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[23361] ww2onlineの改善提案返信 削除
2020/9/29 (火) 01:43:09 トルコ担当

一次大戦系戦場ですが、勝負が長引きすぎる傾向にあるので、30Tで生産力トップの国家が優勝と言うルールに変更してはどうでしょうか?
現在行われている欧州戦場も、もう何回も担当者が入れ替わっていますし(私も途中参戦です。

追記:20周年おめでとうございます


[23364] 第一次大戦のゲームを作るなら返信 削除
2020/9/29 (火) 21:44:59 徳翁導誉

> 一次大戦系戦場ですが、勝負が長引きすぎる傾向にあるので、
> 30Tで生産力トップの国家が優勝と言うルールに変更してはどうでしょうか?
> 現在行われている欧州戦場も、もう何回も担当者が入れ替わっていますし(私も途中参戦です。

う〜ん、でもWW1関連シナリオは、扱う時代性の違いもあり、
元々、WW2関連シナリオよりも、ゆっくり進む意図で作られてますし、
奇襲決着が難しく、じっくりと外交に当たれる仕様にしてあるんですよね。
そういう意味では、もしも早期決着がお望みなら、
WW2関連シナリオの方を選べば良い気もします。

あと、大体の目安としては、WW2関連シナリオは30ターンくらい、
そしてWW1関連シナリオは50ターンくらいで終わるバランスにしてあるので、
それを大きく超えるようだと、ゲーム展開自体の話にもなってきますし・・・・

ただ、もう最近は「がっつり駆け引き」という遊び方では無くなってきてますし、
マニア向けであるWW2オンラインのシステムを、無理して弄るよりも、
WW1なら「連合国×同盟国」、WW2なら「連合国×枢軸国」、冷戦なら「資本国×共産国」と、
個人戦ではなく、2陣営による団体戦として、勝利を目指すゲームを、
新たに作った方が、結局は適しているのかも知れませんね。
マップは「欧州&北米」に限定し、シナリオは「WW1→WW2→冷戦」と回す感じで、
団体戦仕様として、1つのエリアに複数国の軍隊を駐屯できるようにして、
エリア自体にも「支配率(占領率)」とか設定すれば、展開が大味にならずに済むかも?

まあ、2陣営による単純な殴り合いよりも、
3陣営の方が駆け引きも生まれて面白いという事であれば、
十字軍シナリオにして、「カトリック×東方正教×イスラム」でも良いでしょうけど。
単純に3勢力だと、個人的には「朝鮮三国時代」とか、少し興味があるのですが、
高句麗・百済・新羅と1勢力1国なので、団体戦向きの題材では無いのかな?
倭の五王&五胡十六国とか、聖徳太子&隋建国とか、大化改新&唐建国など、
日本や中国まで舞台を広げれば、東アジア史としても刺激的な時代ですし、
逆に言うと、この三国時代が終わり、新羅が半島を統一して以降は、
1200年に亘って、朝鮮は中国隷属の時代に入り、日本も大陸との関わりが薄れるんですよね。

> 追記:20周年おめでとうございます
どうも、ありがとうございます。


[23370] 1次大戦戦場終了報告とCGIサーバーの相談返信 削除
2020/10/4 (日) 20:01:16 旧トルコ担当


1次大戦・欧州戦場がフランスの勝利で終了しました。初期化と保存をお願いします。
http://w2.oroti.net/~tokuou/frame/ww1_europe/ww1_europe.html

> > 一次大戦系戦場ですが、勝負が長引きすぎる傾向にあるので、
> > 30Tで生産力トップの国家が優勝と言うルールに変更してはどうでしょうか?
> > 現在行われている欧州戦場も、もう何回も担当者が入れ替わっていますし(私も途中参戦です。

> う〜ん、でもWW1関連シナリオは、扱う時代性の違いもあり、
> 元々、WW2関連シナリオよりも、ゆっくり進む意図で作られてますし、
> 奇襲決着が難しく、じっくりと外交に当たれる仕様にしてあるんですよね。
> そういう意味では、もしも早期決着がお望みなら、
> WW2関連シナリオの方を選べば良い気もします。
>
> あと、大体の目安としては、WW2関連シナリオは30ターンくらい、
> そしてWW1関連シナリオは50ターンくらいで終わるバランスにしてあるので、
> それを大きく超えるようだと、ゲーム展開自体の話にもなってきますし・・・・


完全に個人的な趣味なんですが、ww1の行動力制の戦場で1か月くらいサクッと遊びたいんですよね。
ただゲームシステム上、ダレルときは100ターン以上にわたってだらだら続くこともあり、
早期決着を望んでいるというよりは、だれるのを防止する目的で、制限ターン数をつけて欲しい、という感じです。
30ターンだと短すぎるということであれば、50ターン、あるいは75ターンでの判定というのはどうでしょうか?

> ただ、もう最近は「がっつり駆け引き」という遊び方では無くなってきてますし、

大国を担当するのはやることが多いうえに、自分の都合・スケジュールに関係なくゲームが展開するためめんどくさくなる、というのが大きいように思っています。
そうすると東西冷戦や二次大戦あたりを舞台にして、一か国を複数人で担当するほうが良いのかな?

私も以下のようなJavaScriptゲームを作ってみたのですが、できればCGIを使って複数人で遊ぶゲームを作りたいんですよね。
アジア新時代 https://devum765.github.io/javascript-game/
歴史ゲームというよりはミリタリー系のゲームを志向しているのですが、どうしても一人用はAI設定が大変になるので。
ただサーバーのことがよくわからなくて、おススメのサーバーなどあれば教えていただけませんか?


[23373] Re:1次大戦戦場終了報告とCGIサーバーの相談返信 削除
2020/10/6 (火) 20:55:18 徳翁導誉

> 1次大戦・欧州戦場がフランスの勝利で終了しました。初期化と保存をお願いします。
お疲れ様です。
過去戦場にアップしておきました。
http://kakolog01.g1.xrea.com/ww1euro_session/ww1euro_32.html


> > > 一次大戦系戦場ですが、勝負が長引きすぎる傾向にあるので、
> > > 30Tで生産力トップの国家が優勝と言うルールに変更してはどうでしょうか?
> > > 現在行われている欧州戦場も、もう何回も担当者が入れ替わっていますし(私も途中参戦です。

> > 個人戦ではなく、2陣営による団体戦として、勝利を目指すゲームを、
> > 新たに作った方が、結局は適しているのかも知れませんね。
> > マップは「欧州&北米」に限定し、シナリオは「WW1→WW2→冷戦」と回す感じで、
> > 団体戦仕様として、1つのエリアに複数国の軍隊を駐屯できるようにして、
> > エリア自体にも「支配率(占領率)」とか設定すれば、展開が大味にならずに済むかも?

> 完全に個人的な趣味なんですが、ww1の行動力制の戦場で1か月くらいサクッと遊びたいんですよね。

題材的に、WW1の欧州に拘りがある感じなのでしょうか?
それとも、例えば同じ7つくらいの大国数なら、
中国の戦国七雄とかでも、どちらでも良い感じなのでしょうか?
いや別に良いのですが、今まで扱ってない題材の方が目新しいかな?と(笑)。
以前は不評で止めてしまいましたけど、今ならターン更新時に一括処理でも、
逆に手軽に遊べて良いかも知れず、ここで話が深まれば実現する可能性も!?
1週間分のコマンド予定を、事前に入力できても良いですね。
・・・って、手軽に遊べるようにする程、安易な放置も増えてしまうかな?
まあ、登録日数が長かったり、未ログイン期間が短いほど、
事前に入力できるコマンド日数を増やしても良いかも知れませんけど。

> > あと、大体の目安としては、WW2関連シナリオは30ターンくらい、
> > そしてWW1関連シナリオは50ターンくらいで終わるバランスにしてあるので、
> > それを大きく超えるようだと、ゲーム展開自体の話にもなってきますし・・・・

> ただゲームシステム上、ダレルときは100ターン以上にわたってだらだら続くこともあり、
> 早期決着を望んでいるというよりは、だれるのを防止する目的で、制限ターン数をつけて欲しい、という感じです。
> 30ターンだと短すぎるということであれば、50ターン、あるいは75ターンでの判定というのはどうでしょうか?

システム的な事を言うと、部隊ユニットに行動制限が無いと30ターンくらい、
有っても50ターンくらいを過ぎると、行動力が必要以上に貯まる事で、
一気に決着まで行きやすいゲーム・バランスにはなっているんですよね、一応。
逆に言えば、ゲーム本来の「駆け引き」を楽しむ為には、そうなる前に決着する方が望ましく、
言い換えてしまうと、バランス反転後の奇襲決着が、判定的な意味合いがあるとも言えます。
言うなれば、積極的なプレーを促しているシステムではあるのですが、
だからと言って、必ずしもプレイヤーが積極的に動く事を保証するモノではなく、
ここに「判定勝利」という要素を加えてしまうと、積極性を更に奪う危険性があると思うんです。

もちろん、プレイヤーは全てのゲームにおいて、
積極的に行動し、駆け引きを行わなければならないって訳では無いのですが、
少なくともWW2オンラインというのは、そういう主旨で作られてるゲームですので、
そこを変に弄ってしまうと、ゲーム自体の意義も失われかねませんし、
だとしたら、新たに別のゲームを作るというのが、正しいような気がするんです。

> > ただ、もう最近は「がっつり駆け引き」という遊び方では無くなってきてますし、
> 大国を担当するのはやることが多いうえに、自分の都合・スケジュールに関係なくゲームが展開するためめんどくさくなる、というのが大きいように思っています。
> そうすると東西冷戦や二次大戦あたりを舞台にして、一か国を複数人で担当するほうが良いのかな?

1ヶ国を複数人でプレーする方式は、「集団ディプロマシー」で試した事がありますけど、
新たに国内調整が加わるので、1人1国の時よりも、却って大変になる印象でした。
まあ、国家は単なる器で、プレーは個人単位であれば、それも可能なのかな?
例えば米ソ冷戦であれば、アメリカかソ連で登録したら、
その後は大統領や書記長を目指しつつ、相互に米ソに影響を及ぼし合うとか。

> 私も以下のようなJavaScriptゲームを作ってみたのですが、できればCGIを使って複数人で遊ぶゲームを作りたいんですよね。
> アジア新時代 https://devum765.github.io/javascript-game/

おお、凄いじゃないですか!!
いつ頃から作り始められたのですか?
こういうのを見せられると、私も久しぶりに何か作りたくなりますね(笑)。
キチンとした1人用ゲームは、もう10年以上作ってませんけども、
作ってみたいアイデア自体は、あれこれ沢山ありますし。
って、逆に尋ねますと、これから扱ってみたい題材とか、いろいろあるのでしょうか?

> 歴史ゲームというよりはミリタリー系のゲームを志向しているのですが、どうしても一人用はAI設定が大変になるので。
確かに、思考ルーチン(今風に言うとAI)を作るのが、
1人用ゲームだと、かなり大変な部分なんですよね!!
特に、システムが複雑に為れば為るほど、AI作りは困難を極めますし、
その点、多人数ゲームであれば、そこはプレイヤー担当になるので、
プログラム的にはAI作りまで考えなくてもOKになり、システム作りに集中できると(笑)。
この辺の話は、確か16〜17年くらい前に、旧掲示板の方で、
緑川縁石さんと話した記憶がありますけど・・・当時を知る人は当然居ないでしょうね。

ただ一方で、これだけ機械学習が普及してくると、ゲームAIに関して、
そうやって強くしたり、場合によっては個性を演出したりなど、
一昔前に比べると、いろいろ出来る事は増えた気がするので、
そこに挑戦してみるというのも、ちょっと面白いかも知れませんけどね。
それこそ以前のゲームAIは、チート行為だって珍しく無かったですが、
囲碁や将棋のAIが人間を超えたように、プレイヤーと同じ条件の下、
純粋に最適なコマンド選択を探し出して、実力として上回る事も、
今では可能な時代になっているでしょうからね。
今後の実用面を考えれば、その辺の技術を身に付けておくのは、良い事かも?

> ただサーバーのことがよくわからなくて、おススメのサーバーなどあれば教えていただけませんか?
良いサーバーがあるのなら、私が教えて貰いたい所だったり(笑)。
とりあえず私が知っている中で、CGI可&無料で最も無難だったのが、
「XREA」であり、だから現状だと、そこを利用している訳ですね。
とは言え、この前のように、長期のサーバー不調とかありましたが・・・・
あとはGeoCitiesの閉鎖当時、月額500円ほどの「さくらサーバー」も検討したかな?
こちらも、値段の割には、そこそこ評判が良かったので。

まあ、ビジネス目的であれば、それなりに投資した方が良いのでしょうけど、
趣味として無料で公開するのであれば、そうしたカネ勘定に気を回したく無く、
出来れば無料で、気楽に運営したい気持ちが強いですね、個人的には。
って、そんな古いタイプのネット世代だから、今の時代に合わないんでしょうね(苦笑)。
昔のようにユーザーを「仲間」ではなく、「お客様」と割り切って考えた場合、
それなりに投資して、サイトの環境や使い勝手をキチンと整備した上で、
広告収入や課金などでビジネス的に回し、ちゃんと積極的に運営を行う方が、
ユーザー側にも、運営側にも利があり、それが可能な時代となっていますので。
分野は違いますけど、コミケなんかも現在では、そんな感じなのでは無いでしょうか?
小さな趣味人の世界観が好きな私からすると、少し物悲しいですが、
それだけネットも一般社会に広まり、大きく普遍化したって事ではあるんですよね。


[23375] Re2:1次大戦戦場終了報告とCGIサーバーの相談返信 削除
2020/10/8 (木) 21:08:19 旧トルコ担当


> > > > 一次大戦系戦場ですが、勝負が長引きすぎる傾向にあるので、
> > > > 30Tで生産力トップの国家が優勝と言うルールに変更してはどうでしょうか?
> > > > 現在行われている欧州戦場も、もう何回も担当者が入れ替わっていますし(私も途中参戦です。

> > 完全に個人的な趣味なんですが、ww1の行動力制の戦場で1か月くらいサクッと遊びたいんですよね。

> 題材的に、WW1の欧州に拘りがある感じなのでしょうか?
> それとも、例えば同じ7つくらいの大国数なら、
> 中国の戦国七雄とかでも、どちらでも良い感じなのでしょうか?
> いや別に良いのですが、今まで扱ってない題材の方が目新しいかな?と(笑)。
> 以前は不評で止めてしまいましたけど、今ならターン更新時に一括処理でも、
> 逆に手軽に遊べて良いかも知れず、ここで話が深まれば実現する可能性も!?
> 1週間分のコマンド予定を、事前に入力できても良いですね。
> ・・・って、手軽に遊べるようにする程、安易な放置も増えてしまうかな?
> まあ、登録日数が長かったり、未ログイン期間が短いほど、
> 事前に入力できるコマンド日数を増やしても良いかも知れませんけど。


いえ、題材には大してこだわりはないのですが、今遊んでる赤い嵐がもう少し(個人的な主観ですが)遊びやすくなればなー、と考えているだけです。
新しいゲームを作るとなると、時間も手間もかかりますが、既存のゲームを少し改良するなら簡単にできるのではないかと。

> > > あと、大体の目安としては、WW2関連シナリオは30ターンくらい、
> > > そしてWW1関連シナリオは50ターンくらいで終わるバランスにしてあるので、
> > > それを大きく超えるようだと、ゲーム展開自体の話にもなってきますし・・・・

> > ただゲームシステム上、ダレルときは100ターン以上にわたってだらだら続くこともあり、
> > 早期決着を望んでいるというよりは、だれるのを防止する目的で、制限ターン数をつけて欲しい、という感じです。
> > 30ターンだと短すぎるということであれば、50ターン、あるいは75ターンでの判定というのはどうでしょうか?

> システム的な事を言うと、部隊ユニットに行動制限が無いと30ターンくらい、
> 有っても50ターンくらいを過ぎると、行動力が必要以上に貯まる事で、
> 一気に決着まで行きやすいゲーム・バランスにはなっているんですよね、一応。
> 逆に言えば、ゲーム本来の「駆け引き」を楽しむ為には、そうなる前に決着する方が望ましく、
> 言い換えてしまうと、バランス反転後の奇襲決着が、判定的な意味合いがあるとも言えます。
> 言うなれば、積極的なプレーを促しているシステムではあるのですが、
> だからと言って、必ずしもプレイヤーが積極的に動く事を保証するモノではなく、
> ここに「判定勝利」という要素を加えてしまうと、積極性を更に奪う危険性があると思うんです。
> もちろん、プレイヤーは全てのゲームにおいて、
> 積極的に行動し、駆け引きを行わなければならないって訳では無いのですが、
> 少なくともWW2オンラインというのは、そういう主旨で作られてるゲームですので、
> そこを変に弄ってしまうと、ゲーム自体の意義も失われかねませんし、
> だとしたら、新たに別のゲームを作るというのが、正しいような気がするんです。


確かに、既存のゲームバランスを崩すのであれば、新しいゲームを作るべきというのは納得しました。

> 1ヶ国を複数人でプレーする方式は、「集団ディプロマシー」で試した事がありますけど、
> 新たに国内調整が加わるので、1人1国の時よりも、却って大変になる印象でした。


なるほど……

> > 私も以下のようなJavaScriptゲームを作ってみたのですが、できればCGIを使って複数人で遊ぶゲームを作りたいんですよね。
> > アジア新時代 https://devum765.github.io/javascript-game/

> おお、凄いじゃないですか!!
> いつ頃から作り始められたのですか?


製作期間としては10日、100時間弱くらいだと思います。
その後のアプデでさらに30時間くらいかな?
時間のわりに内容は大したものじゃないんですがw

> こういうのを見せられると、私も久しぶりに何か作りたくなりますね(笑)。
> キチンとした1人用ゲームは、もう10年以上作ってませんけども、
> 作ってみたいアイデア自体は、あれこれ沢山ありますし。
> って、逆に尋ねますと、これから扱ってみたい題材とか、いろいろあるのでしょうか?


作りたい一人用ゲームとしては、ナポレオン戦争以降から第二次世界大戦終戦までくらいをテーマにした政治・経済・軍事の要素があるゲームを作ってみたいとは前々から思っています。
似たゲームにVictoriaちというゲームがあるのですが、ゲームとしては作業量が多くて、プレイするのに時間もかかるんですよね(1プレイ100年くらいがだいたい15時間くらい)。
これは何でかというと、個人的なゲームデザイン論になるのですが、(以下長いです)

シミュレーションゲームはゲームシステムを複雑にする必要があるわけです。
(そうでないと賢いプレイヤーは何度かプレイしてすぐに勝ちパターンなり、最適な行動を見つけてしまうので)
そこでいかにゲームを複雑にするのかが問題になるのですが、私は2つ方法があると思っていて、
1つがプレイヤーの操作できる要素を増やすこと、もう1つが各要素の関連性を複雑にすることです。
例を上げれば、信長の野望の開墾コマンドはプレイヤーの操作できる要素を増やす方向性のものです。
私がやったシリーズの信長の野望では、開墾コマンドは政治の高い武将に開墾を割り当てると勝手に国の農業値が上昇していくんですよね。
でもこれは他の要素との関連性が低く、プレイヤーの作業量を増やす割にはゲーム性自体はあまり複雑になっていないと思っています。
(強いて言えば、政治の高い武将は一部武力にたけた武将もおり(織田家だと秀吉とか)、こういった武将を内政に回すか、軍事に回すかはゲーム性を高めてはいると思いますが)
逆に各要素の関連性を極限まで増やしているのが将棋です。あれは操作(とはアナログゲームでは言わないけど)は簡単な割に、すごく考えさせられますよね。
それは駒を一つ動かすことが、非常に複雑に多くの要素と絡み合っているからです。
要するに、各要素の関連性をゲーム内部で増やしていけば、プレイヤーの作業量を増やさずに、面白いゲームが作れると。
で、今回作ったアジア新時代も可能な限りその方向でゲームを作っていて、あのゲームは操作こそ簡単ですが(作業量が少ないということ)、
戦争一回するにも各国の勢力バランスを考えなければならず、それを誤れば一回の操作で一気に滅亡への道のりを歩むように作ったつもりです。
話は戻りますが、ナポレオン戦争以降から第二次世界大戦終戦まで辺りを再現するゲームも、そんな感じで簡単操作で複雑なゲーム性を与えたいんですよね。
Victoiraとかはどうしても作業力が膨大で時間がかかるゲームなので。

あともう一つやりたいのが、完全な歴史シミュレーションを作ってみたくはあります。
時代は前近代を舞台にして、プレイヤーは一切干渉せずに、ゲームの中でランダム生成された国家やキャラクターが勝手に動いて歴史を作っていくような。
キャラ数は歴史上の大帝国ならば1000人くらいが生成されて、皇帝は熱心に政治をする奴もいれば、遊び惚けるやつもいると。
貴族(官僚)は人民のための政治を目指すやつもいれば、外戚政治で権力を握ろうとしたり、将軍は場合によっては反乱を起こしたりと。
商品も50種類くらい用意して、それが商人によって交易ルートに乗って世界中に運ばれたり、それを狙う海賊がいたり。
発明とか宗教とかの要素も用意したいですね。
地形生成なんかも完全にランダムにして、西はアメリカから東は日本までくらいの地球を自動で生成すると。
はじめは各地域がばらばらな歴史を形成していくんだけれども、科学技術が発展していくにしたがって世界の一体化が進んでいくみたいな。
あるいは大火山の噴火によって地球の平均気温が下がると、それまで繁栄していた大帝国が衰退していくみたいな。
飢えた農民が反乱を起こしたり、都市で打ちこわしが起こったり、人口が農村に流出したり、犯罪が取り締まられなくなったり。
そういう時に限って無能な皇帝が即位して、実力ある部下がクーデターを起こすけれど帝国の末端まで掌握しきれなかったりと。
そんな感じの歴史シミュレーションを作って、掲示板なんかでワイワイ観察するのも面白いかなー、と考えています。

> > 歴史ゲームというよりはミリタリー系のゲームを志向しているのですが、どうしても一人用はAI設定が大変になるので。
> 確かに、思考ルーチン(今風に言うとAI)を作るのが、
> 1人用ゲームだと、かなり大変な部分なんですよね!!
> 特に、システムが複雑に為れば為るほど、AI作りは困難を極めますし、
> その点、多人数ゲームであれば、そこはプレイヤー担当になるので、
> プログラム的にはAI作りまで考えなくてもOKになり、システム作りに集中できると(笑)。
> ただ一方で、これだけ機械学習が普及してくると、ゲームAIに関して、
> そうやって強くしたり、場合によっては個性を演出したりなど、
> 一昔前に比べると、いろいろ出来る事は増えた気がするので、
> そこに挑戦してみるというのも、ちょっと面白いかも知れませんけどね。
> それこそ以前のゲームAIは、チート行為だって珍しく無かったですが、
> 囲碁や将棋のAIが人間を超えたように、プレイヤーと同じ条件の下、
> 純粋に最適なコマンド選択を探し出して、実力として上回る事も、
> 今では可能な時代になっているでしょうからね。
> 今後の実用面を考えれば、その辺の技術を身に付けておくのは、良い事かも?


うーん、でもあまりAIが強くても人間が勝てなくて面白くないと思うんですよね。
勝敗が7:3でプレイヤーが勝てるくらいのバランスが、理想的な対AIゲームだと個人的には思っていて、
私が作ったゲームでもやろうと思えばもっと賢いAIも作れるのですが、その辺は多少がばがばにあえてしていますし、
ディープラーニング的なものを組み込んだ信長の野望で、中小大名では絶対に天下統一できないバランスも、それはそれで面白くないでしょうしw

> > ただサーバーのことがよくわからなくて、おススメのサーバーなどあれば教えていただけませんか?
> 良いサーバーがあるのなら、私が教えて貰いたい所だったり(笑)。
> とりあえず私が知っている中で、CGI可&無料で最も無難だったのが、
> 「XREA」であり、だから現状だと、そこを利用している訳ですね。
> とは言え、この前のように、長期のサーバー不調とかありましたが・・・・
> あとはGeoCitiesの閉鎖当時、月額500円ほどの「さくらサーバー」も検討したかな?
> こちらも、値段の割には、そこそこ評判が良かったので。


なるほど、やはりxreaくらいしか無い感じなのですか。
アカウントを作る際にクレカの番号を請求されたので別のサーバーを探していたんですが、有料ではないんですね。
 
> まあ、ビジネス目的であれば、それなりに投資した方が良いのでしょうけど、
> 趣味として無料で公開するのであれば、そうしたカネ勘定に気を回したく無く、
> 出来れば無料で、気楽に運営したい気持ちが強いですね、個人的には。
> って、そんな古いタイプのネット世代だから、今の時代に合わないんでしょうね(苦笑)。
> 昔のようにユーザーを「仲間」ではなく、「お客様」と割り切って考えた場合、
> それなりに投資して、サイトの環境や使い勝手をキチンと整備した上で、
> 広告収入や課金などでビジネス的に回し、ちゃんと積極的に運営を行う方が、
> ユーザー側にも、運営側にも利があり、それが可能な時代となっていますので。
> 分野は違いますけど、コミケなんかも現在では、そんな感じなのでは無いでしょうか?
> 小さな趣味人の世界観が好きな私からすると、少し物悲しいですが、
> それだけネットも一般社会に広まり、大きく普遍化したって事ではあるんですよね。


うーん、ちょっと違うような気もしますけどね。例えばコミケなんかも相変わらずサークルの8割までは100部以下しか売れてませんし、
コミケの注目度が高くなったことで大手の儲かっているサークルばかりが目立ちはしていますが、あの辺の本質は変わっていないと思います。
コミケは一般的な知名度も上がったことでお客さん率も相応ですが、それ以外の即売会はやはり特有の熱気があります。
特にオンリーイベントなんかはまだまだ濃い人たちが集まってる感じですね。
ただそういうのは本当に限られた範囲の間でしか情報が流通しないので、部外者にはほとんど分かりませんが。
しかしネットインフラが整ってビジネスにしやすくなったことで、趣味でやっているアマチュアの人がお金を得やすくなって、その辺りの境界線があいまいになってはいると思います。
中小動画投稿者がお小遣い程度のお金を稼げたり、pixivなんかでも気軽の募集・応募できるイラスト及び漫画のリクエスト機能が最近できたりと。


[23383] 1人用ゲームのAIとシステムに関して返信 削除
2020/10/13 (火) 20:58:01 徳翁導誉

> > > > > 一次大戦系戦場ですが、勝負が長引きすぎる傾向にあるので、
> > > > > 30Tで生産力トップの国家が優勝と言うルールに変更してはどうでしょうか?
> > > > > 現在行われている欧州戦場も、もう何回も担当者が入れ替わっていますし(私も途中参戦です。

> > > 完全に個人的な趣味なんですが、ww1の行動力制の戦場で1か月くらいサクッと遊びたいんですよね。

> > 題材的に、WW1の欧州に拘りがある感じなのでしょうか?
> > それとも、例えば同じ7つくらいの大国数なら、
> > 中国の戦国七雄とかでも、どちらでも良い感じなのでしょうか?
> > いや別に良いのですが、今まで扱ってない題材の方が目新しいかな?と(笑)。

> いえ、題材には大してこだわりはないのですが、
> 今遊んでる赤い嵐がもう少し(個人的な主観ですが)遊びやすくなればなー、と考えているだけです。
> 新しいゲームを作るとなると、時間も手間もかかりますが、
> 既存のゲームを少し改良するなら簡単にできるのではないかと。

んん? 赤い嵐の話なんですか?
確かに赤い嵐は、WW2オンラインの延長線上にあるゲームですけど、
私の中では、WW2オンラインと赤い嵐は、完全に別ゲームの扱いになってますね。
また、WW2オンラインに関しては、ゲーム的にかなり作り込んである為、
目先の人気対策に捉われ、下手に蛇足を加えて、その完成度自体を失わせるくらいなら、
いっその事、こちらは倉庫送りにし、新たに別ゲームを作った方がマシだと考えているんです。

キツい言い方をすれば、その変更は改良ではなく、改悪であると。
自分で言うのも何ですけど、「WW2オンライン」と「日本大統領選挙」に関しては、
それくらい、我ながら良くできたゲームだと自負していますし、
2度の優勝者大会の白熱した戦いが、その証左になっているかと思っています。
言い換えると、これらを変に弄るより、新たに別物を作った方が精神的に楽なんです(笑)。


> > > 私も以下のようなJavaScriptゲームを作ってみたのですが、
> > > できればCGIを使って複数人で遊ぶゲームを作りたいんですよね。
> > > アジア新時代 https://devum765.github.io/javascript-game/

> > おお、凄いじゃないですか!!
> > いつ頃から作り始められたのですか?

> 製作期間としては10日、100時間弱くらいだと思います。
> その後のアプデでさらに30時間くらいかな?
> 時間のわりに内容は大したものじゃないんですがw

ちなみに、これは第1作目なのでしょうか?
それとも、まだ他にも、作られた作品があるのかな?
また、プログラムの勉強に関しても、これキッカケで始められたのでしょうか?

> > こういうのを見せられると、私も久しぶりに何か作りたくなりますね(笑)。
> > キチンとした1人用ゲームは、もう10年以上作ってませんけども、
> > 作ってみたいアイデア自体は、あれこれ沢山ありますし。
> > って、逆に尋ねますと、これから扱ってみたい題材とか、いろいろあるのでしょうか?

> 作りたい一人用ゲームとしては、ナポレオン戦争以降から第二次世界大戦終戦までくらいをテーマにした
> 政治・経済・軍事の要素があるゲームを作ってみたいとは前々から思っています。
> 似たゲームにVictoriaちというゲームがあるのですが、ゲームとしては作業量が多くて、
> プレイするのに時間もかかるんですよね(1プレイ100年くらいがだいたい15時間くらい)。

おお、この辺りの好みは、私とかなり似通ってますね(笑)。
世界史Flashで扱った題材の多さからも解るかも知れませんが、
私は、七年戦争(1754)から第一次大戦(1914)に至る時代、
言うなれば、「帝国主義時代」や「長い19世紀」と呼ばれる時代が結構好きでして、
ゲーム的に作り込んでみたい題材ではあります。

より具体的に言うと、Victoriaを光栄ゲーム的に料理すると言いますか、
蒼き狼4・EuropaUniversalis・Civilizationを足し合わせた感じのゲームが理想型かな?
光栄ゲームはぬるいのですが、プレー中の脳汁は海外ゲームよりも湧くんですよね(笑)。
箱庭マップ上で、イギリスに工場を建てたり、シベリアに横断鉄道を敷いたり、
植民地でプランテーション農場を作ったりなど、視覚的に楽しめるのは魅力ですし、
キャラ化した史実人物を縦横無尽に活躍させると、脳内の妄想世界を表現できる強味です!!
まあ、箱庭内政や人物キャラ化みたいに、そこまでゲーム的な表現に走らなくとも、
洋ゲーほどのシビアさよりは、世界征服できるくらいの自由度が欲しい所。

「秀吉の野望」や「信玄の野望・世界編」の構想も、その延長線上にあると言えますね。
史実では朝鮮半島止まりでも、戦国オールスターで世界に打って出たいですし、
それはさすがに妄想が過ぎるという事で有れば、帝国主義時代を題材にして、
提督の決断ならぬ、「帝国の決断」を作ってみたいんですよね。
そして、帝国の決断を汎用的なシステムで作れば、全時代&全地域対応のゲームに出来るかな?と。

> シミュレーションゲームはゲームシステムを複雑にする必要があるわけです。
> (そうでないと賢いプレイヤーは何度かプレイしてすぐに勝ちパターンなり、最適な行動を見つけてしまうので)

う〜ん、そこは私の考えとは正反対かなぁ。
私自身は「Simple is BEST!!」が、ゲーム上の個人的な信念であり、
ボードゲームをPC上で豪華に表現するのが、理想型の1つではあります。
シンプルだけど奥深いシステムこそ、頭をフルに回転できると思いますし、
アナログ的に扱える範囲や表現が、人間にとってのリアルな手のひらサイズだと思うんです。
その上で、コンピューターの優れた計算力や視覚表現などを、そこに加えていくと。

> 1つがプレイヤーの操作できる要素を増やすこと、もう1つが各要素の関連性を複雑にすることです。
要素や項目をあれこれ増やすのは、解りやすく伝わりやすい目新しさはあるのですが、
結局の所、それらってゲーム・システム的には、蛇足になってしまいがちなんですよね。

> 逆に各要素の関連性を極限まで増やしているのが将棋です。
> あれは操作(とはアナログゲームでは言わないけど)は簡単な割に、すごく考えさせられますよね。
> それは駒を一つ動かすことが、非常に複雑に多くの要素と絡み合っているからです。

こちらに関しては、是であり、非でもあります。
例えば戦闘とかで、レベルの数値に応じて強弱が決まるよりも、
ジャンケンの三竦みのように相性とかが絡み合う方が、駆け引きが生まれて深みが増しますし、
少ない要素を組み合わせる事で、多種多様な表現が行えるのも理想ではあります。
ただ一方で、その絡み合いがブラック・ボックス化してしまうと、
どういう因果関係が結果が出ているのかが把握できず、プレー上のストレスになる事があります。
例えば赤い嵐の治安要素なんて、5つの要素が増減に影響する為、
どうして増減するかが把握しにくく、不満の種になる事がありますからねえ。

> 話は戻りますが、ナポレオン戦争以降から第二次世界大戦終戦まで辺りを再現するゲームも、
> そんな感じで簡単操作で複雑なゲーム性を与えたいんですよね。
> Victoiraとかはどうしても作業力が膨大で時間がかかるゲームなので。

「何時間でも遊べる」よりも、「短時間で遊べる」方が、
時代的にも適してる面はあるでしょうしね(笑)。
あれくらいエリアが細かく分かれているのも良いのですが、
コンパクトに楽しむなら、もっと大まかな分け方でも良いでしょうし。
まあ、CGIゲームとかだと時間が掛かっちゃうのですが、
1人用ゲームであれば、赤い嵐くらいのサイズで良いのかも知れません。

> あともう一つやりたいのが、完全な歴史シミュレーションを作ってみたくはあります。
> 時代は前近代を舞台にして、プレイヤーは一切干渉せずに、
> ゲームの中でランダム生成された国家やキャラクターが勝手に動いて歴史を作っていくような。

半年くらい前に、弁さんとの雑談で話題に出てきた
「下天3」や「ガイアチャンネル」に、イメージ的には近いのかな?
シミュレーション・ゲームと言うよりも、歴史シミュレーター的な感じで。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s22954#22954
同じく、雑談で語った「歴史物理学」によるシミュレーションであったり、
「人工生命」の生態系をサーバー上に作ったりなどの企画案にも、通ずる所があるかも?
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s22804#22804
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s20453#20453

また、昔の同人ゲームですと、架空戦史観戦ソフト「歴史隆々」というのも有りましたね。
https://note.com/yokan404/n/nd0952fae73a1
あとは、スーパーファミコン「アクトレイザー」の内政パートのように、
神の視点から、多少は干渉できるくらいの方が、やはり見ていて面白いかも?

> 地形生成なんかも完全にランダムにして、西はアメリカから東は日本までくらいの地球を自動で生成すると。
地形はランダム生成なんですね。
「Civilization」シリーズとかもそうなのですが、
もちろん、そちらの方がゲーム性が上がるのは解るものの、
個人的には、やはり史実マップの方が燃えるんですよね(笑)。

> そんな感じの歴史シミュレーションを作って、
> 掲示板なんかでワイワイ観察するのも面白いかなー、と考えています。

掲示板でとなると、ちょっと厳しいのでは?というのが、正直な感想ですね。
「ワイワイ観察」となると、やはりリアルタイム実況的になりますので、
Twitterとかの方が向いてる気はしますが、そうなると今度は同時視聴の制限が掛かり、
結局の所、ニコニコ動画のような「疑似リアルタイム」的な方法が最適な感じがします。
ライフゲームの勢力争い動画とか、コメント付きの方が面白いですしね。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm766671


> > > 歴史ゲームというよりはミリタリー系のゲームを志向しているのですが、
> > > どうしても一人用はAI設定が大変になるので。

> > 確かに、思考ルーチン(今風に言うとAI)を作るのが、
> > 1人用ゲームだと、かなり大変な部分なんですよね!!
> > 特に、システムが複雑に為れば為るほど、AI作りは困難を極めますし、
> > その点、多人数ゲームであれば、そこはプレイヤー担当になるので、
> > プログラム的にはAI作りまで考えなくてもOKになり、システム作りに集中できると(笑)。
> > ただ一方で、これだけ機械学習が普及してくると、ゲームAIに関して、
> > そうやって強くしたり、場合によっては個性を演出したりなど、
> > 一昔前に比べると、いろいろ出来る事は増えた気がするので、
> > そこに挑戦してみるというのも、ちょっと面白いかも知れませんけどね。

> うーん、でもあまりAIが強くても人間が勝てなくて面白くないと思うんですよね。
> 勝敗が7:3でプレイヤーが勝てるくらいのバランスが、理想的な対AIゲームだと個人的には思っていて、
> 私が作ったゲームでもやろうと思えばもっと賢いAIも作れるのですが、その辺は多少がばがばにあえてしていますし、
> ディープラーニング的なものを組み込んだ信長の野望で、
> 中小大名では絶対に天下統一できないバランスも、それはそれで面白くないでしょうしw

でも最終的には、AIの出来自体よりも、その強さの匙加減ですよね!?
とりあえず強いAIを作っておけば、そこから弱くする事は可能ですし、
後はプレイヤーの要望に合わせて、その強さを調節すると。
接待ゴルフや接待麻雀にしても、結局は、その相手に応じた匙加減が重要なはずで、
また、指導碁のようにレッスンが望みなら、そこにも合わせていく事が必要となります。
それこそ、将棋や囲碁の世界では、AIがプロ棋士を圧倒するようになり、
プロ棋士もAIを使った研究を、当然のように行うようになりましたけど、
でもまだ、適切に指導レッスンをしてくれるAIというのは、そこまでじゃ無いんですよね。

また、AIがプロ棋士の脅威になり始めた当時、棋士の中には恨み節を吐く人も居ましたけど、
考えようによっては、今や、人とAIが共存する世界の最先端に居るんですよね。
史上最年少のタイトル保持者となった藤井聡太2冠なんて、趣味が自作PCであり、
タイトル獲得の記者会見でも、「落ち着いたらパソコンを1台組みたい」と発言していましたが、
期待通りと言いますか、以前ここでも少し話題に触れた、
「Ryzen Threadripper 3990X」という50万円64コア128スレッドの化け物CPUを購入したとか!?
個人レベルで、この性能のCPUを活かせる人なんて、実際は限られているでしょうけど、
藤井2冠に関しては、その数少ない1人でしょうね(しかも趣味と実益を兼ねている)。
そして近年は、GCP(Google Cloud Platform)やAWS(Amazon Web Services)など、
クラウドで高性能なコンピューターを手軽に利用できるサービスも登場してきてますし、
将棋以上に、計算よりも感覚で打てる囲碁の世界では、AI活用が進んでいるようです。
AIの手を計算的に真似るのは困難でも、感覚的に真似る事は、まだ可能ですからねえ。

『女流囲碁トップ棋士が語る、相棒AIとの付き合い方』
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01132/122400009/

・・・って、何だか話が脱線してしまいましたけど、
要はAIの使い方次第だと思うんですよね。
それこそプロ棋士も、AIと対戦しても勝てない為、実際に対局するよりも、
候補手を探したり、自分の手を採点したりに、AIを活用しているらしいので、
確かに、本気モードのAIにタコ殴りにされたいプレイヤーは皆無かと思います(笑)。
その一方で、プレイヤーの好みというのは、それこそ千差万別であり、
海外ゲームのように、シビアな強さを求める人もいれば、
もっと自由に世界観を展開できて、妄想に浸れる方を求める人もあり、
その中間として、「天下統一」であったり、信長なら「天翔記」を求める人がいると。
ですから、その人の要望に合わせて、AIが手を緩めてくれたり、
いっその事、過去のプレー・データや傾向の統計、感情データの取得などにより、
適切な接待プレーをしてくれたりも良いかも知れませんが、
とりあえず面白そうなのは、AIに各大名ごとの行動個性を持たせる事でしょうか?
強さの方で余裕があれば、そちらの方向にAI能力を回せる気がするんですよね。

と言いますか、20年くらい前、歴史ゲーム好きが集うマニアックな掲示板では、
今ほどパソコンが高性能では無かった時代に、
「チート行為をしなくても、手応えのあるAI」だとか、
「プレイヤーの勢力拡大スピードに合わせて、AI大名も拡大させるAI」とか、
「大名ごとの個性を表現できるAI」とか、いろいろ語り合われてましたね(笑)。
今でも、そういった場所があれば嬉しいんですけど、難しいんだろうなぁ・・・・

> > > ただサーバーのことがよくわからなくて、おススメのサーバーなどあれば教えていただけませんか?
> > 良いサーバーがあるのなら、私が教えて貰いたい所だったり(笑)。
> > とりあえず私が知っている中で、CGI可&無料で最も無難だったのが、
> > 「XREA」であり、だから現状だと、そこを利用している訳ですね。
> > とは言え、この前のように、長期のサーバー不調とかありましたが・・・・
> > あとはGeoCitiesの閉鎖当時、月額500円ほどの「さくらサーバー」も検討したかな?
> > こちらも、値段の割には、そこそこ評判が良かったので。

> なるほど、やはりxreaくらいしか無い感じなのですか。
> アカウントを作る際にクレカの番号を請求されたので別のサーバーを探していたんですが、有料ではないんですね。

どこの無料サーバーも、大体そうだとは思いますけど、
無料プランの他に、サービス内容を充実させた有料プランがあるかと思います。
ですので、クレジットカードの番号入力を要求されたという事は、
有料プランの申し込みページだったのかな?と思われます。
少なくとも、1年半前のGeoCitiesの閉鎖に伴うXREA移設の際には、
そうした作業を行った記憶が、私にはありませんので。


> > 昔のようにユーザーを「仲間」ではなく、「お客様」と割り切って考えた場合、
> > それなりに投資して、サイトの環境や使い勝手をキチンと整備した上で、
> > 広告収入や課金などでビジネス的に回し、ちゃんと積極的に運営を行う方が、
> > ユーザー側にも、運営側にも利があり、それが可能な時代となっていますので。
> > 分野は違いますけど、コミケなんかも現在では、そんな感じなのでは無いでしょうか?
> > 小さな趣味人の世界観が好きな私からすると、少し物悲しいですが、
> > それだけネットも一般社会に広まり、大きく普遍化したって事ではあるんですよね。

> うーん、ちょっと違うような気もしますけどね。
> 例えばコミケなんかも相変わらずサークルの8割までは100部以下しか売れてませんし、
> コミケの注目度が高くなったことで大手の儲かっているサークルばかりが目立ちはしていますが、
> あの辺の本質は変わっていないと思います。
> コミケは一般的な知名度も上がったことでお客さん率も相応ですが、それ以外の即売会はやはり特有の熱気があります。
> 特にオンリーイベントなんかはまだまだ濃い人たちが集まってる感じですね。
> ただそういうのは本当に限られた範囲の間でしか情報が流通しないので、部外者にはほとんど分かりませんが。

いや〜、言わんとしている事は解るのですが、
私が言いたいのは、そういう所では無いんですよねえ・・・・
趣味人の気質というのは、今も昔も大して変わらない気がするのですが、
それを取り巻く環境というのは、かなり変わった感じがするんです。
それまでは繋がる事が難しかったコミュニティーが、
ネットの登場により、一気に広まったのは良いのですが、
今やコントロールできないほど、広がってしまったのでは無いかと?

趣味の世界というのは元来、ビジネスの世界と違って、
「クリエイター」と「ユーザー」は明確に分かれておらず、
小さい世界だからこそ、両者は地続きの存在だったと思うんですよ。
例えばネット上の動画投稿サイトにしても、
初期のニコニコ動画というのは、視聴者層こそが投稿者を生む苗床であり、
視聴者もコメントを介して、一緒に「動画」を作り上げていく部分がありました。
しかし、現在のYouTubeを見ていると、確かに視聴者数は爆発的に増えた一方で、
投稿する層と視聴する層が完全に分離し、投稿者のプロ化も進んでいる印象です。
そしてニコニコ動画も今ではYouTube以上に、有料配信などのビジネス化が進んでいます。
もちろん、ニコニコ動画の方に関しては、視聴者数の減少が、
そうした方向性に進ませている大きな要因と言えますけど、
そもそも視聴者が減少した原因は、投稿動画の質の低下にあると感じており、
その理由も、投稿者と視聴者の分離という「お客様化」にあった気がするんです。

2chにせよ、ニコ動にせよ、利用者が増えれば必然的に、玉石混淆の石の割合が増え、
彼らは無自覚なまま、空気を白けさせるのに絶大な効果を発揮します・・・・
そうなってしまえば、クリエイター側も創作意欲を削がれると。
ぶっちゃけ趣味というのは、「楽しいから」行っている訳ですし、
それが楽しくなくなれば、「つまらなさ」の負のスパイラルが起きると思うんです。
でも、そうした仲間内の空気感というのは、規模が小さいから保てるモノで、
その規模が大きくなればなるほど、それを保つのは非常に困難な事なのでしょうね。
そして規模が大きくなると、それを持続させる為に、ビジネス化が避けられない気がするんです。
ニコ動衰退の原因として挙げられる「回線の細さ」や「画質の悪さ」などの不満点は、
もう既に、視聴者がお客様化した後の話だと思いますし、
そこに論点が移ってしまうと、質を担保できる資本力の差の勝負になってきます。
だからこそ、以前よりあったYouTubeが、ここに来て存在感を爆発させているのかも知れません。

コミケに関して言うと、入場が有料化された時点で、
そうした割り切りが行われたように、私には感じるんですよね。
まあ、あれだけの規模のイベントが、今まで入場無料だった事自体が凄い事なのですが、
でも逆に言うと、これだけ大きくなってしまえば、昔ながらのノリのままとは行かないはずなんです。
もちろん、だからと言って、昔からの趣味的な世界が一掃される訳では無いですし、
残された数少ない居場所には、以前よりも濃厚な空気が生まれる事はあります。
ただ、一旦そうなってしまうと、新規層の開拓が非常に難しくなる所があるんですよ・・・・
簡単に言えば、アクセスが難しくなってしまうと。
(ちなみに「サークルの8割までは100部以下」というのは肌感覚? それともデータあり?)

話題はコミケから離れてしまいますが、例えば現在、1年ぶりにサッカーの代表戦が行われており、
森保JAPANのサッカーに関して、いろいろと考えたり、知りたい所があったりするので、
詳しい人の話を聞きたい気持ちは強いのですが、ここ最近のネット世界というのは、
単なる感情論が溢れまくり、そうした専門的な話を行える場所が無くなってしまいました。
別に、サッカーが好きな人や、詳しい人が減った訳でも、もちろん全滅した訳でも無いのに、
それを行えなくなったと言うのは、ネット利用者の規模の拡大により、
語りたい少数派が、文句を言いたい多数派に飲み込まれたからでしょうね。
まだ何処かに、そうした事が語り合われる場があるのかも知れませんが、
残念ながら、それを知らない私には、そこにアクセスする事が叶わない状態にあります。

・・・と、何だかこれだと愚痴ばかりで、変化の過渡期を懐かしむばかりな感じですが、
しかし、現実は現実としてある訳ですから、その事に文句を言いたいと言うよりも、
そうした実状に合わせて、いったい何が出来るのか?という話をしたい気ではあります。
私も古い世代なので、「趣味で儲ける事の嫌悪感」というのが正直あるのですが、
しかし一方で、資金が有れば政策や運営だった上手く回るのは事実ですし、
逆に言うと、日本のクリエイト・ビジネスって、やり甲斐の搾取が横行している所もあり、
ネットの普及やグローバル化によって、そうした古くからの価値観が一変するのも、
捉え方によって、決して悪い事では無いのでは無いか?とは考えています。
とは言え、趣味人世界の空気感というのは、アクセスしやすい何処かで残って欲しい気持ちもあります。
最近、秋葉原や神保町に行っても、昔みたいにテンションが上がらないのは、
決して、私が年を取っただけが理由の全てでは無いと思うんですよねえ・・・・
ネットの利便性が向上すれば、リアルな集積地の価値は、どうしても低下を免れないでしょうから。


[23387] Re:1人用ゲームのAIとシステムに関して返信 削除
2020/10/19 (月) 10:01:12 旧トルコ担当


> > > > > > 一次大戦系戦場ですが、勝負が長引きすぎる傾向にあるので、
> > > > > > 30Tで生産力トップの国家が優勝と言うルールに変更してはどうでしょうか?
> > > > > > 現在行われている欧州戦場も、もう何回も担当者が入れ替わっていますし(私も途中参戦です。

> > > > 完全に個人的な趣味なんですが、ww1の行動力制の戦場で1か月くらいサクッと遊びたいんですよね。

> > > 題材的に、WW1の欧州に拘りがある感じなのでしょうか?
> > > それとも、例えば同じ7つくらいの大国数なら、
> > > 中国の戦国七雄とかでも、どちらでも良い感じなのでしょうか?
> > > いや別に良いのですが、今まで扱ってない題材の方が目新しいかな?と(笑)。

> > いえ、題材には大してこだわりはないのですが、
> > 今遊んでる赤い嵐がもう少し(個人的な主観ですが)遊びやすくなればなー、と考えているだけです。
> > 新しいゲームを作るとなると、時間も手間もかかりますが、
> > 既存のゲームを少し改良するなら簡単にできるのではないかと。

> んん? 赤い嵐の話なんですか?
> 確かに赤い嵐は、WW2オンラインの延長線上にあるゲームですけど、
> 私の中では、WW2オンラインと赤い嵐は、完全に別ゲームの扱いになってますね。
> また、WW2オンラインに関しては、ゲーム的にかなり作り込んである為、
> 目先の人気対策に捉われ、下手に蛇足を加えて、その完成度自体を失わせるくらいなら、
> いっその事、こちらは倉庫送りにし、新たに別ゲームを作った方がマシだと考えているんです。
>
> キツい言い方をすれば、その変更は改良ではなく、改悪であると。
> 自分で言うのも何ですけど、「WW2オンライン」と「日本大統領選挙」に関しては、
> それくらい、我ながら良くできたゲームだと自負していますし、
> 2度の優勝者大会の白熱した戦いが、その証左になっているかと思っています。
> 言い換えると、これらを変に弄るより、新たに別物を作った方が精神的に楽なんです(笑)。


すみません、赤い嵐ではなくてww2onlineですね。単なる書き間違いです。

> > > > 私も以下のようなJavaScriptゲームを作ってみたのですが、
> > > > アジア新時代 https://devum765.github.io/javascript-game/

> > > いつ頃から作り始められたのですか?

> > 製作期間としては10日、100時間弱くらいだと思います。
> > その後のアプデでさらに30時間くらいかな?
> > 時間のわりに内容は大したものじゃないんですがw

> ちなみに、これは第1作目なのでしょうか?
> それとも、まだ他にも、作られた作品があるのかな?
> また、プログラムの勉強に関しても、これキッカケで始められたのでしょうか?


このゲームがほとんど1作目ですね。
その前にもっとプログラム的に簡単なゲームは作っていますが、本当に簡単なゲームですし。
あとその前にはほかのゲームのmodの制作もしていたので、それも含めれば完全なプログラム初心者ではないですが、本格的なプログラミング言語に関してはこれが初めてです。
開発環境も何使っていいのかわからなかったのでメモ帳使って作りましたし。
勉強のきっかけも、完全にゲーム作るためです。

> > 作りたい一人用ゲームとしては、ナポレオン戦争以降から第二次世界大戦終戦までくらいをテーマにした
> > 政治・経済・軍事の要素があるゲームを作ってみたいとは前々から思っています。
> > 似たゲームにVictoriaちというゲームがあるのですが、ゲームとしては作業量が多くて、
> > プレイするのに時間もかかるんですよね(1プレイ100年くらいがだいたい15時間くらい)。

> おお、この辺りの好みは、私とかなり似通ってますね(笑)。
> 世界史Flashで扱った題材の多さからも解るかも知れませんが、
> 私は、七年戦争(1754)から第一次大戦(1914)に至る時代、
> 言うなれば、「帝国主義時代」や「長い19世紀」と呼ばれる時代が結構好きでして、
> ゲーム的に作り込んでみたい題材ではあります。


> より具体的に言うと、Victoriaを光栄ゲーム的に料理すると言いますか、
> 蒼き狼4・EuropaUniversalis・Civilizationを足し合わせた感じのゲームが理想型かな?
> 光栄ゲームはぬるいのですが、プレー中の脳汁は海外ゲームよりも湧くんですよね(笑)。
> 箱庭マップ上で、イギリスに工場を建てたり、シベリアに横断鉄道を敷いたり、
> 植民地でプランテーション農場を作ったりなど、視覚的に楽しめるのは魅力ですし、
> キャラ化した史実人物を縦横無尽に活躍させると、脳内の妄想世界を表現できる強味です!!
> まあ、箱庭内政や人物キャラ化みたいに、そこまでゲーム的な表現に走らなくとも、
> 洋ゲーほどのシビアさよりは、世界征服できるくらいの自由度が欲しい所。


> 「秀吉の野望」や「信玄の野望・世界編」の構想も、その延長線上にあると言えますね。
> 史実では朝鮮半島止まりでも、戦国オールスターで世界に打って出たいですし、
> それはさすがに妄想が過ぎるという事で有れば、帝国主義時代を題材にして、
> 提督の決断ならぬ、「帝国の決断」を作ってみたいんですよね。
> そして、帝国の決断を汎用的なシステムで作れば、全時代&全地域対応のゲームに出来るかな?と。


> > シミュレーションゲームはゲームシステムを複雑にする必要があるわけです。
> > (そうでないと賢いプレイヤーは何度かプレイしてすぐに勝ちパターンなり、最適な行動を見つけてしまうので)

> う〜ん、そこは私の考えとは正反対かなぁ。
> 私自身は「Simple is BEST!!」が、ゲーム上の個人的な信念であり、
> ボードゲームをPC上で豪華に表現するのが、理想型の1つではあります。
> シンプルだけど奥深いシステムこそ、頭をフルに回転できると思いますし、
> アナログ的に扱える範囲や表現が、人間にとってのリアルな手のひらサイズだと思うんです。
> その上で、コンピューターの優れた計算力や視覚表現などを、そこに加えていくと。


> > 1つがプレイヤーの操作できる要素を増やすこと、もう1つが各要素の関連性を複雑にすることです。
> 要素や項目をあれこれ増やすのは、解りやすく伝わりやすい目新しさはあるのですが、
> 結局の所、それらってゲーム・システム的には、蛇足になってしまいがちなんですよね。


> > 逆に各要素の関連性を極限まで増やしているのが将棋です。
> > あれは操作(とはアナログゲームでは言わないけど)は簡単な割に、すごく考えさせられますよね。
> > それは駒を一つ動かすことが、非常に複雑に多くの要素と絡み合っているからです。

> こちらに関しては、是であり、非でもあります。
> 例えば戦闘とかで、レベルの数値に応じて強弱が決まるよりも、
> ジャンケンの三竦みのように相性とかが絡み合う方が、駆け引きが生まれて深みが増しますし、
> 少ない要素を組み合わせる事で、多種多様な表現が行えるのも理想ではあります。
> ただ一方で、その絡み合いがブラック・ボックス化してしまうと、
> どういう因果関係が結果が出ているのかが把握できず、プレー上のストレスになる事があります。
> 例えば赤い嵐の治安要素なんて、5つの要素が増減に影響する為、
> どうして増減するかが把握しにくく、不満の種になる事がありますからねえ。


私は真逆で、できる限りリアルにシミュレーションしたい派ですね。
赤い嵐の治安要素とか大好きですし、19世紀のゲームで世界統一できたりするとえーと思ってしまいます。
(批判になってしまいそうですが)来年の治安予想や、どういう要素で治安が変動しているのかを可視化できれば、ブラックボックス化も解決できるじゃないかなーと考えています。
例えば「現在治安50%→(基本治安向上率)5%*(隣接地域の軍事力補正)0.90*(占領地補正)*0.80→次年度治安予想53%」みたな感じのものを表示するとかですね。

あと単純に歴史ゲームには相応の史実再現度を求めてしまうので、史実再現させるためにはどうしてもルールが複雑になってしまうのは致し方なしと思っています。

> > 話は戻りますが、ナポレオン戦争以降から第二次世界大戦終戦まで辺りを再現するゲームも、
> > そんな感じで簡単操作で複雑なゲーム性を与えたいんですよね。
> > Victoiraとかはどうしても作業力が膨大で時間がかかるゲームなので。

> 「何時間でも遊べる」よりも、「短時間で遊べる」方が、
> 時代的にも適してる面はあるでしょうしね(笑)。
> あれくらいエリアが細かく分かれているのも良いのですが、
> コンパクトに楽しむなら、もっと大まかな分け方でも良いでしょうし。
> まあ、CGIゲームとかだと時間が掛かっちゃうのですが、
> 1人用ゲームであれば、赤い嵐くらいのサイズで良いのかも知れません。


> > あともう一つやりたいのが、完全な歴史シミュレーションを作ってみたくはあります。
> > 時代は前近代を舞台にして、プレイヤーは一切干渉せずに、
> > ゲームの中でランダム生成された国家やキャラクターが勝手に動いて歴史を作っていくような。

> 半年くらい前に、弁さんとの雑談で話題に出てきた
> 「下天3」や「ガイアチャンネル」に、イメージ的には近いのかな?
> シミュレーション・ゲームと言うよりも、歴史シミュレーター的な感じで。
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s22954#22954
> 同じく、雑談で語った「歴史物理学」によるシミュレーションであったり、
> 「人工生命」の生態系をサーバー上に作ったりなどの企画案にも、通ずる所があるかも?
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s22804#22804
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s20453#20453
>
> また、昔の同人ゲームですと、架空戦史観戦ソフト「歴史隆々」というのも有りましたね。
> https://note.com/yokan404/n/nd0952fae73a1
> あとは、スーパーファミコン「アクトレイザー」の内政パートのように、
> 神の視点から、多少は干渉できるくらいの方が、やはり見ていて面白いかも?


「歴史物理学」って良い表現ですね。今まで考えていたことを的確に表現してくれた感じです。

> > 地形生成なんかも完全にランダムにして、西はアメリカから東は日本までくらいの地球を自動で生成すると。
> 地形はランダム生成なんですね。
> 「Civilization」シリーズとかもそうなのですが、
> もちろん、そちらの方がゲーム性が上がるのは解るものの、
> 個人的には、やはり史実マップの方が燃えるんですよね(笑)。
>
> > そんな感じの歴史シミュレーションを作って、
> > 掲示板なんかでワイワイ観察するのも面白いかなー、と考えています。

> 掲示板でとなると、ちょっと厳しいのでは?というのが、正直な感想ですね。
> 「ワイワイ観察」となると、やはりリアルタイム実況的になりますので、
> Twitterとかの方が向いてる気はしますが、そうなると今度は同時視聴の制限が掛かり、
> 結局の所、ニコニコ動画のような「疑似リアルタイム」的な方法が最適な感じがします。
> ライフゲームの勢力争い動画とか、コメント付きの方が面白いですしね。
> https://www.nicovideo.jp/watch/sm766671


個人的に考えていたのは、1日で120ターン分(1ターン1か月で)が自動更新されて、リアル1か月で300年、ゲーム内の1200年(リアルの4か月)で1世界終了、1年間で3世界を回す、といった形式です。
なので地形生成もランダムにして、世界が変わるごとに全く新しい地形でシミュレーションが始まると。
そこの掲示板で「○○帝国は今後50年以内に滅びる」みたいなエマニュエル・トッドというか、ハリ・セルダンごっこがしたいんですよね。
これだとあまりにマニアックすぎるので、本当はニコニコとかでやったほうがより多くの人に楽しんでもらえるのでしょうが。

> > > > 歴史ゲームというよりはミリタリー系のゲームを志向しているのですが、
> > > > どうしても一人用はAI設定が大変になるので。

> > > 確かに、思考ルーチン(今風に言うとAI)を作るのが、
> > > 1人用ゲームだと、かなり大変な部分なんですよね!!
> > > 特に、システムが複雑に為れば為るほど、AI作りは困難を極めますし、
> > > その点、多人数ゲームであれば、そこはプレイヤー担当になるので、
> > > プログラム的にはAI作りまで考えなくてもOKになり、システム作りに集中できると(笑)。
> > > ただ一方で、これだけ機械学習が普及してくると、ゲームAIに関して、
> > > そうやって強くしたり、場合によっては個性を演出したりなど、
> > > 一昔前に比べると、いろいろ出来る事は増えた気がするので、
> > > そこに挑戦してみるというのも、ちょっと面白いかも知れませんけどね。

> > うーん、でもあまりAIが強くても人間が勝てなくて面白くないと思うんですよね。
> > 勝敗が7:3でプレイヤーが勝てるくらいのバランスが、理想的な対AIゲームだと個人的には思っていて、
> > 私が作ったゲームでもやろうと思えばもっと賢いAIも作れるのですが、その辺は多少がばがばにあえてしていますし、
> > ディープラーニング的なものを組み込んだ信長の野望で、
> > 中小大名では絶対に天下統一できないバランスも、それはそれで面白くないでしょうしw

> でも最終的には、AIの出来自体よりも、その強さの匙加減ですよね!?
> とりあえず強いAIを作っておけば、そこから弱くする事は可能ですし、
> 後はプレイヤーの要望に合わせて、その強さを調節すると。


なるほど。

> 接待ゴルフや接待麻雀にしても、結局は、その相手に応じた匙加減が重要なはずで、
> また、指導碁のようにレッスンが望みなら、そこにも合わせていく事が必要となります。
> それこそ、将棋や囲碁の世界では、AIがプロ棋士を圧倒するようになり、
> プロ棋士もAIを使った研究を、当然のように行うようになりましたけど、
> でもまだ、適切に指導レッスンをしてくれるAIというのは、そこまでじゃ無いんですよね。
>
> また、AIがプロ棋士の脅威になり始めた当時、棋士の中には恨み節を吐く人も居ましたけど、
> 考えようによっては、今や、人とAIが共存する世界の最先端に居るんですよね。
> 史上最年少のタイトル保持者となった藤井聡太2冠なんて、趣味が自作PCであり、
> タイトル獲得の記者会見でも、「落ち着いたらパソコンを1台組みたい」と発言していましたが、
> 期待通りと言いますか、以前ここでも少し話題に触れた、
> 「Ryzen Threadripper 3990X」という50万円64コア128スレッドの化け物CPUを購入したとか!?
> 個人レベルで、この性能のCPUを活かせる人なんて、実際は限られているでしょうけど、
> 藤井2冠に関しては、その数少ない1人でしょうね(しかも趣味と実益を兼ねている)。
> そして近年は、GCP(Google Cloud Platform)やAWS(Amazon Web Services)など、
> クラウドで高性能なコンピューターを手軽に利用できるサービスも登場してきてますし、
> 将棋以上に、計算よりも感覚で打てる囲碁の世界では、AI活用が進んでいるようです。
> AIの手を計算的に真似るのは困難でも、感覚的に真似る事は、まだ可能ですからねえ。
>
> 『女流囲碁トップ棋士が語る、相棒AIとの付き合い方』
> https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01132/122400009/
>
> ・・・って、何だか話が脱線してしまいましたけど、
> 要はAIの使い方次第だと思うんですよね。
> それこそプロ棋士も、AIと対戦しても勝てない為、実際に対局するよりも、
> 候補手を探したり、自分の手を採点したりに、AIを活用しているらしいので、
> 確かに、本気モードのAIにタコ殴りにされたいプレイヤーは皆無かと思います(笑)。
> その一方で、プレイヤーの好みというのは、それこそ千差万別であり、
> 海外ゲームのように、シビアな強さを求める人もいれば、
> もっと自由に世界観を展開できて、妄想に浸れる方を求める人もあり、
> その中間として、「天下統一」であったり、信長なら「天翔記」を求める人がいると。
> ですから、その人の要望に合わせて、AIが手を緩めてくれたり、
> いっその事、過去のプレー・データや傾向の統計、感情データの取得などにより、
> 適切な接待プレーをしてくれたりも良いかも知れませんが、
> とりあえず面白そうなのは、AIに各大名ごとの行動個性を持たせる事でしょうか?
> 強さの方で余裕があれば、そちらの方向にAI能力を回せる気がするんですよね。
>
> と言いますか、20年くらい前、歴史ゲーム好きが集うマニアックな掲示板では、
> 今ほどパソコンが高性能では無かった時代に、
> 「チート行為をしなくても、手応えのあるAI」だとか、
> 「プレイヤーの勢力拡大スピードに合わせて、AI大名も拡大させるAI」とか、
> 「大名ごとの個性を表現できるAI」とか、いろいろ語り合われてましたね(笑)。
> 今でも、そういった場所があれば嬉しいんですけど、難しいんだろうなぁ・・・・


> > > > ただサーバーのことがよくわからなくて、おススメのサーバーなどあれば教えていただけませんか?
> > > 良いサーバーがあるのなら、私が教えて貰いたい所だったり(笑)。
> > > とりあえず私が知っている中で、CGI可&無料で最も無難だったのが、
> > > 「XREA」であり、だから現状だと、そこを利用している訳ですね。
> > > とは言え、この前のように、長期のサーバー不調とかありましたが・・・・
> > > あとはGeoCitiesの閉鎖当時、月額500円ほどの「さくらサーバー」も検討したかな?
> > > こちらも、値段の割には、そこそこ評判が良かったので。

> > なるほど、やはりxreaくらいしか無い感じなのですか。
> > アカウントを作る際にクレカの番号を請求されたので別のサーバーを探していたんですが、有料ではないんですね。

> どこの無料サーバーも、大体そうだとは思いますけど、
> 無料プランの他に、サービス内容を充実させた有料プランがあるかと思います。
> ですので、クレジットカードの番号入力を要求されたという事は、
> 有料プランの申し込みページだったのかな?と思われます。
> 少なくとも、1年半前のGeoCitiesの閉鎖に伴うXREA移設の際には、
> そうした作業を行った記憶が、私にはありませんので。


なるほど。

> > > 昔のようにユーザーを「仲間」ではなく、「お客様」と割り切って考えた場合、
> > > それなりに投資して、サイトの環境や使い勝手をキチンと整備した上で、
> > > 広告収入や課金などでビジネス的に回し、ちゃんと積極的に運営を行う方が、
> > > ユーザー側にも、運営側にも利があり、それが可能な時代となっていますので。
> > > 分野は違いますけど、コミケなんかも現在では、そんな感じなのでは無いでしょうか?
> > > 小さな趣味人の世界観が好きな私からすると、少し物悲しいですが、
> > > それだけネットも一般社会に広まり、大きく普遍化したって事ではあるんですよね。

> > うーん、ちょっと違うような気もしますけどね。
> > 例えばコミケなんかも相変わらずサークルの8割までは100部以下しか売れてませんし、
> > コミケの注目度が高くなったことで大手の儲かっているサークルばかりが目立ちはしていますが、
> > あの辺の本質は変わっていないと思います。
> > コミケは一般的な知名度も上がったことでお客さん率も相応ですが、それ以外の即売会はやはり特有の熱気があります。
> > 特にオンリーイベントなんかはまだまだ濃い人たちが集まってる感じですね。
> > ただそういうのは本当に限られた範囲の間でしか情報が流通しないので、部外者にはほとんど分かりませんが。

> いや〜、言わんとしている事は解るのですが、
> 私が言いたいのは、そういう所では無いんですよねえ・・・・
> 趣味人の気質というのは、今も昔も大して変わらない気がするのですが、
> それを取り巻く環境というのは、かなり変わった感じがするんです。
> それまでは繋がる事が難しかったコミュニティーが、
> ネットの登場により、一気に広まったのは良いのですが、
> 今やコントロールできないほど、広がってしまったのでは無いかと?


> 趣味の世界というのは元来、ビジネスの世界と違って、
> 「クリエイター」と「ユーザー」は明確に分かれておらず、
> 小さい世界だからこそ、両者は地続きの存在だったと思うんですよ。
> 例えばネット上の動画投稿サイトにしても、
> 初期のニコニコ動画というのは、視聴者層こそが投稿者を生む苗床であり、
> 視聴者もコメントを介して、一緒に「動画」を作り上げていく部分がありました。
> しかし、現在のYouTubeを見ていると、確かに視聴者数は爆発的に増えた一方で、
> 投稿する層と視聴する層が完全に分離し、投稿者のプロ化も進んでいる印象です。
> そしてニコニコ動画も今ではYouTube以上に、有料配信などのビジネス化が進んでいます。
> もちろん、ニコニコ動画の方に関しては、視聴者数の減少が、
> そうした方向性に進ませている大きな要因と言えますけど、
> そもそも視聴者が減少した原因は、投稿動画の質の低下にあると感じており、
> その理由も、投稿者と視聴者の分離という「お客様化」にあった気がするんです。


> 2chにせよ、ニコ動にせよ、利用者が増えれば必然的に、玉石混淆の石の割合が増え、
> 彼らは無自覚なまま、空気を白けさせるのに絶大な効果を発揮します・・・・
> そうなってしまえば、クリエイター側も創作意欲を削がれると。
> ぶっちゃけ趣味というのは、「楽しいから」行っている訳ですし、
> それが楽しくなくなれば、「つまらなさ」の負のスパイラルが起きると思うんです。
> でも、そうした仲間内の空気感というのは、規模が小さいから保てるモノで、
> その規模が大きくなればなるほど、それを保つのは非常に困難な事なのでしょうね。
> そして規模が大きくなると、それを持続させる為に、ビジネス化が避けられない気がするんです。
> ニコ動衰退の原因として挙げられる「回線の細さ」や「画質の悪さ」などの不満点は、
> もう既に、視聴者がお客様化した後の話だと思いますし、
> そこに論点が移ってしまうと、質を担保できる資本力の差の勝負になってきます。
> だからこそ、以前よりあったYouTubeが、ここに来て存在感を爆発させているのかも知れません。


> コミケに関して言うと、入場が有料化された時点で、
> そうした割り切りが行われたように、私には感じるんですよね。
> まあ、あれだけの規模のイベントが、今まで入場無料だった事自体が凄い事なのですが、
> でも逆に言うと、これだけ大きくなってしまえば、昔ながらのノリのままとは行かないはずなんです。
> もちろん、だからと言って、昔からの趣味的な世界が一掃される訳では無いですし、
> 残された数少ない居場所には、以前よりも濃厚な空気が生まれる事はあります。
> ただ、一旦そうなってしまうと、新規層の開拓が非常に難しくなる所があるんですよ・・・・
> 簡単に言えば、アクセスが難しくなってしまうと。
> (ちなみに「サークルの8割までは100部以下」というのは肌感覚? それともデータあり?)


「コミックマーケット35周年調査・調査報告」ってやつですね。2011年の調査なので結構古いやつですが。
(というか確認したところ、100部未満はサークルの半数、50部未満が30%ってなってますね)

> 話題はコミケから離れてしまいますが、例えば現在、1年ぶりにサッカーの代表戦が行われており、
> 森保JAPANのサッカーに関して、いろいろと考えたり、知りたい所があったりするので、
> 詳しい人の話を聞きたい気持ちは強いのですが、ここ最近のネット世界というのは、
> 単なる感情論が溢れまくり、そうした専門的な話を行える場所が無くなってしまいました。
> 別に、サッカーが好きな人や、詳しい人が減った訳でも、もちろん全滅した訳でも無いのに、
> それを行えなくなったと言うのは、ネット利用者の規模の拡大により、
> 語りたい少数派が、文句を言いたい多数派に飲み込まれたからでしょうね。
> まだ何処かに、そうした事が語り合われる場があるのかも知れませんが、
> 残念ながら、それを知らない私には、そこにアクセスする事が叶わない状態にあります。


> ・・・と、何だかこれだと愚痴ばかりで、変化の過渡期を懐かしむばかりな感じですが、
> しかし、現実は現実としてある訳ですから、その事に文句を言いたいと言うよりも、
> そうした実状に合わせて、いったい何が出来るのか?という話をしたい気ではあります。
> 私も古い世代なので、「趣味で儲ける事の嫌悪感」というのが正直あるのですが、
> しかし一方で、資金が有れば政策や運営だった上手く回るのは事実ですし、
> 逆に言うと、日本のクリエイト・ビジネスって、やり甲斐の搾取が横行している所もあり、
> ネットの普及やグローバル化によって、そうした古くからの価値観が一変するのも、
> 捉え方によって、決して悪い事では無いのでは無いか?とは考えています。
> とは言え、趣味人世界の空気感というのは、アクセスしやすい何処かで残って欲しい気持ちもあります。
> 最近、秋葉原や神保町に行っても、昔みたいにテンションが上がらないのは、
> 決して、私が年を取っただけが理由の全てでは無いと思うんですよねえ・・・・
> ネットの利便性が向上すれば、リアルな集積地の価値は、どうしても低下を免れないでしょうから。


あー、なるほど。
私の場合、インターネットを使い始めたころには既にネットが一般化してたので、ネットでちょっと検索しただけではそういった世界にたどり着けないのは当たり前、みたいな感覚です。
その時代知らないので間違っているかもですが、かつては秋葉原もインターネットもコミックマーケットも「知る人ぞ知る」だったからこそ、仲間内の空気感があったわけで、そこにたどり着くにはいわば高度な情報網みたいなものが必要だったと。
で現在はアキバもネットもコミケも情弱でも知っているものになってしまった。だけど高度な情報網みたいなものさえあれば、仲間内の空気感のある場所にはたどり着ける(こともある)から、結局は昔と大して変わってないんじゃないかなーと勝手に思っています。
アクセスが難しい場所にしかそういった場は生まれないと。


[23390] 20年前と現在の社会の違い&歴史物理学返信 削除
2020/10/20 (火) 20:42:06 徳翁導誉

> > > > > 私も以下のようなJavaScriptゲームを作ってみたのですが、
> > > > > アジア新時代 https://devum765.github.io/javascript-game/

> > > > いつ頃から作り始められたのですか?

> > > 製作期間としては10日、100時間弱くらいだと思います。
> > > その後のアプデでさらに30時間くらいかな?
> > > 時間のわりに内容は大したものじゃないんですがw

> > ちなみに、これは第1作目なのでしょうか?
> > それとも、まだ他にも、作られた作品があるのかな?
> > また、プログラムの勉強に関しても、これキッカケで始められたのでしょうか?

> このゲームがほとんど1作目ですね。
> その前にもっとプログラム的に簡単なゲームは作っていますが、本当に簡単なゲームですし。
> あとその前にはほかのゲームのmodの制作もしていたので、
> それも含めれば完全なプログラム初心者ではないですが、
> 本格的なプログラミング言語に関してはこれが初めてです。
> 開発環境も何使っていいのかわからなかったのでメモ帳使って作りましたし。
> 勉強のきっかけも、完全にゲーム作るためです。

なるほど、ありがとうございました。
あと、話題はちょっとズレちゃいますけど、
誰でも気軽にMODが投稿できるシステムや環境にしておく事は、
ネット時代の現代において、改めて重要な事だろうなと思いました。

また、例えばNPCの思考AIとかも、投稿型に出来れば面白いでしょうし、
それを昔あったPlayStation「カルネージハート」のように、
プログラム知識が無くても、AIを構築できるシステムにすれば、
そこにもゲーム性が帯びてきますし、この方が観戦プレーも盛り上がるかも?
要するに、途中で操作は一切無く、自律したAI同士の対戦を観戦する訳ですね。

> > > シミュレーションゲームはゲームシステムを複雑にする必要があるわけです。
> > > そこでいかにゲームを複雑にするのかが問題になるのですが、私は2つ方法があると思っていて、
> > > 1つがプレイヤーの操作できる要素を増やすこと、もう1つが各要素の関連性を複雑にすることです。
> > > 例を上げれば、信長の野望の開墾コマンドはプレイヤーの操作できる要素を増やす方向性のものです。

> > ただ一方で、その絡み合いがブラック・ボックス化してしまうと、
> > どういう因果関係が結果が出ているのかが把握できず、プレー上のストレスになる事があります。
> > 例えば赤い嵐の治安要素なんて、5つの要素が増減に影響する為、
> > どうして増減するかが把握しにくく、不満の種になる事がありますからねえ。

> 私は真逆で、できる限りリアルにシミュレーションしたい派ですね。
> あと単純に歴史ゲームには相応の史実再現度を求めてしまうので、
> 史実再現させるためにはどうしてもルールが複雑になってしまうのは致し方なしと思っています。

え〜と、これは物理学的なモノの考え方なのかも知れませんけど、
何かをシミュレートしようとする場合、そのモデルは可能な限りシンプルな方が良く、
現実は複雑だからと要素を増やせば、却ってリアルから遠ざかってしまうと思うんです・・・・

未来のスーパーAIなら解りませんが、少なくとも人間の頭脳というのは、
複雑な問題を複雑に扱っても、まともに処理できるほど高性能では無いですし、
(ゲームのルールはシンプルで奥深いのが理想なのも、こうした理由からです)
数理モデルの意図を理解できないまま、算出される結果を受け取ったとしても、
果たして、それが正しいのか? 間違っているのか? を判断する事すら出来ません。
そして、どれほど複雑に見えるモノでも、その根幹部分は意外とシンプルな事が多く、
数多くの要素が絡んでいても、その中心となるのは極一部に限定される事も多いです。
逆に言えば、そこが解らないようだと、物事の本質を掴めている状態とは言えないかも?

また一方で、1つ1つは複雑に絡み合っていて、とても理解など不可能なように見えても、
無数に集まって1つの集団と見なせれば、そこにはシンプルな規則性が見えてきたりもします。
物理学でいう熱力学とか、統計力学とかは、そういった分野ですね。
粒子の1つの動きはシンプルですけど、それが2つ3つと増えると複雑になり、
100個1000個ともなれば扱う事も不可能ですが、無数の集まりとなれば再びシンプルになると(笑)。
私も詳しく知りませんけど、社会物理学などの分野では、
こうした熱力学などの考え方を、人間社会にも応用しているのだと思います。
人間も100人1000人の規模だと予測不能でも、国家規模になれば結構予測が可能になりますし。

> 19世紀のゲームで世界統一できたりするとえーと思ってしまいます。
これは逆に、「20世紀ならアリ」って事なのでしょうか?(笑)
まあ考え様によってはポスト冷戦って、アメリカによって世界統一された時代な訳ですし、
文字通りの世界征服も、政治的には困難で無意味でも、技術的には可能にはなってますので。
って、パクス・アメリカーナではなく、パクス・ブリタニカの時代を考えれば、
19世紀にしたって、世界統一に近い事は起こってますし、本当にそれが有り得なかったかと言えば?
例えば、チンギス・ハーンが活躍しなかった世界線の人から見れば、
あの広大なモンゴル帝国なども、それこそ「有り得ない」存在に映るかも知れませんし、
1つの結果に定まる前には、様々な歴史展開の可能性が有り得た訳で、
あまりに史実に囚われてしまうと、その可能性すら見落としてしまうかも知れませんよ。

ですから、武田信玄が世界を征服する可能性だって・・・って、それは無いか(笑)。
ただまあ、そこはゲームなんですし、AIの話と同様に設定次第で、
リアルな展開も、荒唐無稽な展開も、どちらでも遊べるのが理想でしょうか?

> (批判になってしまいそうですが)来年の治安予想や、どういう要素で治安が変動しているのかを可視化できれば、
> ブラックボックス化も解決できるじゃないかなーと考えています。
> 例えば「現在治安50%→(基本治安向上率)5%*(隣接地域の軍事力補正)0.90*(占領地補正)*0.80→次年度治安予想53%」
> みたな感じのものを表示するとかですね。

う〜ん、そうなってしまうと、それこそリアルから遠のいてしまうのでは?
ここで扱うブラックボックスとは、ビジネスみたいに意図的に中身を隠しているのではなく、
どうして、そういう結果に至るのか、中身の経緯が解らない事を指しています。
言い換えてしまえば、「ああすれば、こうなる」みたいな明確な公式が解っていれば、
政策判断において、為政者は誰も苦労しないって話ですね(笑)。

とは言え、もちろんゲーム内においては、そうした公式が存在してますし、
それを解き明かそうというのも、個々のプレイヤーの自由であり、
ある意味では、そうした考察は現実の政治(問題解決の思考法)にも繋がるかも知れませんが、
公式を表示してしまうというのは、あまりにゲーム的に過ぎると私には思えてしまうんです。


> > > あともう一つやりたいのが、完全な歴史シミュレーションを作ってみたくはあります。
> > > 時代は前近代を舞台にして、プレイヤーは一切干渉せずに、
> > > ゲームの中でランダム生成された国家やキャラクターが勝手に動いて歴史を作っていくような。

> > 半年くらい前に、弁さんとの雑談で話題に出てきた
> > 「下天3」や「ガイアチャンネル」に、イメージ的には近いのかな?
> > シミュレーション・ゲームと言うよりも、歴史シミュレーター的な感じで。
> > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s22954#22954
> > 同じく、雑談で語った「歴史物理学」によるシミュレーションであったり、
> > 「人工生命」の生態系をサーバー上に作ったりなどの企画案にも、通ずる所があるかも?
> > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s22804#22804
> > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s20453#20453

> 「歴史物理学」って良い表現ですね。今まで考えていたことを的確に表現してくれた感じです。

歴史が趣味で、物理が専門の私が、勝手に作った造語ですけどね(笑)。
統計物理の手法が用いれる程、歴史って客観的なデータがある訳じゃ無いですけど、
近年、経済物理学や社会物理学といった学際的な新分野が、注目を集め始めていますし、
所詮は人間が集団として利を求める動きが、おおまかな歴史の流れを築いていくので、
厳密性には欠くでしょうけど、おおよその数理モデル化は出来ると思うんですよ。

とりあえず、「人口」というのは、歴史で扱える数少ないデータの1つですし、
人口データには及びませんが「経済」や「生産力」も、それなりに扱えるはずです。
実際、当サイトの企画コーナーにある「世界都市の人口変遷」や「数値で見る国力の推移」も、
チャンドラー(Tertius Chandler)や、マディソン(Angus Maddison)などの研究を基にしています。
http://tokuou.g1.xrea.com/kikaku/city_population.html
http://tokuou.g1.xrea.com/kikaku/kokuryoku.html

そして、人類社会に大きな変革をもたらす要素としては、
「画期的な技術革新」であったり、「膠着化による政治停滞」などもあるのですが、
世界規模で見ると、「気候変動」や「疫病の流行」の影響が、実はかなり大きかったりしますし、
後者の2要因に関しては、資料やデータが結構豊富なんですよね。
また、それらに連動して、温暖で豊作な時代が続くと、人口が急増する農耕民の勢力圏が拡大する一方、
寒冷化や疫病・天災で食糧不足が起こると、戦争や革命が起きたり、遊牧民が農耕民を襲う傾向があると。
ですから、科学的には不十分でも、それっぽいモデルは作成可能な気がするんです。

で、とりあえずでも歴史モデルが作れれば、そのシミュレーションを重ねる事で、
ある歴史上の出来事が、必然的だったのか? それとも偶発的だったのか? というのも、
客観的に見えてくる事になるのかも知れません。

> > > そんな感じの歴史シミュレーションを作って、
> > > 掲示板なんかでワイワイ観察するのも面白いかなー、と考えています。

> > 掲示板でとなると、ちょっと厳しいのでは?というのが、正直な感想ですね。
> > 「ワイワイ観察」となると、やはりリアルタイム実況的になりますので、
> > Twitterとかの方が向いてる気はしますが、そうなると今度は同時視聴の制限が掛かり、
> > 結局の所、ニコニコ動画のような「疑似リアルタイム」的な方法が最適な感じがします。

> 個人的に考えていたのは、1日で120ターン分(1ターン1か月で)が自動更新されて、
> リアル1か月で300年、ゲーム内の1200年(リアルの4か月)で1世界終了、1年間で3世界を回す、といった形式です。
> なので地形生成もランダムにして、世界が変わるごとに全く新しい地形でシミュレーションが始まると。
> そこの掲示板で「○○帝国は今後50年以内に滅びる」みたいな
> エマニュエル・トッドというか、ハリ・セルダンごっこがしたいんですよね。

「エマニュエル・トッドは解るけど、ハリ・セルダンって誰?」と思い、
調べてみると、アイザック・アシモフのSF小説に登場する
「心理歴史学」なる分野を作った天才数学者の事なんですね(笑)。

> これだとあまりにマニアックすぎるので、本当はニコニコとかでやったほうが
> より多くの人に楽しんでもらえるのでしょうが。

いやいや、14分24秒の頻度でターン更新があり(10分or15分1ターンの方が切りが良さそう)、
それが4ヶ月も続くとなれば、ニコ動より、Twitterとかの方が向いてる気はします。
ただし最大の関門は、「どうやって関心を持たせ、それを持続させるか」でしょうか?

でも、YouTubeのライブ配信とかの視聴者数を見ていると、
思わぬ映像でも、意外と人数が居たりしますし、
史上初のWebカメラと言われるのも、ケンブリッジ大学のコーヒーポットのネット配信で、
元々は研究者が無駄足を防ぐ為のモノでしたが、それが部外者にも人気だったんですよね(笑)。
私も、水槽の映像を垂れ流してる配信とか、結構点けっぱなしにしてたりしますし、
そういう意味では、ボーっと見られて、それでいて ついつい見ちゃうような内容となると、
出来る事なら、ターン制よりはリアルタイム制の方が、視聴者を引き付けるには良いのかも?
それこそ、YouTubeのライブ配信とかにすれば、そこのチャット機能も使えますし、
ライブ配信の映像にチャットも組み込めば、後から視聴しても空気感は味わえますので。


> > > 例えばコミケなんかも相変わらずサークルの8割までは100部以下しか売れてませんし、
> > > コミケの注目度が高くなったことで大手の儲かっているサークルばかりが目立ちはしていますが、
> > > あの辺の本質は変わっていないと思います。

> > (ちなみに「サークルの8割までは100部以下」というのは肌感覚? それともデータあり?)

> 「コミックマーケット35周年調査・調査報告」ってやつですね。2011年の調査なので結構古いやつですが。
> (というか確認したところ、100部未満はサークルの半数、50部未満が30%ってなってますね)

お〜、データがあったんですか!?
ありがとうございます!!
コミケって、そんな所までデータを取ってたんですね、知りませんでした。
そう言えば、ゲームショウのパンフレット巻末に載ってるデータ類も、結構好きだったなぁ。
ちなみに、他にも何か面白そうなデータとか載ってます?
・・・って、「35周年調査・調査報告」という書き方を見ると、
コミケのカタログとかに載ってるというよりは、そういう報告書があるのかな。
そう思って検索してみた所、ネット上で公開されてますね(笑)。
サークル側だけでなく、入場者の方のアンケート調査も、思う以上に載ってました。

> > 話題はコミケから離れてしまいますが、例えば現在、1年ぶりにサッカーの代表戦が行われており、
> > 森保JAPANのサッカーに関して、いろいろと考えたり、知りたい所があったりするので、
> > 詳しい人の話を聞きたい気持ちは強いのですが、ここ最近のネット世界というのは、
> > 単なる感情論が溢れまくり、そうした専門的な話を行える場所が無くなってしまいました。
> > 別に、サッカーが好きな人や、詳しい人が減った訳でも、もちろん全滅した訳でも無いのに、
> > それを行えなくなったと言うのは、ネット利用者の規模の拡大により、
> > 語りたい少数派が、文句を言いたい多数派に飲み込まれたからでしょうね。
> > ネットの普及やグローバル化によって、そうした古くからの価値観が一変するのも、
> > 捉え方によって、決して悪い事では無いのでは無いか?とは考えています。
> > とは言え、趣味人世界の空気感というのは、アクセスしやすい何処かで残って欲しい気持ちもあります。
> > 最近、秋葉原や神保町に行っても、昔みたいにテンションが上がらないのは、
> > 決して、私が年を取っただけが理由の全てでは無いと思うんですよねえ・・・・
> > ネットの利便性が向上すれば、リアルな集積地の価値は、どうしても低下を免れないでしょうから。

> あー、なるほど。
> 私の場合、インターネットを使い始めたころには既にネットが一般化してたので、
> ネットでちょっと検索しただけではそういった世界にたどり着けないのは当たり前、みたいな感覚です。
> その時代知らないので間違っているかもですが、かつては秋葉原もインターネットもコミックマーケットも
> 「知る人ぞ知る」だったからこそ、仲間内の空気感があったわけで、
> そこにたどり着くにはいわば高度な情報網みたいなものが必要だったと。
> で現在はアキバもネットもコミケも情弱でも知っているものになってしまった。
> だけど高度な情報網みたいなものさえあれば、仲間内の空気感のある場所にはたどり着ける(こともある)から、
> 結局は昔と大して変わってないんじゃないかなーと勝手に思っています。
> アクセスが難しい場所にしかそういった場は生まれないと。

いえ、その逆ですね。
確かに当時は「知る人ぞ知る」という、その世界だけの話で、
関係ない部外者にとっては、世界の中は伺い知るのが困難な時代だったでしょうけど、
心理的な面と、地理的な面の壁さえ越えれば、誰でもアクセスが可能な世界でした。
要するに、キモいという心理の壁と、東京など大都市のみという地理の壁であり、
そこは勇気とカネさえあれば、解決できる課題でしたので。

例えば秋葉原は昭和末期、あの街1つで、全国の家電売上の1割を担っていて、
とにかく秋葉原に行けば何でも有るし、そこに無ければ何処にも無いという状態でした。
そして「家電なら秋葉原」みたいに、代名詞的にイメージが定着してしまえば、
放っておいても人は集まってきますし、そうなれば店だって更に集まってきて、
店が増えれば価格競争が起きて商品安くなり、そこで更に買い物客が集まって、
買い物客が増えれば、マニアックな需要に応えても採算が取れるようになり、
それこそ「何でも有る」街として、好循環で発展していった感じですね。
で、そんな秋葉原の街へは、電車さえ乗れば、誰にだって行けた訳です(笑)。
マニアックな店とかも、別に情報とか無くても、足さえ使えば見つけられましたし、
コミケにしても、「マーケット(市場)」を謳っているくらい、
最初からオープンなイベントであり、そうして既に半世紀近い歴史がある訳です。

う〜ん、この辺の感覚は、「本屋」とかで喩えれば伝わりやすいですかねえ?
本屋というのは、その存在自体は当然知っていても、
興味ない人には縁遠く、どんな本が置かれているかも計り知れないでしょうし、
街の小さな本屋とかは、初めてだと確かに立ち入りにくい雰囲気がありました。
でも、一旦勇気を持って中に入り、お金さえ持っていれば、誰でも好きな本が買えるんです。
そして神保町の書店街まで足を伸ばせば、マニアックな本さえ探す事が出来たと。
別にそこには、「高度な情報網」みたいなモノは特に必要ありません。
ただ、交通費と時間を使って、わざわざそこまで足を運ぶ手間が必要という意味では、
やる気が無いと越えられない障壁があり、それに囲われた世界観や空気感はありましたし、
インターネットにしても、1時間繋いで500円とか1000円かかった2000年頃までは、
誰でも利用できるけど、本気で利用したい人しか居ない、濃密な空間であった訳ですね。
ちなみに私が、読む時間と、書く時間と、投稿する時間を分けているのも、
通信料を抑える為の、当時のネットの使い方の名残だったりします(笑)。

と、本屋の例から離れてしまいましたので、話を元に戻すと、
まずは90年代、急速に全国拡大を始めたコンビニに、売れ筋の雑誌や漫画が置かれるようになり、
続いて2000年の大店法改正により、あちこちで広大な売り場面積を持つ大型書店が現れ出し、
それに少し遅れて、ネットの普及に伴うAmazonの登場と、Kindleなどの電子書籍の発売がありました。
言ってしまうと、過渡期の00年代というのは、本好きにとって夢のような時代だった訳ですね。
昔ながらの街の本屋や、神保町の書店街は、まだ生き残っている状態で、
よく読む雑誌や漫画とかは、24時間どこでも買えるコンビニに置いてあり、
大型書店に行けば、無数の本に囲まれるテーマパークのような空間が広がり、
Amazonでネット注文すれば、手間を掛けずにマニアックな本さえ買えたのですから。
でもそれは一時の夢物語であり、平成の30年あまりの間に、
本屋の数は3万店から1万店へと激減し、コンビニに置かれた雑誌や漫画もめっきり減り、
多くの大型書店は縮小や閉店を余儀なくされ、残されたのはネット空間のAmazonだけな現状に・・・・

もちろん、Amazonを始めとしたネット通販は、非常に便利なのは確かなんですよ。
転勤族として都会でも地方でも育った私からすると、昔の地方の不便さというは覚えていますし、
ネット通販とショッピング・モールの登場が、地方の生活を劇的に変化させた事も解るんです。
この地理的格差の解消というのは、不便さの実体験が無い都会人には解らないほど大きい!!
ただ一方で、街中から本屋が姿を消した現実も、目に見えて感じてますし、
今では駅前の商業施設やショッピング・モール以外に、ほとんど本屋が残されていない現実を、
今回のコロナ禍による大型店舗の一斉休業によって、如実なまでに実感しました!!
池上彰が以前テレビで、本屋の事を「知識のドンキ」と表現した時、
「まさにその通りだ!」と相槌を打ったのですが、
専門書からゴシップ誌まで、様々な知識が所狭しとジャングル陳列されてる「リアル書店」は、
Amazonみたいな「ヴァーチャル書店」には無い、異なる本同士の空間的な繋がりがあるんですよね。
AIによるオススメ書籍は、ビジネス的には一理あっても、知識の広がりには貢献しませんし。

と言う事で、例え話が長くなってしまいましたけど、
Amazon登場によって得られた便利さがある反面で、リアル書店が消滅しかかっている現実もあり、
それは、本屋という空気感が好きな私からすると、非常に残念な状況であると。
そして、このような現象は、何も本屋だけの話に限らず、
秋葉原やネットの世界でも起こっており、コミケの世界もそうなのでは無いか?という訳です。
別に本屋なんて言うのは、そう簡単に「たどり着けないのは当たり前」な場所では無かったものの、
確かに今では、そうした感じになりつつあるのかも知れません・・・・
で、秋葉原やネットも同様に、と言うか、一歩も二歩も先んじてる実感はあります。
ぶっちゃけた話、アクセスし難いだけで、まだ何処かに世界があると言うよりは、
もう何処にも、そんな世界は残っていないのでは?というのが、正直な感想です。

・・・って、改めて立場を変えて考え直してみると、
「自分の記憶にない時代は対象の埒外」という感覚は、至って一般的な事なのかも知れませんね。
秋葉原の駅前にバスケコートがあり、歩行者天国がカオスであった時代。
ネットの無法地帯とされた2chでさえ、意外とまともな議論が行えた時代。
わずか十数年前の姿であっても、それを知らない若い世代からすれば考慮の範囲外でしょうし、
そうした世代差が無くても、普通の人の考え方だと、前後数年くらいの範囲が当たり前な一方、
無意識に数十年規模で捉え、自分が生まれる前の過去や、自分が死んでいるであろう未来さえ、
当然のように考慮して見てしまう私の考え方は、一種の変わり者と言えるでしょうから(苦笑)。
(転勤族として育ち、その土地ごとに変わる常識へ対応した経験が、私をそうさせたのかも?)
言うなれば、失われた時代しか知らない世代からすると、
そこに残された「残り香」を見ると、それが「ある」と感じるのでしょうけど、
失われた過程を見てきた世代からすると、残り香くらいじゃ「ない」のと同じと。
要するに、比べる基準の違いになってくるんだと思います。

ネット検索にしても、アナログ時代の情報収集から見ると、
時には図書館で缶詰めとなり、時にはカネを払い、時にはコネを築いて、
それでも得られなかった情報が、今では簡単にタダで手に入る時代となった訳で、
その当時と比べると、「たどり着けないのは当たり前」とは逆の感想に至ります。
(もちろん、ネットや無料じゃ得られない情報も、未だに数多く有りはしますけど)
しかし一方で、アナログ時代は「情報の水たまり」のデータ量しか無かったものが、
今では「情報の海」と呼べるくらい、把握できない規模のデータ量になりましたからねえ。
そういう意味では、ネットやデジタルの黎明期にあった「情報の池」の頃が、
手に負える範囲での理想的なデータ量だったのかも知れません。

それこそ、発信者数が限られていた以前のネットは、有益な情報率が高かったものの、
誰でも手軽に発信できるようになると、有益な情報の絶対数自体は増えていても、
ゴミのような情報が圧倒的に増えた事で、有益な情報率としては激減している感じです。
しかも、その当人に都合の良い偽情報とかも増え、そうした情報を自ら集めるだけでなく、
AIによるオススメ機能により、無自覚なまま溺れてしまう事例も増えている為、
「アナログ時代と現代」ではなく、「デジタル初期と現代」という視点に立てば、
以前に比べて大変となったというのも、一面では事実なのだと思います。

で、デジタル初期さえ知らない若い世代からすると・・・現代が全てなのでしょうね。
自身の短い記憶から、数年前と比較対象しても、長い目から見ると大して変わっていませんし、
成長期に築かれた価値観のまま、時代が変わってもアップデートされないようだと、
自分が年を取った時に「最近の若者は・・・」と、愚痴をこぼす事になると(苦笑)。
まあ多くの人々が、そんな事を数千年も繰り返した訳で、よくある光景と言えばそうなのですが、
結局の所、既にあった過去の価値観をインプット出来ない様では、
未来に訪れる価値観をアップデートする事も、なかなか難しいんじゃないでしょうか?
もちろん、過去と違って未来は、本人の体感も加わるので、全く同じでは無いですけども。
って、何だか最後は、まるで関係がない話になっちゃいましたね(苦笑)。
結局の所、同じ「趣味人世界の空気感」と言う単語を用いても、
それぞれに思い浮かべる世界のイメージ像が、互いにかなり異なってるんだと思います。
そもそも、このサイト自体、開設から20年も経っていますし・・・・


[23393] Re:20年前と現在の社会の違い返信 削除
2020/10/24 (土) 21:12:53 旧トルコ担当


> > > > 例えばコミケなんかも相変わらずサークルの8割までは100部以下しか売れてませんし、
> > > > コミケの注目度が高くなったことで大手の儲かっているサークルばかりが目立ちはしていますが、
> > > > あの辺の本質は変わっていないと思います。

> > > (ちなみに「サークルの8割までは100部以下」というのは肌感覚? それともデータあり?)

> > 「コミックマーケット35周年調査・調査報告」ってやつですね。2011年の調査なので結構古いやつですが。
> > (というか確認したところ、100部未満はサークルの半数、50部未満が30%ってなってますね)

> お〜、データがあったんですか!?
> ありがとうございます!!
> コミケって、そんな所までデータを取ってたんですね、知りませんでした。
> そう言えば、ゲームショウのパンフレット巻末に載ってるデータ類も、結構好きだったなぁ。
> ちなみに、他にも何か面白そうなデータとか載ってます?
> ・・・って、「35周年調査・調査報告」という書き方を見ると、
> コミケのカタログとかに載ってるというよりは、そういう報告書があるのかな。
> そう思って検索してみた所、ネット上で公開されてますね(笑)。
> サークル側だけでなく、入場者の方のアンケート調査も、思う以上に載ってました。
>
> > > 話題はコミケから離れてしまいますが、例えば現在、1年ぶりにサッカーの代表戦が行われており、
> > > 森保JAPANのサッカーに関して、いろいろと考えたり、知りたい所があったりするので、
> > > 詳しい人の話を聞きたい気持ちは強いのですが、ここ最近のネット世界というのは、
> > > 単なる感情論が溢れまくり、そうした専門的な話を行える場所が無くなってしまいました。
> > > 別に、サッカーが好きな人や、詳しい人が減った訳でも、もちろん全滅した訳でも無いのに、
> > > それを行えなくなったと言うのは、ネット利用者の規模の拡大により、
> > > 語りたい少数派が、文句を言いたい多数派に飲み込まれたからでしょうね。
> > > ネットの普及やグローバル化によって、そうした古くからの価値観が一変するのも、
> > > 捉え方によって、決して悪い事では無いのでは無いか?とは考えています。
> > > とは言え、趣味人世界の空気感というのは、アクセスしやすい何処かで残って欲しい気持ちもあります。
> > > 最近、秋葉原や神保町に行っても、昔みたいにテンションが上がらないのは、
> > > 決して、私が年を取っただけが理由の全てでは無いと思うんですよねえ・・・・
> > > ネットの利便性が向上すれば、リアルな集積地の価値は、どうしても低下を免れないでしょうから。

> > あー、なるほど。
> > 私の場合、インターネットを使い始めたころには既にネットが一般化してたので、
> > ネットでちょっと検索しただけではそういった世界にたどり着けないのは当たり前、みたいな感覚です。
> > その時代知らないので間違っているかもですが、かつては秋葉原もインターネットもコミックマーケットも
> > 「知る人ぞ知る」だったからこそ、仲間内の空気感があったわけで、
> > そこにたどり着くにはいわば高度な情報網みたいなものが必要だったと。
> > で現在はアキバもネットもコミケも情弱でも知っているものになってしまった。
> > だけど高度な情報網みたいなものさえあれば、仲間内の空気感のある場所にはたどり着ける(こともある)から、
> > 結局は昔と大して変わってないんじゃないかなーと勝手に思っています。
> > アクセスが難しい場所にしかそういった場は生まれないと。

> いえ、その逆ですね。
> 確かに当時は「知る人ぞ知る」という、その世界だけの話で、
> 関係ない部外者にとっては、世界の中は伺い知るのが困難な時代だったでしょうけど、
> 心理的な面と、地理的な面の壁さえ越えれば、誰でもアクセスが可能な世界でした。
> 要するに、キモいという心理の壁と、東京など大都市のみという地理の壁であり、
> そこは勇気とカネさえあれば、解決できる課題でしたので。
>
> 例えば秋葉原は昭和末期、あの街1つで、全国の家電売上の1割を担っていて、
> とにかく秋葉原に行けば何でも有るし、そこに無ければ何処にも無いという状態でした。
> そして「家電なら秋葉原」みたいに、代名詞的にイメージが定着してしまえば、
> 放っておいても人は集まってきますし、そうなれば店だって更に集まってきて、
> 店が増えれば価格競争が起きて商品安くなり、そこで更に買い物客が集まって、
> 買い物客が増えれば、マニアックな需要に応えても採算が取れるようになり、
> それこそ「何でも有る」街として、好循環で発展していった感じですね。
> で、そんな秋葉原の街へは、電車さえ乗れば、誰にだって行けた訳です(笑)。
> マニアックな店とかも、別に情報とか無くても、足さえ使えば見つけられましたし、
> コミケにしても、「マーケット(市場)」を謳っているくらい、
> 最初からオープンなイベントであり、そうして既に半世紀近い歴史がある訳です。
>
> う〜ん、この辺の感覚は、「本屋」とかで喩えれば伝わりやすいですかねえ?
> 本屋というのは、その存在自体は当然知っていても、
> 興味ない人には縁遠く、どんな本が置かれているかも計り知れないでしょうし、
> 街の小さな本屋とかは、初めてだと確かに立ち入りにくい雰囲気がありました。
> でも、一旦勇気を持って中に入り、お金さえ持っていれば、誰でも好きな本が買えるんです。
> そして神保町の書店街まで足を伸ばせば、マニアックな本さえ探す事が出来たと。
> 別にそこには、「高度な情報網」みたいなモノは特に必要ありません。
> ただ、交通費と時間を使って、わざわざそこまで足を運ぶ手間が必要という意味では、
> やる気が無いと越えられない障壁があり、それに囲われた世界観や空気感はありましたし、
> インターネットにしても、1時間繋いで500円とか1000円かかった2000年頃までは、
> 誰でも利用できるけど、本気で利用したい人しか居ない、濃密な空間であった訳ですね。
> ちなみに私が、読む時間と、書く時間と、投稿する時間を分けているのも、
> 通信料を抑える為の、当時のネットの使い方の名残だったりします(笑)。
>
> と、本屋の例から離れてしまいましたので、話を元に戻すと、
> まずは90年代、急速に全国拡大を始めたコンビニに、売れ筋の雑誌や漫画が置かれるようになり、
> 続いて2000年の大店法改正により、あちこちで広大な売り場面積を持つ大型書店が現れ出し、
> それに少し遅れて、ネットの普及に伴うAmazonの登場と、Kindleなどの電子書籍の発売がありました。
> 言ってしまうと、過渡期の00年代というのは、本好きにとって夢のような時代だった訳ですね。
> 昔ながらの街の本屋や、神保町の書店街は、まだ生き残っている状態で、
> よく読む雑誌や漫画とかは、24時間どこでも買えるコンビニに置いてあり、
> 大型書店に行けば、無数の本に囲まれるテーマパークのような空間が広がり、
> Amazonでネット注文すれば、手間を掛けずにマニアックな本さえ買えたのですから。
> でもそれは一時の夢物語であり、平成の30年あまりの間に、
> 本屋の数は3万店から1万店へと激減し、コンビニに置かれた雑誌や漫画もめっきり減り、
> 多くの大型書店は縮小や閉店を余儀なくされ、残されたのはネット空間のAmazonだけな現状に・・・・
>
> もちろん、Amazonを始めとしたネット通販は、非常に便利なのは確かなんですよ。
> 転勤族として都会でも地方でも育った私からすると、昔の地方の不便さというは覚えていますし、
> ネット通販とショッピング・モールの登場が、地方の生活を劇的に変化させた事も解るんです。
> この地理的格差の解消というのは、不便さの実体験が無い都会人には解らないほど大きい!!
> ただ一方で、街中から本屋が姿を消した現実も、目に見えて感じてますし、
> 今では駅前の商業施設やショッピング・モール以外に、ほとんど本屋が残されていない現実を、
> 今回のコロナ禍による大型店舗の一斉休業によって、如実なまでに実感しました!!
> 池上彰が以前テレビで、本屋の事を「知識のドンキ」と表現した時、
> 「まさにその通りだ!」と相槌を打ったのですが、
> 専門書からゴシップ誌まで、様々な知識が所狭しとジャングル陳列されてる「リアル書店」は、
> Amazonみたいな「ヴァーチャル書店」には無い、異なる本同士の空間的な繋がりがあるんですよね。
> AIによるオススメ書籍は、ビジネス的には一理あっても、知識の広がりには貢献しませんし。
>
> と言う事で、例え話が長くなってしまいましたけど、
> Amazon登場によって得られた便利さがある反面で、リアル書店が消滅しかかっている現実もあり、
> それは、本屋という空気感が好きな私からすると、非常に残念な状況であると。
> そして、このような現象は、何も本屋だけの話に限らず、
> 秋葉原やネットの世界でも起こっており、コミケの世界もそうなのでは無いか?という訳です。
> 別に本屋なんて言うのは、そう簡単に「たどり着けないのは当たり前」な場所では無かったものの、
> 確かに今では、そうした感じになりつつあるのかも知れません・・・・
> で、秋葉原やネットも同様に、と言うか、一歩も二歩も先んじてる実感はあります。
> ぶっちゃけた話、アクセスし難いだけで、まだ何処かに世界があると言うよりは、
> もう何処にも、そんな世界は残っていないのでは?というのが、正直な感想です。


なるほど。
20年前はマニアックな世界が非常にアクセスしやすかった。
しかしこの20年間で書店がアマゾンになり、ネットが質の低い情報で溢れ、秋葉原が有名無実化し、コミケが商業化してしまった。
結果、マニアック世界はどんどん見えなくなってしまったので「もう何処にも、そんな世界は残っていないのでは?」と思っている、ということで合っていますかね?

マニアックな世界がアクセスしやすかった時代が存在した、というのは今まで知りませんでした。
そういえば最近アマゾンで何冊か雑誌を取り寄せたのですが、ほとんど生まれて初めて読む雑誌というものの情報の濃さと質の高さに本当に驚かされました。
現在雑誌はもう何十年も衰退の一途をたどっており、確かに情報があふれる社会になったはものの、その質自体はかなり低下しているというのを実感させられます。

ただやはり若者としては、昔は良かった、現在は悪い、というのは感情として受け付けないので(笑)、多少反論させてもらえば、「そんな世界は残っていない」というのは大袈裟ではないかと。
インターネットの発達によって情報があふれる社会になった結果、今までならば決して広まる規模にはならなかった世界のものに対してアクセスしやすくなったというのはあると思いますし、
(例えば雑誌ならば赤字にならないため最低限度必要な量の読者というのがあり、それを下回る規模の文化はなかなか拡大しえなかったですし、)
無限の情報の中からちゃんとそういったものを拾い上げることができれば、やはり現代はそんなに悪い時代ではないと思うんですよね。
大学生の私がアシモフのSF小説で面白そうなのがあるなんて言う情報も、ネット時代だからこそ手に入った情報ですし。
(仮に書店にSFマガジンなんかが置いてあったとしても、手に取ることはなかったと思うので)
書店も完全に絶滅したなんて言うことはなく、どんなに電子化が進んだとしても、ハブ駅周辺にある大型書店なんかは確実に残るでしょう。
自宅周辺で気軽に行ける本屋がなくなったのは事実ですが、むしろアマゾンのおかげで本が安く簡単に手に入るようになったわけで、書店とアマゾンが共存する今の時代は20年前に比べむしろ読書環境は良くなっているのではないでしょうか?
コミケの商業化も企業ブースが誕生した95、6年ごろにもさんざん騒がれたことでしたが、結局コミケの理念みたいなものは変わってないと思います。(だいたい商業化だったら90年代初頭にBLの世界でバンバン商業化していますし)
むしろ商業化・大規模化することで同人文化がより広く社会から認知され、同人文化は拡大したのではないかと。(それこそ80年代なんかはコミケの存在を知ること自体が地方では難しかったわけで)
コミケ有料化も、実際カタログ購入により入場料を取ってきたコミティアはちゃんとその文化を維持していますし、同人文化の存続ということであれば海賊版サイトが今後対処されるのか?という点のほうがよっぽど重要ではないでしょうか?
(海賊版サイトに関しては最近新たな判決が出て、今後よくなりそうな流れは存在しています)

ただまあ、それもここ10年くらいしか知らない大学生の考えなので、かつての「趣味人世界の空気感」が実際どういうものだったかは知らないですし、秋葉原や神保町の書店街も一度観光に行ったくらいなので、その辺の雰囲気は失われているのかもしれません。
ですがそれも結局、古い文化が廃れ新たな文化が生まれているだけだなのでは?新たに生まれてきている文化を知らない、あるいはついていけていないだけなのでは?と思ってしまいます。

追記:文章がなんか反抗的なのは許してください、あとAIとかの話は後で追記します

さらに追記

ガレージキットというのがありまして、80年代に熱狂的な模型マニアが自ら模型を自主製作していたのですが、90年代にそれは広く認知されるようになりました
で、ガレージキットにはワンダーフェスティバルと言うまあガレージキット版のコミケが存在するのですが、90年代にこれがドンドン拡大していくわけです
しかしそれはそれまでの熱狂的な模型マニアが増えたのではなく、ガレージキットというファンアイテムでファン活動をする人々がワンフェスに押し寄せてきたんですね
80年代からの熱狂的マニアは模型としての質を追い求めますが、90年代に入ってきたライト層は自分の好きなアニメのフィギュアが作れれば、模型としての高みを目指さなくていいという感じで、
90年代にワンフェスの雰囲気は学祭の模擬店やフリーマーケットに近いものになっていきます
そこで00年、ワンフェスを主催していた海洋堂と言う熱狂的模型集団がワンフェスのリセットを宣言するんですよね
その時の広告文がこうでした「ガレージキットは文化(カルチャー)じゃない、精神(スピリッツ)だ」
ガレージキットなんて言う言葉すらなかった時代から、模型好きがこうじて模型の自主製作をしていた人々(それが金になるなんて露とも思わず)らしい言葉ですよね

自分はカルチャー寄りの人間なので、スピリッツがなくても生きていけるんですね
コミケが多少商業化しようとも、あるいはコミケで惰性的、馴れ合い的にコミュニティで群れていても、そういった文化は好きなんですよね
別にスピリットがなくてもいいじゃん、と

かつて岡田斗司夫さんと言う方が「オタク・イズ・デッド」という講演をしたことがあって、(現在はYouTubeで公開中)
これもオタク「精神(スピリッツ)」の終焉宣言であり、オタク「文化」の終焉宣言ではなかったと思うんですよね

管理人さんの言葉に私が共感できないのって、やっぱりこのスピリッツ側の人間なのか、カルチャー側の人間なのか、というのが大きいと思うんですよね

まあ正確に言えばコミケの元来のスピリッツはオリジナル創作にあったので、そういう意味ではコミケのスピリッツはコミケ2、3年目で早くも失われていたのかもしれませんがw


[23397] 現在の日本の文化環境に対する危機感返信 削除
2020/10/28 (水) 06:01:18 徳翁導誉

> なるほど。
> 20年前はマニアックな世界が非常にアクセスしやすかった。
> しかしこの20年間で書店がアマゾンになり、ネットが質の低い情報で溢れ、
> 秋葉原が有名無実化し、コミケが商業化してしまった。
> 結果、マニアック世界はどんどん見えなくなってしまったので
> 「もう何処にも、そんな世界は残っていないのでは?」と思っている、
> ということで合っていますかね?

厳密に言うと少し違うのですが、まあ大体はそれで良いです(笑)。
都会と地方の格差は今以上だったので、無条件にアクセスしやすかった訳でも無いですし、
秋葉原やコミケに関しても「以前に比べて」という傾向論で、白か黒かでは見てないですけど。

> マニアックな世界がアクセスしやすかった時代が存在した、というのは今まで知りませんでした。
> そういえば最近アマゾンで何冊か雑誌を取り寄せたのですが、
> ほとんど生まれて初めて読む雑誌というものの情報の濃さと質の高さに本当に驚かされました。
> 現在雑誌はもう何十年も衰退の一途をたどっており、確かに情報があふれる社会になったはものの、
> その質自体はかなり低下しているというのを実感させられます。

そうですね。
平成の初頭頃までは、特定の一部読者を対象とした、
そうしたマニアックな情報を扱う雑誌が、かなり多かったと思います。
それが今では、そのほとんどが廃刊となり、残っていても抜け殻状態だと・・・・
確かにネットの誕生により、情報量自体は雑誌時代よりも格段に増えてますけど、
一方で、ネット情報は閲覧数が重要な為、ライトな記事ばかりが量産されたり、
場合によっては、煽る記事やフェイク記事なども溢れていて、
雑誌を買えば手に入ったレベルの情報は、今だと何処で得られるの?って感じです。
カネを払わせて読ませる記事と、無料で読ませてカネになる記事とでは、やはり違ってきますよ。

> インターネットの発達によって情報があふれる社会になった結果、
> 今までならば決して広まる規模にはならなかった世界のものに対して
> アクセスしやすくなったというのはあると思いますし、
> (例えば雑誌ならば赤字にならないため最低限度必要な量の読者というのがあり、
> それを下回る規模の文化はなかなか拡大しえなかったですし、)
> 無限の情報の中からちゃんとそういったものを拾い上げることができれば、
> やはり現代はそんなに悪い時代ではないと思うんですよね。

では実際、「拾い上げること」って現実的に出来てます?
もちろん前述の通り、ネットの利点は利点として私も認めています。
それは下手をすると、ネットが当たり前なデジタル・ネイティブ世代以上に、
その発展過程をつぶさに体験してきた、私たちの世代の方が実感しているかも知れません。
また、既にアナログ的な調べ方を身に付けていたからこそ、
デジタルを道具として使い調べる方法も、自然と身に付いている面はあると思いますが、
最初からデジタルがある世代だと、情報を使うより、情報に踊らされる面が強い気も・・・・
まあ、それはさて置くとして、サッカー日本代表なんてメジャーな題材が、
まもとに語られてる場所を見つけられないのは、私の拾い上げ方が悪いんですかねえ?
サッカーは門外漢かも知れませんけど、何処かにあったりします???

> 大学生の私がアシモフのSF小説で面白そうなのがあるなんて言う情報も、
> ネット時代だからこそ手に入った情報ですし。
> (仮に書店にSFマガジンなんかが置いてあったとしても、手に取ることはなかったと思うので)
> 書店も完全に絶滅したなんて言うことはなく、どんなに電子化が進んだとしても、
> ハブ駅周辺にある大型書店なんかは確実に残るでしょう。
> 自宅周辺で気軽に行ける本屋がなくなったのは事実ですが、
> むしろアマゾンのおかげで本が安く簡単に手に入るようになったわけで、
> 書店とアマゾンが共存する今の時代は20年前に比べむしろ読書環境は良くなっているのではないでしょうか?

では実際の所、読書人口って増えているんですかねえ?
これまた前述の通り、ネット通販や電子書籍の登場によって、
選択肢が大幅に広がり、特に地方民などは格段と便利になったのは事実ですし、
ネットの書評とかで、今まで知り得なかった名著に触れる機会が増えたのも事実でしょう。
でも結局、それらは自分から「本を読もう」と積極的に動く事が大前提の条件で、
そもそも身近で本に触れる機会が乏しければ、どれだけ「本を読もう」となるでしょうか?

こうした傾向は、スポーツ中継でも言えると思うんですよ。
確かに今では、有料の衛星中継やネット配信によって、
一昔前では考えられないほど、様々な試合をフルで見られるようになりました。
それはそれで、既にスポーツ観戦が好きな層には、実にありがたい時代です。
しかし一方で、スポーツに興味が薄い人でも目にする機会が得られる
無料の地上波放送というのは、めっきり姿を消してしまい、
新規の顧客層を掴むという意味では、どの競技も非常に難しい状況となっています。
目先の利益を考えれば現行がベストかも知れませんけど、将来的に長い目で見ると・・・・
実際にそうするかは別として、身近に機会が有るか?無いか?とでは、やはり大きな違いですよ。

また、「ハブ駅周辺にある大型書店なんかは確実に残る」との ご見解ですが、
それが姿を消したり、売り場面積を大幅縮小している現状が、
既にあるからこそ、こうして言っている話でして・・・・
東京都心だと新宿・池袋・渋谷・上野、地方の大都市だと京都・名古屋・福岡など、
大型書店が閉店している実状があるんですよ(泣)。
駅前書店の代表格である文教堂も、次々に店舗を閉鎖してますからね。
さすがに東京都心で全滅する事はないでしょうけど、地方や郊外には大問題で、
「上京しなければ手に取り買えない」となれば、それこそ昔のマニア市場同然ですよ。
(読書が普通だった時代から、マニアのモノに為りつつある傾向はあるかも知れませんが)
やはり本というのは、実際に手に取り、パラパラと中を軽く覗いてみて、
初めて解る部分は多いですし、それはどんなに書評の数が多くても補えません。
そして、その本の周辺に、どんな同分野の本があるかも、ネットでは解りません。
デジタルとアナログ、ネットとリアルの違いを意識しなくなるくらい、
技術が発展してこないと、この辺の問題解決は困難じゃないですかねえ?

> ただまあ、それもここ10年くらいしか知らない大学生の考えなので、
> かつての「趣味人世界の空気感」が実際どういうものだったかは知らないですし、
> 秋葉原や神保町の書店街も一度観光に行ったくらいなので、
> その辺の雰囲気は失われているのかもしれません。
> ですがそれも結局、古い文化が廃れ新たな文化が生まれているだけだなのでは?
> 新たに生まれてきている文化を知らない、あるいはついていけていないだけなのでは?と思ってしまいます。

そうした部分は・・・全く無い訳では無いんでしょうけどね(笑)。
神保町では、古書店が減少する替わりに、カレー店が増えましたし、
秋葉原でも、マニア向け店舗が消えて、メイドカフェやオフィスビルが現れ、
若者の街とされた渋谷や原宿なども、商業ビルやチェーン店ばかりになりました。
それが今の日本の「新しい文化」なのかも知れませんが、
個人的には、どうも面白味に欠けるのは事実なんですよねえ・・・・

まあ、メイドカフェとかは特殊な例なので、ちょっと置くとして(笑)、
飲食店やチェーン店、商業オフィスも、あるのが悪い訳では無いのですが、
これらの「特別な街」を、特別たらしめていた要素が弱まり、
何処にでもあるモノや、何処にあっても良いモノに占められるのは、味気無くはあります。
とは言え、それも、新しいモノが出てきて、旧来のモノが駆逐されたというよりは、
旧来の特別な店が減って出来たスペースを、新しい一般的な店が穴埋めした面があると。

そもそも文化というのは、それをメインで牽引するのは やはり若者層であり、
それを育むのに重要なのは 何だかんだで経済力と時間に余裕がある社会で、
そこに、今まで蓄積された土台となる文化や、時代の変化がもたらす革新性などが絡みます。
そういう意味で言うと、今の若者世代は1学年100万人(子供は90万人)前後なのに対して、
団塊世代は1学年270万人で、団塊ジュニア世代が1学年210万人と、絶対数が違う上、
日本の経済状況も、高度成長期やバブル期と、失われた平成期とでは、雲泥の差ですので、
今の個々の若者がどうこうでは無く、置かれている条件面が圧倒的に悪いと思うんですよ・・・・
古い文化が廃れ、新たな文化が生まれる事自体に関しては、
私も歴史好きですから、時の流れとして、別に普通の事だと考えていますし、
客観的で論理的な見方を好むので、主観的な懐古主義に陥ってるつもりも無いんです。
古いモノから、新しいモノまで、刺激を与えてくれるなら時代も地域も分野も問いません(笑)。
まあ私も人間ですし、完全に客観視できてるとは限らず、懐古主義的な部分もあるかも知れませんが、
少なくとも、安易に懐古主義という先入観で見られてしまうと、却って私の真意が伝わらないかな?
歴史好きだからこそ、百年とか千年なんて幅で見てしまう事も しばしばですし(苦笑)。

で、逆に尋ねますと、ここ10年あまりで、具体的に「これ」といった新文化って何か生まれました?
私が知らないだけだったり、付いていけてないだけなら、却って嬉しいんですよ!!
過去を懐かしむよりは、見知らぬ未来にワクワクするタイプですから、
もしも気付けていないだけで、新しい刺激が存在するなら、是非とも知りたいので。
平成の30年間で、最初の10年間は、土台にあった戦後昭和の文化が成熟期から爛熟期を迎え、
続く中間の10年間は、ネットという新しい環境の変化が、様々な文化を生み出しました。
しかし、平成最後の10年間となると・・・少なくとも私には思い浮かばないんですよね(泣)。
近年の「日本すごい」ブームとかも、新しいモノを築けず、過去の積み上げでマウントを取り、
本当に凄いかは関心が薄く、苦しい現状を認識しつつ、とにかく心の充足感を得たい感じがして、
これこそまさく、「日本やばい」の状況証拠のように映ってしまうんです・・・・

とは言え、私の受信アンテナが錆び付いてる可能性も、十分に有り得ます(笑)。
鬼滅の刃が、何故ここまで小学生にウケているか、ちょっと解らなくなってますし。
いや、面白い作品だというのは、私にも解るのですが、
この作品だけが特別だという理由が、私には正直思い浮かんでいません。
人気に火が付いたのは、やはりアニメ化されてからだと思いますけど、
UHF系の深夜アニメを、小学生たちが見ていたとは思えませんし、
(PG12指定作品が小学生にブームなのは異例な社会現象かと・苦笑)
その辺りは、ネット配信なども含め、近年の視聴手段の多様化があり、
外出自粛機関が、人気を更に加速させたのは解るのですが、
何処かに、そもそものキッカケがあるはずで、それが解らないと・・・・

映像的にキレイだとは思いますが、最近のアニメはどの作品も結構キレイですし、
演出の和テイストも「海外ウケしそう」とは感じたものの、国内では珍しくなく、
女性作者なので絵や話がシンプルで解りやすいというのも、決定打には欠け、
ドラゴンボールやナルトと違い、子供にとってはリアルタイムの作品というのも、
1つの理由ではあると思うのですが、それがこの作品である必然性は無いと。
となると、アニメの視聴者層や、ジャンプの読者層が、昔に比べて高年齢化して、
園児向きの作品とかはあっても、小学生向きの作品は近年意外と乏しく、
主人公の年齢も、他作品よりは小学生に近いからかな?・・・な〜んて感じに、
あれこれ無駄に考えるのが、後で話題に触れますけど、オタクというモノなのでしょう(笑)。
「鬼滅、大好き!」と、原作マンガを買い、映画を見に行くだけではファンの範疇でしょうし、
グッズを揃え、細かい設定とかにも詳しいだけでは、マニアであってもオタクでは無いと。
って、私自身はオタク的ではあっても、オタクだとは思ってませんけどね(笑)。

> 追記:文章がなんか反抗的なのは許してください、あとAIとかの話は後で追記します
いえいえ、別に全く気にしてませんよ!!
と言いますか、下手に気を使われる方が、却って自由に語り難くなりますし(笑)。

> そこで00年、ワンフェスを主催していた海洋堂と言う熱狂的模型集団がワンフェスのリセットを宣言するんですよね
> その時の広告文がこうでした「ガレージキットは文化(カルチャー)じゃない、精神(スピリッツ)だ」
> ガレージキットなんて言う言葉すらなかった時代から、模型好きがこうじて模型の自主製作をしていた人々
> (それが金になるなんて露とも思わず)らしい言葉ですよね

関係ない話ですが、ステイホームの影響もあったのか、
ここ1年で数万円ほど、海洋堂に投じちゃってます(苦笑)。
まさか、仏像のフィギュアだとか、アート作品のガチャまであるとは!?
1体買うと、ついついシリーズで揃えたくなる泥沼状態に・・・・
ああいうのは意外と場所を取るので、今まで手を出さなかったんですけどね。

> 自分はカルチャー寄りの人間なので、スピリッツがなくても生きていけるんですね
> コミケが多少商業化しようとも、あるいはコミケで惰性的、馴れ合い的にコミュニティで群れていても、
> そういった文化は好きなんですよね
> 別にスピリットがなくてもいいじゃん、と
> かつて岡田斗司夫さんと言う方が「オタク・イズ・デッド」という講演をしたことがあって、(現在はYouTubeで公開中)
> これもオタク「精神(スピリッツ)」の終焉宣言であり、オタク「文化」の終焉宣言ではなかったと思うんですよね

う〜ん、そこは用語の定義の話になってくるかと思いますが、
「ファン」と「マニア」と「オタク」とを明確に区分した場合に、
「精神性なき文化」というのは、果たしてオタク的だと言えるんですかねえ?
個人的には、好きが高じて生じる、何らかの主体性があってこそのオタクだと思いますし、
ただ単に好きなだけだとか、受け身で消費するだけであるなら、
それはファンやマニアの範疇であって、オタクの世界では無い気がするんですよ。
ここでいうオタク文化が、サブカルやPOPカルチャーの事であれば、
まだ意味としては通じるんですけどね。

例えばコスプレ行為とかにしても、そこまで行くと、
もう単なるファンという領域は超えてると、私は思いますが(笑)、
既製品のまま楽しむのはマニアと呼べても、オタクとは呼べない感じでしょうか?
自作は勿論、拘りのオーダー・メイドであったり、既製品に一手間加えるでも良いですけど、
とにかく何らかの主体性があった場合に、それがオタク的なコスプレと呼べる気がするんです。
別にこれは、コスプレ文化としてとか、サブカル分野の一環として見た場合には、
既製品だろうが、自作だろうが、そこに優劣とかは無いと個人的に思っていますし、
そうやって愛好家の枠や世界が広がり、ビジネスとしても広がっていく分には、
却って好ましくも感じています(もちろん既存の楽しみも残るのが大前提ですが)。
もっと言うと、サブカル方面だけでなく、メイン・カルチャーでも普及して欲しいくらいです!!
美術館や博物館の在り方とか、展覧会や演奏会の在り方など、言いたい事は多々あるので(苦笑)。

> 管理人さんの言葉に私が共感できないのって、
> やっぱりこのスピリッツ側の人間なのか、カルチャー側の人間なのか、というのが大きいと思うんですよね

大雑把に言ってしまうと、その見立てで合っているのかも知れません。
ただ一方で、ここで言うカルチャーというのを否定している訳ではありません。
惰性や馴れ合いであったり、商業化があったりしても、別に構わないとは思うんです。
それと同時にコアな部分も残るなら、全体としては大きくなってると言う証ですし、
仮にドーナツ化していっても、それはそれで移り変わりの面で仕方ない時もあるでしょうから。

そもそも文化というのは、どんな世界であれ、最初は少数の物好き達から始まり、
それが広まって大衆化する事で、一部の趣味から、広範な「文化」へと変化する訳ですが、
しかし大衆化は同時に、多数の人間に受け入れられる為に、どうしても陳腐化は避けられず、
そこに商業化が加わると、2番煎じや置きに行った続編の量産で、
陳腐化のスピードが更に加速され、やがては使い古されて、捨てられていきます・・・・
そうなると結局、文化に昇格した時点で、「消費」は避けられない運命であると。
誰も意識しないくらい一般的な消費財と化し、生き残っていくのは極一部かな?
基本的に文化とは消耗品で、乱雑に扱われるほど、その寿命も短いモノです。
原理主義的に死守しようとした所で、先鋭化して、分裂して、先細るのが関の山ですしね。

まあ、どんな分野であれ、最初には地を這う黎明期があり、
そこからグングン伸びる成長期があり、それがピークを迎える最盛期があり、
腐り始めだけど芳しい爛熟期があって、最後には腐り落ちる没落期がある訳ですが、
大衆化されるのは最盛期の後半で、最も人口が多いのが爛熟期な一方、
最も楽しいのは成長期で、本当に好きな人は黎明期から居るモノだと思うんです。
そういう意味では、栄枯盛衰が避けられない事も、一応は理解してますし、
最初から言っている通り、成長期や過渡期を経験できた事は、幸運だったのだろうと。
それはそれで寂しい事ですけど、永続繁栄するなんて事はまず無理でしょうし、
せめて延命させたい願望が正直あり、命を縮める「お客様」化を出来るだけ遅らせたい訳です。

また、「そんな世界は残っていないのでは?」というのも、
時が移ろい、栄枯盛衰がある以上は、そんなおかしな話では無いかと思います。
成長期や過渡期の状況もまた、永続するなんて事は無いのでしょうからね。
コミケの同人文化拡大を言われてますが、それは既に爛熟期に入ってる状況かも知れませんよ?
それに、この発言自体は、文化や担い手がどうこうという話と言うよりも、
もっと単純に「集える場所の喪失」という意味で用いていますし、
コミケに関しても、一例として挙げているだけで、それが話の主題ではありません。
要するに、「あんなのは名前が同じだけで、本来のコミケじゃない」とか、
そんな主旨の発言では全く無いという事ですね、念の為に言っておくと(笑)。
この辺りは、短期的な話と長期的な話、部分的な話と全体的な話が入り乱れているので、
ちょっと解り難いかも知れませんけどね(私の文章構成も優れてるとは言えませんし・苦笑)。

あとは、ある所で滅びがあっても、別の所で興りがあれば良いんですけど、
グローバル化と新自由主義により、文化の消費サイクルさえ加速度を増していて、
最近は、行き過ぎた焼畑農法が、砂漠化を招くような状況を、生んでいる気がするんですよ。
次から次へと大群で食い荒らしていくという意味では、「蝗害」に喩えても良いのかな?
どちらかと言うと、そちらの方がより深刻で、私が心配している部分かも知れません。
我々の世界は20〜40年後、未開地が無くなると共に、人口が減少するという、
人類初の時代を迎えるとも危惧されており、そんな未曾有の停滞時代に、
「果たして文化の発展はどうなるのか?」 日本だけでなく、世界規模でも未知数です。
「今まで大丈夫だったから、大丈夫だろう」とは、気軽には言えない状況なんですよね。
明治維新や戦後の実例から、何だかんだで「いざとなれば日本は大丈夫」と思ってた気持ちも、
ここ10年あまりの状況で、すっかり諦めモードというか、達観状態になってしまいました。
スペインなどの大国が没落した時も、こんな感じだったのだろうなと・・・・
そして、国家は衰退したけど、文化は隆盛したという例を、少なくとも私は知りません。

> まあ正確に言えばコミケの元来のスピリッツはオリジナル創作にあったので、
> そういう意味ではコミケのスピリッツはコミケ2、3年目で早くも失われていたのかもしれませんがw

それは勿論、オリジナル創作であれば理想ですけど、
2次創作であっても、稚拙な創作であっても、「創作」という意味では同じですし、
どんな分野であれ、そうした裾野の広さこそが、全ての土台となってくるので、
目に見える氷山の一角だけでなく、水面下の氷塊をも意識すべきだと思うんです。
クール・ジャパンだとか言って、成長戦略に組み込みたいのなら、尚更。
これは何もサブカル分野に限らず、スポーツでも、学術でも、政治でも、起業でも同じかと?
草サッカーの経験があるだけでも、ただ見るだけのファンとは見方が変わるはずですし、
ピラミッドの底辺が広くなれば広くなるほど、その高さも大きさも増していくはずですから。

でもそれらは、あくまでもプレイヤーとしての裾野の広さであって、
消費者や観客としての裾野は、プレイヤーを育てる養分という面では意味があっても、
その辺は海外にだって求められますし、逆に海外から養分にされる事だってあります。
例えばゲーム業界なんか、家庭用ゲーム機の事を一般名詞として、
北米では「NINTENDO」、西欧では「PlayStation」と呼ばれるくらい、
以前は隆盛を誇っていたのも、今では昔の話ですからねえ・・・・
現在進行形で、今の日本が世界を魅了している分野って、実際に何かあるのかなぁ?
まあ世界はさておき、絶えずサブカルを産み続けた日本の国内的土壌が、
かなり危機的な状況にあるのでは?というのが、私自身の肌感覚なんですよね。
もっと言うと、どうすれば衰退を回避し、繁栄の道を築けるのか、方法を知りたくはあります。


[23399] 無限にグローバルか、無限にローカルか返信 削除
2020/10/30 (金) 01:34:38 旧トルコ担当

・相対的低下

> > なるほど。
> > 20年前はマニアックな世界が非常にアクセスしやすかった。
> > しかしこの20年間で書店がアマゾンになり、ネットが質の低い情報で溢れ、
> > 秋葉原が有名無実化し、コミケが商業化してしまった。
> > 結果、マニアック世界はどんどん見えなくなってしまったので
> > 「もう何処にも、そんな世界は残っていないのでは?」と思っている、
> > ということで合っていますかね?

> 厳密に言うと少し違うのですが、まあ大体はそれで良いです(笑)。
> 都会と地方の格差は今以上だったので、無条件にアクセスしやすかった訳でも無いですし、
> 秋葉原やコミケに関しても「以前に比べて」という傾向論で、白か黒かでは見てないですけど。
>
> > マニアックな世界がアクセスしやすかった時代が存在した、というのは今まで知りませんでした。
> > そういえば最近アマゾンで何冊か雑誌を取り寄せたのですが、
> > ほとんど生まれて初めて読む雑誌というものの情報の濃さと質の高さに本当に驚かされました。
> > 現在雑誌はもう何十年も衰退の一途をたどっており、確かに情報があふれる社会になったはものの、
> > その質自体はかなり低下しているというのを実感させられます。

> そうですね。
> 平成の初頭頃までは、特定の一部読者を対象とした、
> そうしたマニアックな情報を扱う雑誌が、かなり多かったと思います。
> それが今では、そのほとんどが廃刊となり、残っていても抜け殻状態だと・・・・
> 確かにネットの誕生により、情報量自体は雑誌時代よりも格段に増えてますけど、
> 一方で、ネット情報は閲覧数が重要な為、ライトな記事ばかりが量産されたり、
> 場合によっては、煽る記事やフェイク記事なども溢れていて、
> 雑誌を買えば手に入ったレベルの情報は、今だと何処で得られるの?って感じです。
> カネを払わせて読ませる記事と、無料で読ませてカネになる記事とでは、やはり違ってきますよ。


> > 大学生の私がアシモフのSF小説で面白そうなのがあるなんて言う情報も、
> > ネット時代だからこそ手に入った情報ですし。
> > (仮に書店にSFマガジンなんかが置いてあったとしても、手に取ることはなかったと思うので)
> > 書店も完全に絶滅したなんて言うことはなく、どんなに電子化が進んだとしても、
> > ハブ駅周辺にある大型書店なんかは確実に残るでしょう。
> > 自宅周辺で気軽に行ける本屋がなくなったのは事実ですが、
> > むしろアマゾンのおかげで本が安く簡単に手に入るようになったわけで、
> > 書店とアマゾンが共存する今の時代は20年前に比べむしろ読書環境は良くなっているのではないでしょうか?

> では実際の所、読書人口って増えているんですかねえ?
> これまた前述の通り、ネット通販や電子書籍の登場によって、
> 選択肢が大幅に広がり、特に地方民などは格段と便利になったのは事実ですし、
> ネットの書評とかで、今まで知り得なかった名著に触れる機会が増えたのも事実でしょう。
> でも結局、それらは自分から「本を読もう」と積極的に動く事が大前提の条件で、
> そもそも身近で本に触れる機会が乏しければ、どれだけ「本を読もう」となるでしょうか?


読書文化の後退は単純にインターネットという新たな競争相手が現れたからであり、それはそこまで懸念すべき問題ではないと思うんですよね。
例えるならばテレビの普及によりラジオ文化が後退したのと同じだと。
もちろんフェイクニュースという非常に重要な問題はありますが、それと単なるコンテンツの相対的地位低下を混ぜて語るとおかしくなってしまうと思うんですよね。

> こうした傾向は、スポーツ中継でも言えると思うんですよ。
> 確かに今では、有料の衛星中継やネット配信によって、
> 一昔前では考えられないほど、様々な試合をフルで見られるようになりました。
> それはそれで、既にスポーツ観戦が好きな層には、実にありがたい時代です。
> しかし一方で、スポーツに興味が薄い人でも目にする機会が得られる
> 無料の地上波放送というのは、めっきり姿を消してしまい、
> 新規の顧客層を掴むという意味では、どの競技も非常に難しい状況となっています。
> 目先の利益を考えれば現行がベストかも知れませんけど、将来的に長い目で見ると・・・・
> 実際にそうするかは別として、身近に機会が有るか?無いか?とでは、やはり大きな違いですよ。


うーん、それもネットの普及により新しいコンテンツが生まれた結果、競争が激化し、既存のコンテンツが新規顧客を獲得しにくくなっているだけだと思うんですよね。

・ネット書店

> また、「ハブ駅周辺にある大型書店なんかは確実に残る」との ご見解ですが、
> それが姿を消したり、売り場面積を大幅縮小している現状が、
> 既にあるからこそ、こうして言っている話でして・・・・
> 東京都心だと新宿・池袋・渋谷・上野、地方の大都市だと京都・名古屋・福岡など、
> 大型書店が閉店している実状があるんですよ(泣)。
> 駅前書店の代表格である文教堂も、次々に店舗を閉鎖してますからね。


そうなんですか……
これは知りませんでした

> さすがに東京都心で全滅する事はないでしょうけど、地方や郊外には大問題で、
> 「上京しなければ手に取り買えない」となれば、それこそ昔のマニア市場同然ですよ。
> (読書が普通だった時代から、マニアのモノに為りつつある傾向はあるかも知れませんが)
> やはり本というのは、実際に手に取り、パラパラと中を軽く覗いてみて、
> 初めて解る部分は多いですし、それはどんなに書評の数が多くても補えません。
> そして、その本の周辺に、どんな同分野の本があるかも、ネットでは解りません。
> デジタルとアナログ、ネットとリアルの違いを意識しなくなるくらい、
> 技術が発展してこないと、この辺の問題解決は困難じゃないですかねえ?


あと未だにネット書店って無いんでしょうか?
あなたへのおすすめ順ではなく、リアル書店ならこんな感じで本棚作るよ、みたいな感じで題名と表紙とアマゾンへのリンクがまとめられてるサイトがあれば、興味のある人はけこう見てくれると思うんですよね。
仮にそういうサイトがあっても、大半の人はもう自分の興味の範囲内でしか見ないがゆえにフェイクニュースなどが問題になるのであって、というか本当にそういうサイトが無いのであれば私が作ろうかなぁ。
いや真面目にこれお金になるアイデアだし、とっくにもうそういうのがあるものだと思っていたのですが。

・語れる場所

> > インターネットの発達によって情報があふれる社会になった結果、
> > 今までならば決して広まる規模にはならなかった世界のものに対して
> > アクセスしやすくなったというのはあると思いますし、
> > (例えば雑誌ならば赤字にならないため最低限度必要な量の読者というのがあり、
> > それを下回る規模の文化はなかなか拡大しえなかったですし、)
> > 無限の情報の中からちゃんとそういったものを拾い上げることができれば、
> > やはり現代はそんなに悪い時代ではないと思うんですよね。

> では実際、「拾い上げること」って現実的に出来てます?
> もちろん前述の通り、ネットの利点は利点として私も認めています。
> それは下手をすると、ネットが当たり前なデジタル・ネイティブ世代以上に、
> その発展過程をつぶさに体験してきた、私たちの世代の方が実感しているかも知れません。
> また、既にアナログ的な調べ方を身に付けていたからこそ、
> デジタルを道具として使い調べる方法も、自然と身に付いている面はあると思いますが、
> 最初からデジタルがある世代だと、情報を使うより、情報に踊らされる面が強い気も・・・・
> まあ、それはさて置くとして、サッカー日本代表なんてメジャーな題材が、
> まもとに語られてる場所を見つけられないのは、私の拾い上げ方が悪いんですかねえ?
> サッカーは門外漢かも知れませんけど、何処かにあったりします???


無いんですかねえ。
オタクの私は好きなアニメを語る場も歴史好きが集まる場も持っているので、他の人もそういうもんだと思っていたのですが違うのでしょうか?
ただライト層が集まる中間的な場所がなくなているというのは分かる気がします。
例えば模型も、YouTubeで模型マニアの人たちが語る場所はありますが、町の模型店みたいなものは無くなっていますからね。
私が歴史好きで集まっているのも招待制のディスコードの部屋ですし、そういう意味で場に入るための努力みたいなものが求められる時代に合ったような気はします。
最近ではオンラインサロンなるものが流行っているらしいですしね。
この辺私が関心薄いのは、オタクやっていればどこであれそういう同志のいる場所にたどり着けるという自信があるからなんですが。

・新しい文化は無限にあります

> > ただまあ、それもここ10年くらいしか知らない大学生の考えなので、
> > かつての「趣味人世界の空気感」が実際どういうものだったかは知らないですし、
> > 秋葉原や神保町の書店街も一度観光に行ったくらいなので、
> > その辺の雰囲気は失われているのかもしれません。
> > ですがそれも結局、古い文化が廃れ新たな文化が生まれているだけだなのでは?
> > 新たに生まれてきている文化を知らない、あるいはついていけていないだけなのでは?と思ってしまいます。

> そうした部分は・・・全く無い訳では無いんでしょうけどね(笑)。
> そもそも文化というのは、それをメインで牽引するのは やはり若者層であり、
> それを育むのに重要なのは 何だかんだで経済力と時間に余裕がある社会で、
> そこに、今まで蓄積された土台となる文化や、時代の変化がもたらす革新性などが絡みます。
> そういう意味で言うと、今の若者世代は1学年100万人(子供は90万人)前後なのに対して、
> 団塊世代は1学年270万人で、団塊ジュニア世代が1学年210万人と、絶対数が違う上、
> 日本の経済状況も、高度成長期やバブル期と、失われた平成期とでは、雲泥の差ですので、
> 今の個々の若者がどうこうでは無く、置かれている条件面が圧倒的に悪いと思うんですよ・・・・
> 古い文化が廃れ、新たな文化が生まれる事自体に関しては、
> 私も歴史好きですから、時の流れとして、別に普通の事だと考えていますし、
> 客観的で論理的な見方を好むので、主観的な懐古主義に陥ってるつもりも無いんです。
> 古いモノから、新しいモノまで、刺激を与えてくれるなら時代も地域も分野も問いません(笑)。
> まあ私も人間ですし、完全に客観視できてるとは限らず、懐古主義的な部分もあるかも知れませんが、
> 少なくとも、安易に懐古主義という先入観で見られてしまうと、却って私の真意が伝わらないかな?
> 歴史好きだからこそ、百年とか千年なんて幅で見てしまう事も しばしばですし(苦笑)。
>
> で、逆に尋ねますと、ここ10年あまりで、具体的に「これ」といった新文化って何か生まれました?
> 私が知らないだけだったり、付いていけてないだけなら、却って嬉しいんですよ!!
> 過去を懐かしむよりは、見知らぬ未来にワクワクするタイプですから、
> もしも気付けていないだけで、新しい刺激が存在するなら、是非とも知りたいので。
> 平成の30年間で、最初の10年間は、土台にあった戦後昭和の文化が成熟期から爛熟期を迎え、
> 続く中間の10年間は、ネットという新しい環境の変化が、様々な文化を生み出しました。
> しかし、平成最後の10年間となると・・・少なくとも私には思い浮かばないんですよね(泣)。
> 近年の「日本すごい」ブームとかも、新しいモノを築けず、過去の積み上げでマウントを取り、
> 本当に凄いかは関心が薄く、苦しい現状を認識しつつ、とにかく心の充足感を得たい感じがして、
> これこそまさく、「日本やばい」の状況証拠のように映ってしまうんです・・・・
>
> とは言え、私の受信アンテナが錆び付いてる可能性も、十分に有り得ます(笑)。
> 鬼滅の刃が、何故ここまで小学生にウケているか、ちょっと解らなくなってますし。
> いや、面白い作品だというのは、私にも解るのですが、
> この作品だけが特別だという理由が、私には正直思い浮かんでいません。
> 人気に火が付いたのは、やはりアニメ化されてからだと思いますけど、
> UHF系の深夜アニメを、小学生たちが見ていたとは思えませんし、
> (PG12指定作品が小学生にブームなのは異例な社会現象かと・苦笑)
> その辺りは、ネット配信なども含め、近年の視聴手段の多様化があり、
> 外出自粛機関が、人気を更に加速させたのは解るのですが、
> 何処かに、そもそものキッカケがあるはずで、それが解らないと・・・・
>
> 映像的にキレイだとは思いますが、最近のアニメはどの作品も結構キレイですし、
> 演出の和テイストも「海外ウケしそう」とは感じたものの、国内では珍しくなく、
> 女性作者なので絵や話がシンプルで解りやすいというのも、決定打には欠け、
> ドラゴンボールやナルトと違い、子供にとってはリアルタイムの作品というのも、
> 1つの理由ではあると思うのですが、それがこの作品である必然性は無いと。
> となると、アニメの視聴者層や、ジャンプの読者層が、昔に比べて高年齢化して、
> 園児向きの作品とかはあっても、小学生向きの作品は近年意外と乏しく、
> 主人公の年齢も、他作品よりは小学生に近いからかな?・・・な〜んて感じに、
> あれこれ無駄に考えるのが、後で話題に触れますけど、オタクというモノなのでしょう(笑)。
> 「鬼滅、大好き!」と、原作マンガを買い、映画を見に行くだけではファンの範疇でしょうし、
> グッズを揃え、細かい設定とかにも詳しいだけでは、マニアであってもオタクでは無いと。
> って、私自身はオタク的ではあっても、オタクだとは思ってませんけどね(笑)。


ここ最近の新しい文化といえば、私の知る限りではやはりスマホゲームとVtuberでしょうか。
スマホゲームに関してはゲーム性の弱さを文化の後退として否定的にとらえる論者も少なからずいますが、私としてはスマホゲームはSNSと合わさった現代のコミュニケーションゲームは一定の新しさと文化的価値を備えていると思うんですよね。
Vtuberのほうに関してはあまり詳しく知らないです。あれは何時間という配信が下手すると週に何度もあるという見る側もめちゃくちゃ大変な世界なので。

でまあ布教して良い、という言質が取れたので遠慮なく布教させて貰えば、「百合」(女性同性愛)はどうでしょうか?
元からたどれば吉屋信子の時代からある意味存在するのでしょうが、オタク的な文化として高まり始めるのは『マリア様がみている』や『東方Project』などが流行し始めた04年あたりからです。
オタク一般(なんて存在するのか?)に浸透していったのはその後10年代に入ってからなので、新しい文化ではあるという条件はクリアしているかと。
最近だと普通のアニメ(百合ファン向けでない普通のオタク向けアニメ)にもそういった百合的な要素が入っていたりしますし、逆にそういうあからさまなものを入れて百合営業とかも言われたりしていますね。
個別作品ですと、「安達としまむら」(ライトノベル・アニメ)や「響け!ユーフォニアム」(小説・漫画・アニメ)とかおススメです。いろんな意味で刺激にはなると思います。
ってまあオタクでもない人に百合を勧めてもしょうがないのは分かってるんですけどね。

あと鬼滅の刃を牽引してるのはたぶん女性層ですよ。(データ見てないので想像ですが)
元々あの人たちは少年漫画大好きですし、多分劇場に何回も足運んだりしてるのも彼女たちなんじゃないでしょか(いや小学生も見に来ているでしょうけど)。
小学生からお小遣いで商売しても大して儲かりませんが、それこそ結婚してない20代30代の女性ならジャンジャンお金使ってくれますし、それらが鬼滅の数字的な強さを作って、数字が強いから話題にもなる、という感じなのではないでしょうか?

でまあ何が言いたいかといえば、少なくとも現代に生きるオタクからすればネットのおかげで面白いものは無限に溢れていて、むしろそれを楽しむ時間こそ足りないんですよね。

・オタクについて

> > 追記:文章がなんか反抗的なのは許してください、あとAIとかの話は後で追記します
> いえいえ、別に全く気にしてませんよ!!
> と言いますか、下手に気を使われる方が、却って自由に語り難くなりますし(笑)。
>
> > そこで00年、ワンフェスを主催していた海洋堂と言う熱狂的模型集団がワンフェスのリセットを宣言するんですよね
> > その時の広告文がこうでした「ガレージキットは文化(カルチャー)じゃない、精神(スピリッツ)だ」
> > ガレージキットなんて言う言葉すらなかった時代から、模型好きがこうじて模型の自主製作をしていた人々
> > (それが金になるなんて露とも思わず)らしい言葉ですよね

> 関係ない話ですが、ステイホームの影響もあったのか、
> ここ1年で数万円ほど、海洋堂に投じちゃってます(苦笑)。
> まさか、仏像のフィギュアだとか、アート作品のガチャまであるとは!?
> 1体買うと、ついついシリーズで揃えたくなる泥沼状態に・・・・
> ああいうのは意外と場所を取るので、今まで手を出さなかったんですけどね。
>
> > 自分はカルチャー寄りの人間なので、スピリッツがなくても生きていけるんですね
> > コミケが多少商業化しようとも、あるいはコミケで惰性的、馴れ合い的にコミュニティで群れていても、
> > そういった文化は好きなんですよね
> > 別にスピリットがなくてもいいじゃん、と
> > かつて岡田斗司夫さんと言う方が「オタク・イズ・デッド」という講演をしたことがあって、(現在はYouTubeで公開中)
> > これもオタク「精神(スピリッツ)」の終焉宣言であり、オタク「文化」の終焉宣言ではなかったと思うんですよね

> う〜ん、そこは用語の定義の話になってくるかと思いますが、
> 「ファン」と「マニア」と「オタク」とを明確に区分した場合に、
> 「精神性なき文化」というのは、果たしてオタク的だと言えるんですかねえ?
> 個人的には、好きが高じて生じる、何らかの主体性があってこそのオタクだと思いますし、
> ただ単に好きなだけだとか、受け身で消費するだけであるなら、
> それはファンやマニアの範疇であって、オタクの世界では無い気がするんですよ。
> ここでいうオタク文化が、サブカルやPOPカルチャーの事であれば、
> まだ意味としては通じるんですけどね。
>
> 例えばコスプレ行為とかにしても、そこまで行くと、
> もう単なるファンという領域は超えてると、私は思いますが(笑)、
> 既製品のまま楽しむのはマニアと呼べても、オタクとは呼べない感じでしょうか?
> 自作は勿論、拘りのオーダー・メイドであったり、既製品に一手間加えるでも良いですけど、
> とにかく何らかの主体性があった場合に、それがオタク的なコスプレと呼べる気がするんです。
> 別にこれは、コスプレ文化としてとか、サブカル分野の一環として見た場合には、
> 既製品だろうが、自作だろうが、そこに優劣とかは無いと個人的に思っていますし、
> そうやって愛好家の枠や世界が広がり、ビジネスとしても広がっていく分には、
> 却って好ましくも感じています(もちろん既存の楽しみも残るのが大前提ですが)。
> もっと言うと、サブカル方面だけでなく、メイン・カルチャーでも普及して欲しいくらいです!!
> 美術館や博物館の在り方とか、展覧会や演奏会の在り方など、言いたい事は多々あるので(苦笑)。


この辺のオタク話はすごく興味あります。
多分エヴァとときめきメモリアルあたりからオタクが変わっていったと思うのですが、いかんせんそんな時代は生まれてもいないわけで、すごく知りたいんですよね。

・SNSと場

> > 管理人さんの言葉に私が共感できないのって、
> > やっぱりこのスピリッツ側の人間なのか、カルチャー側の人間なのか、というのが大きいと思うんですよね

> 大雑把に言ってしまうと、その見立てで合っているのかも知れません。
> ただ一方で、ここで言うカルチャーというのを否定している訳ではありません。
> 惰性や馴れ合いであったり、商業化があったりしても、別に構わないとは思うんです。
> それと同時にコアな部分も残るなら、全体としては大きくなってると言う証ですし、
> 仮にドーナツ化していっても、それはそれで移り変わりの面で仕方ない時もあるでしょうから。
>
> そもそも文化というのは、どんな世界であれ、最初は少数の物好き達から始まり、
> それが広まって大衆化する事で、一部の趣味から、広範な「文化」へと変化する訳ですが、
> しかし大衆化は同時に、多数の人間に受け入れられる為に、どうしても陳腐化は避けられず、
> そこに商業化が加わると、2番煎じや置きに行った続編の量産で、
> 陳腐化のスピードが更に加速され、やがては使い古されて、捨てられていきます・・・・
> そうなると結局、文化に昇格した時点で、「消費」は避けられない運命であると。
> 誰も意識しないくらい一般的な消費財と化し、生き残っていくのは極一部かな?
> 基本的に文化とは消耗品で、乱雑に扱われるほど、その寿命も短いモノです。
> 原理主義的に死守しようとした所で、先鋭化して、分裂して、先細るのが関の山ですしね。
>
> まあ、どんな分野であれ、最初には地を這う黎明期があり、
> そこからグングン伸びる成長期があり、それがピークを迎える最盛期があり、
> 腐り始めだけど芳しい爛熟期があって、最後には腐り落ちる没落期がある訳ですが、
> 大衆化されるのは最盛期の後半で、最も人口が多いのが爛熟期な一方、
> 最も楽しいのは成長期で、本当に好きな人は黎明期から居るモノだと思うんです。
> そういう意味では、栄枯盛衰が避けられない事も、一応は理解してますし、
> 最初から言っている通り、成長期や過渡期を経験できた事は、幸運だったのだろうと。
> それはそれで寂しい事ですけど、永続繁栄するなんて事はまず無理でしょうし、
> せめて延命させたい願望が正直あり、命を縮める「お客様」化を出来るだけ遅らせたい訳です。
>
> また、「そんな世界は残っていないのでは?」というのも、
> 時が移ろい、栄枯盛衰がある以上は、そんなおかしな話では無いかと思います。
> 成長期や過渡期の状況もまた、永続するなんて事は無いのでしょうからね。
> コミケの同人文化拡大を言われてますが、それは既に爛熟期に入ってる状況かも知れませんよ?
> それに、この発言自体は、文化や担い手がどうこうという話と言うよりも、
> もっと単純に「集える場所の喪失」という意味で用いていますし、


いやいや、それこそSNSは集える場を生んでいるのでは?(昔を知らないのでry)
かつての年に数回だけ同好の士と会うことができ、あとは手紙とか雑誌の投稿欄とかでやりとりしていた時代と比べれば、集える場所こそ一番発展したのではないでしょうか?
(それゆえにいろいろなトラブルもあるようですが)

・無限にグローバルか無限にローカルか

> まあ、メイドカフェとかは特殊な例なので、ちょっと置くとして(笑)、
> 飲食店やチェーン店、商業オフィスも、あるのが悪い訳では無いのですが、
> これらの「特別な街」を、特別たらしめていた要素が弱まり、
> 何処にでもあるモノや、何処にあっても良いモノに占められるのは、味気無くはあります。
> とは言え、それも、新しいモノが出てきて、旧来のモノが駆逐されたというよりは、
> 旧来の特別な店が減って出来たスペースを、新しい一般的な店が穴埋めした面があると。
> 神保町では、古書店が減少する替わりに、カレー店が増えましたし、
> 秋葉原でも、マニア向け店舗が消えて、メイドカフェやオフィスビルが現れ、
> 若者の街とされた渋谷や原宿なども、商業ビルやチェーン店ばかりになりました。
> それが今の日本の「新しい文化」なのかも知れませんが、
> 個人的には、どうも面白味に欠けるのは事実なんですよねえ・・・・


> あとは、ある所で滅びがあっても、別の所で興りがあれば良いんですけど、
> グローバル化と新自由主義により、文化の消費サイクルさえ加速度を増していて、
> 最近は、行き過ぎた焼畑農法が、砂漠化を招くような状況を、生んでいる気がするんですよ。
> 次から次へと大群で食い荒らしていくという意味では、「蝗害」に喩えても良いのかな?
> どちらかと言うと、そちらの方がより深刻で、私が心配している部分かも知れません。


これは半分賛成ですね。
結局今の文化って、無限にグローバルか無限にローカルかしかないと思うんですよ。
20年かそこらか前には日本の中で文化的グローバリズムが進み、いずれは世界的にものすごいグローバルな文化により世界の半分は統一されると。
そしてマクドナルドが世界を席巻したように、いずれは世界中の町がどこもかしこも似たり寄ったりの風景になるんでしょうね。
20年前には日本の都市がプチ東京になって地方ごとの特色が失われたわけですが、20年後には世界中の都市が似たり寄ったりの風景になると。
で、無限にグローバルな側では、焼畑農業的な、凄まじい速度での文化消費が起きているですけど、一方には無限にローカルな場所もあると思うんですよ。
私が今からマニアックな歴史ゲーム作ろうとしているのも、その無限にローカルな世界でのことですし、百合とかもローカルな側なんでしょうね。
ところがこのローカルはローカルが故になかなか見えてこないので、まるで新しい文化がないかのように見えるんですが、実はあるんです。
そして何がないかといえば、中間がない。

追記:興味ないかもですが、同人文化に関して面白い資料が手に入ったいので少し
というのも、ここ20年くらいの同人誌即売会ではオールジャンル即売会(どんな同人誌でもOKのイベント)が減少し、オンリージャンル(特定のジャンル限定の同人誌即売会、例えば鬼滅の刃のBL同人誌専門イベントみたいなもの)ばかりになっていると
コミケが商業化していく裏では、本来マニアックだった同人の世界が更にマニアックな世界へ小さく小さく分裂して行っているようです

・少子高齢化と人口問題

> 我々の世界は20〜40年後、未開地が無くなると共に、人口が減少するという、
> 人類初の時代を迎えるとも危惧されており、そんな未曾有の停滞時代に、
> 「果たして文化の発展はどうなるのか?」 日本だけでなく、世界規模でも未知数です。


これは新しい視点だと思います。
もしかしたら世界的な高齢化の波は人類文化の停滞を招くのかもしれませんね。

・国力と文化力

> 「今まで大丈夫だったから、大丈夫だろう」とは、気軽には言えない状況なんですよね。
> 明治維新や戦後の実例から、何だかんだで「いざとなれば日本は大丈夫」と思ってた気持ちも、
> ここ10年あまりの状況で、すっかり諦めモードというか、達観状態になってしまいました。
> スペインなどの大国が没落した時も、こんな感じだったのだろうなと・・・・
> そして、国家は衰退したけど、文化は隆盛したという例を、少なくとも私は知りません。
>
> > まあ正確に言えばコミケの元来のスピリッツはオリジナル創作にあったので、
> > そういう意味ではコミケのスピリッツはコミケ2、3年目で早くも失われていたのかもしれませんがw

> それは勿論、オリジナル創作であれば理想ですけど、
> 2次創作であっても、稚拙な創作であっても、「創作」という意味では同じですし、
> どんな分野であれ、そうした裾野の広さこそが、全ての土台となってくるので、
> 目に見える氷山の一角だけでなく、水面下の氷塊をも意識すべきだと思うんです。
> クール・ジャパンだとか言って、成長戦略に組み込みたいのなら、尚更。
> これは何もサブカル分野に限らず、スポーツでも、学術でも、政治でも、起業でも同じかと?
> 草サッカーの経験があるだけでも、ただ見るだけのファンとは見方が変わるはずですし、
> ピラミッドの底辺が広くなれば広くなるほど、その高さも大きさも増していくはずですから。
>
> でもそれらは、あくまでもプレイヤーとしての裾野の広さであって、
> 消費者や観客としての裾野は、プレイヤーを育てる養分という面では意味があっても、
> その辺は海外にだって求められますし、逆に海外から養分にされる事だってあります。
> 例えばゲーム業界なんか、家庭用ゲーム機の事を一般名詞として、
> 北米では「NINTENDO」、西欧では「PlayStation」と呼ばれるくらい、
> 以前は隆盛を誇っていたのも、今では昔の話ですからねえ・・・・
> 現在進行形で、今の日本が世界を魅了している分野って、実際に何かあるのかなぁ?
> まあ世界はさておき、絶えずサブカルを産み続けた日本の国内的土壌が、
> かなり危機的な状況にあるのでは?というのが、私自身の肌感覚なんですよね。
> もっと言うと、どうすれば衰退を回避し、繁栄の道を築けるのか、方法を知りたくはあります。


うーん、日本文化にこだわる必要はないんですよね。
例えば、20世紀中盤にはアメリカ文化が世界を席巻しましたが、20世紀後半にはアメリカ文化は世界の中で徐々に力を落としていきました。
で、それはアメリカ文化そのものの後退を示すのか?と言われればそうではないと思うんですよ。
そもそもアメリカ文化が世界の中で強い影響力を持っていたのはアメリカが世界の中で圧倒的に豊かであったからであり、20世紀後半にアメリカ以外の国々(日本など)が豊かになっていくとアメリカの文化的影響力は相対的に下がらざるを得ないと。
私が子供のころに見た中国映画なんて本当にひどいものでしたが、最近見た中国のアニメは結構おもしろかったんですよね。
で、中国が豊かになって中国のアニメが面白くなればなるほど中国における日本文化の影響力は低下していきますが、それは日本文化がつまらなくなることとイコールではないわけです。
人口の多い国に経済力でかなわないのと同様に、文化力でも人口こそが絶対正義です。
任天堂やプレステが世界を席巻できたのは一時的な過渡期のことで、正常な世界においては世界70億人の中のたった1億人に過ぎない日本人の文化が世界を席巻するなんてありえないはずです。
かつて70年代くらいのイギリスでは英国病なんてことが盛んに議論されたらしいですが、あれも要は産業革命を他国が吸収した結果、英国のあるべき位置(それは人口に決まる)が正常な位置に落ち着いたということでしょう?別にイギリスの経済力が衰えたわけではないんです。
で、これから中国で面白いゲームが生まれてくるならば我々は素直にそれを楽しめばよいと思うんですよね。
現在でもイラストレーターなんかは言語に関係なく活動できるので、中国や韓国のイラストレーターがどんどん日本で活躍していますし、逆に我々が中国のアニメを見ることも昔に比べてはるかに簡単になったと。
そんな時代に無理に日本という中途半端な文化単位にこだわることはあまり意味がないと思うんですよね。

ただまあ結局は文化の豊かさというのをどこに基準を置くのかにもよると思います。
私は一応、他文化(多民族であったり他宗教であったり)にどれだけ影響力を与えられるかがその文化の豊かさを測る基準だと思っているのですが、それも結局は外側から勝手に言ってるだけですからね。
たとえ歴史的には長く愛好されなかったり、ほかの文化圏には影響を与えなかったりした文化であろうとも、その文化圏の人たちが楽しければ、それをどうこう言うのはナンセンスなのかもしれません。


[23406] オタク文化の今昔&鬼滅の刃ブーム(その1)返信 削除
2020/11/4 (水) 18:43:59 徳翁導誉

▼ 相対的低下
> > では実際の所、読書人口って増えているんですかねえ?
> > これまた前述の通り、ネット通販や電子書籍の登場によって、
> > 選択肢が大幅に広がり、特に地方民などは格段と便利になったのは事実ですし、
> > ネットの書評とかで、今まで知り得なかった名著に触れる機会が増えたのも事実でしょう。
> > でも結局、それらは自分から「本を読もう」と積極的に動く事が大前提の条件で、
> > そもそも身近で本に触れる機会が乏しければ、どれだけ「本を読もう」となるでしょうか?

> 読書文化の後退は単純にインターネットという新たな競争相手が現れたからであり、
> それはそこまで懸念すべき問題ではないと思うんですよね。
> 例えるならばテレビの普及によりラジオ文化が後退したのと同じだと。
> もちろんフェイクニュースという非常に重要な問題はありますが、
> それと単なるコンテンツの相対的地位低下を混ぜて語るとおかしくなってしまうと思うんですよね。
> > こうした傾向は、スポーツ中継でも言えると思うんですよ。
> > 確かに今では、有料の衛星中継やネット配信によって、
> > 一昔前では考えられないほど、様々な試合をフルで見られるようになりました。
> > それはそれで、既にスポーツ観戦が好きな層には、実にありがたい時代です。
> > しかし一方で、スポーツに興味が薄い人でも目にする機会が得られる
> > 無料の地上波放送というのは、めっきり姿を消してしまい、
> > 新規の顧客層を掴むという意味では、どの競技も非常に難しい状況となっています。
> > 目先の利益を考えれば現行がベストかも知れませんけど、将来的に長い目で見ると・・・・
> > 実際にそうするかは別として、身近に機会が有るか?無いか?とでは、やはり大きな違いですよ。

> うーん、それもネットの普及により新しいコンテンツが生まれた結果、
> 競争が激化し、既存のコンテンツが新規顧客を獲得しにくくなっているだけだと思うんですよね。

テレビの普及により、ラジオ文化が後退したというのは解ります。
これは、自動車の普及により、馬車が無くなったり、
電灯の普及によりガス灯が、ガス灯の普及によりロウソクが無くなった事にも通じますし、
そういう事と同じであれば、私だって「時代の流れ」として、特に意識もしない事でしょう。
消えていく文化に哀愁はあっても、それ以上の新たな発展性がありましたから。

では、お尋ねしますけど、「読書」や「スポーツ観戦」をも上回る、
もしくは比肩しうる「新たな文化」って、本当に何か誕生しているんですか?
読書やスポーツ観戦って、人類文化史の中でも相当巨大なコンテンツですよ!?
それが、ラジオに替わってテレビが台頭したように、何か具体的に登場しているのでしょうか?
もちろん、可処分時間におけるコンテンツ消費の優先度として、
読書やスポーツ観戦が、相対的な地位低下を招いている事は重々承知しています。
しかしそれって、多分にビジネス的な話であって、ここで語っている文化の話と別なのでは?

また、確かに経済と文化は密接にリンクしてますけども、ここで語った書店や有料放送の話は、
ビジネス的な都合により、文化と接触する機会が失われつつある点の提議であって、
これは経済と文化の両面をもつ話題ではありますが、あくまで主題は文化についてですし、
厳しい言い方をすると、「混ぜて語る」という意味では、それこそ旧トルコ担当さんの方が、
却って未分離のまま、文化とビジネスを語られている印象を受けますね。
もっと言うと、与えられたコンテンツを消費する立場でしか、文化を語っていない感じがします。
別に、個々人がどんな文化を消費しようと、それは勿論当人の自由なのですが、
その一方で、多様な文化があってこそ、選択の幅も広がり、自由も担保されると思うので、
個々人ではなく、社会全体で見た場合には、この辺は非常に重要な事だと思うんです。
まあ私の文章も、上手く伝えようと話題を広げたり、例え話を多用した結果、
却って上手く伝わらずに、混乱させちゃってる面はあると思うんですけどね(笑)。

▼ ネット書店
> > さすがに東京都心で全滅する事はないでしょうけど、地方や郊外には大問題で、
> > 「上京しなければ手に取り買えない」となれば、それこそ昔のマニア市場同然ですよ。
> > (読書が普通だった時代から、マニアのモノに為りつつある傾向はあるかも知れませんが)
> > やはり本というのは、実際に手に取り、パラパラと中を軽く覗いてみて、
> > 初めて解る部分は多いですし、それはどんなに書評の数が多くても補えません。
> > そして、その本の周辺に、どんな同分野の本があるかも、ネットでは解りません。
> > デジタルとアナログ、ネットとリアルの違いを意識しなくなるくらい、
> > 技術が発展してこないと、この辺の問題解決は困難じゃないですかねえ?

> あと未だにネット書店って無いんでしょうか?
> あなたへのおすすめ順ではなく、リアル書店ならこんな感じで本棚作るよ、みたいな感じで
> 題名と表紙とアマゾンへのリンクがまとめられてるサイトがあれば、
> 興味のある人はけこう見てくれると思うんですよね。

そうした「本棚」的な見せ方も、多くはないですけど、無くはないですね。
それこそ個人経営のリアル書店だと、店内の写真をそのままアップなんて事も(笑)。
とは言え、そこにはやはり、画面サイズと解像度という物理的な制約が加わるので、
リアルと大差なくと言うのは困難ですし、そして繰り返しになりますけど、
「実際に手に取り、パラパラと中を軽く覗く」という行為が、ネット書店だと出来ないんです。
本の並びの見せ方以上に、本の中身確認の点が最も大きな違いでしょうね。
まあ逆に言うと、封がしてあって中身が見られないマンガの単行本は、どこでも一緒かな?

> 仮にそういうサイトがあっても、大半の人はもう自分の興味の範囲内でしか見ないがゆえに
> フェイクニュースなどが問題になるのであって、
> というか本当にそういうサイトが無いのであれば私が作ろうかなぁ。
> いや真面目にこれお金になるアイデアだし、とっくにもうそういうのがあるものだと思っていたのですが。

そう思われるのであれば、実際に作ってみるのも良いと思いますよ。
「自分だけのアイデア」なんてモノは、実際には皆無なモノであり、
現実には、どんなアイデアを持っているかより、どんなアイデアを実現させたかが重要で、
それは技術力や資本力もありますが、まず何よりもスピード感が最重要ですから、
「兵は神速を貴ぶ」じゃないですけど、とりあえずは実現させてみせる事ですからね!!

ただ一方で、それが利用者を惹き付けるには、利便性が関わってくるので、
そうなると、「お金になる」という動機よりは、
単純に自分が「好きである」とか、異なる需要を叶える「普遍性や多様性がある」とか、
そういったモノで動く方が、結果的には成功しやすい気はしますけどね。
前者の目的だと、後者の嗜好を掴まない限り、肝となる部分が把握できないでしょうから。

そういう意味では、もし仮にガチで作るのであれば、
書店の本棚をそのまま再現するよりも、個人個人の本棚を再現する方が良さそうですね。
ネット上でリアル書店の雰囲気を体感させようというのは、
GoogleマップやYouTube動画で、観光気分を味合わせようと言うのに近いです(笑)。
もちろん、幾らかの慰みにはなるものの、現状では実際の観光には及ばないですよね?
しかし個人サイズなら、グッと小さく厳選されるので、こちらの方がデジタル向きかと。
それに、個人単位の方が書店以上に、如実に個性が表れてきますし、
人気のある人の本棚には、多くの人が感心を集めると思います。
ただ、個人の本棚というのは、その人の頭の中をそのまま反映してしまう為、
こうやってオープンにすると、「見せる為の本棚」になりそうですが、それはそれでご愛敬。
その本棚から、気になる本が注文できれば、それは1つのビジネスになるかも知れず、
また、その本棚の人にもインセンティブが入れば、喜んで本棚を公開する人も増えるかも?
コメントなども残せるようになれば、ちょっとしたサロンにもなりそうですし。

あとは、試し読みが出来ない点の改善方法ですよね。
デジタルだとデータが保存できてしまう為、どうしても全公開というのは困難です。
また、パラパラと覗く行為が出来ないのは、電子書籍も抱えている問題点です。
まあ後者に関しては、技術的に相当難しいので、一朝一夕の解決は無理でしょうけど、
前者に関しては、無料公開に舵を切る音楽業界の方法が使えるかも?
ネット化やデジタル化が起こった当初は、音楽業界も様々な規制で対抗しようとしましたが、
次第に、ネット視聴が可能となり、ダウンロード販売が始まり、
そして今ではYouTubeでのPV無料公開が一般化しつつありますからね。
要するに、従来モデルはCM手段として割り切り、他の所で稼ぐ方法を見つけたと。
そういう意味では、書籍の方でも「別の稼ぎ方」が見つかれば、大改革となる可能性はあります。
(陳腐なアイデアですけど、書籍内容のキーワードに応じたネット広告の添付とか?・苦笑)
いきなり新刊本とかは難しくとも、著作権切れ本や絶版本などは数多いので、
まずは、そこからチャレンジしてみる方法は有り得そうですね。

▼ 語れる場所
> > まあ、それはさて置くとして、サッカー日本代表なんてメジャーな題材が、
> > まもとに語られてる場所を見つけられないのは、私の拾い上げ方が悪いんですかねえ?
> > サッカーは門外漢かも知れませんけど、何処かにあったりします???

> 無いんですかねえ。

会員制のようなクローズドな所には、ひょっとしたら有るのかも知れませんけど、
少なくともオープンな場所では、一昔前に2chで話されてた程度の内容さえ、
今のネットでは見つける事が、私には出来ません・・・・
そして、クローズドだからといって、話されてる中身が濃いとは、
あまり思えないと言うのが、正直な所なんですよね。

> オタクの私は好きなアニメを語る場も歴史好きが集まる場も持っているので、
> 他の人もそういうもんだと思っていたのですが違うのでしょうか?
> ただライト層が集まる中間的な場所がなくなているというのは分かる気がします。
> 私が歴史好きで集まっているのも招待制のディスコードの部屋ですし、
> そういう意味で場に入るための努力みたいなものが求められる時代に合ったような気はします。
> 最近ではオンラインサロンなるものが流行っているらしいですしね。
> この辺私が関心薄いのは、オタクやっていればどこであれ
> そういう同志のいる場所にたどり着けるという自信があるからなんですが。

う〜ん、この辺はオタクが求める「濃さ」の違いが、
認識の違いを生んじゃってる感じもすれうんですよね。
同じ内容であっても、それで満足する人と、出来ない人とでは、
それに対する感想も、やはり異なってくるでしょうから。
例えば具体的に、アニメと歴史に関して、どんな話題が扱われているんですか?
個人的に、アニメよりは歴史の方が詳しいですけど、
話題の流れ的には、アニメの方が適当そうですし、
ともかく、実例を示していただけた方が、ハッキリ見えてくる所があろうかと。

あと、どちらにせよ「場所が無くなっている」のであれば、
それは文化的な後退だと私は感じるのですが、そうでは無いのでしょうか?

また、これは私の一方的な思い込みかも知れませんけど、
どうしても、閉じた空間でのコミュニケーションって、
語り合う事が「手段」ではなく、それ自体が「目的」化しちゃう印象があるんですよね。
まあ別に、その事自体が悪いという訳では無いのですが、
SNS世代にとっては、それがオタ活動と見なせても、
それ以前の世代には、それは単なるファン活動でオタ活動では無いだろ?となると思うので。
そして、中間的な場所は無くても、「上の場所は確かにある」と感じられていても、
もう一方からすると、「いや、それは下の場所でしょ」となると・・・・

▼ 新しい文化は無限にあります
> > > ですがそれも結局、古い文化が廃れ新たな文化が生まれているだけだなのでは?
> > > 新たに生まれてきている文化を知らない、あるいはついていけていないだけなのでは?と思ってしまいます。

> > で、逆に尋ねますと、ここ10年あまりで、具体的に「これ」といった新文化って何か生まれました?
> > 私が知らないだけだったり、付いていけてないだけなら、却って嬉しいんですよ!!
> > 過去を懐かしむよりは、見知らぬ未来にワクワクするタイプですから、
> > もしも気付けていないだけで、新しい刺激が存在するなら、是非とも知りたいので。

> ここ最近の新しい文化といえば、私の知る限りではやはりスマホゲームとVtuberでしょうか。

う〜ん、別に知り尽くしてるとは言えませんけど、
スマホゲームも、Vtuberも、百合も、何となくは把握しているつもりですね。

> スマホゲームに関してはゲーム性の弱さを文化の後退として否定的にとらえる論者も少なからずいますが、
> 私としてはスマホゲームはSNSと合わさった現代のコミュニケーションゲームは
> 一定の新しさと文化的価値を備えていると思うんですよね。

ゲーム性に関して言えば、発言の真偽はともあれ、
「任天堂の倒し方」というのが、端的に言い表してる気はしますね。
あとは、ガチャを含めた「課金」ですか。
まあ別に、ビジネスとしては、それを否定する気はないですけど、
それが文化を創造しているかと言えば、ちょっと私には思えないんですよね・・・・
逆に尋ねますと、一体どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょうか?

> Vtuberのほうに関してはあまり詳しく知らないです。
> あれは何時間という配信が下手すると週に何度もあるという見る側もめちゃくちゃ大変な世界なので。

Vtuberの方に関しては、弁さんとの雑談↓の方が詳しい感じでしょうか?
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r22970
それまではキズナアイくらいしか知らなかった所を、
電脳少女シロやカルロ・ピノなど、10人くらいは解るようになりました(笑)。

ただ確かに、未だ発展途上の分野ではあるでしょうし、
「3DCGモデル」「モーション・キャプチャー」「地下アイドル」「ネット配信」など、
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r22930
既存のモノが組み合わさった存在ではあるのですが、
こちらは「新しい文化」と言っても良いかも知れませんね!!
とは言え、私のアンテナに引っ掛かってなかった存在ではありませんし、
廃れた文化の代替足り得る文化かと言われると、ちょっと解りませんね・・・・

> でまあ布教して良い、という言質が取れたので遠慮なく布教させて貰えば、
> 「百合」(女性同性愛)はどうでしょうか?
> 元からたどれば吉屋信子の時代からある意味存在するのでしょうが、
> オタク的な文化として高まり始めるのは『マリア様がみている』や
> 『東方Project』などが流行し始めた04年あたりからです。
> オタク一般(なんて存在するのか?)に浸透していったのはその後10年代に入ってからなので、
> 新しい文化ではあるという条件はクリアしているかと。
> 最近だと普通のアニメ(百合ファン向けでない普通のオタク向けアニメ)にも
> そういった百合的な要素が入っていたりしますし、逆にそういう
> あからさまなものを入れて百合営業とかも言われたりしていますね。

マリみてが挙がるなら、まずはその前に「少女革命ウテナ」が来る気がしますし、
部分的には「セーラームーン」のウラヌスとネプチューンで、そうした要素が描かれており、
更にもっと言うと、既に実写映画の方で、1990年に「櫻の園」がありますよね?
この映画自体も少女漫画原作ですし、特筆して新しい文化と言えるかとなると・・・・
まあ、以前よりも更に一般化したと言えば、そうかも知れませんけど。
「ゆるゆり」もタイトル通りなら、日常系に緩く百合要素を加えた感じなのでしょうが、
あまりに一般化しているのか、「百合要素なんて入ってるか?」って感じですし。

・・・って、こんな話をしていたら、ついつい、
「ネコの反対って何?と問われて、焦るヤツは腐ってる(笑)」
というネタ話を思い出しました。
普通の人なら「えっ、犬?」とか、躊躇無く答えられるので。

▼ 鬼滅の刃ブーム
> > とは言え、私の受信アンテナが錆び付いてる可能性も、十分に有り得ます(笑)。
> > 鬼滅の刃が、何故ここまで小学生にウケているか、ちょっと解らなくなってますし。
> > いや、面白い作品だというのは、私にも解るのですが、
> > この作品だけが特別だという理由が、私には正直思い浮かんでいません。

> あと鬼滅の刃を牽引してるのはたぶん女性層ですよ。(データ見てないので想像ですが)
> 元々あの人たちは少年漫画大好きですし、多分劇場に何回も足運んだりしてるのも
> 彼女たちなんじゃないでしょか(いや小学生も見に来ているでしょうけど)。
> 小学生からお小遣いで商売しても大して儲かりませんが、
> それこそ結婚してない20代30代の女性ならジャンジャンお金使ってくれますし、
> それらが鬼滅の数字的な強さを作って、数字が強いから話題にもなる、という感じなのではないでしょうか?

いやいやいやいや、それは多分、今の世間の空気感をまるで読めていませんよ・・・・
これがまだ、年末年始の頃の話であれば、
「人気を牽引しているのは女性層」という見識も、ある程度納得できるのですが、
現在の、小学生における鬼滅人気は、本当に異常と呼べるレベルで、
これだけのブームはポケモン以来、二十数年ぶり。
今後、この鬼滅人気がどこまで続くかは解りませんけど、
瞬間風速で言えば、確実にポケモンの時以上のモノがあります!!
アナ雪とか、妖怪ウォッチのブームとも、ちょっと次元が違いますね。

それこそ、リアル書店とネット書店の違いじゃないですけど、
そうした空気感も含め、デジタル世界とは異なる情報量が、アナログ世界には豊富で、
意識して街中の様子とかを観察してもらえれば、異常な鬼滅人気がきっと解るはずです。
昭和の頃と違って、情報網も流通網も大きく発展した今日では、
地方だから、都会だからと、そこまでの差は以前ほど大きく無いはずなので。
日本の商業アニメの歴史は60年前後に及びますが、少なくとも私は、
これに比肩する程、小学生の間で爆発的ブームとなった作品を知りません。

実際、実写作品も含めた日本の映画興行収入で見た場合、
歴代1位は、308億円を記録した宮崎駿の「千と千尋の神隠し」なのですが、
今回の鬼滅劇場版は、わずか17日間で158億円を記録し、早くも日本歴代10位です。
「アバター」や「ラスト サムライ」、「ボヘミアン・ラプソディ」も既に超してます。
従来の女性サブカル・ファン層だけでは、とてもじゃないですが達しない数字ですよ。
少子化で子供の絶対数が減っているとは言え、さすがに、それら女性ファン数の比ではありませんし、
こんな爆発的なヒット、商売側だって絶対に予測できてなかったはずです。
逆に言えば、最初から小学生向けを狙って当てた商売では無いと。

> でまあ何が言いたいかといえば、少なくとも現代に生きるオタクからすれば
> ネットのおかげで面白いものは無限に溢れていて、むしろそれを楽しむ時間こそ足りないんですよね。

はい、それは解っていますよ(笑)。
特に近年は、一定金額を払えば対象作品が見放題となる「サブスク」市場が拡大した事で、
少ない金額で、多くの作品を楽しめる環境となっていますからね。
それはそれで一昔前に比べると、非常に恵まれていると言って良いかも知れません。
ある意味では、このコロナ禍の中で、私もそれを満喫しましたから(笑)。

しかし一方で、そうやって提供される範囲内の対象で、満足してしまう傾向も強く、
それは逆に、自ら枠を広げる機会を奪いがちな環境とも言えますし、
消費するモノが多すぎて、ただただ消費する存在に陥りがちだとも言えるんですよね。
そうなると、リアルタイムな文化生成としては、なかなか進んでいかないと・・・・
そして個人的には、主体性なく消費するだけでは、「オタク」とは呼べない気がする訳です。
もちろん、それは私の中での、オタクという単語の定義の問題かも知れませんが。
私が言う所の「ヲタ文化」が、旧トルコ担当さんが言う所の「オタク文化」に相当するのかも?
いつも厳密に使い分けている訳では無いですけど、個人的な用語としては、
バブルが崩壊した辺り、90年代初頭までのアナログ一辺倒な時代を「おたく文化」、
台頭してきたデジタルと、アナログが同居していた過渡期の時代を「オタク文化」、
東日本大震災に前後する、10年代辺りからのデジタル優勢な時代を「ヲタ文化」としてますね。
(場合によって、おたく・オタク・ヲタのサブカル総称として「オタク」を用いる事もありますが)

▼ オタクについて
> > > 自分はカルチャー寄りの人間なので、スピリッツがなくても生きていけるんですね
> > > コミケが多少商業化しようとも、あるいはコミケで惰性的、馴れ合い的にコミュニティで群れていても、
> > > そういった文化は好きなんですよね
> > > 別にスピリットがなくてもいいじゃん、と
> > > かつて岡田斗司夫さんと言う方が「オタク・イズ・デッド」という講演をしたことがあって、(現在はYouTubeで公開中)
> > > これもオタク「精神(スピリッツ)」の終焉宣言であり、オタク「文化」の終焉宣言ではなかったと思うんですよね

> > う〜ん、そこは用語の定義の話になってくるかと思いますが、
> > 「ファン」と「マニア」と「オタク」とを明確に区分した場合に、
> > 「精神性なき文化」というのは、果たしてオタク的だと言えるんですかねえ?
> > 個人的には、好きが高じて生じる、何らかの主体性があってこそのオタクだと思いますし、
> > ただ単に好きなだけだとか、受け身で消費するだけであるなら、
> > それはファンやマニアの範疇であって、オタクの世界では無い気がするんですよ。
> > ここでいうオタク文化が、サブカルやPOPカルチャーの事であれば、
> > まだ意味としては通じるんですけどね。

> この辺のオタク話はすごく興味あります。
> 多分エヴァとときめきメモリアルあたりからオタクが変わっていったと思うのですが、
> いかんせんそんな時代は生まれてもいないわけで、すごく知りたいんですよね。

繰り返しに為っちゃいますけど、私自身はオタクじゃないですよ(笑)。
特に、マンガ・アニメ・ゲームと言ったサブカル分野は、そこまで深く語れません。
その上での話という事になりますが、例えば前出のオタキングこと岡田斗司夫で言うと、
それこそオタクの人は、「王立宇宙軍」や「トップをねらえ」の頃から知っていたでしょうけど、
私自身が存在を知ったのは、岡田が東大の非常勤講師をしてた頃なので、90年代の中盤ですか。
(それと同時に、学生たちが講師を要望できる東大のシステムも凄いと思いました)

ただ、「オタク・イズ・デッド」と講演した2006年の頃には既に、
オタク界隈ではオワコン扱いされており、一般人相手にオタク専門家ビジネスをする人と見られ、
翌年にレコーディング・ダイエットが大ヒットした際も、冷笑の対象になってた認識ですね。
それはアニオタのみに限らず、オタク的な気質を持つ人たち全方向から。
なので、オタク・イズ・デッドという台詞にしても、
世間的には話題になっても、オタク的には「ふ〜ん」って雰囲気でしたから、
こうした話題で引用されると、恐らく当時のオタク世代は「えっ!?」という反応になるのでは?
「仮にもオタクを自称する人間が、そんな所から引っ張ってくるなよ」といった感じで。

で、ここからようやく「オタクの変質」についてですけど、
実を言うと、元々のオタク層が変質したと言うよりは、
その周囲にある社会の方が変質した印象ですよね。
当時はまだ子供でしたけど、私が初めて「おたく」というモノを意識したのは、
それこそ、昭和末から平成元年にかけて起こった宮崎勤事件であり、
幼女への連続誘拐殺人で、自宅に遺骨と声明文を送りつけるなど、劇場化していて、
犯人が捕まると、そのオタク的な嗜好により、バッシングの対象となったのは覚えています。
それまでも根暗なイメージはあったものの、犯罪者予備軍な扱いになりました。
つまり、オタク自体は変わらなくても、社会の見る目が変わった訳ですね。
当時はまだポリコレ的な制約が無かったので、マスコミの報道ぶりも凄かったですよ(苦笑)。
ただ私自身は、ウチの父親が映画好き&漫画好きだった事もあり、
ビデオテープも単行本も多くあった為、その論調に乗る所は無かったですね。

その後、世間の風向きが変わり始めたのが、90年代の中盤だったでしょうか?
まさしく前述した、岡田斗司夫のオタク学講義が東大で行われた頃ですね。
具体的には、団塊ジュニア世代が成人年齢を向かえて、
子供の人口が減る事で、夕方やゴールデン帯のアニメ放送枠が減ると共に、
1997年の「ベルセルク」を契機に、深夜アニメが急増し始めた事もありましたし、
宮崎駿の世間的認知度が徐々に高まるに連れ、「宮崎アニメだけは別」という認識が広まり、
興行収入が100億円を超えて200億円に迫った、1997年の「もののけ姫」が転換点となりました。
(逆にトトロ・ナウシカ・ラピュタなどは、興行収入が15億円にすら達していません)
そういう意味では、宮崎勤が悪化させたイメージを、宮崎駿が改善させたんですよね。

そして、そんなタイミングで登場したのが「新世紀エヴァンゲリオン」でした。
放送開始1995年でしたけど、当時はほとんど話題になってませんでしたね。
いや勿論、ナディアを手掛けたGAINAXの新作という事で、一部のコア層は注目してたでしょうけど、
少なくとも私の周りから、「エヴァ」という単語は1度も耳にしませんでした。
なので、私も1人でひっそりと楽しんでましたよ(笑)。
まあ当時は、ネットの普及前で、上述のようにサブカルへの風当たりも強い時代だった為、
そんな一般的に、アニメの話題が上るなんて事は無かったですからね。
ですから、放送終了後の1996年春に秋葉原へ初めて行った際、
エヴァのビデオ発売のポスターを見掛けて、凄く驚いたんです。
「あんなマニアックな作品に注目する人たちが自分以外にも居たとは!!」と。

で、その後くらいから、書店などでジワジワと人気の高まりを感じていたのですが、
個人的には「この作品なら、こんな終わり方もアリだろう」と、妙に納得していた最後の2話が、
オタク一般的(笑)には、やはりインパクトが大きかったようで、
この2話を劇場版でリメイクするという流れになり、人気の方が更に加速。
そして劇場版公開を前にした1997年に、深夜帯で一挙再放送が行われると、
非オタク層の若者世代にも人気が拡大し、劇場2作品の後編が制作の遅れで公開延期となると、
その渇望感から注目度が更に増して、ついには一般マスコミまでブームを報じ始めました。
そういう意味では、世間がイメージを改善させたかは別として、
ガンダム以来、およそ20年ぶりのアニメ・ブームを世間が認知したり、
非オタク層にまで新規ファンを開拓したという点では、確かに転換的な作品だったでしょうね。
実際、私自身もエヴァ以前とエヴァ以後で、アニメに対する見識が一変しましたから。

また、1998年に「カードキャプターさくら」がNHK-BSで放送開始され、
そっち系のファン層を拡大させた面がありますし、
民放キー局以外でアニメ視聴が広がったのも、この作品がキッカケだったかな?
そして、2000年頃から新作アニメの数が急増してきたり、
インターネットの普及によって、ファン同士の繋がりや情報なども豊富となり、
家庭用ゲーム業界では、「次世代ゲーム機戦争」の勃発によって活況を呈するなど、
サブカル自体に、凄く勢いがあったのは確かですね。
家電の街だった秋葉原が、PCの街を経て、サブカルの街へと変貌していくのも、
ちょうど、この頃だったかと記憶しています。
社会的にも、1998年に長野五輪があり、2002年には日韓W杯があって、
バブル崩壊以後の30年間に限って見ると、妙に熱気があった時代でした。

それに続き、世間のオタクに対するイメージが変わったのが、
2005年の実写ドラマ「電車男」のヒットでしたね。
まあドラマですので、作品自体のオタク描写は、オーバーでコミカルなモノでしたけど、
宮崎事件以来あったネガティブなイメージは、ここで一変した感じでした。
更には、「サブカル」が「POPカルチャー」として認識される転換点にもなったかな?
要するに、J-POPやドラマを楽しむ感覚で、ゲームやアニメも楽しむと。
旧トルコ担当さんが言う所の「オタク文化」が、大衆化された契機と言えるかも知れません。
この事で、秋葉原に非オタク層やライト層も集うようになり、
良く言えば活気があり、悪く言えば一般化され、そして2008年の通り魔事件に至ると・・・・
そういう意味では、2006年の「オタク・イズ・デッド」宣言というのは、確かに当て填るかも?
別に私自身はオタクではないので、そこまでオタキングを過度に排斥もしません(笑)。

あとは、オタク文化内の話ですと、00年代の後半に一世を風靡した京アニ作品の登場は、
文化内の空気感を「まったり」したモノに変質したかも知れませんね。
言い換えるなら、一般層にも受け入れられる、キモオタ作品のマイルド化かな?
ジブリ作品ほどでは無いにせよ、京アニ作品は表面的なイメージ改善には繋がり、
奇しくも、あの放火事件の悲劇が、世間におけるその傾向を更に強めた感じがします。
声優アイドル化の流れも、昭和の頃からあったのは事実ですが、
「けいおん」を境目にして、加速されていった印象ですよね。
ここに作品の量産化が加わると共に、ネットの一般化によって、
「コミュニケーション・ツールとしてのコンテンツ消費」という楽しみ方が生まれると、
それはある意味で新しい文化ですけど、従来のファン層からすると面白くないですよね。
世間から白い目を向けられる中、今まで自分たちが築き上げてきた文化が、
数の力によって食い荒らされてるように映るでしょうから・・・・
言うなれば、与えられたモノを食べるだけの「オタクの家畜化」って感じなのかな?
正直な所、そんな層は昔から多くいたのでしょうけど、サブカルの大衆化により、
今では圧倒的多数となって、飲み込まれてしまったかのようですからね。

ちなみに、「ときメモ」はどうだったのかなぁ?
私はギャルゲーをやった事が無いので、そこまで詳しくないんですよね。
ただ、サブカル層に新たな市場を開拓したのは事実ですし、確かに人気もありましたが、
世間一般のイメージ改善という点では、ちょっと足を引っ張ったかな(笑)。
オタク文化的に言うと、2000年前後にあったエロゲー・ブームの方が大きかったかも?
70年代の日活ロマンポルノが、映画界の若きクリエーターを多く輩出したように、
この時のエロゲー・ブームは、まどマギやFate、京アニ初期作を生むキッカケになる訳ですし、
エロ要素さえ入れれば、自由な創作が認められていたので、隠れた名作も多いらしいです。
(ロマンポルノはWOWOWで何作か見ましたけど、エロゲーは1本もプレーしてませんね)
あと、ギャルゲー方面で言うと「ラブプラス」あたりから、風当たりがマシになったのかな?
そして2015年の「刀剣乱舞」が、女性向けの乙女ゲー人気に火を付けると共に、
「艦これ」と共に、ブラウザ・スマホゲーの火付け役にもなり、
「テニプリ」から始まった2.5次元ミュージカルの立て役者にもなりましたから、
オタク文化と言って良いかは解りませんけど、刀剣乱舞の影響力は大きかったかも知れませんね。
美術館の方でも、刀剣乱舞は日本刀ブームを起こしてくれましたし(笑)。
いや本当、名刀展示の機会を増やし、お金まで落としてくれて、凄く有り難いんですよ。

以上、ザックリと尋ねられたので、ザックリとしか答えられませんけど、
とりあえず、こんな感じですね。
私の場合はオタクじゃないので、良くも悪くも客観視した当時の情報ですけど、
それで宜しければ、具体的に質問がありましたら、可能な限りお答えしますよ。


[23407] オタク文化の今昔&鬼滅の刃ブーム(その2)返信 削除
2020/11/4 (水) 18:45:37 徳翁導誉

※ 容量が大きすぎたので、2分割で投稿 ※

▼ SNSと場
> > また、「そんな世界は残っていないのでは?」というのも、
> > 時が移ろい、栄枯盛衰がある以上は、そんなおかしな話では無いかと思います。
> > 成長期や過渡期の状況もまた、永続するなんて事は無いのでしょうからね。
> > それに、この発言自体は、文化や担い手がどうこうという話と言うよりも、
> > もっと単純に「集える場所の喪失」という意味で用いていますし、

> いやいや、それこそSNSは集える場を生んでいるのでは?(昔を知らないのでry)
> かつての年に数回だけ同好の士と会うことができ、
> あとは手紙とか雑誌の投稿欄とかでやりとりしていた時代と比べれば、
> 集える場所こそ一番発展したのではないでしょうか?
> (それゆえにいろいろなトラブルもあるようですが)

これって恐らく、デジタル・ネイティブ世代であるが故に、
「SNS」というモノが、広大すぎるネット世界に現れた「閉じられた空間」である事が、
当たり前すぎていて、意識できていないという事なのでしょうね。
喩えるなら、鎖国前の日本を知っていると、鎖国された日本はクローズな空間に映るけど、
鎖国が当然の世代だと、クローズな空間とは藩であり、日本とはオープンな空間に映ると。
良い悪いの話ではなく、これはもう仕方のない事なのかも知れません・・・・
サロンのように、更に閉じた空間と比較して、SNSの解放性を感じるのと、
閉じたネットとしてSNSがあり、サロンもその延長線上にあるだけと感じるのも、
結局は立ち位置が異なる事によって、生じる認識の差でしょうからね。
とりあえず個人的には、フランス上流社会の閉じられた社交場であった「サロン」よりも、
ギリシャの公共広場に開かれた言論の集会場である「アゴラ」を、ネットに求める感じですね。
もちろん、両方あれば理想ですけど、サロンがあればアゴラは不要というモノでは無いかと。

あと、これは何度も繰り返しになりますけど、
別に私は、ネット化により得られた利便性は大いに認めています。
それこそ、前述の「おたく文化・オタク文化・ヲタ文化」で言えば、
私自身はオタク文化の世代であり、現代のヲタ文化と比較しているのは、基本的にこの時代です。
ですから、おたく文化とヲタ文化の比較となれば、
双方に「長所もあれば、短所もある」と語っているだけで、
現代の長所ばかりを挙げられても、それはそれで認めているものの、
過去の長所まで否定する考えはないと言うだけの事なんですよね。
例えば、他者と常時繋がれてる環境は、全てにおいて万々歳とも言えず、
それは個の時間や空間の消失を、促す側面も持っていたりしますからね。

要するに、アナログ時代には無かった繋がりが、デジタル時代に生まれたなんて話は百も承知なんです。
それこそ、それをリアルタイムで体感した世代なのですから。
その一方で、アナログ時代にあった繋がりが、デジタル時代により消えてしまった面もあり、
それらをデジタルの新たな繋がりが、代替し得るとは限らないと言う話なんです。
ただし、私が主に言っているのは、そうした私よりも前の世代の話ではなく、
アナログとデジタルの過渡期であった私自身の世代の世界の事を言っているんです。
アナログの文化があり、デジタルの文化があるだけでなく、両方が融合した文化があり、
「そんな世界」とは、広く言うと、この3つの文化があった世界であり、
狭く言うと、アナログとデジタルが融合した文化があった世界の事ではあります。
前の世代のアナログ文化だけでなく、過渡期だからこそ有り得た徒花なのかも知れませんが、
融合した文化までが消えてしまい、ほとんどデジタル文化しか残っていないと。
それでも、衰退した2つの文化を補って余りあるくらい、新文化が隆盛していれば別ですが、
経済的事情もあってか、穴埋めできている実感はしないのが、正直な所なんですよね。

▼ 無限にグローバルか無限にローカルか
> > あとは、ある所で滅びがあっても、別の所で興りがあれば良いんですけど、
> > グローバル化と新自由主義により、文化の消費サイクルさえ加速度を増していて、
> > 最近は、行き過ぎた焼畑農法が、砂漠化を招くような状況を、生んでいる気がするんですよ。
> > 次から次へと大群で食い荒らしていくという意味では、「蝗害」に喩えても良いのかな?
> > どちらかと言うと、そちらの方がより深刻で、私が心配している部分かも知れません。

> これは半分賛成ですね。
> 結局今の文化って、無限にグローバルか無限にローカルかしかないと思うんですよ。
> 20年かそこらか前には日本の中で文化的グローバリズムが進み、
> いずれは世界的にものすごいグローバルな文化により世界の半分は統一されると。
> そしてマクドナルドが世界を席巻したように、
> いずれは世界中の町がどこもかしこも似たり寄ったりの風景になるんでしょうね。

「文化」というのは、ローカルな習俗に根ざした多様的なモノであり、
「文明」というのは、地域の枠を超えて広がる普遍的なモノだとすると、
地域すら超えて世界に広がる「グローバルな文化」というのは、
用語的に言うと、何だか おかしな感じもあるのですが(笑)、
でもまあ、グローバル経済と結び付いた消費文化は、
良くも悪くも、まさしくグローバルな文化なんですよね。

> 20年前には日本の都市がプチ東京になって地方ごとの特色が失われたわけですが、
> 20年後には世界中の都市が似たり寄ったりの風景になると。
> で、無限にグローバルな側では、焼畑農業的な、凄まじい速度での文化消費が起きているですけど、
> 一方には無限にローカルな場所もあると思うんですよ。
> ところがこのローカルはローカルが故になかなか見えてこないので、
> まるで新しい文化がないかのように見えるんですが、実はあるんです。

「半分賛成」と言う事は、「ローカルな場所もある」というのが反論の部分なのかな?
まあ別に、私もローカルなモノが完全に無くなるとは考えていませんし、
それこそ転勤族として育ったので、各地の地方都市の事も知っており、
まだ地方に活気のあった昭和の頃も、朧気ながら覚えてはいますから、
個人的な実体験があったり、思い入れがあったりするのも事実です。

ただ一方で、それらが急速に失われ、全国が均一化されていく流れも見ているんですよね。
方言の強さなど顕著で、子供と大人と高齢者では、かなり異なりました。
そういう意味では、さすがに絶滅するとまでは思いませんけども、
選択肢の中に個人商店が入らなくなるとか、姿を消してる実状はあると思います。
そして地方だけでなく都心にしても、以前にも書きましたように、
秋葉原・神保町・渋谷などの個性的な街まで、均一化で特徴を失いつつあると。
・・・って、この辺の事を語り出すと長くなるものの、
今まで語ってきた「娯楽文化」と、日常的な暮らしとしての「生活文化」は、
同じ「文化」という枠組みとは言え、ちょっと方向性が異なりますし、
そこまで話題を広げると、更に混乱の元になりませんかねえ?(笑)
多分この箇所も、「そんな世界は残っていないのでは?」を誤って引っ張ってる感じがするので。
という事で、今回はとりあえず、2年前の書き込み↓を貼って、お茶を濁そうかな。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=c21943

> そして何がないかといえば、中間がない。
「中間がない」
おっ、そのキーワードが出ましたか!?
実を言うと前回くらいから、私が話題や例え話を広げ過ぎた所為もあってか、
何だか少し、話が噛み合わなくなってる気がしていたので、
逆に今回は余分なモノを一気に絞ろうかとも考えていたのですが、
その場合の軸となるワードが「中間層の喪失」だったんですよ!!

まあこれは、グローバルとローカルの間ではなく、
生産者と消費者の間という話で、その中間層こそが所謂「オタク」であり、
そこが空洞化しつつあるのでは?という事だったんですよね。
で、それも、オタクの絶対数が減ったと言いたいのでは無く、
減る所か、恐らく増えてはいるのだと思います。
ですが、サブカルの大衆化や、グローバル化、情報社会化によって、
オタク以上に消費者の数が圧倒的に増えた上、生産者のレベルも上がった事で、
巨大になった市場ピラミッドでは、生産者層と消費者層との2極化が生じてしまい、
その中間を埋めていたオタク層が、相対的にスカスカになった気がするんですよね。

それにより、小さなピラミッドだった頃は、距離が近くて繋がる事が出来たオタク同士も、
距離が離れると繋がり難くなり、消費者層からスムーズに移行する割合も減ったと。
もちろん、消費者層が広くて分厚くなった事で、
その中での上位に当たるマニア層も、確実に増えたと感じるのですが、
「そこは中間層ではない」と線引きすると、オタクの増加には繋がっていないんです。
まあ、この辺は言葉の定義と感じられるかも知れませんが、
マニアもオタクに含めても、それでスカスカとなった中間部分が埋まる訳では無く、
やはり、個々に上下の差はあっても、消費者であり生産者でもある層が充実する事で、
最上部の生産者層と言うのは、質が高くなっていくモノだと思うんですよね。
近年は様々な世界で、「選択と集中」とか言ったりしますが、
実際は、たくさん種を撒いて、そこから育つのを待つ方法に優るモノはなく、
目先の利益ばかりを追いかけていくと、長期的には先細りしてしまうモノなのでしょう。

ちなみに、余分なモノは絞ると言いつつ、最後に付け加えてしまうと(笑)、
こうしたピラミッド構造は、人口の年齢ピラミッドのそれと非常に酷似してると感じるんです。
時代が進むほど、人口は増えていき、ピラミッド自体のサイズも大きくなりますが、
更に社会の成熟も進むと、ピラミッドの形は「富士山型→釣り鐘型→壺型」と推移していく一方、
釣り鐘型になるとサイズが停滞し、壺型になるとサイズが減少に転ずる傾向があります。
そして、これは私の予測なのですが、壺型から更に進むと、壺の首部分が切り離され、
上部の小さな丸と、下部の大きな丸とに分かれて、2極化しちゃうと思うんですよね。
近未来では遺伝子治療などが進み、高額な医療費を払える一握りの富裕層のみが、
異常に長生きできる時代が到来するような気がしますから。
で、こうした傾向は、年収ピラミッドの方でも遅れてやってくると思うんです。
年齢では先進医療が上下を分けましたが、年収ではAIやロボットが中間層を担い、
これまた一握りの勝ち組と、それ以外の大量の労働者かつ消費者とに分ける感じに。
そして文化コンテンツも、生産層と消費層とに分かれ、中間のオタク層はスカスカになり、
その一方で、消費層は球体となって、その中での質は上がっていきそうと。

> 追記:興味ないかもですが、同人文化に関して面白い資料が手に入ったいので少し
> というのも、ここ20年くらいの同人誌即売会では
> オールジャンル即売会(どんな同人誌でもOKのイベント)が減少し、
> オンリージャンル(特定のジャンル限定の同人誌即売会、例えば鬼滅の刃のBL同人誌専門イベントみたいなもの)
> ばかりになっていると
> コミケが商業化していく裏では、本来マニアックだった同人の世界が
> 更にマニアックな世界へ小さく小さく分裂して行っているようです

いえいえ、興味ないとか無いですよ(笑)。
と言いますか、これこそまさに、前回のこの発言↓を如実に表しているのでは?
> > 基本的に文化とは消耗品で、乱雑に扱われるほど、その寿命も短いモノです。
> > 原理主義的に死守しようとした所で、先鋭化して、分裂して、先細るのが関の山ですしね。
> > まあ、どんな分野であれ、最初には地を這う黎明期があり、
> > そこからグングン伸びる成長期があり、それがピークを迎える最盛期があり、
> > 腐り始めだけど芳しい爛熟期があって、最後には腐り落ちる没落期がある訳ですが、
> > 大衆化されるのは最盛期の後半で、最も人口が多いのが爛熟期な一方、
> > 最も楽しいのは成長期で、本当に好きな人は黎明期から居るモノだと思うんです。
> > コミケの同人文化拡大を言われてますが、それは既に爛熟期に入ってる状況かも知れませんよ?

文化に限らず、学問の世界とかもそうなのですが、
ある分野が成長を遂げた時に、そこから更に研究を進めようとした場合、
専門分野の「蛸壺化」という現象を起こすのが、典型的なパターンなんです・・・・
一方で、最も活気のある成長期ほど、様々な分野に横断しており、
こうした蛸壺の袋小路に陥った際、そこから打破していくには、
枝を伸ばし続ける事を考えるのでなく、種を作って新たな芽を吹かせるか、
その木を異なる分野の土地に植え替えるしか無いと思うんですよね。
って、同人誌界隈の場合は、それが具体的にどういう方法になるのか、
私には、ちょっとイメージが湧きませんけども(笑)。

▼ 少子高齢化と人口問題
> > 我々の世界は20〜40年後、未開地が無くなると共に、人口が減少するという、
> > 人類初の時代を迎えるとも危惧されており、そんな未曾有の停滞時代に、
> > 「果たして文化の発展はどうなるのか?」 日本だけでなく、世界規模でも未知数です。

> これは新しい視点だと思います。
> もしかしたら世界的な高齢化の波は人類文化の停滞を招くのかもしれませんね。

まあこの点は、文化もそうなのですが、経済がヤバいんですよね。
資本主義というのは、市場のパイが大きくならないと、うまく機能しないシステムなので、
未開地が無くなり、人口は減り、更には高齢化して、新たな文化創造も停滞するとなれば、
資本主義は機能不全を起こすでしょうし、そうなれば社会不安に直結すると・・・・
そして、そんな社会から生まれる文化が皆無とは言いませんけども、
消えていく文化との差し引きで言えば、マイナスになるのは間違いないでしょうからね。

また、新自由主義な見方で、文化コンテンツの消費も捉えた場合にも、
それこそ、新自由主義な資本主義が機能不全に陥った際に、
そちらの消費形態がどうなっていくのか、未知数な所があるかと思います。
って、20〜40年後ともなれば、何事も起こらなくても、大きく変わるでしょうけど(笑)。
ただし、その進む方向性は、いろいろと影響を及ぼされる可能性はありそうですね。

▼ 国力と文化力
> > これは何もサブカル分野に限らず、スポーツでも、学術でも、政治でも、起業でも同じかと?
> > 草サッカーの経験があるだけでも、ただ見るだけのファンとは見方が変わるはずですし、
> > ピラミッドの底辺が広くなれば広くなるほど、その高さも大きさも増していくはずですから。
> > でもそれらは、あくまでもプレイヤーとしての裾野の広さであって、
> > 消費者や観客としての裾野は、プレイヤーを育てる養分という面では意味があっても、
> > その辺は海外にだって求められますし、逆に海外から養分にされる事だってあります。
> > 例えばゲーム業界なんか、家庭用ゲーム機の事を一般名詞として、
> > 北米では「NINTENDO」、西欧では「PlayStation」と呼ばれるくらい、
> > 以前は隆盛を誇っていたのも、今では昔の話ですからねえ・・・・
> > 現在進行形で、今の日本が世界を魅了している分野って、実際に何かあるのかなぁ?
> > まあ世界はさておき、絶えずサブカルを産み続けた日本の国内的土壌が、
> > かなり危機的な状況にあるのでは?というのが、私自身の肌感覚なんですよね。
> > もっと言うと、どうすれば衰退を回避し、繁栄の道を築けるのか、方法を知りたくはあります。

> うーん、日本文化にこだわる必要はないんですよね。

いや〜、そこまで割り切られてしまうと、返す言葉もありません(笑)。
確かに、例えばこの世から日本食が消滅した所で、日本人が飢え死にする訳では無く、
ハンバーガーやピザだけ食べていても、それで生き続けられるのは事実です。
でも、それでは寂しすぎると言うのが、偽らざる私の本音ですね・・・・

> 例えば、20世紀中盤にはアメリカ文化が世界を席巻しましたが、
> 20世紀後半にはアメリカ文化は世界の中で徐々に力を落としていきました。
> で、それはアメリカ文化そのものの後退を示すのか?と言われればそうではないと思うんですよ。
> そもそもアメリカ文化が世界の中で強い影響力を持っていたのは
> アメリカが世界の中で圧倒的に豊かであったからであり、
> 20世紀後半にアメリカ以外の国々(日本など)が豊かになっていくと
> アメリカの文化的影響力は相対的に下がらざるを得ないと。

まあ、それ自体は否定しないものの、
日本とアメリカの場合は、占領政策や実質的な属国化が背景にあった為、
諸外国と比べると、ちょっと特殊な例ではありますし、影響度合いも特に濃密ですよね。
ただし、後述しますけど、それが全てだとは思いませんし、
また、20世紀においてアメリカは、近代化のトップ・ランナーであり、
そうした文明の面まで含めて、文化として捉えてしまっている感じも受けます。

> 私が子供のころに見た中国映画なんて本当にひどいものでしたが、
> 最近見た中国のアニメは結構おもしろかったんですよね。

う〜ん、文革期のプロパガンダ映画とかならともかく、
「紅いコーリャン」や「覇王別姫」など、日本でも話題となった中国映画はありますし、
(文革後に登場した若き監督たちを、中国映画の第5世代と呼ぶらしいです)
日本の黒澤作品にしたって、「羅生門」「生きる」「七人の侍」あたりは、
終戦から10年も経っていない貧しい時代のモノでしたから、
必ずしも、そこが直結するとは限らないと思いますよ。
インド映画にしても、インド経済が急成長する前から活況を呈してましたので。

> で、中国が豊かになって中国のアニメが面白くなればなるほど
> 中国における日本文化の影響力は低下していきますが、
> それは日本文化がつまらなくなることとイコールではないわけです。

それって、成長した中国作品が、日本市場を席巻しない大前提なんですか?
仮に今後、そうした事になった場合には、国内市場が喰われる訳で、
国産の作品は苦しくなり、日本文化がツマらなくなるかも知れませんよ。
(例えばフランス映画では、ハリウッド作品に対する保護主義的な支援策を行ってます)
また、外国がどうこうとか無関係に、日本文化がツマらなくなる場合だってあり、
その結果として、例えば中国作品が、その穴埋めをする展開だって有り得ますよね?

> 人口の多い国に経済力でかなわないのと同様に、文化力でも人口こそが絶対正義です。
これに関しては、明らかに言い過ぎでしょうね。
確かに経済では、人口が多いほど有利なのは確かでしょうし、
文化に関しても、ある程度は有利になる面があるとは思います。
ですが、それだけで決まるほど、単純なモノとは無い気がするんですよね。

例えばこれを「国と人口」から「企業と資金力」に置き換えれば、解りやすいかも知れませんが、
資金に恵まれた大企業ほど、その業界を席巻する可能性が高いのは事実でしょうし、
それと同時に、そうした大企業がヒット商品が生むケースも多い事でしょう。
ですが、大企業だって経営を誤れば倒産する事だってありますし、
必ずヒット商品が作れるかと言えば、そんな簡単な話ではありません・・・・
逆に、小さな企業であっても、思わぬ大ヒット商品を生む事だってあります。
新たな文化の誕生というのは、非常に確率的なモノなので、
人口が多くなれば確率は上がるでしょうけど、それが「絶対正義」とまでは言えない筈なんです。

それに、単純な人数だけでなく、個々の質というのも大きく影響してきます。
文化というのは、大量生産して、どうにかなる分野では無いですからねえ。
それこそ、世界には数千万の人口を抱える大都市圏が幾つも存在しますけど、
1人1人は生活に伴う消費活動を行いますから、確かに経済面だと人口も大きいですが、
1人1人の娯楽に伴う消費活動を考えると、質の差が大きな差となって表れてきます。
別に娯楽文化というのは、生きていく上で必須の要素ではありませんので・・・・
そういう意味では、東京の住民と、マニラやダッカ、ラゴスの住民とでは、
生み出される文化の量も、消費される文化の量も、やはり違ってくるものです。
もちろん、マニラやダッカ、ラゴスにしたって、次第に豊かになっていけば、
それに比例していく感じで、文化の量というのも増えていくとは思いますがね。

> 任天堂やプレステが世界を席巻できたのは一時的な過渡期のことで、
> 正常な世界においては世界70億人の中のたった1億人に過ぎない日本人の文化が
> 世界を席巻するなんてありえないはずです。

たった1億2000万人って、日本の質の高さを考慮すると、世界的にもかなりの数ですよ。
それこそ今までの日本の強さって、「質の高い1億人市場」でしたから。
それに、人口こそが絶対正義であるなら、アメリカだって3億2000万人な訳で、
(平成初めは日本の2倍でしたが、平成30年間で8000万人増は途轍もないです!)
アメリカの影響力が日本の2.5倍程度なはずですけど、現実はそうじゃ無いでしょうし、
グローバル化やネット化がここまで進んだのに、なぜGAFAは全て米国企業なのでしょう?
世界人口比だと、アメリカ4.2%、日本1.5%ですけど、その程度の影響度では無いかと。

> かつて70年代くらいのイギリスでは英国病なんてことが盛んに議論されたらしいですが、
> あれも要は産業革命を他国が吸収した結果、
> 英国のあるべき位置(それは人口に決まる)が正常な位置に落ち着いたということでしょう?
> 別にイギリスの経済力が衰えたわけではないんです。

トップを走っていた者が、後続に追い付かれる事で、
先発の優位を失ってしまう事自体は、実際にある事ですし、
産業革命後のイギリスに関しても、そうした面があるのは事実です。
とは言え、「衰えた訳ではない」というのは、ちょっと違うでしょうね。
先発の優位というのは、道を切り開く為の投資と引き替えに得たモノであり、
その苦労が軽く済んだ後発組に追い付かれた際には、その部分が損失となりますし、
そして何より、他に先んじたからこそ、構造疲労もいち早く発生しますからねえ。
またイギリスの場合は、大戦による損害と、植民地の独立がありましたし、
それに何より、戦後の英国病というのは、社会主義的な政策の影響が大きかったので、
単純に、人口の適性規模に落ち着いた話だけでは無いと思います。
(もちろん、人口が経済力や市場規模を決める大きな要素ではある事は否定しませんけどね)

> で、これから中国で面白いゲームが生まれてくるならば我々は素直にそれを楽しめばよいと思うんですよね。
> 現在でもイラストレーターなんかは言語に関係なく活動できるので、
> 中国や韓国のイラストレーターがどんどん日本で活躍していますし、
> 逆に我々が中国のアニメを見ることも昔に比べてはるかに簡単になったと。
> そんな時代に無理に日本という中途半端な文化単位にこだわることはあまり意味がないと思うんですよね。

別に、国産じゃなきゃヤダなんて、そんな事はありませんよ(笑)。
私が1番好きなアニメ作品の「アレクサンダー戦記」にしたって、
ソウル生まれの韓国系アメリカ人であるピーター・チョンが、キャラクター・デザインを担当してますし、
私の歴史の基礎は、ぶっちゃけ、日本史ではなく中国史から作られています。
また、嫌韓でも無いので、素直に韓流の事は評価してますし、
北朝鮮の作品にしたって、「プルガサリ」は結構お気に入りですよ(笑)。
もっと言うと、科学の世界では、そんな国境とか関係ないですからね。

ですけど、そうしていろいろ楽しめるのも、あくまで日本文化という土台があってこそで、
それが無くても楽しめるにしても、その楽しめる充実度は、やはり違ってくると思います。
そういう意味では、アイデンティティなき「文化的植民地」だとキツいと思うんですよね。

> ただまあ結局は文化の豊かさというのをどこに基準を置くのかにもよると思います。
> 私は一応、他文化(多民族であったり他宗教であったり)にどれだけ影響力を与えられるかが
> その文化の豊かさを測る基準だと思っているのですが、それも結局は外側から勝手に言ってるだけですからね。
> たとえ歴史的には長く愛好されなかったり、ほかの文化圏には影響を与えなかったりした文化であろうとも、
> その文化圏の人たちが楽しければ、それをどうこう言うのはナンセンスなのかもしれません。

ここに関しては、完全同意しておきます!!
そして願わくば、私自身が、そんな文化大国の一員でありたいですし、
日本という国には、それだけのポテンシャルがあると信じてはいるんですよね。
だからこそ、現状が口惜しかったりする訳です・・・・
極端な話、私は学問&文化の至上主義者的な側面がありますから(笑)。

ちなみに、私たち日本人というのは、その地理と歴史の影響から、
極東の人間として、東洋の文化をそれなりに理解できる一方で、
極西の人間として、西洋の文化をそれなりに理解できる上、
島国の人間として、独自の文化も持ち合わせているんですよね。
つまりは、普通なら1つしか持ち得ない価値観を、3つも持てている訳で、
これは非常に恵まれていると言うか、日本人の武器になり得る特徴だと思うんです。
日本人の東洋理解も、西洋理解も、「それなり」ですけども、
西洋人は東洋を、東洋人は西洋を、根本的には理解できてませんから。
そういう意味では、日本人って、楽しめる文化のレンジが広いと言えますし、
翻って言うと、生み出せる文化の幅も広いと言えるのでは無いでしょうか?
言うなれば、多様だけど混ざらないニューヨークが「文化のサラダボウル」だとすれば、
ルーツが何処でも和風化してしまう東京は「文化の味噌汁」という感じで(笑)。


[23428] 現在のオタク文化事情返信 削除
2020/11/12 (木) 18:50:00 旧トルコ担当

文章を練っていたら返信遅れました。

話がだいぶ散らかって、混乱していますので、一度整理してみたいと思います。

で、徳翁導誉さんの主張の中心は以下のことだと思っています。

> 要するに、アナログ時代には無かった繋がりが、デジタル時代に生まれたなんて話は百も承知なんです。
> それこそ、それをリアルタイムで体感した世代なのですから。
> その一方で、アナログ時代にあった繋がりが、デジタル時代により消えてしまった面もあり、
> それらをデジタルの新たな繋がりが、代替し得るとは限らないと言う話なんです。
> ただし、私が主に言っているのは、そうした私よりも前の世代の話ではなく、
> アナログとデジタルの過渡期であった私自身の世代の世界の事を言っているんです。
> アナログの文化があり、デジタルの文化があるだけでなく、両方が融合した文化があり、
> 「そんな世界」とは、広く言うと、この3つの文化があった世界であり、
> 狭く言うと、アナログとデジタルが融合した文化があった世界の事ではあります。
> 前の世代のアナログ文化だけでなく、過渡期だからこそ有り得た徒花なのかも知れませんが、
> 融合した文化までが消えてしまい、ほとんどデジタル文化しか残っていないと。
> それでも、衰退した2つの文化を補って余りあるくらい、新文化が隆盛していれば別ですが、
> 経済的事情もあってか、穴埋めできている実感はしないのが、正直な所なんですよね。


で、まあここでは日本の経済事情や資本主義の置かれている状況については主題からずれるので置いておくとして、
確かにアナログ文化や、アナログ・デジタル融合文化は消滅しましたが、新しいデジタル文化はその分隆盛していると思うんですよね。
ですが、デジタル文化はアナログ文化に比べて圧倒的に見えずらいんです。
書籍にしても、リアルな書店であればどのような本が売れているのかは、実際にそのジャンルの本棚に行けば一目瞭然ですが、Amazonであればなかなか分かりません。
その上、デジタルの場合は仮に新しい文化が実際に数字などが見えたとしても、その背景がまた見えずらいわけです。

例えば前回出た百合ですが、これも量的拡大の中で起きている質的変化が十分に理解されていないと思います。

> マリみてが挙がるなら、まずはその前に「少女革命ウテナ」が来る気がしますし、
> 部分的には「セーラームーン」のウラヌスとネプチューンで、そうした要素が描かれており、
> 更にもっと言うと、既に実写映画の方で、1990年に「櫻の園」がありますよね?
> この映画自体も少女漫画原作ですし、特筆して新しい文化と言えるかとなると・・・・
> まあ、以前よりも更に一般化したと言えば、そうかも知れませんけど。
> 「ゆるゆり」もタイトル通りなら、日常系に緩く百合要素を加えた感じなのでしょうが、
> あまりに一般化しているのか、「百合要素なんて入ってるか?」って感じですし。


なぜそもそも「ウテナ」ではなく「マリみて」なのかといえば、男性オタクに百合が発見されて、新しい百合文化が誕生し始めたのが「マリみて」からだったからなんです。
もちろん、女性の間では24年組が描いてきた暗い百合の時代から百合は存在するのですが、あくまでそれは少女文化の中の小さいシーンに過ぎなかったと。
それが80年代末から90年代あたりで、まず男女雇用機会均等法(85年)などの影響もあって、女性にとって男性に選ばれることが至上価値でなくなります。
それが女同士の関係性を変化させるわけで、それが指摘にある「櫻の園」などですね。
で、その路線が拡大されていったのが90年代の「ウテナ」や「セーラームーン」などなのですが、ここまでは主に女性、特に少女文化の中での話なわけです。
で、これがオタク文化の中に輸出され始め、新しい形態をもって受容されるきっかけとなったのが、「マリみて」なわけです。

『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』より
「元々コバルト文庫内には一定数男性読者もおり、男性ファンがいること自体は珍しいわけではない。(中略)(注:マリみては)ファンの男女比が通常のコバルト作品とは異なっていた」
「『マリみて』はコバルト文庫の系譜にある伝統的な要素を受け継いだ作品である一方で、その需要のされ方は極めてイレギュラーな形で行われている。」

『百合ジャンルの歴史を考察してみた』より
…同性愛とは違う、しかし緊密で繊細な心の繋がりにも、「百合」の香りが存在するのだという事を探り当て、世間に示したのがこの「マリア様がみてる」でした。
親愛、憧憬を中心としつつ、読者にはもっと踏み込んだ関係を妄想させる、「ソフトな百合」と形容されたこの作品は、後の百合に絶大な影響を及ぼします。
極言すれば「マリみて」でレズから「百合」と呼ばれる概念が分化し、確立したと考えてもいいでしょう。

でこの背景にあるのは90年代後半から隆盛し、00年代前半に確立した萌えという概念です。
マリみてが隆盛した00年代前半にある種確立した萌えは、その後「らき☆すた」や「けいおん!」のような少女しか登場しない、男主人公不在の作品が人気になります。
でこの「らき☆すた」や「けいおん!」で作られた今までとは少し違う形の萌えが、マリみて以降、特に00年代後半から10年代にかけて百合を普及させていくわけです。
それは吉屋信子に始まり、24年組が描いたり、90年代を通して描かれてきた少女文化の中の女性同性愛とは大きく異なるものです。
(ちなみに女性の場合は萌えから百合に入ってくるパターンと、BLから百合に入ってくるパターンがあるそうです)

で、百合が分かりずらいのは、オタク内部で百合的に受容されている作品には、初めから百合として作られている作品と、百合としては作られていないのだけど、百合として受容されていえる作品があるわけです。
例えば今季アニメの「安達としまむら」という作品は初めから百合として作られている百合作品ですが、前回紹介した「東方Project」は百合として作られていないにもかかわらず、原作者の意図を超えて百合として受容されている作品です。
元々「東方Project」は昔のゲーセンによく合ったシューティングゲームで、ゲームに出てくるキャラクターもストーリーも本来おまけでしかないのですが、二次創作によって「マリみて」と同時期に百合を広く普及させました。
それは現在も同様で、おそらく百合として受容されている作品の半分は本来百合ではない作品だと思います。艦これやラブライブ、アイドルマスターやFGOとかがそうですね。
これらの作品は一見すると既存の萌え作品と変わらないわけですが、需要のされ方が大きく変わったわけですね。

こんな感じで、例えば百合というジャンルに関してもここ10年20年でかなりの質的変化があるのですが、ちょっと書店のマンガ・ラノベコーナーを覗いた程度では、現在の百合が、既存の少女文化内の同性愛作品と大きく異なることに気づかないわけです。
これが実態とは異なって現在新しい文化が隆盛していないと思われる原因なのだと思います。

もう一つ例を取り上げてみたいと思います。

> > スマホゲームに関してはゲーム性の弱さを文化の後退として否定的にとらえる論者も少なからずいますが、
> > 私としてはスマホゲームはSNSと合わさった現代のコミュニケーションゲームは
> > 一定の新しさと文化的価値を備えていると思うんですよね。

> ゲーム性に関して言えば、発言の真偽はともあれ、
> 「任天堂の倒し方」というのが、端的に言い表してる気はしますね。
> あとは、ガチャを含めた「課金」ですか。
> まあ別に、ビジネスとしては、それを否定する気はないですけど、
> それが文化を創造しているかと言えば、ちょっと私には思えないんですよね・・・・
> 逆に尋ねますと、一体どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょうか?


課金というのはスマホゲームの一部に過ぎません。
ビジネス側面に注目すればそこにどうして目が行きますが、そもそもユーザーに今まで無料で遊んでいたゲームに課金させたいと思わせなければならないわけで、それを作っているのはキャラクターの魅力です。
で、そのキャラクターの魅力を作っているのが、ここ10年で普及した中心の公式コンテンツと周辺の二次創作という構造だと思います。
例えば艦これですが、1キャラクターに対して公式(ゲーム側)で用意されているのは画像が2種、セリフが50種程度です。(人気キャラは後からセリフなどが追加されますが)
それが他の萌えキャラクターが出てくるゲームと比べて競争力を持てているのは、二次創作によってキャラクターの魅力が創作されていった点にあります。
特に艦これの場合はキャラクターが歴史という膨大なデータベースを持っていたため、二次創作という点で非常に有利でした。
もう一つ例を出せば、アイドルマスターというスマホゲームも、公式より二次創作が主体で人気が作られていってます。
アイドルマスターの場合、ニコニコ動画が開設された時期にコンテンツを拡大でき、また比較的初期の競争者が少ない段階でスマホゲームに進出したため、二次創作的な活動が活発になりました。
もともと二次創作なんて言うのはマンガが描ける一部の同人作家の文化に過ぎなかったわけですが、ニコニコ動画やネット小説という環境が整うに従い、
それまで絵の描けなかった人が動画や小説といった形で、新たな二次創作の形態を開拓することで二次創作の裾野が広がりました。
アイドルマスターの場合、キャラクターに声優がついていないキャラというのが存在し(つまり絵と字幕だけ)、課金でもらえる投票券で上位を獲得したキャラに声優がつくという選挙まで存在します。
そういったボイスなしのキャラクターでも人気が出るのは(そして選挙が盛り上がるのは)、二次創作でキャラクターの魅力が創造されるためなわけです。
ただこれも結局、ネットを用いて二次創作が作られるようになると、その二次創作の量も膨大となりますし、またキャラクターの解釈の幅も多様になってきますので、どんどん中心が見えなくなっていくんですよね。
つまり、外から見ると萌えキャラの出てくるゲームに信者が課金しているという部分しか見えてこないと。しかしその外側には(見えにくいですが)膨大かつ多様な文化圏が存在するわけです。

追記:刀剣乱舞とかもそうですね。あれがイケメンゲームとして需要する層と、BLとして受容する層を両方取り込めているのは、ゲーム自体よりもその周辺にコンテンツとしての魅力があるからなわけです。

結局例がオタク文化しか出てこないのでいまいち説得力に欠けますね。


オタクの変質について、まあだいたい宮崎事件からのオタク史に関しては自分で調べて出てきた結果と認識がほとんど一致していて安心しました。
その時代を知らない人間が後から調べると、どうしてもそれがあっているのか間違っているのかチェックができないので。
あと分からないのは、大塚英志や宮台真司あたりの言説や書籍はどんな感じで受け入れられたのでしょうか?
私が読んだ感じでは二人ともオタク文化を語っているという割には扱う範囲が限定的過ぎて、この二人の言うことはぶっちゃけあてにならないなぁと思っているのですが、実際にはどんな感じだったのでしょう?
あと秋葉原の通り魔事件って「オタク的に」大きかったのでしょうか?
大きな事件ではあったのだと思いますし、秋葉原にとっては大きかったのかもしれませんが、オタクという範囲で見たときには正直どうでもよいような気もするのですが。


[23445] 現在のオタク文化事情(追記)返信 削除
2020/12/8 (火) 14:52:27 旧トルコ担当


現在のスマホゲームの雰囲気について説明している記事を思い出したので、リンク張っておきます。
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200408a

あと鬼滅が千と千尋を追い越して日本映画歴代1位になるのが時間の問題になっていますが、ここまで鬼滅が流行ったのはSNS時代だからだと思います。
ゲームでも「集まれどうぶつの森」とか、「Fall Guys」とか、今だと「イナサクヒメ」ですが、定期的にSNSで大流行が起こっては、YouTuberなどが実況動画を作り、短期間に消費されるというループが繰り返されています。鬼滅もそういった感じでバズッたのでしょう。
私が前に言った無限にグローバルの側がこれですね。
で、こういったネットの流行もあと最長で5年もすれば、世界的な流行に飲まれていくと思います。
既に「スマッシュブラザーズ」なんかが発売された時は、一瞬世界的に流行した後、急激に世界中で話題にならなくなりましたからね。

(備忘録:スプラトゥーン、荒野行動、ポケモンGO)


[23493] 百合文化史の話&秋葉原通り魔事件の影響返信 削除
2021/2/23 (火) 21:31:03 徳翁導誉

遅くなってしまい、申し訳ありません。
ようやく、返信できました(笑)。


▼ 話のテーマに関して
> 話がだいぶ散らかって、混乱していますので、一度整理してみたいと思います。
> で、徳翁導誉さんの主張の中心は以下のことだと思っています。
> > 要するに、アナログ時代には無かった繋がりが、デジタル時代に生まれたなんて話は百も承知なんです。
> > それこそ、それをリアルタイムで体感した世代なのですから。
> > その一方で、アナログ時代にあった繋がりが、デジタル時代により消えてしまった面もあり、
> > それらをデジタルの新たな繋がりが、代替し得るとは限らないと言う話なんです。
> > ただし、私が主に言っているのは、そうした私よりも前の世代の話ではなく、
> > アナログとデジタルの過渡期であった私自身の世代の世界の事を言っているんです。
> > アナログの文化があり、デジタルの文化があるだけでなく、両方が融合した文化があり、
> > 「そんな世界」とは、広く言うと、この3つの文化があった世界であり、
> > 狭く言うと、アナログとデジタルが融合した文化があった世界の事ではあります。
> > 前の世代のアナログ文化だけでなく、過渡期だからこそ有り得た徒花なのかも知れませんが、
> > 融合した文化までが消えてしまい、ほとんどデジタル文化しか残っていないと。
> > それでも、衰退した2つの文化を補って余りあるくらい、新文化が隆盛していれば別ですが、
> > 経済的事情もあってか、穴埋めできている実感はしないのが、正直な所なんですよね。

> で、まあここでは日本の経済事情や資本主義の置かれている状況については主題からずれるので置いておくとして、

いやいや、そこは根本原因なので、そこを置いてしまうと、
結果として表面化したモノのみを語る事になっちゃいますよ!?
と言いますか、そもそも「ビジネス化とお客様化」の話から始まったのでは?
まあ、旧トルコ担当さんが、そちらの話題が良いのでしたら、別に私は構いませんが。

で、その場合に私が何より言いたかったのは「場の喪失」なんです。
ただしコチラの話も、ここまで説明して上手く伝わってない所を見ると、
これ以上に言葉を労しても、進展は無いのかも知れません・・・・
ただであえ、「有ったモノが無くなった」感覚を、
「初めから無かった」世界しか知らない方に伝えるのは、ただでさえ難しいのに、
「いやいや、今でも有るよ」という前提で捉えられてる気がするんです。

そして結局の所、この後の「新しい文化」という話にも繋がるのですが、
それを指す言葉の定義というか、サイズ感が、あまりに異なり過ぎていて、
まずはそこを認識してもらえないと、上手く会話として成立しないと思いますし、
何でしたら、私の方が旧トルコ担当さんの話題に合わせちゃう方が早いのかも知れません。


▼ 百合文化の話
> 例えば前回出た百合ですが、これも量的拡大の中で起きている質的変化が十分に理解されていないと思います。
> > マリみてが挙がるなら、まずはその前に「少女革命ウテナ」が来る気がしますし、
> > 部分的には「セーラームーン」のウラヌスとネプチューンで、そうした要素が描かれており、
> > 更にもっと言うと、既に実写映画の方で、1990年に「櫻の園」がありますよね?
> > この映画自体も少女漫画原作ですし、特筆して新しい文化と言えるかとなると・・・・
> > まあ、以前よりも更に一般化したと言えば、そうかも知れませんけど。
> > 「ゆるゆり」もタイトル通りなら、日常系に緩く百合要素を加えた感じなのでしょうが、
> > あまりに一般化しているのか、「百合要素なんて入ってるか?」って感じですし。

> なぜそもそも「ウテナ」ではなく「マリみて」なのかといえば、
> 男性オタクに百合が発見されて、新しい百合文化が誕生し始めたのが「マリみて」からだったからなんです。
> もちろん、女性の間では24年組が描いてきた暗い百合の時代から百合は存在するのですが、
> あくまでそれは少女文化の中の小さいシーンに過ぎなかったと。
> それが80年代末から90年代あたりで、まず男女雇用機会均等法(85年)などの影響もあって、
> 女性にとって男性に選ばれることが至上価値でなくなります。
> それが女同士の関係性を変化させるわけで、それが指摘にある「櫻の園」などですね。
> で、その路線が拡大されていったのが90年代の「ウテナ」や「セーラームーン」などなのですが、
> ここまでは主に女性、特に少女文化の中での話なわけです。
> で、これがオタク文化の中に輸出され始め、
> 新しい形態をもって受容されるきっかけとなったのが、「マリみて」なわけです。

いや〜、その認識はちょっと間違ってると思いますよ。
特にセーラームーンの存在に関しては、軽視しすぎてる気がします。
確かにセーラームーン自体は、女の子向けの作品であるのは確かです。
ですが一方で、いわゆる「大きなお友達」を引き込んだのは、
間違いなくセーラームーンであり、その後に続く「カードキャプターさくら」でした。
もちろん、それ以前から「ミンキーモモ」や「クリィミーマミ」など、
密かに愛好されていたのは確かですけど、転換点としては、やはりセーラームーンですね。

そもそも、従来からあった「魔法少女モノ」に、「戦隊モノ」の枠組みを持ち込んだ事で、
本来の客層である女の子にとっても革命的だっただけでなく、
元々、戦隊モノが由来である大きなお友達にも慣れ親しんだ構造であり、
更にそこへ「萌え」のサターンと、「百合」のネプチューン&ウラヌスが加わって、
この作品がファースト・インパクトとなるオタクたちを、大量に生み出しました。
もちろん、マリみてはマリみてで、百合アニメ史的には大きな作品ですけど、
やはり、その大前提として、セーラームーンという作品の存在があるんです。
また、そうしたセーラームーンでの成功を踏まえた上で、
幾原監督が今度は狙った上で作ったのがウテナだと思いますし、
確かに、マリみてとは世界観の違いがあるかも知れませんけども、
やはり百合アニメ史的として語り始めるのであれば、コチラからだと思いますよ。

それに、「百合アニメ」と限定せず、「百合文化」として捉えた場合、
それこそ前述の櫻の園があり、更には戦前女学校の「エス(Sisterの略)」文化がある訳で、
アニメしか見ない視聴者にとっては目新しくても、映画や小説に触れてる層からすると・・・・
前者はサブカルであり、後者はメイン・カルチャーであるという関係もありますし、
守備範囲の広かった従来のオタク文化からすれば、そこまで大きくは捉えられませんよね。
繰り返しますけど、作品自体の出来や人気は私も認めますけど、それとは別次元の話として。

あと、男女雇用機会均等法とかの話ですけど・・・・
恐らくは何処かからの引用なのでしょうが、ちょっと冷静になって考えてみて下さい。
法律が人々の価値観を変え、それが映画に反映されてって、本当にそんな事あると思います?
例えば社会学者とかが、詳しくない人を納得させる、それっぽいストーリーとしては、
何だか説得力ある論調に映りそうでうが、逆に多少なりとも知識がある相手だと、
却って、胡散臭いヤツだと見られかねないかと思いますよ(しかも断定口調でし)。
あの法律って、女性の残業・休日出勤・深夜労働などの解禁が主でしたが、
それが実際、どのように「櫻の園」という作品に繋がるのでしょうか?
「ウイルスという見えない敵と戦っている昨今だから、
 鬼を祓う鬼滅や、悪霊を祓う呪術廻戦が流行っている」
なんて言説も、以前何かで見ましたけど、
詳しくない人なら納得できても、アニメ好きからしたら「はぁ?」でしょ。

> 『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』より
> 「元々コバルト文庫内には一定数男性読者もおり、男性ファンがいること自体は珍しいわけではない。
> (中略)(注:マリみては)ファンの男女比が通常のコバルト作品とは異なっていた」
> 「『マリみて』はコバルト文庫の系譜にある伝統的な要素を受け継いだ作品である一方で、
> その需要のされ方は極めてイレギュラーな形で行われている。」

えっ、「コバルト文庫で辿る」のでしたら、それはそうでしょうけど、
別に今は、コバルト文庫限定で話してる訳じゃないですよねえ?
根拠として引用するには、ちょっと弱いと思いますよ。

> 『百合ジャンルの歴史を考察してみた』より
> …同性愛とは違う、しかし緊密で繊細な心の繋がりにも、「百合」の香りが存在するのだという事を探り当て、
> 世間に示したのがこの「マリア様がみてる」でした。
> 親愛、憧憬を中心としつつ、読者にはもっと踏み込んだ関係を妄想させる、
> 「ソフトな百合」と形容されたこの作品は、後の百合に絶大な影響を及ぼします。
> 極言すれば「マリみて」でレズから「百合」と呼ばれる概念が分化し、確立したと考えてもいいでしょう。

検索してみた所は、これは・・・同人誌なのかな?
https://booth.pm/ja/items/721102
って、一文目からセーラームーンって書かれてるようですが(笑)。

 セーラーウラヌス&セーラーネプチューンから、ラヴィニア・ウェイトリーまで。
 多くの百合ファンや二次創作を産んだ作品を「百合ジャンル」と名付け、
 その歴史をまとめて考察した本です。

とりあえず、内容的にはコチラ↓と、ほぼ同じって認識で良いのかな。
https://togetter.com/li/1176970

> で、百合が分かりずらいのは、オタク内部で百合的に受容されている作品には、
> 初めから百合として作られている作品と、
> 百合としては作られていないのだけど、百合として受容されていえる作品があるわけです。
> 例えば今季アニメの「安達としまむら」という作品は初めから百合として作られている百合作品ですが、
> 前回紹介した「東方Project」は百合として作られていないにもかかわらず、
> 原作者の意図を超えて百合として受容されている作品です。
>  (中略)
> これらの作品は一見すると既存の萌え作品と変わらないわけですが、需要のされ方が大きく変わったわけですね。
> こんな感じで、例えば百合というジャンルに関してもここ10年20年でかなりの質的変化があるのですが、
> ちょっと書店のマンガ・ラノベコーナーを覗いた程度では、
> 現在の百合が、既存の少女文化内の同性愛作品と大きく異なることに気づかないわけです。
> これが実態とは異なって現在新しい文化が隆盛していないと思われる原因なのだと思います。

「十分に理解されていない」との想定ですが、恐らくそこから既に大きくズレちゃってますね(笑)。
正直言って、上記レベルの話は把握した上での前回の返信でした。
と言いますか、あの流れでわざわざ「ゆるゆり」について触れてる時点で、
もうちょっと正確に想定されてても良かった気が・・・・
「男性キャラの不在化」と「視聴者・読者の傍観者化」いう流れの中で、
元々は別のジャンルだった「萌え系・百合系・日常系」などが、次第に結び付いていき、
女の子たちがキャッキャウフフするジャンルを、総じて「百合」と呼ぶようになったのは、
本来的な百合要素は薄いのに、自ら作品名で名乗った「ゆるゆり」がキッカケでしょうからね。
言い換えれば、この辺りから「百合」の意味が広くなり過ぎ、収拾が付かなくなった気はします。
妄想カップリングとかではなく、そのまま深い結び付きの女友達まで含むようになり、
「ごちうさ」や「きんモザ」まで、百合アニメの代表作と捉えられるようになった現状、
昔の「エースをねらえ」さえ、今の定義なら百合に含まれるかと(ひねた見方ではなく)。

う〜ん、あとは何か別の分野でも、例えた方が伝わりやすいのかなぁ?
私からすると、昨今の「タピオカ・ブーム」を見ている感じでしょうか。
これが初体験という若者層からすると、これは「新しい文化」に映るかも知れませんが、
90年代や00年代を知っている世代からすると、今回のは第3次ブームですし、
過去2回との違いを強調されても、「新しい文化」と呼ぶには厳しいと感じるんですよね。
もちろん、文化は文化ですし、新しい要素もあるのですが、それが小さいと。
イタリアや韓国の料理が入ってきたり、特別な食べ物だった寿司が一般化されたりと、
そうした大きな変化を体験していると、ちょっと比べるまでも無いと思えちゃうんです。
まあ私の場合、歴史好きという側面もあるので、長い目で見過ぎちゃいますし・・・・

って、だからと言って、昔が凄くて、今がダメなんていう、
懐古主義に陥っている訳ではありませんよ。
私はスポーツも好きなので、その競技を開拓した過去の選手たちに敬意は表しますが、
記録的に見ても、技術的に見ても、現在の方が高いのが現実ですからね。
ですが、その一方で、昔はレベルが低かったとも言いません。
それは時代の積み重ねの上に、今という時代があるというだけの話であり、
しかも、時代に関係なく、やはり超一流の選手は凄いモノですからねえ。
「呪術廻戦」だろうと、「BLEACH」だろうと、「幽遊白書」だろうと、
先行作品には先行作品の長所と短所があり、後続作品には後続作品の長所と短所があるだけで、
どの作品も素晴らしい作品でしょうし、どの作品が一番好きは個々人の好み次第です。

ですが、こと「新しさ」という事になると、やはり時代性が大きく関わってきます。
手塚作品に劣らぬ作品は、それこそ数多く存在するでしょうけど、
日本の漫画・アニメ界を切り開いたのは、やはり手塚治虫ですから、
文化としての新しさで言うと、どうしたって後続のクリエーターは敵わないんです。
それと同じ様な話で、TVゲームの普及や、ネットの普及などを経験している以上、
百合アニメの変化というのが、そのインパクトと同レベルかとなると・・・・
いや別に、変化が無いと言っている訳でも、作品的にダメだと言っている訳でも無く、
私が思い浮かべる所の「新しい文化」と呼ぶには、不十分だというだけの話ですね。
アニメに関して言えば、子供向けではない深夜アニメの登場とか覚えていると、
その辺りは新しい文化と言うよりも、傾向とか新要素くらいの言葉が適当な気がします。

文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。


▼ 昨今のスマホゲーム事情
> もう一つ例を取り上げてみたいと思います。
> > > スマホゲームに関してはゲーム性の弱さを文化の後退として否定的にとらえる論者も少なからずいますが、
> > > 私としてはスマホゲームはSNSと合わさった現代のコミュニケーションゲームは
> > > 一定の新しさと文化的価値を備えていると思うんですよね。

> > ゲーム性に関して言えば、発言の真偽はともあれ、
> > 「任天堂の倒し方」というのが、端的に言い表してる気はしますね。
> > あとは、ガチャを含めた「課金」ですか。
> > まあ別に、ビジネスとしては、それを否定する気はないですけど、
> > それが文化を創造しているかと言えば、ちょっと私には思えないんですよね・・・・
> > 逆に尋ねますと、一体どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょうか?

> 課金というのはスマホゲームの一部に過ぎません。
> ビジネス側面に注目すればそこにどうして目が行きますが、
> そもそもユーザーに今まで無料で遊んでいたゲームに課金させたいと思わせなければならないわけで、
> それを作っているのはキャラクターの魅力です。
> で、そのキャラクターの魅力を作っているのが、
> ここ10年で普及した中心の公式コンテンツと周辺の二次創作という構造だと思います。

え〜と、課金面以外のスマホゲームの文化性を語ると言いつつ、
結局は2次創作の話になっちゃってませんか?(笑)
私も昔はニコニコ動画に投稿していましたから、
艦これ辺りは微妙でも、東方やアイマスの2次創作はガッツリ知ってますよ。
(ニコニコ動画がここまで落ちぶれてしまったのは、個人的にも寂しい限り)
で、スマホゲーにも2次創作があるというのが、どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょ?
既に確立されてる2次創作という文化を組み込んで、そこに何か新しい価値が生まれているんですか?

> 現在のスマホゲームの雰囲気について説明している記事を思い出したので、リンク張っておきます。
> https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200408a

情報、ありがとうございます。
シナリオ制作の環境に、変化が生じているんですね。
ただ、シナリオの魅力というのが、そこまで大きく評価できるかとなると、
正直な所、未だに腑に落ちない感じではあります・・・・
そこまでシナリオが素晴らしいのであれば、課金が無くても成立しそうですが、
仮定の話になりますけど、コンテンツとしての出来だけで本当に惹き付けられると思います?
例えば、35年くらい前に流行った「ビックリマン・シール」なども、
シールの裏に書かれたストーリーを紡ぐ事で、大きな世界観を味わう仕組みがありましたけど、
だからと言って実際、シール収集のコレクション要素よりも、
そちらのゲーム・シナリオの方を深く覚えてる人って、果たして多いのでしょうか?
結局は、「課金させる為の味付け」という認識を、これでは脱する事が出来ませんでした。


▼ オタク文化史論の話
> オタクの変質について、まあだいたい宮崎事件からのオタク史に関しては
> 自分で調べて出てきた結果と認識がほとんど一致していて安心しました。
> その時代を知らない人間が後から調べると、
> どうしてもそれがあっているのか間違っているのかチェックができないので。

まあ、大きなモノの流れというのは、後から追っても、そこまで大きくはズレないかと。
当時の人に聞かないと解らない部分というのは、そういった大枠よりも、
その時の「空気感」とか、大枠では語られにくい「流行」とかの部分ですかねえ?

例えばサブカル史的に言うと、わずか1年半の放送でしたが、
フジテレビ「ウゴウゴルーガ」の人気ぶりや影響の大きさとかは、
当時を知る世代には当然でも、それを知らない世代には大して伝わってない気がしますし、
もっと大きく、社会史的に言うと、オウム真理教や麻原彰晃に対するイメージとかも、
今から見れば不謹慎な当時の空気感は、意図的に消されたり、書き換えたりされているので、
キチンと当時の情報に触れない限り、なかなか把握できない現状かと思われます。

> あと分からないのは、大塚英志や宮台真司あたりの言説や書籍はどんな感じで受け入れられたのでしょうか?
> 私が読んだ感じでは二人ともオタク文化を語っているという割には扱う範囲が限定的過ぎて、
> この二人の言うことはぶっちゃけあてにならないなぁと思っているのですが、実際にはどんな感じだったのでしょう?

宮台真司は何とくイメージがありますけど、大塚英志はちょっと解らないなぁ・・・・
って、宮台の方も別に詳しく知っている訳では無いのですが、
少なくとも、あの人自身はオタクなんですか?
個人的な認識では、あくまでも「社会学者」として、現状のオタク文化を研究しているだけで、
ターゲットとする客層は、彼と同年代である50〜60代のオジサンがメインでしょうから、
それを踏まえた上で、社会学者としての論説的に「違うなぁ」と感じているのか、
はたまた、単に若い世代のオタク層として「違うなぁ」と感じているとのでは、
話が大きく変わってくると思うのですが、一体どちらなのでしょう?
もし後者の話でしたら、同じ対象物であっても、それぞれ異なる立場や視点から見ているので、
その見え方が大きく異なっていたとしても、それはそれで当然とは言えるかと思います。

ちなみに、例えば、ここで挙げた両名に関して、
「違うなぁ」と感じさせた書籍とかは、実際にどんなモノがあるのでしょうか?
正直、私自身は両名に関して詳しく知らないので、具体的な著書名をいくつか挙げてもらえると、
それを読む事で、私の方からも、もっと詳しい返信が行えるかと思えます。


▼ 秋葉原通り魔事件の影響
> あと秋葉原の通り魔事件って「オタク的に」大きかったのでしょうか?
> 大きな事件ではあったのだと思いますし、秋葉原にとっては大きかったのかもしれませんが、
> オタクという範囲で見たときには正直どうでもよいような気もするのですが。

秋葉原で通り魔事件が発生したのが2008年。
麻生政権による児童ポルノ法の改正案が同じく2008年で、
石原都政による青少年健全育成条例の改正が2010年でしたか。
あの事件1つが、大きく時代を動かしたという事はありませんけど、
時代変化のスピードを加速させたという意味では、影響が無かった訳ではありません。
では何が変わったかというと、一言で言えば、アニメや漫画の「健全化」ですね。

元々、日本のサブカルというのは、エロ・グロの要素を含んでいたのですが、
90年代後半に拡大した深夜アニメは、その放送時間帯もあって、エロ要素が強く、
普通の作品でも不必要にパンチラがあったり、エロゲ原作の作品も珍しくなかったり、
パンツ・アニメと言っても良い、ド直球な作品も多かったんですよね。
そうなれば当然、コスプレイヤーの衣装も性的に過剰な露出へと進み、
秋葉原の地元住民が眉を顰めるほど、歩行者天国が無法化していたりもしました。
それと同時に、2005年のドラマ「電車男」の放送を境に、オタク以外の人たちも入ってきて、
秋葉原が観光地化され、オタク文化が一般的にも広まり、海外輸出の面で注目され始めると、
こうした従来のエロ・グロ要素というのは、排斥の対象となり始めます。
オタク側の視点からすると、世間から蔑まれつつも、今まで育んできたサブカルの文化が、
カネの匂いを漂わせ始めた途端、政治や経済が乗り込んできて、健全化を唱え始め、
そして、それを一気に進める格好の大義名分となったのが、この「通り魔事件」でした!!

そもそもは、不良たちがオタクを恐喝する意味だった「オタク狩り」という言葉が、
警察官がオタクに職務質問を行い、点数稼ぎに連行する意味合いに変わったのも、
ちょうど、この事件が転換点だったと言って良いと思います。
気弱なオタクという存在は、不良にも、警察官にも、格好のターゲットだったと(苦笑)。
石原都政の東京浄化政策により、警察官も過剰なノルマが課せられ、
事件以前からあった事はあるのですが、人権も絡むので派手には行えなかったものが、
あの事件を契機に大義名分を得て、大手を振って行われるようになりました。
まあ、「もののけ姫」で喩えますと(笑)、
シシ神が討たれる前と後で、同じ森でも様相が一変してしまったように、
あの通り魔事件の前と後で、オタク文化が健全化されたって感じかも?
人を寄せ付けぬ森が、人の手により管理されるようになったように、
オタク文化も資本や権力に管理され、「サブカル」という呼称も合わなくなったかな。

考えてみると、アニオタとネトウヨの親和性が高まったのも、丁度この頃かも知れません。
それまでは「サブカル」と言うくらいなので、反体制と言うか、非権力な文化背景があり、
クリエーター層まで行くと、明確に左寄りな人が多かった印象があるのですが、
この健全化の中、表現規制に反対する声と、「石原閣下!麻生閣下!」という声に2分され、
(規制反対派は必ずしも、パンツ・アニメに肯定的だった訳ではありませんでした)
そして、健全化と経済化、右傾化や政治家の波に飲み込まれていった感じでしょうか・・・・
もちろん、全てが全てそうなったという意味ではなく、全体の傾向としての話ではありますが。
ちなみに、百合や萌えというのも、直接的なエロ表現が制限された為に、
発展した1つの表現手段かも知れません(日本のAVや風俗が独自進化したのと同じ要領で・笑)。


▼ 鬼滅ブームの話
> あと鬼滅が千と千尋を追い越して日本映画歴代1位になるのが時間の問題になっていますが、
> ここまで鬼滅が流行ったのはSNS時代だからだと思います。
> ゲームでも「集まれどうぶつの森」とか、「Fall Guys」とか、
> 今だと「イナサクヒメ」ですが、定期的にSNSで大流行が起こっては、
> YouTuberなどが実況動画を作り、短期間に消費されるというループが繰り返されています。
> 鬼滅もそういった感じでバズッたのでしょう。

う〜ん、何なんでしょうかねぇ?
この「ズレてるなぁ」と感じさせる、違和感の正体は・・・・
ぶっちゃけた話、最近テレビとか視聴されてますか?

もちろん今の時代、SNSを始めとしたネットでの口コミが、
大きな流行の波を生むのは、一面では事実ですけど、
逆に言えば、そうした要素があるのは既に大前提な世界な訳で、
今回の鬼滅ブームという社会現象は、そのレベルで収まる話じゃないんですよね。
そうした現状は、アニメとかに詳しくないオジさん・オバさん層でさえ、
ニュース番組やワイドショーなどを介して、結構把握されてると思うのですが、
ネット頼りだと情報は溢れてるものの、気を付けないと却って視野が狭くなる事もある為、
何だか旧トルコ担当さんが、そこに陥っちゃってる印象を受けるんですよね。

女性ファン層とか、SNSによる人気拡大とか、決して間違っている訳では無いのですが、
それは今で言うと、「呪術廻戦」に見られるような人気の分析であって、
社会現象になった鬼滅ブームの担い手は、やはり小学生なんですよ。
子供たちに人気となり、それが子供たちの間に留まらず、家庭内でも広がる事で、
親世代や祖父母世代にまで拡大した為、これだけの大きな現象になっている訳です。
実際、人気が爆発した程には、Twitterでの呟き件数増えていないのも、
基本的に小学生は、SNSを利用してないですからね(要するにリアルな口コミがメイン)。

で、ここまで爆発的なヒットになった原因は、
新型コロナによる外出自粛が、大きく影響していたのは事実なのですが、
その前提として、コロナ禍以前より、小学生の間で鬼滅人気はジワジワと広がっており、
それが「何故か?」というのが、私の理解できていない部分であると。
鬼滅人気の第1波はアニメ終盤の頃で、その頃の人気を支えたのは、
若者層であり、女性ファン層であり、SNSがそれを支えたのも確かなのですが、
そこから小学生へと人気が波及して、第2波が発生した流れが掴めてないんですよね。
若者層がお兄ちゃんでとか、女性ファン層がお母さんでとか、そういった流れだとしても、
それでは何故、他のアニメでは同様の事が起こらないのか?の説明が付きませんし。


[23502] Re:百合文化史の話&秋葉原通り魔事件の影響返信 削除
2021/2/26 (金) 14:47:09 旧トルコ担当


久しぶりの返信とても面白かったです。
やはりこう、年上の方と話すのは浅はかな知識がバレそうになったりして怖くはありますが、自分には無い視点が得られてとても刺激的です。

▼ 「場の喪失」とお客様化について

> > で、まあここでは日本の経済事情や資本主義の置かれている状況については主題からずれるので置いておくとして、
> いやいや、そこは根本原因なので、そこを置いてしまうと、
> 結果として表面化したモノのみを語る事になっちゃいますよ!?
> と言いますか、そもそも「ビジネス化とお客様化」の話から始まったのでは?
> まあ、旧トルコ担当さんが、そちらの話題が良いのでしたら、別に私は構いませんが。
>
> で、その場合に私が何より言いたかったのは「場の喪失」なんです。
> ただしコチラの話も、ここまで説明して上手く伝わってない所を見ると、
> これ以上に言葉を労しても、進展は無いのかも知れません・・・・
> ただであえ、「有ったモノが無くなった」感覚を、
> 「初めから無かった」世界しか知らない方に伝えるのは、ただでさえ難しいのに、
> 「いやいや、今でも有るよ」という前提で捉えられてる気がするんです。
>
> そして結局の所、この後の「新しい文化」という話にも繋がるのですが、
> それを指す言葉の定義というか、サイズ感が、あまりに異なり過ぎていて、
> まずはそこを認識してもらえないと、上手く会話として成立しないと思いますし、
> 何でしたら、私の方が旧トルコ担当さんの話題に合わせちゃう方が早いのかも知れません。


多分としか言えませんが、私は「初めから無かった」世界しか知らないので、管理人さんの言う「場の喪失」というのは理解できていないと思います。
で、その私でもかろうじてコレじゃないかな、と思えるのがプラモデルなので、よろしければプラモデルを例に説明してもらえないでしょうか?
私の雑な認識だと、昭和の時代には町のプラモデル屋さんというものが存在して、そこは単にプラモデルを売買するだけの場所ではなく、プラモデルのファン(おたく)が集まるコミュニティだったと。
それが(90年代くらいからでしょうか?)、町のプラモデル屋さんは徐々に衰退していってビックカメラみたいな店舗でプラモデルが売り買いされるようになった。
もちろん、今でもビックカメラなりAmazonなりでプラモデルを買おうと思えば買えるのですが、プラモデルの「場」であった町のプラモデル屋さんは消滅し、お客様だけが残った。
「場の喪失」というのはこんな感じなのでしょうか?
私としては町のプラモデル屋さんをほとんど知らない人間なので(それでも小学生の時に親と車に乗ってプラモデル屋さんに通っていた経験はあります)、いやプラモデルファンのコミュニティならSNSでプラモデルファン同士交流すればいいし、別にプラモデルファンの集う町のプラモデル屋がなくなっても「場」はあるじゃん。と思うのですが。どうでしょう?
これ以外だと私の知っている範囲では、ゲームセンターなんかも「場」だったのでしょうか?
80・90年代にはSTGファンがスコアを競ったり、格ゲーファンが対戦をしたりでにぎわっていたそうですが、これも(90年代後半くらいからかな?)衰退を通り越して消滅しかかっています。
ただこっちは本格的に行ったことがないので、具体例で説明されても理解できるかどうか自信がないです。

▼ 文化について

> ですが、こと「新しさ」という事になると、やはり時代性が大きく関わってきます。
> 手塚作品に劣らぬ作品は、それこそ数多く存在するでしょうけど、
> 日本の漫画・アニメ界を切り開いたのは、やはり手塚治虫ですから、
> 文化としての新しさで言うと、どうしたって後続のクリエーターは敵わないんです。
> それと同じ様な話で、TVゲームの普及や、ネットの普及などを経験している以上、
> 百合アニメの変化というのが、そのインパクトと同レベルかとなると・・・・
> いや別に、変化が無いと言っている訳でも、作品的にダメだと言っている訳でも無く、
> 私が思い浮かべる所の「新しい文化」と呼ぶには、不十分だというだけの話ですね。
> アニメに関して言えば、子供向けではない深夜アニメの登場とか覚えていると、
> その辺りは新しい文化と言うよりも、傾向とか新要素くらいの言葉が適当な気がします。
>
> 文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
> キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
> そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
> 例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
> 文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。


申し訳ありませんが、この辺の規模感については正直よくわかりません。
多分管理人さんは私よりもより高い位置から色々な現象を見渡せているのだと思いますが、私自身まだまだ勉強不足なので、科学技術の発展や社会形態みたいなより具体的なものならばまだわかるんですが、文化とは何か?(傾向やブームとは何が違うのか)みたいな抽象性の高い話には全くついていけないんですよね。
投げやりに返信しているとかではなく、本当にその視点から言われるとどうしようもないんですよね。

なんとなく、文化が発展するのは貧しさが背景にあるような気はしています。
例えば日本は島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展したわけですが、これはつまり魚以外の食材(例えば肉なんか)が手に入りにくかったからこそ色々な魚の食べ方が発展したわけで、これが最初から現代みたく肉でも魚でも菓子でも保存し放題であれば、ここまで魚の食べ方が発展しなかったと思うんですよね。

▼ 百合について

その上で(文化が分からないと言った上で)百合について言えば、もちろんセーラームーンも転換点ではありますが、同程度にマリみても転換点だと思います。
管理人さんが「ゆるゆり」や「ごちうさ」、「きんモザ」等の作品が挙げられている辺り、もしかしたらアイマスやラブライブ、艦これ等の流れが目に入ってないような気がするのですが、どうでしょう?(気づいていればすみません)
もちろんオタクの世界に初めて百合を持ち込んだのはセーラームーンなんですが、やはりマリみて以降の流れがなければ、今でも百合は大きいお友達と、きらら系・難民系の範囲に限定されていたと思います。

▼ 宮台真司と大塚英志について

> 宮台真司は何とくイメージがありますけど、大塚英志はちょっと解らないなぁ・・・・
> って、宮台の方も別に詳しく知っている訳では無いのですが、
> 少なくとも、あの人自身はオタクなんですか?
> 個人的な認識では、あくまでも「社会学者」として、現状のオタク文化を研究しているだけで、
> ターゲットとする客層は、彼と同年代である50〜60代のオジサンがメインでしょうから、
> それを踏まえた上で、社会学者としての論説的に「違うなぁ」と感じているのか、
> はたまた、単に若い世代のオタク層として「違うなぁ」と感じているとのでは、
> 話が大きく変わってくると思うのですが、一体どちらなのでしょう?
> もし後者の話でしたら、同じ対象物であっても、それぞれ異なる立場や視点から見ているので、
> その見え方が大きく異なっていたとしても、それはそれで当然とは言えるかと思います。


後者の単に若い世代のオタク層として「違うなぁ」と感じている、というだけなのでまあ言われてみれば当然ですよね。
オタクという主語が大きすぎるのが問題なのでしょうが、まあその辺はマーケティング上オタク第1世代は〜みたいなことにならないのも理解できます。

> ちなみに、例えば、ここで挙げた両名に関して、
> 「違うなぁ」と感じさせた書籍とかは、実際にどんなモノがあるのでしょうか?
> 正直、私自身は両名に関して詳しく知らないので、具体的な著書名をいくつか挙げてもらえると、
> それを読む事で、私の方からも、もっと詳しい返信が行えるかと思えます。


いやいや、私自身もきっちり読んだわけではないので、そこまでされなくても結構ですよ。

▼ 秋葉原通り魔事件の影響

> 秋葉原で通り魔事件が発生したのが2008年。
> 麻生政権による児童ポルノ法の改正案が同じく2008年で、
> 石原都政による青少年健全育成条例の改正が2010年でしたか。
> あの事件1つが、大きく時代を動かしたという事はありませんけど、
> 時代変化のスピードを加速させたという意味では、影響が無かった訳ではありません。
> では何が変わったかというと、一言で言えば、アニメや漫画の「健全化」ですね。
>
> 元々、日本のサブカルというのは、エロ・グロの要素を含んでいたのですが、
> 90年代後半に拡大した深夜アニメは、その放送時間帯もあって、エロ要素が強く、
> 普通の作品でも不必要にパンチラがあったり、エロゲ原作の作品も珍しくなかったり、
> パンツ・アニメと言っても良い、ド直球な作品も多かったんですよね。
> そうなれば当然、コスプレイヤーの衣装も性的に過剰な露出へと進み、
> 秋葉原の地元住民が眉を顰めるほど、歩行者天国が無法化していたりもしました。
> それと同時に、2005年のドラマ「電車男」の放送を境に、オタク以外の人たちも入ってきて、
> 秋葉原が観光地化され、オタク文化が一般的にも広まり、海外輸出の面で注目され始めると、
> こうした従来のエロ・グロ要素というのは、排斥の対象となり始めます。
> オタク側の視点からすると、世間から蔑まれつつも、今まで育んできたサブカルの文化が、
> カネの匂いを漂わせ始めた途端、政治や経済が乗り込んできて、健全化を唱え始め、
> そして、それを一気に進める格好の大義名分となったのが、この「通り魔事件」でした!!
>
> そもそもは、不良たちがオタクを恐喝する意味だった「オタク狩り」という言葉が、
> 警察官がオタクに職務質問を行い、点数稼ぎに連行する意味合いに変わったのも、
> ちょうど、この事件が転換点だったと言って良いと思います。
> 気弱なオタクという存在は、不良にも、警察官にも、格好のターゲットだったと(苦笑)。
> 石原都政の東京浄化政策により、警察官も過剰なノルマが課せられ、
> 事件以前からあった事はあるのですが、人権も絡むので派手には行えなかったものが、
> あの事件を契機に大義名分を得て、大手を振って行われるようになりました。
> まあ、「もののけ姫」で喩えますと(笑)、
> シシ神が討たれる前と後で、同じ森でも様相が一変してしまったように、
> あの通り魔事件の前と後で、オタク文化が健全化されたって感じかも?
> 人を寄せ付けぬ森が、人の手により管理されるようになったように、
> オタク文化も資本や権力に管理され、「サブカル」という呼称も合わなくなったかな。
>
> 考えてみると、アニオタとネトウヨの親和性が高まったのも、丁度この頃かも知れません。
> それまでは「サブカル」と言うくらいなので、反体制と言うか、非権力な文化背景があり、
> クリエーター層まで行くと、明確に左寄りな人が多かった印象があるのですが、
> この健全化の中、表現規制に反対する声と、「石原閣下!麻生閣下!」という声に2分され、
> (規制反対派は必ずしも、パンツ・アニメに肯定的だった訳ではありませんでした)
> そして、健全化と経済化、右傾化や政治家の波に飲み込まれていった感じでしょうか・・・・
> もちろん、全てが全てそうなったという意味ではなく、全体の傾向としての話ではありますが。
> ちなみに、百合や萌えというのも、直接的なエロ表現が制限された為に、
> 発展した1つの表現手段かも知れません(日本のAVや風俗が独自進化したのと同じ要領で・笑)。


なるほど、そういう時代があったんですね。
私はそういう時代を全く知らず、むしろコミケなんか行けばパンチラなんか比べ物にならないほどのエロ・グロ本が売ってるのを見ているので、表現規制なんかは規制側に多少同情的だったりしたのですが、時代が違えばこうも違うんですね。
なんとなく90年代後半のアニメはパンチラが多いみたいな話は聞いていましたが、アニメにエロシーンが昔はそんなにあったんですね。

あと、「百合や萌えというのも、直接的なエロ表現が制限された為に、発展した1つの表現手段かも知れません」ということですが、これは違うと思いますよ。
08年時点では既にエロゲの衰退は顕著でしたし、エロゲもエロよりも売りはシナリオでしたから(だからこそラノベの台頭でエロゲが衰退してしまうわけで)。
(と言いつつエロゲに関しても管理人さんの突っ込みが来ると怖いのですが、エロゲには詳しくないんですよね)

▼ 鬼滅ブームの話

> う〜ん、何なんでしょうかねぇ?
> この「ズレてるなぁ」と感じさせる、違和感の正体は・・・・
> ぶっちゃけた話、最近テレビとか視聴されてますか?
>
> もちろん今の時代、SNSを始めとしたネットでの口コミが、
> 大きな流行の波を生むのは、一面では事実ですけど、
> 逆に言えば、そうした要素があるのは既に大前提な世界な訳で、
> 今回の鬼滅ブームという社会現象は、そのレベルで収まる話じゃないんですよね。
> そうした現状は、アニメとかに詳しくないオジさん・オバさん層でさえ、
> ニュース番組やワイドショーなどを介して、結構把握されてると思うのですが、
> ネット頼りだと情報は溢れてるものの、気を付けないと却って視野が狭くなる事もある為、
> 何だか旧トルコ担当さんが、そこに陥っちゃってる印象を受けるんですよね。
>
> 女性ファン層とか、SNSによる人気拡大とか、決して間違っている訳では無いのですが、
> それは今で言うと、「呪術廻戦」に見られるような人気の分析であって、
> 社会現象になった鬼滅ブームの担い手は、やはり小学生なんですよ。
> 子供たちに人気となり、それが子供たちの間に留まらず、家庭内でも広がる事で、
> 親世代や祖父母世代にまで拡大した為、これだけの大きな現象になっている訳です。
> 実際、人気が爆発した程には、Twitterでの呟き件数増えていないのも、
> 基本的に小学生は、SNSを利用してないですからね(要するにリアルな口コミがメイン)。
>
> で、ここまで爆発的なヒットになった原因は、
> 新型コロナによる外出自粛が、大きく影響していたのは事実なのですが、
> その前提として、コロナ禍以前より、小学生の間で鬼滅人気はジワジワと広がっており、
> それが「何故か?」というのが、私の理解できていない部分であると。
> 鬼滅人気の第1波はアニメ終盤の頃で、その頃の人気を支えたのは、
> 若者層であり、女性ファン層であり、SNSがそれを支えたのも確かなのですが、
> そこから小学生へと人気が波及して、第2波が発生した流れが掴めてないんですよね。
> 若者層がお兄ちゃんでとか、女性ファン層がお母さんでとか、そういった流れだとしても、
> それでは何故、他のアニメでは同様の事が起こらないのか?の説明が付きませんし。


テレビはほとんど見ていませんが新聞は読んでいるので、オジさん・オバさん層でさえニュース番組やワイドショーなどを介して、結構把握されてる、というのは共通認識として持っています。
で、はじめは管理人さんはあまりオタク方面とかそっち系に詳しくないのかなーと思っていたので、いや鬼滅は小学生人気だけじゃないですよ、ということでいろんな例を出したんですけど、この辺は私なんかよりもよっぽど詳しくて正直管理人さんの疑問にはあった答えられません。


[23506] Re2:百合文化史の話&秋葉原通り魔事件の影響返信 削除
2021/3/2 (火) 22:48:58 徳翁導誉

> 久しぶりの返信とても面白かったです。
> やはりこう、年上の方と話すのは浅はかな知識がバレそうになったりして怖くはありますが、
> 自分には無い視点が得られてとても刺激的です。

私が子供の頃も、50年前とか100年前くらいの事であれば、
それこそ歴史の教科書に載っていて、学校とかでも習うのですが、
自分が物心付く前の10年前とか20年前くらいの事って、
大人たちにとっては「ちょっと前の過去(記憶)」である為、却って解らない事が多く、
たまに聞いても、感情的なバイアスが思いっ切り掛かってる印象が強かったんですよね。
だからこそ逆の立場になった現在、出来るだけ客観的かつ正確に、当時の事を伝えたい気持ちはあります。
幸か不幸か、私は昭和をギリギリ覚えている世代なので、
平成からしか知らない弟とは、その短い間だけでもギャップがあったりしますし。
(って、観察力や記憶力の違いで、同年代でも普通にギャップとかあったりはしますが・笑)

20年前の9・11テロや日韓W杯、10年前の東日本大震災なども、
それを覚えている私からすれば、「あの時の!」という話になりますけれど、
物心付く前や生まれてなかった世代には、「どの時の?」って感じになりますからねえ。
実際、いま鬼滅の刃にハマっている子供たちは、あの大震災を知らない世代な訳ですし。
ただ近年は、こうやって当時のニュース番組↓がそのままアップされてたりするので、
【3・11震災】 https://www.youtube.com/watch?v=iwOLsVmxdO8
【9・11テロ】 https://www.youtube.com/watch?v=5H-UEQe063w

ちょっと疑似体験するような事は、可能になってますよね。
それこそ当時の人たちも多くは、こうしてテレビを見て情報を得るしか出来ませんでしたから。
一方で、何だかショーを見ている感覚で、次々増えていく死者の数に興奮を覚えたりとか、
その当時の不謹慎な空気感などは、多くの人は忘却してしまいがちな為、
悲惨さとかだけでなく、その辺りも正確に伝えたい考えもあったりはするんですよね。
神話化も、悲劇化も、物語としては面白くなっても、それが進むほど真実からは遠離るので。


> > で、その場合に私が何より言いたかったのは「場の喪失」なんです。
> > ただしコチラの話も、ここまで説明して上手く伝わってない所を見ると、
> > これ以上に言葉を労しても、進展は無いのかも知れません・・・・
> > ただであえ、「有ったモノが無くなった」感覚を、
> > 「初めから無かった」世界しか知らない方に伝えるのは、ただでさえ難しいのに、
> > 「いやいや、今でも有るよ」という前提で捉えられてる気がするんです。

> 多分としか言えませんが、私は「初めから無かった」世界しか知らないので、
> 管理人さんの言う「場の喪失」というのは理解できていないと思います。

「百聞は一見にしかず」と言えば良いのか、
「亀の甲より年の功」と言えば良いのか(笑)。

例えば、ネットを始めとしたデジタル技術にしても、
大人になってから導入された世代と、子供の時に導入された世代と、
生まれた時には既にあった世代とでは、それぞれ違うでしょうからね。
デジタル技術を使いこなす上では、私などはネイティブ世代に敵わないでしょうけど、
逆に言うと、ネイティブ世代だとアナログ技術に触れる機会が乏しくなる為、
この点に関して言えば、デジタルに偏り過ぎると、却ってデメリットになるでしょうし。

> で、その私でもかろうじてコレじゃないかな、と思えるのがプラモデルなので、
> よろしければプラモデルを例に説明してもらえないでしょうか?
> 私の雑な認識だと、昭和の時代には町のプラモデル屋さんというものが存在して、
> そこは単にプラモデルを売買するだけの場所ではなく、プラモデルのファン(おたく)が集まるコミュニティだったと。
> それが(90年代くらいからでしょうか?)、町のプラモデル屋さんは徐々に衰退していって
> ビックカメラみたいな店舗でプラモデルが売り買いされるようになった。
> もちろん、今でもビックカメラなりAmazonなりでプラモデルを買おうと思えば買えるのですが、
> プラモデルの「場」であった町のプラモデル屋さんは消滅し、お客様だけが残った。
> 「場の喪失」というのはこんな感じなのでしょうか?

う〜ん、私はプラモとは縁遠かった為、これで具体的な説明は少し難しそうですし、
説明としては、既に書店とかネット上でのサッカー話とかの例を交えながら書きましたので、
上手く伝えるには、今までの説明とは違って視点が必要になるのかなぁ・・・・

> 私としては町のプラモデル屋さんをほとんど知らない人間なので
> (それでも小学生の時に親と車に乗ってプラモデル屋さんに通っていた経験はあります)、
> いやプラモデルファンのコミュニティならSNSでプラモデルファン同士交流すればいいし、
> 別にプラモデルファンの集う町のプラモデル屋がなくなっても「場」はあるじゃん。と思うのですが。どうでしょう?

とりあえず、町のプラモ屋さんみたいなのは、
朧気かも知れませんけど、一応は御存知なんですよねえ?
でしたら、Amazonで買う時の事と、リアル店舗で買う時の事を、
まずは御自身の中で、その違いを整理されてみては如何でしょうか?
どちらも全く同じという事は、恐らく無いと思うので。

・・・って、これだけだと何だか丸投げみたいな感じなので(笑)、
私の方からも考えてみると、まずは「交流」ってワードは、とりあえず外しておきましょう。
正直な所、そこを「場」としてのメインには置いていないので。
そして、結論から先に言ってしまうと、
Amazonに無くて、リアル店舗に有るのは、「無駄」という存在だと思うんですよ。
それこそ例えば、欲しい商品の「購入」のみが目的であれば、
実際に店舗へ足を運んで購入するよりも、ネット通販でポチる方が遥かに便利です。
で、買い物が単なる「作業」であるならば、便利である事が何より優先かも知れません。
しかし、好きなモノを買うのって、本当に作業という側面だけなのでしょうか?
そこには、買い物という行為に「娯楽性」という側面も含まれているはずなんです。
そう考えた時、この無駄こそが、一転して面白さの源となる為、
逆に言うと、無駄の少ない便利さは、その面での楽しみ方に欠ける気がするんです。
例えば、ウィンドー・ショッピングには有って、ネット・ショッピングには無いモノがあると。

ハッキリ言ってしまえば、その両方とも存在するのが理想なんです。
それこそ、以前した書店の話であれば、
品揃えが豊富な大型書店も、便利なネット書店も、店主こだわりの街の小さな書店も、
全てが共存できていれば、その時々で使い分けられて助かります。
ですが現実は、どうしたって経済競争における淘汰は生じますし、
縮小していく日本の社会と市場により、その変化は急速で極端に現れています。
その結果として、やはり市場原理が全てに勝ってしまうんですよね。
買い物の話の続きをすると、娯楽としての回数より、作業としての回数の方が多いですから。
そして、その結果、リアル店舗という空間が、経済的都合により失われてしまうと。

と、まあ、あれこれ難しい事を考えなくても、
商品が山のように陳列されてるリアル空間って、やはりネットとは違いますよねえ?
買う買わないは別として、その空間に身を置くだけで心地よいとかあるじゃないですか。
確かにネット・ショッピングでも、ポチるまで何時間も掛ける事はあるでしょうけど、
それって、リアル店舗で何時間も過ごすというのとは、根本的に異なる気がするんです。
また、目的の商品に一直線なネットと違って、リアルは無駄な情報が多いからこそ、
別の商品に目移りしたり、思わぬ商品を見つけたり、他の客の会話に影響されてしまったりと、
そういった事が起こるのも、ネットよりリアルの方が断然多いはずです。

あと、これは何もアナログに限らず、デジタル空間でも同じ様な事が言えて、
ここでようやく「交流」というワードを戻すと、これは以前にも書いたのですが、
マニアな世界であった一昔前のネットって、あくまでも交流は手段であり、
そのネット世界が広く一般化した事で、交流が手段から目的に転じたと思うんですよね。
もちろん、これにしたって、どちらが良い悪いという話では無いですし、
理想を言えば、どちらも存在できる共存状態が一番なのですが、
やはり現実は大が小を飲み込むように、交流が目的化された世界がネットを覆いました。
でも、昔からネットにいる私たちが欲しいのって、
自分の中での「なるほど!」であって、他人からの「いいね!」じゃないんです。

SNSを利用すれば、確かに多くのファン同士を見つける事が出来るのでしょうけど、
ハッキリ言って、自分と同じ価値観をもつファン同士が繋がった所で、
そこから新たに得られるモノは少ないのは、交流が目的ではなく手段だからなのでしょうね。
それこそ求めるのは、自分の殻を打ち破ってくれるような、思わぬ雑音の存在なのでしょうけど、
しかしSNSというのは、同じ様な意見を集めて、雑音をカットするには向いているからこそ、
その正反対には層には、まるで満足感を得られない世界であると感じるんですよ・・・・
だからこそ、逆説的に言えば、SNSが幅を利かせれば利かせるほど、場が失われて行くと。

> これ以外だと私の知っている範囲では、ゲームセンターなんかも「場」だったのでしょうか?
> 80・90年代にはSTGファンがスコアを競ったり、格ゲーファンが対戦をしたりでにぎわっていたそうですが、
> これも(90年代後半くらいからかな?)衰退を通り越して消滅しかかっています。
> ただこっちは本格的に行ったことがないので、具体例で説明されても理解できるかどうか自信がないです。

そうですね、確かにゲームセンターとかは、解りやすい「場」の例かも知れません。
格闘ゲームにしても、オンラインで対戦したり、観戦したりは確かに可能なのですが、
やはり同じ空間に集って、対戦したり、観戦したりとは、一味も二味も違いますからね。
時代と言えばそれまでですけど、平成の30年間で5分の1にまで激減したのは、やはり寂しいですよ。
世界的なe-Sports化の流れに乗り遅れなければ、もう少し違った現実も有り得たのかなぁ?

音楽業界とかもそうでうけど、市場のデジタル化が急速に進んだ一方で、
リアルの価値というのも物凄く上がり、コロナ禍まではライブとか拡大の一途でしたし、
日本のオタク文化発信を考えるのであれば、アニメとネットの親和性の高さだけでなく、
実際に日本間で足を運ばないと体感できない、リアルの価値を高める戦略があっても良いと思うんです。
正直、秋葉原に関しても、表層的な観光地化をする促進する以前に、もっと何かあったはずですが、
でも現実には、ゲームや家電での日本の存在感って、ここ十数年でかなり落ちてるからなぁ・・・・

> > 文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
> > キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
> > そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
> > 例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
> > 文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。

> 申し訳ありませんが、この辺の規模感については正直よくわかりません。
> 多分管理人さんは私よりもより高い位置から色々な現象を見渡せているのだと思いますが、
> 私自身まだまだ勉強不足なので、科学技術の発展や社会形態みたいなより
> 具体的なものならばまだわかるんですが、文化とは何か?
> (傾向やブームとは何が違うのか)みたいな抽象性の高い話には全くついていけないんですよね。
> 投げやりに返信しているとかではなく、本当にその視点から言われるとどうしようもないんですよね。

はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。

ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。

「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?

で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。

・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。

> なんとなく、文化が発展するのは貧しさが背景にあるような気はしています。
> 例えば日本は島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展したわけですが、
> これはつまり魚以外の食材(例えば肉なんか)が手に入りにくかったからこそ色々な魚の食べ方が発展したわけで、
> これが最初から現代みたく肉でも魚でも菓子でも保存し放題であれば、
> ここまで魚の食べ方が発展しなかったと思うんですよね。

確かに、そういった側面も1つにはあると思いますよ。
例えば高校とかも、制服があり、校則があるからこそ、
そこをどうに掻い潜って着崩してやろうとして、個性が生まれる事はありますし、
逆に私服でもOKとかだと、みんな却ってキチンと制服を着たりしますからね。
また、前回も少し触れましたが、それこそ日本のAVや風俗が独自進化したのも、
日本ではAVにモザイクが必須だったり、風俗で本番行為が禁じられていた事が、
海外と違って、挿入すればOKという単純さを生まなかった理由とされていますので。
(って、エロ浮世絵の種類の豊富さを考えると、それだけが理由では無さそうですが・笑)

ただ一方で、「島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展した」との一文は、
それこそ「貧しさ」だけでなく、「豊かさ」も表してますよね?
肉視点で見れば貧しくても、魚視点で見れば豊かだったので、発展したと。
なので、文化が発展する要因というのも様々かと思われます。
また、これは以前にも書きましたが、文化であれ何であれ、
常に一定という事はなく、時代に応じた盛衰のサイクルというモノは存在しますから、
一言に日本の食文化と言っても、変化はいろいろとありましたね。
そもそも論になっちゃいますけど、日本人がたくさん魚を食べるようになったのは、
冷蔵・冷凍技術が発展してからの事なので、そんなに古い歴史がある訳では無いので・・・・
前回も少し触れましたけど、ここまで一般的に大トロや中トロが食されるようになったのは、
平成に入ってからの事だと記憶してますね(それまでは値段が高くて特別な存在でした)。

あと、これを根拠に「貧しくとも文化は発展する」と言いたいのかも知れませんが、
それこそ日本では、ここ10年くらいで100円ショップが急成長して、その品揃えや品質とかも、
売れ残り品を安く仕入れて売っていた、一昔の百均とは比べ物にならないレベルになっています。
そういう意味では、これは確かに新たな文化と言って良いとは思いますし、
「このレベルの商品が100円で」と、驚かされる事が多々あるのも事実です。
それはそれとして、もちろん認める所ではあるのですが、
しかし一方で、やはり「100円で売っても利益が出る」レベルの品質なんですよね。
そして、その事によって、百均以外の雑貨はかなり壊滅状態となった実状があり、
1億総中流と呼ばれた頃の日本では、様々な価格帯と品質の商品があり、
ちょっと背伸びをすると、結構良い商品が買えたりしたんです。
ですが現在、国際競争力も落ち、2極化されつつある社会も反映されてか、
店も商品も、高くて凄く良いモノと、安くてまあまあのモノとに2極化してきました。

もちろん、これは経済的には正しいですし、そうなるのも必然でしょう。
また、安い商品同士で比べれば、昔より今の方が優れているのは確かです。
ですが、中間であったり、そのちょっと上というのが、すっぽり消え失せてしまった現状って、
日本社会全体の文化として捉えた場合には、果たしてプラスになっているんですかねえ?
昔の「Japan as No.1」と呼ばれた時代を覚えてるだけに、
今の「日本スゴイ」ブームとかって、凄く虚しくて寂しく映っちゃいます。
貧しくとも発展する文化はありますけど、豊かだからこそ発展する文化の方が更に大きく、
「武士は食わねど高楊枝」とは言いますけど、やはり「貧すれば鈍する」んですよ。
そういう意味では、経済だけとか、文化だけとか、自分さえ良ければではなく、
ドンドン貧しくなる負の循環よりも、ドンドン豊かになる正の循環を求めたいんですよね。
それは、経済的にも、文化的にも、精神的にも。

> その上で(文化が分からないと言った上で)百合について言えば、もちろんセーラームーンも転換点ではありますが、
> 同程度にマリみても転換点だと思います。
> 管理人さんが「ゆるゆり」や「ごちうさ」、「きんモザ」等の作品が挙げられている辺り、
> もしかしたらアイマスやラブライブ、艦これ等の流れが目に入ってないような気がするのですが、どうでしょう?
> (気づいていればすみません)
> もちろんオタクの世界に初めて百合を持ち込んだのはセーラームーンなんですが、やはりマリみて以降の流れがなければ、
> 今でも百合は大きいお友達と、きらら系・難民系の範囲に限定されていたと思います。

「ラブライブ」や「アイマス」は、ある程度は知ってますけど、
う〜ん、私自身は別に百合ファンとかで無いので(そもそもアニオタですらない)、
本当の意味で「解っているか?」と問われると、ちょっと断言は出来ないかな(笑)。
とりあえず、「ことうみ」とか「のぞえり」とか「にこまき」くらいは知ってますけど、
その「流れ」の中身を、もうちょっと具体的に書いてもらえないと、
どのレベルの話をされているのかが、正直、私には伝わらない感じですね。

あと個人的な事を言うと、「艦これ」は作品自体をあまり把握してません。
ウチの場合、海軍で3人戦死しているので、あの題材はちょっと・・・・
私の世代ですと、子供の頃の高齢者って、イコール戦争経験者であり、
自分自身では体験していないものの、戦争との距離は近かったですが(冷戦中でもありましたし)、
今では戦場を知る方々も100歳を超えており、急速に戦争のリアル感が遠離ってる感じでしょうか。
まあ、楽しんでる人を非難したりはしませんけど、私的には対象外な作品ですね。
ここのサイトですと「WW2オンライン」を作る時も、そうした心の葛藤は正直ありましたし。

そして最後に、これは繰り返しになってしまいますけど、
私も別に「マリみて」の存在を軽視している訳では決してありません。
ただ、元々の話の流れって、これ↓からですよねえ?
> > > オタク的な文化として高まり始めるのは『マリア様がみている』や
> > > 『東方Project』などが流行し始めた04年あたりからです。

まあそれ以前に、私と旧トルコ担当さんとの間で、
「オタク」や「文化」に定義の違いがある事は、もう何度も語っているのですが、
そこ以上に大きいのは、実在する「女子校」の存在感の違いなのかも知れません。

それこそ、戦前のエス文化とか、「櫻の園」の映画の話とかもしましたけども、
もっと根本的な話として、近年は少子化や共学化の流れにより急減してますけど、
90年代までは女子校って、もっと身近で一般的な存在だったんですよ。
なので、お嬢様学校に抱く理想化されたイメージとか、女の園における理想と現実ネタとかは、
別にオタク的な想像上の世界観ではなく、見え難いものの普通に存在してた世界なんです。
ですから、その世代の、アニメなどしか見ない層にとっては、
確かに、途轍もないインパクトを残した作品であるのは間違いないのですが、
ことオタク文化史の文脈で論じられると、やはり同程度には語れませんよ・・・・

う〜ん、何と言えば伝わりますかねえ?
例えば現在だと、女子生徒の体操着ってハーフパンツが一般的ですけど、
90年代後半から00年代前半くらいまでは、ハーフパンツじゃなくてブルマーだった訳です。
その為、ハーフパンツが当たり前の世代には、ブルマーの再発見が衝撃であったとしても、
当時を知ってる世代からすると、そこまでの衝撃度はない・・・みたいな感じで伝わるでしょうか。
まあ、これらは良い悪いの話ではなく、時代性といのは常に付きまとうモノなんですよ。
それこそ前回、ウゴウゴルーガの話とか少ししましたけど、
当時のサブカル界に与えた衝撃は大きかったですし、渋谷系を知らない層には尚更でした。
でも、それをサブカル史という文脈から見た場合には、やはり捉え方が違って来るんですよね。
あそこから刺激を受けたクリエーターは数多く居たとしても、それは時代的・世代的なモノであって、
そこを知らないからダメだとか、そういう話では無いと言いますか・・・・って、難しいなぁ(笑)。
それこそ、個人的な観測ではなく、もっと大きくて客観的な「流れ」の話なんですよね。


> > 宮台真司は何とくイメージがありますけど、大塚英志はちょっと解らないなぁ・・・・
> > 個人的な認識では、あくまでも「社会学者」として、現状のオタク文化を研究しているだけで、
> > ターゲットとする客層は、彼と同年代である50〜60代のオジサンがメインでしょうから、
> > > それを踏まえた上で、社会学者としての論説的に「違うなぁ」と感じているのか、
> > はたまた、単に若い世代のオタク層として「違うなぁ」と感じているとのでは、
> > 話が大きく変わってくると思うのですが、一体どちらなのでしょう?

> 後者の単に若い世代のオタク層として「違うなぁ」と感じている、
> というだけなのでまあ言われてみれば当然ですよね。

ちなみに、上述の宮台や大塚は60代の論客ですけども、
彼らより一回り若い、後述の東・北田・森川あたりは、どうですか?
まあ彼らも20年近く前戦にいるので、もう今年で50歳らしいですし、
逆に言うと、いま20〜30代の若手論客って、どんな人が居るんでしょう?

> > ちなみに、例えば、ここで挙げた両名に関して、
> > 「違うなぁ」と感じさせた書籍とかは、実際にどんなモノがあるのでしょうか?
> > 正直、私自身は両名に関して詳しく知らないので、具体的な著書名をいくつか挙げてもらえると、
> > それを読む事で、私の方からも、もっと詳しい返信が行えるかと思えます。

> いやいや、私自身もきっちり読んだわけではないので、そこまでされなくても結構ですよ。

でも、学者や論評家の意見に対して、漠然とした切り取りやイメージだけで、
安易にどうこうと、自分の意見は述べられませんからねえ。
戦前の天皇機関説事件しかり、昨今の愛知リコール不正事件しかり、
そういった安易な個々人の言動が、大きな社会不安をもたらす事だってありますから。
・・・って、まあ何だか、お堅い事を言ってますけども(笑)、
そういった拘りの強さこそが、学術的やオタク的な気質だろうと、私なんかは考えていますね。

とりあえず、これをキッカケに現在、宮台真司が監修した
「オタク的想像力のリミット」を読み始めましたけど、
https://www.amazon.co.jp/dp/4480867244
10人くらいのミニ論文集って感じで、なかなか良くまとまってる本ですよ。
宮台というとオタク評論よりも、援交・ブルセラ評論の人だったな、というのを思い出しましたし(笑)、
大塚本人による寄稿は無いものの、大塚が提唱した「物語消費論」に関しては触れられてましたね。
扱ってる時代の対象としては、今から10年くらい前までなので、
いま読むと少し古い感じもしますけど、それでも読んでて損は無い感じかな?
東浩紀の「動物化するポストモダン」とか、北田暁大の「嗤う日本のナショナリズム」とか、
森川嘉一郎の「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」など、オタク文化論では有名な著作の抜粋もあり、
各論文が30ページ前後なので個々に深堀りされてませんけど、「オタク論の総集編」って感じで、
その辺の全体像を手っ取り早く掴みたい人には、まあまあオススメな1冊かと。

> > 秋葉原で通り魔事件が発生したのが2008年。
> > 麻生政権による児童ポルノ法の改正案が同じく2008年で、
> > 石原都政による青少年健全育成条例の改正が2010年でしたか。
> > あの事件1つが、大きく時代を動かしたという事はありませんけど、
> > 時代変化のスピードを加速させたという意味では、影響が無かった訳ではありません。
> > では何が変わったかというと、一言で言えば、アニメや漫画の「健全化」ですね。
> > 考えてみると、アニオタとネトウヨの親和性が高まったのも、丁度この頃かも知れません。
> > それまでは「サブカル」と言うくらいなので、反体制と言うか、非権力な文化背景があり、
> > クリエーター層まで行くと、明確に左寄りな人が多かった印象があるのですが、
> > この健全化の中、表現規制に反対する声と、「石原閣下!麻生閣下!」という声に2分され、
> > (規制反対派は必ずしも、パンツ・アニメに肯定的だった訳ではありませんでした)
> > そして、健全化と経済化、右傾化や政治家の波に飲み込まれていった感じでしょうか・・・・
> > もちろん、全てが全てそうなったという意味ではなく、全体の傾向としての話ではありますが。

> なるほど、そういう時代があったんですね。
> 私はそういう時代を全く知らず、むしろコミケなんか行けば
> パンチラなんか比べ物にならないほどのエロ・グロ本が売ってるのを見ているので、
> 表現規制なんかは規制側に多少同情的だったりしたのですが、時代が違えばこうも違うんですね。
> なんとなく90年代後半のアニメはパンチラが多いみたいな話は聞いていましたが、
> アニメにエロシーンが昔はそんなにあったんですね。

だってコミケは、敢えてそこに行った人たちだけが居る閉じられた世界ですけど、
地上波で放送されるアニメは、子供たちであれ誰であれ、チャンネルを回せば見られる訳ですし、
歩行者天国の過激コスプレなんて、半ばストリップ的な事を路上で行い、
そこにカメラ小僧たちが寝がりながら、ローアングルで狙い群がっていた訳で、
電気店の目の前、しかも裏手には小学校がある立地を考えると、地元住民的にはねえ・・・・
コミケ内での表現と同じレベルでは語れませんよ、実際の所は。

ちなみに、当時はエロゲ原作のアニメ化という流れの中から、
実妹とのガチ恋愛や近親相姦モノが、1つのアニメ・ジャンルとして存在しましたが、
この時の規制ターゲットとして名指しされた為、今では壊滅状態にあるのかな?
まあ恐らく、エロゲーやAVの世界では生き残ってるのでしょうし、
作品単体としてなら、幾つか生き残っているのかも知れませんけどね。
一応言っておくと、「魔法科高校の劣等生」や「エロマンガ先生」に見られるような、
過度のシスコンとか、義理の妹など、そういったレベルの話ではありませんでした。

> > ちなみに、百合や萌えというのも、直接的なエロ表現が制限された為に、
> > 発展した1つの表現手段かも知れません(日本のAVや風俗が独自進化したのと同じ要領で・笑)。

> あと、「百合や萌えというのも、直接的なエロ表現が制限された為に、発展した1つの表現手段かも知れません」
> ということですが、これは違うと思いますよ。

あ〜、最後の「AVや風俗」と追加した部分が、誤解を与えちゃった感じですかね?
「直接的なエロ表現」というのも、私としては、別にエロゲーの話をしたのではなく、
その前からの流れで、パンツ・アニメとか、おっぱいアニメとかの意味で用いてました。
(おっぱいアニメというのも、乳袋が揺れるとかではなく、直接そのままの表現で)

で、草食的な流れとでも言いますか、従来のハーレム・アニメに対して、
竿役の男主人公キャラさえ邪魔だとか、彼女レースの勝敗結末は不要だとかいう要望があり、
そうした中から、女の子だらけの世界観を傍観するタイプの作品が生まれ、
それでもリビドーは湧くので、パンツも おっぱいも封じられた環境下で、
採り入れられ、発展した表現方法こそが「百合」ではないのか?って主旨でした。
「かんなぎ中古事件」を経て、女同士なら男キャラに邪魔されず安心となり、
(人気アニメの原作マンガに元カレ的キャラが登場し、非処女だなんだと大荒れした事件)
ガチ百合がキツい層には、友達以上恋人未満の友情的なベタ付きでハァハァできると(笑)。
「ストーリー性よりもキャラ萌え重視」という傾向も、強くはなりましたよね。

> 08年時点では既にエロゲの衰退は顕著でしたし、エロゲもエロよりも売りはシナリオでしたから
> (だからこそラノベの台頭でエロゲが衰退してしまうわけで)。

もちろん、エロゲー・ブーム当時の売りは、エロよりシナリオだったのは知ってますよ(笑)。
それこそ日活ロマン・ポルノが、多くの若手監督を世に生み出した構図と同じく、
低予算ながら、とにかくエロ要素さえ入れておけば、エロゲーも自由に作品が作れましたし、
そうなると次第に、そちら側にもファンが付いてきて、1つのムーブメントを起こすに至ると。
また、今では名高い京都アニメーションにしたって、
エロゲ原作のアニメ化で、評価を上げていった歴史がありますからね。

ただ、エロゲーの衰退原因をラノベの台頭に求めるのは、ちょっと違うかな?といった印象。
まあ元々が一過性のブームであった事とか、泣きゲーと抜きゲーで2分した事もありますけど、
一番大きかったのは、表現手段の多様化にあったのでしょうね。
そういう意味では、確かにラノベも、その1つだったかも知れませんが、
それより何より大きかったのは、ネットの普及だと思いますよ。

> (と言いつつエロゲに関しても管理人さんの突っ込みが来ると怖いのですが、エロゲには詳しくないんですよね)
正直な話、私だって別に詳しくありませんよ(笑)。
私が遊んでいたゲームって、歴史シミュレーション系ばかりですし、
それ自体も、そんなに大した数にはなりません。
推測になりますけど、恐らく旧トルコ担当さんの方が、
アニメやゲームなどは実際に多く知っていると思いますからね。


> > ぶっちゃけた話、最近テレビとか視聴されてますか?
> > もちろん今の時代、SNSを始めとしたネットでの口コミが、
> > 大きな流行の波を生むのは、一面では事実ですけど、
> > 逆に言えば、そうした要素があるのは既に大前提な世界な訳で、
> > 今回の鬼滅ブームという社会現象は、そのレベルで収まる話じゃないんですよね。

> で、はじめは管理人さんはあまりオタク方面とかそっち系に詳しくないのかなーと思っていたので、
> いや鬼滅は小学生人気だけじゃないですよ、ということでいろんな例を出したんですけど、
> この辺は私なんかよりもよっぽど詳しくて正直管理人さんの疑問にはあった答えられません。

なるほど、そういう事でしたか。


[23513] ネット時代の文化返信 削除
2021/3/8 (月) 03:11:04 旧トルコ担当

ひとまず、話が結構長くなってきたので自分なりにまとめてみました。
引用部分も全部白になっていますが、直すのめんどくさいのでそのままにしてます。

▼ 文化に関して

分野は違いますけど、コミケなんかも現在では、そんな感じなのでは無いでしょうか?
小さな趣味人の世界観が好きな私からすると、少し物悲しいですが、
それだけネットも一般社会に広まり、大きく普遍化したって事ではあるんですよね。

うーん、ちょっと違うような気もしますけどね。例えばコミケなんかも相変わらずサークルの8割までは100部以下しか売れてませんし、
コミケの注目度が高くなったことで大手の儲かっているサークルばかりが目立ちはしていますが、あの辺の本質は変わっていないと思います。
コミケは一般的な知名度も上がったことでお客さん率も相応ですが、それ以外の即売会はやはり特有の熱気があります。
特にオンリーイベントなんかはまだまだ濃い人たちが集まってる感じですね。
ただそういうのは本当に限られた範囲の間でしか情報が流通しないので、部外者にはほとんど分かりませんが。

いや〜、言わんとしている事は解るのですが、
私が言いたいのは、そういう所では無いんですよねえ・・・・
趣味人の気質というのは、今も昔も大して変わらない気がするのですが、
それを取り巻く環境というのは、かなり変わった感じがするんです。
それまでは繋がる事が難しかったコミュニティーが、
ネットの登場により、一気に広まったのは良いのですが、
今やコントロールできないほど、広がってしまったのでは無いかと?
趣味の世界というのは元来、ビジネスの世界と違って、
「クリエイター」と「ユーザー」は明確に分かれておらず、
小さい世界だからこそ、両者は地続きの存在だったと思うんですよ。
例えばネット上の動画投稿サイトにしても、
初期のニコニコ動画というのは、視聴者層こそが投稿者を生む苗床であり、
視聴者もコメントを介して、一緒に「動画」を作り上げていく部分がありました。
しかし、現在のYouTubeを見ていると、確かに視聴者数は爆発的に増えた一方で、
投稿する層と視聴する層が完全に分離し、投稿者のプロ化も進んでいる印象です。
そしてニコニコ動画も今ではYouTube以上に、有料配信などのビジネス化が進んでいます。
もちろん、ニコニコ動画の方に関しては、視聴者数の減少が、
そうした方向性に進ませている大きな要因と言えますけど、
そもそも視聴者が減少した原因は、投稿動画の質の低下にあると感じており、
その理由も、投稿者と視聴者の分離という「お客様化」にあった気がするんです。
2chにせよ、ニコ動にせよ、利用者が増えれば必然的に、玉石混淆の石の割合が増え、
彼らは無自覚なまま、空気を白けさせるのに絶大な効果を発揮します・・・・
そうなってしまえば、クリエイター側も創作意欲を削がれると。
ぶっちゃけ趣味というのは、「楽しいから」行っている訳ですし、
それが楽しくなくなれば、「つまらなさ」の負のスパイラルが起きると思うんです。
でも、そうした仲間内の空気感というのは、規模が小さいから保てるモノで、
その規模が大きくなればなるほど、それを保つのは非常に困難な事なのでしょうね。
そして規模が大きくなると、それを持続させる為に、ビジネス化が避けられない気がするんです。
ニコ動衰退の原因として挙げられる「回線の細さ」や「画質の悪さ」などの不満点は、
もう既に、視聴者がお客様化した後の話だと思いますし、
そこに論点が移ってしまうと、質を担保できる資本力の差の勝負になってきます。
だからこそ、以前よりあったYouTubeが、ここに来て存在感を爆発させているのかも知れません。
コミケに関して言うと、入場が有料化された時点で、
そうした割り切りが行われたように、私には感じるんですよね。
まあ、あれだけの規模のイベントが、今まで入場無料だった事自体が凄い事なのですが、
でも逆に言うと、これだけ大きくなってしまえば、昔ながらのノリのままとは行かないはずなんです。
もちろん、だからと言って、昔からの趣味的な世界が一掃される訳では無いですし、
残された数少ない居場所には、以前よりも濃厚な空気が生まれる事はあります。
ただ、一旦そうなってしまうと、新規層の開拓が非常に難しくなる所があるんですよ・・・・
簡単に言えば、アクセスが難しくなってしまうと。
(ちなみに「サークルの8割までは100部以下」というのは肌感覚? それともデータあり?)
話題はコミケから離れてしまいますが、例えば現在、1年ぶりにサッカーの代表戦が行われており、
森保JAPANのサッカーに関して、いろいろと考えたり、知りたい所があったりするので、
詳しい人の話を聞きたい気持ちは強いのですが、ここ最近のネット世界というのは、
単なる感情論が溢れまくり、そうした専門的な話を行える場所が無くなってしまいました。
別に、サッカーが好きな人や、詳しい人が減った訳でも、もちろん全滅した訳でも無いのに、
それを行えなくなったと言うのは、ネット利用者の規模の拡大により、
語りたい少数派が、文句を言いたい多数派に飲み込まれたからでしょうね。
まだ何処かに、そうした事が語り合われる場があるのかも知れませんが、
残念ながら、それを知らない私には、そこにアクセスする事が叶わない状態にあります。

あー、なるほど。
私の場合、インターネットを使い始めたころには既にネットが一般化してたので、ネットでちょっと検索しただけではそういった世界にたどり着けないのは当たり前、みたいな感覚です。
その時代知らないので間違っているかもですが、かつては秋葉原もインターネットもコミックマーケットも「知る人ぞ知る」だったからこそ、仲間内の空気感があったわけで、そこにたどり着くにはいわば高度な情報網みたいなものが必要だったと。
で現在はアキバもネットもコミケも情弱でも知っているものになってしまった。だけど高度な情報網みたいなものさえあれば、仲間内の空気感のある場所にはたどり着ける(こともある)から、結局は昔と大して変わってないんじゃないかなーと勝手に思っています。
アクセスが難しい場所にしかそういった場は生まれないと。

いえ、その逆ですね。
確かに当時は「知る人ぞ知る」という、その世界だけの話で、
関係ない部外者にとっては、世界の中は伺い知るのが困難な時代だったでしょうけど、
心理的な面と、地理的な面の壁さえ越えれば、誰でもアクセスが可能な世界でした。
要するに、キモいという心理の壁と、東京など大都市のみという地理の壁であり、
そこは勇気とカネさえあれば、解決できる課題でしたので。
例えば秋葉原は昭和末期、あの街1つで、全国の家電売上の1割を担っていて、
とにかく秋葉原に行けば何でも有るし、そこに無ければ何処にも無いという状態でした。
そして「家電なら秋葉原」みたいに、代名詞的にイメージが定着してしまえば、
放っておいても人は集まってきますし、そうなれば店だって更に集まってきて、
店が増えれば価格競争が起きて商品安くなり、そこで更に買い物客が集まって、
買い物客が増えれば、マニアックな需要に応えても採算が取れるようになり、
それこそ「何でも有る」街として、好循環で発展していった感じですね。
で、そんな秋葉原の街へは、電車さえ乗れば、誰にだって行けた訳です(笑)。
マニアックな店とかも、別に情報とか無くても、足さえ使えば見つけられましたし、
コミケにしても、「マーケット(市場)」を謳っているくらい、
最初からオープンなイベントであり、そうして既に半世紀近い歴史がある訳です。
う〜ん、この辺の感覚は、「本屋」とかで喩えれば伝わりやすいですかねえ?
本屋というのは、その存在自体は当然知っていても、
興味ない人には縁遠く、どんな本が置かれているかも計り知れないでしょうし、
街の小さな本屋とかは、初めてだと確かに立ち入りにくい雰囲気がありました。
でも、一旦勇気を持って中に入り、お金さえ持っていれば、誰でも好きな本が買えるんです。
そして神保町の書店街まで足を伸ばせば、マニアックな本さえ探す事が出来たと。
別にそこには、「高度な情報網」みたいなモノは特に必要ありません。
ただ、交通費と時間を使って、わざわざそこまで足を運ぶ手間が必要という意味では、
やる気が無いと越えられない障壁があり、それに囲われた世界観や空気感はありましたし、
インターネットにしても、1時間繋いで500円とか1000円かかった2000年頃までは、
誰でも利用できるけど、本気で利用したい人しか居ない、濃密な空間であった訳ですね。
ちなみに私が、読む時間と、書く時間と、投稿する時間を分けているのも、
通信料を抑える為の、当時のネットの使い方の名残だったりします(笑)。
と、本屋の例から離れてしまいましたので、話を元に戻すと、
まずは90年代、急速に全国拡大を始めたコンビニに、売れ筋の雑誌や漫画が置かれるようになり、
続いて2000年の大店法改正により、あちこちで広大な売り場面積を持つ大型書店が現れ出し、
それに少し遅れて、ネットの普及に伴うAmazonの登場と、Kindleなどの電子書籍の発売がありました。
言ってしまうと、過渡期の00年代というのは、本好きにとって夢のような時代だった訳ですね。
昔ながらの街の本屋や、神保町の書店街は、まだ生き残っている状態で、
よく読む雑誌や漫画とかは、24時間どこでも買えるコンビニに置いてあり、
大型書店に行けば、無数の本に囲まれるテーマパークのような空間が広がり、
Amazonでネット注文すれば、手間を掛けずにマニアックな本さえ買えたのですから。
でもそれは一時の夢物語であり、平成の30年あまりの間に、
本屋の数は3万店から1万店へと激減し、コンビニに置かれた雑誌や漫画もめっきり減り、
多くの大型書店は縮小や閉店を余儀なくされ、残されたのはネット空間のAmazonだけな現状に・・・・
もちろん、Amazonを始めとしたネット通販は、非常に便利なのは確かなんですよ。
転勤族として都会でも地方でも育った私からすると、昔の地方の不便さというは覚えていますし、
ネット通販とショッピング・モールの登場が、地方の生活を劇的に変化させた事も解るんです。
この地理的格差の解消というのは、不便さの実体験が無い都会人には解らないほど大きい!!
ただ一方で、街中から本屋が姿を消した現実も、目に見えて感じてますし、
今では駅前の商業施設やショッピング・モール以外に、ほとんど本屋が残されていない現実を、
今回のコロナ禍による大型店舗の一斉休業によって、如実なまでに実感しました!!
池上彰が以前テレビで、本屋の事を「知識のドンキ」と表現した時、
「まさにその通りだ!」と相槌を打ったのですが、
専門書からゴシップ誌まで、様々な知識が所狭しとジャングル陳列されてる「リアル書店」は、
Amazonみたいな「ヴァーチャル書店」には無い、異なる本同士の空間的な繋がりがあるんですよね。
AIによるオススメ書籍は、ビジネス的には一理あっても、知識の広がりには貢献しませんし。
と言う事で、例え話が長くなってしまいましたけど、
Amazon登場によって得られた便利さがある反面で、リアル書店が消滅しかかっている現実もあり、
それは、本屋という空気感が好きな私からすると、非常に残念な状況であると。
そして、このような現象は、何も本屋だけの話に限らず、
秋葉原やネットの世界でも起こっており、コミケの世界もそうなのでは無いか?という訳です。
別に本屋なんて言うのは、そう簡単に「たどり着けないのは当たり前」な場所では無かったものの、
確かに今では、そうした感じになりつつあるのかも知れません・・・・
で、秋葉原やネットも同様に、と言うか、一歩も二歩も先んじてる実感はあります。
ぶっちゃけた話、アクセスし難いだけで、まだ何処かに世界があると言うよりは、
もう何処にも、そんな世界は残っていないのでは?というのが、正直な感想です。

> > 私の場合、インターネットを使い始めたころには既にネットが一般化してたので、
> > ネットでちょっと検索しただけではそういった世界にたどり着けないのは当たり前、みたいな感覚です。
> > その時代知らないので間違っているかもですが、かつては秋葉原もインターネットもコミックマーケットも
> > 「知る人ぞ知る」だったからこそ、仲間内の空気感があったわけで、
> > そこにたどり着くにはいわば高度な情報網みたいなものが必要だったと。
> > で現在はアキバもネットもコミケも情弱でも知っているものになってしまった。
> > だけど高度な情報網みたいなものさえあれば、仲間内の空気感のある場所にはたどり着ける(こともある)から、
> > 結局は昔と大して変わってないんじゃないかなーと勝手に思っています。
> > アクセスが難しい場所にしかそういった場は生まれないと。

> いえ、その逆ですね。
> 確かに当時は「知る人ぞ知る」という、その世界だけの話で、
> 関係ない部外者にとっては、世界の中は伺い知るのが困難な時代だったでしょうけど、
> 心理的な面と、地理的な面の壁さえ越えれば、誰でもアクセスが可能な世界でした。
> 要するに、キモいという心理の壁と、東京など大都市のみという地理の壁であり、
> そこは勇気とカネさえあれば、解決できる課題でしたので。
>
> 例えば秋葉原は昭和末期、あの街1つで、全国の家電売上の1割を担っていて、
> とにかく秋葉原に行けば何でも有るし、そこに無ければ何処にも無いという状態でした。
> そして「家電なら秋葉原」みたいに、代名詞的にイメージが定着してしまえば、
> 放っておいても人は集まってきますし、そうなれば店だって更に集まってきて、
> 店が増えれば価格競争が起きて商品安くなり、そこで更に買い物客が集まって、
> 買い物客が増えれば、マニアックな需要に応えても採算が取れるようになり、
> それこそ「何でも有る」街として、好循環で発展していった感じですね。
> で、そんな秋葉原の街へは、電車さえ乗れば、誰にだって行けた訳です(笑)。
> マニアックな店とかも、別に情報とか無くても、足さえ使えば見つけられましたし、
> コミケにしても、「マーケット(市場)」を謳っているくらい、
> 最初からオープンなイベントであり、そうして既に半世紀近い歴史がある訳です。
>
> う〜ん、この辺の感覚は、「本屋」とかで喩えれば伝わりやすいですかねえ?
> 本屋というのは、その存在自体は当然知っていても、
> 興味ない人には縁遠く、どんな本が置かれているかも計り知れないでしょうし、
> 街の小さな本屋とかは、初めてだと確かに立ち入りにくい雰囲気がありました。
> でも、一旦勇気を持って中に入り、お金さえ持っていれば、誰でも好きな本が買えるんです。
> そして神保町の書店街まで足を伸ばせば、マニアックな本さえ探す事が出来たと。
> 別にそこには、「高度な情報網」みたいなモノは特に必要ありません。
> ただ、交通費と時間を使って、わざわざそこまで足を運ぶ手間が必要という意味では、
> やる気が無いと越えられない障壁があり、それに囲われた世界観や空気感はありましたし、
> インターネットにしても、1時間繋いで500円とか1000円かかった2000年頃までは、
> 誰でも利用できるけど、本気で利用したい人しか居ない、濃密な空間であった訳ですね。


> > > 文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
> > > キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
> > > そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
> > > 例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
> > > 文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。

> > 申し訳ありませんが、この辺の規模感については正直よくわかりません。
> > 多分管理人さんは私よりもより高い位置から色々な現象を見渡せているのだと思いますが、
> > 私自身まだまだ勉強不足なので、科学技術の発展や社会形態みたいなより
> > 具体的なものならばまだわかるんですが、文化とは何か?
> > (傾向やブームとは何が違うのか)みたいな抽象性の高い話には全くついていけないんですよね。
> > 投げやりに返信しているとかではなく、本当にその視点から言われるとどうしようもないんですよね。

> はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
> まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
> 「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
> 普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。
>
> ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
> 世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
> そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
> 別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
> キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
> 個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
> オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。
>
> 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
> クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
> 部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
> メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?
>
> で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> 言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
> 「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
> 「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
> 「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
> これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
> それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
> まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
> それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
> やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。
>
> ・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
> 自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。


いえいえ、その例えで凄くしっくりきました。
今まで何となく自分で感じていたことともつながったので少し話させてください。

例えば学校なのですが、昔と比べて何となくクラスというつながりが弱くなったと思うんですよね。
もちろん私は教師でも何でもないので、昔の学校はマンガに出てくるくらいしか知りませんし、根拠には乏しいのですが、でもそこまで外れた見方でもない気がしています。
例えば、かつては学校内でもオタクは肩身の狭い思いをしたらしいのですが、私の学生時代には結構そういうものが許容されているというか、否定されないんですね。
もちろんそれは我々にとっては良い時代になったという感じですし、その理由はオタクのイメージ改善にもあるんだと思うのですが、一方で同じクラスメイトのオタクグループに対する関心が昔に比べて薄れているというのもあると思うんですよね。
なんというか、平和共存という言い方もできますが、それ以上に無関心・不干渉によってオタクは許容されていると。
それはオタクグループと一般グループの間での距離が離れてきているいうだけでなく、なんとなくみんな自分の仲良しグループ以外には関心を持たなくなってきているというか。
個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。
マンガもそうだと思うんですよ。
かつてのマンガ雑誌の時代と比べて、平成のマンガ単行本時代というのは自分の好きなマンガ以外に見向きもしなくなった時代だったと思うんですよ。
そしてその傾向はネットマンガ時代になってより顕著になったと。
YouTubeやSNSなどに関しては言うまでもないですよね。

この現象の原因は明らかで、情報があふれるようになって、相対的に時間が貴重になったからだと思います。
例えば、学校内の人間関係でいえば、LINEは友達を100人作るために使われているというよりも、イツメンが朝から晩までつながるために使うわけです。
つながろうと思えば、隣の学校の人たちとだっていくらでもつながれはしますが、そんなことをしていては時間がいくらあっても足りない。だからこそ有限な時間を本当の仲良しとだけ共有すると。
スマホゲームも、今自分が好きなゲームにいくらでも時間を費やしたいわけで、今人気のスマホゲームを追いかける時間がないからこそ、オタク界隈はどんどん深く狭く、なんかもう限界集落みたいな感じになってきてるんですよ。
仮に同じスマホゲームを遊ぶ層でも、そのスマホゲームのゲームが好きな人と、キャラが好きな人と、同じキャラが好きな人でも、そのキャラと恋愛したい人と、そのキャラと別のキャラのカップリングが好きな人とで、どんどん細分化されていくわけです。
鬼滅の刃もそうです。私は見てないのではっきりしたことは言えませんが、おそらく小学生の鬼滅の刃の見方と、腐女子のお姉さん方の鬼滅の刃の見え方と、話題になってるということで読んでみたおっさん世代の見え方というのは実は全然違うのではないでしょうか?

こういう、自分の関心の無いものへの徹底的な無関心が、現在の特異な状況を形成しているのではないでしょうか?
言ってしまえば、社会の部族化といいますか、同じ部族内の出来事には関心があるけれども、他の部族のことには興味ないよ、という態度といいますか。
だからこそリアル書店や秋葉原のような、マニアックだけれども一般人でもアクセス可能な場所は衰退いっていると。

> SNSを利用すれば、確かに多くのファン同士を見つける事が出来るのでしょうけど、
> ハッキリ言って、自分と同じ価値観をもつファン同士が繋がった所で、
> そこから新たに得られるモノは少ないのは、交流が目的ではなく手段だからなのでしょうね。
> それこそ求めるのは、自分の殻を打ち破ってくれるような、思わぬ雑音の存在なのでしょうけど、
> しかしSNSというのは、同じ様な意見を集めて、雑音をカットするには向いているからこそ、
> その正反対には層には、まるで満足感を得られない世界であると感じるんですよ・・・・
> だからこそ、逆説的に言えば、SNSが幅を利かせれば利かせるほど、場が失われて行くと。


もちろん「自分の殻を打ち破ってくれるような、思わぬ雑音」は現在でも必要とされています。
かつてはフラっと立ち寄った書店や映画館がそういった雑音を提供してきたわけですが、SNSもそういう使い方をすればちゃんと雑音を拾ってきてくれますし、そういった使い方をしている人たちは少なくないと個人的に見ています。
もちろんその雑音はあくまで自分に近いところの雑音でしかないわけですが、ですがもう我々にとっては30年前に存在していていま日本で消えかかっている書店や映画館のような完全な(?)雑音は効率が悪いわけです。
それよりも、自分と似たような嗜好を持ったフォロワーからマンガなり、ゲームなりをお勧めしてもらったほうがよほど効率が良い。
いやいや、効率ばかり追い求めていて非効率的な完全な雑音を消去してしまうのはよくない、と思われるかもしれませんが、別に30年前も書店では今ロシアで話題の本が山積みなっていたり、映画館ではインド映画が上映されていたわけではないではないですよね?
30年前の日本にも、雑音をカットするフィルターは存在したわけです。そして今それが、相対的な時間不足によってそのフィルターの網の目がより細かくなろうとしていると。

話が少しそれてしまいますが、SNSが我々にもたらした変化というのはとてつもなく大きいと思うんですよね。
SFには集合意識という生物のアイディアがあるらしいのですが、その集合意識とやらは体は数億個とあるのに脳が全部一つにつながっているんです(おそらくアリやハチの社会が元ネタなのでしょう)。
で、今スマホを24時間手放さずに生活している我々は、その集合意識になろうとしていると。
SNSによって毎日お互いの情報をやり取りしている相手というのは、もはや家族や友人なんかよりもよっぽど強いつながりですし、個人の自我というのは以前とは比較にならないほど溶け合っている。
だからリアルな書店なんかが雑音なんかを拾ってくれなくとも、その集合意識内部でのバーチャルな書店(それはフォロワーの「面白かった」とAmazonの電子書籍販売によって構成される)があれば充分じゃないのでしょうか?

若くて、今の時代から知らないから短絡的にそういう考えに至るのかもしれませんが、ただ何となく、感覚的にはそっちのほうがしっくりくるんですよね。
トランプ元大統領をめぐるアメリカの分断も、リアルな書店みたいなものが生きていればああいう風にはならないのではないでしょうか?

▼ 文化と貧しさについて

> > なんとなく、文化が発展するのは貧しさが背景にあるような気はしています。
> > 例えば日本は島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展したわけですが、
> > これはつまり魚以外の食材(例えば肉なんか)が手に入りにくかったからこそ色々な魚の食べ方が発展したわけで、
> > これが最初から現代みたく肉でも魚でも菓子でも保存し放題であれば、
> > ここまで魚の食べ方が発展しなかったと思うんですよね。

> 確かに、そういった側面も1つにはあると思いますよ。
> 例えば高校とかも、制服があり、校則があるからこそ、
> そこをどうに掻い潜って着崩してやろうとして、個性が生まれる事はありますし、
> 逆に私服でもOKとかだと、みんな却ってキチンと制服を着たりしますからね。
> また、前回も少し触れましたが、それこそ日本のAVや風俗が独自進化したのも、
> 日本ではAVにモザイクが必須だったり、風俗で本番行為が禁じられていた事が、
> 海外と違って、挿入すればOKという単純さを生まなかった理由とされていますので。
> (って、エロ浮世絵の種類の豊富さを考えると、それだけが理由では無さそうですが・笑)
>
> ただ一方で、「島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展した」との一文は、
> それこそ「貧しさ」だけでなく、「豊かさ」も表してますよね?
> 肉視点で見れば貧しくても、魚視点で見れば豊かだったので、発展したと。
> なので、文化が発展する要因というのも様々かと思われます。
> また、これは以前にも書きましたが、文化であれ何であれ、
> 常に一定という事はなく、時代に応じた盛衰のサイクルというモノは存在しますから、
> 一言に日本の食文化と言っても、変化はいろいろとありましたね。
> そもそも論になっちゃいますけど、日本人がたくさん魚を食べるようになったのは、
> 冷蔵・冷凍技術が発展してからの事なので、そんなに古い歴史がある訳では無いので・・・・
> 前回も少し触れましたけど、ここまで一般的に大トロや中トロが食されるようになったのは、
> 平成に入ってからの事だと記憶してますね(それまでは値段が高くて特別な存在でした)。
>
> あと、これを根拠に「貧しくとも文化は発展する」と言いたいのかも知れませんが、


いえいえ、これはむしろ逆で、貧しさを失ったからこそ新しい文化が生まれてこないのではないか?ということです(前回の文章が言葉足らずでした)。
貧しくあればこそ工夫しますし、そこに文化が生まれると思うのですが、豊かであれば工夫も必要ないですからね。

▼ 現代の百合文化

> 「ラブライブ」や「アイマス」は、ある程度は知ってますけど、
> う〜ん、私自身は別に百合ファンとかで無いので(そもそもアニオタですらない)、
> 本当の意味で「解っているか?」と問われると、ちょっと断言は出来ないかな(笑)。
> とりあえず、「ことうみ」とか「のぞえり」とか「にこまき」くらいは知ってますけど、
> その「流れ」の中身を、もうちょっと具体的に書いてもらえないと、
> どのレベルの話をされているのかが、正直、私には伝わらない感じですね。
>
> あと個人的な事を言うと、「艦これ」は作品自体をあまり把握してません。
> ウチの場合、海軍で3人戦死しているので、あの題材はちょっと・・・・
> 私の世代ですと、子供の頃の高齢者って、イコール戦争経験者であり、
> 自分自身では体験していないものの、戦争との距離は近かったですが(冷戦中でもありましたし)、
> 今では戦場を知る方々も100歳を超えており、急速に戦争のリアル感が遠離ってる感じでしょうか。
> まあ、楽しんでる人を非難したりはしませんけど、私的には対象外な作品ですね。
> ここのサイトですと「WW2オンライン」を作る時も、そうした心の葛藤は正直ありましたし。
>
> そして最後に、これは繰り返しになってしまいますけど、
> 私も別に「マリみて」の存在を軽視している訳では決してありません。
> ただ、元々の話の流れって、これ↓からですよねえ?
> > > > オタク的な文化として高まり始めるのは『マリア様がみている』や
> > > > 『東方Project』などが流行し始めた04年あたりからです。

> まあそれ以前に、私と旧トルコ担当さんとの間で、
> 「オタク」や「文化」に定義の違いがある事は、もう何度も語っているのですが、
> そこ以上に大きいのは、実在する「女子校」の存在感の違いなのかも知れません。
>
> それこそ、戦前のエス文化とか、「櫻の園」の映画の話とかもしましたけども、
> もっと根本的な話として、近年は少子化や共学化の流れにより急減してますけど、
> 90年代までは女子校って、もっと身近で一般的な存在だったんですよ。
> なので、お嬢様学校に抱く理想化されたイメージとか、女の園における理想と現実ネタとかは、
> 別にオタク的な想像上の世界観ではなく、見え難いものの普通に存在してた世界なんです。
> ですから、その世代の、アニメなどしか見ない層にとっては、
> 確かに、途轍もないインパクトを残した作品であるのは間違いないのですが、
> ことオタク文化史の文脈で論じられると、やはり同程度には語れませんよ・・・・
>
> う〜ん、何と言えば伝わりますかねえ?
> 例えば現在だと、女子生徒の体操着ってハーフパンツが一般的ですけど、
> 90年代後半から00年代前半くらいまでは、ハーフパンツじゃなくてブルマーだった訳です。
> その為、ハーフパンツが当たり前の世代には、ブルマーの再発見が衝撃であったとしても、
> 当時を知ってる世代からすると、そこまでの衝撃度はない・・・みたいな感じで伝わるでしょうか。
> まあ、これらは良い悪いの話ではなく、時代性といのは常に付きまとうモノなんですよ。
> それこそ前回、ウゴウゴルーガの話とか少ししましたけど、
> 当時のサブカル界に与えた衝撃は大きかったですし、渋谷系を知らない層には尚更でした。
> でも、それをサブカル史という文脈から見た場合には、やはり捉え方が違って来るんですよね。
> あそこから刺激を受けたクリエーターは数多く居たとしても、それは時代的・世代的なモノであって、
> そこを知らないからダメだとか、そういう話では無いと言いますか・・・・って、難しいなぁ(笑)。
> それこそ、個人的な観測ではなく、もっと大きくて客観的な「流れ」の話なんですよね。


これは全く知りませんでした。
どうしても百合の歴史のほうをさかのぼると90年代ではなく戦前のエスの方に目が行きがちなので。

ただ、それを聞いた上でもやはり90年代の百合と現在の百合はやはり変化していると思いますよ。
多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが現在の百合の根底にあると思います。
それは多分、00年代の萌えにもそういう面はあったのだと思いますが、10年代の百合はその色が非常に強くなったと感じます。
だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。
もちろんそれも90年代の百合文化の土台の上に築かれているわけですが、例えるなら中国文化だった漢字も、長い年月をかければ日本文化として消化・改変・独自化されていったように、百合は現在その独自化の真っ最中にあると思うんですよね。
VTuberが流行したのも、もちろん視聴者側の需要もありましたが、一方でかわいい女の子になってみんなからかわいいかわいい言われたいという供給側の需要もあったと思うんですよね(ただその大半が再生回数3桁レベルなのが現実の悲しいところですが)。

▼ ここ10年のオタク

話の本筋とは全然関係ありませんが、知ってることだけ書いときます。
管理人さんに一方的に教えてもらうだけだとあれなので。一応ですが。

PixivとSNSでイラストレーターの存在が大きく向上
スマホ時代になってからですが、PixivやTwitterで簡単にイラストが拡散されるようになったので、イラストレーターの存在感がやたらと大きくなりました。
クリエイターになりたい系オタクのあこがれはゲームクリエイターでもアニメーターでもマンガ家でもなく、声優と神絵師(神のように上手なイラストレーター)ですよ。
イラストなんて言うのは00年代にはラノベの表紙がせいぜいの活躍場所だったはずなんですけどね。
あとやたらアジア系外国人が多いのも特徴です。言語の壁が関係ないからなんでしょう。
例えばこの前にコミケ準備会が制作したコミケ45周年記念イラスト集では、特典のクリアファイルといういわばVIP席のイラストを描いたのはHitenさんという台湾人の方でした。https://www.pixiv.net/users/490219
ぶっちゃけこっちの方がコミケ有料化よりもよっぽど大きい激変ですし、同人界隈のピラミッドが二極化していっているのも、その最先端を走っているのはこういった神絵師だと感じます。
絵の美しさに関しては、ここ10年でアニメの絵の進化とともにオタク界は見違えるほど変わりました。

▼ 文化の大量消費

> あとは、ある所で滅びがあっても、別の所で興りがあれば良いんですけど、
> グローバル化と新自由主義により、文化の消費サイクルさえ加速度を増していて、
> 最近は、行き過ぎた焼畑農法が、砂漠化を招くような状況を、生んでいる気がするんですよ。
> 次から次へと大群で食い荒らしていくという意味では、「蝗害」に喩えても良いのかな?
> どちらかと言うと、そちらの方がより深刻で、私が心配している部分かも知れません。


結構前からの引用になりますが、これについても具体例を交えて説明していただけませんでしょうか?
私は結局のところ自分の興味のないところは全く興味を持たないので、全体の大きな流れというのはよくわからないんですよね。


[23519] 日本サブカルの市場規模と、その影響力(その1)返信 削除
2021/3/9 (火) 23:41:28 徳翁導誉

> ひとまず、話が結構長くなってきたので自分なりにまとめてみました。
> 引用部分も全部白になっていますが、直すのめんどくさいのでそのままにしてます。

え〜と、すみません。
やはり色が付いてないと、何処から何処までが、どの引用なのか、
パッと見でよく解らないので、返信で見落としちゃったらゴメンなさい。
初めに謝っておきます(笑)。


▼ 現在の学校ってどんな感じ?
> > 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> > 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> > そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> > 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> > 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> > その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> > 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> > 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> > で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> > それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> > 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> > ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> > ・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
> > 自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。

> いえいえ、その例えで凄くしっくりきました。
> 今まで何となく自分で感じていたことともつながったので少し話させてください。
> 例えば学校なのですが、昔と比べて何となくクラスというつながりが弱くなったと思うんですよね。
> もちろん私は教師でも何でもないので、昔の学校はマンガに出てくるくらいしか知りませんし、
> 根拠には乏しいのですが、でもそこまで外れた見方でもない気がしています。

学校だけに限らず、時代と共に人同士の繋がりが弱くなってるのは事実だと思いますよ。
今の世代よりも、私の頃の方が、そうしたモノは強かったでしょうし、
そして親世代は更に強く、祖父母の時代は更にもっと強い感じでしょうか?
まあ、ぶっちゃけ、戦争なんていう究極の「団体主義」な時代から、
徐々に、平和な「個人主義」の時代に移っていってるという意味では、
それはそれで、良い面も悪い面も両方あるんだろうと思います。
「人同士の繋がり強い」というのは、言い換えると、
「人同士の縛りがキツい」という事ですので(笑)。
あと、これは凄い個人的な主観なのですが、2000年前後のあたりが、
増していく個人主義と、減じていく団体主義のバランスが、ちょうど良かった頃かも?

> 例えば、かつては学校内でもオタクは肩身の狭い思いをしたらしいのですが、
> 私の学生時代には結構そういうものが許容されているというか、否定されないんですね。
> もちろんそれは我々にとっては良い時代になったという感じですし、
> その理由はオタクのイメージ改善にもあるんだと思うのですが、

いや〜、オタクのイメージが改善されたと言うよりは、
「オタク」を指す意味の範囲が広がり、ライトな層も含むようになった事で、
一般人の比率も高まり、抵抗感が薄れたというのが実際の所であって、
ガチオタって言うのは、今でもそれなりに浮いた扱いをさせると思いますよ。
まあさすがに、宮崎勤事件の頃ほどじゃ無いにしても。

って、こういう事を言うと「いや、そんな事はない」と反論が来そうですが(笑)、
もう、それもお決まりな展開で、私が思い浮かべるガチオタと、
旧トルコ担当さんが思い浮かべるガチオタとでは、その程度の度合いが異なるでしょうからね。
そもそも、旧トルコ担当さんがいうのは、意味の範囲が広がった後のオタク像でしょうし、
逆に、私がいうのは、それ以前のオタク像が根本にありますので。
そういう意味では、卵が先か? 鶏が先か? みたいな話で、
「オタク」という言葉の定義が変化した事で、オタクの「イメージは改善された」と言って良いかも?
要するに、どちらも別に間違いでは無いと。

> 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、
って、現在のオタクの定義を用いるのであれば、リア充とだって普通に共用できる訳で、
何だか、こういう時だけ、以前のオタクの定義を持ち出すのは、ちょっとズルいと言いますか、
敢えて卑屈を演じる事による、下からの逆マウント取りの願望が出ちゃってる気がするんですよね。
「○○たんさえ居れば、俺のリアルは充実(ハァハァ」って具合に、
行っちゃってる意味での「リア充オタク」であれば、また別の話なんですけど(笑)。

> 私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、
> なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、
> どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。

これは逆に質問なのですが、実際の所、「スクール・カースト」ってどんな感じなんですか?
元々、アメリカの学校には、そうした階級制度っぽい構図があって、
それが2011年にNHK-BSで放送された、海外ドラマ「glee」のヒットをキッカケに、
日本でも広まっていった概念なので、実は10年にも満たない学校文化であり、
正直言って、私には実状が、よく解らないんですよね・・・・
もちろん、それ以前の学校にも、漠然としたグループ分けはありましたけど、
言霊とでも言いますか、言葉として定義され、概念として普及するからこそ、
今度は人の方が、それに見方や考えが囚われて、構図が固まっていくモノですから、
スクール・カーストという言葉が定着する前後で、やはり相応の変化はあったと思うんですよ。

あと、「学校外でどういう存在か」に関しては、
昔とか今に限らず、やはり別個に捉えられてると思いますよ。
ちなみに、カースト上位だけども「ガチ腐女子」というのは、
本人が公表してるから知られてるという事なのかな?
正直、ガチのレベルがどの程度を指してるかは不明ですけど、
一般人がドン引きするレベルのガチであれば、普通は公表しないでしょうし、
仮に公表したとしたら、カースト上位とやらは保てない気がするんですけど?
それに一般的な腐女子文化だと、下から逆マウントを取りたがるスタンスなので、
カースト上位でというのは合わず、何となくライトな印象を受けてしまいます。
まあ、ちょっとマニアっぽい部分をチラッと見せて、男心をくすぐるというのは、
女性のモテ・テクニックとして、昔からありましたので、それだと腑に落ちますしね。

> マンガもそうだと思うんですよ。
> かつてのマンガ雑誌の時代と比べて、平成のマンガ単行本時代というのは
> 自分の好きなマンガ以外に見向きもしなくなった時代だったと思うんですよ。
> そしてその傾向はネットマンガ時代になってより顕著になったと。
> YouTubeやSNSなどに関しては言うまでもないですよね。

マンガ雑誌の発行部数は、本当に減っちゃいましたからね。
https://toukeidata.com/entame/img/jump.png
特に週刊少年ジャンプは、ピークが1994年に記録した653万部で、
現在は150万部らしいので、実に4分の1以下になったと。
その一方で、単行本の売れ行きは堅調らしいのですが、
それでも、売れてる作品と売れない作品の2極化が本当に極端になりました。
最近は話題になると、単行本の売り上げが、すぐに数千万部とか行きますからねえ。

> この現象の原因は明らかで、情報があふれるようになって、相対的に時間が貴重になったからだと思います。
> 例えば、学校内の人間関係でいえば、LINEは友達を100人作るために使われているというよりも、
> イツメンが朝から晩までつながるために使うわけです。
> つながろうと思えば、隣の学校の人たちとだっていくらでもつながれはしますが、
> そんなことをしていては時間がいくらあっても足りない。
> だからこそ有限な時間を本当の仲良しとだけ共有すると。

え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。
正直、情報が有ろうが無かろうが、大昔だろうが現在だろうが、
1日が24時間なのは全く変わってませんし、時間は貴重なんて事は数千年前から言われ続けてます。
もっと言っちゃえば、昔の方が平均寿命が短いので、今より時間が貴重です(笑)。
ともかく、やるべき事、したい事が多い人ほど、時間をフル活用するモノですからね。
固定電話で長話するのも、コンビニにたむろするのも、ファミレスやカラオケで徹夜するのも、
時代に応じてツールが変わるだけで、今のLINEと大した違いは無いと思うんですよ。
何というか、効率化を正当化する為の言い訳として、時間は貴重と言っている気がしています。
「まったりしたい」とか、「あれこれ考えたくない」とか、素直にそれで良い気がするんですけどね。

> スマホゲームも、今自分が好きなゲームにいくらでも時間を費やしたいわけで、
> 今人気のスマホゲームを追いかける時間がないからこそ、
> オタク界隈はどんどん深く狭く、なんかもう限界集落みたいな感じになってきてるんですよ。
> 仮に同じスマホゲームを遊ぶ層でも、そのスマホゲームのゲームが好きな人と、キャラが好きな人と、
> 同じキャラが好きな人でも、そのキャラと恋愛したい人と、そのキャラと別のキャラのカップリングが好きな人とで、
> どんどん細分化されていくわけです。

「どんどん深く狭く、どんどん細分化されていく」と感じられているのだとすれば、
それはもう、爛熟期から衰退期へと突入している典型的な兆候ですよ(笑)。
文化であれ何であれ、どんな分野も基本的には、
「萌芽期→成長期→全盛期→爛熟期→衰退期」という曲線を描くモノですからねえ。
ですから、私が最初から言っているのが、
それに変わる「新しい文化」についてな訳です。
延命させたり、再起させたりというのが、全く存在しない訳では無いですけど、
ただまあ、ほとんどの場合は、それに変わる新しい何かの登場が必要なんですよね。

> 鬼滅の刃もそうです。私は見てないのではっきりしたことは言えませんが、
> おそらく小学生の鬼滅の刃の見方と、腐女子のお姉さん方の鬼滅の刃の見え方と、
> 話題になってるということで読んでみたおっさん世代の見え方というのは実は全然違うのではないでしょうか?

これは当然そうですし、意外と昔から変わらないかも?
例えば大晦日に、家族みんなで紅白歌合戦を見ていたとして、
やはり、子供と お母さんと おじいちゃんとでは、見え方が違うでしょうし、
昔は「この歌 知ってる」率が、今より高かったとは言っても、
対象となる世代によって、同じ歌でも感じ方は異なってくる訳ですね。
そういう意味では、世代を越えたヒット作である鬼滅の刃も、同様かと思われます。

> こういう、自分の関心の無いものへの徹底的な無関心が、
> 現在の特異な状況を形成しているのではないでしょうか?
> 言ってしまえば、社会の部族化といいますか、同じ部族内の出来事には関心があるけれども、
> 他の部族のことには興味ないよ、という態度といいますか。
> だからこそリアル書店や秋葉原のような、マニアックだけれども一般人でもアクセス可能な場所は衰退いっていると。

う〜ん、それはちょっと違うかなぁ?
自分に関心あるモノだけ徹底的で、無いモノには無関心というのは、
それこそ、従来からマニアな人種のイメージそのものなので(笑)、
マニアな場所というのは、元々そんな感じだったと思いますよ。
まあ基本的に、その場が保てなくなるというのは、
需要そのものが減ってしまったり、場が荒らされて廃れたりが多いのかな?
簡単に言ってしまうと、新規オタク層のライト化であったり、観光地化の弊害であったり。
もちろんネットの発達によって、リアルな場での取引が減った部分もあるのでしょうけどね。

▼ SNSと情報収集について
> > SNSを利用すれば、確かに多くのファン同士を見つける事が出来るのでしょうけど、
> > ハッキリ言って、自分と同じ価値観をもつファン同士が繋がった所で、
> > そこから新たに得られるモノは少ないのは、交流が目的ではなく手段だからなのでしょうね。
> > それこそ求めるのは、自分の殻を打ち破ってくれるような、思わぬ雑音の存在なのでしょうけど、
> > しかしSNSというのは、同じ様な意見を集めて、雑音をカットするには向いているからこそ、
> > その正反対には層には、まるで満足感を得られない世界であると感じるんですよ・・・・
> > だからこそ、逆説的に言えば、SNSが幅を利かせれば利かせるほど、場が失われて行くと。

> もちろん「自分の殻を打ち破ってくれるような、思わぬ雑音」は現在でも必要とされています。
> かつてはフラっと立ち寄った書店や映画館がそういった雑音を提供してきたわけですが、
> SNSもそういう使い方をすればちゃんと雑音を拾ってきてくれますし、
> そういった使い方をしている人たちは少なくないと個人的に見ています。

では具体的に、どのように用いれば、SNSでも雑音を収集できるのでしょうか?
私にはまるで思い付かないので、是非とも方法を教えて戴きたい所です!!

> もちろんその雑音はあくまで自分に近いところの雑音でしかないわけですが、
> ですがもう我々にとっては30年前に存在していて
> いま日本で消えかかっている書店や映画館のような完全な(?)雑音は効率が悪いわけです。
> それよりも、自分と似たような嗜好を持ったフォロワーから
> マンガなり、ゲームなりをお勧めしてもらったほうがよほど効率が良い。

う〜ん、この返信内容から受ける感じだと、
ここで私が言っている「雑音」の意味が、まるで理解されてない気も・・・・
パッと見聞きした限りでは、不快だったり意味不明だったりするノイズ的な意見の中にも、
耳を澄まして聞いてみれば、時に思わぬ有益な情報を得られるモノを「雑音」と例えた訳ですが。
今の時代、自分の嗜好に沿った世間的なオススメに、
簡単に辿り着けるなんて事は、それこそ百も承知な訳ですよ。
その上で、自分と異なる嗜好であったり、オススメや世間的で無いモノを、
「効率良く」知る手段というのが、そうした従来のリアルな媒体以外に、
例えばネット上の何処かで、新たに誕生していたりするのでしょうか?

> 別に30年前も書店では今ロシアで話題の本が山積みなっていたり、
> 映画館ではインド映画が上映されていたわけではないではないですよね?

いや〜、恐らくはこれは、有り得ない例として挙げたのでしょうけど、
逆に、ピンポイントであった事例ですね(笑)。
ソ連崩壊がちょうど30年前なので、それなりに専門的な書店へ行けば、
共産圏側の事を知る目的などで、ロシア語の書籍は今より大量に並んでましたし、
(冷戦中は、英語に次ぐ国際言語がロシア語でしたから)
30年前とは行きませんが、23年前にはインド映画「ムトゥ 踊るマハラジャ」のヒットを受け、
マニア向けの小さな映画館では、意外とインド映画も上映されてたりしたんですよ。
今では書店も映画館も、生き残るには大型化の一途で、しかもラインナップは売れ筋ばかりですが、
十数年くらい前までは、そうしたニッチな需要に応える専門書店やミニシアターがありましたし、
大型店であっても売れ筋ばかりでなく、読んで欲しい書籍や、見て欲しい作品を並べていました。
それも、書店や映画館が「文化発信」の矜持を抱いており、尚かつ、今より経済的余裕があった為です。

> 話が少しそれてしまいますが、SNSが我々にもたらした変化というのはとてつもなく大きいと思うんですよね。
> SFには集合意識という生物のアイディアがあるらしいのですが、
> その集合意識とやらは体は数億個とあるのに脳が全部一つにつながっているんです
> (おそらくアリやハチの社会が元ネタなのでしょう)。
> で、今スマホを24時間手放さずに生活している我々は、その集合意識になろうとしていると。

はい、それは解りますよ。
私もここで、集合知とかネットワークという言葉を用い、似たような話は何度かしてますし、
昭和の終わりにヒットした「攻殻機動隊」などは、まさにそうした世界観を描いてますからね。

> SNSによって毎日お互いの情報をやり取りしている相手というのは、
> もはや家族や友人なんかよりもよっぽど強いつながりですし、

家族や友人が比較対照という事は、ここで指されている「SNS」とは、
リアルの対人関係を補強するSNSではなく、ネット上の対人関係におけるSNSだと思いますが、
そこにあるのは、繋がる時間の長さや、繋がる対象の広さであって、
繋がりの強さ自体では決してないと思いますけど?
(もちろん、長さや広さを武器に出来るという意味での比喩表現的な「強さ」はありますがね)

> 個人の自我というのは以前とは比較にならないほど溶け合っている。
> だからリアルな書店なんかが雑音なんかを拾ってくれなくとも、
> その集合意識内部でのバーチャルな書店(それはフォロワーの「面白かった」と
> Amazonの電子書籍販売によって構成される)があれば充分じゃないのでしょうか?

え〜と、すみません。
ですから、そうした「同じ様な意見」ばかりが集まっても、まるで進歩が無いので、
時には「思わぬ雑音」が必要だというのが、前回の話の主旨だったんですけど・・・・
もちろん、同じ意見で十分満足か? 異なる意見も欲するか? は、
どちらが良いとか悪いとかではなく、個々人の趣向の話であり自由なのですが、
自分の価値観が全てで、異なる他者の価値観は解らないと、今後何かと大変かも?
理解したからといって賛同する必要は無いですけど、
理解できなければ賛同のしようが無いですし、
そうなると結局、賛成反対の判断基準が単なる感情論になりますからね。
(って、登り切るか落ち切るかすれば、却って感情的に生きる方が楽そうですけど・苦笑)

また、「自我が解け合う」とか「それで充分」という昨今の感覚も、
決して理解できてない訳では無いんですよ。
「今の若い世代はググらない(自分から調べようとしない)」と言われますけど、
似たようなモノばかりとは言え、情報や商品の数量自体が膨大に増える社会の中で、
自分好みに最適化されたオススメで満足できるなら、便利は便利な仕組みですからね。
ですが、それだと単に「作業」するだけになってしまい、
与えられるモノを「消費」するだけの存在になってしまうというのが、
前回、述べた話の主旨の1つではありました。
言うなれば、私には、石田徹也的な世界観↓に映ってしまうんですよ。
https://heapsmag.com/wp-content/uploads/2018/08/Refuel-Meal.jpg
そして、少なくとも私自身は、それでは満足できないと・・・・

もちろん、様々な選択肢が共存する多様性が保てれば、理想なのですが、
しかし現実的には、2極化する時代がそれを許してくれず、
今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。
この辺りもまた、前回した話の主旨の1つですね。
それしか知らない世代からと、違和感など全く無いのでしょうけど、
そう移り変わった世代からすれば、多くが失われたと感じるでしょうし、
そんな事は、常に変化する時代の中で、いつも行われてきた事であるとは言え、
デジタル化やグローバル化がもたらした変化量は、他の時代の比では無いと。
運が良いのか悪いのか、これだけの時代変化は50年や100年に1回のモノですからね。
って、人生100年時代と考えれば、どの年代で迎えるか次第で、
多くの人が、どこかのタイミングで体験するようにはなるのかな?(笑)

▼ アメリカ分断と日本サブカルの意外な関係
> トランプ元大統領をめぐるアメリカの分断も、リアルな書店みたいなものが生きていれば
> ああいう風にはならないのではないでしょうか?

まあ一言に「トランプ元大統領をめぐるアメリカの分断」といっても、
見捨てられていた存在としての「ラストベルト」的な問題と、
陰謀論にハマってしまう「Qアノン」的な問題とでは、かなり次元が異なりますけどね。
ちなみに後者の陰謀論に関しては、日本のオタク文化も少なからず絡んでまして・・・・

こうした陰謀論の発生拠点とされるのが、英語のネット掲示板「8chan」なんです。
何だか、日本の匿名掲示板「2ちゃんねる(現5ちゃんねる)」に似てますよね?
実はそれもそのはず、この8chanは2chから派生を重ねて生まれたサイトだったんです。
まずは日本の中で、画像も投稿できる2ch的な「ふたばちゃんねる」が派生して、
そこでは主にアニメ画像が投稿された事から、海外のアニオタたちも集まるようになり、
そこから更に、自分たち主導で楽しめるよう英語版の「4chan」が生まれる事となります。

まあ日本の2chの方では、電車男のブームもあって利用者も増加し、
それに伴って、アングラ的な雰囲気はかなり薄れていったのですが、
海外のアニオタ層が中心の4chanは、利用者数が限定的だった事もあり、
元々の日本サブカル要素に加えて、2ch的なアングラ要素も残り・・・というか濃くなり、
更には、その親和性の高さからネトウヨ要素まで、日本から取り入れてしまい、
ダークなネットの側面を煮込んだサイトのようになってしまうんですよねえ・・・・
そうした中で、「さすがに過激すぎる」という利用者たちは、
次第に4chanから追放されていくのですが、そんな彼らが逃げ込んだのが「8chan」でした。
当然ながら、8chanの方が4chanよりも更にダークさで勝る掲示板になる訳です。

で、そんな8chanや4chanでは、アニメやアングラ的な話題に交じって、
荒唐無稽な陰謀論とかも飛び交う場所になるのですが、
ついには「嘘を嘘と見抜けなくない人」たちが、実際に行動を始めちゃうんですよね。
まあ日本だと、尖閣諸島の中国漁船衝突事件が発生した際に、
有名なホモAVをネタにした「隊員が銛でケツを突かれた!」という嘘コピペが拡散し、
それを信じた石原慎太郎(当時 都知事)や、佐々淳行(初代 内閣安全保障室長)が、
「確かな情報筋によると」と、テレビで公開する馬鹿をやったりしたのですが(苦笑)、
これがアメリカになると、ただのピザ店で銃乱射(ピザゲート事件)を起こしたり、
それこそ、この前の議事堂襲撃事件とかを起こしてしまうと・・・・

また、そんな彼らが用いるアイコンは、多くがアニメ画像であったり、
人種差別の象徴に「カエルのペペ」が、ロリコンの象徴に「クマー」が用いられるのも、
8chanや4chanに、そうした日本サブカル的な下地にあるからなんですよね。
日本版のQアノンである通称「Jアノン」とかは、ある意味で逆輸入と言えるのかな?
それを受け入れる土壌は、当然ながら、出身地だけに高いでしょうから(苦笑)。
あと個人的には、昔の2ch的な雰囲気を残しつつ、アニメの画像に溢れ、
でも使われている言語は英語で、集まる人たちも多国籍という、あの空間自体は、
リアルに問題さえ起こさない限り、決して嫌いでは無いですけどね。
と言いますか、絶対にメインにはなれない存在ですけども、
世界中で必ずハマる層が一定数いる、この日本的なサブカル文化は、
「Cool Japan」なんて表層的なモノではなく、もっと強い武器に出来ると思うんですよ。


▼ 経済と文化の相互性について
> > > なんとなく、文化が発展するのは貧しさが背景にあるような気はしています。
> > > 例えば日本は島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展したわけですが、
> > > これはつまり魚以外の食材(例えば肉なんか)が手に入りにくかったからこそ色々な魚の食べ方が発展したわけで、
> > > これが最初から現代みたく肉でも魚でも菓子でも保存し放題であれば、
> > > ここまで魚の食べ方が発展しなかったと思うんですよね。

> > ただ一方で、「島国で魚がたくさん取れたから魚料理の文化が発展した」との一文は、
> > それこそ「貧しさ」だけでなく、「豊かさ」も表してますよね?
> > 肉視点で見れば貧しくても、魚視点で見れば豊かだったので、発展したと。
> > なので、文化が発展する要因というのも様々かと思われます。
> > また、これは以前にも書きましたが、文化であれ何であれ、
> > 常に一定という事はなく、時代に応じた盛衰のサイクルというモノは存在しますから、
> > 一言に日本の食文化と言っても、変化はいろいろとありましたね。
> > そもそも論になっちゃいますけど、日本人がたくさん魚を食べるようになったのは、
> > 冷蔵・冷凍技術が発展してからの事なので、そんなに古い歴史がある訳では無いので・・・・
> > 前回も少し触れましたけど、ここまで一般的に大トロや中トロが食されるようになったのは、
> > 平成に入ってからの事だと記憶してますね(それまでは値段が高くて特別な存在でした)。

考えたら、確かに日本って食される魚介の種類って豊富ですけども、
それは四方を海に囲まれ、寒流と暖流が交わる地理的条件に恵まれたという話で、
勿論それも食文化の一面ではありますが、調理法や調味料は至ってシンプルであり、
我々がイメージするほど、「日本って魚食文化が豊かなのか?」とも思えてきました(笑)。
種類の豊富さという要素を除くと、目立つのって刺身などの「生食」くらいですし、
以前、マンネルヘイムさんとの雑談でも話題に上りましたが、
世間的イメージだと、日本独自と思われがちな「納豆」や「醤油」の食文化も、
決してアジアでは珍しくなく、それ所か「日本はレパートリーが少ない」評価なんですよね。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r23131
そもそも日本食って、いわゆる世界三大料理(中華・フレンチ・トルコ)に含まれておらず、
近年では世界で人気なものの、その最大の要因は「ヘルシーさ(低カロリー)」なので、
よくよく考えてみると、「豊か」というのとは、実はちょっと違うのかも知れません。
いや別に、シンプルなのが悪い訳ではなく、私自身もそのシンプルさこそ好みですが(笑)。

あとは、「日本食」という全体のカテゴリーで捉えた場合、
伝統的な和食だけでなく、様々な海外の料理を採り入れて日本化した洋食文化などは、
世界の食文化史的に見ても誇れる豊かさがあると思いますが、一方で歴史はそこまで深くなく、
(一般家庭に広まったのは戦後であり、外食がここまで種類豊富になったのはバブル期以降)
こと「魚食文化」に与えた影響って、実は意外と少ない気がします・・・・
まあ逆に考えると、魚食に関しては、それだけ慣れ親しんだ不動の食べ方が既にあり、
それ以外の肉に野菜にデザート、調理法や調味料などの面が今まで乏しかったからこそ、
広大な新規開拓の余地が残されていて、急拡大できたのかも知れませんね。
ですがこれも、戦後の高度経済成長やバブル景気が背景にあった事を考えると、
やはり文化は、「貧しいから発展する」よりも、「豊かだから発展する」面が強い気がします。
まあ、共産圏でのアネクドート(政治風刺の小話)だったり、日本だと江戸時代の落首など、
規制が強い社会だからこそ、発展する文化とかも確かにあったりはするんですけど、
でも、そういった社会だと、発展を妨げられる文化の方がずっと多いでしょうしね。

> > あと、これを根拠に「貧しくとも文化は発展する」と言いたいのかも知れませんが、
> いえいえ、これはむしろ逆で、貧しさを失ったからこそ新しい文化が生まれてこないのではないか?
> ということです(前回の文章が言葉足らずでした)。

いや、別に言葉足らずとかではなく、意味としては理解できてますし、
特に「逆」という感じもしませんけどねえ。
私自身の見解を踏まえた上で、あまり強い否定意見にならないよう、
上記のように表現したというだけの事であって。

> 貧しくあればこそ工夫しますし、そこに文化が生まれると思うのですが、
> 豊かであれば工夫も必要ないですからね。

でしたら、アフリカの貧困スラム街から、バンバン文化が生まれる一方で、
逆に、ニューヨーク・ロンドン・パリ・東京の世界4大都市からは、
全く文化が生まれてこない事になりますけど、本当にその見解で良いんですか!?(笑)
もちろん、単に黙って消費するだけの存在であれば、工夫も何も必要ないでしょうけど、
消費の前には創作する人が居ますし、余裕が増えればその割合も増えていきます。
貧しさに支配されてしまうと、そんな余裕すら、ほとんどの人は持てませんよ・・・・
ちょっと冷静に考えてみて下さい。
「来月から小遣い半分ね」と言われたとして、
「ヤッター、これでオタ活動が更に捗るぞ!」って、本当になると思います?(笑)
如何に使うお金を切り詰めるかで、頭がいっぱいになっちゃうと思いますよ。
実際、戦後の日本サブカル文化も、何だかんだで経済成長と連動しているはずです。

例えば、原宿・下北沢・高円寺など、路地が複雑で再開発が難しかった地域こそ、
狭い面積で賃料も安く、若い人材が集まりやすくて、新たな文化が育つ面は勿論ありますし、
そうした地域に再開発の手が及ぶと、商業主義の論理に飲み込まれて、
却って文化的には後退する例も、決して珍しくないのは事実です。
それはそれで、目先の利益はさておき、長期的な視点だと大きな損失だと私も思っています。
ですが一方で、新しい文化が芽を出しても、それが成長する為には、
やはり市場の存在が不可欠であり、間接的にせよ、経済の後ろ盾がないと困難なんですよね。
それが無いと、再開発が難しい地域あっても、単なるスラム街になってしまうのが現実であり、
貧しさの中での工夫の先に成功があったとしても、その成功に必要なだけの市場が要るんです。
こういう言い方をしては何ですが、同じ1000万人都市であっても、
日本の東京が、ブラジルのサンパウロや、ナイジェリアのラゴスなどと違うのは、
単に人口が多いだけでなく、経済的な豊かさが等しく広まる事で、
ニッチな市場でも成り立ちやすく、多様な文化を育めるからなんですよね。
逆に言えば、人口が減ったり、経済が縮小したり不均衡になると、文化も沈滞すると・・・・
扱うのが必需品であればまだしも、文化産業というのは嗜好品ですから、
単純に「規模の経済」でゴリ押しも出来ない分野です。

と、ついでにここで、ちょっと「余暇市場」について見てみましょうか?
昨年発表された2019年度(新型コロナ前)の日本の余暇市場は「72兆2940億円」であり、
これはピークであった1996年の「90兆9070億円」と比べると、実に2割も減少しています。
(1996年はエヴァの放送があり、秋葉原が急速にオタクの街へと変わり始めた年でした)
東日本大震災の後もガクッと落ちましたけど、今回のコロナ禍も影響は大きいでしょうね・・・・
総額が減少する中でも、特に伸びていたのが観光分野だったので、コロナ直撃で厳しい上に、
そもそもインバンド効果が主要因ですから、実際に楽しんだのは日本人ではなく外国人。
では日本人では何が伸びたかとなると、カネのかからないウォーキング(苦笑)。
いや別に、インバンドも経済的には大助かりですし、ウォーキング自体が悪い訳では無いですが、
私たちが享受できる「文化の幅」を育むという面では、やはり厳しい現状な気がします・・・・
以前、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた、海外から流入する文化も決して否定しませんけど、
でも日本食と同じく、やはり自前の文化が日本人には一番良く合うモノでしょうし、
確固たる自分たちの足場があればこそ、他文化のモノも充実して受け入れる余裕が生まれる訳で、
「文化発信国から、文化植民地に落ちる」のでは、個人的に途轍もない寂しさが残ります。
って、この辺の心情も、「Japan as No.1」から「失われた30年」への一変を体験した世代だからで、
低迷する日本しか知らない平成世代や、零落するであろう日本で育つ令和世代からすれば、
これも一種の懐古主義であり、私が感じる程には、抵抗感や悲壮感は抱かないのかも知れませんね?

▼ サブカルと音楽・映画の市場規模
続いて、文化面の余暇市場を、サブカルを中心に個別に見てみると、
アニメが3000億円、マンガが5000億円、家庭用ゲームが4400億円、ラノベが150億円。
音楽が3000億円、映画が2600億円、アート鑑賞が1000億円ですから、
サブカルと言いつつ、なかなかの国内市場規模ですよね(笑)。

ちなみにアニメは、1兆円近い関連市場(例えばパチンコ版権で3100億円)まで含め、
更に海外市場の1兆2000億円を加えると、総額で2兆5000億円に達するそうです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201223/K10012778881_2012222249_2012230634_01_03.jpg
(テレビ970億円 映画692億円 ビデオ563億円 配信685億円
  商品化5813億円 遊興3119億円 音楽337億円 ライブ884億円 海外1兆2009億円)
深夜アニメが増え出した2002年が、国内7200億円&海外3700億円で1兆1000億円ほどでしたから、
まさしく急成長と言えますが、実は国内市場に限って言うと2014年をピークに減少傾向。
一方で海外輸出は2014年を境に横這いから急増に転じており、近い内に国内収益を上回るかも?
特に中国のアニメ市場は近年急拡大しており、今や実に2兆3500億円に達してますから、
日本側もまだまだ輸出拡大を望める反面、このまま成長すれば反転攻勢を仕掛けられる可能性も?
一昔前は、中国市場も日本アニメばかりでしたが、今では半分以上が国産アニメらしいですし、
日本市場は日本アニメを好み続けたとしても、海外市場はそうとは限らないですからね。
実際に家電では、韓国・中国・台湾のメーカーにかなり海外シェアを奪われましたので・・・・

そしてマンガは、ついに電子版の売り上げが、紙媒体のそれを上回ったとか!!
これは1つの時代の転機でしょうし、今後はネットとマンガの親和性も更に高まるはずで、
そうなれば、海外展開も更に増え・・・と望みたい所ですが、
マンガ市場は日本が異常であり、世界市場は1兆円ほど、つまりは日本だけで半分を占めていると。
でも、こちらも中国市場は急拡大して、既にアメリカ市場1100億円を上回る2600億円に達しており、
逆の見方をすれば、これから新規開拓していける余地は却って広いのかも?
あと国内だと、マンガとは別枠の「同人誌」市場も850億円と、かなり大きいですね!!
https://www.yano.co.jp/press-release/show/press_id/2572
ただラノベは・・・やはり言葉の壁は大きい上に、そもそも市場的に小さいので、
文化の違いもあって、マンガほどには簡単では無いかも知れませんね。
昨年、北米Amazonが表現上の問題で、日本ラノベの英語版を次々と販売停止にしましたし、
一方で中国では、既に日本以上に、有料ネット小説の文化が独自進化してますから。

またゲーム市場は、家庭用が4400億円で、PC用が1000億円ですけど、
スマホ用が1兆3400億円(実に7割超)と飛び抜けていて、アニメ市場を上回る総額1兆8800億円に!!
って、経済的には大きいものの、それは課金の部分が強いので、ゲーム自体の中身的には・・・・
家庭用ゲームの市場規模は、2007年のピーク時が7100億円でしたし、
近年は人気作品の続編ばかりなので、ゲーム文化の幅的にはかなり狭まってる気がします。
一方で、ゲームの世界市場は年々拡大していて、今では15兆円市場に達しており、
世界の音楽市場が2兆円、映画市場が5兆円である事を踏まえると、驚異的な成長ぶりですが、
日本メーカーの存在感は減少の一途なのが残念な所(海外では課金ガチャが違法な国も多いですし)。
う〜ん、家庭用ゲーム機の事を、アメリカでは「Nintendo」、欧州では「PlayStation」と呼ぶくらい、
一昔前までは、海外でも「TVゲーム=日本」のイメージが強かったんですけどね。
それが今や、携帯ゲーム機の要素がスマホに吸収され、ゲーム専用機の需要も落ちる中、
(世界市場だと家庭用3割・PC用2割・スマホ用5割と、何だかんだでソシャゲも多い)
日本市場やアメリカ市場(3兆3000億円)を上回り、中国市場が4兆1800億円と急拡大し、
中国テンセント社のゲーム部門が売り上げ2兆円を超えるなど(任天堂の実に5倍!)、
本当に、世界市場におけるゲーム業界の時代の激変ぶりを大きく感じさせます。

まあ「単に中国市場がデカいだけ」とも言えますが、テンセントは中国版GAFAの一角であり、
これだけ資本力で日本企業と差があると、今後は技術的にも厳しくなる展開が予想されるんですよね。
あ〜、もしも総務省と経産省の縦割り的な縄張り争いとかが無くて、
ゲームボーイやPSPが全盛だった時代に、携帯ゲーム機に通信機能を付けられていたら、
スマホを含めた業界全体の構図が、今とは大きく異なっていたかも知れないのになぁ・・・・
「ゲーム機が携帯電話に近付き、携帯電話がゲーム機に近付く」と当時は言われてましたけど、
ゲーム機の方が使い勝手に優れていたものの、通信の許認可権でゲーム機は圧倒的に不利であり、
国内でゴタゴタしている内に、アッと言う間に海外勢に追い抜かれてしまいましたからねえ(泣)。
これは何もゲーム産業に限らず、世界全体の経済市場的にも、
バブル崩壊後も00年代前半くらいまでは、まだ日本にもチャンスがありましたけど、
今や、米中の覇権争いに日本が割って入るのは、もう難しい状況だと思います。
(で、そんな00年代後半のタイミングに「サブカルの大衆化」や「秋葉原の観光地化」が進んだと)

最後に、サブカル以外の娯楽産業について少し見てみますと、
音楽業界は今や、曲そのものよりも、ライブ・イベントで体験を売る方が大きくなっており、
実際に日本国内でも、音楽市場3000億円に対して、ライブ市場はそれを上回る4200億円です。
やはり今の時代、仮想的なデジタル化が進んだからこそ、リアルの価値が増してるんですよね。
例えば秋葉原であれば、メイド喫茶とか、会いに行けるアイドルやAV女優とか(笑)。
(ちなみに市場規模だと、メイド喫茶系が120億円、アイドル業界が2600億円、AVが500億円)
ただ、それだけに昨今のコロナ禍は、音楽業界だけでなく全業界的に大打撃ですし、
デジタル化の流れは止まらない以上、体験型の価値は更に上がるのでしょうけど、
今後コロナ禍が収束したとして、復活までにどれだけ掛かり、どれだけ生き残れるのか・・・・
(余力のある大資本だけが生き残り、回復後は市場が寡占化される可能性も有り得そう?)
あとJ-POPの場合、海外売り上げは国内の1%程度なのも、サブカルに比べると厳しい所。
韓国のK-POPなんて、国内630億円・海外610億円と売り上げが同程度であり、
国内市場の規模では日本が5倍と圧勝するも、こと海外展開では韓国が30倍で超圧勝状態。
ただ逆に考えれば、J-POPもまだまだ、海外で市場拡大できる余地があるのかも知れませんね?
現状、成功してるJ-POPはアニソンが主ですけど、K-POPの成功例が実際にある訳ですし。

そして映画の方は、アメリカと中国が1兆円超えで圧倒していて、日本は蚊帳の外でしょうか。
売り上げ的には邦画も堅調とは言え、今ではアニメ劇場版とテレビ局制作の映画が大部分を占め、
固定客相手で安定的に収益は見込めるのでしょうけど、これでは作品的に輸出面では苦戦しそう。
これは韓流ドラマとかに限らず、家電や自動車などの輸出産業全体で言える事ですが、
この辺は韓国の方が国内市場が小さく、初めから輸出前提で国策的に進められている為、
日本市場が中途半端に大きく成熟している所が、却って輸出面では仇になっているのかな?

▼ アート、ギャンブル、スポーツの市場規模
あとは個人的に、今の日本で伸ばせる余地が大きいと感じているのが、現代アートですね。
この分野は、日本市場だと300億円と小さいですが、世界市場は7兆6000億円もありますし、
現代アートと日本サブカルの親和性って、意外に高いと思うんですよ!!
静的な「建築・彫刻・絵画」と、動的な「音楽・演劇・文学」という
古くからある6つのアートに対し、技術革新により生まれた新たなアートとして、
「写真」や「映画」は、第7芸術とか第8芸術とか呼ばれているんですけど、
それに続いて「アニメ」や「電子ゲーム」が、第9芸術や第10芸術と呼ばれ始め、
そして現在、「デジタル・アート」の事を第11芸術と呼ぶ動きがあるんです。
お台場や豊洲に体感型のデジタル・アート施設がある、チームラボあたりは有名かな?
デジタル技術とリアル体験の融合って、それこそサブカルの「2.5次元」に近いですし、
映画やアミューズメント施設に限らず、こうした融合は一般生活でも増えつつあり、
ビジネス的に言っても、WindowsOSの登場によりパソコンが一般化したのと同じく、
この辺りの技術は今後、世界的にも需要が更に急拡大する分野だと思うんですよね。
ちなみに、日本と西洋美術の関わりで言うと、新たなアートが生まれる直前の明治期に、
1つの完成を見た古典的アートを様々に吸収し、国内的に劇的な変化が生じたのですが、
中国ではこれが改革解放後に起こった為、いきなり現代アートにアクセスする事となり、
創作活動としても、国内市場としても、日本の比では無いほど活発だったりします。

とは言え、現代アートとサブカルの親和性という面では、日本の潜在能力も高く、
そこを上手く突いた村上隆の作品なんて、かなりトンデモない金額で売れており(笑)、
ヴェルサイユ宮殿でも展示された、このメイド・フィギュアは6000万円で、
https://image.itmedia.co.jp/makoto/articles/1009/17/do_ism100917_03.jpg
こちらのフィギュアは、左側の男型が何と16億円、右側の女型も4000万円で落札されました。
https://livedoor.blogimg.jp/wawabubu/imgs/2/e/2ed7d001.png
まあ、マネー・ゲーム的な側面はさておくとしても、
アニメの関連産業でも、グッズ販売は5800億円と非常に大きいのですから、
ここでアート方面に参入したり、逆にアートを取り込んだりしても面白いと思うんです。
日本でアートというと、学校教育的な教養の側面ばかりがステレオタイプ的に意識され、
しかも受験教科ではない為、役立たずで縁遠いイメージのまま、蔑ろにされがちですけど、
サブカルを通して、世間に溢れるアート要素をもっと再認識してもらいたいな!!と。
例えば、ユニクロで人気のアニメTシャツなどは、これにちょっと近い気はしますし、
両者が上手く融合できれば、等身大のフィギュアやドールも、もっと量産されるかも?
上記のフィギュア作品にしても、村上隆はオーダーしているだけで、
実際に作ってるのは海洋堂のプロ原型師だったりしますが(建築家と大工の関係に近い)、
需要が拡大すれば、必然的に職人たちも潤うので、それはそれでアリだと思うんですよ。
(市場規模は、フィギュアが320億円、ドールが120億円、プラモが300億円、鉄道模型が100億円)
この辺の現代アート作品って、今の日本ではあまり理解されてない上に、
サブカルを利用して金儲けをしていると、特にオタク層からの評判は最悪なのですが、
ただ実際、アニメ界もパチンコで稼いでいる現状を踏まえれば・・・ねえ。

と言うか、日本って世界的にも図抜けて、ギャンブルへの許容度が高いですよね!?
世界のギャンブル市場って、ゲームさえも上回る25兆円規模なのですが、
一応、表向きにはギャンブルに含まれてない日本のパチンコは、単体でそれに匹敵します。
ちょっと古いデータですけど、2000年の日本国内のギャンブル市場って、
競馬などの公営が6兆8000億円、宝くじが9500億円、そしてパチンコが28兆7000億円と、
当時の余暇市場85兆円の実に半分近くが、この分野で占められています(苦笑)。
昨今、日本ではカジノ解禁がどうこうと問題になってますけど、
あのラスベガスでさえ6500億円程度な事を考えると、大した話じゃない気がしますし、
(世界市場に比べて小さく見えるのは、オンラインのカジノやスポーツくじが急拡大した為)
ラスベガスにはショー・ビジネスを支えてる文化の側面もあるので、まだマシな感じがします。
いやまあ、アニメのパチンコも、文化だと言えば文化なのかも知れませんけどね。
良い悪いはともかく、特定の場所にしかないカジノと違い、パチンコは全国各地で楽しめる訳ですし。
(ただし全盛期の30兆円から、今では20兆円に市場が縮小し、パチンコ業界も厳しいとは聞きます)

う〜ん、でも個人的には正直な所、別方面で日本の余暇市場が拡大して欲しい気持ちがあります。
そういう意味では、スポーツ方面に頑張ってもらいたい所かな?
こちらも世界規模だと111兆円という、超巨大市場なんですよね!!
その内の半分をアメリカが占めていて、日本は平成の30年間で6兆円から4兆円にダウン中(泣)。
いや、それでもアメリカさえ除けば、日本も決して小さい規模では無く、
世界で最も人気の高いサッカーでも、Jリーグは世界でトップ10入りする収益なのですが、
コロナ禍以前の、日本のJ1クラブと、アメリカの大学アメフト部の収益を比べると、
J1トップが大学アメフト13位相当なので、アメリカのスポーツ市場は本当に異次元です(笑)。

 1位: 114億4000万円 ヴィッセル神戸(イニエスタ効果でリーグ史上最高益)
 2位: 82億1800万円 浦和レッズ
 3位: 69億6900万円 川崎フロンターレ
 4位: 69億1200万円 名古屋グランパス
 5位: 67億6800万円 鹿島アントラーズ
 6位: 58憶8400万円 横浜Fマリノス(対象にした2019年の優勝チーム)

https://www.forbes.com/sites/chrissmith/2019/09/12/college-football-most-valuable-clemson-texas-am/
 1位: 161億円 テキサスA&M大学
 1位: 161億円 テキサス大学
 3位: 152億円 ミシガン大学
 4位: 147億円 アラバマ大学
 5位: 145億円 オハイオ州立大学
 6位: 141億円 オクラホマ大学
 7位: 137億円 ジョージア大学
 8位: 132億円 ノートルダム大学
 9位: 128億円 フロリダ大学
 9位: 128億円 アーバーン大学
 11位: 125億円 ルイジアナ州立大学
 12位: 124億円 テネシー大学
 13位: 114億円 ペンシルベニア州立大学

・・・って、何だか書いてるうちに、脱線しまくっちゃいましたね(苦笑)。
まあ結論としては、経済的に貧しいよりも豊かな方が、文化を育みやすく、
かと言って経済至上主義だと、文化も単なる消費財に落ちてしまうので、
日本の国際競争力が落ちている現在、長期的な産業育成と市場拡大の側面からも、
王道もニッチも含め、学問・スポーツ・文化の促進を進めた方が良いと、私は考えていると。
それこそ戦後の日本社会というのは、世界史的に見ても「庶民文化の超大国」だと思ってますし、
目先の社会縮小に汲々とするより、グローバル化の流れを上手く活かして欲しいですよね。
何だか小難しい話をしている感じですけど、簡単に言えば要するに、
私は「おもろい」事が好きなので、それを量産する日本社会を残して伸ばしたいですし、
自分や日本人だけでなく、世界の人々に楽しんで欲しく、
そうなる事が、おもろい事を更に量産する構造となり、それで経済的も潤うのでは?って事です。
と、暴走気味に脱線しましたが、返信を書いてるうちに、
サブカルの市場規模が気になってしまったので、ちょっと調べて書いてみました(笑)。


[23520] 日本サブカルの市場規模と、その影響力(その2)返信 削除
2021/3/9 (火) 23:42:07 徳翁導誉

▼ 百合文化と女装、そしてリアルお嬢様学校
> > 私も別に「マリみて」の存在を軽視している訳では決してありません。
> > ただ、元々の話の流れって、これ↓からですよねえ?
> > > > > オタク的な文化として高まり始めるのは『マリア様がみている』や
> > > > > 『東方Project』などが流行し始めた04年あたりからです。

> > まあそれ以前に、私と旧トルコ担当さんとの間で、
> > 「オタク」や「文化」に定義の違いがある事は、もう何度も語っているのですが、
> > そこ以上に大きいのは、実在する「女子校」の存在感の違いなのかも知れません。
> > それこそ、戦前のエス文化とか、「櫻の園」の映画の話とかもしましたけども、
> > もっと根本的な話として、近年は少子化や共学化の流れにより急減してますけど、
> > 90年代までは女子校って、もっと身近で一般的な存在だったんですよ。
> > なので、お嬢様学校に抱く理想化されたイメージとか、女の園における理想と現実ネタとかは、
> > 別にオタク的な想像上の世界観ではなく、見え難いものの普通に存在してた世界なんです。

> これは全く知りませんでした。
> どうしても百合の歴史のほうをさかのぼると90年代ではなく戦前のエスの方に目が行きがちなので。

返信を重ねる内に「もしかしたら?」と思ったのですが、やはりそうだったんですね。
正直な話、私としても結構盲点な部分でした!!
戦前の女学校ほどでは無いにしても、マリみて的な世界観というのは、
もちろん多分に理想化されてるものの、お嬢様学校などでは存続していたモノですし、
世間的にも、それは何となくイメージとして伝え聞いてはいましたからねえ。
(今みたいにネットで生の声とか届かないので、それこそ伝聞の世界ですけど・笑)、
ちなみに、現在でも「ごきげんよう」と挨拶する女子校が実在していたり、
女子しか居ないからこそ、独自進化したバレンタイン文化とかは、
結構有名だと思うのですが・・・・あまりリアリティーとか無いのかな?

半減したとは言え、「今でも女子校くらい残ってるでしょ?」と、最初は思ったものの、
それは都心や一部地域の話で、地方だと場所によって壊滅的な所もあるみたいですし、
受験戦争が日本よりも厳しい中国人のオタク学生が、日本の学園アニメを見て、
「放課後に部活やバイトなんて、妄想が生んだフィクションの世界だろ」と感じるみたいに、
マリみて的な世界観も、あの作品が独自に作り上げたと思えたのかな?と。
まあ今の時代、そんな深窓の令嬢で育てられても、後々苦労するのもあって、
女子校が減っている側面もあるんですけどね(苦笑)。
それこそ、森永製菓の社長令嬢として、聖心女子学院で育った
前首相夫人である安倍昭恵さんの浮き世離れっぷりを見れば、それも少し実感できるかも?

> ただ、それを聞いた上でもやはり90年代の百合と現在の百合はやはり変化していると思いますよ。
変化はあるだろうと、私も思っていますよ。
と言いますか、別に初めから「変化の有無」を問うていた訳ではありません。
また、そうした文化内の変化を「新しい文化」と呼ぶのは不適当で、
その時々の「傾向」だよね、というのは繰り返し述べている通りです。
もっと具体的な話をすると、「最近は2chもニコニコ動画も元気ないよね」という時に、
「現在の百合の変化」が、それを穴埋めして余りあるモノか?という話なんです。
百合文化そのものがじゃなくて、その「変化」がですよ!?
ましてや始めの話では、「秋葉原や神保町の魅力低下」に対する話だった訳で、
正直な所、とてもじゃないですけど、それが代替物足り得るとは思えません。

まあ、それはともかく、マリみてについては、こう表現すると解りやすいですかねえ?
セーラームーンが第1波であったとすれば、マリみては第2波であったと。
そして、例えば東日本大震災や熊本地震の時のように、
後から来たの方が大きい場合には、2発目が本震で、1発目は前震と呼ばれますけど、
でも大体の場合、1発目の方が大きくて、2発目以降が余震と呼ばれるモノです。
セーラームーンとマリみての関係も、そんな所だと思いますよ。
そもそも、もし仮に物理的には同程度であったとしても、
やはり第2波より、最初に訪れる第1波の方が、人々に与えるインパクトは大きいですし、
この件に関しては、セーラームーンとマリみてが同程度であったとも言えないと思うんです。
身も蓋も無い事を言ってしまうと、マリみてが水曜深夜のローカル放送だったのに対して、
セーラームーンは土曜ゴールデンの全国放送でしたし、放送話数もかなり差がある為、
視聴者の規模(影響を与えた人々の範囲)が、圧倒的に違うんですよね。

また例えば、百合ではなく「やおい」に関して言うと、
アニメ「純情ロマンチカ」のヒットは、ゲイでも腐女子でもないノンケな男性アニオタにまで、
やおい文化を広めた存在として、非常に大きかったとは思うんです。
視聴者層が増えた事で、BLアニメの市場(作品数)も拡大しましたしね。
ですけど、純ロマ以前と以後で一変したのは、それこそ一般アニオタ層での話であり、
やおい文化全体で見た時には、そこが最大の転換点であったとまでは言えない気がします。
「東京タワーとエッフェル塔。どっちが攻めで、どっちが受けか?」論争の方が、
やおいに新境地を切り開いたインパクトとしては大きかったかも知れません(笑)。
という事で、やおいにおける「純ロマ」が、百合における「マリみて」って印象かな?
確かに、当時のアニオタ目線で主観的に語るなら、それらは一大転換点となるでしょうけど、
そのジャンルの通史として客観的に見た場合、幾つかある大きな波の1つだと感じるんですよね。

って、でもまあ結局は、これも「文化」の時と同じで、
「転換点」という言葉の定義に対する、双方のイメージにおける規模の違いなんだと思います。
繰り返しになっちゃいますけど、私も決して、
百合文化における「マリみて」の存在を過小評価するつもりは無いので。
ただ、「個人的な経験」と「社会的な歴史」が異なる事は、ハッキリ言っておきたいですね。

> 多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、
> 10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
> やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが
> 現在の百合の根底にあると思います。

ちなみに、それを示す資料か何かはあったりするのでしょうか?
難しければ、そんな願望を叶える作品の存在とか。
いや別に、男オタクの少女趣味とか少女化願望というのは、昔からあったりしますし、
それこそ昨今、キャッキャウフフを眺めていたいという願望だけでなく、
キャッキャウフフに混ざりたいという願望があるとは聞きますけど、
それがイコールで、「百合」というモノに繋がるとは必ずしも限らないと思いますし、
「女の子になって女の子と恋愛したい」というのが、果たして百合なのか?というのあります。

それと女装に関して言うと、昭和の頃から原宿などに出没する
キャンディ・ミルキィさんという有名人が居られるので、今更キモいとかは思わないかな?(笑)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A3

> だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、
> キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。

こちらも、百合人気の違いを示すデータとかは、何かあったりするのでしょうか?
上記を含め、この2点に関しては、ようやく具体的に聞けた「百合の変化」ですので、
是非とも返信を期待したい所ですね。

いや、東方・アイマス・ラブライブ・艦これといった題材が、
もう古典として、今でも安定的な人気を保っているのは承知の上で、
それでも特に「百合人気」を測るというのは、なかなか難しい事だと思うので。

> VTuberが流行したのも、もちろん視聴者側の需要もありましたが、
> 一方でかわいい女の子になってみんなからかわいいかわいい言われたいという
> 供給側の需要もあったと思うんですよね(ただその大半が再生回数3桁レベルなのが現実の悲しいところですが)。

この場合のVTuberとは、男性が美少女アバターをまとう「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の事?
それとも、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberの事でしょうか?

まあ前者の場合、中の人が男性だからこそ、同性の心の機微に通じてるみたいな感じで、
「こんな可愛い子が女の子のはずがない」的な世界観を築いてる方も、きっと居るのでしょうが、
しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・
って、百合趣味少女×女装ドS少年の「まりほり」くらいなら、まだギリとしても、
バ美肉おじさんまで行くと、果たして百合文化の範疇で捉えて良いモノなのでしょうか?
私も詳しく知ってる分野では無いので、いろいろ話は聞いてみたい所ですけどね(笑)。

ただ個人的には、10年前の3DCGオンライン・エロゲー「らぶデス555」の衝撃が強かった為、
http://asitagamienai.blog118.fc2.com/blog-entry-810.html
バ美肉おじさんみたいな存在を聞いても、「そうなんだ」くらいの感じがしちゃいます。
VR風俗でも、中の人が男性だったり、アバターが非人間キャラだったもあるそうですし。
https://www.youtube.com/watch?v=DYjeynmbR4c
ついでに言うと、こちら方面の話も、もし詳しければ伺いたい所だったりします!!
これこそ、ある意味では、私の知らない新しい文化でしょうから(笑)。

続いて、もしも後者だった場合は、
AKBに端を発する会いに行けるアイドルから、地下アイドルの分野が派生して、
その中から、ネット上での活動だったり、仮面を被って素性を隠しての活動など、
様々な形でのアイドル活動が生まれた中、デジタルな仮面を被ってのネット地下アイドルこそ、
まさに、一般的にイメージされる女性VTuberだと思うんです。
ですので、「かわいい」と持て囃されたい願望があるのは確かでしょうけど、
個人的には、こちらは百合文化の延長というより、アイドル文化の一部といった印象ですね。
VTuberが出演するテレビ番組も幾つか有りますが、扱われ方は従来のアイドル枠そのままですし。


▼ 宮台真司の監修本を読了
> > > > ちなみに、例えば、ここで挙げた両名に関して、
> > > > 「違うなぁ」と感じさせた書籍とかは、実際にどんなモノがあるのでしょうか?
> > > > 正直、私自身は両名に関して詳しく知らないので、具体的な著書名をいくつか挙げてもらえると、
> > > > それを読む事で、私の方からも、もっと詳しい返信が行えるかと思えます。

> > > いやいや、私自身もきっちり読んだわけではないので、そこまでされなくても結構ですよ。

> > でも、学者や論評家の意見に対して、漠然とした切り取りやイメージだけで、

>>  安易にどうこうと、自分の意見は述べられませんからねえ。
> > そういった拘りの強さこそが、学術的やオタク的な気質だろうと、私なんかは考えていますね。
> > とりあえず、これをキッカケに現在、宮台真司が監修した
> > 「オタク的想像力のリミット」を読み始めましたけど、
> > https://www.amazon.co.jp/dp/4480867244
> > 10人くらいのミニ論文集って感じで、なかなか良くまとまってる本ですよ。

とりあえず、上記の本は読了。
この本で、宮台真司の寄稿は第1章と最終章だったのですが、
これを読んだ限りでは、やはり彼自身は「オタクではない」と言いますか、
それ以上に、もともとサブカルの愛好者ではあるみたいですが、
彼が大人になって以降、サブカル界で主流を占めるようになったオタク文化に対して、
「キモい」という感じで、明らかに嫌悪感を抱いているようですね。
その一方で、サブカルを扱う社会学者として、オタク文化には研究的に接していると。
なので、オタク文化ファンから見た場合に、世代とか視点の違い以上に、
こうした批判的な価値観に基づく論説が、内容以前に癇に障るのかも知れませんね。

ちなみに、その論説内容の中身について言うと、
他の研究者などの論説を引き合いに、全体的な流れを述べてる部分は、
ネガティブな見解も含めて、そこまで的外れでは無いというか、無難な感じでしたし、
将来的な見立てに関しても、私と同意見になる箇所は多々ありましたので、
大筋のオタク文化論的には、そこまで間違ってないんじゃないの?といった所。
ただし、それはあくまで客観的に述べている時に限った話でして、
これが主観的に自説を述べ始めると、かなり香ばしい印象に替わってきますね(笑)。
別に自説自体も、「まあ、そういう見方も一面では出来るよね」という内容なのですが、
それを全てと捉えて断言し、自画自賛が過ぎる所に、学者としての質の低さを感じさせます。
特に、専門外である歴史学や文化学からの引用は、自説補強の為の怪しい解釈が目立ちますし、
まあ言ってしまうと、学者としての立ち位置自体が、王道ではなく「サブ」である為、
その屈折から生まれる、自己肯定と他者否定の狭視野な全能感で自尊心を保ってる印象が、
皮肉にも、彼自身が嫌うキモオタと「瓜二つ」に映ってしまいます(苦笑)。
そういう意味では、オタク文化への嫌悪感も、実は同族嫌悪が根底にあるのかも知れませんし、
育った時代や視点の違いを除いて見ると、それこそ、まさしくサブカル界隈の人なんでしょうね。

私の中で宮台というと、TBSラジオ「デイ・キャッチ」で触れる機会が主で、
たまにネットの再配信(ポッドキャスト)で聞く事があったのですが、
月曜から金曜まで、各曜日ごとにいる5人の番組コメンテーターの中でも、
個人的に最も話がツマらなかったのが、実はこの宮台だったんですよね(笑)。
(月曜:青木理 火曜:小西克哉 水曜:近藤勝重 木曜:山田五郎 金曜:宮台真司)
基本的には山田五郎がメインで、気になる話題が目に止まると、他の人のも聞く感じでしたが、
これまで私が宮台をツマらないと感じてた理由が、今回の事で何となく理解できた気がします。
全11人いた、この本の執筆者の中でも、最もツマらなかったのが宮台の章でしたからね。
1人だけ年代が違う上、経歴的にも長い(最も活躍してたのが90年代前半)という事もあり、
客観的に論じるよりも、主観的に自説を述べる方が、当人的に需要が高いのかも知れませんが、
少なくとも私は、宮台真司を求めるファン層では無い為、大して面白く感じないんだと思います。


▼ イラストのネット投稿について
> PixivとSNSでイラストレーターの存在が大きく向上
> スマホ時代になってからですが、PixivやTwitterで簡単にイラストが拡散されるようになったので、
> イラストレーターの存在感がやたらと大きくなりました。
> クリエイターになりたい系オタクのあこがれはゲームクリエイターでもアニメーターでもマンガ家でもなく、
> 声優と神絵師(神のように上手なイラストレーター)ですよ。
> イラストなんて言うのは00年代にはラノベの表紙がせいぜいの活躍場所だったはずなんですけどね。

え〜と、「イラストレーター(プロ)」と「絵師(アマ)」とを、
ゴッチャの意味で用いてる気がしますけど・・・まあ、それはさておき、
確かに、趣味で描く絵師の発表の場としては、ネットの登場は大きかったですし、
(pixivは一応、サイトの発足当初から知ってますよ)
イラスト・ソフトやペン・タブレットの性能も、本当に格段の進歩をしましたから、
投稿数は勿論の事、上位クラスの作品レベルは凄い事になってますよね!!

ただ一方で、イラストレーターの「活躍場所」って、一体どれだけ増えたのでしょう?
「ラノベの表紙」とか「声優と」となると、プロの話な気がしますが、
供給する人数が増え、供給する質も上がった上で、需要の方は相応に増えたのでしょうか。
私からすると、ちょっとそのようには見えないんですよね。
また、「なりたい系オタクのあこがれ」との事ですが、
それはゲームやアニメを作ったり、マンガを描いたりするのに比べれば、
声を当てたりとか、絵を描いたりというのが、まだハードルが低いからでしょう。
そして、そこに目を点けた専門学校が増えた事で、人材の飽和状態が生まれてる気がします。
いや本当、単に個人の趣味なら良いのですが、それ目的で専門学校に通う人は少数派なはずなので。

> あとやたらアジア系外国人が多いのも特徴です。言語の壁が関係ないからなんでしょう。
欧米では「ファンアート」と呼ばれる分野で、それこそ日本よりも歴史が古かった気が?
「アジア系が多い」という印象も、恐らく日本アニメの視点から見ているからでは?
確かに、イラストに言語の壁は無いのですが、元になる作品自体には言語の壁がある為、
作品自身が言葉の壁を越えていかない限り(吹き替え版や字幕版の作成)、
こちらから壁を越えなければ、向こうから越えて来てくれるのを待つしかないのかな。

> ぶっちゃけこっちの方がコミケ有料化よりもよっぽど大きい激変ですし、
> 同人界隈のピラミッドが二極化していっているのも、その最先端を走っているのはこういった神絵師だと感じます。
> 絵の美しさに関しては、ここ10年でアニメの絵の進化とともにオタク界は見違えるほど変わりました。

「コミケ有料化」もそうですけど、何だか文章の意味よりも、
その単語自体に反応されてる感じが・・・・

絵のレベルが格段に上がったのは、確かに間違いない事実だと私も思います。
これは、将棋棋士の羽生善治九段が語った「学習の高速道路論」にも通ずる話ですが、
ほとんどの分野は、環境が整い、人口が増えれば、全体的な質は上昇するモノですからねえ。
紙に描いた線画をスキャナーで取り込み、マウスで着色していた頃とは大違いでしょう(笑)。
また、そうした絵師たちに外国人が含まれるのも、まさにネット時代の反映ですよね。
今や日本のアニメ関連収益は、その半分を海外市場で売り上げているのですから。
でもそれらの事って、コミケの有料化と比べるような話なんですか?

そもそも私が以前したコミケ有料化の話題は、一般参加者の「お客様化」についてがメインで、
コミケ自体の変化がどうこうとか、そういうモノでは無かったはずですが?
と言いますか、コミケというのは、外部から狙い打ちされると厳しいイベントなので、
本当に守りたい部分を守る為に、結構割り切って「自主規制」を重ねて来たイベントだと思います。
例えばコスプレにしても、無法地帯と化して禁止に追い込まれた秋葉原に比べると、
コミケは露出度チェックに、エリアの限定、更衣室使用の義務化や有料化など、加え続けました。
そんな中でも、「運営者も、出展者も、来場者も、みんな等しく参加者である」という、
かなり重要な理念にまで、ついに手を付けざるを得なかったという事実は、
これだけイベントが巨大化してしまった必然として、仕方なかった面があるとは思いますけど、
お客様化という時代の流れに対して、やはり抗えなかった面があるとも感じるんですよ。
掲げる理念自体は降ろさないにしても、それを全員で共有する理想は降ろさざるを得なかったと。
まあ、外面よりも内面の変化なので、それが与える影響の大小は、それこそ人それぞれでしょうね。


▼ 文化の大量消費について
> > あとは、ある所で滅びがあっても、別の所で興りがあれば良いんですけど、
> > グローバル化と新自由主義により、文化の消費サイクルさえ加速度を増していて、
> > 最近は、行き過ぎた焼畑農法が、砂漠化を招くような状況を、生んでいる気がするんですよ。
> > 次から次へと大群で食い荒らしていくという意味では、「蝗害」に喩えても良いのかな?
> > どちらかと言うと、そちらの方がより深刻で、私が心配している部分かも知れません。

> 結構前からの引用になりますが、これについても具体例を交えて説明していただけませんでしょうか?
> 私は結局のところ自分の興味のないところは全く興味を持たないので、
> 全体の大きな流れというのはよくわからないんですよね。

「ブーム」と言うモノは、大体の場合、そんな感じじゃないですか?
ブームとなる以前には、それを今まで育んできた愛好家たちが居る訳で、
逆に言うと、そうした人たちが居ない限り、コンテンツというのは育たない訳ですが、
いったんブームになると、話題性や目新しさに惹かれて、ドッと人が押し寄せると。
ブーム自体は昔からある現象なものの、しかし近年は押し寄せる人の数が違っていて、
そこにビジネス・チャンスがあるとなると、一攫千金を狙って押し寄せる人たちも増える。
まあ、そんな人たちは一過性の楽しさや、目先の利益が楽しみなので、
コンテンツの持続性や育成、その後の事なんて意識が無く、飽きれば飛び去ってしまい、
元々の愛好者たちに残されるのは、そんな人々に荒らされてしまった場であると・・・・

って、具体的にとなると、どんな実例が説明に適当なのかなぁ?
個人的には日韓W杯の時がそうだったんですけど、御存知無いですよねえ?
一昨年にあったラグビーW杯とかも、ちょっと近い感じはありましたけど、
う〜ん、「元に戻すのが大変」という意味では、自然を対象としたモノで、
登山ブームとかキャンプ・ブームとかは、そうした面があったと思いますよ。
あと、これは最初に言った事の繰り返しになりますけど、
ブームと呼ばれる現象が過ぎ去った後には、ほとんどのケースで当て填る気がします。
だからこそ、敢えて露出を避ける人気店とかは、普通にあったりしますからねえ。
一見さんが大量に訪れて、常連客の足が遠退けば、ブーム後に店は傾いちゃいますので。

例えば、一般アニメに百合厨が大量に湧いた事で、普通のファンは逃げ去ってしまう、
そして百合厨も次のターゲットに移っていったとなれば、その作品は目も当てられないと、
そんな感じの所ですかねえ?(実際に有りそうながら、本当に有るかまでは知りませんが・笑)
と、無理にアニメとか話に絡めなくても、ここの多人数ゲームとかでも良いかな。
2chとかから一斉にやって来て、暴れるだけ暴れて、去っていった後、
元から居た人も減ってしまうなんて経験は、1度や2度じゃ無かったですし。
それでも私は「来る者、拒まず」の信念があった為、特に規制などは設けませんでしたが、
そうやって潰された個人サイトは、数多く見てきてますからねえ・・・・


[23524] 現在日本の文化環境返信 削除
2021/3/17 (水) 04:15:30 旧トルコ担当

▼ 現在日本の文化環境

間違っているかもしれませんが、管理人さんの言う旧来の趣味人の世界とか、文化について、一応の理解はできたと思いますので、私の考えを書いてみます。
ネットの普及により、雑音をカットして自分の欲しいものに直接手が届くようになった結果、文化の選択肢の幅が狭まった。
これは事実だと思います。
そしてそうやってSNSの狭い世界やAIにおススメされるものばかりを消費していく世界というのは、今までの文化のつくり手と受け手の距離が小さかった世界とは全く異なった世界なんでしょう。
ここまで管理人さんと意見が同じです。

> また、「自我が解け合う」とか「それで充分」という昨今の感覚も、
> 決して理解できてない訳では無いんですよ。
> 「今の若い世代はググらない(自分から調べようとしない)」と言われますけど、
> 似たようなモノばかりとは言え、情報や商品の数量自体が膨大に増える社会の中で、
> 自分好みに最適化されたオススメで満足できるなら、便利は便利な仕組みですからね。
> ですが、それだと単に「作業」するだけになってしまい、
> 与えられるモノを「消費」するだけの存在になってしまうというのが、
> 前回、述べた話の主旨の1つではありました。
> 言うなれば、私には、石田徹也的な世界観↓に映ってしまうんですよ。
> https://heapsmag.com/wp-content/uploads/2018/08/Refuel-Meal.jpg
> そして、少なくとも私自身は、それでは満足できないと・・・・
>
> もちろん、様々な選択肢が共存する多様性が保てれば、理想なのですが、
> しかし現実的には、2極化する時代がそれを許してくれず、
> 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。
> この辺りもまた、前回した話の主旨の1つですね。
> それしか知らない世代からと、違和感など全く無いのでしょうけど、
> そう移り変わった世代からすれば、多くが失われたと感じるでしょうし、
> そんな事は、常に変化する時代の中で、いつも行われてきた事であるとは言え、
> デジタル化やグローバル化がもたらした変化量は、他の時代の比では無いと。


では、そういった文化を消費するだけの作業になった世界というのは、そんなにディストピアなんでしょうか?
少なくとも私の観測している範囲では、たとえばここ2週間くらいオタ界隈ではウマ娘というスマホゲームが猛烈に流行っているのですが、ウマ娘のゲームを遊んでいる私のTwitterのフォロワーは楽しそうです。
私自身は自分でゲーム作ったりしているあたり、まだ20世紀型の文化の側の人間だと思うのですが、でも正直ゲームなんかわざわざ作っているよりも、話題のゼルダの伝説の最新作遊んでいたほうが楽しいと思うんですよね。
(完全に余談ですが、前作ったゲームは地道にバージョンアップしてver2になりました。 https://devum765.github.io/javascript-game/
聞いた話では、かつて服というのは自分たちで作るものだったらしいのですが、今はほとんどが既製品を買って着るだけのものになりました。
今後、画像認識AIを用いた自動料理装置のようなものが家庭に普及すれば、我々は自分たちで自分のご飯を作らなくなると思うのですが、それは果たして文化の後退なのでしょうか?
もっといえば、産業革命以前の、食べるものから着るものまですべてを自給自足していた時代の人たちがタイムマシンでやってきて、我々の生活をつまらない生活と評したら、我々はそれを受け入れて資本主義を捨て去るのでしょうか?

私が思うに、結局文化というのは娯楽であって、面白いかどうかが評価基準であり、面白いかどうかでいえば自分にぴったりの作品が一瞬でおススメされる現在のほうがエンターテイメントとして優れていると思うんですよね。
もちろん、中には管理人さんのように現在の無駄が省かれて雑音が消え去り、接することのできる文化の幅が少なくなった社会をつまらない社会だと思う方もいるにはいるのでしょうが、それって結局少数派だと思うんですよ。
で、その大多数の人たちは今の文化環境に満足しているわけですから、これで良いのではないでしょうか?
いえ、私はオタクですし、今でもかつて(80・90年代くらい)のガチオタに憧れるので、プログラミングを勉強してゲームを自作してみたり、ネットを漁って80年代のSFボードゲームが手の届く価格で売ってないか検索したりしているのですが、ただこういった生活がほかに人にもお勧めできるかと聞かれれば、いやゼルダやってたほうが絶対楽しいと思うんですよ。
そういう人間なので、時間はかかりましたが管理人さんの言っていることも理解できたと思いますし、ある程度共感できたのですが、その先の未来に関してはそこまで悲観的になる必要もないと思うんですよね。
ネット以前の20世紀的大衆文化の時代が終わりを告げ、21世紀型のSNSと「バズったものを履修する(例えばゼルダが面白いとYouTuberに言われればゼルダを遊ぶ、というようなこと)」時代がやってきたということではないでしょうか?
別に20世紀だって、半分以上の人は文化消費者だったのでしょうし、誰かの作ったマンガを読んで、誰かの作ったゲームで遊んでいたわけですから。

そして文化が停滞するなんて言うことも無いと思うんですよね。
なぜかといえば、ピラミッド上位のクリエイター層は、ネット以前とは比較にならない数のアマチュアクリエイターがしのぎを削る社会だからです。
アニメの絵がこの10年でどんどん奇麗になっていったのがそれを証明していっているかと。
(人口問題だけは可能性あるかもしれませんが)

で、最後に我々にできることとしたら、もう後は自分の好きなもや面白いものを発信していくしかないんでしょうね。
雑誌は死にましたが、ネットのおかげで我々は自分たちで情報を発信することができるようになりましたし、そうやってピラミッドの上位の側に廻るしか、文化消費者にならずに生きていく方法はないと。

▼ 時間感覚の変化

> え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。
> 正直、情報が有ろうが無かろうが、大昔だろうが現在だろうが、
> 1日が24時間なのは全く変わってませんし、時間は貴重なんて事は数千年前から言われ続けてます。
> もっと言っちゃえば、昔の方が平均寿命が短いので、今より時間が貴重です(笑)。
> ともかく、やるべき事、したい事が多い人ほど、時間をフル活用するモノですからね。
> 固定電話で長話するのも、コンビニにたむろするのも、ファミレスやカラオケで徹夜するのも、
> 時代に応じてツールが変わるだけで、今のLINEと大した違いは無いと思うんですよ。
> 何というか、効率化を正当化する為の言い訳として、時間は貴重と言っている気がしています。
> 「まったりしたい」とか、「あれこれ考えたくない」とか、素直にそれで良い気がするんですけどね。


いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
あまり詳しくはないのですが、最近の音楽はサビから始まるなんていうのも、サビが始まるまでとりあえず聞いてみようという人が減ってきたからだと思いますし、
私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかがやたらもったいなく感じるようになりました。
女性であればお化粧している時間をヒマな時間と感じる方が増えて、最近はお化粧中に音楽を聴く人が増えたなんていう話もあります。
特に最近私が感じたのは、SNSをやっている時と、本を読んでいる時で時間の流れ方(正確にはその感じ方)が全然違うということですね。
本読んでるときは「俺って時間セレブだよなー」みたいな感じです。
なんというか、金がたいしてあるわけでもないのにお高い店でランチを食べているような、読書にはそんなリッチさを感じるようになりました。

あとLINEとファミレスでたむろすることの最大の違いは、接触できる人数の規模がケタ違いに変わったことだと思いますよ。
LINEを開けば常にどこかのグループが会話していて、という状況はスマホ以前にはありえなかったでしょうし。
有限な時間の中で、家を出てファミレスでたむろするのと、同じく有限な時間の中で家で寝っ転がりながらLINEをしたり、それこそ無限の動画があるYouTubeを観ているのでは時間への感覚の違いというのも当然かと。
だからこそ選択と集中で貴重な時間を一番重要なものに一点投資すると。

▼ SNSについて

あとやはり2010年代の文化を語る上では、SNSというのは外せないと思うんですよね。
もちろん、SNSにはもちろんいいね!を稼ぐために必死になっている人もいますし、自分の気に入らない連中を攻撃してストレスを発散しようとしている人もいます。
ただ、だからと言ってSNSが文化として全く無価値であったというのも言い過ぎだと思うんですよね。
特に管理人さんが失われたと感じている趣味人の空気感については、もし残っているとすればSNSにしか無いと思うんですよ。
2ちゃんが廃れて、Twitterみたいな半匿名SNSが隆盛するようになったのも、結局は面白い話をできるの人にとっては、2ちゃんみたいな玉石混合の場所に行くよりも、
アカウント名(2ちゃんならコテハン)があって、誰が面白くて誰が面白くないのかがわかる場所に行ったほうが、質の高い会話ができるからだと思うんですよ。
だからこそそういった面白い上位層を吸い取られた2ちゃんはどんどん廃れていってしまうわけですが。
管理人さんも、アカウント作れば昔の歴史ゲーム(信長の野望とか)の話とか、サッカーの話とかできるようになると思いますよ。
ピンポイントでその話題が話せるかはわかりませんが、自分が話したい話題を10個くらい持っておけばそのうち1つか2つくらいは話せるのではないでしょうか?
結局、趣味人の世界を作るのは一定の壁だと思います。かつてはその壁はリアルな空間などに結びついていたわけですが、今それはSNSなどによる情報網がその壁の役割を果たしていると思うんですよね。
だからやはりその壁を超えないと趣味人の世界というのはもう壁の外側にはほとんど残っていないと。

> ここで私が言っている「雑音」の意味が、まるで理解されてない気も・・・・
> パッと見聞きした限りでは、不快だったり意味不明だったりするノイズ的な意見の中にも、
> 耳を澄まして聞いてみれば、時に思わぬ有益な情報を得られるモノを「雑音」と例えた訳ですが。
> 今の時代、自分の嗜好に沿った世間的なオススメに、
> 簡単に辿り着けるなんて事は、それこそ百も承知な訳ですよ。
> その上で、自分と異なる嗜好であったり、オススメや世間的で無いモノを、
> 「効率良く」知る手段というのが、そうした従来のリアルな媒体以外に、
> 例えばネット上の何処かで、新たに誕生していたりするのでしょうか?


一方で、SNSでは雑音が除去されていくのも事実だと思います。
前回の文章の書き方がよくなかったのですが、SNSで雑音は十分と言っているのではないんですよ。
ただ相対的な時間不足の中で、そういった雑音が意図して排除されているという側面もあると思うんですよね。

> また、「自我が解け合う」とか「それで充分」という昨今の感覚も、
> 決して理解できてない訳では無いんですよ。
> 「今の若い世代はググらない(自分から調べようとしない)」と言われますけど、
> 似たようなモノばかりとは言え、情報や商品の数量自体が膨大に増える社会の中で、
> 自分好みに最適化されたオススメで満足できるなら、便利は便利な仕組みですからね。
> ですが、それだと単に「作業」するだけになってしまい、
> 与えられるモノを「消費」するだけの存在になってしまうというのが、
> 前回、述べた話の主旨の1つではありました。
> 言うなれば、私には、石田徹也的な世界観↓に映ってしまうんですよ。
> https://heapsmag.com/wp-content/uploads/2018/08/Refuel-Meal.jpg
> そして、少なくとも私自身は、それでは満足できないと・・・・
>
> もちろん、様々な選択肢が共存する多様性が保てれば、理想なのですが、
> しかし現実的には、2極化する時代がそれを許してくれず、
> 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。
> この辺りもまた、前回した話の主旨の1つですね。
> それしか知らない世代からと、違和感など全く無いのでしょうけど、
> そう移り変わった世代からすれば、多くが失われたと感じるでしょうし、
> そんな事は、常に変化する時代の中で、いつも行われてきた事であるとは言え、
> デジタル化やグローバル化がもたらした変化量は、他の時代の比では無いと。


うーん、ではデジタル化以前の人々は文化の消費ではなく、具体的に何をしていたのでしょうか?
私にはデジタル化以前も以降も半分以上の人は文化の消費しかしていない、というのはあまり変わりがないと思うんですよね。

▼ スクールカーストについて

> > 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、
> って、現在のオタクの定義を用いるのであれば、リア充とだって普通に共用できる訳で、
> 何だか、こういう時だけ、以前のオタクの定義を持ち出すのは、ちょっとズルいと言いますか、
> 敢えて卑屈を演じる事による、下からの逆マウント取りの願望が出ちゃってる気がするんですよね。
> 「○○たんさえ居れば、俺のリアルは充実(ハァハァ」って具合に、
> 行っちゃってる意味での「リア充オタク」であれば、また別の話なんですけど(笑)。


まあ後ろにwを付ける程度に冗談として、許せない(w)という感じです。別に本気で許せないと思っているわけではありません。

昔のオタクはもっと濃かったみたいな話は他の場所でもまれに聞くのですが、実際どんな感じだったのでしょう?
私もなんとなく昔の濃いオタクにあこがれる気持ちはあるのですが、では濃かったと言われる昔のオタクが具体的にどのレベルなのかは全然知らないんですよね。

> > 私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> > そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、
> > なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、
> > どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。

> これは逆に質問なのですが、実際の所、「スクール・カースト」ってどんな感じなんですか?
> 元々、アメリカの学校には、そうした階級制度っぽい構図があって、
> それが2011年にNHK-BSで放送された、海外ドラマ「glee」のヒットをキッカケに、
> 日本でも広まっていった概念なので、実は10年にも満たない学校文化であり、
> 正直言って、私には実状が、よく解らないんですよね・・・・
> もちろん、それ以前の学校にも、漠然としたグループ分けはありましたけど、
> 言霊とでも言いますか、言葉として定義され、概念として普及するからこそ、
> 今度は人の方が、それに見方や考えが囚われて、構図が固まっていくモノですから、
> スクール・カーストという言葉が定着する前後で、やはり相応の変化はあったと思うんですよ。


うーん、大学生なのであまり学校外の社会のことは知りませんし、昔の学校を知っているわけでもないので、説明が非常に難しいのですが、
やはりカーストという言葉がピッタリだと思われて、世間で使われだすくらいには階級社会という感じでした。

> あと、「学校外でどういう存在か」に関しては、
> 昔とか今に限らず、やはり別個に捉えられてると思いますよ。
> ちなみに、カースト上位だけども「ガチ腐女子」というのは、
> 本人が公表してるから知られてるという事なのかな?
> 正直、ガチのレベルがどの程度を指してるかは不明ですけど、
> 一般人がドン引きするレベルのガチであれば、普通は公表しないでしょうし、
> 仮に公表したとしたら、カースト上位とやらは保てない気がするんですけど?
> それに一般的な腐女子文化だと、下から逆マウントを取りたがるスタンスなので、
> カースト上位でというのは合わず、何となくライトな印象を受けてしまいます。
> まあ、ちょっとマニアっぽい部分をチラッと見せて、男心をくすぐるというのは、
> 女性のモテ・テクニックとして、昔からありましたので、それだと腑に落ちますしね。


ガチ腐女子なのかどうかは、私にはわかりません。私は腐ってもないですし、女でもないので。
ただ男オタクから見て、こいつはなんちゃってオタクだよなと見抜けるほどではなかったので、ある程度はガチなんだと思います。
男心をくすぐるため説というのもないと思いますよ。普通にかわいい子だったので。
というか、容姿がよくなければカースト上位はまずは入れませんし、もしかしたらこの辺の容姿第一主義がスクール・カースト時代の特徴なのかな?

▼ 百合について

> それこそ、森永製菓の社長令嬢として、聖心女子学院で育った
> 前首相夫人である安倍昭恵さんの浮き世離れっぷりを見れば、それも少し実感できるかも?


ああ、あの人は女子校育ちだからあんな感じなんですね。
私もつくづく天然な人だなぁとテレビ見て笑っていましたが、そんな背景があったんですか。

> > 多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、
> > 10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
> > やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが
> > 現在の百合の根底にあると思います。

> ちなみに、それを示す資料か何かはあったりするのでしょうか?
> 難しければ、そんな願望を叶える作品の存在とか。
> いや別に、男オタクの少女趣味とか少女化願望というのは、昔からあったりしますし、
> それこそ昨今、キャッキャウフフを眺めていたいという願望だけでなく、
> キャッキャウフフに混ざりたいという願望があるとは聞きますけど、
> それがイコールで、「百合」というモノに繋がるとは必ずしも限らないと思いますし、
> 「女の子になって女の子と恋愛したい」というのが、果たして百合なのか?というのあります。


百合かといわれると微妙ですね。隣接文化でしょうか。ガンダムシリーズとガンプラみたいな。
一応別の文化だけど、深く関係している感じです。

> それと女装に関して言うと、昭和の頃から原宿などに出没する
> キャンディ・ミルキィさんという有名人が居られるので、今更キモいとかは思わないかな?(笑)
> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A3
>
> > だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、
> > キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。

> こちらも、百合人気の違いを示すデータとかは、何かあったりするのでしょうか?
> 上記を含め、この2点に関しては、ようやく具体的に聞けた「百合の変化」ですので、
> 是非とも返信を期待したい所ですね。
>
> いや、東方・アイマス・ラブライブ・艦これといった題材が、
> もう古典として、今でも安定的な人気を保っているのは承知の上で、
> それでも特に「百合人気」を測るというのは、なかなか難しい事だと思うので。


うーん、百合人気の違いを示すデータといわれるとなかなか厳しいです。
なんとなくの感覚しかないですが、きらら系の低年齢キャラの百合は30代以上の社会人メインな気がします。
それに対して、高校生以上くらいになってくるとどちらかというと20代以下くらいが多い印象かな?
で女装率が急激に上昇してるのがここ1、2年でしょうか?

> > VTuberが流行したのも、もちろん視聴者側の需要もありましたが、
> > 一方でかわいい女の子になってみんなからかわいいかわいい言われたいという
> > 供給側の需要もあったと思うんですよね(ただその大半が再生回数3桁レベルなのが現実の悲しいところですが)。

> この場合のVTuberとは、男性が美少女アバターをまとう「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の事?
> それとも、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberの事でしょうか?


Vの方は全然詳しくないので、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberが何を指しているのかわからないのですが、多分バ美肉の方で合っていると思います。

> まあ前者の場合、中の人が男性だからこそ、同性の心の機微に通じてるみたいな感じで、
> 「こんな可愛い子が女の子のはずがない」的な世界観を築いてる方も、きっと居るのでしょうが、
> しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
> もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
> 基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・
> って、百合趣味少女×女装ドS少年の「まりほり」くらいなら、まだギリとしても、
> バ美肉おじさんまで行くと、果たして百合文化の範疇で捉えて良いモノなのでしょうか?
> 私も詳しく知ってる分野では無いので、いろいろ話は聞いてみたい所ですけどね(笑)。


ボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし
→いえ、慣れると案外気にならないらしいですよ。
確かねとらぼでそんなアンケート結果(美少女VTuberの声がおじさんでも応援しますかみたいなやつ)があったのですが、8割くらいの人が応援できるだったと思います。

最近ネットで百合と女装に関して雰囲気わかってもらえる感じの書き込み見つけたのですが、今検索してみたら消えていたので、保存してたぶん勝手にアップして共有しておきます。
https://up2.karinto.in/uploader/download/1615921411.txt パスワードは「百合」です。


[23525] 現在日本の文化環境(追記)返信 削除
2021/3/19 (金) 03:23:19 旧トルコ担当


一度文章にして投稿してみると、頭の中で自分の考えが整理されて、自分のぼんやりとした考えがうまく言語化されたので、追記してみます。

2010年代くらいに書かれた本だったと思うのですが、その著者曰く、今の若者世代には共通の言語というものが存在しないと。
それは漫画でもいいし、ライトノベルでもいいんだけど、この世代ならばみんなが何となく知っている何かという共通のものを持っていたほうがいいと思うのだけれど、今の世代にはそういうものが無いと。

で、この話って若者世代である私からすれば正しいと思うんです。確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
そしてその共通の言語みたいなものを持たなかった、作れなかったというのは、我々世代の選択だと思うんですよ。
決してそれは貧しいからではなく、我々はそういう方向性を自らの意思で選んでいったと。

同じように、現在の日本の文化環境、本屋がAmazonに置き換わり、見かけ上の選択肢は増えていても、実際の選択肢の幅は減少している、という状況もまた我々が選び取ったものだと思うんですよ。
もちろん日本経済がもっともっと豊かであれば両方を残すことはできたのかもしれません。しかし、現実には無限に経済的資源があるわけではない中で、今の文化環境というのは経済の原則により決まったという側面はあるのでしょうが、必ずしもそういう側面だけではないと。

私自身は今の、マニアックなものでも検索すればたいていたどり着ける環境というのが好きですし、昔とどちらが良いかと聞かれれば、本屋が失われて選択肢の幅が狭まったのを知ってもなお昔より今の環境のほうが好きです。
そして多分、これは他の大多数の人も同じなのではないでしょうか?それは私みたいなマニアとは真逆の、流行を追いかけている層の人もまた、今のほうが流行の質が高くなって面白いと。
ただそれは管理人さんの好みではないわけですよね。
ですがそれは結局のところ管理人さんの好みに合わないというだけであって、必ずしも日本の文化環境が悪くなっているというわけではないのではないでしょうか?

そういう風に考えたほうが、今のトランプフィーバーも、世代内の共通言語が失われたという状況とも、整合性が取れると思うんですよ。
他はそうだけど、他はLINEで24時間仲間内とつながるのが流行だけど、文化だけはみんな多様性を欲しているんだ。文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいるんだ、というのはどうしても説得力がないと思うんですよ。


[23529] 世代と世界の「共通言語」としての文化(その1&追記)返信 削除
2021/3/24 (水) 22:05:56 徳翁導誉

こちらの関係↓もあり、私も今回、2日後に追記してみました(笑)。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=c23535
追記箇所は、【以下追記】となってる部分から、次の引用部分(色付き文)までです。


▼ 現在日本の文化環境
> 間違っているかもしれませんが、管理人さんの言う旧来の趣味人の世界とか、文化について、
> 一応の理解はできたと思いますので、私の考えを書いてみます。
> ネットの普及により、雑音をカットして自分の欲しいものに直接手が届くようになった結果、文化の選択肢の幅が狭まった。
> これは事実だと思います。
> そしてそうやってSNSの狭い世界やAIにおススメされるものばかりを消費していく世界というのは、
> 今までの文化のつくり手と受け手の距離が小さかった世界とは全く異なった世界なんでしょう。
> ここまで管理人さんと意見が同じです。
> では、そういった文化を消費するだけの作業になった世界というのは、そんなにディストピアなんでしょうか?

何を「ディストピア」と感じるかは、正直、人それぞれでしょうね。
って、ディストピアはほぼSF用語なので、ROMってる方の為に少し説明しておくと(笑)、
ユートピア(理想郷)の反対語で、日本語に訳すなら「暗黒世界」みたいな感じでしょうか?

例えば中国なんて「幸福な監視社会」などと呼ばれてまし、その体制は今後更に進むでしょうけど、
あれを見て、ディストピアだと感じる先進国の人たちは多いでしょうし、
一方で、先進国では徹底できない、デジタル社会の理想モデルとする見方もあるはずです。
また、ナチス・ドイツやソビエト連邦、そして戦前の日本や満州国を、
悪の帝国として、そして歴史上の敗者として、ディストピアと評する事は珍しくなく、
もちろん駄目だった面は数多いのですが、決して良かった面が皆無だった訳ではありません。
現在の北朝鮮にしても、命懸けで脱北したのに、自由・資本主義社会での生き難さから、
再び北朝鮮に帰還してしまう例もありますし、そうなると、どちらがディストピアかも解りません。

ただ、ここまで述べた上で、私個人の心情を言わせてもらうと、
与えられた文化を消費するだけの社会というのは、正直、ディストピアだと感じますけどね。
実際、「世界一幸せな国」などと言われているブータンも、北朝鮮以上に思想統制していて、
本当に97%の国民が「自分は幸せ」と感じてるとしても、やはり私にはディストピア的に映ります。
恐らくは日本国民よりも、北朝鮮国民の方が、幸福と感じてる人の割合が高いかも知れません。
それでも、日本より北朝鮮の方が、ディストピアに近いであろうと思います。
これは、相手の主観に対する 自分の主観である以上に、
人類の歴史を俯瞰した上での客観的な見方をしている部分が大きいと思っています。
まあ私の場合、文化や学問の重んじ方が、一般的な人よりも強いですし、
歴史的に見ても、文化や学問の多様性が豊かな社会を作ると捉えてますので、
豊かな日本社会を望むからこそ、そこへの思いが普通より強いのは自覚してますがね。
あと、念の為に言っておきますけど、今の日本がそこまで落ちてるとは言っていませんよ。
ですけど、20年前30年前の日本に比べれば、確実に下落傾向にあるのは事実な気がします。

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

オペラを愛し、画家を目指して夢破れたヒトラーは、後に独裁者となると、
伝統的な絵画を奨励して、印象派以降のモダン・アートを「退廃芸術」として否定し、
オペラやクラシックの普及に努め、ジャズなどを「退廃音楽」として抑圧しました。
ソ連や、戦前戦中の日本なども、文化の政治的統制というのはあったのですが、
ヒトラーが教科書的なアートの信奉者だっただけに、ナチス・ドイツでは極端でした。
もちろん、アート愛好家は反発しましたけど、それも国民全体で見れば極一部であり、
大多数は関心が無いか、イメージ通りのアート普及を却って賞賛してたそうです。
そういう所は、あいちトリエンナーレ騒動時の反応を見ても、大して変わってない気がします。

ではこれが、多くの人々が認めていたからと言って、本当に良かった事なのでしょうか?
確かにヒトラーは、今までアートに縁遠かった庶民たちに対して、その魅力に触れる機会を作り、
それは彼らにとって受け入れやすい伝統的な作品でしたから、評判も良かった。
意味の解らない最先端アートの事など、庶民たちには評価のしようがありませんし、
ヒトラーにとっては、若き日に自分を否定した、芸術界に対する雪辱でもありました。
ですけど、これはアートに限らず、その時代時代で切り開かれた新しいモノが、
長い時間をかけて成長し、やがて社会へと広まっていくモノなのですから、
もちろん古典も重要ですけど、それだけでは一向に進歩せず、停滞してしまいます・・・・

で、こうした現象が社会的に起こるのであれば、まだ仕方が無いのですが、
暴力(軍事力)によって導かれるのでは、やはり意味が違ってきますよ!!
社会的判断であれば、例え成長しても、評価されないから社会で広まらないのですが、
政治的判断だと、元栓を絞められる事で、そもそも社会に評価され広まる機会がない。
最終的な結果は同じであっても、それは完全に別物です。
ただし、これは少数の権力者による暴力に基づいた統制ですから、
まだ見えやすいですし、80年前の出来事なので歴史として客観的に判断できます。
でも、今の時代に起こっている財力(経済力)による誘導は、
解りやすく独裁者がいる訳ではなく、冷戦後に暴走し出した資本主義というシステムが正体であり、
それには多くの人々が無自覚に関わり、更には現在進行形の出来事であるので、
どうしても視点は主観的になってしまい、その将来的な影響が見えにくい・・・・
これは非常に厄介な状態なのですが、それだけに打開も難しく、
方法論は考えてるものの、個人レベルじゃ困難でしょうし、正直諦めてる部分も(泣)。

「いま満足してるし、何が問題なの?」と問われると、
正直、なかなか答えるのが難しいのですが、
ドイツ第三帝国であれ、ソビエト連邦であれ、大日本帝国であれ、
当時の庶民たちの感想としては、それと同じと言いますか、
実際の所、今の我々よりも満足度の高い暮らしをしてたんですよね、調子の良い頃には。
限られた情報の中での幸福感という意味では、北朝鮮やブータンだってそうかも知れません。
しかし、それは上手く回ってる時の話であり、少数派の事は目を瞑った場合の話であり、
やがり状況が悪くなり、崩壊していった時の事も、私たちは同じく歴史で知っています。
まあ、その為に、これらの社会が「ディストピア」だったかのように捉えられる事もあるものの、
ですが現実的には、歴史的敗者だからと言って、全否定される程の暗黒社会でもありませんでした。
誤解を恐れずに言うなら、良かった部分だってありましたからねえ。
だからこそ、当時の人たちも満足して生きてた人が多かっただろうと。
とは言え、良い面と悪い面とをトータルで評価すれば、どうしても悪い面が勝ちますし、
そうなると、空想的なディストピアほどでは無いですが、やはり良い社会とは評価できません。

そして現代の社会に関しても、当時ほどでは無いけど、ちょっと肯定的には見られませんよ。
もちろん、未来の事は解らないので、ここからV字回復して良い社会になるかも知れませんし、
私の観察が間違ってるだけで、そもそも下落などしておらず、上昇中の社会かも知れません。
しかし、私の経験と肌感覚と歴史知識とデータ解釈から判断すると、
とてもじゃないけど、今の世界が良い方向に進んでるようには思えません・・・・
遊びが許されない社会というのは、どうしたって窮屈さが拭えませんからね。
「お国の為」か、「お金の為」か。
それは軍事力で もたらされようと、経済力で もたらされようと、
目に見える圧迫感の違いだけで、構造としては大差ない気がしています。
いや当然、政治的にコントロールされるよりも、遥かに自由度は残るのですが、
心理的にコントロールされると、それに気付く事や打開するのが難しい。

それこそ戦時中の日本は、子供向けのアニメ映画でさえ戦意高揚用であり、
確かに中には、「桃太郎 海の神兵」のような名作も生まれましたが、
それは逆に言うと、その範疇でしかアニメーターは表現を許されなかった事を意味し、
日活ロマンポルノやPCエロゲーの中で、表現を模索していたのとは訳が違います。
また、乳白色の美人画がパリ画壇で賞賛された藤田嗣治が、戦時中に描いた戦争画も、
それはそれで名作だとは思いますし、戦争画だからと闇に葬られるのは残念ですが、
でもこれも、戦意高揚の絵画展しか許されなかった当時の社会背景であったり、
戦争が終わると戦争責任を負わされ、日本を追われた経緯を思うと・・・・

しかも終戦と共に、日本へと大量に持ち込まれたアメリカ映画は、
戦時中にあってさえ、戦争と関係ない、質の高い娯楽映画を作っており、
それは軍事面だけでなく、文化面での敗北も、日本人たちに味合わせました。
その一方で、日本人は敗戦によって、気付きのチャンスを得ましたし、
それは日本の戦後サブカルを産む下地にもなりました。
ですけど今の時代、新自由主義化した経済はグローバルに展開され、
ネット網を介して個々の消費者にしっかりと結び付き、それは深まるばかりです。
世界中がそれに覆われ、自由意思さえ誘導される時代に、
これを打開するのは、なかなか容易じゃないですよ・・・・

とは言え、「悲観的に準備し、楽観的に対処する」という言葉もあるように、
可能性の話を論じ、出来得る事であれば最悪の事態は避けたいだけの事なので、
必ずそうなるとか、そのようになって欲しいとか、そういう考えではありません(笑)。
健康でありたければ、病気の事を知らなければいけないように、
平和を望むなら、戦争の事を知らなければならないように、
より明るい未来の社会である為に、危険性に注視している部分も正直あります。
まあ結局は全て、確定事項などでは無く、起こり得る可能性の話ですよね。
ただし、現実的に悪い方向へ進む事自体は、よくある事でもあります。
例えば昨今のコロナ禍でも、「医療体制の縮小」という小泉改革時のツケを、
20年の年月を越えて、我々は支払う事態になっているのですが、
この問題自体は、その当時から予測できてた事ではありましたからねえ。
そういう、将来に禍根を残しそうな問題が、現在進行形で積み重ねられてる感覚はあります。
私の場合、歴史好きな事もあって、今のニュースでさえ、
良くも悪くも、20〜30年のスパンで見ちゃってる部分もありますし、
生じる結果には、必ず事前の原因があるというのも、理系的な視点なのかも知れません。

> 少なくとも私の観測している範囲では、たとえばここ2週間くらいオタ界隈では
> ウマ娘というスマホゲームが猛烈に流行っているのですが、
> ウマ娘のゲームを遊んでいる私のTwitterのフォロワーは楽しそうです。

何だか、流行ってるみたいだなというのは、知ってます(笑)。
別に私の食指は動きませんけど、楽しんでる方が居られるなら、それは結構な話だと思いますよ。
擬女化するのはさておき、ダビスタとかは私も楽しんでた頃がありますし、
逆に言うと、「どこまで擬女化できるか?」は、ちょっと妄想しない事も無いです。
乳牛を擬女化した、ウマ娘ならぬウシ娘とか作ったら、鬼畜エロゲ系だなとか(苦笑)。
少女を強制妊娠させて、拘束して機械で乳を搾り、生まれた子供が男なら食肉にし、
それを3〜4回繰り返して、乳の出が悪くなれば、こちらも食肉に・・・って、
そのまま人間に置き換えて映像化したら、それだけで猟奇ホラーの完成でしょうから。

> 私自身は自分でゲーム作ったりしているあたり、まだ20世紀型の文化の側の人間だと思うのですが、
ゲーム作りって、20世紀型の文化なんですか!?(笑)
それこそ今年度から小学校では、プログラミングの授業が必修化されて、
学校によっては、ゲームを作る授業とか行われ得てると聞きますけど。

> (完全に余談ですが、前作ったゲームは地道にバージョンアップしてver2になりました。
>  https://devum765.github.io/javascript-game/

元々の話の流れであれば、コチラこそ本題向きの話題だったんですけどね(笑)。
経済物理学の話に触れた後、個人的には法学の次に縁遠い経済学に関して、
「ブラック・ショールズ方程式」「動学マクロ経済」「ベイズ統計」など、
数学を梃子に、ちょっと教科書を読んだりしてたんですよ、実は。

> 聞いた話では、かつて服というのは自分たちで作るものだったらしいのですが、
> 今はほとんどが既製品を買って着るだけのものになりました。

その文化を民間レベルで継承している最大勢力こそ、実はコスプレイヤー層かと。
いや、これは結構マジな話で(笑)。
裁縫が趣味という人は多く居るでしょうけど、
さすがに、服まで非商用で作る人は極少数でしょうからね。

> 今後、画像認識AIを用いた自動料理装置のようなものが家庭に普及すれば、
> 我々は自分たちで自分のご飯を作らなくなると思うのですが、それは果たして文化の後退なのでしょうか?

「画像認識AIを用いた自動料理装置」なるモノが、一体どんなモノなのか、
私にはまるで想像が着かないのですが(笑)、まあそれはともかく、
別に、そんなモノが普及しなくても、外食や宅配、出来合い惣菜にレトルトなど、
既に現時点で、自炊しない人は普通にいると思いますし、
そもそも都市部の場合、江戸の頃から外食文化であり、
東アジアや東南アジアでも、大体はそんな感じです。
日本人が家庭料理を作り始めるのは、昭和に入って以降、
特に今みたいな形は、確か高度経済期以降だったと思いますからね。
で、これが文化の後退かと問われれば、私は特にそうとは思いませんよ。
平日は出来合で休日は自炊とか、平日が自炊で休日は外食とか、別に良いと思います。

ただ一方で、数ある選択肢の中から「自炊」自体が消えるとなれば、
それはさすがに、文化的な後退を意味するかと思います。
例えば上記で、東アジアや東南アジアの都市部は外食文化だと話しましたが、
この場合、1人部屋だったりすると、家にそもそもキッチンが無かったりします。
そうなると、家ではカップ麺のお湯を温めるくらいしか出来無くなるんですよね。
つまりは、「料理をしない」という選択から、「料理が出来ない」という環境となり、
それが結果的に「料理を作れない」という能力の問題になってくると・・・・
イギリスの食文化が崩壊した(マズくなった)のも、この構造が世代を越えてしまった所為です。
もちろん、崩壊も含めて文化だとも言えますし、そのお陰で日本食も進出できたのですが、
でもまあ、一般的な見方からすると、これは「文化の後退」ですよねえ?
隣国のフランスは世界3大料理の一角と呼ばれ、やはり羨望を集めてますし。

って、これは何も、誰もが料理人のようになると言う、極端な話ではなく、
せめて最低限の事が出来れば、選択の幅は広がりますし、
自分で多少なりとも作ってると、プロの技術や味の凄さが、より理解できるはずです。
出来合いやレトルトに、ちょっと一手間加えて、更に自分好みにする工夫とかも、
自炊という選択・環境・能力が失われる程、縁遠くなる気がしますからね。
また、これを服の話ですれば、着る服まで自作する必要は私も感じませんけど、
ボタン付けくらい出来ないと、わざわざ店に頼むか、捨てるかしか無くなっちゃいますよ。

> もっといえば、産業革命以前の、食べるものから着るものまですべてを
> 自給自足していた時代の人たちがタイムマシンでやってきて、我々の生活をつまらない生活と評したら、
> 我々はそれを受け入れて資本主義を捨て去るのでしょうか?

う〜ん、え〜と、これは一体何なんでしょ?
何やら突然、手作り至上主義みたいなのを持ち出され、それを否定されてますけど、
そんな話、今まで全くしてないと思うのですが・・・・
まあ恐らくは、買い物の完全作業化と娯楽性喪失という話から、
独自に連想されて脱線されたのかな?とは、一応推測しますけども、
それにしたって、ネット通販の利便性を否定するような話では全く無かったですしね。
(とりあえず言っておくと、私は別に手作り至上主義者じゃありませんよ・笑)

あと、究極的に効率性を追求するのであれば、食事はサプリで、服は人民服でOKという事?
・・・と、少し意地悪に返してみる遊び(笑)。
ただ、学者や研究者の世界とかだと、効率の権化みたいなタイプも居て、
食事はサプリ中心とか、服は1種類を大量にとか、そういう人も本当に居ますけどね。
正直言って変人タイプですが、そこまで無駄を削って研究に没頭されると、
「時間は貴重」という言葉も、ちょっと真に迫ってくる所があります(笑)。

> 私が思うに、結局文化というのは娯楽であって、面白いかどうかが評価基準であり、
> 面白いかどうかでいえば自分にぴったりの作品が一瞬でおススメされる現在のほうが
> エンターテイメントとして優れていると思うんですよね。
> で、その大多数の人たちは今の文化環境に満足しているわけですから、これで良いのではないでしょうか?

はい、それはそうだと私も思っていますよ。
だからこそ前回、「経済と文化の相互性」や「サブカルの市場規模」の話を、あれだけしたんです。
別に消費者の存在を否定している訳でも無いですし、
それこそ前回も言ったように、分解の育成には市場の存在が不可欠であり、
市場というのは、まさしく消費者あってのモノです。
一握りのパトロンが文化を下支えする中近世から、
数多くの庶民が文化を下支えする近現代に、時代は移り変わってますからね。

> もちろん、中には管理人さんのように現在の無駄が省かれて雑音が消え去り、
> 接することのできる文化の幅が少なくなった社会をつまらない社会だと思う方もいるにはいるのでしょうが、
> それって結局少数派だと思うんですよ。

もちろん、それは少数派ですよ(笑)。
と言いますか、多数派だったら「サブカル」とか「オタク」って呼べないでしょ!?

> いえ、私はオタクですし、今でもかつて(80・90年代くらい)のガチオタに憧れるので、
ちなみに、主にどんな分野のオタクなんですか?

> ネットを漁って80年代のSFボードゲームが手の届く価格で売ってないか検索したりしているのですが、
そう言えば旧トルコ担当さんは、アシモフのSFが好きとの事でしたが、
昔から、ちょっと気になっていたんですけど、
アイザック・アシモフというと、世間的にはSF作家として有名なのですが、
彼の本職は生化学者であり、化学や生医学の著作もあるんですけど、
アシモフ・ファンの方は、そちらも読まれたりするモノなのでしょうか?
日本語だと「化学の歴史」や「生物学の歴史」あたりが出版されてますけども。
https://www.amazon.co.jp/dp/448009282X
https://www.amazon.co.jp/dp/4062922487

あとSFと言えば、最近話題のSF小説「三体」って、既に読まれてます?
全3部作で、私はまだ第1部しか読んでないんですけど(第3部の日本語版は今年発売予定)、
SFファンの中では、一体どんな評価なのかな?と気になりまして。
まあ、そもそもSF自体、私はほとんど読んで事が無いんですけど、
近年活況を呈していると聞いてはいた中国産SFの、これが初体験でした。
で、この作品が中国国内で累計2000万部と知り、そんなに市場が大きいんだなと!!
前回も少し話しましたが、単に日本と中国の人口の差という以上に、
中国のネット投稿小説の市場は、日本よりも先んじて既に大きく発展しており、
サブカルを含めた文化面で、日本が成熟期なのに対して、中国には成長期の勢いがあります。
(例えば成都というと、三国志の印象が強いですけど、今ではSF都市として力を入れてるそうで)

一昔前までは、日本に入ってくる中国の小説というと、武侠小説が主でしたけど、
今では、中国でヒットした作品が、英訳されて欧米でも流行り、
その後で日本語版も発売されるという流れになってきているみたいです。
政治問題に触れない限り、中国政府も国家戦略として全面バックアップしてますしね。
(政治的要素を含む作品は、作家たちも台湾の方で出版すると・笑)
この三体も、オバマやザッカーバーグが絶賛した事で、日本語への翻訳が決まったとも?
本来なら中国から直接の方が近いのに、欧米経由じゃないと入ってこないというのは、
中国に対する評価の問題や、日本市場の魅力の問題など、いろいろ抱えていそうですけど、
それでも、言葉の壁を越えて市場開拓している姿は、日本も大いに参考に出来るかも知れません。

> ただこういった生活がほかに人にもお勧めできるかと聞かれれば、
> いやゼルダやってたほうが絶対楽しいと思うんですよ。

たまにはガラにもなく、ちょっと哲学の話でも引用しましょうかね(笑)。
19世紀のイギリスの哲学者に、J.S.ミルという人が居たのですが、
彼は著書「功利主義論」の中で、次のような有名な一説を残しています。

「満足した豚であるより、不満足な人間である方が良く、
  満足した愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。
  そして、愚者や豚の意見がこれと違っていたとしても、
  それは彼らが、この問題を自分の立場からしか見ていないからである」

何だか、こういう風に書くと、お高くとまってる感じがしますし、
豚の満足とは、感覚的や肉体的な「低級快楽」の事であり、
ソクラテスの満足とは、精神的や知的な「高級快楽」の事であると解説を加えると、
嫌味な感じが更に増すのですが(笑)、すっごい解りやすく言い直せば、
「せっかく人間に生まれたんなら、いろいろ楽しめた方が幸せじゃん!」って話なんです。
ミル的には、他者の自由を妨げない限り、あらゆる快楽を求める事が幸福の最大化らしいので。
要するに、消費者として満足するだけより、創作者としても満足できた方が、
楽しさの範囲がグッと広まるよって事を、この一説を引用してまで述べたかった訳ですね。
私1人の言葉だと、あまり説得力も無いでしょうから(苦笑)。

って、こんな話をしつつ、まあ私自身としては同じソクラテスでも、
プラトンから「狂えるソクラテス」と評された、ディオゲネスの思想とか好みだったり(笑)。
中国思想史で言うと、老子あたりと考え方が近い人ですかね?
こちらは、「あれこれ欲さず満足できれば、それが一番幸せだろ」って話なので、
前述のミルとは もう完全に正反対で、矛盾も良い所かも知れませんが、
「快楽の餓鬼でありつつ、快楽の賢者タイムもある」、それで良い気はしますし、
もっと言ってしまうと、ドラッグ使用すら、私は別に否定しません。
(念の為に言っておくと、私はドラッグどころか、酒もタバコもやりませんが)

> そういう人間なので、時間はかかりましたが管理人さんの言っていることも理解できたと思いますし、
> ある程度共感できたのですが、その先の未来に関してはそこまで悲観的になる必要もないと思うんですよね。

え〜と、すみません・・・・
私の方からすると、「何でこんなに話が上手く伝わらないんだろう?」って感じなので、
この状態で「理解できた」「共感できた」と言われてしまうと、正直ちょっと困惑(苦笑)。

> ネット以前の20世紀的大衆文化の時代が終わりを告げ、21世紀型のSNSと
> 「バズったものを履修する(例えばゼルダが面白いとYouTuberに言われればゼルダを遊ぶ、というようなこと)」時代が
> やってきたということではないでしょうか?
> 別に20世紀だって、半分以上の人は文化消費者だったのでしょうし、
> 誰かの作ったマンガを読んで、誰かの作ったゲームで遊んでいたわけですから。

そこは、そうですよ。
ただ逆に言えば、ネット以後の21世紀型だろうが、
やってる事は、結局 大して変わってないという事でもありますが。
テレビや雑誌などのマス・メディアを介した大きな流行と、
学校や地域の仲間との口コミで広まる小さな流行との間に、
ネットという中規模の流行が生まれたという話なので。

> そして文化が停滞するなんて言うことも無いと思うんですよね。
> なぜかといえば、ピラミッド上位のクリエイター層は、
> ネット以前とは比較にならない数のアマチュアクリエイターがしのぎを削る社会だからです。
> アニメの絵がこの10年でどんどん奇麗になっていったのがそれを証明していっているかと。

それを踏まえた上で、以前にもしたのが「学習の高速道路論」の話だったんですけどね・・・・
今の時代、ネットの普及と進化によって、一昔前よりも確実に学習の効率が上がってるんですよ。
もちろん、それはそれで素晴らしい事ではあり、
高速道路が敷かれた所までは、多くの人がスイスイと進んでいくのですが、
しかし、高速道路を走り抜けた先では、行き先に困って大渋滞が発生していると。

これをイラストレーターの話に当てはめれば、それこそ前回にも言いましたが、
投稿数は勿論の事、上位クラスの作品レベルは凄い事になっているのは事実として、
その一方で、イラストレーターの活躍場所って、一体どれだけ増えたのでしょう?
また、一定水準のイラストレーターは数多く生まれたのでしょうけど、
そこから突き抜ける人だったり、作品を残したりという人は、一体どれだけ居るのでしょうか?
新しいモノが生まれない限り、それは二番煎じ、三番煎じと繰り返していくしかなく、
「何番煎じだよ!?」となった時、それは停滞と呼ばれるのでは無いでしょうか?

「新しい文化は、無駄と余裕から生まれる」というのは、基本中の基本的な概念なのですが、
今の時代って、無駄は省かれ、余裕は削られていく時代ですよねえ?
そんな時代の中で、どうやって新しい文化を生み出すのでしょう?
もちろん、新しい文化が生まれないからと言っても、文化自体が消滅する訳ではありません。
例えば長い江戸時代の中で、元禄文化と化政文化を学校の授業で習いますが、
その2つの時代が、文化的な隆盛期にあったというだけの話で、
それ以外の時代に、文化が全くなかったなんて話ではありません。
何度も繰り返しますけど、文化を含めた あらゆるモノに、盛衰の周期はありますから。
でも逆に言うと、それって必ず、衰退や停滞する時期があるって事なんですよね。

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

1年単位の「短期的」な視点だと、不規則な微増減があり、
10年とか20年といった「中期的」な視点だと、周期的な盛衰の1サイクルがあり、
数十年や100年くらいの「長期的」な視点だと、緩やかな上り下りの基調が見られるもので、
こうした性質は、経済であれ、文化であれ、だいたい似たような感じだと思われます。
なので別に、懐古主義的に「昔は素晴らしかった」「今はダメだ」と言いたいのではなく、
中期的な周期だと、既にピークは超えて下り坂のタイミングに突入しており、
長期的にも市場開拓が飽和状態で、今後は縮小さえ有り得る状況から、
文化のおかれた状況を、歴史的に見た感じで語っているつもりではいます。
特に、人類が世界規模で初めて向かえる「人口減少社会」というのは、本当に未知の要素ですし。

とは言え、「文化力でも人口こそが絶対正義」とまでは、私は考えていないので、
未来の文化が、必ずしも暗いかとなると、決して断言は出来ないと思うんです。
例えば江戸中期から後期にかけて、ミニ氷河期により日本の人口増は停滞しましたが、
庶民まで広がった化政文化が栄えたのも、丁度この頃でしたからねえ。
もちろん人口や歴史というのは、文化を支える上での大きな土台なのですが、
経済的・時間的・精神的の「3つの余裕」がある事も、文化を築く上で大きいと思うんです。
なので、どれほど人口が多くても、余裕がない社会では文化は育まれ難いでしょうし、
格差が「問題視(存在では無く)」される社会というのは、そうした余裕が乏しい状況かと?
しかも、文化が消費ビジネスの標的にされる現在では、それは尚更ですよね。

ですから、技術の革新が社会を変革させる事がありますし、
そこまで行かなくても、技術革新自体が新しい文化を作る事はあります。
そういう意味では、ずっと文化が低迷し続けるとは限りません。
と言いますか、中期的に見れば、何らかの文化の波は再び生じるモノだと私は考えています。
それこそ上記の江戸時代の例を続ければ、
戦国の気風を継ぐ江戸初期は、新たに生まれた文化が荒くれた時期でしたが、
それが時代と共に、社会が落ち着いていき、文化も徐々に上品になっていくと、
クセが乏しく、ただただ奇麗なモノとかが好まれるようになりますし、
それが庶民にまで広がっていくと、解りやすくて、安上がりなモノへとなります。
でもまあ、これも文化と言えば文化なんですよね。

正直言うと私自身、日本文化は活気のある勃興期や成長期の作品が好きなのですが、
西洋文化は馴染みが薄いからか、音楽も絵画も大衆化後の作品が好きだったりも(笑)。
以前は、好みが安直すぎると、少しだけ気恥ずかしさもあったのですが、
ワシントン・ナショナルギャラリーの印象派名画に圧倒されてからと言うもの、
それまでは「奇麗なだけで、ツマらない」という感じだったのが、
それ以降は「奇麗なだけでも、良いじゃないか」と開き直れたんですよね!!
どんなタイプの作品であっても「良いモノは良い」、それが全てでは無いかと。
そうなると、楽しめる範囲というのが、格段に広がるようになりました。

要は個々人の好みの問題で、文化自体に優劣は無いとも言えます。
ただ一方で、人が生まれて成長し、ピークを迎え、やがて衰えていくのと同じ様に、
ある種の表現方法においては、こうした栄枯盛衰が必ず付きまとうのでは無いでしょうか?
若者と老人に人間としての優劣は無くても、若者の方が魅力的に見えるのも多数意見なはずで、
文化にしても、衰退期よりは勃興期の方が魅力的に映りやすいモノだとは思うんです。
そして、新たな魅力を欲する場合は、新たな若い人材を求めるが如く、
新たな文化を育むしか無い気がするのですが・・・それが現状だと大変難しい(泣)。
やはり経済が苦しいと、社会的な活気ってどうしても失われがちですし、
少子高齢化の社会になると、シルバー民主主義だけでなく、
「シルバー文化主義」に陥りやすいように感じるんですよね。
「ドラゴンボール」や「スラムダンク」の連載が終了して25年、
「ガンダム」に至っては、放送から既に40年が経っているのに、
いつまで、「みんな知ってて当然」的なネタの扱いで行くのでしょう?
確かに団塊ジュニア層は分厚いですけど、リメイク作品や大作続編ばかりではねえ・・・・
そういう意味では、今回の「鬼滅の刃」の大ブームは、嬉しい驚きではありました!!

って、こうやって考えると、テレビの力がそれだけ大きかったのかな?
例えば今の お笑い第7世代って、先輩芸人が当然のようにガンダムやドラゴンボールで喩えても、
「いや、よく解んねぇッス」と、素直に言えちゃうらしいんですよね(笑)。
彼らより前の世代は、とりあえず先輩の話に合わせて相槌を打っていたのに。
それを思うと、現在、テレビ番組で幅を利かせている40〜50代の芸人たちって、
上下関係がバリバリに残ってた第3世代や、その移行期だった第4世代たちなので、
http://www.takomusuko.com/owarai-generation.htm
無意識の内に「解るよな」と押し付け、後輩たちに愛想笑いをさせてるのかも?
そして、それはテレビ画面を通して、後輩世代の視聴者たちにも同じ事をさせていると。
(旬の若手芸人は、若者ファンにとって、10歳くらい年齢差がある お兄さん的な感じを想定)

また、これは少し見落とされがちな事かも知れませんが、
現在30歳前後くらいの世代から、「テレビなんて見ないよ」という層が急増し、
その理由は「ネットがあるから」とか「番組がツマらないから」だと思われますけど、
これを当の本人たちは、「自分たちの選択」と感じているかも知れません。
ですけど実際には、ネットが普及し始める少し前あたりから、
少子化と不景気の影響により、テレビ局側が子供向け番組を次々に潰していったんですよね。
どんなに子供たちがテレビを見た所で、直接的な購買効果は得られませんから、
朝の教養番組も、夕方のアニメ再放送も、ゴールデン帯のアニメやコント番組も姿を消して、
(コント番組で子供ウケするアニメ・ネタをやり、そのアニメが注目される相乗効果もありました)
朝や夕方は情報番組の長時間化、お笑いはトーク系で、アニメは深夜や独立局に移行されたと。
目先の収益を考えれば最善策だったかも知れませんけど、子供の視聴を切り捨てた構成は、
将来の購買層となるテレビっ子たちを、育児放棄しするような格好となりました。
一番酷かったのは、恐らく2010年頃かも知れませんねぇ・・・・
あまりに経費削減し過ぎて、その日の最高視聴率番組が、水戸黄門の再放送とかありましたし(苦笑)。

で、このように、自らテレビ離れしたと言うか、テレビ離れさせられた世代は、
人口の割に、自分たち向けの番組が作られないまま進み、
それがマンガだけでなく、テレビにおいても、共通の話題を失わせた面はありそうです。
そして、そうなると結局、自分たちの世代の若手芸人たちは主導権を握れず、
テレビ全盛期に地盤を固めた第2〜3世代主導の番組ばかりを、見させられる構図になった気がします。
言い方を換えると、現在20〜30代の世代が、テレビからネットへの移行世代だとすると、
現在10代の若者層は、完全にネットへと移行しきった世代なのかも知れませんね。
だからこそ、初めからテレビが眼中に無く、YouTubeで芸人を見て、ネット配信でアニメを見て、
そうした流れが確立し、以前まであった世代内での「共通体験」を復活しつつあり、
もしかしたら、その象徴として現れたのが、YouTuber人気であり、鬼滅ブームだったりしたのかも!?

ちなみに第7世代からすると、予算と時間をかけて作られた昔の大型コント番組というのは、
古くさい形式ではなく、素直に憧れとして見ている面もあるらしいですね。
ネット番組で自由に発信できる時代になったとは言え、やはり予算も時間も限られますし、
そうなって来ると、やはりバブル期の80〜90年代には敵わないと・・・・
例えば、映像なんて見えないラジオの特番で、西武球場を貸し切りにし、
バック・スクリーンの大型ビジョンで、ファミコン野球対決なんて企画は、
カネが有り余ってた当時でもなければ、実現不可能な事だったでしょう(笑)。
ただ最近は、テレビ局がカネを掛けられないままな一方、
ネットの有料配信も増えてきた事で、そちらで大型番組の制作も増えてきたかな?
とは言え、まだまだ海外ドラマ以外は、カネはあるけど質の方は・・・という感じらしく、
ここから次第に成熟していくのか? はたまた有料固定客だけでは難しいのか?
今後どうなっていくかは、それこそ見モノになっていくかも知れませんね。
それこそ、技術やノウハウを持つテレビ側との融合が進めば、可能性は充分ありそうですし。

でもまあ、電波配信かネット配信かの違いで、番組を見る行為に大きな変化はない事を思うと、
(テレビでネット配信を見ている私なんて、特にその傾向が顕著ですね・笑)
デジタル技術が脳直結型に移行するくらいまで行かないと、大きな変革は無理かな?とも。
逆に、そういう意味では、そちら方面は今こそ「黎明期」なのかも知れませんけどね(笑)。
AIにせよ、VRにせよ、目に見えつつあるものの、まだ定着まではしてない時期ですし、
アニメやゲームは勿論の事、そもそもはスポーツ観戦や読書にしても、
それ自体を楽しむだけでなく、コミュニケーション・ツールとしての利用も以前からあった訳で、
脳直結型なら、そうしたツールとしての消費を伴わないコミュニケーションの在り方も現れるかも知れず、
コミュニケーションの満足感さえ得られれば良いなら、人もいらずAIで十分になるかも知れません。
それをどう感じるかは個々人次第であり、それはそれで新しい文化には違いないでしょうから。

> で、最後に我々にできることとしたら、
> もう後は自分の好きなもや面白いものを発信していくしかないんでしょうね。

それはそうですよ。
と言いますか、それしか無い気がします!!
ただし、現在のネット社会って、本当に「自分の好きなもや面白いもの」を、
追求していけるような環境になっているんですかねえ?
多くの作品が投稿され、多くの人が評価を寄せ、それが時にお金になるから、
どうしても人は弱い為、目立つモノ・受けるモノ・儲かるモノへと流されがちで、
ネットで繋がるからこそ、他者の存在が常に気になり、自己表現の妨げになる面も大きいのでは?

> 雑誌は死にましたが、ネットのおかげで我々は自分たちで情報を発信することができるようになりましたし、
> そうやってピラミッドの上位の側に廻るしか、文化消費者にならずに生きていく方法はないと。

これも以前の繰り返しになってしまうのですが、要するに社会において、
中間層が喪失し、一握りの上位と、大多数の下位しか存在しない「2極構造」となっても、
旧トルコ担当さん的には、それはそれで構わないという結論なのでしょうか?


▼ SNSについて
> あとやはり2010年代の文化を語る上では、SNSというのは外せないと思うんですよね。
と言いますか、ことネット文化に関して言うと、10年代は「SNSの時代」ですよね。
それ以外にめぼしいモノが無かったとも言えますし、
よりネットが一般化した象徴のような存在かと思います。
逆に言えば、だからこそ昔ながらのネットの面白味は失われたと(苦笑)。

> もちろん、SNSにはもちろんいいね!を稼ぐために必死になっている人もいますし、
> 自分の気に入らない連中を攻撃してストレスを発散しようとしている人もいます。
> ただ、だからと言ってSNSが文化として全く無価値であったというのも言い過ぎだと思うんですよね。
> 特に管理人さんが失われたと感じている趣味人の空気感については、
> もし残っているとすればSNSにしか無いと思うんですよ。

う〜ん、ぶっちゃけて言うと、アナログ的な限定された繋がりという面であれば、
特定の人同士でしか繋がらない使い方でのSNS利用で、代替が確かに可能なのかも知れませんけど、
私が真に求めてるのって、そうしたアナログな繋がりが、デジタルでオープンに繋がった所なので、
一般化して変化してしまった今のネットでは、その代替など難しいと思いますし、
そして何より、そんな今の象徴であるSNSだと、方向性が正反対だと思うんですよね・・・・

> 2ちゃんが廃れて、Twitterみたいな半匿名SNSが隆盛するようになったのも、
> 結局は面白い話をできるの人にとっては、2ちゃんみたいな玉石混合の場所に行くよりも、
> アカウント名(2ちゃんならコテハン)があって、誰が面白くて誰が面白くないのかがわかる場所に行ったほうが、
> 質の高い会話ができるからだと思うんですよ。
> だからこそそういった面白い上位層を吸い取られた2ちゃんはどんどん廃れていってしまうわけですが。

う〜ん、私の認識とは だいぶ違うかなぁ?
もともと玉石混淆だった所に、石ばかりが増えて、玉の比率が下がり、廃れてしまったのが2ch。
そもそも石ばかりで構成されていて、石の投げ合いを楽しむ事で発展したのがTwitter。
そういう認識ですね、少なくとも私の方は。
(もちろん、影響力ある人の情報発信ツールとしてなど、Twitterに有効な側面があるは確か)

> 管理人さんも、アカウント作れば昔の歴史ゲーム(信長の野望とか)の話とか、
> サッカーの話とかできるようになると思いますよ。
> ピンポイントでその話題が話せるかはわかりませんが、
> 自分が話したい話題を10個くらい持っておけばそのうち1つか2つくらいは話せるのではないでしょうか?

まあ正直言うと、私は別に話したい(発信者でありたい)人間ではなく、
読みたい(観客でいたい)人間ではあるんですけどね(笑)。
なので、自ら積極的に発信していき、それによって人を集める方法であれば、
ひょっとしたら、上手く回る可能性もあるのかも知れませんけど、
正直な所、そういうのは苦手なタイプなので、そこまで頑張りたくは無いと(苦笑)。

あと、一応言っておきますけど、LINEも、Twitterも、Facebookも、
とりあえずアカウントは持ってますし、多少なりとも使った経験はあります。
特にTwitterは、まだケータイ非対応だった開設当初より知ってますし、
最初の印象は「ネット上の拡声器」であり、その傾向は利用者が増えるほど酷くなったかな?
その上で、やはりSNSは話し合いに不向きな印象が残りましたし、
(例えば こうした掲示板での長文やり取りって、SNSに向いていると思われます?)
私の検索能力が低いのかも知れませんが、確かに歴史ゲームやサッカーの話題は見つかっても、
私が求めるのはレベルの内容には、正直、出会えた経験がありません・・・・
肯定の為の肯定とか、否定の為の否定とか、反応が多くても私は興味ありませんし、
別にそんな高いモノでは無く、以前のネットで見られたレベルで十分なのですがね。
まあ、全く居ないなんて事は無いはずなので、必死に探せば巡り会えるのかも知れませんが、
そこまで労力を要するようだと、実際にそのレベルでSNSを利用している人がどれだけ居るのか?

2019年出版の角川新書「ネットは社会を分断しない」によると、
「ネットで実りのある議論をするのは難しいと思うか?」という調査では、
「はい47% いいえ7% どちらでもない33% わからない13%」という結果が出ており、
パソコン通信やBBS掲示板の頃とは違って、SNS時代の現代のネットでは、
既に、ネットで議論は困難と思われており、もう離れてる人も多いと思うんですよね。
確かに、TogetterのTwitterまとめとかで、興味深い話題を見掛ける事はありますけど、
それに立ち会える機会なんて、恐らく凄く限られているのでしょうし、
まとめに載らないけど、熱くて深い議論が交わされてるケースって、多くあるのでしょうか?

それに「誰が面白い」とか、そういうのを求めてるんじゃなくて、
「面白い話」自体を求めているので、それがいつもの誰かか関係ないんです。
逆に言えば、サロンやギルドのような閉じた関係内の交流よりも、
もっとオープンな交流こそが望みですし、以前のネットには確かにそれがあったんです!!
また、特定の誰かの情報発信を見たいのであれば、ブログとかの方が内容が濃そうですし、
名のある相手であれば、その人の著作なり論文なり読んだ方が、ずっと良く伝わるんですよね。
繰り返しになりますけど、別に交流を求めている訳ではなく、考えを知りたいだけなので。
とは言え、本当にガチでセーブ無しに話し合える環境があるなら、正直かなり憧れますし、
理想を言うなら、私じゃ話を挟めないレベルで、鼎談とか行われてるのを見ていたいです(笑)。

> > ここで私が言っている「雑音」の意味が、まるで理解されてない気も・・・・
> > パッと見聞きした限りでは、不快だったり意味不明だったりするノイズ的な意見の中にも、
> > 耳を澄まして聞いてみれば、時に思わぬ有益な情報を得られるモノを「雑音」と例えた訳ですが。
> > 今の時代、自分の嗜好に沿った世間的なオススメに、
> > 簡単に辿り着けるなんて事は、それこそ百も承知な訳ですよ。
> > その上で、自分と異なる嗜好であったり、オススメや世間的で無いモノを、
> > 「効率良く」知る手段というのが、そうした従来のリアルな媒体以外に、
> > 例えばネット上の何処かで、新たに誕生していたりするのでしょうか?

> 一方で、SNSでは雑音が除去されていくのも事実だと思います。
> 前回の文章の書き方がよくなかったのですが、SNSで雑音は十分と言っているのではないんですよ。
> ただ相対的な時間不足の中で、そういった雑音が意図して排除されているという側面もあると思うんですよね。

自分と似通った意見に囲まれて、無自覚なまま自己肯定感を「エコー・チェンバー」や、
自分が見たい情報ばかりを提示され、自らの視野が狭くなる「フィルター・バブル」に、
周囲が似たもの同士ばかりになって、思考が極端化していく「サイバー・カスケード」など、
そういう空間は快適だし、そのままでも構わないのであれば、もう何も言えないですけどね。

ただ、自分で選んでるつもりでも、実はAIに選ばされていたり、
AIが判定したタイプの型に、知らず知らずの内にハメられていくなど、
自覚できてないと、本当に良いように誘導されちゃう時代になって来ていると・・・・
これが一個人の趣味だけの話に留まるなら、別にそこまで問題は無いのかも知れませんが、
しかし実際、こうした姿勢がそれだけに留まる事は少なく、将来的には社会の害悪にも為りかねません。
旧トルコ担当さん自身も、トランプ現象との関連性を述べられてましたけど、
そちらもOKという認識なのでしょうか?
こうした価値観や思考法って、趣味だけとか、政治だけと、限定できるモノでは無いので。

> > 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> > ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。
> > この辺りもまた、前回した話の主旨の1つですね。
> > それしか知らない世代からと、違和感など全く無いのでしょうけど、
> > そう移り変わった世代からすれば、多くが失われたと感じるでしょうし、
> > そんな事は、常に変化する時代の中で、いつも行われてきた事であるとは言え、
> > デジタル化やグローバル化がもたらした変化量は、他の時代の比では無いと。

> うーん、ではデジタル化以前の人々は文化の消費ではなく、具体的に何をしていたのでしょうか?
> 私にはデジタル化以前も以降も半分以上の人は文化の消費しかしていない、
> というのはあまり変わりがないと思うんですよね。

上記の話を踏まえた上で、そうおっしゃるのであれば、
私としても「変わらない」と答えますね。
そもそも人間なんて、メシ食って、寝るだけの存在ですので。
それは原始人だった頃から変わりません。
ただし、食べ物や食べ方は時代と共に変わる。
そういった話です。


▼ 時間感覚の変化
> > え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> > じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。
> > 正直、情報が有ろうが無かろうが、大昔だろうが現在だろうが、
> > 1日が24時間なのは全く変わってませんし、時間は貴重なんて事は数千年前から言われ続けてます。
> > もっと言っちゃえば、昔の方が平均寿命が短いので、今より時間が貴重です(笑)。
> > ともかく、やるべき事、したい事が多い人ほど、時間をフル活用するモノですからね。

> いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
> ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
> 私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかがやたらもったいなく感じるようになりました。

そう、そこなんですよ、私が言いたいのは。
重視されてるのは「時間」そのものではなく、時間に伴う「感覚」の方な気がするんです。
要するに、本当に「時間が貴重」と思えるほど、現代人が忙しくなったというよりは、
時間が貴重というコンセプトにより、「心理的な余裕」が奪われてるのが真相なのでは?
そして、心の余裕と交換に、我々が何を得たかというと、それは「便利さ」なのでしょうが、
ですけど便利さ自体が、心の余裕を奪ってる訳では無いと思いますし、
それを奪うのは、便利さに抱き合わされた「商業主義」の方だと思うんです。
で、その商業主義を覆い隠す為に用いられるコンセプトこそが、「時間が貴重」では無いかと。

> あまり詳しくはないのですが、最近の音楽はサビから始まるなんていうのも、
> サビが始まるまでとりあえず聞いてみようという人が減ってきたからだと思いますし、

「最近の音楽」と言いますか、その歴史は音楽界でも何度も繰り返されてる感じですね(笑)。
まあこれは音楽に限らず、顧客の数が増える「大衆化」を迎え、
ツカミやインパクト、解り易さなどを重視する「陳腐化」が起こり、
そして飽きられて沈んでいき、また時間が経って盛り上がり始めるサイクルを辿ると。
ですから、サビから始まる曲自体、カラオケ・ブームによりCDが馬鹿売れした90年代にも、
カラオケでの盛り上がりを重視して、やはり同じ様な傾向は見受けられましたし、
もっと言うと、縁遠いと高尚と思われがちなクラシック音楽の世界でさえ同様で、
実はベートーベンというのは、そうやって大衆人気を得た人なんですよね!!
「ジャジャジャジャーン」で始まる交響曲第5番「運命」など、ツカミ狙いの典型例です(笑)。

> 特に最近私が感じたのは、SNSをやっている時と、
> 本を読んでいる時で時間の流れ方(正確にはその感じ方)が全然違うということですね。
> 本読んでるときは「俺って時間セレブだよなー」みたいな感じです。
> なんというか、金がたいしてあるわけでもないのにお高い店でランチを食べているような、
> 読書にはそんなリッチさを感じるようになりました。

はい、解りますよ、その感覚は(笑)。
でもそれって、今までは普通だった事が、今では特別な事になってる訳で、
客観的に見た場合、果たして良い方向に進んでいると言えるのでしょうか?
例えば、経済発展重視で環境が軽視され、空は煙に覆われ、川は排水溝に化したとして、
そうした社会の中で、雨の晴れ間に見えた青空や、ドブの隙間に見えた魚の姿などに、
思わず感動してしまう構図と似たモノだと思うんですよね。
もちろん、そこから社会が改善されていく時も、同じように感じるのでしょうが、
環境が破壊された時と比べるか? 環境が破壊される前と比べるか?
で、その評価は、まるで異なるモノとなるはずです。
言ってしまえば、環境改善で北京市民が抱く感動を、私は別に羨ましいとは思わないと。

> > 固定電話で長話するのも、コンビニにたむろするのも、ファミレスやカラオケで徹夜するのも、
> > 時代に応じてツールが変わるだけで、今のLINEと大した違いは無いと思うんですよ。
> > 何というか、効率化を正当化する為の言い訳として、時間は貴重と言っている気がしています。
> > 「まったりしたい」とか、「あれこれ考えたくない」とか、素直にそれで良い気がするんですけどね。

> あとLINEとファミレスでたむろすることの最大の違いは、接触できる人数の規模がケタ違いに変わったことだと思いますよ。
> LINEを開けば常にどこかのグループが会話していて、という状況はスマホ以前にはありえなかったでしょうし。

う〜ん、ここで私が言ったLINEとは、リアルの延長線上での使用を念頭に置いていたのですが、
不特定多数によるSNS使用という意味で捉えられると、ちょっと意味合いが変わっちゃうかな?

でもまあ、それは措いておくとして、「接触できる人数の規模」という方面で言うと、
一昔前までは、確かにネットなんてありませんでしたけども、
それを担うプラットフォームとして、ラジオやテレビの「深夜放送」が大きな存在でした。
もちろん、視聴者間で相互になんていうのは、イベントでもない限り無理でしたけど、
番組司会者を「依り代」として視聴者同士が繋がり、そこを介して言葉を交わせる様子は、
今風に言うと、無料公開された超巨大なオンライン・サロンみたいなモノかも知れませんね。
そして、深夜放送とは言えテレビやラジオですから、繋がってる人数もネットの比ではありません。

今の時代だと想像し難いかも知れませんが、特に深夜ラジオの場合、
DJ(司会者)とリスナー(聴取者)の関係性は、教祖と信者に近いモノがありました。
あの「繋がってる」感覚は、人気YouTuberの生配信よりも、遥かに強かったでしょうね。
ネットが普及する以前、60年代後半から00年代前半にかけて、
大人たちが寝静まった時間に、メディアをジャックする深夜ラジオの興奮感と連帯感は、
特に当時の男子高校・大学生に対して、カルト的な存在であったかと思います。
陳腐な表現になるかも知れませんけど、まさに「深夜の解放区」って感じですよね。

ただ、それもネットの普及と共に、深夜のネット・サーフィンに移行したり、
(まだネット利用料が高かった時代、深夜の定額制が広まったのも大きな要因でした)
深夜ラジオでした話題がネットに転載され、炎上を繰り返し、ドンドン規制が強まった結果、
人気のある歌手・俳優・アイドルや、名の知れた中堅・ベテランの芸人など、
既に固定客を掴んでる人たちが、差し障りのない雑談をするようになった今では、
番組枠としては残っていても、往時の雰囲気はちょっと想像できないかも知れませんね。

> 有限な時間の中で、家を出てファミレスでたむろするのと、
> 同じく有限な時間の中で家で寝っ転がりながらLINEをしたり、
> それこそ無限の動画があるYouTubeを観ているのでは時間への感覚の違いというのも当然かと。
> だからこそ選択と集中で貴重な時間を一番重要なものに一点投資すると。

平成の30年間が「失われた時代」になってしまった一因として、
近年、特に言われるようになったのが、まさしく、
その誤って用いられた「選択と集中」という概念だと言われていますけどね(苦笑)。
もちろん選択と集中は1つの有効な手段でも、それには豊富な選択肢の存在が大前提であり、
単に目先の利益だけを追って選択と集中をすると、先細ってくばかりであると・・・・


[23530] 世代と世界の「共通言語」としての文化(その2&追記)返信 削除
2021/3/24 (水) 22:06:47 徳翁導誉

▼ スクールカーストについて
> > > 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、
> > って、現在のオタクの定義を用いるのであれば、リア充とだって普通に共用できる訳で、
> > 何だか、こういう時だけ、以前のオタクの定義を持ち出すのは、ちょっとズルいと言いますか、
> > 敢えて卑屈を演じる事による、下からの逆マウント取りの願望が出ちゃってる気がするんですよね。
> > 「○○たんさえ居れば、俺のリアルは充実(ハァハァ」って具合に、
> > 行っちゃってる意味での「リア充オタク」であれば、また別の話なんですけど(笑)。

> まあ後ろにwを付ける程度に冗談として、許せない(w)という感じです。
> 別に本気で許せないと思っているわけではありません。

はい、それは解ってます(笑)。
でも一方で、ネタ設定が定着してしまってガチ化したり、
ガチな状況が広まった事でネタ化したりという事も、時にはありますからね。
スクール・カーストなんていうのも、それこそ日本だと始めはネタ話だったでしょうし、
逆にアメリカだと、差別も絡んだガチな構図が、ドラマ化された事でネタ化した印象も?

> 昔のオタクはもっと濃かったみたいな話は他の場所でもまれに聞くのですが、実際どんな感じだったのでしょう?
> 私もなんとなく昔の濃いオタクにあこがれる気持ちはあるのですが、
> では濃かったと言われる昔のオタクが具体的にどのレベルなのかは全然知らないんですよね。

いや〜、私自身が実際にオタクだった訳では無いので・・・・
でもまあ、言えるとすれば、例えばアニメなんて今よりもずっと作品数が少なかったですし、
ゲームも今よりずっと高額だったので、1作1作をヤリ込む風潮は強かったですよね。
それがオタク層ともなれば、1作を更に深く掘り下げると。
だからこそ作り手側も、それに耐え得るように作り込む作品が一定数あった訳です。
今と比べれば小さな世界でしたから、極めようとすれば必然的に濃くなると。

しかし現在では、アニメ作品は量産化され、ゲーム作品も無料化や低価格化が進み、
1作1作を味わい尽くすよりは、次から次へと消化していく楽しみ方がメインとなり、
オタク的な楽しみ方も、掘り下げ型からデータベース型に移行していった気がします。
もちろん、データベース志向の楽しみ方自体は、ずっと昔から存在するのですが、
以前であれば そうした層は、オタク層というよりは「マニア層」に分類されていたかな?
そういう意味では、オタクの定義そのものが、マニアまで含む広い意味になったと同時に、
王道とされた従来のオタク的楽しみ方が、マニア的楽しみ方に主流を奪われた感じかも知れません。
言うなれば、「狭く深く」しか無かった所から、「広く浅く」へと変わっていった感じでしょうか。

ちなみに、昔のオタク・レベルの具体例となると、解りやすい所でパッと思い付いたのは、
マンガ夜話の「攻殻機動隊」の放送回(アニメ夜話の方じゃ無いですよ)でしたが、
う〜ん、20年以上前の放送だから、今だと何処かで見られるのかなぁ?
BSとは言え、NHKでそういう番組が出来てた時代が、確かにあったんですよねえ・・・・
逆に言うと、あんな地味でマニアックな放送内容なのに、
それが人気番組として10年以上続くくらい、そういう濃い視聴者も多く居た訳です。
という事で今回、記憶も曖昧になっていたので、内容の再確認がてら、
10年ぶりくらいに見返してみましたけど、やはり神回でしたね(笑)。

って、そもそも、「マンガ夜話」って番組の存在自体は御存知ですか?
1つのマンガ作品を、1時間掛けて、徹底的に語り合う生放送番組でした。
BSデジタル化に伴う、NHKのチャンネル削減の影響を受けて打ち切られたので、
最後の放送が10年くらい前でしたから、さすがにリアルタイムでの視聴は厳しいのかな?
とりあえず、番組出演者の1人であった岡田斗司夫が、
YouTubeで何本か、攻殻機動隊のマンガ解説動画をアップしているみたいなので、
それを見れば部分的にでも伝わるかも?(いや私はYouTubeの動画は見てませんけど・笑)

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

その後、YouTubeを見ていたら、何の巡り合わせか、
ここ1〜2週間で、マンガ夜話を上げまくってる人を発見!!
全144回のうち、142回分あるみたいなので、ほぼほぼ揃ってますね。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLqYyhPV7mfynIxW4-GDMFfukCNvvNc369
って、これだけ多いと、さすがに選ぶのも大変でしょうから、
個人的に面白かった回を、記憶頼りに思い付くまま、適当にラインナップ(笑)。

 1位「攻殻機動隊」 https://www.youtube.com/watch?v=fzbqxGGg0kY
 2位「肉弾時代」 https://www.youtube.com/watch?v=7QEQ2ztWjbk
 3位「ブラックジャック」 https://www.youtube.com/watch?v=fnyp5ggNPxA
 4位「燃えよペン」 https://www.youtube.com/watch?v=JwBrEpzrefw
 5位「嗚呼!!花の応援団」 https://www.youtube.com/watch?v=Sd40TNbQxcE
 6位「みどりのマキバオー」https://www.youtube.com/watch?v=fssggJrVfhg
 7位「できんボーイ」 https://www.youtube.com/watch?v=Yl4UmyDffL4
 8位「アストロ球団」 https://www.youtube.com/watch?v=NUM2UPDsbMU
 9位「あしたのジョー」 https://www.youtube.com/watch?v=D18lVcvm66w
 10位「魁!男塾」 https://www.youtube.com/watch?v=U68d6R38Nnc

こうして改めて並べてみると、2000〜2002年が番組中期で最も脂の乗ってた頃かな?
2002年4月の「3夜連続・手塚治虫」(通常は1作家1作品に限定)により、
番組として1つの到達点に至った感じが、放送を見ていた当時も少しありましたからね。
ちなみに この番組は、自分が読んでない作品の回でも充分に楽しめますし、
オタク史的に見たいのであれば、却って知らない作品の方が、変に先入観が無くて良いかも?
個人的な思い入れがあると、批評に対して「それは違う!」と感情的になりやすいので(笑)。

> > > 私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> > > そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、
> > > なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、
> > > どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。

> > これは逆に質問なのですが、実際の所、「スクール・カースト」ってどんな感じなんですか?
> > 元々、アメリカの学校には、そうした階級制度っぽい構図があって、
> > それが2011年にNHK-BSで放送された、海外ドラマ「glee」のヒットをキッカケに、
> > 日本でも広まっていった概念なので、実は10年にも満たない学校文化であり、
> > 正直言って、私には実状が、よく解らないんですよね・・・・
> > もちろん、それ以前の学校にも、漠然としたグループ分けはありましたけど、

> うーん、大学生なのであまり学校外の社会のことは知りませんし、
> 昔の学校を知っているわけでもないので、説明が非常に難しいのですが、
> やはりカーストという言葉がピッタリだと思われて、世間で使われだすくらいには階級社会という感じでした。

例えば、「階級社会」を感じさせた具体的なエピソードとかって、何かあります?

> > それに一般的な腐女子文化だと、下から逆マウントを取りたがるスタンスなので、
> > カースト上位でというのは合わず、何となくライトな印象を受けてしまいます。
> > まあ、ちょっとマニアっぽい部分をチラッと見せて、男心をくすぐるというのは、
> > 女性のモテ・テクニックとして、昔からありましたので、それだと腑に落ちますしね。

> ガチ腐女子なのかどうかは、私にはわかりません。私は腐ってもないですし、女でもないので。
> ただ男オタクから見て、こいつはなんちゃってオタクだよなと
> 見抜けるほどではなかったので、ある程度はガチなんだと思います。
> 男心をくすぐるため説というのもないと思いますよ。普通にかわいい子だったので。
> というか、容姿がよくなければカースト上位はまずは入れませんし、
> もしかしたらこの辺の容姿第一主義がスクール・カースト時代の特徴なのかな?

容姿そのものと言うか、その「見せ方」の方が重要なんじゃ無いですかねえ?
もちろん、元の素材が良いのに越した事は無いでしょうけど、
オシャレとか、カワイイとかは、「雰囲気」で結構演出できる部分なので。

また、「モテ・テクニック」と書いた事で、意味的に限定して捉えられたかも知れませんが、
相手の心を掴むテクニックというのは、やはり存在すると思いますよ(私は苦手ですが・笑)。
知らなきゃ出てこないような名称や単語を、自然に1〜2度出すだけで、
ほとんど知識なんて無くて、相手は勝手に「詳しいんだ」と誤解してくれますし、
その分野が好きな人からすれば、それだけで心を許してしまう上、
語れるほど知らないから聞き役に回るだけで、好きで語りたい人には却って好印象に映ると。
例えば、アシモフやクラークの名前くらいなら、一般人からでも出てきそうですけど、
「谷甲州」という名前や、「シュバルツシルト半径」という単語を出すだけで、
多少なりとも、SFを知ってそうなイメージになりませんか?(笑)


▼ 百合について
> > > > もっと根本的な話として、近年は少子化や共学化の流れにより急減してますけど、
> > > > 90年代までは女子校って、もっと身近で一般的な存在だったんですよ。

> > > これは全く知りませんでした。
> > > どうしても百合の歴史のほうをさかのぼると90年代ではなく戦前のエスの方に目が行きがちなので。

> > それこそ、森永製菓の社長令嬢として、聖心女子学院で育った
> > 前首相夫人である安倍昭恵さんの浮き世離れっぷりを見れば、それも少し実感できるかも?

> ああ、あの人は女子校育ちだからあんな感じなんですね。
> 私もつくづく天然な人だなぁとテレビ見て笑っていましたが、そんな背景があったんですか。

まあ当然ながら、女子校育ちだからと言って、
皆が皆、ああいう感じになるという訳では無いですけどね(笑)。
ちなみに今回の事で、ちょっと調べてみましたけど、
こうして数字で見てみると、確かに世代の認識差があってもおかしくなさそう。

 1960年 高校数3533(共学2478・男子校409・女子校646) 男女別学30%
 1975年 高校数4923(共学3743・男子校435・女子校745) 男女別学24%
 1990年 高校数5487(共学4467・男子校340・女子校680) 男女別学19%
 2005年 高校数5407(共学4835・男子校164・女子校408) 男女別学11%
 2020年 高校数4856(共学4466・男子校101・女子校289) 男女別学 8%

男女別学が2〜3割あった時代なら、別に珍しくなかったモノが、
(これは男女合わせての数字なので、女子だけなら別学率は更に高くなるはず)
今では1割を切り、しかも主に大都市圏に集中しているとなると、
世代差だけでなく地域差も加わって、その実感を抱けない人もいるのかも?
比率低下だけでなく、そもそも高校生の人数自体が、ここ20年で半減してますし。

> > > 多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、
> > > 10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
> > > やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが
> > > 現在の百合の根底にあると思います。

> > ちなみに、それを示す資料か何かはあったりするのでしょうか?
> > 難しければ、そんな願望を叶える作品の存在とか。
> > いや別に、男オタクの少女趣味とか少女化願望というのは、昔からあったりしますし、
> > それこそ昨今、キャッキャウフフを眺めていたいという願望だけでなく、
> > キャッキャウフフに混ざりたいという願望があるとは聞きますけど、
> > それがイコールで、「百合」というモノに繋がるとは必ずしも限らないと思いますし、
> > 「女の子になって女の子と恋愛したい」というのが、果たして百合なのか?というのあります。

> 百合かといわれると微妙ですね。隣接文化でしょうか。ガンダムシリーズとガンプラみたいな。
> 一応別の文化だけど、深く関係している感じです。

では、百合と女装コスプレが「隣接文化」である事を示す根拠はあるのでしょうか?
ガンダムとガンプラなら、それを示すのも容易でしょうけど、
百合と女装コスプレは、それすらちょっと難しくありませんか?
現状では、旧トルコ担当さんが、そのように感じたというだけの話な気がして、
厳しく言うと、少なくとも現時点では、私はまるで腑に落ちていません。

> > > ただ、それを聞いた上でもやはり90年代の百合と現在の百合はやはり変化していると思いますよ。
> > >  (中略)
> > > だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、
> > > キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。

> > こちらも、百合人気の違いを示すデータとかは、何かあったりするのでしょうか?
> > 上記を含め、この2点に関しては、ようやく具体的に聞けた「百合の変化」ですので、
> > 是非とも返信を期待したい所ですね。
> > いや、東方・アイマス・ラブライブ・艦これといった題材が、
> > もう古典として、今でも安定的な人気を保っているのは承知の上で、
> > それでも特に「百合人気」を測るというのは、なかなか難しい事だと思うので。

> うーん、百合人気の違いを示すデータといわれるとなかなか厳しいです。
> なんとなくの感覚しかないですが、きらら系の低年齢キャラの百合は30代以上の社会人メインな気がします。
> それに対して、高校生以上くらいになってくるとどちらかというと20代以下くらいが多い印象かな?

要するに、旧トルコ担当さんの個人的な肌感覚って事でしょうか?
pixivの話とかされていたので、作品ごとの新規投稿数と、
そこに付けられる百合タグの比率の違いとか、その辺の考察を想像してました。

ちなみに、きらら系の人気は年齢層が高めというのは、何となく私も解ります。
アニメ化基準で言うと、2007年に「ひだまりスケッチ」、2009年に「けいおん」で、
2011年に「ゆるゆり」、2013年に「きんモザ」、2014年に「ごちうさ」がですから、
きらら系のブームがあったのって、今から10年くらい前の話ですからねえ。
10年経てば、当時の大学生も社会人になってる訳で、投稿活動とかも減ってる事でしょうし、
ブームがあったからこそ、その時代を象徴し、時間の経過と共に落ちて行くなど、
そうした傾向は、もちろん「あるんだろうなぁ」とは思います。

あと、誤解の無いように言っておくと、
別に私自身は当時から、きらら系のファンだったとか、そういう事では無いですし、
そもそも百合自体、ほぼ関心がない事を、改めて言っておきます(笑)。
旧トルコ担当さんが、私の知らない「百合の変化」があると話されたので、
百合文化が萌え要素を内包した際の実例として、きらら系の話を出しただけですから。
で、結局の所、その変化というのは具体的に何だったのでしょうか?

「対象キャラの年齢層が高まった」という事であれば、それはそれとして変化なのでしょうけど、
でも一方で、百合が萌えまで含んだ際に、萌え方面に引っ張られていた状況が、
時間経過と共に落ち着いたと捉えると、それは「元に戻った」という変化なのでは?
もし仮にそうだとすれば、大本の話だった「新しい文化」とまでは呼べませんよねえ?
あと気になったのは、アイマス・艦これ・ラブライブあたりも10年戦士だと思いますが、
この10年の間に、一世を風靡するような、新しい百合題材の登場は無かったのですか?
そうなると結局、そちらの方面からも「本当に新しくなってるの?」という疑問は生まれます。

> で女装率が急激に上昇してるのがここ1、2年でしょうか?
こちらに関しても、データではなく肌感覚ですかね?
まあ別に、私はデータ至上主義者でも無いので、肌感覚も指標の1つにはしてますが、
ただ、私の肌感覚とは異なってる為、そうなるとやはり客観的なデータの登場ですよね。
前回も少し触れましたが、例えばコミケはコスプレの無秩序化を防ぐ目的で、
更衣室使用の義務化&有料化を始めた為、データが残されているのですが、
それを見ると、男性レイヤーの女装率までは解りませんけど、レイヤーの男女比が、
20年前は「男1:女4」、10年前は「男1:女3」、そして現在は「男1:女2」なのが解ります。
全体のレイヤー数は増加し、女性レイヤー数も微増なので、
つまりは、男性コスプレイヤーの絶対数が増えている訳ですね。

その一方で、近年はコスプレ・イベントの商業化が進んだ事で、
「男性レイヤーの女装コスプレ禁止」を謳うイベントが、かなり増えてるらしいんですよ。
だからと言って、女性レイヤーの男装コスプレを禁止しているイベントは無いと!!
これは、文化としてコスプレを見た場合には、非常に不健全な状態と言えますが、
コスプレする側は圧倒的に女性が多く、それをカメラで撮る側は男性が多い現実を踏まえつつ、
商業主義的な視点に立てば、「お客様が望まない商品は置かない」という姿勢になります。
まあ元々、男性の女装はネタに走りやすい傾向がありましたし、
スネ毛の処理などをしないと、非常に見苦しい印象を受けるのは確かなので、
排斥したい意見が多いのは理解できますけど、実際に排斥して良いかは別問題なんですよね。
性別・容姿・年齢・人種などで差別が横行しては、趣味の世界が窮屈になりますから。

で、結局は何を言いたいかというと、本当に女装率が増えたのかは解らないものの、
「男性レイヤー自体の増加」と、「女装コスプレに対する不寛容化」という2つの現象が、
現在起きているのは客観的な事実なので、女装率が急激に増えたと言うよりは、
単に「目に付くようになっただけ」という可能性も、有り得そうという話ですね。
それこそ、前々からある街中の広告看板とかでも、今までは気にも止めてなかったのに、
子供が産まれれば保育園の、自分が病気をすれば病院や保険の、親が歳を取れば介護や葬式の看板が、
急に目に入ってくるみたいに、周囲の変化より自身の変化で見え方は大きく変わるモノなので。

> > > VTuberが流行したのも、もちろん視聴者側の需要もありましたが、
> > > 一方でかわいい女の子になってみんなからかわいいかわいい言われたいという
> > > 供給側の需要もあったと思うんですよね(ただその大半が再生回数3桁レベルなのが現実の悲しいところですが)。

> > この場合のVTuberとは、男性が美少女アバターをまとう「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の事?
> > それとも、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberの事でしょうか?
> > まあ前者の場合、中の人が男性だからこそ、同性の心の機微に通じてるみたいな感じで、
> > 「こんな可愛い子が女の子のはずがない」的な世界観を築いてる方も、きっと居るのでしょうが、
> > しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
> > もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
> > 基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・
> > って、百合趣味少女×女装ドS少年の「まりほり」くらいなら、まだギリとしても、
> > バ美肉おじさんまで行くと、果たして百合文化の範疇で捉えて良いモノなのでしょうか?

> ボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし
> →いえ、慣れると案外気にならないらしいですよ。
> 確かねとらぼでそんなアンケート結果(美少女VTuberの声がおじさんでも応援しますかみたいなやつ)があったのですが、
> 8割くらいの人が応援できるだったと思います。

いや別に、気になる気にならないの話をしているわけでは無いので・・・・
と言いますか、気にならなくなる事くらいは私も解ってますよ(笑)。

例えば、NHKで人気のチコちゃんとかも、5歳の少女という設定ですが、
中の人がオッサン(芸人の木村祐一)である事に、いつまでも違和感が残るようでは、
あのような人気を獲得する事など出来ないと思うんですよね。
ですが、その一方で、あの声を本当に5歳の少女のモノだと信じてる人もまず居ないと。
要するに、そうしたギャップも含めて、1つのキャラクターとして認知されてる訳です。
であるのに、5歳の少女という設定部分だけを切り出して、
その人気を「日本ロリコン化の象徴」なんて意見が出たら、「ハァ?」となるのと同様、
バ美肉という現象を、百合文化に求めるのは違うんじゃないの?と言いたかった訳です。

> 最近ネットで百合と女装に関して雰囲気わかってもらえる感じの書き込み見つけたのですが、
> 今検索してみたら消えていたので、保存してたぶん勝手にアップして共有しておきます。
> https://up2.karinto.in/uploader/download/1615921411.txt パスワードは「百合」です。

残念ながら、こちらのセキュリティー設定の関係なのか、
ダウンロードが行えなかったので、可能であれば概要とか語っていただけます?


▼ 国際言語としてのロシア語と日本語
> > > 別に30年前も書店では今ロシアで話題の本が山積みなっていたり、
> > > 映画館ではインド映画が上映されていたわけではないではないですよね?

> > いや〜、恐らくはこれは、有り得ない例として挙げたのでしょうけど、
> > 逆に、ピンポイントであった事例ですね(笑)。
> > ソ連崩壊がちょうど30年前なので、それなりに専門的な書店へ行けば、
> > 共産圏側の事を知る目的などで、ロシア語の書籍は今より大量に並んでましたし、
> > (冷戦中は、英語に次ぐ国際言語がロシア語でしたから)


> > > > > 【以下、一部加筆】 > > > > >

それこそ冷戦時代、特に東側諸国で育ったエリート層の共通語はロシア語であり、
例えばドイツのメルケル首相は東ドイツ出身なので、ネイティブばりにペラペラですし、
ソ連で幼少期を過ごした金正日は、息子たちにもロシア語教育を行ったらしいです。
(ロシア語経由の北朝鮮と、英語経由の韓国では、同じ外来語でも発音が異なるのだとか)
アメリカの国務長官だったオルブライトやライスも、冷戦中に学生生活を送った為、
大学時代にソ連研究を専攻していて、ロシア語はそれなりに話せるそうです。
また、シリアを始めとした中東の独裁国が、未だにロシアとの繋がりが深いのも、
家族の中に、ソ連に留学して現地女性と結婚した人も居るからという側面がありますね。
要するに、独裁者の甥や姪などが、ロシア人とのハーフという例も珍しくないと。

日本人の政治家ですと、2002年に殺された民主党の石井紘基とかは、
ソ連への留学経験もあり、現地の日本語学生と結婚するなど、ロシア語が堪能でした。
と言いますか、若い人ですと、この刺殺事件そのものを御存知ないかな?
https://www.youtube.com/watch?v=v3o2_YidBLQ
https://www.youtube.com/watch?v=47k8XBigAs0
こうした事件が、大して究明されないまま放置されてる、日本の現状も怖いですし、
モリカケ問題なども、それ単体で見るか、一連の流れで見るかで、大きく違ってくるかも。

あと、私が子供の頃、「高齢者=戦争経験者」だった事は、以前にも触れましたが、
これは同時に「旧植民地の高齢者=日本語話者」という事でもあったんですよね。
なので、今から10年くらい前までは、韓国や台湾はもちろん、
場合によっては、東南アジアやオセアニアでも、
現地で困った場合には、高齢者を捜せば日本語が通じる状況でしたし、
公的な場面では使いませんが、それらの国々の政財界トップも日本語を話せたと。
それだけに、時を越えて伝わる植民地支配をしていた実感があったり、
海外でも日本語が通じた感覚って、今だと想像するのが少し難しいかも知れません・・・・

「Japan as No.1」などと言われた時代には、日本語を学ぶ外国人も多かったですが、
今では、1つの島国でしか通じない難解言語を、わざわざ学ぶなど物好きくらいで、
そんな物好きたちの最大勢力こそ、海外の日本アニメ・ファンなのでしょうね(笑)。
マンガは日本以外の市場が小さいですし、ゲームも日本の存在感は激減しているので。


▼ アジア系外国人の絵に関して
> > > PixivとSNSでイラストレーターの存在が大きく向上
> > > スマホ時代になってからですが、PixivやTwitterで簡単にイラストが拡散されるようになったので、
> > > イラストレーターの存在感がやたらと大きくなりました。
> > > あとやたらアジア系外国人が多いのも特徴です。言語の壁が関係ないからなんでしょう。
> > > ぶっちゃけこっちの方がコミケ有料化よりもよっぽど大きい激変ですし、
> > > 同人界隈のピラミッドが二極化していっているのも、その最先端を走っているのはこういった神絵師だと感じます。

> > 欧米では「ファンアート」と呼ばれる分野で、それこそ日本よりも歴史が古かった気が?
> > 「アジア系が多い」という印象も、恐らく日本アニメの視点から見ているからでは?

ちょっと気になったので、ここでアジア系外国人の絵に関する歴史を。
例えば台湾出身の漫画家だと、鄭問(チェン・ウェン)という方が居て、
筆を用いた大胆な絵は、台湾のみならず日本でも評価され、
1990年には日本でも、週刊モーニングで「東周英雄伝」の連載を開始し、
2001年にはPS2で、彼の武将絵を売りにしたTVゲーム「鄭問之三國誌」も発売されました。
https://www.youtube.com/watch?v=UAkn0c--Z9M

続いて韓国出身の漫画家だと、尹仁完(ユン・インワン)&梁慶一(ヤン・ギョンイル)が、
韓国誌で連載されていた劇画調の「アイランド」が、日本人編集者の目に止まり、
2001年から同時進行で、日本の月刊サンデーGXでも「新暗行御史」の連載が始まりました。
(思えば、この頃はまだ、日本で「嫌韓」が流行する前でしたね)
まあこの辺の流れは、当時の「マンガ夜話」↓を見た方が早いかも?
https://www.youtube.com/watch?v=D3oNdrgfoYQ

言うなれば20〜30年前から、商業誌でさえ、そうした動きが既にあり、
そして現在、週刊少年ジャンプで連載中の「Dr.STONE」では、
韓国出身のBoichiが作画担当を務める程になっています。
これらからも解るように、まず最初に追い付くのは「絵」なんですよね。
鄭問にせよ、梁慶一にせよ、やはり絵が評価されての日本進出でしたし、
言葉を要しない絵の方が、ストーリーや編集技術などより、互いにダイレクトに伝わると。
ですから同人でも、外国人の絵師が増えてる事自体は、当然の流れとも言えます。
ちなみに、韓国や台湾が民主化され、中国が市場経済に移行したのが、
ちょうど同じく20〜30年前ですから、世界情勢の変化とリンクした側面はありそうですし、
(日本文化開放の第1弾として、韓国で日本マンガの輸入が解禁されたのは1998年)
更にはネット時代の到来も重なった事で、見る機会も発表する機会も格段に増えました。
また、そもそも海外のファンサブ活動って、早い時期からネットを活用してましたからね。

あと、例えばフランスなどを始め、海外で日本のサブカルを紹介する
「ジャパン・エキスポ」みたいなイベントが、行われていたりするのですが、
ここに、韓国人などの作家が参加する事に、日本の一部から非難の声が上がったりします。
ですが、日本サブカルの影響を受け、日本流の文法で作られた海外製のアニメ・マンガ・ゲームも、
本流(本家)では無いかも知れませんが、傍流(分家)の日本発サブカルではあると。
つまり、ここで言うジャパンとは、日本発のサブカルの事であって、
国家としての日本とは、必ずしもイコールではないと。
これは、アメコミの文法で作られていれば、仮にカナダ人やメキシコ人の作品でも、
ほとんどの読者は、気にせず「アメコミ」として認識するのと同じ事ですよね。

海外から輸入された「Animation」が、日本化されて「アニメ」となり、
逆に海外へと輸出されて「Anime」となっているのが、現在の状況であって、
海外製の作品でさえ、Animeであればジャパンだと人々に認識させる、
その文化的な波及力こそ、本来なら「日本スゴい!」と誇って然るべき所なんですよ!!
それが変にナショナリズムを拗らせた場合、それすら理解できなくなってしまうと・・・・

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

ただ一方で、源流は日本にあっても、将来的には海外作品に市場を席巻される可能性も?
特にアニメなんて、下請けで韓国や中国に出していて、日本だけでは作れなくなってますし、
そうやって彼らも技術を身に付け、しかもデジタル技術なら習得も早いので、
戦後の製造業で日本がアメリカに行った事が、今後の文化産業で逆に起こされる事も?
そういう意味では、自身も大事ですけど、同時に危機感も必要かも知れません。
まあ家電生産などとは違い、文化生産は機械に頼れない分、人口がモノを言うので、
韓国や台湾は大丈夫かも知れませんけど、中国はちょっと侮れないかも知れません。

もちろん、現状だと質的には、日本どころか韓国や台湾よりも下でしょうけど、
多くの名作を生む土台には、それ以上に量産される駄作を受け止める市場が不可欠であり、
逆に言えば、それだけの巨大な市場と、そこへ供給する作家の数と質が上昇すれば、
名作が量産されてく条件は、必然的に揃って来るんですよね。
そうなると、どこが元々の起源か?とかは関係なくなってきます。
そもそも日本の文化も、多くは、そうして築き上げてきたのですから(笑)。
とは言え、もしも日本産よりも中国産が主流になった場合、
どちらにせよ元々が異文化なので、海外のユーザーはあまり気にならない文化の違いも、
日本人だけは、国産から外国産に変わるわけで、小さな違いを大きく感じるでしょうね。
それだけ今までの日本は、日本人に最適化された文化に慣れ続けてきたと言うか、
直輸入の海外文化が市場を席巻する、文化的な植民地の経験をしてきてませんでしたので。

ところで中国と言えば、私は一昨年、東京五輪もあるし、消費税も10%に上がるからと、
4Kテレビを購入する為に、いろいろと物色していたのですが、
その頃はまだ、中国メーカーの製品は安いけど、処理能力がイマイチで、
正直、早々に選択肢の中から脱落していたんです。
しかし先日、たまたま店舗で見掛けた所、東芝のテレビ部門を買収した中国ハイセンス社が、
レグザ・エンジンを搭載させた事で、処理能力が凄く上がってたんですよね!!
(ロシアW杯でハイセンス社の広告看板が、日本戦だけレグザ表示だったのも時代を象徴)
まあ商品寿命までは解りませんけど、あの性能で価格が半分なら、
国内はまだしも海外市場では、もう日本メーカーは勝負にならない気がします・・・・

また、性能と値段のコスパ面だけでなく、技術開発の面でも、
液晶テレビの次に来ると目される「有機ELテレビ」に関して、
有機ELパネルの製造が、韓国LG社とサムスン社のほぼ独占状態にあり、
数ある日本の家電メーカーも、韓国からの輸入に頼ってるのが現状のようで・・・・
価格競争だけでなく、技術競争まで苦戦となるとは、既に次の段階に入ってますよね。
(ちなみに有機ELは確かにキレいでしたが、まだ寿命が短く高価格だったので断念)

モバイル通信でも、以前は最前線で競えてたのが、5Gでは遅れを取ってますし、
昨今の新型コロナも、開発競争力は弱いけど、完全に輸入依存型でも無い現状が、
日本のワクチン接種を遅らせてしまっている部分も、幾らかあると思うんですよね。
下手に日本企業には力が残っているから、それを政治的に保護する方向に目が行き、
1億人の国内市場もそれなりの規模なので、何とか持ちこたえて来たものの、
グローバルな波が突然押し寄せると、世界と伍していく実力は既に乏しいと(泣)。
現時点では堅調な自動車も、今後は電気自動車がメインになるでしょうし、
もっと言うと、車自体のハード面よりも、それをどう活用するかのソフト面の方が、
これからは重要になる気がしますから、日本は更に国際市場で苦しくなるかも知れません。
先発の優位性を活かせなければ、後発の優位性に飲み込まれちゃいますから。
いや本当、ただでさえ縮小中の日本社会が、国際競争力さえ失った際、一体どうなるのか?

凄い身近な例ですけど(笑)、ウチの最寄り駅の駅前で言いますと、
ここ十数年の間(コロナ禍以前)に、パチンコ屋は5店から2店に減少し、
本屋4店・古本屋5店・TVゲーム屋3店・ゲームセンター4店は全滅。
マクドナルドも、サーティワンも、ミスタードーナツも姿を消しました。
だからと言って、駅の利用客が減ったのかというと、逆に2割増えてるんですよね!?
もちろんネット移行した需給もあるでしょうが、それらが全てを掬えてるはずも無く、
どこも商店街は大なり小なり同じ感じで、街の賑わいが消え行く姿は寂しい限りです。
ショッピング・モールにしたって、ちょっと陰りが見えつつありますからね。
しかも、ただでさえ人口減少時代に突入した上、今回のコロナ禍まで加わって、
良くなる要素どころか、悪くなる要素ばかりが目立つ現状では、この先も・・・・


▼ 追記への返信
> 2010年代くらいに書かれた本だったと思うのですが、
> その著者曰く、今の若者世代には共通の言語というものが存在しないと。
> それは漫画でもいいし、ライトノベルでもいいんだけど、
> この世代ならばみんなが何となく知っている何かという共通のものを持っていたほうがいいと思うのだけれど、
> 今の世代にはそういうものが無いと。
> で、この話って若者世代である私からすれば正しいと思うんです。
> 確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
> そしてその共通の言語みたいなものを持たなかった、作れなかったというのは、我々世代の選択だと思うんですよ。
> 決してそれは貧しいからではなく、我々はそういう方向性を自らの意思で選んでいったと。

ぶっちゃけ、そんな主体的に「世代の選択」を皆でとかしてると、本気で思われてます?
大半の人は文化を消費するのみという、これまでの話とは、まるで異なる解釈になってると思いますよ。
それに例えば現在、鬼滅の刃が異常にヒットそてますけども、その理屈で言うと、
今の子供たちが「これを私たちの共通作品にしよう」と、そんな感じで選んだと思えますか?

基本的にヒット作というのは、産むモノなのではなく、産まれるモノなんです。
マンガの話であれば、例えば「ジャンプ黄金期」と呼ばれる時代は何度か訪れましたけど、
逆説的に言うと、黄金期と黄金期に挟まれた「冬の時代」は、どうしたって出てくるんです。
それは運的な要素もありますし、時代の巡り合わせというモノもあるのですから、
別に、素直に「自分たちの世代はヒット作に恵まれなかったね」で良いじゃないですか。
そこを無理して、変な理由をあれこれ付け加える事こそ、却って拗れさせてる印象を受けますよ。

あと、そんな言うほど、本当に「誰もが知ってる作品」って無かったんですかねえ?
実際に少年マンガで考えてみると、
60年代から70年代にかけて「あしたのジョー」「巨人の星」があり、
80年代には「北斗の拳」「キン肉マン」「タッチ」があり、
90年代には「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」があり、
00年代には「ワンピース」「ナルト」「名探偵コナン」があり、
10年代には「進撃の巨人」「銀魂」「キングダム」があり、
20年代となった現在も「鬼滅の刃」「呪術廻戦」があるじゃないですか。

まあ確かに2010年代のラインナップは、他の時代に比べると少し弱い気もしますが、
でもそれは、2000年代の作品が長期連載だった事も大きいと思うんですよね。
要するに、00年代の代表作は、10年代においても代表作であったと。
人気作でも連載期間が数年だった2000年以前は、
まさしく、「これは俺たち世代の作品だ!」って独占感がありましたけど、
数世代に渡る人気作には、話が通じる幅の広い共有感がありますし、
独占感が弱くても、世代的な共通言語の役を成さない訳では無い気がします。

ただその一方で、単行本よりも週刊誌で読む方が、
リアルタイム的な連帯感は、強まっていくかも知れませんね。
(前述した深夜ラジオも、生放送ゆえに、そうした連帯感は非常に強かったですし)
また、週刊誌であればこそ、毎週毎週決まった曜日に、常に盛り上がれる話題があり、
時には校則に反して学校に持ち込み、先生に隠れて、みんなで回し読みをした経験は、
作品それ自体(共通言語)以上に、「共通体験」として強く記憶に刻まれてるはずです!!
そう考えると、その世代を代表するヒット作の有無よりも、
週刊誌から単行本、更には電子版へと移行し、マンガが個別体験となった所こそ、
「共通言語の消失」という面では、実は大きいのでは無いでしょうか?

> 同じように、現在の日本の文化環境、本屋がAmazonに置き換わり、見かけ上の選択肢は増えていても、
> 実際の選択肢の幅は減少している、という状況もまた我々が選び取ったものだと思うんですよ。
> もちろん日本経済がもっともっと豊かであれば両方を残すことはできたのかもしれません。
> しかし、現実には無限に経済的資源があるわけではない中で、
> 今の文化環境というのは経済の原則により決まったという側面はあるのでしょうが、
> 必ずしもそういう側面だけではないと。


> > > > > 【以下、一部加筆】 > > > > >

これって何か最近、似たような話を聞いた事があるなぁ・・・と思ったら、
昨今、アメリカを中心に世界各国で訴えられるようになった「メリトクラシー批判」ですね。
元々はSF的な用語なので、意味は既に御存知かも知れませんけど、
メリトクラシーを日本語に訳すと、能力主義や業績主義って意味になるのかな?
「業績(merit)」と「支配(cracy)」とを組み合わせた造語です。

ちなみに、官僚の採用や昇進を能力判定で行うシステムを、英語で「merit system」と言います。
日本では実質的に、明治になるまで導入されなかったものの、
中国や朝鮮・ベトナムには古くから科挙制度があったので、馴染み深いシステムなのですが、
実は欧米諸国だと遅くて、試験や資格で官僚を任用するのは、1800年代後半になってからの事でした。
欧州を脅かしたオスマン帝国の強さの否決として、以前より注目されてはいたんですけどね。
とは言え、やはり国家が近代化するまでは、なかなか縁故主義を手放せなかったと。
(絶対王政下の官僚制に比べれば、こちらの方が民主的だという認識も一方でありました)

で、メリトクラシー批判の内容というのが、本当に純粋な能力で差が生じてるのではなく、
グローバル化と新自由主義化により暴走を始めた、ここ十数年の資本主義が、
環境の違いで生じた差を、努力や能力の差と置き換え、格差の固定化を正当化したり、
労働賃金を安く抑え続ける為の方便として、メリトクラシーの概念を押し出すようになったと。
(考え様によっては、理論武装された縁故主義への先祖返りかも?・笑)
しかも、こうした事が10年以上も続き、今後も改善される見込みが薄いという事で、
今の若い世代が、それを当然の事として受け入れてしまい、却って下支えする状況が、
この社会問題を更に深刻化している・・・といった類の話ですね。
「皇帝権力を真に支えているのは、優秀な官僚でも、強力な軍隊でもなく、大多数の従順な農民である」
みたいな話と、かなり近いかも知れません。

例えばスクール・カーストなども、社会における再階級化の1つの現れかも知れませんけど、
カースト制を是認する事は、その制度を支えて強化する構成員となりますので、
制度を否定する人からすると、仮に最下層の人であっても、加害者として映ります。
そこまで背負った上での、「我々が選び取った」発言なのでしょうか、これは?
また、「我々」という言葉を使ってますけど、実際に確かめられた上での我々なんですか?
何だか、全ての価値基準を、自身の感情に結び付け過ぎてませんか?

> 私自身は今の、マニアックなものでも検索すればたいていたどり着ける環境というのが好きですし、
> 昔とどちらが良いかと聞かれれば、本屋が失われて選択肢の幅が狭まったのを知ってもなお
> 昔より今の環境のほうが好きです。

ふと感じたのですが、ネット検索の限界って、どれくらい感じられてます?
また、その時の対処法って、どのような手段を持たれてます?

あと、アナログしか無かった昔が昭和世代で、
デジタルのみになりつつある今が令和世代として、
アナログとデジタルが共存したのが平成世代ですからねえ。
「昭和か? 令和か?」という2択であれば、そりゃ私も今を選びますよ(笑)。
とは言え、これって別に、無理して2択にするような話ではないでしょうし、
かと言って、アナログもデジタルも全て残せという極端な話をしている訳でもなく、
ただ単に「温故知新」の精神で、古いモノも、新しいモノも、
良いモノを残していけば良いというだけの話なんだと思うんですよ、本来なら。
そこが、良さよりも「経済性」や「効率性」が最優先されているのが現状であると。
もちろん「コスパ(費用対効果)」も重要ですけど、価値基準ってそれだけじゃ無いですからね。
逆に言うと、現在はコスパ至上主義に陥ってる感があります・・・・

> > > > > 【以下追記】 > > > > >

それと「検索する」にしても、事前に取っ掛かりが無いと「調べる」事さえ行えないですよねえ?
また、前回も少し触れましたけど、調べる前から、それっぽい答えを与えられると、
ググらない若者のように、わざわざ調べようともしないですし、
いざ調べようと思っても、本格的に調べるコツが解らない・・・・
サジェストされる候補ワードの中から選び、出てきた1ページから探すだけでは、
まともに深い情報なんて出てきませんし、それで満足できちゃう程度だとも言えます。

そういう意味では、検索エンジンの特性を知る事だったり、
本当に欲しい情報に辿り着く為に必要な事前の用語知識だったり、
余分な情報を排除する為のワード・センスだったり必要となりますけど、
それらを駆使しても尚、ネット上にある情報だけでは限界に達するんですよね。
どんなに検索した所で、デジタル化され、公開されてる情報には限りがありますから。
そうした場合、やはり残されるのは、アナログ的な情報取得になります。
もちろん、アナログ情報だけあれば充分な訳ではなく、
アナログにはアナログの、デジタルにはデジタルの、それぞれ長所と短所があり、
それを上手く組み合わせていくのが理想的な姿なのですが、
最近は、アナログが姿を消し、デジタル化一辺倒になりつつあると・・・・

そして、これは「ノイズ」の話にも繋がるのですが、
デジタル情報だと、ほぼ自分が欲しい情報しか入って来ないようになる為、
アナログ情報みたいに、別に求めてなかった情報まで入ってくる機会が少なくなります。
そうなると、どうしたって視野は狭くなりますし、調べる取っ掛かりすら得難くなります。
最も解りやすいのはニュース情報とかでしょうか?
テレビや新聞なら、知ろうとも思わなかった情報が、思わず手に入ったりしますが、
ネットだと知りたい情報ばかりとなり、自ら新たに知ろうというのも実際は難しい。

言うなれば、食事における「配膳方式」と「バイキング方式」の違いみたいなモノですよね。
配膳方式だと、苦手な料理も出てくる一方で、新しい出会いもあり、そして何よりバランスが良く、
バイキング方式だと、上手く使えば理想的なものの、実際は好きなモノばかりでバランスを欠きがち。
なので学校給食などでは、バイキング方式よりも配膳方式の方が適しているでしょうし、
もしも小中学校でバイキング方式を採用する場合は、事前の「食育」が必須かと思われます。
そういう意味では、ネット使用の食育にあたる「情報リテラシー」教育も重要だと感じますが、
現実問題として、それが充分満足に行われているとは、とても思えず・・・・
ネットは、あくまでも「道具」なので、使い方を覚えれば非常に便利ですけど、
逆に、その道具に振り回されてしまうような現状というのは、あまり望ましい状態とは思えません。

> そして多分、これは他の大多数の人も同じなのではないでしょうか?
> それは私みたいなマニアとは真逆の、流行を追いかけている層の人もまた、
> 今のほうが流行の質が高くなって面白いと。


> > > > > 【以下追記】 > > > > >

以前にも言いましたけど、確かに絵のレベルは非常に高くなってます。
そして、これはPC使用によるデジタル化が途轍もなく大きいですよね!!
一昔前までは、マンガをPCのみで描くなど、想像もできませんでしたし、
アニメもデジタル化直後は、いろいろ否定的に言われましたが、
(いや本当、1997年のリメイク版「Dr.スランプ」など酷評の嵐でした・苦笑)
今回の「鬼滅の刃」ブームが、普段アニメを見ない大人たちに衝撃を与えたのも、
記憶にある手書きセル画時代とは様変わりした、映像レベルの高さでした。
それこそ、この前の「呪術廻戦」18〜20話の出来なんて、私も少し驚きましたもん(笑)。

ですが一方で、昨今の作品のストーリーに関してはどうでしょう?
量産される1クールアニメでは、まともにストーリーも描くのは困難ですし、
オリジナル作品が減り、原作改編も無いとなると、それは尚更となります。
しかも萌え4コマ原作が隆盛を極めて以降、ストーリー軽視の流れが生まれており、
ストーリー至上主義では無いですけど、やはりそれ一辺倒になるのは・・・・
何だかんだで、こうした創作物にとって最大の武器はストーリーだと思いますし、
その辺りの質が落ちている感は、やはり否めないと思うんですよね。
まあ経済的に言えば、その場その場で消費され続けるのでも良いかも知れませんが、
それでは、記憶にも、後世にも、残らない作品ばかりになると。

一消費者目線で語るなら、そこに大した問題は感じないかも知れませんけど、
そうした傾向が続き、持続してしまうようだと、やはり文化の停滞では無いでしょうか?
文化史的にも、よくある事なのですが、当時の人たちは満足してても、
他の時代と見比べた時に、「面白味に欠ける時代」と切り捨てられる事は多いんです。
日本の江戸時代だと、250年の中でも特に元禄文化と化政文化が注目されたり、
西欧文化史は、ローマ帝国からルネサンスまでの間、1000年くらいを空白扱いされたりと。
もちろん、欧州に1000年間も文化が無かったはずが無いのですが、
後世から見た時に、確かに目を見張るようなモノが少ないのは事実なんですよね。
そして、当時を生きた大部分の人たちにとっては、
他と比べる情報を持ち合わせない以上、それは感じられない事であった訳です・・・・
まあ宗教社会において、信者たちを「無知の幸福」状態に置く事は、利益がありますし。

> ただそれは管理人さんの好みではないわけですよね。
> ですがそれは結局のところ管理人さんの好みに合わないというだけであって、
> 必ずしも日本の文化環境が悪くなっているというわけではないのではないでしょうか?
> そういう風に考えたほうが、今のトランプフィーバーも、世代内の共通言語が失われたという状況とも、
> 整合性が取れると思うんですよ。


> > > > > 【以下追記】 > > > > >

まさに、トランプ現象やサンダース現象などは端的な例ですけど、
2極化と言われると、「ふたこぶラクダ」みたいな連想をする人も多いかも知れませんが、
しかし実際は、そこまで極端に分かれる事はほぼ無く、基本的には「ひとこぶラクダ」です。
では2極化で何が変わるのかとなると、こぶの高さや傾きが変わって来るんですよね。
「富士山型」から「台地型」に変わると言えば、イメージしやすいでしょうか?
要するに、中央部が格段に分厚く、両端部がかなり薄かった山が、
次第に中央が低く、両端が高くなる事で、なだらかな丘のようになって行くと。
「なだらか」と言うと、何だか平等になって良い感じがしますけど、
でもこれは分布図なので、中央に集中するほど平等であり、均等になるほど不平等なんですよね。
ちなみに、中央部が平均値よりも低くなる盆地化が進むと、
それこそ、ふたこぶラクダ型になって行く訳ですが、まあそうなるのは稀です。

そして、これは選挙みたいな実例が、最も解りやすいんですけど、
中央部が分厚い場合は、中央に近いほど多数意見を獲得しやすいので、
右派の候補は左へ、左派の候補は右へと寄っていき、左右の差が小さくなって行きます。
ですが2極化が進み、なだらかな丘状の分布になっていくと、
まずは右派内と左派内で候補を絞る段階で、今までよりも両端に寄った方が勝ちやすくなります。
中央部に複数の候補がいる時などは特に明確で、薄くなった中央で票の取り合いがされてる隙に、
厚くなった両端の票を抑えていく方が、内部での勝利に近くなります。
そうする内に、中央の低下と両端の増加が更に進むと、中央で争う人たちが減り、
両端で争う人たちが増えて、その中で目立つ為に過激化して更に極端な方向へ進んでいき、
そうやって、増加する極端な少数派の声ばかりが大きくなり、
その反動で、減少する平均的な多数派の声は静まり返ると・・・・
で、それを押し進める装置こそが、インターネットなんですよね(泣)。

2極化が叫ばれる現在においても、そして2極化が更に進んだ未来像においても、
恐らく実際は、平均的な主張の穏健派が多数派なんだと思うんですよ。
しかし、声の大きな少数派「ノイジー・マイノリティー」の数も、今後は更に増えるでしょうし、
それはネット社会とも相俟って、今以上に大きな影響力を及ぼす事になるでしょうね。
昔であれば、「馬鹿は黙ってろ」と一喝し、それでも収まらなければ殴れば良かったのですが、
文明的になった今の時代、常識的な多数派は、そこまでは出来ませんからねえ(苦笑)。
逆に言うと、今の時代に恥ずかしげも無く、それを行えてしまうのは、うるさい少数派の方だと。
そして、左右両極のバランスが崩れた時に、社会全体が一気に右や左に引っ張られてしまう。
それこそが現在の状態であり、将来的にはその傾向が更に強まることが予測されます。

酷い酷いと言われたレーガン政権も、ブッシュJr.政権に比べればマシでした。
酷い酷いと言われたブッシュJr.政権も、トランプ政権に比べればマシでした。
そして、酷い酷いと言われいた昨今のトランプ政権も、
今後登場するであろう、更に右傾化した政権よりは、きっとマシなんでしょうね。
何もこれは右派に限った事ではなく、左派だって全く同じ事なんですけど、
ただ右派の方が、何かと言動が単純明快なので解りやすい上に、
左派優勢だった冷戦期の反動から、現在は右派優勢だという時代の流れもあります。

まあ、社会に余裕が無くなると、とにかく自分の生活を守る為、全体的に右へと傾き、
そして多くの人たちの生活が壊されると、今度は一転して左へと傾き、
成長しながらパイを分け合うまでは左的で、成長しきってパイを奪い合うと右的になるという、
人間社会の歴史的なサイクルも見受けられるでしょうか?
ちなみに、右から左へと急旋回させる為の現象こそが、戦争であり、革命であると。
とは言え、一発で大転換せず、右へ左へと大きく揺れ動くパターンもありますし、
そもそも、思想的な全体主義は右であり、経済的な全体主義は左だったするので、
何を以て右や左と捉えるか次第で、この見え方も大きく違ってくるかとは思いますけど、
難しく考えずに言えば、「自分優先か? みんな仲良くか?」のバランスの変動ですよね(笑)。

自分に余裕がある時は他人にも優しくできて、自分に余裕がない時は他人の事など二の次で、
それでも自分が困った時には他人に助けてもらえると有り難く、
常に助け合えれば理想なのだけど、やはり現実的にはなかなか難しいと。
伝統的価値観がどうとか、社会的公正さがこうとか、一方的に正義を振りかざすよりも、
理想と現実の間で、みんなの満足平均点をどれだけ上げられるか?だと思うんです。
で、専門的な話になると、最大幸福社会を目指すか? 最小不幸社会を目指すか?となるのですが、
これにしても、どちらが一方が正解とかではなく、やはりバランスなんだと思います。

受験勉強にしたって、得意科目を伸ばすか? 苦手科目を克服するか?の二者択一ではなく、
安直に正解を求めないで、どっちも目指せば良いんですよ(笑)。
もちろん、それは時間を要する方法ですし、努力も工夫も必要でしょう。
一方で、受験生には入試、政治家には選挙、人生には寿命という期限があり、
その中での効率性を考えると、短期的な最適解と、長期的な最適解は、おのずと異なってきます。
ですけど、人類社会の歴史というのは、それよりずっと長くて時間もある訳ですし、
そういう意味での全体的価値観で、個人的利害とバランスを取りながら、
社会を営んでいけるシステム作りこそ、最も重要だと思うんですよね。
我々は人間である以上、個々の崇高な理性に頼る理想論では、上手く行きっこ無いので(苦笑)。

> 他はそうだけど、他はLINEで24時間仲間内とつながるのが流行だけど、文化だけはみんな多様性を欲しているんだ。
> 文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいるんだ、というのはどうしても説得力がないと思うんですよ。

何だか ようやく、話が噛み合わない理由が解ってきたんですけど、
社会的な「文化」という大きな枠組みの話題を扱っているのに、
個人的な「好み」という小さな主観で、そもそも話をしてるはずが無いじゃないですか!?(苦笑)
もっと言うと、御自身の個人的な好みという視点から、文化というモノを語っちゃってません?
それだと結局、自分の見方でしか他者を判断できないので、本当の意味で他者を理解できませんよ。
自分には自分の見方があるのと同様、他者には他者なりの見方があるのであり、
その全体像を捉えようとすれば、必然的に、高所から俯瞰的な見方をする必要が出てきます。
もちろん、最終的には誰もが主観的に解釈を行うのですが、
それこそ、主観の範囲外にあった他者の雑音を、キチンと情報として理解できる事で、
その客観性というのは、格段に精度を上げていく事が可能なんですよね。

「文化だけはみんな多様性を欲している」とか、
「文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいる」なんて、
そんな風に言ってると勘違いしちゃうのは、主観でしか見えてないからだと思うんですよね。
個々人のレベルで言えば、「自分の好みだけあれば満足」なんていうのは、当然の話なんです。
ですけど、人の好みはそれぞれ異なる以上、個々人の好みを満たす為には、
社会的な多様性が必要であり、社会的な選択の幅が必要なんです。

解りやすく、食べ物の話で喩えるとすれば、
ラーメンでも、カレーでも、寿司でも、ハンバーガーでも、ピザでも、焼き肉でも、
それぞれ好きなモノがあれば、それを自由に食べれば良いんです。
別に、それら全てを食べる必要はなく、ラーメンばかりとか、カレーばかりでも構いません。
また、自分は寿司は嫌いだとか、そういうのがあっても全然問題ないんです。
ですが、「自分はラーメンだけあれば満足」と、それ以外を全て無くしてしまっては、
その人自身は困らなくても、カレー好きな人が困ってしまいますし、
逆に、カレー以外を全て無くされた場合には、今度はラーメン好きが困ってしまうんです。
それは、ラーメンが好きだとか、寿司が嫌いだとか、そういった次元の話では無いんですよ。
ラーメンしかない世界にして、「ラーメンだけでも醤油・味噌・塩・豚骨と好きに選べる」とか、
ラーメン以外を知らずに、「みんなラーメンを美味しいと言ってる」とかなっても、
それは決して、カレーや、寿司や、ハンバーガーや、ピザや、焼き肉の代替になる事を意味しません。
みんなで一緒にラーメン屋に行く事と、みんなで一緒に行けるのがラーメン屋しかない事は違います。
いや、私もラーメンは好きですけどね(笑)。
でも、ラーメンしか選べないのは、御免被りたいです。


[23536] 日本の文化環境についての現状認識返信 削除
2021/3/30 (火) 07:04:27 旧トルコ担当

色入り返信したいことはあるのですが、ひとまず主論の方で気になった部分だけ先に返信します。
全体的な返信は5日くらい待ってください。


> > ただそれは管理人さんの好みではないわけですよね。
> > ですがそれは結局のところ管理人さんの好みに合わないというだけであって、
> > 必ずしも日本の文化環境が悪くなっているというわけではないのではないでしょうか?
> > そういう風に考えたほうが、今のトランプフィーバーも、世代内の共通言語が失われたという状況とも、
> > 整合性が取れると思うんですよ。
> > 他はそうだけど、他はLINEで24時間仲間内とつながるのが流行だけど、文化だけはみんな多様性を欲しているんだ。
> > 文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいるんだ、というのはどうしても説得力がないと思うんですよ。


> 何だか ようやく、話が噛み合わない理由が解ってきたんですけど、
> 社会的な「文化」という大きな枠組みの話題を扱っているのに、
> 個人的な「好み」という小さな主観で、そもそも話をしてるはずが無いじゃないですか!?(苦笑)
> もっと言うと、御自身の個人的な好みという視点から、文化というモノを語っちゃってません?
> それだと結局、自分の見方でしか他者を判断できないので、本当の意味で他者を理解できませんよ。
> 自分には自分の見方があるのと同様、他者には他者なりの見方があるのであり、
> その全体像を捉えようとすれば、必然的に、高所から俯瞰的な見方をする必要が出てきます。
> もちろん、最終的には誰もが主観的に解釈を行うのですが、
> それこそ、主観の範囲外にあった他者の雑音を、キチンと情報として理解できる事で、
> その客観性というのは、格段に精度を上げていく事が可能なんですよね。
>
> 「文化だけはみんな多様性を欲している」とか、
> 「文化だけはみんな選択の幅が狭くなって悲しんでいる」なんて、
> そんな風に言ってると勘違いしちゃうのは、主観でしか見えてないからだと思うんですよね。
> 個々人のレベルで言えば、「自分の好みだけあれば満足」なんていうのは、当然の話なんです。
> ですけど、人の好みはそれぞれ異なる以上、個々人の好みを満たす為には、
> 社会的な多様性が必要であり、社会的な選択の幅が必要なんです。
>
> 解りやすく、食べ物の話で喩えるとすれば、
> ラーメンでも、カレーでも、寿司でも、ハンバーガーでも、ピザでも、焼き肉でも、
> それぞれ好きなモノがあれば、それを自由に食べれば良いんです。
> 別に、それら全てを食べる必要はなく、ラーメンばかりとか、カレーばかりでも構いません。
> また、自分は寿司は嫌いだとか、そういうのがあっても全然問題ないんです。
> ですが、「自分はラーメンだけあれば満足」と、それ以外を全て無くしてしまっては、
> その人自身は困らなくても、カレー好きな人が困ってしまいますし、
> 逆に、カレー以外を全て無くされた場合には、今度はラーメン好きが困ってしまうんです。
> それは、ラーメンが好きだとか、寿司が嫌いだとか、そういった次元の話では無いんですよ。
> ラーメンしかない世界にして、「ラーメンだけでも醤油・味噌・塩・豚骨と好きに選べる」とか、
> ラーメン以外を知らずに、「みんなラーメンを美味しいと言ってる」とかなっても、
> それは決して、カレーや、寿司や、ハンバーガーや、ピザや、焼き肉の代替になる事を意味しません。
> みんなで一緒にラーメン屋に行く事と、みんなで一緒に行けるのがラーメン屋しかない事は違います。
> いや、私もラーメンは好きですけどね(笑)。
> でも、ラーメンしか選べないのは、御免被りたいです。


ええと、管理人さんの認識では、現在の日本から文化の多様性が失われているということなのでしょうか?
選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
しかし選択肢が膨大に増えすぎた結果、お互いが何をしているかが見えにくくなっていき、自分の好きなもの以外が見えにくくなった。
そういう話ではなかったのでしょうか?

> いえ、その逆ですね。
> 確かに当時は「知る人ぞ知る」という、その世界だけの話で、
> 関係ない部外者にとっては、世界の中は伺い知るのが困難な時代だったでしょうけど、
> 心理的な面と、地理的な面の壁さえ越えれば、誰でもアクセスが可能な世界でした。
> 要するに、キモいという心理の壁と、東京など大都市のみという地理の壁であり、
> そこは勇気とカネさえあれば、解決できる課題でしたので。
>
> 例えば秋葉原は昭和末期、あの街1つで、全国の家電売上の1割を担っていて、
> とにかく秋葉原に行けば何でも有るし、そこに無ければ何処にも無いという状態でした。
> そして「家電なら秋葉原」みたいに、代名詞的にイメージが定着してしまえば、
> 放っておいても人は集まってきますし、そうなれば店だって更に集まってきて、
> 店が増えれば価格競争が起きて商品安くなり、そこで更に買い物客が集まって、
> 買い物客が増えれば、マニアックな需要に応えても採算が取れるようになり、
> それこそ「何でも有る」街として、好循環で発展していった感じですね。
> で、そんな秋葉原の街へは、電車さえ乗れば、誰にだって行けた訳です(笑)。
> マニアックな店とかも、別に情報とか無くても、足さえ使えば見つけられましたし、
> コミケにしても、「マーケット(市場)」を謳っているくらい、
> 最初からオープンなイベントであり、そうして既に半世紀近い歴史がある訳です。
>
> う〜ん、この辺の感覚は、「本屋」とかで喩えれば伝わりやすいですかねえ?
> 本屋というのは、その存在自体は当然知っていても、
> 興味ない人には縁遠く、どんな本が置かれているかも計り知れないでしょうし、
> 街の小さな本屋とかは、初めてだと確かに立ち入りにくい雰囲気がありました。
> でも、一旦勇気を持って中に入り、お金さえ持っていれば、誰でも好きな本が買えるんです。
> そして神保町の書店街まで足を伸ばせば、マニアックな本さえ探す事が出来たと。
> 別にそこには、「高度な情報網」みたいなモノは特に必要ありません。
> ただ、交通費と時間を使って、わざわざそこまで足を運ぶ手間が必要という意味では、
> やる気が無いと越えられない障壁があり、それに囲われた世界観や空気感はありましたし、
> インターネットにしても、1時間繋いで500円とか1000円かかった2000年頃までは、
> 誰でも利用できるけど、本気で利用したい人しか居ない、濃密な空間であった訳ですね。
> ちなみに私が、読む時間と、書く時間と、投稿する時間を分けているのも、
> 通信料を抑える為の、当時のネットの使い方の名残だったりします(笑)。
>
> と、本屋の例から離れてしまいましたので、話を元に戻すと、
> まずは90年代、急速に全国拡大を始めたコンビニに、売れ筋の雑誌や漫画が置かれるようになり、
> 続いて2000年の大店法改正により、あちこちで広大な売り場面積を持つ大型書店が現れ出し、
> それに少し遅れて、ネットの普及に伴うAmazonの登場と、Kindleなどの電子書籍の発売がありました。
> 言ってしまうと、過渡期の00年代というのは、本好きにとって夢のような時代だった訳ですね。
> 昔ながらの街の本屋や、神保町の書店街は、まだ生き残っている状態で、
> よく読む雑誌や漫画とかは、24時間どこでも買えるコンビニに置いてあり、
> 大型書店に行けば、無数の本に囲まれるテーマパークのような空間が広がり、
> Amazonでネット注文すれば、手間を掛けずにマニアックな本さえ買えたのですから。
> でもそれは一時の夢物語であり、平成の30年あまりの間に、
> 本屋の数は3万店から1万店へと激減し、コンビニに置かれた雑誌や漫画もめっきり減り、
> 多くの大型書店は縮小や閉店を余儀なくされ、残されたのはネット空間のAmazonだけな現状に・・・・
>
> もちろん、Amazonを始めとしたネット通販は、非常に便利なのは確かなんですよ。
> 転勤族として都会でも地方でも育った私からすると、昔の地方の不便さというは覚えていますし、
> ネット通販とショッピング・モールの登場が、地方の生活を劇的に変化させた事も解るんです。
> この地理的格差の解消というのは、不便さの実体験が無い都会人には解らないほど大きい!!
> ただ一方で、街中から本屋が姿を消した現実も、目に見えて感じてますし、
> 今では駅前の商業施設やショッピング・モール以外に、ほとんど本屋が残されていない現実を、
> 今回のコロナ禍による大型店舗の一斉休業によって、如実なまでに実感しました!!
> 池上彰が以前テレビで、本屋の事を「知識のドンキ」と表現した時、
> 「まさにその通りだ!」と相槌を打ったのですが、
> 専門書からゴシップ誌まで、様々な知識が所狭しとジャングル陳列されてる「リアル書店」は、
> Amazonみたいな「ヴァーチャル書店」には無い、異なる本同士の空間的な繋がりがあるんですよね。
> AIによるオススメ書籍は、ビジネス的には一理あっても、知識の広がりには貢献しませんし。


https://ux.getuploader.com/dialogues_txt/download/436
あと、アップロードミスをしてた参考資料の方を再アップしました。パスワードは「yuri」です。
普通のtxtファイルなので、PCからであればダウンロードできるはずです。
ネット上の書き込みなのですが、見てみたところ元記事が投稿者により削除されていましたので、こういった形にしてあります。


[23537] Re:日本の文化環境についての現状認識返信 削除
2021/3/31 (水) 19:23:39 徳翁導誉

> 色入り返信したいことはあるのですが、ひとまず主論の方で気になった部分だけ先に返信します。
> 全体的な返信は5日くらい待ってください。

了解です。
と言いますか、別に急がなくても大丈夫ですよ。
所詮は雑談なので(笑)。


> ええと、管理人さんの認識では、現在の日本から文化の多様性が失われているということなのでしょうか?
う〜ん、あまり話を単純化すると正確性を損なうので、出来れば避けたかったのですが、
伝わらなければ意味が無い為、多少の誤解は恐れず、もうザックリと言っちゃいますね(笑)。

「日本から文化の多様性が失われていくか?」という問いに関しては、
日本もそうですけど、恐らくは世界的に、そうなる可能性が高いかと思います。
理由は主に、以下の3点。

1.グローバル化と新自由主義経済による画一化
  世界中どこに行っても、マクドナルドがあり、スターバックスがある。
  そしてショッピングモールに行けば、名の知れたチェーン店ばかり。
  それなりの値段で、それなりの商品を買えるのは、確かに便利なのは事実です。
  ですが、こうした画一化は、多様性を損なう一面も持ち合わせていますよねえ?
  また、データ重視の無難な商品開発も、似たモノばかりを生み出します。

2.少子化&人口減少と中間層の喪失
  この点に関しては、既にある程度、同意を得ていると思うのですが、
  やはり文化を育むには、その土壌となる絶対的な人の数が不可欠となってくる以上、
  人口の減少は大きいですし、推進役を担う若者層の急減は特に痛手となります・・・・
  (20歳人口で見ると、25年前は200万人、現在は120万人、25年後は80万人)
  しかも中間層の喪失により、個々人から余裕が失われていくとなれば、
  1人あたりが育む文化の絶対量も、減少していくのは明らかですよね?

3.社会のデジタル化と非寛容化
  デジタル技術そのものには、広く繋がっていく機能が備わっており、
  ネットの普及は、異なる他者間の相互理解を深めると思われてましたが、
  現実を見ると、逆にヘイト的な言論は強まり、幾つかの塊を生んだ感じです。
  得られる情報にせよ、生み出される作品にせよ、その数自体は増えても、
  それは塊の中での話で、中身は似たり寄ったりばかりになってないでしょうか?

> 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

例えば、書籍の出版点数(売り上げ冊数では無いですよ)で見てみると、
90年代までは右肩上がりで来た所が、00年代で停滞し、10年代からは落ち出しました。
(誤差はあるものの、他の分野も大体、同じ様な年代傾向があると感じています)
要するに、新刊の数は年々減っている訳で、その点では選択肢が少なくなってます。
また、停滞し始めると、作りたい本より、売れる本を作る割合が増していき、
下落し出すと、その勢いは尚更加速していった為、実質的な選択肢は更に狭まりました。
そして売れ方も、売れる本と売れない本の差が極端になって行ったんですよね。
こうした消費者の志向は、マンガ単行本の売れ行きや、週刊誌の苦戦を見ても解るかと?

また、全体的なイメージで言うと、以前にも言いましたが、こんな印象↓
> > > > 今や、限られた狭い選択肢の中に、細かい選択肢が多数ある感じでしょうか。
> > > > ミクロな視点からすれば豊かでも、マクロな視点では貧しく映る世界です。

この場合も、仮に数自体は増えていたとしても、幅の方は狭まったと言えるでしょう。
以前、旧トルコ担当さんも、
「無限にグローバルか、無限にローカルかしかなく、中間がない」
と、おっしゃってましたよねえ。
この文章を、上記の引用と同じ様な内容として捉えていたのですが、
それは勘違いだったのでしょうか?

「無限にグローバル or 無限にローカル」というのは、ニュアンス的には何となく解るんですよ。
数学的に言うと、無限よりも「極限」と言う方が適当でしょうけど、
まあともかく、そこを高校数学で表すとすれば、
lim(n→+∞)で収束するのが、グローバル化の産物であり、
lim(n→-∞)で収束するのが、ローカル化の産物というイメージなのであろうと。
そして、ここで言うローカルとは、何も物理的な地域などのコミュニティーに限らず、
趣向など精神的に繋がるアソシエーションも含めた、局所的ネットワークの事を指していて、
逆にグローバルとは、市場原理に基づく資本主義で繋がった、
普遍的な、超巨大ネットワークの事を指しているんだろうなと。
私も詳しくは知りませんけど、これは柄谷行人が唱える「交換様式」説に近い話なのかな?
(日本人なのに、台湾の若きIT大臣オードリー・タンの著書から、この説を知りました・苦笑)

「世界史の構造」
https://www.amazon.co.jp/dp/4006003234

って、まあ小難しい話は別としても、現在の世界の状況を見る限り、
グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?
ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され、
新たに生まれたネット上のローカルも、デジタル化の一般普及が襲い掛かられ、
2極化という現象は、グローバルの中での「持てる者と持たざる者」として現れている。
そして戦後の日本は、1億総中流と言われたように、失われた中間こそが最大の武器だったと。

> しかし選択肢が膨大に増えすぎた結果、お互いが何をしているかが見えにくくなっていき、
> 自分の好きなもの以外が見えにくくなった。
> そういう話ではなかったのでしょうか?

膨大に増加したのは、選択肢と言うよりもデータ量かな?
で、その膨大に増えたデータが、実際に選択肢たり得るかとなると・・・・
例えば本は減りましたけど、それ以上にネットの文章は格段に増えました。
とは言え、本の情報に負けない文章が、ネット上に実際どれだけあるでしょうか?
テレビや新聞が扱わないニュースも、ネットなら大量にあります。
でも、マスメディアに負けない報道内容が、実際どれだけあるでしょうか?

もちろん、ネット上にだって有益な情報はたくさんあります。
しかし、一握りの玉があるからと言って、石コロばかりの玉石混淆を、
単純に「選択肢が膨大に増えた」とは、ちょっと言えないのが本音ですね。
食べ物の例え話をしたのも、一言に選択肢が増えたと言っても、
「ラーメンのスープやトッピングの種類が増えた」という程の話に思えたからです。

あと、「お互いが何をしているか見えにくい」とか、
「自分の好きなもの以外が見えにくい」というのは、確かにあると思います。
でもそれって、何も最近始まった話ではなく、昔からそうなんですよね(笑)。
それこそ一昔前までは、情報量は限られ、物理的にも制限があり、
「相手の事が解らない」「自分の事しか解らない」のは、当然過ぎるほど当然の事でした。
しかし90年代後半、冷戦終結に伴うグローバル化や、ネットの普及、格安航空の台頭など、
今まで縛られてきた制限が取り払われ、一気に世界が広がる未来が訪れたと思われたんです!!
ですけど、その後の10年間くらいを見ると、そんな未来像は夢破れたんでしょうね・・・・

そういう意味では、00年代の後半くらいから、先祖返りと言いますか、元に戻ったとも言え、
「お互いが何をしているか見えにくい」「自分の好きなもの以外が見えにくい」という現象も、
ここ十数年くらいで見れば新たな傾向でも、もっと前から見れば変わらぬ傾向なんでしょうね。
ただ違うのは、昔は「やろう」と思っても無理だった状況から、
今では可能だけど「やらない」事を選んだという感じでしょうか?
せっかく民主化しても、新たに得た自由を持て余し、再び独裁を望む構図に近いのかな?
そういう意味では、選択肢自体が増えた側面も確かにあるのですが、
それを選択肢として使えてる人など、現状では極一部に限られてると思いますし、
選択肢が急増したから、そうした現象が生まれたというのは、ちょっと違うかな?と思ってます。

> > > 最近ネットで百合と女装に関して雰囲気わかってもらえる感じの書き込み見つけたのですが、
> > > 今検索してみたら消えていたので、保存してたぶん勝手にアップして共有しておきます。

> > 残念ながら、こちらのセキュリティー設定の関係なのか、
> > ダウンロードが行えなかったので、可能であれば概要とか語っていただけます?

> https://ux.getuploader.com/dialogues_txt/download/436
> あと、アップロードミスをしてた参考資料の方を再アップしました。パスワードは「yuri」です。
> 普通のtxtファイルなので、PCからであればダウンロードできるはずです。
> ネット上の書き込みなのですが、見てみたところ元記事が投稿者により削除されていましたので、
> こういった形にしてあります。

はい、そうした事情なのは私も承知してますし、
前回に関しても、別にアップロードをミスってた訳じゃ無いと思うんですよ。
ただ最近は、セキュリティー対策が強く訴えられるようになった為、
ブラウザや設定の違いなどで、結構弾かれてしまうサイトが増えたって事ですね。
ダウンロードが伴う時などは、特に・・・・
なので、ぶっちゃけて言うと、こういう場合はメールが最も無難かも?(笑)

で、読ませて頂いたのですが・・・お手数をおかけしたのに申し訳ないですけど、
バ美肉おじさんに対して、アイドル業界で言う所の「ガチ恋勢」が居たという話が、
「百合と女装」というのに、どれだけ関係あるのでしょうか?
また、以前にも、中の人が男性のVR風俗や、オンライン・エロゲーの話↓をしてるのですから、
> > > > ただ個人的には、10年前の3DCGオンライン・エロゲー「らぶデス555」の衝撃が強かった為、
> > > > http://asitagamienai.blog118.fc2.com/blog-entry-810.html
> > > > バ美肉おじさんみたいな存在を聞いても、「そうなんだ」くらいの感じがしちゃいます。
> > > > VR風俗でも、中の人が男性だったり、アバターが非人間キャラだったもあるそうですし。
> > > > https://www.youtube.com/watch?v=DYjeynmbR4c

バ美肉においても、そうしたガチ恋勢が一定数いる事は、既に理解してますよ。
しかも今回の紹介例のように、相互的なVRチャットでの交流ともなれば、尚更の事。

と言いますか、最近はハーレム系のアニメや漫画にも、
ヒロイン群の中に「男の娘」キャラがいるのも、決して珍しくは無いですし、
その辺の感覚は何となく、伝わるモノがあるのでは無いでしょうか?(笑)
そもそもアニメ自体、声優がセル画上のキャラに「バーチャル受肉」してる世界な訳で、
中の人はオバサンだけど幼女とか、中の人の顔や性格まで思い浮かべちゃうとか、
そんな事すら慣れっこになってる層と比べても、そこまで差異は無い気がしちゃいます。
オタ界隈であれば、アニメ・キャラにガチ恋しちゃう人も、普通に居ますけど、
だからと言って、全てのアニメ視聴者が、そういった楽しみ方をしている訳では無いと。

ただ、「ボイス・チェンジャーを使っても騙し切れない」という発言↓は、前言撤回(笑)。
> > > > しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
> > > > もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
> > > > 基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・

こちら↓は上記リンクと同じAbemaの別番組に、同じ方が出演されてるモノなのですが、
(2本合わせて9分未満の番宣ダイジェストなので、そこまで負担は無いかと)
https://www.youtube.com/watch?v=eYhThF_InN0
https://www.youtube.com/watch?v=dH5shI57uXo
バーチャルAV女優であり、VR風俗の嬢&経営者であるKarinさんという方は、
中の人は一応男性なのですが、番組内では「女子大生」と勘違いされて扱われてますね。
でも確かに、気付けない人も普通に居るんだろうなと、考えを改めさせられました。
まあ、よく聞けば男性声なのは解ると思うのですが、やはりキャラの見た目に引っ張られる面と、
(かき氷のイチゴ味やメロン味なども、味は一緒なのに、色の違いで結構騙されてますし・笑)
相手が女性であろうという先入観や、リモート特有の音質の悪さも良い方に作用してそう。
それに、日進月歩な技術の進歩を思うと、見分けが付かなくなるのも、そう遠く無いでしょうし。

・・・って、バ美肉の世界に関しては、女装とか百合なんて単純な話ではなく、
ネット空間における「LGBTQIA+」的な面とも、複雑に絡んでくるモノなので、
もっと本腰を入れて学んでいかないと、なかなか語れない分野かと思われます。
また、そこで百合についても触れるなら、身体性・性自認・性的指向・性表現など、
何を基準として百合とするのか、本当に厳密な定義が必要になってくるかと?
現実的には、どうしても付きまとうリアルな身体性を、
ヴァーチャルな空間でなら切り離せると点では、かなり奥深いテーマですよ、これは。
いや、でも大部分は、演じる方も、見てる方も、ネタ的にやってる気がしますけどね(笑)。


[23574] ネット時代の超ローカル文化返信 削除
2021/5/9 (日) 02:58:18 旧トルコ担当


返信遅れて大変申し訳ありません。原因は私生活の忙しさ、ではなく単純に文章書くのが面倒だっただけです。
で、長々と返信を書いているといつまでたっても返信を投稿できないので、とりあえず重要な部分だけ適当に書いて投稿しました。いろいろ雑ですが、それ直してると本当にいつまでも投稿できないので。

で、私の考えとしては、管理人さんの「グローバル1極の時代」とは異なって、「グローバル化とローカル化の2極化」が現在起きていることだと思っています。

> 以前、旧トルコ担当さんも、
> 「無限にグローバルか、無限にローカルかしかなく、中間がない」
> と、おっしゃってましたよねえ。
> この文章を、上記の引用と同じ様な内容として捉えていたのですが、
> それは勘違いだったのでしょうか?


> って、まあ小難しい話は別としても、現在の世界の状況を見る限り、
> グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
> 元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?
> ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され、
> 新たに生まれたネット上のローカルも、デジタル化の一般普及が襲い掛かられ、
> 2極化という現象は、グローバルの中での「持てる者と持たざる者」として現れている。
> そして戦後の日本は、1億総中流と言われたように、失われた中間こそが最大の武器だったと。


> > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。


それは選択肢の幅という意味においても、です。

ここまで現状認識が全く違っているので、抽象論ではなく具体例を出したほうが伝わりやすいと思うのですが、
例えばゲームであれば、今の時代steamなんかで膨大な数のゲームが配信されていますし、その他のサイトや無料ゲーム、スマホゲーム、同人ゲームなども含めれば、遊べるゲームの数は無限にも近いわけです。
そこには本当にありとあらゆるジャンル、種類のゲームが存在していて、決して似たようなものばかりで溢れかえっている、というわけではありません。
といいますか、私自身はMOD制作からゲーム制作もどきを始めたので、有料ゲームに劣らないMODを結構な数遊んできていますし、今やテトリスを抜いて最大のヒットタイトルとなったマインクラフトも、(特にコア層向けにおいて)マイクラの面白さを支えているのはかなりの部分MODではないでしょうか。

っていうことは、たぶん管理人さんは知っているんでしょう。
それで私がよく分からないのは、なぜこの現状を知ったうえで「選択肢の幅が減少した」という風に思うのか?ということなんです。
この辺が正直全く理解できません。
まあ私が知らないだけで、昔はもっと選択肢があったのかな?
いやでもそれはないと思うんですけどね。

あるいは、失われていった地理的にローカルな文化を私が知らない、ということなのでしょうか?

> 1.グローバル化と新自由主義経済による画一化
>   世界中どこに行っても、マクドナルドがあり、スターバックスがある。
>   そしてショッピングモールに行けば、名の知れたチェーン店ばかり。
>   それなりの値段で、それなりの商品を買えるのは、確かに便利なのは事実です。
>   ですが、こうした画一化は、多様性を損なう一面も持ち合わせていますよねえ?
>   また、データ重視の無難な商品開発も、似たモノばかりを生み出します。


「ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され」とのことですが、私としては物理的な障壁に守られなければ消滅してしまうような文化であれば、もうそれは消滅してしまえばいいんじゃない?と思ってしまいます。
これっておそらく、ショッピングモールの地方進出で街の商店街が〜、というようなことなのでしょうが、私としては(これも既出ですが)それはその地域に住んでいない人間の言説であって、地元住民からよかったよ、という以上の何物でもないと思います。
むしろインターネットによってオンラインショッピングでも何でもできるわけであって、そんなにこだわりがあるのであればネットで取り寄せればいいじゃん、ということに他ならないのではないでしょうか?
そして結局多くの人間はそこまでしないわけですから(私も服はユニクロで適当に見繕ってます)、ネットで探す手間を惜しむような人間からすれば、実のところ選択肢なんてそんなに欲していないというのが現実なのでしょう。
ゲームで例えるならば、そこまでゲーマーでない人間であれば、YouTuberが遊んでいる今流行りのswitchのゲームを遊ぶのが最も効率的で、それだけでは満足できないゲーマーなのであれば、steamでも、同人でも、ネットの広大な海から自分好みものゲームを探してくればいいでしょ、ということだと思います。

余談ですが、前にチラッと1995年ごろからファッションの世界でインディーズが台頭してきた、みたいな話を聞いたことがあるのですが、これってちょうどコミケの参加者が急増した時期なんですよね。
95、96年というのはそろそろバブル崩壊以降の経済の停滞が長期的なものなんじゃないかという認識が広がりつつあった時代で、このころに雑誌なんかも発行部数がピークに達していたはずです。
WinXPが発売、テレホーダイが始まってネット文化が本格的に稼働し始めたのもこの時期ですよね。
何が言いたいかといいますと、昭和の時代に作られたもろもろのもの(名づけるとすれば日本大衆文化とでも名付けられるようなもの)が頂点に達したのが95、96年であり、逆に大衆ではない新たな本格的に文化が始まったのがこのあたりなのかな?と。
いえ、コミケとファッションのインディーズだけでどうにも根拠が薄弱ですが。

そうでないとすれば、やはり可能性として考えられるのは、steamのような例が認識されていない、ということなのでしょうか?

> え〜と、課金面以外のスマホゲームの文化性を語ると言いつつ、
> 結局は2次創作の話になっちゃってませんか?(笑)
> 私も昔はニコニコ動画に投稿していましたから、
> 艦これ辺りは微妙でも、東方やアイマスの2次創作はガッツリ知ってますよ。
> (ニコニコ動画がここまで落ちぶれてしまったのは、個人的にも寂しい限り)
> で、スマホゲーにも2次創作があるというのが、どのような「新しい文化的価値」を生み出したのでしょ?
> 既に確立されてる2次創作という文化を組み込んで、そこに何か新しい価値が生まれているんですか?
>
> > 現在のスマホゲームの雰囲気について説明している記事を思い出したので、リンク張っておきます。
> > https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200408a

> 情報、ありがとうございます。
> シナリオ制作の環境に、変化が生じているんですね。
> ただ、シナリオの魅力というのが、そこまで大きく評価できるかとなると、
> 正直な所、未だに腑に落ちない感じではあります・・・・
> そこまでシナリオが素晴らしいのであれば、課金が無くても成立しそうですが、
> 仮定の話になりますけど、コンテンツとしての出来だけで本当に惹き付けられると思います?
> 例えば、35年くらい前に流行った「ビックリマン・シール」なども、
> シールの裏に書かれたストーリーを紡ぐ事で、大きな世界観を味わう仕組みがありましたけど、
> だからと言って実際、シール収集のコレクション要素よりも、
> そちらのゲーム・シナリオの方を深く覚えてる人って、果たして多いのでしょうか?
> 結局は、「課金させる為の味付け」という認識を、これでは脱する事が出来ませんでした。


この辺もなぜそこまで課金を重視するのかがよく理解できません。
よく考えてくださいよ。二次創作がある程度以上の時間と労力を必要としていて、そういった二次創作の存在自体も認知しているのであれば、それだけの時間や労力をかけさせる程度には、ソシャゲも魅力がある、というのは明らかだと思うのですが。
「ビックリマン・シール」は世代でないのでよく知りませんが、スマホゲームのシナリオってシールの裏側程度の面積の内容なんですかね?
いや、私もソシャゲは実はほとんどやらないので詳しくはないのですが、その程度しか魅力のない作品にゲーム時間を費やしたり、課金したり、二次創作したりすると思いますか?

> と、ついでにここで、ちょっと「余暇市場」について見てみましょうか?
> 昨年発表された2019年度(新型コロナ前)の日本の余暇市場は「72兆2940億円」であり、
> これはピークであった1996年の「90兆9070億円」と比べると、実に2割も減少しています。


> 続いて、文化面の余暇市場を、サブカルを中心に個別に見てみると、
> アニメが3000億円、マンガが5000億円、家庭用ゲームが4400億円、ラノベが150億円。
> 音楽が3000億円、映画が2600億円、アート鑑賞が1000億円ですから、
> サブカルと言いつつ、なかなかの国内市場規模ですよね(笑)。


この辺のお金で文化的豊かさを図ろうとするのもよく分かりません。
いえもちろん、管理人さんもお金が絶対だと思っているわけでなく、一つの指標として金額を持ち出してきているのも理解はしてるんですが、例えば私はこの20年間でいまだに音楽業界には1円も落としていないのですが(強いて言えばイヤホンとYouTubeの広告くらいでしょうか)、では私の楽しんでいる音楽文化の価値はゼロなんですかね?

私自身、好きなクリエイターの半分以上がネットのアマチュアクリエイターですし、影響という意味においてはリアルな書店のラノベやテレビ放送しているアニメなんか以上に、そういったネットクリエイターのほうに影響を受けています。私が歴史に興味を持ったきっかけもsteamのゲームとそれを紹介したニコニコ動画からですし。
それはまあネット世代オタクの極端な例かもしれませんが。

結局何が言いたいかといえば、グローバル化・ネット化による弊害は色々あるのかもしれませんし、それはネット以前の時代をあまり知らない私にはもしかしたら見えていないのかもしれないけど、少なくともローカルが無くなったというのは違うのではないでしょうか?ということです。
他にもスクールカーストの話とか、色々書きたいのですが、返信が遅れるのでとりあえず投稿してしまいます。


[23576] Re:ネット時代の超ローカル文化返信 削除
2021/5/11 (火) 21:35:25 徳翁導誉

> 返信遅れて大変申し訳ありません。
> 原因は私生活の忙しさ、ではなく単純に文章書くのが面倒だっただけです。

はい、解ります(笑)。
今のSNS世代からすると、昔のBBS世代である私の長文などは、
「雑談」という範疇を超えてるだろうな・・・という自覚は充分あるので。


> > グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
> > 元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?

> で、私の考えとしては、管理人さんの「グローバル1極の時代」とは異なって、
> 「グローバル化とローカル化の2極化」が現在起きていることだと思っています。

では、「極」となっているローカル化の実例とは、具体的に何でしょうか?
また、それこそタイトルにある「ネット時代の超ローカル文化」とかも、そうですが、
「ローカル」という単語の意味に関しても、同じく具体的にお願いします。

恐らく今までの感じだと、「グローバルとローカル」と言うよりも、
「マスとニッチ」や、「メジャーとマイナー(インディー)」の意味合いで、
用いている印象を受けるのですが、実際の所、どう言った意味なのでしょう?
ちなみに仮にそうだとした場合、ニッチであれ、マイナーであれ、
それが成り立つにも、最低限の「規模」が必要だと私は思うのですが、
そうした規模の必要性を、旧トルコ担当さんは感じ取れてない気がしちゃうんです・・・・

規模というのが解り難ければ、ある程度の人の集まり(社会)と捉えても良いかも知れません。
実社会で言えば、「街(大都会)」と「村(集落)」みたいなモノですよね。
どんなに村が小さくても、社会が成立するには、最低限の人数が必要であり、
住民が1人しか居ない村や、空き家しか無い村では、社会が成り立たないんです。
そして文化とは、人同士の繋がりで紡ぐモノである以上、社会の存在が不可欠となります。

要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> それは選択肢の幅という意味においても、です。
> ここまで現状認識が全く違っているので、抽象論ではなく具体例を出したほうが伝わりやすいと思うのですが、
> 例えばゲームであれば、今の時代steamなんかで膨大な数のゲームが配信されていますし、
> その他のサイトや無料ゲーム、スマホゲーム、同人ゲームなども含めれば、遊べるゲームの数は無限にも近いわけです。
> そこには本当にありとあらゆるジャンル、種類のゲームが存在していて、
> 決して似たようなものばかりで溢れかえっている、というわけではありません。
> っていうことは、たぶん管理人さんは知っているんでしょう。

そうですね、私なりに理解している・・・つもりではいます。
とは言え、ゲームとか久しく遊んでいないので、
充分に把握しているか?となると、まるで自信は無いですけども(苦笑)。
ですので逆に言うと、知らない部分があれば、是非とも知りたい所ではあると!!

> それで私がよく分からないのは、なぜこの現状を知ったうえで
> 「選択肢の幅が減少した」という風に思うのか?ということなんです。
> この辺が正直全く理解できません。
> まあ私が知らないだけで、昔はもっと選択肢があったのかな?
> いやでもそれはないと思うんですけどね。

では、私の方も具体的に話しますと、
作品の数自体が膨大に増えた事は、もちろん重々承知していますけども、
その一方で、例えば「新しいジャンル」のゲームというのは、一体どれほど生まれたのでしょうか?
それこそ私は古い世代ですので、シューティング・ゲームの登場、RPGの登場、SLGの登場、
格闘ゲームの登場、音楽ゲームの登場、オンライン・ゲームの登場などを、逐一体験してきましたけど、
近年のゲーム界において、そうした新しいジャンルは、具体的に何が登場したのでしょう?
数自体ではなく、「幅が広がる」というのは、そういう事だと私は思うので。

また、新しいジャンルの誕生だけでなく、既存のジャンルに関しても、
今では、超メジャーな一握りのタイトルと、それ以外との2極化が進んでる気がしますが、
一昔前までは、その中間にある「そこそこ普及したタイトル」という層も、確かにあったので、
作品数では劣るものの、分布の密度としては現在ほど極端では無かったと思うんですよね。
逆に言うと現在は、マイクラ・あつ森・フォートナイトに人気が過剰集中しており、
それ以外のゲームは、ほとんど耳にしないような感じになっています。
(あとは一部の例外みたいなモノで、高級ゲーミングPCのタイトルも、密かな人気を得ていると)


> > 1.グローバル化と新自由主義経済による画一化
> >   世界中どこに行っても、マクドナルドがあり、スターバックスがある。
> >   そしてショッピングモールに行けば、名の知れたチェーン店ばかり。
> >   それなりの値段で、それなりの商品を買えるのは、確かに便利なのは事実です。
> >   ですが、こうした画一化は、多様性を損なう一面も持ち合わせていますよねえ?
> >   また、データ重視の無難な商品開発も、似たモノばかりを生み出します。

> 「ローカルを守っていた物理的な障壁は、グローバル化の波に押し流され」とのことですが、
> 私としては物理的な障壁に守られなければ消滅してしまうような文化であれば、
> もうそれは消滅してしまえばいいんじゃない?と思ってしまいます。

う〜ん、それに関して私は、別に良いとも悪いとも言ってませんよ。
そうやって「画一化された」という、事実を述べているだけです。
そもそもが、「日本から文化の多様性が失われていくか?」という問いでしたから。
逆に尋ねますけど、文化の消滅を肯定されるという事は、
旧トルコ担当さんも、多様性の喪失を認められるという事なのでしょうか?

> これっておそらく、ショッピングモールの地方進出で街の商店街が〜、というようなことなのでしょうが、
いや、これは完全に違いますよ(苦笑)。
掲示板上でも何度か書いてますけど、「街の商店街が〜」との意見に対しては、私も同じく否定派です。
私は転勤族として都会と地方と転々としたので、地方の不便さは身に染みて知ってますし、
そもそも、街の商店街という代物自体、実は歴史が浅い事も認識しています。
なので、ショッピング・モールやオンライン・ショッピングの登場も、それなりに評価しており、
「地方の個性が失われた」との意見には、「それは観光客の見方だ」と言ってますし、
「どこもプチ東京化した」との意見には、「逆に東京がプチ郊外化しつつある」と唱えていますよ。
実際、今では東京都心の繁華街に、郊外型のロードサイド店が次々と進出しており、
それこそ都心の街々が、どこも似たような店揃いで、個性を失ってきていると感じるので。

> そして結局多くの人間はそこまでしないわけですから(私も服はユニクロで適当に見繕ってます)、
> ネットで探す手間を惜しむような人間からすれば、
> 実のところ選択肢なんてそんなに欲していないというのが現実なのでしょう。
> ゲームで例えるならば、そこまでゲーマーでない人間であれば、
> YouTuberが遊んでいる今流行りのswitchのゲームを遊ぶのが最も効率的で、
> それだけでは満足できないゲーマーなのであれば、steamでも、同人でも、
> ネットの広大な海から自分好みものゲームを探してくればいいでしょ、ということだと思います。

何だか、話がループしてませんか?
繰り返しになりますけど、別に私自身は、そうした需要を否定している訳ではありません。
ただ、そうなると、「文化は画一化されるよね」とか、
「文化の多様性は失われるよね」という話を、前回返信したかと思いますけど。

> 余談ですが、前にチラッと1995年ごろからファッションの世界でインディーズが台頭してきた、
> みたいな話を聞いたことがあるのですが、これってちょうどコミケの参加者が急増した時期なんですよね。
> 95、96年というのはそろそろバブル崩壊以降の経済の停滞が長期的なものなんじゃないかという認識が
> 広がりつつあった時代で、このころに雑誌なんかも発行部数がピークに達していたはずです。
> WinXPが発売、テレホーダイが始まってネット文化が本格的に稼働し始めたのもこの時期ですよね。

細かい事を言うと、WindowsXPの発売されたのは2001年で、
90年代後半だと文字通り、1995年にWindows95で、1998年にWindows98です。
また、当時はビジネス向けにWindowsNT系が別途存在していた為、
WindowsXPのシェアが5割を超えるのは、2004年の事でした。

> 何が言いたいかといいますと、昭和の時代に作られたもろもろのもの
> (名づけるとすれば日本大衆文化とでも名付けられるようなもの)が頂点に達したのが
> 95、96年であり、逆に大衆ではない新たな本格的に文化が始まったのがこのあたりなのかな?と。

ですから初めの方から、「秋葉原にバスケコートがあった頃」とか、
「アナログとデジタルの過渡期」という話をしてませんでしたっけ?
そして、これも繰り返しになっちゃうのですが、
その「新たな文化」というのは具体的に何?というのが、最初の問いだったのでは?

> いえ、コミケとファッションのインディーズだけでどうにも根拠が薄弱ですが。
> そうでないとすれば、やはり可能性として考えられるのは、
> steamのような例が認識されていない、ということなのでしょうか?

「STEAM」とは、当時のオバマ大統領が推進した
理工系と芸術系を融合させた教育政策であり・・・な〜んて冗談はさておき(笑)、
(ちなみに「Science」「Technology」「Engineering」「Arts」「Mathematics」の頭文字)
今やPCゲームを語る上で、ダウンロード販売サイト「Steam」の存在は欠かせないでしょ?
PCゲームを店頭売りしている所なんて、今ではほとんど見掛けなくなりましたので。
一昔前までは、家電量販店でも普通に、PCゲームを取り扱ってたんですけどね。


> > > 現在のスマホゲームの雰囲気について説明している記事を思い出したので、リンク張っておきます。
> > > https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200408a

> > 情報、ありがとうございます。
> > シナリオ制作の環境に、変化が生じているんですね。
> > ただ、シナリオの魅力というのが、そこまで大きく評価できるかとなると、
> > 正直な所、未だに腑に落ちない感じではあります・・・・
> > そこまでシナリオが素晴らしいのであれば、課金が無くても成立しそうですが、
> > 仮定の話になりますけど、コンテンツとしての出来だけで本当に惹き付けられると思います?
> > 結局は、「課金させる為の味付け」という認識を、これでは脱する事が出来ませんでした。

> この辺もなぜそこまで課金を重視するのかがよく理解できません。

日本のソシャゲのほとんどは、課金で儲けるビジネス・モデルで作られている為です。
と言いますか、課金要素抜きで日本のソシャゲを語る事など、ほぼ不可能だと思いますけど?

ガチャで煽る射幸心に、ランキングやヒエラルキーが生む競争心。
時間を費やすほど強くなり、課金すると更に強くなるシステムにより、
一旦ハマると、それまで投じた時間や金銭が無駄になる為、プレーが義務感に転じ、
「辞めたくても、辞められない」ようなコンセプトで作られてるゲームが、
内容的に、本当に魅力があって、素晴らしいゲームだと思われるのですか?

それこそ、純粋にゲームとして素晴らしい出来であれば、
課金の要素を除いても、家庭用ゲームや海外ソシャゲとしても売れそうですけど、
そうした実例は、少なくとも私は聞いた事がありません・・・・
18禁要素を除いたエロゲーでは、そういう実例は知ってますけどね。

マウント取りで得られる優越感や、コンプ完了で得られる満足感は、
ゲーム本来の面白さとは別だろうと、少なくとも私は考えています。
いや、「本来の面白さ」なんて表現をすると排他的かな?
言い換えると、従来のアナログ・ゲームや家庭用ゲームというのは、
プレーする「過程」を楽しませるゲームであったのに対して、
ソシャゲというのは、プレーした「結果」を楽しませるゲームなんですよ。
だからこそ実は、家庭用ゲームよりも、パチンコなどのギャンブルに近い作りなんです。

デジタル化されたパチンコやソシャゲというのは、
競馬や競輪などのギャンブルに比べ、ゲームやアニメとも親和性が非常に高く、
それらの要素が組み合わされているのも事実ですが、そこがメインではありません。
と言いますか、加えるにしても味付け程度に軽くしないと、
あれもこれもと重くなり過ぎて、主目的の結果を楽しませる事が難しくなるんです。
解りやすく言うと、過程を楽しませる要素が強くなり過ぎると、
却ってギャンブル要素が邪魔となり、ビジネス的には本末転倒になる訳ですね。
それこそエロゲーで言えば、泣きゲー化が進んで、エロ要素が邪魔になったみたいに。

まあ確かに、課金と無関係なゲームも幾らかはあるでしょうけど、
それらはソシャゲのメインでは無く、携帯ゲームの文脈で語られるモノでしょうし、
それにしたって、携帯専用機のゲームに比べれば、大きなモノではありません。
例えばパチンコや競馬などのギャンブルも、カネを賭けずとも理論上は成立はしますが、
では現実として、カネを賭けないで、市場や業界として成立するでしょうか?
少なくとも、賭博性の無かった明治の競馬は、アッと言う間に廃れましたので、
もしも日本でも、欧米同様に課金ゲームへの規制が強くなれば、正直保たないと思いますし、
仮に存続できたとすれば、それはスマホで遊ぶ携帯ゲームへの変化を強いられてるでしょうね。
しかし、そうなれば日本のゲームも、多少なりとも国際競争力を取り戻せるかも・・・・

> よく考えてくださいよ。
> 二次創作がある程度以上の時間と労力を必要としていて、
> そういった二次創作の存在自体も認知しているのであれば、
> それだけの時間や労力をかけさせる程度には、ソシャゲも魅力がある、
> というのは明らかだと思うのですが。

ここで言う二次創作とは、主にイラストの事ですかねえ?
これに関しては、以前にも少し述べたかと思いますけど、
例えばPixivに投稿される題材として、東方・アイマス・ラブライブなどが多いのは、
もちろん作品自体の人気もありますが、それ以上に大きいのは「認知度の高さ」です。
逆に言えば、だからこそ古い作品が多いとも言えます。

絵師の側から考えた場合、自分が描きたいキャラを描くタイプも居るでしょうが、
やはり一般的には、自分の絵を見てもらい、評価されたいから投稿する訳で、
そう考えると、描くのに相応の時間と労力を要する以上は、
自分の好みとか、元ネタ作品の魅力よりも、認知度の高い題材を選ぶ方がウケる為、
だからこそ、元ネタ作品は知らないけど描くというケースも珍しくない訳です。

そういう意味では、二次創作の題材として、よく選ばれると言うのは、
見慣れているとか、知名度があるという所は保証できてるでしょうけど、
作品自体の出来に「魅力がある」とまでは、断言できないと思いますよ。
それこそ、ソシャゲとも比較されるパチンコやパチスロのキャラなども、
普通に同人誌の題材とかになってますけど(有名所だと「海物語」とか)、
だからと言って、それが他のマンガやアニメと作品の出来を競うとなると・・・・
もちろん、「パチンコの中で」とか、「ソシャゲの中で」という感じに、
その世界内での競争に勝つ為の、魅力ある「差別化」は必要不可欠ですし、
そういう意味での、出来の良い作品というのは、確かにあるでしょうけども。

> いや、私もソシャゲは実はほとんどやらないので詳しくはないのですが、
・・・詳しくないのに、そこまで言われてたのですか!?
一定時間ごとに、画面上のボタンを自動タップする便利アプリであったり、
ウォーキング・ゲーム用に、振り子に乗せて歩数を稼ぐ便利グッズなど、
そういうのが当たり前になってる昨今のソシャゲ事情とか、ちゃんと御存知ですか?
また、課金要素を考慮しない場合、ソシャゲってどうやって成り立つと思われてます?


> > と、ついでにここで、ちょっと「余暇市場」について見てみましょうか?
> > 昨年発表された2019年度(新型コロナ前)の日本の余暇市場は「72兆2940億円」であり、
> > これはピークであった1996年の「90兆9070億円」と比べると、実に2割も減少しています。
> > 続いて、文化面の余暇市場を、サブカルを中心に個別に見てみると、
> > アニメが3000億円、マンガが5000億円、家庭用ゲームが4400億円、ラノベが150億円。
> > 音楽が3000億円、映画が2600億円、アート鑑賞が1000億円ですから、
> > サブカルと言いつつ、なかなかの国内市場規模ですよね(笑)。

> この辺のお金で文化的豊かさを図ろうとするのもよく分かりません。

いや、簡単な話だと思いますけどねえ。
プロの作家と、アマの作家では、どちらが多くの良作を世に生み出すか?
その答えは前者だという事は、恐らく同意してもらえると思うのですが、
プロである以上、霞を食って生きてく訳には行かないので、
そこには当然ながら、金銭のやり取りが発生しますし、
そこで動く金額が大きくなれば大きくなるほど、市場も大きくなり、
その分野で食えるプロの人数も増えてくる訳で、そうなれば良作の数も更に増えます。
また、プロの世界が高く分厚くなるほど、アマの世界だって裾野が広がる訳で、
文化規模と市場規模というのは、それなりに相関関係があると思いますよ。

> いえもちろん、管理人さんもお金が絶対だと思っているわけでなく、
> 一つの指標として金額を持ち出してきているのも理解はしてるんですが、

これに関しては、指標と言うよりも、
単に話の流れから、気になって調べてみたデータというだけですね(笑)。
それに、やはり具体的な数値を見ると、イメージも掴みやすいですし、
世界市場とのギャップから、まだ成長余地が残る分野とかも見えてきます。
現代アートのように、海外の方が高ければ、これから日本で伸びる余地があり、
マンガのように、日本が圧倒的に高ければ、これから海外で伸びる余地があると。
そういう意味では、直接的に経済効果を見ていると言うよりは、
それこそ「新しい文化」が生じそうな分野の一部に、目星が付けられ、
あれこれ可能性を探れる楽しみが内包されてるって事ですね、これらの数字には。

あと、念のために一応言っておくと、
私は古いタイプなので、趣味の世界に金銭が絡む事に、少し嫌悪感が残っているのは、
このスレッドを読み返してもらえると、再確認できるかと思いますよ。

> 例えば私はこの20年間でいまだに音楽業界には1円も落としていないのですが
> (強いて言えばイヤホンとYouTubeの広告くらいでしょうか)、
> では私の楽しんでいる音楽文化の価値はゼロなんですかね?

う〜ん、その問いって、何だか おかしくありません?
そもそも、「価値はゼロ」とかいう話をしてないのは勿論の事、
何故ここで、音楽文化の価値基準の主体が、旧トルコ担当さん自身なのでしょうか?
これがまだ、音楽業界に1円も落としてない事で、
「自分の音楽文化への貢献はゼロか?」という問いなら解りますけども・・・・

ちなみに、それがプロの楽曲であれば、
他の誰かが払ってるからこそ、タダ乗りが出来てる訳ですし(広告も含む)、
無料やサブスクだと、どうしてもウケる曲が正義になってしまいますから、
作品数自体は増えても、創作の幅が広がるかは正直微妙な気がします。
また、アマの楽曲の方も、一昔前は「ボカロP」とか「歌い手」が流行りましたけど、
ブームが去った現在にあっては、新しさや勢いの面では寂しさがあるように思えます。
もちろん、ハチこと米津玄師が時代を代表する国民的な歌手となったり、
ボカロ文化の流れを汲むYOASOBIやAdoなどが、世間的に人気を得たりしてますけども、
文化的に発達するのと、世間的に広まるのとは、時間的なギャップがあるモノで、
大衆化し、一般化した頃には、成長自体は既に下り坂な事は多いですよね。

とは言え、決して今の時代の音楽を全否定している訳ではありませんよ。
それこそ、YouTubeやサブスクの登場により、00年代の音楽不況を脱しましたし、
YouTube上の公式MVが広告として機能して、ライブで稼ぐモデルも出来ましたからね。
(とは言え、昨今のコロナ禍により、再び難しい状況に立たされてますが・・・)
実際、私も昨年、jizueというバンドの「dance」↓という曲を凄く気に入りましたけど、
https://www.youtube.com/watch?v=vTDgInMDzR4
この曲にしても、もしYouTubeが無ければ、知る機会など無かったはずですので。

あと、YouTube繋がりで言うと、
これはコロナ禍による、リモート授業化の影響もあるのかも知れませんけど、
「計算論的神経科学」の著者が、東大 大学院で行った講義動画↓を、
https://www.youtube.com/playlist?list=PLXAfiwJfs0jE8DxX215F36H9hjYEWqkHS
https://www.amazon.co.jp/dp/4627851618
しれっと上げていたりするのは、素直に「凄い時代だな」とは思いますよ!!
そして欲を言えば、これが更にゲーム化やアニメ化されるなどして、
攻殻やシュタゲのようなSF作品が好きな層にも、取っ付き易い内容になり、
言語の壁も越えて、次の世代が成長していける社会となれば、理想的ですけどね(笑)。
(せっかく動画がアップされているのに、個々の再生数は2ケタ程度ですので)


> > > > > 情報があふれるようになって、相対的に時間が貴重になったからだと思います。
> > > > え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> > > > じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。

> > > いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
> > > ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
> > > 私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかが
> > > やたらもったいなく感じるようになりました。

> > そう、そこなんですよ、私が言いたいのは。
> > 重視されてるのは「時間」そのものではなく、時間に伴う「感覚」の方な気がするんです。
> > 要するに、本当に「時間が貴重」と思えるほど、現代人が忙しくなったというよりは、
> > 時間が貴重というコンセプトにより、「心理的な余裕」が奪われてるのが真相なのでは?
> > そして、心の余裕と交換に、我々が何を得たかというと、それは「便利さ」なのでしょうが、
> > ですけど便利さ自体が、心の余裕を奪ってる訳では無いと思いますし、
> > それを奪うのは、便利さに抱き合わされた「商業主義」の方だと思うんです。
> > で、その商業主義を覆い隠す為に用いられるコンセプトこそが、「時間が貴重」では無いかと。

【後で補足しようと思ってた文章を、今更ながらに追加】

電車を待つ数分、エレベーターを待つ数十秒、そして食事中や移動中の時間。
1つの動画を見たり、1つの記事を読んだり、新着チェックをしたりする。
一見すると、限られた時間を無駄なく使ってるように感じられるかも知れません。

しかしこれは、「時間が貴重になった」と言うよりも、
「わずかな時間さえ市場化された」と言うのが実状でしょうし、
やる事が多すぎて「時間的余裕」が削られる以上に、
一息つく暇さえ消費に追われて「精神的余裕」が削られてしまい、
結局は気付かぬ内に、市場原理に飲み込まれてるんだと思うんですよ。
スマホのソシャゲなどは、最も解りやすい例では無いでしょうか?

これと似た構造なのが、食べ放題やバイキングですね。
元々は、支払額を気にせず、好きなだけ食べる事に集中できるシステムのはずですが、
そこに「コスパ」という概念が持ち込まれ、「元を取ろう」という気持ちが働くと、
吐きそうになるまで量を食べたり、原価の高いモノだけを食べるようになる。
でもこれでは、損する事を恐れる 強迫観念にかられての行為になってしまい、
そこで得られるのも、食事的な満足感ではなく、経済的な満足感になってしまいます。

無料や定額(サブスク)の中、選びきれないほど大量に存在し、
わずかな隙間時間さえ狙うべく短時間化&単純化が進む、コンテンツの数々。
こうなると、その中身を楽しむ以上に、手段である消費自体が目的化しちゃいません?
また、ネット通販にしても、その商品をゲットする事で得る喜びよりも、
買うか否かを悩み、ポチる事で得られる解放感の方が、実際には強い気がするんですよね。
ネット通販には、掘り出し物の発見や、作業的な買い物の効率化など、確かに利点はありますし、
サブスクにより、過去の名作に触れる機会が格段に増えたのも、素晴らしい事だと思います。
そして、そもそも、食べ放題的なコンテンツ消費の楽しみ方自体を否定している訳ではありません。
ただ、社会全体が安価な「コスパ至上主義」に覆われてしまい、「有意義な無駄」が失われ、
そうしたコンテンツしか、新たに生み出されない環境となる事を危惧しているんです。


[23585] Re2:ネット時代の超ローカル文化返信 削除
2021/5/22 (土) 16:44:46 旧トルコ担当

▼ ローカル文化

> > > グローバル化とローカル化の2極化と言うよりは、
> > > 元々あったローカルが衰退して、グローバル1極の時代になってませんか?

> > で、私の考えとしては、管理人さんの「グローバル1極の時代」とは異なって、
> > 「グローバル化とローカル化の2極化」が現在起きていることだと思っています。

> では、「極」となっているローカル化の実例とは、具体的に何でしょうか?
> また、それこそタイトルにある「ネット時代の超ローカル文化」とかも、そうですが、
> 「ローカル」という単語の意味に関しても、同じく具体的にお願いします。
>
> 恐らく今までの感じだと、「グローバルとローカル」と言うよりも、
> 「マスとニッチ」や、「メジャーとマイナー(インディー)」の意味合いで、
> 用いている印象を受けるのですが、実際の所、どう言った意味なのでしょう?


そうですね。ローカルというよりかはニッチやマイナーというほうが正確です。

> ちなみに仮にそうだとした場合、ニッチであれ、マイナーであれ、
> それが成り立つにも、最低限の「規模」が必要だと私は思うのですが、
> そうした規模の必要性を、旧トルコ担当さんは感じ取れてない気がしちゃうんです・・・・
>
> 規模というのが解り難ければ、ある程度の人の集まり(社会)と捉えても良いかも知れません。
> 実社会で言えば、「街(大都会)」と「村(集落)」みたいなモノですよね。
> どんなに村が小さくても、社会が成立するには、最低限の人数が必要であり、
> 住民が1人しか居ない村や、空き家しか無い村では、社会が成り立たないんです。
> そして文化とは、人同士の繋がりで紡ぐモノである以上、社会の存在が不可欠となります。
>
> 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。


はい、私の言う「ローカル」というのは、人知れず存在してるだけではないですよ。
後半で具体例を挙げていますので、確認お願いします。

▼ ゲームジャンルと選択肢の幅

> > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> > それは選択肢の幅という意味においても、です。
> > ここまで現状認識が全く違っているので、抽象論ではなく具体例を出したほうが伝わりやすいと思うのですが、
> > 例えばゲームであれば、今の時代steamなんかで膨大な数のゲームが配信されていますし、
> > その他のサイトや無料ゲーム、スマホゲーム、同人ゲームなども含めれば、遊べるゲームの数は無限にも近いわけです。
> > そこには本当にありとあらゆるジャンル、種類のゲームが存在していて、
> > 決して似たようなものばかりで溢れかえっている、というわけではありません。
> > っていうことは、たぶん管理人さんは知っているんでしょう。

> そうですね、私なりに理解している・・・つもりではいます。
> とは言え、ゲームとか久しく遊んでいないので、
> 充分に把握しているか?となると、まるで自信は無いですけども(苦笑)。
> ですので逆に言うと、知らない部分があれば、是非とも知りたい所ではあると!!


確かに、ゲームジャンルという意味では新たなジャンルというのは出てきてないと思います。
(正確に言えば、新たな性格のゲームは誕生しているのですが、これ以上ジャンル名を増やしてもしょうがないので、そこまで細分化されないだけだとは思いますが)
ですがゲームの楽しみ方という面では、いろいろ選択肢が増えたと思いませんか?
YouTubeのゲーム実況がまさしくそうですし、他にもMOD制作、RTA、eスポーツなんていうのもそのうちの一つだと思います。

▼ 人気ゲームについて

> また、新しいジャンルの誕生だけでなく、既存のジャンルに関しても、
> 今では、超メジャーな一握りのタイトルと、それ以外との2極化が進んでる気がしますが、
> 一昔前までは、その中間にある「そこそこ普及したタイトル」という層も、確かにあったので、
> 作品数では劣るものの、分布の密度としては現在ほど極端では無かったと思うんですよね。
> 逆に言うと現在は、マイクラ・あつ森・フォートナイトに人気が過剰集中しており、
> それ以外のゲームは、ほとんど耳にしないような感じになっています。
> (あとは一部の例外みたいなモノで、高級ゲーミングPCのタイトルも、密かな人気を得ていると)


ちなみに、「マイクラ・あつ森・フォートナイト」の中にAmongUsが入ってこないのは、AmongUsを知っていて入れていないのでしょうか?それとも聞いたことがないのでしょうか?
いや、私はこういった人狼系ゲームは運の要素が強いと食わず嫌いしているので、詳しくは知らないのですが、めっちゃ流行っていましたよ。

▼ ソシャゲについてとローカル文化の具体例1

> > この辺もなぜそこまで課金を重視するのかがよく理解できません。
> 日本のソシャゲのほとんどは、課金で儲けるビジネス・モデルで作られている為です。
> と言いますか、課金要素抜きで日本のソシャゲを語る事など、ほぼ不可能だと思いますけど?
>
> ガチャで煽る射幸心に、ランキングやヒエラルキーが生む競争心。
> 時間を費やすほど強くなり、課金すると更に強くなるシステムにより、
> 一旦ハマると、それまで投じた時間や金銭が無駄になる為、プレーが義務感に転じ、
> 「辞めたくても、辞められない」ようなコンセプトで作られてるゲームが、
> 内容的に、本当に魅力があって、素晴らしいゲームだと思われるのですか?


> マウント取りで得られる優越感や、コンプ完了で得られる満足感は、
> ゲーム本来の面白さとは別だろうと、少なくとも私は考えています。
> いや、「本来の面白さ」なんて表現をすると排他的かな?
> 言い換えると、従来のアナログ・ゲームや家庭用ゲームというのは、
> プレーする「過程」を楽しませるゲームであったのに対して、
> ソシャゲというのは、プレーした「結果」を楽しませるゲームなんですよ。
> だからこそ実は、家庭用ゲームよりも、パチンコなどのギャンブルに近い作りなんです。


いや、それは極端な解釈だと思いますよ。
といいますか、ソシャゲで遊ぶ人がみんなそんな人たちであれば、もっとソシャゲ業界潤ってますって。
なんなら私がソシャゲ作って大儲けするまであります。
そもそもですが、ソシャゲを遊んだことがありますか?あるいはプレイ動画など見たことありますでしょうか?
ある程度遊んだことがあるうえで、さらにいろいろな情報を得てそう言っているのか、それともほとんど遊ばずにそう言っているのかで、私もどれだけ自分の考えを疑うべきなのかが変わってきますので。

で、私の少々のソシャゲ体験とツイッターのフォロワーを見ている限りで言えば、ソシャゲユーザーの中で大金を課金するのは基本的に少数派であって、大多数は課金しないかしても少額ですよ。
もちろん、大金を課金するユーザーが少なからず存在するのは事実ですし、ビジネスとしてソシャゲを語るのであれば大金を課金をする少数派をメインに語るのは妥当ですが、文化としてのソシャゲを語るのであれば大多数のユーザーを無視する間違いではありませんか?
もしソシャゲが管理人さんの指摘するような状態であったとするならば、大多数のあまり課金しないソシャゲユーザーは何を目的にゲームを遊んでいるのでしょうか?
ソシャゲのおかげで携帯機ゲームは淘汰されてしまったんですよ?ソシャゲがつまらなければ今頃PSPの新作が発売されているんじゃないんですか?
大体、ソシャゲを遊ぶ人はみんなそんなに競争心が強いのでしょうか?ゲームで遊ぶ人のうち、競争心が強いプレイヤーなんて1割もいないと思うのですが、ソシャゲを遊んでいる人はみんなその1割なのでしょうか?
そもそも、ソシャゲでランキング上位へ入ることを目的とするユーザーがいるのも、そのゲームに人がいるからです。ユーザー数十人のゲームの中でランキング上位になっても大してうれしくないじゃないですか。
だからこそソシャゲ会社としては、課金はあまりしないけれども遊んでくれるユーザーを大勢ゲームに熱中させる必要があるわけで、それにはやはり魅力的なゲームという素材がなければ成立しないわけです。
課金、課金、課金、で開発されたゲームがヒットした例ってどこにありますか?そういった元のゲームが魅力的でないソシャゲは本当に、本当に本当に星の数ほど開発されて、結果全部サービス終了してるじゃないですか。
結局、ソシャゲでも課金で大儲けしてるゲームというのは、大なり小なり魅力的なゲーム性を持っていると思うんですけどね。

> それこそ、純粋にゲームとして素晴らしい出来であれば、
> 課金の要素を除いても、家庭用ゲームや海外ソシャゲとしても売れそうですけど、
> そうした実例は、少なくとも私は聞いた事がありません・・・・
> 18禁要素を除いたエロゲーでは、そういう実例は知ってますけどね。


18禁ゲームを移植するのは家庭用ゲーム機の中で新たに市場を獲得するためでした。
まだ当時はPCの普及率もそこまで高くなかったですし(まあ今も高くはありませんが)、ゲーム市場の主戦場が家庭用ゲーム機だった時代に、ニッチなPC市場から主戦場の家庭用ゲーム機市場へ魅力的なゲームで殴り込みをかける戦法というのは経済的な利益を生みました。
では、今スマホ以上に普及しているプラットホームってどこかにあるんですか?
任天堂スイッチは持ってるけどスマホを持っていない人なんていないでしょう。スマホでできるゲームをわざわざスイッチに移植したところで新規ユーザーが獲得できるのでしょうか?

> > いや、私もソシャゲは実はほとんどやらないので詳しくはないのですが、
> ・・・詳しくないのに、そこまで言われてたのですか!?
> 一定時間ごとに、画面上のボタンを自動タップする便利アプリであったり、
> ウォーキング・ゲーム用に、振り子に乗せて歩数を稼ぐ便利グッズなど、
> そういうのが当たり前になってる昨今のソシャゲ事情とか、ちゃんと御存知ですか?


はい、さすがにその程度の知識はありますよ。
といいますか、そんなのは20年前のPCオンラインゲームの時代から存在していますし、今更驚くようなことなのでしょうか?

> また、課金要素を考慮しない場合、ソシャゲってどうやって成り立つと思われてます?

モノによっては成立すると思いますよ。
普通のゲームみたく、ゲーム購入時にお金を取ればいいわけですから。
ただそれやらないのは、結局のところまず最初に遊んでもらうのが難しいからですよね。
やはり「無料で遊んでもらう→ゲームを楽しんでもらう→課金してもらう」と、「ゲームが面白いか見極めてもらう→ゲームを買ってもらう→ゲームを楽しんでもらう」では全然違いますよ。
特にブランドのない弱小ゲームメーカーには課金システムというのは非常にありがたいわけです。

> > よく考えてくださいよ。
> > 二次創作がある程度以上の時間と労力を必要としていて、
> > そういった二次創作の存在自体も認知しているのであれば、
> > それだけの時間や労力をかけさせる程度には、ソシャゲも魅力がある、
> > というのは明らかだと思うのですが。

> ここで言う二次創作とは、主にイラストの事ですかねえ?
> これに関しては、以前にも少し述べたかと思いますけど、
> 例えばPixivに投稿される題材として、東方・アイマス・ラブライブなどが多いのは、
> もちろん作品自体の人気もありますが、それ以上に大きいのは「認知度の高さ」です。
> 逆に言えば、だからこそ古い作品が多いとも言えます。
>
> 絵師の側から考えた場合、自分が描きたいキャラを描くタイプも居るでしょうが、
> やはり一般的には、自分の絵を見てもらい、評価されたいから投稿する訳で、
> そう考えると、描くのに相応の時間と労力を要する以上は、
> 自分の好みとか、元ネタ作品の魅力よりも、認知度の高い題材を選ぶ方がウケる為、
> だからこそ、元ネタ作品は知らないけど描くというケースも珍しくない訳です。
>
> そういう意味では、二次創作の題材として、よく選ばれると言うのは、
> 見慣れているとか、知名度があるという所は保証できてるでしょうけど、
> 作品自体の出来に「魅力がある」とまでは、断言できないと思いますよ。
> それこそ、ソシャゲとも比較されるパチンコやパチスロのキャラなども、
> 普通に同人誌の題材とかになってますけど(有名所だと「海物語」とか)、
> だからと言って、それが他のマンガやアニメと作品の出来を競うとなると・・・・
> もちろん、「パチンコの中で」とか、「ソシャゲの中で」という感じに、
> その世界内での競争に勝つ為の、魅力ある「差別化」は必要不可欠ですし、
> そういう意味での、出来の良い作品というのは、確かにあるでしょうけども。


はい、そういう例も、もちろん知ってますよ。
ただ、やはり全部が全部、いいねが貰いたいから人気の作品で二次創作してる、と片付けるのはあまりに実態とかけ離れているかと。
Pixiv見てみてくださいよ。下手なイラストいっぱいありますよ。不人気なキャラのイラストもいくらでもありますよ。

具体例を挙げたほうが良いと思うのですが、一番良い例は、Pixivのアイマス二次創作小説ですかね。
まず何といっても、小説はいいねが貰いにくいんですよ。なんて言ったって読むのに時間がかかりますから。
私が今確認した時点では、「アイマス1000users入り」のタグがつけられたイラストが2万6千作品あるのに対し、「アイマス小説1000users入り」のタグが付いている小説はなんとたったの94作品。
それでも「アイマス」のタグが付いた小説は1万4千作品も存在します。(ちなみにイラストでは16万作品)
しかも見てくださいよ、どの小説にも5いいねとか、13いいねとか、そんな数がついているですよ。
https://www.pixiv.net/tags/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%82%B9/novels?s_mode=s_tag
内容もR-18G(過激なエロ)から、百合や、クロスオーバー(他作品のキャラが出てくる)まで、ありとあらゆるジャンルの小説が、それこそ死ぬほどニッチな小説がこれでもかと投稿されているわけです。

あとやっぱりこの世界を変えたのはライトノベルの『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の二次創作だと思います。
その数アイマスを大きく引き離して7万作品以上。
https://www.pixiv.net/tags/%E3%82%84%E3%81%AF%E3%82%8A%E4%BF%BA%E3%81%AE%E9%9D%92%E6%98%A5%E3%83%A9%E3%83%96%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82/novels?s_mode=s_tag
そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。(俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、そういう理由もあるのでしょうか。
百合もそうですね。もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

▼ ローカル文化の具体例2 MODの世界

私自身は元々MODの世界からプログラミングもどき・ゲーム制作もどきをやるよるになったので、やはり紹介したいのがMODの世界です。
例えば以下はsteamで販売されているSF戦略シミュレーションの「Stellaris」というゲーム(宇宙版信長の野望のようなゲーム)のMODなのですが、実に2万件ものMODが公開されています。
https://steamcommunity.com/workshop/browse/?appid=281990&searchtext=&childpublishedfileid=0&browsesort=totaluniquesubscribers&section=readytouseitems
これは日本だけでなく海外含めての数ですし、もちろん2万のMODの中にはしょうもないものも多数ありますが、一方でこれだけピラミッドの土台にたくさんのMODがあると、その上部はとてつもないクオリティになるわけです。
もはや複数人でチームを組んでのMOD製作は当たり前になりましたし、年単位の時間をかけて制作されるMODは、本体ゲーム以上のクオリティといっても過言ではありません。
そもそもStellarisの場合は、日本語化からして商業では対応しておらず、有志制作のMODが日本語をサポートしていますし、MOD制作用のツールが無数に公開されている状態です。
さらにStellarisはプログラミング言語をゲームに読み込ませることが可能なので、手間をかければゲームシステムの根本を維持時ることも可能で、現にそういったことを行っているMODも数多くあります。

こういった例は何もStellarisだけが特別なのではなく、例えば同社製の「Hearts of Iorn4」(これは第二次世界大戦のゲーム)では、MODは3万件も公開されています。
https://steamcommunity.com/workshop/browse/?appid=394360&browsesort=trend&section=readytouseitems

これがMOD界最大のMineCraftともなれば、もはや本当に数えきれない数のMODが存在するわけです。

> > うーん、日本文化にこだわる必要はないんですよね。
> いや〜、そこまで割り切られてしまうと、返す言葉もありません(笑)。
> 確かに、例えばこの世から日本食が消滅した所で、日本人が飢え死にする訳では無く、
> ハンバーガーやピザだけ食べていても、それで生き続けられるのは事実です。
> でも、それでは寂しすぎると言うのが、偽らざる私の本音ですね・・・・


多分日本文化であるかどうか、ということに対するこだわり度が管理人さんと違ってくるのも、私がある程度海外の文化をネット経由で取り入れているからなのでしょうね。
ゲームなんかはもう半分以上海外ゲーム遊んでますから。

▼ その他、極ローカル文化にてついて

いや、そんな極ローカル文化なんて質が低いんじゃないか、と思われるかもしれませんが、少なくとも私は好きな作品の半分以上はネットの無料作品なんですよね。
そもそも歴史に興味を持ったのも、とあるYouTube動画がきっかかけですし、ゲームも時間にして2割くらいはネットの無料ゲームを遊んでいますし、やる夫スレは結構読みました。
今でも衰退したといわれるニコニコも、私はいまだ毎日見に行くくらい面白いですし、Pixivも毎日見てますし、それは個人的な好みではなく、ある程度多くの人がそう思っているのは、上記の例でお判りいただけたかと。

▼ 極ローカルに対しての管理人さんの理解度について

最後に、管理人さんは今回私が挙げたような具体例ってどのくらいご存じでしたでしょうか?
管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。

といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。

私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……
ちなみに管理人さんの認識だと、ああいう戦国史のファンダムだったり、やる夫スレみたいなものだったり、ニコニコ動画的なものはここ10年で衰退したという認識なのでしょうか?


[23586] ネット時代の超ローカル文化と雑談返信 削除
2021/5/22 (土) 16:45:36 旧トルコ担当

▼ 有意義な無駄について

> 電車を待つ数分、エレベーターを待つ数十秒、そして食事中や移動中の時間。
> 1つの動画を見たり、1つの記事を読んだり、新着チェックをしたりする。
> 一見すると、限られた時間を無駄なく使ってるように感じられるかも知れません。
>
> しかしこれは、「時間が貴重になった」と言うよりも、
> 「わずかな時間さえ市場化された」と言うのが実状でしょうし、
> やる事が多すぎて「時間的余裕」が削られる以上に、
> 一息つく暇さえ消費に追われて「精神的余裕」が削られてしまい、
> 結局は気付かぬ内に、市場原理に飲み込まれてるんだと思うんですよ。
> スマホのソシャゲなどは、最も解りやすい例では無いでしょうか?
>
> これと似た構造なのが、食べ放題やバイキングですね。
> 元々は、支払額を気にせず、好きなだけ食べる事に集中できるシステムのはずですが、
> そこに「コスパ」という概念が持ち込まれ、「元を取ろう」という気持ちが働くと、
> 吐きそうになるまで量を食べたり、原価の高いモノだけを食べるようになる。
> でもこれでは、損する事を恐れる 強迫観念にかられての行為になってしまい、
> そこで得られるのも、食事的な満足感ではなく、経済的な満足感になってしまいます。
>
> 無料や定額(サブスク)の中、選びきれないほど大量に存在し、
> わずかな隙間時間さえ狙うべく短時間化&単純化が進む、コンテンツの数々。
> こうなると、その中身を楽しむ以上に、手段である消費自体が目的化しちゃいません?
> また、ネット通販にしても、その商品をゲットする事で得る喜びよりも、
> 買うか否かを悩み、ポチる事で得られる解放感の方が、実際には強い気がするんですよね。
> ネット通販には、掘り出し物の発見や、作業的な買い物の効率化など、確かに利点はありますし、
> サブスクにより、過去の名作に触れる機会が格段に増えたのも、素晴らしい事だと思います。
> そして、そもそも、食べ放題的なコンテンツ消費の楽しみ方自体を否定している訳ではありません。
> ただ、社会全体が安価な「コスパ至上主義」に覆われてしまい、「有意義な無駄」が失われ、
> そうしたコンテンツしか、新たに生み出されない環境となる事を危惧しているんです。


これについて、完全否定するつもりはないんですよ。
ただ一方で、具体的に「有意義な無駄」とは何でしょうか?
もちろん、ソシャゲのログインボーナスを毎日欠かさずにゲットするという行為が必ずしも有意義なのか?というのは自分も疑問を持ちます。(自分はその辺が嫌でソシャゲを短期間で辞めたので)
ですが一方で「電車を待つ数分、エレベーターを待つ数十秒、そして食事中や移動中の時間」に存在した「有意義な無駄」とは何だったのでしょうか?(食事中は目の前の食事に集中しろよとか、スマホの画面見てないで一緒に来てる人と会話しろとか、まだありますが)

あと、管理人さんの言っていることは少なくとも前回の返信で挙げられている具体例に関しては極端だと思います。
例えば食べ放題にしても、吐きそうになるまで量を食べたり、原価の高いモノだけを食べるようになる、というのは大げさではないでしょうか?
少なくとも私の周りでは、食べ過ぎることはあっても、吐きそうになるほど食べる人は見ませんし、原価の高いものばかりだべるというのもあまり見ません。
ネット通販にしろ、ソシャゲにしろ、然りです。

▼ 中間の喪失につてい:多様性の罠、不可知化と分国

> > > 文化というのは、幅や時間や厚みを持った、もっと大きな枠組みのモノであり、
> > > キツイ言い方になってしまいますけど、そもそも「新しい文化は無限にある」だなんて、
> > > そんな小さな意味合いで「文化」という概念を、少なくとも私は捉えていません。
> > > 例えば無数に存在するのは、文化を構成する個々の作品とかであって、
> > > 文化自体が、決して無数に存在している訳では無いでしょうからねえ。

> > 申し訳ありませんが、この辺の規模感については正直よくわかりません。
> > 多分管理人さんは私よりもより高い位置から色々な現象を見渡せているのだと思いますが、
> > 私自身まだまだ勉強不足なので、科学技術の発展や社会形態みたいなより
> > 具体的なものならばまだわかるんですが、文化とは何か?
> > (傾向やブームとは何が違うのか)みたいな抽象性の高い話には全くついていけないんですよね。
> > 投げやりに返信しているとかではなく、本当にその視点から言われるとどうしようもないんですよね。

> はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
> まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
> 「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
> 普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。
>
> ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
> 世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
> そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
> 別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
> キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
> 個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
> オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。
>
> 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
> クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
> 部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
> メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?
>
> で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> 言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
> 「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
> 「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
> 「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
> これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
> それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
> まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
> それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
> やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。


中間の喪失が招いたものというのは、不可知化だったと思います。
大きいものがいくつかと、あとそれなりの数の中くらいのものがあって、さらに細かい小さな塊が存在する、そういう時は、大きいものと中くらいのものを認識することが出来るわけですが、現在のように大きな塊が少しと小さなものが無限にある場合には、大きなものしか見えなくなって小さなものは不可視になると思うんですよね。
さらにネット化がそれに拍車をかけたと。(正確に言えば、ネット化が大きな塊と無数の小さなものだけ、という状況を形成したわけですが)
で、その結果起きたことは分国だと思うんですよ。
30年前までは、管理人さんの例のように、ある程度の規模の学校が存在して、その中にいろいろなクラスや部活、生徒がいたからこそ、それが多様性だったわけです。
しかし、現在起きていることというのは、その大きな学校が崩壊して、無数の学校が勝手に独立し始めた、そういうことではないでしょうか?
これはオタク文化においてもそうですし、現在の世界が置かれている状況にも当てはまると思います。

で、私はオタクなのでオタク話しかできないのですが、アイマスなんかが面白いのは失われた中間を独自に再創造しているところだと思うんですよね。
数百人のアイドルがいて、さらに定期的に新シリーズをやることで新規世代の参入障壁を低くし、複数の形態でコンテンツを発信することで、アイマスというのはそれなりの規模の学校に多様性のあるメンバーがいるという、旧世代の中間を再創造しているんですよ。
それは別に個性豊かなアイドルがいるとかそういうことではなく、ファン層の中に年齢高めのオタクから10代までを網羅し、アイマスはなんだかんだんで声優の文化が強いのですが、私みたく声優に全く興味のない人間も普通にいると。
ゲームを拠点としながらも、既に紹介した二次創作小説から、商業漫画、アニメに音楽、ニコ動・YouTubeなど、幅広いメディアミックスを成功させています。
そういう意味で、アイマスはポスト1995のガンダムなのかな?
かつては東方もこれに近かったと思います。
結局東方がアイマスになりえなかったのは、ZUNが同人でやっているがゆえに公式での展開力がどうしても弱かったことでしょうね。
アイマスは背後にバンダイがいたのでどんどんキャラを増やしていったり、東方ではできなかったアニメ化も非常に上手にやっていきました。

まあそんなオタク話は置いておくにしても、不可知化=分国というのは結構大きいと思うんですよね。
例えばDiscordなんかも、クローズドだからこそTwitterよりも質の高いコミュニケーションが取れて、私としては非常に楽しいのですが、そういうのってクローズドSNSだからゆえに外からは全く見えませんからね。
別に現代のネットというのはTwitterの炎上だけではないのですが。
といいますか、管理人さんの望むような長文の話なんかもDiscordであれば実現可能だと思うのですが。人さえうまく集められれば。
私はさっぱりですが、オンラインサロンなんかもそういった不可知化=分国の一例なのでしょうか。
ともあれ20世紀に存在していた公共空間が没落していって、私的でも公的でもない第三の社会が今後どうなっていくのかというのは歴史好きとしても結構気になるところです。

▼ 時間感覚の加速がもたらすもの

> > > え〜と、昨今ある「時間が貴重になった」という論調には、私はちょっと懐疑的かな?
> > > じゃあ、そうやって作った時間で何をしているかとなると、別に大した事はしていないと(笑)。
> > > 正直、情報が有ろうが無かろうが、大昔だろうが現在だろうが、
> > > 1日が24時間なのは全く変わってませんし、時間は貴重なんて事は数千年前から言われ続けてます。
> > > もっと言っちゃえば、昔の方が平均寿命が短いので、今より時間が貴重です(笑)。
> > > ともかく、やるべき事、したい事が多い人ほど、時間をフル活用するモノですからね。

> > いやまあ大したことをしてないのは事実なんですけどね、自分も含めw
> > ただ時間貴重感の増大というのはそこまで間違ってないと思っています。
> > 私自身も、スマホを使うようになってからエスカレーターの待ち時間とかがやたらもったいなく感じるようになりました。

> そう、そこなんですよ、私が言いたいのは。
> 重視されてるのは「時間」そのものではなく、時間に伴う「感覚」の方な気がするんです。
> 要するに、本当に「時間が貴重」と思えるほど、現代人が忙しくなったというよりは、
> 時間が貴重というコンセプトにより、「心理的な余裕」が奪われてるのが真相なのでは?
> そして、心の余裕と交換に、我々が何を得たかというと、それは「便利さ」なのでしょうが、
> ですけど便利さ自体が、心の余裕を奪ってる訳では無いと思いますし、
> それを奪うのは、便利さに抱き合わされた「商業主義」の方だと思うんです。
> で、その商業主義を覆い隠す為に用いられるコンセプトこそが、「時間が貴重」では無いかと。
>
> > あまり詳しくはないのですが、最近の音楽はサビから始まるなんていうのも、
> > サビが始まるまでとりあえず聞いてみようという人が減ってきたからだと思いますし、

> 「最近の音楽」と言いますか、その歴史は音楽界でも何度も繰り返されてる感じですね(笑)。
> まあこれは音楽に限らず、顧客の数が増える「大衆化」を迎え、
> ツカミやインパクト、解り易さなどを重視する「陳腐化」が起こり、
> そして飽きられて沈んでいき、また時間が経って盛り上がり始めるサイクルを辿ると。
> ですから、サビから始まる曲自体、カラオケ・ブームによりCDが馬鹿売れした90年代にも、
> カラオケでの盛り上がりを重視して、やはり同じ様な傾向は見受けられましたし、
> もっと言うと、縁遠いと高尚と思われがちなクラシック音楽の世界でさえ同様で、
> 実はベートーベンというのは、そうやって大衆人気を得た人なんですよね!!
> 「ジャジャジャジャーン」で始まる交響曲第5番「運命」など、ツカミ狙いの典型例です(笑)。


まず、時間感覚の変化の要因は商業主義の浸透というよりも、スマホが要因だと私は考えています。
音楽を例にするとわかりやすいと思うのですが、
かつて巨大なコンサートホールでクラッシック音楽が演奏されていた時代、人々はその場にふさわしい適当な服装をわざわざ着て来て、ホールまで歩いて(あるいは馬車などで)音楽を聴きに行きました。
そういう時代の音楽というのは、演奏時間も数十分とか、下手すると数時間のような、長い曲ばかりだったわけですよ。
なぜならば、ホールに行くのにも変えるのにも、それなりの時間と手間を使って、聴きに行き、なおかつ嫌いな曲がかかっても個人の好みで別の曲を演奏しろ、とヤジを飛ばすわけにはいかなかったからです。(強いて言えばホールを出て次の曲までタバコを吸っていることはできたのでしょうが)
しかしそれがレコードの時代になると、別にホールまでわざわざ音楽を聴きに行く必要がなくなり、さらに気に入らない曲を無理に聞く必要もなくなったわけです。
それでもまだレコードは何よりも値段が高かったわけですが、しかし現在はスマホによってその手間やコストというのがほぼゼロになってしまったんですよね。
その結果、人々は少しでも気に入らないとその曲を全部聞き終わる前に別の曲の動画に切り替えてしまいますし、曲を聴く体勢も寝っ転がってパジャマのまま聴くようになったわけです。
なので、「最近の音楽はサビから始まる」と。

あるいは映像を例に例えるのであれば、
映画は当たり前のように2時間とか上映時間がありますが、それがテレビ番組になると30分番組が増え、YouTubeになると10分の動画や、TikTokだと15秒になってしまうと。これも、どれだけ手間がかかっているかが動画時間を決定しているわけです。
映画館に30分の映像を見に行こうとはあまり思いませんし、逆にYouTubeで2時間見ないと面白くない動画というのはウケないんですよ。
小説もそうですね。なろう小説をいくつか冒頭だけ読んでもらえればわかるのですが、ネット小説というのは特に最初のほうは展開がめちゃくちゃ早いんですよ。
当然ながら、最初の数ページで何かないと、続きを読んでもらえないからこそ、そうなるわけです。
ネットコミュニケーションも同じです。ネット接続が高かった時代には、掲示板の書き込みを読み込んだらネット接続を切って、オフラインで返信を書くからこそ、遅いけど濃いやりとりができたわけです。
それがツイッターのように140文字になると、感情的なやり取りに終始してしまうと。

で、何もスマホが変えてしまったのはこういったコンテンツの時間間隔だけでなくて、現実の時間感覚そのものを変えてしまったと思うんですよね。

> > 特に最近私が感じたのは、SNSをやっている時と、
> > 本を読んでいる時で時間の流れ方(正確にはその感じ方)が全然違うということですね。
> > 本読んでるときは「俺って時間セレブだよなー」みたいな感じです。
> > なんというか、金がたいしてあるわけでもないのにお高い店でランチを食べているような、
> > 読書にはそんなリッチさを感じるようになりました。

> はい、解りますよ、その感覚は(笑)。
> でもそれって、今までは普通だった事が、今では特別な事になってる訳で、
> 客観的に見た場合、果たして良い方向に進んでいると言えるのでしょうか?
> 例えば、経済発展重視で環境が軽視され、空は煙に覆われ、川は排水溝に化したとして、
> そうした社会の中で、雨の晴れ間に見えた青空や、ドブの隙間に見えた魚の姿などに、
> 思わず感動してしまう構図と似たモノだと思うんですよね。
> もちろん、そこから社会が改善されていく時も、同じように感じるのでしょうが、
> 環境が破壊された時と比べるか? 環境が破壊される前と比べるか?
> で、その評価は、まるで異なるモノとなるはずです。
> 言ってしまえば、環境改善で北京市民が抱く感動を、私は別に羨ましいとは思わないと。


時間感覚のスピードが早くなることは、環境汚染のように完全な悪なのでしょうか?
時間感覚が早くなろうと、別に本を読むことはできるわけで、別に後退だとは私は思いませんが。
それって例えるなら、高度成長期に日本経済が豊かになって外食が増えたため内食が減り、「内食が衰退して日本はダメになった」といっているようなものだと思うのですが。
もちろん、時間感覚の加速による弊害もありますが、そればっかりに目を向けるのはあまり正しいとは思えません。

▼ SFと昔のオタク文化

> > いえ、私はオタクですし、今でもかつて(80・90年代くらい)のガチオタに憧れるので、
> ちなみに、主にどんな分野のオタクなんですか?


特に何のオタクとかいうのはないです。ラノベも読みますし、アニメも見ますし、ゲームもしますよ。
庵野秀明がアニメも好きだし、特撮も好きなのと同じようなものです。

> > ネットを漁って80年代のSFボードゲームが手の届く価格で売ってないか検索したりしているのですが、
> そう言えば旧トルコ担当さんは、アシモフのSFが好きとの事でしたが、
> 昔から、ちょっと気になっていたんですけど、
> アイザック・アシモフというと、世間的にはSF作家として有名なのですが、
> 彼の本職は生化学者であり、化学や生医学の著作もあるんですけど、
> アシモフ・ファンの方は、そちらも読まれたりするモノなのでしょうか?
> 日本語だと「化学の歴史」や「生物学の歴史」あたりが出版されてますけども。
> https://www.amazon.co.jp/dp/448009282X
> https://www.amazon.co.jp/dp/4062922487
>
> あとSFと言えば、最近話題のSF小説「三体」って、既に読まれてます?
> 全3部作で、私はまだ第1部しか読んでないんですけど(第3部の日本語版は今年発売予定)、
> SFファンの中では、一体どんな評価なのかな?と気になりまして。
> まあ、そもそもSF自体、私はほとんど読んで事が無いんですけど、
> 近年活況を呈していると聞いてはいた中国産SFの、これが初体験でした。
> で、この作品が中国国内で累計2000万部と知り、そんなに市場が大きいんだなと!!
> 前回も少し話しましたが、単に日本と中国の人口の差という以上に、
> 中国のネット投稿小説の市場は、日本よりも先んじて既に大きく発展しており、
> サブカルを含めた文化面で、日本が成熟期なのに対して、中国には成長期の勢いがあります。
> (例えば成都というと、三国志の印象が強いですけど、今ではSF都市として力を入れてるそうで)
>
> 一昔前までは、日本に入ってくる中国の小説というと、武侠小説が主でしたけど、
> 今では、中国でヒットした作品が、英訳されて欧米でも流行り、
> その後で日本語版も発売されるという流れになってきているみたいです。
> 政治問題に触れない限り、中国政府も国家戦略として全面バックアップしてますしね。
> (政治的要素を含む作品は、作家たちも台湾の方で出版すると・笑)
> この三体も、オバマやザッカーバーグが絶賛した事で、日本語への翻訳が決まったとも?
> 本来なら中国から直接の方が近いのに、欧米経由じゃないと入ってこないというのは、
> 中国に対する評価の問題や、日本市場の魅力の問題など、いろいろ抱えていそうですけど、
> それでも、言葉の壁を越えて市場開拓している姿は、日本も大いに参考に出来るかも知れません。


『三体』は読んでないです。
前にハリ・セルダンの名前を出したからだと思うのですが、SFは勉強のためにちょっと読んだだけなんですよ。

> > 昔のオタクはもっと濃かったみたいな話は他の場所でもまれに聞くのですが、実際どんな感じだったのでしょう?
> > 私もなんとなく昔の濃いオタクにあこがれる気持ちはあるのですが、
> > では濃かったと言われる昔のオタクが具体的にどのレベルなのかは全然知らないんですよね。

> いや〜、私自身が実際にオタクだった訳では無いので・・・・
> でもまあ、言えるとすれば、例えばアニメなんて今よりもずっと作品数が少なかったですし、
> ゲームも今よりずっと高額だったので、1作1作をヤリ込む風潮は強かったですよね。
> それがオタク層ともなれば、1作を更に深く掘り下げると。
> だからこそ作り手側も、それに耐え得るように作り込む作品が一定数あった訳です。
> 今と比べれば小さな世界でしたから、極めようとすれば必然的に濃くなると。
>
> しかし現在では、アニメ作品は量産化され、ゲーム作品も無料化や低価格化が進み、
> 1作1作を味わい尽くすよりは、次から次へと消化していく楽しみ方がメインとなり、
> オタク的な楽しみ方も、掘り下げ型からデータベース型に移行していった気がします。
> もちろん、データベース志向の楽しみ方自体は、ずっと昔から存在するのですが、
> 以前であれば そうした層は、オタク層というよりは「マニア層」に分類されていたかな?
> そういう意味では、オタクの定義そのものが、マニアまで含む広い意味になったと同時に、
> 王道とされた従来のオタク的楽しみ方が、マニア的楽しみ方に主流を奪われた感じかも知れません。
> 言うなれば、「狭く深く」しか無かった所から、「広く浅く」へと変わっていった感じでしょうか。
>
> ちなみに、昔のオタク・レベルの具体例となると、解りやすい所でパッと思い付いたのは、
> マンガ夜話の「攻殻機動隊」の放送回(アニメ夜話の方じゃ無いですよ)でしたが、
> う〜ん、20年以上前の放送だから、今だと何処かで見られるのかなぁ?
> BSとは言え、NHKでそういう番組が出来てた時代が、確かにあったんですよねえ・・・・
> 逆に言うと、あんな地味でマニアックな放送内容なのに、
> それが人気番組として10年以上続くくらい、そういう濃い視聴者も多く居た訳です。
> という事で今回、記憶も曖昧になっていたので、内容の再確認がてら、
> 10年ぶりくらいに見返してみましたけど、やはり神回でしたね(笑)。
>
> って、そもそも、「マンガ夜話」って番組の存在自体は御存知ですか?
> 1つのマンガ作品を、1時間掛けて、徹底的に語り合う生放送番組でした。
> BSデジタル化に伴う、NHKのチャンネル削減の影響を受けて打ち切られたので、
> 最後の放送が10年くらい前でしたから、さすがにリアルタイムでの視聴は厳しいのかな?
> とりあえず、番組出演者の1人であった岡田斗司夫が、
> YouTubeで何本か、攻殻機動隊のマンガ解説動画をアップしているみたいなので、
> それを見れば部分的にでも伝わるかも?(いや私はYouTubeの動画は見てませんけど・笑)


マンガ夜話は一応知っていますよ。
といいますか、時代にかかわらずオタクの上位層がとてつもない知識量・考察を有しているのは知っているんですよ。
それこそ岡田斗司夫さんなんかはYouTubeで機動戦士ガンダム完全講座という狂気の動画シリーズで、ガンダム1話に対して毎回2、3時間語っていますから。
https://www.youtube.com/watch?v=mU_EqvPcE0w&list=PL1TOJRTrkimJYayzdGGrTuqMlBavE9rGK
ですが、別にオタクが全員そんなことができるわけではないと。
かつてオタクもレベルが高かったというのは、上位層の話ではなくて、全体としてという話だと思うのですが、かつてのオタクのミドルクラスはどの程度の知識があったのでしょうか?
いや、まあこんなことをオタクでもない管理人さんに聞いても答えられるのか分からないのですが。

> > > > > > 【以下追記】 > > > > >
>
> その後、YouTubeを見ていたら、何の巡り合わせか、
> ここ1〜2週間で、マンガ夜話を上げまくってる人を発見!!
> 全144回のうち、142回分あるみたいなので、ほぼほぼ揃ってますね。
> https://www.youtube.com/playlist?list=PLqYyhPV7mfynIxW4-GDMFfukCNvvNc369
> って、これだけ多いと、さすがに選ぶのも大変でしょうから、
> 個人的に面白かった回を、記憶頼りに思い付くまま、適当にラインナップ(笑)。
>
>  1位「攻殻機動隊」 https://www.youtube.com/watch?v=fzbqxGGg0kY
>  2位「肉弾時代」 https://www.youtube.com/watch?v=7QEQ2ztWjbk
>  3位「ブラックジャック」 https://www.youtube.com/watch?v=fnyp5ggNPxA
>  4位「燃えよペン」 https://www.youtube.com/watch?v=JwBrEpzrefw
>  5位「嗚呼!!花の応援団」 https://www.youtube.com/watch?v=Sd40TNbQxcE
>  6位「みどりのマキバオー」https://www.youtube.com/watch?v=fssggJrVfhg
>  7位「できんボーイ」 https://www.youtube.com/watch?v=Yl4UmyDffL4
>  8位「アストロ球団」 https://www.youtube.com/watch?v=NUM2UPDsbMU
>  9位「あしたのジョー」 https://www.youtube.com/watch?v=D18lVcvm66w
>  10位「魁!男塾」 https://www.youtube.com/watch?v=U68d6R38Nnc
>
> こうして改めて並べてみると、2000〜2002年が番組中期で最も脂の乗ってた頃かな?
> 2002年4月の「3夜連続・手塚治虫」(通常は1作家1作品に限定)により、
> 番組として1つの到達点に至った感じが、放送を見ていた当時も少しありましたからね。
> ちなみに この番組は、自分が読んでない作品の回でも充分に楽しめますし、
> オタク史的に見たいのであれば、却って知らない作品の方が、変に先入観が無くて良いかも?
> 個人的な思い入れがあると、批評に対して「それは違う!」と感情的になりやすいので(笑)。


いやー、私はむしろ真逆の意見ですね。
自分で作品を見て、自分なりにこの作品はこうなんだというのが面白いのであって、見たこともない作品の批評を見てなるほど、と思うのは、例えるのであればそれこそ石田徹也的な世界観かと?

▼ スクールカーストについて

> > > > 私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> > > > そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、
> > > > なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、
> > > > どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。

> > > これは逆に質問なのですが、実際の所、「スクール・カースト」ってどんな感じなんですか?
> > > 元々、アメリカの学校には、そうした階級制度っぽい構図があって、
> > > それが2011年にNHK-BSで放送された、海外ドラマ「glee」のヒットをキッカケに、
> > > 日本でも広まっていった概念なので、実は10年にも満たない学校文化であり、
> > > 正直言って、私には実状が、よく解らないんですよね・・・・
> > > もちろん、それ以前の学校にも、漠然としたグループ分けはありましたけど、

> > うーん、大学生なのであまり学校外の社会のことは知りませんし、
> > 昔の学校を知っているわけでもないので、説明が非常に難しいのですが、
> > やはりカーストという言葉がピッタリだと思われて、世間で使われだすくらいには階級社会という感じでした。

> 例えば、「階級社会」を感じさせた具体的なエピソードとかって、何かあります?


いやー、難しいです。
私自身、結局は小中高12年間しかいませんでしたので、昔の学校と比較できないので。
まだLINE以前と以後の変化とかであれば、直撃世代なのでかなり語れますが。

それこそお時間があれば『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を読まれては?
ラノベなのでちょっとだけ誇張はありますが、かなりリアルな現在の学校を描いてはいると思います。
読まれるのであれば、1巻読んだ後に4巻を読むのがおすすめです。
ちゃんとお嬢様の美少女ヒロインが出てくるラノベなのに、4巻ではいじめをテーマに取り扱うんですよね。

あるいは、学校内に階級規範みたいなものがあったからこそ階級社会っぽかったのかな?
とはいっても、前述のとおり、今の学生はみんな多様性を認めて、自分とは異なる文化の相手を認めて(無視して)くれますので、なにも階級社会で地獄、というのも違うんですよね。
もちろん小学校などはまだまだ野蛮なところはありますが。

> > > それに一般的な腐女子文化だと、下から逆マウントを取りたがるスタンスなので、
> > > カースト上位でというのは合わず、何となくライトな印象を受けてしまいます。
> > > まあ、ちょっとマニアっぽい部分をチラッと見せて、男心をくすぐるというのは、
> > > 女性のモテ・テクニックとして、昔からありましたので、それだと腑に落ちますしね。

> > ガチ腐女子なのかどうかは、私にはわかりません。私は腐ってもないですし、女でもないので。
> > ただ男オタクから見て、こいつはなんちゃってオタクだよなと
> > 見抜けるほどではなかったので、ある程度はガチなんだと思います。
> > 男心をくすぐるため説というのもないと思いますよ。普通にかわいい子だったので。
> > というか、容姿がよくなければカースト上位はまずは入れませんし、
> > もしかしたらこの辺の容姿第一主義がスクール・カースト時代の特徴なのかな?

> 容姿そのものと言うか、その「見せ方」の方が重要なんじゃ無いですかねえ?
> もちろん、元の素材が良いのに越した事は無いでしょうけど、
> オシャレとか、カワイイとかは、「雰囲気」で結構演出できる部分なので。
>
> また、「モテ・テクニック」と書いた事で、意味的に限定して捉えられたかも知れませんが、
> 相手の心を掴むテクニックというのは、やはり存在すると思いますよ(私は苦手ですが・笑)。
> 知らなきゃ出てこないような名称や単語を、自然に1〜2度出すだけで、
> ほとんど知識なんて無くて、相手は勝手に「詳しいんだ」と誤解してくれますし、
> その分野が好きな人からすれば、それだけで心を許してしまう上、
> 語れるほど知らないから聞き役に回るだけで、好きで語りたい人には却って好印象に映ると。
> 例えば、アシモフやクラークの名前くらいなら、一般人からでも出てきそうですけど、
> 「谷甲州」という名前や、「シュバルツシルト半径」という単語を出すだけで、
> 多少なりとも、SFを知ってそうなイメージになりませんか?(笑)


うーん、雰囲気ではあまりとりつくろえないと思いますよ。
お化粧しているわけでもないですし、その辺の基準はもっと残酷に顔だと思います。
またカースト上位であることとモテることはまた微妙に別ですので、仮にテクニックで何人かの男の子の心をつかんだところで、全体の評価は変わらないと。

▼ 中間が喪失した要因?について

私はこれからの社会、人間関係グローバル競争社会なんじゃないかと思っているんですよ。
どういうことかというと、資本主義で経済的利益をめぐる競争が行われてきたように、人間関係も競争の中で勝ち取るものになっていくと。

そもそもですが、自由化というのは聞こえはいいように見えて、結局は自由化=格差社会であり、それが進めば階級社会にしかなりえないと思うんですよ。
例えば資本主義がそうです。ギルドとかが廃止されて、だれでも身分制度に縛られず自由に仕事を選べる自由経済社会というのは、結局のところどれだけお金を稼げるか競争する社会に過ぎず、それは所得格差を生み、さらに階級を生んだと。
自由恋愛もそうです。70年代に自由恋愛社会が到来したときは、今までの親に決められたお見合い結婚に縛られず、自由に結婚相手を選べると、あの時代誰もが夢を見たと思うのですが、それは結局どれだけ持てることができるかの競争にしかすぎず、モテ格差は早くも80年代初めにオタクを生み、さらに現代では生まれつきの容姿によって、恋愛をできる層とできない層がはっきりしてしまったと。
階級社会というのはそれをさらに一歩進めて、上の階級と下の階級が別々のことを考え始める社会だと思うんですよね。
資本主義における階級は説明するまでもないでしょうし、現代の恋愛においても、モテない奴ほど自分は恋愛に興味がないと思っている。それは格差社会的な負け犬の遠吠えではなく、階級社会の自分で自然とそう思うことができる、優しくて残酷なシステムだと思うんですよね。
今、人間関係はその段階にきていると。
自由化による格差社会はそろそろ終わりを告げ、そろそろ下層階級は友達はいらないと思い始めている。
『俺ガイル』の主人公も、またそういう人間の一人だからこそ、私はすごく共感できますし、1000万部を買っている読者も同じなんじゃないかと推測します。
ベーシックインカムとかも、その延長線上にあると思うんですよね。
BIが普及した世の中というのは、働いたら負けだと思っている下層階級と、働くことこそ生きがいだと思っている上層階級に分裂すると思うんですよ。

これに関しては自分でもそんなに単純なのか?とは思っているので、そこまで信じ切っているわけではないですが。

▼ 百合について

> > > > 多分この辺が現在のオタクの最も気持ち悪い部分だと思うのですが、
> > > > 10年代以降の百合というのは男オタクの女の子になりたい願望が強く影響しているんですよね。
> > > > やたらと女装したがるのもそうですし、もっと言えば女の子になって女の子と恋愛したい、というのが
> > > > 現在の百合の根底にあると思います。

> > > ちなみに、それを示す資料か何かはあったりするのでしょうか?
> > > 難しければ、そんな願望を叶える作品の存在とか。
> > > いや別に、男オタクの少女趣味とか少女化願望というのは、昔からあったりしますし、
> > > それこそ昨今、キャッキャウフフを眺めていたいという願望だけでなく、
> > > キャッキャウフフに混ざりたいという願望があるとは聞きますけど、
> > > それがイコールで、「百合」というモノに繋がるとは必ずしも限らないと思いますし、
> > > 「女の子になって女の子と恋愛したい」というのが、果たして百合なのか?というのあります。

> > 百合かといわれると微妙ですね。隣接文化でしょうか。ガンダムシリーズとガンプラみたいな。
> > 一応別の文化だけど、深く関係している感じです。

> では、百合と女装コスプレが「隣接文化」である事を示す根拠はあるのでしょうか?
> ガンダムとガンプラなら、それを示すのも容易でしょうけど、
> 百合と女装コスプレは、それすらちょっと難しくありませんか?
> 現状では、旧トルコ担当さんが、そのように感じたというだけの話な気がして、
> 厳しく言うと、少なくとも現時点では、私はまるで腑に落ちていません。


いやー、難しいです。
この辺は本当に、それこそ岡田斗司夫さんが『オタク学入門』で指摘している"見立ての文化"なので、その外の文化圏の人に説明するのがすごく難しいんですよ。
例えるなら、オタク文化と縁もゆかりもない70台のおじいちゃんに、なぜ中身がおっさんのVTuberに萌えられるのかを説明するようなものかと?

> > > > ただ、それを聞いた上でもやはり90年代の百合と現在の百合はやはり変化していると思いますよ。
> > > >  (中略)
> > > > だからこそ、ここ最近はキャラの年齢層が低いきらら系よりも、
> > > > キャラの年齢層高めのアイマスやラブライブ、艦これの方が百合人気としては強いわけで。

> > > こちらも、百合人気の違いを示すデータとかは、何かあったりするのでしょうか?
> > > 上記を含め、この2点に関しては、ようやく具体的に聞けた「百合の変化」ですので、
> > > 是非とも返信を期待したい所ですね。
> > > いや、東方・アイマス・ラブライブ・艦これといった題材が、
> > > もう古典として、今でも安定的な人気を保っているのは承知の上で、
> > > それでも特に「百合人気」を測るというのは、なかなか難しい事だと思うので。

> > うーん、百合人気の違いを示すデータといわれるとなかなか厳しいです。
> > なんとなくの感覚しかないですが、きらら系の低年齢キャラの百合は30代以上の社会人メインな気がします。
> > それに対して、高校生以上くらいになってくるとどちらかというと20代以下くらいが多い印象かな?

> 要するに、旧トルコ担当さんの個人的な肌感覚って事でしょうか?
> pixivの話とかされていたので、作品ごとの新規投稿数と、
> そこに付けられる百合タグの比率の違いとか、その辺の考察を想像してました。
>
> ちなみに、きらら系の人気は年齢層が高めというのは、何となく私も解ります。
> アニメ化基準で言うと、2007年に「ひだまりスケッチ」、2009年に「けいおん」で、
> 2011年に「ゆるゆり」、2013年に「きんモザ」、2014年に「ごちうさ」がですから、
> きらら系のブームがあったのって、今から10年くらい前の話ですからねえ。
> 10年経てば、当時の大学生も社会人になってる訳で、投稿活動とかも減ってる事でしょうし、
> ブームがあったからこそ、その時代を象徴し、時間の経過と共に落ちて行くなど、
> そうした傾向は、もちろん「あるんだろうなぁ」とは思います。
>
> あと、誤解の無いように言っておくと、
> 別に私自身は当時から、きらら系のファンだったとか、そういう事では無いですし、
> そもそも百合自体、ほぼ関心がない事を、改めて言っておきます(笑)。
> 旧トルコ担当さんが、私の知らない「百合の変化」があると話されたので、
> 百合文化が萌え要素を内包した際の実例として、きらら系の話を出しただけですから。
> で、結局の所、その変化というのは具体的に何だったのでしょうか?
>
> 「対象キャラの年齢層が高まった」という事であれば、それはそれとして変化なのでしょうけど、
> でも一方で、百合が萌えまで含んだ際に、萌え方面に引っ張られていた状況が、
> 時間経過と共に落ち着いたと捉えると、それは「元に戻った」という変化なのでは?
> もし仮にそうだとすれば、大本の話だった「新しい文化」とまでは呼べませんよねえ?
> あと気になったのは、アイマス・艦これ・ラブライブあたりも10年戦士だと思いますが、
> この10年の間に、一世を風靡するような、新しい百合題材の登場は無かったのですか?
> そうなると結局、そちらの方面からも「本当に新しくなってるの?」という疑問は生まれます。


元に戻ったというのは違うと思いますよ。
百合キャラクター対象年齢が上がったというのは、より百合がシリアスになった、ということですね。
例えるなら、マジンガーZ以降のスーパーロボットと、ガンダム以降のリアルロボットのような違いでしょうか?
きらら系というのは、年齢低めのキャラクターの友情と百合がもう少し未分化なところを主に扱っていて、そもそもきらら系が仕事に疲れたおじさんオタクたちが癒しを求めて読むものだと。
それに対してここ10年の年齢高めのキャラクターの百合というのは、もう少し重くて、より癒しよりも恋愛ものに近い、という感じです。
あと一世を風靡する作品がないというのは、百合に限らず時代の傾向かと?
個人的には、鬼滅の刃みたいな大ヒット作品は、リアルな人間関係の中から生まれ(極グローバル)、極ローカルはネットの中から生まれると思っていますので、百合は基本的にリアルなコミュニティではないところで受容されている以上、巨大作品が生まれないのは必然だと思うんですよね。

ちなみに、百合界の中で最もファンの多いカップリングはVTuberのかえみとなんですよね(Pixivの作品数基準)。
要因としては、やはり他の百合作品が切り抜き動画による知名度だと考えています。
他の作品形態、例えば漫画であればお金を出して購入する必要がありますし、アニメであればテレビ放送であれば時間を合わせてみなければならないなど、どうしても拡散性に難があるのですが、Vの切り抜き動画はタダで見れて、おまけに拘束時間も短い。
この辺はソシャゲの優位性と全く同じですね。

> > で女装率が急激に上昇してるのがここ1、2年でしょうか?
> こちらに関しても、データではなく肌感覚ですかね?
> まあ別に、私はデータ至上主義者でも無いので、肌感覚も指標の1つにはしてますが、
> ただ、私の肌感覚とは異なってる為、そうなるとやはり客観的なデータの登場ですよね。
> 前回も少し触れましたが、例えばコミケはコスプレの無秩序化を防ぐ目的で、
> 更衣室使用の義務化&有料化を始めた為、データが残されているのですが、
> それを見ると、男性レイヤーの女装率までは解りませんけど、レイヤーの男女比が、
> 20年前は「男1:女4」、10年前は「男1:女3」、そして現在は「男1:女2」なのが解ります。
> 全体のレイヤー数は増加し、女性レイヤー数も微増なので、
> つまりは、男性コスプレイヤーの絶対数が増えている訳ですね。
>
> その一方で、近年はコスプレ・イベントの商業化が進んだ事で、
> 「男性レイヤーの女装コスプレ禁止」を謳うイベントが、かなり増えてるらしいんですよ。
> だからと言って、女性レイヤーの男装コスプレを禁止しているイベントは無いと!!
> これは、文化としてコスプレを見た場合には、非常に不健全な状態と言えますが、
> コスプレする側は圧倒的に女性が多く、それをカメラで撮る側は男性が多い現実を踏まえつつ、
> 商業主義的な視点に立てば、「お客様が望まない商品は置かない」という姿勢になります。
> まあ元々、男性の女装はネタに走りやすい傾向がありましたし、
> スネ毛の処理などをしないと、非常に見苦しい印象を受けるのは確かなので、
> 排斥したい意見が多いのは理解できますけど、実際に排斥して良いかは別問題なんですよね。
> 性別・容姿・年齢・人種などで差別が横行しては、趣味の世界が窮屈になりますから。
>
> で、結局は何を言いたいかというと、本当に女装率が増えたのかは解らないものの、
> 「男性レイヤー自体の増加」と、「女装コスプレに対する不寛容化」という2つの現象が、
> 現在起きているのは客観的な事実なので、女装率が急激に増えたと言うよりは、
> 単に「目に付くようになっただけ」という可能性も、有り得そうという話ですね。
> それこそ、前々からある街中の広告看板とかでも、今までは気にも止めてなかったのに、
> 子供が産まれれば保育園の、自分が病気をすれば病院や保険の、親が歳を取れば介護や葬式の看板が、
> 急に目に入ってくるみたいに、周囲の変化より自身の変化で見え方は大きく変わるモノなので。


はい、この辺もぶっちゃけ肌感覚です。
自分としてはそう間違っている気もしてはいないのですが(ネットだけでなく、学校でも女装や百合の話はしていましたので)、客観的なデータじゃないから信用できん、というのは最もかと。
ちなみに女装というのはコスプレではなく、私服の女装ですので、コスプレイベントはあまり関係ないかと。

> > > この場合のVTuberとは、男性が美少女アバターをまとう「バ美肉(バーチャル美少女受肉)」の事?
> > > それとも、普通に女性がCGキャラを演じる一般的なアイドル系VTuberの事でしょうか?
> > > まあ前者の場合、中の人が男性だからこそ、同性の心の機微に通じてるみたいな感じで、
> > > 「こんな可愛い子が女の子のはずがない」的な世界観を築いてる方も、きっと居るのでしょうが、
> > > しかしボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし、
> > > もちろん、美少女の皮を被る事で得られる快感も、確かにあるのでしょうけど、
> > > 基本的には、メタ的に、男性でありながら美少女を演じるエンタメ要素が強い印象も・・・・
> > > って、百合趣味少女×女装ドS少年の「まりほり」くらいなら、まだギリとしても、
> > > バ美肉おじさんまで行くと、果たして百合文化の範疇で捉えて良いモノなのでしょうか?

> > ボイス・チェンジャーとかを使っても、やはり男性の声は騙し切れませんし
> > →いえ、慣れると案外気にならないらしいですよ。
> > 確かねとらぼでそんなアンケート結果(美少女VTuberの声がおじさんでも応援しますかみたいなやつ)があったのですが、
> > 8割くらいの人が応援できるだったと思います。

> いや別に、気になる気にならないの話をしているわけでは無いので・・・・
> と言いますか、気にならなくなる事くらいは私も解ってますよ(笑)。
>
> 例えば、NHKで人気のチコちゃんとかも、5歳の少女という設定ですが、
> 中の人がオッサン(芸人の木村祐一)である事に、いつまでも違和感が残るようでは、
> あのような人気を獲得する事など出来ないと思うんですよね。
> ですが、その一方で、あの声を本当に5歳の少女のモノだと信じてる人もまず居ないと。
> 要するに、そうしたギャップも含めて、1つのキャラクターとして認知されてる訳です。
> であるのに、5歳の少女という設定部分だけを切り出して、
> その人気を「日本ロリコン化の象徴」なんて意見が出たら、「ハァ?」となるのと同様、
> バ美肉という現象を、百合文化に求めるのは違うんじゃないの?と言いたかった訳です。


この辺も女装と関連するのですが、結局百合というのは女の子になりたい願望が強く出ていると思うんですよね。
バ美肉おじさんというのも、いわば女装の一種であると。

いや、ほんとこれ説明できないんですよ。
見立て文化というのは、『オタク学入門』によれば、竜安寺の石庭の砂が波に見えるようになるとか、人形浄瑠璃の黒子が見えなくなるとか、ジャンプ漫画がBL漫画に見えてくるみたいな、その文化圏においてはある見方・見え方が共有されているという文化なので。
こう、このジャンプ漫画のAとBは絶対付き合ってるじゃん、みたいな、そういうのは外の世界には本当に説明しずらいんですよ。

▼ 世代の共通体験について

> > 2010年代くらいに書かれた本だったと思うのですが、
> > その著者曰く、今の若者世代には共通の言語というものが存在しないと。
> > それは漫画でもいいし、ライトノベルでもいいんだけど、
> > この世代ならばみんなが何となく知っている何かという共通のものを持っていたほうがいいと思うのだけれど、
> > 今の世代にはそういうものが無いと。
> > で、この話って若者世代である私からすれば正しいと思うんです。
> > 確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
> > そしてその共通の言語みたいなものを持たなかった、作れなかったというのは、我々世代の選択だと思うんですよ。
> > 決してそれは貧しいからではなく、我々はそういう方向性を自らの意思で選んでいったと。

> ぶっちゃけ、そんな主体的に「世代の選択」を皆でとかしてると、本気で思われてます?
> 大半の人は文化を消費するのみという、これまでの話とは、まるで異なる解釈になってると思いますよ。
> それに例えば現在、鬼滅の刃が異常にヒットそてますけども、その理屈で言うと、
> 今の子供たちが「これを私たちの共通作品にしよう」と、そんな感じで選んだと思えますか?


周囲で流行っているものをどりだけ意識的に取り入れるか、というのは大きいと思いますよ。
みんなが鬼滅面白いと言っているから、とりあえず読んでみようと思うのか、自分は興味ないやと思うのか、そこは意識しているのでは?

> 基本的にヒット作というのは、産むモノなのではなく、産まれるモノなんです。
> マンガの話であれば、例えば「ジャンプ黄金期」と呼ばれる時代は何度か訪れましたけど、
> 逆説的に言うと、黄金期と黄金期に挟まれた「冬の時代」は、どうしたって出てくるんです。
> それは運的な要素もありますし、時代の巡り合わせというモノもあるのですから、
> 別に、素直に「自分たちの世代はヒット作に恵まれなかったね」で良いじゃないですか。
> そこを無理して、変な理由をあれこれ付け加える事こそ、却って拗れさせてる印象を受けますよ。
>
> あと、そんな言うほど、本当に「誰もが知ってる作品」って無かったんですかねえ?
> 実際に少年マンガで考えてみると、
> 60年代から70年代にかけて「あしたのジョー」「巨人の星」があり、
> 80年代には「北斗の拳」「キン肉マン」「タッチ」があり、
> 90年代には「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」があり、
> 00年代には「ワンピース」「ナルト」「名探偵コナン」があり、
> 10年代には「進撃の巨人」「銀魂」「キングダム」があり、
> 20年代となった現在も「鬼滅の刃」「呪術廻戦」があるじゃないですか。
>
> まあ確かに2010年代のラインナップは、他の時代に比べると少し弱い気もしますが、
> でもそれは、2000年代の作品が長期連載だった事も大きいと思うんですよね。
> 要するに、00年代の代表作は、10年代においても代表作であったと。
> 人気作でも連載期間が数年だった2000年以前は、
> まさしく、「これは俺たち世代の作品だ!」って独占感がありましたけど、
> 数世代に渡る人気作には、話が通じる幅の広い共有感がありますし、
> 独占感が弱くても、世代的な共通言語の役を成さない訳では無い気がします。


いやー、「誰もが知ってる作品」は有りませんでしたよ。
これに関しては実際に経験してきたことなので、結構自信を持って言えると思います。

> ただその一方で、単行本よりも週刊誌で読む方が、
> リアルタイム的な連帯感は、強まっていくかも知れませんね。
> (前述した深夜ラジオも、生放送ゆえに、そうした連帯感は非常に強かったですし)
> また、週刊誌であればこそ、毎週毎週決まった曜日に、常に盛り上がれる話題があり、
> 時には校則に反して学校に持ち込み、先生に隠れて、みんなで回し読みをした経験は、
> 作品それ自体(共通言語)以上に、「共通体験」として強く記憶に刻まれてるはずです!!
> そう考えると、その世代を代表するヒット作の有無よりも、
> 週刊誌から単行本、更には電子版へと移行し、マンガが個別体験となった所こそ、
> 「共通言語の消失」という面では、実は大きいのでは無いでしょうか?


確かに、内容以上に共通の体験をしてきたというのは大きいと思います。
それこそ、みんなで読みまわしをしたなんて言うのは、内容以上に世代の共通体験になっているのでしょうね。
それはあると思います。

▼ 検索手段について

> > 私自身は今の、マニアックなものでも検索すればたいていたどり着ける環境というのが好きですし、
> > 昔とどちらが良いかと聞かれれば、本屋が失われて選択肢の幅が狭まったのを知ってもなお
> > 昔より今の環境のほうが好きです。

> ふと感じたのですが、ネット検索の限界って、どれくらい感じられてます?
> また、その時の対処法って、どのような手段を持たれてます?


> それと「検索する」にしても、事前に取っ掛かりが無いと「調べる」事さえ行えないですよねえ?
> また、前回も少し触れましたけど、調べる前から、それっぽい答えを与えられると、
> ググらない若者のように、わざわざ調べようともしないですし、
> いざ調べようと思っても、本格的に調べるコツが解らない・・・・
> サジェストされる候補ワードの中から選び、出てきた1ページから探すだけでは、
> まともに深い情報なんて出てきませんし、それで満足できちゃう程度だとも言えます。
>
> そういう意味では、検索エンジンの特性を知る事だったり、
> 本当に欲しい情報に辿り着く為に必要な事前の用語知識だったり、
> 余分な情報を排除する為のワード・センスだったり必要となりますけど、
> それらを駆使しても尚、ネット上にある情報だけでは限界に達するんですよね。
> どんなに検索した所で、デジタル化され、公開されてる情報には限りがありますから。
> そうした場合、やはり残されるのは、アナログ的な情報取得になります。
> もちろん、アナログ情報だけあれば充分な訳ではなく、
> アナログにはアナログの、デジタルにはデジタルの、それぞれ長所と短所があり、
> それを上手く組み合わせていくのが理想的な姿なのですが、
> 最近は、アナログが姿を消し、デジタル化一辺倒になりつつあると・・・・
>
> そして、これは「ノイズ」の話にも繋がるのですが、
> デジタル情報だと、ほぼ自分が欲しい情報しか入って来ないようになる為、
> アナログ情報みたいに、別に求めてなかった情報まで入ってくる機会が少なくなります。
> そうなると、どうしたって視野は狭くなりますし、調べる取っ掛かりすら得難くなります。
> 最も解りやすいのはニュース情報とかでしょうか?
> テレビや新聞なら、知ろうとも思わなかった情報が、思わず手に入ったりしますが、
> ネットだと知りたい情報ばかりとなり、自ら新たに知ろうというのも実際は難しい。
>
> 言うなれば、食事における「配膳方式」と「バイキング方式」の違いみたいなモノですよね。
> 配膳方式だと、苦手な料理も出てくる一方で、新しい出会いもあり、そして何よりバランスが良く、
> バイキング方式だと、上手く使えば理想的なものの、実際は好きなモノばかりでバランスを欠きがち。
> なので学校給食などでは、バイキング方式よりも配膳方式の方が適しているでしょうし、
> もしも小中学校でバイキング方式を採用する場合は、事前の「食育」が必須かと思われます。
> そういう意味では、ネット使用の食育にあたる「情報リテラシー」教育も重要だと感じますが、
> 現実問題として、それが充分満足に行われているとは、とても思えず・・・・
> ネットは、あくまでも「道具」なので、使い方を覚えれば非常に便利ですけど、
> 逆に、その道具に振り回されてしまうような現状というのは、あまり望ましい状態とは思えません。


今私が持っているやり方では、グーグル検索以外に、CiNiと図書館検索くらいですかね。
グーグルは便利ですが、結局全部は出てこないと。
グーグルで出てこないものを調べるには、図書館でとりあえず思い当たるワードで検索しまくって、ヒットした本の目次をざっと見てみる。
それで目当ての情報がありそうであれば、本文も読んでみるという感じですかね。
あと重要なのが巻末の参考文献。下手な本だと、本文よりこっちのほうが役立ったりしますw
リアルな本は時間がかかりますが、ネットにない情報を得る手段は自分はこれしか知りません。
あとあるとすれば、ツイッターでフォロワーに聞くとかですかね。
これに関しては、私は教えるばかりで使ったことはあまりないです。

私の場合こんな感じなのですが、実際検索スキルとしては高いのでしょうか?低いのでしょうか?
あとおススメの検索方法などあれば教えてください。

(追記しました) https://ux.getuploader.com/dialogues_txt/download/478
パスワードは522です


[23587] Re:ネット時代の超ローカル文化と雑談返信 削除
2021/5/26 (水) 19:09:06 徳翁導誉

> 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

う〜ん、ここまで説明して尚、
そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
もう、それで良いんじゃないですか?
柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。


・・・と、私としては、これで終わっても構わなかったのですが、
ここまで長文の返信を戴いて、それで終えては失礼かとも思いましたので、
お尋ねしますけど、どうしましょう、このまま続けます?
一応、3分の1くらいは返信を書いてあるので、
お望みであれば、また次回にでも投稿は可能ですけども。


[23591] 前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/5/26 (水) 22:45:11 旧トルコ担当

> > 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> > 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> > だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> > といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……


> う〜ん、ここまで説明して尚、
> そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
> もう、それで良いんじゃないですか?
> 柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。
>
> ・・・と、私としては、これで終わっても構わなかったのですが、
> ここまで長文の返信を戴いて、それで終えては失礼かとも思いましたので、
> お尋ねしますけど、どうしましょう、このまま続けます?
> 一応、3分の1くらいは返信を書いてあるので、
> お望みであれば、また次回にでも投稿は可能ですけども。


もし私の文章が管理人さんを不快にさせているのであれば大変申し訳ありません。
私としては、上記の文章は「バカな自分には管理人さんの文章をその程度しかできてないです」というような意味合いで書いたのであり、私の理解度を正確に管理人さんへ伝えようという意味以上のものはありませんでした。
しかし、結果として管理人さんの誤解を招いた場合は、それは私の文章に問題があったと思っております。
すみませんでした。

その上で、私の希望としてはメインの極ローカル文化の話だけでよいので、聞かせていただきたいです。
以前にも私は管理人さんへの返信を一ヶ月ほど放置しましたし、管理人さんが以降返信しなくなっても、私は失礼ではないと思います。

ですが、学ぶ気はあります。
今でも、管理人さんが選択肢の幅が狭くなっている、と指摘される根拠が私にはよく分かりませんが、だからこそ、今から2、30年前の、ネット以前の世界というのにはとても興味はあります。
私自身、年齢を重ねるごとにネット以前の世界の記憶と言うのはあいまいになって来ています。
(私の場合、10才前後からネットを使い始めたので、ネット以前の世界を知っているつもりでありながら、思春期をネットと共に過ごし、もはや完全にネット世代側、なのかもしれません)
だからこそ、ネット以前の世界がどういった世界であったのか、というのは一層興味がありますし、管理人さんほどの方にその話を聞かせていただけるのは、もしかすれば私の人生の中も相当に貴重な機会なのだと思っています。
私は、管理人さんの返信をいつも非常に心待にしていましたし、現にここ数日は朝晩二回づつここを覗いていました。
同じことの繰り返しになりますが、管理人さんの返信を否定するのは、私が理解する気がないからではなく、管理人さんの指摘することが本当に分からないからです。私が自説を強く主張するのは、聞く耳がないからではなく、今の自分の本心を上手く伝えるためです。

図々しいですが、私が知りたいことを整理すると、
・現在の文化(あるいは文化だけではないのかもしれませんが、それは置いておいて)から中間が失われている、というのは同意します
・その上で、リアルな世界が極グローバル一色になっているというのも同意します
・ですが、私には極ローカルというのがネットに残っているような気がしてなりません
・それについて、管理人さんが極ローカルも残っていないと指摘される根拠が知りたいです
・可能性は二つあると思います。私がネット以前の世界(具体例で言えば、ゲーセンや本屋などの世界)を理解した気になっていて、実のところ理解していない。もうひとつは、私のネット世界への理解が浅い。

この点に対して、管理人さんの見解を聞かせていただければ、というのが私の希望です。

#####

言い訳させていただければ、
> > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

も、私が正しくて、私の正しい見解を管理人さんが理解されていなかったのか、ということではなく、私が勝手に、管理人さんも中間は失われたけど、極グローバルと極ローカルは残っていると考えていると言う前提で返信をしていたら、管理人さんが極グローバルだけになっていませんか?と返信されたので、ああ管理人さんは極ローカルはなくなったと考えていて、そこを誤解しているから、今まで話が食い違っていたのね、ということなんですよ。


[23594] Re:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/1 (火) 20:00:52 徳翁導誉

> > > 管理人さんは昔の新聞や雑誌的な時代の情報源しか持っておらず、今上がったような例は知らないので、
> > > 超グローバルと超ローカルのグローバルのほうしか見えていない、
> > > だから選択肢が狭まったように感じているのではないか?というのが私の見解なのですがいかがでしょうか。
> > > といいますか、私は管理人さんが極ローカルの存在を知ってるものだと思って話してたんですよ。
> > > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

> > う〜ん、ここまで説明して尚、
> > そういった理解に至り、それで満足されるのであれば、
> > もう、それで良いんじゃないですか?
> > 柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要でしょうし。

> もし私の文章が管理人さんを不快にさせているのであれば大変申し訳ありません。

いや別に、不快に感じたとか、怒ったとかいう事では無いですよ。
ただ、少し徒労感を抱いたというのは、偽らざる本当の気持ちですね。

前回、返信を3分の1ほど書いたものの、未投稿に終わったというのも、
話題的にループし出した為、「繰り返しになりますけど」という書き出しが多かったり、
話の前提が大きくズレ出した為、「当然の話ですけど」という書き出しが多かったりと、
流れ的に負のスパイラルに陥り、このままでは不毛な方向に迷い込む実感があった為、
そういう意味では、一種のショック療法的な方法を用いて、
その悪い流れを変えたい意図があっての、あのような文章でもありました。

まあ正直言うと、これまでにも3回ほど、密かに別の方法で軌道修正を図っていたのですが、
その度に、却って裏目に出てしまっていた感じがありましたからね(笑)。
ただ今回の方法だと、恐らく旧トルコ担当さんを混乱させるであろう事は想定でき、
申し訳ない気持ちもあったのですが、これ以上の方法が思い浮かばなかったもので・・・・

> しかし、結果として管理人さんの誤解を招いた場合は、それは私の文章に問題があったと思っております。
> すみませんでした。

いえいえ、確信犯的に敢えて行った私の方が、謝るべきなんでしょうね。
こちらこそ、すみませんでした。


> 私自身、年齢を重ねるごとにネット以前の世界の記憶と言うのはあいまいになって来ています。
> (私の場合、10才前後からネットを使い始めたので、ネット以前の世界を知っているつもりでありながら、
>  思春期をネットと共に過ごし、もはや完全にネット世代側、なのかもしれません)
> だからこそ、ネット以前の世界がどういった世界であったのか、というのは一層興味がありますし、

え〜と、その「ネット以前の世界」というのは、
旧トルコ担当さん自身の主観的な「世界」と、
社会全体としての客観的な「世界」とが、ゴッチャになってる感じが・・・・

たとえ年齢的に、自分自身はネットを利用していなかったとしても、
社会の方では既に、デジタル化が進んでネットが基本となってた時代であれば、
それはもう「ネット以後の世界」だと、私は想定して書いていますね。
個々の体験に関わらず、アナログ社会からデジタル社会へと移り変わった世界こそが、
「ネット以後の世界」であろうと考えているので。

そして、ネット普及率が7割を超えたのが2005年で、
スマホ普及率が7割を超えたのが2015年ですから、
旧トルコ担当さんは恐らく、デジタル・ネイティブ世代と呼べると思いますよ。
まあ私自身の認識としては、90年代前半までがアナログだけの世界で、
90年代後半から00年代がアナログとデジタルが共存する過渡期、
10年代以降は もうデジタル中心の世界って認識ですね。

> 管理人さんほどの方にその話を聞かせていただけるのは、
> もしかすれば私の人生の中も相当に貴重な機会なのだと思っています。

いや、そんな別に大層な事では無いと思うんですけどね。
所詮は、雑談なんですし(笑)。
・・・って、そう言えば、ここでの雑談をキッカケに「理系の大学に入り直しました」とか、
事後報告されて、コチラとしても驚いてしまった経験とか以前にも有りましたし、
う〜ん、あんまり気軽な感じで書くのは、実は軽率な行為だったりするのかなぁ?(苦笑)

> 同じことの繰り返しになりますが、管理人さんの返信を否定するのは、
> 私が理解する気がないからではなく、管理人さんの指摘することが本当に分からないからです。
> 私が自説を強く主張するのは、聞く耳がないからではなく、今の自分の本心を上手く伝えるためです。

はい、旧トルコ担当さん御自身が、そう思われて発言されているのは解るんです。
ただ一方で、それを受ける側からすると、「聞く耳がない」と感じられたのも事実ですし、
その事に対して、御本人が無自覚だからこそ、「これは改まらないな」と感じたのも事実です。
自分でも解った上で、敢えて我を通してる場合と違い、
無自覚だと、まずは自認が必要となり、これってかなり高いハードルなので。
そういう意味では、だからこその、前回のような返信になったとも言えますね。

人間というのは誰しも、自分の中の「頭の中の辞書」を使って、物事を理解しようとします。
そうした方が、脳は省エネで効率的に、その物事に対する処理が行えますからねえ。
大人になると、固定観念に囚われやすくなるというのも、その副作用だったりしますし、
逆に言うと、子供が学校などで いろいろと学ぶのも、辞書作りをする作業だと見なせます。
そういう意味では、制作途中である子供の辞書などというのは、
年齢が幼いほど、その内容は滅茶苦茶だったりするのですが、その分だけ面白味に富んでおり、
年齢を重ねるほど、その内容が整っていく反面、次第に編集作業の頻度が落ちていきます。
要するに固定観念とは、判断基準となる辞書が、改訂や増補されなくなる事で生じる訳ですね。

で、何でこんな話をするかというと、旧トルコ担当さんの場合、
現時点で理解できない事を、無理に理解しようとし過ぎなんじゃ無いでしょうか?
解らない事があった場合、「解らない」と一旦保留し、
そのまま頭の中に留めておく事も、かなり重要だと思うんですよ。
だって、頭の中の辞書に載っていない内容は、そう簡単には理解できないはずなので。
そして、その後の理解度に応じて、こういう見解もあると注釈を付けたり、
従来とは異なる価値観もあったと両論併記にしたり、
納得できたから書き換えたり、やはり不適当だと改めて削除したりなど、
子供の頃のように、頭の中の辞書の「編集作業」を続けていけば良いんです。

それを強引に、今ある辞書の中身だけで、全てを理解しようとすると、
どうしたって無理が生じてきますし、その無理を押し通せば、道理が引っ込んでしまいます。
今までの認識には合わない、新しい情報を得た場合、認識の方を柔軟に対応させるのか、
はたまた、情報の方を認識に合わせてしまうのかでは、大きく異なるんですよね。
それだと「科学的な理解」ではなく、「宗教的な信仰」になってしまいますし、
そうなると「解るか否か?」ではなく、「信じるか否か?」になってしまいます。
まあ、そこまでは行かないにしても、やはり論理的では無くなる事でしょう。
つまり私が言う「聞く耳」とは、自覚の有無を問わず、こうした姿勢の事を指しています。

でも正直な所、そんな編集作業を行わない大人の方が、世間的には多数派であり、
それはそれで、その人たちの姿勢が間違ってるというモノでもありません。
結局は、個々人の価値観の問題ですし、そこまで考えるのは実際面倒だと思います。
一旦保留なんてスッキリしませんし、出来上がった辞書の編集作業を続けるのも大変で、
「それが常識だ」と無意識に決め付けてる方が、脳の負担的にも楽は楽なんですよね。
とは言え、そのような姿勢では、見識は広まりませんし、客観的事実にも近付けません。
で、これは恐らく、私が理系の人間だからかも知れませんけど、
そうした面を軽視する方が苦しくなるので、個人的に「楽」と思える方向に進むべく、
自分の中の常識自体(辞書の内容)を、積極的に書き換える姿勢でありたい訳ですね。
それこそ科学の世界だと、自らの日常的な感覚とはズレていても、
データがそれを正しいと示していれば、そちらの方を重視するのは当然の事なので。

・・・と、我ながら、随分と説教臭い話をしている自覚はありますが(笑)、
こういうモノの見方って、世の中の先行きが不透明な昨今だからこそ、
非常に重要になってくるスキルの1つだと思いますし、
若いほど対応もしやすいので、今から変に凝り固まる必要は無いかと思います。
以上が、前回書いた「柔軟な思考には、若さ以上に姿勢こそが重要」の詳細解説ですね。


> 図々しいですが、私が知りたいことを整理すると、
> ・現在の文化(あるいは文化だけではないのかもしれませんが、それは置いておいて)から
>   中間が失われている、というのは同意します
> ・その上で、リアルな世界が極グローバル一色になっているというのも同意します

国家レベルで「社会」というモノを見た場合、
「政治・経済・文化」という3つの主な構成要素があると思うのですが、
この3要素はそれぞれリンクしており、基本的な構造としては、
政治的な変化が、経済的な変化をもたらし、
経済的な変化が、文化的な変化をもたらすモノだと思います。
そういう意味では「政治→経済→文化」という順に、影響が表面化しがちなので、
それこそ、中間層の喪失であったり、グローバル化であったりというのが、
文化にどんな変質をもたらすかも、経済の変質や、政治の変質ぶりを踏まえると、
10年後20年後の姿も、何となくですが推測できるような気がするんです。

また、それとは別に、社会に影響を及ぼす要素が「技術」の革新でしょうね。
これが起こると、政治も経済も文化も変化を余儀なくされます。
近年で言えば、ネットの登場こそが、まさしくそれに当たろうかと。
そして、これは前々回の投稿で旧トルコ担当さんが触れられていましたが、
「ベーシック・インカム」に関しては、私もゴチャゴチャと纏まり無く、少し考えてますね。
導入へのハードルは恐ろしく高いものの、政治・経済・文化を変え得る・・・と言いますか、
それらの諸問題に対して、解決法となり得る1つの「技術」かも知れませんので。

あと、それが導入された際の 良いイメージ像にせよ、悪いイメージ像にせよ、
イメージに実感が伴うか否かって、実際に冷戦を知ってる世代と、
新自由主義の時代しか知らない世代とでは、恐らく大きく異なるのかな?とは思います。
でもまあ、古い世代は古い世代で、不必要にマルクスとか引っ張り出しがちな面もあるかな?(笑)
それこそデジタル社会主義とか、AI共産主義とかを語るのであれば、
変に先祖返りする必要も無いでしょうし、論理だけでなく実例も欲しいのであれば、
別にヨーロッパだけに拘らず、江戸時代の日本とかも参考にして良いかと、個人的には思います。
って、この辺の話は、今回の話題からは かなり脱線しちゃってますけどね(苦笑)。

> ・ですが、私には極ローカルというのがネットに残っているような気がしてなりません
> ・それについて、管理人さんが極ローカルも残っていないと指摘される根拠が知りたいです

う〜ん、よくよく確認してもらえれば、解るかも知れませんが、
初めの方で「私もローカルなモノが完全に無くなるとは考えていません」と述べいる通り、
私の方から一言も、「ローカルが残っていない」とは言ってませんけどね。
ただ一方で、年々縮小し続けており、その傾向は今後更に強まると見ているので、
旧トルコ担当さんが「グローバル化とローカル化の2極化」と、おっしゃられるような、
グローバルに比肩し得る程のモノが、ローカルに残るとは思えないという話なんです。

例えば、冷戦期のアメリカとソ連などは、実力伯仲とは言えませんが、2極化とは呼べた一方、
ポスト冷戦期のアメリカとイスラム原理主義とは、時代を代表する対立関係ではあるものの、
2極化と呼ぶには、あまりに両者の実力差があり過ぎると思うんですよねえ。
何もこれは、イスラム勢力の存在を知らない訳でも、過小評価している訳でもなく、
テロ組織は無数に存在し、アメリカを苦しめてはいますけど、やはり「極」とは呼べないと。

また、文化を生物に喩えれば、全ての種が常に不滅などという事はなく、
多様性を維持する為には、消えていく種と同程度に、新たに生まれる種が必要であり、
新たに生まれる方が多ければ多様性は増し、消えていく方が多ければ多様性は減じます。
この事は、文化であっても、生物であって、大差ない現象でしょう。
そういう意味では、確かに「新しい文化」というモノが誕生していたとしても、
「消えた文化」の方が目に見えて多ければ、やはり全体的には衰退していると見て取れます。
しかも、ボーダーレスな社会というのは、自然淘汰の競争を加速させますからねえ・・・・

それこそ前々回の投稿で、ニコニコ動画について触れられていましたけども、
もちろん今だって、相当数の視聴が居ますし、動画の新規投稿も実際に多い事でしょう。
ですけど、目に見える数値から考察した場合、その減少は明かですし、
特にプレミアム会員の数などは、この5年間で250万人から150万人に激減しています。
確かに、150万人の有料会員数という数字だけを見れば、それは凄い値ですけど、
過去の数字と比べた場合は、わずか5年で100万人(実に4割)も減少している訳で、
未だに「面白い」と感じてる人が大勢いるのは事実ですし、それ自体は否定してませんが、
でもやはり、全体として客観視すると「面白くなくなった」という傾向は示しているはずです。
と言いますか、ニコニコ動画は誕生直後から知っていて、動画投稿もしてましたから、
そういった数字などよりも、変化の流れは体感として残ってますけどね・・・・
正直言って、数字というモノは、その時の空気感から少し遅れて現れてくるモノでしょうし。

で、日本のネット・サブカル文化を牽引してきたニコ動が停滞し、
以前のように新しいモノが生み出せなくなった現状において、
それに替わる別のプラットフォームが現れるかとなると・・・それは非常に難しいでしょうし、
結局、日本だけでなく全世界的にも、YouTubeに集約されていくのでしょうけど(中国は別?)、
これは、YouTube自体が悪いという事ではなく、ニコ動独自の良さが失われてします訳で、
それこそ「多様性」という意味では、明らかにマイナスなんです。

こうした話はゲームにも言えて、何も私は、和ゲー絶賛&洋ゲー批判をしている訳ではなく、
和ゲーには和ゲーの、洋ゲーには洋ゲーの、長所と短所がそれぞれあり、
それらが残された上で、和ゲー的な洋ゲーであったり、洋ゲー的な和ゲーであったり、
はたまた、日本や欧米以外からの新ゲームや、全く新しい発想のゲームなどが生まれれば、
多様性は維持される所か、更に豊かになるという理想像があったものの、
現実に起こったのは、洋ゲーに集約されつつある流れであったという事ですね・・・・
確かに、一昔前と比べれば、グラフィックの進化とか驚異的なレベルですし、
絶対的に見ると、技術って積み重ねですから、時代と共に進歩してるのも事実なんです。
ただ、スポーツ観戦などもそうですけど、人間の見方というのは相対的ですからねえ。
「前の作品に比べてどうか?」「多の作品に比べてどうか?」という比較と感情で、
その作品に対する評価というのも、自ずと違ってきますし、
もっと言うと、目に見えるモノ、数値で計れるモノが、面白さの全てではありません。

と言いますか、そんなモノは面白さの極一部に過ぎないのが、実際の所なのでしょう。
これはゲームや動画に限らず、様々な娯楽文化に関しても言える事でしょうし、
少なくとも私自身はそう考えていますし、だからこそ、これは諦めの表明ではなく、
私など微々たる存在ではあるものの、現状の流れに抗いたい気持ちはあります。
より具体的に言えば、個人レベルの零細であっても、
時代が削ぎ落とし多モノを拾い集める、何らかのプラットフォームを作ってみたいと。
そういう意味では、私自身も、旧トルコ担当さんがおっしゃる所の
「極ローカル」的な存在の1つなのかも知れませんね?
まあ当人的には、そんな大層なモノだとは、露とも考えてませんけども。

> ・可能性は二つあると思います。私がネット以前の世界(具体例で言えば、ゲーセンや本屋などの世界)を
>   理解した気になっていて、実のところ理解していない。もうひとつは、私のネット世界への理解が浅い。
> この点に対して、管理人さんの見解を聞かせていただければ、というのが私の希望です。

う〜ん、これはある意味で、致し方ない面があるとは思うのですが、
やはり実体験が伴わない為、今までこうして話してきても、
「アナログだけの世界」や「アナログとデジタルが共存する過渡期」に関して、
感覚的に理解できない部分がるんだろうなとは、正直言って感じます。
そして、現在の「ネット中心の世界」に関しては、ちょっと判断が難しいのも?

例えば、AさんとBさんとがいて、2人は互いに100の知識を持っていたとしても、
この100の知識は、それぞれ全く異なるモノかも知れず、どっちがどっちとは言えません。
これは仮に、Aさんが200や300の知識を持っていても、同じ事ですよね。
確かに単純な数で言えば、Aさんの方がBさんよりも2〜3倍の知識を持っていますけど、
実際に有益なのは、Bさんが持ってる100の知識の方かも知れませんし、
逆に言えば、300の知識を持つAさんも、100の知識しか持たないBさんに教えを請う事で、
Aさんは知識を400に増やせる機会を得られますし、そうなればBさんの方が指南役です。
また、その一方で、ここに50の知識を得られる本が有ったとして、
300の知識を持つAさんと、100の知識を持つBさんとでは、その本の価値が変わってきます。
もちろん、この本自体が持つ絶対的な価値は変わりませんが、
300が350に増えるのと、100が150に増えるのとでは、相対的な増加率が異なりますからね。
何だか、凄く抽象的で解り難かったかも知れませんけど、私が言いたいのは そういう事です。


> 言い訳させていただければ、
> > > 今まで話がかみ合ってこなかったのも、ここが原因だったのでしょうね。
> > > 私はてっきり管理人さんは戦国史のシナリオ作られてりしていますから、そいうい世界は知っているものだと……

> も、私が正しくて、私の正しい見解を管理人さんが理解されていなかったのか、ということではなく、
> 私が勝手に、管理人さんも中間は失われたけど、極グローバルと極ローカルは残っていると考えていると言う
> 前提で返信をしていたら、管理人さんが極グローバルだけになっていませんか?と返信されたので、
> ああ管理人さんは極ローカルはなくなったと考えていて、
> そこを誤解しているから、今まで話が食い違っていたのね、ということなんですよ。

とりあえず言っておくと、MODの事は当然知ってますよ。
そもそも20年前に、asakaさんが「奥羽戦国史」(のちの戦国史)を公開されたのも、
PCゲーム「天下統一」の改造エディタを公開されてた、身勝手Papaさんのサイト上であり、
その場に居合わせていたからこそ、私もシナリオ作成という形で協力した訳ですし、
(期待されてた新作の「天下統一3」が本当にクソゲーで、その不満や怒りが皆の創作意欲に・笑)
更に古い話をすると、年上の従兄弟が遊んでたカセットテープ版の「初代・信長の野望」も、
プログラム言語がBASICだったので、普通にデータ弄り放題でしたからねえ。

また、今の「レトロフリーク」みたいな互換機が普及する前は、
秋葉原や日本橋に行かないと、ゲームのデータを弄る機械など手に入らず、
私自身は持ってませんでしたけど、友人の家とかで普通に遊んでました。
それに、家庭用ゲームが中心だった日本では、欧米ほどMOD文化は普及しませんでしたが、
その中でも、公式のエディタを発売した先駆けが、光栄のパワーアップキットだったでしょうし、
このスレッド内でも、Paradox社のゲームについて触れてるのですから、
旧トルコ担当さんが自身の認識に合わせる為に、情報の受け取り方を変えた行為自体が、
言葉はキツイですけど、ご都合主義と言いますか、非常に不自然に感じられたんですよね。
(そして前々回の投稿では、そう感じられる箇所が、これ以外にも多岐に及んでいたと)

ちなみに、2018年のMODコンテストで優勝したEU4の「Extended Timeline」とか、
自作シナリオを古代から現代まで拡張していて、本当に凄いと思いましたし、
それこそ、「全世界&全通史」のゲームというのは、私も昔から作ってみたかったですからねえ。
実を言うと、1人用ゲームの「Super三國志」や「ナポレオンの野望」も、その実験用雛型でしたし、
あれを世界マップまで拡張し、都市数も充実させ、人物キャラの要素も加えて、
国家・都市・人物・シナリオなどは、投稿型のデータベース化する考えを持っていました。
(データベース化された情報は、事典としても使えますし、他のゲームにも再利用できるので)
これも言うなれば、MODを前提としたゲーム構想案だったと言えるかも?

・・・と、話が少し脱線してしまいましたけど、
結局、何が言いたいかというと、
MODはもちろん知ってますし、それ自体は新しいモノでは無いという事ですね。
そして、別にファミコンでも、「ロードランナー」とか「ナッツ&ミルク」など、
ステージを自作できるソフトがあり、その筋の人たちは、それを昔から楽しんでた訳です。
確かにネットの登場により、そうしたデータの交換が飛躍的に手軽となりましたし、
「マリオメーカー」のように、企業側が公式にエディタを手掛けるようにもなった事で、
その数そのものは、ピンからキリまで、まさに膨大に増えたのは確かだと思います。
でもそれは、以前からの繰り返しになりますけど、「幅」ではなく「数」の話であると。


P.S.
一応調べたので、前々回の未返信部分から、これだけは貼っておこうかな(笑)。
> > > 確かに我々の世代には、何かみんなが知ってる漫画とか、そういうものって無いんですよね。
> > あと、そんな言うほど、本当に「誰もが知ってる作品」って無かったんですかねえ?
> > 実際に少年マンガで考えてみると、
> > 60年代から70年代にかけて「あしたのジョー」「巨人の星」があり、
> > 80年代には「北斗の拳」「キン肉マン」「タッチ」があり、
> > 90年代には「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽遊白書」があり、
> > 00年代には「ワンピース」「ナルト」「名探偵コナン」があり、
> > 10年代には「進撃の巨人」「銀魂」「キングダム」があり、
> > 20年代となった現在も「鬼滅の刃」「呪術廻戦」があるじゃないですか。

> いやー、「誰もが知ってる作品」は有りませんでしたよ。
> これに関しては実際に経験してきたことなので、結構自信を持って言えると思います。

つまりは、ワンピースも、進撃の巨人も、鬼滅の刃も、
その存在すら知らない人たちが、相当数は居るという事ですか?
紅白出場や商品コラボなど、アニメを見ない一般層にも、
それなりに、存在は認知されてると思ってはいるのですが・・・・

もちろん、「みんなが知ってる」とか、「誰もが知ってる」と言っても、
全員が全員、それを見た事があり、話の内容や登場キャラまで把握しているとか、
そんな話をしている訳ではありませんよ(少なくとも私の方の話は)。
それこそ、ドラゴンボールにせよ、北斗の拳にせよ、あしたのジョーにせよ、
もしも そんな定義であれば、それらも全く該当しませんので・・・・

とりあえず、それだけでは何なので、
日本リサーチセンターの「全国キャラクター調査」によると、
https://www.nrc.co.jp/report/210218.html
ドラえもんが98%、サザエさんが97%と、まさしく国民的な認知度を誇り、
コナンが91%で、ドラゴンボールが90%、トトロが93%と同じくらい。
更には、鬼滅が81%で、ガンダムも同じく81%と続き、
ワンピースが75%で、北斗の拳が77%(2014年調査時)、
進撃の巨人が66%、エヴァが65%、プリキュアが63%という感じでした。
やはり数値で見ると、年代的な差は、そんなに無いように私には思えますね。


[23596] Re2:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/2 (水) 13:35:04 旧トルコ担当

今後について

管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

そもそも、なぜ自分自身、管理人さんの見解にここまで強行に意を唱えるのか考えたのですが、管理人さんの指摘は私の実感と真逆だからなんですよね。
まあ、私の知っている世界なんて、メチャクチャ狭いのは自覚していますし(オタクですし、自分の興味の無いことにはトコトン興味がないので)、だからこそ自分の視界外では未知のことが起きているのかもしれない、と思い管理人さんに色々質問したのですが、結局それはよくわかりませんでした。その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

これは愚痴みたいなものですが、いや、だってソシャゲに対しての認識とか、どう考えてもおかしいでしょう。まだコロナは中国のウイルス兵器説の方が納得できますよ。

まあそうは言いつつ管理人さんの見解に引っ掛かるところが無いわけでは無いので、極ローカルの幅についてはこれからも考えては行くつもりですが。

追記
やはり管理人さんの言説には引っかからないものが無いではないので、よろしければソシャゲに関してだけ、ソシャゲをした事があるのか、教えて頂けませんか?
私の今の見解では、管理人さんはほとんど全くソシャゲを遊んだ事がないからあんな事をおっしゃるのだと考えていますが、もしある程度ソシャゲの中に入った経験がある上でああ言っているのであれば、私としても今後の考え方が色々変わると思うので。


[23598] Re3:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/9 (水) 20:47:41 徳翁導誉

> 今後について
> 管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、
> 管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
> いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

いや〜、その言い草は、さすがに失礼だと思いますけど?(苦笑)
これ以上は進展が無さそうだから、話を打ち切る提案をするのは構わないのですが、
でしたら、それ以上は余計な事を語らないのが一般的である所、
後続の文章で、愚痴をこぼされたり、質問をされたりしている訳で、
その上で「返信されたければしていただいても構いませんが」の一文が加わっては、
これはもう、自分の言いたい事だけ言って、相手を煽るような書き方に為っちゃってますよ!?

まだこれが、解った上で、敢えて行っている行為であれば良いのですが、
恐らく旧トルコ担当さん的には無自覚でしょうし、そのつもりも無いのでしょうから、
それはそれで、却ってマズい状況のように、私には感じられます・・・・
少し異なりますが、「慇懃無礼」に似た感じと言えば、イメージしやすいでしょうか?
「自己の主張」と「相手への礼節」を無理に共存させる際、往々にして見られる悪文ですね。
その両方を満たす文章というのは、なかなか高度な技術を必要としますし、
それが難しければ、どちらか一方を抑え気味にするか、いっそ触れないのが無難です。
余計なお世話かも知れませんけど、若い内から意識されるようにした方が良いと思いますよ。
大人になると、「失礼なヤツだな」と相手から評価され、注意もされずに終わっちゃうでしょうし、
年齢を重ねれば重ねるほど、そうした悪癖は修正し難くなっていくでしょうから。

> そもそも、なぜ自分自身、管理人さんの見解にここまで強行に意を唱えるのか考えたのですが、
> 管理人さんの指摘は私の実感と真逆だからなんですよね。

でしょうね、それは私にも感じ取れてますよ。
その理由も、おおよそですが解っているつもりです。
それはまさしく、旧トルコ担当さんが「実感」を軸に語られてるからです。
より厳密に言うと、「主観」と「瞬間」から、意見が構成されている印象が強いです。
それに対して私は、「客観」と「時間」から、意見を構成していますからねえ。
その違いを念頭に置けてないと、意見の正確な理解は困難かと思われます。

また、今までもそうでしたけど、
何も私は、旧トルコ担当さん実感自体を否定している訳では無いんですよ。
例えば、仮に話題が「田舎暮らし」だったとしましょう。
個人的に「ここでの生活は最高だ」と思われる方は、当然いる事でしょうし、
周りの移住者仲間も「同じ感想を持ってる」という事も有り得るでしょう。
ただ一方で、田舎は自然に恵まれていても、「不便」であるのも事実ですし、
全体的に言って、流入するより流出する人数が多ければ「過疎化」の傾向となります。
この2つは、何も相容れない事実という訳ではありません。
主観的・瞬間的には「最高」と感じられたのが事実だとしても、
客観的・時間的には「過疎化」という事実も、矛盾無く存在する。
どちらが「合ってる/間違ってる」ではなく、視点の違いでしかないんです。
前回のニコニコ動画に関する話も、そういった主旨の事ですね。
プレミアム会員が現在でも150万人居るのも、5年間で100万人減ったのも両方事実で、
未だに楽しんでる方が大勢居る事と、でも全体としては衰退してる事は、相反しません。

で、そうした上で、私が今まで何を指摘してきたかと言うと、
旧トルコ担当さん自身の立ち位置と、その認識に関してなんです。
「前から見るか? 後ろから見るか?」「上から見るか? 下から見るか?」
「近くから見るか? 遠くから見るか?」「長く見るか? 短く見るか?」等々、
同じモノを見ていたとしても、見る人の立ち位置の違いで、映る姿は異なってきます。
ですから、自分はどこに立っているかという「絶対的」な座標と、
相手はどの辺りに立っているかという「相対的」な座標とを欠くと、
相手の事を理解できないのは勿論、自分の事さえ正確には把握できなかったりします。
言うなれば、相手の事も、その他 大勢である社会の事も、
自分と同じ立ち位置から見ていると勘違いし、それを疑わないまま、解釈してしまうと。

それこそ、「女装と百合」を隣接文化とし、それを「見立て文化」だとおっしゃたのは、
私からすると、その端的な例だと思えて為らないんですよね・・・・
バ美肉がデジタルな女装である事は、別に私も最初から否定していませんよ。
しかし、「女装(バ美肉)と百合」を隣接文化だと見なせるに充分な、
納得感ある説明や、客観的な根拠などが、今まで示されてるようには感じないんです。
もしも、自分の言葉で説明するのが難しいのであれば、
それをキチンと解説している他者の言説を、何処かから引っ張ってきてくれても構いませんし、
それも難しいようなら、同様の見解を述べてる他者の意見を、幾つか見繕って欲しいんですよね。
それが無ければ、多数の人間が関わっている「文化」ではなく、
旧トルコ担当さんが抱いた、個人的な「感想」に過ぎないとしか見なせません。
言い換えれば、個々の例としては実在するにしても、それが圧倒的な多数派とは思えず、
見解が食い違う以上は、何らかの根拠なり、腑に落ちる説明をして欲しいって事ですね。

繰り返しますけど、これは別に、個人的な感想(主観的な見解)を否定するのではありません。
「客観的なデータじゃないから信用できない」と、私は言っているのでは無く、
主観と客観を混同し、感想を文化と唱えてるような印象を受け続けているからこそ、
旧トルコ担当さんの客観的な姿勢を求める意味も込めて、データを交えて語っている訳です。
主観と客観を分けられてる方が相手なら、私もわざわざ、そんな面倒な事を雑談でしません(笑)。
また、以前このように述べられてました↓けども、
> > > いや、ほんとこれ説明できないんですよ。
> > > 見立て文化というのは、『オタク学入門』によれば、
> > > 竜安寺の石庭の砂が波に見えるようになるとか、人形浄瑠璃の黒子が見えなくなるとか、
> > > ジャンプ漫画がBL漫画に見えてくるみたいな、
> > > その文化圏においてはある見方・見え方が共有されているという文化なので。
> > > こう、このジャンプ漫画のAとBは絶対付き合ってるじゃん、みたいな、
> > > そういうのは外の世界には本当に説明しずらいんですよ。

石庭や浄瑠璃と、BLカップリングとは、かなり事情が異なりますよ!?
そして女装と百合に関しては、それより更に違うと思います。
もちろん、「○○を××に見立てる」という個々の行為自体は同じです。
ですけど、「私自身は、そう見立てている」と言うのと、
「この界隈では、そう見立てられている」と言うのとでは、まるで違います。
後者であれば社会的な文化と呼べても、前者であれば個人的な感想でしょうし、
個人的な感想を、社会的な文化とは見なせませんよね?

それこそ、砂の波紋を水の流れに見なしたり、黒子は無いモノとして捉えるのは、
その界隈の人々が、共通認識として「見立て」を共有する事で、
その世界における「お約束」にまで昇華している訳です。
これに関しては、「そういうルールにしたんだ」と言えば、一応は納得できるでしょうし、
どういう経緯でルールが生まれ、どういう根拠でルールが定まるかも、説明は可能です。

続いて、腐女子の行うBLカップリングは、「見立てる」という行為自体であっても、
「お約束」としての共通認識があるのでは無く、あくまでも個々の主観の積み重なりです。
いや勿論、「A×B」カップリングと見なす人が多数派とか、そういうのはありますけど、
それとは別に、「A×C」であったり、「B×A」と見立てても自由な訳で、
石庭や浄瑠璃のように、確固とした「ルール」として、それが存在する訳ではありません。
存在するとすれば、それは幾つかの お約束的な「テンプレート」でしょうね。
そして、このテンプレートに関しては、全く根拠もなく作り上げられるモノでも無いので、
感覚だけに頼らず、キチンと読み解いていけば、恐らく説明も可能かと思われます。

で、私からすると、オタクというのは「好きの体系化」を行う人種なので、
言語化や図解化など、手段や程度は人それぞれにせよ、
自分なりに納得できる「解」のようなモノは、持っていたり、
少なくとも、求めようとチャレンジはする者だと思うんですよね。
だからこそ一旦スイッチが入ると、マシンガン・トークを繰り広げがちだと(笑)。

> まあ、私の知っている世界なんて、メチャクチャ狭いのは自覚していますし
> (オタクですし、自分の興味の無いことにはトコトン興味がないので)、

と言う事で、上述の返信文からの続きなのですが、
正直な所、私自身は、旧トルコ担当さんの事を「オタク」だとは感じていないんですよね。
オタクなら食指が動きそうな話題を振っても、ほとんど反応がありませんでしたし、
そもそも、オタクから溢れ出る「好き」という感情が、これまで感じ取れなかったので。

いや勿論、近年ではオタクの定義も、「他人から、そう呼ばれる人」から、
「自分で、そう称する人」へと、意味が変容している事は知ってますし、
どっちが正しいとか、どちらかを否定するとか、そういう話でもありません。
当然ながら、旧トルコ担当さんが自身をオタクだと言うなら、オタクなのでしょう。
これはあくまで、私と旧トルコ担当さんとの「オタクの定義」の違いという話です。

そして、その事は最初の方でも述べていますから、
私自身がオタクを語る時は、私の定義の方のオタクの意味で用いてますけど、
ここで、旧トルコ担当さんの定義に合わせるとすれば、
私も充分、世間的にはオタクと認識される人間なのだろうとは思っていますよ。
例えば近年のアニメであれば、鬼滅や呪術廻戦くらいなら まだしも、
リゼロの魔女9人と、ダイの大冒険の魔王軍6団長を、両方諳んじられる大人を、
恐らく世間的な感覚では「一般人」と見なされないでしょうし(笑)。
ですけど私の定義だと、その程度はファンとは呼べても、到底オタクとは呼べないと。

で、何故こんな話をしているかというと、
私の方は、旧トルコ担当さんが書いた文章を読む際は、
旧トルコ担当さんの定義する言葉の意味を汲んで、文意を読み解いてるつもりですけど、
逆に旧トルコ担当さんの方は、私が書いた文章も、
全て御自身の定義している言葉の意味で、そのまま理解しているように感じるんですよね。
前回、「頭の中の辞書」という話をしたのも、その辺りに深く関係してきます。
自分のとは異なる論説に出会った時、自分の既存の言葉の意味だけで理解しようとすれば、
結局は文意の中身を読み取れず、外身の単語を掻き集めて、推測で文意を再構成するから、
それを語った側から見た場合、まるで異なる解釈に陥ってるように思えると・・・・

ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。
具体的には、同時代の他の作品と比べて、どこが革新的だったのか?
この作品の存在が、後々の作品群に、どのような影響を及ぼしたのか?
どういった面で、エヴァと比肩でき得る程の2010年代の代表作なのか?
等々、この一文だけでも、いろいろと語れる面はあるかと思われます。

それこそ、ラノベの発行部数で言ったら、巻数が異なるので単純比較は難しいものの、
「とある」「SAO」「転スラ」「魔法科」あたりは、「俺ガイル」の倍以上 売れてるみたいですし。
・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034

それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。
まあ私自身はラノベをほぼ読まないので、知っててもラノベ原作のアニメ版ですけど、
最近の作品だと「本好きの下剋上」は、個人的に面白いと感じましたね。

ついでに言ってしまうと、今まで重ねた やり取りの中で、
何の分野のオタクか尋ねたり、私の中のランキングを披露してたりしてたのは、
そういう話題の方が、旧トルコ担当さん的にも書きやすいかな?という思いと、
個人の好みが具現化される事で、趣向するタイプが把握しやすいという考えがあり、
それとなく場馴らししていたという裏事情が、実はあったりしました(笑)。
まあ、そういった話題の転換自体を、旧トルコ担当さんが望むかは未知数だったので、
あくまでも選択肢の1つとして、行っていた事前作業ではありましたけど。
ちなみに、5年前の雑談時に書いた、私の好きなアニメ・ランキングはこんな感じ↓
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=s20466#20466
ただ、このコロナ禍で、結構な作品数を一気見しましたから、
今だと近年の作品も加わり、もう少しランキングも変わってくるのかな?
当時と現在とで、微妙に評価が変動した作品だってあるでしょうし。

> だからこそ自分の視界外では未知のことが起きているのかもしれない、
> と思い管理人さんに色々質問したのですが、結局それはよくわかりませんでした。

え〜と、すみません。
逆に私の方が、旧トルコ担当さんに対して、
何か未知のことが起きているのか、尋ねているつもりでいました(笑)。
具体的に言うと、「新しい文化」に関してですね。
ただコチラの方も、文化という言葉に対する定義の違いと言いますか、
もっと言えば、旧トルコ担当さんの方は漠然とした意味合いで用いている感じがしており、
この調子だと、私が求めてる問いの答えは返ってこないかな?という印象は正直あります。
この前も、ジャンル名を増やしてもしょうから、新たに名付いてないものの、
「新たな性格のゲームは誕生している」との事でしたけど、
でしたら、その具体例を是非とも伺いたい所ではありますね!!

繰り返しになりますけど、別に今の時代に文化が無いと言っている訳ではありません。
良い作品が新しく生まれて来ないという話もしていません。
今の若者が今の時代の中で楽しみを見出し、青春を謳歌しているのも重々理解できますし、
個人レベルでは、やはり当人が青春時代に味わった文化が、最高だと感じる人が大多数でしょう。
決して、その感情自体を否定していたり、過小評価している訳でも無いんです。
私の方は、ただ単に「歴史の流れ」として、俯瞰的に観察しているに過ぎず、
そういう意味では、当事者的な感情に欠けているのは確かなのでしょう。
でもそれも、オヤジの懐古主義とは、少なくとも別物だろうと思ってはいます。
私の趣味の方向性は、自身の懐古的なモノより、歴史や文化それ自体に向いているので。
(更に言うと、昔から あまり流行には乗らないタイプで、懐かしむ対象も乏しい面も)

と、それはさておき、話を元に戻すと、
申し訳ないのですが、個々の小さな問いは別として、
具体的には、そうした問いに対して、私は何か答えてましたっけ?
いや、過去の話を幾らかしたのは覚えてますけど、
「視界外の未知のこと」というのが、正直あまりピンと来てません・・・・
> > > かつてのオタクのミドルクラスはどの程度の知識があったのでしょうか?
という、この前の問いに答えていない・・・と言うか、再説明してないのは覚えてますけどね。
ちなみに「マンガ夜話」の名前を出したのは、何も、
あの番組内容から直接的に、当時のオタク・レベルを推察しろと言ったのではなく、
そうした番組が公共の電波を使って成り立つ状況から、
当時のレベルを間接的に推察できるという話でもあったんです。

また、ちょうど当時は、インターネットが普及し始めた頃でしたから、
番組を見ての感想のやり取りとかも、ネットを掘ればログが見つかるかも?
あるいう意味ではログって、当時の空気感を閉じ込めたタイム・カプセルですし、
現在に比べるとネット人口が少ないので、多人数でも会話が成り立つ感じは解るかと。
そう言えば、思い出しましたけど、2chが誕生して間もない頃、
夏目房之介さん本人が「降臨」して、盛り上がった事とかありましたね。
http://piza.5ch.net/test/read.cgi/comic/964631820/
現在のTwitterの方が著名人と繋がり易いですけど、それこそ空気感が異なるのかな?

ただまあ、実際に「ミドル層のレベル」なんてモノを、
具体的に説明するのは、やはり難しいとは思うんですよ。
それこそ同じく、現在のオタクたちの「ミドル層のレベル」について、
説明してと漠然と言われても、これだって至難な事でしょうし・・・・

とは言え、コア層とライト層のレベルが、だいたいイメージ出来ているとすれば、
そこからミドル層のレベルを、おおよそ想像するのは難しくない気はします。
まさしく、コアとライトの真ん中あたりを思い浮かべれば、そこがミドルなので。
旧トルコ担当さんが、御自身でも述べられていた通り、
コア層のレベルは、時代に関わらず途轍もないとするなら、
そういう意味で、昔のミドル層と、現在のミドル層も、そこまで大差ないのでは?
昔と現在の違いをノベルとすれば、それは恐らく層自体の厚みの方です。
(他には、作品の絶対数が違うので、1作品を深堀りする傾向も強かったですが)

例えば、学力とか収入とかの面でも、同じく言われてる話なんですけど、
以前はヒトコブラクダだった分布曲線が、現在はフタコブラクダの様になったと。
でもまあ実際は、きれいなフタコブの曲線などではなく、
中央の厚みが減って、トップの方が尖り、下の方がなだらかに厚くなった感じかな。
オタクのレベルを数値化するのは困難でも、学力のデータとかで擬似的に伝わるかも。
で、一億総中流などと呼ばれた頃が、日本が最も活気のあった時代である事を示す通り、
レベル自体の程度の違いよりも、その層の厚みの方が、やはり重要だったかと思われますし、
時代の違いを考えるのであれば、それこそが肝なのでは無いでしょうかね?
相応の人口が居れば、相応の社会や市場ができ、そこから生まれてくるモノも増えるので。

また、コアとライトの中間という意味でのミドルではなく、
平均値的や、中央値的な意味での、ミドル層のレベルを知りたいという事であれば、
ヒトコブラクダとフタコブラクダの曲線のズレと睨めっこして、
そのズレの分だけ、現在見られる平均値や中央値を上方修正すれば、
そこまで的外れなイメージにはならないと思いますよ。
具体的には、中の上や、上の下といった「アッパーミドル」を想像すれば良いのでは?
やはり少数精鋭の頃の方が、平均値や中央値も高く出ると思います。
ですが、もしも仮に、それ以上に全体のパイが広がっているとすれば、
絶対数がそこまで減じているとも思えば、下手すれば増えてる可能性もありますけど、
そこが上手く現れて来ないのは、当初から言っていた「場の喪失」に原因があるのかな?と。

あと、これは余談かも知れませんけど、マンガ夜話の話に関して、
> > > 自分で作品を見て、自分なりにこの作品はこうなんだというのが面白いのであって、
> > > 見たこともない作品の批評を見てなるほど、と思うのは、
> > > 例えるのであればそれこそ石田徹也的な世界観かと?

と、おっしゃてたのが、私の方も驚きだったかな?
だって、自分の読んでない作品の批評を、番組で見ただけで、
そこまで簡単に呑まれてしまうと言うか、影響を受けてしまうイメージが、
そもそも私には、持ち合わせていなかったので(しかもオタクを称する人が)。

だって、あの番組、もちろん取り上げる作品自体の話もしてますけど、
その根底に流れているのは、「日本のマンガ文化史」という大きなテーマでしょうし、
個々の作品は、その日の講義の教材のようなモノだと感じています。
喩えるなら、もし仮に「西洋絵画史」の講義を取ったとして、
前回はクールベの「世界の起源」を通して、19世紀前半の写実主義について学び、
今回はゴッホの「ひまわり」を通して、19世紀後半の印象派について学び、
次回はピカソの「ゲルニカ」を通して、20世紀前半のキュビズムについて学ぶように、
毎回1作品を中心に語る形式で、考察を深めていく方法に思えるんですよ。
まあ確かに、講義で初めて「これがキュビズムかぁ」みたいに触れてしまうと、
下手に先入観が先走り、真っ新な気持ちで作品と向かい合う機会は失われるかも知れません。

そういう意味では、私も理想論を述べると、何事も新しい体験をする時は、
1回目は予備知識なく自然に触れ、2回目はしっかり学習してから触れ、
そして3回目は一旦それらを忘却して触れるのが、望ましい形だとは考えています。
でもまあ、マンガ夜話に関しては、その番組を見る事で、
未読だった作品を読む面白味を損なうかというと、そういう内容でも無いですからねえ。
また、自分が今まで触れて来なかった分野の作品であればこそ、
これを機会にキュビズムを知るというキッカケを、得られるチャンスだと感じてます。

まあ個人的には、オタク層が見て楽しめるのが「マンガ夜話」であり、
その作品のファン層が見て楽しめるのが「アニメ夜話」かな?と思っています。
やはり、基本的には1人で作るマンガと(編集者やアシスタントの存在も勿論重要ですが)、
多くの人が関わって作るアニメとでは、作品に現れる「作家性」の度合いが異なってきますし、
マンガよりアニメの方が断然客層が広い事を踏まえれば、番組の作りが違うのも当然でしょうね。
それこそ、普通に作品を楽しんでる層からすると、あれこれ考察されるのは目障りで、
素直に作品の魅力を伝えてくれる方が嬉しいという事情もあるでしょうから。

で、ついでなので、ここで言ってしまうと、
それなりに経験がある人が、何か新しい発想をしようとする際、
余裕や雑音も含めた「無駄」というモノの重要性を、
気付けていない人というのは、恐らく少数派だと思われるのですが、
でもまあ、それは創作者の事情であって、
単なる消費者に回るのであれば、特に必要という事もありません。
とは言え、精神的なリセットをする上では、普通の人でも重要だと思いますけど。
ちなみに この話題に関しては、旧トルコ担当さんがオタクを称するからという以上に、
ゲームを作られているから、敢えて触れたという側面はありましたね。
ですが、その原点がMOD制作にあると聞くと、実は私が想定していた程には、
旧トルコ担当さん自身、そうした新規性には、そこまで比重を置かれていないのかも?
これも、立ち位置の違いによる、風景の見え方の違いみたいなモノでしょうか(笑)。

> その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。

また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。
今までの感じだと、旧トルコ担当さん的には、
「理解」と「賛同」はイコールと思ってそうな印象を受けますけど、
コチラに関しても、それぞれ異なる概念ではあります。
要するに、仮に理解できたとしても、必ずしも賛同するとは限らないと。
それは、理解できないとか、理解が間違ってるとかではなく、そもそも別物だからです。
もっと言えば、理解も、賛同も、共感も、納得も、好意も、高評も、全て違います。
でもまあ、それらを全て同一視する人の方が、世間的には多数派な気はしてますけどね。

> これは愚痴みたいなものですが、
> いや、だってソシャゲに対しての認識とか、どう考えてもおかしいでしょう。
> まだコロナは中国のウイルス兵器説の方が納得できますよ。

そもそも論として、誤解釈に基づく「認識」を元に、「おかしい」と言われましても、
それは私自身の認識ではなく、旧トルコ担当さんが勘違いで生み出した認識なので、
本来であれば、私に対して問うのでは無く、自分自身に問うてこそ、見えてくるモノでしょうし、
「どう考えても」などと言う前に、その前段階から「考えてみる」事が重要だと思いますよ。
ウイルス兵器説なんて話を、突拍子も無く登場させる事よりも先に。
あと、とりあえず言うと、この前の返信に書かれてるような認識は、私の方も持っておらず、
あの文章と今までの流れから、どうしてそういう解釈になるの?というのが、実際の所です(笑)。

う〜ん、で、ソシャゲの話題に関しては、どうしましょうかねえ?
今までも何度か、誤解釈に対する修正説明はしてきましたけど、
それに対して、旧トルコ担当さんの反応が返ってきた事が無いので、
その誤解釈をどれだけ修正できてるのか、私も図りかねてる部分は正直ありますし、
特にこの件に関しては、今まででも最大級にズレ幅が大きい為、
修正説明を行うのも、恐らく一苦労だろうな・・・という思いもあったりします(苦笑)。
また追記の問いについて、私自身のソシャゲ経験を実際に述べるのは別に良いんですけど、
現状でそれを行うと、誤解釈を補強しちゃう気もして、ちょっと怖いんですよね。
今回も、理解するのが難しいと言われる割に、思いっ切り決め付けて反応されてますし・・・・

でもまあ、ソシャゲに関して言えば、プレイヤー数が多い事もあり、
それにハマった人の体験談とか、それこそネット上に溢れてると思いますし、
その中から様々な側面を語る声を探す事は、そんな難しい事じゃないと思いますよ。

> まあそうは言いつつ管理人さんの見解に引っ掛かるところが無いわけでは無いので、
> 極ローカルの幅についてはこれからも考えては行くつもりですが。

私がいう所のニッチ、旧トルコ担当さんがいう所の極ローカルに関しては、
まあ私の方も実は、このままの流れだと厳しそうだと見つつも、
密かに期待は抱いているというか、決して諦めて見放してる訳でも無いんですよね(笑)。

ただ、この辺に関しては、他の雑談スレッドでも触れましたし、ここでも少し書きましたが、
ネットの黎明期、今よりもっと素晴らしい未来像を、多くの人々が描いていた為、
その頃の理想図に比べると、実際はかなり異なる社会になったという思いが、
当時を知る世代の中で、やはり何処かに強く残っているんでしょうね。
だからこそ、そうした思い描いたような成長曲線は描けていなくても、
実はジワジワと成長していて、その小さな変化に気付けていないだけかも知れません。
しかも、ネット化やグローバル化というのは、ニッチな世界の武器にも成り得るので、
それを上手く活用して行ければ、これから大きく羽ばたく可能性だって残されています。
とは言え、そんな簡単に上手く運ぶなら、あの時に抱いた未来予想図だって実現できたた筈で、
確かに確率的には有り得ても、その数値はかなり厳しいモノだろうと言う考えもあります。

例えば、MODであれ、2次創作であれ、その活動自体は未だに盛んであり、
数的な面で見れば、以前よりも増えているのかも知れません。
ですが一方で、MODや2次創作の対象になる作品が、
以前に比べると、特定の作品に集中しがちな傾向は無いでしょうか?
言い換えるなら、マイナーな世界でも、その中でのメジャーな作品が1人勝ち状態となり、
結局、メジャーな世界の競争原理で、マイナーな世界も動いてしまうと、
マイナーな世界が持つ独自の強味が失われるのでは?という危惧もあります。
その他に、有志による洋ゲーの日本語MODが充実してるのは凄い事だとしても、
大前提として、日本語版が発売されなくなったり、公式が日本語対応しなくなった結果、
そうせざるを得なくなった事情があるので、プラスかマイナスかは判断が難しい所ですし、
Wikipediaの日本語記事 編集が、目に見えて鈍化しているのを感じると、
いつまでも有志頼りの構造が続いていけるかは、正直微妙な気はするんですよね。
まあ無給奉仕の有志活動に比べれば、有料MODがある所は幾分マシかも知れませんけど。

って、念の為に言っておきますけど、前段で言ってる「1人勝ち状態」とは、
何も1本の作品しか大勝ちしないという意味では無く、
一握りの勝ち組作品と、その他 多数の負け組作品に2分化されるみたいな意味合いですよ。
この前も、代表格として「マイクラ・あつ森・フォートナイト」を挙げたら、
「Among Usは知らないの?」みたいな返信が来たので、一応ですけど言っておきます。
ちなみにAmong Usは、昨年のアメリカ大統領選で、オカシオ=コルテスが利用してましたよね。
他にも、Apexとか、League of Legendsとか、GTAとかもあるでしょうし、
桃鉄の新作も未だに根強い人気なのも知ってますけど、そんな事を言ってたら切りが無く、
かと言って、以前より勝ち組と負け組の差が現れてる事は、覆し様の無い事実でしょうから。

あと、これは余談ですけど、そうは言いつつも、
年明けに2度目の緊急事態宣言が発令されて以降、生の情報を得る機会が滞っているのも、
一方では事実としてある事も、とりあえず明かしてはおきます。
私自身がゲームを遊ばなくなって久しいですし、そういう意味では今だとネット情報くらいで、
肌感覚的な情報とかは、現状で半年くらいのギャップがあるのも、本当の所です。
グラフィックとかは格段の進歩を遂げているので、ゲーム動画はよく見ますし、
他には、弟が未だにバリバリのゲーム好きなので、それで自然と見聞きしたり、
人気作に関しては、人気の理由を知りたい欲求から、そこそこ調べたりしますけど、
逆に言えば、自分ではプレーしない程度の関心度ですね、今のゲームに対しては。
ゲーム番組「GameWave」を毎週見てた頃に比べると、把握してる情報量は明確に少ないです。
ただ、半年遅れの感覚でも、マイクラと あつ森の人気度は、
少なくとも日本国内において、世間的に、やはり頭幾つか抜けてる実感はありますよ。
・・・って、ここまで書いたら、ほぼほぼ答えてるようなモノですね、例の箇所の質問を(笑)。

更に別の余談を続けると、私がよく見るYouTubeのチャンネルに、
「予備校のノリで学ぶ 大学の数学・物理」↓というのがあるのですが、
https://www.youtube.com/channel/UCqmWJJolqAgjIdLqK3zD1QQ
最近、プロ棋士などを始め、様々な方面のYouTuberとコラボしていて、
登録者数も再生数も伸ばしているんですよね。
ただ、そうしたコラボ効果により、一般向け動画の再生数が跳ね上がるのは解るのですが、
専門性の高い動画の方まで、10万再生くらい伸びてるのが、驚きですし、凄い謎!?
これが英語で作られた動画なら、対象が全世界に広がるので、まだ想像できますけど、
物理学科や数学科の日本人学生が、数万人単位で視聴してるとも思えず、
ファンになれば、内容は解らないけど再生する層とかも、一定数で居たりするのかな?
でも、趣味で学び直そうという卒業生とかも含めれば・・・そのくらいの人数は行くのかも?
ともかく、そんなニッチな動画でも再生数が伸びるというのは、素直に凄い事だと思います!!
そういう意味では、例え日本語限定であっても、ニッチの幅もまだ残されている気はします。


[23603] Re4:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/11 (金) 15:31:44 旧トルコ担当

> > 今後について
> > 管理人さんを非難している訳ではありませんが、これ以上話しても進展は無いと思うので、
> > 管理人さんもこれ以上は特に返信されなくても結構です。
> > いえ、返信されたければしていただいても構いませんが。

> いや〜、その言い草は、さすがに失礼だと思いますけど?(苦笑)
> これ以上は進展が無さそうだから、話を打ち切る提案をするのは構わないのですが、
> でしたら、それ以上は余計な事を語らないのが一般的である所、
> 後続の文章で、愚痴をこぼされたり、質問をされたりしている訳で、
> その上で「返信されたければしていただいても構いませんが」の一文が加わっては、
> これはもう、自分の言いたい事だけ言って、相手を煽るような書き方に為っちゃってますよ!?
>
> まだこれが、解った上で、敢えて行っている行為であれば良いのですが、
> 恐らく旧トルコ担当さん的には無自覚でしょうし、そのつもりも無いのでしょうから、
> それはそれで、却ってマズい状況のように、私には感じられます・・・・
> 少し異なりますが、「慇懃無礼」に似た感じと言えば、イメージしやすいでしょうか?
> 「自己の主張」と「相手への礼節」を無理に共存させる際、往々にして見られる悪文ですね。
> その両方を満たす文章というのは、なかなか高度な技術を必要としますし、
> それが難しければ、どちらか一方を抑え気味にするか、いっそ触れないのが無難です。
> 余計なお世話かも知れませんけど、若い内から意識されるようにした方が良いと思いますよ。
> 大人になると、「失礼なヤツだな」と相手から評価され、注意もされずに終わっちゃうでしょうし、
> 年齢を重ねれば重ねるほど、そうした悪癖は修正し難くなっていくでしょうから。


はい、失礼なのは重々承知です。
ただそれ以上にもう返信をあれこれ考える時間がもったいないので文章の推敲をせず、深夜テンションで書いて、さらに深夜テンションで追記しましたので。
いろいろ誤解されるのも当然でしょう。

> また、今までもそうでしたけど、
> 何も私は、旧トルコ担当さん実感自体を否定している訳では無いんですよ。
> 例えば、仮に話題が「田舎暮らし」だったとしましょう。
> 個人的に「ここでの生活は最高だ」と思われる方は、当然いる事でしょうし、
> 周りの移住者仲間も「同じ感想を持ってる」という事も有り得るでしょう。
> ただ一方で、田舎は自然に恵まれていても、「不便」であるのも事実ですし、
> 全体的に言って、流入するより流出する人数が多ければ「過疎化」の傾向となります。
> この2つは、何も相容れない事実という訳ではありません。
> 主観的・瞬間的には「最高」と感じられたのが事実だとしても、
> 客観的・時間的には「過疎化」という事実も、矛盾無く存在する。
> どちらが「合ってる/間違ってる」ではなく、視点の違いでしかないんです。
> 前回のニコニコ動画に関する話も、そういった主旨の事ですね。
> プレミアム会員が現在でも150万人居るのも、5年間で100万人減ったのも両方事実で、
> 未だに楽しんでる方が大勢居る事と、でも全体としては衰退してる事は、相反しません。
>
> で、そうした上で、私が今まで何を指摘してきたかと言うと、
> 旧トルコ担当さん自身の立ち位置と、その認識に関してなんです。
> 「前から見るか? 後ろから見るか?」「上から見るか? 下から見るか?」
> 「近くから見るか? 遠くから見るか?」「長く見るか? 短く見るか?」等々、
> 同じモノを見ていたとしても、見る人の立ち位置の違いで、映る姿は異なってきます。
> ですから、自分はどこに立っているかという「絶対的」な座標と、
> 相手はどの辺りに立っているかという「相対的」な座標とを欠くと、
> 相手の事を理解できないのは勿論、自分の事さえ正確には把握できなかったりします。
> 言うなれば、相手の事も、その他 大勢である社会の事も、
> 自分と同じ立ち位置から見ていると勘違いし、それを疑わないまま、解釈してしまうと。


> > その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> > こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

> 「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
> それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
> それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
> 厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
> 自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。


> また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
> 私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
> では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。
> 今までの感じだと、旧トルコ担当さん的には、
> 「理解」と「賛同」はイコールと思ってそうな印象を受けますけど、
> コチラに関しても、それぞれ異なる概念ではあります。
> 要するに、仮に理解できたとしても、必ずしも賛同するとは限らないと。
> それは、理解できないとか、理解が間違ってるとかではなく、そもそも別物だからです。
> もっと言えば、理解も、賛同も、共感も、納得も、好意も、高評も、全て違います。
> でもまあ、それらを全て同一視する人の方が、世間的には多数派な気はしてますけどね。


もちろん、そういったことも重々承知です。
ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
もう後1年はこのことについては考えたくないです。

まあ、あと結局は過去のこと知らないと何も言えない、ということに今更ながら気が付いたというのもありますね。
過去の動向を知らずに現在や未来について動向分析するのって、例えるのなら女の子と付き合ったことない男が必死に女の子の気持ちを想像してるようなもんであって、それはたいてい的外れなわけです。
正しく女の子の気持ちを分かるようになりたいのであれば、それはもういろんなタイプの女と付き合ってみて、その経験則から判断するという方法しか無いのと同じよう、結局未来インついて考えるのも過去の知識が無いと、一見して正しそうでも得てして的外れな考えに陥りがちなんです。
まあ管理人さんは過去のいろいろについて知っているのでしょうし、私もその経験値を増やす意味でいろいろ聞いてみたりしたのですが、結局そんな簡単に理解できるものではないんでしょうね。


> ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
> この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
> その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

> 何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
> なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。
> 具体的には、同時代の他の作品と比べて、どこが革新的だったのか?
> この作品の存在が、後々の作品群に、どのような影響を及ぼしたのか?
> どういった面で、エヴァと比肩でき得る程の2010年代の代表作なのか?
> 等々、この一文だけでも、いろいろと語れる面はあるかと思われます。


書こうと思えばかけますが、というか下書きまではしたのですが、いろいろ止めておきます。
昔はコミケ創設メンバーの大学生たちが自分の好きな漫画を語っていた、みたいな文献を見て「なんで漫画を語る、なんていうつまらないことを昔のおたく(おたく原人?)はしていたんだろう?やっぱ学生運動上がりのおたく世代はよくわからんわ」と思っていたのですが、
この年になると自分の好きな作品を語ることの面白さがようやくわかってきました。なるほど、年を取るというのはこういう面白さがあるんですね。


> それこそ、ラノベの発行部数で言ったら、巻数が異なるので単純比較は難しいものの、
> 「とある」「SAO」「転スラ」「魔法科」あたりは、「俺ガイル」の倍以上 売れてるみたいですし。
> ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
>
> それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。
> まあ私自身はラノベをほぼ読まないので、知っててもラノベ原作のアニメ版ですけど、
> 最近の作品だと「本好きの下剋上」は、個人的に面白いと感じましたね。


この辺のラノベ史は勉強になりました。
現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?
一般に00年代前半にラノベブームが起きたなどと言われますが、ライトノベルの出版部数は90年代から大きな変化はなく(『ライトノベルの現状と将来』)
・それまで雑多であったライトノベル、ヤングアダルト、ジュブナイルなどの名称がライトノベルにおおよそ統一された(『ライトノベルから見た少女/少年小説史』)
・90年代のラノベを読んでラノベを書き始めたライトノベル世代が作家として登場した(『ライトノベルよ、どこへ行く』)
・ラノベ評論ブームが起きた(『ライトノベルの現状と将来』)
・ラノベのアニメ化が増えたりした(『ライトノベルの現状と将来』)
・出版産業が順調に部数を減らしていく中で、ライトノベルだけは出版点数は減少しなかったため、相対的に出版業界の中でのライトノベルの存在感が増した
・ラノベの内容が90年代のファンタジーブームから学園モノへトレンドが入れ替わった
・オタクへの注目が高まってき始めた
これらの要因の結果、ライトノベルがブームを起こしているように錯覚させ、その結果誕生したのが00年代のライトノベルブームだと認識しているのですが、実際どうだったのでしょう?
確かに90年代のラノベってファンタジー物中心ですし、興味のない人から見ればライトノベルというよりゲーム小説とかそういった認識だったのでしょうか?90年代のラノベはTRPGのルルブと一緒の棚に置かれていた(『ライトノベル研究所説』)という話も聞きますし


クレヨンしんちゃんのオトナ帝国の逆襲(2001年)は見ていますか?
あれって、20世紀生まれの大人たちが「かつて未来はもっと輝いていた」と言ってるんですが、実際輝いていたはずの21世紀が「案外しょぼいな」ってなった理由って、失われた10年や少子高齢化などの日本的な要因と、科学技術の進化が案外しょぼかったという要因と、どっちが大きかったのでしょうか?



[23607] Re5:前回に返信の意図と、今後の希望について返信 削除
2021/6/15 (火) 03:22:41 旧トルコ担当

> もちろん、そういったことも重々承知です。
> ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
> しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
> もう後1年はこのことについては考えたくないです。

上の文章だと管理人さんを非難しているような文章になってしまっているので、別にそういう意図ではないということではないので、追記しておきます。

そのまま深夜テンションで色々追記してみますが、別に管理人さんの指摘していることも結構納得はしているんですよね。
ただ、それはわかるけど、何かイマイチそれだけではない気がするからこそ、どうしても管理人さんの指摘を否定的に見ようとしちゃうんですよねえ。
何が納得できないのか、は明確にはならないですが、やはりひとつには私の日々の実感とズレている、というのがあるのかなぁ。
ネット化により障壁がなくなった結果、過剰に淘汰が進んで、マニアックな世界ですらも流行っているものそうでないものの差が顕著になった、というのは確かに大いに納得するのですが、何かそれはあくまで一面的な見方な気がするんですよ。
例えるなら、SNSでバズッていることが世界です、みたいな。いや、そういう部分ももちろんあるけど、それが全てではないでしょ、という。

で、私の無い歴史知識から考察すると、現在の二極化は経済うんぬんかんぬん、みたいなことではなくシンプルにネットの浸透だと思うんですよね。
ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。
ゲームで言えば、とりあえず自分で色々ゲームをやってみて、それでハズレもありながら面白いゲームを探していくのが当然だったわけですが、今はそんな作業は不要だと。

あとはあらかた新しいことはもうやり尽くした、というのもあるんでしょうね。
ゲームで言えば、switchの話題作なんかも、かつてあったゲームの焼き直しみたいなものばっかりですし。
インベーダーから始まって、ゲームの進化と言うのを直接体験してきた世代からすれば物足りないと言う感覚は嫌という程分かるんですよね。

オタク界も20年くらい前に誕生した萌えから進化してないじゃん、と言われれば確かにそうだよなー、と思う面はありますし。
もちろん細かいところを言えば色々変化はしているのですが、それって20年分の変化としては小さいじゃん、というのはあると思いますし。

で、なまじ過去の遺産が優れているからこそ、新しいものが余計に生まれにくいと。
とりあえず萌えアニメ作っておけば、作る側も儲かるし、見る側もまあまあ面白いと。

うーん。
この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。

> 恐らく今までの感じだと、「グローバルとローカル」と言うよりも、
> 「マスとニッチ」や、「メジャーとマイナー(インディー)」の意味合いで、
> 用いている印象を受けるのですが、実際の所、どう言った意味なのでしょう?
> ちなみに仮にそうだとした場合、ニッチであれ、マイナーであれ、
> それが成り立つにも、最低限の「規模」が必要だと私は思うのですが、
> そうした規模の必要性を、旧トルコ担当さんは感じ取れてない気がしちゃうんです・・・・

> 規模というのが解り難ければ、ある程度の人の集まり(社会)と捉えても良いかも知れません。
> 実社会で言えば、「街(大都会)」と「村(集落)」みたいなモノですよね。
> どんなに村が小さくても、社会が成立するには、最低限の人数が必要であり、
> 住民が1人しか居ない村や、空き家しか無い村では、社会が成り立たないんです。
> そして文化とは、人同士の繋がりで紡ぐモノである以上、社会の存在が不可欠となります。

> 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。

いや違うな。
確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
だから不可知化なんですかねぇ、やはり。
確かにネット化によって誰でも知ってるゲームと、知る人ぞ知るゲームに二分されたと言うのはあると思います。
それがリアルな雑誌のような物を中心に情報が行き来していた時代とは違って、情報だけが動き回る時代だからこそ、小さいものは見えなくなったのかなぁ。
色々考えましたが、やはり管理人さんの二極化、特に極ローカルに関して私が考える限りでは、極ローカルは無くなったのではなく、見えなくなったのだと言うのが今のところ結論です。


[23608] ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/16 (水) 21:01:37 徳翁導誉

▼ 今までの流れの返信
> > > その上、どう説明しても管理人さんには私の見えている風景とが伝わらないので、
> > > こ〜れは管理人さんの方が間違ってるんじゃないか?と。

> > 「伝わらない」から「間違ってる」って、この2つが何故イコールで繋がるんですか?
> > それぞれ、まるで異なる概念じゃないですか・・・・
> > それをイコールで結んでしまうのは、自分中心で物事を見てしまうからであり、
> > 厳しい事を言いますと、そうした姿勢を無意識に取ってしまっているからこそ、
> > 自分では聞く耳を持ってるつもりでも、持ってないように映る原因だと思いますよ。
> > また、旧トルコ担当さんの見えている風景というのも、
> > 私なりには、それなりに理解しているつもりではいるんですよ(笑)。
> > では、何故それに賛同しないかというと、同時に他の景色も見えてるつもりだから。

> もちろん、そういったことも重々承知です。
> ですから、管理人さんのおっしゃっていることをできる限り理解しようとしましたし、
> 既に2、3回は今までの返信を全部読み返したりもしました。
> しかし、それでも全く管理人さんの指摘されている風景が私には見えてこないうえに、
> 私の言っていることが理解されているようにも思えなかったので、疲れたというのが正直なところですね。
> もう後1年はこのことについては考えたくないです。

すみません、そこまで負担が大きかったのですね。
では、この話題はここまでという事で。

> 上の文章だと管理人さんを非難しているような文章になってしまっているので、
> 別にそういう意図ではないということではないので、追記しておきます。

「そういう意図ではないということではない」だと、2重否定なので、
「非難する意図だった」と、改めて宣言する意味の文章になっちゃいますよ(笑)。
頭の中がパニック状態なのは伺えますし、この件に関しては、
「もう終了」と割り切った方が、旧トルコ担当さんも気持ち的に楽かと?

> まあ、あと結局は過去のこと知らないと何も言えない、ということに今更ながら気が付いたというのもありますね。
> 過去の動向を知らずに現在や未来について動向分析するのって、例えるのなら女の子と付き合ったことない男が
> 必死に女の子の気持ちを想像してるようなもんであって、それはたいてい的外れなわけです。

そうですね。
現在だけを見るのと、過去から通して現在を見るのとでは、やはり厚みが異なるでしょうし、
未来の事まで予測しようとすれば、過去から現在に至るデータが、やはり重要かと思います。
また、現在の同じ物事に対しても、見る人ごとに見え方は千差万別なので、
他人の事は完璧に理解するのは無理ですが、可能な限り違いを推し量ろうと努力する事でしょうね。
結局の所、「多角的な視点」というのが、最大のキーワードなのだろうと思います。

でもまあ、それって普通は、なかなか簡単な事では無いと思うんですよ。
私などは転勤族として育ち、数年単位で日本各地を転々とさせられたから、
地域ごとに異なる「常識」に対して、常に対応を強いられて身に付いただけであり、
あれこれと客観視するよりも、素直に主観で身を置けた方が、精神的にはずっと楽なはずなので。

> 何が納得できないのか、は明確にはならないですが、やはりひとつには私の日々の実感とズレている、というのがあるのかなぁ。
> ネット化により障壁がなくなった結果、過剰に淘汰が進んで、マニアックな世界ですらも
> 流行っているものそうでないものの差が顕著になった、というのは確かに大いに納得するのですが、
> 何かそれはあくまで一面的な見方な気がするんですよ。

う〜ん、「もう終了」と割り切った方が良いよ、と薦めた手前、
これ以上返信するのも、正直、どうしようか悩んでしまう部分はあるのですが、
「あくまで一面的な見方」というのは、全く以て、その通りですよ。

別に私も、一例として挙げているだけで、それが全てだとは全く思ってませんし、
更に言うと、こうして挙げてる実例や比喩は、あくまでも話を理解しやすくする為のオマケであり、
その前で述べられてる前提条件と、その後で述べている結論や考察の部分こそが、
私からすると「話の本題」なんですよね。
ですので、解説用に用いた実例や比喩の部分に、主に反応されて、
「それだけでは無い」とか「それは極端」と言われると、「そりゃそうですよ」となりますし、
そこを理解のキッカケにして、本題である前と後の話を解ってもらいたいんですよね。
要するに、「それを踏まえた上で」みたいな感じで、踏み台を使って、棚の上の話題を扱いたいのに、
どうも踏み台の方に注目が行っている印象を受け、そこで「ズレ」が生じてる気がするんです、私には。

ただ言えるのは、「私の日々の実感とズレている」というのも充分解るんですよ。
近年の風潮のように、心地良いコミュニケーションを求めるのであれば、
「こうだよね?」「うん、そうそう」と、1つの視点を認めてあげれば快適なのですが、
(ただし、「それなー」みたいな空返事は、私には却って虚しく映りますけども)
そこを敢えて、それとは異なる視点を挙げる事で、物事がより多角的・立体的に見えてきますからね。
1点だと単なる棒だったモノが、2点なら梯子となり、3〜4点なら櫓が組めるように、
安定感を増していった方が、俯瞰的に物事を見つめられますし、
逆に言うと、最初の1点を否定している訳でもなく、
別に示した1点が私の見解だと述べている訳でも無いんです。

って、こういう話をすると、また混乱させてしまうのでしょうけど・・・・


▼ オタク文化に関して
> > ただ一方で、好きという感情が感じ取れなかったという話に戻すと、
> > この前の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」に関する記述は、
> > その中では、少し熱量が溢れるのを感じましたでしょうか。
> > > > > そもそも『俺ガイル』自体が2010年代のエヴァだったと思うのですが、
> > > > > こういうのが取り上げられないのは完全に人口減少が大きいんでしょうね。
> > > > > (俺ガイル自体は1000万部越えの人気作なのですが)
> > > > > まあラノベはアニメよりも見えにくいというのもありますし、
> > > > > 近年の作品はエヴァ以上に上の世代の人が見てもわからない作品が多いので、
> > > > > そういう理由もあるのでしょうか。百合もそうですね。
> > > > > もっと精神性みたいなものが重要だから、見る側にそう言った
> > > > > 文脈みたいなものが共有されていないと理解されないわけです。

> > 何でしたら、「俺ガイルが2010年代のエヴァだ」と思われた詳細を、述べられてみます?
> > なぜ話が噛み合わないかを長々と分析されるよりは、気分的に話しやすいテーマかと(笑)。

> 書こうと思えばかけますが、というか下書きまではしたのですが、いろいろ止めておきます。

そうですか・・・・
ただ今回の事で、私の中の「気になる作品リスト」に載りましたから、
その内、まとまった時間が取れる時期になれば、
アニメの方ですけど、まとめて見てみようかな?とは考えています(笑)。

> 昔はコミケ創設メンバーの大学生たちが自分の好きな漫画を語っていた、みたいな文献を見て
> 「なんで漫画を語る、なんていうつまらないことを昔のおたく(おたく原人?)はしていたんだろう?
>  やっぱ学生運動上がりのおたく世代はよくわからんわ」と思っていたのですが、
> この年になると自分の好きな作品を語ることの面白さがようやくわかってきました。

これなんてまさに、私が前回発言した
> > オタクというのは「好きの体系化」を行う人種
に、通ずる感覚なんでしょうね。
現在では、オタクとファンの世間的な定義って、非常に曖昧になってますけども、
少なくとも、古い世代の私には、「好きを語れてこそオタク」という感じはあります。
作品を楽しんで「面白かった」・・・では、終われない人たちであると(笑)。

それと、勘違いして貰いたく無いので、念の為に言っておくと、
語り合うようなコミュニケーションは、あくまでもオタクにとってはオマケであり、
尋ねられれば語れるくらい、自分の中の「好き」を追求していくのがメインでした。
近年は、文化や社会的にも「コミュニケーション偏重」の傾向が強いですけど、
現在を基準で過去を眺めてしまうと、やはり見誤る可能性が高くなる気がします。

> なるほど、年を取るというのはこういう面白さがあるんですね。
まだ若いでしょうに、高齢者みたいな口振りになってますよ(笑)。
こういう場合は、「年を取る」よりも「大人になる」の方が適当でしょうかね?

> で、私の無い歴史知識から考察すると、現在の二極化は経済うんぬんかんぬん、みたいなことではなく
> シンプルにネットの浸透だと思うんですよね。

誤解の無いよう、念の為に言っておくと、
別に私は「経済至上主義」を述べているのでも何でも無く、
時代や地域であったり、経済・政治・文化・戦争など対象が違っても、
人間の基本的な「行動原理」、更に言えば、全ての生物の「本質」は、それほど違いは無いモノであり、
ただしその中でも、その傾向が最も端的に現れるのが、経済活動であろうから、
理解のしやすさも含めて、その話題について触れているに過ぎないんですけどね。
恐らく、小難しい事をゴチャゴチャと言ってるな、って感じに受け取られそうですけど、
実はそれ程、難しい内容の話はしていないつもりです(笑)。
興味ある話題じゃ無いかも知れませんが、それこそ初めの方で触れていた「歴史物理学」みたいな話です。

> ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。
ただし、リアルだと人々はブレーキをよく踏みがちだけど、ネットだと逆にブレーキを踏みがちなので、
どちらの方がメリットが多いか? どちらの方がデメリットが少ないか? みたいな話かも知れません。
あとは、人が集まる時のサイズ感とか、その頻度とか、密度とか、その辺の違いもあるのかなぁ?

> で、なまじ過去の遺産が優れているからこそ、新しいものが余計に生まれにくいと。
> とりあえず萌えアニメ作っておけば、作る側も儲かるし、見る側もまあまあ面白いと。

とは言え、これを創作者側から、消費者側へと視点を移すと、
今はネット配信の充実などもあって、過去の名作に触れられる機会も断然増えていますし、
新作だろうが、旧作だろうが、個人レベルからすれば、良い作品は良い作品な訳で、
そういう意味では、決してマイナス面ばかりでも無いんですよね。

実際、私自身も、録画したっきり未見だった作品を、配信キッカケで一気見して、
「評判通りに名作だったな」と感じた事は、ここ1年でも何度かありましたので(笑)。
ただ、本放送時に週1話ペースで視聴するのと、再放送で毎日1話ずつ視聴するのと、
配信やソフトなどで一気に視聴するのとでは、同じ作品を見ても、やはり違ってくるでしょうね。
そういう意味では、リアルタイムの新作って、良くも悪くも視聴に心的な負荷が掛かかりますし、
自分の年齢や精神状況、社会の環境や制作年代などでも、視聴しての感じ方が変わってくると。

> うーん。
> この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
> 例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。
> > 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> > そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> > 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> > 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> > 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> 確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、
> でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。
> いや違うな。
> 確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
> だから不可知化なんですかねぇ、やはり。

前回、お互いに異なる「オタク」の定義についての話をしましたけども、
そもそも論として、私と旧トルコ担当さんとの間で、
「幅」もそうですし、「文化」もそうでけど、
それぞれ異なる定義をしているであろう事を、旧トルコ担当さんは気付かれてます?


▼ ラノベの歴史について
> > ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> > 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> > なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
> > それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> > アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> > 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> > 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> > そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。

> この辺のラノベ史は勉強になりました。
> 現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、
> やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?

それこそ、「スレイヤーズ」の刊行が1990年ですので、
ラノベが「90年代初期に誕生」というのは、歴史の文脈的には正しいのでしょうけど、
何事でもそうですけど、一気にバッと転換するのでは無く、ジワジワと変化するものですからねえ。
そういう意味では、上記の戯れ歌のように、ラノベの道を切り開いたのが「スレイヤーズ」であり、
その道を広げたのが「ブギーポップ」で、道を舗装したのが「涼宮ハルヒ」だと考えています。
で、世間的に言うと、やはり舗装道路の開通というのが、最もインパクトが大きいモノであると。

そういう意味では、現在のラノベっぽくなるのは、00年代の前半でしょうし、
90年代の頃は、人気漫画のノベライズ版とかは既にあったので、
当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。
逆に言うと、原作があれば予備知識を元に、文章だけでも世界観を思い浮かべられますが、
原作なしのオリジナルだと、その世界観を補完するイラストの存在が不可欠であり、
そして、キャラデザ付きのアニメ脚本みたいなモノなので、いざ映像化するにも適していると。

> 一般に00年代前半にラノベブームが起きたなどと言われますが、
> ライトノベルの出版部数は90年代から大きな変化はなく(『ライトノベルの現状と将来』)
> ・それまで雑多であったライトノベル、ヤングアダルト、ジュブナイルなどの名称が
>  ライトノベルにおおよそ統一された(『ライトノベルから見た少女/少年小説史』)

上記の続きの話となりますが、「ライトノベル」という名称に統合されたのは事実ですが、
漫画の小説版として派生したラノベと、小説の青少年版として続いてきたジュブナイルとでは、
そもそも系統が異なりますので、統合された後、ラノベの1強状態になったのが、実像に近いかな?
それと、「90年代から大きな変化はなく」というのは、正直疑問符。
まあ、ラノベをどう定義するかで数値も変わりますし、
ラノベ界隈のデータが詳細に録られ始めるのは、2010年くらいからなので、
明確に示すのは難しいものの、やはり2010年頃までは右肩上がりだったと思います。

> ・90年代のラノベを読んでラノベを書き始めたライトノベル世代が作家として登場した(『ライトノベルよ、どこへ行く』)
これは完全に、私自身が昔から抱いているイメージなのですが、
恐らくラノベの原点って、「絵が描けない人が書く漫画」だったと思うんですよ。
それこそ80年代後半は週刊少年ジャンプの黄金期であり、刺激された子供たちは多かったものの、
漫画だとストーリーの全てを絵で描かねばならず、それはアマには非常に高いハードルでした。
(ノートに鉛筆で描く程度ならまだしも、ペン入れやトーン貼りは道具も技術も要するので)
でも文章であれば、絵よりも容易に書けますし、表紙絵や挿し絵くらいなら頑張れもします。
そして商業作品のレベルとなれば、イラストは別の得意な人に頼めば良いですし、
漫画の原作&作画の分業作業に比べれば、ラノベの方がずっと分業に向いてる気がします。

あと、少し話題は逸れますけど、「絵を描くハードルの高さ」に関連して、
アマでも本格的に描く人の数は、一昔前に比べると、かなり増えた印象があります。
まあこれは、ネットの発達により、アマの絵に触れる機会が圧倒的に増えた事もありますが、
その他にも、絵を描くという行為が、アナログからデジタルに移行したのも大きいかも?
それこそ、絵を描くハードルが下がったんですよね。
ただ一方で、プロも御用達だった高級色鉛筆「三菱ペリシア」のような画材が、
生産中止に追い込まれたりする事例は、従来の絵描き層からすると厳しい現状に・・・・

> ・出版産業が順調に部数を減らしていく中で、ライトノベルだけは出版点数は減少しなかったため、
>  相対的に出版業界の中でのライトノベルの存在感が増した

これに関しては概ね、その認識で間違ってないかと、私も思います。
出版不況が叫ばれて久しい現在、一時の勢いは無いものの堅調なラノベは、
相対的に見ても、出版業界での存在感が増しているのは事実なのでしょう。
(ただ、読者層があまり入れ替わらず、そのまま高齢化の傾向にあるとも聞きますが)
ちなみに、これに関してはマンガの単行本についても言えるかな?
連載されてる週刊誌の売り上げは落ちてますが、単行本で読む層の増加で、
マンガの売り上げは堅調と言いますか・・・電子版も含めれば、増えているんですよね。
ただ、こちらでも、売れる一部の作品が異常に売れる状況が現れていると・・・・

> ・ラノベの内容が90年代のファンタジーブームから学園モノへトレンドが入れ替わった
> これらの要因の結果、ライトノベルがブームを起こしているように錯覚させ、
> その結果誕生したのが00年代のライトノベルブームだと認識しているのですが、実際どうだったのでしょう?
> 確かに90年代のラノベってファンタジー物中心ですし、興味のない人から見れば
> ライトノベルというよりゲーム小説とかそういった認識だったのでしょうか?

前述の「ラノベは漫画からの派生」という説を続ければ、
学園モノが中心になっていったのも、頷けると思うんですよね。
そもそも漫画において学園モノは、最大ジャンルとも言えますので。
ちなみに、学園モノが最大ジャンルに為り得たかと言うと、
画一化された戦後日本の教育カリキュラムにより、
世代・地域・偏差値などに関わらず、どの学校でも似たような行事が行われ、
それが大人も子供も共通体験として持っている為、ターゲット層が異様に広いんです。
これほど幅広い共通体験のあるジャンルって、他にはちょっと思い浮かびませんからねえ。

また、あまりにも「ライトノベル≒ラノベ」のイメージが強くなってしまった為、
今ではファンタジー系の作品を、ライトノベルとして認識してない事情もあろうかと?
それこそ、21世紀に入って最大のヒット作は、ハリーポッター・シリーズでしょうけど、
児童文学である あの作品は、昔ながらのジュブナイルと見なすのに違和感は無くとも、
ラノベ・イメージが強い、現在のライトノベルと見なすのに、違和感を抱く人は多いと思います。

あと、中世ヨーロッパ風なファンタジー世界観の原点は、恐らくアメリカ発であり、
日本において大きかったのは、多分、ファミコンの「ドラゴンクエスト」なんですよ。
もちろん、海外作品の翻訳本や、それに影響を受けた日本語作品を楽しむ層は居たでしょうけど、
そうしたファンは少数派で、やはり大ヒット・ゲームの存在が一番だったと。
で、ドラクエという作品は、その誕生時から、週刊少年ジャンプと深い関わりがありまして、
「メディア・ミックス」という用語が普及する、ずっと前から、
ゲーム・マンガ・アニメ・ノベルスを巻き込んだ、巨大なメディア・ミックスだったんです。
そういう意味では、ゲーム小説がファンタジー系なのも、当然と言えば当然なのかな?
とは言え、当時のノベルスの市場というのは、今とは比べ物にならないくらい小さかったかと。

で、ついでに語りますと、そうやってドラクエが築いた(欧米から輸入した?)
ファンタジー作品の「お約束的な世界観」というのが、一般的にも広まりまして、
それを踏まえた作品が、次々とゲーム・マンガ・アニメ・ノベルスで誕生したのですが、
そうした「お約束」を破る作品として登場したのが、例の「スレイヤーズ」だった訳です!!
言うなれば、既存の王道路線に反抗した、新たな邪道路線の誕生であり、
その斬新さは、それこそ中二病年代の心を鷲掴みにしていきます(笑)。
ただ、こうした邪道路線は「破壊」行為なので、新機軸はドンドン先細りますし、
王道あってこその邪道なので、王道作品の人気が落ちると、遅れて邪道作品の人気も落ち、
先鋭化で生き残りを図ると、ターゲット層がみるみると狭まって行くんですよね・・・・

そうなると今度は、過去の名作の良い所取りをして、今風にアレンジしたり、
お約束を土台に、何か特徴的なアイテムを付け加えたりなど、無難路線に落ち着いていくと。
なろう系の最大ジャンルである異世界転生モノが、ほとんど大喜利的な状態となり、
同じ1つの お題を元に、如何に他作品との違いを見せられるかの争いになっているのも、
そうした傾向の典型例だと思うんですよね。
このような無難路線は、消費者側には負担が少なく、多くの良作を生み出す反面、
枝葉の方法論に終始してしまい、革新的な傑作は なかなか生まれ難い気がします。
でもまあ、どんな分野も一旦成熟してしまうと、新しく切り開くのは困難なモノですけどね。
だからこそ逆に言えば、その分野が新たに始まったとき程、最も活気に満ちてるとも言えますが。

P.S.
最後に、御存知かも知れませんけど、
12年前に私がアップした、ラノベの人気ランキング動画を紹介。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm6231914
10年以上も時間が経過すれば、これ自体も既に歴史ですね(笑)。


▼ 輝かしい未来像と現実とのギャップ
> クレヨンしんちゃんのオトナ帝国の逆襲(2001年)は見ていますか?
はい、もちろん見てますよ。
と言いますか、当時はネット上で布教活動とかしてました(笑)。
クレヨンしんちゃんと言う、子供向けのアニメでありながら、
原恵一の「オトナ帝国」と「戦国大合戦」に関しては、
子供の引率で仕方なく見てる父親を、完全に狙い撃ちにした作品でしたからねえ!!
宮崎駿の「カリオストロの城(ルパン3世)」や、
押井守の「ビューティフル・ドリーマー(うる星やつら)」と同様、
既存の人気作を利用して、監督が自分色に描き上げてしまったという点では、
傑作に仕上がった正の面と、原作を自慰に用いた負の面とがあり、当時から侃々諤々でした。
(ちなみに私個人は、「素晴らしい作品だよ! クレヨンしんちゃんでは無いけどw」という評価)

> あれって、20世紀生まれの大人たちが「かつて未来はもっと輝いていた」と言ってるんですが、
> 実際輝いていたはずの21世紀が「案外しょぼいな」ってなった理由って、
> 失われた10年や少子高齢化などの日本的な要因と、科学技術の進化が案外しょぼかったという要因と、
> どっちが大きかったのでしょうか?

まず始めに、オトナ帝国で描かれてる元ネタは、1970年の大阪万博なので、
私からしても、2周りくらい上の世代の話ですね(笑)。
当然ながら、私自身も生まれていません。
そして、万博当時の「科学万能主義」は あの頃がピークで、次第に熱から冷めていくので、
それが潰えたのは、平成に入るよりも ずっと前の時代です。
既に当時から、数々の公害問題が、人々に健康被害を及ぼし始めていましたし、
1973年に第1次オイルショックが起こり、経済成長の熱狂から一時的に立ち止まった際、
科学主義がもたらした負の側面に、改めて気付かされた・・・という展開だと聞いています。

ただし万博当時は、ライト兄弟の初飛行(1903)から、アポロ11号の月面着陸(1969)まで、
わずか66年で成し遂げてしまった時代であり、その成果の発表の場こそ、あの万博でしたから、
人々が純粋に「科学技術による輝かしい未来」を夢見たのも、そう不思議では無い気はします。
また、実際の所を言うと、科学自体には善も悪も無く、それを用いる人類次第なのであり、
そして人類は、経済優先で自然環境を蔑ろにした為に、公害問題が生じるんですよね(苦笑)。
例えば福島の原発事故にしても、科学的には事故を起こさない技術を持っているのですが、
経済的な都合から対策のラインを引き、あの震災がその想定を超えてきたのと同じ事かと。

あとは、「技術はあっても、資金がない」という問題もありますね。
例えば、核分裂の発見(1938)から、日本への原爆投下(1945)まで、
わずか7年しか掛からなかったのも、1939年に始まった世界大戦の時代だったからで、
上述の宇宙開発競争も、米ソ冷戦の代理戦争という側面があったからですね。
要するに、経済利益よりも戦争勝利が優先される、非常事態の時代であったからだと。
ですが70年代になると、ソ連の月面着陸断念で、宇宙開発競争はアメリカの勝利に終わり、
(あのまま続いていれば、火星への有人飛行も既に実現していた可能性は高そう)
軍事方面でも、米ソは「デタント(緊張緩和)」の時代を迎えた事で、
利益を生まない資金投入に疑問の目が向けられ、科学発展にブレーキが踏まれた面はあったかな?

60年代までは、日本ほどでは無いにせよ、先進国は経済発展を続けていましたが、
70年代になると停滞から低迷の時代となり、新自由主義的な経済政策が唱えられ始め、
80年代には、ソ連の軍事力よりも、日本の経済力の方が、アメリカにとって脅威と見なされて、
アメリカではレーガン大統領の、イギリスではサッチャー首相の誕生となります。
そして、1985年に結ばれたプラザ合意により、円高ドル安の傾向が強まると、
日本経済はバブルを迎え、「Japan as No.1」などと呼ばれて、アメリカを追い越す勢いとなり、
万博当時とは違った形で、日本人たちは「夢の未来図」を思い描くのですが、
バブルは崩壊し、その後に失われた平成の30年間を経て、このまま凋落の時代を迎えそうと・・・・

まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。

という事で、凄く遠回りをしてしまいましたが(笑)、
旧トルコ担当さんの問いに答えますと、
1970年頃に抱かれた未来像が潰えたのは、「科学技術の進化」が滞ったのが要因でしょうし、
1990年頃に抱かれた未来像が潰えたのは、バブル崩壊後の「失われた10年」が要因でしょうし、
「少子高齢化」が要因として現れるのは、これから迎えるであろう令和の凋落期においてです。
いや本当、ここ10年の日本の凋落ぶりは目を覆うばかりでしたが、
これからの10年20年で体験する凋落の程は、その比では無いと思われるので・・・・
確かに未来予測は困難なものの、人口統計に基づく予測は、それなりに可能ですからねえ。
人口が減り、子供たちが居なくなる中、老人ばかりが増えるのは、やはり将来的に厳しいですよ。

また、前回述べた、2000年頃に抱かれたネットの未来像が潰えたのは、
現象的に言うと、皆で多くの情報を共有し合う社会を思い描いていたのに、
実際は、GAFAのような超巨大企業が情報を独占する一方で、
ネットが大衆化する事により、心地良さが優先され出したって事なのでしょうけど、
2chやニコニコ動画に続くネットの新コンテンツが、日本から現れなっかたのは、
意外と、リーマンショックや東日本大震災で落ち込んだ、日本経済に遠因があったのかも?
いや、これに関しては、いま書いてて、ふと思い浮かんだだけで、全く考察とかしてませんがね。


[23620] Re:ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/18 (金) 21:03:35 旧トルコ担当

▼ 今までの流れの返信

> > ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> > ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> > 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

> いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
> それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
> 鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
> リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。


まあ人生何十年過ごしてからSNSが出てきた世代では「そんな簡単に変わるモノでは無い」のでしょうが、若い世代であればあるほどSNSの影響は大きいかと?
それこそ、周囲の大学生にも本当にSNSで流行ってるゲームしか遊んでない人とか普通にいますからね。
それに比べれば、SNS以前はゲーム屋でゲーム眺めているだけでも未知のタイトルがバンバン目に入ってきたわけですから、オタクでなくとも知識を体系化した、というのは表現は大げさだったかもしれませんが、あまり変わっていないということはないかと?
それこそ自分はまだネット以前のローカルな情報の入手の仕方も知っている世代ですが、これがあと5歳10歳下の世代だと、完全にSNSが最初の体験になっている世代ですからねえ。

> > うーん。
> > この違和感はいわばバズリ至上主義への違和感なんでしょうかね。
> > > > > 選択肢の豊富さ、という点では考えるまでもなくこの30年というのは大きく進歩したと思うのですが。
> > > > その「選択肢の豊富さ」というのは、数の事ですか? 幅の事ですか?
> > > > 「考えるまでもなく」との事ですけど、改めてキチンと考えてみましょうよ。

> > この文章で言えば、いや数であっても幅は幅でしょ、ということになるのでしょうか。
> > 例えば私自身、ニコ動で好きな動画を10個選べ、と言われたら、その半分は再生回数1万未満の動画になるんですよ。
> > > 要するに、人知れず存在するだけでは、ニッチにもマイナーにも成り得ないんですよ。
> > > そして、ニッチにもマイナーにも成り得ない存在は、悪いですけど私には「数」としか映らないと。
> > > 逆に言うと、数以外の「価値」なり「利点」を具体的に示して戴ければ、素直に納得できます。
> > > 何度も言っていますが、別に私も、否定したいが為に論じている訳ではなく、
> > > 却って、求めてるのに見つからないからこそ、寂しがっている訳なので。

> > 確かに限界集落未満の集落はもはや村ではないのかもしれませんが、
> > でもそういったものが大好きな人間からすれば、数と言われるのは複雑なんですよね。
> > いや違うな。
> > 確かに文化なんですよ。その要件を満たしうるだけの人口を抱えているはずなんですよ。
> > だから不可知化なんですかねぇ、やはり。

> 前回、お互いに異なる「オタク」の定義についての話をしましたけども、
> そもそも論として、私と旧トルコ担当さんとの間で、
> 「幅」もそうですし、「文化」もそうでけど、
> それぞれ異なる定義をしているであろう事を、旧トルコ担当さんは気付かれてます?


はい、気づいていますよ。といいますか、その文化の定義のズレの話は前に私もしたと思うのですが。
と思い、当該部分を探してみましたが、確かに非常にわかりずらい説明になっていました。

> > はい、投げやりな対応だとか、そうで無いのは解ってますよ(笑)。
> > まあこの辺は、私が理系の人間という事もあり、
> > 「言葉の定義にうるさい」って面があるんだと思います。
> > 普通はもっと、フワッとした感じで言葉を用いてるでしょうからね。
> >
> > ただ、感想なら主観で書けますけど、論評となれば客観性が不可欠でしょうし、
> > 世間一般の感覚だと、そんなのは「面倒な事」と捉えられるにしても、
> > そこを突き進むのが、学問やオタクの世界だろうと個人的には考えています。
> > 別の言い方をすれば、主観的な「好き嫌い」と、客観的な「良い悪い」を、
> > キチンと分けて考えられるか否かって感じですかねえ?
> > 個人的に楽しむだけなら、「好き嫌い=良い悪い」でも構わないのですが、
> > オタクを自称する以上は、それではダメかな?と。
> >
> > 「文化」の意味というのは非常に広いので、ちょっと説明が難しいのですが、
> > 例え話を用いるとすれば、1つ1つの「学校」みたいな単位でしょうか?
> > そして、その地域の学校群みたいな存在が「文明」であり、
> > 学校内のクラスや部活などの組織が、文化の中の「小さな文化」と言って良いかも。
> > 言うなれば、日本文化とかフランス文化とかが、それぞれの学校単位のようなモノで、
> > その大きな集合体として、東アジア文明や西ヨーロッパ文明みたいなのがあり、
> > 学校に相当する日本文化の中に、クラスに相当する和食文化だったり、
> > 部活に相当するアニメ文化があったりするイメージですかね。
> > ちなみに、ここで用いたクラスと部活の使い分けは、
> > クラスは基本的に学校内で完結する組織であるのに対して、
> > 部活というのは、サッカー部とか野球部とか他校との横の繋がりもある感じ。
> > メイン・カルチャーとサブカルとかは、運動部と文化部くらいの枠組みに相当するかな?
> >
> > で、これまでの書き込みで、旧トルコ担当さんがおっしゃっていた「文化」の対象は、
> > それよりも小さく、個々の生徒であったり、仲良しグループくらいの単位に見えたので、
> > 「それは学校や部活とは同規模じゃないでしょ!?」となった訳ですね。
> > ここで言う生徒は「作品」に相当し、グループは「ジャンルや傾向」に相当するでしょうか。
> > 言ってしまうと、例えば近年は、商業高校や工業高校などが次々と無くなり、
> > 「どこもかしこも似たような普通科高校ばかりになってしまった」と話してる時に、
> > 「でも私のグループには、○○君が加わって雰囲気が一変したよ」と返されても、
> > 「いや、そういう話をしているんじゃないから・・・」となる感じですかねえ?
> > これはもちろん、生徒がどうこうとか、グループがどうこうという話ではなく、
> > それこそ繰り返してになってしまいますが、対象とする規模の違いがあると。
> > まあ確かに、生徒個々に凄い人が居たり、グループでまとまり行動したりなど、
> > それだけで何かを生み出す場合には、その規模でも「小さな文化」と呼べるケースはありますが、
> > やはりそれは特異な例だと思うので、基本的にはそぐわないでしょうね。
> >
> > ・・・って、こんな例え話で、どれだけ伝わるモノか、
> > 自分でもちょっと自信が無いですけども(苦笑)。

>
> いえいえ、その例えで凄くしっくりきました。
> 今まで何となく自分で感じていたことともつながったので少し話させてください。
>
> 例えば学校なのですが、昔と比べて何となくクラスというつながりが弱くなったと思うんですよね。
> もちろん私は教師でも何でもないので、昔の学校はマンガに出てくるくらいしか知りませんし、根拠には乏しいのですが、でもそこまで外れた見方でもない気がしています。
> 例えば、かつては学校内でもオタクは肩身の狭い思いをしたらしいのですが、私の学生時代には結構そういうものが許容されているというか、否定されないんですね。
> もちろんそれは我々にとっては良い時代になったという感じですし、その理由はオタクのイメージ改善にもあるんだと思うのですが、一方で同じクラスメイトのオタクグループに対する関心が昔に比べて薄れているというのもあると思うんですよね。
> なんというか、平和共存という言い方もできますが、それ以上に無関心・不干渉によってオタクは許容されていると。
> それはオタクグループと一般グループの間での距離が離れてきているいうだけでなく、なんとなくみんな自分の仲良しグループ以外には関心を持たなくなってきているというか。
> 個人レベルでも、例えば最近はリア充オタクというオタク的には許せない存在がいまして(w)、私のクラスにもスクールカースト上位なんだけどガチの腐女子みたいな子がいたんですけども。
> そういう女の子がカースト上位にいるのも、多様性の肯定でみんな優しくなっているともいえるのですが、なんというか、その女の子が学校外でどういう存在で、どういうことをしていようと、みんな関心がないといいますか。
> マンガもそうだと思うんですよ。
> かつてのマンガ雑誌の時代と比べて、平成のマンガ単行本時代というのは自分の好きなマンガ以外に見向きもしなくなった時代だったと思うんですよ。
> そしてその傾向はネットマンガ時代になってより顕著になったと。
> YouTubeやSNSなどに関しては言うまでもないですよね。


再度説明すると、管理人さんが「文化=一つの学校のようなもの」と定義しているのに対して、私は「現在の文化=学校の乱立(分国)」だと考えているんですよね。
上記の説明では学校文化の話と混ぜてしまったので分かりにくくなってしまっているのですが、学校内でも多様性の名の下でクラスメイト同士の接触が減ってきているのと同様に、文化もまた異文化同士の接触が減っているといいますか、
そうした状況で「文化=一つの学校」と捉えると色々問題があるのではないか、というような趣旨でした。

▼ ラノベの歴史について

> > > ・・・って、そんな話をしていたら、ついつい、
> > > 「リナがつき、ブギーがこねしラノベ餅、座りしままに食うは涼宮」
> > > なんて戯れ歌を、10年以上前の雑談↓で書いたのを思い出しました(笑)。
> > > http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=r7034
> > > それまでは、ジュブナイルと呼ばれていた若者向けの小説が、
> > > アニメ風の表紙絵と挿し絵を入れ、「ライトノベル」と呼ばれるようになり、
> > > 書店の一角にコーナーができ、存在感を表し始めたのが2000年前後頃で、
> > > 2010年くらいまで、年々売り場スペースを拡大させていった印象かな?
> > > そしてここ10年では、なろう系の存在感が際立つと。

> > この辺のラノベ史は勉強になりました。
> > 現在のラノベにあたるものは90年代初期に誕生した、というのが私の認識だったのですが、
> > やはり90年代ラノベはあまりラノベっぽくなかったのでしょうか?

> それこそ、「スレイヤーズ」の刊行が1990年ですので、
> ラノベが「90年代初期に誕生」というのは、歴史の文脈的には正しいのでしょうけど、
> 何事でもそうですけど、一気にバッと転換するのでは無く、ジワジワと変化するものですからねえ。
> そういう意味では、上記の戯れ歌のように、ラノベの道を切り開いたのが「スレイヤーズ」であり、
> その道を広げたのが「ブギーポップ」で、道を舗装したのが「涼宮ハルヒ」だと考えています。
> で、世間的に言うと、やはり舗装道路の開通というのが、最もインパクトが大きいモノであると。
>
> そういう意味では、現在のラノベっぽくなるのは、00年代の前半でしょうし、
> 90年代の頃は、人気漫画のノベライズ版とかは既にあったので、
> 当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
> 実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
> ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
> 表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
> しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。
> 逆に言うと、原作があれば予備知識を元に、文章だけでも世界観を思い浮かべられますが、
> 原作なしのオリジナルだと、その世界観を補完するイラストの存在が不可欠であり、
> そして、キャラデザ付きのアニメ脚本みたいなモノなので、いざ映像化するにも適していると。


> これは完全に、私自身が昔から抱いているイメージなのですが、
> 恐らくラノベの原点って、「絵が描けない人が書く漫画」だったと思うんですよ。
> それこそ80年代後半は週刊少年ジャンプの黄金期であり、刺激された子供たちは多かったものの、
> 漫画だとストーリーの全てを絵で描かねばならず、それはアマには非常に高いハードルでした。
> (ノートに鉛筆で描く程度ならまだしも、ペン入れやトーン貼りは道具も技術も要するので)
> でも文章であれば、絵よりも容易に書けますし、表紙絵や挿し絵くらいなら頑張れもします。
> そして商業作品のレベルとなれば、イラストは別の得意な人に頼めば良いですし、
> 漫画の原作&作画の分業作業に比べれば、ラノベの方がずっと分業に向いてる気がします。


「原作漫画を持たないノベライズ版」という表現はしっくりきました。
一応、ライトノベルの源流はアニメのノベライズ(冨野監督自身が執筆したガンダム小説など)に源流があるらしいのですが、アニメだけでなく漫画のノベライズというのもあったんですね。

あとラノベの高齢化については、確かに中高生向け小説というレンズを通してみれば「冴えない30代の社会人が主人公」なんていう状況は高齢化に見えますが、
ラノベ=オタク文化という視点で見れば、アニメだってゲームだって高齢化してきたわけであって、ラノベの高齢化というのは何だかんだでオタク文化をわかってない文学系の評論家が騒いでいるだけだと思っています。偏見交じりではありますが。

▼ 技術発展について

> まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
> 60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
> 80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
> 科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
> 資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
> 人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
> それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
> そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
> 火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。


うーん、その辺はどうなのでしょう。カネの問題なんですかね?
まあ私は理系知識に関しては本当にさっぱりなので、管理人さんの言っているほうが正しいのだと思いますが、例えば火星への有人宇宙船を着陸させて、それが人類の生活にどう役立つのでしょうか?
結局宇宙に莫大なカネを投じていったとしても、特にイイことはないというのがバレてしまったからこそ、宇宙開発って停滞してるんじゃないですかね?
原子力に関しても、SFオタク世代のおじさんに聞いた話では、研究する前はできると思っていたことが、研究すれば研究するほど難しいことがどんどん分かってしまった、というのが原子力だったらしいのですが。
むしろ現代の問題って、技術開発に投じれるカネはあるけど、簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術はあらかた開発し尽くしてしまった、というのが現代の停滞の本質なんじゃないですかね?


[23624] Re2:ラノベの歴史に関して返信 削除
2021/6/22 (火) 21:51:08 徳翁導誉

> > > ネット以前と言うのはそれこそオタクじゃなくても、
> > > ある程度物事に関して自分で知識を体系化するのが当然だったわけですが、
> > > 今はSNSのトレンドだけ追いかけておくのが一番効率的になった、ということでしょう。

> > いや〜、これはネット以前の人々の事を、買い被って高評価しすぎと言いますか、
> > それこそ人間なんて、そんな簡単に変わるモノでは無いですよ(笑)。
> > 鵜呑みにする情報源が、マスコミからネットに替わったとか、
> > リアルの口コミから、SNSの口コミに替わったとか、その程度の話です。

> まあ人生何十年過ごしてからSNSが出てきた世代では「そんな簡単に変わるモノでは無い」のでしょうが、
> 若い世代であればあるほどSNSの影響は大きいかと?

結局、今までのズレの大部分は、この一文にも集約されているんですよね(笑)。
「そんな簡単に変わるモノでは無い」というのも、
私は人類史的に語っている一方で、旧トルコ担当さんは個人史的に語っているので、
同じ変化量でも、人類レベルでは小さな変化だが、個人レベルでは大きな変化であり、
それ自体は別に、どちらが間違っているというような話でも無いと。
そういう事で、この辺の話題はもう良いかな?って感じはあります(笑)。
結局、双方が互いに異なる立ち位置から語ってるだけですし。

> それこそ、周囲の大学生にも本当にSNSで流行ってるゲームしか遊んでない人とか普通にいますからね。
> それに比べれば、SNS以前はゲーム屋でゲーム眺めているだけでも未知のタイトルがバンバン目に入ってきたわけですから、
> オタクでなくとも知識を体系化した、というのは表現は大げさだったかもしれませんが、
> あまり変わっていないということはないかと?
> それこそ自分はまだネット以前のローカルな情報の入手の仕方も知っている世代ですが、
> これがあと5歳10歳下の世代だと、完全にSNSが最初の体験になっている世代ですからねえ。

考えてみれば、「TSUTAYAでDVDを借り、ゲオでゲームソフトを買う」などといった
リアルに「物品」をやり取りする行為って、今の子供たちの感覚には乏しいかも?
実際、ウチの5歳の甥っ子も、テレビ放送ではなくネット配信でドラえもんを見てますし(笑)。
でもまあ、逆にオッサン世代からすると、TSUTAYAやゲオみたいに、
チェーン店が全国を席巻するような状況自体が、今世紀に入ってからの事なので、
「TSUTAYAでDVDを借り、ゲオでゲームソフトを買う」事自体が、最近の話であると(笑)。

また一方で、今の小学1・2年生は、コロナ対応じゃない学校生活を知らないんですよね。
そういう意味では、このコロナ禍が長続きするようだと、そこでも世代の壁が現れるかも?
コロナ前の生活に慣れ親しんだ層には、コロナさえ収まれば、前の生活に戻る意識で居ますけど、
コロナ後の生活が当然となった層が生まれれば、戻る事が必然とは言えなくなってしまいます。
それに、普及は将来的に見られていたリモート分野などは、これを期に一気に進みましたからね。
「アフター・コロナ」で、社会が実際どう変化するかは、まだまだ未知数な要素が多いかと。


> > 当時のラノベというのは、「原作漫画を持たないノベライズ版」みたいな印象でした。
> > 実際、私の通ってた書店では、漫画コーナーのノベル棚に並んでた記憶があります。
> > ジュブナイルなど、従来からある青少年向け小説との違いは、
> > 表紙や挿し絵に、漫画風(アニメ風)のイラストが用いられた事であり、
> > しかも、そのイラストが作品の世界観に欠かせない程、重要な存在であったのが特徴ですね。

> 「原作漫画を持たないノベライズ版」という表現はしっくりきました。

まあ、私の個人的な見解ですけどね(笑)。

> 一応、ライトノベルの源流はアニメのノベライズ(冨野監督自身が執筆したガンダム小説など)に源流があるらしいのですが、
> アニメだけでなく漫画のノベライズというのもあったんですね。

そもそも論として、各業界分野が明確に分かれていた昭和の時代において、
漫画も小説も、同じ「出版社」という業界が取り扱う縄張りでしたからね。
やはり、そうした点の親和性というのは高かったと思いますよ。
梶原一騎の例を引くまでもなく、昔から漫画原作者という人たちは居ましたし、
彼らが単独で作品を発表すれば、それはまさしく小説になるので。
と言いますか、昔の声優は、舞台役者からの流入組(兼業)が多かったように、
昔の漫画原作者というのも、小説家からの流入組が多かったんじゃないですかねえ?
舞台や小説の方が歴史的には古く、売れてないが実力のある人材も相応に居たでしょうから。

> あとラノベの高齢化については、確かに中高生向け小説というレンズを通してみれば
> 「冴えない30代の社会人が主人公」なんていう状況は高齢化に見えますが、
> ラノベ=オタク文化という視点で見れば、アニメだってゲームだって高齢化してきたわけであって、
> ラノベの高齢化というのは何だかんだでオタク文化をわかってない文学系の評論家が騒いでいるだけだと思っています。
> 偏見交じりではありますが。

う〜ん、個人的には、オタク文化界隈からの声のような気がするんですよね。
実際、それ以外の大部分の人たちからすれば、ラノベという存在自体の認識が希薄なので、
わざわざ、そうして騒ぐような機会も少ないと思いますし・・・・
簡単に言えば、別に興味も無い世界の話題を、普通は話そうとも思わないと(苦笑)。

そういう意味では、それこそ前回も言いましたけど、
ラノベの人気が高まりだしたのは、ここ20年あまりの話ですし、
特に00年代の頃は、ラノベというジャンルがグイグイと成長していた時代でしたから、
それにハマる若者の比率は今よりも高く、そして熱かったものと充分に推測できます。
まあでも、今も昔も、ラノベを読む若者よりも、読まない若者の方が多数派でしょうし、
そんな中でも現在と比べれば、やはり読んでる比率は00年代の方が高いと思うんです。
しかも、当時と現在の若者数の差まで考慮すれば、絶対数は確実に00年代の方が多いはずで、
その内の何割が未だに読者かは解りませんけど、一定の客数が居れば、それに合わせる作品も増え、
そうなれば卒業率も下がりますから、必然的に平均年齢は上がっていく事になると。

これは何もラノベ業界だけに限らず、あらゆる業界で似たり寄ったりの現象は起きているはずです。
例えばJリーグとかは、そのあたりのデータが豊富に揃っているコンテンツですけど、
サポーターの高齢化というのは、数値として明らかに見て取れますからねえ。
でもまあ、冷静に考えれば、それも当然と言えば当然で、
1993年のJリーグ誕生ブームやドーハの悲劇に、2002年の日韓W杯、
そして00年代に各地で生まれた「おらが町のチーム」の成長ストーリーを、
若者時代に直撃した人たちは、やはりファン層の中核を為しますよ。
それは、今の若者がサッカーを見ないという以上に、彼らが特別な経験をした世代なんです。
しかも繰り返すように、当時の若者は、今の若者よりも絶対数が多いと。
そうなれば必然的に、高齢化は進んでいきますよ(日本自体が高齢化している訳ですし)。
その上、現在では有料チャンネルや有料配信が増え、収入面は膨らみましたけど、
反面、これは新たなファン層を開拓する意味では、大きな障壁となっているのも事実です。

・・・って、この辺りの話になると、ラノベとはまた異なる事情になってくるかな?(笑)
とは言え、これだけリアル書店が減ると、ラノベを手に取る機会も減ってたりするのかなぁ?
もしくは、売れ行き自体は変わらなくても、アニメ化などで有名になった
一部の作品のみが過度に売れるような現象は、起こっているような気がします。
言うなれば、本屋で何となく選ぶのではなく、もう買う本を決めて本屋に行っていると。
もっと言えば、リアル書店ではなくAmazonであれば、その傾向は更に顕著でしょうね。
「ジャケ買い」なんて単語は、半ば死語になっていると思いますし(苦笑)。
いや、でも全体的に見れば、ジャケ買いが最も生き残ってる分野こそ、ラノベなのか!?
タイトルと表紙絵で釣るのは、良くも悪くもラノベ商法の王道でしたので。

ちなみに余談ながら、90年代までは、サラリーマンだと大体、
「歴史小説」や「時代小説」を読むという習慣がありました。
まあ、多くの人が喫煙をし、麻雀やゴルフをして、巨人戦を見てたのと同じで、
そうする事で共通の話題を持て、社会人の「たしなみ」の如く見なされていたと。
司馬遼太郎・吉川英治・池波正太郎などなど、まさにバカ売れしてました。
また、それとは別に「ミステリー小説」とかも、凄く売れてましたよね。
もちろん、今でも人気作家は数多くいますけど、ちょっと次元が異なりますし、
戦後の「娯楽小説を読む」という文化が、今からは想像が難しいほど色濃くあったと思いますよ。
実際、それまではスポーツ一辺倒だった私の読書歴も、歴史小説から始まっていますので。
http://tokuou.s500.xrea.com/cgi/kjbn/kjbn.cgi?tree=c22815

そういう意味では、活字(長文)と社会が、今よりもずっと近い存在でしたし、
1992年に出版された「磯野家の謎」という、サザエさんの考察本は、
200万部を超える社会的な大ヒットを記録しました。
すると、様々なジャンルを対象に、2匹目のドジョウを狙う考察本が量産され、
オタク文化界隈でも、1996年からのエヴァ・ブームをキッカケとして、
それこそ雨後のタケノコのように、考察本が粗製濫造されてましたね(苦笑)。
でもまあ、こうやってライトなオタク層にも、活字を読むとか、考察をするという行為が、
広まっていった事実を思うと、考察本の内容はともかく、その影響力は大きかったかも?
もしかしたら、この時の活字慣れが、ラノベ読者を生む下地を作ったのかも知れません。


> > まあ結局、身も蓋も無い事を言ってしまえば、全ては「カネの問題」ですね(苦笑)。
> > 60年代後半に、皆が夢を見た頃は、高度経済成長の時代でしたし、
> > 80年代後半に、皆が夢を見た頃は、バブル景気の時代でしたから、
> > 科学に投ずれば科学が発展し、文化に投ずれば文化が発展した訳です。
> > 資金があり、人材を集え、機材を揃え、目標を掲げて、競争が起これば、
> > 人類というのは、かなりの事を、途轍もないスピードで成し遂げる存在だと思うんですよ。
> > それこそ、アポロ計画やマンハッタン計画が、短期間の内に成し遂げられたように。
> > そして、それは時代性に関係無く・・・と言うか、「資金のある時代には」って事なのかな?
> > 火星有人飛行や核融合炉だって、その気さえあれば、既に実現していても おかしくなかったかと。

> うーん、その辺はどうなのでしょう。カネの問題なんですかね?

「カネの問題」という表現が お気に召さなければ、「余裕の問題」という表現でも良いですね。
と言いますか、どちらかと言えば、そちらの方が事の本質だと私は思いますけど、
この前も、無駄や雑音とかの必要性という話が、あまりピンと来られていないようでしたので、
より誰でもイメージしやすい、カネの話に置き換えてみました。
まあ、どちらもそんなに違いはありませんからねえ。
精神的な余裕や、時間的な余裕、人員や機材的な余裕など、
あらゆる作業において、余裕こそが成否を分ける大きな鍵なのですが、
それらを整えるのに、最も有用なツールこそが「カネ」だという話なんです。

ついでなので、余計な話をすると、そんなカネにとって最重要なのは、
総量よりも流通量であり、不景気が生じるのも流通量に障害が起こるからです。
逆に言うと、不景気な時ほど、流通量を増やそうとして、総量が増えたりしますからね。
例えば、AさんがBさんに1万円、BさんがCさんに1万円、CさんがAさんに1万円を渡したとして、
差し引きで言えば当然ゼロなんですけど、3人の中では3万円が動いた事になります。
で、この額が1万円から10万円、そして100万円となれば、差し引きでは相変わらずゼロですけど、
そこで動いた総額はそれぞれ、30万円と300万円になります。
カネなんてモノは所詮道具であり、貯められる性質があるから厄介なんですけど、
スムーズに動かし続ける仕組みが作れれば、みんなカネに不自由しない世界が作れるかも?
これこそが、ベーシック・インカムを成功させる鍵かな?と、個人的には考えていますね。

> 例えば火星への有人宇宙船を着陸させて、それが人類の生活にどう役立つのでしょうか?
> 結局宇宙に莫大なカネを投じていったとしても、特にイイことはないというのがバレてしまったからこそ、
> 宇宙開発って停滞してるんじゃないですかね?

はい、確かに必要ありませんよ。 ハッキリ言って無駄です。
でも、そうした必要不可欠から外れた「無駄なモノ」の存在こそが、文化というモノでは無いですか?
無駄だからと言っても、別に邪魔では無ければ、特に排除する必要性もありませんし、
それこそ、「バレてしまった」と言われますが、そんな事は当時から百も承知だったかと?
もちろん、冷戦下における超大国の威信とか、軍事技術とのリンクなどもありますけど、
有人飛行や月面着陸というのは、純粋に人々の気持ちを高揚させたのは事実です。
単に生命活動を続けるだけなら、そうした気持ちの面など不要な要素ですが、
しかし、充実した人間生活を送るには、そういう気持ちの面は物凄く重要です。
だからこそ日本国憲法第25条でも、「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利が唱われていると。

ゲームもアニメも、文学やアートも、ましてやスポーツに美食なども、
単に生きて行くだけなら不要ですけど、有意義に生きて行くには重要な存在です。
第3者から見て「無駄だな」と思われても、その他に特に害悪も無いのであれば、
別に無駄を排除する必要性も無いですし、無駄の数だけ、満たされる人も増えていきます。
そういう意味では、「輝かしい未来像」を思い浮かべながら、それが実現しなかった現実というのは、
確かに言われてみると、なかなか深いテーマかも知れませんね・・・・

「明日は今日より良くなる」事を、誰もが当たり前のように信じ、安心して暮らしてた頃、
人々が未来を思い浮かべたならば、それは当然、現在の繁栄が更に進んだ姿であり、
例え荒唐無稽な夢でも、笑って受け入れられる余裕があったと思うんですよ。
パイがドンドン大きくなっていて、みんなに取り分があった時代には、
失業手当や生活保護が問題視されたり、公務員がバッシングされたりもしませんでした。
だって、失業手当や生活保護の受給者や、薄給の公務員よりも、世間の人の方が豊かでしたから。
そうなれば心に余裕だって生まれますし、ポスト冷戦の感覚しか無いと解り難いでしょうけど、
対立軸として共産主義が実在した時代には、資本主義社会も今より自制心があったんです。
特に日本の場合は、日本型経営による社会主義的な社会が出来上がっていましたので。
しかし、「明日は今日より悪くなるかも」と、多くの人が不安を抱く現在では、
人々から心の余裕もなくなり、自分の生活で手一杯となり、生き方も汲々としてしまうと。
こうなると、「無駄な事」自体が、害悪に映っています社会になってしまう訳です・・・・

そして、現代社会においては、経済的余裕が精神的余裕に直結しがちであり、
その結果、社会の経済面が悪化すると、人々の精神面も悪化しちゃうんですよね。
昨今のコロナ禍においても、そうした事例は多岐に渡って見受けられるかと思います。
逆説的に言えば、宇宙開発の夢に、多くの人たちが熱狂できるような時代は、
宇宙開発に投じられるだけの余裕があるという時代でもあり、
どっちが卵で、どっちが鶏かはさておき、人々にとって良い時代であると言えるのかな?
それこそオリンピックとかも同じで、それを純粋に楽しめる状況下なら良い時代で、
無理に五輪で楽しませようとしても、社会が良くなるモノでも、人々が楽しむモノでも無いと。

と言いますか、これってニッチな趣味の世界でも言える事なのでは?
「俺達はメジャーに対するマイナーじゃない! インディーだ!!」
これは、アントニオ猪木の新日本、ジャイアント馬場の全日本という2大団体に対して、
わずか資金5万円でプロレス団体FMWを立ち上げ、過激な電流爆破デスマッチにより、
一部でカルト的な人気を博した大仁田厚の言葉ですけど(笑)、
メジャーの対義語として、マイナーではなくインディーが成り立つ社会でこそ、
ニッチな世界というのも、やはり充実するモノだと思うんです。
そして80〜90年代というのは、バブル景気の恩恵に加えて、
団塊世代は働き盛りであり、団塊ジュニア世代は若者層を構成していて、
そうしたインディーな社会も充実できる土壌が、確かに存在していたんですよ。

また、山は高くなれば高くなるほど、広い裾野を必要とするみたいに、
膨大な凡作や駄作が生めるだけの土壌があればこそ、一握りの傑作は生まれる訳ですし、
そして更には、そうすると別の所にも、小さいけど尖った山が生まれる余地ができ、
それこそが、マイナーではなくインディーなニッチの世界だと言えます。
ですので、「役立たないから停滞する」ような、余裕の無い社会状況であると、
結局は、裾野も広がらなければ、尖った別の小山も生まれにくいと思うんですよね。

> 原子力に関しても、SFオタク世代のおじさんに聞いた話では、研究する前はできると思っていたことが、
> 研究すれば研究するほど難しいことがどんどん分かってしまった、というのが原子力だったらしいのですが。

進めば進むほど、問題点が増えていくという現象は、どんな世界にも当然ある事ですよ。
それは何も先端分野の研究に限らず、例えば皆が経験する受験勉強でも言える事で、
勉強をすればするほど、解けない問題というのに多く出会いますし、
却って勉強を疎かにしている人の方が、楽観的に認識している所はあると思います。
でもそれって、見えてない事を自覚できないくらい、視野がボンヤリしているという話で、
逆に言うと、進めば進むほど視界がハッキリしてきて、いろいろ見えてくる訳ですね。
そして、それは1歩ずつ確実に進めている証でもあり、更に進むとゴールが待っているので、
そんな途中で諦めてしまうようでは、まずゴールには辿り着けないと・・・・

恐らく、ここで言われている原子力とは、核融合炉の話かと思われますが、
プラズマを安定的に扱い技術というのは、確かに、実現が非常に困難な代物です。
トカマク型やヘリカル型、レーザー方式など、様々な研究が行われていますし、
あまりに巨額な研究開発費を要する事から、国際協力が叫ばれる中、
1国でも実現できそうだと甘く見たアメリカが、国際協力を渋った事で、
アメリカ自体の研究が遅れてしまい、後から遅れて参加するなんて事態もありました。
そういう意味では、その方の話の内容も、決して間違っている訳ではありません。
ですけど、過去がどうだったかと、将来がどうかは別の話です。

言うなれば、東京五輪の予算とかが、当初の想定額の数倍に跳ね上がるみたいな話で(笑)、
「この額で出来ると思ったんだけど・・・」なんて事は、大型プロジェクトでは珍しくなく、
逆に言うと、そんな事自体は日常茶飯事の想定内であり、
そして、「結局は出来ませんでした」なんて事は、そんなには起こりません。
もちろん、中には技術的に時期尚早だったとか、そういった事態はあるのですが、
ほとんどの場合、時間とお金さえ掛ければ、ある程度の事は成し遂げられていますし、
予算が付けば時間は短縮でき、初めから不可能そうなら そもそも予算が付きません。
ハッキリ言って、現在はどの国も財政的に厳しく、巨額の研究費を投じるのは大変ですけど、
それでも国際実験炉ITERの建設計画は、歩みは遅いものの着々と進められています。
ただ、皮肉な話かも知れませんけど、福島の原発事故により被った損害額を、
そのまま研究開発費に回せていたら、かなり実現に近付いていたかも知れませんね。

> むしろ現代の問題って、技術開発に投じれるカネはあるけど、
> 簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術はあらかた開発し尽くしてしまった、
> というのが現代の停滞の本質なんじゃないですかね?

いやいや、近年の日本が国際競争力を失いつつある理由も、
根幹にあるのは、やはり研究開発費の大幅な減少ですよ・・・・

「企業型社会主義」で進んでいた戦後の日本社会は、思いのほか公的な補助が少なく、
大部分を企業内での補助に頼っていた為、長く続いた好循環の頃は本当に良かったんです。
しかしバブルの崩壊以降、それが上手く立ち行かないようになると、
当然ながら企業は目先の利益に囚われますし、そこで公助の貧弱さが露呈した訳です。
技術開発に関しても、すぐには効果の出ない基礎研究や、チャレンジ性の高い研究など、
予算に余裕がある状況であれば、広い視野から資金を投じる事も可能ですけど、
業績が悪化し、予算も限られてくれば、すぐに儲かりそうな研究しか行えなくなります。

そういう意味では、「簡単に開発できて、かつ役に立ちそうな技術」に、
安易に飛びついてしまう現状が存在するのは、確かに事実なんですけど、
「カネがない」からそうなるので、結果としてジリ貧になるのも目に見えているんです。
それを打開するには、ビジョンを持った冒険が不可欠になってくるものの、
日本の大企業のサラリーマン社長では、なかなか決断は難しいですよ・・・・
仮に決断した所で、見る目がなければ、東芝みたいな事になっちゃいますし(泣)。

言うなれば、旧トルコ担当さんが思い浮かべているのは、枝葉的な技術改良であり、
ここ十数年、元気を失った日本社会においては、それが主流ではあるものの、
やはり大きいのは、根幹的だったり、新種を生むような技術開発なんです!!
それが今や、世界を席巻するGAFAであったり、国家戦略で進める米中に独占され、
最前線で競ってきた日本が、アッと言う間に後方へと下がってしまった事実は、
既に後退した状況しか知らない、若い世代にとっては普通の光景でも、
それ以前の日本を覚えている世代からすると、やはり物凄い焦燥感や虚脱感があるんです。

それこそ、核融合炉の最終目的である「D-D反応」の核融合炉が実現できれば、
海水から無尽蔵にエネルギーを取り出せますから、恐らくは人類社会が一変しますよ!!
エネルギーがタダ同然な社会となれば、どんな無茶な事も、かなり実現できます(笑)。
やはりエネルギーというのは、あらゆる作業の根幹ですからねえ。
逆に言えば、だからこそ、現代社会は「石油、石油」と騒いでる訳です。
でもまあ、さすがにこの技術は実現困難なので、今世紀中には無理かも?
とは言え、世界大戦でも起これば、時計の針はかなり早まるかな。
実際、核分裂の発見から、原発の運用開始まで、わずか16年で実現してますけど、
これが平時であれば、もしかしたら実現まで100年を要していたかも知れません。

また、それ以外にも、遺伝子を弄り、身体と機械を繋げ、脳がデジタル化するような、
人の手による人為的な人類の「進化」が、技術的には、すぐそこまで来ているので、
こちらは今世紀中には、人類社会に劇的な変化をもたらすと思いますよ。
それこそ、攻殻機動隊のようなSF的な世界の実現が!!
もちろん、技術的に高いハードルは、まだまだ多く残っていますし、
実現に近付けば近付くほど、課題も多く現れてくるのは事実でしょう。
ですが、こちらに関しては、ある程度の工程表が描けるような段階に来ているので、
早いか遅いかの違いだけで、そう遠くない未来に、まず間違いなく実現するはずです。
ただ、その時、日本がどれほど主体的に関われているかは、見通しが暗いですけど・・・・

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