなコンセプトで作られてるゲームが、
内容的に、本当に魅力があって、素晴らしいゲームだと思われるのですか?

それこそ、純粋にゲームとして素晴らしい出来であれば、
課金の要素を除いても、家庭用ゲームや海外ソシャゲとしても売れそうですけど、
そうした実例は、少なくとも私は聞いた事がありません・・・・
18禁要素を除いたエロゲーでは、そういう実例は知ってますけどね。

マウント取りで得られる優越感や、コンプ完了で得られる満足感は、
ゲーム本来の面白さとは別だろうと、少なくとも私は考えています。
いや、「本来の面白さ」なんて表現をすると排他的かな?
言い換えると、従来のアナログ・ゲームや家庭用ゲームというのは、
プレーする「過程」を楽しませるゲームであったのに対して、
ソシャゲというのは、プレーした「結果」を楽しませるゲームなんですよ。
だからこそ実は、家庭用ゲームよりも、パチンコなどのギャンブルに近い作りなんです。

デジタル化されたパチンコやソシャゲというのは、
競馬や競輪などのギャンブルに比べ、ゲームやアニメとも親和性が非常に高く、
それらの要素が組み合わされているのも事実ですが、そこがメインではありません。
と言いますか、加えるにしても味付け程度に軽くしないと、
あれもこれもと重くなり過ぎて、主目的の結果を楽しませる事が難しくなるんです。
解りやすく言うと、過程を楽しませる要素が強くなり過ぎると、
却ってギャンブル要素が邪魔となり、ビジネス的には本末転倒になる訳ですね。
それこそエロゲーで言えば、泣きゲー化が進んで、エロ要素が邪魔になったみたいに。

まあ確かに、課金と無関係なゲームも幾らかはあるでしょうけど、
それらはソシャゲのメインでは無く、携帯ゲームの文脈で語られるモノでしょうし、
それにしたって、携帯専用機のゲームに比べれば、大きなモノではありません。
例えばパチンコや競馬などのギャンブルも、カネを賭けずとも理論上は成立はしますが、
では現実として、カネを賭けないで、市場や業界として成立するでしょうか?
少なくとも、賭博性の無かった明治の競馬は、アッと言う間に廃れましたので、
もしも日本でも、欧米同様に課金ゲームへの規制が強くなれば、正直保たないと思いますし、
仮に存続できたとすれば、それはスマホで遊ぶ携帯ゲームへの変化を強いられてるでしょうね。
しかし、そうなれば日本のゲームも、多少なりとも国際競争力を取り戻せるかも・・・・

> よく考えてくださいよ。
> 二次創作がある程度以上の時間と労力を必要としていて、
> そういった二次創作の存在自体も認知しているのであれば、
> それだけの時間や労力をかけさせる程度には、ソシャゲも魅力がある、
> というのは明らかだと思うのですが。

ここで言う二次創作とは、主にイラストの事ですかねえ?
これに関しては、以前にも少し述べたかと思いますけど、
例えばPixivに投稿される題材として、東方・アイマス・ラブライブなどが多いのは、
もちろん作品自体の人気もありますが、それ以上に大きいのは「認知度の高さ」です。
逆に言えば、だからこそ古い作品が多いとも言えます。

絵師の側から考えた場合、自分が描きたいキャラを描くタイプも居るでしょうが、
やはり一般的には、自分の絵を見てもらい、評価されたいから投稿する訳で、
そう考えると、描くのに相応の時間と労力を要する以上は、
自分の好みとか、元ネタ作品の魅力よりも、認知度の高い題材を選ぶ方がウケる為、
だからこそ、元ネタ作品は知らないけど描くというケースも珍しくない訳です。

そういう意味では、二次創作の題材として、よく選ばれると言うのは、
見慣れているとか、知名度があるという所は保証できてるでしょうけど、
作品自体の出来に「魅力がある」とまでは、断言できないと思いますよ。
それこそ、ソシャゲとも比較されるパチンコやパチスロのキャラなども、
普通に同人誌の題材とかになってますけど(有名所だと「海物語」とか)、
だからと言って、それが他のマンガやアニメと作品の出来を競うとなると・・・・
もちろん、「パチンコの中で」とか、「ソシャゲの中で」という感じに、
その世界内での競争に勝つ為の、魅力ある「差別化」は必要不可欠ですし、
そういう意味での、出来の良い作品というのは、確かにあるでしょうけども。

> いや、私もソシャゲは実はほとんどやらないので詳しくはないのですが、
・・・詳しくないのに、そこまで言われてたのですか!?
一定時間ごとに、画面上のボタンを自動タップする便利アプリであったり、
ウォーキング・ゲーム用に、振り子に乗せて歩数を稼ぐ便利グッズなど、
そういうのが当たり前になってる昨今のソシャゲ事情とか、ちゃんと御存知ですか?
また、課金要素を考慮しない場合、ソシャゲってどうやって成り立つと思われてます?


> > と、ついでにここで、ちょっと「余暇市場」について見てみましょうか?
> > 昨年発表された2019年度(新型コロナ前)の日本の余暇市場は「72兆2940億円」であり、
> > これはピークであった1996年の「90兆9070億円」と比べると、実に2割も減少しています。
> > 続いて、文化面の余暇市場を、サブカルを中心に個別に見てみると、
> > アニメが3000億円、マンガが5000億円、家庭用ゲームが4400億円、ラノベが150億円。
> > 音楽が3000億円、映画が2600億円、アート鑑賞が1000億円ですから、
> > サブカルと言いつつ、なかなかの国内市場規模ですよね(笑)。

> この辺のお金で文化的豊かさを図ろうとするのもよく分かりません。

いや、簡単な話だと思いますけどねえ。
プロの作家と、アマの作家では、どちらが多くの良作を世に生み出すか?
その答えは前者だという事は、恐らく同意してもらえると思うのですが、
プロである以上、霞を食って生きてく訳には行かないので、
そこには当然ながら、金銭のやり取りが発生しますし、
そこで動く金額が大きくなれば大きくなるほど、市場も大きくなり、
その分野で食えるプロの人数も増えてくる訳で、そうなれば良作の数も更に増えます。
また、プロの世界が高く分厚くなるほど、アマの世界だって裾野が広がる訳で、
文化規模と市場規模というのは、それなりに相関関係があると思いますよ。

> いえもちろん、管理人さんもお金が絶対だと思っているわけでなく、
> 一つの指標として金額を持ち出してきているのも理解はしてるんですが、

これに関しては、指標と言うよりも、
単に話の流れから、気になって調べてみたデータというだけですね(笑)。
それに、やはり具体的な数値を見ると、イメージも掴みやすいですし、
世界市場とのギャップから、まだ成長余地が残る分野とかも見えてきます。
現代アートのように、海外の方が高ければ、これから日本で伸びる余地があり、
マンガのように、日本が圧倒的に高ければ、これから海外で伸びる余地があると。
そういう意味では、直接的に経済効果を見ていると言うよりは、
それこそ「新しい文化」が生じそうな分野の一部に、目星が付けられ、
あれこれ可能性を探れる楽しみが内包されてるって事ですね、これらの数字には。

あと、念のために一応言っておくと、
私は古いタイプなので、趣味の世界に金銭が絡む事に、少し嫌悪感が残っているのは、
このスレッドを読み返してもらえると、再確認できるかと思いますよ。

> 例えば私はこの20年間でいまだに音楽業界には1円も落としていないのですが
> (強いて言えばイヤホンとYouTubeの広告くらいでしょうか)、
> では私の楽しんでいる音楽文化の価値はゼロなんですかね?

う〜ん、その問いって、何だか おかしくありません?
そもそも、「価値はゼロ」とかいう話をしてないのは勿論の事、
何故ここで、音楽文化の価値基準の主体が、旧トルコ担当さん自身なのでしょうか?
これがまだ、音楽業界に1円も落としてない事で、
「自分の音楽文化への貢献はゼロか?」という問いなら解りますけども・・・・

ちなみに、それがプロの楽曲であれば、
他の誰かが払ってるからこそ、タダ乗りが出来てる訳ですし(広告も含む)、
無料やサブスクだと、どうしてもウケる曲が正義になってしまいますから、
作品数自体は増えても、創作の幅が広がるかは正直微妙な気がします。
また、アマの楽曲の方も、一昔前は「ボカロP」とか「歌い手」が流行りましたけど、
ブームが去った現在にあっては、新しさや勢いの面では寂しさがあるように思えます。
もちろん、ハチこと米津玄師が時代を代表する国民的な歌手となったり、
ボカロ文化の流れを汲むYOASOBIやAdoなどが、世間的に人気を得たりしてますけども、
文化的に発達するのと、世間的に広まるのとは、時間的なギャップがあるモノで、
大衆化し、一般化した頃には、成長自体は既に下り坂な事は多いですよね。

とは言え、決して今の時代の音楽を全否定している訳ではありませんよ。
それこそ、YouTubeやサブスクの登場により、00年代の音楽不況を脱しましたし、
YouTube上の公式MVが広告として機能して、ライブで稼ぐモデルも出来ましたからね。
(とは言え、昨今のコロナ禍により、再び難しい状況に立たされてますが・・・)
実際、私も昨年、jizueというバンドの「dance」↓という曲を凄く気に入りましたけど、
https://www.youtube.com/watch?v=vTDgInMDzR4
この曲にしても、もしYouTubeが無ければ、知る機会など無かったはずですので。

あと、YouTube繋がりで言うと、
これはコロナ禍による、リモート授業化の影響もあるのかも知れませんけど、
「計算論的神経科学」の著者が、東大 大学院で行った講義動画↓を、
https://www.youtube.com/playlist?list=PLXAfiwJfs0jE8DxX215F36H9hjYEWqkHS
https://www.amazon.co.jp/dp/4627851618
しれっと上げていたりするのは、素直に「凄い時代だな」とは思いますよ!!
そして欲を言えば、これが更にゲーム化やアニメ化されるなどして、
攻殻やシュタゲのようなSF作品が好きな層にも、取っ付き易い内容になり、
言語の壁も越えて、次の世代が成長していける社会となれば、理想的ですけどね(笑)。
(せっかく動画がアップされているのに、個々の再生数は2ケタ程度ですので)


> > > > > 情報があふれるようになって、相対的に時間が貴重になったからだと思います。
> > > > え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> > > > じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。

> > > いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
> > > ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
> > > 私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかが
> > > やたらもったいなく感じるようになりました。

> > そう、そこなんですよ、私が言いたいのは。
> > 重視されてるのは「時間」そのものではなく、時間に伴う「感覚」の方な気がするんです。
> > 要するに、本当に「時間が貴重」と思えるほど、現代人が忙しくなったというよりは、
> > 時間が貴重というコンセプトにより、「心理的な余裕」が奪われてるのが真相なのでは?
> > そして、心の余裕と交換に、我々が何を得たかというと、それは「便利さ」なのでしょうが、
> > ですけど便利さ自体が、心の余裕を奪ってる訳では無いと思いますし、
> > それを奪うのは、便利さに抱き合わされた「商業主義」の方だと思うんです。
> > で、その商業主義を覆い隠す為に用いられるコンセプトこそが、「時間が貴重」では無いかと。

【後で補足しようと思ってた文章を、今更ながらに追加】

電車を待つ数分、エレベーターを待つ数十秒、そして食事中や移動中の時間。
1つの動画を見たり、1つの記事を読んだり、新着チェックをしたりする。
一見すると、限られた時間を無駄なく使ってるように感じられるかも知れません。

しかしこれは、「時間が貴重になった」と言うよりも、
「わずかな時間さえ市場化された」と言うのが実状でしょうし、
やる事が多すぎて「時間的余裕」が削られる以上に、
一息つく暇さえ消費に追われて「精神的余裕」が削られてしまい、
結局は気付かぬ内に、市場原理に飲み込まれてるんだと思うんですよ。
スマホのソシャゲなどは、最も解りやすい例では無いでしょうか?

これと似た構造なのが、食べ放題やバイキングですね。
元々は、支払額を気にせず、好きなだけ食べる事に集中できるシステムのはずですが、
そこに「コスパ」という概念が持ち込まれ、「元を取ろう」という気持ちが働くと、
吐きそうになるまで量を食べたり、原価の高いモノだけを食べるようになる。
でもこれでは、損する事を恐れる 強迫観念にかられての行為になってしまい、
そこで得られるのも、食事的な満足感ではなく、経済的な満足感になってしまいます。

無料や定額(サブスク)の中、選びきれないほど大量に存在し、
わずかな隙間時間さえ狙うべく短時間化&単純化が進む、コンテンツの数々。
こうなると、その中身を楽しむ以上に、手段である消費自体が目的化しちゃいません?
また、ネット通販にしても、その商品をゲットする事で得る喜びよりも、
買うか否かを悩み、ポチる事で得られる解放感の方が、実際には強い気がするんですよね。
ネット通販には、掘り出し物の発見や、作業的な買い物の効率化など、確かに利点はありますし、
サブスクにより、過去の名作に触れる機会が格段に増えたのも、素晴らしい事だと思います。
そして、そもそも、食べ放題的なコンテンツ消費の楽しみ方自体を否定している訳ではありません。
ただ、社会全体が安価な「コスパ至上主義」に覆われてしまい、「有意義な無駄」が失われ、
そうしたコンテンツしか、新たに生み出されない環境となる事を危惧しているんです。


[23585] Re2:ネット時代の超ローカル文化返信 削除
2021/5/22 (土) 16:44:46 旧トルコ担当

▼ ローカル文化

> > > グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
> > > 元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?

> > で、私の考えとしては、管理人さんの「グローバル1極の時代」とは異なって、
> > 「グローバル化とローカル化の2極化」が現在起きていることだと思っています。

> では、「極」となっているローカル化の実例とは、具体的に何でしょうか?
> また、それこそタイトルにある「ネット時代の超ローカル文化」とかも、そうですが、
> 「ローカル」という単語の意味に関しても、同じく具体的にお願いします。
>
> 恐らく今までの感じだと、「グローバルとローカル」と言うよりも、
> 「マスとニッチ」や、「メジャーとマイナー(インディー)」の意味合いで、
> 用いている印象を受けるのですが、実際の所、どう言った意味なのでしょう?


そうですね。ローカルというよりかはニッチやマイナーというほうが正確です。

> ちなみに仮にそうだとした場合、ニッチであれ、マイナーであれ、
> それが成り立つにも、最低限の「規模」が必要だと私は思うのですが、
> そうした規模の必要性を、旧トルコ担当さんは感じ取れてない気がしちゃうんです・・・・
>
> 規模というのが解り難ければ、ある程度の人の集まり(社会)と捉えても良いかも知れません。
> 実社会で言えば、「街(大都会)」と「村(集落)」みたいなモノですよね。
> どんなに村が小さくても、社会が成立するには、最低限の人数が必要であり、
> 住民が1人しか居ない村や、空き家しか無い村では、社会が成り立たないんです。
> そして文化とは、人同士の繋がりで紡ぐモノである以上、社会の存在が不可欠となります。
>
> 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。


はい、私の言う「ローカル」というのは、人知れず存在してるだけではないですよ。
後半で具体例を挙げていますので、確認お願いします。

▼ ゲームジャンルと選択肢の幅

> > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> > それは選択肢の幅という意味においても、です。
> > ここまで現状認識が全く違っているので、抽象論ではなく具体例を出したほうが伝わりやすいと思うのですが、
> > 例えばゲームであれば、今の時代steamなんかで膨大な数のゲームが配信されていますし、
> > その他のサイトや無料ゲーム、スマホゲーム、同人ゲームなども含めれば、遊べるゲームの数は無限にも近いわけです。
> > そこには本当にありとあらゆるジャンル、種類のゲームが存在していて、
> > 決して似たようなものばかりで溢れかえっている、というわけではありません。
> > っていうことは、たぶん管理人さんは知っているんでしょう。

> そうですね、私なりに理解している・・・つもりではいます。
> とは言え、ゲームとか久しく遊んでいないので、
> 充分に把握しているか?となると、まるで自信は無いですけども(苦笑)。
> ですので逆に言うと、知らない部分があれば、是非とも知りたい所ではあると!!


確かに、ゲームジャンルという意味では新たなジャンルというのは出てきてないと思います。
(正確に言えば、新たな性格のゲームは誕生しているのですが、これ以上ジャンル名を増やしてもしょうがないので、そこまで細分化されないだけだとは思いますが)
ですがゲームの楽しみ方という面では、いろいろ選択肢が増えたと思いませんか?
YouTubeのゲーム実況がまさしくそうですし、他にもMOD制作、RTA、eスポーツなんていうのもそのうちの一つだと思います。

▼ 人気ゲームについて

> また、新しいジャンルの誕生だけでなく、既存のジャンルに関しても、
> 今では、超メジャーな一握りのタイトルと、それ以外との2極化が進んでる気がしますが、
> 一昔前までは、その中間にある「そこそこ普及したタイトル」という層も、確かにあったので、
> 作品数では劣るものの、分布の密度としては現在ほど極端では無かったと思うんですよね。
> 逆に言うと現在は、マイクラ・あつ森・フォートナイトに人気が過剰集中しており、
> それ以外のゲームは、ほとんど耳にしないような感じになっています。
> (あとは一部の例外みたいなモノで、高級ゲーミングPCのタイトルも、密かな人気を得ていると)


ちなみに、「マイクラ・あつ森・フォートナイト」の中にAmongUsが入ってこないのは、AmongUsを知っていて入れていないのでしょうか?それとも聞いたことがないのでしょうか?
いや、私はこういった人狼系ゲームは運の要素が強いと食わず嫌いしているので、詳しくは知らないのですが、めっちゃ流行っていましたよ。

▼ ソシャゲについてとローカル文化の具体例1

> > この辺もなぜそこまで課金を重視するのかがよく理解できません。
> 日本のソシャゲのほとんどは、課金で儲けるビジネス・モデルで作られている為です。
> と言いますか、課金要素抜きで日本のソシャゲを語る事など、ほぼ不可能だと思いますけど?
>
> ガチャで煽る射幸心に、ランキングやヒエラルキーが生む競争心。
> 時間を費やすほど強くなり、課金すると更に強くなるシステムにより、
> 一旦ハマると、それまで投じた時間や金銭が無駄になる為、プレーが義務感に転じ、
> 「辞めたくても、辞められない」ようなコンセプトで作られてるゲームが、
> 内容的に、本当に魅力があって、素晴らしいゲームだと思われるのですか?


> マウント取りで得られる優越感や、コンプ完了で得られる満足感は、
> ゲーム本来の面白さとは別だろうと、少なくとも私は考えています。
> いや、「本来の面白さ」なんて表現をすると排他的かな?
> 言い換えると、従来のアナログ・ゲームや家庭用ゲームというのは、
> プレーする「過程」を楽しませるゲームであったのに対して、
> ソシャゲというのは、プレーした「結果」を楽しませるゲームなんですよ。
> だからこそ実は、家庭用ゲームよりも、パチンコなどのギャンブルに近い作りなんです。


いや、それは極端な解釈だと思いますよ。
といいますか、ソシャゲで遊ぶ人がみんなそんな人たちであれば、もっとソシャゲ業界潤ってますって。
なんなら私がソシャゲ作って大儲けするまであります。
そもそもですが、ソシャゲを遊んだことがありますか?あるいはプレイ動画など見たことありますでしょうか?
ある程度遊んだことがあるうえで、さらにいろいろな情報を得てそう言っているのか、それともほとんど遊ばずにそう言っているのかで、私もどれだけ自分の考えを疑うべきなのかが変わってきますので。

で、私の少々のソシャゲ体験とツイッターのフォロワーを見ている限りで言えば、ソシャゲユーザーの中で大金を課金するのは基本的に少数派であって、大多数は課金しないかしても少額ですよ。
もちろん、大金を課金するユーザーが少なからず存在するのは事実ですし、ビジネスとしてソシャゲを語るのであれば大金を課金をする少数派をメインに語るのは妥当ですが、文化としてのソシャゲを語るのであれば大多数のユーザーを無視する間違いではありませんか?
もしソシャゲが管理人さんの指摘するような状態であったとするならば、大多数のあまり課金しないソシャゲユーザーは何を目的にゲームを遊んでいるのでしょうか?
ソシャゲのおかげで携帯機ゲームは淘汰されてしまったんですよ?ソシャゲがつまらなければ今頃PSPの新作が発売されているんじゃないんですか?
大体、ソシャゲを遊ぶ人はみんなそんなに競争心が強いのでしょうか?ゲームで遊ぶ人のうち、競争心が強いプレイヤーなんて1割もいないと思うのですが、ソシャゲを遊んでいる人はみんなその1割なのでしょうか?
そもそも、ソシャゲでランキング上位へ入ることを目的とするユーザーがいるのも、そのゲームに人がいるからです。ユーザー数十人のゲームの中でランキング上位になっても大してうれしくないじゃないですか。
だからこそソシャゲ会社としては、課金はあまりしないけれども遊んでくれるユーザーを大勢ゲームに熱中させる必要があるわけで、それにはやはり魅力的なゲームという素材がなければ成立しないわけです。
課金、課金、課金、で開発されたゲームがヒットした例ってどこにありますか?そういった元のゲームが魅力的でないソシャゲは本当に、本当に本当に星の数ほど開発されて、結果全部サービス終了してるじゃないですか。
結局、ソシャゲでも課金で大儲けしてるゲームというのは、大なり小なり魅力的なゲーム性を持っていると思うんですけどね。

> それこそ、純粋にゲームとして素晴らしい出来であれば、
> 課金の要素を除いても、家庭用ゲームや海外ソシャゲとしても売れそうですけど、
> そうした実例は、少なくとも私は聞いた事がありません・・・・
> 18禁要素を除いたエロゲーでは、そういう実例は知ってますけどね。


18禁ゲームを移植するのは家庭用ゲーム機の中で新たに市場を獲得するためでした。
まだ当時はPCの普及率もそこまで高くなかったですし(まあ今も高くはありませんが)、ゲーム市場の主戦場が家庭用ゲーム機だった時代に、ニッチなPC市場から主戦場の家庭用ゲーム機市場へ魅力的なゲームで殴り込みをかける戦法というのは経済的な利益を生みました。
では、今スマホ以上に普及しているプラットホームってどこかにあるんですか?
任天堂スイッチは持ってるけどスマホを持っていない人なんていないでしょう。スマホでできるゲームをわざわざスイッチに移植したところで新規ユーザーが獲得できるのでしょうか?

> > いや、私もソシャゲは実はほとんどやらないので詳しくはないのですが、
> ・・・詳しくないのに、そこまで言われてたのですか!?
> 一定時間ごとに、画面上のボタンを自動タップする便利アプリであったり、
> ウォーキング・ゲーム用に、振り子に乗せて歩数を稼ぐ便利グッズなど、
> そういうのが当たり前になってる昨今のソシャゲ事情とか、ちゃんと御存知ですか?


はい、さすがにその程度の知識はありますよ。
といいますか、そんなのは20年前のPCオンラインゲームの時代から存在していますし、今更驚くようなことなのでしょうか?

> また、課金要素を考慮しない場合、ソシャゲってどうやって成り立つと思われてます?

モノによっては成立すると思いますよ。
普通のゲームみたく、ゲーム購入時にお金を取ればいいわけですから。
ただそれやらないのは、結局のところまず最初に遊んでもらうのが難しいからですよね。
やはり「無料で遊んでもらう→ゲームを楽しんでもらう→課金してもらう」と、「ゲームが面白いか見極めてもらう→ゲームを買ってもらう→ゲームを楽しんでもらう」では全然違いますよ。
特にブランドのない弱小ゲームメーカーには課金システムというのは非常にありがたいわけです。

> > よく考えてくださいよ。
> > 二次創作がある程度以上の時間と労力を必要としていて、
> > そういった二次創作の存在自体も認知しているのであれば、
> > それだけの時間や労力をかけさせる程度には、ソシャゲも魅力がある、
> > というのは明らかだと思うのですが。

> ここで言う二次創作とは、主にイラストの事ですかねえ?
> これに関しては、以前にも少し述べたかと思いますけど、
> 例えばPixivに投稿される題材として、東方・アイマス・ラブライブなどが多いのは、
> もちろん作品自体の人気もありますが、それ以上に大きいのは「認知度の高さ」です。
> 逆に言えば、だからこそ古い作品が多いとも言えます。
>
> 絵師の側から考えた場合、自分が描きたいキャラを描くタイプも居るでしょうが、
> やはり一般的には、自分の絵を見てもらい、評価されたいから投稿する訳で、
> そう考えると、描くのに相応の時間と労力を要する以上は、
> 自分の好みとか、元ネタ作品の魅力よりも、認知度の高い題材を選ぶ方がウケる為、
> だからこそ、元ネタ作品は知らないけど描くというケースも珍しくない訳です。
>
> そういう意味では、二次創作の題材として、よく選ばれると言うのは、
> 見慣れているとか、知名度があるという所は保証できてるでしょうけど、
> 作品自体の出来に「魅力がある」とまでは、断言できないと思いますよ。
> それこそ、ソシャゲとも比較されるパチンコやパチスロのキャラなども、
> 普通に同人誌の題材とかになってますけど(有名所だと「海物語」とか)、
> だからと言って、それが他のマンガやアニメと作品の出来を競うとなると・・・・
> もちろん、「パチンコの中で」とか、「ソシャゲの中で」という感じに、
> その世界内での競争に勝つ為の、魅力ある「差別化」は必要不可欠ですし、
> そういう意味での、出来の良い作品というのは、確かにあるでしょうけども。


はい、そういう例も、もちろん知ってますよ。
ただ、やはり全部が全部、いいねが貰いたいから人気の作品で二次創作してる、と片付けるのはあまりに実態とかけ離れているかと。
Pixiv見てみてくださいよ。下手なイラストいっぱいありますよ。不人気なキャラのイラストもいくらでもありますよ。

具体例を挙げたほうが良いと思うのですが、一番良い例は、Pixivのアイマス二次創作小説ですかね。
まず何といっても、小説はいいねが貰いにくいんですよ。なんて言ったって読むのに時間がかかりますから。
私が今確認した時点では、「アイマス1000users入り」のタグがつけられたイラストが2万6千作品あるのに対し、「アイマス小説1000users入り」のタグが付いている小説はなんとたったの94作品。
それでも「アイマス」のタグが付いた小説は1万4千作品も存在します。(ちなみにイラストでは16万作品)
しかも見てくださいよ、どの小説にも5いいねとか、13いいねとか、そんな数がついているですよ。
https://www.pixiv.net/tags/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%82%B9/novels?s_mode=s_tag
内容もR-18G(過激なエロ)から、百合や、クロスオーバー(他作品のキャラが出てくる)まで、ありとあらゆるジャンルの小説が、それこそ死ぬほどニッチな小説がこれでもかと投稿されているわけです。

あとやっぱりこの世界を変えたのはライトノベルの『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の二次創作だと思います。
その数アイマスを大きく引き離して7万作品以上。
https://www.pixiv.net/tags/%E3%82%84%E3%81%AF%E3%82%8A%E4%BF%BA%E3%81%AE%E9%9D%92%E6%98%A5%E3%83%A9%E3%83%96%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82/novels?s_mode=s_tag
そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。(俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、そういう理由もあるのでしょうか。
百合もそうですね。もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

▼ ローカル文化の具体例2 MODの世界

私自身は元々MODの世界からプログラミングもどき・ゲーム制作もどきをやるよるになったので、やはり紹介したいのがMODの世界です。
例えば以下はsteamで販売されているSF戦略シミュレーションの「Stellaris」というゲーム(宇宙版信長の野望のようなゲーム)のMODなのですが、実に2万件ものMODが公開されています。
https://steamcommunity.com/workshop/browse/?appid=281990&searchtext=&childpublishedfileid=0&browsesort=totaluniquesubscribers&section=readytouseitems
これは日本だけでなく海外含めての数ですし、もちろん2万のMODの中にはしょうもないものも多数ありますが、一方でこれだけピラミッドの土台にたくさんのMODがあると、その上部はとてつもないクオリティになるわけです。
もはや複数人でチームを組んでのMOD製作は当たり前になりましたし、年単位の時間をかけて制作されるMODは、本体ゲーム以上のクオリティといっても過言ではありません。
そもそもStellarisの場合は、日本語化からして商業では対応しておらず、有志制作のMODが日本語をサポートしていますし、MOD制作用のツールが無数に公開されている状態です。
さらにStellarisはプログラミング言語をゲームに読み込ませることが可能なので、手間をかければゲームシステムの根本を維持時ることも可能で、現にそういったことを行っているMODも数多くあります。

こういった例は何もStellarisだけが特別なのではなく、例えば同社製の「Hearts of Iorn4」(これは第二次世界大戦のゲーム)では、MODは3万件も公開されています。
https://steamcommunity.com/workshop/browse/?appid=394360&browsesort=trend&section=readytouseitems

これがMOD界最大のMineCraftともなれば、もはや本当に数えきれない数のMODが存在するわけです。

> > うーん、日本文化にこだわる必要はないんですよね。
> いや〜、そこまで割り切られてしまうと、返す言葉もありません(笑)。
> 確かに、例えばこの世から日本食が消滅した所で、日本人が飢え死にする訳では無く、
> ハンバーガーやピザだけ食べていても、それで生き続けられるのは事実です。
> でも、それでは寂しすぎると言うのが、偽らざる私の本音ですね・・・・


多分日本文化であるかどうか、ということに対するこだわり度が管理人さんと違ってくるのも、私がある程度海外の文化をネット経由で取り入れているからなのでしょうね。
ゲームなんかはもう半分以上海外ゲーム遊んでますから。

▼ その他、極ローカル文化にてついて

いや、そんな極ローカル文化なんて質が低いんじゃないか、と思われるかもしれませんが、少なくとも私は好きな作品の半分以上はネットの無料作品なんですよね。
そもそも歴史に興味を持ったのも、とあるYouTube動画がきっかかけですし、ゲームも時間にして2割くらいはネットの無料ゲームを遊んでいますし、やる夫スレは結構読みました。
今でも衰退したといわれるニコニコも、私はいまだ毎日見に行くくらい面白いですし、Pixivも毎日見てますし、それは個人的な好みではなく、ある程度多くの人がそう思っているのは、上記の例でお判りいただけたかと。

▼ 極ローカルに対しての管理人さんの理解度について

最後に、管理人さんは今回私が挙げたような具体例ってどのくらいご存じでしたでしょうか?
管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。

といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。

私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……
ちなみに管理人さんの認識だと、ああいう戦国史のファンダムだったり、やる夫スレみたいなものだったり、ニコニコ動画的なものはここ10年で衰退したという認識なのでしょうか?


[23586] ネット時代の超ローカル文化と雑談返信 削除
2021/5/22 (土) 16:45:36 旧トルコ担当

▼ 有意義な無駄について

> 電車を待つ数分、エレベーターを待つ数十秒、そして食事中や移動中の時間。
> 1つの動画を見たり、1つの記事を読んだり、新着チェックをしたりする。
> 一見すると、限られた時間を無駄なく使ってるように感じられるかも知れません。
>
> しかしこれは、「時間が貴重になった」と言うよりも、
> 「わずかな時間さえ市場化された」と言うのが実状でしょうし、
> やる事が多すぎて「時間的余裕」が削られる以上に、
> 一息つく暇さえ消費に追われて「精神的余裕」が削られてしまい、
> 結局は気付かぬ内に、市場原理に飲み込まれてるんだと思うんですよ。
> スマホのソシャゲなどは、最も解りやすい例では無いでしょうか?
>
> これと似た構造なのが、食べ放題やバイキングですね。
> 元々は、支払額を気にせず、好きなだけ食べる事に集中できるシステムのはずですが、
> そこに「コスパ」という概念が持ち込まれ、「元を取ろう」という気持ちが働くと、
> 吐きそうになるまで量を食べたり、原価の高いモノだけを食べるようになる。
> でもこれでは、損する事を恐れる 強迫観念にかられての行為になってしまい、
> そこで得られるのも、食事的な満足感ではなく、経済的な満足感になってしまいます。
>
> 無料や定額(サブスク)の中、選びきれないほど大量に存在し、
> わずかな隙間時間さえ狙うべく短時間化&単純化が進む、コンテンツの数々。
> こうなると、その中身を楽しむ以上に、手段である消費自体が目的化しちゃいません?
> また、ネット通販にしても、その商品をゲットする事で得る喜びよりも、
> 買うか否かを悩み、ポチる事で得られる解放感の方が、実際には強い気がするんですよね。
> ネット通販には、掘り出し物の発見や、作業的な買い物の効率化など、確かに利点はありますし、
> サブスクにより、過去の名作に触れる機会が格段に増えたのも、素晴らしい事だと思います。
> そして、そもそも、食べ放題的なコンテンツ消費の楽しみ方自体を否定している訳ではありません。
> ただ、社会全体が安価な「コスパ至上主義」に覆われてしまい、「有意義な無駄」が失われ、
> そうしたコンテンツしか、新たに生み出されない環境となる事を危惧しているんです。


これについて、完全否定するつもりはないんですよ。
ただ一方で、具体的に「有意義な無駄」とは何でしょうか?
もちろん、ソシャゲのログインボーナスを毎日欠かさずにゲットするという行為が必ずしも有意義なのか?というのは自分も疑問を持ちます。(自分はその辺が嫌でソシャゲを短期間で辞めたので)
ですが一方で「電車を待つ数分、エレベーターを待つ数十秒、そして食事中や移動中の時間」に存在した「有意義な無駄」とは何だったのでしょうか?(食事中は目の前の食事に集中しろよとか、スマホの画面見てないで一緒に来てる人と会話しろとか、まだありますが)

あと、管理人さんの言っていることは少なくとも前回の返信で挙げられている具体例に関しては極端だと思います。
例えば食べ放題にしても、吐きそうになるまで量を食べたり、原価の高いモノだけを食べるようになる、というのは大げさではないでしょうか?
少なくとも私の周りでは、食べ過ぎることはあっても、吐きそうになるほど食べる人は見ませんし、原価の高いものばかりだべるというのもあまり見ません。
ネット通販にしろ、ソシャゲにしろ、然りです。

▼ 中間の喪失につてい:多様性の罠、不可知化と分国

> > > 文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
> > > キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
> > > そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
> > > 例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
> > > 文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。

> > 申し訳ありませんが、この辺の規模感については正直よくわかりません。
> > 多分管理人さんは私よりもより高い位置から色々な現象を見渡せているのだと思いますが、
> > 私自身まだまだ勉強不足なので、科学技術の発展や社会形態みたいなより
> > 具体的なものならばまだわかるんですが、文化とは何か?
> > (傾向やブームとは何が違うのか)みたいな抽象性の高い話には全くついていけないんですよね。
> > 投げやりに返信しているとかではなく、本当にその視点から言われるとどうしようもないんですよね。

> はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
> まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
> 「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
> 普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。
>
> ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
> 世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
> そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
> 別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
> キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
> 個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
> オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。
>
> 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
> クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
> 部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
> メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?
>
> で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> 言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
> 「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
> 「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
> 「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
> これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
> それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
> まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
> それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
> やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。


中間の喪失が招いたものというのは、不可知化だったと思います。
大きいものがいくつかと、あとそれなりの数の中くらいのものがあって、さらに細かい小さな塊が存在する、そういう時は、大きいものと中くらいのものを認識することが出来るわけですが、現在のように大きな塊が少しと小さなものが無限にある場合には、大きなものしか見えなくなって小さなものは不可視になると思うんですよね。
さらにネット化がそれに拍車をかけたと。(正確に言えば、ネット化が大きな塊と無数の小さなものだけ、という状況を形成したわけですが)
で、その結果起きたことは分国だと思うんですよ。
30年前までは、管理人さんの例のように、ある程度の規模の学校が存在して、その中にいろいろなクラスや部活、生徒がいたからこそ、それが多様性だったわけです。
しかし、現在起きていることというのは、その大きな学校が崩壊して、無数の学校が勝手に独立し始めた、そういうことではないでしょうか?
これはオタク文化においてもそうですし、現在の世界が置かれている状況にも当てはまると思います。

で、私はオタクなのでオタク話しかできないのですが、アイマスなんかが面白いのは失われた中間を独自に再創造しているところだと思うんですよね。
数百人のアイドルがいて、さらに定期的に新シリーズをやることで新規世代の参入障壁を低くし、複数の形態でコンテンツを発信することで、アイマスというのはそれなりの規模の学校に多様性のあるメンバーがいるという、旧世代の中間を再創造しているんですよ。
それは別に個性豊かなアイドルがいるとかそういうことではなく、ファン層の中に年齢高めのオタクから10代までを網羅し、アイマスはなんだかんだんで声優の文化が強いのですが、私みたく声優に全く興味のない人間も普通にいると。
ゲームを拠点としながらも、既に紹介した二次創作小説から、商業漫画、アニメに音楽、ニコ動・YouTubeなど、幅広いメディアミックスを成功させています。
そういう意味で、アイマスはポスト1995のガンダムなのかな?
かつては東方もこれに近かったと思います。
結局東方がアイマスになりえなかったのは、ZUNが同人でやっているがゆえに公式での展開力がどうしても弱かったことでしょうね。
アイマスは背後にバンダイがいたのでどんどんキャラを増やしていったり、東方ではできなかったアニメ化も非常に上手にやっていきました。

まあそんなオタク話は置いておくにしても、不可知化=分国というのは結構大きいと思うんですよね。
例えばDiscordなんかも、クローズドだからこそTwitterよりも質の高いコミュニケーションが取れて、私としては非常に楽しいのですが、そういうのってクローズドSNSだからゆえに外からは全く見えませんからね。
別に現代のネットというのはTwitterの炎上だけではないのですが。
といいますか、管理人さんの望むような長文の話なんかもDiscordであれば実現可能だと思うのですが。人さえうまく集められれば。
私はさっぱりですが、オンラインサロンなんかもそういった不可知化=分国の一例なのでしょうか。
ともあれ20世紀に存在していた公共空間が没落していって、私的でも公的でもない第三の社会が今後どうなっていくのかというのは歴史好きとしても結構気になるところです。

▼ 時間感覚の加速がもたらすもの

> > > え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> > > じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。
> > > 正直、情報が有ろうが無かろうが、大昔だろうが現在だろうが、
> > > 1日が24時間なのは全く変わってませんし、時間は貴重なんて事は数千年前から言われ続けてます。
> > > もっと言っちゃえば、昔の方が平均寿命が短いので、今より時間が貴重です(笑)。
> > > ともかく、やるべき事、したい事が多い人ほど、時間をフル活用するモノですからね。

> > いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
> > ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
> > 私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかがやたらもったいなく感じるようになりました。

> そう、そこなんですよ、私が言いたいのは。
> 重視されてるのは「時間」そのものではなく、時間に伴う「感覚」の方な気がするんです。
> 要するに、本当に「時間が貴重」と思えるほど、現代人が忙しくなったというよりは、
> 時間が貴重というコンセプトにより、「心理的な余裕」が奪われてるのが真相なのでは?
> そして、心の余裕と交換に、我々が何を得たかというと、それは「便利さ」なのでしょうが、
> ですけど便利さ自体が、心の余裕を奪ってる訳では無いと思いますし、
> それを奪うのは、便利さに抱き合わされた「商業主義」の方だと思うんです。
> で、その商業主義を覆い隠す為に用いられるコンセプトこそが、「時間が貴重」では無いかと。
>
> > あまり詳しくはないのですが、最近の音楽はサビから始まるなんていうのも、
> > サビが始まるまでとりあえず聞いてみようという人が減ってきたからだと思いますし、

> 「最近の音楽」と言いますか、その歴史は音楽界でも何度も繰り返されてる感じですね(笑)。
> まあこれは音楽に限らず、顧客の数が増える「大衆化」を迎え、
> ツカミやインパクト、解り易さなどを重視する「陳腐化」が起こり、
> そして飽きられて沈んでいき、また時間が経って盛り上がり始めるサイクルを辿ると。
> ですから、サビから始まる曲自体、カラオケ・ブームによりCDが馬鹿売れした90年代にも、
> カラオケでの盛り上がりを重視して、やはり同じ様な傾向は見受けられましたし、
> もっと言うと、縁遠いと高尚と思われがちなクラシック音楽の世界でさえ同様で、
> 実はベートーベンというのは、そうやって大衆人気を得た人なんですよね!!
> 「ジャジャジャジャーン」で始まる交響曲第5番「運命」など、ツカミ狙いの典型例です(笑)。


まず、時間感覚の変化の要因は商業主義の浸透というよりも、スマホが要因だと私は考えています。
音楽を例にするとわかりやすいと思うのですが、
かつて巨大なコンサートホールでクラッシック音楽が演奏されていた時代、人々はその場にふさわしい適当な服装をわざわざ着て来て、ホールまで歩いて(あるいは馬車などで)音楽を聴きに行きました。
そういう時代の音楽というのは、演奏時間も数十分とか、下手すると数時間のような、長い曲ばかりだったわけですよ。
なぜならば、ホールに行くのにも変えるのにも、それなりの時間と手間を使って、聴きに行き、なおかつ嫌いな曲がかかっても個人の好みで別の曲を演奏しろ、とヤジを飛ばすわけにはいかなかったからです。(強いて言えばホールを出て次の曲までタバコを吸っていることはできたのでしょうが)
しかしそれがレコードの時代になると、別にホールまでわざわざ音楽を聴きに行く必要がなくなり、さらに気に入らない曲を無理に聞く必要もなくなったわけです。
それでもまだレコードは何よりも値段が高かったわけですが、しかし現在はスマホによってその手間やコストというのがほぼゼロになってしまったんですよね。
その結果、人々は少しでも気に入らないとその曲を全部聞き終わる前に別の曲の動画に切り替えてしまいますし、曲を聴く体勢も寝っ転がってパジャマのまま聴くようになったわけです。
なので、「最近の音楽はサビから始まる」と。

あるいは映像を例に例えるのであれば、
映画は当たり前のように2時間とか上映時間がありますが、それがテレビ番組になると30分番組が増え、YouTubeになると10分の動画や、TikTokだと15秒になってしまうと。これも、どれだけ手間がかかっているかが動画時間を決定しているわけです。
映画館に30分の映像を見に行こうとはあまり思いませんし、逆にYouTubeで2時間見ないと面白くない動画というのはウケないんですよ。
小説もそうですね。なろう小説をいくつか冒頭だけ読んでもらえればわかるのですが、ネット小説というのは特に最初のほうは展開がめちゃくちゃ早いんですよ。
当然ながら、最初の数ページで何かないと、続きを読んでもらえないからこそ、そうなるわけです。
ネットコミュニケーションも同じです。ネット接続が高かった時代には、掲示板の書き込みを読み込んだらネット接続を切って、オフラインで返信を書くからこそ、遅いけど濃いやりとりができたわけです。
それがツイッターのように140文字になると、感情的なやり取りに終始してしまうと。

で、何もスマホが変えてしまったのはこういったコンテンツの時間間隔だけでなくて、現実の時間感覚そのものを変えてしまったと思うんですよね。

> > 特に最近私が感じたのは、SNSをやっている時と、
> > 本を読んでいる時で時間の流れ方(正確にはその感じ方)が全然違うということですね。
> > 本読んでるときは「俺って時間セレブだよなー」みたいな感じです。
> > なんというか、金がたいしてあるわけでもないのにお高い店でランチを食べているような、
> > 読書にはそんなリッチさを感じるようになりました。

> はい、解りますよ、その感覚は(笑)。
> でもそれって、今までは普通だった事が、今では特別な事になってる訳で、
> 客観的に見た場合、果たして良い方向に進んでいると言えるのでしょうか?
> 例えば、経済発展重視で環境が軽視され、空は煙に覆われ、川は排水溝に化したとして、
> そうした社会の中で、雨の晴れ間に見えた青空や、ドブの隙間に見えた魚の姿などに、
> 思わず感動してしまう構図と似たモノだと思うんですよね。
> もちろん、そこから社会が改善されていく時も、同じように感じるのでしょうが、
> 環境が破壊された時と比べるか? 環境が破壊される前と比べるか?
> で、その評価は、まるで異なるモノとなるはずです。
> 言ってしまえば、環境改善で北京市民が抱く感動を、私は別に羨ましいとは思わないと。


時間感覚のスピードが早くなることは、環境汚染のように完全な悪なのでしょうか?
時間感覚が早くなろうと、別に本を読むことはできるわけで、別に後退だとは私は思いませんが。
それって例えるなら、高度成長期に日本経済が豊かになって外食が増えたため内食が減り、「内食が衰退して日本はダメになった」といっているようなものだと思うのですが。
もちろん、時間感覚の加速による弊害もありますが、そればっかりに目を向けるのはあまり正しいとは思えません。

▼ SFと昔のオタク文化

> > いえ、私はオタクですし、今でもかつて(80・90年代くらい)のガチオタに憧れるので、
> ちなみに、主にどんな分野のオタクなんですか?


特に何のオタクとかいうのはないです。ラノベも読みますし、アニメも見ますし、ゲームもしますよ。
庵野秀明がアニメも好きだし、特撮も好きなのと同じようなものです。

> > ネットを漁って80年代のSFボードゲームが手の届く価格で売ってないか検索したりしているのですが、
> そう言えば旧トルコ担当さんは、アシモフのSFが好きとの事でしたが、
> 昔から、ちょっと気になっていたんですけど、
> アイザック・アシモフというと、世間的にはSF作家として有名なのですが、
> 彼の本職は生化学者であり、化学や生医学の著作もあるんですけど、
> アシモフ・ファンの方は、そちらも読まれたりするモノなのでしょうか?
> 日本語だと「化学の歴史」や「生物学の歴史」あたりが出版されてますけども。
> https://www.amazon.co.jp/dp/448009282X
> https://www.amazon.co.jp/dp/4062922487
>
> あとSFと言えば、最近話題のSF小説「三体」って、既に読まれてます?
> 全3部作で、私はまだ第1部しか読んでないんですけど(第3部の日本語版は今年発売予定)、
> SFファンの中では、一体どんな評価なのかな?と気になりまして。
> まあ、そもそもSF自体、私はほとんど読んで事が無いんですけど、
> 近年活況を呈していると聞いてはいた中国産SFの、これが初体験でした。
> で、この作品が中国国内で累計2000万部と知り、そんなに市場が大きいんだなと!!
> 前回も少し話しましたが、単に日本と中国の人口の差という以上に、
> 中国のネット投稿小説の市場は、日本よりも先んじて既に大きく発展しており、
> サブカルを含めた文化面で、日本が成熟期なのに対して、中国には成長期の勢いがあります。
> (例えば成都というと、三国志の印象が強いですけど、今ではSF都市として力を入れてるそうで)
>
> 一昔前までは、日本に入ってくる中国の小説というと、武侠小説が主でしたけど、
> 今では、中国でヒットした作品が、英訳されて欧米でも流行り、
> その後で日本語版も発売されるという流れになってきているみたいです。
> 政治問題に触れない限り、中国政府も国家戦略として全面バックアップしてますしね。
> (政治的要素を含む作品は、作家たちも台湾の方で出版すると・笑)
> この三体も、オバマやザッカーバーグが絶賛した事で、日本語への翻訳が決まったとも?
> 本来なら中国から直接の方が近いのに、欧米経由じゃないと入ってこないというのは、
> 中国に対する評価の問題や、日本市場の魅力の問題など、いろいろ抱えていそうですけど、
> それでも、言葉の壁を越えて市場開拓している姿は、日本も大いに参考に出来るかも知れません。


『三体』は読んでないです。
前にハリ・セルダンの名前を出したからだと思うのですが、SFは勉強のためにちょっと読んだだけなんですよ。

> > 昔のオタクはもっと濃かったみたいな話は他の場所でもまれに聞くのですが、実際どんな感じだったのでしょう?
> > 私もなんとなく昔の濃いオタクにあこがれる気持ちはあるのですが、
> > では濃かったと言われる昔のオタクが具体的にどのレベルなのかは全然知らないんですよね。

> いや〜、私自身が実際にオタクだった訳では無いので・・・・
> でもまあ、言えるとすれば、例えばアニメなんて今よりもずっと作品数が少なかったですし、
> ゲームも今よりずっと高額だったので、1作1作をヤリ込む風潮は強かったですよね。
> それがオタク層ともなれば、1作を更に深く掘り下げると。
> だからこそ作り手側も、それに耐え得るように作り込む作品が一定数あった訳です。
> 今と比べれば小さな世界でしたから、極めようとすれば必然的に濃くなると。
>
> しかし現在では、アニメ作品は量産化され、ゲーム作品も無料化や低価格化が進み、
> 1作1作を味わい尽くすよりは、次から次へと消化していく楽しみ方がメインとなり、
> オタク的な楽しみ方も、掘り下げ型からデータベース型に移行していった気がします。
> もちろん、データベース志向の楽しみ方自体は、ずっと昔から存在するのですが、
> 以前であれば そうした層は、オタク層というよりは「マニア層」に分類されていたかな?
> そういう意味では、オタクの定義そのものが、マニアまで含む広い意味になったと同時に、
> 王道とされた従来のオタク的楽しみ方が、マニア的楽しみ方に主流を奪われた感じかも知れません。
> 言うなれば、「狭く深く」しか無かった所から、「広く浅く」へと変わっていった感じでしょうか。
>
> ちなみに、昔のオタク・レベルの具体例となると、解りやすい所でパッと思い付いたのは、
> マンガ夜話の「攻殻機動隊」の放送回(アニメ夜話の方じゃ無いですよ)でしたが、
> う〜ん、20年以上前の放送だから、今だと何処かで見られるのかなぁ?
> BSとは言え、NHKでそういう番組が出来てた時代が、確かにあったんですよねえ・・・・
> 逆に言うと、あんな地味でマニアックな放送内容なのに、
> それが人気番組として10年以上続くくらい、そういう濃い視聴者も多く居た訳です。
> という事で今回、記憶も曖昧になっていたので、内容の再確認がてら、
> 10年ぶりくらいに見返してみましたけど、やはり神回でしたね(笑)。
>
> って、そもそも、「マンガ夜話」って番組の存在自体は御存知ですか?
> 1つのマンガ作品を、1時間掛けて、徹底的に語り合う生放送番組でした。
> BSデジタル化に伴う、NHKのチャンネル削減の影響を受けて打ち切られたので、
> 最後の放送が10年くらい前でしたから、さすがにリアルタイムでの視聴は厳しいのかな?
> とりあえず、番組出演者の1人であった岡田斗司夫が、
> YouTubeで何本か、攻殻機動隊のマンガ解説動画をアップしているみたいなので、
> それを見れば部分的にでも伝わるかも?(いや私はYouTubeの動画は見てませんけど・笑)


マンガ夜話は一応知っていますよ。
といいますか、時代にかかわらずオタクの上位層がとてつもない知識量・考察を有しているのは知っているんですよ。
それこそ岡田斗司夫さんなんかはYouTubeで機動戦士ガンダム完全講座という狂気の動画シリーズで、ガンダム1話に対して毎回2、3時間語っていますから。
https://www.youtube.com/watch?v=mU_EqvPcE0w&list=PL1TOJRTrkimJYayzdGGrTuqMlBavE9rGK
ですが、別にオタクが全員そんなことができるわけではないと。
かつてオタクもレベルが高かったというのは、上位層の話ではなくて、全体としてという話だと思うのですが、かつてのオタクのミドルクラスはどの程度の知識があったのでしょうか?
いや、まあこんなことをオタクでもない管理人さんに聞いても答えられるのか分からないのですが。

> > > > > > 【以下追記】 > > > > >
>
> その後、YouTubeを見ていたら、何の巡り合わせか、
> ここ1〜2週間で、マンガ夜話を上げまくってる人を発見!!
> 全144回のうち、142回分あるみたいなので、ほぼほぼ揃ってますね。
> https://www.youtube.com/playlist?list=PLqYyhPV7mfynIxW4-GDMFfukCNvvNc369
> って、これだけ多いと、さすがに選ぶのも大変でしょうから、
> 個人的に面白かった回を、記憶頼りに思い付くまま、適当にラインナップ(笑)。
>
>  1位「攻殻機動隊」 https://www.youtube.com/watch?v=fzbqxGGg0kY
>  2位「肉弾時代」 https://www.youtube.com/watch?v=7QEQ2ztWjbk
>  3位「ブラックジャック」 https://www.youtube.com/watch?v=fnyp5ggNPxA
>  4位「燃えよペン」 https://www.youtube.com/watch?v=JwBrEpzrefw
>  5位「嗚呼!!花の応援団」 https://www.youtube.com/watch?v=Sd40TNbQxcE
>  6位「みどりのマキバオー」https://www.youtube.com/watch?v=fssggJrVfhg
>  7位「できんボーイ」 https://www.youtube.com/watch?v=Yl4UmyDffL4
>  8位「アストロ球団」 https://www.youtube.com/watch?v=NUM2UPDsbMU
>  9位「あしたのジョー」 https://www.youtube.com/watch?v=D18lVcvm66w
>  10位「魁!男塾」 https://www.youtube.com/watch?v=U68d6R38Nnc
>
> こうして改めて並べてみると、2000〜2002年が番組中期で最も脂の乗ってた頃かな?
> 2002年4月の「3夜連続・手塚治虫」(通常は1作家1作品に限定)により、
> 番組として1つの到達点に至った感じが、放送を見ていた当時も少しありましたからね。
> ちなみに この番組は、自分が読んでない作品の回でも充分に楽しめますし、
> オタク史的に見たいのであれば、却って知らない作品の方が、変に先入観が無くて良いかも?
> 個人的な思い入れがあると、批評に対して「それは違う!」と感情的になりやすいので(笑)。


いやー、私はむしろ真逆の意見ですね。
自分で作品を見て、自分なりにこの作品はこうなんだというのが面白いのであって、見たこともない作品の批評を見てなるほど、と思うのは、例えるのであればそれこそ石田徹也的な世界観かと?

▼ スクールカーストについて

> > > > 私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> > > > そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、
> > > > なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、
> > > > どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。

> > > これは逆に質問なのですが、実際の所、「スクール・カースト」ってどんな感じなんですか?
> > > 元々、アメリカの学校には、そうした階級制度っぽい構図があって、
> > > それが2011年にNHK-BSで放送された、海外ドラマ「glee」のヒットをキッカケに、
> > > 日本でも広まっていった概念なので、実は10年にも満たない学校文化であり、
> > > 正直言って、私には実状が、よく解らないんですよね・・・・
> > > もちろん、それ以前の学校にも、漠然としたグループ分けはありましたけど、

> > うーん、大学生なのであまり学校外の社会のことは知りませんし、
> > 昔の学校を知っているわけでもないので、説明が非常に難しいのですが、
> > やはりカーストという言葉がピッタリだと思われて、世間で使われだすくらいには階級社会という感じでした。

> 例えば、「階級社会」を感じさせた具体的なエピソードとかって、何かあります?


いやー、難しいです。
私自身、結局は小中高12年間しかいませんでしたので、昔の学校と比較できないので。
まだLINE以前と以後の変化とかであれば、直撃世代なのでかなり語れますが。

それこそお時間があれば『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を読まれては?
ラノベなのでちょっとだけ誇張はありますが、かなりリアルな現在の学校を描いてはいると思います。
読まれるのであれば、1巻読んだ後に4巻を読むのがおすすめです。
ちゃんとお嬢様の美少女ヒロインが出てくるラノベなのに、4巻ではいじめをテーマに取り扱うんですよね。

あるいは、学校内に階級規範みたいなものがあったからこそ階級社会っぽかったのかな?
とはいっても、前述のとおり、今の学生はみんな多様性を認めて、自分とは異なる文化の相手を認めて(無視して)くれますので、なにも階級社会で地獄、というのも違うんですよね。
もちろん小学校などはまだまだ野蛮なところはありますが。

> > > それに一般的な腐女子文化だと、下から逆マウントを取りたがるスタンスなので、
> > > カースト上位でというのは合わず、何となくライトな印象を受けてしまいます。
> > > まあ、ちょっとマニアっぽい部分をチラッと見せて、男心をくすぐるというのは、
> > > 女性のモテ・テクニックとして、昔からありましたので、それだと腑に落ちますしね。

> > ガチ腐女子なのかどうかは、私にはわかりません。私は腐ってもないですし、女でもないので。
> > ただ男オタクから見て、こいつはなんちゃってオタクだよなと
> > 見抜けるほどではなかったので、ある程度はガチなんだと思います。
> > 男心をくすぐるため説というのもないと思いますよ。普通にかわいい子だったので。
> > というか、容姿がよくなければカースト上位はまずは入れませんし、
> > もしかしたらこの辺の容姿第一主義がスクール・カースト時代の特徴なのかな?

> 容姿そのものと言うか、その「見せ方」の方が重要なんじゃ無いですかねえ?
> もちろん、元の素材が良いのに越した事は無いでしょうけど、
> オシャレとか、カワイイとかは、「雰囲気」で結構演出できる部分なので。
>
> また、「モテ・テクニック」と書いた事で、意味的に限定して捉えられたかも知れませんが、
> 相手の心を掴むテクニックというのは、やはり存在すると思いますよ(私は苦手ですが・笑)。
> 知らなきゃ出てこないような名称や単語を、自然に1〜2度出すだけで、
> ほとんど知識なんて無くて、相手は勝手に「詳しいんだ」と誤解してくれますし、
> その分野が好きな人からすれば、それだけで心を許してしまう上、
> 語れるほど知らないから聞き役に回るだけで、好きで語りたい人には却って好印象に映ると。
> 例えば、アシモフやクラークの名前くらいなら、一般人からでも出てきそうですけど、
> 「谷甲州」という名前や、「シュバルツシルト半径」という単語を出すだけで、
> 多少なりとも、SFを知ってそうなイメージになりませんか?(笑)


うーん、雰囲気ではあまりとりつくろえないと思いますよ。
お化粧しているわけでもないですし、その辺の基準はもっと残酷に顔だと思います。
またカースト上位であることとモテることはまた微妙に別ですので、仮にテクニックで何人かの男の子の心をつかんだところで、全体の評価は変わらないと。

▼ 中間が喪失した要因?について

私はこれからの社会、人間関係グローバル競争社会なんじゃないかと思っているんですよ。
どういうことかというと、資本主義で経済的利益をめぐる競争が行われてきたように、人間関係も競争の中で勝ち取るものになっていくと。

そもそもですが、自由化というのは聞こえはいいように見えて、結局は自由化=格差社会であり、それが進めば階級社会にしかなりえないと思うんですよ。
例えば資本主義がそうです。ギルドとかが廃止されて、だれでも身分制度に縛られず自由に仕事を選べる自由経済社会というのは、結局のところどれだけお金を稼げるか競争する社会に過ぎず、それは所得格差を生み、さらに階級を生んだと。
自由恋愛もそうです。70年代に自由恋愛社会が到来したときは、今までの親に決められたお見合い結婚に縛られず、自由に結婚相手を選べると、あの時代誰もが夢を見たと思うのですが、それは結局どれだけ持てることができるかの競争にしかすぎず、モテ格差は早くも80年代初めにオタクを生み、さらに現代では生まれつきの容姿によって、恋愛をできる層とできない層がはっきりしてしまったと。
階級社会というのはそれをさらに一歩進めて、上の階級と下の階級が別々のことを考え始める社会だと思うんですよね。
資本主義における階級は説明するまでもないでしょうし、現代の恋愛においても、モテない奴ほど自分は恋愛に興味がないと思っている。それは格差社会的な負け犬の遠吠えではなく、階級社会の自分で自然とそう思うことができる、優しくて残酷なシステムだと思うんですよね。
今、人間関係はその段階にきていると。
自由化による格差社会はそろそろ終わりを告げ、そろそろ下層階級は友達はいらないと思い始めている。
『俺ガイル』の主人公も、またそういう人間の一人だからこそ、私はすごく共感できますし、1000万部を買っている読者も同じなんじゃないかと推測します。
ベーシックインカムとかも、その延長線上にあると思うんですよね。
BIが普及した世の中というのは、働いたら負けだと思っている下層階級と、働くことこそ生きがいだと思っている上層階級に分裂すると思うんですよ。

これに関しては自分でもそんなに単純なのか?とは思っているので、そこまで信じ切っているわけではないですが。

▼ 百合について

> > > > 多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、
> > > > 10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
> > > > やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが
> > > > 現在の百合の根底にあると思います。

> > > ちなみに、それを示す資料か何かはあったりするのでしょうか?
> > > 難しければ、そんな願望を叶える作品の存在とか。
> > > いや別に、男オタクの少女趣味とか少女化願望というのは、昔からあったりしますし、
> > > それこそ昨今、キャッキャウフフを眺めていたいという願望だけでなく、
> > > キャッキャウフフに混ざりたいという願望があるとは聞きますけど、
> > > それがイコールで、「百合」というモノに繋がるとは必ずしも限らないと思いますし、
> > > 「女の子になって女の子と恋愛したい」というのが、果たして百合なのか?というのあります。

> > 百合かといわれると微妙ですね。隣接文化でしょうか。ガンダムシリーズとガンプラみたいな。
> > 一応別の文化だけど、深く関係している感じです。

> では、百合と女装コスプレが「隣接文化」である事を示す根拠はあるのでしょうか?
> ガンダムとガンプラなら、それを示すのも容易でしょうけど、
> 百合と女装コスプレは、それすらちょっと難しくありませんか?
> 現状では、旧トルコ担当さんが、そのように感じたというだけの話な気がして、
> 厳しく言うと、少なくとも現時点では、私はまるで腑に落ちていません。


いやー、難しいです。
この辺は本当に、それこそ岡田斗司夫さんが『オタク学入門』で指摘している"見立ての文化"なので、その外の文化圏の人に説明するのがすごく難しいんですよ。
例えるなら、オタク文化と縁もゆかりもない70台のおじいちゃんに、なぜ中身がおっさんのVTuberに萌えられるのかを説明するようなものかと?

> > > > ただ、それを聞いた上でもやはり90年代の百合と現在の百合はやはり変化していると思いますよ。
> > > >  (中略)
> > > > だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、
> > > > キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。

> > > こちらも、百合人気の違いを示すデータとかは、何かあったりするのでしょうか?
> > > 上記を含め、この2点に関しては、ようやく具体的に聞けた「百合の変化」ですので、
> > > 是非とも返信を期待したい所ですね。
> > > いや、東方・アイマス・ラブライブ・艦これといった題材が、
> > > もう古典として、今でも安定的な人気を保っているのは承知の上で、
> > > それでも特に「百合人気」を測るというのは、なかなか難しい事だと思うので。

> > うーん、百合人気の違いを示すデータといわれるとなかなか厳しいです。
> > なんとなくの感覚しかないですが、きらら系の低年齢キャラの百合は30代以上の社会人メインな気がします。
> > それに対して、高校生以上くらいになってくるとどちらかというと20代以下くらいが多い印象かな?

> 要するに、旧トルコ担当さんの個人的な肌感覚って事でしょうか?
> pixivの話とかされていたので、作品ごとの新規投稿数と、
> そこに付けられる百合タグの比率の違いとか、その辺の考察を想像してました。
>
> ちなみに、きらら系の人気は年齢層が高めというのは、何となく私も解ります。
> アニメ化基準で言うと、2007年に「ひだまりスケッチ」、2009年に「けいおん」で、
> 2011年に「ゆるゆり」、2013年に「きんモザ」、2014年に「ごちうさ」がですから、
> きらら系のブームがあったのって、今から10年くらい前の話ですからねえ。
> 10年経てば、当時の大学生も社会人になってる訳で、投稿活動とかも減ってる事でしょうし、
> ブームがあったからこそ、その時代を象徴し、時間の経過と共に落ちて行くなど、
> そうした傾向は、もちろん「あるんだろうなぁ」とは思います。
>
> あと、誤解の無いように言っておくと、
> 別に私自身は当時から、きらら系のファンだったとか、そういう事では無いですし、
> そもそも百合自体、ほぼ関心がない事を、改めて言っておきます(笑)。
> 旧トルコ担当さんが、私の知らない「百合の変化」があると話されたので、
> 百合文化が萌え要素を内包した際の実例として、きらら系の話を出しただけですから。
> で、結局の所、その変化というのは具体的に何だったのでしょうか?
>
> 「対象キャラの年齢層が高まった」という事であれば、それはそれとして変化なのでしょうけど、
> でも一方で、百合が萌えまで含んだ際に、萌え方面に引っ張られていた状況が、
> 時間経過と共に落ち着いたと捉えると、それは「元に戻った」という変化なのでは?
> もし仮にそうだとすれば、大本の話だった「新しい文化」とまでは呼べませんよねえ?
> あと気になったのは、アイマス・艦これ・ラブライブあたりも10年戦士だと思いますが、
> この10年の間に、一世を風靡するような、新しい百合題材の登場は無かったのですか?
> そうなると結局、そちらの方面からも「本当に新しくなってるの?」という疑問は生まれます。


元に戻ったというのは違うと思いますよ。
百合キャラクター対象年齢が上がったというのは、より百合がシリアスになった、ということですね。
例えるなら、マジンガーZ以降のスーパーロボットと、ガンダム以降のリアルロボットのような違いでしょうか?
きらら系というのは、年齢低めのキャラクターの友情と百合がもう少し未分化なところを主に扱っていて、そもそもきらら系が仕事に疲れたおじさんオタクたちが癒しを求めて読むものだと。
それに対してここ10年の年齢高めのキャラクターの百合というのは、もう少し重くて、より癒しよりも恋愛ものに近い、という感じです。
あと一世を風靡する作品がないというのは、百合に限らず時代の傾向かと?
個人的には、鬼滅の刃みたいな大ヒット作品は、リアルな人間関係の中から生まれ(極グローバル)、極ローカルはネットの中から生まれると思っていますので、百合は基本的にリアルなコミュニティではないところで受容されている以上、巨大作品が生まれないのは必然だと思うんですよね。

ちなみに、百合界の中で最もファンの多いカップリングはVTuberのかえみとなんですよね(Pixivの作品数基準)。
要因としては、やはり他の百合作品が切り抜き動画による知名度だと考えています。
他の作品形態、例えば漫画であればお金を出して購入する必要がありますし、アニメであればテレビ放送であれば時間を合わせてみなければならないなど、どうしても拡散性に難があるのですが、Vの切り抜き動画はタダで見れて、おまけに拘束時間も短い。
この辺はソシャゲの優位性と全く同じですね。

> > で女装率が急激に上昇してるのがここ1、2年でしょうか?
> こちらに関しても、データではなく肌感覚ですかね?
> まあ別に、私はデータ至上主義者でも無いので、肌感覚も指標の1つにはしてますが、
> ただ、私の肌感覚とは異なってる為、そうなるとやはり客観的なデータの登場ですよね。
> 前回も少し触れましたが、例えばコミケはコスプレの無秩序化を防ぐ目的で、
> 更衣室使用の義務化&有料化を始めた為、データが残されているのですが、
> それを見ると、男性レイヤーの女装率までは解りませんけど、レイヤーの男女比が、
> 20年前は「男1:女4」、10年前は「男1:女3」、そして現在は「男1:女2」なのが解ります。
> 全体のレイヤー数は増加し、女性レイヤー数も微増なので、
> つまりは、男性コスプレイヤーの絶対数が増えている訳ですね。
>
> その一方で、近年はコスプレ・イベントの商業化が進んだ事で、
> 「男性レイヤーの女装コスプレ禁止」を謳うイベントが、かなり増えてるらしいんですよ。
> だからと言って、女性レイヤーの男装コスプレを禁止しているイベントは無いと!!
> これは、文化としてコスプレを見た場合には、非常に不健全な状態と言えますが、
> コスプレする側は圧倒的に女性が多く、それをカメラで撮る側は男性が多い現実を踏まえつつ、
> 商業主義的な視点に立てば、「お客様が望まない商品は置かない」という姿勢になります。
> まあ元々、男性の女装はネタに走りやすい傾向がありましたし、
> スネ毛の処理などをしないと、非常に見苦しい印象を受けるのは確かなので、
> 排斥したい意見が多いのは理解できますけど、実際に排斥して良いかは別問題なんですよね。
> 性別・容姿・年齢・人種などで差別が横行しては、趣味の世界が窮屈になりますから。
>
> で、結局は何を言いたいかというと、本当に女装率が増えたのかは解らないものの、
> 「男性レイヤー自体の増加」と、「女装コスプレに対する不寛容化」という2つの現象が、
> 現在起きているのは客観的な事実なので、女装率が急激に増えたと言うよりは、
> 単に「目に付くようになっただけ」という可能性も、有り得そうという話ですね。
> それこそ、前々からある街中の広告看板とかでも、今までは気にも止めてなかったのに、
> 子供が産まれれば保育園の、自分が病気をすれば病院や保険の、親が歳を取れば介護や葬式の看板が、
> 急に目に入ってくるみたいに、周囲の変化より自身の変化で見え方は大きく変わるモノなので。


はい、この辺もぶっちゃけ肌感覚です。
自分としてはそう間違っている気もしてはいないのですが(ネットだけでなく、学校でも女装や百合の話はしていましたので)、客観的なデータじゃないから信用できん、というのは最もかと。
ちなみに女装というのはコスプレではなく、私服の女装ですので、コスプレイベントはあまり関係ないかと。

> > > この場合のVTuberとは、男性が美少女アバターをまとう「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の事?
> > > それとも、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberの事でしょうか?
> > > まあ前者の場合、中の人が男性だからこそ、同性の心の機微に通じてるみたいな感じで、
> > > 「こんな可愛い子が女の子のはずがない」的な世界観を築いてる方も、きっと居るのでしょうが、
> > > しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
> > > もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
> > > 基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・
> > > って、百合趣味少女×女装ドS少年の「まりほり」くらいなら、まだギリとしても、
> > > バ美肉おじさんまで行くと、果たして百合文化の範疇で捉えて良いモノなのでしょうか?

> > ボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし
> > →いえ、慣れると案外気にならないらしいですよ。
> > 確かねとらぼでそんなアンケート結果(美少女VTuberの声がおじさんでも応援しますかみたいなやつ)があったのですが、
> > 8割くらいの人が応援できるだったと思います。

> いや別に、気になる気にならないの話をしているわけでは無いので・・・・
> と言いますか、気にならなくなる事くらいは私も解ってますよ(笑)。
>
> 例えば、NHKで人気のチコちゃんとかも、5歳の少女という設定ですが、
> 中の人がオッサン(芸人の木村祐一)である事に、いつまでも違和感が残るようでは、
> あのような人気を獲得する事など出来ないと思うんですよね。
> ですが、その一方で、あの声を本当に5歳の少女のモノだと信じてる人もまず居ないと。
> 要するに、そうしたギャップも含めて、1つのキャラクターとして認知されてる訳です。
> であるのに、5歳の少女という設定部分だけを切り出して、
> その人気を「日本ロリコン化の象徴」なんて意見が出たら、「ハァ?」となるのと同様、
> バ美肉という現象を、百合文化に求めるのは違うんじゃないの?と言いたかった訳です。


この辺も女装と関連するのですが、結局百合というのは女の子になりたい願望が強く出ていると思うんですよね。
バ美肉おじさんというのも、いわば女装の一種であると。

いや、ほんとこれ説明できないんですよ。
見立て文化というのは、『オタク学入門』によれば、竜安寺の石庭の砂が波に見えるようになるとか、人形浄瑠璃の黒子が見えなくなるとか、ジャンプ漫画がBL漫画に見えてくるみたいな、その文化圏においてはある見方・見え方が共有されているという文化なので。
こう、このジャンプ漫画のAとBは絶対付き合ってるじゃん、みたいな、そういうのは外の世界には本当に説明しずらいんですよ。

▼ 世代の共通体験について

> > 2010年代くらいに書かれた本だったと思うのですが、
> > その著者曰く、今の若者世代には共通の言語というものが存在しないと。
> > それは漫画でもいいし、ライトノベルでもいいんだけど、
> > この世代ならばみんなが何となく知っている何かという共通のものを持っていたほうがいいと思うのだけれど、
> > 今の世代にはそういうものが無いと。
> > で、この話って若者世代である私からすれば正しいと思うんです。
> > 確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
> > そしてその共通の言語みたいなものを持たなかった、作れなかったというのは、我々世代の選択だと思うんですよ。
> > 決してそれは貧しいからではなく、我々はそういう方向性を自らの意思で選んでいったと。

> ぶっちゃけ、そんな主体的に「世代の選択」を皆でとかしてると、本気で思われてます?
> 大半の人は文化を消費するのみという、これまでの話とは、まるで異なる解釈になってると思いますよ。
> それに例えば現在、鬼滅の刃が異常にヒットそてますけども、その理屈で言うと、
> 今の子供たちが「これを私たちの共通作品にしよう」と、そんな感じで選んだと思えますか?


周囲で流行っているものをどりだけ意識的に取り入れるか、というのは大きいと思いますよ。
みんなが鬼滅面白いと言っているから、とりあえず読んでみようと思うのか、自分は興味ないやと思うのか、そこは意識しているのでは?

> 基本的にヒット作というのは、産むモノなのではなく、産まれるモノなんです。
> マンガの話であれば、例えば「ジャンプ黄金期」と呼ばれる時代は何度か訪れましたけど、
> 逆説的に言うと、黄金期と黄金期に挟まれた「冬の時代」は、どうしたって出てくるんです。
> それは運的な要素もありますし、時代の巡り合わせというモノもあるのですから、
> 別に、素直に「自分たちの世代はヒット作に恵まれなかったね」で良いじゃないですか。
> そこを無理して、変な理由をあれこれ付け加える事こそ、却って拗れさせてる印象を受けますよ。
>
> あと、そんな言うほど、本当に「誰もが知ってる作品」って無かったんですかねえ?
> 実際に少年マンガで考えてみると、
> 60年代から70年代にかけて「あしたのジョー」「巨人の星」があり、
> 80年代には「北斗の拳」「キン肉マン」「タッチ」があり、
> 90年代には「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」があり、
> 00年代には「ワンピース」「ナルト」「名探偵コナン」があり、
> 10年代には「進撃の巨人」「銀魂」「キングダム」があり、
> 20年代となった現在も「鬼滅の刃」「呪術廻戦」があるじゃないですか。
>
> まあ確かに2010年代のラインナップは、他の時代に比べると少し弱い気もしますが、
> でもそれは、2000年代の作品が長期連載だった事も大きいと思うんですよね。
> 要するに、00年代の代表作は、10年代においても代表作であったと。
> 人気作でも連載期間が数年だった2000年以前は、
> まさしく、「これは俺たち世代の作品だ!」って独占感がありましたけど、
> 数世代に渡る人気作には、話が通じる幅の広い共有感がありますし、
> 独占感が弱くても、世代的な共通言語の役を成さない訳では無い気がします。


いやー、「誰もが知ってる作品」は有りませんでしたよ。
これに関しては実際に経験してきたことなので、結構自信を持って言えると思います。

> ただその一方で、単行本よりも週刊誌で読む方が、
> リアルタイム的な連帯感は、強まっていくかも知れませんね。
> (前述した深夜ラジオも、生放送ゆえに、そうした連帯感は非常に強かったですし)
> また、週刊誌であればこそ、毎週毎週決まった曜日に、常に盛り上がれる話題があり、
> 時には校則に反して学校に持ち込み、先生に隠れて、みんなで回し読みをした経験は、
> 作品それ自体(共通言語)以上に、「共通体験」として強く記憶に刻まれてるはずです!!
> そう考えると、その世代を代表するヒット作の有無よりも、
> 週刊誌から単行本、更には電子版へと移行し、マンガが個別体験となった所こそ、
> 「共通言語の消失」という面では、実は大きいのでは無いでしょうか?


確かに、内容以上に共通の体験をしてきたというのは大きいと思います。
それこそ、みんなで読みまわしをしたなんて言うのは、内容以上に世代の共通体験になっているのでしょうね。
それはあると思います。

▼ 検索手段について

> > 私自身は今の、マニアックなものでも検索すればたいていたどり着ける環境というのが好きですし、
> > 昔とどちらが良いかと聞かれれば、本屋が失われて選択肢の幅が狭まったのを知ってもなお
> > 昔より今の環境のほうが好きです。

> ふと感じたのですが、ネット検索の限界って、どれくらい感じられてます?
> また、その時の対処法って、どのような手段を持たれてます?


> それと「検索する」にしても、事前に取っ掛かりが無いと「調べる」事さえ行えないですよねえ?
> また、前回も少し触れましたけど、調べる前から、それっぽい答えを与えられると、
> ググらない若者のように、わざわざ調べようともしないですし、
> いざ調べようと思っても、本格的に調べるコツが解らない・・・・
> サジェストされる候補ワードの中から選び、出てきた1ページから探すだけでは、
> まともに深い情報なんて出てきませんし、それで満足できちゃう程度だとも言えます。
>
> そういう意味では、検索エンジンの特性を知る事だったり、
> 本当に欲しい情報に辿り着く為に必要な事前の用語知識だったり、
> 余分な情報を排除する為のワード・センスだったり必要となりますけど、
> それらを駆使しても尚、ネット上にある情報だけでは限界に達するんですよね。
> どんなに検索した所で、デジタル化され、公開されてる情報には限りがありますから。
> そうした場合、やはり残されるのは、アナログ的な情報取得になります。
> もちろん、アナログ情報だけあれば充分な訳ではなく、
> アナログにはアナログの、デジタルにはデジタルの、それぞれ長所と短所があり、
> それを上手く組み合わせていくのが理想的な姿なのですが、
> 最近は、アナログが姿を消し、デジタル化一辺倒になりつつあると・・・・
>
> そして、これは「ノイズ」の話にも繋がるのですが、
> デジタル情報だと、ほぼ自分が欲しい情報しか入って来ないようになる為、
> アナログ情報みたいに、別に求めてなかった情報まで入ってくる機会が少なくなります。
> そうなると、どうしたって視野は狭くなりますし、調べる取っ掛かりすら得難くなります。
> 最も解りやすいのはニュース情報とかでしょうか?
> テレビや新聞なら、知ろうとも思わなかった情報が、思わず手に入ったりしますが、
> ネットだと知りたい情報ばかりとなり、自ら新たに知ろうというのも実際は難しい。
>
> 言うなれば、食事における「配膳方式」と「バイキング方式」の違いみたいなモノですよね。
> 配膳方式だと、苦手な料理も出てくる一方で、新しい出会いもあり、そして何よりバランスが良く、
> バイキング方式だと、上手く使えば理想的なものの、実際は好きなモノばかりでバランスを欠きがち。
> なので学校給食などでは、バイキング方式よりも配膳方式の方が適しているでしょうし、
> もしも小中学校でバイキング方式を採用する場合は、事前の「食育」が必須かと思われます。
> そういう意味では、ネット使用の食育にあたる「情報リテラシー」教育も重要だと感じますが、
> 現実問題として、それが充分満足に行われているとは、とても思えず・・・・
> ネットは、あくまでも「道具」なので、使い方を覚えれば非常に便利ですけど、
> 逆に、その道具に振り回されてしまうような現状というのは、あまり望ましい状態とは思えません。


今私が持っているやり方では、グーグル検索以外に、CiNiと図書館検索くらいですかね。
グーグルは便利ですが、結局全部は出てこないと。
グーグルで出てこないものを調べるには、図書館でとりあえず思い当たるワードで検索しまくって、ヒットした本の目次をざっと見てみる。
それで目当ての情報がありそうであれば、本文も読んでみるという感じですかね。
あと重要なのが巻末の参考文献。下手な本だと、本文よりこっちのほうが役立ったりしますw
リアルな本は時間がかかりますが、ネットにない情報を得る手段は自分はこれしか知りません。
あとあるとすれば、ツイッターでフォロワーに聞くとかですかね。
これに関しては、私は教えるばかりで使ったことはあまりないです。

私の場合こんな感じなのですが、実際検索スキルとしては高いのでしょうか?低いのでしょうか?
あとおススメの検索方法などあれば教えてください。

(追記しました) https://ux.getuploader.com/dialogues_txt/download/478
パスワードは522です


[23587] Re:ネット時代の超ローカル文化と雑談返信 削除
2021/5/26 (水) 19:09:06 徳翁導誉

> 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

う〜ん、ここまで説明して尚、
そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
もう、それで良いんじゃないですか?
柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。


・・・と、私としては、これで終わっても構わなかったのですが、
ここまで長文の返信を戴いて、それで終えては失礼かとも思いましたので、
お尋ねしますけど、どうしましょう、このまま続けます?
一応、3分の1くらいは返信を書いてあるので、
お望みであれば、また次回にでも投稿は可能ですけども。


[23591] 前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/5/26 (水) 22:45:11 旧トルコ担当

> > 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> > 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> > だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> > といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……


> う〜ん、ここまで説明して尚、
> そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
> もう、それで良いんじゃないですか?
> 柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。
>
> ・・・と、私としては、これで終わっても構わなかったのですが、
> ここまで長文の返信を戴いて、それで終えては失礼かとも思いましたので、
> お尋ねしますけど、どうしましょう、このまま続けます?
> 一応、3分の1くらいは返信を書いてあるので、
> お望みであれば、また次回にでも投稿は可能ですけども。


もし私の文章が管理人さんを不快にさせているのであれば大変申し訳ありません。
私としては、上記の文章は「バカな自分には管理人さんの文章をその程度しかできてないです」というような意味合いで書いたのであり、私の理解度を正確に管理人さんへ伝えようという意味以上のものはありませんでした。
しかし、結果として管理人さんの誤解を招いた場合は、それは私の文章に問題があったと思っております。
すみませんでした。

その上で、私の希望としてはメインの極ローカル文化の話だけでよいので、聞かせていただきたいです。
以前にも私は管理人さんへの返信を一ヶ月ほど放置しましたし、管理人さんが以降返信しなくなっても、私は失礼ではないと思います。

ですが、学ぶ気はあります。
今でも、管理人さんが選択肢の幅が狭くなっている、と指摘される根拠が私にはよく分かりませんが、だからこそ、今から2、30年前の、ネット以前の世界というのにはとても興味はあります。
私自身、年齢を重ねるごとにネット以前の世界の記憶と言うのはあいまいになって来ています。
(私の場合、10才前後からネットを使い始めたので、ネット以前の世界を知っているつもりでありながら、思春期をネットと共に過ごし、もはや完全にネット世代側、なのかもしれません)
だからこそ、ネット以前の世界がどういった世界であったのか、というのは一層興味がありますし、管理人さんほどの方にその話を聞かせていただけるのは、もしかすれば私の人生の中も相当に貴重な機会なのだと思っています。
私は、管理人さんの返信をいつも非常に心待にしていましたし、現にここ数日は朝晩二回づつここを覗いていました。
同じことの繰り返しになりますが、管理人さんの返信を否定するのは、私が理解する気がないからではなく、管理人さんの指摘することが本当に分からないからです。私が自説を強く主張するのは、聞く耳がないからではなく、今の自分の本心を上手く伝えるためです。

図々しいですが、私が知りたいことを整理すると、
・現在の文化(あるいは文化だけではないのかもしれませんが、それは置いておいて)から中間が失われている、というのは同意します
・その上で、リアルな世界が極グローバル一色になっているというのも同意します
・ですが、私には極ローカルというのがネットに残っているような気がしてなりません
・それについて、管理人さんが極ローカルも残っていないと指摘される根拠が知りたいです
・可能性は二つあると思います。私がネット以前の世界(具体例で言えば、ゲーセンや本屋などの世界)を理解した気になっていて、実のところ理解していない。もうひとつは、私のネット世界への理解が浅い。

この点に対して、管理人さんの見解を聞かせていただければ、というのが私の希望です。

#####

言い訳させていただければ、
> > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

も、私が正しくて、私の正しい見解を管理人さんが理解されていなかったのか、ということではなく、私が勝手に、管理人さんも中間は失われたけど、極グローバルと極ローカルは残っていると考えていると言う前提で返信をしていたら、管理人さんが極グローバルだけになっていませんか?と返信されたので、ああ管理人さんは極ローカルはなくなったと考えていて、そこを誤解しているから、今まで話が食い違っていたのね、ということなんですよ。


[23594] Re:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/1 (火) 20:00:52 徳翁導誉

> > > 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> > > 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> > > だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> > > といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> > > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

> > う〜ん、ここまで説明して尚、
> > そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
> > もう、それで良いんじゃないですか?
> > 柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。

> もし私の文章が管理人さんを不快にさせているのであれば大変申し訳ありません。

いや別に、不快に感じたとか、怒ったとかいう事では無いですよ。
ただ、少し徒労感を抱いたというのは、偽らざる本当の気持ちですね。

前回、返信を3分の1ほど書いたものの、未投稿に終わったというのも、
話題的にループし出した為、「繰り返しになりますけど」という書き出しが多かったり、
話の前提が大きくズレ出した為、「当然の話ですけど」という書き出しが多かったりと、
流れ的に負のスパイラルに陥り、このままでは不毛な方向に迷い込む実感があった為、
そういう意味では、一種のショック療法的な方法を用いて、
その悪い流れを変えたい意図があっての、あのような文章でもありました。

まあ正直言うと、これまでにも3回ほど、密かに別の方法で軌道修正を図っていたのですが、
その度に、却って裏目に出てしまっていた感じがありましたからね(笑)。
ただ今回の方法だと、恐らく旧トルコ担当さんを混乱させるであろう事は想定でき、
申し訳ない気持ちもあったのですが、これ以上の方法が思い浮かばなかったもので・・・・

> しかし、結果として管理人さんの誤解を招いた場合は、それは私の文章に問題があったと思っております。
> すみませんでした。

いえいえ、確信犯的に敢えて行った私の方が、謝るべきなんでしょうね。
こちらこそ、すみませんでした。


> 私自身、年齢を重ねるごとにネット以前の世界の記憶と言うのはあいまいになって来ています。
> (私の場合、10才前後からネットを使い始めたので、ネット以前の世界を知っているつもりでありながら、
>  思春期をネットと共に過ごし、もはや完全にネット世代側、なのかもしれません)
> だからこそ、ネット以前の世界がどういった世界であったのか、というのは一層興味がありますし、

え〜と、その「ネット以前の世界」というのは、
旧トルコ担当さん自身の主観的な「世界」と、
社会全体としての客観的な「世界」とが、ゴッチャになってる感じが・・・・

たとえ年齢的に、自分自身はネットを利用していなかったとしても、
社会の方では既に、デジタル化が進んでネットが基本となってた時代であれば、
それはもう「ネット以後の世界」だと、私は想定して書いていますね。
個々の体験に関わらず、アナログ社会からデジタル社会へと移り変わった世界こそが、
「ネット以後の世界」であろうと考えているので。

そして、ネット普及率が7割を超えたのが2005年で、
スマホ普及率が7割を超えたのが2015年ですから、
旧トルコ担当さんは恐らく、デジタル・ネイティブ世代と呼べると思いますよ。
まあ私自身の認識としては、90年代前半までがアナログだけの世界で、
90年代後半から00年代がアナログとデジタルが共存する過渡期、
10年代以降は もうデジタル中心の世界って認識ですね。

> 管理人さんほどの方にその話を聞かせていただけるのは、
> もしかすれば私の人生の中も相当に貴重な機会なのだと思っています。

いや、そんな別に大層な事では無いと思うんですけどね。
所詮は、雑談なんですし(笑)。
・・・って、そう言えば、ここでの雑談をキッカケに「理系の大学に入り直しました」とか、
事後報告されて、コチラとしても驚いてしまった経験とか以前にも有りましたし、
う〜ん、あんまり気軽な感じで書くのは、実は軽率な行為だったりするのかなぁ?(苦笑)

> 同じことの繰り返しになりますが、管理人さんの返信を否定するのは、
> 私が理解する気がないからではなく、管理人さんの指摘することが本当に分からないからです。
> 私が自説を強く主張するのは、聞く耳がないからではなく、今の自分の本心を上手く伝えるためです。

はい、旧トルコ担当さん御自身が、そう思われて発言されているのは解るんです。
ただ一方で、それを受ける側からすると、「聞く耳がない」と感じられたのも事実ですし、
その事に対して、御本人が無自覚だからこそ、「これは改まらないな」と感じたのも事実です。
自分でも解った上で、敢えて我を通してる場合と違い、
無自覚だと、まずは自認が必要となり、これってかなり高いハードルなので。
そういう意味では、だからこその、前回のような返信になったとも言えますね。

人間というのは誰しも、自分の中の「頭の中の辞書」を使って、物事を理解しようとします。
そうした方が、脳は省エネで効率的に、その物事に対する処理が行えますからねえ。
大人になると、固定観念に囚われやすくなるというのも、その副作用だったりしますし、
逆に言うと、子供が学校などで いろいろと学ぶのも、辞書作りをする作業だと見なせます。
そういう意味では、制作途中である子供の辞書などというのは、
年齢が幼いほど、その内容は滅茶苦茶だったりするのですが、その分だけ面白味に富んでおり、
年齢を重ねるほど、その内容が整っていく反面、次第に編集作業の頻度が落ちていきます。
要するに固定観念とは、判断基準となる辞書が、改訂や増補されなくなる事で生じる訳ですね。

で、何でこんな話をするかというと、旧トルコ担当さんの場合、
現時点で理解できない事を、無理に理解しようとし過ぎなんじゃ無いでしょうか?
解らない事があった場合、「解らない」と一旦保留し、
そのまま頭の中に留めておく事も、かなり重要だと思うんですよ。
だって、頭の中の辞書に載っていない内容は、そう簡単には理解できないはずなので。
そして、その後の理解度に応じて、こういう見解もあると注釈を付けたり、
従来とは異なる価値観もあったと両論併記にしたり、
納得できたから書き換えたり、やはり不適当だと改めて削除したりなど、
子供の頃のように、頭の中の辞書の「編集作業」を続けていけば良いんです。

それを強引に、今ある辞書の中身だけで、全てを理解しようとすると、
どうしたって無理が生じてきますし、その無理を押し通せば、道理が引っ込んでしまいます。
今までの認識には合わない、新しい情報を得た場合、認識の方を柔軟に対応させるのか、
はたまた、情報の方を認識に合わせてしまうのかでは、大きく異なるんですよね。
それだと「科学的な理解」ではなく、「宗教的な信仰」になってしまいますし、
そうなると「解るか否か?」ではなく、「信じるか否か?」になってしまいます。
まあ、そこまでは行かないにしても、やはり論理的では無くなる事でしょう。
つまり私が言う「聞く耳」とは、自覚の有無を問わず、こうした姿勢の事を指しています。

でも正直な所、そんな編集作業を行わない大人の方が、世間的には多数派であり、
それはそれで、その人たちの姿勢が間違ってるというモノでもありません。
結局は、個々人の価値観の問題ですし、そこまで考えるのは実際面倒だと思います。
一旦保留なんてスッキリしませんし、出来上がった辞書の編集作業を続けるのも大変で、
「それが常識だ」と無意識に決め付けてる方が、脳の負担的にも楽は楽なんですよね。
とは言え、そのような姿勢では、見識は広まりませんし、客観的事実にも近付けません。
で、これは恐らく、私が理系の人間だからかも知れませんけど、
そうした面を軽視する方が苦しくなるので、個人的に「楽」と思える方向に進むべく、
自分の中の常識自体(辞書の内容)を、積極的に書き換える姿勢でありたい訳ですね。
それこそ科学の世界だと、自らの日常的な感覚とはズレていても、
データがそれを正しいと示していれば、そちらの方を重視するのは当然の事なので。

・・・と、我ながら、随分と説教臭い話をしている自覚はありますが(笑)、
こういうモノの見方って、世の中の先行きが不透明な昨今だからこそ、
非常に重要になってくるスキルの1つだと思いますし、
若いほど対応もしやすいので、今から変に凝り固まる必要は無いかと思います。
以上が、前回書いた「柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要」の詳細解説ですね。


> 図々しいですが、私が知りたいことを整理すると、
> ・現在の文化(あるいは文化だけではないのかもしれませんが、それは置いておいて)から
>   中間が失われている、というのは同意します
> ・その上で、リアルな世界が極グローバル一色になっているというのも同意します

国家レベルで「社会」というモノを見た場合、
「政治・経済・文化」という3つの主な構成要素があると思うのですが、
この3要素はそれぞれリンクしており、基本的な構造としては、
政治的な変化が、経済的な変化をもたらし、
経済的な変化が、文化的な変化をもたらすモノだと思います。
そういう意味では「政治→経済→文化」という順に、影響が表面化しがちなので、
それこそ、中間層の喪失であったり、グローバル化であったりというのが、
文化にどんな変質をもたらすかも、経済の変質や、政治の変質ぶりを踏まえると、
10年後20年後の姿も、何となくですが推測できるような気がするんです。

また、それとは別に、社会に影響を及ぼす要素が「技術」の革新でしょうね。
これが起こると、政治も経済も文化も変化を余儀なくされます。
近年で言えば、ネットの登場こそが、まさしくそれに当たろうかと。
そして、これは前々回の投稿で旧トルコ担当さんが触れられていましたが、
「ベーシック・インカム」に関しては、私もゴチャゴチャと纏まり無く、少し考えてますね。
導入へのハードルは恐ろしく高いものの、政治・経済・文化を変え得る・・・と言いますか、
それらの諸問題に対して、解決法となり得る1つの「技術」かも知れませんので。

あと、それが導入された際の 良いイメージ像にせよ、悪いイメージ像にせよ、
イメージに実感が伴うか否かって、実際に冷戦を知ってる世代と、
新自由主義の時代しか知らない世代とでは、恐らく大きく異なるのかな?とは思います。
でもまあ、古い世代は古い世代で、不必要にマルクスとか引っ張り出しがちな面もあるかな?(笑)
それこそデジタル社会主義とか、AI共産主義とかを語るのであれば、
変に先祖返りする必要も無いでしょうし、論理だけでなく実例も欲しいのであれば、
別にヨーロッパだけに拘らず、江戸時代の日本とかも参考にして良いかと、個人的には思います。
って、この辺の話は、今回の話題からは かなり脱線しちゃってますけどね(苦笑)。

> ・ですが、私には極ローカルというのがネットに残っているような気がしてなりません
> ・それについて、管理人さんが極ローカルも残っていないと指摘される根拠が知りたいです

う〜ん、よくよく確認してもらえれば、解るかも知れませんが、
初めの方で「私もローカルなモノが完全に無くなるとは考えていません」と述べいる通り、
私の方から一言も、「ローカルが残っていない」とは言ってませんけどね。
ただ一方で、年々縮小し続けており、その傾向は今後更に強まると見ているので、
旧トルコ担当さんが「グローバル化とローカル化の2極化」と、おっしゃられるような、
グローバルに比肩し得る程のモノが、ローカルに残るとは思えないという話なんです。

例えば、冷戦期のアメリカとソ連などは、実力伯仲とは言えませんが、2極化とは呼べた一方、
ポスト冷戦期のアメリカとイスラム原理主義とは、時代を代表する対立関係ではあるものの、
2極化と呼ぶには、あまりに両者の実力差があり過ぎると思うんですよねえ。
何もこれは、イスラム勢力の存在を知らない訳でも、過小評価している訳でもなく、
テロ組織は無数に存在し、アメリカを苦しめてはいますけど、やはり「極」とは呼べないと。

また、文化を生物に喩えれば、全ての種が常に不滅などという事はなく、
多様性を維持する為には、消えていく種と同程度に、新たに生まれる種が必要であり、
新たに生まれる方が多ければ多様性は増し、消えていく方が多ければ多様性は減じます。
この事は、文化であっても、生物であって、大差ない現象でしょう。
そういう意味では、確かに「新しい文化」というモノが誕生していたとしても、
「消えた文化」の方が目に見えて多ければ、やはり全体的には衰退していると見て取れます。
しかも、ボーダーレスな社会というのは、自然淘汰の競争を加速させますからねえ・・・・

それこそ前々回の投稿で、ニコニコ動画について触れられていましたけども、
もちろん今だって、相当数の視聴が居ますし、動画の新規投稿も実際に多い事でしょう。
ですけど、目に見える数値から考察した場合、その減少は明かですし、
特にプレミアム会員の数などは、この5年間で250万人から150万人に激減しています。
確かに、150万人の有料会員数という数字だけを見れば、それは凄い値ですけど、
過去の数字と比べた場合は、わずか5年で100万人(実に4割)も減少している訳で、
未だに「面白い」と感じてる人が大勢いるのは事実ですし、それ自体は否定してませんが、
でもやはり、全体として客観視すると「面白くなくなった」という傾向は示しているはずです。
と言いますか、ニコニコ動画は誕生直後から知っていて、動画投稿もしてましたから、
そういった数字などよりも、変化の流れは体感として残ってますけどね・・・・
正直言って、数字というモノは、その時の空気感から少し遅れて現れてくるモノでしょうし。

で、日本のネット・サブカル文化を牽引してきたニコ動が停滞し、
以前のように新しいモノが生み出せなくなった現状において、
それに替わる別のプラットフォームが現れるかとなると・・・それは非常に難しいでしょうし、
結局、日本だけでなく全世界的にも、YouTubeに集約されていくのでしょうけど(中国は別?)、
これは、YouTube自体が悪いという事ではなく、ニコ動独自の良さが失われてします訳で、
それこそ「多様性」という意味では、明らかにマイナスなんです。

こうした話はゲームにも言えて、何も私は、和ゲー絶賛&洋ゲー批判をしている訳ではなく、
和ゲーには和ゲーの、洋ゲーには洋ゲーの、長所と短所がそれぞれあり、
それらが残された上で、和ゲー的な洋ゲーであったり、洋ゲー的な和ゲーであったり、
はたまた、日本や欧米以外からの新ゲームや、全く新しい発想のゲームなどが生まれれば、
多様性は維持される所か、更に豊かになるという理想像があったものの、
現実に起こったのは、洋ゲーに集約されつつある流れであったという事ですね・・・・
確かに、一昔前と比べれば、グラフィックの進化とか驚異的なレベルですし、
絶対的に見ると、技術って積み重ねですから、時代と共に進歩してるのも事実なんです。
ただ、スポーツ観戦などもそうですけど、人間の見方というのは相対的ですからねえ。
「前の作品に比べてどうか?」「多の作品に比べてどうか?」という比較と感情で、
その作品に対する評価というのも、自ずと違ってきますし、
もっと言うと、目に見えるモノ、数値で計れるモノが、面白さの全てではありません。

と言いますか、そんなモノは面白さの極一部に過ぎないのが、実際の所なのでしょう。
これはゲームや動画に限らず、様々な娯楽文化に関しても言える事でしょうし、
少なくとも私自身はそう考えていますし、だからこそ、これは諦めの表明ではなく、
私など微々たる存在ではあるものの、現状の流れに抗いたい気持ちはあります。
より具体的に言えば、個人レベルの零細であっても、
時代が削ぎ落とし多モノを拾い集める、何らかのプラットフォームを作ってみたいと。
そういう意味では、私自身も、旧トルコ担当さんがおっしゃる所の
「極ローカル」的な存在の1つなのかも知れませんね?
まあ当人的には、そんな大層なモノだとは、露とも考えてませんけども。

> ・可能性は二つあると思います。私がネット以前の世界(具体例で言えば、ゲーセンや本屋などの世界)を
>   理解した気になっていて、実のところ理解していない。もうひとつは、私のネット世界への理解が浅い。
> この点に対して、管理人さんの見解を聞かせていただければ、というのが私の希望です。

う〜ん、これはある意味で、致し方ない面があるとは思うのですが、
やはり実体験が伴わない為、今までこうして話してきても、
「アナログだけの世界」や「アナログとデジタルが共存する過渡期」に関して、
感覚的に理解できない部分がるんだろうなとは、正直言って感じます。
そして、現在の「ネット中心の世界」に関しては、ちょっと判断が難しいのも?

例えば、AさんとBさんとがいて、2人は互いに100の知識を持っていたとしても、
この100の知識は、それぞれ全く異なるモノかも知れず、どっちがどっちとは言えません。
これは仮に、Aさんが200や300の知識を持っていても、同じ事ですよね。
確かに単純な数で言えば、Aさんの方がBさんよりも2〜3倍の知識を持っていますけど、
実際に有益なのは、Bさんが持ってる100の知識の方かも知れませんし、
逆に言えば、300の知識を持つAさんも、100の知識しか持たないBさんに教えを請う事で、
Aさんは知識を400に増やせる機会を得られますし、そうなればBさんの方が指南役です。
また、その一方で、ここに50の知識を得られる本が有ったとして、
300の知識を持つAさんと、100の知識を持つBさんとでは、その本の価値が変わってきます。
もちろん、この本自体が持つ絶対的な価値は変わりませんが、
300が350に増えるのと、100が150に増えるのとでは、相対的な増加率が異なりますからね。
何だか、凄く抽象的で解り難かったかも知れませんけど、私が言いたいのは そういう事です。


> 言い訳させていただければ、
> > > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

> も、私が正しくて、私の正しい見解を管理人さんが理解されていなかったのか、ということではなく、
> 私が勝手に、管理人さんも中間は失われたけど、極グローバルと極ローカルは残っていると考えていると言う
> 前提で返信をしていたら、管理人さんが極グローバルだけになっていませんか?と返信されたので、
> ああ管理人さんは極ローカルはなくなったと考えていて、
> そこを誤解しているから、今まで話が食い違っていたのね、ということなんですよ。

とりあえず言っておくと、MODの事は当然知ってますよ。
そもそも20年前に、asakaさんが「奥羽戦国史」(のちの戦国史)を公開されたのも、
PCゲーム「天下統一」の改造エディタを公開されてた、身勝手Papaさんのサイト上であり、
その場に居合わせていたからこそ、私もシナリオ作成という形で協力した訳ですし、
(期待されてた新作の「天下統一3」が本当にクソゲーで、その不満や怒りが皆の創作意欲に・笑)
更に古い話をすると、年上の従兄弟が遊んでたカセットテープ版の「初代・信長の野望」も、
プログラム言語がBASICだったので、普通にデータ弄り放題でしたからねえ。

また、今の「レトロフリーク」みたいな互換機が普及する前は、
秋葉原や日本橋に行かないと、ゲームのデータを弄る機械など手に入らず、
私自身は持ってませんでしたけど、友人の家とかで普通に遊んでました。
それに、家庭用ゲームが中心だった日本では、欧米ほどMOD文化は普及しませんでしたが、
その中でも、公式のエディタを発売した先駆けが、光栄のパワーアップキットだったでしょうし、
このスレッド内でも、Paradox社のゲームについて触れてるのですから、
旧トルコ担当さんが自身の認識に合わせる為に、情報の受け取り方を変えた行為自体が、
言葉はキツイですけど、ご都合主義と言いますか、非常に不自然に感じられたんですよね。
(そして前々回の投稿では、そう感じられる箇所が、これ以外にも多岐に及んでいたと)

ちなみに、2018年のMODコンテストで優勝したEU4の「Extended Timeline」とか、
自作シナリオを古代から現代まで拡張していて、本当に凄いと思いましたし、
それこそ、「全世界&全通史」のゲームというのは、私も昔から作ってみたかったですからねえ。
実を言うと、1人用ゲームの「Super三國志」や「ナポレオンの野望」も、その実験用雛型でしたし、
あれを世界マップまで拡張し、都市数も充実させ、人物キャラの要素も加えて、
国家・都市・人物・シナリオなどは、投稿型のデータベース化する考えを持っていました。
(データベース化された情報は、事典としても使えますし、他のゲームにも再利用できるので)
これも言うなれば、MODを前提としたゲーム構想案だったと言えるかも?

・・・と、話が少し脱線してしまいましたけど、
結局、何が言いたいかというと、
MODはもちろん知ってますし、それ自体は新しいモノでは無いという事ですね。
そして、別にファミコンでも、「ロードランナー」とか「ナッツ&ミルク」など、
ステージを自作できるソフトがあり、その筋の人たちは、それを昔から楽しんでた訳です。
確かにネットの登場により、そうしたデータの交換が飛躍的に手軽となりましたし、
「マリオメーカー」のように、企業側が公式にエディタを手掛けるようにもなった事で、
その数そのものは、ピンからキリまで、まさに膨大に増えたのは確かだと思います。
でもそれは、以前からの繰り返しになりますけど、「幅」ではなく「数」の話であると。


P.S.
一応調べたので、前々回の未返信部分から、これだけは貼っておこうかな(笑)。
> > > 確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
> > あと、そんな言うほど、本当に「誰もが知ってる作品」って無かったんですかねえ?
> > 実際に少年マンガで考えてみると、
> > 60年代から70年代にかけて「あしたのジョー」「巨人の星」があり、
> > 80年代には「北斗の拳」「キン肉マン」「タッチ」があり、
> > 90年代には「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」があり、
> > 00年代には「ワンピース」「ナルト」「名探偵コナン」があり、
> > 10年代には「進撃の巨人」「銀魂」「キングダム」があり、
> > 20年代となった現在も「鬼滅の刃」「呪術廻戦」があるじゃないですか。

> いやー、「誰もが知ってる作品」は有りませんでしたよ。
> これに関しては実際に経験してきたことなので、結構自信を持って言えると思います。

つまりは、ワンピースも、進撃の巨人も、鬼滅の刃も、
その存在すら知らない人たちが、相当数は居るという事ですか?
紅白出場や商品コラボなど、アニメを見ない一般層にも、
それなりに、存在は認知されてると思ってはいるのですが・・・・

もちろん、「みんなが知ってる」とか、「誰もが知ってる」と言っても、
全員が全員、それを見た事があり、話の内容や登場キャラまで把握しているとか、
そんな話をしている訳ではありませんよ(少なくとも私の方の話は)。
それこそ、ドラゴンボールにせよ、北斗の拳にせよ、あしたのジョーにせよ、
もしも そんな定義であれば、それらも全く該当しませんので・・・・

とりあえず、それだけでは何なので、
日本リサーチセンターの「全国キャラクター調査」によると、
https://www.nrc.co.jp/report/210218.html
ドラえもんが98%、サザエさんが97%と、まさしく国民的な認知度を誇り、
コナンが91%で、ドラゴンボールが90%、トトロが93%と同じくらい。
更には、鬼滅が81%で、ガンダムも同じく81%と続き、
ワンピースが75%で、北斗の拳が77%(2014年調査時)、
進撃の巨人が66%、エヴァが65%、プリキュアが63%という感じでした。
やはり数値で見ると、年代的な差は、そんなに無いように私には思えますね。


[23596] Re2:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/2 (水) 13:35:04 旧トルコ担当

今後について

管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

そもそも、なぜ自分自身、管理人さんの見解にここまで強行に意を唱えるのか考えたのですが、管理人さんの指摘は私の実感と真逆だからなんですよね。
まあ、私の知っている世界なんて、メチャクチャ狭いのは自覚していますし(オタクですし、自分の興味の無いことにはトコトン興味がないので)、だからこそ自分の視界外では未知のことが起きているのかもしれない、と思い管理人さんに色々質問したのですが、結局それはよくわかりませんでした。その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

これは愚痴みたいなものですが、いや、だってソシャゲに対しての認識とか、どう考えてもおかしいでしょう。まだコロナは中国のウイルス兵器説の方が納得できますよ。

まあそうは言いつつ管理人さんの見解に引っ掛かるところが無いわけでは無いので、極ローカルの幅についてはこれからも考えては行くつもりですが。

追記
やはり管理人さんの言説には引っかからないものが無いではないので、よろしければソシャゲに関してだけ、ソシャゲをした事があるのか、教えて頂けませんか?
私の今の見解では、管理人さんはほとんど全くソシャゲを遊んだ事がないからあんな事をおっしゃるのだと考えていますが、もしある程度ソシャゲの中に入った経験がある上でああ言っているのであれば、私としても今後の考え方が色々変わると思うので。


[23598] Re3:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/9 (水) 20:47:41 徳翁導誉

> 今後について
> 管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、
> 管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
> いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

いや〜、その言い草は、さすがに失礼だと思いますけど?(苦笑)
これ以上は進展が無さそうだから、話を打ち切る提案をするのは構わないのですが、
でしたら、それ以上は余計な事を語らないのが一般的である所、
後続の文章で、愚痴をこぼされたり、質問をされたりしている訳で、
その上で「返信されたければしていただいても構いませんが」の一文が加わっては、
これはもう、自分の言いたい事だけ言って、相手を煽るような書き方に為っちゃってますよ!?

まだこれが、解った上で、敢えて行っている行為であれば良いのですが、
恐らく旧トルコ担当さん的には無自覚でしょうし、そのつもりも無いのでしょうから、
それはそれで、却ってマズい状況のように、私には感じられます・・・・
少し異なりますが、「慇懃無礼」に似た感じと言えば、イメージしやすいでしょうか?
「自己の主張」と「相手への礼節」を無理に共存させる際、往々にして見られる悪文ですね。
その両方を満たす文章というのは、なかなか高度な技術を必要としますし、
それが難しければ、どちらか一方を抑え気味にするか、いっそ触れないのが無難です。
余計なお世話かも知れませんけど、若い内から意識されるようにした方が良いと思いますよ。
大人になると、「失礼なヤツだな」と相手から評価され、注意もされずに終わっちゃうでしょうし、
年齢を重ねれば重ねるほど、そうした悪癖は修正し難くなっていくでしょうから。

> そもそも、なぜ自分自身、管理人さんの見解にここまで強行に意を唱えるのか考えたのですが、
> 管理人さんの指摘は私の実感と真逆だからなんですよね。

でしょうね、それは私にも感じ取れてますよ。
その理由も、おおよそですが解っているつもりです。
それはまさしく、旧トルコ担当さんが「実感」を軸に語られてるからです。
より厳密に言うと、「主観」と「瞬間」から、意見が構成されている印象が強いです。
それに対して私は、「客観」と「時間」から、意見を構成していますからねえ。
その違いを念頭に置けてないと、意見の正確な理解は困難かと思われます。

また、今までもそうでしたけど、
何も私は、旧トルコ担当さん実感自体を否定している訳では無いんですよ。
例えば、仮に話題が「田舎暮らし」だったとしましょう。
個人的に「ここでの生活は最高だ」と思われる方は、当然いる事でしょうし、
周りの移住者仲間も「同じ感想を持ってる」という事も有り得るでしょう。
ただ一方で、田舎は自然に恵まれていても、「不便」であるのも事実ですし、
全体的に言って、流入するより流出する人数が多ければ「過疎化」の傾向となります。
この2つは、何も相容れない事実という訳ではありません。
主観的・瞬間的には「最高」と感じられたのが事実だとしても、
客観的・時間的には「過疎化」という事実も、矛盾無く存在する。
どちらが「合ってる/間違ってる」ではなく、視点の違いでしかないんです。
前回のニコニコ動画に関する話も、そういった主旨の事ですね。
プレミアム会員が現在でも150万人居るのも、5年間で100万人減ったのも両方事実で、
未だに楽しんでる方が大勢居る事と、でも全体としては衰退してる事は、相反しません。

で、そうした上で、私が今まで何を指摘してきたかと言うと、
旧トルコ担当さん自身の立ち位置と、その認識に関してなんです。
「前から見るか? 後ろから見るか?」「上から見るか? 下から見るか?」
「近くから見るか? 遠くから見るか?」「長く見るか? 短く見るか?」等々、
同じモノを見ていたとしても、見る人の立ち位置の違いで、映る姿は異なってきます。
ですから、自分はどこに立っているかという「絶対的」な座標と、
相手はどの辺りに立っているかという「相対的」な座標とを欠くと、
相手の事を理解できないのは勿論、自分の事さえ正確には把握できなかったりします。
言うなれば、相手の事も、その他 大勢である社会の事も、
自分と同じ立ち位置から見ていると勘違いし、それを疑わないまま、解釈してしまうと。

それこそ、「女装と百合」を隣接文化とし、それを「見立て文化」だとおっしゃたのは、
私からすると、その端的な例だと思えて為らないんですよね・・・・
バ美肉がデジタルな女装である事は、別に私も最初から否定していませんよ。
しかし、「女装(バ美肉)と百合」を隣接文化だと見なせるに充分な、
納得感ある説明や、客観的な根拠などが、今まで示されてるようには感じないんです。
もしも、自分の言葉で説明するのが難しいのであれば、
それをキチンと解説している他者の言説を、何処かから引っ張ってきてくれても構いませんし、
それも難しいようなら、同様の見解を述べてる他者の意見を、幾つか見繕って欲しいんですよね。
それが無ければ、多数の人間が関わっている「文化」ではなく、
旧トルコ担当さんが抱いた、個人的な「感想」に過ぎないとしか見なせません。
言い換えれば、個々の例としては実在するにしても、それが圧倒的な多数派とは思えず、
見解が食い違う以上は、何らかの根拠なり、腑に落ちる説明をして欲しいって事ですね。

繰り返しますけど、これは別に、個人的な感想(主観的な見解)を否定するのではありません。
「客観的なデータじゃないから信用できない」と、私は言っているのでは無く、
主観と客観を混同し、感想を文化と唱えてるような印象を受け続けているからこそ、
旧トルコ担当さんの客観的な姿勢を求める意味も込めて、データを交えて語っている訳です。
主観と客観を分けられてる方が相手なら、私もわざわざ、そんな面倒な事を雑談でしません(笑)。
また、以前このように述べられてました↓けども、
> > > いや、ほんとこれ説明できないんですよ。
> > > 見立て文化というのは、『オタク学入門』によれば、
> > > 竜安寺の石庭の砂が波に見えるようになるとか、人形浄瑠璃の黒子が見えなくなるとか、
> > > ジャンプ漫画がBL漫画に見えてくるみたいな、
> > > その文化圏においてはある見方・見え方が共有されているという文化なので。
> > > こう、このジャンプ漫画のAとBは絶対付き合ってるじゃん、みたいな、
> > > そういうのは外の世界には本当に説明しずらいんですよ。

石庭や浄瑠璃と、BLカップリングとは、かなり事情が異なりますよ!?
そして女装と百合に関しては、それより更に違うと思います。
もちろん、「○○を××に見立てる」という個々の行為自体は同じです。
ですけど、「私自身は、そう見立てている」と言うのと、
「この界隈では、そう見立てられている」と言うのとでは、まるで違います。
後者であれば社会的な文化と呼べても、前者であれば個人的な感想でしょうし、
個人的な感想を、社会的な文化とは見なせませんよね?

それこそ、砂の波紋を水の流れに見なしたり、黒子は無いモノとして捉えるのは、
その界隈の人々が、共通認識として「見立て」を共有する事で、
その世界における「お約束」にまで昇華している訳です。
これに関しては、「そういうルールにしたんだ」と言えば、一応は納得できるでしょうし、
どういう経緯でルールが生まれ、どういう根拠でルールが定まるかも、説明は可能です。

続いて、腐女子の行うBLカップリングは、「見立てる」という行為自体であっても、
「お約束」としての共通認識があるのでは無く、あくまでも個々の主観の積み重なりです。
いや勿論、「A×B」カップリングと見なす人が多数派とか、そういうのはありますけど、
それとは別に、「A×C」であったり、「B×A」と見立てても自由な訳で、
石庭や浄瑠璃のように、確固とした「ルール」として、それが存在する訳ではありません。
存在するとすれば、それは幾つかの お約束的な「テンプレート」でしょうね。
そして、このテンプレートに関しては、全く根拠もなく作り上げられるモノでも無いので、
感覚だけに頼らず、キチンと読み解いていけば、恐らく説明も可能かと思われます。

で、私からすると、オタクというのは「好きの体系化」を行う人種なので、
言語化や図解化など、手段や程度は人それぞれにせよ、
自分なりに納得できる「解」のようなモノは、持っていたり、
少なくとも、求めようとチャレンジはする者だと思うんですよね。
だからこそ一旦スイッチが入ると、マシンガン・トークを繰り広げがちだと(笑)。

> まあ、私の知っている世界なんて、メチャクチャ狭いのは自覚していますし
> (オタクですし、自分の興味の無いことにはトコトン興味がないので)、

と言う事で、上述の返信文からの続きなのですが、
正直な所、私自身は、旧トルコ担当さんの事を「オタク」だとは感じていないんですよね。
オタクなら食指が動きそうな話題を振っても、ほとんど反応がありませんでしたし、
そもそも、オタクから溢れ出る「好き」という感情が、これまで感じ取れなかったので。

いや勿論、近年ではオタクの定義も、「他人から、そう呼ばれる人」から、
「自分で、そう称する人」へと、意味が変容している事は知ってますし、
どっちが正しいとか、どちらかを否定するとか、そういう話でもありません。
当然ながら、旧トルコ担当さんが自身をオタクだと言うなら、オタクなのでしょう。
これはあくまで、私と旧トルコ担当さんとの「オタクの定義」の違いという話です。

そして、その事は最初の方でも述べていますから、
私自身がオタクを語る時は、私の定義の方のオタクの意味で用いてますけど、
ここで、旧トルコ担当さんの定義に合わせるとすれば、
私も充分、世間的にはオタクと認識される人間なのだろうとは思っていますよ。
例えば近年のアニメであれば、鬼滅や呪術廻戦くらいなら まだしも、
リゼロの魔女9人と、ダイの大冒険の魔王軍6団長を、両方諳んじられる大人を、
恐らく世間的な感覚では「一般人」と見なされないでしょうし(笑)。
ですけど私の定義だと、その程度はファンとは呼べても、到底オタクとは呼べないと。

で、何故こんな話をしているかというと、
私の方は、旧トルコ担当さんが書いた文章を読む際は、
旧トルコ担当さんの定義する言葉の意味を汲んで、文意を読み解いてるつもりですけど、
逆に旧トルコ担当さんの方は、私が書いた文章も、
全て御自身の定義している言葉の意味で、そのまま理解しているように感じるんですよね。
前回、「頭の中の辞書」という話をしたのも、その辺りに深く関係してきます。
自分のとは異なる論説に出会った時、自分の既存の言葉の意味だけで理解しようとすれば、
結局は文意の中身を読み取れず、外身の単語を掻き集めて、推測で文意を再構成するから、
それを語った側から見た場合、まるで異なる解釈に陥ってるように思えると・・・・

ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。
具体的には、同時代の他の作品と比べて、どこが革新的だったのか?
この作品の存在が、後々の作品群に、どのような影響を及ぼしたのか?
どういった面で、エヴァと比肩でき得る程の2010年代の代表作なのか?
等々、この一文だけでも、いろいろと語れる面はあるかと思われます。

それこそ、ラノベの発行部数で言ったら、巻数が異なるので単純比較は難しいものの、
「とある」「SAO」「転スラ」「魔法科」あたりは、「俺ガイル」の倍以上 売れてるみたいですし。
・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034

それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。
まあ私自身はラノベをほぼ読まないので、知っててもラノベ原作のアニメ版ですけど、
最近の作品だと「本好きの下剋上」は、個人的に面白いと感じましたね。

ついでに言ってしまうと、今まで重ねた やり取りの中で、
何の分野のオタクか尋ねたり、私の中のランキングを披露してたりしてたのは、
そういう話題の方が、旧トルコ担当さん的にも書きやすいかな?という思いと、
個人の好みが具現化される事で、趣向するタイプが把握しやすいという考えがあり、
それとなく場馴らししていたという裏事情が、実はあったりしました(笑)。
まあ、そういった話題の転換自体を、旧トルコ担当さんが望むかは未知数だったので、
あくまでも選択肢の1つとして、行っていた事前作業ではありましたけど。
ちなみに、5年前の雑談時に書いた、私の好きなアニメ・ランキングはこんな感じ↓
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s20466#20466
ただ、このコロナ禍で、結構な作品数を一気見しましたから、
今だと近年の作品も加わり、もう少しランキングも変わってくるのかな?
当時と現在とで、微妙に評価が変動した作品だってあるでしょうし。

> だからこそ自分の視界外では未知のことが起きているのかもしれない、
> と思い管理人さんに色々質問したのですが、結局それはよくわかりませんでした。

え〜と、すみません。
逆に私の方が、旧トルコ担当さんに対して、
何か未知のことが起きているのか、尋ねているつもりでいました(笑)。
具体的に言うと、「新しい文化」に関してですね。
ただコチラの方も、文化という言葉に対する定義の違いと言いますか、
もっと言えば、旧トルコ担当さんの方は漠然とした意味合いで用いている感じがしており、
この調子だと、私が求めてる問いの答えは返ってこないかな?という印象は正直あります。
この前も、ジャンル名を増やしてもしょうから、新たに名付いてないものの、
「新たな性格のゲームは誕生している」との事でしたけど、
でしたら、その具体例を是非とも伺いたい所ではありますね!!

繰り返しになりますけど、別に今の時代に文化が無いと言っている訳ではありません。
良い作品が新しく生まれて来ないという話もしていません。
今の若者が今の時代の中で楽しみを見出し、青春を謳歌しているのも重々理解できますし、
個人レベルでは、やはり当人が青春時代に味わった文化が、最高だと感じる人が大多数でしょう。
決して、その感情自体を否定していたり、過小評価している訳でも無いんです。
私の方は、ただ単に「歴史の流れ」として、俯瞰的に観察しているに過ぎず、
そういう意味では、当事者的な感情に欠けているのは確かなのでしょう。
でもそれも、オヤジの懐古主義とは、少なくとも別物だろうと思ってはいます。
私の趣味の方向性は、自身の懐古的なモノより、歴史や文化それ自体に向いているので。
(更に言うと、昔から あまり流行には乗らないタイプで、懐かしむ対象も乏しい面も)

と、それはさておき、話を元に戻すと、
申し訳ないのですが、個々の小さな問いは別として、
具体的には、そうした問いに対して、私は何か答えてましたっけ?
いや、過去の話を幾らかしたのは覚えてますけど、
「視界外の未知のこと」というのが、正直あまりピンと来てません・・・・
> > > かつてのオタクのミドルクラスはどの程度の知識があったのでしょうか?
という、この前の問いに答えていない・・・と言うか、再説明してないのは覚えてますけどね。
ちなみに「マンガ夜話」の名前を出したのは、何も、
あの番組内容から直接的に、当時のオタク・レベルを推察しろと言ったのではなく、
そうした番組が公共の電波を使って成り立つ状況から、
当時のレベルを間接的に推察できるという話でもあったんです。

また、ちょうど当時は、インターネットが普及し始めた頃でしたから、
番組を見ての感想のやり取りとかも、ネットを掘ればログが見つかるかも?
あるいう意味ではログって、当時の空気感を閉じ込めたタイム・カプセルですし、
現在に比べるとネット人口が少ないので、多人数でも会話が成り立つ感じは解るかと。
そう言えば、思い出しましたけど、2chが誕生して間もない頃、
夏目房之介さん本人が「降臨」して、盛り上がった事とかありましたね。
http://piza.5ch.net/test/read.cgi/comic/964631820/
現在のTwitterの方が著名人と繋がり易いですけど、それこそ空気感が異なるのかな?

ただまあ、実際に「ミドル層のレベル」なんてモノを、
具体的に説明するのは、やはり難しいとは思うんですよ。
それこそ同じく、現在のオタクたちの「ミドル層のレベル」について、
説明してと漠然と言われても、これだって至難な事でしょうし・・・・

とは言え、コア層とライト層のレベルが、だいたいイメージ出来ているとすれば、
そこからミドル層のレベルを、おおよそ想像するのは難しくない気はします。
まさしく、コアとライトの真ん中あたりを思い浮かべれば、そこがミドルなので。
旧トルコ担当さんが、御自身でも述べられていた通り、
コア層のレベルは、時代に関わらず途轍もないとするなら、
そういう意味で、昔のミドル層と、現在のミドル層も、そこまで大差ないのでは?
昔と現在の違いをノベルとすれば、それは恐らく層自体の厚みの方です。
(他には、作品の絶対数が違うので、1作品を深堀りする傾向も強かったですが)

例えば、学力とか収入とかの面でも、同じく言われてる話なんですけど、
以前はヒトコブラクダだった分布曲線が、現在はフタコブラクダの様になったと。
でもまあ実際は、きれいなフタコブの曲線などではなく、
中央の厚みが減って、トップの方が尖り、下の方がなだらかに厚くなった感じかな。
オタクのレベルを数値化するのは困難でも、学力のデータとかで擬似的に伝わるかも。
で、一億総中流などと呼ばれた頃が、日本が最も活気のあった時代である事を示す通り、
レベル自体の程度の違いよりも、その層の厚みの方が、やはり重要だったかと思われますし、
時代の違いを考えるのであれば、それこそが肝なのでは無いでしょうかね?
相応の人口が居れば、相応の社会や市場ができ、そこから生まれてくるモノも増えるので。

また、コアとライトの中間という意味でのミドルではなく、
平均値的や、中央値的な意味での、ミドル層のレベルを知りたいという事であれば、
ヒトコブラクダとフタコブラクダの曲線のズレと睨めっこして、
そのズレの分だけ、現在見られる平均値や中央値を上方修正すれば、
そこまで的外れなイメージにはならないと思いますよ。
具体的には、中の上や、上の下といった「アッパーミドル」を想像すれば良いのでは?
やはり少数精鋭の頃の方が、平均値や中央値も高く出ると思います。
ですが、もしも仮に、それ以上に全体のパイが広がっているとすれば、
絶対数がそこまで減じているとも思えば、下手すれば増えてる可能性もありますけど、
そこが上手く現れて来ないのは、当初から言っていた「場の喪失」に原因があるのかな?と。

あと、これは余談かも知れませんけど、マンガ夜話の話に関して、
> > > 自分で作品を見て、自分なりにこの作品はこうなんだというのが面白いのであって、
> > > 見たこともない作品の批評を見てなるほど、と思うのは、
> > > 例えるのであればそれこそ石田徹也的な世界観かと?

と、おっしゃてたのが、私の方も驚きだったかな?
だって、自分の読んでない作品の批評を、番組で見ただけで、
そこまで簡単に呑まれてしまうと言うか、影響を受けてしまうイメージが、
そもそも私には、持ち合わせていなかったので(しかもオタクを称する人が)。

だって、あの番組、もちろん取り上げる作品自体の話もしてますけど、
その根底に流れているのは、「日本のマンガ文化史」という大きなテーマでしょうし、
個々の作品は、その日の講義の教材のようなモノだと感じています。
喩えるなら、もし仮に「西洋絵画史」の講義を取ったとして、
前回はクールベの「世界の起源」を通して、19世紀前半の写実主義について学び、
今回はゴッホの「ひまわり」を通して、19世紀後半の印象派について学び、
次回はピカソの「ゲルニカ」を通して、20世紀前半のキュビズムについて学ぶように、
毎回1作品を中心に語る形式で、考察を深めていく方法に思えるんですよ。
まあ確かに、講義で初めて「これがキュビズムかぁ」みたいに触れてしまうと、
下手に先入観が先走り、真っ新な気持ちで作品と向かい合う機会は失われるかも知れません。

そういう意味では、私も理想論を述べると、何事も新しい体験をする時は、
1回目は予備知識なく自然に触れ、2回目はしっかり学習してから触れ、
そして3回目は一旦それらを忘却して触れるのが、望ましい形だとは考えています。
でもまあ、マンガ夜話に関しては、その番組を見る事で、
未読だった作品を読む面白味を損なうかというと、そういう内容でも無いですからねえ。
また、自分が今まで触れて来なかった分野の作品であればこそ、
これを機会にキュビズムを知るというキッカケを、得られるチャンスだと感じてます。

まあ個人的には、オタク層が見て楽しめるのが「マンガ夜話」であり、
その作品のファン層が見て楽しめるのが「アニメ夜話」かな?と思っています。
やはり、基本的には1人で作るマンガと(編集者やアシスタントの存在も勿論重要ですが)、
多くの人が関わって作るアニメとでは、作品に現れる「作家性」の度合いが異なってきますし、
マンガよりアニメの方が断然客層が広い事を踏まえれば、番組の作りが違うのも当然でしょうね。
それこそ、普通に作品を楽しんでる層からすると、あれこれ考察されるのは目障りで、
素直に作品の魅力を伝えてくれる方が嬉しいという事情もあるでしょうから。

で、ついでなので、ここで言ってしまうと、
それなりに経験がある人が、何か新しい発想をしようとする際、
余裕や雑音も含めた「無駄」というモノの重要性を、
気付けていない人というのは、恐らく少数派だと思われるのですが、
でもまあ、それは創作者の事情であって、
単なる消費者に回るのであれば、特に必要という事もありません。
とは言え、精神的なリセットをする上では、普通の人でも重要だと思いますけど。
ちなみに この話題に関しては、旧トルコ担当さんがオタクを称するからという以上に、
ゲームを作られているから、敢えて触れたという側面はありましたね。
ですが、その原点がMOD制作にあると聞くと、実は私が想定していた程には、
旧トルコ担当さん自身、そうした新規性には、そこまで比重を置かれていないのかも?
これも、立ち位置の違いによる、風景の見え方の違いみたいなモノでしょうか(笑)。

> その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。

また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。
今までの感じだと、旧トルコ担当さん的には、
「理解」と「賛同」はイコールと思ってそうな印象を受けますけど、
コチラに関しても、それぞれ異なる概念ではあります。
要するに、仮に理解できたとしても、必ずしも賛同するとは限らないと。
それは、理解できないとか、理解が間違ってるとかではなく、そもそも別物だからです。
もっと言えば、理解も、賛同も、共感も、納得も、好意も、高評も、全て違います。
でもまあ、それらを全て同一視する人の方が、世間的には多数派な気はしてますけどね。

> これは愚痴みたいなものですが、
> いや、だってソシャゲに対しての認識とか、どう考えてもおかしいでしょう。
> まだコロナは中国のウイルス兵器説の方が納得できますよ。

そもそも論として、誤解釈に基づく「認識」を元に、「おかしい」と言われましても、
それは私自身の認識ではなく、旧トルコ担当さんが勘違いで生み出した認識なので、
本来であれば、私に対して問うのでは無く、自分自身に問うてこそ、見えてくるモノでしょうし、
「どう考えても」などと言う前に、その前段階から「考えてみる」事が重要だと思いますよ。
ウイルス兵器説なんて話を、突拍子も無く登場させる事よりも先に。
あと、とりあえず言うと、この前の返信に書かれてるような認識は、私の方も持っておらず、
あの文章と今までの流れから、どうしてそういう解釈になるの?というのが、実際の所です(笑)。

う〜ん、で、ソシャゲの話題に関しては、どうしましょうかねえ?
今までも何度か、誤解釈に対する修正説明はしてきましたけど、
それに対して、旧トルコ担当さんの反応が返ってきた事が無いので、
その誤解釈をどれだけ修正できてるのか、私も図りかねてる部分は正直ありますし、
特にこの件に関しては、今まででも最大級にズレ幅が大きい為、
修正説明を行うのも、恐らく一苦労だろうな・・・という思いもあったりします(苦笑)。
また追記の問いについて、私自身のソシャゲ経験を実際に述べるのは別に良いんですけど、
現状でそれを行うと、誤解釈を補強しちゃう気もして、ちょっと怖いんですよね。
今回も、理解するのが難しいと言われる割に、思いっ切り決め付けて反応されてますし・・・・

でもまあ、ソシャゲに関して言えば、プレイヤー数が多い事もあり、
それにハマった人の体験談とか、それこそネット上に溢れてると思いますし、
その中から様々な側面を語る声を探す事は、そんな難しい事じゃないと思いますよ。

> まあそうは言いつつ管理人さんの見解に引っ掛かるところが無いわけでは無いので、
> 極ローカルの幅についてはこれからも考えては行くつもりですが。

私がいう所のニッチ、旧トルコ担当さんがいう所の極ローカルに関しては、
まあ私の方も実は、このままの流れだと厳しそうだと見つつも、
密かに期待は抱いているというか、決して諦めて見放してる訳でも無いんですよね(笑)。

ただ、この辺に関しては、他の雑談スレッドでも触れましたし、ここでも少し書きましたが、
ネットの黎明期、今よりもっと素晴らしい未来像を、多くの人々が描いていた為、
その頃の理想図に比べると、実際はかなり異なる社会になったという思いが、
当時を知る世代の中で、やはり何処かに強く残っているんでしょうね。
だからこそ、そうした思い描いたような成長曲線は描けていなくても、
実はジワジワと成長していて、その小さな変化に気付けていないだけかも知れません。
しかも、ネット化やグローバル化というのは、ニッチな世界の武器にも成り得るので、
それを上手く活用して行ければ、これから大きく羽ばたく可能性だって残されています。
とは言え、そんな簡単に上手く運ぶなら、あの時に抱いた未来予想図だって実現できたた筈で、
確かに確率的には有り得ても、その数値はかなり厳しいモノだろうと言う考えもあります。

例えば、MODであれ、2次創作であれ、その活動自体は未だに盛んであり、
数的な面で見れば、以前よりも増えているのかも知れません。
ですが一方で、MODや2次創作の対象になる作品が、
以前に比べると、特定の作品に集中しがちな傾向は無いでしょうか?
言い換えるなら、マイナーな世界でも、その中でのメジャーな作品が1人勝ち状態となり、
結局、メジャーな世界の競争原理で、マイナーな世界も動いてしまうと、
マイナーな世界が持つ独自の強味が失われるのでは?という危惧もあります。
その他に、有志による洋ゲーの日本語MODが充実してるのは凄い事だとしても、
大前提として、日本語版が発売されなくなったり、公式が日本語対応しなくなった結果、
そうせざるを得なくなった事情があるので、プラスかマイナスかは判断が難しい所ですし、
Wikipediaの日本語記事 編集が、目に見えて鈍化しているのを感じると、
いつまでも有志頼りの構造が続いていけるかは、正直微妙な気はするんですよね。
まあ無給奉仕の有志活動に比べれば、有料MODがある所は幾分マシかも知れませんけど。

って、念の為に言っておきますけど、前段で言ってる「1人勝ち状態」とは、
何も1本の作品しか大勝ちしないという意味では無く、
一握りの勝ち組作品と、その他 多数の負け組作品に2分化されるみたいな意味合いですよ。
この前も、代表格として「マイクラ・あつ森・フォートナイト」を挙げたら、
「Among Usは知らないの?」みたいな返信が来たので、一応ですけど言っておきます。
ちなみにAmong Usは、昨年のアメリカ大統領選で、オカシオ=コルテスが利用してましたよね。
他にも、Apexとか、League of Legendsとか、GTAとかもあるでしょうし、
桃鉄の新作も未だに根強い人気なのも知ってますけど、そんな事を言ってたら切りが無く、
かと言って、以前より勝ち組と負け組の差が現れてる事は、覆し様の無い事実でしょうから。

あと、これは余談ですけど、そうは言いつつも、
年明けに2度目の緊急事態宣言が発令されて以降、生の情報を得る機会が滞っているのも、
一方では事実としてある事も、とりあえず明かしてはおきます。
私自身がゲームを遊ばなくなって久しいですし、そういう意味では今だとネット情報くらいで、
肌感覚的な情報とかは、現状で半年くらいのギャップがあるのも、本当の所です。
グラフィックとかは格段の進歩を遂げているので、ゲーム動画はよく見ますし、
他には、弟が未だにバリバリのゲーム好きなので、それで自然と見聞きしたり、
人気作に関しては、人気の理由を知りたい欲求から、そこそこ調べたりしますけど、
逆に言えば、自分ではプレーしない程度の関心度ですね、今のゲームに対しては。
ゲーム番組「GameWave」を毎週見てた頃に比べると、把握してる情報量は明確に少ないです。
ただ、半年遅れの感覚でも、マイクラと あつ森の人気度は、
少なくとも日本国内において、世間的に、やはり頭幾つか抜けてる実感はありますよ。
・・・って、ここまで書いたら、ほぼほぼ答えてるようなモノですね、例の箇所の質問を(笑)。

更に別の余談を続けると、私がよく見るYouTubeのチャンネルに、
「予備校のノリで学ぶ 大学の数学・物理」↓というのがあるのですが、
https://www.youtube.com/channel/UCqmWJJolqAgjIdLqK3zD1QQ
最近、プロ棋士などを始め、様々な方面のYouTuberとコラボしていて、
登録者数も再生数も伸ばしているんですよね。
ただ、そうしたコラボ効果により、一般向け動画の再生数が跳ね上がるのは解るのですが、
専門性の高い動画の方まで、10万再生くらい伸びてるのが、驚きですし、凄い謎!?
これが英語で作られた動画なら、対象が全世界に広がるので、まだ想像できますけど、
物理学科や数学科の日本人学生が、数万人単位で視聴してるとも思えず、
ファンになれば、内容は解らないけど再生する層とかも、一定数で居たりするのかな?
でも、趣味で学び直そうという卒業生とかも含めれば・・・そのくらいの人数は行くのかも?
ともかく、そんなニッチな動画でも再生数が伸びるというのは、素直に凄い事だと思います!!
そういう意味では、例え日本語限定であっても、ニッチの幅もまだ残されている気はします。


[23603] Re4:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/11 (金) 15:31:44 旧トルコ担当

> > 今後について
> > 管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、
> > 管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
> > いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

> いや〜、その言い草は、さすがに失礼だと思いますけど?(苦笑)
> これ以上は進展が無さそうだから、話を打ち切る提案をするのは構わないのですが、
> でしたら、それ以上は余計な事を語らないのが一般的である所、
> 後続の文章で、愚痴をこぼされたり、質問をされたりしている訳で、
> その上で「返信されたければしていただいても構いませんが」の一文が加わっては、
> これはもう、自分の言いたい事だけ言って、相手を煽るような書き方に為っちゃってますよ!?
>
> まだこれが、解った上で、敢えて行っている行為であれば良いのですが、
> 恐らく旧トルコ担当さん的には無自覚でしょうし、そのつもりも無いのでしょうから、
> それはそれで、却ってマズい状況のように、私には感じられます・・・・
> 少し異なりますが、「慇懃無礼」に似た感じと言えば、イメージしやすいでしょうか?
> 「自己の主張」と「相手への礼節」を無理に共存させる際、往々にして見られる悪文ですね。
> その両方を満たす文章というのは、なかなか高度な技術を必要としますし、
> それが難しければ、どちらか一方を抑え気味にするか、いっそ触れないのが無難です。
> 余計なお世話かも知れませんけど、若い内から意識されるようにした方が良いと思いますよ。
> 大人になると、「失礼なヤツだな」と相手から評価され、注意もされずに終わっちゃうでしょうし、
> 年齢を重ねれば重ねるほど、そうした悪癖は修正し難くなっていくでしょうから。


はい、失礼なのは重々承知です。
ただそれ以上にもう返信をあれこれ考える時間がもったいないので文章の推敲をせず、深夜テンションで書いて、さらに深夜テンションで追記しましたので。
いろいろ誤解されるのも当然でしょう。

> また、今までもそうでしたけど、
> 何も私は、旧トルコ担当さん実感自体を否定している訳では無いんですよ。
> 例えば、仮に話題が「田舎暮らし」だったとしましょう。
> 個人的に「ここでの生活は最高だ」と思われる方は、当然いる事でしょうし、
> 周りの移住者仲間も「同じ感想を持ってる」という事も有り得るでしょう。
> ただ一方で、田舎は自然に恵まれていても、「不便」であるのも事実ですし、
> 全体的に言って、流入するより流出する人数が多ければ「過疎化」の傾向となります。
> この2つは、何も相容れない事実という訳ではありません。
> 主観的・瞬間的には「最高」と感じられたのが事実だとしても、
> 客観的・時間的には「過疎化」という事実も、矛盾無く存在する。
> どちらが「合ってる/間違ってる」ではなく、視点の違いでしかないんです。
> 前回のニコニコ動画に関する話も、そういった主旨の事ですね。
> プレミアム会員が現在でも150万人居るのも、5年間で100万人減ったのも両方事実で、
> 未だに楽しんでる方が大勢居る事と、でも全体としては衰退してる事は、相反しません。
>
> で、そうした上で、私が今まで何を指摘してきたかと言うと、
> 旧トルコ担当さん自身の立ち位置と、その認識に関してなんです。
> 「前から見るか? 後ろから見るか?」「上から見るか? 下から見るか?」
> 「近くから見るか? 遠くから見るか?」「長く見るか? 短く見るか?」等々、
> 同じモノを見ていたとしても、見る人の立ち位置の違いで、映る姿は異なってきます。
> ですから、自分はどこに立っているかという「絶対的」な座標と、
> 相手はどの辺りに立っているかという「相対的」な座標とを欠くと、
> 相手の事を理解できないのは勿論、自分の事さえ正確には把握できなかったりします。
> 言うなれば、相手の事も、その他 大勢である社会の事も、
> 自分と同じ立ち位置から見ていると勘違いし、それを疑わないまま、解釈してしまうと。


> > その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> > こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

> 「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
> それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
> それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
> 厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
> 自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。


> また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
> 私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
> では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。
> 今までの感じだと、旧トルコ担当さん的には、
> 「理解」と「賛同」はイコールと思ってそうな印象を受けますけど、
> コチラに関しても、それぞれ異なる概念ではあります。
> 要するに、仮に理解できたとしても、必ずしも賛同するとは限らないと。
> それは、理解できないとか、理解が間違ってるとかではなく、そもそも別物だからです。
> もっと言えば、理解も、賛同も、共感も、納得も、好意も、高評も、全て違います。
> でもまあ、それらを全て同一視する人の方が、世間的には多数派な気はしてますけどね。


もちろん、そういったことも重々承知です。
ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
もう後1年はこのことについては考えたくないです。

まあ、あと結局は過去のこと知らないと何も言えない、ということに今更ながら気が付いたというのもありますね。
過去の動向を知らずに現在や未来について動向分析するのって、例えるのなら女の子と付き合ったことない男が必死に女の子の気持ちを想像してるようなもんであって、それはたいてい的外れなわけです。
正しく女の子の気持ちを分かるようになりたいのであれば、それはもういろんなタイプの女と付き合ってみて、その経験則から判断するという方法しか無いのと同じよう、結局未来インついて考えるのも過去の知識が無いと、一見して正しそうでも得てして的外れな考えに陥りがちなんです。
まあ管理人さんは過去のいろいろについて知っているのでしょうし、私もその経験値を増やす意味でいろいろ聞いてみたりしたのですが、結局そんな簡単に理解できるものではないんでしょうね。


> ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
> この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
> その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

> 何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
> なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。
> 具体的には、同時代の他の作品と比べて、どこが革新的だったのか?
> この作品の存在が、後々の作品群に、どのような影響を及ぼしたのか?
> どういった面で、エヴァと比肩でき得る程の2010年代の代表作なのか?
> 等々、この一文だけでも、いろいろと語れる面はあるかと思われます。


書こうと思えばかけますが、というか下書きまではしたのですが、いろいろ止めておきます。
昔はコミケ創設メンバーの大学生たちが自分の好きな漫画を語っていた、みたいな文献を見て「なんで漫画を語る、なんていうつまらないことを昔のおたく(おたく原人?)はしていたんだろう?やっぱ学生運動上がりのおたく世代はよくわからんわ」と思っていたのですが、
この年になると自分の好きな作品を語ることの面白さがようやくわかってきました。なるほど、年を取るというのはこういう面白さがあるんですね。


> それこそ、ラノベの発行部数で言ったら、巻数が異なるので単純比較は難しいものの、
> 「とある」「SAO」「転スラ」「魔法科」あたりは、「俺ガイル」の倍以上 売れてるみたいですし。
> ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
>
> それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。
> まあ私自身はラノベをほぼ読まないので、知っててもラノベ原作のアニメ版ですけど、
> 最近の作品だと「本好きの下剋上」は、個人的に面白いと感じましたね。


この辺のラノベ史は勉強になりました。
現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?
一般に00年代前半にラノベブームが起きたなどと言われますが、ライトノベルの出版部数は90年代から大きな変化はなく(『ライトノベルの現状と将来』)
・それまで雑多であったライトノベル、ヤングアダルト、ジュブナイルなどの名称がライトノベルにおおよそ統一された(『ライトノベルから見た少女/少年小説史』)
・90年代のラノベを読んでラノベを書き始めたライトノベル世代が作家として登場した(『ライトノベルよ、どこへ行く』)
・ラノベ評論ブームが起きた(『ライトノベルの現状と将来』)
・ラノベのアニメ化が増えたりした(『ライトノベルの現状と将来』)
・出版産業が順調に部数を減らしていく中で、ライトノベルだけは出版点数は減少しなかったため、相対的に出版業界の中でのライトノベルの存在感が増した
・ラノベの内容が90年代のファンタジーブームから学園モノへトレンドが入れ替わった
・オタクへの注目が高まってき始めた
これらの要因の結果、ライトノベルがブームを起こしているように錯覚させ、その結果誕生したのが00年代のライトノベルブームだと認識しているのですが、実際どうだったのでしょう?
確かに90年代のラノベってファンタジー物中心ですし、興味のない人から見ればライトノベルというよりゲーム小説とかそういった認識だったのでしょうか?90年代のラノベはTRPGのルルブと一緒の棚に置かれていた(『ライトノベル研究所説』)という話も聞きますし


クレヨンしんちゃんのオトナ帝国の逆襲(2001年)は見ていますか?
あれって、20世紀生まれの大人たちが「かつて未来はもっと輝いていた」と言ってるんですが、実際輝いていたはずの21世紀が「案外しょぼいな」ってなった理由って、失われた10年や少子高齢化などの日本的な要因と、科学技術の進化が案外しょぼかったという要因と、どっちが大きかったのでしょうか?



[23607] Re5:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/15 (火) 03:22:41 旧トルコ担当

> もちろん、そういったことも重々承知です。
> ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
> しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
> もう後1年はこのことについては考えたくないです。

上の文章だと管理人さんを非難しているような文章になってしまっているので、別にそういう意図ではないということではないので、追記しておきます。

そのまま深夜テンションで色々追記してみますが、別に管理人さんの指摘していることも結構納得はしているんですよね。
ただ、それはわかるけど、何かイマイチそれだけではない気がするからこそ、どうしても管理人さんの指摘を否定的に見ようとしちゃうんですよねえ。
何が納得できないのか、は明確にはならないですが、やはりひとつには私の日々の実感とズレている、というのがあるのかなぁ。
ネット化により障壁がなくなった結果、過剰に淘汰が進んで、マニアックな世界ですらも流行っているものそうでないものの差が顕著になった、というのは確かに大いに納得するのですが、何かそれはあくまで一面的な見方な気がするんですよ。
例えるなら、SNSでバズッていることが世界です、みたいな。いや、そういう部分ももちろんあるけど、それが全てではないでしょ、という。

で、私の無い歴史知識から考察すると、現在の二極化は経済うんぬんかんぬん、みたいなことではなくシンプルにネットの浸透だと思うんですよね。
ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。
ゲームで言えば、とりあえず自分で色々ゲームをやってみて、それでハズレもありながら面白いゲームを探していくのが当然だったわけですが、今はそんな作業は不要だと。

あとはあらかた新しいことはもうやり尽くした、というのもあるんでしょうね。
ゲームで言えば、switchの話題作なんかも、かつてあったゲームの焼き直しみたいなものばっかりですし。
インベーダーから始まって、ゲームの進化と言うのを直接体験してきた世代からすれば物足りないと言う感覚は嫌という程分かるんですよね。

オタク界も20年くらい前に誕生した萌えから進化してないじゃん、と言われれば確かにそうだよなー、と思う面はありますし。
もちろん細かいところを言えば色々変化はしているのですが、それって20年分の変化としては小さいじゃん、というのはあると思いますし。

で、なまじ過去の遺産が優れているからこそ、新しいものが余計に生まれにくいと。
とりあえず萌えアニメ作っておけば、作る側も儲かるし、見る側もまあまあ面白いと。

うーん。
この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。

> 恐らく今までの感じだと、「グローバルとローカル」と言うよりも、
> 「マスとニッチ」や、「メジャーとマイナー(インディー)」の意味合いで、
> 用いている印象を受けるのですが、実際の所、どう言った意味なのでしょう?
> ちなみに仮にそうだとした場合、ニッチであれ、マイナーであれ、
> それが成り立つにも、最低限の「規模」が必要だと私は思うのですが、
> そうした規模の必要性を、旧トルコ担当さんは感じ取れてない気がしちゃうんです・・・・

> 規模というのが解り難ければ、ある程度の人の集まり(社会)と捉えても良いかも知れません。
> 実社会で言えば、「街(大都会)」と「村(集落)」みたいなモノですよね。
> どんなに村が小さくても、社会が成立するには、最低限の人数が必要であり、
> 住民が1人しか居ない村や、空き家しか無い村では、社会が成り立たないんです。
> そして文化とは、人同士の繋がりで紡ぐモノである以上、社会の存在が不可欠となります。

> 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。

いや違うな。
確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
だから不可知化なんですかねぇ、やはり。
確かにネット化によって誰でも知ってるゲームと、知る人ぞ知るゲームに二分されたと言うのはあると思います。
それがリアルな雑誌のような物を中心に情報が行き来していた時代とは違って、情報だけが動き回る時代だからこそ、小さいものは見えなくなったのかなぁ。
色々考えましたが、やはり管理人さんの二極化、特に極ローカルに関して私が考える限りでは、極ローカルは無くなったのではなく、見えなくなったのだと言うのが今のところ結論です。


[23608] ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/16 (水) 21:01:37 徳翁導誉

▼ 今までの流れの返信
> > > その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> > > こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

> > 「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
> > それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
> > それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
> > 厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
> > 自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。
> > また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
> > 私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
> > では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。

> もちろん、そういったことも重々承知です。
> ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、
> 既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
> しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、
> 私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
> もう後1年はこのことについては考えたくないです。

すみません、そこまで負担が大きかったのですね。
では、この話題はここまでという事で。

> 上の文章だと管理人さんを非難しているような文章になってしまっているので、
> 別にそういう意図ではないということではないので、追記しておきます。

「そういう意図ではないということではない」だと、2重否定なので、
「非難する意図だった」と、改めて宣言する意味の文章になっちゃいますよ(笑)。
頭の中がパニック状態なのは伺えますし、この件に関しては、
「もう終了」と割り切った方が、旧トルコ担当さんも気持ち的に楽かと?

> まあ、あと結局は過去のこと知らないと何も言えない、ということに今更ながら気が付いたというのもありますね。
> 過去の動向を知らずに現在や未来について動向分析するのって、例えるのなら女の子と付き合ったことない男が
> 必死に女の子の気持ちを想像してるようなもんであって、それはたいてい的外れなわけです。

そうですね。
現在だけを見るのと、過去から通して現在を見るのとでは、やはり厚みが異なるでしょうし、
未来の事まで予測しようとすれば、過去から現在に至るデータが、やはり重要かと思います。
また、現在の同じ物事に対しても、見る人ごとに見え方は千差万別なので、
他人の事は完璧に理解するのは無理ですが、可能な限り違いを推し量ろうと努力する事でしょうね。
結局の所、「多角的な視点」というのが、最大のキーワードなのだろうと思います。

でもまあ、それって普通は、なかなか簡単な事では無いと思うんですよ。
私などは転勤族として育ち、数年単位で日本各地を転々とさせられたから、
地域ごとに異なる「常識」に対して、常に対応を強いられて身に付いただけであり、
あれこれと客観視するよりも、素直に主観で身を置けた方が、精神的にはずっと楽なはずなので。

> 何が納得できないのか、は明確にはならないですが、やはりひとつには私の日々の実感とズレている、というのがあるのかなぁ。
> ネット化により障壁がなくなった結果、過剰に淘汰が進んで、マニアックな世界ですらも
> 流行っているものそうでないものの差が顕著になった、というのは確かに大いに納得するのですが、
> 何かそれはあくまで一面的な見方な気がするんですよ。

う〜ん、「もう終了」と割り切った方が良いよ、と薦めた手前、
これ以上返信するのも、正直、どうしようか悩んでしまう部分はあるのですが、
「あくまで一面的な見方」というのは、全く以て、その通りですよ。

別に私も、一例として挙げているだけで、それが全てだとは全く思ってませんし、
更に言うと、こうして挙げてる実例や比喩は、あくまでも話を理解しやすくする為のオマケであり、
その前で述べられてる前提条件と、その後で述べている結論や考察の部分こそが、
私からすると「話の本題」なんですよね。
ですので、解説用に用いた実例や比喩の部分に、主に反応されて、
「それだけでは無い」とか「それは極端」と言われると、「そりゃそうですよ」となりますし、
そこを理解のキッカケにして、本題である前と後の話を解ってもらいたいんですよね。
要するに、「それを踏まえた上で」みたいな感じで、踏み台を使って、棚の上の話題を扱いたいのに、
どうも踏み台の方に注目が行っている印象を受け、そこで「ズレ」が生じてる気がするんです、私には。

ただ言えるのは、「私の日々の実感とズレている」というのも充分解るんですよ。
近年の風潮のように、心地良いコミュニケーションを求めるのであれば、
「こうだよね?」「うん、そうそう」と、1つの視点を認めてあげれば快適なのですが、
(ただし、「それなー」みたいな空返事は、私には却って虚しく映りますけども)
そこを敢えて、それとは異なる視点を挙げる事で、物事がより多角的・立体的に見えてきますからね。
1点だと単なる棒だったモノが、2点なら梯子となり、3〜4点なら櫓が組めるように、
安定感を増していった方が、俯瞰的に物事を見つめられますし、
逆に言うと、最初の1点を否定している訳でもなく、
別に示した1点が私の見解だと述べている訳でも無いんです。

って、こういう話をすると、また混乱させてしまうのでしょうけど・・・・


▼ オタク文化に関して
> > ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
> > この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
> > その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

> > 何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
> > なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。

> 書こうと思えばかけますが、というか下書きまではしたのですが、いろいろ止めておきます。

そうですか・・・・
ただ今回の事で、私の中の「気になる作品リスト」に載りましたから、
その内、まとまった時間が取れる時期になれば、
アニメの方ですけど、まとめて見てみようかな?とは考えています(笑)。

> 昔はコミケ創設メンバーの大学生たちが自分の好きな漫画を語っていた、みたいな文献を見て
> 「なんで漫画を語る、なんていうつまらないことを昔のおたく(おたく原人?)はしていたんだろう?
>  やっぱ学生運動上がりのおたく世代はよくわからんわ」と思っていたのですが、
> この年になると自分の好きな作品を語ることの面白さがようやくわかってきました。

これなんてまさに、私が前回発言した
> > オタクというのは「好きの体系化」を行う人種
に、通ずる感覚なんでしょうね。
現在では、オタクとファンの世間的な定義って、非常に曖昧になってますけども、
少なくとも、古い世代の私には、「好きを語れてこそオタク」という感じはあります。
作品を楽しんで「面白かった」・・・では、終われない人たちであると(笑)。

それと、勘違いして貰いたく無いので、念の為に言っておくと、
語り合うようなコミュニケーションは、あくまでもオタクにとってはオマケであり、
尋ねられれば語れるくらい、自分の中の「好き」を追求していくのがメインでした。
近年は、文化や社会的にも「コミュニケーション偏重」の傾向が強いですけど、
現在を基準で過去を眺めてしまうと、やはり見誤る可能性が高くなる気がします。

> なるほど、年を取るというのはこういう面白さがあるんですね。
まだ若いでしょうに、高齢者みたいな口振りになってますよ(笑)。
こういう場合は、「年を取る」よりも「大人になる」の方が適当でしょうかね?

> で、私の無い歴史知識から考察すると、現在の二極化は経済うんぬんかんぬん、みたいなことではなく
> シンプルにネットの浸透だと思うんですよね。

誤解の無いよう、念の為に言っておくと、
別に私は「経済至上主義」を述べているのでも何でも無く、
時代や地域であったり、経済・政治・文化・戦争など対象が違っても、
人間の基本的な「行動原理」、更に言えば、全ての生物の「本質」は、それほど違いは無いモノであり、
ただしその中でも、その傾向が最も端的に現れるのが、経済活動であろうから、
理解のしやすさも含めて、その話題について触れているに過ぎないんですけどね。
恐らく、小難しい事をゴチャゴチャと言ってるな、って感じに受け取られそうですけど、
実はそれ程、難しい内容の話はしていないつもりです(笑)。
興味ある話題じゃ無いかも知れませんが、それこそ初めの方で触れていた「歴史物理学」みたいな話です。

> ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。
ただし、リアルだと人々はブレーキをよく踏みがちだけど、ネットだと逆にブレーキを踏みがちなので、
どちらの方がメリットが多いか? どちらの方がデメリットが少ないか? みたいな話かも知れません。
あとは、人が集まる時のサイズ感とか、その頻度とか、密度とか、その辺の違いもあるのかなぁ?

> で、なまじ過去の遺産が優れているからこそ、新しいものが余計に生まれにくいと。
> とりあえず萌えアニメ作っておけば、作る側も儲かるし、見る側もまあまあ面白いと。

とは言え、これを創作者側から、消費者側へと視点を移すと、
今はネット配信の充実などもあって、過去の名作に触れられる機会も断然増えていますし、
新作だろうが、旧作だろうが、個人レベルからすれば、良い作品は良い作品な訳で、
そういう意味では、決してマイナス面ばかりでも無いんですよね。

実際、私自身も、録画したっきり未見だった作品を、配信キッカケで一気見して、
「評判通りに名作だったな」と感じた事は、ここ1年でも何度かありましたので(笑)。
ただ、本放送時に週1話ペースで視聴するのと、再放送で毎日1話ずつ視聴するのと、
配信やソフトなどで一気に視聴するのとでは、同じ作品を見ても、やはり違ってくるでしょうね。
そういう意味では、リアルタイムの新作って、良くも悪くも視聴に心的な負荷が掛かかりますし、
自分の年齢や精神状況、社会の環境や制作年代などでも、視聴しての感じ方が変わってくると。

> うーん。
> この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
> 例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。
> > 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> > そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> > 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> > 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> > 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> 確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、
> でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。
> いや違うな。
> 確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
> だから不可知化なんですかねぇ、やはり。

前回、お互いに異なる「オタク」の定義についての話をしましたけども、
そもそも論として、私と旧トルコ担当さんとの間で、
「幅」もそうですし、「文化」もそうでけど、
それぞれ異なる定義をしているであろう事を、旧トルコ担当さんは気付かれてます?


▼ ラノベの歴史について
> > ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> > 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> > なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
> > それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> > アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> > 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> > 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> > そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。

> この辺のラノベ史は勉強になりました。
> 現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、
> やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?

それこそ、「スレイヤーズ」の刊行が1990年ですので、
ラノベが「90年代初期に誕生」というのは、歴史の文脈的には正しいのでしょうけど、
何事でもそうですけど、一気にバッと転換するのでは無く、ジワジワと変化するものですからねえ。
そういう意味では、上記の戯れ歌のように、ラノベの道を切り開いたのが「スレイヤーズ」であり、
その道を広げたのが「ブギーポップ」で、道を舗装したのが「涼宮ハルヒ」だと考えています。
で、世間的に言うと、やはり舗装道路の開通というのが、最もインパクトが大きいモノであると。

そういう意味では、現在のラノベっぽくなるのは、00年代の前半でしょうし、
90年代の頃は、人気漫画のノベライズ版とかは既にあったので、
当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。
逆に言うと、原作があれば予備知識を元に、文章だけでも世界観を思い浮かべられますが、
原作なしのオリジナルだと、その世界観を補完するイラストの存在が不可欠であり、
そして、キャラデザ付きのアニメ脚本みたいなモノなので、いざ映像化するにも適していると。

> 一般に00年代前半にラノベブームが起きたなどと言われますが、
> ライトノベルの出版部数は90年代から大きな変化はなく(『ライトノベルの現状と将来』)
> ・それまで雑多であったライトノベル、ヤングアダルト、ジュブナイルなどの名称が
>  ライトノベルにおおよそ統一された(『ライトノベルから見た少女/少年小説史』)

上記の続きの話となりますが、「ライトノベル」という名称に統合されたのは事実ですが、
漫画の小説版として派生したラノベと、小説の青少年版として続いてきたジュブナイルとでは、
そもそも系統が異なりますので、統合された後、ラノベの1強状態になったのが、実像に近いかな?
それと、「90年代から大きな変化はなく」というのは、正直疑問符。
まあ、ラノベをどう定義するかで数値も変わりますし、
ラノベ界隈のデータが詳細に録られ始めるのは、2010年くらいからなので、
明確に示すのは難しいものの、やはり2010年頃までは右肩上がりだったと思います。

> ・90年代のラノベを読んでラノベを書き始めたライトノベル世代が作家として登場した(『ライトノベルよ、どこへ行く』)
これは完全に、私自身が昔から抱いているイメージなのですが、
恐らくラノベの原点って、「絵が描けない人が書く漫画」だったと思うんですよ。
それこそ80年代後半は週刊少年ジャンプの黄金期であり、刺激された子供たちは多かったものの、
漫画だとストーリーの全てを絵で描かねばならず、それはアマには非常に高いハードルでした。
(ノートに鉛筆で描く程度ならまだしも、ペン入れやトーン貼りは道具も技術も要するので)
でも文章であれば、絵よりも容易に書けますし、表紙絵や挿し絵くらいなら頑張れもします。
そして商業作品のレベルとなれば、イラストは別の得意な人に頼めば良いですし、
漫画の原作&作画の分業作業に比べれば、ラノベの方がずっと分業に向いてる気がします。

あと、少し話題は逸れますけど、「絵を描くハードルの高さ」に関連して、
アマでも本格的に描く人の数は、一昔前に比べると、かなり増えた印象があります。
まあこれは、ネットの発達により、アマの絵に触れる機会が圧倒的に増えた事もありますが、
その他にも、絵を描くという行為が、アナログからデジタルに移行したのも大きいかも?
それこそ、絵を描くハードルが下がったんですよね。
ただ一方で、プロも御用達だった高級色鉛筆「三菱ペリシア」のような画材が、
生産中止に追い込まれたりする事例は、従来の絵描き層からすると厳しい現状に・・・・

> ・出版産業が順調に部数を減らしていく中で、ライトノベルだけは出版点数は減少しなかったため、
>  相対的に出版業界の中でのライトノベルの存在感が増した

これに関しては概ね、その認識で間違ってないかと、私も思います。
出版不況が叫ばれて久しい現在、一時の勢いは無いものの堅調なラノベは、
相対的に見ても、出版業界での存在感が増しているのは事実なのでしょう。
(ただ、読者層があまり入れ替わらず、そのまま高齢化の傾向にあるとも聞きますが)
ちなみに、これに関してはマンガの単行本についても言えるかな?
連載されてる週刊誌の売り上げは落ちてますが、単行本で読む層の増加で、
マンガの売り上げは堅調と言いますか・・・電子版も含めれば、増えているんですよね。
ただ、こちらでも、売れる一部の作品が異常に売れる状況が現れていると・・・・

> ・ラノベの内容が90年代のファンタジーブームから学園モノへトレンドが入れ替わった
> これらの要因の結果、ライトノベルがブームを起こしているように錯覚させ、
> その結果誕生したのが00年代のライトノベルブームだと認識しているのですが、実際どうだったのでしょう?
> 確かに90年代のラノベってファンタジー物中心ですし、興味のない人から見れば
> ライトノベルというよりゲーム小説とかそういった認識だったのでしょうか?

前述の「ラノベは漫画からの派生」という説を続ければ、
学園モノが中心になっていったのも、頷けると思うんですよね。
そもそも漫画において学園モノは、最大ジャンルとも言えますので。
ちなみに、学園モノが最大ジャンルに為り得たかと言うと、
画一化された戦後日本の教育カリキュラムにより、
世代・地域・偏差値などに関わらず、どの学校でも似たような行事が行われ、
それが大人も子供も共通体験として持っている為、ターゲット層が異様に広いんです。
これほど幅広い共通体験のあるジャンルって、他にはちょっと思い浮かびませんからねえ。

また、あまりにも「ライトノベル≒ラノベ」のイメージが強くなってしまった為、
今ではファンタジー系の作品を、ライトノベルとして認識してない事情もあろうかと?
それこそ、21世紀に入って最大のヒット作は、ハリーポッター・シリーズでしょうけど、
児童文学である あの作品は、昔ながらのジュブナイルと見なすのに違和感は無くとも、
ラノベ・イメージが強い、現在のライトノベルと見なすのに、違和感を抱く人は多いと思います。

あと、中世ヨーロッパ風なファンタジー世界観の原点は、恐らくアメリカ発であり、
日本において大きかったのは、多分、ファミコンの「ドラゴンクエスト」なんですよ。
もちろん、海外作品の翻訳本や、それに影響を受けた日本語作品を楽しむ層は居たでしょうけど、
そうしたファンは少数派で、やはり大ヒット・ゲームの存在が一番だったと。
で、ドラクエという作品は、その誕生時から、週刊少年ジャンプと深い関わりがありまして、
「メディア・ミックス」という用語が普及する、ずっと前から、
ゲーム・マンガ・アニメ・ノベルスを巻き込んだ、巨大なメディア・ミックスだったんです。
そういう意味では、ゲーム小説がファンタジー系なのも、当然と言えば当然なのかな?
とは言え、当時のノベルスの市場というのは、今とは比べ物にならないくらい小さかったかと。

で、ついでに語りますと、そうやってドラクエが築いた(欧米から輸入した?)
ファンタジー作品の「お約束的な世界観」というのが、一般的にも広まりまして、
それを踏まえた作品が、次々とゲーム・マンガ・アニメ・ノベルスで誕生したのですが、
そうした「お約束」を破る作品として登場したのが、例の「スレイヤーズ」だった訳です!!
言うなれば、既存の王道路線に反抗した、新たな邪道路線の誕生であり、
その斬新さは、それこそ中二病年代の心を鷲掴みにしていきます(笑)。
ただ、こうした邪道路線は「破壊」行為なので、新機軸はドンドン先細りますし、
王道あってこその邪道なので、王道作品の人気が落ちると、遅れて邪道作品の人気も落ち、
先鋭化で生き残りを図ると、ターゲット層がみるみると狭まって行くんですよね・・・・

そうなると今度は、過去の名作の良い所取りをして、今風にアレンジしたり、
お約束を土台に、何か特徴的なアイテムを付け加えたりなど、無難路線に落ち着いていくと。
なろう系の最大ジャンルである異世界転生モノが、ほとんど大喜利的な状態となり、
同じ1つの お題を元に、如何に他作品との違いを見せられるかの争いになっているのも、
そうした傾向の典型例だと思うんですよね。
このような無難路線は、消費者側には負担が少なく、多くの良作を生み出す反面、
枝葉の方法論に終始してしまい、革新的な傑作は なかなか生まれ難い気がします。
でもまあ、どんな分野も一旦成熟してしまうと、新しく切り開くのは困難なモノですけどね。
だからこそ逆に言えば、その分野が新たに始まったとき程、最も活気に満ちてるとも言えますが。

P.S.
最後に、御存知かも知れませんけど、
12年前に私がアップした、ラノベの人気ランキング動画を紹介。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm6231914
10年以上も時間が経過すれば、これ自体も既に歴史ですね(笑)。


▼ 輝かしい未来像と現実とのギャップ
> クレヨンしんちゃんのオトナ帝国の逆襲(2001年)は見ていますか?
はい、もちろん見てますよ。
と言いますか、当時はネット上で布教活動とかしてました(笑)。
クレヨンしんちゃんと言う、子供向けのアニメでありながら、
原恵一の「オトナ帝国」と「戦国大合戦」に関しては、
子供の引率で仕方なく見てる父親を、完全に狙い撃ちにした作品でしたからねえ!!
宮崎駿の「カリオストロの城(ルパン3世)」や、
押井守の「ビューティフル・ドリーマー(うる星やつら)」と同様、
既存の人気作を利用して、監督が自分色に描き上げてしまったという点では、
傑作に仕上がった正の面と、原作を自慰に用いた負の面とがあり、当時から侃々諤々でした。
(ちなみに私個人は、「素晴らしい作品だよ! クレヨンしんちゃんでは無いけどw」という評価)

> あれって、20世紀生まれの大人たちが「かつて未来はもっと輝いていた」と言ってるんですが、
> 実際輝いていたはずの21世紀が「案外しょぼいな」ってなった理由って、
> 失われた10年や少子高齢化などの日本的な要因と、科学技術の進化が案外しょぼかったという要因と、
> どっちが大きかったのでしょうか?

まず始めに、オトナ帝国で描かれてる元ネタは、1970年の大阪万博なので、
私からしても、2周りくらい上の世代の話ですね(笑)。
当然ながら、私自身も生まれていません。
そして、万博当時の「科学万能主義」は あの頃がピークで、次第に熱から冷めていくので、
それが潰えたのは、平成に入るよりも ずっと前の時代です。
既に当時から、数々の公害問題が、人々に健康被害を及ぼし始めていましたし、
1973年に第1次オイルショックが起こり、経済成長の熱狂から一時的に立ち止まった際、
科学主義がもたらした負の側面に、改めて気付かされた・・・という展開だと聞いています。

ただし万博当時は、ライト兄弟の初飛行(1903)から、アポロ11号の月面着陸(1969)まで、
わずか66年で成し遂げてしまった時代であり、その成果の発表の場こそ、あの万博でしたから、
人々が純粋に「科学技術による輝かしい未来」を夢見たのも、そう不思議では無い気はします。
また、実際の所を言うと、科学自体には善も悪も無く、それを用いる人類次第なのであり、
そして人類は、経済優先で自然環境を蔑ろにした為に、公害問題が生じるんですよね(苦笑)。
例えば福島の原発事故にしても、科学的には事故を起こさない技術を持っているのですが、
経済的な都合から対策のラインを引き、あの震災がその想定を超えてきたのと同じ事かと。

あとは、「技術はあっても、資金がない」という問題もありますね。
例えば、核分裂の発見(1938)から、日本への原爆投下(1945)まで、
わずか7年しか掛からなかったのも、1939年に始まった世界大戦の時代だったからで、
上述の宇宙開発競争も、米ソ冷戦の代理戦争という側面があったからですね。
要するに、経済利益よりも戦争勝利が優先される、非常事態の時代であったからだと。
ですが70年代になると、ソ連の月面着陸断念で、宇宙開発競争はアメリカの勝利に終わり、
(あのまま続いていれば、火星への有人飛行も既に実現していた可能性は高そう)
軍事方面でも、米ソは「デタント(緊張緩和)」の時代を迎えた事で、
利益を生まない資金投入に疑問の目が向けられ、科学発展にブレーキが踏まれた面はあったかな?

60年代までは、日本ほどでは無いにせよ、先進国は経済発展を続けていましたが、
70年代になると停滞から低迷の時代となり、新自由主義的な経済政策が唱えられ始め、
80年代には、ソ連の軍事力よりも、日本の経済力の方が、アメリカにとって脅威と見なされて、
アメリカではレーガン大統領の、イギリスではサッチャー首相の誕生となります。
そして、1985年に結ばれたプラザ合意により、円高ドル安の傾向が強まると、
日本経済はバブルを迎え、「Japan as No.1」などと呼ばれて、アメリカを追い越す勢いとなり、
万博当時とは違った形で、日本人たちは「夢の未来図」を思い描くのですが、
バブルは崩壊し、その後に失われた平成の30年間を経て、このまま凋落の時代を迎えそうと・・・・

まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。

という事で、凄く遠回りをしてしまいましたが(笑)、
旧トルコ担当さんの問いに答えますと、
1970年頃に抱かれた未来像が潰えたのは、「科学技術の進化」が滞ったのが要因でしょうし、
1990年頃に抱かれた未来像が潰えたのは、バブル崩壊後の「失われた10年」が要因でしょうし、
「少子高齢化」が要因として現れるのは、これから迎えるであろう令和の凋落期においてです。
いや本当、ここ10年の日本の凋落ぶりは目を覆うばかりでしたが、
これからの10年20年で体験する凋落の程は、その比では無いと思われるので・・・・
確かに未来予測は困難なものの、人口統計に基づく予測は、それなりに可能ですからねえ。
人口が減り、子供たちが居なくなる中、老人ばかりが増えるのは、やはり将来的に厳しいですよ。

また、前回述べた、2000年頃に抱かれたネットの未来像が潰えたのは、
現象的に言うと、皆で多くの情報を共有し合う社会を思い描いていたのに、
実際は、GAFAのような超巨大企業が情報を独占する一方で、
ネットが大衆化する事により、心地良さが優先され出したって事なのでしょうけど、
2chやニコニコ動画に続くネットの新コンテンツが、日本から現れなっかたのは、
意外と、リーマンショックや東日本大震災で落ち込んだ、日本経済に遠因があったのかも?
いや、これに関しては、いま書いてて、ふと思い浮かんだだけで、全く考察とかしてませんがね。


[23620] Re:ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/18 (金) 21:03:35 旧トルコ担当

▼ 今までの流れの返信

> > ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> > ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> > 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

> いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
> それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
> 鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
> リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。


まあ人生何十年過ごしてからSNSが出てきた世代では「そんな簡単に変わるモノでは無い」のでしょうが、若い世代であればあるほどSNSの影響は大きいかと?
それこそ、周囲の大学生にも本当にSNSで流行ってるゲームしか遊んでない人とか普通にいますからね。
それに比べれば、SNS以前はゲーム屋でゲーム眺めているだけでも未知のタイトルがバンバン目に入ってきたわけですから、オタクでなくとも知識を体系化した、というのは表現は大げさだったかもしれませんが、あまり変わっていないということはないかと?
それこそ自分はまだネット以前のローカルな情報の入手の仕方も知っている世代ですが、これがあと5歳10歳下の世代だと、完全にSNSが最初の体験になっている世代ですからねえ。

> > うーん。
> > この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> > この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
> > 例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。
> > > 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> > > そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> > > 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> > > 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> > > 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> > 確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、
> > でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。
> > いや違うな。
> > 確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
> > だから不可知化なんですかねぇ、やはり。

> 前回、お互いに異なる「オタク」の定義についての話をしましたけども、
> そもそも論として、私と旧トルコ担当さんとの間で、
> 「幅」もそうですし、「文化」もそうでけど、
> それぞれ異なる定義をしているであろう事を、旧トルコ担当さんは気付かれてます?


はい、気づいていますよ。といいますか、その文化の定義のズレの話は前に私もしたと思うのですが。
と思い、当該部分を探してみましたが、確かに非常にわかりずらい説明になっていました。

> > はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
> > まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
> > 「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
> > 普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。
> >
> > ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
> > 世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
> > そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
> > 別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
> > キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
> > 個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
> > オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。
> >
> > 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> > 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> > そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> > 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> > 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> > その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> > 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> > 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> > ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
> > クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
> > 部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
> > メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?
> >
> > で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> > それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> > 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> > ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> > 言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
> > 「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
> > 「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
> > 「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
> > これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
> > それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
> > まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
> > それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
> > やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。
> >
> > ・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
> > 自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。

>
> いえいえ、その例えで凄くしっくりきました。
> 今まで何となく自分で感じていたことともつながったので少し話させてください。
>
> 例えば学校なのですが、昔と比べて何となくクラスというつながりが弱くなったと思うんですよね。
> もちろん私は教師でも何でもないので、昔の学校はマンガに出てくるくらいしか知りませんし、根拠には乏しいのですが、でもそこまで外れた見方でもない気がしています。
> 例えば、かつては学校内でもオタクは肩身の狭い思いをしたらしいのですが、私の学生時代には結構そういうものが許容されているというか、否定されないんですね。
> もちろんそれは我々にとっては良い時代になったという感じですし、その理由はオタクのイメージ改善にもあるんだと思うのですが、一方で同じクラスメイトのオタクグループに対する関心が昔に比べて薄れているというのもあると思うんですよね。
> なんというか、平和共存という言い方もできますが、それ以上に無関心・不干渉によってオタクは許容されていると。
> それはオタクグループと一般グループの間での距離が離れてきているいうだけでなく、なんとなくみんな自分の仲良しグループ以外には関心を持たなくなってきているというか。
> 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。
> マンガもそうだと思うんですよ。
> かつてのマンガ雑誌の時代と比べて、平成のマンガ単行本時代というのは自分の好きなマンガ以外に見向きもしなくなった時代だったと思うんですよ。
> そしてその傾向はネットマンガ時代になってより顕著になったと。
> YouTubeやSNSなどに関しては言うまでもないですよね。


再度説明すると、管理人さんが「文化=一つの学校のようなもの」と定義しているのに対して、私は「現在の文化=学校の乱立(分国)」だと考えているんですよね。
上記の説明では学校文化の話と混ぜてしまったので分かりにくくなってしまっているのですが、学校内でも多様性の名の下でクラスメイト同士の接触が減ってきているのと同様に、文化もまた異文化同士の接触が減っているといいますか、
そうした状況で「文化=一つの学校」と捉えると色々問題があるのではないか、というような趣旨でした。

▼ ラノベの歴史について

> > > ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> > > 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> > > なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> > > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
> > > それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> > > アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> > > 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> > > 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> > > そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。

> > この辺のラノベ史は勉強になりました。
> > 現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、
> > やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?

> それこそ、「スレイヤーズ」の刊行が1990年ですので、
> ラノベが「90年代初期に誕生」というのは、歴史の文脈的には正しいのでしょうけど、
> 何事でもそうですけど、一気にバッと転換するのでは無く、ジワジワと変化するものですからねえ。
> そういう意味では、上記の戯れ歌のように、ラノベの道を切り開いたのが「スレイヤーズ」であり、
> その道を広げたのが「ブギーポップ」で、道を舗装したのが「涼宮ハルヒ」だと考えています。
> で、世間的に言うと、やはり舗装道路の開通というのが、最もインパクトが大きいモノであると。
>
> そういう意味では、現在のラノベっぽくなるのは、00年代の前半でしょうし、
> 90年代の頃は、人気漫画のノベライズ版とかは既にあったので、
> 当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
> 実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
> ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
> 表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
> しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。
> 逆に言うと、原作があれば予備知識を元に、文章だけでも世界観を思い浮かべられますが、
> 原作なしのオリジナルだと、その世界観を補完するイラストの存在が不可欠であり、
> そして、キャラデザ付きのアニメ脚本みたいなモノなので、いざ映像化するにも適していると。


> これは完全に、私自身が昔から抱いているイメージなのですが、
> 恐らくラノベの原点って、「絵が描けない人が書く漫画」だったと思うんですよ。
> それこそ80年代後半は週刊少年ジャンプの黄金期であり、刺激された子供たちは多かったものの、
> 漫画だとストーリーの全てを絵で描かねばならず、それはアマには非常に高いハードルでした。
> (ノートに鉛筆で描く程度ならまだしも、ペン入れやトーン貼りは道具も技術も要するので)
> でも文章であれば、絵よりも容易に書けますし、表紙絵や挿し絵くらいなら頑張れもします。
> そして商業作品のレベルとなれば、イラストは別の得意な人に頼めば良いですし、
> 漫画の原作&作画の分業作業に比べれば、ラノベの方がずっと分業に向いてる気がします。


「原作漫画を持たないノベライズ版」という表現はしっくりきました。
一応、ライトノベルの源流はアニメのノベライズ(冨野監督自身が執筆したガンダム小説など)に源流があるらしいのですが、アニメだけでなく漫画のノベライズというのもあったんですね。

あとラノベの高齢化については、確かに中高生向け小説というレンズを通してみれば「冴えない30代の社会人が主人公」なんていう状況は高齢化に見えますが、
ラノベ=オタク文化という視点で見れば、アニメだってゲームだって高齢化してきたわけであって、ラノベの高齢化というのは何だかんだでオタク文化をわかってない文学系の評論家が騒いでいるだけだと思っています。偏見交じりではありますが。

▼ 技術発展について

> まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
> 60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
> 80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
> 科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
> 資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
> 人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
> それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
> そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
> 火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。


うーん、その辺はどうなのでしょう。カネの問題なんですかね?
まあ私は理系知識に関しては本当にさっぱりなので、管理人さんの言っているほうが正しいのだと思いますが、例えば火星への有人宇宙船を着陸させて、それが人類の生活にどう役立つのでしょうか?
結局宇宙に莫大なカネを投じていったとしても、特にイイことはないというのがバレてしまったからこそ、宇宙開発って停滞してるんじゃないですかね?
原子力に関しても、SFオタク世代のおじさんに聞いた話では、研究する前はできると思っていたことが、研究すれば研究するほど難しいことがどんどん分かってしまった、というのが原子力だったらしいのですが。
むしろ現代の問題って、技術開発に投じれるカネはあるけど、簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術はあらかた開発し尽くしてしまった、というのが現代の停滞の本質なんじゃないですかね?


[23624] Re2:ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/22 (火) 21:51:08 徳翁導誉

> > > ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> > > ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> > > 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

> > いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
> > それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
> > 鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
> > リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。

> まあ人生何十年過ごしてからSNSが出てきた世代では「そんな簡単に変わるモノでは無い」のでしょうが、
> 若い世代であればあるほどSNSの影響は大きいかと?

結局、今までのズレの大部分は、この一文にも集約されているんですよね(笑)。
「そんな簡単に変わるモノでは無い」というのも、
私は人類史的に語っている一方で、旧トルコ担当さんは個人史的に語っているので、
同じ変化量でも、人類レベルでは小さな変化だが、個人レベルでは大きな変化であり、
それ自体は別に、どちらが間違っているというような話でも無いと。
そういう事で、この辺の話題はもう良いかな?って感じはあります(笑)。
結局、双方が互いに異なる立ち位置から語ってるだけですし。

> それこそ、周囲の大学生にも本当にSNSで流行ってるゲームしか遊んでない人とか普通にいますからね。
> それに比べれば、SNS以前はゲーム屋でゲーム眺めているだけでも未知のタイトルがバンバン目に入ってきたわけですから、
> オタクでなくとも知識を体系化した、というのは表現は大げさだったかもしれませんが、
> あまり変わっていないということはないかと?
> それこそ自分はまだネット以前のローカルな情報の入手の仕方も知っている世代ですが、
> これがあと5歳10歳下の世代だと、完全にSNSが最初の体験になっている世代ですからねえ。

考えてみれば、「TSUTAYAでDVDを借り、ゲオでゲームソフトを買う」などといった
リアルに「物品」をやり取りする行為って、今の子供たちの感覚には乏しいかも?
実際、ウチの5歳の甥っ子も、テレビ放送ではなくネット配信でドラえもんを見てますし(笑)。
でもまあ、逆にオッサン世代からすると、TSUTAYAやゲオみたいに、
チェーン店が全国を席巻するような状況自体が、今世紀に入ってからの事なので、
「TSUTAYAでDVDを借り、ゲオでゲームソフトを買う」事自体が、最近の話であると(笑)。

また一方で、今の小学1・2年生は、コロナ対応じゃない学校生活を知らないんですよね。
そういう意味では、このコロナ禍が長続きするようだと、そこでも世代の壁が現れるかも?
コロナ前の生活に慣れ親しんだ層には、コロナさえ収まれば、前の生活に戻る意識で居ますけど、
コロナ後の生活が当然となった層が生まれれば、戻る事が必然とは言えなくなってしまいます。
それに、普及は将来的に見られていたリモート分野などは、これを期に一気に進みましたからね。
「アフター・コロナ」で、社会が実際どう変化するかは、まだまだ未知数な要素が多いかと。


> > 当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
> > 実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
> > ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
> > 表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
> > しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。

> 「原作漫画を持たないノベライズ版」という表現はしっくりきました。

まあ、私の個人的な見解ですけどね(笑)。

> 一応、ライトノベルの源流はアニメのノベライズ(冨野監督自身が執筆したガンダム小説など)に源流があるらしいのですが、
> アニメだけでなく漫画のノベライズというのもあったんですね。

そもそも論として、各業界分野が明確に分かれていた昭和の時代において、
漫画も小説も、同じ「出版社」という業界が取り扱う縄張りでしたからね。
やはり、そうした点の親和性というのは高かったと思いますよ。
梶原一騎の例を引くまでもなく、昔から漫画原作者という人たちは居ましたし、
彼らが単独で作品を発表すれば、それはまさしく小説になるので。
と言いますか、昔の声優は、舞台役者からの流入組(兼業)が多かったように、
昔の漫画原作者というのも、小説家からの流入組が多かったんじゃないですかねえ?
舞台や小説の方が歴史的には古く、売れてないが実力のある人材も相応に居たでしょうから。

> あとラノベの高齢化については、確かに中高生向け小説というレンズを通してみれば
> 「冴えない30代の社会人が主人公」なんていう状況は高齢化に見えますが、
> ラノベ=オタク文化という視点で見れば、アニメだってゲームだって高齢化してきたわけであって、
> ラノベの高齢化というのは何だかんだでオタク文化をわかってない文学系の評論家が騒いでいるだけだと思っています。
> 偏見交じりではありますが。

う〜ん、個人的には、オタク文化界隈からの声のような気がするんですよね。
実際、それ以外の大部分の人たちからすれば、ラノベという存在自体の認識が希薄なので、
わざわざ、そうして騒ぐような機会も少ないと思いますし・・・・
簡単に言えば、別に興味も無い世界の話題を、普通は話そうとも思わないと(苦笑)。

そういう意味では、それこそ前回も言いましたけど、
ラノベの人気が高まりだしたのは、ここ20年あまりの話ですし、
特に00年代の頃は、ラノベというジャンルがグイグイと成長していた時代でしたから、
それにハマる若者の比率は今よりも高く、そして熱かったものと充分に推測できます。
まあでも、今も昔も、ラノベを読む若者よりも、読まない若者の方が多数派でしょうし、
そんな中でも現在と比べれば、やはり読んでる比率は00年代の方が高いと思うんです。
しかも、当時と現在の若者数の差まで考慮すれば、絶対数は確実に00年代の方が多いはずで、
その内の何割が未だに読者かは解りませんけど、一定の客数が居れば、それに合わせる作品も増え、
そうなれば卒業率も下がりますから、必然的に平均年齢は上がっていく事になると。

これは何もラノベ業界だけに限らず、あらゆる業界で似たり寄ったりの現象は起きているはずです。
例えばJリーグとかは、そのあたりのデータが豊富に揃っているコンテンツですけど、
サポーターの高齢化というのは、数値として明らかに見て取れますからねえ。
でもまあ、冷静に考えれば、それも当然と言えば当然で、
1993年のJリーグ誕生ブームやドーハの悲劇に、2002年の日韓W杯、
そして00年代に各地で生まれた「おらが町のチーム」の成長ストーリーを、
若者時代に直撃した人たちは、やはりファン層の中核を為しますよ。
それは、今の若者がサッカーを見ないという以上に、彼らが特別な経験をした世代なんです。
しかも繰り返すように、当時の若者は、今の若者よりも絶対数が多いと。
そうなれば必然的に、高齢化は進んでいきますよ(日本自体が高齢化している訳ですし)。
その上、現在では有料チャンネルや有料配信が増え、収入面は膨らみましたけど、
反面、これは新たなファン層を開拓する意味では、大きな障壁となっているのも事実です。

・・・って、この辺りの話になると、ラノベとはまた異なる事情になってくるかな?(笑)
とは言え、これだけリアル書店が減ると、ラノベを手に取る機会も減ってたりするのかなぁ?
もしくは、売れ行き自体は変わらなくても、アニメ化などで有名になった
一部の作品のみが過度に売れるような現象は、起こっているような気がします。
言うなれば、本屋で何となく選ぶのではなく、もう買う本を決めて本屋に行っていると。
もっと言えば、リアル書店ではなくAmazonであれば、その傾向は更に顕著でしょうね。
「ジャケ買い」なんて単語は、半ば死語になっていると思いますし(苦笑)。
いや、でも全体的に見れば、ジャケ買いが最も生き残ってる分野こそ、ラノベなのか!?
タイトルと表紙絵で釣るのは、良くも悪くもラノベ商法の王道でしたので。

ちなみに余談ながら、90年代までは、サラリーマンだと大体、
「歴史小説」や「時代小説」を読むという習慣がありました。
まあ、多くの人が喫煙をし、麻雀やゴルフをして、巨人戦を見てたのと同じで、
そうする事で共通の話題を持て、社会人の「たしなみ」の如く見なされていたと。
司馬遼太郎・吉川英治・池波正太郎などなど、まさにバカ売れしてました。
また、それとは別に「ミステリー小説」とかも、凄く売れてましたよね。
もちろん、今でも人気作家は数多くいますけど、ちょっと次元が異なりますし、
戦後の「娯楽小説を読む」という文化が、今からは想像が難しいほど色濃くあったと思いますよ。
実際、それまではスポーツ一辺倒だった私の読書歴も、歴史小説から始まっていますので。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=c22815

そういう意味では、活字(長文)と社会が、今よりもずっと近い存在でしたし、
1992年に出版された「磯野家の謎」という、サザエさんの考察本は、
200万部を超える社会的な大ヒットを記録しました。
すると、様々なジャンルを対象に、2匹目のドジョウを狙う考察本が量産され、
オタク文化界隈でも、1996年からのエヴァ・ブームをキッカケとして、
それこそ雨後のタケノコのように、考察本が粗製濫造されてましたね(苦笑)。
でもまあ、こうやってライトなオタク層にも、活字を読むとか、考察をするという行為が、
広まっていった事実を思うと、考察本の内容はともかく、その影響力は大きかったかも?
もしかしたら、この時の活字慣れが、ラノベ読者を生む下地を作ったのかも知れません。


> > まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
> > 60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
> > 80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
> > 科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
> > 資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
> > 人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
> > それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
> > そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
> > 火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。

> うーん、その辺はどうなのでしょう。カネの問題なんですかね?

「カネの問題」という表現が お気に召さなければ、「余裕の問題」という表現でも良いですね。
と言いますか、どちらかと言えば、そちらの方が事の本質だと私は思いますけど、
この前も、無駄や雑音とかの必要性という話が、あまりピンと来られていないようでしたので、
より誰でもイメージしやすい、カネの話に置き換えてみました。
まあ、どちらもそんなに違いはありませんからねえ。
精神的な余裕や、時間的な余裕、人員や機材的な余裕など、
あらゆる作業において、余裕こそが成否を分ける大きな鍵なのですが、
それらを整えるのに、最も有用なツールこそが「カネ」だという話なんです。

ついでなので、余計な話をすると、そんなカネにとって最重要なのは、
総量よりも流通量であり、不景気が生じるのも流通量に障害が起こるからです。
逆に言うと、不景気な時ほど、流通量を増やそうとして、総量が増えたりしますからね。
例えば、AさんがBさんに1万円、BさんがCさんに1万円、CさんがAさんに1万円を渡したとして、
差し引きで言えば当然ゼロなんですけど、3人の中では3万円が動いた事になります。
で、この額が1万円から10万円、そして100万円となれば、差し引きでは相変わらずゼロですけど、
そこで動いた総額はそれぞれ、30万円と300万円になります。
カネなんてモノは所詮道具であり、貯められる性質があるから厄介なんですけど、
スムーズに動かし続ける仕組みが作れれば、みんなカネに不自由しない世界が作れるかも?
これこそが、ベーシック・インカムを成功させる鍵かな?と、個人的には考えていますね。

> 例えば火星への有人宇宙船を着陸させて、それが人類の生活にどう役立つのでしょうか?
> 結局宇宙に莫大なカネを投じていったとしても、特にイイことはないというのがバレてしまったからこそ、
> 宇宙開発って停滞してるんじゃないですかね?

はい、確かに必要ありませんよ。 ハッキリ言って無駄です。
でも、そうした必要不可欠から外れた「無駄なモノ」の存在こそが、文化というモノでは無いですか?
無駄だからと言っても、別に邪魔では無ければ、特に排除する必要性もありませんし、
それこそ、「バレてしまった」と言われますが、そんな事は当時から百も承知だったかと?
もちろん、冷戦下における超大国の威信とか、軍事技術とのリンクなどもありますけど、
有人飛行や月面着陸というのは、純粋に人々の気持ちを高揚させたのは事実です。
単に生命活動を続けるだけなら、そうした気持ちの面など不要な要素ですが、
しかし、充実した人間生活を送るには、そういう気持ちの面は物凄く重要です。
だからこそ日本国憲法第25条でも、「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利が唱われていると。

ゲームもアニメも、文学やアートも、ましてやスポーツに美食なども、
単に生きて行くだけなら不要ですけど、有意義に生きて行くには重要な存在です。
第3者から見て「無駄だな」と思われても、その他に特に害悪も無いのであれば、
別に無駄を排除する必要性も無いですし、無駄の数だけ、満たされる人も増えていきます。
そういう意味では、「輝かしい未来像」を思い浮かべながら、それが実現しなかった現実というのは、
確かに言われてみると、なかなか深いテーマかも知れませんね・・・・

「明日は今日より良くなる」事を、誰もが当たり前のように信じ、安心して暮らしてた頃、
人々が未来を思い浮かべたならば、それは当然、現在の繁栄が更に進んだ姿であり、
例え荒唐無稽な夢でも、笑って受け入れられる余裕があったと思うんですよ。
パイがドンドン大きくなっていて、みんなに取り分があった時代には、
失業手当や生活保護が問題視されたり、公務員がバッシングされたりもしませんでした。
だって、失業手当や生活保護の受給者や、薄給の公務員よりも、世間の人の方が豊かでしたから。
そうなれば心に余裕だって生まれますし、ポスト冷戦の感覚しか無いと解り難いでしょうけど、
対立軸として共産主義が実在した時代には、資本主義社会も今より自制心があったんです。
特に日本の場合は、日本型経営による社会主義的な社会が出来上がっていましたので。
しかし、「明日は今日より悪くなるかも」と、多くの人が不安を抱く現在では、
人々から心の余裕もなくなり、自分の生活で手一杯となり、生き方も汲々としてしまうと。
こうなると、「無駄な事」自体が、害悪に映っています社会になってしまう訳です・・・・

そして、現代社会においては、経済的余裕が精神的余裕に直結しがちであり、
その結果、社会の経済面が悪化すると、人々の精神面も悪化しちゃうんですよね。
昨今のコロナ禍においても、そうした事例は多岐に渡って見受けられるかと思います。
逆説的に言えば、宇宙開発の夢に、多くの人たちが熱狂できるような時代は、
宇宙開発に投じられるだけの余裕があるという時代でもあり、
どっちが卵で、どっちが鶏かはさておき、人々にとって良い時代であると言えるのかな?
それこそオリンピックとかも同じで、それを純粋に楽しめる状況下なら良い時代で、
無理に五輪で楽しませようとしても、社会が良くなるモノでも、人々が楽しむモノでも無いと。

と言いますか、これってニッチな趣味の世界でも言える事なのでは?
「俺達はメジャーに対するマイナーじゃない! インディーだ!!」
これは、アントニオ猪木の新日本、ジャイアント馬場の全日本という2大団体に対して、
わずか資金5万円でプロレス団体FMWを立ち上げ、過激な電流爆破デスマッチにより、
一部でカルト的な人気を博した大仁田厚の言葉ですけど(笑)、
メジャーの対義語として、マイナーではなくインディーが成り立つ社会でこそ、
ニッチな世界というのも、やはり充実するモノだと思うんです。
そして80〜90年代というのは、バブル景気の恩恵に加えて、
団塊世代は働き盛りであり、団塊ジュニア世代は若者層を構成していて、
そうしたインディーな社会も充実できる土壌が、確かに存在していたんですよ。

また、山は高くなれば高くなるほど、広い裾野を必要とするみたいに、
膨大な凡作や駄作が生めるだけの土壌があればこそ、一握りの傑作は生まれる訳ですし、
そして更には、そうすると別の所にも、小さいけど尖った山が生まれる余地ができ、
それこそが、マイナーではなくインディーなニッチの世界だと言えます。
ですので、「役立たないから停滞する」ような、余裕の無い社会状況であると、
結局は、裾野も広がらなければ、尖った別の小山も生まれにくいと思うんですよね。

> 原子力に関しても、SFオタク世代のおじさんに聞いた話では、研究する前はできると思っていたことが、
> 研究すれば研究するほど難しいことがどんどん分かってしまった、というのが原子力だったらしいのですが。

進めば進むほど、問題点が増えていくという現象は、どんな世界にも当然ある事ですよ。
それは何も先端分野の研究に限らず、例えば皆が経験する受験勉強でも言える事で、
勉強をすればするほど、解けない問題というのに多く出会いますし、
却って勉強を疎かにしている人の方が、楽観的に認識している所はあると思います。
でもそれって、見えてない事を自覚できないくらい、視野がボンヤリしているという話で、
逆に言うと、進めば進むほど視界がハッキリしてきて、いろいろ見えてくる訳ですね。
そして、それは1歩ずつ確実に進めている証でもあり、更に進むとゴールが待っているので、
そんな途中で諦めてしまうようでは、まずゴールには辿り着けないと・・・・

恐らく、ここで言われている原子力とは、核融合炉の話かと思われますが、
プラズマを安定的に扱い技術というのは、確かに、実現が非常に困難な代物です。
トカマク型やヘリカル型、レーザー方式など、様々な研究が行われていますし、
あまりに巨額な研究開発費を要する事から、国際協力が叫ばれる中、
1国でも実現できそうだと甘く見たアメリカが、国際協力を渋った事で、
アメリカ自体の研究が遅れてしまい、後から遅れて参加するなんて事態もありました。
そういう意味では、その方の話の内容も、決して間違っている訳ではありません。
ですけど、過去がどうだったかと、将来がどうかは別の話です。

言うなれば、東京五輪の予算とかが、当初の想定額の数倍に跳ね上がるみたいな話で(笑)、
「この額で出来ると思ったんだけど・・・」なんて事は、大型プロジェクトでは珍しくなく、
逆に言うと、そんな事自体は日常茶飯事の想定内であり、
そして、「結局は出来ませんでした」なんて事は、そんなには起こりません。
もちろん、中には技術的に時期尚早だったとか、そういった事態はあるのですが、
ほとんどの場合、時間とお金さえ掛ければ、ある程度の事は成し遂げられていますし、
予算が付けば時間は短縮でき、初めから不可能そうなら そもそも予算が付きません。
ハッキリ言って、現在はどの国も財政的に厳しく、巨額の研究費を投じるのは大変ですけど、
それでも国際実験炉ITERの建設計画は、歩みは遅いものの着々と進められています。
ただ、皮肉な話かも知れませんけど、福島の原発事故により被った損害額を、
そのまま研究開発費に回せていたら、かなり実現に近付いていたかも知れませんね。

> むしろ現代の問題って、技術開発に投じれるカネはあるけど、
> 簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術はあらかた開発し尽くしてしまった、
> というのが現代の停滞の本質なんじゃないですかね?

いやいや、近年の日本が国際競争力を失いつつある理由も、
根幹にあるのは、やはり研究開発費の大幅な減少ですよ・・・・

「企業型社会主義」で進んでいた戦後の日本社会は、思いのほか公的な補助が少なく、
大部分を企業内での補助に頼っていた為、長く続いた好循環の頃は本当に良かったんです。
しかしバブルの崩壊以降、それが上手く立ち行かないようになると、
当然ながら企業は目先の利益に囚われますし、そこで公助の貧弱さが露呈した訳です。
技術開発に関しても、すぐには効果の出ない基礎研究や、チャレンジ性の高い研究など、
予算に余裕がある状況であれば、広い視野から資金を投じる事も可能ですけど、
業績が悪化し、予算も限られてくれば、すぐに儲かりそうな研究しか行えなくなります。

そういう意味では、「簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術」に、
安易に飛びついてしまう現状が存在するのは、確かに事実なんですけど、
「カネがない」からそうなるので、結果としてジリ貧になるのも目に見えているんです。
それを打開するには、ビジョンを持った冒険が不可欠になってくるものの、
日本の大企業のサラリーマン社長では、なかなか決断は難しいですよ・・・・
仮に決断した所で、見る目がなければ、東芝みたいな事になっちゃいますし(泣)。

言うなれば、旧トルコ担当さんが思い浮かべているのは、枝葉的な技術改良であり、
ここ十数年、元気を失った日本社会においては、それが主流ではあるものの、
やはり大きいのは、根幹的だったり、新種を生むような技術開発なんです!!
それが今や、世界を席巻するGAFAであったり、国家戦略で進める米中に独占され、
最前線で競ってきた日本が、アッと言う間に後方へと下がってしまった事実は、
既に後退した状況しか知らない、若い世代にとっては普通の光景でも、
それ以前の日本を覚えている世代からすると、やはり物凄い焦燥感や虚脱感があるんです。

それこそ、核融合炉の最終目的である「D-D反応」の核融合炉が実現できれば、
海水から無尽蔵にエネルギーを取り出せますから、恐らくは人類社会が一変しますよ!!
エネルギーがタダ同然な社会となれば、どんな無茶な事も、かなり実現できます(笑)。
やはりエネルギーというのは、あらゆる作業の根幹ですからねえ。
逆に言えば、だからこそ、現代社会は「石油、石油」と騒いでる訳です。
でもまあ、さすがにこの技術は実現困難なので、今世紀中には無理かも?
とは言え、世界大戦でも起これば、時計の針はかなり早まるかな。
実際、核分裂の発見から、原発の運用開始まで、わずか16年で実現してますけど、
これが平時であれば、もしかしたら実現まで100年を要していたかも知れません。

また、それ以外にも、遺伝子を弄り、身体と機械を繋げ、脳がデジタル化するような、
人の手による人為的な人類の「進化」が、技術的には、すぐそこまで来ているので、
こちらは今世紀中には、人類社会に劇的な変化をもたらすと思いますよ。
それこそ、攻殻機動隊のようなSF的な世界の実現が!!
もちろん、技術的に高いハードルは、まだまだ多く残っていますし、
実現に近付けば近付くほど、課題も多く現れてくるのは事実でしょう。
ですが、こちらに関しては、ある程度の工程表が描けるような段階に来ているので、
早いか遅いかの違いだけで、そう遠くない未来に、まず間違いなく実現するはずです。
ただ、その時、日本がどれほど主体的に関われているかは、見通しが暗いですけど・・・・

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